柊鰯についての古い文献

 

最初の文献、土佐日記 

 インターネットで検索したいくつかの資料によると柊鰯についての最も古い記録は平安時代にさかのぼり、土佐日記に出てくるのが最初であるという。以下の記述は主として、「新注校訂 土左日記」(鈴木知太郎・山田瑩徹共編、武蔵野書院)による。

 

  左は土佐日記のある写本の、承平五年(935年)正月の部分のコピーである。この写本では土左日記となっている。

 

右ページの最終行半ばから

「こへのかどのしりくべなはのなよしのかしらひひらぎらいかにぞとぞいひあへなる」

と書いてある。

 

これは漢字を加えて書き直すと

小家の門の端出之縄の鯔の頭、柊らいかにぞ。とぞいひあへなる」

となるようである。

 

「しりくべなわ」とは注連縄のこと、「なよし」とはボラの子のこと。     

 

 

江戸時代の文献

 

 江戸時代の百科辞典といわれる書に柊鰯が現れている。

 

1) 古今要覧稿 時令

中むかしよりは鯔をいはしにかへ用ゐたりしは藤の為家郷の歌に、ひひらぎにいはしをよみ合せ給へるものによれば、是も六百年前よりの事なり、

 

 

2) 倭訓栞 中編 二十一

ひひらぎ 信濃は雪国にてひひらぎなきをもて、いわしまめがらを用ひ、木曾のあたりはもみの葉を用う

 

 

   明治時代の百科辞典では

 

3)古事類苑 歳時部十九

 

{歳時故実大概十二月} 節分 立春の節の前日なり 今宵門戸に鰯のかしらと柊の枝を挿て邪気を防ぐの表事とし、

とあり、

{比古婆衣三} に、鯔の口の中から失われた鈎が出てきたという故事が、土佐日記の記述の注連縄に鯔の頭を刺すという習慣の元になったとの記述がある。

  古事類苑には、ほかにも柊鰯についての大同小異の簡単な記述がいくつか見られる。

 

  鯔(ボラ)が何故、鰯に変わったのかは分からない。明治時代には他の多くの出版物にも柊鰯についての記載がみられる。