D.D.Town's 雑報  

2012年02月28日 静岡新聞「ひろば」に採用された投稿

 去る二月十日に沖縄県の琉球新報に三島市の高田昇氏の投稿が採用されていた。内容は静岡県産の苺「紅ほっぺ」を香港へ輸出する際、全日空と沖縄県物産公社が一役買ったとのこと、この件への感謝と今後も静岡県と沖縄県が各分野で協力していきたいとのことであった。とても良い投稿であったが、高田氏の投稿を読んでいて気になったのは沖縄県内の百貨店やスーパーなどで静岡県の物産展を見た記憶が無いことだ。逆に静岡県の百貨店やスーパーでは年に一回は沖縄県の物産展が行われ、毎回賑わっていることだろう。このことを思えば沖縄県でも静岡県の物産展が行われないと片手落ちと感じる。鮪や鰹など中には両県の特産品で重なる物もある一方、沖縄県民がまだ知らない特産品も多数有ることだろう。
 但し、沖縄県の百貨店やスーパーも年間の催事予定は既に決まっているだろう。まずは半年先、一年先の開催を目指して思う。または物産公社を通じて那覇市内の空き店舗を活用して十日前後、アンテナショップを営業してみるのも良いかもしれない。
 いずれにしても特産品を通じてなお一層、両県の親睦が深まれば良いと思います。



2012年02月26日 島嶼県の献血事業 先島に移動採血車を 琉球新報

 十九歳で献血を始めて二十年以上が過ぎました。しかし最初の十年は全く献血には乗り気では無く、二年か三年に一度ぐらいしか協力しませんでした。三十歳を過ぎた頃、何か一つだけでも世の役に立つことをしようと思い、手元にあった献血手帳を見て「まず、献血を」と思い立ったのですが、大阪での住居では一番近い献血ルームもバスと電車を乗り継がなくては行けず、頑張って協力しようと思いつつ、いつしか足が遠のいていました。
 今は那覇市内に住み、徒歩圏内に献血ルームが有り、休日には散歩や買い物を兼ねて献血へ協力することが出来るようになり、昨年は成分献血で十九回も協力できました。
 私が生まれ育った大阪府の人口は八八六万人で献血ルームは十二か所、人口を献血ルームの数で割ると七三万人に一つの献血ルームがある計算となる。現在、沖縄県の人口一四〇万人に対して献血ルームは一か所だが、今後、人口が増えることを考えれば最低一か所は増やせる計算となる。次に面積で見ると大阪府の面積は一八九九平方キロメートル、これを十二で割ると約一五八平方キロメートルに一か所という答えになる。沖縄県の面積二二七六平方キロメートルを一五八で割ると約十四という答えが出てくる。面積で見ると県内に十四か所の献血ルームを設置できる事になる。勿論、人口を考えれば十四か所は不要だが、人が集まる沖縄市コザか那覇新都心、宮古や石垣に献血ルームが有っても良いだろう。県内には現在、三台の移動採血車があり、日々県内を走っているが、二月は宮古、石垣での予定が無い。宮古、石垣でも献血に協力したいが、献血ルームも無く、移動採血車も来島せず、残念に思っている人が居るかもしれない。これを思えば移動採血車を二台増やして宮古、石垣へ常置するのもよいだろう。または県立病院や市庁舎に簡易の献血ルームを設置して週末や祝祭日だけの運用でも良いと思う。
 本県は島嶼県で有り、想定外の事態が発生して血液が不足した際、県外から血液を取り寄せるには空輸しか無い。当然、宮古や石垣になるとさらに空輸の距離は長くなる。
 各市町村で必要最小限の輸血が出来るよう、まずは県や各市町村が日赤と協力して献血事業を行うことを検討して欲しい。



2012年01月13日 渡嘉敷島のイノシシ 琉球新報

 先月二十五日の紙面で渡嘉敷島に約二百頭の猪がいるとの記事が有った。これを読んで思い出したのは二〇〇七年に愛媛県を旅した際、猪が瀬戸内海を泳いで渡るという記事を地元紙が載せていた事です。この時は確か至近距離の島だったと記憶していたが、改めてネットで調べてみますと中には十キロ先の島へ泳いでいる猪もいるとの事です。渡嘉敷島のある慶良間諸島ではケラマジカが海を泳いで諸島内を行き来していますし、今日明日にでも猪がケラマジカを真似て泳ぎだし、慶良間諸島内へ拡がるかもしれません。幸いにして猪の肉は美味ですから捕獲した後、食用として販売してみては如何だろうか。その売上金を被害に遭った島民への補償金に回したり、駆除の経費とする事も出来るでしょう。いずれにしても早急に対策を考える必要が有るでしょう。また駆除に関しては県も協力した方が良いとも思います。


2011年12月26日 節電と電飾 琉球新報

 今年は「節電」と言う言葉を頻繁に聞く年でした。私の職場でも「節電」が呼びかけられ、時にはまだ仕事中にも関わらず、消灯されて驚いた事もありました。しかし、それぐらいの気持ちで節電に努めた結果、数か月で電気代も結構な金額を節約する事が出来たと上司から聞き、これまで如何に無駄が多かったか、改めて気付かされました。一方、十二月に入ってからクリスマスに向けた電飾が街のあちらこちらで見かけ、「節電」はどこへ行ったのか、今年は電飾を控えるべきではないか、その様に思いました。しかし、その電飾を見て癒されたり、和まされたりしているのは私だけではないでしょうし、夜の街が電飾で明るくなれば防犯にも役立つそうです。
 何よりも化石燃料に頼らず、安全で効率の良い発電施設が開発され、福島県のような悲劇が繰り返されない事、そして新年は良い年になって欲しい、そう祈念してやみません。



2011年11月09日 なぜ主役を入れ替え 琉球新報

 十月二十九日、ご当地ヒーローの映画に関する記事があった。映画化の話は知っていたが、記事を読んで疑問に感じる点があった。
 それは県出身者で既に全国的に知名度のある俳優が多数出演していることだ。脇役を演じてきた俳優が多少入れ替わるならまだしも、主役から入れ替える必要が何故、有ったのだろうか。折角、ご当地ヒーローが全国展開するのだからこれを機にテレビ版以来、県内で地道に頑張って主役や脇役を演じてきた俳優達が県外へ名前を知って貰う絶好の機会にも関わらず、何故、これを奪うのだろうか。
 私はご当地ヒーローも県産品だと思うし、映画化するならばテレビ版と同じスタッフとキャストで制作し、企画から関わった人たちと共に全国展開していく処にご当地ヒーローの良さがあると思います。
 今回の映画化は興行的には成功するかもしれませんが、ご当地ヒーローの知名度が上がるのか、疑問に残ります。



2011年10月13日 140万人超えに思う 琉球新報

 九月一日の紙面に県民が百四十万人を超えたとの記事があった。過疎化が進む県もある中、喜ばしい話題であったが、今後も増え続けるであろう県民の住む土地はあるのだろうか。埋め立てや山林を削って住宅地を確保するのは簡単かもしれないが、豊かな自然を求めてくる観光客の減少へ繋がる事も考えられる。近い将来、普天間と牧港の米軍施設が返還されるし、跡地は将来を見据えた住宅地として整備して欲しい。一方、前後して「両施設の跡地に最大六万平方メートルの商業施設を集積した場合」を仮定とした記事があった。私も大型店舗の利便性は否定しないが、記事にも有ったように徒歩圏内へ商店街や中小規模の店舗を必要最小限、住宅の合間に置いた方が良いと思う。那覇新都心のように商業施設に住宅が隣接することが無いようにして欲しいし、地主さんの立場なれば企業に土地を売った方が良いと思うが、その点も含めて県や市が主導して開発を進めて頂きたい。


2011年09月20日 気になる「枯れ葉剤」

 十年以上も前の事だが、嘉手納基地の周囲を歩く事があった。フェンスに沿った緑地帯に農作物を育てている人の姿があった。微笑ましい光景であったが、フェンスの内側では軍用機がエンジンを噴かしており、その排気ガスが農作物へ与える影響の有無が気になって仕方が無かった。
 八月に枯れ葉剤を基地内に埋めたと報じられたが、九月に入ってからは紙面に載る事が無くなった。かつて北部訓練場でも枯れ葉剤を用いていたし、他の施設でも枯れ葉剤を散布していたのは間違いないだろう。また散布には基地従業員も携わっていたかもしれないし、黙認耕作地にも枯れ葉剤が飛散していたのではないか、この様に考えてしまう。県民の健康と今後の跡地利用に関わる問題である。
政府を頼る事ができない今、県はできる限りの調査を行って欲しいし、合わせて報道機関、特に記者の皆さんには取材を続けていって欲しい。何よりも県民のために。



2011年08月19日 大型店の急患対応 琉球新報

 六月下旬のある日、那覇市内にある大型店舗の催事場を訪れた際の事だが、一人の男性が倒れていた。急に体調を崩したようだが、店員は携帯電話片手に右往左往するのみで医薬品や担架、昨今流行りのAEDが現場に運ばれてくる事は無かった。確かに症状によっては安易に患者を動かさない方が良いが、それでも急患が発生した場合、利用するか否かは別としてもまず現場に担架を用意するべきではないだろうか。また私も含めて他の客が興味本位の野次馬にならぬよう誘導、整理される事も無かった。二十年程前、私が県外の某百貨店でアルバイトをしていた時には医務室があり、保健婦が常駐していた。仮に医務室などの設置が義務付けられていなくとも急患が発生した際、即座に対応する店員が居るべきであろうし、日頃から何ら救急時に対する訓練が行われていないのか、その様な疑念を抱いてしまう。名実共に私達が安心して買い物が出来る店作りに尽力して欲しい。


2011年07月07日 慰霊の日、やはり公休日に/体験者減り、形骸化を危惧 琉球新報

 六月二十三日が来る都度、思うのは県庁や各市町村、学校などは休日となるが、私の勤め先も含めて多くの企業は普段通りに業務を行っている。県外出身の私としては「これでいいのかな」と感じる時がある。
 先日、改めて慰霊の日について調べてみると復帰前には公休日であったが、復帰と共に平日へと戻された。仮に今、慰霊の日を公休日に戻しても県外企業と取り引きをする上でどこまで通用するか、疑問は残る。だが、県外の企業でも創立記念日とか、慰安旅行とか会社独自の休日を設定している例もある。この点を考えれば沖縄県内だけ六月二十三日を公休日に戻し、県外へ積極的に宣伝して定着させれば企業の業務への影響は最小限に留めることは出来るのでは無いだろうか。
 しかし、観光立県としても成り立っている現在の沖縄県、観光客向けの店舗などが休むことは出来ないだろう。慰霊の日に合わせて来県する人も多いだろうが、この時期に運良く休暇を取得してくる観光客も少なくないだろう。
 またコンビニやスーパーなども休むことは出来ないし、仮に店が閉まっていれば困るのは私達である。前述したことと矛盾するが、慰霊の日が公休日となっても仕事を休むことが出来る人は限られてくる。
 以前、ある人が次のようなことを主張していた。六月二十三日はあくまでも日本軍の司令部が機能を停止した日であり、実際には九月七日まで続いた戦闘で多くの県民が犠牲となっている。十・十空襲なども考えれば六月二十三日という日付にこだわる必要は無いし、むしろそれぞれの慰霊の日があるべきだ。
 この考え方に従えば慰霊の日を公休日にする必要は無く、各家庭で慰霊の日に該当する一日を定めれば良いことになる。
 しかし、これで良いのだろうか。
 年々沖縄戦の体験者も減っていく一方である。近い将来、慰霊の日が形骸化するのでは無いか、その様な不安が起きてしまう。形式的なことになるかもしれないが、今からでも慰霊の日を公休日として県内のみならず、県外にも先の大戦を考える一日として発信していくのがよいだろう。これが各都道府県でもそれぞれに先の大戦を忘れないための一日を公休日としていく動きに繋がっていけば良いと私は思います。



2011年06月11日 首相だけの責任か 琉球新報

 六月一日に野党三党が内閣不信任案を提出した。これは仕方がないことだろうか。この数年、我が国の首相の任期は一年なのか、そう思いたくなる程に短期間で首相の交替が繰り返されている。特徴的なのは野党からの批判や不信任案だけではなく、近年は与党からも首相への批判が出ていることだろう。今までならば野党の批判に対し、与党は首相を擁護してきた。勿論、私達有権者の見えない所では派閥間での対立や交渉が行われていたことだろう。次の選挙で議席を守りたいという気持ちは分かるが、支持率が下がるのは首相一人の責任であろうか。また首相を安易に見捨てるような人を地域の代表として国会へ送れるだろうか。今は日本中が一つにならなくてはいけない時である。何故、与野党が一致協力して事に当たろうとしないのであろうか。国民の代表として私達の模範となる行動をして欲しい。


2010年06月30日 空バス≠フ廃止 琉球新報

 朝夕、通勤で国道五十八号線を利用するのだが、そこで見かけるのは空席の目立つ路線バスである。しかもそれが二台、三台と続いているのを見ると「何故、誰もこの無駄を改善しないのだろう」と疑問が浮かびます。例えば那覇バスターミナルから宜野湾市伊佐までだけを見ても名護、読谷、具志川、屋慶名と今、思い出せるだけでも四路線が重なっています。この四路線を宜野湾市伊佐までだけ統合し、伊佐かその近辺で各方面へ乗り換えるようにすれば赤字の削減になると思う。勿論、利用者からすれば乗り換えの手間が増えることになるが、一方で那覇から屋慶名や名護まで乗り通す人が一日にどれだけいるのだろうか。利用者が少なければ思い切った統廃合を行っても大きな支障は無いと思います。
 仮に統廃合が無理ならば昼間など利用者が少ないと思われる時間帯に大幅な減便を試みてはどうであろうか。
 さて五月十九日の記事で今年十月に名護東部線が廃止されるとあった。何故、中南部で乗車率の悪い路線が見逃された状態で北部の数少ない路線は廃止という結論となるのだろうか、これが納得できない。確かに人口も少なく、一日に数名の利用者かもかもしれないが、それでも赤字を承知で残さなくてはいけない路線ではないだろうか。
 もし名護東部線を廃止にするならばまずは東村に対して村民の脚となる代替交通を提案すべきであろう。次に中南部において路線の統合や減便などを行って均一にバス会社が赤字路線への対策を行っていることを東村の住民に示すべきであろう。今のままだと北部だけが一方的に廃線の憂き目に遭っているように見えるのは私だけだろうか。



2010年02月17日 角界の問題 琉球新報

 朝青龍が引退した。いずれ本人から詳細が語られる日が来るだろう。十代でモンゴルから来日して生活習慣や文化、言葉の違いを乗り越え、横綱にまで登り詰めただけでも大変であろうが、優勝回数二十五回は歴代三位の記録である。ここまでの道のりとそれに伴う苦労が私には想像できない。一方で朝青龍はしばしば品格を問われてきた。他にも問題を起こして角界を追われた海外出身力士もいた。一方で外国出身力士の活躍は相撲に関心のない私の耳にも入ってくる。もしかすると角界は安易に海外から力士を招いているのではないだろうか。相撲が国技故に何もかも日本人と化そうとして無理が生じた結果、海外出身力士の心身に大きな負担を与えてはいないだろうか。個人の品格を問うことも大事だろうが、彼らを迎え入れる側である角界には問題が皆無と本当に言えるのだろうか。今回の一件では私は妙な意味で相撲に関心を持ってしまった。


2010年01月14日 琉球新報

 今年も離島フェアへ行けず、残念に思っていた矢先、那覇市内に離島の情報や特産品を専門に扱うアンテナショップが開店するとの記事を見付けて早速、足を運んでみた。この記事を読みながらまず気になったのは既存の土産物店との間に生じる競争である。離島情報の発信が主体のようだが、インターネット全盛の今、店舗を構えてまで情報や特産品を紹介する必要があるのか、考えてしまう。また店舗自体、国際通りからは死角になっており、偶然通りがかった観光客が店舗を見付けて立ち寄るということができない。情報発信なら那覇空港やとまりんにカウンターを設置した方が観光客により近付けたのではないだろうか。また特産品に関しても店舗を構えるより、既存の土産物店と提携して離島の特産品を一種類でも多く取り扱って貰うよう、働き掛けた方がより効果的と考える。島嶼県として全ての島を等しく宣伝することの難しさを感じた次第である。


2009年08月07日 離島での書籍購入 琉球新報

 七月上旬でしたか、テレビを見ていたら北大東村で年に一度、那覇市内の書店が書籍を持ち込んで営業するという話題を報じていた。今年で十二回目、今回は四千冊の書籍を運んだそうです。今まで私は離島に住む人々がどの様に書籍を購入しているか、考えたこともなかったのでこの番組に教えられた。
 那覇市内には今年四月に大型書店の開店が相次いだが、離島を多く抱える県としてこれでよいのか,考えてしまう。確かにパソコンを使えば何でも購入できる時代になったが、やはり立ち読みをしたり、一冊ずつ手にとって中身を確かめながら選ぶのも楽しいし、書籍を購入する上で大切だと感じる。
 今後、県や各市町村、県内の書店などが提携して知恵を出し合い、離島に住む人達が年一回は直接書籍を手に取って購入する機会ができるよう、検討していくべきではないだろうか。何よりも北大東村での取り組みが県内各地へ広がることを期待している。



2009年02月11日 給付したことに・・・ 琉球新報

 総額二兆円という定額給付金が話題になっている。実際に受け取ることができたら何に使おうか、今から考えるだけでも結構楽しめる物である。しかし、提案した政府、首相は各市町村に給付に関する事務処理や給付その物を押し付けようとしている。各市町村はこの定額給付金に対応するため、職員を臨時に雇用しないと事務作業が追いつかないようだ。この点を考えると定額給付金は各市町村に負担を与えるだけにしかみえない。考えてみたのだが、「給付したこと」にしてみてはどうだろうか。例えば上水道料金、健康保険料、県民税や市町村民税、他には児童、生徒のいる家庭では公立学校へ支払っている学費などと引き換えてはどうだろう。仮に給付金を受け取ったとしても公共料金や納税の義務から逃れられるわけではない。また各市長村でも職員を増やしたり、事務処理にも余裕が生まれるだろう。住民に給付金を支払う手間もなくなる。


2009年01月22日 大惨事すれすれの不発弾事故 磁気探査と処理の徹底を 琉球新報

 一月十四日に糸満市小波蔵の工事現場において不発弾が爆発し、重軽傷者二名を出すという不幸な事件がありました。不幸中の幸いと表現して良いのかわかりませんが、事件現場のすぐそばにある老人ホームでは窓ガラスが割れただけで入所者や職員から負傷者を出すことはありませんでした。しかし、時間が少しでもずれていたらどうなっていたでしょうか。私は窓ガラスの割れた老人ホームの写真を見た時、沖国大に米軍ヘリが墜落した時のことを思い出しました。あの時、一般市民は奇跡的に負傷しませんでしたが、本来ならば大惨事になっていたかもしれませんでした。
 さて今回の事件に関して糸満市は「不発弾埋没の可能性が低い」との理由で不発弾に対する磁気探査を行わなかったようですが、過去に沖縄県内で不発弾にまつわる事故が一体、どれだけあったことだろうか。中には工事現場で不発弾を発見しても通報せず、二日間も放置していたこともあった。何よりも沖縄県内には約二五〇〇トンの不発弾があり、その全てを撤去するのに約八十年とも言われているが、それは私よりも県知事や市町村長の方がよくご存じだろう。この様な中で「可能性」だけで磁気探査を怠り、重軽傷者を出した責任は一体どこにあるのだろうか。やはり糸満市の担当部課であろうか。それとも予算を出し渋っている国であろうか。少なくとも重軽傷を負った二名に対して償いの意味も込めて糸満市は市長が先頭に立って市内でまだ調査を行っていない場所全ての磁気探査を実施し、危険性の高い不発弾から順に撤去して同じ過ちを繰り返さぬようにするべきだろう。
 十七日には那覇市おもろまちにおいて黄燐弾と思しき物が発煙して付近住民が一時避難する騒ぎもあった。県知事は国に対して不発弾撤去の全額負担を求めつつ、同時に県内各市町村に指示を出して磁気探査を開始させ、不発弾の位置だけでも把握しておく必要があるだろう。県知事が中心になって不発弾調査を行えば国も予算を捻出せざる得なくなるのではないだろうか。
 何よりも不発弾に関する事件が続けばそれだけでも観光客が沖縄県を敬遠する理由になるだろう。
 しかし、最後の一発が処理されるまで沖縄の戦後は終わらないわけだが、せめて半分の四十年に縮めることはできないだろうか。



2008年11月01日 空を支配する米軍 琉球新報

 不幸中の幸いという表現が不適当なのは百も承知しているが、十月二十四日に名護市真喜屋で発生した軽飛行機墜落事故で搭乗者四名中、負傷者二名で済んで良かったと感じている。おそらくさとうきび畑がクッションの役割を果たしたのであろう。また操縦桿を握っていた人も民家を避け、必死になって不時着できる場所を探したことだろう事は想像できる。しかし、搭乗していた四人が揃って現役の空軍兵であり、しかも奄美での給油を行っていなかったという、空軍としても、パイロットとしても初歩的なミスである。
 四年前に沖縄国際大学へ軍用ヘリが墜落した時も日本の警察は現場へ立ち入ることも出来無かったが、今回も米軍は早々と機体を片付けてしまった。米軍は四年前の事故から何を学んだのだろうか。
 この様に無責任な人達が沖縄の空を支配して自由気ままに飛んでいるわけだ。早く空だけでも返して欲しい。



2008年10月06日 小話一話

男性:ねぇねぇ、今日って、暦の上だと、種蒔きに最良の日なんだって。
女性:だからって、なんであんたが、私のベッドにいるのよ。
男性:僕も種蒔きしたいねん。
女性:だったら、畑に行ってこいや。



2008年09月30日 雑報

 先日、自分の名前である「浩」という字を書こうとして何故か「活」という字を書いていた。何故だろう。
 まぁ、「活」は悪い意味じゃないから構わないのだが、どうして自分の名前を間違えてしまったのだろうか。



2008年08月31日 犯人は米軍戦闘機 琉球新報

 那覇に住むようになってからしばしば空を見上げるようになった。それというのも空の上から爆音が降ってくるからだ。勿論、嘉手納基地周辺と比較すれば静かな方だろう。それでも一瞬、他の音全てがかき消され、昼寝をしていたら目が覚めてしまうほどである。近所には県立図書館もあるが、図書館の中にいても爆音は入ってくる。
 音の主を探したら案の定、犯人は米軍の戦闘機であった。何かというと米軍に批判的な投稿を繰り返すから私へ嫌がらせに来たのか、その様に考えてしまうほどだ。私が爆音を気にして空を見上げても周囲にいる人は誰も気にしない。もう慣らされてしまったのだろうか。どうやら那覇市内も恒常的な米軍機の飛行ルートになっているようだ。県庁所在地でさえ米軍が自由に飛行している現状で普天間飛行場の移設先の一部地域だけ民間地上空を飛行しないで欲しいという要求が通じるとは思えない。



2008年08月28日 今日の雑記

 先日、近所の中華料理店で味噌ラーメンの汁を残してしまった話を書きました。で、今風に言うところのリベンジと言うのでしょうか、再挑戦と言うことで昨夜、同じ中華料理店へ行き、同じメニュー、餃子セットを注文しました。そして今回は汁も残すことなく完食して参りました。
 それだけのことなんですがね、なんか気になってしまって、仕方がなかったのです。休日の昼食と、仕事帰りの夕食という条件の違いもありますし、単純には比較できないでしょうが、取り敢えず再挑戦で気持ちは落ち着きました。
 しかし、その料理店には色々な定食とか、他にもメニューがあるわけです。でも、ラーメンしか注文しない僕がいる。



2008年08月28日 小話一話

 やっぱ、五年前の地図なんかで来るんやなかったなぁ。右も左もわからへんやんけ。どないしよっか。
 あ、あそこに農作業しとるおばちゃんがおる。農作業しとる言うことは、当然、地元の人やろな。道、聞いてみよ。
 すんまへん。大通り言うか、本通りに行くんは、どないしたらええんでっか。
「えぇ、にいさん、たびんちゅな」
 旅…旅…チュって、何?
「だからね、沖縄は、よ、スウジグヮーが多いからね」
 数字がどうしたって。
「にいさん、島、どこね」
 島って。別に離島へ行きたいわけやのうて、那覇へ戻りたいだけなんやけど。
「にいさん、これ、持ってくね」
 そやから、ゴーヤーが欲しいんやのうて、大通りに抜ける道、聞きたいだけなんやけど。第一、ホテルにゴーヤー持ってって、どないすんねん。
「にいさん、バスがランするロードに出るんでしょ」
 何?
 バスがランするロード、って、どないな表現やねん。
「スウジグヮー、にいさん、スウジグヮーわかるね。これ、英語あらんよ。ウチナーグチ。にいさん、ウチナーグチわかるね」
 すんまへん。その、数字…って、なんでっしゃろ。早、道教えたってえな。
「ウチナーグチ、これ、沖縄の方言ね。スウジグヮー、これ、裏道。オッケー?」
 オッケー、って、そないなこと言われてもしゃあないやんけ。第一、俺、人生の裏道、散々歩いてきたんだけど。
「沖縄はよ、スウジグヮー、とても、多いわけよ。だからよ、にいさん、ヤマトンチュは早く、内地に帰った方がいいよ」
 だから、ホテルに帰る道もわからんのに、どないして、本土へ帰れ、言うねん。



2008年08月28日 今日の雑記

 今朝、夢の中でブロック塀とおぼしきところに複数の花束が置かれていた。それだけのことなんだけどね、目が覚めてから思うに事故でも有ったのかなぁ、って。
 夢の中では特に不幸とか何とか、そう言うことは思わなかった。
 花束自体も結構奇麗な花が多く、悪い雰囲気ではなかった。



2008年08月28日 小話一話

A:きみ、知っとるか。
B:何をや。
A:ミッキー・マウスにな、遠い親戚でピッカー・マウス言うのが、おんねん。
B:知るかいな。初めて聞いたわ、そないな話。
A:そら、そないやろな。ピッカー・マウス言うくらいや、ミッキー・マウスに比べたら、地味で暗い存在やで。
B:あれか、ピッカー言うくらいやから、頭ピカピカしとるとか、そないなところか。
A:まぁ、頭はまだはげてへんねんけどな。ピッカー言うたら、あれや、ピッキングする人のことや。
B:ピッキング言うたら、あれかい、あの、ピッキングかい。
A:そや、あのピッキングや。
B:そら、暗いし、あかんやろ。
A:暗いのはわかるけど、あかんこと無いやろ。
B:あかんで、他人様の家の鍵、勝手に開ける商売なんて。
A:そっちのピッキングちゃうねんけど。
B:ほな、あれか、夜になると、駅前にきて、ギター弾いてるあれか。
A:それ、ギターのピックのことやろ。関係ないやろ、それ。
B:ちゃうんかいな。
A:ピッキング言うたらあれや、倉庫で、商品集めて回るんを、ピッキング言うて、それする人を、ピッカー言うねん。
B:ほな、何か、ミッキー・マウスの遠い親戚に、倉庫で働いとる人がおんねやな。
A:そう言うこっちゃ。人か、ネズミかは、横に置いといて。
B:ミッキー・マウスはディズニーランドで荒稼ぎしとんのに、可哀相やな、その、ピッカー・マウス言うんは。
A:そやけど、あれやで、どこにでもある風景ちゃうか、こういうんは。
B:言われてみたら、そやな。一人だけ大もうけして、あとは貧乏言う奴やな。
A:その点僕らは気楽やな。
B:二人仲良く貧乏やさかいな。



2008年08月27日 小話一話

A:大変だぁ。
B:ど、どないしてん。
A:掃除のおばちゃんが、運転手付きのベンツ乗っとったで。
B:それがどないしてん。
A:そやかて、掃除のおばちゃんやで。
B:掃除のおばちゃんが、運転手付きのベンツ乗っとったら、あかんのかい。
A:そやかて、掃除のおばちゃんやで。掃除のおばちゃん言うたら、年金かなんかで暮らされんさかい、掃除のおばちゃんしとるんちゃうんかいな。
B:そらお前、偏見ちゃうけ。運転手付きのベンツ、維持するために、おばちゃんが掃除のおばちゃんしとるかもしれへんやんけ。
A:そないな無茶、あるか。
B:目の前の現実が、そやないか。
A:なんか、無駄やないか。
B:そないに思うねやったら、おばちゃんに聞いてみいや。
A:聞くほどのもんでもないねんけどな。
B:ほな、教えたるわ。あのおばちゃん、亡くなった前の会長の奥さんやがな。
A:えぇっ、そうなんかいな。
B:家におっても暇や言わはってな、亡くなった会長のおらはった、部屋とかな、今の会長や社長はんの部屋とか、トイレとか、廊下とか、まぁ、毎日色んなとこ、掃除してはるわ。
A:すごい人やってんな。掃除のおばちゃん、て。
B:下らんこと言うとったら、お前、掃除のおばちゃんから、首や言われるで、気ぃ付けや。



2008年08月27日 小話一話

A:もう夏も終わりに近なりましたけど、どないお過ごしでっか。今日は、ちょっと恐い話したろか。
B:どないな話ですねん。もったいつけんと、聞かせてぇな。
A:ほな、近い将来の話やで、第三次世界大戦が始まりました。
B:そら恐いわ。
A:どっかの国の偉いさんが、調子乗って、核のボタンを押しました。
B:やめてぇ。
A:他の核保有国も、核を発射しました。
B:考えとうない。
A:きみの近くにも、核が落ちました。
B:勘弁してぇ。
A:幸い、軽傷で済みました。
B:済むか。放射能があるやろ。
A:髪の毛が、抜け始めました。
B:もう終わりや。
A:な、話聞いただけで、恐いやろ。
B:想像しただけで、寒気がするな。
A:今夜、一人で寝れるか。
B:寝れへんな。寝れたとしても、夜中にうなされるで。



2008年08月27日 小話一話

A:オリンピックの御陰でな、中国人に、友達でけてん。
B:よかったな。
A:名前がな、パクチョイチョイさん言うねん。
B:はぁ、パクチョイや無うて。
A:パクチョイは野菜の名前やろ。そや無うて、パクチョイチョイさん言うねん。
B:野菜のパクチョイさんや無うて、パクチョイチョイさんやな。
A:そやねん。パクチョイに一つチョイを足す言うて、覚えたらええねん。
B:そないに、ややこしい覚えかたせんでも、ええやろ。



2008年08月26日 今日の雑記

 夢を見たわけさ。
 朝、目が覚める前に女性が僕に何かを示した。入道雲ではないが、一目で雨雲とわかる大きな雲が視界一杯に広がって近付いていた。その辺りで目が覚めた。今日は日暮れと同時に空中放電があり、雨も少し降った。
 遅い昼食の後、昼寝をしていたらやっぱり夢を見て女性が僕に何かを注意した。振り返ると数歩先に小銭が小さな山を作っていた。その小銭は全部僕の物だったらしく、拾い集める前からうんざりしているところで目が覚めた。



2008年08月24日 今日の雑記

 一昨日のことさ、寝ようと思って布団に入り、目を閉じてしばらく後、うつらうつらしていた時に突然、大きな目が視界一杯に見えたわけさ。
「ひぇえ」
 慌てて跳ね起きることはなかったが、目は覚めてしまった。
「寝惚けていたのか」
 そう思ったけど確かに目は閉じていた。それでも大きな目が見えた。まぶたの内側に見えたのだろうか。
 40年近く生きてきたけど、そう言う経験って、初めってやったさかい、ほんまに驚きましたで。
 多分やけど、ネットで心霊関係の動画とか,見まくっとったから、その影響で,そないなもん、見るようなったんかなぁ。



2008年08月22日 流血無縁のプロレス 琉球新報

 七月上旬から沖縄プロレスが始まった。私は五月二十七日の沖縄プロレス発足の記事を読んで以来、この日が楽しみで仕方がなかった一人であり、既に三回も観戦している。
 まず個性的な覆面レスラー達は見るだけでも楽しめるし、試合も真剣な中にどこかユーモラスな場面があり、声援を忘れて吹き出している。試合中、華麗な技がきまれば拍手を送り、劣勢な選手には声援を送ったり、私もいつの間にか年甲斐もなく立ち上がって応援していた。また一日の試合全てが終わると必ず選手は挨拶をすると同時に全選手が客席を回ってくれる。観客が選手に対して親近感が湧く大事な瞬間でもある。
 過去、私はプロレスを含む格闘技全体が好きになれなかったのだが、それは流血や乱闘があったからだが、沖縄プロレスはその様な物と無縁で老若男女も安心して観戦できる。
 まだ観戦されていない方はぜひ一度、会場へ足を運んでみて下さい。



2008年08月20日 今日の雑記

 最近、また少し物忘れがひどくなったような気がする。
 先日、何か必要があってネットを立ち上げたのだが、次の瞬間、「何を調べるんだっけ」とパソコンの画面を前にして頭を抱えていた。
 悩んでいても仕方がないからGoogleからYouTubeへ入り、恐い心霊関係の映像を延々と見ていた。
 最初の内は恐々見ていたのだが、どこかで感覚が麻痺してしまい、「恐い、恐い」と思いながら「次、次」と見続けていた。結果、今、一人で居るのが思ったより恐くて寂しい。



2008年08月20日 今日の雑記

 今行われている北京オリンピックでさ、陸上の選手が競技直前で棄権したやないですか。あ、中国の男子選手の話ですよ。
 当然、選手本人が健康管理に失敗したという点も言えるし、コーチとか、周りにいる人も「何してたの」と思うんや。どない思う。
 基本的には中国国内でも批判の声は少ないようだし、それが当然とは思うが、でもよ、早めに故障を表に出して代わりの選手を出すとか、応援してくれている国民に説明しておくべきではなかったろうか。そして次の世界選手権か何かで優勝して国民の期待に応えられるよう、治療に専念すべきではなかったろうか。
 でさ、同じことは今回、日本でも言えるわけさ。海外で最終調整中に体調崩したとか、外反母趾を放置した状態で出場した結果、途中で棄権するとか、有り得ないよ。
 特に外反母趾って、昨日今日できるもんじゃないと思うし、も少し早く治療するとか、何とか、出来んかったんかい。選手本人が外反母趾を隠していたとも思えんし、周囲は皆知っていたはずだ。何故、殴ってでも病院へ連れて行き、早々に治療させなかったんやろ。おかしいやん。故障の状態でオリンピック出さんならんほど、日本は陸上の選手、層薄かったんやろか。
 選手選んどる偉い人らにも問題あるやろし、二言目にメダルの数を気にしたがる、マスコミとかにも問題あるんやと思う。
 確かにある意味、プロが出場するんやからそれなりの結果を出して貰いたいのはわかるけど、ほとんど興味のない僕にしてみりゃ、万全の状態で全力を出してくれればそれでええと思うんや。
 長々と愚痴を書いたけど、ま、そういうことさ。



2008年08月19日 小話一話

A:あんな、同音異義語で遊んでみたんやんか。聞いてくれるか。
B:盆も終わって、忙しいねんけどな、きみの頼みや、聞いたるわ。
A:勇敢な夕刊。
B:どこにオチがあんねん。どこをどない突っ込むねん。言うてみぃ。
A:夕刊がな、ページ数少ないとか、地域の話題が多いとかで、不満持ってやな、朝刊並みのページ数になりたい言うて、会社に喧嘩売りおんねんな。
B:そないなもん、勇敢な夕刊だけでわかるか、おもんないわ。



2008年08月19日 小話一話

 ある夜、俺は泊まったホテルのバーで酔おうと思った。酔いたい気分だった。
 カウンター席に落ち着いた俺は初老のマスターに「ダブル」と注文した。
 マスターは「Double Decker」と復唱した。
 多分、マスターは関西人だったのだろう。



2008年08月17日 小話一話

選手:監督、どないしたんですか。
監督:いゃ、ほれ、見てみ。背番号付けたんや。
選手:3番ですか。
監督:長嶋さんの、現役時代の番号や。どないや。
選手:そら、あかんでしょ。
監督:なんでや。
選手:そやかて、3番言うたら、ファーストの番号言うて、決めてますやん。
監督:そないなもん、無視したらええやんけ。王さんかて、1番で、ピッチャーや無かったやんけ。
選手:それはそうかもしれまへんけど。
監督:なんか、文句あっか。
選手:そやかて、僕ら行くん、甲子園でっせ。
監督:あかんか。
選手:高校野球で、監督に背番号付いてるて、聞いたこと無いんすけど。
監督:一遍でええから、マウンド立ちたかった。(; ;)ホロホロ



2008年08月17日 小話一話

 お腹すいてな、Google、Goo言うて、お腹の虫、鳴きおんねん。


2008年08月16日 小話一話

A:あんな、あんな、聞いてや。
B:なんや、そないにせかしなや。
A:悪いけどな、ちょっとだけ、腰落としてくれへんか。
B:腰、落とすんか。難儀な話やな。
A:ちょっとでええねん。
B:こないな感じで、ええか。
A:あぁ、それでええねん。それで。
B:ほんで、次はどないすんねん。
A:そのまま前を見て欲しいねん。あ、この角度な。
B:きみが指差す方やな。
A:何が見える。
B:客席のおばちゃんやけど、それがどないしてん。
A:おばちゃんを、よう見てや。
B:見てるけど、なんかあるんか。
A:あの、おばちゃんの、脚、よう見てや。なんか、見えへんか。
B:微妙に脚、開いてはるなぁ。
A:あの中、何色に見える。
B:黒に見えるけど、ちゃうんか。
A:ほんまに、黒か。
B:黒にしか見えへんで。
A:白とか、赤とか、ピンクとか、そないに見えへんか。
B:見えへんわ。何を言うとんねん。
A:いゃ、あのおばちゃんのパンツ、何色かいな、思てな。
B:直接聞けや、そないなもん。



2008年08月16日 小話一話

娘:お父ちゃん、お父ちゃん。
父:どないしたんや、そない、大きな声出して。
娘:これ。これ、見てえな。
父:なんや、このポスター。
娘:よう見てえな。ビール会社の、キャンギャル募集やんか。
父:なんや、その、キャ、何とか言うの。
娘:キャンペーンガールの略を、キャンギャル言うねん。
父:ほんで、なんや、お前、これに応募するんかいな。
娘:そやかて、二十歳以上で、健康で、独身やったら、かまへんて、書いてるで。
父:そら、お前は独身やし、その年まで、病気もしとらんし、二十歳以上か知らんけど、大丈夫かいな。
娘:何を心配してんの。条件はクリヤーしてるやんか。
父:水着審査とか、あんねやろ。どないすんねん。
娘:大丈夫やて。何を気にしてんの。
父:そやかて、お前、別れた旦那はんとか、子供らが見たら、驚きよんで。それに六十前やんか。死んだお母ちゃんかて、草葉の陰で、泣きよんで。
娘:お父ちゃん。相変わらず冗談通じへんな。仮に出たかて、一次選考で落ちるやんか。ほんま、お父ちゃんは、幾つになっても変わらへんなぁ。
父:お前の冗談も、変わらへんなぁ。



2008年08月15日 今日の雑記

 昨日の話ですが、1日、図書館で過ごしていたのですが、仕事じゃないし、昼食を抜こうと思っていたのです。
 でもね、やっぱりお腹がすいたわけです。で、図書館から少し歩いたところにMOSがあったことを思い出し、てくてくと歩いて行ったわけです。MOSの隣に中華屋さんがあって「ラーメンもいいな」と思い、中華屋さんに入ったわけです。
 自分の食欲というか、結構入ると思ったのでラーメン、餃子、ミニ炒飯の3点セットを注文したのですが、途中で苦しくなってきました。
 やっぱり量が多かった。
 結局、ラーメンの汁を残してしまいました。これが悔しかった。
 ラーメンを個人的にランク付けすると味噌、豚骨、醤油、塩の順番になります。塩ラーメンが嫌いというわけではなく、あくまでもランク付けするとこの順番になるだけです。でも、台所にストックしてあるインスタントラーメンは全て味噌ラーメンです。
 たまには違う味、例えば塩味とか買おうかな、思うんですが、結局は味噌になります。一時期、豚骨に傾いていた時期もあるんですが、いつの間にか味噌へ戻っていました。
 昔は醤油しかなかったのにねぇ。
 そう言う昨日でした。



2008年08月13日 小話一話

 某マスコミにて…
A子:デ、デスク。大変です。
デスク:ど、どうした、A子。
A子:ヘリが、ヘリが墜ちました。
デスク:なんだって。そう言えば4年前の、8月13日にも確か、大学にヘリが墜ちたよな。8月13日って、ヘリが墜ちやすい日なのか。
A子:デスク、どうしましょう。
デスク:で、墜ちた場所はどこだ。学校か、住宅地か。一体、どこなんだ。
A子:それが、給湯室なんです。
デスク:はぁあ。どういうことだ。
A子:それが、カメラマンのB君が、廊下で、ラジコンのヘリで遊んでいたら、操縦ミスとかで、給湯室に突っ込んじゃって、文芸部のC子ちゃんがコーヒー淹れてたのに、ぶつかりそうになっちゃって、C子ちゃん驚いて、コーヒーこぼしちゃって、今、給湯室、コーヒーとヘリコプターで、無茶苦茶なんです。あぁ、長い台詞。
デスク:知るか、そんなもん。大体、今日は8月13日やぞ。物考えんかい。
A子:私の所為じゃありませんよ。
デスク:お前だ。
 すみません。以後気を付けます。



2008年08月12日 琉球新報に採用された投稿

名護市二見以北4小学統合/進む過疎化と東西格差
読んでね!



2008年08月10日 今日の雑記

 何気無く高校野球を見ていたら一つだけ気になることがあった。
 外野とか主審の後ろにある広告類が全て幕か何かで隠されていた。
 以前は外野に主催者である新聞社の名前が大書されていたり、企業の広告が目立っていたような記憶がある。
 この数年、高校野球なんて見る機会もなかったし、興味も失せている間に世の中は変わったようだ。



2008年08月08日 小話一話

A:あんな。
B:なんや。
A:替え歌作ってんやんか。
B:ほんで。
A:歌てええか。
B:やめといた方がええんちゃうか。
A:そない思うか。
B:思うけど、歌てみたいねやろ。
A:うん。
B:ほな、聞き流したるさかい、歌てみ。
A:あの、♪きみはFUNKY MONKEY BABYS、言う歌あるやろ。
B:うん。
A:その替え歌なんやけどな。
B:嫌な予感するな。
A:歌うで。♪きみはARMY NAVY MARINE、って。どないや。
B:ほな、AIR HORSEはどないすんねん。
A:♪きみはARMY NAVY AIR HORSE、で、どないや。
B:1つ、聞いてええか。
A:なんや。
B:友達、少ないやろ。
A:うん。
B:やっぱり。



2008年08月06日 小話一話

A:あんな。
B:うん、なんや。
A:黒猫がな、目の前横切ると、縁起がええ、言うやんか。
B:そうなんか。
A:知らんか。
B:知らんやったわ。
A:かなんな、そない言うねん。
B:おかしないか。
A:おかしいか。
B:そやかて、黒猫言うたら、よう、悪もんの膝の上で、ニャー言うて、鳴いとる奴やろ。
A:まぁ、そないに言わはる人もおるけど、そやけど、縁起がええねん。
B:よぅ、わからんけど、縁起がええねんな。
A:そやねん、縁起ええねん。
B:ほんで、それが、どないしてん。
A:昨日な、黒猫が歩いとってんやんか。
B:猫なんか、どこにでもおるやろ。
A:ほんでな、縁起ええ思たさかい、目の前横切らんかいな、思たんや。
B:そない、都合よう、いかんやろ。
A:いかんもんやな。その黒猫な、まっすぐ歩きよってな、前横切らんわけや。
B:そら、人間の思う通りにいかんやろ。
A:横切って欲しいなぁ、思てな、その猫追い掛けたんや。
B:猫、迷惑やろな。
A:追い掛けたら、逃げるやろ。
B:当たり前やん。
A:そやけど、追い掛けたんや。
B:暇なやっちゃな。
A:猫な、しまいに、塀乗り越えて、向こう行ってもうたんや。
B:あんたも、乗り越えたんちゃうやろな。
A:そやねん。乗り越えよ、思てな、塀にしがみついたんや。
B:ほんで。
A:塀ごと、向こうにドッターン。
B:あほや。



2008年08月06日 今日の雑記

 いつものように国際通りをポケーッとしながら歩いていた。RYUBOから安里へ向けて歩いていたら突然、小学生低学年とおぼしき女の子に声を掛けられた。
「この辺に、郵便局ありませんか」
 ちょっとおどおどした感じで聴いてきた。
「あ、あっちにあるよ」
 僕はRYUBOを指差して答えた。
 その女の子、近くにいた父親へ早速報告したが、父親は見当違いな方向を眺めていた。
 こらっ!
 娘の話、聴いたらんかい。
 プチ切れた僕は「郵便局をお探しですか」と父親へ声を掛け、RYUBOの1階、MOSの並びあることを伝えた。
 父親は僕に礼を言い、家族を引き連れてRYUBOの方向へ歩いていったが、「最初から娘の話を聞けばいいのに」と僕は思った。「多分、日頃から娘の話を聞いていないんだろうな」とも思った。



2008年08月05日 今日の雑記

 押井守監督の「スカイ・クロラ」ですが、空中での戦闘で撃墜される場面ですが、まるで自分が撃墜されたような、ちょっと気持ち悪くなりました。それだけ映像が現実味を帯びていたと言うことなのでしょうか。
 先日、Google Earthのフライトシミュレーションで遊んでみたのですが、何せ初めてでしたから操縦方法もわからず、あっさりと墜落しました。その時も機体が回転しながら真っ逆さまに地表を目指したわけですが、画面を見ていて気持ち悪くなりました。「スカイ・クロラ」Google Earthで同じ現実感があったわけです。
 作品の中身について書いていいのかどうかわかりませんが、押井守監督はいつも「記憶」とかに言及していると感じます。「攻殻機動隊」でも草薙素子が自分の記憶が本物なのか、本当に草薙素子が実在しているのか、そう言うことをバトーと会話する場面もありましたが、この「スカイ・クロラ」でも自分たちが「何者であるか」を問う場面がありました。
 ちなみに「スカイ・クロラ」と「攻殻機動隊」は原作者は違うけど草薙素子と草薙水素という名前が似た二人が出てくる。初めから押井守監督に映画を制作して欲しいと意識していたのか、それとも本当に偶然なのか、聞いてみたいところでもある。
 個人的には草薙水素の方が好きである。



2008年08月05日 今日の雑記

 久しぶりに高校野球を観たら出場校が増えていた。
 確か以前は47都道府県+東京、北海道から各1校が加わって49校だったと記憶しているが、兵庫県や関東周辺で出場校が増えていた。
 いつの間に世の中は変わったんだろう。
 数えてみたら6府県で東西や南北と言うことで2校出ているようですね。



2008年08月03日 小話一話

A:あんな。
B:なんや。
A:僕の友達がな、マッサージ屋、始めるんやんか。
B:いやらしいなぁ、その友達。
A:なんで、やらしいねん。
B:そやかて、マッサージ言うたら、あれやろ、夜遅い時間に、酔っぱらった客の相手すんねやろ。
A:ちゃうがな。今はやりのクイックマッサージ屋がな。
B:あぁ、あの、街角なんかで、やっとる、あれやな。
A:そう、あれやがな。
B:ま、おめでとうな。
A:伝えとくわ。
B:話、それだけか。
A:それがな、目立つ場所に店構えよ、言うて、その友達、大通りに面した、ええ場所に店構えたんはええねんけど、無茶苦茶店が狭いねん。
B:どれぐらい、狭いねん。
A:幅が2メートルに、奥行きが、確か、3メートルぐらいやなかったかな。
B:また、狭い店やな。
A:そこに、ベッドが2つな、入っとんねん。
B:どないして。
A:二段ベッドやて。
B:どないして、マッサージすんねん。
A:わからん。
B:わからんて、大丈夫かいな。



2008年08月02日 今日の雑記

 八月二日土曜日、晴れ。
 押井守監督の最新作「スカイ・クロラ」を観に行って参りました。
 しかし、笑い話が一つあるわけです。
 上映時間をネットで調べたのですが、出てこなかった。本当は新聞かなにかに今日、明日の上映時間が載っていたらしいが、新聞読んでないし…
 身近な映画館までてくてくと歩いていき、着いたのが十三時半頃、上映開始は十三時十分、その差二十分、惜しいし、悔しかったが、もたもたしている間に時間は過ぎていく。しかも次の上映開始が何と十七時五十分、途中から入館しようと思いましたが、その二十分強のために見直すのも嫌だったし、次の上映時間まで待ちましたよ。
 この「スカイ・クロラ」を観る際の注意事項、エンディング曲が流れても決して席を立ってはいけない。館内に照明が点くまで待ちましょう。
 前回の「…ポニョ」と違い、客席は結構埋まっていた。

 ヤフーで「ウラ県民性」を調べるとか言うコーナーがあったので試してみた。
 その結果、おいらは熊本県民との答えが出た。
 ちなみに相性が合う異性の県が福岡県、佐賀県、山口県の順である。
 以上、無駄話でした。



2008年07月30日 今日の雑記

 買い物を終えた後、何気無く百円ショップへ行ったら先ほど買ったものが、ほとんど同じ材質で全く遜色無い商品が百円で売られていた。
 思わず暴れそうになった。
 次からは百円ショップを先に覗こうと決めた今日この頃である。



2008年07月26日 今日の雑記

 宮崎アニメが好きですから「崖の上のポニョ」を観に行きました。
 夏休み最初の金曜日、夕方16時過ぎの上映に行きました。
「混んでるかな。周り、子どもだらけだったらどうしよう。40前のおっさんが1人でアニメなんて、浮くかなぁ」
 そう言う、やや複雑な気持ちでチケットを購入したのですが、映画館に入り、席に着くと周りはがらんとしていた。全部で20人いるかいないかだったのです。
 その映画館は最近はやりの複合型というのですか、同時に8本上映できる映画館なのですが、他の7か所も多分、「…ポニョ」同様に客席は埋まっていたなかったのではないか、その様に感じました。
 但し、一言付け加えるなら遅い時間になると割引があるらしい。多くの人がそれを狙っていたのかもしれない。



2008年07月26日 今日の雑記

 格闘技とは無縁なはずの僕が何故かプロレスを観た。
 プロレスと言っても流血や場外乱闘は無縁の沖縄プロレスである。
 一年ほど前、偶然テレビで大阪プロレスの社長兼選手であるスペル・デルフィン氏が経営や将来について語っていたことがあった。その時、初めて大阪プロレスなる物があることを知り、感心したのだが、さすがに大阪市内まで観に行こうとは思わなかった。興味があったことは事実だが、何故か大阪市内が気持ちの上で遠かった。
 そのテレビを観た時、確か沖縄プロレスの話は一言も出ていなかったと思う。当然、自分が沖縄へ来ているとも思わなかったが、今年五月にスペル・デルフィン氏が沖縄プロレスを立ち上げたと聞いた時、「一度ぐらいは観に行こう」と言う気持ちになったが、まさか今月だけで既に二度も観戦することになるとは思わなかった。
 今日(七月二十五日)の試合も観戦中、何度立ち上がって声援を送っていたか分からない。分からなくていいんだろう。
 なんか久しぶりに熱中する何かを見付けた気分だ。
 客席にいた五歳ぐらいの女の子三人組がシーサー王という選手に熱い声援を送れば対戦相手であったアグー選手はしょげてみせる。これが悔しかったのか、アグー選手は勝利したが小さな観客から可愛らしい罵声を浴びる結果となった。
 休息時間中に選手がこの小さな観客と握手をしたり、ふざけあったりしているのが、また客席から笑いを誘ったりしていたのも普通のプロレスなら有り得ない光景だろう。そして本来あるべき姿なのかもしれない。
 全四試合が終了した後、選手から観客に来場したことへの感謝の意が伝えられ、それが終わると選手が客席を回って一人一人に挨拶してくれる。
 個人的にはまだ贔屓の選手がいるわけでもないし、観戦中は劣勢の選手に声援を送り、大技が決まると拍手するというぐらいなのだが、素直に楽しんでいるから良しとしていただきましょう。
http://okinawa-prowres.jp/



2008年07月20日 今日の雑記

 先日、いつも読んでいる週刊誌を読んでいたら腕時計の広告が載っていた。広告といっても一社の宣伝ではなく、国際見本市の中で際だった機種を選抜した、各メーカーの一級品を載せた広告である。
 この不景気に一個日本円にして約五三〇万円とか、約三〇〇万円とかが平然と載っている。中には三九〇〇メートル防水や一万一〇〇〇メートル防水なんて腕時計もあるが、「一体誰が腕時計を付けてそんな深海まで行くんだ」と思わず突っ込みを入れたくなった。
 人間が素潜りで何メートル行くのか、酸素ボンベを背負って何メートル潜れるのか、私にはわからないし、興味もない話だが、少なくとも三九〇〇メートル防水は必要ないだろう。否、もしかすると深海探査艇のアームに付けるのかもしれない。
「あ、そろそろ浮上の時間だ!」
 そんなわけないか。



2008年07月20日 小話一話

僧侶:こちらが、貴殿のお探しの、名刀、村々にござる。
剣士:おぉ、これが村々でござるか。
僧侶:さよう、伝えによると、今から、二百年ほど前、ある武士が、この寺に預けて、去ったとのことでござる。
剣士:さもあろう。和尚も聞いておると思うが、この村々は、名刀と言うより、妖刀。この太刀を手にした者は必ず、人を斬りたくなると言う。
僧侶:聞いただけでも、恐ろしい話でござるな。
剣士:世の中には、妖刀は村々だけにあらず。一つの家に崇りなす刀もあるという。
僧侶:この、村々も、日に一度は、血を吸うとか、その様に聞いております。
剣士:しかし、天下の村々に、ここで逢えるとは思わなんだ。
僧侶:見ているだけ、何か、引き込まれそうになりますな。
剣士:うむ。ちょっと、抜いてもかまわぬか。
僧侶:それでは、御菜を用意いたしましょう。
剣士:抜くって、そっちの意味やのうて、太刀を抜きたいんだが。
僧侶:貴殿、太刀フェチやったんか。
剣士:今、いつの時代やねん。何で、フェチ言う言葉出てくんねん。
僧侶:なんや、言葉遣いも、おかしなってるし。
剣士:我慢ならん。抜くぞ。
僧侶:抜くのはかまいませぬが、他者に危害を加えぬよう、くれぐれも気を付けて下さい。
剣士:手にした途端、試し切りがしとうて、我慢がならぬ。抜くぞ。
僧侶:なんと恐ろしいことを。やはり村々は、妖刀であったか。読経じゃ、読経。
剣士:む、何じゃこりゃ。
僧侶:いかがなされた。
剣士:錆び付いておる。
僧侶:あ、そうか。
剣士:何か、錆び付く覚えがあるのか。
僧侶:二百年前に、寺が引き取って以来、誰も手入れをしなかったからなぁ。
剣士:二百年の間、ずっと放置していたのか。
僧侶:そやかて、見てるだけでも、怖かったし、毎日毎日読経してましてんで。
剣士:そら、坊さんやから、読経は当然としても、手入れくらいせえや。
僧侶:そんな、刀手入れするような経費なんかおまへんがな。このボロ寺に。
剣士:折角、名刀村々に逢えたと思たのに、また探さんならんのかい。
僧侶:すんまへんな。まぁ、そない気ぃおとさんと。
剣士:百年近う探しとるけど、あかんなぁ。
僧侶:百年って、あんた、何年生きてますねん。
剣士:内緒。ふっふっふっふっふっふっ。
僧侶:わぁ、消えてもうた。化け物やぁ。



2008年07月20日 今日の雑記

 回転寿司。
 個人的には鮨屋の敷居を低くしてくれた存在として価値は認めているのだが、その一方で時間が経つと「ぽいっ」と捨ててしまう、あの感覚が未だに信じられない。
 回転寿司は幾度となく利用してきたし、そう言う意味では不平不満を言える立場ではないのかもしれないが、店内で飲食していたら最低三〇分ぐらいいるわけだ。その間中、同じ皿が幾度となく自分の前を通り過ぎていたら「無駄だなぁ」って思うわけですよ。そう思うと次は「客の注文受けてから作れば」と考えてしまう。
 回転寿司には意外と鮨職人さんが多くいてせっせせっせと鮨を握っている。その人数ならば客の注文受けてから握っても間に合うと思うのだが、これは素人の考えだろうか。
 作り置きという点で言えばファストフードも同じだろう。以前、あるハンバーガー屋でチーズバーガーを食べようと注文したら「○×バーガーなら、お待たせいたしません」と言われ、「客の注文、素直に聞いてよ」と思った。
 ハンバーガー屋も一定の時間を過ぎると作り置きしている商品を処分してしまうと聞いたことがある。随分昔に聞いた話だから今はどうなっているのかわからないが、食べる物を粗末にするのは辞めるべきだろう。
 先日、珍しくテレビを見ていたら養豚業者がホテルから残飯を集めて餌にしているとの話題があった。勿論、集めた残飯をそのまま豚へ渡すのではなく、多少加工すると言う手間はあるようだが、それでも残飯を捨てるよりは随分とましである。
 ファストフードや回転寿司から出る残飯はどこでどの様に処分されているのだろうか。無駄になってなければよいのだが…



2008年07月18日 今日の雑記

 我が国は間接民主主義とかで直接、政治のトップを選ぶことが出来無い。
 これを「仕方がない」と諦めてしまうのは簡単だが、一方で「これでいいのかなぁ」とも思ってしまいます。
 今の政府与党を支持しているわけではないのですが、支持率が下がったり、何かしら不祥事があるとすぐに首相が替わるのはいかがなものか、そう思います。取り敢えず任期は四年なのだから良かれ悪かれ任期分は果たして欲しいと思うのです。
 例えば日本政府と仲の良いアメリカですと大統領は基本的に任期四年を務めています。
 クリントン氏は大統領時代、不倫騒動がありましたが、それでも辞任しませんでした。日本の首相に不倫をして欲しいわけではありませんし、仮にそう言う時には辞任していただきたいのですが、余程のことでない限り、辞任せずに任期を全うして欲しいのです。
「都合悪くなったし、辞めちゃおう」
 こういう感じで辞任できるなら誰でもいつもで首相になれるわけだし、最初から国民に対しての責任を放棄して首相になることもできるわけだ。
 願わくば首相を直接選びたいのだが、それができないならせめて四年という任期は頑張って務めて欲しいし、同じ与党内から首相を引き摺り下ろそうとか、そう言う動きはしないで欲しい。



2008年07月18日 今日の雑記

 那覇にいて気が付いたことが一つ、真っ昼間でも米軍機が頻繁に飛んでいると言うことだ。逆に今のところ、夜は静かである。
 当然、嘉手納基地か普天間飛行場から離陸して近海上空を飛行している結果なのだろうが、同時に一機が離着陸する都度、その爆音で迷惑している人達がいるわけだ。
 見ていると大抵は二機一組で飛行している。まだ私の方向感覚がはっきりしていないのでどの方角へ飛行しているのか、それもわかっていない。
 少なくとも伊江島にいた時よりは米軍機を見かける、騒音を聞く頻度が高い。
 例えば普天間の移設先では集落の上空を飛行させないことが、移設の条件に入っていたりするが、県庁の真上でも悠然と米軍機が飛行しているのに県都から遠く離れた集落だけ特別扱いしてくれるだろうか。
 仮に万が一でも墜落したら県庁に墜ちるか、それとも県知事公舎か、どこに墜落するかは誰にも予測できないが、誰も気にならないのか、米軍機が飛行していても空を見上げることすらしない。その内に私も慣れてしまい、気にならなくなるのかもしれない。



2008年07月18日 無駄話

 久しぶりに琉球新報のH.P.を見たのは七月上旬のこと、随分と模様替えをしていたので必要な投稿のページを探すのに苦労したが、一方で消えたはずの「過去の記事」が戻っていたのを見付けた時は嬉しかった。
 以前は琉球新報、沖縄タイムスの両紙とも一九九七年以降の主な記事がH.P.上で見れたのだが、いつの間にか消えてしまい、タイムスは過去三か月分しか見られない状態だし、新報も過去の記事はバッサバッサと消されていく有り様、過去の記事を追い掛ける者としてはH.P.を見るのもつらかった。しかし、いつ、どの様にして変化したのか、新報では過去の主な記事が再び見れるようになっていた。これを発見した時、ちょっと小躍り、ちょっとカチャーシーの気分でした。



2008年07月17日 今日の雑記

 最近、那覇の街を歩いていて気付いたのはホテルが増えていることだ。
 目立ったのが東横、おもろまちを含めれば四、五軒はあるようだ。また類似のビジネスホテルも増えているようにも思う。
 今、簡単にビジネスホテルという言葉を使ったが、観光客がビジネスホテルを利用すればビジネスホテルではなく、ごく普通にホテルと表現することになるのだろうか。
 逆に出張中のビジネスマンがリゾートホテルに宿泊してもやはりリゾートホテルなのだろうか。
 話は横にそれたが、十年前に那覇市内には確か東横を見た記憶はないのだが、今はゆいレールに乗っていると目につくようになった。同様に近年オープンしたと思われるビジネスホテルというか、中小規模のホテルが増えている。
 一方で大手ホテルが赤字で経営難になり、身売りして名前が変わったりしているのも事実だ。
 当然、ここで一つの疑問が生じてしまう。
 観光客数は伸びている。恩納村などでは新しいリゾートホテルが建設されている。それにも関わらず、那覇市内の大型ホテルが赤字になっている。しかし、東横または東横的なホテルは那覇市内で増えている。増えていると言うことは利益が望めると言うことだ。
 那覇市内ならビジネスホテル。
 中北部ならリゾートホテル。
 こういう図式ができあがっているのだろうか。
 いずれにしてもホテルが増える分、雇用も増えるという話になるし、悪いことではないのだろうが、どうしても悪いことを考えてしまう。
 今、原油の高騰とかで少しずつ物価が上昇している。当然、航空燃料にも影響するだろうし、それが旅行代金にも響くことだろう。
 本土からの沖縄旅行と言えばホテル、飛行機、レンタカー込みの二泊三日でも随分と安くなっている。どこかで誰かが無理をして泣いているのかもしれないが、それでも十年前には考えられなかったことでもある。
 今でも当日に航空券を購入すれば正規の値段なのは当然だが、上記のパック旅行になれば片道分の料金で済むだろう。
 近い将来、本土からの沖縄旅行が贅沢な旅の代名詞になるかもしれないし、その時、増えつつある沖縄のホテル業界はどうなるのだろう、そう言う心配を少ししている私である。



2008年07月15日 今日の雑記

 無駄話を一つ。
 最近、何気なくマンスリーマンションなどというものを調べていて気になったことが一つ出てきました。
 多分、国内最大手と思われる、あの藤原紀香もCM出演しているレオパレス21は主に二階建てのマンションが多いようですが、一方で他社のマンスリーマンションを見ていると高層とまでは言いませんが、五階建てとか、十階建てとかが多いように感じます。
 何が言いたいか、同じ敷地ならば階数増やした方が得なのではないか、素人はそのように考えたわけです。
 当然、素人にはわからない高度な計算の下で二階建て、時々三階建てという低層のマンションをレオパレス21は用意しているのでしょうが、採算取れるのかなぁ、って素人は他人事ながら考えてしまうわけです。



2008年07月13日 琉球新報に採用された投稿 気になる他国軍

 七月一日にイスラエル、オランダ、ドイツが北部訓練場を視察したとの記事があったが、視察の計画はいつからあったのだろうか。半年前、一年前、それともここ数か月だろうか。
 北部訓練場は一部が返還されたが、一方でヘリパッドの増設が問題となっている。この増設は米軍以外のための増設で相当前から決められていたのではないだろうか。
 また、北部訓練場に近いキャンプ・シュワブでは一九六六年から普天間飛行場の移設先として計画されていたが、海兵隊の基地として以外に他国軍が北部訓練場へ向かうための玄関としての役目も当初から計画されていたのではないだろうか。
 実際、ベトナム戦争の折、米軍は南ベトナム軍の兵隊を沖縄で訓練していたし、七月八日付の投稿で大久保康裕氏は空軍や海軍では他国軍が沖縄へ出入りしていることを指摘している。もしかすると私たちが気付かないうちに他国軍が既に北部訓練場で演習を行っているかもしれない。



2008年07月01日 今日の雑記

 昼寝をしていたら夢を見た。珍しく今お世話になっている施設の中、普段は使っていない食堂が舞台だった。
 その食堂は二階にあって来客などがあった際に利用するのだが、何故か僕は食堂を覗いていた。海が見えるベランダ側に二人の人影が見えた。
「閉まっているはずなのに、何故」
 そう思いながら僕はその二人に声を掛けようとしたのだが、二人はスッとベランダの影へと姿を消してしまった。
 二人の後ろ姿しか見えていないから性別も年齢もわからない。勿論、夢だから何も気にすることはないのだが、今風の十代的な服装だったように覚えている。
 でも、実際にある場所、施設が夢に出てくるというのは多分、僕の場合は滅多にない。
 一時期多かったのはどこだかよくわからない土地である。海だか湖だかがあって、山があって、時々運転している僕がいて、助手席に良く喋る女性が乗っている時もある。
 海外ではないと思うが、国内でも一体どこなのか、実際にある場所なのか、それとも夢の中だから架空の場所なのか、深く考えても無意味なのはよくわかっているのだが、それでも一時期、頻繁に類似の夢を見たからその場所が国内にあるのか否か、真剣に探そうと思った時もあった。
 実際にはそこまでの暇はないのだが…



2008年06月27日 今日の雑記

「またバカをやりたい!」ザ・ドリフターズが再結成を示唆
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=528296&media_id=54
「再結成も示唆」
 六月二十五日にこの記事を読んで「にやり」としたのは私だけではないだろう。
 そう、ザ・ドリフターズの記事である。
 私も「8時だョ!全員集合」を見て育った世代だからこの記事を読んだ時は嬉しかったし、懐かしさもあった。
 しかし、いかりや長介さんの不在はやはり痛い。多分、「…全員集合」でもいかりやさんが休んだことはないのではないだろうか。
 曖昧な記憶は兎も角、四人でどの様にして舞台を展開していくのか、その点は非常に気になるところでもある。
 例えば高木ブーさんが病気か何かで休んだ時や仲本工事さん、志村けんさんが不祥事で出演できなかった時、いすか何かで代用して誤魔化していたように記憶している。
 そこでいかりやさんそっくりの人形を用意するとか、または「今日もお休み」というか、あくまでも「病欠」扱いとして四人で芝居をするか、そういう感じが私の中では理想である。要するに長介さんは「何かの事情で出演できない」という扱いに私はして欲しいわけだ。
 いかりやさんが二度と舞台に立てないことは充分承知しているのだが、私はどこかで認めたくないんだろうね。こう言う曖昧というか、不自然な表現を使う自分にちょっと気持ち悪い思いをしているのですが、まぁ、いいか。



2008年06月27日 小話一話

 つい最近、ある人から黒いナメクジの話を聞きました。
 ナメクジというと私はカタツムリがランドセルを忘れた状態、白くて小さな生き物だと思っていたのですが、中には黒くて大きくて、ややグロテスクなナメクジもいると言われ、「嘘だぁ」と思っていたら本当にいた。しかも意外と数がいる。今朝だけで三匹も出合ってしまった。
 おそらく国産ではなく、洋物だと思うのですが、暇な人は後で調べて下さい。
 こいつにランドセル、否、殻を背負わせたらどうなるんだろう。
 しかし、何故にカタツムリは殻を背負っているのだろう。何故、ナメクジは進化して殻を捨ててしまったのだろう。謎だ。
 実際には殻の跡が残っているナメクジもいるらしい。



2008年06月18日 今日の雑記

 週刊誌を読んでいたら身体完全同一性障害 B.I.I.D. Body Integrity Identity Disorder の記事が載っていた。単純に書くと自分で自分の身体の一部を切断したくなる人のことだが、記事によれば脳の右頭頂葉という空間における身体の位置を認識する部分がB.I.I.D.以外の人と違うらしい。
 確か性同一性障害の人も脳の一部分に変化が見られるという記事を随分以前に読んだ記憶があります。
 気になってB.I.I.D.をネット上で調べてみたのですが、心の問題として解釈されているようです。
 悪い表現かもしれませんが、健常者が「障害者に憧れる」みたいな感じです。
 今回、私の読んだ記事では電動のこぎりで自分の手を切ったという外国人の例が載っていました。またネット上で読んだ例、これも外国ですが、ドライアイスで自分の両脚を壊死させたという、あまり考えたくない例もありました。
 脳の作りが少し違うだけで自分の身体を傷付けてしまう、不思議な話です。
 医学と技術の進歩でB.I.I.D.が脳の問題として位置付けられましたが、それ以前はB.I.I.D.の人達は理解を得るのにどれだけ苦労したのだろうか。例えば自傷行為として解釈されたかもしれない。
 また私が読んだ限りでは四肢、腕とか脚が主なように書かれていましたが、例えば耳とか目、鼻や指が一本だけとか、男性器とか、そう言う事例はあるのだろうか。
 私はB.I.I.D.ではないし、偶然、雑誌で目にした記事に関して今、気ままに書いているだけである。しかし、自分の脳も検査したらどの様な結果が出てくるかわからないし、ある意味、他人事ではない。
 だが、脳の構造一つで性格や行動、趣味なども決まっているようにも感じてしまう。
 日本人の中でB.I.I.D.の人が何人ぐらいいるのか、そこまでは興味も湧かなかったし、調べる気にもならなかったが、海外では志願者や愛好家までいるらしい。
 B.I.I.D.の話から脳や心について書こうとしたのだが、上手くできそうにないので今日はここまでにしておきます。

 ちなみに今回、私が読んだ雑誌というのはNewsweek日本版06/11号でp13に載っています。



2008年06月17日 小話一話

 ある日、あるところにおなかを空かせたミーちゃんがいました。
「おなか空いたニャー。なんか食べる物、無いかニャー」
 そう言って周囲を見ていると向こうから何かが迫ってきます。
「何だろ、ニャー」
 よく見るとネズミのようです。
「やったニャー」
 でも、ネズミは一匹ではありません。団体です。
 レミングの大群です。
「ウギャー」
 ミーちゃんはレミングの大群に踏み潰されてしまいました。

 またある時、ミーちゃんは空腹でぼんやりしていました。
「おなか空いたニャー。なんか食べる物、無いかニャー」
 すると向こうから何かが迫ってきます。もの凄い勢いです。
「なんか、危なさそうだニャー」
 なんとカピバラの群れです。
「ウギャー」
 ミーちゃんがこの後、どうなったかは書かないでおきましょう。



2008年05月30日 琉球新報に採用された投稿

 以前、関西発の経済番組で大阪プロレスが取り上げられていた。大阪特有のユーモラスな覆面レスラー達を見た時は思わず吹き出してしまったが、リング上では笑いを含みつつ真剣に闘い、試合後は握手やサインで観客に応え、街頭で選手自らが宣伝する姿は地方プロレスの営業努力を物語っていた。しかし、流血もなければ過激な場外乱闘もなく、それこそ低年齢層でも安心して観戦できると言えよう。その大阪プロレスの代表が沖縄プロレスを立ち上げたという五月二十七日朝刊の記事を読んだ時、ユーモラスな覆面レスラーの写真へ目が行くと同時に大阪プロレス同様、どの世代でも安心して観戦できる試合を私は思い浮かべていた。各レスラーがどの様な個性でファンの心を掴むのか、それを想像するだけでも今から楽しめる。
 また大阪プロレスのファンを沖縄プロレス観戦という形で呼び込み、観光にも貢献できるだろう。今から七月が楽しみだ。



2008年05月29日 投稿しなかった投稿文

 十年以上も前、まだ航空運賃に早期購入割引もなく、船舶運賃が安かった頃、私は幾度となく船で大阪と沖縄を行き来した。しかし、十年ほど前から航空運賃が下がり始め、私も時間の節約などを考えて海路から空路へと乗り換えていた。すると関西汽船、琉球海運、そして今回は有村産業とかつて私が利用した阪神航路の船会社が相次いで撤退していくことになり、自分が疫病神ではないか、その様にも思えて寂しい限りだ。
 本土からの沖縄航路に初めてカーフェリーを導入したのは有村産業であり、これによって貨物の積み替えという手間が省けると同時に損傷の軽減へも繋がったと言われる。最近では名古屋航路にも手を広げていた有村産業だが、燃料費高騰の余波を受けて運休となってしまった。だが、沖縄ブームが去ったわけではないし、また台湾航路も重要である。県などが一時的にでも燃料費を肩代わりして運行が再開できるよう、検討して欲しい。



2008年04月20日 今日の雑記

「先週は…」
 こういう書き出ししか思い付かないのだが、先週は鳥にまつわる話が二点ありました。
 一つは週明け早々、雌鳥が一羽亡くなりました。老衰だったのか、病死だったのか、残念ながら詳細な死因がわからないまま埋葬となりました。
 この雌鳥は亡くなる二日ほど前から様子はおかしかったのです。同じ止まり木の同じ場所で全く動かず、声を掛けたり、突っついたりしたのですが、鈍い反応しか返ってきませんでした。こう言う時は鶏舎から外へ出し、自由に草などを食べさせると元気になると聞いてはいたのですが、外へ出したのが遅かったです。月曜日の昼下がり、息が絶えていた。合掌。
 で、昨日の土曜日、台所で夕食を摂っていた時のことですが、猫のミーちゃんが真剣な顔で上を見ていた。
「何だろう」
 そう思って天井を眺めた途端、ミーちゃんは食器棚の上に置いてあった鍋に留まっていたツバメを口に咥えていた。
 いつの間にツバメが入っていたのか、そもそも全くツバメの存在に気付かなかった私が悪かった。可哀相なことをしたツバメ、一瞬にしてミーちゃんはツバメを平らげてしまった。
 自然界の法則とわかっていても目の前で渡り鳥を食べることはないじゃないか。毎食残飯をあげているし、ひもじい思いはさせていないつもりだが、ミーちゃん。
 ツバメさんに合掌。



2008年04月18日 小話一話

 廃墟と化して久しい建物の中に重武装の兵士が入っていく。この付近一帯は既に制圧が済んでいる。しかし、敵兵やゲリラが潜んでいる可能性もある。気を付けながら一歩ずつ進んでいく。後ろで物音がする。ゆっくりと振り返ると同じ小隊の兵が建物の別の場所を調べに入っていた。
 ふと足元の片隅で何かが動いていることに気が付いた。軽く腰を落として目を近付けてみる。防弾も兼ねたゴーグルを額へ上げる。
「何だ、蝶か」
 ほこりか何かに絡まった小さな蝶が一匹、もがいていた。銃を肩に担ぎ、右手を蝶の方へと伸ばしてから「いつ敵に出くわしても即座に発砲できるよう、右手の人差し指を引き金からはずすな」と上官に言われていたことを思い出して吹き出していた。
 蝶の羽をつまんでみる。生きようと必死なのか、まだもがいている。
 心の中で「助けてやるから」と呟くと何故か蝶は大人しくなった。
 周囲を見回し、光の差す方向へと歩いてみる。窓を見付けた。小さいとは言え。この白い蝶を窓から逃した途端、狙撃されるような気がした。だが、構わずに放り出した。狙撃もされなかった。蝶は弱々しくもどこかへと飛んでいった。街全体が廃墟と化しているに等しい。蝶の餌となる花の蜜がどこにあるのか、兵士にはわからない。
「おい、何してるんだ」
 同じ小隊の兵が声を掛けてきた。
「行くぞ」
 ゴーグルを着けて銃を持ち直し、兵士は任務へと戻った。遠くで銃声が聞こえた。少なくとも蝶が撃たれたわけではないだろう。



2008年04月05日 今日の雑記

 鶏はセロリを食べない。ニンジンの葉も食べない。シュンギクも食べない。意外と贅沢な連中だ。


2008年03月27日 小話一話

「不要なクラブ高価買い取りいたします」
学生:すみません。
店員:はい。なんでしょう。
学生:表の看板を見たんですが。
店員:買い取りの看板ですね。
学生:はい。僕、北北大学の学生なんです。
店員:えぇ、この近所は北北大学の学生さん、多くお住まいですね。
学生:私、北北大学のコント部の者なんです。
店員:はい。それで。
学生:あの、コント部を、買って貰えないでしょうか?
店員:は、なんで?
学生:表の看板に、不要なクラブ、買い取りって、書いてあるから…
店員:それはゴルフクラブのこと。部活動の倶楽部は買い取れましぇえん。



2008年03月04日 今日の雑記

 日課の一つに鶏への餌やりがある。
 そうは言っても簡単なもので午前中は残飯、午後は残飯の他に飼料、水の交換、そして卵の回収程度です。職業で鶏を育てられている方、養鶏業の皆さんに比べたら本当に楽な話です。
 今日もいつものように飼料を与えようと鶏舎に向かいました。飼料の他に畑の野草なども抜きつつ、与えていたのですが、私の隙を見て一羽が脱走、木陰へと逃げ込みました。一段落ついてから追い掛けてみますと木陰に巣を作り、卵を一つ抱いていました。
 実を言うと一昨日にも一羽が脱走していました。いつ、どの様にして脱走したのかわかりませんが、この時は私が鶏舎内に餌を運んでいるとどこからともなく帰ってきて自分から鶏舎内に戻ったのです。
 ここからは推測ですが、一昨日以前に脱走して気に入った場所に巣を作り、卵を一つ産んでいたのかもしれません。だから今日は私の隙を突いて鶏舎の外へ出て一目散に自分の巣を目指したのでしょう。
 見ていて気の毒になったのですが、一日以上の間が空いている以上、卵が無事に孵化するとは思えなかったし、卵を集めるのが仕事ですから無理矢理その場所から鶏を引き離しました。
 鶏としては鶏舎から逃げ出してでも卵を孵化させたかったのでしょう。鶏の気持ちを考えるとちょっと可哀相だったのですが、孵化させて雛から育てることはしていません。
 ちなみに今は雄鳥一羽、雌鳥が約三十羽います。わざわざ「約」と書いたのは誰も正確な数を把握していないと言うことです。
 約三十羽中半数は既に廃鶏、要するに卵を産まない状態です。こういう廃鶏が中心となって他の雌鳥の産んだ卵を割り、中身を食べたりします。こう言うのも共食いと表現してよいのでしょうか。
 鳥は三歩歩いたら忘れるとか言いますが、少なくとも自分の家は忘れないようです。



2008年02月10日 ボツになった投稿文

 一月下旬に中国で製造された食品の問題が持ち上がった。当然の如く国内では中国批判が始まり、手当たり次第に批判している感じがしてならない。しかし、本当にそれは正しいのだろうか。確かに中国と日本ではは食や衛生観念に差があることも情報が溢れている現代、私達は充分知っている。それにも関わらず、日本の企業は中国の工場や労働者に適切な指導を行なっていたのか、設備への投資が充分であったのか、疑問となる。また私達日本人全体が食糧自給率を下げてでも安価な食を求めた結果ではないだろうか。今一度、食糧自給率の向上や国内の食全般に目を向けるべきだろう。
 一月二十九日に亡くなられた映画監督の高岩仁氏はアジア各国において日本の戦争責任や日本企業の環境汚染を追求してこられた。その視点に立てば今回の中国における騒動も本当の責任が日本にあると言われるのではないだろうか。



2008年01月20日 琉球新報 離島の医療充実を

 伊江島に住んで二か月以上になります。この間、私はお世話になっている人を名護市の病院まで月に一度、運転手として同行しました。離島苦という言葉を知ってはいましたが、実際に自分が体験するとは思ってもいませんでした。伊江島は船が一日四往復有りますし、飛行場もあります。急患が出ても搬送手段には困りません。しかし、他の離島はどうなのでしょうか。また通院が週に一回とか、透析のように一日おき、二日おきに医療施設へ通う必要がある場合、島へ戻るよりは病院の近くに転居し、自分の健康を優先させるだろうし、これが過疎化へと繋がっていくのだろう。各離島に立派な病院を建てることは無理かもしれないが、何か知恵はないものだろうか。もしこの問題を解決することができれば離島の皆さんは勿論、定年退職後の人生を沖縄で過ごしたいと考えている人達を「医療も充実しています」という宣伝文句で誘うこともできるだろう。


2008年01月16日 小話一話

送:只今よりテストを行います。アー、アー。
受:テスト、どうぞ。
送:本日は閉店なり。本日は閉店なり。
受:それを言うなら本日は晴天なり、だろ。ふざけるな。
送:本日は餃天なり。本日は餃天なり。
受:一体、何の宣伝してるんだよ。全く。
送:本日は仰天なり。本日は仰天なり。
受:同音異義語で遊ぶなよ。何に驚くんだよ。
送:本日は好天なり。本日は好天なり。
受:意味は一緒だけどさ。
送:本日はK点なり。本日はK点なり。
受:スキーのジャンプ競技じゃないんだから。
送:本日は定点なり。本日は定点なり。
受:オチ、わかんねぇえ。
送:本日は名店なり。本日は名店なり。
受:昨日と明日は名店じゃないのかよ。
送:明日も名店なり。明日も名店なり。
受:そう言う返事かよ。
送:本日は敬虔なり。本日は敬虔なり。
受:それじゃあ、昨日はどうだったんだよ。
送:本日は点滴なり。本日は点滴なり。
受:大変だなぁ。早く良くなれよ。
送:本日は献血なり。本日は献血なり。
受:抜いたり入れたり、忙しいやっちゃな。
送:本日は性交なり。本日は性交なり。
受:抜いたり入れたりって、そう言う意味じゃなくって…ポリポリf^^*)
送:本日は寒天なり。本日は寒天なり。
受:寒天がおやつだったらいいなぁ。
送:本日は奉天なり。本日は奉天なり。
受:奉天って何だ。おいっ、奉天って何だ。
送:奉天は地名なり。奉天は地名なり。
受:珍しく答えやがった。
送:思わず引っかかったなり。思わず引っかかったなり。
受:二度も言う必要ないだろ。
「おいっ。いつまで、通信テストをしているんだ」
受:あ、すみません。今、終わらせます。
「もう遅い。作戦は失敗だ。撤退する」
受:通信テストの間に、作戦、終わっちゃったんですか。
送:引っかかったなり。引っかかったなり。
受:同じことを、何度も繰り返すなよ。
送:引っかかったなり。引っかかったなり。
受:だからもういいってば。撤退の用意しなきゃならないんだって。
送:間抜けなり。間抜けなり。
受:味方が撤退するんだぞ。何でそんなこと言うんだよ。
送:よく見るなり。よく見るなり。
受:あぁ。周波数が違う。なんてこった。
送:今頃気付くなり。今頃気付くなり。
受:俺、一体誰と交信していたんだろ。



2007年12月24日 小話一話

「ねぇ、俺たちって、なんか、変じゃないですか」
「なんでだよ」
「だって時代錯誤って言うか、似合わないじゃないですか。今は核の時代でしょ」
「それを、言うな。核って言うのは知っての通り、放射能がだなぁ…」
「そりゃ知ってますよ。でもねぇ」
 今、彼らを乗せた機体も含めて六機が高高度を維持して飛行している。そして彼らは一人乗り小型戦車の乗員でもある。
 機内放送で全乗員の搭乗が命じられる。後部の乗降口が開く。
 時折、雲の中を飛ぶ。庫内には排気ガスが満ちる。
 一輌、また一輌、微速後進で雲間に吸い込まれていく。
  ものすごい落下速度である。シートベルトをしていてもなお、身体が浮きそうになる。
 車体は後部のほうがわずかに重いから乗員は後ろ向きに滑り台を滑っているような感じだろうか。
「隊長、隊長、聞こえますか」
「聞こえる。どうした」
「二号車ですが、猫がいます」
「今、なんと言った。繰り返せ」
「猫がいます。車内に猫がいます」
「いるわけないだろう」
「しかし、実際にいます」
「どうしたい」
「わかりません。どうしたらよいでしょうか」
「猫は何匹いるんだ」
「三匹です」
「種類はわかるか。毛の色とかでかまわん」
「三毛猫、黒猫、シャム猫です」
「発進する時にはいたのか」
「いえ、全くいませんでした」
「ならば、それは幻覚だ。気にするな」
「二号車、了解しました」
「隊長、十一号車ですが、車内に象がいます」
「指揮車より十一号車へ。お前が乗っている車両は何人乗りだ」
「一人乗りであります」
「象が乗る余裕はあるか」
「ありません」
「それなら幻覚だ。振り払え」
「十一号車、了解しました」
「八号車より隊長へ」
「どうした。八号車」
「借金取りが、乗っています」
「それは現実だ」
「どうしてぇ〜」
「お前、借り過ぎなんだよ。戦闘に参加しなくていいから、借金返せよ」
「そんなぁ〜」



2007年12月17日 琉球新報 米軍機の那覇空港利用を懸念

 十一月二十九日に米軍の大型輸送機が天候悪化を理由として嘉手納基地を避けて那覇空港へ着陸、しばらく居座った。しかし、那覇空港と嘉手納基地で着陸の可否が問われるほど、天候は違ったのであろうか。また天候が理由ならば何故、回復したら即座に立ち去らないのであろうか。米軍側も台風が接近していたことは事前に把握していたはずだし、それに米軍ご自慢の大型輸送機である。天候は口実であり、本当は那覇空港を利用したかっただけなのではないだろうか。この点を軍用機や航空の専門家に依頼し、本当に嘉手納基地へ着陸できない状況であったのか、調査してもらうべきではないだろうか。
 また機内に何を積載しているのか、その点も明示してもらう必要があるだろう。実際には危険物を積載している可能性もあるわけだ。
 今後、米軍は種々雑多な理由を付けて那覇空港の利用を求めてくるだろうが、拒否していかないと恒常化していく可能性がある。



2007年11月28日 琉球新報 新聞で知った米軍降下ミス

 数日前から私は伊江島で生活している。二十一日の朝刊を広げ驚いた。同じ伊江島で米兵の落下傘が六人もフェンスの外側へ降下するという事件を起こしていた。しかし、私とその周囲には全く伝わって来なかった。新聞が報じなければ知らないままだったかもしれない。
 数日前から昼夜を問わず、不規則ながら航空機の音が耳障りで仕方がなく、空を幾度となく見上げてみたが、機影一つ確かめることも出来なかった。演習の内容を確かめようと思い、実際に演習場近くまで見に行ったが、残念ながら演習の内容まで確かめるまでには至らなかった。そういう中で落下傘の降下ミスが生じたわけである。
 仮に今回の事件が誰もいない夜間だったなら誰が気付き、誰が報道機関へ連絡したのだろうか。「幸い」という表現は良くないかもしれないが、今回の降下ミスは午前九時過ぎ、多くの人が仕事をしている時間帯であったからこそ、紙面に載ることが出来たのではないだろうか。
 今、米軍がどのような内容の演習をしているのか、全くわからないが、二十四時間体制で監視できるシステムがあればと、そのように感じる。



2007年10月28日 琉球新報に採用された投稿

 旅先にて地元紙に目を通すのも旅の楽しみである。先月、愛媛県へ旅した際には猪が餌を求めて海を渡るという記事に思わず目が点になった。その記事と同じ紙面には路線バスに関する記事が載っていた。愛媛県も過疎や高齢化が進む一方、路線バスの廃線も容赦がないようだ。沖縄県と同様、愛媛県も瀬戸内海に多くの島を抱えている。しまなみ海道として大きな島は橋で繋がったが、それで離島苦が解決したわけではないようだ。利用者が少ないこともあって離島路線は本数が少なく、通院などで都心部へ出かける高齢者には不便な状態となっている。沖縄県でも路線バスは赤字で減便や廃線が続いているが、那覇市内で重複している路線を減らし、過疎地域へ一便でも多くバスを走らせることは出来無いのだろうか。またはマイクロバスや十人乗り程度の車両を導入する方法もあると思う。過疎地域であっても利用者がいる以上、公共交通機関の役割を最後まで果たして欲しい。


2007年10月08日 療養中

 昨日が仏滅だったからか否か、いつもお世話になっているみどりヶ丘病院は救急車が三台も並んでいた。
 昨夜遅く、僕はまた喘息に襲われた。温かい珈琲も飲んでみた。風邪薬も飲んでみた。全部無駄な努力でした。
「寝たいよ。眠いよ」
 頭と身体は布団で寝たいのですが、どうにもこうにも咳が止まらない以上、横になることも出来無かった。読みかけの本を広げてみるが、まともに読む気力もない。夜が明けて気温が上がれば落ち着くかと思ったが、それも無理なよう、否、雨が降り出して気温の上昇は望めそうになかった。
「もう駄目だ。耐えられない」
 徒歩でみどりヶ丘病院へと向かった。傘を差し、しとしとと秋雨の中、咳をしながら「我ながら惨めだなぁ」と思いつつ、僕は歩いた。少なくとも仕事が休みで良かった。午後から職場をのぞきに行こうとか、そう言うことを考えていたのだが、今の状態ではとても無理、それでも寝不足の頭でこの日記を書いている僕がいる。
 救急車三台と言うことは最低三人の急患がいる合間を縫って僕は診察をしていただき、吸入器と点滴を受け、そして喘息の発作が生じた時に用いる長ったらしい名前の吸入薬を頂戴して帰途についた。
 寝不足でふらふらしながら僕は歩いた。
 今夕は親友と「久しぶりに夕食でも一緒に」とか、そう言う計画もあったのだが、これもキャンセル、一年以上会ってなかっただけに悔しい。



2007年08月30日 琉球新報に採用された投稿

 台風の季節になると思い出すのが、暴風雨の中でも営業していたコンビニやスーパーなどである。台風が接近する時、私は部屋でラジオを聴きながら窓の外を眺めて過ごしたものである。しかし、そのラジオからスーパーが通常通り営業していると伝えられた時、目が点になった。それまで大阪の衰弱した台風しか知らなかった私には外出もはばかれるような天候の中、通勤されることがまず信じられなかった。電池や懐中電灯を買いに近所のコンビニへ行くなら分かるが、あの暴風雨の中、無理してスーパーへ何を買いに行くのか、それが私には今でも見当も付かない。何よりも通勤途中に意外な物が飛んできたりして怪我をする人はいないのだろうか、そう言う心配をしてしまうのは私だけだろうか。最近の沖縄は変なところだけ本土化しているような気がします。やはり台風が近付けば仕事も学校も休み、家族と団欒して過ごすのが良いのではないでしょうか。


2007年08月14日 琉球新報に採用された投稿

 七月末をもって大阪駅前のわしたショップが閉店してしまった。私自身もしばらく利用していなかったが、沖縄ブームが一段落したと言うことの表れであろうか。それともインターネットなどで沖縄物産を購入できるから利用者が減っただけなのだろうか。いずれにしても少し寂しくなった。
 わしたショップは県産品や情報を発信する場でもあった。しかし、何か物足りなく感じてもいた。例えば図書館など公共施設などへ張り出されているような写真ニュースを地元紙がわしたショップや沖縄贔屓の店舗、東京や大阪の沖縄県事務所へ提供してはどうだろうか。また一日か二日遅れになるかもしれないが、新聞を店頭へ並べて貰うという方法もある。確かに輸送費などを考えれば無駄になるかもしれないが、一人でも多くの人に地元紙を手にとってもらい、沖縄の「今」を知って貰う事も大事ではないでしょうか。



2007年07月28日 琉球新報に採用された投稿

 私達が中学、高校時代に用いた教科書は必ずしも全てを教えてくれるわけではない。それは歴史にも言えることである。教科書に載るのは歴史上の比較的大きな事件、事故の主立った場面を切り取っているに過ぎない。歴史上の事件、事故を全て載せ、解説していたら私達が使う歴史の教科書は大変な重さになってしまうだろう。これが若者の歴史離れをさらに進める一因になるかもしれない。
 一人の歴史好きとしては教科書が載せない場面や歴史の裏面を知ることが楽しい。
 今、歴史の教科書から一つの言葉が消されようとしている。その言葉は漢字にして四字で表現されているが、そこには沖縄県民にしかわからない歴史と命の重みが込められている。この言葉を消すのは簡単かもしれない。しかし、多くの若者はその漢字四字からかつて沖縄で悲惨な地上戦があり、多くの悲劇が生じたことを学ぶのではないだろうか。



2007年07月20日 誕生日に…

 また1つ年を重ねました。しかし、「実感が湧かない」と言うのが本音です。鏡を見たところで1年前と今日の自分で変わったところがあるのでしょうか?
 これからは年齢を詐称しようか、そこまで考えています。誰かに年齢を聞かれたら「精神年齢」でも答えておきましょうか。
 猛暑という予報を裏切って意外と冷夏な今日この頃に。



2007年07月14日 琉球新報に採用された投稿

 一九六一年から翌年にかけて北部演習場で枯葉剤が使用されていたことが発覚した。北部演習場は一般の人が立ち入ることはまず無いだろうから基地従業員としての被害者は居無いことだろう。しかし、指摘されているように県民の水瓶への混入、風向きによっては演習場近隣の住民が枯葉剤を浴びている可能性もあるだろう。土壌調査でダイオキシンの値が基準値以下であったかもしれないが、念のために住民の健康診断を行うべきであろう。
 今回は枯葉剤が原因で病気となった元兵士の訴えで発覚したが、今回の一件が無ければ私達はこの事実を知る事はなかっただろう。
 しかし、一方で「使用したのは本当に一年強だったのか、北部演習場だけなのか、被害者の正確な人数は?」という疑問も湧く。また「他にも危険物を利用していたのではないか」とも考えてしまう。沖縄県民はあと何回、「良き隣人」に裏切られなくてはならないのだろうか。



2007年07月07日 7月のご挨拶

 七夕の一日、駅前の商店街には保育園や幼稚園、そして小学校低学年の七夕笹が多数飾られていた。短冊には色々な願い事が記されています。
 あの頃の純粋な気持ち、いつの間にか失っていました。
 そしていつも失ってから大切なものに気付いています。
 そしていつも無い物ねだりをしています。
 そして多分、これからも無い物ねだりを繰り返していくのでしょうね、きっと。



2007年07月01日 字数制限の話、他。

 いつの間にか二千字という字数制限が出来ていた。
 字数が制限されると言うことはこれまで書き綴ってきたような無駄話がこの場所では不可能と言うことである。
 そう言うわけで今後は長文の無駄話を別な場所で書き綴ることになる。
 長らく利用してきただけに少し悲しくもあるのだが、これも時世というものか。
 昨年十一月に載せた「青田刈り」が歴史研究7・8月盛夏合併号に採用された。



2007年06月13日 琉球新報に採用された投稿

 ある朝、私は全国紙の人物伝に目を通していた。その人物は宮崎県の人だった。記事の中で宮崎県の方言に「てげてげ」と言う言葉があることを知った。意味は「だいたい」とか「おおざっぱ」だそうです。沖縄県の方言にある「てーげー」とほぼ同じです。これが単なる偶然なら面白いのだが、いずれかの方言が影響したのかもしれない。そう言うことを考えてみた。残念ながら私には答えが分からない。しかし、沖縄県の方言には古い日本語が影響しているとか、琉球は日本人が南下して作った国だとか、そう言う話を私自身はいつも疑っている。琉球へは周辺諸国から色々な人がある時は野望を持ち、またある人は理想郷を求めて文化や風俗、芸能や技術、言葉を持ってたどり着いた結果、一つの国家を築いたのではないだろうか。この様な話をすれば専門家諸氏からは一笑に付されることだろう。それでも色々と思い浮かべるだけでも楽しいものである。


2007年06月04日 今日の雑報

 月初、週の始まりから疲れました。
 ぁあぁぁ。
 自分の失敗は仕方がありません。上司に厳重注意されても反省して以後、気を付けるしか有りませんが、職場のネット環境が動かずに仕事が前へ進まないと言う時、どうすればいいのでしょうか?
 インターネットとか何とか、色々なことが出来るようになって便利になった反面、こう言う時は損ですよね。
 結局、ネット環境の復旧は十三時を過ぎていた。それからさらに東京で情報の調整が行われ、仕事に必要な情報が流れてきたのは十四時頃だった。
 現場に応援へ入ろうと思ったが、結局、無理だった。
 仕事の始まりが遅くなる分、四方八方へ迷惑を掛けることになる。荷物の受け取り先には到着の遅れやら何やら連絡し、上司に助言を求め、システム系の部署へ復旧の催促をし、焦りから丁寧語が壊れかけている自分に気付いていた。
 電話で言葉遣いに気を付けるというのも神経が疲れます。
 仕事帰り、事務所にてお饅頭を頂きました。いつもですと口では遠慮しながらおいしく頂くのですが、さすがに今日は一個食べたらそれ以上は入りませんでした。
 そのお饅頭、同じ営業所の人が出張で沖縄へ行かれたお土産だったそうです。「沖縄」「泡盛」と焼き印が押された白いお饅頭、鼻炎気味の僕に泡盛の匂いが軽くつんと入りました。
 疲れたとか何とか言いながらここまで日記を書いていたら大概、立派だと思う。
 職場にてじんま疹の患者が二名います。麻疹も流行していることですし、気を付けなくてはいけません。



2007年06月03日 ラーメン&ソーメン

ラーメン:あ、どうもどうも。
ソーメン:久しぶりやなぁ。
ラーメン:どないしてたんや、ソーメン君は。
ソーメン:どないもこないもあるかいな。元気やったで。
ラーメン:それはそうと、もう六月やなぁ。今日は季節の話題と行きたいんやけど。何かあるか。
ソーメン:六月言うたらあれが有るやろ。あれが。
ラーメン:任しとき。あれ言うたら、あれのことやな。
ソーメン:そうや、あれやで。言うてみいや。
ラーメン:カタツムリや。
ソーメン:何でな、そないなんねん。
ラーメン:六月言うたら、カタツムリやんか。
ソーメン:まぁ、カタツムリでも正解にしといたろ。他にな、思い付かんか。
ラーメン:六月言うたら、雨合羽とか。
ソーメン:なんや、わざと遠回しにされているような、そないな気がすんねんけどな。
ラーメン:早う、答え、言いな。
ソーメン:あんな、カタツムリ言うたら、あじさいを思い浮かべんか。
ラーメン:あぁ、あの、花の色が変わる花やな。あれ、すごいよな。何でな、色変わんねん。
ソーメン:リトマス紙や。リトマス紙の御陰で変わんねん。
ラーメン:そうか。紙で変わんねんや。てっきり、あじさいの根っこが、モグラか何かを捕まえて、生き血でも吸うてんねや、そない思とったわ。
ソーメン:どないしたら、そないな発想になんねん。おかしいわ。
ラーメン:まぁ、ええやんか。ほんで、あじさいがどないしてん。
ソーメン:あじさい言うたら、何か思い浮かばへんか。
ラーメン:そやから、カタツムリやんか。
ソーメン:それはもうええねん。他にないか。
ラーメン:それやったら、モグラとか。
ソーメン:それももうええねん。
ラーメン:ほな、何があんねん。もう、思い付かへんで。
ソーメン:困ったやっちゃな。あんな、六月言うたら、梅雨や、梅雨。雨、雨の季節やねん。
ラーメン:あぁ、ほんでこないだから、傘さして歩くん増えてんねんな。
ソーメン:何でこんだけのことで、ここまで引っ張んねん。
ラーメン:そらしゃあないで。
ソーメン:なんでやねん。
ラーメン:だって、台本通りやもん。
ソーメン:それだけは言ってほしなかったな。
ラーメン:ほんでな、ここまで引っ張った、梅雨がどないしてん。
ソーメン:僕ら、ソーメンにラーメンやろ。梅雨言うたら、僕ら麺類やし、麺つゆ、大事かなぁって。
ラーメン:なんや、それだけのことかいな。
ソーメン:それだけって、失礼やないか。大事なことやんけ。
ラーメン:まぁ、言われたらそないやけど。
ソーメン:ほんでな、六月言うたら、他になんか、思い出さんか。
ラーメン:何かなぁ。全然気にならへんし。
ソーメン:これ以上引っ張るだけ無駄や。あんな、六月言うたらあるやろ。
ラーメン:あ、思い出したで。June Brideや。
ソーメン:それもそないやろけど、他に有らへんか。
ラーメン:なぁ、聞いてえな。こないだな、大物女優とお笑いが結婚したやんか。何でな、六月に式挙げへんかったんかなぁ。
ソーメン:そら、あれやで。なにせ六百人も入るような会場って、そう有らへんやんか。
ラーメン:言われてみればそないやな。
ソーメン:ほんでな。六月は色々な行事が入ってな、空いてへんかってんやな。
ラーメン:なるほど。
ソーメン:しかもな、空いてるなぁ、思てたら、日が悪かったりすんねや。
ラーメン:も一つなるほど。
ソーメン:ほんでしゃあない、五月にしはってんやんか。
ラーメン:よう知っとるなぁ。
ソーメン:そら、暇やもん。週刊誌ばっかり読んでんねんで。
ラーメン:要するに、ここまで引っ張っといて、そう言う話がしたかってんな。
ソーメン:ちゃうがなぁ。
ラーメン:ほな、何の話がしたかってん。
ソーメン:長すぎて、もう話す気力無うなったわ。
ラーメン:頑張れ、頑張れ。
ソーメン:六月言うたらな、父の日って有るやろ。
ラーメン:有りまんな。
ソーメン:ラーメン君、お父ちゃんの思い出有るかいなって、それを聞きたかってん。
ラーメン:僕の思い出かいな。ソーメン君は何か、無いんかいな。
ソーメン:僕のお父ちゃんなんて、下らんさかい、聞かんとって。
ラーメン:ほな、聞かんとくわ。うちのお父ちゃんはな、下町の人やさかい、おもろかってん。
ソーメン:ほんで。
ラーメン:ある時な、僕がまだ幼稚園はいる前のことや、三輪車見てん、欲しい言うてんやんか。
ソーメン:ほんで、もしかして、お父ちゃんが造ってくれたとか。
ラーメン:いやぁ、それがな、近所の公園に置いてあったん、持って帰ってきよったんや。
ソーメン:おぉい、ラーメン、ラーメンや、欲しがっとった、三輪車、持って帰ってきたぞ。
ラーメン:ワーイ、ワーイ。(・o・)ゲッ!!
ソーメン:どないしてん、ラーメンよ。
ラーメン:何でソーメン君が、お父ちゃんの役を演じてんねん。
ソーメン:他に演じる奴、おらんやんけ。
ラーメン:あ、そないなことどないでもええねん。お父ちゃん、これ、隣組のケンちゃんの三輪車やで。
ソーメン:かまへん、かまへん。公園に違法駐輪しとる方が悪いねや。もろとけ。
ラーメン:無茶苦茶や。
ソーメン:なんや、ラーメン君のお父ちゃんって、無茶苦茶な人やってんな。
ラーメン:豪放磊落って、親戚は言うとったぞ。
ソーメン:ほんで、お父ちゃんの思い出って、これだけかいな。
ラーメン:他にも有るで。それこそ六月のある日や、雨で三輪車で遊ばれへん言うて、僕がだだこねたことあってんな。ほな、お父ちゃん言うてん、よっしゃ、お父ちゃんに任しとき。
ソーメン:ラーメンよ、お父ちゃんに任しとき。
ラーメン:ほんで、なにしたと思う。
ソーメン:奇想天外なことやな。
ラーメン:お父ちゃんは言うた。
ソーメン:任しとき言うたら、任しとき。よっしゃ、ワイパーや。
ラーメン:なんでワイパーが出てくんねん。
ソーメン:いやぁ、ラーメン君のお父ちゃんやったら、三輪車にワイパー着けかねんやろ。
ラーメン:まぁ、そらそうかもしれへんけどな。ワイパーや無かったんや。
ソーメン:よっしゃ、任しとき。屋根着けたろ。
ラーメン:なんでな、三輪車に屋根着けなあかんねん。
ソーメン:三輪車に屋根着けたら、かっこええやんけ。ピザ屋の兄ちゃんみたいにならへんか。
ラーメン:ほな、あんたがピザ屋へ行けや。三歳のわし、そないなもん、乗りと有らへん。
ソーメン:よっしゃ、ほな、ドアも着けたろ。
ラーメン:となりのトトロに出てくる、軽トラか。ちゃうやんけ。
ソーメン:よっしゃ、ほな、三輪車の替わりに、車でドライブや。
ラーメン:残念やけどな、うち、車無かってん。
ソーメン:よっしゃ、ほな、市民体育館で、遊んどき。
ラーメン:むっちゃ遠いし。
ソーメン:よっしゃ、ほな、フィットネスクラブにある自転車でもこいどき。
ラーメン:幼稚園児が脚とどくかいな。
ソーメン:ほな、あんたのお父ちゃんはどないしよってん。
ラーメン:透明のな、護美袋有るやんか、あれ上からかぶせられてな、それで三輪車乗ったら濡れんやろ言うてなぁ。
ソーメン:確かにそれはそやろけど、むっちゃかっこ悪いで。
ラーメン:そうやぁ、むっちゃかっこ悪かったで。
ソーメン:ほんで、ここまで引っ張っといて、オチはどこに有んねんや。
ラーメン:分からへん。
ソーメン:あぁ、疲れた。

 書いてるこっちも疲れた。



2007年06月03日 今日の雑報

 丁度、十八時である。航空機の低音が響いていたので何気無く外を見たら民間機が飛行していた。雲の下、はっきりとMDだと機種を断定できるぐらいの高度だった。地図で針路を確かめると南を目指していたことが分かった。多分、一旦、生駒山の方へ行き、そこから大阪伊丹空港を目指すのだろう。しかし、どこから飛んできたのだろうか?
 我が家より北と言えば北陸、北陸地方から飛んできたのだろうか?
 単にこれまで僕が気付かなかっただけなのだろうか?
 北陸から四国を結ぶ便かもしれない。
 新聞に余計なことを投稿したから誰かが嫌がらせで我が家の真上を飛行航路に設定したのではないか、そう言う疑念を抱いてしまった。
 しかし、民間機の運行が終了している時間帯に航空機の低音が響くのは一体何故だろう。国際線だろうか、それともやっぱり米軍機でしょうか?
 相変わらずこういう話題が好きな僕でした。
 それよりも誰か、本能寺の変の謎を解いて下さい。さらに迷宮へ入っていく僕でした。



2007年06月01日 六月の挨拶文

 五月は二十四日と三十日にネットウィルスに襲われた。幸いにして二十四日の場合はウィルスバスターが気付き、ネットを遮断してくれた。しかし、三十日は知らない間に感染した結果、電源を落とすことができなくなっていた。ウィルスバスターも役に立つのか立たんのか、よく分からんソフトです。
 昨夜は満月、奇麗な夜空を楽しめました。しかし、夜は冷えて今朝からまた鼻をグスグスと言わせています。
 水不足も嫌ですが、雨合羽に身を包みながらの通勤もできれば避けたい、そう思いつつ、やっぱり避けられない、季節は梅雨です。



2007年05月28日 雑報

 二日間、お休みを頂きました。日曜日は家でゴロゴロとしていましたが、土曜日は出掛けました。
 神戸の三宮まで意味もなく電車に乗ってみた。
 復路は途中で大阪駅にて下車、阪急梅田店へ寄り、欲しかった万年筆を注文しました。手に入るのは六月二十日以降になるそうです。
 先月、欲しいと書いていたセーラーのスケルトン、しかもペン先はセーラーの自慢である「ふでDEまんねん」です。先月、神戸三宮の文具店で見た組み合わせだったのです。万年筆売り場の人に「あれやこれや」と調べていただいてその様な組み合わせが存在することを確認した上で注文しました。しかし、注文生産になるそうです。
 舞台は我が町の駅前にある全国区の電器店、そろそろ新しいパソコンにしようと店員に欲しい機種の値段を聞いたら少々驚いたが、店員さんはそれ以上何も言わず、立ち去ってしまった。普通、同業他社の近い型番とかを勧めたりしないだろうか。プチ切れるのと同時にしらけてしまった。
 自宅近くの我が家に商店街にある電器屋へ行き、話をしてみた。こちらでは同業他社の近い型番の値段も調べてくれたし、色々な助言もくれた。
 ハードディスク自体はまだまだ余裕があるのだが、ソフトが何においてもvista対応、これで問題が生じ始めている。それにXPのService packでも入れたら重すぎて動かなくなるから上からvistaを乗せたら動かなくなること必至である。
 早く買い換えなきゃ。



2007年05月28日 琉球新報に採用された投降

 戦国時代に活躍した瀬戸内水軍は瀬戸内海に浮かぶ小さな島を拠点としていた。代表的な能島は周囲約八百メートル、島全体を城として用いていた。食料や飲料水の確保は真横に伊予大島や因島から行っていた。安易に瀬戸内水軍と沖縄県を結び付けるのは軽率のそしりを受けるだろうが、例えば与勝半島に連なる伊計島などの諸島を重ねることには無理があるだろうか。この様な島を拠点として勢力を徐々に蓄え、勝連城主となったのが阿麻和利ではないか、私はその様に考えてみた。また古宇利島にはアダムとイブとよく似た伝説があるが、この伝説も古宇利島に拠点を置いた人達が後から自分達の始まりを物語風に形作ったのではないだろうか。琉球は早くからアジア各地と交流があったから単純に瀬戸内に原点を求めるのは良くないだろうし、今後、調査が進めば意外な地域との共通点が発見され、実は瀬戸内水軍が琉球を真似たとか、そう言う答えが導き出されるかもしれない。


2007年05月27日 小話一話

友:あんな、テレビ、買い換えてん。
僕:よかったなぁ。
友:最近流行りのな、横に長い、薄型の液晶テレビ、あれやねん。
僕:奮発してんなぁ。
友:そやけどな、問題があってん。
僕:なんや。
友:置く場所がなかってん。
僕:そいで。
友:しゃあないから、廊下に置いてん。
僕:なんでやねん。
友:あれって、横に長いやろ。丁度ええ場所言うたら、廊下しかなかってん。
僕:ほな、あれか。テレビ見んのに、廊下で家族一同、横に並んでテレビ見とんのか。
友:テレビ、目の前やろ。
僕:目に悪いで。



2007年05月27日 史専

 春日局と言えば基本的には徳川幕府の三代目である徳川家光の乳母を指しますが、歴史上にはもう一人、春日局が存在する。
 室町幕府の三代目である足利義満の側室に春日局がいた。勿論、家系的には全く無関係なのだが、最近気が付いた僕は少しだけ気になった。



2007年05月18日 近況。病気ばっかり

 大型連休も終わりに近付いた五月五日、僕は久しぶりにマッサージ屋へ行きました。「だいぶ張ってますねぇ」とマッサージ師に言われたが、実は自覚症状が全く無かった。ただなんとなく行った結果だった。
 その二、三日後から急に肩がこり始めた。自覚症状が出てきたわけでそれから湿布やらなんやらを毎日貼っている状態が続いた。週末には風邪を患い、市販の風邪薬でどうにかこうにか仕事へ出掛けていた。
 そして今週、火曜日の夕方から喉が痛み始めた。油断していたらそのまま咳が止まらなくなり、水曜日にはマスクが必需品となった。
 上司には「早退してでも、医者に診て貰え」と言われる始末、さすがに早退はしなかったが、帰宅途中に病院へ寄り、四種類の薬を頂きました。
 兎に角、話そうにも喉が痛むし、食べても味気ないし、それでも性格上、無駄話がしたい。
 会話をしていて急に咳が出て苦しいのも困るが、電話の応対が小さな声になり、まともに話せないのもまた困ったものである。
 この苦しみと引き替えに何か小さなハッピーでも貰えれば嬉しいのだが、元を正せば自分の不養生が原因である。変な病気で病院へかつぎ込まれなかっただけでも幸いと言うべきだろうか。



2007年05月14日 史専

 今谷明著『戦国期の室町幕府』によると永享七(一四三五)年二月五日、比叡山延暦寺根本中堂は僧侶らが自ら火を放ち、全焼している。
 その理由は室町幕府の六代目将軍義教が延暦寺と衝突、専制政治を行う義教は軍を集めて延暦寺を事実上包囲した。鎌倉時代以来、延暦寺の僧侶は神輿を担いで上洛、強訴を繰り返していたが、この時は軍勢の前で神輿を投げ出して逃げるという失態も演じている。
 義教側の守護大名も延暦寺を力攻めにすることへ抵抗を感じている人は少なかったが、小規模な戦闘を行い、周囲から和平の提案が出たこともあり、調停へ至ったが、義教側が僧侶三名を斬殺したことから延暦寺側は根本中堂を自ら焼失させると言う結末を作った。
 当然、この事件を信長は知っていただろう。延暦寺が自分で火を着けるという歴史を持っている以上、他人である信長が火を着けて何が悪い、義教に屈したなら信長にも屈せよ、そう言いたかったのではないだろうか。



2007年05月12日 今日の雑報

 昨夜、気温が下がりつつあったので布団は冬態勢で寝たわけですが、案の定、午前六時前に呼吸が乱れて目が覚めてしまった。あぁ、喘息か。
 喘息のような症状でゼーコラ、ヒューコラ、一時間ぐらい布団の中で読書したり、ラジオを聞いたりして過ごし、それから朝食をぼそぼそと摂り、徐々に落ち着きつつある呼吸の中、単車に乗って仕事へ行った。しかし、上司が何か言ってもほとんど上の空、困ったものです。
 多分、上司はいつもと違って静かな僕を気遣って冗談を言ってくれたのだろうが、物凄く寝た気がしない状態だった。
 午後、葛根湯を服用してみた。なんか頭痛はするし、節々痛むし、風邪薬だと睡魔に襲われるし、それなりに考えた結果、葛根湯にしてみたが、調子は揚がらず、仕事が終わると即座に帰宅した。
 今夜は温かいようだし、明朝は気持ちよく起床できるだろう。
 しかし、呼吸器系統の弱り方、ただならぬ物である。困った。



2007年05月09日 琉球新報に採用された投稿

 私が名護市に住んでいた時、不思議だった事の一つに二社以上が重複するバス路線がある。例えば空港から名護を結ぶ高速バスは四社が曜日や時間帯で仕事を分け合っていたが、他の路線では競い合うような姿勢が見受けられた。例えば名護から那覇へ向かう場合、ほとんど同じ時間帯に二社が国道を走り、途中で抜きつ抜かれつを繰り返していた。こう言う時、乗客はほとんど皆無に等しく、名護市へ転居した当初は運転手さんとのお喋りが本当に楽しくて仕方がなかった。だが、この様なバスの運用は当然、赤字を呼ぶ。関東や関西の私鉄では相互乗り入れという形で二社以上が助け合いながら運営していることは珍しくない。沖縄県などが主導してでも効率の良い路線バスの運用方法を検討するべきではなかったろうか。今からでも重複路線の統廃合などを官民一体で検討し、県民の足である路線バスを守るようにするべきではないだろうか。


2007年05月08日 小話一話

 少年、否、児童と言った方が正しいかもしれない。誰が見ても一目で小学五、六年生と分かる背格好である。その少年が今、秋葉ダムの真ん中に立っている。
 真夜中、満月が真上へさしかかる。月光がダム湖の中心を照らす。
 暴走族とおぼしき数人がダムの片隅にある駐車場でたむろをしているが、その中の一人が少年に気付いた。
「おぉい、坊主。寝る時間だぞ」
「どこのガキだ、格好付けやがって」
 少年はダム湖へ向けて両手を差し出した。
 地面から何かが湧き出すかのように湖面が静かに盛り上がり始めた。
 少しずつ音が加わる。
 ゴボッ。ゴボゴボ。
 暴走族らは呆気にとられている。
 ダム湖の水は何かを表現しようとする新進芸術家のように形を表し始めるが、まだ誰の目にもそれが何か、判別は付かない。
 ダム湖の音に気付いたのか、近所の家々に明かりが灯り、住民の声が聞こえ始める。
 水が重力に刃向かい、天を目指そうとしているかのようにも見えた。
 水が何かを形作っていく。見ている誰もがそれに気が付いた。液体であるはずの水が龍を形成していく。
 秋葉ダムが塞いでいるのは正に天竜川、そこに龍がいたと誰が想像したであろうか。
 近くの派出所から来たのであろう、警官が二人、龍へ拳銃を発射した。
 最初の一発は龍を形作っている水の中に消えたかと思うとダム湖へ落下していった。次の一発は鱗にはじき返された。僅かな時間で水が銃弾をはじき返すほどの堅牢さを持ったのである。
 まだ不完全ではあるが、頭部が噛み付くような勢いで二警官へ迫ってきた。
「待って」
 少年の声が龍に届いた。
 龍はその頭部を少年へ向けた。銃弾を再装填した警官両名が少年へ退避するよう怒鳴ったが、少年は気にもとめる様子はなかった。



2007年05月07日 小話一話

 その日、二人は過疎の進む地方の県庁所在地を歩いていた。
 何もない。二人の感想はその点で一致していた。
 歩いている内に一人が振り返った。すれ違った青年の何かが気になった。携帯電話のストラップ、不吉な紋章がそこには印されていた。
「冗談じゃない」
 思わず声を張り上げそうになったが、どうにかそれを抑え、相棒に聞こえる程度の音量で訴えた。
「なんだ。どうした」
 相棒は気が付かなかったのか、鈍い視線を返してくる。
「ほら。あの男の、携帯。ストラップを見てみろ」
「ん。あれは。あの紋章は」
 相棒も絶句した。
 二人は青年を追い掛けた。携帯電話で会話をしながら暢気に歩いている青年へ追い付くことは簡単だった。
「おい。きみ、きみ」
 一人が青年を呼び止めた。まだ話しながらも青年は振り返った。
「あ、じゃあな」
 青年は電話の相手に別れを告げてから二人を怪訝そうに見た。
「あ、済まないな。その、携帯電話のストラップ、どこで手に入れた」
 一人が問う。
「あ、これっすか。五年前かな、最初の携帯買った時にさ、たまたま近くの屋台で買ったんだ。なかなかいいだろ」
「これを着けてから、嫌なこととか、遭わなかったか」
「あんたら、変なこと、聞くよね」
「済まないな。この紋章、どういう意味か、知ってるのか」
「よく分かんないけど、あんまし、良くない意味らしいね」
「それを知っていて、何故、着けているんだ」
「だって、別に、悪いこと起こんないし、迷信かなって、そうも思うし」
 青年は少し面倒臭げではあるが、それでも二人の質問には答えてくれた。
「はずした方が、いいんじゃないか」
 相棒が青年の携帯電話に触れた途端、慌てて手を放した。それを見た青年は不思議そうに相棒を見る。
「妖気だろ」
「あぁ。尋常じゃない。こんなもん、よく着けているよな」
「なんか、感じるんすか」
 青年は至って暢気である。そのストラップが妖気を漂わせていることに気付いていないらしい。
「それを買った場所って、教えて貰えませんか」
「実家の近くだし、第一、さっきも言ったけど、五年も前の話だよ。屋台で、手作りだったし、どこの誰が売っていたのか」
「それでも構わない。教えて欲しい」
 青年の話では高校入学をしてしばらく後に携帯電話を購入した。夏休みに近所の夏祭で偶然見かけた屋台で問題のストラップを購入した。二十代後半と思われる女性が一人で丁寧に手作りしていたのを覚えていた。当然、その女性がどこから来てどこへ行ったのか、青年は知らない。
 少なくとも翌年以降の夏祭では見かけなかったそうである。
 その時、屋台に同じ物が並んでいたのかどうか、それも青年は覚えてはいない。単なる偶然ならば妖気は漂わないはずである。
 青年は二人と別れる際、「このストラップ着けてからかな、少しは成績が上がったんだ。今、専門学校に通ってんだけどさ、就活も上手く行ってるし、案外、悪くないんじゃない」と言った。
 二人は夏祭りが行われた場所へ行ってみよう、そう決めた。



2007年05月06日 史専

 結論を先に書くと「本能寺の変」は案外、答えは簡単なのかもしれない。先日購入した桐野作人著のPHP新書「だれが信長を殺したのか」では変の三日前に光秀が山陰の福屋氏に手紙を出しているが、その文面には特に迷いが見られない、すなわち五月末の時点でまだ光秀は信長を襲うとは決めていなかった、桐野氏はその様に結論づけている。
 同書にはもう一つ、変の二年前辺りから四国の長宗我部氏への対応を巡って信長と光秀が噛み合わなくなり、そこへ家臣である斎藤利三の処遇なども絡み、信長と信忠が僅かな供回りで上洛したのを機に一気に襲撃したとの答えを出されている。
 信長と光秀は案外、仲は良かったのだろうと最近は言われている。
 個人的な見解を一つ出すと直接的ではなく、間接的な黒幕がいたような気はする。例えばこの時代、確かに敵対する勢力は居るが、必ずしも検問所で引っ掛かるわけでなし、京都への出入りは自由であった。現に毛利の家臣が秀吉の出馬を眺めていたり、将軍義昭の家臣が京都の寺へ出掛けたり、そう言うことが至極自然と行われている。
 信長を邪魔と感じる誰かが密かに光秀に会い、そそのかすという可能性は否定できないだろう。当然、光秀は断ったかもしれない。しかし、一方で自分が誰かの上に立つ、そういう夢想を抱いたかもしれない。
 光秀と秀吉がライバル関係だったとも言われている。事実だろうか。
 秀吉は対毛利の最前線に立ち、光秀はその支援を請け負っている。先に出世した光秀がいつの間にか追い付かれ、追い越されている。しかし、それは後世の僕らが見た結果論に過ぎない。
 信長が人を見た結果なのかもしれない。秀吉は武将であり、戦争を任せやすかったのだろう。一方の光秀はどちらかと言えば文官、役人肌で京都周辺に置き、朝廷や公家、寺社との折衝に当たらせ、同時に各方面の支援に向かわせる、甲斐武田の滅亡や中国毛利攻略に応援する、そう言う役目に合う人だったのだろう。それを光秀本人が意識していたか否か、それは分からないが信長がその様に判断し、その様に配置していたのではないだろうか。



2007年05月03日 史専

 午後、駅前へ出掛けました。高槻ジャズフェスティバルでいつもより人が多かった。
 書店で立ち読みでもしようと思っていたらまた「本能寺の変」関係の新書を見付け、購入した。相変わらず「本能寺の変」は謎である。実行した明智光秀が何かしらの文書を残していれば謎にはならず、ただの史実で終わり、戦国時代特有の下克上で終わったことだろう。単なる下克上と言ってしまえば済むのだが、光秀が中途採用でもなく、前の主人が足利義昭でなく、代々織田家に仕える家柄だったら多分、下克上という言葉で終わったかもしれない。以前の職場とその縁故があまりにも反信長故に理由を色々と考えてしまう。本当に単独なのか、それとも黒幕がいるのか。
 誰か謎を解いて欲しい。



2007年05月01日 「木下」姓一考察 歴史研究5月号

 秀吉が最初に用いた苗字は「木下」である。この苗字に関しては幾つかの説がある。
 一つには妻於禰の実家である杉原氏から拝借したという説、次に秀吉が初めて仕官した松下之綱の姓から連想して木下姓を名乗るようになったというものである。
 しかし、例え貧農であったとしても全く苗字を持っていなかったというのもおかしな話である。疑問に思い、谷口克広氏の『織田信長家臣人名辞典』を開いてみた。
 信長の家臣には木下雅楽助、木下助右衛門、木下佑久、木下太郎らがいる。この内、木下雅楽助は中川重政、津田盛月の弟で信長の親族とされている。何故この人が木下姓を用いているのか、残念ながらそこまでは記されては居無い。木下姓を名乗る誰かの養子に入ったのか、それとも誰かにあやかったのだろうか。信長の親族でありながら兄弟揃って苗字を変えている点も疑問として残る。
 次に木下助右衛門は秀吉の父弥右衛門と一字違いである。単なる偶然なのか、それとも弥右衛門と血の繋がりがあるのか、気になる点である。だが、助右衛門は史料上で一回しか現れず、前後の動向が全く不明な人物である。秀吉の父方が秀長、旭姫以外は親族が全く表舞台に出てこない点と重ねるとこの助右衛門が運良く名前の残った秀吉の一族ではないか、その様に考えてしまう。
 木下佑久は秀吉の正室於禰の実父と言われており、この人の姓を秀吉が借りて木下氏を名乗ったと言われている。しかし、於禰の実父と言われている杉原定利と没年月日が違うから全く別人であろう。
 最近、インターネット上で木下弥右衛門を調べたところ、フリー百科事典『Wikipedia(ウィキペディア)』にて弥右衛門の項目を見付けた。これによると弥右衛門は木下弥右衛門昌吉が正式な名乗りであり、この木下氏は近江浅井氏の分派、尾張浅井氏の一流と解説されている。信長の家臣には浅井姓がいるからこの人達は全て秀吉から見れば父方の親族と言えるだろう。
 また近江浅井氏が信長へ敵対した元亀元年四月以降、浅井氏の拠点である小谷城攻撃に対して秀吉が三年以上も第一線に立っていたことも自然と頷けるような気がする。
 この間、秀吉は浅井氏の家臣であった堀、樋口、宮部、阿閉、久徳らを誘降できたのも秀吉自身がこの地域に対し、地縁血縁があったからではないだろうか。そして浅井氏の滅亡後、秀吉がこの地を委ねられたのも近江浅井氏に繋がる血筋であることを信長が考慮したからではないだろうか。
 次に秀吉の養父である筑阿弥を考えてみたい。弥右衛門同様にインターネット上のフリー百科事典『Wikipedia(ウィキペディア) 』にて筑阿弥を探したところ、本名を水野昌盛、父を水野氏庶流為春とする解説を見付けた。
 残念ながら弥右衛門、筑阿弥共に出典が明らかにされていない。しかし、これが事実ならば秀吉の貧農出身説は根底から崩れてしまう一方、ある程度毛並の良い秀吉というこれまでとは違う姿が浮かび上がってくる。
 私は当初、筑阿弥こそが木下姓か羽柴姓の人ではないか、その様に考えていた。これまで信秀の茶同朋筑阿弥という以外、情報が何一つ無かったし、竹中重門が『豊鑑』で記している以外、羽柴という苗字に関しては詳細な情報がなかったからである。しかし、筑阿弥が水野姓ならば秀吉は何故、一度として水野姓を名乗らなかったのだろうか。余程、筑阿弥と相性が悪かった、もしくは筑阿弥とはあくまでも猶子の関係であったのかもしれない。
 秀吉の周囲には何故か母方に繋がる加藤清正や福島正則に小出秀政、於禰の実家杉原家とその縁戚である浅野家、姉婿の三好吉房という人々が目立つ反面、弥右衛門や竹阿弥に繋がる人々がほとんどと言って良いほどに姿を見せない。唯一の例外が弟秀長、妹朝日ぐらいであろう。しかし、この二人にしても実父が弥右衛門なのか、筑阿弥の連れ子なのか、未だに二説がある。弥右衛門も筑阿弥も天涯孤独であったとは考えられない。秀吉は父方の親族と絶縁でもしていたのだろうか。
 秀吉は信長の四男または五男とも言われている於次秀勝を養子に迎えている。単純に考えれば同じ信長の重臣、例えば仲の良かった前田利家から養子を迎えることも出来たはずである。しかし、これも秀吉の血筋を考え直した時、信長が次男信雄を北畠氏、三男信孝神戸氏へ相次いで養子に出したことと同様、於次秀勝を毛並の良い羽柴氏の養子に出したのではないだろうか。
 いずれにしても専門家諸氏には今一度、弥右衛門と筑阿弥について洗い直していただきたいものである。



2007年04月29日 小話一話

僕:友達の小野君にな、子供居んねんけど、その子がな、英語覚えてん。
友:Oh noとか、言わんとってな。
僕:話題、変えるけど、かまへんか。
友:ええよ。
僕:友達の大野君にな。子供居んねんけど、その子がな、英語覚えてん。
友:やっぱり、Oh noとか、言うんちゃうやろな。
僕:帰るわ。
友:おい。方角、逆やぞ。



2007年04月28日 連休の始まり、始まり。

 今日から年に一度の大型連休が始まりました。すごいですね、九日間休める人もいるわけです。ちなみに私の上司は年休を利用して+二日も休みます。
 特に行きたい場所もなく、連休中は全て仕事という覚悟でしたが、幸いにして今回は計二日も休めることになりました。まずは明日の日曜日、そして五月三日です。
 僕はお家でゆっくりとしています。



2007年04月27日 今日の雑報

 朝、六時前に目を覚ました。例によって咳で目が覚めたわけです。葛根湯を服用、ラジオを聞き流しつつ、朝七時を迎え、渋々布団から抜け出し、朝食を済ませて職場へ向かいましたが、事務所に入って頭ぼんやりの状態でした。
 暖冬の御陰で過ごしやすかったのですが、何故か涼しい日が続いています。いつまでも冬着が手放せません。困ったもんだ。



2007年04月26日 小話一話

和尚:おや、こんな夜中に、一人でお経を読むなんて、偉いではないか。
弟子:和尚様。大変お恥ずかしい話ですが、実は、この数日、下らない俗念にとらわれております。御仏にお救いいただこうと、読経をしている次第です。
和尚:若い内には色々と、俗念に教われるもの、御仏に救いを求め、救われてこそ、御仏の教えの尊さが理解できると云うもの、苦しむことも大切、頑張りなさい。ところで、一体どの様な俗念にとらわれておるのかな。
弟子:大変お恥ずかしい話ですので、何と申し上げてよいのか、分かりかねます。
和尚:よもや、好きな女性が出来たとか、そうではあるまいな。
弟子:いえいえ。その様な俗念ではありません。
和尚:それでは、肉や魚が食べたくなったとか。
弟子:誠にお恥ずかしい話なのですが、実は、先日、美容院の前を通った折、カリスマ美容師に、最新の髪型にして貰いたいなぁ、そう思いまして…
和尚:そればっかりは、無理じゃなぁ。わしらは御仏に仕える身、それこそ坊主頭じゃからなぁ。
弟子:和尚様、大変申し訳ありませんでした。読経を続けます。
和尚:それには及ばん。
弟子:和尚様、何故でしょうか。
和尚:実を言うとな、ここだけの話、わしも髪を伸ばしたくて仕方がなかったのじゃ。それでな、この数年、悟ってな、この様にあごひげを伸ばしておる。仙人みたいに見えて、結構似合っておるであろう。
弟子:確かにそうですね。私も、あごひげは無理ですが、もみあげとか、口ひげを伸ばしてみれば、良いかもしれませんね。
和尚:いやぁ、もみあげとか、口ひげは、ちょっと、怪しくないかぁ。



2007年04月25日 小話一話

 ここは港町、決して大きな港ではないが、中小の外国船も停泊する、そう言う港でもある。
 この港町の周辺には船員相手の飲み屋や安宿などが掃いて捨てるほど有る。そう言う一軒の宿が僕の常宿となり、その地下にあるバーが僕の居場所にもなっている。
 こういう港町には幾つものバーがあり、そしてバーの数だけ歌姫がいる。そのバーには低い舞台があり、おそらくバーが出来た折、奮発して購入したであろう大きなピアノが備え付けてある。ピアノにはセットで購入したんじゃないかと思う、くたびれたピアニストが僕が生まれる前の流行歌を弾いている。
 船員や港湾労働者、そして近所の缶詰工場で働いているであろう女性労働者、色んな職種の人達が今夜もそのバーに集まっていた。
 僕も年に数回、この港町を訪れ、宿の部屋に荷物を置くと地下のバーへと顔を出す。誰も僕のことなんか気にもしていないことだろう。しかし、不思議なことにカウンターの隅っこはいつも空いている。そこに腰を下ろして安酒をちびりちびりと飲みながら彼女の歌声を聴いている。
 この小さな店にいる客の誰が彼女の歌声を真剣に聴いているのだろうか。時に僕は不思議になることもあるのだが、僕はいつも静かに彼女の歌声を聴いている。

 今回のライブ中に思い付いたお話でした。



2007年04月25日 ライブの余談

 その一。去年もライブの後、二見情話の愚痴を書いている。今年も似たような内容の感想?否、愚痴を書いている。
 その二。今年の八月下旬に普天間さんはまた来阪、ライブの予定だそうです。ライブが土曜日とか、日曜日だったら聴きに行きますが、平日の夜だったらお手上げです。
 しかし、日時という条件が合ったとしてもまた「二見情話」を聴かされ、後で感想という名の愚痴を書くことになるんだろうか。
 でも、普天間かおりさんは本当に明るい人である。これは沖縄の県民性だけでは説明が出来るようで出来ないような、不思議な感性の持ち主である。
 かつて中島みゆきという人のラジオ番組を良く聴いていた時代がある。よく笑う、そして明るい人だったが、彼女の詞も怖いくらいに暗い内容が多かった。中島みゆきは毎日失恋をしているんじゃないか、そう思った時もあった。それくらい、失恋の歌とか、悲しい歌が多かった。ある意味、普天間さんは似ている、共通点があるのかもしれない。
 ライブハウスのカウンター席でしんみりと昔を思い出しながら歌を聴く、そう言う年齢になったのでしょうか。
 追記
 実はポテチを半ばヤケ食いしながらウーロン茶をくいくいと飲んでいた。



2007年04月24日 季節のご挨拶

 気が付いたら鯉のぼりが泳いでいました。
 のんびりとお花見を楽しもうと思っていたのに桜の花はどこへ行ってしまったのでしょうか。
「桜さん、待ってぇ」
 そう言って追い掛けたいのですが、そう言うわけにもいきません。
 桜の便りも書きたかったのですが、時季が思いっ切り外れてしまいました。
 今年も日本のあちらこちらで鯉のぼりが泳いでいるのでしょうね。
 四月は基本的に曇りがちなのだそうです。その所為でしょうか、鯉のぼりがスイスイと気持ちよさそうに泳いでいるとは言い難いのですが、でも、日本の風景であり、この季節、桜から鯉のぼりへと徐々に移行していくのが楽しみでもあります。
 鯉のぼりから五月晴れ、そして梅雨、気温が少しずつ上がっていき、そして大好きな夏へと一気に突っ走るのかなぁ?
 たんぽぽの季節に。四月二十四日



2007年04月23日 万年筆ネタ

 別に「自棄」と言うわけではありません。そして「衝動買い」でもありません。万年筆を買いました。以前から欲しかったパイロットの「カスタム カエデ」です。まだ封は切っていません。なにせ僕の手元にはもう一本、万年筆があるのですから万年筆ばっかり集めてどうするのか、そう言う突っ込みがあった場合、どうにも返答に困るわけです。万年筆を集める趣味は無いのですが、でも、欲しいんです。
 ライブへ行く前、遅い昼食でも摂ろうと入った大阪駅前にある百貨店の文具売り場で「カスタム カエデ」を買いました。
 本当はセーラーのスケルトンも欲しいんです。スケルトンに綺麗なインクを入れたら楽しいでしょうね、きっと。こちらは来年以降、何か散財したくなったら買うことにしましょう。



2007年04月23日 ライブの感想と言えるかなぁ…

 普天間かおりさんが吉本新喜劇を好きだという話を聞いたのは去年のライブでのこと、まさか今年のライブでその吉本から池乃めだかが客の一人として来るとは誰が想像しただろうか。そう言う想定外の楽しみを含みつつ、今年も二時間という時間があっと言う間に過ぎた。
 ライブ会場は去年と同じライブハウス、ステージに近いテーブル席か、後方のバーカウンターに座るかは自由だった。十七時開場でテーブル席に取り敢えずは腰を下ろしたが、どうにもせせこましい。窮屈なのは好きではないし、兎に角、逃げ場所を探した。去年は窮屈で息が詰まりそうだった。幸いにして後方のカウンター席周囲が空いていた。
「ラッキー」
 荷物をまとめて逃げました。ゆったりとした場所でライブを楽しんでいたつもり、でもね、去年と同じでまたアカペラで「二見情話」を歌われたんですよ。
 一瞬、目が潤んでしまい、眼鏡を外しました。
 僕は沖縄へ背を向けるんだとか、何だとか、そう言う気持ち、あっさりとぐらついていた。名護での五年半が脳裏から引きずり出されているし、とてもライブを楽しむなんて云う状態ではなかった。俺、何してるんだろうね。
 素直な話、木曜日と金曜日は風邪薬のお世話になっていたんですよ。でね、土曜日は一度も薬を飲まないぐらい、調子良かったんです。そしたら日曜日は朝から調子悪くて行くの止めようか、そこまで考えたんですが、薬飲んでどうにかこうにか体調をなだめすかして、自分でテンション揚げて出掛けたわけですわ。途中で遅い昼食摂ったり、買い物したりして機嫌良くなっていたんですよ。ライブハウスのすぐ近くに法善寺横丁があって法善寺の水掛不動に水掛けて御神籤ひいたら「吉」で内容も悪くなかったのに「二見情話」でヘコんでいる自分がいた。
 これを書いている今はいつもの自分へ戻っていると思うんだが、どうだろう。



2007年04月18日 琉球新報に採用された投稿

 今年は選挙の年、私の住む街でも府議選、市議選と賑やかだが、沖縄と違って基地が無い分、少し静かに感じる。しかし、投票率が下降する一方なのは困ったものである。「国民の義務だから」と言って説得を試みても罰則がない以上、単なる権利の放棄でしかないし、「投票所へ行くのも面倒」と言われてしまえば返す言葉もない。逆に言えば政治へ関心を向けなくて済むぐらい、我が国は平和で豊かなのかもしれない。だが、有権者を一方的に批判するのもいかがだろうか。近年は投票率の下落から期日前投票が以前より条件が緩和された。例えば沖縄県ならば県知事選、県議選は県内どこでも投票できるように工夫すればどうだろうか。これだけコンピュータやネットが普及して便利になっている現代である。勤務先の近所にある投票所でも投票できるようにすれば投票率は良くなるのではないだろうか。沖縄県ならば県外へ通勤する人はいないし、試験的に導入することも可能ではないだろうか。


2007年04月15日 パスタ&ヌードル

パスタ:あ、どうもどうも。お久しぶりです。
ヌードル:珍しく出演が続いたなぁ。
パスタ:今度はいつ出られるか、そない言うて、心配やったのに。出れて良かったわぁ。
ヌードル:ところでな、今日のネタ、知っとるけ。
パスタ:なんやの、急に。
ヌードル:今日の台本、読んだかって、聞いてんねん。
パスタ:あんた、台本なんか読んどんのかいな。
ヌードル:なんや、読んだらあかんのかいな。
パスタ:何言うてんの、あんた。うちらは、人気はなくとも、プロやで、そやろ。
ヌードル:そうや。うちらはプロやで。
パスタ:プロやったら台本は読まんの。
ヌードル:なんでぇな、プロやったら、台本読んで、暗記して、それに自分で味付けるのが、それがプロちゃうんかいな。
パスタ:ちゃうな。
ヌードル:違たら、どないなんが、プロ言うねん。
パスタ:まず、台本を手に取る。
ヌードル:台本手に取った。ほんで。
パスタ:台本の表紙にお題が書いてあるやろ。
ヌードル:表紙のお題やな。それをどないすんねん。
パスタ:ジッと見る。
ヌードル:ジッと見ました。
パスタ:そのお題から、中身を思い浮かべる。
ヌードル:思い浮かべました。
パスタ:そしたらやな、それを話したらええねん。
ヌードル:えぇ。ほな、中身は全く見んのかいな。
パスタ:そやで。プロっちゅうのは、そないなもんやで。台本書かはった、作家先生の性格とか、お客さんの年代とか、そないなもん、パッと見極めて、それであとは勝手に話す。そしてウケを狙う。これがプロやでぇ。
ヌードル:知らんやったぁ。
パスタ:あんた、何年この世界に居んねん。
ヌードル:何年やったかなぁ。ええぇっと。
パスタ:まじめに、指折って数えなや。ぼろ出るだけやで。
ヌードル:そやなぁ。
パスタ:ほんまにぃ。困った人やで。
ヌードル:ところでな、今日のお題、なんやったん。
パスタ:それがなぁ、表紙、真っ白やってん。
ヌードル:え、それじゃあ、今日のお題も分からんまま、舞台に立ってもうたんや。
パスタ:簡単に言えば、そやな。
ヌードル:難しい言うたら、どないなんねん。
パスタ:楽屋に入って、台本確かめようとしたら、表紙が真っ白やってん。作家先生に聞こうとしたら、携帯忘れてるし、メモ帳忘れてるし、えらいこっちゃ言うてる間に、順番回ってくるし、しゃあない、あきらめが肝心や、そない思て舞台に立ってまんねん。
ヌードル:チラッとでも、ページめくろう思わんかった。
パスタ:全く思わんかった。
ヌードル:そら余計困ったもんだ。
パスタ:て、言うか、あんたもページめくらんかったんやろ。
ヌードル:そやさかい、今日の台本読んだか、さっきから聞いとんねんや。
パスタ:二人揃って、台本も読まんと舞台立っとんのかいな。えらいことやで。
ヌードル:まぁ、そやけど僕ら夫婦ですで。夫婦漫才言うたら、夫婦の日常会話、それはそれでおもろいもんでっせ。今が旬でっせ。
パスタ:旬や言うけど、何年になる。うちら一緒になって。
ヌードル:えぇっと、何年やったかいな。
パスタ:また指折って数える。忘れたんかいな。
ヌードル:何年やったかなぁ、覚えてるか。
パスタ:覚えとるけど、言わんわ。
ヌードル:なんでぇな。
パスタ:言うたら年バレるやんか。
ヌードル:かまへんやんか。
パスタ:いや。絶対にいや。
ヌードル:ま、かまへんけどな。ここまでだけでも、結構おもろおまっしゃろ。
パスタ:そやけど、これも舞台の上だけでっせ。
ヌードル:そ、そうかなぁ。
パスタ:家帰ったらこないに喋りまっかいな。
ヌードル:そ、そうかなぁ。
パスタ:そらそうやんか。もう倦怠期でっせ。
ヌードル:そ、そうでもないと、思てたけどな。
パスタ:よう言うわ。最近、あんたに飽きてきてんねんで。
ヌードル:そら困ったで。えらいこっちゃ。浮気とか、せんとってや。
パスタ:それも考えたでぇ。最近流行りやんか。
ヌードル:何が流行ってんねん。
パスタ:携帯電話にな、エーメールって着いとるやろ。
ヌードル:それを言うなら、イーメールやろ。
パスタ:何でもええわ。それで適当に、メールしてやな、引っ掛かった相手と浮気すんねん。
ヌードル:イーメールをエーメール言う奴に、男来るかぁ。
パスタ:それが来たんやでぇ。
ヌードル:来たんかいな。うらやましいなぁ。
パスタ:あんたなぁ、うちが浮気して、なんでうらやましいねん。
ヌードル:だってうらやましいんだもん。
パスタ:ほな、教えたるわ。
ヌードル:な、何を。
パスタ:簡単な話やで。メールでな、うちと火遊びしまへんか。そない言うたら、皆来よるで。
ヌードル:火遊びか。いかにも危険な香りがすんな。
パスタ:ほんでな、マッチでロウソクに火ぃ着けんねん。
ヌードル:なんでチャッカマン使わへんねん。
パスタ:マッチの方が、雰囲気出るやんか。ほんでな。
ヌードル:ほんで、いざ、ベットルームやな。
パスタ:ちゃうねん。町内で一番大きな家行くねん。
ヌードル:そこのベットルーム借りるわけやな。大胆やなぁ。
パスタ:ちゃうやん。そこのな、裏庭にある、物置小屋にロウソクで火い着けんねん。
ヌードル:それって犯罪やん。無茶苦茶や。
パスタ:なんでぇな。うちの子が消防車見たい言うてたやんか。
ヌードル:僕らまだ、子供居らへんし。
パスタ:その内出来るやんか。
ヌードル:まだ先の話やんか。
パスタ:そない細かいこと、今はどないでもええねん。
ヌードル:大事なことやで。
パスタ:当然、警察も来るやろ。
ヌードル:そら当然やで。
パスタ:ほな、あんた突き出すねん。こいつが火ぃ着けました、言うて。
ヌードル:なんでや。
パスタ:ほな、うちは、新しい相方と一緒にベットルームへ行くねん。



2007年04月15日 雀のピーチクパーチク

ピーチク:おぉい、いてるか。
パーチク:えらい早いお帰りでんな。
ピーチク:早いも何も、どこから帰ってきたと思てんねん。
パーチク:もちろん、フィリピンへ行ってはったんちゃいまんのか。
ピーチク:誰がフィリピンへ行くねん。
パーチク:フィリピン行く言うて、そない言うてましたやんか。
ピーチク:そないなとこ、行くかいな。
パーチク:なんや、あれは嘘やったんですか。
ピーチク:わしはツバメちゃうねんで。そない遠くまで飛べるかいな。
パーチク:いやぁ、ピーチクさんやったら、飛びかねへんからねぇ。
ピーチク:もうフィリピンの話はええねん。
パーチク:と、言うことは、また、おもろい話おますんかいな。
ピーチク:無いことはないねんけど、ま、少し疲れたな。
パーチク:なんかおましたんですか。
ピーチク:あれや、そのフィリピンの元になったピュッルリ君なんや。
パーチク:もしかして、ピュッルリさんに振り回されはったんですか。
ピーチク:そないなんや。まぁ、疲れたわ。
パーチク:何があったんですか。
ピーチク:それがな、ピュッルリ君、帰って来んの遅かったやろ。それでな、相手見付けられへんかったんや。
パーチク:それは致命的に、痛いですね。
ピーチク:きみぃ、今の、致命的に痛い、って、なんか、言葉としておかしないか。
パーチク:そないなこと、突っ込まんで下さいよ。それより続きはどないなってんです。
ピーチク:兎に角な、相手探してやらなあかん、そない思てな、思い当たるところを当たってみたんや。
パーチク:あれ、おかしないですか。
ピーチク:何がおかしいねん。
パーチク:普通、僕らスズメは毎年、相手変えますやんか。そやけど、ツバメは毎年同じ巣に帰るんでしょ。と言うことは、相手も同じ巣に帰ってくるんちゃいますんか。
ピーチク:そこがわしの友達、ピュッルリ君や。毎年相手変えよんねん。
パーチク:浮気もんですやんそれって。
ピーチク:それを言い返されたらどないすんねん。
パーチク:先祖代々生き方がちゃいますもん。今更変えられまっか。
ピーチク:まぁ、無理やな。年中同じ顔見なあかんねんで。わし、飽きてまうわ。
パーチク:ピーチクさんには無理でしょうね。
ピーチク:そう言うきみはどないや。
パーチク:余程の美人や無いと、困っちゃうでしょうね。
ピーチク:きみも案外面食いやなぁ。
パーチク:それを言うたら、ピーチクさんもそないや無いですか。去年の相手、一昨年の相手、皆、人もうらやむ相手ばっかしや無いですか。
ピーチク:そら、あんた、年の功やで。
パーチク:なんですねん、それ。
ピーチク:そらあんた、見た目がようてもな、中身空っぽとか、性悪とか、色々おんで。気い付けや。
パーチク:僕らの話はどないでも宜しいねん。それで、ピュッルリさんはどないなったんですか。
ピーチク:ほんでな、ピュッルリ君、毎年若い子、口説いて、騙して、自分のもんにしとったやろ。
パーチク:口説くんは分かりますけど、なんで騙しまんねん。
ピーチク:そら、あれやで、結婚なんて、キツネとタヌキの化かし合いみたいなもんやで。
パーチク:そんなもんかなぁ。
ピーチク:きみは毎年、どないして相手を口説いてんねん。
パーチク:まず、縄張りを申告して、それから一日辺りの平均的な餌の収穫量でしょ。それから一日平均の稼働時間、これまで育てた子供の数、それから不作の時の対策とか、雨風対策とか、…
ピーチク:何をしとんねんきみは。それ、役所への申告みたいやんか。普通に口説かれへんのか。普通に。
パーチク:普通って、どないなんが普通ですねん。
ピーチク:きみの話はまた今度や。それよりピュッルリ君の話、どこへ行ってん。
パーチク:ピュッルリさんの話より、普通の口説き方、それを先に教えて下さいよ。
ピーチク:かなんやっちゃな、きみは。あんな、先にピュッルリ君の話済ますで。
パーチク:駄目ですよ。普通の口説き方が先ですよ。
ピーチク:それでな、ピュッルリ君にな、わし、知っとる子、紹介したってん。
パーチク:へぇ、それで。
ピーチク:その相手言うのがな、わしの従姉妹のチュンコさんやってん。
パーチク:ピーチクさんの従姉妹って、なんか人間っぽい名前ですやん。
ピーチク:なんでそっちで驚くねん。普通、ツバメとスズメという、種の違いで驚かへんか。
パーチク:なんで僕らがピーチクとか、パーチクとか、そないな名前やのに、ピーチクさんの従姉妹が、チュンコなんですか。
ピーチク:知るかいな。名前付けた奴に文句言ってくれや。
パーチク:誰が名前付けたんですか。
ピーチク:誰って、チュンコさんの親に決まっとるやんか。
パーチク:チュンコさんの親って、どこに住んではるんですか。
ピーチク:住所まで聞いてどないすんねん。
パーチク:決まっとるやないですか。直接聞いてくるんですよ。
ピーチク:わしでこの年やで。チュンコさんの親、幾つや思てんねん。
パーチク:あぁ、そうか。老人ホームですね。行ってきますわ。
ピーチク:ちょっと待てよ、おぉい。行ってもうた。なんで老人ホームなんて発想が出来んねやろ。アホらし、帰ろっかな。
パーチク:ピーチクさん、ピーチクさん。
ピーチク:あ、帰ってきよった。老人ホーム行って、どないやった。
パーチク:いやぁ、お年寄りがようさん居って、探し出すのに苦労しましたわ。
ピーチク:えぇ!!
パーチク:なんでそないに驚きますねん。
ピーチク:チュンコさんのご両親、健在やったんかいな。
パーチク:そりゃ、探し出すのに苦労しましたもん。チュンコさんのご両親はどなたでっか、そない言うて、聞いて歩いたら、わてもわてもと、皆が皆まで、手え挙げますさかい、どれがほんまもんや、根掘り葉掘り、聞き出して一番正しい人、見付けんのに苦労しましたわ。
ピーチク:おかしいな。わし、確かに、チュンコさんのご両親の葬式出たで。
パーチク:そないなこと言われたら、僕が今会って来たんわ、誰ですねん。
ピーチク:それが分からんのや。
パーチク:一体僕は誰に会うてきたんや。
ピーチク:一人で悩んどき。アホらしなってきたわ。帰ろっと。
パーチク:帰らないでぇ。一緒に悩んでぇ。



2007年04月07日 カクテルインク

 文具店で配布されているBun2というフリーペーパーがあります。どこの文具店でも置いてある、まだそう言うわけでもなく、大型店のみと言ったところでしょうか。偶数月発行なので奇数月には見かけないこともあり得るかもしれない。
 それは兎も角、今年二月のBun2は万年筆特集、最新の万年筆事情を読んでいたら「カクテルインク」の記事が載っていた。
「何、これ?」
 そういう感じで記事を読み進む僕、要するに好きな色のインクを調合して下さるという内容、これは是非、そう思っていたのだが、三月下旬に阪急梅田店へインクブレンダーの石丸さんが来店された日は大雨、本社での研修、そして風邪という条件が重なり、「次の機会はいつだろう」と思いつつ、僕は本社からまっすぐ帰宅した。
 その後、気持ちは半泣きの状態で石丸さんが次はいつ近畿圏へ来られるか、それをネットで調べ、石丸さんが昨日と今日の二日間だけ三ノ宮の文具店へ来られることを知り、今日は朝から三ノ宮へと足を伸ばした次第です。
 久しぶりの神戸、ネットで取り出した地図を片手に大型文具店を訪ねました。
 三ノ宮駅前、震災の傷跡は見えなくなっていましたが、気付かなかっただけでしょうか。
 文具店の入っている書店もまた大型、思わず「でかっ!」と独り言、店に入ると一人待ちの状態、しかもその一人がどこへ行ったか行方不明、そう言うわけで一人抜き、隙間に飛び込んだ形で好きな色を作ってもらいました。
 好きな色。
 水色、空色、どの様に表現したらよいのでしょうか。
 白に映える薄い青、琉球新報のH.P.のトップページで使用されている青、印刷して持って行きました。
「この色を作って下さい」
 すると石丸さんから「名前を考えて下さい」と言われた。
「え、名前」
 名前なんて考え付かなかった。
「会社名、使ったら悪いかなぁ」
 僕は軽く言う。すると石丸さん、「個人で使うから、いいんじゃないですか」と言った感じで答えて下さった。だから僕の青は「琉球新報」と言う名前になりました。
 琉球新報から苦情が来たらどうしよう…
 僕の机の引き出しには以前購入したブルーブラックのインク瓶が一つ、未開封の状態で出番を待っている。このブルーブラックを使った後、僕の「琉球新報」が開封されるわけだ。だからもう少し僕の万年筆はブルーブラックのインクとなる。
 これを書きながら僕は「琉球新報」の封を切った時、最初に使うのは琉球新報への投稿にしようかな、そう思った。



2007年04月03日 雀のピーチクパーチク

パーチク:あ、ピーチクさん、久しぶりですやんか。どないしとったんですか。
ピーチク:言われてみれば、きみに会うんも、久しぶりやな。どないしとったんや。
パーチク:どないもこないも、ピーチクさんおらんさかい、退屈でしょうなかったですわ。
ピーチク:そら済まんかったな。わしも色々とあったんや。
パーチク:その、色々って、なんですねん。
ピーチク:話せば長うなるで。
パーチク:知ってますでしょ。どうせ僕らは暇なんですから。
ピーチク:実はな、ピュッルリ君が帰ってきよったんや。
パーチク:あぁ、あのわけ分からん、越冬ツバメ失敗した、あのピュッルリさんですか。
ピーチク:そうなんや。
パーチク:でも、帰ってくんの、遅過ぎやしまへんか。うちの近所、随分前からツバメ、飛んでまっせ。
ピーチク:そやろ。実はな、ピュッルリ君、この冬は、フィリピンまで行って、越冬しとったらしいわ。
パーチク:そらまた、偉い遠くまで行っとったんですね。
ピーチク:ほんでな、ピュッルリ君、わしの友達だけあって、物好きやろ。他の連中と離れてな、奥地の方へ入ったらしいわ。
パーチク:それで、帰ってくんの、遅なったわけですな。
ピーチク:ことは、そう単純やないねん。
パーチク:どない複雑ですねん。
ピーチク:例年やとな、ピュッルリ君、沖縄の石垣島とかな、与那国島とか、台湾辺りで、冬を越しおんねん。
パーチク:それが今年は、フィリピンやったと。
ピーチク:ピュッルリ君な、フィリピンの言葉、全く分からへんねん。
パーチク:それが、どないしたんですか。
ピーチク:石垣島とかな、与那国島で冬過ごす時な、テレビとか、ラジオ聞いてな、大阪の天候、暖こなったな、そない思たら、帰ってきてたらしいわ。
パーチク:台湾の時は、どないしとったんですか。
ピーチク:土地のツバメに聞いたりな、日本の衛星放送とか見たり、他のツバメが北を目指したら、合わせて帰ってきとったらしいわ。
パーチク:一介のツバメが、衛星放送、受信しとったんですか。
ピーチク:ちゃうやんけ。日本の衛星放送受信しとる、家かどっかに入り込んどっただけやんけ。
パーチク:ほいで、なんでまた、言葉分からん土地へ行かはったんですか。
ピーチク:それがよう分からんけどな、行きたいな、そない思たらしいわ。
パーチク:難儀な話でんな。
ピーチク:ほんでまた奥地やろ。日本の天候なんか、分かるわけないやんけ。
パーチク:そやけど、よう帰ってこれましたな。
ピーチク:ある時な、カレンダー吊ってある家の前、通ったらしいわ。ほんで気い付いたら、三月も半ばや、えらいこっちゃ、気い付いて、慌てて日本帰ってきたらしいわ。
パーチク:気い付いて良かったですね。
ピーチク:そやけどな、ピュッルリ君、あれやねん。下らんことにすぐ、影響されるたちやねん。
パーチク:ほな、フィリピンでわけの分からんことに首突っ込んだんですね。
ピーチク:そやねん。なんや、思う。
パーチク:全く、見当も付きまへん。
ピーチク:そやろな。
パーチク:なんですねん。
ピーチク:あれや、ピュッルリ君な、昔っから、伝書鳩に憧れとってん。ほんでな、一度でええから、郵便咥えて飛んでみたかってんな。
パーチク:それとフィリピンと、どない繋がりますねん。
ピーチク:そこや。フィリピンでな、反政府ゲリラが、おってんて。
パーチク:なんか、やばそうな話ですね。
ピーチク:ある時な、ピュッルリ君、ゲリラの書いた手紙を咥えて、数メートル先まで届けたらしいわ。
パーチク:よう撃たれまへんでしたな。
ピーチク:ほんでな、信頼されて、手紙届ける係になったらしいわ。
パーチク:伝書ツバメの第一号ですね。そやけど、なんで言葉分からへんのに、そないな大役を仰せつかったんでしょうね。
ピーチク:知るかいな。伝書鳩かて、人間は鳩の言葉なんか、きいとりゃせんやんか。
パーチク:確かにそれはそうですが。
ピーチク:兎も角、ピュッルリ君、張り切って目的地目指して飛んでいったそうや。
パーチク:そやけど、言葉は分からん、地理も不案内、それでよう目的地が分かりましたな。
ピーチク:そないに細かいことは突っ込みなや。話余計ややこうなる。
パーチク:それで目的地についてどないかなったんですか。
ピーチク:それなんや。目的地に着いたらな、ゲリラと正反対、奇麗な制服着たおっちゃんがようさんおったらしいわ。
パーチク:貧富の差が激しい言うて、聞いてはおましたけど、えらい極端ですな。
ピーチク:ピュッルリ君な、実は、ゲリラの裏切りもんから、政府軍の偉いさん宛の手紙、握らされとったんやんか。
パーチク:うわっ、最悪。
ピーチク:ほんでな、政府軍の偉いさん、言うたらしいわ。このツバメ、手紙の中見知っとるかもしれへん。殺せ、って。
パーチク:人間が、罪のないツバメを殺そうとしたんですか。
ピーチク:ほんでな、ピュッルリ君、這々の体で、逃げ出してきたらしいわ。
パーチク:そら散々でしたな。
ピーチク:フィリピン中にな、ピュッルリ君の手配写真が貼られたらしいわ。
パーチク:いくら何でも、そら嘘ですわ。
ピーチク:嘘言うたりなや。本人がそない言うてんねんで。
パーチク:人間がわざわざ、ツバメの手配写真つくりますかいな。
ピーチク:そやかて、フィリピン言うたら、大統領夫人が、靴三千足、集めるような土地やで。
パーチク:一体いつの話ですねん。やっぱ、嘘ですって。
ピーチク:よっしゃ、わしと一緒に、フィリピンまで確かめに行かへんか。
パーチク:もう宜しいわ。帰ろっと。
ピーチク:いいもん。わし一人でも、フィリピン行ったるわ。



2007年04月01日 花見…

 近所に摂津峡公園という公園があり、久しぶりにカメラを持って行ってみました。しかし、花を愛でるなどと言う風流な言葉はどこ吹く風、多くの人は花見という名の宴会をなされていました。
「桜の花を楽しんでおられますか?」
 思わず聞きたくなる人が多数、かなり場違いな人もいます。
 私も聖人君子ではありませんから偉そうなことは言えませんが、日本人なら桜ぐらい、ゆっくり堪能しましょうよ。
 カメラ、久しぶりにピントを合わせたりしたのですが、また腕が落ちました。元々下手でしたが、さらに腕が落ちています。
 来週もお休みです。私用で神戸へ行こうと思っていますが、その時も愛機と一緒に行こう、そう決めています。



2007年03月18日 挨拶文 三月十八日

 三月も半ばを過ぎたのにまだ気温は冬並み、小雪も舞っています。
 暖冬のはずなのに何故か、寒くて朝が起きにくい日々が続いています。
 本来ならば桃花が咲き乱れ、桜花が待ち遠しい時期のはずですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?
 僕は今の職場から新しい辞令を交付され、気持ち的には「春」と言いたい処ですが、素直な話、まだ「春」と言い切って良いのかどうか、ちょっと表現に困っています。
 これから少しずつ暖かくなるように僕自身にも暖かい人生の「春」が来たらいいな、そう感じています。
 この時期は新しいことを始める季節でもあります。
 このH.P.を訪ねて下さった皆さんにも新しいこと、良いことがありますように。



2007年03月14日 琉球新報に採用された投稿

 三月四日、神戸市内において不発弾処理が行われたことは沖縄県でも報じられたことだろう。発見された場所が市街地のため、避難対象は約四五〇〇世帯、約一万人となった。沖縄県内では現在でも不発弾が発見され、その都度処理が行われている。昨年だけでも五十件近かったのではないだろうか。今回のように不発弾自体が大きく、避難対象地域や人数が大きければ全国へ向けて報じられるのだろうが、避難する人数が少ない場合、県内紙でも社会面に数行の記事で済まされている。しかし、戦後六十年以上を経た今でも沖縄県で不発弾処理が年に数十回も行われていることをどれだけの人が知っているのだろうか。例えば半年に一回でも県外で沖縄県内での不発弾処理の件数を報じるだけでも人々の意識は変わってくると思う。しかし、残念ながら県外の主な報道機関は視聴率が稼げる派手な事件、事故が中心であり、誰も傷付かない不発弾処理に関心を持つかのか、不安でもある。


2007年03月12日 雀のピーチクパーチク

パーチク:ピーチクさん、ピーチクさん、大丈夫ですか。
パーチク:なんか、言うて下さいよ。
パーチク:もし、もし、ピーチクさん。困ったなぁ。その変なもん、はずして下さいよ。なんや、もごもご言うとるだけで、何言うてるや、さっぱりですわ。
パーチク:ピーチクさあぁん。
ピーチク:あぁ、苦しかった。
パーチク:何を着けとったんですか。
ピーチク:あぁ、これか。これは何や、人間も使とる、マスク言う奴や。
パーチク:僕ら用が、よう有りましたな。
ピーチク:真似して作ってみたんやけど、合わんかったな。
パーチク:くちばし全部おおってたら、ちょっと大変でしょ。
ピーチク:ちょっとどころや有らへん、話も出来んわ。
パーチク:なんでまた、そないなもん、作らはったんですか。
ピーチク:なんや、今は妙な病気が流行っとるさかいな。気い付けなあかん、そない思てな。用心のためや。
パーチク:あぁ、そう言えば、鶏が次から次へと、流行病でやられてまんな。
ピーチク:そやろ。そやさかい、気い付けとかな、あかんやろ。
パーチク:そやけど、そないなもんで防げまっか。やっぱり、うがいとか、手洗いとか、そう言うもん、基本でっせ。
ピーチク:なんや、今日はわしの方が教えられるとがな。
パーチク:そないなつもりはおまへんけど、なんや、そないな言い方されたら、困りまんがな。
ピーチク:そやけど、今度の流行病には、困ったもんやで。
パーチク:確か、インフルエンザ、そないな名前でしたな。
ピーチク:人間はそない言うとるけどな、わしらはちゃうで。
パーチク:ちゃうんですか。
ピーチク:ちゃうがな。わしらは、チュンフルエンザ、言わなあかんのや。
パーチク:言わなあかんのですか。
ピーチク:なんでわしらが、人間に合わさなあかんのや。チュンフルエンザでかまへんやんか。
パーチク:まぁ、言われてみれば、納得できるような、出来んような。
ピーチク:まぁ、慣れへんかったら、インフルエンザでもかまへんけどな。
パーチク:それはそうと、万が一、チュンフルエンザにかかったら、どないしたら宜しいんでっか。
ピーチク:そらあんた、簡単な話、薬飲んで寝るに限るで。
パーチク:薬ですか。そないなもん、どないして手に入れるんですか。
ピーチク:保健所の前行ってな、苦しそうにしとったら、保健所のおばはんが、気にしよるやろ。ほんでな、チュンフルエンザや、気い付いた途端、薬飲ましてくれよるで。
パーチク:その前に、処分されそうで恐いですわ。
ピーチク:そうかと思てな、持ってきたで。
パーチク:なんでっか、その薬。
ピーチク:人間がチュンフルエンザの薬言うて、大事にしとる、タミフル言うねん。
パーチク:よう、そないなもん、持ってまんな。
ピーチク:人間な、アホやさかい、手に入れるの、簡単やったわ。
パーチク:どないして、手に入れはったんですか。
ピーチク:あれは、去年の夏のことや。毎日毎日、病院のな、調剤室言うところの窓でな、チュンチュン、言うて、鳴いとったんや。ほな、人間アホやさかい、人なつっこい、雀や言うて、油断しとったんや。ほんで窓開けっ放しやろ。手当たり次第に薬もろたったわ。
パーチク:ほんで、その中に、タミフルがあったんですな。
ピーチク:そう言うこっちゃ。そやけどな、問題も有んねん。
パーチク:なんですねん。
ピーチク:これ、人間用やろ。わしらが一個丸々飲んだら、どないなるか分からへんねん。
パーチク:ほな、突っついて、細こうしはったらどないです。
ピーチク:それ、ええ考えやな。ほな、早速試してみよか。
パーチク:待って下さいよ。まだ、チュンフルエンザにもなってないのに。飲んで大丈夫でっか。
ピーチク:そうやったな。今飲んでも意味ないな。ほな、チュンフルエンザになるまで待っとこか。
パーチク:いつなるんですか。
ピーチク:今日か明日か、はたまた来シーズンか、運良くならへんか。
パーチク:それやったら、持っててもしゃあないですやんか。
ピーチク:そないなこと言いなや。苦労して手に入れたのに。
パーチク:今飲んでみて下さいよ。
ピーチク:チュンフルエンザでもないのに、飲んだらどないなんねん。
パーチク:それが見たいんじゃないですか。早、早、早、飲みなはれ。
ピーチク:そないに言うねやったら、あんたが飲みなはれ。
パーチク:何を言うてまんねん。ピーチクさん、さっきうっかり飲もうとしてましたやんか。そのまま飲んで下さいよ。
ピーチク:無茶言うわ、ほんまに。かなわんわ。逃げよ。
パーチク:あぁ、逃げてもうた。おもんな。帰ろ。



2007年03月11日 琉球新報へ投稿して不採用…

 今年に入ってから福地ダムでペイント弾が発見、回収されて以降、私としては次に何が出てくるのか、気になって仕方がない。ペイント弾が発見された福地ダムは県民の水瓶であり、水質が問題視されるのは当然のことである。しかし、それだけでいいのかな、そう言う思いも浮かんでしまう。在沖海兵隊が海外で演習するとそこでもペイント弾を使用する。参加した軍艦や水陸両用車にはペイント弾の跡が残っている。当然、その汚れは県内の各基地で洗い流すことになるのだろうが、その際の汚水は一体どこへ行くのだろうか。また北部訓練場でもペイント弾を用いられているだろうし、その薬莢や流れ弾となったペイント弾の処理はどの様になされているのだろうか。ここまでずさんな米軍のことである、環境に配慮して適切な処理を行っているとは思えない。今回の事件を機会にして米軍が山原の自然に対してどの様な配慮をしているのか、確かめてみてはどうだろうか。


2007年03月10日 医療費の明細書から

 職場にて頂きました医療費の明細書、自己負担が三割だか何だか、あとの七割は会社の負担になるのだが、改めて気が付いた、医療費ってとんでもないね。今回頂いた明細は一昨年の十二月から去年の十一月までだが、歯科二回に病院三回である。以前に比べると身体が弱くなったのか、年三回も風邪で病院へ行っている。
 病院で貰える薬って本当に良く効くし、早ければ一日で治る。下手に長引かせて誰かに伝染させることを考えたら割高でも医療機関を利用した方がいいのだろうか。それとも市販の薬と有りもしない根性とか気合いとか、そう言う精神的な物を利用して治す方がいいのか、医療費の明細書を見ながらそう言うことを考えてしまった。
 しかし、治らない時は治らないわけだし、休んで皆に迷惑を掛けることを考えたら医療機関を利用すべきなのだろう。
 へ、俺一人休んでも会社は潰れない?
 確かにそりゃそうだろうけどさ、でも、風邪ぐらいで休みたくないじゃん。毎朝、元気よく「おはよう」って言いたいじゃん。例えそれが「風邪ひいたかも」と言う前置きが付いたとしても…



2007年03月06日 ナナちゃんと全自動ナナちゃん

 ある夜、ナナちゃんがお休みしようとして歯を磨いていると誰かが戸を叩きます。
 どんどこどん。どこどこどん。どんどんどこどこどん。
 この変な戸の叩き方は一人しかいません。
 戸を開けると全自動ナナちゃんが泣いていました。
「エーン。エーン」
「どうしたの」
 ナナちゃんが全自動ナナちゃんに聞きます。
「病院のお友達がね、お星様を取って来てっていうの。だから、病院の屋上で梯子をかけたけど届かないし、石を投げたけど届かないし、どうしたらいいの。エーン。エーン」
 全自動ナナちゃんはまた泣き出しました。
 ナナちゃんはバスタオルで全自動ナナちゃんの涙を拭きながら言いました。
「もっと、高いところへ行けばいいのよ。病院の屋上より、高いところよ」
 ナナちゃんはわびあい幼稚園の黄色い帽子を被り、空色のスモックを着て全自動ナナちゃんと一緒にお外へ出ました。
 てくてく。てくてく。
 ナナちゃんは近くにある公園のお山に登ってみました。
「ナナちゃん。ナナちゃん」
 全自動ナナちゃんがナナちゃんに聞きました。
「ナナちゃん。ここって、病院の屋上より、低いんだけど」
 ナナちゃんは顔を真っ赤にして次の目的地へと向かいました。
 わびあい幼稚園は夜ですから、正門は閉まっていました。
「ナナちゃん。ナナちゃん。ここも病院の屋上より、低いんだけど」
 わびあい幼稚園は平屋です。
「そっか。東京タワーじゃないと、駄目かぁ」
 ナナちゃんは独り言を言います。
 ナナちゃん、それって、ちょっと違うと思うんだけど…
「どうしよう。明日になったら、どうしよう」
 全自動ナナちゃんはまた泣き出してしまいました。
「仕方がない」
 ナナちゃんは決意しました。
「富士山へ登ろう」
 ナナちゃん、それって、かなり見当違いじゃありませんか?
 ナナちゃんはおうちに帰って三輪車の用意を始めました。
「よぉし。これで富士山へ行っちゃうぞ」
 全自動ナナちゃんがナナちゃんを止めます。
「無茶だよ。富士山って、新幹線で行かないと、間に合わないよ」
 ナナちゃんと全自動ナナちゃんは途方に暮れてしまいました。
 おや、何かが飛んできました。
「あ。お星さんが飛んでる」
 全自動ナナちゃんがお星さんを追い掛けようとします。
「でも、ちょっとまって」
 お星さんが点滅しています。
「これって、蛍だよ」
「え?」
 全自動ナナちゃんが立ち止まります。
「蛍って、初めて見たよ」
 全自動ナナちゃん、どうやら蛍は初めてのようです。
「そうだ」
 ポンッとナナちゃんが手を打ちました。
「どうしたの」
 全自動ナナちゃんが聞きます。
「蛍を捕まえて、病院へ連れて行こうよ」
 ナナちゃんと全自動ナナちゃんは二人して蛍を捕まえようとしますが、なかなか上手く行きません。それに虫かご、用意してないし…
「エーン。エーン」
 全自動ナナちゃんがまたまた泣き出しました。
「明日までに、お星様を持って帰るって、約束したのに」
 ナナちゃんがお説教を始めました。
「あなたねぇ、出来ない相談をしちゃ行けませんって、いつも言われてるでしょ」
 そら、あんたもだろ。
「お星様どころか、蛍も捕まえられないよ」
 ついにナナちゃんも「エーン。エーン」と泣き出してしまいました。
「あんたたち。こんなところで、何をしとるのか」
 おや、これはこれはわびあい幼稚園の園長先生、どうしてここへ?
「あんたたちの姿が見えない、そう言って、皆が探している。早く帰りなさい」
 ナナちゃんと全自動ナナちゃんは泣きながら園長先生にわけを話しました。
「そんなことなら、何故、早くに相談をしないか」
 園長先生は持っていた携帯電話でどこかへ電話を始めました。
「明日の昼、病院のお遊戯室へ、星を持って行く」
 園長先生はきっぱりと言いました。
「だからあんたたち、今夜は、もう帰りなさい」
 ナナちゃんと全自動ナナちゃんは嬉しくなりましたが、でも、お昼にお星様を持って行くことが出来るのでしょうか?
「園長先生、本当に大丈夫?」
 ナナちゃんと全自動ナナちゃんは声を揃えて聞きました。
「嘘をつくと、病院で舌を抜かれるよ」
 全自動ナナちゃんが付け足します。
「何を言うか。わびあい幼稚園の創立者である、偉大なアハゴン様は…」
 園長先生の長々とした演説が始まりました。
 ナナちゃんと全自動ナナちゃんは園長先生をほったらかして家へ帰りました。
 翌日。
 ナナちゃんと全自動ナナちゃんが病院のお遊戯室へ行くと中は真っ暗でした。
 真ん中には大きな機械が一つ置いてあります。機械の周りには入院中のお友達や通院のお友達が座っています。ナナちゃんと全自動ナナちゃんは隅っこに座りました。
 突然。
 天井に幾つも星がきらめきました。
 そうです。プラネタリウムです。



2007年02月28日 琉球新報に採用された投稿

 冬の夜は比較的静かなのかもしれません。
 週末、夜更かしでもしようと遅くまで起きていると時折、やや甲高く感じる音が耳へ入ってきます。国内線が運航を終えている時間帯、「国際線かな」と思ったりするのですが、どうなのでしょうか。
 私達の国には米軍機の低空飛行訓練のルートとしてパープル、イエロー、ブラウン、オレンジ、ブルー、ピンク、グリーンと色で呼ばれる七つがあると言われている。また専門家によれば他に北方ルートが複数あるとも言われている。しかし、これらは全て米軍の公式発表ではなく、民間の調査によって明らかにされたことであり、正確に米軍機がどの様なコースを飛行しているのかは未だ詳らかではありません。これらのルートは訓練の他に基地間の移動にも利用されている言われています。
 私の住む大阪府高槻市に一番近いルートはオレンジとブラウンの二つがあります。「近い」と表現しましたが、オレンジは奈良県と和歌山県の県境の山間部から紀伊水道、四国を経て瀬戸内海へと抜けます。またブラウンは京都府北部と兵庫県北部の県境から中国山地を進んで岩国基地の近くへと抜けるルートです。仮に岩国基地から厚木基地へ向かう米軍機がブラウンルートを利用した場合、ルートを抜けた後、確実に急上昇して高々度へ行くのでしょうか。少なくとも深夜なら私達が目視することは不可能でしょうし、天候や風向きの影響で国際線の発する騒音が偶然、爆音に聞こえたと思えば言われればそれで納得してしまいます。
 日本の空はほぼ全てが米軍最優先、民間機は米軍機の合間を縫っているのが現状です。仮に今夜、米軍機が我が家の真上へ墜落しても驚くには値しないわけです。
 名護市に住んでいた五年半の間、幾度となく米軍機の低空飛行に接してきました。しかし、それ以上に驚いたのは米軍機の低空飛行への関心が低かったことです。誰も本土のように観測して米軍機の種類や飛行ルートを確かめようとはしなかった。これは嘉手納や普天間が集中している中部と北部の低空飛行に対する温度差なのかもしれない。
 米軍機は輸送機やヘリなど種類を問わず、絶えず名護市民の真上を飛行していたにも関わらず、誰も抗議行動を起こそうとはしなかった。確かに普天間代替施設の問題へ全力を注ぎ、他の問題に目を向けられないのは確かだろう。そして北部では時折、米軍ヘリが民間地へ不時着をするだけで済んでいるかもしれない。だが、仮に宮森小学校と同じ悲劇が発生した時、米軍を一方的に非難するだけで済まされるのだろうか。
 今からでも遅くないと思います。時々、耳を澄まし、空を見上げて欲しい。その場に似つかわしくない、何かを見付けることになるでしょう。



2007年02月17日 黄色という色、あれこれ

 十六日の昼休み、久しぶりに黄色い新幹線を見た。東へ向かう姿がチラッと見えただけだったが、それでも見たことに変わりはない。
 黄色、実は好きな色であり、また嫌いになった色でもある。
 黄色、オーストリアの首都ウィーンにあるシェーンブルン宮殿は外壁が黄色である。その名もマリア・テレジア・イエローと言われている。シェーンブルン宮殿の建設を命じたマリア・テレジアは黄色が好きだったから外壁の色を「黄色」と指定したに過ぎないが、十代の頃はマリア・テレジアに関心を持っていた僕は黄色という色が好きになった。
 黄色は金色に近いことから中国では皇帝しか身に付けられない、そう言う色でもありました。
 また映画のタイトルにもあるように幸福の色でもあります。
 他に革新共闘の色でもあります。
 だから三着持っているかりゆしウェアは全部黄色の生地である。
 でも、去年の一時期、黄色という色がすごく嫌いだった時期がある。
 その理由、単に嫌いな奴が黄色い車に乗っていた、たったそれだけである。たったそれだけのために好きな色すら否定していた自分がいる。
 黄色という色には何一つの罪もないのに。



2007年02月17日 ナナちゃんと全自動ナナちゃん

 ある朝、ナナちゃんがわびあい幼稚園へ行こうと着替えていると誰かが玄関の戸を叩きます。
 ドンドンドン、ドンドコドン、ドコドコドン。
 変な叩き方です。
「誰だろう」
 ナナちゃんはそっと戸を開けてみるとどこかで見たことのある女の子が立っていました。
「あなたは、だあれ」
 ナナちゃんは聞きました。
「私は、全自動ナナちゃん。一緒に幼稚園へ行こうよ」
 そうです。ナナちゃんにそっくりな女の子が立っていたのです。
「私にそっくり」
 ナナちゃんは驚きました。
 幼稚園の黄色い帽子も空色のスモックも同じです。
 プップー。
 幼稚園の通園バスがナナちゃんの家の前に来ました。
 ナナちゃんと全自動ナナちゃんは一緒にバスに乗りました。
「あっ、ナナちゃんが二人になってる」
 バスに乗っていたお友達は皆、驚いています。たまえ先生も目を丸くしています。
 バスは幼稚園へ着きました。
 たまえ先生が出席をとります。
「ナナちゃん」
「はーい」
 全自動ナナちゃんがナナちゃんよりも先に手を挙げました。
 歌を歌うと全自動ナナちゃんは皆よりも上手です。
 ダンスをしても全自動ナナちゃんが皆よりも上手です。
 絵を描くと全自動ナナちゃんは皆よりも上手です。
 かけっこをしても全自動ナナちゃんが皆よりも早いんです。
 給食も全自動ナナちゃんが皆よりたくさん食べます。
 あっ、ナナちゃんのパンも食べちゃった。
 幼稚園のお友達は皆、全自動ナナちゃんと遊びます。
 ナナちゃんは面白くありません。教室の隅っこで独りぼっちになってしまいました。
 お昼寝をすると全自動ナナちゃんはひどいいびき。皆、寝れませんでした。
 夕方になりました。
 通園バスに乗って皆、おうちに帰ります。
 全自動ナナちゃんはどこへ帰るのでしょう。
 大きな大きな病院の前で通園バスが停まります。
 全自動ナナちゃんはここでバスを降りました。
「ナナちゃん、バイバーイ」
 全自動ナナちゃんは大きな大きな病院の中へ入っていきました。
「待って」
 ナナちゃんは全自動ナナちゃんを追いかけていきます。
「痛い痛い注射をされちゃうよ。苦い苦いお薬を飲まされちゃうよ」
 全自動ナナちゃんはてくてくと階段を登っていきます。
「待ってよ」
 ナナちゃんは全自動ナナちゃんを追いかけますが、追い付きません。
 全自動ナナちゃんはどこへ行ったのでしょう。
「ナナちゃん、ナナちゃん。全自動ナナちゃん」
 ナナちゃんは全自動ナナちゃんを捜して大きな大きな病院の中をあっちへ、こっちへ駆けて回りました。
「おや」
 ナナちゃんは耳を傾けます。どこからか、歌声が聞こえてきます。
 歌声のする方へナナちゃんは歩いていきます。
「あっ、全自動ナナちゃんの声だ」
 大きな大きなお部屋から全自動ナナちゃんの歌声が聞こえてきます。
 そこはお遊戯室です。
「病院に、お遊戯室?」
 ナナちゃんは不思議に思いました。
 そっとお部屋の中を見てみます。
「誰か、こっちを見てるよ」
 パジャマを着た男の子がナナちゃんを指差します。
「あっ、全自動ナナちゃんとそっくりだ」
 ナナちゃんはようやく全自動ナナちゃんと会えました。
 そうなんです、全自動ナナちゃんは入院している皆のお友達だったのです。
 全自動ナナちゃんは入院をしていて幼稚園へ行けないお友達の遊び相手でした。今日は入院中のお友達に頼まれて幼稚園の見学へ行ったのです。
 全自動ナナちゃんは入院中のお友達にわびあい幼稚園での一日をお話ししました。そしてナナちゃんと全自動ナナちゃんは入院中のお友達と一緒に歌ったり、踊ったり、お絵かきをしたりしました。



2007年02月17日 ナナちゃん物語

 ある日ある時あるところにわびあい幼稚園がありました。
 今日も今日とてガミガミ、ガミガミ、またガミガミとたまえ先生の怒る声が聞えてきます。
 わびあい幼稚園に通っているナナちゃんは思いました。
「たまえ先生って、ずうっとガミガミ屋さんだったのかなぁ」
 そこでナナちゃん、園長先生に聞いてみました。
「園長先生。園長先生。たまえ先生って昔っからガミガミやさんだったの?」
 園長先生は笑って言いました。
「いいえ。たまえ先生はね、子供の頃は、それはそれはウーマクーで、困った子だったんですよ」
 園長先生はたまえ先生の子供の頃のお話をしてくれました。

 ずっとずっと昔のことです。
 たまえ先生、否、たまえちゃんはそれはそれはウーマクーでした。
 近所ではたまえちゃんの歩いた後には草木もはえないと言われ、ガキ大将でさえ、たまえちゃんを避けて歩いていました。
 ある日、たまえちゃんはいつものようにどろんこになって帰ってきました。今日は特に得意になっています。どうしたのでしょう?
 たまえちゃんは電信柱の影に隠れていたガキ大将を見つけて言いました。
「私ねっ、キツネとタヌキを化かしたんだよ!!」
 ガキ大将は驚いて言葉も出ませんでした。
 その日、たまえちゃんはいつものように朝から野山を駆け巡っていました。するとガキ大将とその仲間達が顔を真っ青にして走ってきました。
「お化け〜」
「たすけて〜」
 どうやらお化けが出たようです。でも、たまえちゃんはお化けなんか信じません。
 ガキ大将とその仲間達が逃げてきた方向へたまえちゃんは歩いていきました。すると確かにお化けが二人いました。お化けは笑っています。でも、たまえちゃんも笑いました。
「しっぽが見えてるよ」
 お化けは驚いて振り向いています。
「見えて無いじゃないか」
 お化けがたまえちゃんに文句を言いました。
「あなた、お化けじゃないでしょ」
「お化けだってば。ほらほら、怖いだろ」
「怖くないってば。どうして、しっぽが見えてるの」
「だから、しっぽなんてないってば。どうしてしっぽにこだわるの」
「だって、さっき見えてたもん」
「見えてないってば」
「急いで隠したでしょ。だから見えてたもん」
「隠してないってば。元から無いんだもん」
「ふぅん。じゃあ、どうして昨日までここにいなかったの」
「いたよ」
「私、いっつもこの辺で遊んでいるのに、お化けになんか、会ったこと無かったのに」
「今日から毎日出るんだよ」
「お化けって、夜に出るんじゃないの」
「だって、夜になるとお母さんが、早く寝なさいって言うから」
「へえ、お化けにもお母さんがいるんだ」
「そらそうさ。お母さん、うるさいんだ」
「大変ね。お化けも夜、寝るんだ」
「そらそうさ。早起きしないとお父さんに怒られるんだ」
「そう言えば、この辺にキツネのコンちゃんと、タヌキのポンちゃんがいるんだけど、知らない?」
「知ってるよ」
「どこにいるの?」
「今は居無いよ」
「どうして?」
「居無いんだってば」
「だから、どうして?」
「居無いのは、居無いの!」
「エーンエーン」
 突然、たまえちゃんは泣き出しました。
「たまえちゃん、どうして泣くの」
 二人のお化けはたまえちゃんを慰めます。
「だって、だって、コンちゃんやポンちゃんがいないよぉ」
「困ったなぁ」
 たまえちゃんは座り込んで泣いています。
「たまえちゃん、僕たちだよ」
 二人のお化けはいつの間にかキツネのコンちゃんとタヌキのポンちゃんになっていました。
「あ、やっぱり」
 たまえちゃんはニコニコしています。
「あっ。たまえちゃん嘘泣きしてた。ひどいよぉ」
 お化けの正体はコンちゃんとポンちゃんでした。
「皆に言ってやろ。お化けの正体は、コンちゃんとポンちゃんだって、言ってやろ」
 たまえちゃん、ものの見事にコンちゃんとポンちゃんを化かしました。
「エーンエーン。たまえちゃんに化かされたよぉ」
 コンちゃんとポンちゃんはそろって泣いて帰りました。

 おうちに帰ったたまえちゃんはまたお母さんに怒られました。
「また、こんなに遅くに帰ってきて。一体、今何時だと思ってるの」
「だって、だって、コンちゃんやポンちゃんに勝ったのに」
「早くお風呂に入ってきなさい。あぁ、また、こんなに汚して、一体誰が洗濯すると思ってるの」
 たまえちゃんはお母さんに怒られて泣きながらお風呂に入りました。
 その頃、キツネのコンちゃんはお母さんキツネに怒られていました。
「コンちゃん、どうして人間なんかに化かされるの。もう、このお山には住んでいられないわ」
 こうしてコンちゃんとお父さんキツネ、お母さんキツネ、他のキツネたちもお山を下りていきました。
 タヌキのポンちゃんもお父さんタヌキに怒られていました。
「なんてことだ、ポンちゃん。人間に化かされるなんて」
 こうしてポンちゃんとタヌキさん一家も野を離れていきました。
 こうして町内では人間を化かすキツネもタヌキもいなくなりました。

「でもね」
 園長先生は言葉を続けます。
「たまえ先生がガミガミ、ガミガミしてないと、また人を化かす、キツネやタヌキが来るかもしれないでしょ」
「ふぅん」
 それでナナちゃんもたまえ先生がガミガミ屋さんであることが分かりました。
「ナナちゃん。ナナちゃんはどこにいるの」
 ほぉら、たまえ先生が怒りながらナナちゃんを捜しています。
「あ。ナナちゃん。園長先生の邪魔をしたら、駄目でしょ」
 首根っこをつかまれてナナちゃんはズルズルとお遊戯室へと連れて行かれました。
 でもね、ナナちゃんはくすくす笑っています。
 だって、ねぇ。



2007年02月14日 雀のピーチクパーチク

ピーチク:お、どないやった。あっちの方は。
パーチク:あっちって、なんですねん。
ピーチク:なんですねんやないやろ。こないだ、謎の「いこか」の正体探りに行ったきり、帰って来うへんし、どないしたんか、そない思とったら、ようやく来た、思たらまた訳の分からんこと、持ってきたやろ。
パーチク:もう「いこか」は宜しいは、なんや訳、分かりまへんもん。それより、今日はまた聞きたいことおますねん。
ピーチク:なんや、何でも聞いてみ。取り敢えず一緒に考えたるわ。
パーチク:ほれ、今日は何や知らんけど、女の子が一生懸命配って歩いてますやん。男にせっせせっせと。
ピーチク:あぁ、あれか。あれはバレンタイン言う奴やな。
パーチク:なんでっか、それ。
ピーチク:あんた、意外と物知らんなぁ。
パーチク:すんまへんな。ネタ的にワザと知らん顔してるなんて言えまへんやんか。
ピーチク:と言うことは、知ってんねんな。
パーチク:いえ、知りまへん。
ピーチク:どっちやねん。
パーチク:知りまへんがな。そやさかい、聞いてまんねん。亀万年。
ピーチク:下らんなぁ。
パーチク:で、結局のところ、その、バランタイン言うんは、なんですねん。
ピーチク:バランタインちゃうって、バレンタインや言うに。
パーチク:何でも宜しいわ、早、教えて下さいよ。
ピーチク:要するにな、今日は昔っから、女の子が、好きな男の子に、チョコレートを渡す日なんや。
パーチク:今、女の子とか、男の子とか、言わはりましたけど、ええおばちゃんが若い奴に渡してましたで。するとなんでっか、そのおばちゃん、その若い奴が好きなんでっか。
ピーチク:それはちゃうやろな。それは義理チョコ言うねん。あんな、職場の付き合いとか、色々人間には有んねんって。そやさかい、ほんまに好きな人に渡しつつ、どないでもええ奴にも渡すねん。そしたら、波風たてんでええやろ。
パーチク:えらい長い説明でんな。
ピーチク:これでも足らんぐらいや。まだまだ説明したるで。
パーチク:もう宜しいわ。それよりも、人間って、ほんま面倒な生きもんでんな。
ピーチク:脳味噌が大きいなるとな、色々と考えることが増えんねん。その結果な、無駄なことまで考えなあかんねん。な、雀に生まれて良かったと思うやろ。
パーチク:んん。でも、ええもん食ってますで、人間って。
ピーチク:そのええもん食べるだけでも、そこに至るまでに、壮大な物語が有んねんで。
パーチク:その、壮大な物語って、なんでっか。
ピーチク:朝起きたら、顔洗って、飯食って、トイレ行って、歯ぁ磨いて、歩いて、バス乗って、電車乗って、満員で押し潰されてやな…
パーチク:もう宜しいわ、聞きとない。
ピーチク:そやろ。我々雀やったら、お腹空いたら、その辺で虫捕まえるとか、木の実を探すとかで済むけどな、人間はそう言うわけにはいかへんからな。
パーチク:なんで、バランタインの話が、こないに小難しい話になんねんや。
ピーチク:そら、こないに訳の分からん話し始めた奴が悪い。
パーチク:結局、バランタインはどないなったんですか?
ピーチク:そやから言うとるやろ。バレンタインや。チョコや。
パーチク:チョコをちょこちょこっと、渡すんでしょ。
ピーチク:もうええわ。
パーチク:あ、どこへ行くんですか。逃げるなぁ。こらぁ。



2007年02月14日 パスタ&ヌードル

パスタ:あ、どうもどうも。久しぶりやなぁ。ここの舞台に立つの。
ヌードル:どうも、ご無沙汰してました。ほんまに、皆さん、お元気でしたか?
パスタ:こう言うときだけやなぁ、うちらが舞台に立てるの。やっぱ、今日はバレンタイン、うちらだけやでぇ、こういうネタに対応できるんわ。
ヌードル:ほんまや、こう言うときは、夫婦漫才で良かった、思わなあかんな。
パスタ:ほな、何か、普段は、夫婦でこの仕事やってることの、利点って、なんも感じてないんか。
ヌードル:だって、出番ずっと有らへんかったやんか。
パスタ:言われてみたらそやけどなぁ。
ヌードル:うわっ、間違た。
パスタ:何を間違たんや。
ヌードル:ずっと地方巡業行ってた言わなあかんのに、ほんまのこと言うてもうた。
パスタ:あんた、相変わらずアホやな。地方巡業行ってたから、出番無かった言うたら済んだんやんか。ほんま、アホや。
ヌードル:そやけど、こないなアホによう今まで付き合うてくれたなぁ。ほんま、感謝するで。
パスタ:なんで急に、そないにかしこまんねやな。おかしいで、今日。
ヌードル:思えば結婚前のバレンタインの日、この人がくれはったんですわ、こないに大きなチョコレート、しかもハート型の大きい奴、食べきるのに三日もかかって、大変でしたわ。
パスタ:そないなこともあったなぁ。その後ですわ、この人から、ダイヤの指輪もらいましてん。
ヌードル:いやぁ、ほんまに嬉しかったし、本命や思いましたもん。奮発しましたで。
パスタ:そやけどなぁ、その肝心のダイヤが見えまへんかったんですよ。
ヌードル:だって、高うて高うて、とても手え出えへんかってんもん。
パスタ:顕微鏡で覗かな見えへんようなダイヤなんて、よう売っとったなぁ。
ヌードル:今から思たら、ほんまによう売っとったと思いますわ。
パスタ:そやけど、そんときのセリフがまたすごかったんですよ。
ヌードル:なんて言うたっけ。
パスタ:塵も積もれば山となる。こないに小さいダイヤも、毎年買うたら、いつか大きいなる、そない言うたんですよ。
ヌードル:そないなこと言うとったんや。俺って、案外、学があるかも。
パスタ:何言うてんねん。それ以来、ダイヤなんか、一個も買うてくれてへんやんか。
ヌードル:だって、あん時は、まだ、夫婦漫才なんてやる思てへんかったし、地道に稼ごう、思てましたし、すんまへんなぁ。
パスタ:思いっ切り、騙されてんや。なんて可哀相なパスタちゃん。
ヌードル:そっか、あん時の俺って、そないに格好良う見えたんや。
パスタ:あんたなんか、今も昔も全然変わってへんやんか。
ヌードル:ほな、なんで一緒になってくれてん。おかしいやないか。
パスタ:だって、うちにダイヤ買うてくれたん、あんたが最初で最後やったもん。
ヌードル:なんや、ダイヤに騙されたんかいな。
パスタ:あぁ、騙されるんや無かった。
ヌードル:分かった。ほな、今からダイヤ買うて来たるわ。
パスタ:え、ほんまに、ほんまにダイヤ買うてくれるんかいな。わぁ、嬉しい。
ヌードル:ちょっと、待っときや。
パスタ:はぁい。
ヌードル:買うて来たで。
パスタ:むっちゃ、早いし。なんで、ダイヤが、紙袋に入っとんの。これ、本屋の、紙袋やし。あぁ、そうか、高価やから、安っぽい紙袋に入れて誤魔化してんや。
ヌードル:さぁ、どうぞ。
パスタ:これ、時刻表やんか。ダイヤ、ダイヤはどこ?
ヌードル:これ、ダイヤやんか。ほれ、よう言うやんか。雪のため、ダイヤが乱れてます。台風のため、ダイヤが乱れてます。
パスタ:人身事故のため、ダイヤが乱れてます。
ヌードル:そやから、ダイヤ言うたら電車の時刻表やんか。
パスタ:ちゃう、うちが欲しいのはダイヤ。ダイヤが欲しいの。
ヌードル:しゃあないな。も一遍行ってくるし。
パスタ:もう行かんでええわ。なんか、先、見えてきた。
ヌードル:なんでえな。
パスタ:今から、自動車工場かなんか行って、タイヤ持ってくんねやろ。
ヌードル:なんで分かったん。スタッドレスタイヤなんか、ええかな、思ててんけど。
パスタ:そろそろ、誰かさんが疲れてきてるみたいやから、そない思ただけ。
ヌードル:誰かさんって、誰?気になるやんか
パスタ:今日な、本命から無視された揚げ句、義理チョコ、五つももらった人。
ヌードル:あ、分かったで。
パスタ:分かったら、そろそろ、楽屋に戻ろうか。
ヌードル:そやな、可哀相に。僕らみたいな、仲のええ夫婦みたら、腹立つんちゃうか。
−ほっとけや。
パスタ:ほぉら、切れ始めとる。
−二度と出さんぞ、てめえら。
ヌードル:ほらほら、喧嘩してても、僕ら仲ええねんぞ。
−(ノヘ;)シクシク..
パスタ:ほぉら、泣き出した。もう、これ以上は無理や。
ヌードル:ほな、お手々つないで、帰ろっか。
パスタ:見せ付けたらあかん、言うてるやんか。
ヌードル:かまへんって。
−(;>_<;)ビェェン



2007年02月12日 今日の雑報

 今日は振り替え休日でした。そうとは知らず、否、しっかり忘れていつも通り一週間の始まりだと信じて出勤、「あれっ?」って感じでした。職場の駐車場はがらんとしているし、そこで初めて振り替え休日であることに気付きました。
 本業がお休みだったこともあり、比較的に楽な一日を過ごしました。
 プチ切れることが一件、有りました。
 仕事の帰りにまず単車屋へ行き、前輪を交換、合わせて吸気口のフィルターも替えました。
 眼鏡屋さんへも寄りました。どうせオフ用なのですからちょっとおふざけ的な一品を考えていました。まん丸レンズのメガネが以前から好きだったのですが、近所の眼鏡屋さんでは店内に無かった。メーカーとか、ブランドが分かれば取り寄せることも出来るそうです。
 仕事が終わり一息付いていた時、上司から「三連休はどこかへ行ったの?」と聞かれた。
「行ってません」
「勿体ない」
 確かにおっしゃる通り、勿体ないですよ。日記を読み返しても分かるのですが、土曜日の夜に「日曜日もお休み下さい」って言われたのです。最初から三連休って分かっていたら遠方へ出掛けていたでしょうね、きっと。でもね、これからは土曜日の出勤は隔週になりますし、早めに予定を立ててどこかへ行くことも出来るでしょう。
 旅よりも先に愛用のノートパソコンをそろそろ買い換えるべきかもしれない。



2007年02月11日 今日の雑報

 日曜日の午後、一日中家の中にいるのは不健康と思い、近所の書店まで散歩をしてみた。
 立ち読み。
 それだけである。
 オフ用の眼鏡が欲しいと思い、眼鏡屋の前を通ったが、やや混んでいたので今日は店の前を通るだけで済ました。



2007年02月10日 昨日の続き

 さすがに朝、早起きは出来ませんでしたが、昼休みを利用して職場の真横にあるLAWSONへ行き、買うてきました普天間かおりさんのライブチケット、多分、むっちゃ早いんちゃうやろか。ま、ええわ。あとは四月二十二日を待つだけや。


2007年02月09日 ライブだ、ライブだ

 昨夜、ネット上でサクサクと遊んでいたら我らが普天間かおりさん、大阪でライブをするという情報を見付けました。しかも発表直後の情報です。超ラッキー!!
 で、チケットの発売は明日から、昼休みとか、仕事帰りとか、少し早起きして出勤途中とか、兎に角、売り切れる前に入手しなくてはいけません。
 この近畿圏でどれだけの人が行くのか分かりませんが、日曜日の夕方からですからね、案外、遠くの方から駆け付ける人もいるかもしれません。
 昨日から四月二十二日が既に待ち遠しい。
 あとは四月二十二日に仕事が入らないよう、日々祈るだけです。せめて十五時ぐらいで終わってくれたら余裕を持って会場へ行けるのですが…



2007年02月08日 今日の雑報

 早ければ明日にでも「一太郎2007」が届く予定でしたが、ジャストシステム社にて何らかの不都合があったらしく、届くのは一週間ほど遅れることになりそうだ。一週間後だと丁度、土曜日は仕事も休みだし、のんびりとインストールをしたり出来るだろう。しかし、ソフトの発売間近にこういう問題が発覚すると会社としては痛いだろうな。
 既に運送会社に依頼して発送の準備も出来ているようだ。それを全て引き上げた上、中身を確認するのだから手間だろうな。



2007年02月07日 今日の雑報

 昨夜、久しぶりに体重計なるものを利用したら+三キロでした。思わず「?」が脳裏に浮かびました。体重が増えているという実感がほとんど無かっただけに「何故?」という感じです。最近は怠惰な生活とは無縁なはずです。なのに何故?
 でもね、仕事帰りにコンビニへ寄り、缶珈琲とフライドチキンとか言う組み合わせは結構多かった。これが災いしたな、きっと。
 そう言うわけで今日からコンビニへ寄るのを止めた。いつまで続くんだろう。多分、三日坊主だ。兎に角、増えた三キロを落とそう。



2007年02月03日 明日もお休みです

 十九時前に電話が入り、明日はお休みとなりました。奇跡の三連休です。ちょっと皆に申し訳ないような、それでいて嬉しいです。でも、何をして過ごそうか。体調管理も含めて寝て過ごそうか。


2007年02月02日 雀のピーチクパーチク

ピーチク:なんや、久しぶりやな。元気やったか。
パーチク:どうも、どうも。ご無沙汰をしてました。実はね、今日はちょっと聞きたいことがあったんですよ。
ピーチク:なんか知らんけどな、改まって聞きたいことなんて、珍しいやんか。何でも聞きまっせ。特に人生の先輩としては、深刻な悩みは、聞き逃されへんからな。
パーチク:人生違いますやん。この場合、鳥生違いまっか。
ピーチク:それを言うなら雀生やろ。
パーチク:ピーチクさんが間違えたんやんか。それにしても、なんか、下手な落語家の名前みたいですね、雀生なんて。
ピーチク:そないなこと、どないでもええねん。それで、あんたの悩みって、なんやねん。早、早、言わんかい。
パーチク:あんね、今日、駅前で人間が話してるん、聞いとったら、東京辺りでは、スイカで電車に乗れるらしいですやん。びっくりしたんですけど、ピーチクさん、知ってましたか。
ピーチク:あぁ、その話か、わしも詳しいは知らんけど、駅前辺りの雀がよう、そう言う話しとったな。
パーチク:この界隈で知らんかったん、僕だけですか。むっちゃ恥ずかしい。
ピーチク:何も恥ずかしがることやないで。わしかて詳しいことは知らんのやからな。
パーチク:そやけど、人間って、贅沢ですよね。スイカで電車に乗るんですから。どないして乗るんですかねぇ。
ピーチク:そら、あれやろ。八百屋かなんかで、スイカ買うていってやな、改札口で駅員に渡すに決まっとるがな。
パーチク:そしたらですよ。仮に隣の隣の駅へ行くとしたら、小さなスイカ一個となるんですかね。
ピーチク:そらそうやろ。遠くても近くても同じ大きさ一個やったら、無茶苦茶やで。
パーチク:そうですよね。ほな、一切れとか二切れとか、そういう単位かもしれませんよね。
ピーチク:それにな、スイカにも時価があるやろ。
パーチク:なんですか、時価って。
ピーチク:時価言う言葉、知らんか。困ったな。スイカって基本的に夏の食べもんやろ。
パーチク:そうですよね。冬やったら、スイカで電車に乗れないですよね。
ピーチク:でも、人間のことや、遠くの方からスイカを持ってきたり、温室で育てたりしよるかもしれへんやんか。
パーチク:あぁ、そうですね。
ピーチク:そうしたらな、温室の経費とか、遠くから運んだ経費とか、そう言うもんが重なって、普段より値段が高うなる、それが時価言うんや。
パーチク:なんかちゃうような気もしますけど、まぁ、真に受けときますわ。
ピーチク:そやけどな、スイカが豊作やったら、どないすんねんやろな。
パーチク:豊作やったら、皆が安う、電車に乗れますやんか。
ピーチク:そやけど考えてみ、駅にスイカを三つも四つも持っていくだけで大変やで。
パーチク:そやから昔っから、駅前商店街に、八百屋とか、果物屋が軒を並べてるんですよ、きっと。
ピーチク:なんかちゃうんちゃうか。でもな、駅にスイカ持って行ってみ、毎日毎日スイカやで、改札口とか、駅長室とか、夏やったらスイカだらけになるで。
パーチク:考えたら大変なことですね。毎日毎日スイカ食べても追い付きまへんやんか。
ピーチク:その内あれやで、電車動かすのに、スイカ燃やすとか、そう言うことになるかもしれへんで。
パーチク:勿体ない話でんがな、それ。
ピーチク:そやけどなんでな、スイカなんやろな。メロンとか、カボチャとか、なすびとか、他にも色々ありそうやけどな。
パーチク:そうですよね。秋やったら松茸とか、椎茸とか。高級品やったら、トリュフとか、キャビアとか、フォアグラとか、そう言うのも良いでしょうね。
ピーチク:あんた、世界の三大珍味なんか、誰が手出るねん。まず無理やで。第一、日本やで、ここ。
パーチク:ほな、日本の珍味で考えれば良いんですね。何があるかな。それよりも、なんで関西ではスイカとか、使わないんですかね。
ピーチク:その代わり、「いこか」言うもんを使とる、誰かがそない言うとったな。
パーチク:なんですか、その「いこか」言うんは。
ピーチク:それが分からんのや。今な、駅前に住む連中に調べさせてんねんけど、なかなか正体が掴めへんのや。
パーチク:明日、も一遍、駅前へ行ってみますわ。その「いこか」言うもん、見付けてきますわ。
ピーチク:もしかすると、派手好きな関西人のことや、外国の食べもんかもしれへんで。気い付けて行きや。
パーチク:ほな、帰って寝ますわ。
ピーチク:お、もうこんな時間か。



2007年02月02日 今日の雑報

 厚労相が辞任するかもしれない。本を正せば女性に対する差別発言から端を発したわけだが、もう少し早く正確な謝罪とかをするべきではなかったろうか?
 今回の一件が発覚した時点で厚労相は「申し訳ありません」とか「謝罪します」とか、確か言ってはいたけれどそれはマスコミにマイクを向けられたから言っているまでであり、具体的にどの様な謝罪があったのか、僕らは知らない。
 それは首相も同じだと思う。
「深く反省し、謝罪申し上げます」
 そう言うが、その場で軽く頭を下げているだけであり、それは謝罪ではないと思う。
 辞任云々よりも先に謝罪の場を設けるとか、正式な記者会見の場を設け、本当に厚労相が今回の件を重く受け止めているか否か、国民の前へ晒すべきだろう。記者や野党の女性議員を交え、一問一答形式でどの様に反省し、謝罪して今後、議員としてどの様に生かしていくのか、それを明確にしていくべきであろう。単に「謝罪申し上げます」では国語的にも変ではないだろうか?
 確かに投票率も下がり、僕ら自身も政治に関して無関心になりつつある今、厚労相にしてみれば自分に投票していない人間に「文句を言われる筋合いはない」と思っているのかもしれないが、しかし、国会議員が国民に対して手本を見せられない以上、僕らは誰を手本にして生きていけばよいのだろうか?
 近々行われる選挙結果次第では厚労相を降ろすとも言われているのだが、結局は責任を不明確にしているだけにも感じられる。
 首相も「美しい国」を目指すならまず与党議員の心を「美しく」して欲しいものだ。



2007年02月02日 今日の雑報

 朝遅くに目を覚ました僕はのんびりと朝食を済ませてから久しぶりに大阪梅田へと出掛けました。二〇〇四年五月でしたか、欲しくて欲しくて我慢できなかったCanon AV-1と言うカメラを中古店で購入したのですが、自分には使いこなすことが出来無いとわかり、元の中古店へ売りました。
 それから大阪駅前にあるCanonのサービスセンターへ行き、T-50のオーバーホールを頼もうとしたのですが、受け付けていないと言われてしまった。なんと悲しい話でしょうか。
 ちょっとウルウル涙目の気分でてくてくと歩き、同じく駅前にある中央郵便局で南極観測五十周年記念硬貨を購入しようとしたら売り切れていたし、折角久しぶりに大阪まで来て何も良いことはなかった。
 で、アクティ大阪の十六階にあるお鮨屋さんで昼食を済ませてから阪急に乗って高槻へと戻った。平日の昼下がりと言うこともあり、レストラン街は結構空いていた。
 朝、JRで大阪へ出ようとした時は遅延が発生していた。どうやら高槻から東側は悪天候のようだった。ようやく到着した快速の屋根には雪が少々残っていた。
 で、後から来た新快速に抜かれたのが東淀川の駅を出た時である。この新快速に譲るため、僕の乗った快速は新大阪駅をまさしく目の前にして信号待ち、踏切一つを五分近く閉鎖した状態だった。新大阪駅にはあいているホームをあったはずである。有効な使い方は出来無かったのかな?



2007年02月01日 明日から二連休

 明日はお休みを頂きました。
 いつもお取引を担当しているお隣の工場が何故かお休み、周囲に無理を聞いてもらって僕も休むことにした。ラッキー!
 嬉しいことに今年から土曜日は隔週出勤、その隔週と合わせて二連休となりました。またラッキー!
 でもね、日曜日は出勤です。アンラッキー?
 他の人が頑張っている時に三連休になったらちょっと申し訳ないし、二連休辺りが自分には丁度いいのかもしれない。
 あぁ、でも明日の天候は崩れるようだし、昨日辺りから風邪気味だし、明日は家で温和しくしていよう。
 でも、どこか行きたいなぁ…



2007年01月30日 小話一話

 近い将来、某超大国の海兵隊司令部の演習場にて…
技術屋:これはこれは司令官、お忙しいところ、ようこそ、おいで下さいました。
司令官:何でも、新しい、揚陸用戦車が出来たと言うから、来たんだが、どこにあるのかね。
技術屋:お待ち下さい。あの倉庫に、置いてあります。今、呼び出します。あぁ、もしもし、司令官が到着された。すぐに出てきてください。
 ドオォン、ガラガラガラガラ、ガッシャアアァァン。
司令官:おぉい、倉庫壊してるけど、大丈夫かね。まぁ、政府に頼んで、直してもらうけど、あの、赤いのは何だね。大丈夫かね、あれ。
技術屋:あれこそ、我々が開発した最新型の揚陸用カニ型戦車、名付けて道頓堀1号です。
司令官:どうでもいいんだが、見た目も動きもカニそのまんまやんけ。あんなんで、戦争に行けるんかに。
技術屋:今のは、駄洒落ですか。
司令官:ぱくりで悪いが、静かにしないかに、ってのもある。
技術屋:で、いかがですか。我々の開発した道頓堀1号は。
司令官:どうでもいいんだが、道頓堀1号より、食い倒れ1号の方が、名前として相応しくないかに。
技術屋:駄洒落は聞き飽きました。司令官の率直な評価はいかがですか。
司令官:それよりもまず、機体の説明とか、そう言うのはないのかに。
技術屋:それでは、実演してもらいましょう。パイロット君、お願いします。
司令官:動き出したのはいいが、真横に動くだけではないかに。
技術屋:勿論ですとも。カニ型ですからね。カニは前へ動かないでしょ。
司令官:ところで武器はないのかね。ミサイルが飛び出すとか、何か無いのかね。
技術屋:目玉は飛び出しますよ。全方位を監視できる、特殊なカメラ付きです。
司令官:他には。
技術屋:泡が出てきます。
司令官:それって、武器では無かろう。
技術屋:道頓堀1号は試作品ですからね。泡はオマケです。
司令官:あの大きなハサミは当然、武器として使えるのだろうね。
技術屋:勿論ですとも。ハサミですからね、ちょん切るなんてのは、お手の物、はさんでつかむと言うことも出来ますよ。
司令官:何か、実演してくれないかね。
技術屋:お任せ下さい。パイロット君、ハサミを使って、何か、つかむとか、切るとか、実演してください。彼、優秀な、テストパイロットですよ。それではまず、目の前にある、軽乗用車をつかんでみましょう。
司令官:車をつかんだきり、動かなくなっているのは、何でだ。
技術屋:車が重すぎて、動けないだけですよ。放せば、きっと今まで通りに動きますよ。
司令官:当然と言えば当然だと思うのだが、違うかに。
技術屋:それでは、次に、最新型戦車を叩き潰す、実験をしてみましょう。
 ドオォン、ゴオォン、ガアァン。
司令官:気のせいか、ハサミがぼろぼろになっているような気がするんだが、違うかに。
技術屋:うぅむ、やっぱり最新型戦車ですね。装甲が想像以上に頑丈です。
司令官:揚陸用戦車と言うからには、当然、沖合の揚陸艦から、陸上まで兵員の輸送が可能なのかに。
技術屋:道頓堀1号は乗員一名です。
司令官:まさかと思うが、カニと同じで、海底を暢気に歩くんじゃないだろうな。
技術屋:その通りですよ。海上に浮いたら、敵に見付かるじゃないですか。
司令官:水圧には耐えられるんだな。
技術屋:まぁ、その点は、自慢できますよ。
司令官:どれぐらいの数字かね。
技術屋:2000メートルは軽いですね。
司令官:なかなか大したものだね。だが、一人乗りの道頓堀1号が何の意味を持つのかね。
技術屋:それを見いだすのが、司令官のお役目ではありませんか。
司令官:何が嬉しくて、カニ型揚陸用戦車なんて、開発したのかに。
技術屋:実は、子供の頃からカニが好きでして。
司令官:だったら、かに道楽でも行ってこいや。ほんまにぃ。
技術屋:実はカニの論文で博士号を取ったんですよ。でもねぇ、ロボットにも興味があったもんですから、ついついこっちでも博士号取っちゃって、運良く見付けた就職先が海兵隊の研究室だったってわけですよ。すんまへんな。
司令官:あ、おい。あのカニ型の残骸は何だ。
技術屋:あ、あれですか。見付かっちゃった。この五年、カニ型戦車の研究で犠牲になった試作品ですよ。多い年で年五台は犠牲になったかにぃ。
司令官:そんなもんのために、国防費を使わんでくれ。大統領になんて報告すりゃいいんだ。俺、首飛ぶかもぉ。やめてぇ。
技術屋:税金で、研究しました、僕の趣味。
司令官:お前なんか、嫌いだぁ。



2007年01月30日 小話一話

 第二次世界大戦の後半、ドイツ海軍U-boat司令部にて…
技術屋:司令官。新しいU-boatの設計図が完成しました。ご覧下さい。
司令官:ほうほう。これが、新しいU-boatの設計図か。どれどれ、見たところ、これまでのU-boatと変化はないようだが、どこかどう違うのかね。
技術屋:わかりまへんか。よう見ておくんなさいまし。
司令官:あぁ、分かった。あれや、エンジンが最新型になったんやな。それで見た目には分からへんねや。
技術屋:ちゃいまんがな。エンジンはそのまんまですがな。今、一生懸命頑張ってまんねんけどな、エンジン、新しいの、間に合いまへんねや。
司令官:ほな、どこがちゃうねん。どこが。
技術屋:よう見てくだはれ、トイレでんがな、トイレ。二つおますやろ。
司令官:それが新しいんか。
技術屋:考えてみなはれや。これまでのU-boat言うたら、約四十人の乗員に対し、トイレは一つしかおまへんでしたやろ。それやったらいざ言う時、間に合わへんこともおますやんか。そない思て、二つにしましたんや。
司令官:なんや、それ。例えば士官用とか、艦長用のトイレやのうて、単に、トイレを二つ着けただけかいな。
技術屋:単に二つやおまへんがな。人間にとってトイレ言うたら、大事なもんでっせ。それが四十人に一つやったらやっぱり寂しいやないですか。
司令官:何言うてんねん。これまで四十人に一つでも間に合うとったんやろ。それやったら一つでも充分やんか。
技術屋:何言うてますねん。トイレ一つ加えるのにどれだけの苦労をしたか、ちょっとは考えておくんなさいな。
司令官:トイレ一個増やすやったら、なんか他のもん、増やされへんかったんかいな。
技術屋:例えば、どないなもん、増やすんですか。
司令官:魚雷一本でも余分に積むとか、燃料入れるとか、何か無いんかいな。
技術屋:真剣に考えてみてくださいよ。例えばですよ、集団食中毒でも発生した場合、乗員はどうすればいいんですか。
司令官:うぅむ、嫌なことを言う奴だな、お前は。
技術屋:ほぉら、どうするんですか。
司令官:簡単なことだ、皆で、甲板に並んで、出すものを出せば、取り敢えずは間に合うだろう。あとは胃薬を飲むとか、それでどうだ。
技術屋:では、こういう例えはどうです。敵の駆逐艦に追われて潜航中に集団食中毒が発生した場合、甲板に並んで出すものが出せないじゃないですか。それでもなお胃薬と四十人に一つのトイレに頼るんですか。
司令官:なぁに、大丈夫だ。我が海軍の将兵は一人として食中毒に負けるような者は居無いし、第一、食品の衛生には我が第三帝国に優る国家は存在しない。
技術屋:本当ですか。実はですね。試してみたんですよ。
司令官:何をだね。
技術屋:賞味期限の切れた食品を載せて航海に出してみたんですよ。
司令官:U-boatをかね。
技術屋:勿論ですよ。結構、楽しかったですよ。結果が。
司令官:実験台は、当然、ユダヤ人とか、強制収容所で死刑執行間近の人間を利用したんだろうな。
技術屋:まさか、その様なことはしませんよ。
司令官:え。では、一体、誰が実験台になったんだね。
技術屋:適当に選んだU-boatに、賞味期限の切れた食品をほどよく載せたんですよ。多分、賞味期限なんか、誰も見てなかったんでしょうね。イギリスの駆逐艦に追われている最中に、食中毒が発生して、潜航していたら、皆、我慢できなくなって、浮上したそうですよ。
司令官:も、もちろん、駆逐艦が居無くなってからだろうな。
技術屋:いえいえ。イギリスの駆逐艦に、白旗を掲げて、浮上したそうですよ。イギリス側から、胃薬をもらって、全員、命には別状無いそうですが。
司令官:な、なんてこった。それじゃあ、U-boat一隻、乗員と一緒に、イギリスに捕られたってことか。
技術屋:まぁ、結果的にはそうなりますかね。
司令官:貴様、それでは、国を売ったも等しいではないか。もしかして、レジスタンスではないだろうな。
技術屋:チッ。ばれたか。
司令官:へ、本当にレジスタンスなの。



2007年01月28日 任期四年

 四年。
 平安時代でしたか、我が国の官僚は任期が四年でした。勿論、いつの間にか建前となり、地方への赴任を命じられても代理を行かせたり、任期を無視したり、お公家さんは好き勝手をなさった揚げ句、武士の世が生まれたわけです。
 今の日本でも地方議員から国会議員まで原則任期は四年です。毎年選挙をしていたら大変な予算でしょうし、かといって十年一昔だから任期を十年にしたらどうなるでしょうか?
 五年辺りでも良いように思えますが、何故か四年です。
 海外ではアメリカでも議員や大統領の任期は四年です。確かイギリスもそうだったような気がします。フランスの大統領は任期が五年でしたか、興味がないから断言はしません。
 四年という任期になんの利点があるのでしょうか?



2007年01月27日 昨日の夢、今朝の夢

 二日続けて夢を見た。
 昨日の夢で僕はバイパスを走っていた。単車だったのか、乗用車だったのか、そこまでは分からない。高速道路に入るには市街地へ寄るより右折した方が早い、そう思って僕は右折した。
 いつの間にか僕は木造平屋の長屋みたいな建物が並ぶ路地に立っていた。長屋の一軒では六十を過ぎたと思われる女性が二人、麺を作り売りしていた。僕の前に一人、女性が待っていた。僕は女性の後ろに並び麺を待っていた。僕の後ろにも麺を待つ人がいた。数人だが列が出来ていた。向かって右の家でもやはり六十過ぎと思われる女性が何かを作っていたが、内容を全く覚えていない。
 左隣の家では正面に仏壇らしきものが見えた。その仏壇らしきものに背を向けて女性がでんと座っていた。宗教的な、荘厳な、何とも言えない威厳をたたえたその女性、年齢は六十を過ぎていたと見えるが、白い、儀式用か何かの服に身を包んでいた。
 沖縄?
 朝鮮半島?
 アイヌ民族?
 よく分からないが、一瞬、睨まれたような、ちょっと怖かった。沖縄には神女もいるし、久高島のイザイホーに参加する女性の衣装に似ていたような気もする。
 でもね、この女性の側では僕に背を向けて横になっている女性もいた。他にも一人か二人、女性がいたように記憶している。
 ここまでが昨日の夢、そして今朝は話の前後を覚えていないのだが、僕の娘が誰かの「ご学友」になるという話だった。今の時代、「ご学友」などという言葉を使うのはごく少数の人だと思うが、どうなのだろうか?
 いずれにしても僕らが普段会うこともない人達なのだろう。目が覚めた時、あきれて何も言えなかった。職場のロッカーで着替えつつ、「ご学友」と言う言葉が脳裏をよぎり、一人で吹き出してしまった。
 だって、執事みたいな男性がかしこまって僕に「ご学友」って言うんだよ、有り得ない。



2007年01月23日 今日の雑報

 年末年始、暇だったわけではないが、ちくちく、ちくちく、頑張ってぞうきんを三枚縫いました。その内二枚は職場にて活躍して貰うこととなりました。残る一枚は緑色のタオルから作ったので慣例に従って単車用となりました。でもね、一昨日の夕方、その単車用が無くなっていたのですよ。コンビニフックの真下にあるポケットに入れていたのですが、「どこで無くしたのかなぁ〜」って感じでちょっとショックでした。まだ出来たてホヤホヤでしたし、まともに使っても居無かっただけに「勿体ない」と言う気持ちが大きかった。
 でもね、今朝、通勤途中に何気無く下を見ながら走っていたら見付けたんですよ。落ち葉が数枚乗っかった状態で道路の隅っこに落ちていた緑色のぞうきんを視認、慌てて単車を止めて拾いに行きました。
 なんか朝からラッキーな気分でした。



2007年01月22日 今朝の夢

 今朝も夢を見た。覚えているのは瀬尻、月、船明という地名が書かれていた紙である。厳密に言えば表だったのかもしれない。他にも地名が書かれていたのかもしれないが、今、覚えているのは上記の三つだけである。これ、目が覚めてすぐに思い当たった。瀬尻と船明は旧龍山村にある大字小字であり、月は確か旧天竜市にあった地名である。今年も休みが取れたら旧龍山村へ行こうと思った今朝でした。
 ちなみに船明は「ふなぎら」と読みます。



2007年01月21日 今朝の夢より

 久しぶりにこの時間まで記憶に残るような夢を見た。
 大きく分けて二つと言えるだろう。最初はアフリカのサバンナと思しき場所、直径五メートルにはいかない、クレーター状の穴の中でライオンが燃えていた。たてがみが見えなかったのはすでに燃えていたからだろうか、それとも雌だったのだろうか、兎に角、一頭のライオンが燃えていた。そして同じグループのライオンだろうか、次から次へと燃えているライオンの上へ乗っかっていった。今、この日記を書きながら考えたのだが、燃えているライオンに他のライオンが身体を密着させることで酸素を減らし、消火しようとしていたのかもしれない。その後、どうなったのか、残念ながら僕の記憶からは消えている。しかし、現場で金髪の白人女性が何か訴えていた。多分、これは憶測でしかないが、動物愛護団体の人間だったと考えられる。そして僕はテレビか何かで一部始終を観ていただけなのかもしれない。
 場所は変わって海岸線、西表島のマングローブが群生しているような感じ、そこに帆船型の遊覧船が浮かんでいた。乗船してみると船底と左右に窓があった。沖縄によくあるグラスボートの帆船型である。窓から海中を見ていると白いイルカが群れで船の近くまで泳いできた。その後、場面は変わってプールのような場所、数頭の白いイルカがプールサイドみたいな場所へ上がっていた。僕は白イルカたちに何か言った。内容は「一緒に遊ぼう」だったか、それとも「一緒に泊まろう」だったか、定かではないが、一頭の白イルカが僕に抱き付き、喜びを表現したのは覚えている。夢の中なのにギュッと抱きしめられて少し苦しかった。
 火と水、ライオンとイルカ、何を意味するのだろうか?



2007年01月19日 今日の雑報

 一月六日の雑報にて職場にあるエレベーターのボタンを粉微塵にした話を書きましたが、半月も経たない今日、同じ事を致しました。また四階のボタンだけを壊しました。
 上司の皆様は怒る前にあきれる方、笑い出す方、反応は色々でした。
 ボタンの破片が飛んだ瞬間、何を思ったのか、自分でも分かりませんが、自分という人間は多分、物心着く前から全く変わっていないような気がした。これからも同じような失敗を繰り返して生きていくんだろうな、きっと。
 で、上司の意見もあり、ボタンの周囲に保護材を着けることにした。仕事帰りにホームセンターへ寄ってみた。厚くて硬いゴム材を思い浮かべていたのだが、思うような品が見付からなかった。取り敢えず困った時の発泡スチロールではないが、手頃な厚さの発泡スチロールがあったのでこれを購入、急場を凌ごうと考えている。
 しかし、情けない話だ。



2007年01月17日 今日という日

 阪神淡路大震災から十二年が経ちました。早いものです。
 わずか四十秒ほどの揺れで六千人以上の命が奪われたのです。中には震災後の孤独死という悲劇も含まれているようですが、同じような悲しみは繰り返したくありません。しかし、仕事で忙しいとか何とかで結局は今日という日をいつもと変わらぬ一日として過ごしていました。
 仮にですよ、親戚縁者でこの震災に巻き込まれた人がいたら多分、自分自身の人生が変わっていたかもしれませんし、今日という日は無理に仕事を休んででも毎年、追悼行事に参加していたかもしれません。
 これからも毎年、単にテレビや新聞を見て「あ、今日は震災の日か」などと軽く受け流すことの無いよう、一日一日を大切に生きていきたい、これを書きながら改めてそう思いました。



2007年01月13日 史専


 円堂晃氏はその著「本能寺の変 本当の謎」において光秀率いる一万三千の大軍が何一つ問題もなく入京し、本能寺を囲んだ点を謎とされている。確かにこの点は不思議である。
 円堂氏が指摘する通り、信長が入京を許可していたら誰も疑問には思わないだろう。そして信長の信頼を利用して光秀は信長へ近付き、本能寺の変を起こした。しかし、信長は何故、光秀を本能寺へ呼んだのだろうか。
 一万三千という大軍が本能寺を囲む際、一切音を立てないというのは不可能だろう。蹄の音、甲冑のこすれ合う音、足軽達の声、想定外のことならば誰かが不思議に思うはずである。
 一方で一万三千という数字は「川角太閤記」にのみ記されており、正確な数字とは言えないとの指摘もある。実数はどれだけであったのだろうか。案外、必要最小限の人数だったのかもしれない。それでは本能寺を包囲できる最低限度の人数とは一体どれだけなのであろうか。そして実際に本能寺の中へ入り、攻撃した人数はどれだけであったのだろうか。
 いずれにしても当の本人達が何も残していないだのだからほとんど迷宮入りである。



2007年01月08日 今日の雑報

 職場での昼休み、パートさん達から昼食後のお茶菓子などを頂き、それを味わいながらボーッと外を眺めていたら黄色い新幹線が東を目指して走っていった。滅多に見ることのない、保線用の新幹線です。何せ走行しながら電線や線路の問題点を見付けることができるという優れもの、そう言う装置の類を積んでいるのだから当然と言えばそれまでですが、噂によれば滅多に見れないだけに幸運らしいです。そう言う昼休みでした。
 で、今は眼鏡を使いながらこれを書いています。ちょっと、変な感じ…



2007年01月07日 今日の雑報

 目が覚めたのは十一時前だった。仕事は休み、暢気に雨戸を開けたらそこは一面、雪の世界だった。
「今日はどこへも行けないな」
 そう思っていたら天候は回復、昼食を済ませてから昨夕、後輪を交換したばかりの愛車に乗って出掛けてみた。
 久しぶりにマッサージ屋へ入り、こっている部分をほぐして貰った。かなり硬くなっていたようだ。それからこちらも久しぶりでモスバーガーに入り、茶場借ってみた。
 そして紳士小物を見るために駅前の店舗を幾つかのぞいてみたが、探していたような物が見付からず、帰路に着いた。
 自宅近くの眼鏡店へ寄ってみた。店員に右0.7、左0.9と言う話をし、取り敢えず検査をして貰った。結果は乱視発覚、レンズが入っただけで世の中がはっきりと見えたんだ。思わず出たね、「うわっ」の一言、これまでぼんやりだった視界がくっきりとした。そして眼鏡を買うことにした。似合うか否か、それ以前に見えるか見えないか、それが問題である。
 店員さん曰く「一時間で出来上がります」とのことだったが、眼鏡の引き取りは明日以降にした。
 明後日から僕は眼鏡君である。多分、似合わないだろうな。



2007年01月06日 今日の雑報

 明日は荒れた空模様になると言う。幸いにして仕事は休みとなり、悪天候下を通勤する必要はなくなったが、暴風雨の中、出掛けるほどの根性も持っていない。折角のお休み、ちょっと出掛けるのもいいかなぁ、そう思っていただけに天気が悪いというのは悔しい。
 職場にて今日は何事もなく終わるだとうと思っていたら最後の最後になってエレベーターのボタンを一つ壊してしまった。一階から五階まで合わせて五個並んでいるボタンの内、なぜか四階のボタンだけが飛び散った。壊したことを反省するより先にまず「何故、四階だけが」と言う疑問が湧いた。それから物の扱いに対して注意が足らなかった自分に気が付いた。
 別に科学的な証明が欲しいわけでもないが、同じ力で物が当たっている以上、均等に他のボタンも壊れて当然と思う。勿論、一階から五階まで全てのボタンが粉微塵となっていたら笑い話では済まなかっただろう。
 でも、どうして四階のボタンだけが壊れたのだろうか。この部分だけ特別な力が働いたのだろうか。多分、謎のまま終わるんだろうな、きっと。



2007年01月05日 今日の雑報

 初夢を見たのかどうか、それすらも覚えていない、そう言う年始だった。
 僕は年末年始をいつも通りに出勤し、仕事をするという日々を過ごした。
 以前の仕事だったら「嫌だ」と言って無理にでも休んだだろうが、今の仕事は好きだし、環境的にも体力的にも自分向きだと感じている。だから「出勤して下さい」と言われたら「俺で良ければ」と言う感じで安請け合いしてしまい、今になって「今度の休みはいつですか」などと出勤予定表を眺めながら独り言を言っている。確かに休みがあっても特に予定はないし、無駄遣いするぐらいなら仕事してた方がいいのかもしれない。
 でも、逆に考えたら「出て欲しい。来て欲しい」と言われるということはそれなりに信頼があると言うことなのかもしれない。
「人は欲しいが、あいつは来て欲しくない」
 この様な扱いを受けるようになったらそれこそ自分が嫌だし、その職場に居場所が無くなったも同然である。
 初詣へ行った折、御賽銭を投げて願い事をしました。なぜか二番目にピンと頭に浮かんだのが、職場で失敗しませんようにという内容でした。
 今年は仕事で失敗せず、ニコニコと年末を迎えたいものです。



2007年01月03日 新年のご挨拶

「一年の計は元旦にあり」
 世の人はその様に言いますが、年末年始は日記も書かず、ちくちく、ちくちく、古いタオルを使ってぞうきん作りに励んでいました。たまにはこういう時間の過ごし方も良いものです。
 去年は色々とありました。
 前半は対人的に少々荒れました。人間関係でもめるのは一番疲れるかもしれません。少なくとも今年は人間関係でもめないよう、心掛けたいものです。
 また昨年は自分なりに小さな答えを見付けることができました。「平凡」と言う言葉は合わないかもしれませんが、一日一日を大切に、そして楽しく過ごすことが如何に大事か、改めて感じた一年でもありました。
 歴史雑誌への投稿、そして投稿文の作成だけでも結構楽しめますし、ネット上を利用してこれまで表に出さなかった自分自身、日記にすら書かず、自分の内側へ溜め込んでいた部分を表現するようになってきました。
 一つ、また一つ表に出すことで少し楽になるような、そういう感覚に包まれる時もあります。
 昨夕、仕事帰りに例年通り、箕面市の爲那都比古神社へと初詣へ行きました。御神籤は「吉」ですが、内容は結構良くて嬉しい次第です。しかし、御神籤で示される方角は何故か「坤」が多い。単純に言えば「西南」です。単純な僕はどうしても「沖縄」を思い浮かべてしまいます。最近、沖縄に対しては物理的な距離より、精神的な距離を感じるようになっています。遠い遠い昔話を語るように遠く感じます。
 自宅から西南というように置き換えて考えてみることもできるでしょう。案外、身近な所に刺激的な何かが転がっているかもしれません。
 今夏で三十七歳になりますが、今年もいつも通り何かしらわくわくすることを探しながら日々を過ごし、そして何か素敵なものを見付けることができたらいいな、そう思います。
 今年一年も皆さんが日々、気持ちよく過ごせますように。
 新年の挨拶に代えて。正月三日 吉田浩



2006年12月27日 時計、あれこれ

青年:社会人になったのはいいけど、こんな寂しい街に引っ越すなんて、ついてないよな。お、こんな所に、時計屋さんがある。丁度、部屋に合う、時計を探していたところだし、入ってみるか。
 ガラガラ
店主:いらっしゃいまし。
青年:あ、すいません。時計を探していたんですよ。何か、良い時計はありますか?
店主:これなんかいかがでしょうか。最近、平井堅も歌っていた、おじいさんの古時計のモデルにもなった、古時計ですよ。
青年:大きいですね。僕の身長を超してますし、僕の部屋には入らないですよ。でも、古いし、大きいなぁ。
店主:この時計、昔は、大きなお屋敷の玄関に飾られていたそうですよ。
青年:でも、何か変ではないですか。普通、この手の時計ですと、時計の下に振り子があるはずですが、無いですよね。それに、妙に奥行きがありますし。
店主:気付きましたか。実はご指摘を頂いた部分にですね、おじいさんが入っているんですよ。呼んでみましょう。
 こんこん
店主:ほら、出てきた。
青年:何でおじいさんが入っているんですか。
店主:この時計の持ち主でもありましてね。もう、ぼけちゃっているんですよ。三十分に一回、正確に食事を求めて、外に出てくるんですよ。
青年:それって、ものすごく迷惑じゃないですか。
店主:十五分に一回、必ずトイレに出てきます。
青年:夜なんか、どうするんですか。
店主:だから、この時計、売れ残っているんですよ。
青年:当然でしょ。
店主:次にこちらの時計はいかがでしょうか。
青年:鳩時計ですね。でも、妙に奥行きがありませんか。
店主:針を一時に合わせてみましょう。
 ポッポー
青年:うわっ、鳩、ほんまもんの鳩、出てきてるし。
店主:ね、すごいでしょ。二時になると二羽出てきますよ。
青年:もしかして、全部で十二羽の鳩が入ってるんですか。
店主:いえいえ。全部で二十四羽の鳩が入ってるんですよ。
青年:この、狭いスペースに、二十四羽は、ちょっと、きついんちゃいますか。
店主:そう思うでしょ。動物愛護団体からたくさん苦情が来ましてね。今でこれと他に二、三台が国内にあるだけですよ。今買うとお買い得かもしれませんよ。最大二十四羽の鳩が部屋の中を飛び交う、想像しただけでも美しいではありませんか。
青年:それはそうと、餌はどうするんですか。
店主:勿論、お客さんが世話しないといけませんよ。当然、食べたら出しますしね。
青年:それ、無茶苦茶迷惑ですよ。第一、手間掛かりすぎますし。
店主:それでは、同じ鳩時計でも、機械仕掛けの鳩はいかがですか。
青年:それ、それですよ。それこそ普通の鳩時計。
店主:それでは、時間を二時に合わせてみましょう。
 ポッポー、ドキューン。ポッポー、ドキューン
青年:ちょっと待って。何で鳩が飛び出してくんねん。
店主:この、鳩に対してちょっと手間暇掛けるところが、いいんじゃないですか。今の若い人なんか、生きた動物に触れること、減ってるでしょ。しかも、この鳩、方角はランダムですから、どこへ飛んでくるか分からへんし、毎時0分になると、ちょっと緊張するんですよ。
青年:夜中はどうなるんですか。もしかして、二十四羽の鳩が、四方八方、適当に飛んでくるんですか。
店主:その通り。冷や冷やして、ちょっとスリルがあるでしょ。
青年:怖くて、寝てられへんやないですか。
店主:それなら、別の部屋で寝たら宜しいやんか。
青年:僕、ワンルームなんですけど。
店主:ほな、鳩をセットせんと寝たら宜しいやんか。
青年:あぁ、そうか。それはそうと、さっきの生きた鳩の方ですが、もし、鳩が逃亡したりしたら、どうするんですか。
店主:簡単な話ですがな。鳩なんて、どこにでもいます。豆蒔いて、捕まえたら宜しいですがな。鳩が無理やったら、雀でも、カラスでも、ウグイスでも、適当に入れときなはれ。
青年:雀やウグイスは兎も角、カラスはちょっと合わんでしょ。
店主:そう言えば、ウグイス時計言うのもありますねん。見てみますか。
青年:ウグイスが、四方八方に飛ぶんですか。
店主:飛びはしまへんけど、話の種に、見ていきなはれ。これ、これです。
青年:鳩時計そっくりですけど、奥行きもないし、普通の時計ですね。
店主:それでは、三時にセットしてみますね。
青年:何も鳴きまへんやんか。
店主:お客さん、時期が悪い。今、冬でっしゃろ。ウグイスは冬、鳴きまへんで。
青年:ほな、何の意味もありまへんやんか。
店主:そないなこと、おまへん。春になると、ウグイス、歌の練習始めますねん。ホーホケキョ、言わんと、ケキョ、ホケキョ、ホーケキョ、ホーホケキョ、そないして春の盛りには奇麗な鳴き声が聞けますねん。
青年:ほな、ウグイス時計って、春の一時期を楽しむためだけの、時計でっか。
店主:そないです。この味が分かるのは、年配の人しかおまへんな。
青年:なんか、騙されてるような、そないな気いしてきた。ほんで、もしかして、この時計も、夜の十二時になると、二十四回鳴くんですか。
店主:そないです。
青年:ウグイスも、二十四回鳴かれると、風情もへったくれも有らへんで。
店主:ところでお客さん、夜は寝れてますか。
青年:なんや、急に。まぁ、寝れてる方やけど、なんで。
店主:これ、これですよ。羊時計と言いますねんけど、見ていきまへんか。
青年:羊が鳴く時計ですか。
店主:人間の替わりに、羊の数を数えてくれるんですわ。ほれ、寝れへんとき、羊の数、数えまっしゃろ。
青年:あぁ、あれね。聞いてみたいな。
店主:ほな、やってみますね。
 羊が一匹、柵を越えました。羊が二匹、柵を越えました。羊が三匹、柵を越えました。羊が四匹、柵を越えました。……
青年:いつまで聞いてるんですか。
店主:実はね、気になって、どこまで続くか、試したんですが、羊が三万飛び飛び二十四匹柵を越えました、言うところまで聞いて、疲れて寝てもうたんですわ。説明書によると、一応、五万匹まで数えるらしいんですけどね。
青年:そんなん、付き合うてられんわ。
店主:同じ羊時計でも、こちらはちょっと、違うんですよ。試してみませんか。
青年:外見はそっくりですね。聞いてみますよ。
 一頭目の羊が柵を越えました。二頭目の羊が柵を越えました。三頭目の羊が柵を越えました。四頭目の羊が柵を越えました。……
店主:違い、分かりましたか。
青年:言葉が少し変わっただけじゃないですか。
店主:そこが重要なんですよ。羊が一匹、羊が二匹、だと、六匹の羊が揃って柵を越えたと思われる場合もあるじゃないですか。
青年:言われてみればそうですね。国語って、難しいですね。
店主:ほな、この羊時計はいかがでしょうか。
青年:もしかして、羊が一頭、二頭とか、言うんじゃないでしょうね。
店主:ばれたらしゃあない。やめや。
青年:他にないんですか。
店主:ほな、羊時計でも、こっちはかなり個性派ですよ。
青年:なんか馬鹿馬鹿しなってきたけど、聞いてみよ。
 羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、羊が四匹、羊が五匹、……
青年:なんか、普通やないですか。
店主:もう少し待っててくださいよ。そろそろ出てきますから。
青年:まだかなぁ。何が出てくるのかな。
 羊が五十一匹、羊が五十二匹、羊が五十三匹、あ、オオカミが来たぞぉ。
 ガオーッ
 メェー、メェー、メェー
 ガブッ
 羊が一頭減りました。羊が五十三匹、羊が五十四匹、羊が五十五匹…
青年:なんか、無茶苦茶可哀相な話やないですか。こんなん、羊がいつ襲われるか、気になって寝てられへんのちゃいますか。
店主:いやぁ、間違えた。これ、目覚まし時計ですねん。羊が気になったら、段々目がさえて、起きてくなるでしょ。
青年:まぁ、言われてみれば分かるような気もしますが。あ、そうや。目覚まし時計、なんかありませんかね。
店主:おぉ、丁度ええのがありますで。これ、これなんか、どないでっか。
青年:普通の目覚まし時計ですね。なんか、妙なもんが出てきたりしないでしょうね。
店主:妙なもんは出てきまへんけど、確実に起きられまっせ。
青年:不安やなぁ。ここで試してかまいまへんか。
店主:保険、掛けてへんから、やめて欲しいなぁ。
青年:何か言わはった。
店主:まぁ、買って帰ってお楽しみの方が、宜しいですで。
青年:よし、ここで試してみましょ。
店主:あかん。やめてぇ。
青年:時間をセットして、えいっ。
 プルプル、プルプル、プルプル、プルプル、プルプル……
青年:あれ、ボタン押しても止まらんやんか。
店主:そないでっせ。この目覚まし時計は、止め方が、ランダムに変わりますねん。そやさかい、毎日、うるそうて、止め方分からんで、悩んでいる内に、目ぇ覚める言う、そないな時計ですねん。
青年:止めてぇ、どないでもええけど、止めてぇ。
店主:あんまりうるそうて、思わず壊したくなりますねんて。まぁ、頑張って止めて。
 ガチャ、ゴチョ、ガキッ
青年:ようやく止まった。はぁはぁ。
店主:ほな、もう宜しいか、そろそろ閉店の時間やし、また、いつか、遊びにおいでえや。
青年:それ、その片隅の目覚まし時計、それ、試したい。
店主:ほな、家帰って試しなはれ。
青年:借りて返って、ええか。
店主:かましまへん。持って帰りなはれ。
青年:よっしゃあ。試してくるわ。

青年:言うたんはええけど、試して止まらんかったら、どないしよ。一晩中、カラスの鳴き声で、カァーッ、カァーッ、とか、恐竜の鳴き声とか、近所中に響いたら、迷惑やろな。試さんと、返したろかな。そやけど、一回ぐらい、試さな、おもんないな。時間をセットして、五十秒前、四十秒前、三十秒前、二十秒前、十、九、八、七、六、五、四、三、二、一…
 ドッカアアアアアアアァアアアァアアアアアァアッァアアアアアアン
 なんで、こうなるん



2006年12月25日 ついに眼鏡か…?

 先日、職場にて健康診断があった。
 で、視力、右0.7、左0.9という結果でした。視力、天候とか、その日の調子で多少は変わると聞いたこともありましたが、ここまで落ちるか?
 そろそろ眼鏡を考えなくてはいけない年頃かもしれません。
 確かに自宅でも職場でもパソコンをいじっているとは言え、適当に画面から距離を開けているし、以前から意識して文字を大きくしているし、パソコン一つが原因とは思えない。
 しかし、眼鏡、困った。絶対に似合わない。でも、どうせ買うなら他にないような眼鏡を使ってみたい。



2006年12月13日 南青梅山村交番だより

ソバ:先輩、先輩ってば。
ウドン:お、どないしてん。
ソバ:どないもこないもありませんよ。本庁から、緊急のファクシミリ、来てますやんか。読みますよ。
 本庁より、各派出所へ。
 昨夜未明、本庁管轄内を走る高速道路にて以下の事件が発生した。
 単車50cc二台に大型車のE.T.C.を装着して高速道路料金所を越えるという前代未聞の珍事が発生した。
 50cc単車二台に乗っていたのはいずれも自称お笑い芸人のラーメン、ソーメンの二人である。
 二人の供述に寄ればテレビ局のどっきり番組の企画と言うことだったが、関係すると思われるテレビ局はいずれも否定、おそらく二人は番組制作会社に騙された物と判断され、今回は情状酌量の上、二人の全財産と推定されるカップラーメン二個を保釈金代わりとして受け取った上、無罪放免とした。
ソバ:先輩、こんな事件もあるモンですね。
ウドン:ま、俺たちには関係ないな。しかし、笑い話にもならんな。
ソバ:あ、先輩。巡回の時間ですから、行ってきますね。
ウドン:おぉい、俺のロケット号は使うなよぉ。

 今日、職場において上司や同僚との会話、否、冗談の中で思い付いた小話です。自分で書いてて全然面白くない。



2006年12月12日 南青梅山村交番だより

ソバ:お、親分、大変だぁ。
ウドン:誰が親分やねん。おい、考えて物言えよ。
ソバ:あ、すんまへん。もう一度、やり直しますわ。
ウドン:お、ええ心がけやな。
ソバ:隊長、大変です。
ウドン:何、怪獣が現れたか。よし、出動だ。って、違うって。
ソバ:あ、思い出しました。先輩、事件です。
ウドン:それでええねや。って、事件って、ほんまか。
ソバ:ほんまですって。ほんまに事件ですって。
ウドン:えらいこっちゃがな。この人口1321人しかおらん、南青梅山村に事件かいな。戦後60年を経て、事件らしい事件が起こらんかった、この南青梅山村に事件や。えらいこっちゃやで。
ソバ:何か、妙に解説っぽい独り言でしたね。
ウドン:そないなこと、どうでもええわ。それより事件ってどんな事件やねん。あぁ、嬉しいわ。
ソバ:何で嬉しいんですか。
ウドン:考えてもみぃや。南青梅山村の交番に派遣される言うことは、基本的には左遷も同然や。な、事件を解決せえへん以上、警官としては出世もないも同然、一巡査として任期を終えなあかんねん。もし、ここでどんな小さな事件でも解決してみぃ、出世に有利になるでぇ。
ソバ:それは分かりましたが、それでもやっぱり本庁にはまず連絡せんとあきまへんな。
ウドン:あかんあかん。それがあかんのや。まず我々の手ぇで解決できるかどうか、探ってみてからでも遅はない。で、後輩のソバ君、どんな事件や。
ソバ:それが、ですね、コンビニ、なんですよ。
ウドン:事件現場はコンビニか。するとあれやな、都心で流行っている、コンビニ強盗なんやな。よっしゃ、警察官として、血ぃ騒ぐでぇ。
ソバ:いや。いえ、そうじゃなくって、何というか、変な話なんです。
ウドン:もう、じれったいやっちゃな、ソバ君は。しゃあない。事件現場へ直行や。行くで。
ソバ:はぁい。
ウドン:南青梅山村交番特製のロケット号で出発や。
ソバ:その、ロケット号言うの、やめましょうよ。ただの白チャリやないですか。
ウドン:ソバ君まで、白チャリ言うのやめぇ。ロケット号なの。
ソバ:予算無いから白バイ買うて貰われへんかっただけやないですか。
ウドン:それを言うなぁ。
ソバ:兎に角、現場へ行きましょ。
 チリンチリン。
ウドン:お、ここが事件現場のコンビニやな。我が南青梅山村唯一の24時間営業にして、日本でも5本の指に入る、全国チェーン展開のコンビニである。
ソバ:そやからさっきから、何で説明的な独り言を言わはるんやろ。
ウドン:よしっ。乗り込むぞ。チャッチャカチャー。
ソバ:必要ないやんか、そう言うノリは。
ラーメン:いらっしゃいませ、ようこそ、コンビニへ。
ソーメン:いらっしゃいませ、ようこそ、コンビニ南青梅山村店へ。ようこそ。
ウドン:ちょっと待ってや。おかしないか。
ラーメン:クッキーですと、そちらの並びになります。
ソーメン:菓子パンですと、奥の棚になります。
ソバ:丁度、おやつの時間だね。菓子パン買おうっと。
ウドン:違う違う違う。断じて違う。
ソバ:何がですか。丁度、10時ですよ。
ウドン:そんなんちゃうねんって。おかしいやないか。普通、企業の名前を出すやろ。
ソバ:あ、そうか。店名じゃなくって、企業の名前、言わなあきまへんよね。
ラーメン:細かいやっちゃな。気にせんでええわ、そんなもん。
ソーメン:表に書いてある。自分で読みさらせ。
ウドン:読みさらせとは何やねん。二度と来んぞ。
ソーメン:来んでええわ。夜中に酒飲みとうなっても、知らんからな。夜中に酒売っとんの、うちの店だけやで。
ウドン:あちゃぁ、それ言われると弱いわ。勘弁してや。
ソーメン:まぁ、今回だけは、勘弁したろ。それで、何しに来たんや。
ウドン:何しに来たって、見てわからんか。この制服見て。
ラーメン:あぁ、仮装行列抜け出して、何か買いに来たんやな。
ウドン:なんで仮装行列やねん。わざわざそんなんがここへ来るか。
ソバ:さっき聞いた事件の解決に来たんですよ、まったく。
ラーメン:あ、わざわざ来てくれたんや。悪いなぁ。そやけどな、こっちは兎も角、こっちの方は邪魔しに来たんちゃうか。
ウドン:何を言うとんねん。折角来たのに、その扱いかい。
ソバ:兎に角、もう一度事件の大筋を説明していただけますか。
ラーメン:昨日の夜ですわ、村の人皆が寝静まった時間帯にな、東京本社から来た、言う人が来たんですわ。ほんでな、新しいマニュアルが出来たさかい、それに従って仕事してくれ言うんですわ。
ソーメン:そないですねん。それがまた、無茶苦茶なマニュアルでね、パッと見て、嘘や、思たんですけど、何せこのマニュアル、これこれ、これですよ、今まで使てたんと、そっくりでしょ。ね、やっぱ改訂版かな、思いますやん。
ソバ:ほんまそっくりや。しかもちゃんと印刷されているし、これ一個のために、わざわざ印刷したんやなぁ。
ウドン:東京本社に問い合わせへんかったんか。
ラーメン:夜中でっせ。そないな時間、東京本社に人なんかいてまへんやんか。
ウドン:ほな、大阪本社はどないやねん。
ソーメン:本社は東京やで。大阪本社なんかあるかい。
ウドン:ここ、ここ見てみ、大阪本社って書いてあるやんけ。
ラーメン:あ、ほんまや。
ウドン:ほれ、見てみ。警官はな、見るところがちゃうねん。
ソーメン:違てんの、あんたの方やんけ。これ、嘘もんのマニュアルやんけ。
ラーメン:あんたにこの事件、解決でけんのか。
ウドン:ふんっ。試してみただけや。
ラーメン:ほんまかぁ。
ソバ:取り敢えず、この偽マニュアルを読んでみましょう。
 まず、店内の音楽を変えましょう。
 ハードロック、ヘビーメタル、デスメタル、パンクなどを用いましょう。
ソバ:何ですか、これ。
ラーメン:試しに、預かったCDを流してみましょうか。
 ドンドン、ガンガン、ドンガン、ドンガン、チュイーン、ギンギンギン。
ウドン:なんじゃこりゃ。
ソバ:頭が割れるぅ。
ウドン:うるそうてかなん。はよ消せや。
ソーメン:はいはい。消しましたよ。
ウドン:あんなもん、客が逃げてまうぞ。
ラーメン:そやけど、あの音量で、流せ言わはったさかい。同じ音量で流したんでっせ。
ウドン:試しに流すんやったら、普通の音量で充分、普通で。
ソバ:続きを読んでみましょう。
 大音量で先の音楽を流せば、何事かと思い、客は寄ってくる。
ソバ:しかし、夜中にあの音量ですと、近所迷惑で、訴えられますよねぇ。
 客が来た場合、客層に合わせて音楽を変えよう。
ソーメン:それが、このCDなんですよ。流してみましょうか。
ソバ:お願いします。
 えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、よいよいよいよい。
ウドン:何じゃこりゃ、何じゃこりゃ、ほいほいほいほい。
ソバ:真似、しなくていいです。何ですか、これ。
ラーメン:真夜中に客が来ることは、大変なことじゃないですか。特に、この南青梅山村にとって、夜中に出歩くなんて、大変なことじゃないですか。
ソバ:そうですよね。で、読み進めますよ。
 客が来たら歓待しよう。
ソバ:そりゃそうだ。
 まずはノリノリの音楽に変えましょう。
ソバ:また曲を変えるんですか。
ラーメン:それがこの曲です。
ソバ:ディスコ系の曲ですね。
ソーメン:合わせて踊らなきゃ、いけないんですよ。ここに書いてある。
 サタデーナイトフィーバーを意識しよう。腰を前後に振りながら人差し指で天井を指そう。
ソバ:変なの。
ラーメン:ここからも変なんですよ。
 客の手を取り、一緒にステップを踏みながら、店内を一周しましょう。
ソバ:相手が高齢者だったら、大変な迷惑ですよ。
ソーメン:子供だって、嫌がりますよ。
ソバ:そうですよねぇ。ね、ねぇ、先輩、さっきから一言も言ってないじゃないですか。
ウドン:あ、いや、その、何だな。事件が我々には重すぎるから、そろそろ本庁に連絡でもしようと考えていたのだが、どうだろうか。
ソバ:それはいい考えですね。ところで、犯人というべきかどうか、まだ分かりませんが。東京本社から来たって言う人の、人相とか、特徴とかは、分かりませんか。
ソーメン:それやったら簡単ですわ。防犯ビデオに写ってるはずですわ。
ウドン:え、防犯ビデオ。それは助かります。
ソバ:コンビニの常識ですよね。防犯ビデオって。見てみましょう。
ラーメン:丁度、日付が変わる時間帯でしたからね。この辺かな、あ、この人です。
ソバ:この映像、ちょっと暗いですね。本庁の科学分析班に頼めば、きっと犯人の特徴が、すぐに掴めますよ。
ソーメン:でも、こういうのって、どういう犯罪になるんですかね。
ラーメン:何か捕られたわけでもないし、他のお客さんの迷惑だったわけでもないし、まぁ、迷惑したと言えば店員の僕らだけですからねぇ。
ソバ:先輩、何の罪になるんですかねぇ。
ウドン:結局、犯人は何がしたかったんだ。
ラーメン:何か、楽しそうに、笑顔で帰って行きましたけどな。
ソーメン:要するに、田舎のコンビニだから、冷やかしたかっただけなのかな。
ソバ:たった、それだけぇ。

 無責任なようだが、事件は未解決のまま、お蔵入りとなった。



2006年12月11日 今朝の夢

 今朝見た夢は海面すれすれを飛ぶ飛行機の中から始まった。小型の双発機、目の前に機長と副操縦士が座っている。その真後ろに僕がいた。
 一気に高度を上げ、そしてぐんぐん高度を下げていく。目的地の島が見えた。実際には本州や四国のような大きな島だったのかもしれない。遠くに山並みも見えた。
 海岸線に沿って飛行機は飛ぶのだが、何故か住宅が波打ち際に並んでいた。満ち潮になると大変だろうな、そう言うことを夢の中で考えていた。
 いつの間にか住宅地に走る狭い道路を何かで移動していた。少なくとも飛行機ではなく、おそらく自動車か何か、機長と副操縦士らしい二人も一緒だった。
 そして徒歩で商店街を歩いていた。この辺りで目が覚めた。



2006年12月10日 雀のピーチクパーチク

ピーチク:きみ、知っとるか。
パーチク:何をですか、いきなり。
ピーチク:猫の喫茶店言うのが、あんねんで。
パーチク:ほんなら何ですか、猫がお茶運んできたり、ケーキ持ってきたりするんですか。
ピーチク:猫がコーヒー持ってくるか。ケーキなんか渡したら、客に渡す前に食うてまうで。
パーチク:ほんなら、猫喫茶って何ですか。
ピーチク:要するにな、人間が猫に癒される喫茶店や。
パーチク:猫に人間が癒されるんですか。そう言えば、最近の人間って、何かと言えば、癒し、癒し、言うてまんな。どないなってますねん。
ピーチク:きっと、疲れてんねやろな。
パーチク:可哀相な話でんな。
ピーチク:思わへんか、その内にやな、猫の次は犬に癒される喫茶店とか、思い付かへんか。
パーチク:そやけど、猫は兎も角、犬は庭で飼えますで。わざわざ喫茶店まで、犬に会いに行く奴、いますか。
ピーチク:そら、団地住まいの人間かて、ようさんおるがな。猫でもそうやんか、飼われへんとか、飼えへんやのうて、やっぱりようさんの犬や猫と会いたいと思うで。
パーチク:成る程。
ピーチク:犬や猫の次は、何が流行るかな。
パーチク:雀言うのは、ないでしょうね。
ピーチク:考えてもみいや。有り得ることやけどな、仕事終わった途端にやな、かごに入れられて、少ない餌で過ごさなあかんねんで。辛いで。
パーチク:お客さんに余計なことしたらどないなるでしょうね。
ピーチク:次の日には、あれやで、焼鳥屋で串に刺されてるかもしれへんで。雀なんて、いくらでも替わりはおるからな。
パーチク:今の話はなかったことにしてね。
ピーチク:誰に言うとんねん。そやけどな、犬、猫と来たら次はネズミとかな、来そうに思えへんか。
パーチク:ネズミですか。ハツカネズミとか、ハムスターとか、あの辺ですか。
ピーチク:そうや。あと、リスとかな。ありそうやないか。
パーチク:そこまで来たら、カナリヤとか、インコとか、オウムとか、ありそうじゃないですか。
ピーチク:そやけど、日本人はぜいたくやからな、有り得へん動物とか、言い出すかもしれへんで。
パーチク:例えばどんなんですか。
ピーチク:極端に言えば、ニシキヘビとかな。
パーチク:極端な例えすぎますわ。もちょっと、かわいい路線でお願いしますよ。
ピーチク:ピラニアなんかどうや。コーヒー飲みながら、迫力あるピラニアが肉を食いちぎる場面とか、見て、癒されるねん。
パーチク:夢でうなされますよ、きっと。
ピーチク:ニシキヘビもそうや、羊の丸呑みなんか見て、癒される人間、おるんちゃうか。
パーチク:うわっ、最悪。
ピーチク:ライオンとか、虎とか、オオカミとかに癒される人もおるかもしれへんで。鹿とか、牛とか襲ってな。
パーチク:もう聞きたない。どっか逃げよう。
ピーチク:おぉい、どこへ行くねや。
パーチク:今日はもう、帰ります。
ピーチク:あぁ、気の弱いやっちゃな。ちょっとした例えやったのに。お、冷えてきたな、わしも帰ろ。



2006年12月10日 ラーメン&ソーメン

ラーメン:やぁ、久しぶりやな、ここの舞台。
ソーメン:そうやなぁ、皆さん、お元気でしたか。
ラーメン:あっという間に、師走やで。
ソーメン:そやけどな、何で師走言うて、師匠が走るって書くねん。
ラーメン:そら簡単やがな。
ソーメン:ほな、教えてえな。
ラーメン:簡単やで。師匠がな、お弟子さんから、月謝を取ろう思てやな、弟子の家を走り回りはんねや、大変な話やろ。
ソーメン:何か、こじつけみたいな気ぃするけど、まぁ、納得しとこ。
ラーメン:ほんで、今日は何か、用でもありまっか。
ソーメン:なかったら、舞台に立ったらあきまへんのか。
ラーメン:話すことなかったら、舞台に立たれへんがな。帰らなあきまへんやんか。
ソーメン:ほな、帰ろ。
ラーメン:帰ったらあかんやんか。お客さん一人でも居てはんねんで。
ソーメン:ラーメン君、よう見てみ、あれ、うちのマネージャーやんか。
ラーメン:あ、ほんまや。わざわざ、入場料払て見に来てくれたんや。ありがとう。
ソーメン:違うがな、さっき、控え室からこっそり裏口入場したんやんか。
ラーメン:そらあかんわ、客としてなってないわ。も一遍、表から入り直しや。
ソーメン:あぁそうや、思い出した。
ラーメン:何を思い出したんや、この忙しいときに。
ソーメン:どこが忙しいねん。
ラーメン:マネージャーに入場料払て貰わなあかんやんか。
ソーメン:辞めとき、どうせその入場料、僕らの懐には入らへんから。
ラーメン:ほな誰の懐に入んねん。
ソーメン:この舞台の修繕費かなぁ、ほれ、あそこ見てみ、傷いっとるやろ。
ラーメン:あ、ほんまや。よう見たらあんなとこも傷いっとるし、結構傷だらけやな。
ソーメン:あ、ほんでな、思い出したんやけどな、来年の夏、ラーメン君はどないして過ごすねん。
ラーメン:なんや急に、来年の話なんか。おかしなやっちゃな。
ソーメン:思わへんか、夏の暑い時期にな、冷房効かせてラーメンすすって、人に悪いと思わへんか。
ラーメン:言われてみれば、そうかもしれんな。今まで、甘えてたかもしれへんな。
ソーメン:そこでな、考えたんや。ラーメン君が、夏でも人気を維持する方法を。
ラーメン:それでソーメン君はどないすんねん。ソーメン君の人気、また落ちるかもしれへんで。
ソーメン:そないなこと、気にしたらあかん。それより、話聞きや。
ラーメン:聞くがな。はよ、教えてえな。
ソーメン:あんな、ソーメン流しってあるやろ。それを替えてなラーメン流しにすんねや。
ラーメン:ラーメン流しにするんか。そら、おもろそうやな。もうちょい具体的なこと、教えてえな。
ソーメン:あんな、ソーメンと一緒や。上からドワーッって感じで、流せばええだけや。他にあるか。
ラーメン:それやったら簡単やな。やってみよか。
ソーメン:来年までに準備したら、間に合うやろ。おもろいやろな。
ラーメン:そやけどな、ソーメン流しには勝てへんやろ。
ソーメン:なんでや、言うてみ。
ラーメン:ソーメンやったらな、つゆとショウガぐらいでええけどな、冷やし中華やったら、キュウリとか、ハムとか、色々刻まなあかんやろ。準備が大変や。
ソーメン:今、なんて言った。
ラーメン:そやから、キュウリとかハムとか、用意するもんが多いなぁって。
ソーメン:その前に違うこと、言うとるやろ。
ラーメン:何か気に障ること、言うたか。
ソーメン:言うとるがな、冷やし中華言うたな。
ラーメン:言うたよ。違うんか。
ソーメン:違うがな。あくまでもラーメン流しや。夏の暑い時期にな、熱々のラーメンを流して食べる、これをせなあかんのや。店ん中、ガンガンに冷房効かせてな、熱い熱いラーメンが流れてくんねん。ええアイデアやろ。
ラーメン:何か無駄な気ぃしてきた。
ソーメン:なんでや。もしかしてまだ、雰囲気つかめてへんのとちゃうか。
ラーメン:雰囲気言うか、イメージ湧かんな。
ソーメン:試してみるか。ラーメン君、店の人な。客、演じたるわ。
ラーメン:よっしゃ、任しとき。
ソーメン:ここが噂のラーメン流しの店やな。ガラガラガラ、よっこいしょ。ガラガラガラ。
ラーメン:今のガラガラガラって、何やねん。
ソーメン:ドアに決まってるやないか。
ラーメン:ドアやったら、ウイーンって感じやないか、普通。
ソーメン:何言うてんねん。いきなり自動ドア付いた店借りれると思うか、最初は手動のドアの店で始めて、それで売れたら自動ドア付けたらええやんか。細かいこと気にするやっちゃなぁ。
ラーメン:分かった、もう言うな。いらっしゃい、ラーメン流しで宜しいか。
ソーメン:それが目当てで来てるんやないか。頼んます。
ラーメン:流し、行きます。ドッチャー。
ソーメン:何やそれ、ラーメン、そのまま流しとるだけやないか。
ラーメン:ラーメン流し言うさかい、流したらええやんけ。ちゃうんかいな。
ソーメン:客に水ぐらい出したらどないや。
ラーメン:水、流します。ドッチャー。
ソーメン:水流して済む問題か。第一、流すねんやったらコップぐらい出せよ。どないして水、受け止めるねん。
ラーメン:いやぁ、洗いもん減らそう思てな、手ですくってな。
ソーメン:もういいわ、わしが手本見せたる。代われ。
ラーメン:ほな、客の役、演じたるわ。お、ここが有名なラーメン流しの店やな。
ソーメン:ウィーン、いらっしゃいませ。十一番のお席へどうぞ。ウィーン。
ラーメン:今の、ウィーンって音、何や。
ソーメン:自動ドアに決まっているやないか。
ラーメン:何で自動ドアやねん。手動ちゃうんかいな。
ソーメン:今、有名なって言うたやんけ。有名やから自動ドアにしとんねや。
ラーメン:ま、何でもええわ。ラーメン流し一つ下さい。
ソーメン:お客さん、こちらがメニューになっております。お選び下さい。
ラーメン:お、色々有んねんな。ほな、醤油ラーメンで行こか。
ソーメン:分かりました。醤油ラーメン一丁。お水、どうぞ。
ラーメン:お、ちゃんとコップに入った水が出てきたで。麺も湯がいてはるし、本格的やな。
ソーメン:当然のことやんけ。麺湯がかんかったら、食われへんで、まったく。
ラーメン:まだかなぁ。
ソーメン:はい。十一番さん、醤油ラーメン流します。
ラーメン:お、つゆと一緒に麺が流れてきたで。ドッチャーと来たで。うわっ、麺が多すぎて、全部受け取れへんがな。
ソーメン:大丈夫ですがな。ちゃんと、網が用意しておまっせ。樋の先っぽで網がおまっしゃろ。
ラーメン:これ、樋なんですか。樋言いまんのか。知らんかった。
ソーメン:何でも宜しいがな。網に流れ着いたん、拾ってくださいよ。
ラーメン:こんなんやったら、最初から先っぽに丼置いといた方が早いで。
ソーメン:それでは次、行きまぁす。
ラーメン:続きがあるんかいな。箸持って待っとこ。
ソーメン:豚骨、行きまぁす。ゴロゴロゴロ。
ラーメン:何で豚の骨が流れてくんねん。
ソーメン:あ、間違えたがなぁ。豚骨行くで。受け止めや。
ラーメン:お、来た来た。うわっ、麺の量、多くないか。あ、割り箸、折れてもうたがな。
ソーメン:もう一遍、行くで。
ラーメン:ちょっと待ってな。ラーメン言うたら、普通はメンマとか、チャーシューとか、ネギとか、付かへんか。
ソーメン:それも忘れてたな。ほな、一緒に流すで。ドドチャチャチャー。
ラーメン:訳の分からん固まりやで、それ。無茶苦茶や。箸で受けられへんやんか。
ソーメン:次は味噌ラーメンや。それぇ。
ラーメン:豚骨まだやのにぃ。
ソーメン:次は塩ラーメンや。
ラーメン:ご免、このカニ入りバターコーンラーメン注文してもかまへんか。
ソーメン:任しとき、それっ。
ラーメン:こんなもん、食べれるわけないやろ。
ソーメン:そないに言うねやったら、注文すなや。
ラーメン:もういいわ。こんなもん、絶対に真似せえへん。
 どうもありがとうございました。



2006年12月10日 言わせて…2

 朝日新聞の朝刊に載っている小説を今朝、久しぶりに読んでみた。確か青年が自殺する話だったような記憶がある。読んでいて辺野古という文字を見付けた。どこでどうなって青年が自殺する話が辺野古と結び付いたのか、よく分からないが、青少年の自殺が話題になる一方で辺野古の話題も時折だが、報道される。その二つを上手く結びつけたつもりなのだろうか。
 確かに辺野古という現実に所在する地名、そして問題をどの様な形であれ、出してくれることは感謝すべきかもしれない。しかし、安易に出すことは危険極まりないと思うんだ。逆に現場を取材したり、辺野古という現場を支援する立場になってしまえば小説なんか書けなくなるだろう。
 単に小説の舞台として用いるだけなら適当に知識として持っている方が楽なのかもしれない。
 中途半端な文章になってしまった。締めくくりとして相応しくないが、要するにこの小説、おかしいんじゃないか、そう言いたいだけである。



2006年12月10日 今朝の夢

 夢を見た。ローカル線だろうか、のんびりと走る電車、阪急で言えば正雀駅みたいにホームの反対側には回送が停車していて車内では乗務員らしい二人が居眠りをしていた。
 少し大きな駅に到着、列車を降りて階段を上ると迷彩服の男性とすれ違う。それが一人や二人ではなかった。おそらく有事のさなかかもしれない。階段を上がるとまたホームがあった。財布の中を捜して「480円」の切符を駅員に出して改札を越える。それからまた何故かホームに戻り、今からあいているホテルか民宿を探そうとしている自分がいた。
 時々、駅が舞台の夢を見る。どこにでもあるホームが四番線まである駅、改札へ行こうとしたら陸橋を使わなくては行けない駅、身体が不自由な人には不便な駅、それでいて昔からある形の駅、何故なんだろう。



2006年12月10日 そば&うどん

ソバ:十二月やで、早いなぁ。
ウドン:ほんま、早いなぁ。今年も何もないままに過ぎそうやで。
ソバ:そう言えばな、十二月言うたら、ウドン君、何か思い浮かばへんか。
ウドン:そうやなぁ。まず、お歳暮かな。次に年越し蕎麦、暖かいの、ええなぁ。それから、クリスマス。プレゼントも欲しいけど、ケーキ、食べたいな。まだ有るで、年賀状書かんならんやろ。大掃除、大変やけど、忘れたもんが出てきたりして、嬉しいなるな。
ソバ:他に、ないか。
ウドン:ちょっと、急には思い出されへんな。
ソバ:あの、カチッ、カチッ、言うの、何か無いか。
ウドン:あぁ、ライターやな。
ソバ:それで、何か思い出さへんか。
ウドン:子供ん時にな、寒かったからやな、おとんのライター出してな、火ぃ付けたんや、そしたら、隣の家、真っ黒になってなぁ。
ソバ:それ、放火やんけ。そないなことして、どないすんねん。
ウドン:ソバ君が、ライターの話するさかい、こないなこと、思い出したやんか。あの時は、町内会の会長まで出てきて、えらい怒られたわ。
ソバ:ようそれで済んだな。普通捕まるで。
ウドン:ほんで、ライターで何を思い出せ言うねん。
ソバ:ライターなんかどないでもええねんや。カチッ、カチッ、言うたら、普通は拍子木思い出すやろ。
ウドン:何やそれ。
ソバ:何や、拍子木知らんのかいな。
ウドン:知らんなぁ。
ソバ:夜な、火の用心、言いながら、カチッカチッ、言う音させて歩いてんの、知らんか。
ウドン:あぁ、そう言えば、何か聞いたこと有るわ。拍子木って、火ぃ付ける道具ちゃうんかいな。
ソバ:何で火ぃ付ける話になんねん。
ウドン:うちの町内でな、火の用心言うて、カチッ、カチッ、って音がした後、必ず火事起きとるさかい、てっきり火ぃ付けるもんや思とったわ。
ソバ:無茶苦茶や、どないな町内やねん。
ウドン:今日は何か、僕の町内を笑いもんにする話かい。
ソバ:実はな、今日は火の用心の話、したいねんやんか。
ウドン:何や、そんだけのことに、うちの町内の話せなあかんのかい。
ソバ:実はな、わしのおじいちゃん、村長やってん。
ウドン:ちょっと待ってや、うちの町内笑いもんにした揚げ句に、自分のじいちゃんは、村長って、自慢かい。
ソバ:ちゃうがな、勝手に町内会の話したん、ウドン君やないか。じいちゃんの話、聞いてや。
ウドン:それよりな、何で村長の孫がここにおんねん。おったらあかんやろ。
ソバ:何でおったらあかんねん。村長の孫が、ウドン君と一緒に舞台立ってたらあかん言う、法律でもあるんかい。
ウドン:法律は知らんけどやな、村長の孫は村長の孫らしく、ふんぞりかえっとかなあかんやろ。
ソバ:そうかなぁ。
ウドン:ソバ君、あれやろ。村に帰ったら、村長の孫や言うて、ベンツで村内見回ったりすんねやろ。
ソバ:何でベンツなんか乗らなあかんねん。そんなもん、あらへん。
ウドン:ほな、あれか、トラクターか。
ソバ:何でベンツからトラクターへ変わんねん。落ち過ぎやろ。あんな、おじいちゃんが村長やったんわ、僕が子供の時、今は関係ないの。
ウドン:ほな、ソバ君が大人の時はお父さんが村長やったんちゃうんか。
ソバ:おとんは村長になりまへんでした。
ウドン:ほな、助役の時に、悪いことして捕まったんか。
ソバ:何で助役で悪いことせなあかんねん。
ウドン:ほな、出納帳とか、建設部長あたりか。
ソバ:おとんは役所勤めしてまへん。普通の農家でした。
ウドン:あぁそうか、悪いことして、役所に入れへんかったんや。
ソバ:勝手に話し作ったらあかんわ。うちは元々農家やったの。じいちゃんは運良く村長になったの。
ウドン:何や、村長が悪いことして土地押領して、そんで農家や思たら、農家で悪いことして、ほんで村長になったんかいな。
ソバ:何で悪いことしてまで村長にならなあかんねん。まぁ、ええわ。
ウドン:ほんで、村長のおじいちゃんが、何を悪いことしてん。
ソバ:いや、別に悪いことをしたわけやないで。あんな、おじいちゃんな、村長になる前に、洋画を見てな、感動したことがあったんや。
ウドン:何を感動してん。あれか、有名な洋画言うたら、風と共に去りぬとか、その辺か。
ソバ:何か知らんけどな、消防署の場面があってな、いざ、出動の場面でさ、上から鉄の棒つたって署員が降りてくる場面があったんやって。それ見て感動しはってな、うちの村にも、あんな消防署作ろう言わはってんや。
ウドン:そら、ええ事やんか、あれ、便利そうやん。
ソバ:それでうちのじいちゃん、どないしたと思う。
ウドン:何か、よっぽど、とんでもないことしたんやな。
ソバ:そうなんや。浅草十二階より高い塔建てはってな、山越えて隣町まで見える言うて有名なってんけどな、消防車出動言うときにな、署員は皆、屋上まで行って、ほんで手すりにつかまって降りてこい言う決めごと作りはったんや。
ウドン:ソバ君のおじいちゃん、そんな厄介なこと決めはったんかいな。
ソバ:そやから火事や言うたら、いつも間に合わへんねん。
ウドン:そらそうやろ。高い塔の上まで行って、それから一階まで降りて、そら間に合わんわ。
ソバ:ほんで、おじいちゃん、二期目の立候補でけんかったんや。
ウドン:そら誰も、出てくれ言わんわ。
ソバ:実はな、も一つ話があんねん。
ウドン:聞いたろ。何や、言うてみ。
ソバ:おじいちゃんな、実はサンダーバード言う、映画も好きやってん。
ウドン:言うこと、大体分かってきたわ。
ソバ:言うてええか。
ウドン:言わん方が身のためやで。
ソバ:ほな、やめとくわ。



2006年12月09日 雀のピーチクパーチク

ピーチク:あっという間に、十二月やな。きみ、今年はどないやった。
パーチク:どない言われましても、まぁまぁ、ぼちぼちの一年でしたね。
ピーチク:そない簡単に締めくくりなや。
パーチク:話しづらいですか。
ピーチク:いつものことやけどな、無理にでも本題に引っ張っていくで。
パーチク:どうぞどうぞ、本題に入ってくださいよ。
ピーチク:ところできみ、十二月言うたら、何を思い浮かべる。
パーチク:そら、ケーキですがな。クリスマス開けたら、ケーキ屋の護美箱に、売れ残ったケーキ捨てますやろ。あれを食べて初めて、年末やな、十二月やな、思いますねんやん。
ピーチク:変なところだけ、似てるな。
パーチク:そらそないですやん。似たもの同士ですやん。そやから世代違ても付き合ってられますねや。ちゃいまっか。
ピーチク:他に、十二月言うて、思い浮かべること無いか。
パーチク:年賀状かな。
ピーチク:まぁ、人間言うたらこの時期、年賀状書こうか、印刷屋に回すか、よう考えとるな。
パーチク:あ、他にもありますな。お歳暮。たまに生もん腐らせて、悩んどる人間おりますな。
ピーチク:いい線突くな。
パーチク:何がですか。
ピーチク:もうちょいで、今日の本題に入れるんや。
パーチク:無駄話は宜しいねん。はよ本題に入ってくださいよ。さっきからトイレ我慢してますねんや。
ピーチク:我慢せんでええがな。トイレ行っといで。
パーチク:あぁすっきりした。
ピーチク:えらい早いなぁ。
パーチク:今ここで出しましたがな。
ピーチク:汚いなぁ。
パーチク:ほれ、あそこの忘年会帰りのおっさん、髪に僕の出したもん、付いてますけど、気い付いてまへんで。
ピーチク:ま、ええわ。ほんでな、今日の話題なんやけどな、実は、サンタさんや。
パーチク:これだけ引っ張って、話題、サンタさんですか。
ピーチク:何や、サンタやったら、あかんか。
パーチク:もう少し、奥のある話か思て、期待してましたがな。
ピーチク:サンタさんかて、奥もあれば歴史もある、立派な事やで。
パーチク:もう、前置き聞き飽きました。はよ本題に入ってくださいよ。
ピーチク:人間の世界にな、宅配便言う職業有るやろ。
パーチク:それがサンタさんと、どない関係おますねん。
ピーチク:ま、聞きや。宅配便業者、黒い猫のマークで有名な宅配屋、きみ、知っとるか。
パーチク:我々雀でも知ってますがな。クロネコヤマトの宅急便でっしゃろ。
ピーチク:あかんがな。勝手に会社の名前出したら、名誉毀損かなんかで訴えられるで。
パーチク:違いまんがな。逆に宣伝になった言うて、宣伝料もらえるかもしれまへんで。
ピーチク:知らんかった。
パーチク:ほぉれ、パンくずほってくれた。
チュンチュン、チュンチュン。
パーチク:ピーチクさん、ピーチクさん。話の続き、どないなったんですか。
ピーチク:パンくずに夢中になって、忘れるとこやった。クリスマスの夜にな、宅急便の車にサンタのマークか何か貼ってな、プレゼント届ける言うのは、ええアイデアやな、思て、その話がしたかったんや。どないや。
パーチク:そんなもん、わてにしても意味あらへんがな。会社の社長さんにでもして来なはれや。こんな話するために、長い長い前置きしはったんですか。
ピーチク:ええアイデアや思わんか。
パーチク:そやから、それは宅急便会社の社長にでもして来なはれ。
ピーチク:運転手にな、サンタの格好さすねん。ほんで、夜遅い時間にな、ピィンポォン鳴らして、子供がドア開けたら、サンタさんが玄関先に立っとんねん。子供が喜ぶ顔、思い浮かばへんか。
パーチク:勝手に話しとき。
ピーチク:ええで、受けるで。
パーチク:あれやで、プレゼントに配達伝票貼って有んねんで。子供がそれ見たら、夢もへったくれも有りゃせんで。
ピーチク:そんなもん、配達寸前にやな、はがしてもうたら済むことやんか。
パーチク:一晩の配達量が膨大になりまっせ。お歳暮と重なって、配達員、身ぃ持ちまへんで。サンタの服かて、一晩のために揃えとったら、無駄でっせ。
ピーチク:ボランティアでも雇たら済むことや。子供に夢を与えるためにはな、大人は努力せなあかんねや。
パーチク:えらい今日は、力んでまんな。
ピーチク:実はな、わし、クリスマスプレゼント、もろたことないねや。欲しいと思わんか。
パーチク:それより、この冬をどない乗り切るか、その方が先ちゃいまっか。
ピーチク:そりゃそうだ。でもな、わし、若い頃、一遍だけ、サンタさんに会うたことあんねやで。
パーチク:また嘘始まった。
ピーチク:ほんまのほんまやて。若い頃な、そりに乗ったおっさんが、空の上走っとったんや。
パーチク:ほんまでっか。
ピーチク:あまりに高いとこやったさかい、飛んでも届かへんかったけどな。その後すぐ、大東亜戦争が始まったんや。
パーチク:やっぱり嘘や。
ピーチク:ほんまやって。信じてぇな。



2006年12月04日 物語 太郎のこと

 太郎とムマナスクは中国とチベットの国境にある秘境へ足を踏み入れていた。誰も住んでいないと思っていたら小さな集落があった。集落と言っても家屋の数は十軒に満たない。
「誰も、居無いのかなぁ」
 太郎はそう言いながら一軒一軒見て歩いた。
 廃屋となって久しいのだろうか、どの家もこの数年、手入れが全く行われていない様子だった。
「嫌な物だな」
 ムマナスクは自分が見てきた過去を思い出したのか、目の前の現実から目をそらしているようだった。
 太郎は一つ、嫌な痕跡を見付けてしまった。しばらくためらったが、まるで勇気を振り絞ったようにムマナスクを呼んだ。
「これを見て」
 数え切れないほどの弾痕があった。一軒の内と外、誰かが乱射したのだろうか。
「行こう」
 耐えきれなかったのだろうか、ムマナスクが太郎をうながした。
 集落の外へ出ようとした時、二人は同時に何かしらの気配を感じた。
「呼んでいる」
 そう感じた。
 集落全ての廃屋を見たわけではないから当然、見落としている何かがあっても不思議ではない。しかし、単に「見落とした」何かではない、特有の気配であった。
 惹かれるようにして一軒の廃屋を覗いた。そこには老婆が一人、腰掛けていた。
「こんにちは」
 太郎は普通に日本語で挨拶をしてから通じない相手であることを思い出した。
 老婆はゆっくりと頷いた。少なくとも挨拶として理解はしてもらえたようだ。
 太郎はムマナスクの方を見た。この男ならば言葉が通じない相手とでも語ることが出来る。少なくとも太郎にはまだ真似が出来ない。
「この村の人はどうした」
 ムマナスクが尋ねている。その言葉が太郎の心にも響いてくる。
 老婆が口を開いた。
「この村の者は、皆死んだ。殺されたんだ」
 老婆は目の前にいる二人より、ずっと遠くを見るような目で語り始めた。そしてその一語一語が太郎の心に響いてくる。

 今から十年ぐらい前だったかね、この近くで一人の仙人が殺されたんだよ。あんた達は信じるかね、仙人を。信じようと信じまいと、それは勝手だが、実際にいたんだよ、仙人が。
 その仙人は、百年以上生きていたらしいんだが、実際に何年生きていたかなんて、本人も忘れたらしい。私らも興味はなかったんだよ。それよりも、その仙人はよい人でね、私らのために、病気を治してくれたり、薬草を見付けてくれたり、まぁ、大抵のことは助けて貰ったよ。見ての通り、この集落は小さいし、住んでいる者も少なかった。
 十年ぐらい前のある日だよ、軍隊だか何だか分からないんだが、武器を持った連中がこの集落へ来たんだ、丁度、仙人はこの奥にある、洞窟にいたんだが、その連中、そこまで行って、仙人を殺したんだ。
「その仙人、自分の身を守らなかったのかい」
 太郎は思わず、口を挟んでいた。
 仙人と言っても、不死身ではなかったんだろうね。それよりも、その時に仙人の心が世界中へ散ったんだ。
「心が、散る。どういう意味だい」
 私らにも、よく分からないんだが、仙人の死体は残らなかった。替わりに、仙人は光となって、飛び散ったそうだよ。だから、私らは心が散ると言っている。その後のことだよ、連中、私らをあの家へ集め、皆、殺したのさ。
 老婆はそう言って一軒の家を指差した。先ほど、太郎が無数の弾痕を見付けた家である。
「おばあさんは、助かったんだね」
 太郎の問いに老婆は首を横へ振った。
 仙人が心を散らした御陰でね、今日までここにいられたんだよ。二人とも、私らの悲しみを、どうか、誰かへ伝えておくれ。お願いしたよ。
 そう言うと老婆の身体は砂となり、流れるように足元へと崩れていった。
 しばらく夢でも見ていたかのよう呆然と立ちつくしていた。
 ムマナスクが砂の中に鈍い光を見付けた。取り出す。錆び付いた銃弾だった。その砂をかき分けるとまだ出てくるような気がした。
「おばあさん、無理して生きていたんだね」
「仙人が、生かしていたんだろうな。悲劇を伝えるために」
「心が散る。難しいことだな」
「僕らの力も、仙人の心から、始まったのかな」
「十年前なら、時間的に、合わないんだが」



2006年12月01日 今日の雑記

 仕事の帰り道、自宅近くにて私の前には乗用車二台、その前には蛇行する単車が二台いた。単車に乗っているのはいずれも十代後半と思える若者、ヘルメットもかぶらず、一台は二人乗り、この寒い時期に暴走族でもあるまいし、「迷惑だな」と感じていた。しかし、それよりも情けなかったのは交番の前を通った時のことである。警察官は交番の外へ出ていたし、蛇行する二台の単車を見ていながら全く逆方向へ単車に乗って出掛けられてしまった。
「あのぉ、こういう社会の迷惑を取り除くのが、警察のお仕事と思っていたのですが、違うのでしょうか」
 わざわざ交番の前で違法行為を働く若者、それを取り締まってくれない警察、この先、誰を頼って身を守ればよいのだろうか。やはり自分の身は自分で守らなくてはいけないのだろうか。



2006年12月01日 今日の雑報

 仕事の帰り道、自宅近くにて私の前には乗用車二台、その前には蛇行する単車が二台いた。単車に乗っているのはいずれも十代後半と思える若者、ヘルメットもかぶらず、一台は二人乗り、この寒い時期に暴走族でもあるまいし、「迷惑だな」と感じていた。しかし、それよりも情けなかったのは交番の前を通った時のことである。警察官は交番の外へ出ていたし、蛇行する二台の単車を見ていながら全く逆方向へ単車に乗って出掛けられてしまった。
「あのぉ、こういう社会の迷惑を取り除くのが、警察のお仕事と思っていたのですが、違うのでしょうか」
 わざわざ交番の前で違法行為を働く若者、それを取り締まってくれない警察、この先、誰を頼って身を守ればよいのだろうか。やはり自分の身は自分で守らなくてはいけないのだろうか。



2006年11月30日 鉄炮伝来一私見

 我が国に鉄炮が渡来したのは天文十二(一五四三)年と言うのが通説となっている。それは種子島においてその経緯を記し、「鉄炮記」として後世へ残したからである。実際には種子島以前に日本へ鉄炮は伝わっていたのではないか、そう考えている。手元の日本史辞典に寄れば永正七(一五一〇)年、堺へ伝来して生産が始まったとの一説を載せている。私はこの一説を信じたいし、それ以前に伝来していた可能性も有るのではないか、そう考えている。
 まず鉄炮に必要な火薬は中国の唐代(六一八〜九〇七)に発明されていたという。日本は遣唐使、留学生、留学僧などの形で絶えず、中国とは行き来があった。そう言う人達が中国で全く火薬に関する見聞が無かったと言えるのだろうか。おそらく日本人の誰かが火薬に接していたことだろう。
 仮に日本人が火薬の購入を考えたとしても中国の歴代王朝や火薬を取り扱っていた人達は日本人の足元を見、火薬に対して相当な高値を提示したのではないだろうか。
 確かに日本においては火薬の原料である硝石の入手が非常に困難であったし、江戸時代になって鎖国の反動で硝石の輸入がおぼつかなくなって初めて硝石の生産を始めている。
 文永十一(一二七四)年、弘安四(一二八一)年と二度にわたって元が襲来した際、元軍が「てつはう」を用いた時、日本人は初めて火薬を利用したその兵器の威力に接し、どの様に感じたのだろうか。恐れをなしたと同時にその兵器を欲したのではないだろうか。
 そして一四六六年、琉球からの施設が洛中において鉄炮を放っている。この時、誰が何を感じたのだろうか。武士階級で関心、興味を抱いた人は少なくなかったことだろう。そして購入を考えたとしてもおかしくはない。
 おそらく倭寇にしても単に中国沿岸部へ侵入していたのではなく、鉄砲の購入、もしくは略奪も行動の中に含まれていたのではないだろうか。
 文献としては何も残されては居無いが、私的な貿易などで日本にも鉄炮が輸入されていたと考えられる。しかし、先述したように日本人が鉄炮に関する詳細な知識を持っていない、火薬も生産が出来ないなどの理由から比較的に経済力のある大名が一挺、二挺を所有する程度ではなかっただろうか。高値であっても購入者がいれば生産するのが商売である。堺の商人が大陸から鉄炮職人を招いたか、倭寇に依頼して無理矢理連れてきたか、いずれにしても堺に鉄炮職人が居たとしてもおかしくはないだろう。
 種子島から鉄炮生産技術が全国へ流布した時、それまで日本人へ高値で売り付けていた周辺諸国は安価での販売に切り替えたのではないだろうか。その結果、日本国内へ急速に鉄炮は広がったと考えたら自然だと思う。



2006年11月23日 鳥取城かつやかし

「おかしいなぁ」
 秀吉は小首をかしげ、撫で付けたばかりの髪を手で触れていた。それを見た小姓が嫌な顔をした。
「髪が乱れます」
 そう言いたげであった。
 鳥取城を包囲して既に二か月、当初の予想ではそろそろ鳥取城の食糧は尽き果て、降伏を申し出てくるはずであった。しかし、城内からはまだ何も言っては来ない。
「何を間違えたのだろう」
 秀吉は鳥取城を包囲するに当たってまず京、大坂の商人に頼み込み、鳥取城とその周辺の米穀を手当たり次第に買い集めさせた。その結果、鳥取城内の米穀も売りに出されたとの噂も出たのである。勿論、兵糧を売るような城主は居無いだろうが、金銭を得るために売りに出した家臣は居たかもしれない。
 秀吉は間諜や鳥取城へ出入りしたこともある商人に鳥取城にある蔵の大きさを探り、城内に残っているであろう米穀を算出させ、そこから二か月という数字を弾き出したのである。しかし、実際にはもう二か月を過ぎている。多少の余裕を持って兵糧を用意してきたが、これ以上長引くとこちらが参ってしまう。
 それにもし毛利の大軍が鳥取城救援へ駆け付けた時、兵糧が乏しくて敗戦するようなことになっては情けない限りである。秀吉は信長へ兵糧を届けて欲しいと泣き付いた。
 信長も今回の鳥取城攻めを重要視していたのだろう。早速、信長は明智光秀と細川藤孝に兵糧を用意するよう命じている。しかし、それでも二万という大軍を維持できるのはせいぜい一か月と言うところだろうか。
 秀吉は包囲網の外に絶えず見張りを出し、毛利軍の動きを確かめていた。予想外の方向から毛利の大軍が姿を現すかもしれない、そう考えていたのだが、毛利輝元と小早川隆景は今、岡山城主の宇喜多直家と美作で争っており、鳥取到着の見込みは薄かった。
 かつて毛利元就は月山富田城を三年包囲して落城させたことがある。秀吉は鳥取城が三年持ち堪えるつもりなのか、秀吉らが知らない場所に兵糧が隠されているのではないか、そうも疑ったが、それは杞憂であった。
 八月下旬、毛利は海上から姿を現した。船上には兵糧を満載にしていた。毛利としてはかつて石山本願寺へ兵糧を入れた天正四年七月の木津川合戦を再演したかったのかもしれない。確かにこの鳥取沖に九鬼水軍は居無い。毛利としては鉄甲船が居無ければ「勝てる」と考えたのであろう。しかし、それは甘かった。細川藤孝の家老である松井康之は見事に兵糧諸共六十五艘を沈めてしまった。秀吉に招かれていた京、大坂の商人らはその様子を見て「もったいない」を繰り返した。
「包囲が広すぎたのかな」
 秀吉は鳥取城とその周囲を描いた絵図に目を落とした。
 矢玉が届かぬよう、極端なぐらい鳥取城から離れた場所に柵を築いている。そこには一兵も損なうことなく戦を終わらせたいという秀吉の思いがある。だが、その一方で一つの不安があった。
 天正三年、信長が徳川家康に懇願されて長篠城救援へ出向いた時のことである。長篠城主である奥平貞昌の家臣鳥居強右衛門が城を脱出し、直接信長へ情勢を伝えた帰路、武田方に捕らえられたが、一命に代えて信長の到着を長篠城内へ伝えた美談がある。
 もし毛利に同じ事をされたらどうなるだろうか。それを考えただけで秀吉は背筋に悪寒が走った。実際に援軍が到着しなかったとしても「味方が来る」と信じ、最後の力を振り絞って打って出られて困るのは秀吉である。
 それ故に矢弾と声が届かぬ距離を開けて柵を設けたのである。



2006年11月23日 琉球新報 採用された投稿

 逆鱗に触れたのかな。
 十八日の昼下がり、名護市辺野古において竜巻らしきものが発生したとの報道を聞いた時にそう感じました。車両などの被害が多数あった中、人身への被害が軽傷者三名で済んだのは不幸中の幸いと言えるでしょう。
 軍隊の視点からすれば大浦湾は天然の良港なのでしょう。そして既存のキャンプ・シュワブもあり、陸海空を網羅する海兵隊にとってはとても魅力的な土地なのかもしれません。しかし、その複雑な地形は今回のように突発的な暴風を今後も発生させることでしょう。また近年話題になっている地球温暖化により、台風もより強力になっています。仮に有事と台風が重なればどうなるのでしょうか。
 日米両政府がたった一つの竜巻を恐れるとは思いませんが、そろそろ普天間飛行場の移設先を再検討する時ではないでしょうか。大阪湾辺りですと波も穏やかですし、如何でしょうか?



2006年11月21日 備中高松城 一

「遅い。遅すぎる」
 真横で突然、大声を張り上げた兄に驚き、小一郎は思わず将几から立ち上がっていた。
「兄者。今、なんと申された」
 我へ返ったかのように小一郎は尋ねた。
「遅い、と言った。毛利め、城内にいる者の気持ちを考えられぬのか」
 まさしく言葉を吐き捨てるかの如く、うつむき加減で秀吉は言った。
「兄者。それでは、まるで我らの敵のような物言いじゃ」
「小一郎。考えてもみよ。小一郎が毛利なら、あの城を見捨てたりするか」
「ふぅむ、味方を見捨てることなど、せぬな」
「そうであろう。あれを見よ」
 そう言いながら改めて高松城を挟んだ位置にある岩崎山、日指山を指さした。
「ようやく、毛利が姿を見せおった。しかも、あれで我らを脅しとるつもりじゃ」
 慌ただしく毛利、吉川、小早川の旗印が並べられていくのが手に取るように分かる。
 秀吉らが張り巡らした間諜網によって総大将である毛利輝元自身は三里も後方の猿掛城へ留まっていることは小一郎も知っている。
「情けない話じゃ」
 秀吉は落胆したかのように肩を落としてみせる。
 一体、これまで織田家はどれだけ毛利に煮え湯を飲まされてきたのだろうか。
 石山本願寺を支援した結果、播磨の別所氏、摂津の荒木氏が信長を裏切って毛利へと寝返った。秀吉が上月城へ配置した尼子勝久、山中鹿之助を見捨てることにもなった。
 秀吉にしてみれば勝久、鹿之助の仇も討ちたいし、強敵毛利を倒すことで織田家中でさらに名を挙げたい。
「しかし、何だな。ここで負ければ、毛利は家中から信頼を無くすぞ」
 蜂須賀彦右衛門正勝が秀吉の思いを代弁した。
「それよ。わしもそこが気になって仕方がないのじゃ」
 毛利の使僧でもある安国寺恵瓊が秀吉と面会したいと数日前から申し出ているが、今はそれをことごとく断っている。一戦交える前から恵瓊を前面に出してきていること自体、和戦両様の構えではなく、すでに交渉で決着を付けたいという毛利の出方を捕らえることが出来る。
「ここで、一戦もせずに終わったら、毛利はもうお仕舞いだな」
「わしはな、鳥取で毛利と決着を付ける覚悟であったが、あの様な結果となった。今度こそは、そう思っておったが、輝元は、臆病風に吹かれたのかな。それとも、わしらの方から、猿掛城まで出向かねばならぬのかな」
 秀吉はまだ旗印が右往左往している岩崎山、日指山を眺めながら急に吹き出した。
「何か、おかしいのか」
 彦右衛門が秀吉と同じ方角を眺めながら尋ねた。
「そうではない。思い出したのじゃ」
「何を。気になるではないか。藤吉郎、答えろよ」
「実はな、彦右衛門」
 今回、秀吉は甲斐の武田氏が三月十一日に滅びたのを確認してから姫路を発った。それが三月十五日である。
 この時、秀吉は京、大坂の商人で瀬戸内海を行き来する者に頼んで二つの噂を流すことにした。
 一つめは「知ってまっか。今、大坂の堺や住吉辺りに、織田の軍が次から次へと集まってますねん。何でも、信長の三男、信孝の軍らしいですわ。ほれ、三月に甲斐の武田を滅ぼして、嫡男の信忠がえらい勢いに乗ってますやろ。信長が信孝にも、何か華々しい戦させよ、そない言うたらしいですわ。土佐の長宗我部、これを信孝の手で叩け、言うたらしいですわ。そやから、今、西へ向かってる羽柴は、信孝が困ったらすぐ、四国へ行くらしい」という内容だ。
 もう一つは「信長は、石山本願寺を攻めた時に、散々邪魔した毛利を許さん言うてます。そやから、大坂、堺辺りに集まってます、信孝の軍も四国、四国言うてますけど、ほんまは違いまっせ。瀬戸内から、毛利を攻めるのが本音でっせ。ほれ、毛利が陶晴賢を攻めましたやろ。あれを真似して、厳島辺りに攻め寄せるつもりでっせ」と言い触らしている。
 輝元や毛利両川が二つの噂に振り回されたとは思えない。仮にどれだけの噂が流れようともそれを無視して高松城を救うことに全力を注ぐべきではないだろうか。それが総大将として当然の義務であろう。
 秀吉は控えていた武士に「恵瓊を呼べ」と命じ、彦右衛門に耳打ちした。
「なぁ彦、恵瓊に無理難題を吹っ掛けて、毛利を冷やかしてみるか」



2006年11月18日 義元の上洛

 その報に接した時、今川義元は自身の眉間にしわが寄ったことを嫌でも感じた。
 これまで尾張の大うつけと見下してきた織田信長があろう事か、岩倉城攻略を家臣へ委ね、僅かな供回りと共に上洛を果たしたのである。義元にしてみれば「大うつけ」が上洛したことも信じられなかったが、戦を家臣に任せたことも信じられなかった。
 この日からしばらく義元は口数が少なくなった。義元の側近くに仕える者は皆、不気味に感じていた。
 義元は以前から上洛したいと言ってはばからなかった。
 義元は家督を継承する前、出家して梅岳承芳と称し、太原雪斎と共に都の建仁寺、妙心寺で修行に励んでいた。
 雪斎は暇を見付けては自ら案内を引き受け、洛中洛外を見学させてくれた。行く先々で梅岳承芳は駿河今川家の血筋と言うことで饗応を振る舞われそうになったが、そう言う時は師であり、父とも頼む雪斎が厳しく先方に断っていた。あの時、雪斎が居無ければ今頃は洛中洛外の安女郎に囲まれて身を持ち崩していたかもしれない。そう思うと義元は今でも背筋が寒くなる時がある。
「今一度、都へ行きたいのぉ」
 もう一度、あの多感な十代で無名の梅岳承芳に戻って洛中洛外を歩いてみたい、世俗の欲とも離れて読経や写経の日々を過ごしてみたい。立て続く戦乱で京の都は荒ぶれたとは言え、その中で古刹名利は何故か光り輝いて見えたことが当時の梅岳承芳、今の今川義元には不思議であった。
 義元が上洛を望むもう一つの理由、それは「足利に人無くば吉良、今川」と言われた今川家の御屋形として当然のことであった。
 今、吉良家には何の力もない。没落する一方の足利本家を救うのは必然的に今川家の役目となる。
 義元が上洛したいと言う都度、ある日突然、梅岳承芳に戻って出奔するのではないか、または大軍を率いて上洛したまま帰ってこないのではないか、家臣らはそういう不安を隠そうとはしなかった。
 義元も「上洛したい」と言う都度、不安げな表情で義元の機嫌を取ろうとする家臣らの行動をつい最近まで楽しんでいたのだが、今は冗談でも「上洛」と言う単語を口には出さなかった。義元が本気で上洛を望めば今川家中は賛否両論で大きく分かれることだろう。それでも鶴の一声ではないが、義元が「上洛」と言えば渋々でも賛成してくれるだろう。だが、それでは困るのだ。やはり主従が一致団結して大事は果たせるものである。
 ある日、義元が「尾張の信長を倒したい」と言った時、家臣らは一瞬、我が耳を疑った。だが、次の瞬間、その意味を悟った。信長が上洛するに際しては何の障害も無かった。すなわち信長さえ討ち果たせば上洛したも同然となるわけだ。
 老臣の一人は「要するに、信長を倒す、そう言われて我らに上洛しよう、そう御屋形様は言われておるわけだ」と解釈し、周囲へ説明して歩いた。
 信長の上洛から二か月も経たぬある日、今度は越後国の長尾景虎が大軍を率いて上洛した。
 今川家と比べると越後国と言えば政情不安と甲斐の武田家との争いがある。その不安定要素を抱えていながら景虎が上洛したという事実に義元のみならず、駿府城に出入りする全ての者が「先を越された」とか「我らも上洛を」などと言い出すようになっていた。
 それでも義元自身は「上洛」とは言わず、あくまでも「尾張平定」を唱えていた。特に義元と直接顔を合わす重臣らは義元の面前では「尾張平定」で調子を合わせていたが、義元のいない場所では上洛を念頭に来るべき遠征について議論を始めていた。しかし、今川家中の中にはまだ今回の「尾張平定」に不安を持つ者がいた。
 中国の大内義興は永正四年に上洛し、永正十五年までの約十一年間も都に留まったという先例がある。もし義元が真似をしたらどうなるだろうか。確かに義元が義興と同じ管領代となれば非常な名誉である。その一方で戦費をどの様に調達するのか、そう言う現実的な不安も抱えていたが、永禄三年四月にはこの問題に振り返る者は居無かった。
 義元は駿府城を出発する際、太原雪斎の位牌を懐へ忍ばせた。
「一緒に、都へ行こう」
 殊勝な気持ちがあった。その一方であわよくば足利家に取って代わり、自身が将軍になるのも悪くはないか、フッとその気持ちが湧いた。
「今川幕府。否、足利義元を名乗っても良いかな」
 その邪心が義元を滅ぼしたのであろうか。



2006年11月16日 DoCoMoからauへ

 今日から携帯電話はDoCoMoからauへと変わった。以前から携帯電話はDoCoMo、ネットのプロバイダはDIONであったからいずれかへまとめたいと考えていたのだが、ようやく携帯電話番号を変えることなく会社を乗り換えれるようになり、KDDIへの統一を果たすことが出来た。少なくとも請求書を一通にまとめる事が出来る。メリットはそれだけかもしれない。
 帰宅してから説明書を読むことなく、大体同じだろうと設定を行っていたら着信音の中に「ニライカナイ」という音楽が入っていた。いかにも沖縄という感じの曲、多分、喜納昌吉あたりが作曲したんじゃないか、そうも感じるのだが、取り敢えず着信に設定した。



2006年11月15日 雀のピーチクパーチク

パーチク:ピーチクさん、一つ、聞いてもいいですか?
ピーチク:なんや、きみの方から、話し始めるなんて、珍しいやないか。
パーチク:いや、あのですね、思ったんですけど…
ピーチク:その前に一つ聞くけど、きみ、いつの間にか、冬毛になってるやんけ。
パーチク:そら、そないでっせ。いつまでも夏毛のままやったら、冬越せませんやん。
ピーチク:そらそうやな。そやけどな、人間の世界には「越冬ツバメ」言う歌があんねん。知っとるか?
パーチク:知りませんよ。それがどないかしたんですか。
ピーチク:この歌をな、ピュッルリ君が聴いてな、何をしたと思う。
パーチク:そのまんま、真似して越冬ですか?
ピーチク:そやねん。しかもな、津軽海峡で越冬する言うて聞かんかってな。
パーチク:それで、どないしたんですか。
ピーチク:しゃあないやんか。わしも友達やんか。一緒に越冬したる言うてな。
パーチク:ピーチクさんて、ええ人なんですね。
ピーチク:途中まで一緒に行ったんやけどな。二人ともあかんかったわ。
パーチク:途中までって、どこまで行ったんですか?
ピーチク:どこやと思う。
パーチク:じらさんと、教えて下さいよ。やっぱり、津軽半島ですか?
ピーチク:いや、違うねん。実はな、高知県やねん。
パーチク:方角、思いっ切り逆や無いですか。何をしてますねん。
ピーチク:いや、あんな、脂肪を付けとかなあかん思てな、高知まで行って、虫とか、追い掛けとったら、いつの間にか寒なってな。こらあかん、やめよ言うて、やめたんや。
パーチク:そないな話、どないでも宜しいねん。わての話、聞いてくださいよ。
ピーチク:そうやったな。で、なんや。
パーチク:人間ってね、面白いと思いまへんか。
ピーチク:わし、前からそれ言うてると思とったけど、聞いてなかったんかいな。
パーチク:そうでしたっけ。ま、宜しいやんですか。面白いと思いまへんか、ピーチクさんは。
ピーチク:いや、わしは人間観察して五十年になるけど、未だにやめられへんで。
パーチク:五十年って、何年生きてはりますねん。雀の寿命、とおに過ぎてはりますやんか。
ピーチク:色々あってな、平均寿命を過ぎてしもたんや。ところで、何を見て人間はおもろいと思わはったんや。
パーチク:それがですね、この間、人間が会話してるん、聞いとったんですわ。そしたらですね、ライオンのことはライオン言うてはるのに、虎のことは虎言うてますねん。おもろいでしょ。
ピーチク:それ、普通やんか。
パーチク:ピーチクさん、おかしいですやん。ライオン言うたら外国語、虎言うたら日本語ですやん。日本人やったらライオン言わんと獅子言うたら宜しいやん。何でライオンだけライオンですねん。
ピーチク:言われてみたらそやな。なんでや。
パーチク:知りませんよ。僕に聞かんとってください。
ピーチク:聞かんとってくれ、言うけどな。人間、答え、言うてなかったか。
パーチク:なんも言うてまへん。ただ、ライオンが、虎が、言うだけで、外国語と日本語を使い分けてる理由なんて、何も言いまへんでしたわ。
ピーチク:そら、無意識言う奴やな。
パーチク:何ですか、それ。
ピーチク:簡単に言うたら、知らん間に使とる言うことやな。
パーチク:全然分かりまへんわ。
ピーチク:ほれ、虎のこと、英語で言うたらタイガー言うやろ。
パーチク:そうですな。それで。
ピーチク:タイガー言うたら、ほれ、プロゴルファーにおるやんけ、タイガー・ウッズ言う人が。
パーチク:それで。
ピーチク:タイガー、タイガー言うてたらな、タイガー・ウッズさんが、自分が呼ばれてる思て、振り返るかもしれへんやんか。
パーチク:そやから言うて、タイガー言わんと、虎言うてますんかいな。
ピーチク:そうちゃうか思うねんけど、違うか。
パーチク:タイガー・ウッズさん言うたら、いつもいつも日本におるわけやありまへんで。そないに気ぃ使わんかて、宜しいやんか。
ピーチク:言われてみたらそやな。
パーチク:ところでピーチクさん。
ピーチク:何や。
パーチク:タイガー・ウッズを日本語に直したら、森虎さんになりまへんやろか。
ピーチク:そらちゃうやろ。ウッズ言うたら、林になるやろ。
パーチク:いや、森ですで。
ピーチク:ちゃうでちゃうで。林やで。
パーチク:いいえ。森です。
ピーチク:林や言うたら、林。
パーチク:いいえ。絶対に森です。
 以下、延々と言い争う。



2006年11月15日 川並衆と桶狭間 その二

 その数三万という今川義元が率いる大軍に対し、織田信長に味方すると言った川並衆は梁田出羽守に率いられて獣道と思われる道をただひたすら歩かされていた。
「おぉい、ここは一体どこなんだ」
 先ほどから不平不満が噴出している。誰もが今川の大軍と一戦交えることしか頭になく、その大軍と遭遇するまでの途中経過までは考えてもいなかったようだ。
「今しばらく、今しばらく、歩いてくれ」
 木下藤吉郎が泣く子をあやすかのようになだめる。
「仕方無いなぁ。藤吉郎の頼みだ。聞いてやるよ」
 信長と梁田出羽守、藤吉郎の計画では信長自身が本隊を率いて今川の正面から攻撃を仕掛ける。そして梁田出羽守が率いる川並衆ら非正規の一軍は臨機応変に今川軍を攻撃するという簡単なことだけである。出羽守も藤吉郎も具体的にいつどこで今川の大軍と遭遇し、攻めるかなどと言うことは全く決めてはいなかった。全ては今川義元の動き次第である。
 突然、後ろの方からざわつき始めた。出羽守と藤吉郎も歩みを止め、後ろを眺めていると一人の小姓が駆け寄ってきた。
「殿よりのお言葉に御座います。敵は桶狭間付近にて、昼食に入りました。敵を撹乱せよとの御指示に御座います」
 言い終えると小姓は咳を始めた。余程慌ててきたのだろう。近くにいた者が竹筒に入っていた水を分けてやる。
 懐中より地図を取り出した藤吉郎が出羽守と位置を確認し始める。
「なぁんだ。俺たち、こんな所にいたのか」
「おい、俺にも見せろよ」
 数人が地図を見ようと藤吉郎の周囲へ集まってくる。
「えぇい、邪魔をするでない。引っ込んでろ」
 稲田大炊助が子分らを後ろへ下がらせておきながら用もないのに自身が地図を覗き込む。
 藤吉郎の地図には朱で幾つもの線が引かれている。今歩いている獣道もその線の一つなのであろう。
「よし。急ごう」
 藤吉郎は地図を懐中へ仕舞いつつ、歩み始めた。
 ぞろぞろと川並衆も続く。
 急に雨が降り始めた。
「雨が降るなんて、聞いてないぞ」
「合羽、合羽をもっとる奴は、いないか」
 川並衆がいつもと何ら変わらないのを見て藤吉郎は思わず苦笑していた。
 小さな集落の裏手へ出た。
 足軽や小者達は民家の軒先や林の中でどうにか雨宿りをしているが、風も吹き始めたので嫌でもずぶ濡れである。数軒しかない民家は全て今川の足軽大将やある程度身分のある侍らが住民を追い出して酒盛りをしているようだ。今川の足軽と世間話をしている住民もいるが、急に冷えたためだろうか、唇が紫色に変わっている子供もいる。可哀相な子供を目にしたからだろう、「チッ」と誰かが舌打ちをした。
「行くぞ」
 いつの間にか先頭に立っていた蜂須賀彦右衛門正勝が裏口から一軒の民家へ押し入った。「頭領に後れを取るな」と言わんばかりに我も我も小さな民家へ入っていく。風雨から身を守ることしか頭になかった今川の足軽達はただ呆然と見ているだけであった。
「何だ。お前らは」
 酔いで足元も呂律も回らない一人が彦右衛門を怒鳴った。
「うるせえ。全く。叩っ切っちまえ」
 彦右衛門が言い終わらぬ内に惨殺が始まり、次の瞬間には玄関の戸板が蹴破られ、赤ら顔の首がポーンと泥の中へ放り出された。
 それをみた足軽達は恐れおののき、声も出ず、ただ事の成り行きを見守るだけであった。
 川並衆はその集落の民家にいる今川方の武士を手当たり次第に殺戮し、その首全てを刎ねた。
 出羽守が足軽の一人を捕まえ、その胸ぐらを掴み、「おぉい、今川義元はどこにいる。答えろ」と義元の居場所を聞き出そうとしたが、その足軽は気を失ってしまった。
 今川の足軽達は全て農閑期を理由に駆り出された農民達である。味方が有利ならば勢いに乗じて略奪行為も平気で行うが、予想外の奇襲に遭い、しかも自分達に指揮を出す立場の人間が居無くなった以上、寄せ集められた農民にしか過ぎなかった。
 「生きて家族の待つ我が家へ帰りたい」
 この思いはその場に居合わせた足軽全てに共通していたことだろう。
 見当違いの方向から勝ち鬨が響いてきた。
 今川義元の首が風雨の中、槍先に高々と掲げられているのが見えた。
 それを見た瞬間、思い出したかのように足軽達は我が家を目指して走り出していた。



2006年11月14日 川並衆と桶狭間

「おい、本気でその様なことを言っておるのか」
 思わず蜂須賀小六が身を乗り出していた。
「本当だとも。我らの殿様が、下らぬ嘘を申すものか」
「ま、そら、そうだが。しかし、今言われて、すぐに信じろという方が、無理だぞ」
 稲田大炊助が横から口を挟んだ。庭先にまで溢れている者達も相槌を打ったり、左右の者とささやき有ったりしている。
 この日、木下藤吉郎は梁田出羽守と共に蜂須賀彦右衛門正勝の屋敷を訪ねていた。正勝の屋敷には長良川を中心に活躍する川並衆の代表者が顔を揃えていた。
 梁田と藤吉郎は川並衆に一つの依頼をしていた。それは今川義元が大軍を率いて尾張へ接近しつつあるが、くれぐれも義元へ手を貸さぬよう、頭を下げて頼んでいた。
「その代わりに」
 藤吉郎が付け加えた。義元へ手を貸さねば謝礼をはずむという条件が付いていた。川並衆の面々も進んで今川へ手を貸すつもりは無かったが、手を貸さないと言うだけで謝礼を弾むと言われると合点がいかなかった。その席には蜂須賀や稲田らの頭領に引っ付いて川並衆の子分連中も野次馬根性丸出しで溢れていた。
「おぉい、日吉丸。仮に手を貸したらどうなる」
 おそらく信長へ仕官する前の藤吉郎を知っている者だろう、庭先から誰かの手下と思われる一人が藤吉郎に質問をした。
「手を貸すのは自由。無論、謝礼は今、この場で支払おう。但し、残りは、戦の後でよいな」
 藤吉郎が手を打つと次の間に控えていた小姓らが箱を一つ二つとその場へ並べ始めた。その一つ一つを藤吉郎が進んで蓋を開け、箱に詰まっていた銭をすくってみせる。座にどよめきが生じる。頭領がいなければ銭の奪い合いが始まっていたかもしれない。
「藤吉郎。残りって何だ」
 また誰かが問い掛けた。
「戦の前で、殿も少なからず、銭が要る。故に今は手付け金を持って参った。戦が終われば残りの銭を持ってこよう」
「おい、今川相手に、本気で勝つと思っておるのか」
「織田が負ければ、残りも何もあったもんじゃないだろう」
「そう思うならば、今川に手を貸せば良かろう。そして、三河の松平の如く、散々こき使われて、捨てられれば良かろう。それでよいのか」
 立腹した出羽守が立ち上がって怒鳴り散らしていた。
「梁田殿、梁田殿」
 隣に座ったままの藤吉郎がなだめた。
「藤吉郎。一つ聞くが、仮に我らが織田殿の味方をすればどうなる」
 神妙な面持ちで大炊助が尋ねる。
「もし、今川が勝てば、謝礼は無い。川並衆の特権も無くなるであろう。それは今、梁田殿が申したとおりじゃ」
「万が一、運良く織田殿が勝てば、謝礼は倍になったりするのか」
「そりゃ、そうとも。今川から搾り取ればよいことだからな」
「それじゃあ、わしらが織田に味方して、織田が負ければどうすればいいんじゃ」
「簡単なこと。美濃の斎藤あたりでも頼って落ち延びればよいのじゃ。それとも今川に頭を下げて命乞いして、長良川で魚でも釣って生きていくか。好きな方を選べ」
 さすがの藤吉郎も最後は吐き捨てるような口調となった。
 居合わせた者達は各々左右前後の者と進退を語り合い始めた。
 一人が両手を高々と突き上げて「よぉし。藤吉郎、俺、今川退治、手伝ってやるで。何でも言え」と言えば我も我も賛同者が続いた。
 子分の方から名乗りを挙げた以上、仕方がないと言った面持ちで彦右衛門は立ち上がり、蜂須賀党は織田信長へ味方することを伝えた。蜂須賀党に続けと言わんばかりに川並衆は残らず信長へ味方することとなった。
「この銭、受け取っておくぞ」
 彦右衛門はそう言って箱を一つ小脇に抱えて出て行った。

 清洲城へ戻り、川並衆が全て味方になることを信長へ報告した後、出羽守は思い出したように「なぁ、木下、もしかして蜂須賀と示し合わせていたのか」と聞いたが、藤吉郎は「さぁて、どうでしょう」とにんまり笑うだけであった。出羽守も白い歯を見せて微笑を浮かべるだけでそれ以上、何も聞かなかった。



2006年11月12日 青田刈り

「青田刈りは、あきまへんなぁ」
「そないでんなぁ」
「羽柴はん、どないにか、なりおへんやろか」
 取り引きのある商人らに言われ、さすがの秀吉も頭を抱えてしまった。
 秀吉自身、農家の出身である。青田刈りをされる苦しみは痛いほど理解しているつもりであったが、いざ、戦ともなれば青田刈りも戦術の一つとしてやむを得ないのである。
 一家の生活を賭けて育てた稲が目の前で刈り取られる。これをただ呆然と眺めている者や必死になって抵抗した挙げ句、槍で刺し殺される者を秀吉は采配を振るう立場で見てきた。
 農家を悲しませることなく、それでいて兵糧という面で敵を苦しませる方法はないか、秀吉にとっては一つの課題でもあった。
「刈らはる分、うちらに売ってくらはったら、儲かりまんのになぁ」
 家康似の商人が懐から算盤を取り出し、遊び半分で弾き始めた。
「あんた、お茶の席でっせ。なんでそないなもんを」
 他の商人があきれ顔でたしなめた。
「そうか」
 秀吉は大仰に膝を打つと「買ってくれ」と商人らに頭を下げた。
「羽柴はん、急にどないしはったんでっか」
 居合わせた商人らは顔を見合わせた。
「毛利の米を買ってくれ。そうすれば、青田刈りをしなくて済む」
「成る程。そやけど、そない上手く行きますかいな」
「試すだけの価値はおますで」
「ほな、やってみまひょか」
「羽柴はん。銭は出して貰いまっせ」
 思い付きを口にしたものの秀吉には何ら勝算はなかった。だが、商人らは秀吉を無視して勝手に話を進めていた。
「待たれよ。まだ、上手く行くとは、分からぬぞ」
 商人らの話が膨らむのを秀吉は両手で制していた。
「羽柴はん。わてらは商人でっせ。損はしまへん。まぁ、見てておくんなさいまし」
 商人らはまず丹後国宮津に「堺屋」と言う店を構え、ここを拠点に因幡国、伯耆国で米の買い占めを始めた。
「おかしいではないか。なぜ、因州や伯州なんじゃ」
 一か月ほどしたある日、商人らに秀吉は疑問をぶつけていた。
「羽柴はん、瀬戸内辺りやと、知られすぎてまっせ」
「わてらが米の買い占めやったら、目立ちまっせ」
「元々、因州、伯州辺りやと、他所から米、流れまへんからなぁ」
「羽柴はん、鳥取城、落としとおまへんか」
 鳥取城主であった山名豊国が毛利を裏切って味方となってくれたにも関わらず、重臣の森下道与、中村春続らが中心となって鳥取城から追い出してしまった。楔を打ち込まれた形となり、兎に角、目障りである。それに因幡羽衣石城の南條元続も苦労を強いられている。鳥取城は早急に取り返す必要があった。

「何でも、越後国で大嵐があったらしい」
「いやぁ、違うぞ。出羽国で飢饉があったと聞いたぞ」
「何だっていいやい。昨日より、米の値があがっとるぞ」
 鳥取城下の港町ではこの様な会話が日々、交わされるようになっていた。

 商人らが顔を揃えて姫路城へ登城してきた。
「ぼちぼち、頃合いでっせ。どないでっか」
 傍に控えていた黒田官兵衛が口を挟んだ。
「噂に聞いたが、鳥取では、城内の米も売っておると。まことか」
「米だけではおまへん。粟、黍、稗、麦、売れるもんは何でも売ってくれはりましたで」
「もう、城内に残ってはる米、そないにおまへんで」
「鳥取の御城下も同じでっせ。今から慌てよっても、うちらが売らんさかい、なぁ」
「そないです。今の鳥取ですと、ようもって、二月とちゃいまっか」
「そやさかい、ぼちぼちでんな、言うてます」
 商人らは口々に秀吉へ鳥取攻略の機会であると語り始めようとした。それを制するかのように秀吉は居住まいを正し、「ご苦労だったな」と商人らに頭を下げた。そしてすぐに立ち上がり、廊下へ出た秀吉は大音声で「出陣じゃ。鳥取へ出陣じゃ」と城内全てへ告げるかのような勢いで部屋を飛び出していった。
 秀吉を見送った後、「ほな、わてらも、支度しまひょか」と言いつつ、商人らも席を立ち、誰に見送られることもなく、しずしずと大手門を出て行った。



2006年11月12日 勝家の動揺

 その報に接した時、柴田勝家は唖然とした。
「その様なこと、あり得るはずがない」
 ようやく発した言葉はそれだけであった。
 信長が四男於次を秀吉の養子にしたという。信じられなかった。だが、これは単なる噂の類ではない。安土から伝えられた正式な話である。
 勝家はその場にあった槍を手に取るが早い、裸足のまま庭へ飛び出し、槍を振り回し始めた。
「一体、何がどうなっているのか。わからぬ。儂にはわからぬ」
 そう怒鳴りながら勝家はひたすら槍を振り回し続けた。
 確かに今回の加賀平定戦では秀吉と意見が合わなかった。しかし、それは個人的な感情を抜いていたつもりである。
 秀吉は最近、唯一人の子、しかも男子を亡くしたばかりである。軍議の最中もいつになく上の空な秀吉が隅っこにいた。
 いつもならば勝家の意見に対して積極果敢に反論してくる。それは勝家にとって鬱陶しい以外、何物でもなかったが、その鬱陶しい行為が一切無い以上、それだけ秀吉が落胆していると言うことだろう。
「折角来ていただいたが、羽柴殿には、前へ出ず、後詰めをお願いいたそう」
 軍議の場で勝家がそう言った途端、それまで上の空であった秀吉が立ち上がり、反論を始めた。否、それは反論と言うより、無闇矢鱈な暴言に等しかった。勝家なりに気を遣ったつもりが「卑怯」とか、「功名を独り占め」などと言われれば勝家でなくとも怒り心頭に発するであろう。
「黙れ。下郎」
 ついに勝家も我慢ならず、怒鳴り返していた。その後は「斬る」とか「斬らぬ」とか、大将同士の私闘に至りかけたが、周囲にいた人々が二人を引き離した御陰でどうにかその場は収まったが、秀吉は一人、戦線を放棄して帰国してしまった。
 この様な秀吉を信長が許すとは勝家も思ってはいなかった。仮に信長が秀吉を成敗するというならば勝家は織田家の宿老として制止するつもりだった。個人的には好きになれないが、一人の武将としては評価していたのである。だが、結果は思わぬ方向となった。
「あの秀吉が、織田家の縁者など、有り得るか」
 かつて信長の次男信雄は南伊勢の名門北畠氏へ養子として入っている。また三男信孝も北伊勢の名門であった神戸氏の養子となっている。さらに五男の御坊は岩村城主であった遠山景任の養子となっている。
 この様な前例を考えれば於次もまた同盟関係にある大名や織田一族などへ養子に行くべきであろう。それが同じ信長家臣団を構成する、しかも成り上がり者の秀吉である。
「一体、何の得があるのじゃ」
 勝家の声音に怒気が含まれるようになった。
 信長が何を考えて於次を秀吉の養子としたのか、その事ばかりを考えるようになった。
 さらに続けて勝家の下へ一報が届いた。
 秀吉が中国筋の大将に任じられたという。
 勝家は秀吉が自分と同じ大将に任じられたことが認められなかった。
「秀吉め、口先で信長様を騙したか」
 だが、家臣に口先で騙されるような信長でないことは勝家が一番よく知っている。
 信長が何を考えているのか、勝家は常に考え込むようになってしまった。そしてこの迷いが勝家の采配を狂わせることになったのかもしれない。これ以後、勝家の戦は精彩を欠くことになる。
 勝家は自分が後退を決断する都度、真後ろで秀吉が大笑いしているような錯覚に陥ることがあった。実際、安土城を基点として信長分国中の情報は全て行き来しているし、勝家の下には中国筋における秀吉の活躍が日々届けられていた。
「何と言うことだ」
 秀吉の勝ち戦が伝えられる都度、勝家はため息まじりにつぶやいた。
 勝家は信長が「勝家に追い付け。そして追い越せ」と秀吉を焚き付けているように思えた。
 秀吉は信長家中で頭角を現し始めた頃から調略という方法を用いてきた。これで幾度となく敵を降誘してきた。しかし、勝家は合戦の中で調略に重きを置く秀吉が好きにはなれなかった。だが、今はその考えを改める時なのかもしれない。加賀一国でさえなかなか制圧できない勝家に対し、秀吉は苦戦しながらも着実に前へ進んでいる。
 信長が家中において秀吉を重用するのは自分とは全く違う戦上手故と勝家はようやく気付いた。
「だが、儂は、秀吉の真似はできぬ」
 今更、勝家は戦の仕方を変えることはできなかった。



2006年11月08日 今日の雑報

 掌まで荒れてきた。カサカサである。この数日、仕事中であろうが、寝る前であろうが、兎に角、手がベタベタになるぐらいにハンドクリームを塗っている。しかし、それでも間に合わない。塗った途端にトイレへ行ったりしてまた塗り直すとか、そう言うことを繰り返している。
 また今年もアカギレとかに悩まされるのだろうか。
 仕事帰りに近所のドラッグストアーへ行き、喘息に効果があるという漢方薬を買ってみた。店内にいた薬剤師さんに症状を説明したところ、勧められたのが漢方薬だった。
 しかし、喘息に悩まされる、アカギレに悩まされる、運動神経は鈍いし、欠点だらけである。これで一つでも特技とかが有れば自慢も出来るのだろうが、何もない。
 僕よりもひどい病気とかで苦しんでいる人もいるわけだし、そう言う意味では健康で自由気ままな生活が出来ている分、健康と言えるのだろう。
 だが、健康維持のためにちょっと経費が掛かりすぎているような…
 仕方無いか。



2006年11月07日 雑報 この3日間

 日曜日は頭痛で目が覚めた。頭痛薬を一錠飲んだだけで一日を過ごした。本当は出掛けたいところがあったのだが、とても出掛けられる気分ではなかった。もう一錠飲めば落ち着いたのかもしれないが、こう言う時に限って自分の内側にある治癒力に頼ろうとしてしまう、妙に捻くれた部分がある。この結果、頭痛は夜になって落ち着いたのだが、夜中、正確には月曜日の午前一時とか二時という時間帯に突然、喘息の症状で目が覚めた。呼吸が徐々に乱れていく。このまま最悪の状態になるかもしれない、そう言う恐怖感から前回、喘息でみどりヶ丘病院へ駆け込んだ際、万が一に備えて頂いていた喘息用吸入薬を使うこととした。本当はあまり使わない方が良いらしいし、本音は使いたくなかったのだが、何せこのまま睡眠時間が無くなり、心身共に疲労困憊した状態で職場へ行くことは避けたかった。兎に角、眠ることが大事だ、眠ることが優先だと考えた。
 こうして朝を迎えたのだが、何せ寝た気が全然しない。時間が許す限り布団の中に閉じ籠もり、朝食を摂らずに家を出て仕事をしたから眠いし、空腹だし、力は入らない、そう言う状態で午前中は過ぎ去った。
 昼食は抜いた昼食を取り戻すかのように食べれたのだが、この結果、帰宅してから腹具合が悪いことに気が付いた。そう、便秘寸前の状態だった。トイレに腰掛けて粘ること延べ約一時間、どうにか腹具合の方は復旧した。
 兎に角、日曜日以来、体調は芳しくない。そして改めて気が付いたのは「年を取ったなぁ」と言うことである。ちょっとしたことで風邪を引き、それが以前にも増して長引くのである。確かに単純な運動不足もあるのだろうが、それにしてもひどすぎるような気がする。



2006年11月03日 今日の雑報 単車の備品紛失続く

 つい最近、単車に付けていた時計が無くなった。毎朝、時間が気になる僕にとってハンドルの近くに付けているこの時計は本当に大事な存在だった。子供の頃から腕時計が苦手だった。携帯電話が普及した時には電話を持ち歩くと言うより、腕時計の代用品を持ち歩いている感じがした。
 で、単車用の小さなデジタル時計が無くなった時、即日買い直したものである。わざわざ上着のポケットから携帯電話を持ち出して時間を確認するのも少し危ない気がしたし、特に朝はハンドルの片隅にある時計を見る癖が付いている。これは今更抜くことが出来ない。
 時計を買い直して安心していたら今度は単車用の防寒手袋が片方無くなった。気付いたのは二、三日前の朝である。今日の仕事帰りにようやく新しい手袋を買った。
 いつもの単車屋さんにて片方無くした話をしたら店長に「なんて勿体ないことを」と言われた。あぁ、情けねぇ。
 次はタイヤが無くなったりするかもしれない。



2006年11月02日 ラーメン&ソーメン

ソーメン:あんな、今年、暖冬らしいやんか。
ラーメン:ふうん。そうなんや。ほんなら、なにか、雪とか、降らんのかな。
ソーメン:雪の面倒まで、見切らんけどな。ラーメン君、売り上げ減るんちゃうか、そない思てな、ちょっと心配してんねんけど。
ラーメン:あ、そうか。やっぱり、これからの季節、ラーメンとか、おいしいもんな。
ソーメン:ええよな、ラーメンは。それに比べて、ソーメン言うたら、夏だけやで、ほんまに。
ラーメン:そないなこと言われてもな、ソーメンかて、冬に食べてる人、おるで。
ソーメン:おるか?
ラーメン:おすましとかに、入れてな。
ソーメン:あんなん、ちょっとやんけ。やっぱりラーメンみたいにやな、ズルズル、ジュルジュル、グジュグジュ、そんな感じで、食べて貰いたいやんけ。
ラーメン:最後のグジュグジュはちょっとちゃうような気いするけどな。
ソーメン:ラーメン屋さんはあるけど、ソーメン屋さんは無いやろ。
ラーメン:聞いたこと、無いなぁ。
ソーメン:夏でもな、冷房ガンガン効かせてラーメン食う奴はおるけど、冬にな、暖房ガンガン効かせてソーメン食う奴、おらんやろ。
ラーメン:それも聞かんなぁ。
ソーメン:聞かんやろ。ソーメンとラーメンて、不公平な点、無茶苦茶多いと思わんか。
ラーメン:こうまで言われると、多いな、思うな。
ソーメン:そやろ、ほんでな、考えてん。
ラーメン:また余計なこと、考えてんで。
ソーメン:わし、主役にしてくれへんか。
ラーメン:何やそれ。
ソーメン:わしが主役で、ラーメン君、脇役、どないや。
ラーメン:今も昔も、変わらんような気いするけどな。
ソーメン:今からな、新規にメンバー募集すんねん。
ラーメン:ただでさえ、人気無いのにな、どないすんねん。
ソーメン:ほんでな、ソーメンとラーメンズにすんねん。
ラーメン:また、ややこしいこと言い出したで。
ソーメン:最低でもな、三人は増やさなあかんねん。ほんでな、ラーメンズやから、塩、醤油、味噌、豚骨の四人にすんねん。
ラーメン:何の得が有んねん。
ソーメン:わしが一人、マイク独り占めにしてな、あとの四人は後ろでコーラスすんねん。
ラーメン:内山田洋とクールファイブの真似かいな。
ソーメン:絶対に、人気出ると思うけどな。
ラーメン:間違いのう、客足遠のくで。
ソーメン:夢は紅白やで。
ラーメン:年末までに解散やな。
ソーメン:百万枚売ったるで。
ラーメン:何を百万枚売るねん。
ソーメン:明日から、新規メンバーのオーディションや。
ラーメン:もうあかんわ。新しい相方、探さなあかんな。行こ。
ソーメン:おい、ラーメン君、どこ行くねん。おぉい、帰ってこい。
ラーメン:・・・・・・
ソーメン:しゃあないわ。歌でも歌ってこの場をしのぐか。ボゲ〜ボゲ〜



2006年11月02日 ラーメン&ソーメン

ラーメン:あんな、話あんねん。
ソーメン:何や、聞いたろ。
ラーメン:僕な、作家になろうと思ってんねん。
ソーメン:お、ええ話やん。で、何の作家やねん。
ラーメン:作家は作家やんか。
ソーメン:作家言うてもな、彫刻作家とか、仏像作家とか、イラスト作家とか、色々有んねんで。
ラーメン:そうなんか、知らんやったで。作家言うたら、てっきり文章書く奴や、そない思とったで。
ソーメン:それやったら、あんた、それこそ作家になられへんで。
ラーメン:あかんなぁ。辞めよかな。
ソーメン:辞めてどないすんねん。今からでも遅ない。毎日国語辞典読んでな、色々学んだらええやんか。
ラーメン:そうか、自信湧いてきたで。
ソーメン:ところでな、どないな小説書くつもりやねん。
ラーメン:そうやなぁ、今な、考えてること有んねん。
ソーメン:お、聞きたいやんけ。
ラーメン:誰にも言うたらあかんで。今まで内緒にしててんから。
ソーメン:そうやな。相棒のわしにも言わんかってんもんな。
ラーメン:ごめんな。ソーメン君にも黙ってて。
ソーメン:そらしゃあないで。で、どないな話やねん。
ラーメン:あんな、ワーニャ伯父さん言う外国の小説有るやんか。
ソーメン:あ、有るなぁ。そういうの。
ラーメン:ソーメン君も知ってんねんな。
ソーメン:何言うてんねん。知ってるわけないやろ。相棒やから、適当に相槌打っただけやんけ。
ラーメン:素直やな、ソーメン君は。
ソーメン:で、ラーメン君は読んだんか。
ラーメン:今な、読もう思てんねんけど、なかなか読まれへんねん。
ソーメン:そやな、ヒマそうに見えて、わしら結構忙しいもんな。
ラーメン:いや、言うときますけど、僕ら次の予定、何も決まってまへんで。ほんま、ごっつう、ヒマですで。
ソーメン:そない素直に言うたらあかんやんか。こういう場所、こう言う時には、予定が何も決まってなくてもな、忙しい、忙しい、言うといたら、こいつら忙しいねんな、売れてんねんな、そない思わはるって。
ラーメン:誰が。
ソーメン:誰がって、お客さんがや。
ラーメン:お客さんがごっつう入っているみたいに、言うたらあかんやんか。
ソーメン:ラーメン君は、妙なところで素直やな。まぁ、ええわ。ほんで、何で、ワーニャ伯父さん読まれへんねん。
ラーメン:なんでかな、横書きやろ、読んどったら、頭痛なって来んねん。
ソーメン:はぁ、横書きでかいな。まぁ、普通、小説言うたら、縦書きやからな。横書き言うのも、珍しいけど、それで頭まで痛なるか、普通。
ラーメン:あ、丁度鞄に入っとるわ、これやこれ、読んでみいな。
ソーメン:あ、どれどれ。
ラーメン:読まれへんやろ。
ソーメン:当たり前や。こんなもん、読めるかいな。これ、横書きちゃうやん。横文字やんか。
ラーメン:何や、横書きと横文字、ちゃうんか。
ソーメン:ラーメン君、これ、日本語ちゃうで、外国語やで。ラーメン君、英語とか、学校で習たか。
ラーメン:あぁ、そう言えば、僕、学校の成績悪かったからな。英語とか、今でも分からんし。
ソーメン:そら、横文字の小説読もうとするだけ、無理やで。
ラーメン:困ったなぁ。折角読もうと思ったのに。
ソーメン:心配せんでええで。今の日本にはな、ちゃんと日本語に訳したワーニャ伯父さんあるはずや、今度、本屋さんに行って、探してみいや。
ラーメン:そやけどなぁ。
ソーメン:何や、まだ、不安があるんかいな。
ラーメン:読まれへん漢字とか有ったら、どないしよ。
ソーメン:そこまで面倒見切れるかいな。もっとやさしい小説読みいな。
ラーメン:あぁ、漢字のないやつとかか。
ソーメン:少しぐらい、漢字我慢しいや。
ラーメン:我慢できるかな。
ソーメン:そやけど、何でワーニャ伯父さんにこだわんねん。
ラーメン:あんな、ワーニャ伯父さんをもじってな、トーニャ叔母さん言う小説書こうと思ってんやん。
ソーメン:何じゃそりゃ。
ラーメン:僕の叔母さん言う設定でな、トーニャ言う叔母さんがおるとするやんか。
ソーメン:あんたの叔母さん、外人かいな。
ラーメン:僕が、甥っ子のラーメン言うことにしといてえな。
ソーメン:ま、小説やからな、多少の無理は聞いたるけどな。
ラーメン:ほんでな、このトーニャ叔母さんの話なんやけどな、この叔母さんが、無茶をしはるわけや。
ソーメン:どんな無茶をしはんねん。
ラーメン:この叔母さんな、アイススケートの選手なんやけどな。
ソーメン:あんたの叔母はん、スケートの選手かいな。そら無茶な設定やな。
ラーメン:最後まで聞いてえな。
ソーメン:聞くだけ、聞いたろ。
ラーメン:この叔母さんな、ライバルのナンシーさん、ごっつう負かしとうて、しゃあなかったんやな。
ソーメン:ふんふん、それで。
ラーメン:ナンシーさん倒すためにな、元の夫に頼んでやな、ナンシーさんを、殴打させはるんや。
ソーメン:ちょっと待て、その話、どっかで聞いたような気いするで。
ラーメン:ほんでな、そう言うトーニャ叔母さんの話を甥っ子の僕が日記に書く、そう言う体裁の小説や。な、売れそうやろ。
ソーメン:ラーメン君、あんたも変なところで無茶するやっちゃな。それ、あれやろ。昔アイススケートで有名やった、トーニャ・ハーティングが起こしたナンシー・ケリガン殴打事件を元ネタにしとるやろ。
ラーメン:あ、ばれたか。
 どうも皆さん、ありがとうございました。



2006年11月01日 今日の雑報

 ネットで書籍を一冊購入した。何せ発行されたのが昭和五十五年、普通の書店では入手がまず不可能、ネット上で検索して東京都杉並区の古書店が保有していることを知り、注文した次第です。
 大阪梅田にある古書店街を一軒一軒、頼りない感を頼って探すのも良いでしょうが、やはり今の時代はネットに頼った方が早いようです。
 しかし、その一方で最近発売された書籍を一冊、近所の書店で注文しています。自分でもこの矛盾がおかしいと思いはしますが、この書店は店員さんの応対が結構丁寧で評価できますし、自宅からの徒歩圏内でもありますし、仕事の帰りに立ち寄り、目新しい書籍はないか、探すのにも利用したりします。皆が皆、ネットで書籍を購入するようになってしまえば多分、書店はこの世から消えてしまうでしょう。
 まず題名を見、書棚から取り出し、パラパラとページをめくって軽く中身に目を通し、それから購入するか否かを決めるという行為が大事だと思うのですが、諸氏は如何でしょうか?

 ちなみにネットで購入した書籍の題ですが、「龍山村史」です。ちょっと汚れがあるというだけで随分と安かった。
 発刊当時にまともな方法で購入していたら実際、どれだけの値段だったんだろう。ちょっと気になる…



2006年10月28日 「それゆけ浜松」の余話

 昼食を摂ろうと入ったお鮨屋さんにて聞いた話ですが、中国産が安く大量に輸入された結果、浜名湖周辺の養鰻業者は次から次へと廃業へ追い込まれていったそうです。少し高くても安心な国産がやはりいいですね。しかし、天然の鰻も少なくなり、なかなかお客さんに出せないとそのお鮨屋さんは言われました。
 お鮨屋さん曰く、「浜松と言えば、鰻を思い浮かべる人は多いですが、舞阪港に揚がる、遠州灘の魚も美味しいですよ。今、地産地消を進めているところです」とのこと、美味しかったですよ。
 このお鮨屋さんにて穴子を二貫頂きました。その内一貫は普通のツメ塗り、もう一貫は何と岩塩が振り掛けられていました。
「へぇ〜」
 確か南アルプスの岩塩だったと覚えています。南アンデスでは無かったと思いますが、僅か一週間で記憶が飛んでいる。その後、蛸も岩塩で頂きました。



2006年10月28日 「それゆけ浜松」の余話

 浜松の駅前で偶然行われていた「大ナポレオン展」で知ったのはナポレオンには直系ではないにしても子孫が居たことである。
 確か末弟の子孫というのが居て今でも大ナポレオンの名誉を守っているとか、ご苦労な話である。
 以前から疑問を抱いていたのだが、ヒトラーという苗字を持つ人は現在でもドイツに居るのだろうか?
 おバカな質問かもしれないが、ヒトラーにも兄が居たし、甥っ子も居た。ヒトラーの兄ちゃんは戦後、アメリカへ移住したらしい。少なくともアメリカにはヒトラーという苗字が存在するということになる。
 多分、ドイツには今でもヒトラーさんがいるのだろう。もしかするとヒトラーと一緒にされることを嫌い、皆が皆、改姓したかもしれない。



2006年10月27日 「それゆけ浜松」の結果 6

 トロン温泉って何だろう?
 そう言う疑問と同時に温泉が嫌いではない、その程度の感覚で実物を見に行くことにした。
 今から考えればネットでトロン温泉を調べれば済むことなのだが、それをしないところがまだまだ紙の世代なのだろうか?
 トロン温泉で世界的にも有名なのが、ドイツのバーデンバーデンにある温泉らしい。生きている間にドイツまで行くことはまず無いだろう。少なくとも静岡県の浜松市辺りならまだ行ける。強引に日帰りも出来るだろう。
 龍山村には「やすらぎの湯」と言う施設名でトロン温泉がある。ドイツのバーデンバーデンと同じ湯がここ龍山村で発見されたわけではなく、トロン原石をわざわざ輸入してほぼ同じ質の温泉を作り出している。
 それ故に龍山村の施設に関して言えば「準天然トロン温泉」と言うのが正しい。実際、案内のパンフレットにもその様に記されている。
 一回の入浴時間は十五分程度が目安と施設の壁に書かれていたのでそれを守ったのだが、今から思えばもう少し入浴していても良かったんじゃ無かろうか、そう思えて仕方がない。



2006年10月26日 「それゆけ浜松」の結果 5

 旅の話はまだ続く。
 秋葉神社にて参拝を済ませた僕はそのまま麓の集落まで戻り、そして第二の目的地である龍山村へ入った。
 残念ながら龍山村自体は二年前に浜松市と合併し、今では浜松市龍山町と名を改めているのだが、それでも合併前から興味のあった地域である。そしてこれを書きつつ、また訪れたい、そう思っている地域でもある。
 龍山村、少なくとも僕の中ではまだ当分はこの表現を使いたいのだが、現在の浜松市龍山町にはトロン温泉があり、パイプオルガンがあり、秋葉ダムがあり、白倉峡があり、結構遊べそうな地域である。
 そんなこんなでレンタカーを走らせ、僕は龍山村へ入った。
 まずはネットで調べたパイプオルガンを見ようと森林文化会館へ行ってみたが、土曜日と日曜日は閉館日だった。僕がネットで調べた限り、その様なことは記されていなかった。旅が終わってから改めて調べてみたら別のホームページで確かに「休み」だと書いてありました。
 兎に角、近所をのこのこ歩いていたら商店があったので飲料を購入しようと中へ入り、森林文化会館についてお伺いしました。商店で店番をなされていた女性は僕が大阪から森林文化会館のパイプオルガンを見に来たことに驚かれ、わざわざ館の鍵を持っているという人に電話を入れて下さった。御陰で僕はパイプオルガンを見ることが出来ました。
 都会ですとこの様な融通は絶対に効かなかったことでしょう。



2006年10月25日 「それゆけ浜松」の結果 4

 秋葉山のほぼ山頂と言える場所に秋葉神社はあります。
 冬になれば雪に包まれるような場所、神主さんや巫女さんたちは毎日通勤しているのか、それとも宿泊施設があるのだろうか、何故かそう言うことが気になった。
 秋葉神社はなによりも防火の神様である。その防火という点が拡大解釈されていつの間にか防水、防風なども包括されて防災全体の神様と解釈されるようにもなっているらしい。だが、実は火災に遭って焼失した経験があるらしい。
 それも麓の鉱山から出火して秋葉山全体が山火事になった結果である。
 秋葉神社にはお皿に願い事を書いて放り投げる天狗みくじがある。
 一回につき三枚のお皿と御神籤一枚、そして小さな小さな弁財天様が付いてくる。この弁財天様、本当に小さくて紛失しかねません。
 お皿には一つずつ願い事を書き、投擲場から「えいっ」と放り投げるらしいのだが、僕の場合、勢いが足らず足下へと落下していった。どうやら願い事は叶わない確率の方が大きいようだ。
 お守りを購入しました。黄色と言うよりは金色、見た目が結構派手な気もしますが、一方で「さすが、秋葉神社」とも言えるでしょう。
 しかし、麓の集落から秋葉神社までスーパー林道と名付けられた道路を走りましたが、一体どこが「スーパー林道」なのか、全く解しかねます。
 ただの山道、対向車が来たら一方が崖下へ落下する可能性は大きいし、「事故が起きても責任は負いません」とか、看板が出ているし、実際に事故が起きたのか、壊れたままのガードレールはあるし、秋葉神社への難関という気がしないでもなかった。
 秋葉神社の駐車場には何故かバス停があった。確か「臨時」と記されていたように思うが、それでも遠鉄バスが路線としては存在するらしい。もしもスーパー林道の途中で路線バスとすれ違ったらどの様に応対すればいいのだろうか。想像したらちょっと怖い。



2006年10月24日 「それゆけ浜松」の結果 3

 旅は忘れ物の多さから始まった。お気に入りの帽子、サングラス、ネットで調べた地図、気付いた時にはもう遅い。そして動き出した以上、もう仕方がない。
 二十日金曜日、仕事を終えてからそのまま新幹線に乗った。さすがにカメラ二台はちょっと重かった。
 本来なら二十一日土曜日の朝早い新幹線に乗っても良かったのだろうが、時間を有効に使いたい、それに早起きが出来ないかもしれない、ゆっくりしたいなどと言う理由で金曜日の夜に浜松へ移動した。
 実際にはその様な心配は杞憂で終わった。そう、京都駅や新幹線車内においても僕は何かと言えば珈琲を飲んでいた。その所為か否か、全然寝付けず、午前二時、午前三時と時間が過ぎていった。こう言う時、経験から言えば翌朝は起きれず、朝食バイキングの制限時間ぎりぎりまで寝ているという結果になりそうなのだが、何故か七時前に目が覚め、七時過ぎに朝食バイキングへ出掛けていた。
「眠いよぉ」
 内心そう思いつつ、いつもに比べて箸も進まず、「眠いよぉ」を連発しつつ、僕はレンタカーを受け取って一路、秋葉山を目指した。
 何年かぶりにハンドルを握っているくせに何故か恐怖心のようなものが一切無かった。これが逆に自分では怖かった。脳味噌の一部がまだ睡眠中だったのかもしれない。
 今回はそろそろ事故を起こすかもしれない。
 本心、そう思いつつハンドルを握っていた。少なくとも目的地まではカーナビが引っ張っていってくれる。それにカーナビは音声でも案内をしてくれる。カーナビの画面を見るのは必要最小限で済むわけだし、あとは運転の腕次第、そして僕自身の集中力次第と言うことだろうか。
 結論を先に書けば確かに事故はあったと言うべきだろうか。
 そう、林道で対向車が来た際、自分の後ろに待避場が有ったからゆっくりと車両を後退させたのだが、気付いた時には時すでに遅く、バンパーの左側を枝や土、石ころで傷付けていた。車両を返す際、きちんと申告したが、レンタカー会社のご厚意で今回は見逃していただいた。単純に「良かった。良かった」で済む問題ではないが、今後も色々な場面でハンドルを握る際は気を付けなくてはいけない。それに事故がこの程度で済んで良かったとも言える。もし運が悪かったり、寝不足から集中力が大きく欠如した結果、人身事故とかになっていたらそれこそどうなっていただろうか。当然、暢気に旅の報告など書いてはいられないだろう。



2006年10月24日 「それゆけ浜松」の結果 2

 大ナポレオン展を見た後、僕は道路を挟んで向かいにある楽器博物館を訪れた。浜松市というのは世に知られた楽器の街でもある。何故かよく分からないが、戦前から楽器製作の会社が集まっている。楽器を製作するに値する気候、風土なのだろうか。
 ほとんどの楽器は完全展示であり、触れることは出来ない。確かに海外で収集した楽器を簡単に破壊されたら堪ったものではないだろう。それ故に手荷物などは全て受付にてお預けとなった。但し、撮影は自由と言うことでカメラの持ち込みは許される。しかし、カメラが楽器を傷付けたらどうなるのだろうか。



2006年10月22日 「それゆけ浜松」の結果

 浜松の駅へ降り立って最初に見付けた広告が何故か大ナポレオン展だった。
 思わず「へぇ〜」って感じ、先月、京都でマリア・テレジアとシェーンブルン宮殿展を見た後だけに偶然とは言え、これも何かの縁かな、そう思って丁度最終日の今日、見に行くこととした。
 展の方も最終日ならこちらも旅の最終日、最終日からか何か知りませんが、展の方は混んではりましたわ。はっきり言って身動き取れんぐらいです、言うたら大袈裟かもしれまへんが、ごっちゃごっちゃしてまっせ、旅も最終日、ちょっと疲れが出始めていたのと本来の目的ではなかったことがあった所為か、他の人をかき分けてまで展示品に近付こうという気力もなく、何となぁく会場を一周して出ていた。それにしても皆、どこから来たんだろう?
「家から」
 そう言うオチが欲しいわけではないが、老若男女を問わず、盛況だった。

 で、これが浜松旅行の感想?
 そう思わないで下さいね。今日からちょっとずつ書いていきますから。



2006年10月12日 パスタ&ヌードル

パスタ:皆さん、お久しぶりです。パスタちゃんデース。
ヌードル:同じく、お久しぶりです。ヌードルです。どうも。
パスタ:いやぁ、ほんま、めっちゃ久しぶりや。
ヌードル:今まで、何してたか、言わなあかんな。
パスタ:恥ずかしくって、言えません。
ヌードル:そら言えまへんわ。だって、ブタ箱入ってたなんて。
パスタ:誰がそないなとこ、入っとってん。
ヌードル:嘘ですがな。だって、パスタちゃんが、恥ずかしいて、言われへん言うさかい。
パスタ:だって、一緒にお風呂に入ったなんて、言えますか、人前で。
ヌードル:言うとるがな。まぁ、ええですわ。
パスタ:誰もあんたと入ったなんて、言うてへん。
ヌードル:ほな、誰と入ってん。
パスタ:パパと。
ヌードル:あぁ、お父さんとね。
パスタ:パパ、あの服、欲しい。パパ、あのお店でお茶したい。パパ、車買うて。全部願い聞いてくれますねん。
ヌードル:あれ? パスタちゃんのお父さんって、そないに金持ってたっけ?パスタ:そやからパパや言うてるやんか。鈍いやっちゃな。まぁ、ええわ。
ヌードル:で、まぁ、最近暇でしたさかいに、本をようさん読みましたわ。
パスタ:この人、ほんま暇なんですわ。年に何回か、ここの舞台立つ以外、仕事おまへんから。
ヌードル:で、暇やったから、久しぶりに本読みましてん。
パスタ:え。今、なんて言うたん。
ヌードル:そやから、本読んだって。
パスタ:え、本。本読んだんかいな。それでか。
ヌードル:それでか、って、なんかあったか?
パスタ:最近、雨ばっかり降ってますやろ。あんたがそないに珍しいことするからや。
ヌードル:そないにひどいかな。
パスタ:ひどいわ、その内、真夏に雪降るかもしれへんやろ。本なんか読んだらあかん。
ヌードル:本読んで怒られたなんて、聞いたことないで。ま、ええわ。ほんでね、「最後の一葉」という本を読みましてん。
パスタ:今、なんか言うた。
ヌードル:そやから、「最後の一葉」と言う本、小説を読みましてん。
パスタ:そこがおかしい。
ヌードル:おかしいかなぁ。
パスタ:ええか。よう聞きや。「さ、い、ご、の、ひ、と、は」が正しいねん。あんた今、「さ、い、ご、の、い、ち、よ、う」って言わんかったか。
ヌードル:そないなこと、言うたかて、なぁ。だって、国語辞典と漢和字典と見比べて一つの葉は「いちよう」って読め、そない書いてあってんで。
パスタ:それは樋口一葉言うて、小説家の名前や。
ヌードル:あぁ、分かった。「最後の一葉」言う小説は樋口一葉さんが書いたんやな。
パスタ:あんた、アホか。「最後の一葉」は外国の話や。
ヌードル:そやから、樋口のいっちゃんが外国まで取材に行ったんやないか。
パスタ:勝手にいっちゃん言うて名前付けな。なんで外国まで行かなあかんねん。
ヌードル:そやけどな、感動したで。
パスタ:何に?
ヌードル:おじいさんがな、葉っぱの絵を描かはんねん。大事なことやで。
パスタ:そら、大事やろ。葉っぱぐらい着けとかな、恥ずかしいて、街歩かれへんやろ。
ヌードル:そうかなぁ。
パスタ:そうやで。葉っぱ無かったら、あれやで、公然わいせつ罪か何かで、捕まるやろ。
ヌードル:何か話がちゃうような気がする。ま、ええわ。ほんでな、えらい人なんやで、出てくるおじいさんがな、最後の葉っぱが落ちたらあかん言うて、雨ん中、ずぶ濡れになってな、描かはんねん、葉っぱの絵を。えらい話やろ。
パスタ:そやから言うてるやんか。雨でも風でも、葉っぱぐらい着けとかなあかんで、って。
ヌードル:なんか話がちゃうなぁ。ほんでな、その葉っぱ見て、病気の女の子がな、元気になるやで。
パスタ:そらそうやん。あの葉っぱの向こう側にあるもん、想像したら、おもろいやんか。
ヌードル:おもろいかなぁ?
パスタ:特に夜なんか、寝られへんぐらい、興奮するで。
ヌードル:興奮するかぁ、普通。でもな、風が吹こうが、雨が降ろうが、落ちへん葉っぱ見たら、普通は疑問に思うやろ?疑問に思て、病気悪化するかもしれへんやんか。
パスタ:思わへんで、ひもでくくってあるやろ、のりで引っ付けてあるやろ、セロテープかもしれへんやんか。考えたら病気なんてなってられへんで。
ヌードル:ところでな、樋口のいっちゃんやなかったら、誰か「最後の一葉」の作者なん?
パスタ:そんなことも知らんのかいな。オー・ヘンリーやん。
ヌードル:よう知っとんな、そんなこと。
パスタ:本読むんやったら、作者の名前ぐらい見ときぃな。
ヌードル:はぁい。
パスタ:あんたと違て、うちは学あるねんで。オー・ヘンリーの他にな、アー・ヘンリー、イヤン・ヘンリー、ダメヨ・ヘンリー、イケナイワ・ヘンリー、ソコハ・ヘンリー、ヨクナイワ・ヘンリー、サワラナイデ・ヘンリー、色々有んねんで。
ヌードル:全部ヘンリーやないか。それに、なんか、おかしないか。あ、もしかして、ヘンリー言う外人と付き合ってるな。
パスタ:ヘンリー言うのは、うちが昔飼うとった犬の名前。ほんまいたずら好きで困っとってんで。「良くないわ、ヘンリー」「いけないわ、ヘンリー」「いやん、ヘンリー」「触らないで、ヘンリー」「駄目よ、ヘンリー」「感じちゃうわ、ヘンリー」
ヌードル:感じちゃうわ?
パスタ:あ、もうそろそろ時間ですね。それでは皆さん、また来週。さよなら。
ヌードル:あ、時間や言うて誤魔化すつもりやな。まてぇ、パスタ〜
 おしまい。



2006年10月12日 庭の絵

 あるところにアパートで暮らすお婆ちゃんがおりました。ある日、お婆ちゃんの息子が旅先で新茶を買ってきました。
 息子が言います。
「かあさん、お茶でも飲んでね」
「そうだね。外の風景でも見ながら、飲もうかね」
「悪いね。せめて庭と縁側のある家に住めたらいいのにね」
「贅沢は、良くないよ」
「そうだ。僕が、庭の絵を描いてあげるよ」
 孫がニコニコと笑みを浮かべながら言いました。
「それは名案だ」
 息子は笑顔で答えました。
 次の日曜日、孫はお婆ちゃんのアパートへ出かけました。
「お婆ちゃん。庭の絵が出来たよ」
 孫は画用紙を広げます。
「キリンさんでしょ、ライオン君でしょ、ゾウさんでしょ、カブトムシ君でしょ。これはヤシの木だよ。それからね、クマさんとウサギさん、リス君とネズミ君もいるんだよ」
 この庭を見ながら新茶かい?



2006年10月10日 おバカなお話

 最近最近、世界の東の果てにある日の本の御國で起きた事件です。
 日の本の御國はその昔、世界を相手に大きな戦争を起こし、世界中からボコボコにされた揚げ句、散々お説教をされて二度と戦争はしないと心から誓い、自ら戦争が出来ない憲法を作成し、広く世界や国民に伝えました。
 日の本の御國の国民はその憲法を非常に大切にし、争いごとを起こさぬようにしてきました。しかし、つい今し方、隣の隣に位置するおバカな独裁主義の二代目があろう事か資格もないのに「核兵器」という下らないオモチャを手にしてしまいました。
 この「核兵器」と言うオモチャは一つ間違えれば東の果てに住む人々を白血病や癌、あるいは遺伝的な病気として数世代にわたって苦しめる、それぐらい下らないオモチャです。
 隣の隣のおバカな独裁主義の二代目がこの様に危険なオモチャを手にした以上、日の本の御國の人々は黙ってはいられませんでした。
「仕方がありません」
「一刻の猶予もありません」
 日の本の御國の人々はこれまで大事にしてきた憲法を少しだけ改正することとしました。これまで必要最小限の防衛力しか持っていませんでしたが、世界の人々も承認する中、必要最小限の攻撃力を持てるように書き換えました。それからしばらくしてまたおバカが「核兵器」と言うオモチャで遊ぼうとしたので渋々、日の本の御國の軍隊は御國を守るため、隣の隣まで出かけ、おバカに一撃を喰らわせました。
 こうして二代にわたる独裁主義から解放された人々は自由になり、日の本の御國の人々と共に末永く繁栄しましたと、さ。おしまい。



2006年10月09日 まさしくおバカ

 今日は「体育の日」に相応しい秋晴れの一日でした。職場との往路復路で空を眺めながら「美味しいお弁当を持ってピクニックへ行きたいな」などと考えていました。復路は駅前の無印良品に寄ったりしながら暢気に我が家へと帰りました。
 で、テレビが着いていたのですが、いつもとなんか様子が違う。
 またどこかで天災でもあったのかな。そう思いつつ弟に聞いて驚きました。一応、民主主義を掲げているお国の将軍様が核実験をなさったそうな。一体、何を考えているのだろうか?
 実は何も考えていないのかも知れない。多分、これが正しいのかも知れない。
 しかし、日本の技術はすごいですね。地震観測の機器が核実験を行った場所をほぼ正確に捉えているのですから。
 この話題とは全く別で天気予報を見ていたら今日は半島から真東に雲が動いていました。仮に核実験が行われた場所で放射能漏れが発生していた場合、海と日本の北陸、東北、北海道と汚染されてしまうわけです。
 一度、この正気を失った将軍様と軍人連中を広島、長崎の原爆資料館へ招待して自分たちがどの様な罪を犯したのか、教えてあげるべきではないだろうか。
 先の大戦下における軍国主義時代の我が国による行為を未だに非難しているが、今回の核実験は蛮行という以外、他に表現する言葉があるだろうか?
 しかし、親子二代による独裁でよく民主主義国家を標榜できるよな。単なるお馬鹿にしか過ぎない。



2006年10月07日 それゆけ、浜松。鰻、鰻、鰻…

 結論を先に書くと今回の旅は浜松で落ち着きました。
 浜松と言えば鰻です。鰻です。鰻です。それが目的です。
 十代の頃、一度だけ浜名湖畔の温泉旅館に泊まったことがあります。そこで初めて本当に美味しい鰻を食べました。それまで鰻と言えば嫌いな食べ物だったのです。調理法が違うのか何なのか理由は今でも分かりませんが、兎に角、浜松の鰻は美味しかったし、夜が眠れなかった。「精が付く」と聞いてはいましたが、これが家康長生きの秘訣かな、そう思いました。
 で、今回は旅の目的地が絞りきれなかったことと新幹線で約一時間という距離で浜松を選びました。本当は空の旅も捨てきれなかったのですが、何せ天候に左右されやすいですし、機材の都合とかで時間が遅れるということも想定しておかなくてはいけません。しかも仕事が終わってからとか、そう言う柔軟性も無いし、空の旅は次回以降のお楽しみに置いておきましょう。
 二十日金曜日に仕事を終えてから新幹線に乗り、浜松を目指します。
 当初、一泊の予定でしたが、二十一日土曜日の朝から現地で動けた方がいいかな、そう思って金曜日に移動をすることとした。
 一泊目は駅前のホテル、二泊目は浜名湖畔の温泉旅館と決めていたのですが、一人旅の人間に旅館は何故か冷たいのです。その為、予定を変えて駅前のホテルで二泊することとした。
 多分というか、間違いなく高級ホテルです。ちょっと贅沢しすぎたかな、そう感じていますが、たまには良いでしょう。
 二日目は朝からドライブ、プップー!!
 久しぶりにハンドルを握ります、そしてカーナビ、目的地まで引っ張って貰いましょう。
 三日目になる日曜日は朝から駅前を散策し、昼を過ぎてから新幹線に乗ります。駅前には楽器博物館があったり、浜松城があったりと結構楽しめそうです。



2006年10月07日 ヘリ基地反対協と飲酒運転

 最近、飲酒運転全国一と言うことで沖縄県が挙がっていた。私が名護市に住んでいた五年半、特にヘリ基地反対協へ出入りしていた五年間、県議や市議、教員や公務員が平然と飲酒運転するのを幾度となく見てきた。沖縄県だけが飲酒運転に関して全く別の法律なのか、その様に幾度となく疑った。反対協内部でお互いに注意し合うということも無く、全く飲酒の上で事件、事故を起こす米兵と同様、日本の法律を踏みにじっていた。
 しかし、何故に沖縄県警はこの非常識な集団を一度として取り締まろうとしなかったのであろうか?
 ごく簡単な話、旗開きと称して年始から飲酒運転をしているわけである。例えば旗開きの帰りしなに検問を張れば反対協の代表から役員、幹部に支持者に至るまで大量に検挙することが出来たはずである。そうすれば現在へ至る賛成派と反対派による睨み合いもなく、賛成派は普天間代替施設の工期を今頃、半分以上達成していたことだろう。
 仮に反対協を始めとする反対派が検挙された場合、予想されるのは「権力によるでっち上げ」とか「えん罪だ」などと言い、自分たちの罪を素直に認めないことだろう。そして全国の支援者へ連絡し、いかに沖縄県警が賛成派の手先であるか、権力を持つ側がいかに汚い手段を用いるか、それを延々と述べて県警が本当に飲酒運転を取り締まっているにも関わらず、逆に悪事を働いていると伝えることだろう。
 次に考えられるのは仮初めにも反戦運動、平和運動に従事している人間を飲酒運転で検挙した場合、それが県内のみならず、県外へどの様に報じられるか、それを県警は懸念しているのかも知れない。
 沖縄県は先の大戦において日米合わせて二十万を超す死者を出し、毎年六月二十三日には命の尊さを内外へ発信しているにも関わらず「反戦、平和を訴えている人間が飲酒運転で検挙された」と報じられた時、しかもそれが公務員や議員であった場合、沖縄県全体が白眼視されることだろう。
 そして県外で沖縄へ目を向けて欲しいと訴えている支援者に対し、どの様に謝罪するのだろうか?
 普天間代替施設の問題よりも先に飲酒運転の方が注目され、「飲酒運転を公認している団体の手先」として後ろ指を指されたら支援も訴えも成立しなくなる。一度でも真剣に反対協の人々と接した人なら飲酒運転を目の当たりにした人は多いのではないだろうか?
 ヘリ基地反対協は頻繁に「県外の人は沖縄の現実に対して目を背けている」などと言っていたが、一方で飲酒運転という罪を犯すだけの精神的な余裕が反対協の人々には有ったということではないだろうか。本当に賛成派や沖縄県警に隙を突かれたくなければ隙を見せないようにするのが普通である。
 市民の模範となるべき人達が率先して法を犯している、その矛盾をどの様に解釈すればよいのだろうか?
 例えば在沖米軍の兵士や家族が飲酒の上で事件、事故を起こした場合、私達は在沖米軍や在日米軍全てを「米本国へ追い出せ」と訴えてきた。逆に反対協に関わる人間が飲酒運転で検挙された場合、反対協はどの様に対応するのだろうか。解散?それとも県外へ移転?
 いずれにしてもヘリ基地反対協は飲酒運転と言う一点に関して言えば賛成派や沖縄県警の掌で踊らされていると言えないだろうか?
 憲法九条を守ろうとか、環境を守ろうとか言う前に自分たち自身が法律を守るべきである。私は幾度となく、「沖縄は本土から差別されている」と聞かされてきたが、その様なことはまず、日本国の法律を守るか、それとも飲酒運転に関して黙認するという沖縄県の条例でも作成してから言うべきではないだろうか?



2006年10月01日 行楽の秋 旅へ行こう!

 八月のお盆を過ぎたある日、僕は職場にて「休みが欲しいな。旅がしたいな」と言った。その話はいつの間にか上司の耳に入り、都合を付けて下さり、十月二十一日、二十二日の二日間を休めることとなった。
 だが、まだ旅の行き先を決めていない。九月の中頃から本格的に地図帳とにらめっこを始め、どこに行こうか、思いだけが膨らんでいったのだが、まだ決められない。いっそのこと、近所の病院で人間ドックにでも入ろうか、この数日の体調を考えるとそこまで思うのだが、折角貰った休みである。やはり旅に行こう。
 ちなみに十月二十一日は確か国際反戦デーです。思わずどこかの反戦集会にでも顔を出そうか、一瞬、脳裏をよぎりましたが、もう僕のことを覚えている人もいないことでしょう。それに師が言われたように自分自身が健全で平和であること、そして日々の生活が第一です。
 で、東北から九州南部までまだ行ったことのない県は沢山あります。
 仙台へ行って伊達政宗さんに会うとか、奄美大島へ行ってアマミノクロウサギを見るとか、対馬へ行って琉球尚氏との関連を探るとか、出雲大社へ参拝して縁結びを祈願するとか、隠岐や佐渡とか離島へ行くとか、過去に訪れた場所へもう一度とか、結構色々考えたんですよ。でもね、今のところ、まだ絞れてないんですよ。
 以前までですと先に目的地や目的があり、あとは日程を決めるだけでした。何せ運動が絡んでいましたからね。
 当初、目的地を近畿圏へ絞ろうとしていました。
 例えば同じ近畿でもJRの特急に乗って約五時間の場所とか、京都や奈良と言うことを二日間散策し、神社仏閣を見て歩くというのも考えてみた。神戸の夜景とかも捨てがたいし、以前から弟に勧められていた高野山で精進料理と読経、写経の二日間も「いいかなぁ」って思ったのですが、元来が信心深くないですからね、一日や二日だけ有り難い生活をしたところで逆に神様、仏様に失礼でしょうし、同じ考え方をすると出雲大社も遠路遙々参拝しても先方から嫌われたら仕方がないし、それよりも地元の神様に頼んだ方が早いような気がした。
 神戸と言えば開港して一年を経ていない神戸空港があります。半日、空港を探検するのも良いでしょう。そして夜景が綺麗なホテルとかに泊まり、ちょっと贅沢な気分に浸る、交通費は最低限に抑え、宿泊費で奮発、いつもの服装で入ろうとしたらホテルのドアボーイに拒否されたりして…
 空港と言えば関空や中部国際空港も探検が出来そうです。関空は数回利用しましたが、いつも決まった場所しか歩きません。一歩外へ出てみれば土産物店や免税店、その他にも食べ歩きや景色を楽しめる場所があるはずなのですが、それを全く知らない。滑走路の見える部屋に泊まり、夜間の離着陸をゆったりと眺めるというのも楽しいことでしょう。空港は大きい分、夜間照明が結構綺麗で絵になります。
「ここも近畿!? 特急に乗って五時間? 行くだけで半日!?」
 三重県と和歌山県の県境、熊野水軍の拠点となった地域を見て歩くのも悪くはないのですが、軽く調べてみたら名古屋から乗り換えるのが、一番早い方法らしい。熊野水軍もいいが、それなら瀬戸内水軍が優先かな、そう思って調べたら水軍博物館が瀬戸内海にあり、興味が湧いてきた。瀬戸内海ですと海の幸があります。新鮮なお刺身、天ぷら、考えただけでも楽しくなります。
 賛否は兎も角、靖國神社へ行ってみるのも悪くないかな、そう思ったのですが、十月二十一日ですから知ってる人間に会うのも嫌だし、東京ですと土曜日の遅い新幹線に乗れる限り、いつでも行けますしね、そう考えると「宗谷に会うのもまた今度」と目的地の候補から外せます。
 兎に角、何も決まらない。それでも今日は旅行代理店へ行こうと決めていました。パンフレットとかを眺めているだけでも楽しいし、何かしらのひらめきとかが出てくるかな、そう考えていたのですが、雨でしょ、喘息でしょ、点滴の最中、天井を眺めながら日本地図を思い浮かべ、「行き先を考えていた」というのは嘘ですが、この文章を綴りながらも心は「どこへ行こうかな」と思っています。
 美味しい物、風光明媚、温泉、そして出来ればレンタカーで軽いドライブもいいかな。



2006年10月01日 喘息の続き

 折角の日曜日、朝から雨、そして喘息である。
 昨夕、去年から欲しかった加湿器をようやく購入したのだが、効果を発揮する前に今朝も喘息症状で目を覚ますことになった。朝七時、普通に考えたら起床に相応しい時間帯である。
 火曜日から金曜日まで何事も無かっただけに昨日、今日と喘息症状が続くと風邪薬で誤魔化すのもそろそろ限界と感じた。
 午後には頭痛も始まった。昼食に暖かい物を食べた御陰で少しだけ呼吸は楽になったが、それも長くは続かなかった。
 十五時頃、雨が小康状態になったのを確認して僕は近所の総合病院へと向かった。
 日曜日の午後、平日なら混み合っている受付には誰も居無い。当然と言えばそれまでだが、無駄な照明を落としている所為か、何か寂しく感じた。病院を楽しい場所と思う人はいないだろうが、それでも明るい方が「傷病を完治させるぞ」と思えるだろう。暗いと小さな病気でさえ、諦めの方が先に出てきそうである。
 で、本当の救急患者が運び込まれる合間を縫って僕は診察をして貰った。医師は聴診器を胸にあて、ちょっと不満な顔、そして吸入器と点滴となった。点滴なんて何年ぶりだろう。去年か一昨年にも喘息症状が出て同じ病院で吸入器と点滴のお世話になった。
 最近は忙しいとか、自分自身に対して誤魔化して運動らしい運動をしてこなかった。せめて休日だけでも自転車に乗るか、それとも歩くか、何かしないといけないようです。



2006年10月01日 設楽原 歴史研究 2006年10月号

「織田信長、連子川の対岸で陣地を築いております」
 その報に接した時、勝頼は一瞬、撤退を考えた。何故か勝頼にもわからない、それは不思議な瞬間であった。だが、初めから弱気な発言をすることで諸将、特に宿老達から侮られるかもしれない。そう思い、勝頼は一瞬の迷いを振り払い、逆の意見を口にした。
「信長を、攻めよう」
 いつもならば勝頼の意見に対し、何かと反論を加える信玄以来の宿老達が今日に限って勝頼に同調、さらには勝頼の意見をより力強く推そうとしていた。
「我らより、数がありながら出てこぬとは」
「今こそ、亡き御館様以来の恨みを晴らす時」
「必ず、柵の外へ引きずり出してやる」
 いつもは冷静な宿老達が語気を強めている。それが勝頼の不安を誘った。
「何かある」
 勝頼は宿老達の半ば呆れるような言動に疑念を抱いた。
「珍しいですな。新館様が退くと言われなんだ」
「本当は、退く気でなかったろうか」
「そうかもしれぬ。だが、今日こそ、織田を叩き、徳川も叩き、その素っ首、刎ねてやろうぞ」 
「うむ」
 宿老達は異口同音に頷いた。
 元亀三年十二月、武田信玄は二万五千の大軍を率いて遠江、三河へ侵攻、三方原において徳川軍をあっさりと蹴散らした。しかし、翌天正元年四月、残念ながら信玄が世を去り、武田の大軍は文字通り泣く泣く甲斐へ帰国した。
 天正二年二月、武田の軍勢は美濃の明知城、六月には遠江の高天神城と相次いで落とした。
 そして今、武田の軍勢は一万五千で長篠城を攻めていた。
「今度も、信長は間に合うまい」
 武田側では誰もがその様に考えていた。そこへ信長が徳川家康の軍を合わせて三万という軍勢で現れた。しかし、直接長篠城へ来るわけではなかった。長篠城から離れた設楽原、しかも連子川の対岸に長大な陣地を構えたのである。間諜が次々と織田、徳川両軍の動きを知らせてくるが、馬防柵に堀と土塁で固めた陣地から織田信長は一歩も軍を動かそうとしなかった。
「何故」
 勝頼は不思議だった。信長は岩村城、明知城、そして高天神城と同様、また味方の城を見捨てる気なのか。それとも何か策略があるのか。策略があるとすればそれは何か、勝頼の不安を他所に武田軍は連子川を挟んで信長、家康軍と対陣した。数で勝っているはずの信長が動かない。
「やはり、単なる臆病か」
 長篠城は救いたい。しかし、武田軍には負け続けている。そう、信長は本心から武田を恐れている。だから陣地から出てこない。勝頼は攻撃を命じた。
 まず山県昌景が配下の諸将、そして足軽らを率い、信長の首を目指して突撃した。
「信長は怯えておる。驚かして、陣から引きずり出せ」
 昌景は諸将にそう叱咤した次の瞬間、轟音が響いた。昌景の愛馬がその場に倒れ込んだ。そして昌景自身、身体に激痛が走った。
「一体、何が」
 そばに駆け寄ってきた足軽に問おうとしたが、それ以上、語ることもできなかった。
 武田信廉、小幡一党、武田信豊、馬場信房と各々が諸将を率いて昌景の恨みを晴らそうとしたが、誰もが昌景と同じ結果となった。
 この日、信長は鉄砲隊へ次のように命令していた。
「馬を狙え。馬に乗る奴だけ狙え。功名を焦り、手当たり次第に撃つ者がおれば、厳罰に処す」
 織田軍団の鉄砲隊は馬だけに照準を合わし、ただ淡々と射撃を繰り返した。
 この結果、武田の騎馬武者は誰彼構わず鉄炮によって狙撃される。宿老や大将格が死傷して指揮者を失った以上、本来は農民である足軽らは動揺し、逃げ惑うしかなかった。信長はその点に着目したのである。
 中には死傷した宿老に代わって諸将が指揮を出し、叱咤激励してどうにか信長軍の馬防柵までたどり着く一隊もあったが、それは不幸であったかもしれない。柵へ取り付いた途端、柵の内側から槍、弓、鉄炮で惨殺された。
 大多数の宿老や諸将を失い、さらには鳶ヶ巣山砦も奪取され、茫然自失となった勝頼を近臣が力ずくで撤退させようとした。それを見た全軍が動揺し、完全に軍としての形態を失った。
 それを見逃さなかった信長は一言、「追え」とだけ命じた。



2006年09月30日 軽症喘息日誌?

 朝と言うか、午前三時過ぎに目が覚めた。昨晩の夕食は特にカロリーの高い物を食べたわけでもなく、自分でも「?」と思っていたのだが、四時前になり、急に鼻水が出始め、呼吸も少し乱れた。風邪薬を飲み、安静にしていようと思ったのだが、今から寝たら朝が起きれないのではないか、その不安が付きまとった。
 火曜日から体調も落ち着いていただけに少し不満である。
 昨日は嬉しいことがあったからちょこっとテンションが上がったのか、当初はそうも思っていた。このままでは軽症喘息日誌になりかねない。



2006年09月22日 風邪に、喘息に…

 思えば先週の火曜日から頭痛が始まり、薬を飲んだり飲まなかったりの生活をしていた。そして先週の木曜日、寝る前に薬を飲まなかった結果、金曜日の午前三時に目が覚めた。いわゆる喘息症状が起こり、風邪薬を飲み、落ち着くまでに約二時間、次に気が付いたら午前七時過ぎだった。
 この時には日曜日にエイサー祭りへ行くのも辞めようか、そこまで考えたが、幸いにして体調も落ち着き、何事もなくエイサー祭りへ行った。
 そして今朝である。しかも金曜日、午前六時過ぎにまた呼吸の乱れで目が覚めた。二、三日前から風邪薬をきちんと飲むように心掛けていたのだが、昨夜は忘れていた。この様にいい加減な服用が一番悪いと知りつつ、一方で薬に頼りたくない、その思いもある。
 職場での健康診断で小児喘息を持っていた話をしたら「風邪が治りにくいでしょ」と言われた。その様なことを聞いたのは初めてだったし、一つ利口になった。
 そう小児喘息、特に入院や通院、常備薬が必要なわけではなく、多分、小児喘息でも結構軽症だったのだろう。年に一、二回だけ喘息で数時間苦しめられる程度だった。
 大体が笑い出してそのまま喘息へ移行すると言う情けない話である。
 例えば落語や漫才、「トムとジェリー」などを観て大笑いしていたらいつの間にか喘息となり、人並みに笑うこともできない自分の身体を呪ったものである。
 高校で自転車通学をするようになってから喘息は影を潜めた。
 自転車という一つの運動が呼吸器を鍛え、同時に運動不足であった僕を健康な人間にしてくれた。しかし、この数年はどうだろうか、単車を使うようになってからは否めない運動不足である。
 体重も三キロは増えているし、暑さは兎も角、寒さには以前にも増して弱くなっている。
 何とかしなきゃあ…



2006年09月17日 エイサー祭り 無事に終わる?

 予定では今日は朝から台風十三号で大荒れの天候、何もかもが風雨でかき消されているはずだった。しかし、妙な物でエイサー祭りは曇天、時折雨が降る中で開催され、多分、おそらく、間違いなく無事に終わったことだろう。
 今日は午前中に仕事、終わってから親友と合流して卒業した高校の文化祭に顔を出して小一時間ほどを過ごし、親友とは新大阪駅で分かれ、そして一人で大正区へと向かった。
 大阪駅で環状線を待ち、いざ乗り込もうとした時、二人前に並んでいた男性が切符を落とすのを見た。気付くかな、そう思ってみていたのだが、気付かなかったから切符を拾い、手渡した。エイサー祭りの会場でも何気無く足元を見たら茶封筒が落ちていたので拾ってみたら紙幣が透けて見えた。たまたま受付の近くだったので「落ちてたよ」と渡した。その後、その茶封筒がどうなったかは知らないが、茶封筒には名前も書かれていたし、関係者同士で金銭の行き来があった中で運悪く落とされた物だろう、僕はその様に推測している。
 十八時までエイサー祭りを鑑賞してから家路に着いた。台風がそれたとの情報を得てはいたが、あくまでも人づてに聞いた話であったから正確な情報を持っていない以上、今朝七時時点の情報を頼りに行動をしなくてはいけない。あまり遅くなって台風に遭うのは避けたかったし、兎に角、最後まで居たい気持ちを抑え、僕は帰ることとした。
 今年のエイサー祭りが去年までと違うと感じた。去年まではどこかに政治性や社会性、もしくは社会色、政治色が漂っていた。
 それは最初にエイサー祭りを催した人達、そしてその意図が会場内に溢れていたのだが、今年はそれが無かった。去年、総責任者と言うべきか、祭り代表者と言うべきか、よく分からないが、第一回目から指揮を執ってきた人間がその座を譲ったことは聞いていた。
 元々、エイサー祭りは大阪の特に大正区在住の沖縄県出身者やその二世が自分たちの内側、内面にある沖縄を見つめ直すことから始めてたと聞いている。勿論、これ以外、これ以上の理由はあるだろう。
 例えば戦前から続いた沖縄県への差別、戦後にもつい最近まで残っていた就職などの差別、今でも続く在沖米軍の問題など、色々な意味での沖縄を問う場でもあった。しかし、同時に沖縄の芸能をただ単純に楽しむ場でもあった。例えて言うならば東京で阿波踊りを見るような感じだろうか?
 話を戻して会場となる公園に集う人々の中で沖縄の過去、現在、未来を真剣に考えている人が一体どれだけいるのだろうか?
 百人に一人、千人に一人、考えるだけ無駄かもしれない。
 来年も再来年もエイサー祭りがある限り、僕は毎年、大正区へ通うことになるだろう。
 会場で会った関係者の一人に言われた。
「祭り以外でも大正区へ顔を出して」
 この場所へ来ればいつでも沖縄なんだ。僕が沖縄県産品を買えば例え僅かでも沖縄の人が潤うことになる。それが沖縄を活性化させ、経済的に弱いと言われている沖縄を助けることになるんだ。

 で、職場のパートさんたちにエイサーをどの様に説明すればよいのだろうか?
 毎年、エイサー祭りが終わると僕は本格的な秋の訪れと言うことにしています。少々風邪気味です。



2006年09月11日 今日のくじ運

 これまでくじ運に恵まれたことが無い僕、今日は何故かくじ引きで一等を得た。
 職場の売店にて三百円以上お買い上げの方にくじを引く機会が設けられている。期間は来週あたりで終了、くじ運の無い僕、端から諦めてはいたが、物は試しと先週二回挑戦し、はずれ賞で小物を貰っていた。今日もはずれ賞だろう、そう言う思いで軽くくじを引いた。売店のお姉さんが「いつもありがとうございます。そろそろ一等出ますよ」か何か言って励ましてくれる中、僕はくじを開いた。
 一等…
「一等」
 その一言しか出なかった。
 励ましてくれた本人も驚くが、自分のくじ運に驚く僕もいた。
 一等はなんと高価なペアグラス、僕は知らないが、有名なメーカーのクリスタル製の商品だった。
 ちなみに二等はセントバーナード犬ほどの大きさがある犬のぬいぐるみ、そっちの方が欲しかったような…



2006年09月10日 京都文化博物館へ

 三日の日曜日に計画を立てたとおり、今日は朝から京都文化博物館へと行ってきた。ネットで調べたところ、駅から徒歩七分となっていたが、実際に歩いてみるとそれ以上の時間が必要だったような気がした。
 初めて歩く土地だからかもしれない。
 京都文化博物館は基本的には入場無料である。企画展のみ有料という仕組みだから常設展示とかを鑑賞するだけなら気軽に入館できる。
 目的である「マリア・テレジアとシェーンブルン宮殿」展において音声ガイドという物を借りてみた。ボタン一つで淡々とした口調で展示品の解説をしてくれる。
 今回の展示は人気があったのだろう、展示品の間を人混みをかき分けながら進む、そういう感じであった。しかし、オーストリアはウィーンまで行くこと考えたらこの人混みぐらいは我慢するべきだろうか。
 しかし、ハプスブルク家とマリア・テレジアを知ったのが十代の頃、確か高校生ぐらいだったから約二十年を経てようやく今回の展示に出合えたわけである。以前ほど熱の入れようはないが、それでも展示期間中にもう一度、見に行きたいと感じた。
 で、ネットで知ってはいたが、この京都文化博物館は意外と遊べる場所でもある。ろうじ店舗と称して食事処や土産物店が一階に並んでいる。
 久しぶりに文化の秋、芸術の秋を楽しもうと思っていたのだが、早々とお腹は鳴るし、結局は食欲の秋を楽しんでいた。それから和紙の店とかを見て歩き、ほんの少しだが、伝統工芸で目の保養をしてみた。

 余談だが、和紙でできた札入れって一体、実用性はあるのだろうか?
 柄が気に入ったので購入したのだが、扱いが乱暴な僕のこと、持ち歩くのは控えておいた方が利口だろうな。



2006年09月06日 あっさりと九月

 九月に入った途端、気温は下がるし、しかも今夕から雷鳴付きで雨となる。
 いつもならまだまだ暑い日が続き、「残暑」と言う言葉が挨拶の決まり文句のはずだが、はや「涼しい」と言う言葉を使わなければいけなくなった。
 しばらくおめでたい話を聞くこともなかったが、今日は皇室に四十一年ぶりの男子出生とかで朝から賑わっている。
 皇室と言えばこれまでに六人八代の女性天皇がいた。しかし、明治以降は皇室典範の改定とかで皇室の女性は即位の機会が失われてしまった。
 過去、八代の女性天皇と言っても必ず後ろには男性が控えており、時には成人男子がいないから中継ぎ天皇として女性が即位した時もある。
 今回のように後ろが全く居無い場合、是が非でも「男子出生」と祈るのは皇室関係者のみならず、当然と言えば当然のことだろう。
 我が国は取り敢えず先進国を名乗っているが、例えばイギリス、オランダなどでは女王が当然のように君臨している。後々のことも考え、今からもう一度、皇室典範の改定を議論しても良いのではないだろうか?



2006年09月01日 そば&うどん 防災の日

ウドン いやぁ、久しぶりやなぁ。
ソバ そうやなぁ。
ウドン そう言えばソバ君、きみ、どないしてた。
ソバ どないもこないもあるかい。仕事ないから、アルバイトしてたで。
ウドン そうか、そら、大変やったなぁ。
ソバ そう言うウドン君は、どないしてたんや。
ウドン それが大変やったんや。映画やろ、舞台やろ、サイン会やろ。
ソバ わしほっといて、ウドン君だけ、えらい活躍しとったんやな。
ウドン 全部、夢ん中や。
ソバ なんや、ちょっと、期待したがな。
ウドン なにを期待したん。
ソバ ウドン君が映画に出たらやな。わしにもちょい役ぐらい回ってくるかなぁって。
ウドン ちょい役って、あんた、わてが主役やったら、ソバ君は相棒やで。
ソバ 主役の相棒か、ええなぁ、それ。
ウドン 始まって五分以内にな、わての代わりに撃たれる役とか、どないや。
ソバ 撃たれたらあれか、その後は全く出てこうへんとか。
ウドン そうやねん。撃たれて、あとは病院でもがき苦しむ役とか。演技、うまないと、もがく役はでけへんで。
ソバ そら、災難やな。やめとくわ。
ウドン 災難言うたら、ソバ君、今日は何の日か、知ってるか。
ソバ 知っとるがな。今日は二学期の始まりやで。ええなぁ、一年生が、ランドセル背負っとる姿は。
ウドン 他に、何か思い出さへんか。
ソバ そやなぁ、なんやろな
ウドン さっきな、災難言うとったやろ。ヒントは災難や。
ソバ あぁ、分かったで。月末月初やから支払いや。えらいこっちゃ。また、電気止められるわ。
ウドン 今日のギャラ、全部、光熱費か。
ソバ そないやねん、えらいこっちゃ。
ウドン その話はまたあとや。九月一日言うて、何か思い出さへんか。
ソバ 今日のギャラ、光熱費や。明日からどないしよ。
ウドン そやからその話はまたあとにして、何か思い出してや。
ソバ あ、思い出した。
ウドン なんや、言うてみ。
ソバ 公共放送の料金も払てへんわ。それに新聞代。
ウドン あんた、新聞も取っとんたんか。読まへんのに。
ソバ いくらアホな漫才師でも、新聞ぐらい読んどかな、ホンマにアホやと思われたらかなわんやろ。
ウドン それより、何か思い出さへんか。
ソバ ギャラ全部持って行かれる方が心配で、何も考えられへんわ。
ウドン もう、ええわ。
ソバ どうも、ありがとうございました。
ウドン ちゃうわ、ここで終わって、どないすんねん。
ソバ 終わろうや、はよ帰ろうや。
ウドン ここで終わったら、ギャラ、一銭も入って来うへんで。
ソバ そらえらいこっちゃ。何でも喋るで。
ウドン ほんでな、今日は何の日や、言うてみ。
ソバ そやから、水道代の支払いや、言うとるやんか。
ウドン ちゃうねんて。今日は防災の日、分かるか、防災の日や。
ソバ なにそれ、なにがめでたいんや。
ウドン 防災の日言うて、災害を防ぐ日なんやで。
ソバ そら、知らんかった。
ウドン そう言うわけでな、今から防災訓練をしようと思うんだ。
ソバ どないな関係があるねん。
ウドン 僕らコンビを組んでから、いまだかつて、防災訓練なんか、したことないやろ。
ソバ 無いなぁ。
ウドン そやからな、今日はええ機会や。しとこと思うんや。どないや。
ソバ まぁ、よう分からんけど、話の脈絡上、しゃあないな。
ウドン ほな、始めるで。
ソバ よっしゃ。任しとき。
ウドン オオカミが来たぞぉ。
ソバ はぁ。今、なんて言うた。
ウドン オオカミが来たぞ、と、言ってん。
ソバ ここどこやねん。オオカミ、どっからどないして来んねん。
ウドン ここは演芸場や、近所の動物園からな、オオカミが逃げたという、そう言うことが起こらんとも限らんやろ。そう言う設定や。
ソバ あぁ、そうか。オオカミ来たら、どないすんねん。
ウドン 観客の皆さんが逃げてる間、ソバ君がオオカミを引き付けるねん。
ソバ どないして。
ウドン 一番ええのは、食われるこっちゃな。
ソバ そら痛いで。
ウドン 痛い以前の問題やな。
ソバ 他にはないんかいな。
ウドン ほな、次の災害行こか。
ソバ また、変なんやで。
ウドン ライオンが出たぞ。
ソバ 今度は動物園から、ライオン逃げたって。
ウドン 違うがな。今や日本も国際化、な、日本人は世界中のあっち、こっちに旅しとるやろ。アフリカに行ってな、ライオンに襲われる観光客とか、ビジネスマンとか、出てくるかもしれへんやろ。そやから、ライオンから逃げる、そう言う訓練をせなあかんねや。
ソバ ほな、アフリカでライオンに襲われたら、どないすんねん。
ウドン 簡単や、またソバ君が、引き付ければええねん。
ソバ また、わしかいな。
ウドン 次の災害、行かへんか。
ソバ なんかよう分からんけど、付き合うたるわ。
ウドン 火星人が来たぞ。
ソバ なんで火星人やねん。そら、あんた、突っ込みようあらへんがな。
ウドン 日本人もな、近々宇宙行くやろ。そやからな。
ソバ もうええわ。
 どうもありがとうございました。



2006年08月31日 雑報

 今日は月末恒例の「締め日」だった。こういう事が平然と書けるほど、今日の締めは落ち着いていたと思う。前月まではとても「平然」という言葉が出せないほど、慌ただしく、そして悲惨、それが締め日だった。
 勿論、明日になって蓋を開けたら間違いやら何やらが出てくるかもしれない。
 そうならないよう、今夜は祈りつつ寝ることにしたい。



2006年08月29日 「二紙を追う者は…?」

 諺に「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言う。
 単に今期が無いだけなのかもしれないが、どう頑張ってもこれ以上、続けられないものがある。
 長らく頑張ってきた新聞記事目録の作成をしばらく休もうと考えています。否、実際には琉球新報の方を休みたい、否、止めたい。
 他にしたいことがあります。たくさん、あります。それに過去の記事を遡ることに疲れています。
 付加すれば「どうせ、誰も見ちゃいない」し、多分、まず間違いなくどこからも苦情は来ないでしょう。



2006年08月23日 no title

 帰宅して自室へ入り、電灯を点けた途端、「ブーン」と言う音が部屋に響いた。
「敵機襲来!空襲警報!」
 そう言うわけことは有り得ないが、一瞬、「そうかなぁ」と思った。結果はカナブンさんが不法侵入されていたわけで折角遊びに来てくれたのだが、強引に玄関からお引き取り願った。
 土曜日辺りから西国街道沿いでは地蔵盆が行われている。今夜も「地蔵尊」と記された提灯なんかが灯されていた。
 朝な夕なに通勤で用いている西国街道、僕自身が用いるのはほんの数キロに過ぎないのだが、その僅かな距離にも小さなお地蔵様が数か所で祀られている。
 うんと昔からその場所で旅人や地元の人達を見守ってこられたのであろうし、本来ならば西国街道の利用者である僕も謝意を込めて何かしなくてはいけないのかもしれない。
 せめて明日からは朝夕、小さな石仏の前を通る際、謝意を込めて通ろうか、今はそう思っている。



2006年08月22日 狐さん、横切る…

 昨夜のことだが、仕事を終え、ラッタッタで西国街道を西へ向けて走っていた時、梶原の市営バス停留所付近で何かが前を横切った。
 犬?
 猫?
 狐?
 ふさふさして長い尾っぽ。そしてとんがった口元、ほんの一瞬でしたが、あのシルエットは間違いなく狐です。
 自宅近くで狸に出会ったり、狐が前を横切ったり、まだまだ高槻市には自然が一杯なのだと実感もしたが、一方で野生らしい生活が出来ているのか、少し不安になった。
 野良犬や野良猫の仕業と思っていたら実は狐がゴミを荒らしていたとか、そう言うことになっているのではないか、また逆に野良犬などが子狐を襲ってはいないか、そう言うことも考えてしまう。
 これから先、少しずつでも我が国は人口が減るだろう。そうなると今より少しは自然が増えるかもしれない。そうしたら野生動物が今よりは人間に気を遣うことも減るだろう。
 しかし、高槻市は案外、住み易いとか、そう言う理由で人口は増えるかもしれない。それでもこれ以上、自然が減らないよう、気を遣ってほしい。



2006年08月13日 今日の雑報 缶珈琲と僕

 この二、三年はコンビニで新しい缶珈琲を見付けるとついつい手が出てしまう。実際には珈琲の味などほとんど分からないのだが、何故か半ば癖みたいになっている。本当は珈琲よりも紅茶の方が好きである。好きだからと言って例えばダージリンとオレンジペコの違いが分かるわけでもない。単に珈琲よりは好きと言うぐらいである。
 コンビニとかで軽く何かを飲もうとしよう。缶紅茶は缶珈琲に比べれば少々甘さが強かったりする。以前は無糖の缶紅茶、ペットボトルの類とかが有ったはずなのだが、一体、どこへ消えてしまったのだろう。
 今日も仕事の帰り、自宅近くのコンビニで缶珈琲を味わう真似事をしていたら薬品臭が漂ってきた。周囲を見回して思わずプチ切れていた。
 コンビニ裏の一軒家にて庭木に殺虫剤を散布していた。
「思いっ切り、近所迷惑だぞ。お隣の洗濯物に、殺虫剤が着いてまっせ」

 殺虫剤、散布するなら、考えよう。近所迷惑、環境問題。



2006年08月06日 第三の被爆

 最近、「第三の被爆」という言葉を知った。要するに「第一の被爆」は核兵器が利用されること自体、そして被爆することを指し、「第二の被爆」は残留放射能が残っている場所へ立ち入って被爆すること、そして「第三の被爆」は放射能を帯びた粉塵類を衣類や皮膚へ付着させた結果、微量でも被爆することを言う。放射能は微量であっても我々の遺伝子を破壊するには充分な力を持っている。その結果、体内で長い時間を掛けてガンなどの原因となっていくらしい。これを湾岸戦争などで使用された劣化ウラン弾に当てはめるとどうなるんだろうか?
 あまり考えたくはないが近い将来、嫌でも考えなくてはいけない時が来るんだろうな、きっと…



2006年08月01日 信長の読み 歴史研究2006年8月号

「下がれ。下郎」
 あとは信長から何を言われ、どの様なことを怒鳴られているのか、聞き取ることさえ出来無かった。兎に角、秀吉は突然、群れが混乱に陥った猿同様に大広間を逃げ惑った挙げ句、そのまま長浜城まで逃げ帰っていた。
 秀吉は越前侵攻の際、織田家の宿老でもある柴田勝家と意見が合わずに口論となった。お互いに気が強いことでは信長家中でも並ぶ者が居無いほどである。いつの間にか太刀の柄に手が行き、周囲に人がいなければ斬り合いになっていたところであった。
 秀吉は抑えられない怒りに肩を震わせながら自分の陣へ戻り、怒鳴った。
「帰るぞ。柴田なんかと、一緒にやってられるか」
 それだけ言い終えるとさっさと愛馬へ乗り、その場を去ってしまった。残された者達は慌てて荷造りをし、秀吉を追い掛けることになった。
 柴田勝家への恨み辛みだけを抱えて信長の下へ行った秀吉は言い訳の一つも信長に聞き入れられなかった。
 長浜城へ戻った秀吉は城門の全ても開放し、後は連日飲めや歌えの大騒ぎを繰り返した。信長との主従関係も今日明日で途切れるかもしれない。それを考えると本当に自棄酒だった。
 信長の怒りを買った以上、逃げられないことは秀吉にも分かっていた。信長が秀吉憎しで長浜城へ攻め込んでくるかもしれない。そうなれば秀吉も信長相手に一戦交える覚悟はできているつもりだった。しかし、一体どれだけの人数が秀吉に着いてきてくれるのだろうか。その現実的な問題を考えた時、秀吉は信長相手に一戦交えるなど、夢のまた夢であることを痛感しなくてはならなかった。
 それ故にまた酒量が増える。妻や母、弟たちが秀吉に今一度、信長の下へ行き、詫びることを再三再四勧めてくれるが、秀吉はもう諦めていた。
「これまでの苦労が、水の泡だ」
 その頃、信長は秀吉が長浜城の城門を全て開放した上で連日連夜酒宴を催しているという報告を受けた時、三方原の合戦において徳川家康が武田信玄に敗北し、命からがら浜松城へ逃げ帰った後、あえて城門を開放し、かがり火を焚かせ、家康自身は茶漬けを食べ、敗戦にやつれた自身の姿を描かせたという話を思い出した。秀吉がそれを真似たとは思わない。しかし、信長に対して従順になり、隙を見せている格好を演じて実際には長浜城内で何かしら策を練っていると思えて仕方がなかった。長浜城下から伝えられる秀吉の様子は全て「酒に酔っている」という内容ばかりであった。
 信長は秀吉が自分に無断で戦線を離脱した罪を問おう考えていたが、他の者ならいざ知らず、秀吉には竹中半兵衛のような軍師から蜂須賀小六という猛者まで揃っている。しかも長浜はかつて浅井長政の領地であった。まだ織田家、特に信長に対して憎悪を抱いている者は少なくないだろう。その様な人々が秀吉の下へ参集する可能性は大きい。
 今は秀吉を刺激しないよう、そして「様子を見よう」との結論に信長は至った。
 本を正せば秀吉が嫡子石松丸を亡くし、落胆していたのを見た信長が気を遣い、秀吉を無理矢理北陸戦線へと送り出したのである。
 犬猿の仲でもある柴田勝家と功名争いでもしたならば少しは夭折した我が子のことを忘れられるのではないか、その様に思っていたのだが、それが裏目に出てしまい、勝家と言い争いをする結果になってしまった。
 秀吉の能力は捨てるには惜しすぎる。
 信長は四男於次が亡くなった石松丸と年齢も近く、背格好もあまり変わらなかったことを思い出した。
「於次。於次を呼べ」
 於次を呼び出した信長は「於次、今日より、藤吉郎の子となれ」とだけ伝えた。
 その日の内に於次は長浜城を目指して旅立った。そして於次を迎えた長浜城はまさに上へ下への騒ぎとなった。
 秀吉は信長が何を意図して於次を養子としたのか、それが理解できず、素直に喜べず、そして頭を悩ませることになってしまった。
 秀吉に「中国筋の大将へ命じる」との信長から伝えられたのは於次が養子となって間もない日だった。
「そうか。於次様は質であったか」
 秀吉を本拠地から引き離しつつ、大いに利用しようという信長の策だと秀吉は思った。
 だが、信長がこの答えを聞いたならば即座に秀吉を叱責したであろう。
 その出自故に地位や名誉を重視する秀吉である。四男とは言え、主君の子を養子に迎えることで他の武将との差が着けば大いに喜び、また大いに活躍するであろうという信長の読みは美事に当たった。



2006年07月19日 今日の雑報 畏れ多かった日

 今日は職場にて畏れ多い話があった。それで驚きの余り風邪が治ると言うことはなかったが、随分と楽になってはいる。
 のどの痛みは治まり、話すのも楽になった反面、鼻水が止まらない。しかし、これはいつもの鼻風邪へ移った証拠だし、明日には完治することだろう。
 誕生日前夜、否、前日に今日のように大きな話を頂くと有り難い反面、「自分でいいのかなぁ」と言う思いもある。確かに嬉しいのだが、素直に喜べない。



2006年07月18日 今日の雑報

 日記を書くだけの元気があるから大丈夫と言うことだろうか?
 土曜日の午後から少しずつのどが痛み始め、日曜日は喋ることすら億劫になっていた。月曜日には職場のパートさんに「低くて渋い声。声優みたい」と言われた。確かに男性にしては声が高音であることは知っていますが、低くて渋い声になったら多分、僕は僕でなくなるのかもしれない。
 昨夜というか今朝早くと言うべきか、覚えているのは午前三時過ぎ、のどの痛みと鼻づまりで目が覚めてしまった。
 仕事を終えたのは十九時、それから自宅近くにある総合病院へ行き、時間外診察を頼み、薬を貰って帰宅した。ちなみに体温は三七度二分でした。
 時間外でも診察して貰えるというのは利用者としては有り難い話である。
 何よりもまだ食欲がある。病気の時は一時的に食欲が上がるか、下がるかの両極端となる。食欲が上がった時は栄養を摂取しようと本能的に食べていると解釈している。逆に食欲が下がった時はもう救いようがない一歩手前と解釈している。
 医学的に見て正しいのか否か、そこまでは知らない。



2006年07月13日 今日の雑報

 今朝見た夢、名護のバスターミナルと思しき場所で僕はタクシーを探す。北部らしいタクシーに乗り、運転手に「那覇空港まで」と告げる。ナップサックの中をまさぐり、航空券を探す。ようやく見付けた航空券には十九時四十五分発と記されていた。あと三十分しかない。しかも運転手、何故か沖縄自動車道まで遠回りで走ろうとする。五十八号線に入れば許田のインターまですぐなのに何故、あえて市街地を走るの?
 明日は朝から仕事なのに何故、最終便に間に合わない時間帯まで名護にいたんだろう。何故?
 そしたら目が覚めた。
「あ、夢か」
 ホッとした。



2006年07月10日 昨日に続く今日の雑報

 職場にある社員食堂、その真横に小さな売店があり、そこでさんぴん茶を見付けた。遅まきながらようやく沖縄ブーム到来か、それとも単に健康ブームに乗っただけなのか、よく分からないが、まぁ、県産品が売れると言うことは良いことだ。
 昨日に引き続き「彼女」の話となります。
 当初、「彼女」に対して持っていた苦手意識、忘れもしない一九九八年の夏、当時、僕は名護市内において革新系市議の選挙を手伝っていた。
 選挙戦真っ最中のある日、街頭宣伝の場へ「彼女」が来た。職業柄、誰かに話を聞くのは分かるが、「彼女」は僕に後援会が「いつ発足したのか」と聴いてきた。僕は答えられなかった。だって、知らんもん。
 これが「彼女」を苦手とした最初だった。次は出入りしていた市民団体の構成が変わった時である。「彼女」は僕に具体的なことを聴いてきたが、事務局員でさえ分からないことを僕に聴かれてもねぇ…
 こういう事が二、三回続くと僕は「彼女」に対して苦手意識を持った。自分が赤っ恥をかかぬよう、「彼女」を避けている自分がいつの間にか出来上がっていた。
 そしてもう一つ、僕は「彼女」を本土の人間だと思っていた。見た目が沖縄離れしていたのである。逆に僕の身体には沖縄県民の血が一滴も流れていないが、何故か沖縄県人として通用する。
 僕が「彼女」の勤務先を知ったのは大学の公開講座を受講していた時である。「彼女」が取材に来ていたのだ。
 そして翌日か翌々日、「彼女」の撮った写真が紙面に載り、僕はようやく「彼女」の所属を知ったが、名前を知ったのはまたそれから後のことである。
 名護に住んでいた時、僕は幾度か大学の公開講座を受講した。それ以前にその大学の聴講生でもあった。
 公開講座を受講する僕、それを取材する「彼女」がいた。ある時、公開講座を受講する僕の姿が大きく紙面に載った。しかも講座の講師より大きな扱いだった。「彼女」の遊び心だったのか、それとも反戦運動に関わる中で表に出なかった僕に対する「彼女」の気遣いだったのか、それは分からない。しかし、あれはどう見ても偶然の産物ではないだろう。誰かが意図しないと出来ないことだ。



2006年07月09日 今日の雑報

 何週間か前の朝日新聞土曜日のbeに載っていた話だが、人間は危機に遭遇した後、恋に落ちやすいとか、その様な話が「ベルばらkids」にあった。
 何となく頷けるような話だった。
 忘れもしない一九九九年七月二十六日、親友と慶良間諸島へ行った帰りである。台風の影響で船も飛行機も動かない時、民宿の人が「エアードルフィンという貸切航空会社が飛ぶかもしれない」というので民宿に居合わせた他のお客と一緒にエアードルフィンへ連絡、慶良間空港まで来て貰うことにした。
 日航系列のRACが飛ばない以上、本当は飛行禁止の天候だったのかもしれないが、翌日の日程が何もなかった僕は兎も角、親友を含めて翌日の日程が詰まっている人が沢山いたのである。
 温和しく慶良間空港で待っていると乗員乗客合わせて十人しか乗れない軽飛行機が飛んできたのは良いが、台風後の強風に振り回され、二回も着陸に失敗、特に二回目は機体が引きずられるようにして姿を消したから「事故だ」と思った。
 慶良間空港って低いとは言え、山の上ですからね。潮風が山裾を辿って来ることは充分に考えられます。
 何事もなく那覇空港へたどり着いたから今、こうして日記を綴っているのですが、冷や冷やした感覚は残っていたのでしょうね。
 親友が東京行きの便に乗るまで少々時間があるというので那覇空港から市内へ入り、百貨店のRYUBOで二人してウロウロしていたわけです。
 確か六階の催事場だったと思います。何の偶然か山原関係の催事が行われていた。他に見る物も無かったし、何気無く見て歩いた後、他へ行こうとした時に通路の向こうから「彼女」が歩いてきたんです。確かグレーのパンツスーツだった。
 当時、僕は「彼女」に対して漠然とした苦手意識があった。だから僕は挨拶もせずにスッとすれ違った。当時の立場から言えば「彼女」の方から挨拶するのが順序だったのかもしれない。
 兎も角、すれ違ってしばらくしてから僕の中で「彼女」を無視した自分に疑問が湧いたんだ。そして僕は「彼女」をこの時初めて「異性」として意識したんだ。
 あれから七年が経った。



2006年07月06日 昨日の雑報

 正式名称を「朝鮮民主主義人民共和国」という北朝鮮がテポドンやノドン、そしてスカッドなど七発を発射して一日以上が経ちました。今でも八発目以降を発射するとか、発射しないとか、色々な話が出ています。
 今回の一件で一番可哀相だったのは万景峰号に乗っていた高校生達では無いだろうか?
 自分達が生まれ育った国と父や祖父達の祖国と板挟みになり、帰るべき土地を目の前にして海の上で漂うことになった時、また人道上の理由で接岸を許された時、どの様な気持ちであったろうか。
 しかし、一方で思うんだよね。「地上の楽園」とまで言われた土地を実際に見た直後に威嚇を目的としたミサイル発射、何が正しいか、誰が間違っているのか、僕ら以上に考えたのではないだろうか?
 今回、北朝鮮がミサイルを発射した目的は日米に対する威嚇が主な目的のようだ。北朝鮮の専門家や軍事評論家も人によって目的や効果に関する評価は違い、それぞれの意見を聞き、「ふむふむ」と理解したような顔をして頷いてはみるのだが、実際には発射ボタンを押した本人にしか分からないのだろう。
 だが、着地または着水した場所が中国やロシアの近海である。僕の目から見れば中国やロシアへ喧嘩を売っているとしか思えなかった。
 仮にロシアと戦争になった場合、北朝鮮はどうするつもりなのだろうか?
 まず有り得ない話でしょうが…
 北朝鮮が真横で何をしようが、僕らの生活には一片の支障も無いわけです。我が国はこれ位のことでは揺らいだりはしません。こう言う時、つくづく思います。
「日本人で良かった」って。



2006年07月06日 今日の雑報

 四日の夜遅く、もしくは五日未明と言うべきか分かりませんが、僕は強烈な腹下しにより、夜中に二度もトイレへと通い、挙げ句の果てに朝食はご飯を二口しか食べられませんでした。そして久しぶりに胃薬の世話になり、寝不足と空腹でフラフラになりながらどうにか半日を過ごしました。胃薬に運命を託しつつ昼食も摂りました。帰宅して安心した反動か、たくさん食べてまた胃薬を服用、今に至っています。
 何が原因だったのか、さっぱり分かりませんが、たまにはお腹の中を空っぽにするのも良いかもしれません。しかし、今度腹痛になるならやはり休日にして欲しい。昨日は全然体力がありませんでした。



2006年07月04日 物語 太郎のこと

 太郎はもう三日以上、砂漠の中を歩いている。しかもこの二日間は砂嵐の中である。しかし、普通の人間ならば引き下がるところを太郎はただひたすら歩いていた。ただ漠然と西を目指して。
 三日前、最後に立ち寄った村で太郎は僅かながらの食料と水を得た。そして何故かわからないが、一定の距離を保ちながら太郎を追ってくる男が一人いた。
 太郎は気配を感じてはいたが、振り返ることをしなかった。砂嵐の中、昼夜を問わず歩き続ける太郎に一定の距離を維持しながら付いてくる相手である。
 尋常の人間ではないだろう。盗賊のように襲うことが目的ならば人里を離れた時点で襲えるはずである。別の目的があるのだろう、そう思いつつも太郎は休息したくなった。だが、砂嵐、どこで休むべきか、いつ歩みを止めるべきか、考えている内に意識が遠のいていった。
 どれだけの時間が経ったのだろう。何かが風にはためく音が耳に入った。徐々に意識が戻ってくる。狭いテントの中で自分が寝かされていた。隙間から砂嵐がまだ続いていることを教える、粒子が否応なく入ってくる。テントの中を目で確かめると見覚えのある男が一人、座っていた。
 最後の村で太郎を何気無く見ていた男である。そして言葉の通じない太郎に同情でもしたのだろうか、近くで遊んでいた子供に何か一言、二言指示を出し、水と食料を分けてくれた男である。
 まだはっきりしない頭の中で太郎は「こいつが、俺を追い掛けていたんだ」と答えを導き出した。
「大丈夫か」
 突然、太郎の耳に日本語が入ってきた。驚いた。この砂漠の土地に日本語を使える人間がいる。有り得ない。
「大丈夫か」
 もう一度、同じ言葉が耳に入ってきた。
「一日以上、寝ていた」
 太郎は目の前に座っているアラブの男を見た。男が深く頷いた。
「あんた、日本語を知ってるのか」
 太郎は日本語で尋ねた。男は首を横に振った。
「伝わるだろう」
 太郎は男の唇の動きと耳に入る音が違うことに気付いた。
「思いだ」
 どうやら心が伝わっているようだ。
「私の名前は、ムマナスク・ヤールコイ=ホイ。四日も前、村に来たお前の言葉が聞こえた」
「どういうこと」
 意識が回復した太郎だったが、上半身を起こす気力はまだなかった。
「何年も前のある日、私は頭の中で何かが弾けた。それ以来、人には言えない、不思議な力が身に付いた。だが、誰にも言わなかった」
「何故」
「悪魔の誘いに思えた」
「それで、誰にも言わなかったのか」
「そうだ。そしてお前が来た」
「俺の名前は太郎」
「そう、太郎が来た。太郎の声が聞こえた。遠くから来た。海を、山を、谷を越えた」
「そうだ。よく知ってるな」
「だから、仲間だと思った。話がしたいと思った」
「あの村で、話せば良かったのに」
「出来ない。他の国の言葉がわかるなど、あの村では有り得ない」
「そうかなぁ」
「だから付いてきた」
「御陰で、助かったよ」
「助けるとは、思わなかった。これから、どこへ行くつもりだ」
「西へ行きたい。ヨーロッパ辺りかな」
「ついて行っていいか」
「家族は心配しないのか」
 ムマナスクは首を振った。
「家族は居無い」
「同じだね」
 太郎はしんみりと答えていた。
 太郎には悲しい思い出がある。
 あれは高校に入学して間もない頃、勉強に疲れを感じた時だった。何故勉強をしているのか、分からなくなった。正気を失いそうになるぐらい、自分を取り囲んでいる状況に不満が募り、家族が誰もないことを良いことに大声を張り上げていた。
「何もかも、消えてしまえ。燃えてしまえ」
 そう祈ってしまった。次の瞬間、周囲が炎に包まれていた。だが、正気を失いかけていた太郎にはそれが瞬時に現実だと分からなかった。
「燃えろ。もっともっと燃えろ」
 声を張り上げていた。
 自室が焼け落ちようとしていた。溶けていく窓ガラスの向こうに炎の龍が姿を見せた瞬間、何故か太郎は現実へ引きずり戻されていた。
 隣近所が燃えていた。炎の中を近所の主婦や子供達が逃げ惑っていた。
「どうにかしなきゃ」
 そう思い、太郎が一歩前へ進んだ瞬間、太郎の自室は崩壊し、太郎は意識を失った。
 警察署と消防署は現場検証の結果、太郎の家が火元であることは突き止めたが、出火の原因については不明もしくは放火の疑いも拭えないとの結果で終わった。
 火元であり、家屋が全壊していたにも関わらず、太郎は軽傷で済んだ。家族は当然、「奇跡」として喜んだが、太郎は警察署や消防署の事情聴取に対して「自分が火を起こした」と真実を伝えたが、誰も信じてはくれなかった。
 太郎の自宅を中心にして三十数軒が炎に包まれ、老若男女を問わず、多くの命が犠牲となっていた。
 太郎は高校を中退し、しばらくは何も出来なかった。家族と改めて再出発するために借りた家に移り住んだが、一日中、自室へ引き籠もっていた。だが、いつまでもその様な生活をしているわけにはいかなかった。
 太郎は自分を探そうと考えた。ある夜、愛用のリュックサックに荷物を詰め、貯金と両親の財布から有り金全てを持ち出し、星空の下、歩き始めた。最初は西を目指し、九州の果てまで行き、そこから北を目指した。
 時々、食事と睡眠をとる以外、ただひたすら歩き続けた。旅の途中、自分を探す家族の姿を新聞やテレビで見たが、遠い存在にしか思えなかった。
 流氷の頃、太郎は氷の上を歩き、大陸へ向かった。そして大陸を西へ向かった。



2006年07月03日 秀吉と朱傘 歴史研究 2006年3月号

 天正五年十月、信長は羽柴秀吉に中国筋一職を委ねた。
 安土城の大広間にて秀吉は謹んで拝命した。
 秀吉がかしこまっている姿を見ていた信長の脳裏に朱傘が浮かんだ。
「禿げ鼠に、朱傘を与えよ」
 次の瞬間、信長は自分の思い付きを口にしていた。
 大広間に居合わせた誰もが信長の言動を解しかねた。
 幾重にも黒漆を塗られた桐の箱が信長の前へ恭しく置かれる。
「おい、禿げ鼠。これを持って行け」
 秀吉は開封されずとも、その中身が何であるかを知っている。平伏したまま、顔を上げることが出来なかった。これまで感じたことの無い身震いが体中を走る。
 恐れ多くも上様が暇さえあれば開いて楽しんでいる、南蛮渡来の朱傘である。それを下賜されるという意味は一体何であろうか。そして何故、自分なのか。秀吉には理解が出来なかった。
「持って行け」
 信長の甲高い声が秀吉の全身を突き抜ける。平伏したまま一言も発せぬ秀吉に嫌気がさしたのか、信長がやや苛立った足音を残して大広間を出て行った。小姓たちが慌てて信長を追いかけていく。
 取り残された秀吉が恐る恐る顔を上げ、恭しく桐の箱を押し戴き、そしてソッと蓋を開けてみた。
「朱傘じゃ。あの、朱傘じゃ」
 秀吉は思わず蓋を投げ出していた。
 他には誰もいない大広間で身震いも止まらず、動揺している秀吉がへたり込んでいた。
「兎に角、帰ろう」
 まだ震える手で蓋をした桐の箱を押し戴きながら大廊下をしずしずと歩み、玄関を目指した。その時だった。秀吉はふっと背中に誰かの視線を感じた。振り返ってみる。だが、そこには誰もいない。
「気の所為か。否、違う」
 廊下の角で信長が自分の反応を見て楽しんでいるような気がした。そして両手で押し戴いている桐の箱を見つめ直した。
「違う」
 秀吉は呟いた。
「そうだ。わしは羽柴藤吉郎秀吉、柴田や佐久間とは違う。同じようにしてはいかん。いかんのじゃ」
 言うが早い、秀吉は廊下へ押し付けるようにして桐の箱を置き、放り投げるようにして蓋を開け、朱傘を鷲掴みにして取り出した。
 桐の箱を小脇に抱え、朱傘は肩に担ぎ、それまでの粛々とした歩き方をやめ、いつものように大仰な歩き方をして玄関目指した。廊下で行き交う人に大声で「朱傘じゃ。上様の朱傘じゃ」と見せつけた。
 玄関へ着くと秀吉を待っていた家臣らが朱傘を見て唖然とした。しかも秀吉が肩に担いでいる。止めようとする前に近付いた一人に秀吉は桐の箱を投げて寄越し、両手で朱傘を拡げようとしたが、仕組みがわからず、孤軍奮闘する始末だった。見るに見かねた家臣らが手を貸し、口を挟みしてようやく開いたが、今度は閉じ方がわからない。
「もう良い」
 秀吉は開いたままの朱傘を自ら持ち、馬も駕籠も使わずに帰宅することにした。
 天守閣の最上階より信長は朱傘が大手門をくぐるのを見届けてから「あれも、うつけか」と呟きつつ、笑みを浮かべた。
 若い頃、「うつけ」と言われた信長同様、形式に捕らわれる必要はない。朱傘を拝領して嬉しいなら素直に体現すればよい。秀吉はそう言う答えに行き着いていた。
 秀吉は玄関を出てから振り返りたい衝動を抑えられなかった。城のどこから信長が自分を見ているのか、確かめたかったのだが、その代わりに城下の自邸に着くまで大声で「朱傘じゃ、朱傘。上様より拝領の朱傘じゃ」と繰り返した。
 秀吉はどこへ行くにも朱傘を差して自らの存在を誇示した。周囲から見れば目立ちすぎ、敵へ居場所を教えているように思えたが、秀吉は気にするどころか、返って朱傘を高々と掲げさせた。
 以後、秀吉は安土城へ赴き、信長に会う都度、「頂戴した、朱傘の御陰で、雨風がしのげました」とか「夏の暑さを、しのげました」と報告していた。
 秀吉の報告がどこまで事実なのか、信長にもわからなかったが、少なくとも古い形式に捕らわれず、次々と新しいことに挑んでいる秀吉を頼もしく見ていた。



2006年07月03日 今日の雑報

 多分、いつも利用するCDも扱っている書店で僕はマニアックな客だと思われていることだろう。何せこの界隈では扱われていない普天間かおりを購入しているし、今回は二回続けてBLUES BROTHERSである。今日はThe Complete BLUES BROTHERSという二枚組を注文してきた。早ければ二、三日で届くそうである。
 次は何を買おうか、今から考えている。以前から欲しいDVDもあるのだが、幾つか欲しい中で優先順位を決められずにいる。それはある意味、幸せなことなのかもしれない。



2006年07月03日 想像した映像

 高々度を飛行する旅客機、乗客の中には眠る者、雑誌や新聞を読む者、機内放送を楽しむ者など様々である。
 その中の一人が音楽を聴きながら妙に乗っている。足でリズムをとり、上半身も自然と揺れている。それを見た乗客の一人が「自分も…」と言った感じで機内放送のチャンネルを変えていく。同じ曲を見付けたのか、同じように全身でリズムを取り始める。一人、また一人と同じチャンネルで同じ客が増えていく。
 客室乗務員が機内誌を見ながらささやき合う。いつの間にか乗客の大半が客席から立ち上がり、曲に合わせて踊っている。年配の乗客は座ったまま身体を揺らしている。
 客室乗務員は通路でバク転などを披露する。
 操縦室では機長と操縦士も曲に合わせている。そして機体も…
 曲が終わろうとする頃、乗客は元の落ち着きを取り戻していく。最初に踊り出した乗客も席に着き、何事もなかったように旅客機は高々度の旅を続ける。



2006年07月02日 今日の雑報

 午前中、一時間だけ仕事をした後、僕はガソリンを入れて箕面まで走ってみた。三月以降、やることなすこと全て上手く行かず、前任者による怨念説まで出してみたが、仮に怨念だとしたらやはり祈祷、お祓いの類が必要となる。兎に角、毎年初詣へ行っている神社へと単車を走らせ、参拝してきた。
 初詣の際、御神籤が「凶」で嫌だったのだが、今日は「吉」でした。それでホッとした。
 帰宅してから昼食を済ませてお昼寝をしました。
 昨夕、仕事の帰りに近所のコンビニへ寄り、写真のフィルムを出した。これまでならカウンターで事足りたのだが、今はATMの隣にある機器で受け付けを済ませ、その機器で印刷された用紙をカウンターへ持って行かなくてはいけない。技術の進歩だか何だか分かりませんが、普通の写真店へ持って行った方が楽だと感じだ。



2006年06月30日 ボツになったとか…

 イラクへ派遣されていた自衛隊の撤退が決まり、胸をなで下ろしている一人です。
 しかし、喜んでばかりもいられません。一九九一年の湾岸戦争に従軍した米兵や参加国の兵士には湾岸戦争症候群という未だ原因不明の病気が付きまとっています。同様の症状はイラク国内でも蔓延しています。障害を持った子供が生まれたり、幼い命が白血病などで奪われたりしています。米軍が使用した劣化ウラン弾が主な原因と言われていますが、公式には認められていません。自衛隊が派遣された地域では劣化ウラン弾は使用されていないとも聞きましたが、分解した粒子が風に乗り、サマワまで流れていないでしょうか、気になるところです。
 米軍は多くの死傷者を出し、内外で問題となっていますが、幸いにして自衛隊は犠牲者もなく、役目を終えられそうです。しかし、派遣された隊員が今後、湾岸戦争症候群と同様の原因不明な症状を患ったとしても米国政府のように「因果関係が分からないから」等の理由を付けて門前払いをせぬよう、国や政府が責任を持って健康管理を行っていって欲しい物です。

 昨夜というか、二十九日の夜、僕は上記の文章を朝日新聞へ投稿した。結果を先に書けば不採用となったが、わざわざ朝日新聞の担当部署から電話を貰った。
 担当者が言うには湾岸戦争症候群と劣化ウランの因果関係が未だ不明確であること、それよりも生物兵器へ対応するために服用した薬剤との因果関係が疑われているという話でした。幸いにして自衛隊は強力な薬剤を服用していないそうだが、一方で英軍は服用して問題になっているらしい。
 私の不勉強、赤っ恥をかかなくて済んだ。何よりも親切に対応してくださった担当者には頭が下がる。しかし、一つ聞き忘れたのだが、イラクで小児の白血病や障害児が増えている原因は何だろう?
 今一度、湾岸戦争症候群について調べなくてはいけない。



2006年06月29日 今日の雑報

 ラジオで時々、「ヘビーローテーション」と言う単語を聞く。例えば「今月のへービーローテション」と言った感じである。一つの楽曲をラジオ局が集中的に流すことだと解釈している。
 真似をするわけではないが、一か月ほど僕は昨日入手したばかりの「BLUES BROTHERS」を集中的に流そうと考えている。少しは元気になったような感じがする。しかし、相変わらず朝は苦手だ。
 ついこの間まで集団登校する児童を横目に見ながら通勤していたような気がしたのだが、今では児童を見送った父兄が話しながら歩いているのと出くわす次第である。起床時間が僅か十五分ほど遅くなっただけでこの差である。職場で遅刻をしているわけではないし、そう言う意味では「たかが十五分」かもしれない。だが、油断すると本当に遅刻するような事態になるだろうし、やはり十五分はどこかに気の緩みが生じているのかもしれない。



2006年06月28日 笑う門には福来たる

 諺に「笑う門には福来たる」が有る。
 それを信じて笑いたいのだが、三月以来、どうにも運勢が下がり気味である。このまま徹底的に下がる一方なのだろうか、困った物だ。
 何か藁にもすがる思いと言うが、まさしくその心境である。何か自分を変えてみようと思い、数日前にCD屋へ行き、一枚のCDを取り寄せて貰った。その名はあの有名な映画「BLUES BROTHERS」のサントラである。以前から欲しかった一枚であったが、一方で「買ってまで聴く必要もないか」と言う思いもあった。大体、英語は分からないし、自室でこの音楽を聴くと逆に休まらない気もしていた。しかし、そうも言っていられなくなった。兎に角、自室で騒ごう、ほどよく勢いを付けよう、気分を高揚させよう、楽しもう、笑おう、そしたら向こうから福が来るに違いない。そして悪い運気も去っていくことだろう。それだけを信じよう。



2006年06月27日 今朝見た夢より

 夢の中で僕は浄水槽を清掃していた。デッキブラシか何かを持ち、ひたすらゴシゴシと汚れを落としていた。プールのような大小さまざまな浄水槽が太いパイプで繋がっていた。今から考えたら大都市か大きな工場の浄水槽だったのかもしれない。ある時は足下に残った水に濡れながらゴシゴシとデッキブラシを動かしていた。その内に責任者らしい人が僕に声を掛けてきた。
「新人です。よろしく」
 僕はその責任者らしい男性に挨拶をしていた。その後、夢の中の僕は気が付いた。昨日までの仕事はどうしたんだろう?
 いつの間に引き継ぎをしたのだろう?
 夢の中で僕は現実的な問題、もしくは現実を気にしていた。自分が何故、浄水槽を清掃しているのか、真剣に考えながら仕事をしていた。
 大変なことになった!
 そう思っていたら目覚まし時計が僕を現実の世界へ引き戻してくれた。
 正直、「夢かぁ」とホッとした。



2006年06月21日 言わせて…

 朝日新聞の朝刊に「メタボラ」と言う小説が連載されている。何気無く目を通し、沖縄県那覇市が舞台と言うことまでは知った。それで時間がある時、目を通すようにしていたのだが、今朝、目を通していて作者は沖縄を知らないと思った。
 台風の中、居酒屋が営業していることに主人公達が驚いているのだ。
 沖縄では台風が襲来した時こそ、居酒屋やバー、スナックなどのいわゆる「飲める」店の出番である。
 風速が二十五メートルを超えたら唯一の公共交通機関である路線バスが止まる。すると官公庁を始めとして企業も休み、行き場を失った人達は朝から自宅で飲むか、もしくは三々五々「飲める」場所を求め、そして「飲める」場所に集まって台風が通り過ぎるのを待つのである。
 確かに小説である。地球の裏側に関して有ること無いこと書かれても分からないし、それこそ「小説ですから」と言えば済むことかもしれない。しかし、良かれ悪かれこれだけ沖縄がブームになっている中、こういう台風襲来時における沖縄の常識を知らないというのは如何なことであろうか?



2006年06月16日 愚痴だよ愚痴

 最近、何をやってもうまくいかない。
 人間、誰しもそう言う時期、時は有るのかもしれないが、僕の場合、何かしら単にそれだけではないような気がする。
 大体、子供の頃から何をやってもうまくいかなかった。少なくとも小学校に入学してから高校を卒業するまでの間、毎日毎日学校と名の付く所へ行くのが嫌で嫌で仕方がなかった。何が嬉しくて通っていたのだろう。
 最近はその時と同じような気分である。
 まず、朝が起きられない。去年の今頃はどうだったか忘れたが、少なくとも今年の三月以降、徐々に起床時間が遅くなり、今では七時十五分にどうにか起きている。この十五分という差は意外と大きい。遅刻はしていないが、朝から慌ただしく着替えたり、更衣室から現場まで時間を気にしながら移動するというのは面白くない。しかし、布団の中で「まだ大丈夫」と確信犯的に寝坊する自分がいる。
 子供の頃から幽霊とか何とか、その部類を特集した番組は結構観た方かもしれない。幽霊自体、会ったこともないし、「信じるか?」と聞かれれば「半信半疑」と素直に応えるしかない。
 そう言う中で「生き霊」とか「怨念」とかを最近、少しだけ信じるようになった。実際に会ったわけでも観たわけでもないし、何ら確証が有るわけでもないのだが、ここ二か月以上に渡る職場での失敗続きを僕は前任者の「怨念」か何かの所為ではないか、そう思いたくなる。勿論、科学が先行している今の時代、「前任者の祟りです」等という言い訳は通用しないし、本当に言い訳にもならない。大体、私の精神が狂ったとしか思われないだろう。しかし、それぐらい誰かに責任を転嫁したい。相手が怨念だろうが、生き霊だろうが、責任を負ってくれれば感謝したい。
 今の自分に何かが足りない。何が不足しているのか、それが分からない。
 これまでもそうだった。これからも続くのだろうか?
 子供の頃は「おっちょこちょい」だの「愚鈍」だの、ある意味、それで済んだかもしれないが、三十五歳にもなってそれでは済まされない。それとも僕は本当に精神的な問題を抱えているのだろうか?

 自営業ならば自分が経営者であって従業員でもある、仮に失敗があったとしても自分自身で責任を負い、顧客や迷惑をかけた相手に謝罪すればよいことだろう。しかし、会社である。僕の代わりに上司が頭を下げて歩く結果となる。
 入る会社を間違えたのだろうか。
 人材派遣会社か何かへ登録して日々、違う現場へ行き、責任を感じることなく流れ作業でもしていた方が似合っていたのだろうか。ただ淡々と黙々と指示に従って「右から左」的に作業をしていく。始業から終業まで何も考えない、何一つ疑問を抱かない、抱く必要もない、そう言う仕事が向いているのかもしれない。



2006年06月11日 万年筆ネタ

 二、三日前の事ですが、久しぶりに机の引き出しから万年筆を取り出してみました。
 二〇〇二年十二月に購入した屋久杉万年筆です。しかし、蓋が浮いた状態で閉まりません。
「ん?」
 幾度となく繰り返しましたが、閉まりませんでした。
 要するに故障です。
 で、昨夕、仕事の帰りに駅前の百貨店へ行ってみました。
「大変申し訳ありません。当店ではプラチナの万年筆は取り扱っておりません」
 次に商店街にある市内では著名な文房具店へ行ってみました。
「購入したお店へ行かれた方がいいですよ」
 その結果、今日は午後から久しぶりに大阪駅前へ足を伸ばしました。久しぶりに入店する阪急百貨店梅田本店、どこに目指す文具売り場があるのか、さっぱり分かりませんでした。それ以前にエスカレーターの位置も分からず、目に付いた非常用とおぼしき階段をてくてくと八階まで上がりました。あぁ、しんど…
 で、文房具売り場の店員さんにお伺いすると蓋の内側に本体と密着するための金具とプラスチックの部品があり、そのいずれかが弱っていると言うことでした。
 万年筆にはインク以外にも消耗もしくは摩耗する部品が有ることを知りました。
 この結果、僕の屋久杉万年筆は一か月ほど入院することとなりました。
 今後も何年かに一度は部品の交換をしなくてはいけないようです。
 で、今回はこれに平行してカートリッジ式からコンバーター式へと切り替えます。必要な量だけインクを取り込み、そして書く。
 それよりも前に字が汚いの、直らんかなぁ…



2006年06月11日 献血ネタ

 5月21日に昨年7月以来約十か月ぶりで献血へ行きました。
 十か月、長かったなぁ。大体、冬は寒いし、着る物が増えるから袖をまくるだけでも面倒、それを理由に献血から足が遠のくのは良くないのでしょうが、やはり寒いし、自宅から献血ルームまで結構距離有るし、色々と言い訳が出来てしまいます。
 で、今日は今年2回目の献血へ行きました。前回に比べれば待ち時間も無く、すんなりと行きましたが、何回献血しても針が刺される瞬間は痛いねぇ。
 19歳の時、当時通っていた専門学校の教師に騙されるようにして始めた献血ですが、ようやく37回目です。年内に40回目を迎えることが出来るのでしょうか?
 これだけは誰かと競う物ではありませんし、自分の体調と気持ちが「今日は献血へ行こう」と思ったとき、それだけが頼りですからね…



2006年06月09日 CDネタ

いつの間にやらCDが50枚を超えていた。勿論、勝手にCDが増殖するわけでなく、私という所有者が購入していった結果である。しかし、数年前までCDをここまで集めるとは考えても居無かった。
 十代、二十代の頃はほとんどCDを購入することはなかった。その代わりにラジオを聴くことによって流行り廃りを知った。それで事が足りていた。
 無理に好きなアーティストを作る必要もなかったし、すでにレンタルが普及してアーティストの栄枯盛衰が激しくなりつつあった時期と僕の二十代は重ねられるだろう。
 数年前に高嶋ちさ子を知り、そのCDを集め始めた頃から僕のCDは増え始めた。一青窈、普天間かおり、石嶺聡子と順序は無茶苦茶だが、買い集めています。しかし、一青窈と石嶺聡子は途中で止まっています。結局、普天間かおりのみシングルとアルバムが揃っています。高嶋ちさ子はアルバムが一枚だけ足りません。多分、廃盤になっているかもしれませんが、「ENGLISH MUFFIN」だけが足りません。
 十代、二十代でCDを買い集めなかった反動でしょうか?
 しかし、無闇矢鱈と購入しているわけではないと自分では思っています。好きなアーティストのCDだけを買っているつもりです。しかし、子供みたいに「あれも欲しい。これも欲しい」と思っているのもまた事実です。
 レンタルという手もあります。しかし、普天間かおりのレンタルなんて見たこと有りますか?
 少なくとも私はありません。
 結局、私が気に入った音楽はレンタルもされていないから買うしかないわけです。
 これからも本当に好きな音楽だけを少しずつ買い集めていくことでしょう。
 その前に並べる場所を考えなくてはいけません。



2006年06月07日 書店とかCDショップとか

 書店へ行きました。
 仕事の帰り道に自宅近くにある音楽も扱っている書店です。
 他の書店で欲しい本を見付けても買わずに帰ることが多い。そして自宅近くにあるいつも利用している書店で買います。書棚に無ければ取り寄せをお願いしています。
 欲しい本を探す時、当然ですが、書店巡りをします。もう一つはネットで検索しています。
 そう、本はネットで買うことも出来ます。しかし、何か今一つ馴染まない。人が恋しいだけなのかもしれないが、やはり店員さんがいる、そして気持ちのよい接客をしてくれる、そう言う書店へ行き、本を探し、そして注文し、購入している。
 でね、考えたんですよ。
 書店ってDirect Mailとか出すんでしょうか?
 例えば僕の場合、購入する本とか、無闇矢鱈な面もありますが、多分、一定の流れがあるはずです。そう言う流れを書店が見付け、「今度、この様な書籍が発売の予定ですが、予約されませんか?」みたいなE-mailとか葉書とか、そう言うものを出すことによって客の確保を図れないのだろうか?
 CDならお気に入りのアーティストが次のCDを出す直前とかに「あなたの好きなアーティストが来月、新しいアルバムを出しますが、今度も当店で予約してね?」みたいな案内を出すとか、小説ならばお気に入りの作家が新作を出す時とか、何か一工夫、出来ないものだろうか?
 ネットで本や音楽、映像も買える時代になり、確かに小さな書店にとっては厄介な時代が到来したかもしれない。実際、小さな店舗は潰れる時代だろう。しかし、上手く固定客を捕まえることが出来ればネット時代がどれだけ進んでも書店やCDショップは生き残れると思う。

 しかし、ネットで検索した結果を持って書店へ行き、本を注文している僕を見て店員さんはどう思っているんだろう。



2006年06月05日 「二見情話」から始まった愚痴のような…

 で、ようやく気分が落ち着いたので書きますが、5月21日に普天間かおりさんのライブへ行ってきました。ここまでは普通にライブへ行ったと言うだけです。
 問題は丁度ライブの折り返し地点とおぼしき時間帯に普天間かおりさんが「二見情話」を歌われたこと、しかもアカペラで…
 この曲自体は知っていました。名護に住んでいた頃、あるお人がこれを好んで歌われていたのです。しかもこのお人、Puffyもドリカムも何故か演歌調になるから不思議でした。で、「二見情話」も演歌調だったか否か、記憶は定かではありませんが、僕としては「あぁ、またか。また二見情話だよ」ぐらいの感覚で聞いていました。
 アカペラで「二見情話」を歌い終えた普天間かおりさんが「二見情話」の解説をしてくれました。
 戦後間もない時期、二見収容所が役目を終えた時にそこで収容されていたある人がお世話になった二見集落の人々へ謝意を込めて作詞したこと、それに後世、誰かが曲を加えたこと、歌詞の中に辺野古が詠まれていること、そう言うことを僕は何一つ知りませんでした。
 僕は遠い昔から歌い継がれている沖縄民謡、そう島唄の一つとして「二見情話」を捉えていたのです。
 名護に5年半も住んでいて一体、僕は何をしていたのだろうか?
 最近、改めて僕はこの大阪へ帰ってきた自分自身を「馬鹿だ」と思っている。
 確かに僕1人が名護にいたところで現状を変えることは出来ないかもしれないし、実際、それを実感する日々だった。でもね、1日1回以上、沖縄に、名護に振り返っている自分に気が付いた時、そして夢の中でも名護で住み暮らしたあのアパートが出てきたり、お世話になった人達が出てきた時、自分は何をしているんだろう、そう思うんだ。
 自分の時間を潰してまでも沖縄関係の資料を収集している自分がいる。本当は余暇を職場で使う資料とか、趣味とかに費やせばいいのに、それよりも「沖縄」を優先させている自分がいる。

 仮に次のアルバムで「二見情話」が入っていたら僕は飛ばして聴くかもしれない。

 これだけダラダラと余計なことを書けると言うことはまだ精神は安定しているのかもしれない。



2006年06月04日 株とか、統合とか

 インサイダー取引、少なくとも株の売買で不正があったと言うことぐらいは分かりますが、それ以上の意味を知りません。
 株の売買自体は悪いことではないし、例えどこかの大金持ちが株の売買で企業一つを買収しようが、それ自体は違法でもないし、その結果としてプロ野球チームの一つが運命を左右されても仕方がなかったのかもしれない。しかし、今回だけはある意味、手放しで喜んでいる。
 何分にも私利私欲のためだけに多くの人が愛すべきチームを振り回したわけだし、先が何も見えてはこなかった。単純な表現かもしれないが、「もてあそんだ」と言えないだろうか。
 プロ野球チームを保有する鉄道会社自体は平行して沿線を持つ別の鉄道会社との合併が決まった。随分と昔に一度は合併していたこともあるのだからある意味、再統合と言えなくもないだろうか?
 しかし、合併によって個性が無くなれば少し悲しくなるだろうな。
 例えば鉄道車両の配色がいずれか一方にまとめられたりしたら鉄道ファン、鉄道マニア、鉄道オタクと呼ばれている人達はどの様に感じるだろうか?
 僕自身、子供の頃には鉄道とか、いわゆる乗り物は好きだったし、それは今でも変わらないと思う。乗務員や駅員の制服が統合されればどう感じるだろうか?
 意外なところで意外な車両を見かけるとこれは合併、統合の面白いところかもしれない。神戸界隈でしか見られない車両が高槻沿線で走っていたらやっぱり「オオッ」とのけぞってしまうかもしれない。



2006年05月27日 多分…愚痴

 最近、自分にとって「沖縄とは何か」ということを考える時間が増えました。別にそれだけ時間の余裕があるわけではありませんが、何気無い瞬間に考えてしまいます。
 沖縄。
 今でも忘れられない、多分、生きている以上、忘れることのできない片想いの相手がいる場所、ある意味、それだけなのかもしれない。
 一方で生まれて初めて政治的、または社会的な問題に足を踏み入れた場所とも言える。なぜだろう、大阪へ戻ってからは政治的なこと、社会的なことから距離を置きつつある。
 仕事が忙しい。
 そう言ってしまえば簡単だが、本当にそれだけなのだろうか?
 自分に質問をぶつけたところで意味はない。
 今でも時々自分自身、馬鹿馬鹿しいと思いつつも新聞の記事見出し目録を綴り続けている。この時間を自分のために使えばもう少し楽しめるかもしれない。一方で「継続は力なり」という有り難い言葉が脳裏をよぎる。
 後年、誰かの役に立つかもしれない、何ら根拠のないこれだけの思いだけで僕はデータベースを作っている。単なる自己満足で終わるかもしれない。
 本当に沖縄を忘れようとしたら多分、名護で暮らした5年半の二倍、最低でも11年という歳月が必要になることだろう。
 熱しやすく冷めやすい、そう言う性格の僕がまだ、あの片想いを忘れることができない。多分、心の片隅でいつまでも…
 いつも僕は沖縄という漠然とした何かに振り返って1日を過ごしている。概念なのか、それとも想いなのか、それは分からない。
 僕にとって沖縄は手が届かない憧れではなく、手が届き、そして一度は手放し、また手が届かなくなりかけた時、また欲しくなる。恋しくなる。
 多分、おそらく、間違いなく、これは愚痴だ。単なる愚痴だ。



2006年05月14日 琉球新報のDatabase

 明日から琉球新報のデータベースが再開される。
 思えば何年ぶりのことだろうか?
 忘れているし…
 確か2月11日前後にサービスが休止したことだけは覚えている。何が原因だったのか、未だに説明がなされていない。否、僕だけ無視されたのだろうか?
 明日から始まるデータベースにしても契約書には「場合によっては一方的に運用を停止する」とか、その様な内容のことが書かれていた。それはそれで仕方がないかもしれませんが、やはりそれ相応の金銭を支払い、一方は受け取った上で運用しているのだから簡単な状況説明や復帰の時期、またはサービスの停止ならばユーザーに対して謝罪の一言ぐらいあっても良かったのでは無かろうか?
 大体、同じ沖縄県内紙でも沖繩タイムスが無料で記事のデータベースを提供しているのだから有料である以上、最後まで責任は負って欲しかった。
 取り敢えず今回は運用が急に停止しないことを祈るだけである。
 ま、それ相応に悪用したこと、今後も悪用することは認めますが…



2006年05月10日 南極観測船 宗谷

 今年は日本が南極観測を始めて50年になるそうです。そこで記念の500円硬貨が発効されることとなりました。この辺りの情報はすでにご存知の方も多いことでしょう。
 日本最初の南極観測船である「宗谷」が好きでした私は早速、現在「宗谷」が静態保存されている東京お台場の「船の科学館」へメールを送ってみました。内容としては「これを機に、宗谷の名を世に知らしめるべきではないか」というものです。するとご丁寧にも職員さんから返事を頂きまして「宗谷」が第1回目の南極観測へ出港した11月8日辺りにイベントを企画している、切手の発行も計画されている、そういう内容でした。
 最近では「タロ」や「ジロ」という感動すらも忘れられ、南極観測自体、無関心な人が増えていると感じます。確かに私にしても船で南極へ行こうとは思わないし、「ドキュメンタリー番組で充分」というのが本音でもあります。しかし、最初から南極観測船として建造された「富士」や「白瀬」と違い、砕氷能力のある貨物船として建造され、日本と言う国が南極観測に関心を持ったとき、何故か白羽の矢が立ち、南極向けに改装されましたが、戦後間もない日本には南極観測船の専門家がいたわけではありません。前後6度の南極観測に際してはその都度、改装を繰り返し、悪い表現かもしれませんが、だましだまし南極への航海に従事していたと言えるかもしれません。しかし、こういう「宗谷」の経験が現在、日本の南極観測にどれだけ生かされていることでしょうか。
 そして「宗谷」は南極観測船の地位を「富士」に譲ってからも海上保安庁の現役船舶として活躍していました。
 今、「白瀬」の後継船舶に対して予算が出ないとか、そう言う話が出ています。確かに南極観測よりも他に他に観測を必要としていること、または予算が必要なことはたくさんあるでしょう。
 残念ながら「宗谷」という船の歩んだ道程を紹介するような書籍とかはありませんが、1つの人間ドラマに等しい、そう思います。
 そう言えばNHKの「プロジェクトX」で紹介されことはあると思います。



2006年05月05日 続く普天間ネタ

 ネットでサクサクと散歩みたいなことをしていたら見付けてしまいました。次のような記事を…
 元防衛庁長官の中谷元氏が「普天間の代替施設にはイギリス軍、オーストラリア軍も使えるようにしよう」と言った内容の発言をしたそうです。
 すみません。ちょっと、いいですか?
 普天間の移設は、まだ、始まってもいません。それに、県知事は取り合えず、反対しているようです。陸上に、ヘリポートを造ろう、そう言ってます。それでも、先に、アメリカ軍以外の、使用を認めるのですか?
 元防衛庁長官、そうです頭に「元」が付くわけですから気にする必要はないのかもしれませんが、「本当に個人的見解ですか?」と聞きたくもなります。実際、有事ともなれば「米軍だけ」とは言い切れないでしょう。有事の内容にも寄るのでしょうが、必要とあればイギリス、フランス、ドイツ、カナダ、韓国、フィリピン、オーストラリア、その他のアメリカと同盟している国々が大挙して沖縄の基地に来る可能性は否定できません。

 沖縄県知事が辺野古崎沖の埋め立てに反対したのは嬉しいのですが、やっぱり普天間の代替はキャンプ・シュワブでなくてはいけないのでしょうか?



2006年04月16日 普天間合意

 さらに続く、普天間合意のネタ。
 今のところ、まだ話題にも出ていないようだが、N.L.P.をどの様に対処するのだろうか?
 訳し方には色々あるが、取り合えず夜間離着陸訓練の英文頭文字を取ってN.L.P.と言います。現在でも普天間飛行場や嘉手納基地、岩国基地、厚木基地などでごく普通に行われていますが、これを普天間の移転先であるキャンプ・シュワブ沖に持って行くのか否かで合意はまたもめると思うんだが、その点はどの様に扱われているのだろうか。
 N.L.P.の問題を語る以前に滑走路2本で合意したのだからその点をまず議論するべきであろう。
 普天間合意が報じられた後、しばらく紙面にも載らなくなったような気がしていたのだが、今日の朝刊でようやく地図付きで報じられていた。しかも軍事評論家の江畑謙介氏がコメントも寄せている。
 で、滑走路の長さが普天間と同様の2,800メートルから1,800メートルやら1,300メートルやら話は転々としているし、要するに何も考えることなく、滑走路を2本にしたわけだ。大体、飛行機に乗れば分かる話だが、離陸直後に急旋回を掛けることもできるわけだし、大阪伊丹空港を離陸する飛行機は大抵六甲山系へ向けて離陸して即座に左旋回を求められているわけだから軍用機が出来無いわけはない。
 普天間代替の場合、滑走路が2,000メートル以下になれば少なくとも大型輸送機の利用はなくなることになる。しかし、普天間飛行場自体においても大型輸送機の利用はそう多くはなかったはずだ。結局、これまで通りに中小の輸送機、そして戦闘機、ヘリコプターの利用となるのだろう。少なくとも日曜日はお休みのようだが、それ以外は24時間、絶えること無く離着陸が繰り返されることになる。
 同じ沖縄県内に生まれ、そして育った人でも県内の様子を知らない人が多い。これは残念なことである。
 嘉手納や普天間の爆音を頭では理解していても実際の精神的苦痛、肉体的苦痛を理解するまでには至らない人が多すぎる。この結果が今回のキャンプ・シュワブ沖への普天間代替施設誘致へと繋がったのであろう。
 軍民共用だの何だのと理由を付けて認めた以上、墓場まで責任を背負っていけばよいのだが、それをしないのが政治家のご都合主義である。任期が切れたり、落選した以上、「知らぬ存ぜぬ」で言い逃れ、悠々自適の老後を過ごせるのだからある意味、無責任かつ良い商売だと思う。



2006年04月09日 普天間合意

 滑走路が2本となるようです。
 勿論、本当に建設が始まり、実際に運用されれば、の話ですが、その様にさせないためにも僕らは反対運動をしなくてはいけません。
 で、滑走路2本、どの様に解釈をすればよいのでしょうか?
 基本的には離陸用と着陸用に使い分けることによって滑走路周辺住宅地域上空を軍用機が飛ばないようにするそうですが、まず無理でしょうね。
 離陸用と着陸用、逆に言うこともありませんが、2本の滑走路を同時に使うことになればどの様な結果になるでしょうか。
 例えば戦闘機が速度を最大にすればその分、爆音も大きくなるでしょうが、あの大きな機体を地上から持ち上げる時もまた爆音は大きくなります。1本で離陸、もう1本では着陸で逆噴射を用いる戦闘機が有れば合わせて2機分の爆音が近隣へ響くことになります。それも風向きによってはまともに2つ以上の地域が爆音にさらされることになります。名護市長の島袋さん、その点まで理解した上で合意したのでしょうか?
 私が沖縄県に住んでいた時でさえ、県庁舎の真上を米軍機が堂々と飛行していたのですよ、しかも戦闘機、攻撃ヘリ、今から思えば那覇の市街地を用いて実戦的、否、実践的な演習を行っていたのでしょうね、きっと。米軍は演習を行う際、有る物全てを仮想標的とするそうですから名護市で言えば名桜大学、市庁舎、その他、手当たり次第に攻撃目標とされていたことでしょう。実際、名桜大学で科目等履修生として籍を置いていた時、授業中で有ろうと無かろうと戦闘機が爆音と共に頭上を通り過ぎたことが幾度か有りました。まだ爆音を出し、いかにも戦闘機が飛んでいますというのならまだ証拠も残りますが、「たちが悪いなぁ」と思ったのは失速寸前か否かわかりませんが、ゆったりとした、宙に浮いている、そういった感じの低速で戦闘機が飛行している時です。ほとんど音を発せず、微かな音に気付き、空を見たら戦闘機が飛んでいた、そう言うこともありました。
 皆が寝静まった午前0時以降、読書とか深夜放送を楽しんでいたら突然、航空機が発する特有の重低音が響くこともしばしばありました。慌てて窓の外を見ると噴射口から見える青白い光で米軍機が夜間演習をしていると知るわけです。しかし、翌日以降、誰もこれを話題にしない、それはマスコミであろうと普天間移設に反対している名護市内の団体であろうと同じだった。要するに誰も気が付いていなかったわけです。
 仮に明日から普天間代替の建設が始まり、10年後から運用が行われたとしましょう。普天間代替から離陸した戦闘機が真夜中にこっそりと名護市街地上空を飛行しても気が付く人は1人でもいるのだろうか?
 今まで気付かなかったのだから多分、これからも無理だろう。仮に今更気付き、米軍に対して抗議行動をしたら逆に米軍から笑われるのではないだろうか。
「え、今頃気付いたのですか?」
「今まで、あれだけ爆音を出してたのに、たった1機の輸送機に抗議するの?」



2006年04月08日 普天間合意

 今年に入ってからだろうか、米軍再編に伴う普天間移設の問題が度々NHKの全国ニュースでも取り上げられるようになった。しかもいつの間にか最初の話題として報じられ、挙げ句の果てに「先ほど入ったニュースです」とか何とかで「名護市の島袋市長と防衛庁の額賀長官が合意しました」と言う有り様、しかも滑走路2本という意味不明な結末である。
 しかし、NHKでさえ、淡々と事実のみを報じるのみである。民放はこの間、どの様に報じていたのだろうか。聞くところによれば時折、民放の報道番組がこの普天間移設の問題を取り上げ、しかも反対する側が取材をしていたらしい。それを偶然か何か知らないが、その放送を見た人が現実に気付き、関心を持ち、わざわざ現地まで駆け付けた人もいるという。民放の方が特集を組む時は引き付ける力を持っていると言うことなのだろうか?
 それとも単に視聴率が良いと言うことなのだろうか?
 さて、話は飛ぶが、名護市の島袋吉和市長は進退をどの様にするのだろうか、気になるところである。
 比嘉鉄也市長の前例に倣えば受け入れを表明して辞意を表明するところだが、何分にも2月に就任したばかりである。わずか2か月かそこらで辞意表明はないだろうし、任期を全うしたいところだろう。少なくとも当分は非難が集中するかもしれないが、しばらく我慢すれば慣れるか、静かになることだろう。
 島袋吉和市長は等価交換として何を得たのだろうか。
 1996年以来、滑走路1本の埋め立て飛行場だった話を僅か4時間かそこらの会談で滑走路2本へ変更したのだから余程良い条件があったに相違ないと見ているのだが、その様に考えているのは私だけだろうか。
 私たちの目が届かないところで何億という金額が飛び交ったのではないだろうか、それとも個人的に弱みを握られ、脅迫でもされたのだろうか?
 想像力が逞しいというのか、単に小説の読み過ぎなのか、いずれにしても1人でよくこの様な重大なことを決断した、その根性だけは褒めてあげたいのですが、内容が内容だけに褒める気は全くありませんが、その反対でけなす気力もありません。あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて…



2006年02月05日 野宿者支援って…

 先週、大阪市内の靱公園において市の職員が野宿者を強制退去させると言う事件があった。正確には事件とは言えないかもしれないが、少しだけ感想を述べてみたい。
 まずはホームレスを支援しているという人々について考えてみたい。
 市の職員が靱公園へ集まった時、支援者と言われている人々は野宿者を集め、これに対抗した。
 私はこれを見ていて思った。本当の支援とは何であろうか?
 市当局と対立することが支援なのだろうか?
 野宿者にそのままテント暮らしを勧めて良いのだろうか?
 野宿者の皆さんは好き好んでその様な生活をしているわけではない。まず人権を尊重するならば野宿者が人間らしい生活が出来るよう、何らかの施設を建設し、そこへ野宿者を収容するべきではないだろうか。
 確かに大阪市はこの様な野宿者のために施設を建設しているが、収容日数が短かったり、一部屋あたりの収容人数が多く、同室の人間との人間関係に疲れて出て行く人もいるという。まず支援者はその様な点を改善するよう、大阪市へ働きかけるべきではないだろうか。
 収容施設を建設した大阪市の担当者も一部屋の定員を複数人に設定した時点で人権意識が欠けていたと言うべきだろう。公園にテントを張って生活している人達の気持ちや経歴を考えず、安易に施設を建設すれば喜ばれると信じた結果である。支援者と大阪市が歩み寄り、まずこの点を改善すべきである。
 私たちでも職業訓練校へ通えば修了証書を得るのに最低でも半年、これが卒業証書ともなれば一年、長ければ二年を費やすことになる。しかし、私たちには帰れる家があり、家族があり、収入が無くても生活が出来るようになっている。野宿者の皆さんには学校などへ通っている間、人間として最低限の生活を保障しなくてはいけない。食事もそうだが、風呂も必要、便所も必要、お小遣いも必要、それを全て税金でまかなえるのだろうか。必要ならばアルバイト、パートもしていただくことになるだろう。そして収容施設で生活する人達の人権を確実に守ることを考えなくてはいけない。
 野宿をされている人達の中には様々な専門知識を持っている人もいることだろう。一人一人の経歴を問い、支援者が保証人となって就職先を探してあげるべきではないだろうか。
 また公園には血の気の多い若者が乱入してくることもあるだろう。仮にその様な若者が無力な野宿者を襲った際、支援者はどの様に弁解するのだろうか。
 大体、野宿者を支援している人達のほとんどが我が家へ帰れば風呂やトイレがある、衛生上何ら問題のない家に住んでおり、家族が食事を作って待っていたりする。もしくは自分が稼いだ金銭で外食することも出来る身分である。要するに支援者は野宿者を楯にして騒ぎたいだけであろう。政府や都道府県、市町村を批判したいだけである。
 政府を批判する前に政府と全く逆の発想で野宿者を確実に支援するべきではないだろうか。



2006年01月09日 頼朝の声

「俺は間違っていたのか」
 縁側に座り込み、庭を見ながら頼朝は独りごちた。
 頼朝が岳父北條時政らと挙兵した時、以仁王の令旨を前面に出して広く関東の武士に呼び掛けたが、応ずる者はなく、案の定、石橋山の合戦で敗北し、安房国へ敗走する結果となった。その後、再度挙兵し、西上する頼朝に甲斐国の武田一族が二万の大軍を率いて合流した。この時、頼朝は両手を挙げて喜び、武田一族を歓待した。
 同じ清和源氏として自分の呼び掛けに答えてくれたのが素直に嬉しかったのだ。しかし、武田一族は頼朝を清和源氏の同族としか認めていなかった。
 頼朝は自尊心を傷付けられた。父は清和源氏嫡流のであり、母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘、例え三男とは言え、両親の血筋から言えば嫡子も同様、頼朝はそう思っていた。
 現に清盛から命を奪われずに済んだのも池禅尼の助命嘆願があったとは言え、さすがの清盛も清和源氏の嫡流を処分することには遠慮があったのである。そして嫡流の頼朝を処分できなかった以上、義経に至る義朝の庶子をも処分することは出来なかった。
 この一事が頼朝を「自分は清和源氏の嫡流」との意識を再認識させることになった。
 それ故に清和源氏の嫡流として頼朝は全ての源氏を従えるつもりでいた。だが、甲斐の武田一族は頼朝と合流後も独自の行動を選んだ。それが富士川における平家の大逃走へ繋がる。
 武田一族が頼朝に対して「平家軍の裏側へ回り、夜襲を行い、挟撃しよう」と申し入れられた際、頼朝は気乗りがしなかった。
 当初から否やを言わせぬ態度の武田一族、「我こそは清和源氏の嫡流」と言う意識で固まっている頼朝、そりが合うわけはなかったが、武田一族が機嫌を損ねて甲斐国へ戻るか、平家へ寝返られては困るから頼朝は笑顔で武田一族を見送るしかなかった。この結果、平家軍は水鳥の羽音に驚いて都まで逃げ帰るという惨憺たる有り様を見せた。
 戦わずに済んだ分、頼朝は内心、安堵のため息をついたが、武田一族はさらに頼朝に対して尊大な態度をとるようになった。しかも都では「甲斐の武田こそが清和源氏の嫡流」と噂されているとの情報が頼朝の耳にも入ってきた。
 頼朝は焦燥感に襲われた。名実共に「清和源氏の嫡流は鎌倉の頼朝」で有ることを示さねばならない。そうしなければ自分の旗下へ集まった武士達が武田一族従うことになるかもしれない。今の内に武田一族の力を削っておかねば自分の存在が危うくなる。そう思い、頼朝は武田一族の一条忠頼、安田義定、板垣兼信と続けて殺害した。
 だが、頼朝の同族殺しは武田一族だけでは済まなかった。
 従兄弟の木曽義仲も独自に挙兵、木曽路より越後へ向かい、北陸道で平家側を次々と破り、倶利伽藍峠での圧勝を得て頼朝より先に都入りを果たした。幸いにして義仲は粗野、しかも政治的な駆け引きが苦手であった。さすがに義仲を「清和源氏の嫡流」と言う者はいなかったが、嫡流である頼朝の指示に従わぬ以上、殺すしかなかった。
 そして義経である。
 頼朝の弟として頼朝旗下で相応の身分を欲したことが頼朝は許せなかった。石橋山以来、頼朝と共に戦場を駆けた北條一族をはじめとする坂東武者に何一つ恩を返せていない状況の中で弟を厚遇すればどうなるだろうか。
 頼朝は義経の前で非情な兄を演じるしかなかった。そして高位高官を望み、後白河法皇へ接近した義経を討つことを決めねばならなかった。
 従兄弟義仲、弟義経をそそのかした叔父行家は全ての恨みを込めて斬罪に処した。
 つい先程、頼朝は修善寺へ幽閉していた異母弟範頼の殺害を命じた。まもなく範頼の首が頼朝の下へ届けられるだろう。
 頼朝によって次から次へと親族の命が落とされる中、範頼は戦々恐々としていた。頼朝が見ていても哀れなほどであったが、平家追討の際、九州での苦戦に対して反省の色が見えないことが頼朝は腹立たしかった。例え弟であろうとも罪は罪である。
 だが、範頼の殺害を命じた後になって過ちではないか、頼朝はその様に感じた。
 石橋山以来、頼朝に付き従ってきた北條一族や坂東八平氏の歓心を買おうと頼朝は必死だった。だが、その結果は一族を死に追いやっていた。むざむざと死なせていた。
 気が付いた今、岳父時政は執権として頼朝を支えているが、征夷大将軍となった頼朝には何一つ力が備わっていない。
 誰も桓武平氏の嫡流が途絶えたとは言わないが、名実共に時政率いる北條一族が桓武平氏の嫡流であろうと頼朝は感じた。



2006年01月08日 政子の声

「姉上、本当に申し訳御座いませんでした」
 上座に座っている姉へ北條義時は改めて深々と頭を下げた。
「もう良い。済んだことではないか」
 そうは言いながらも政子の眼は義時ではなく、遠くを眺めていた。
「しかし、今少し、工夫をすれば、どうにかなっていたかもしれません」
「済んだことと申した。もう良い。いい加減、頭を上げたらどうか」
 しかし、義時は頭を上げることが出来なかった。世間では執権と言われ、畏敬されているが、敬愛する姉一人幸せにできないどころか、政略の名の下で三人の子を奪ったわけである。そう言う自分自身を義時は許せなかった。
 政子の視線の先には仏壇があり、位牌が並んでいた。
「頼朝殿の子を、一人として生かせなんだ」
 駈け落ちまでして結ばれた頼朝の間に大姫、頼家、実朝といた。
 大姫は木曽義仲の嫡男義高と結ばれ、仲睦まじく暮らしていたが、頼朝と義仲が敵対した結果、義高は頼朝によって殺された。その嘆き悲しみから大姫は立ち直ることなく生涯を終えた。
 この時、政子は頼朝を非難した。それは今でも変わない。頼朝も敵である平清盛から助命されたではないか。何故、義高の助命を考えなかったのか。何よりも頼朝と政子も敵味方でありながら恋をし、結ばれた二人である。二人で父時政を説得したように義高を説得し、義仲から切り離すことは出来たはずである。その様な努力を怠り、一片の情を見せることなく頼朝は義高を消したのである。
「情けないこと」
 今、思い出しても政子はため息しか出ない。
 嫡男頼家は頼朝と比較すれば頼りないところは多々あったし、征夷大将軍には不向きかもしれない。母親の目から見てもそう思うことしばしばであった。頼朝と同等の苦労をしていない分、世間を知らないかもしれない。しかし、それを支えるために政子を始めとする北條一族が控えていたわけだ。
 何かと言えば父頼朝と比較され、頼家が肩身の狭い思いをしていたことは誰よりも母親である政子が一番知っていた。しかし、それに堪えてもらわなくては困るのだ。十三歳で伊豆国へ流された頼朝が以仁王の令旨を受け取るまでの二十年間、ただひたすら流人の身として生き続けたその苦労を少しでも感じ、我慢して欲しかった。だが、頼家は安易な道を選んでしまった。頼家は乳母や妻の実家である比企一族や傅役である梶原景時一族を頼った。
 比企一族に慰められる頼家の姿に嫉妬し、将軍位の剥奪を考えたのは政子自身であった。だが、執権であった時政はそれだけでは許さなかった。「かわいさ余って憎さ百倍」と言うが、孫である頼家の裏切りを許さず、政子に無断でその命を奪ったのである。
 政子は父を憎み、恨んだ。後室の牧の方に絡めて父を追った時、政子に罪悪感はなかった。
 頼家を継いだ次男実朝はあろう事か朝廷と親しくなってしまった。
 実朝は一度も足を踏み入れたことのない都へ憧れて周囲が用意した婚姻を拒み、公家の娘を迎え入れることを譲らなかった。その結果、周囲は珍しく我意を張る実朝に押される形で足利義兼の娘との婚約を白紙へ戻し、坊門信清の娘を実朝の妻として迎え入れることに同意した。だが、自尊心を傷付けられた足利義兼の恨み、そしてそれに同情する御家人たちの思いに実朝は気付こうともしなかった。 今をときめく藤原定家に和歌を学ぶのはかまわない。だが、その中で後鳥羽上皇へ忠誠を誓う和歌を創作し、歌い上げる実朝の姿を見た時、そして官位が右大臣まで登り詰めた時、政子はそこに天皇から検非違使に任じられ、頼朝を追討しようとした義経の姿を重ねた。おそらく多くの御家人が政子同様に実朝へ義経の姿を重ね、疑心を抱いたであろう。
 多くの御家人が頼朝と苦労を共にして鎌倉の地に幕府を起ち上げたという意識がある。それを実朝が朝廷に振り回され、その挙げ句に幕府の崩壊に繋がるのではないか、その様に案じたことであろう。
 ここから先、政子は誰がどの様な指示を出した結果、実朝が甥の公暁に刺殺される経緯となったのか、探る気力もなかった。
 政子が両手で顔を覆った。
 これまでこらえていた感情が抑えられなくなり、その場で泣き崩れた。義時は姉を慰めることなく、音一つ立てることなく退室した。



2006年01月08日 半兵衛の遺言

「あれから一年になりますなぁ」
 黒田官兵衛が遠い目をして言った。
「うむ」
 秀吉は点てたばかりの茶を官兵衛に差し出しながら頷いた。
 秀吉は「大返し」と称される大撤退を行って本能寺で明智光秀の急襲を受けて世を去った織田信長の敵を討った。
 秀吉が「大返し」を行えたのは今は亡き竹中半兵衛の助言があったからである。
 半兵衛は天正七(一五七九)年六月、京都にて療養の身であったが、あえて三木城攻撃の陣中へ戻り、秀吉らに数多の進言を残してから世を去った。
「早いなぁ」
 改めて秀吉はそう感じた。
 半兵衛の進言には次のような物があった。
「信長様は何かと言えば裏切りに遭われます。今回もそうで御座います。折角、羽柴殿が中国筋の御大将になられましたのに、別所長治が裏切り、前へ進めぬ状況となりました」
「羽柴殿が名を成された金ヶアの退き口もそうで御座いましょう。あれも浅井殿による裏切りからで御座います。あれがなければ信長様の天下ももう少し、早かったかもしれませぬな」
「もう一つ、いつも裏切られ、後ろを断たれております。お気付きですか、前へ進まれるのは大事ですが、どうか、後ろを断たれぬよう、後ろにだけはお気を付け下さい」
「半兵衛。具体的に、どうすればよいのであろう」
 痩せて青白くなった半兵衛に秀吉は問うた。
「そうですね。後ろばかり気にしては、戦もままなりませぬが、良い手立てとしては、伊賀者、甲賀者をうまく用い、絶えず後ろを気にするように成されては如何でしょうか」
「伊賀者、甲賀者を用いるのか」
「よもやお忘れではありますまい。浅井殿もそうでしたが、荒木殿も、別所殿も皆、一度は信長様に従った者達です。これ以上、お味方が裏切るなど、考えたくはないでしょう。ですが、これが事実なのです」
折角、上手く行きつつあった中国侵攻も別所長治の裏切り、それに呼応した荒木村重の裏切りによって足止めを食う結果となった。
「お味方を疑うと言うことを、羽柴殿は嫌われるかもしれません。しかし、そうしないとご自身を滅ぼすことになります」
 半兵衛が居無くなってから暫くの間、秀吉は繰り返し繰り返し半兵衛の言葉を胸中で思い返した。そして秀吉は伊賀者、甲賀者を独自に雇い入れ、岐阜城下から中山道、東海道を経て西国街道を通じて絶えず情報が入るようにした。また同時に小西骰イ、弥九郎父子にも頼み込み、堺を中心とした商人に伝わる情報を伝えて貰うようにした。
 その結果が本能寺の変をいち早く知り、対応できたことであった。

 信長の仇を晴らした後、信長旗下で一番であった柴田勝家と当然のように敵対し、挙げ句の果てに合戦となった。
 天正十一(一五八三)年二月、勝家に味方する滝川一益を討つために伊勢国長島城へ向けて出兵したが、三月に入り、勝家が越前国北ノ庄から南下するとの報告を受け、一気に近江国長浜城へと移動した。しかし、小田信孝が一益に呼応して岐阜城で挙兵したため、秀吉は四月十六日に美濃国大垣城へと向かった。これを待っていたのだろう、佐久間盛政、柴田勝政が動き、秀吉の部下である中川清秀を斬り、高山右近の守る砦を奪った。この報に接した秀吉は美濃国から近江国へと舞い戻った。
 柴田勝家の動きのほとんどを秀吉はほぼ全て事前に把握していた。それ故に安心して美濃と近江の戦線を行き来することが出来たし、実際に将卒の前で余裕を持った行動が出来た。
 しかし、そこかしこに秀吉に雇われた伊賀者、甲賀者がいること知る人は一握りである。
 この事実を知っている一人に官兵衛がいる。
 最近、秀吉は官兵衛に対しても少し疑いを抱き始めている。備中高松城攻めでは水攻めを勧め、それが成功している。この水攻め、奇抜と言えばそれまでだが、当初、秀吉は水攻めを理解できなかった。そして皆が周章狼狽している最中、毛利との交渉を冷静に行い、一片の土地も毛利に返すことなく撤退できたのである。
 秀吉は官兵衛が自分の周囲へ密かに人を配し、秀吉の動きを絶えず探っているのではないか、その様に考えるようになった。勿論、その逆で秀吉が官兵衛の周囲に人を配していると疑っているかもしれない。
 そして官兵衛も今、秀吉の前ではあまり知恵のあるところを見せぬよう、心掛けるようにしよう、そう考えていた。



2005年12月30日 今日の雑記

 盆暮れになると聞かされるのが「乗車率」の話題である。例えば今夜などは「新幹線の乗車率180%」だったとか、そう言う話題である。
 10年以上も前から疑問だったのは%に100以上の数字があることだ。学校では何があっても%は100以上は有り得ないと学んだにも関わらず、何故か「180%」が存在するという謎がある。正しくは「1.8倍」ではないだろうか。
 学のない1人が声高に叫んだところでどうにもならないだろうが、盆暮れになると一言、突っ込みを入れたくなるし、実際、テレビに向かって小声で「おかしい」と言っている。
 ところで新幹線の乗車率が180%であった場合は当然、釣り革のない新幹線の中で立ち乗りをしている乗客がいるわけだ。万が一の状況が発生した時、定員を超えたこの80%の乗客はどうなるのだろうか?
 やはり新幹線は全席指定とし、乗客の安全を確保するべきではないだろうか。今年、残念ながらJRでは西日本、東日本と相次いで多数の人身を巻き込む事故が発生した。幸いにしてまだ新幹線では大きな事故はないとは言え、世界でも有数の速度を必要とする我が国の新幹線である。大きな事故が発生する前に対策を考えておくべきであろう。



2005年12月30日 久通と忠相

「一体、大御所は何を考えておられることか」
 そう言い終えて大岡忠相はため息をついた。
「全くな。儂にも理解が出来ぬ」
 同様にため息をつきつつ、加納久通は言葉をつないだ。
「氏倫が生きておったら、今頃、大御所に噛み付いておったことだろうな」
 共に御側御用取次として吉宗に仕えた有馬氏倫を思い出しつつ、話を続けようとした矢先、忠相が吹き出していた。
「全く。有馬殿がいたならば、ここでがみがみと大御所にお説教をしてくださっただろうに」
 忠相は冗談のつもりで言ったが、久通は真顔でこれに応じた。
「うむ。儂が思うに、もしかすると、大御所は、氏倫殿がおらぬ故、この様なことをしでかしたのかもしれぬぞ」
「まさか」
 忠相もさすがに表情を変えざるを得なかった。
 昨年九月、吉宗は将軍職を嫡子家重に譲って西の丸へ移って大御所となって家重を補佐するようになった。だが、一年を経た延享三年九月、次男宗武、四男宗尹に十万石を与えることを決定した。これが久通、忠相の二人には理解が出来なかったのである。
「しかし、大御所は本気で、権現様の真似を成されるおつもりであろうか」
「現に、お二人に十万石ずつ与えておるではないか。忠相殿も知っておろう。権現様は江戸の秀忠様、尾張の義直様、紀伊の頼宣様をして御三家と称しておったことを」
「それに水戸家が苦情を申されて、尾張、紀伊、水戸で御三家となった」
「左様。忠相殿、よく考えてみられよ。昨年二月に上様はお子に恵まれたであろう」
「万次郎様か」
「左様。万次郎様が無事にお育ちになれば、宗武様、宗尹様、万次郎様で三家が成り立つではないか」
 忠相は「成る程、成る程」と頷きつつも納得できかねる表情をしていた。これに気付いた久通は冷やかし半分で「御奉行、ご不満がおありか」と微笑と共に尋ねてみた。
「うむ。儂はな、綱吉様の真似ではないか、そう思うのじゃ」
 久通はやや怒気を含めた調子で「何故」と問い返していた。まさか自分が仕えた吉宗が「犬公方」の蔑称を持つ綱吉の真似をしたなど、考えたくもなかった。
「考えてもみられよ。綱吉様は館林宰相、綱重様は甲府宰相、石高も二十五万石、しかもお二方とも江戸城内にお屋敷を賜り、館林にも甲府へも行かれることはなかったではないか」
「忠相殿はそれを宗武様、宗尹様に当てはめてみろと言われるのか」
「うむ。当てはまりませぬか」
 久通は仰々しく腕組みをして見せた。確かに綱重、綱吉兄弟と同じである。
 悩んでいる久通に助け船を出すかのように忠相が話し始めた。
「権現様の真似ならば、御三家のように、要所要所へお二方を大名として、配置なされば良いでしょう。それこそ甲府も空いております。駿府も忠長様以来、城代を置いております」
 久通が膝をポンと打った。
「否、それだけではない」
「気付かれましたか」
「大御所ご自身にも、当てはめられるではないか。さすが名奉行殿。恐れ入った」
 素直に深々と頭を下げる久通に忠相が言葉を続けた。
「大御所は、綱吉様から随分と学ばれ、真似をされておりますな」
 元禄十年、当時はまだ頼方と名乗っていた吉宗は紀伊家屋敷を訪れた綱吉から三兄頼職と共に越前国丹生郡内において各々三万石を与えられて立藩した。残念ながらその三万石の内実は半分以下の五千石程度でしかなかったし、屋敷地も与えられなかった。綱吉が娘婿の綱教に気を遣って頼職、頼方を分家させたとしか思えなかった。その様な過去からも吉宗は学び、我が子宗武、宗尹に応用したのであろうか。
「しかし、何故に大御所は我らに一言の相談もなく、事を進められたのでしょうな」
 忠相の言葉に一呼吸置いてから久通は答えた。
「決まっておるではないか。我らが反対することを大御所は存じておるからこそ、内々に事を進められたのじゃ」
「いずれにしても、もう、我らの声は大御所には届かぬと言うことか」
「左様」
 忠相にそう答えながら久通は自分の老いと吉宗との距離を改めて感じた。



2005年11月23日 今日の雑記

 2002年10月の沖縄より帰阪以来続けてきた沖繩タイムスの購読を今月一杯で止めることにした。単純に言えば経済的に苦しくなったというわけだが、実際には以前ほどゆっくりと目を通す時間も無くなったというのも事実である。
 確かに単車の買い換えで経済的な余裕が無くなったのは事実だし、元々不器用であるから時間の配分が下手なのも認めたくない事実である。しかし、今ほどに時間の無さを実感するのは何故だろうか。
 銭がないのはいつもなのだが、それでも時間だけは結構余裕を感じていた。その時間を無駄に過ごしていたのもまた事実だ。残業が増えたわけでもないし、何故だろう?
 しかし、ここで悩んでいても仕方がない。確かにまた1つ、身近にある沖縄が消えてしまうことになるが、これもまた区切りなのかもしれない。
 限定されるとは言え、ネットで記事を確かめることはできるし、今の私にはそれで充分なのかもしれない。
 もう少し自分自身のために時間を使おう。そう思うことにしよう。



2005年11月22日 雑感

 18日金曜日の朝、通勤途中に私の単車は調子がおかしくなった。単車と言っても正確には原動機付自転車、走行距離は4万キロを超え、すでに寿命は過ぎていた。それにも関わらず、今まで悲鳴を挙げるわけでもなし、限界を感じさせることもなく走ってくれていたのだが、この日はついに悲鳴を挙げたのである。それでも無理を言って職場まで走ってもらった。で、その夜、仕事を終えて帰宅しようとした時にはエンジンは掛かりはしたが、私が席に着くとエンジンは止まると言う有り様だった。それはまるで私の体重すら支えきれないという無言の訴えのようでもあった。
 結局、その日は単車を職場の駐輪場へ置いて帰り、翌19日土曜日に仕事を終えて今一度、エンジンを掛けてみたが、やはり私が席に着くとエンジンは止まり、以後、ついにエンジンは掛かることはなかった。
 そして20日日曜日、職場近くのバイク店で廃車手続きを行った。
 2001年4月末から数えて4年半余り、無茶苦茶な扱いをしたが、最後までよく頑張ってくれたと思う。写真1枚も残していないのでいつか私の記憶からこの単車は消えていくかもしれない。そして単車と共に過ごした4年以上の歳月もまた消えていくことだろう。せめてもの救いは同じ車種を購入できたと言うことだろうか。
 今回廃車した単車は沖縄県名護市で購入して沖縄から持ち帰った、言うなれば沖縄の思い出を一杯詰め込んだ貴重な一品でもあった。
 私のそばからまた1つ、沖縄が消えていくような、そう言う気がする。



2005年11月21日 雑感

 14歳の時から愛用してきたCanonのT-50 オートマン、電池室の蓋が閉まらず、メーカーへ修理に出してみたが、メーカーでも部品の供給を行っておらず、結果、電池室があいた状態で押し入れの引き出しで眠っていました。幸いというか、中古カメラ店へ行けば今でも同じ機種が安価で入手できますし、以前、必要があってもう同じ機種を1機、購入していたから何かに困ることはありませんでしたが、しかし、気になって仕方がないのは約20年連れ添った愛機でした。捨てるには何かしらもったいないし、第一、不燃ゴミとして捨てて良いのか否か、それも定かではなく、押し入れにある引き出しの中へ放り込んだまま数か月が経ちました。
 つい最近のことです。何気無く夕刊に目を通していたら記事が載っていました。
 阪神百貨店の8階で長らくカメラの修理をしている親子の話題です。これを知って私は早速そのお店へと出掛けてみました。
 簡単に言えば応急処置と言うべきでしょうか。代用部品で利用可能な状態にしていただきました。メーカーさん、この場合はCanonですが、このカメラ修理店と同じ発想で修理してくれれば我が愛機の復帰はもう少し早かったかもしれません。
 日曜日の10時過ぎに持ち込みましたところ、15時過ぎには「修理完了」の連絡が入りました。今まで悩んでいた自分が嘘のようです。
 確かにメーカーとすれば新しい物を買わすのが商売であり、古い物は「部品の生産が終わりました。修理できません」と言えなければ売り上げが落ちる一方でしょうが、そこを無理して修理しても良いのではないでしょうか。
 何はともあれ我が愛機は現場復帰することになりました。当然、予備機たちは当分の間、出番を失うことになります。その点は予備機たちに我慢してもらいましょう。
 でもね、人間でもそうじゃないですか。
 多少問題があるからといって切り捨てて良いのでしょうか?
 修理したら使えるのは機械だけではなく、人間も一緒です。



2005年11月13日 最近思ったこと

 それは10月30日の夜でした。
 何気無くパソコンの「ファイルの復元」という物を実行していたのですが、時間帯は夜、「そろそろ寝たいな」と言う思いと共に世に言う魔が差したのでしょうか、急に嫌気がさし、「ファイルの復元」作業中にパソコンの電源を切ってしまいました。当然、何事もなかろうという甘い考えは次の瞬間には絶望になっていました。
 翌日には仕事の帰り道にパソコンを抱えて駅前のBEST電器へ立ち寄り、「かくかくしかじかこれこれ」でパソコンが立ち上がらなくなりました、と説明をして復旧作業を手伝って頂きました。幸いにしてパソコンは復旧したが、個人的に作成してきたデータは最後にバックアップをとったのが、10月11日であったからそれ以降に作成したデータは幾つかが消える結果となった。
 それ以降、今日に至るまでほとんどをパソコン自体の復旧と各種ソフトの再インストールなどに費やし、それ以外のことはほとんどが手付かずになってしまった。「仕方がない」と言ってしまえばそれまでだが、何かしらこれを機会に無駄を見直そうという気にもなった。
 しかし、無駄とは何であるか、そこからまず考えることにもなった。パソコンで言えば全く利用しないファイルやソフト、私個人で言えば過去の人間関係とか、無駄な出費とか、そう言う物が無駄と表現できるであろう。有形無形を問わず、多くの無駄が今の私にはあるし、まだ気が付いていない無駄もあることだろう。
 この無駄とは全く逆の位置に有用、または必要と呼べるものが数多くある。現在の人間関係、必要最小限の出費、昔から続けてきた趣味、まだ有るかもしれない。

 取り敢えずこういうことを考えてきた2週間あまりでした。



2005年10月29日 そば&うどん

そば:最近な、急に気になってんけど、一緒に考えてくれるか?
うどん:なんですねん。
そば:なんでな、ポパイって、ほうれん草の缶詰食うたら、元気になんねん。
うどん:知りませんがな、そんなこと。
そば:いや、そやから、考えて、言うてんねん。
うどん:考えるんですか。まぁ、暇やからかまへんけど。
そば:まず、ほうれん草の缶詰から考えよ。
うどん:缶詰からですか。
そば:なんで、ほうれん草の缶詰やねん。第一、ほうれん草の缶詰って有るか?
うどん:見たことおまへんな。
そば:あり得へんもん、テレビで出したらあかんやろ。そやけど出た。何故やと思う?
うどん:さぁ。
そば:わしは気い付いたんや。
うどん:答えを見付けたんかいな。
そば:ほうれん草の缶詰を開発した奴がおってん。そいつがな、宣伝を兼ねてポパイを作ってん。
うどん:それで。
そば:ほうれん草の缶詰は失敗やったけど、ポパイだけは人気になってん。
うどん:なるほど。つじつま合いますな。
そば:でもな、も1つ分からへんことがあってん。
うどん:なんですか?
そば:なんでな、ポパイって水兵やねん。
うどん:ポパイって水兵さんやったんですか。
そば:知らんかったやろ。
うどん:驚きですわ。
そば:ほんでな、わし、また考えてん。
うどん:ポパイが水兵の理由ですか。
そば:そやねん。ほんでな、答えを見つけてん。
うどん:おぉ、すごい。
そば:ポパイが放送された時代ってな、きっと、水兵が不足してたと思うねん。ほんでな、水兵はカッコええで、水兵になりや、みたいな感じで、番組作ってん。
うどん:さっきの仮説と、合わんような気がしまんな。
そば:ほんでな、海の上や、生野菜不足するやろ、ここで出てくるんが、ほうれん草の缶詰や。ほうれん草は栄養満点や。栄養失調ならんように、ほうれん草の缶詰を食え、と、言いたいわけやな。
うどん:何か、訳分からんようなってきた。



2005年10月17日 今日の雑記

 最近、下らないことを1つ思い付きました。
 例えば携帯電話、ここ5年ほどでものすごく発達しています。それだけ技術の進歩が早くなっています。この様に進む一方の技術を生かして過去の逸品を甦らせるとどうなるのでしょうか?
 例えば蒸気機関車、石炭の消費を半分とか、三分の一とか、極端に十分の一でも良いでしょう。燃費を良くして車両を牽引する能力を倍以上に上げ、ついでに吐き出す煙の量も目一杯減らしてもう一度、現役として復活させるか、新たに低燃費蒸気機関車を開発してみるのも良いでしょう。
 ちょっと軍事ネタですが、例えばU-boat、大型のU-boatになれば40人以上の乗員を要しましたが、電子機器を搭載して10人前後で運用可能にしてしまうとか、それで戦争を始められたら困りますが、かつて運用効率が悪いという理由で博物館とかに飾られたり、廃品にされた過去の大道具、小道具をもう一度、見直せないか、そう思います。



2005年10月17日 下らない提案

 最近、下らないことを1つ思い付きました。
 例えば携帯電話、ここ5年ほどでものすごく発達しています。それだけ技術の進歩が早くなっています。この様に進む一方の技術を生かして過去の逸品を甦らせるとどうなるのでしょうか?
 例えば蒸気機関車、石炭の消費を半分とか、三分の一とか、極端に十分の一でも良いでしょう。燃費を良くして車両を牽引する能力を倍以上に上げ、ついでに吐き出す煙の量も目一杯減らしてもう一度、現役として復活させるか、新たに低燃費蒸気機関車を開発してみるのも良いでしょう。
 ちょっと軍事ネタですが、例えばU-boat、大型のU-boatになれば40人以上の乗員を要しましたが、電子機器を搭載して10人前後で運用可能にしてしまうとか、それで戦争を始められたら困りますが、かつて運用効率が悪いという理由で博物館とかに飾られたり、廃品にされた過去の大道具、小道具をもう一度、見直せないか、そう思います。



2005年10月02日 ひろしです

 ひろしです。
 先日、バラエティー番組に波田陽区が出てたとです。ギター侍でなかったとです。ギター侍でない波田陽区は普通の人に見えたとです。面白くなかったとです。



2005年10月01日 ひろしです

 ひろしです。
 名護市に住んでいた頃、諸見里しのぶちゃんが通っていた中学の近くに住んでいました。2度ほどすれ違いましたが、2度とも嫌な顔をされたとです。
 変質者に見えたとか。悔しかとです。



2005年09月27日 ひろしです

 ひろしです。
 先日、久しぶりに自転車に乗って駅まで10分走りました。途中で、息が切れたとです。年齢を感じたとです。

 ひろしです。
 飛行機に乗った時、機内放送で寄席を聞いとったとです。おかしかったので、吹き出したら、横を通った添乗員さん、いえ、スッチーが嫌な顔を通りすぎたとです。笑ってなんねえなら、機内放送で寄席をながさんとってください。



2005年09月27日 雀のピーチクパーチク

ピーチク:なぁ、きみ。
パーチク:なんですか?
ピーチク:郵政民営化や、どない思う。
パーチク:最初に突っ込んでよろしいですか。ウチら、スズメでっせ。関係おまへんやんか。
ピーチク:それがな、関係あんねん。不思議やろ。
パーチク:どない、ありますねん。あの、最初に突っ込みますけど、もしかして、ツバメのピュッルリさんが、郵便局の軒下に、家造ってるとか、そう言うんちゃいますやろ。
ピーチク:そう行きたかったんやけどな、実はちゃうねん。
パーチク:ほな、なんですねん。
ピーチク:きみ、郵便と鳥の関係って、わかるか?
パーチク:いやぁ、急に聞かれてもねぇ。
ピーチク:例えば、鳩。
パーチク:あぁ、伝書鳩でんな。
ピーチク:他には。
パーチク:他に、居ますか?
ピーチク:それがおるんや。
パーチク:もしかして、マニアックな話題ちゃいまっか。ピーチクさんの古い友人の伝書鳩のポッポリさんが、ノルマンディー上陸作戦で活躍したとか。
ピーチク:いやぁ、ばれたらしゃあない。
パーチク:えぇ、ほんまにほんまやったんですか。冗談で思い付いたこと、言うてみただけやのに。
ピーチク:ワシも冗談や。ノルマンディー上陸作戦に参加した友達なんか、おるわけないやろ。
パーチク:何か、居てそうな雰囲気でっせ。で、答えはなんですか。
ピーチク:知りたいか?
パーチク:何か、嫌な予感するし、聞かんとこかな。
ピーチク:まぁ、そう言わんと、最後まで聞いてえな。
パーチク:聞きますよ。
ピーチク:きみ、コウノトリって、会ったことあるか。
パーチク:あるわけないでしょ。数少ないって言うし、第一、この辺におるんですか?
ピーチク:ノルマンディーの近所にはおるらしいねんな。
パーチク:ほんまでっか?
ピーチク:でな、ノルマンディー地方では、コウノトリって言うたら、大昔から、赤ちゃんを運ぶのが、仕事らしいねん。
パーチク:赤ちゃんって、人間のでっか?
ピーチク:そうやねん。
パーチク:それって、嬰児誘拐ですがな。警察沙汰でっせ。大変や。
ピーチク:何言うてんねん。きみ、物知らんな。
パーチク:ちゃいまんのか。嬰児誘拐以外に、何か、罪おますんか?
ピーチク:ちゃうがな。あんなぁ、ノルマンディー地方では、コウノトリが、人間の赤ちゃんを運んでくるって言うねん。
パーチク:ほな、なんでっか。人間の女っちゅうのは、何でお腹が大きいなりますねん。
ピーチク:そら、あれやがな。ちゃんと妊娠しとんねんや。
パーチク:そやけど、今、コウノトリが運んでくるって、言いましたやんか。
ピーチク:それは、ノルマンディー地方の話であって、他では、人間の男と女がな、ちゃんと交尾して、妊娠して、赤ちゃんがあそこから出てきよんねん。
パーチク:あそこって、どこですか?
ピーチク:まぁ、そう言う話は、また、次の機会にしような。
パーチク:そう言われると、むっちゃ、気になる。
ピーチク:ほんでな、ノルマンディー地方では、時々、配達遅れもあったりすんねや。
パーチク:それで。
ピーチク:その結果な、60代の夫婦のところへな、突然、赤ちゃんが届いたりもしよんねや。
パーチク:それって、遅れすぎですがな。
ピーチク:今のは、極端な例やけどな。
パーチク:極端すぎますがな。
ピーチク:確かに、極端すぎるけどな、実際に起きた例なんや。
パーチク:それで、どないなったんですか?
ピーチク:老夫婦、驚いてな。おじいさんは、ビックリ病で亡くならはってんやな。
パーチク:可哀相に。
ピーチク:そやけど、おばあさんは偉いで。女手1つで子供、育てはってなぁ。
パーチク:偉いでんな。そやけど、配達遅れもはなはだしいでんな。
ピーチク:一時期な、ノルマンディー地方でな、コウノトリが人手不足になったことがあったんや。
パーチク:この辺でも、スズメが極端に減ること、ありまんな。
ピーチク:ほんでな、ノルマンディー地方のコウノトリ協会がな、頼んだんや。
パーチク:ピーチクさんにですか?
ピーチク:ちゃうがな。誰に協力を要請したと思う?
パーチク:わかりまへんがな。
ピーチク:ペリカン協会や。
パーチク:なんででっか?
ピーチク:ペリカンの口って、でかいやろ。赤ちゃんにペリカンの唾液がついたらやな、どうなる?
パーチク:汚い話や。
ピーチク:ちゃうんや。唾液がな、羊水みたいに見えるやろ。それがええねん、言うて、評判なんや。
パーチク:なんや、むちゃくちゃな話や。
ピーチク:でな、ペリカンがコウノトリより、人気になったんやんな。
パーチク:ふんふん。それで。
ピーチク:それでな、日本の運送業者が、ペリカンは縁起がええって、マークに使っとんねん。
パーチク:それが、郵政民営化と、繋がるんですか?
ピーチク:物を運ぶという点では、一緒やろ。
パーチク:まぁ、確かにそうですが。
ピーチク:ウチらもたまに、稲穂とか、運ぶやろ。
パーチク:ありますねぇ。
ピーチク:どうや、郵政民営化したらな、稲穂を咥えたスズメのマークって言うのは。
パーチク:もしかして、それが言いたいがために、ここまで話し引っ張ったんですか。
ピーチク:あかんか。きちんとした、前置きって、いるやろって思てんけどな。
パーチク:もういいですよ。どうせ、暇やったし。



2005年09月23日 今日の雑記

 去年の丁度今頃、おいらは毎週土曜日になると大阪駅前を散策していた。
 そう言うある土曜日の夕方、用事を済ませていつものように駅前の陸橋をのこのこと歩いていたら遙か遠くと書けば大袈裟だが、阪神百貨店前にいても聞こえてくる大音量と声量、独特の重量感あふれる声と音が耳に入り、ズシンと腹にまで響いてきた。音楽のジャンルとかはこの時、全く気にならなかった。兎に角、正体を確かめよう。一体、何者が歌っているのか、確かめたい一心で音のする方角へと小走りをしていた。
 結果、僕はフランボワズ framboise と言うロックグループとおぼしき4人組のCDを2枚買っていた。これを世の人は衝動買いというかもしれない。しかし、僕はその時、その瞬間だけだったかもしれないが、フランボワズのファンになっていたことは確かだ。あの独特の音質を持つボーカル、なぜか裸足でギターを弾いていた兄ちゃん、しかもこの兄ちゃん、変な薬でも飲んでいるんじゃないか、一瞬でも疑いたくなるような、そういう感じが漂っていた。
 夏の間、僕のテンションは上がりまくり、逆に寂しい曲を必要としていた。そう、それは上がりまくりのテンションを下げるために必要な薬である。これから秋、冬となり沈みがちになる僕のテンションを上げるにはどうしてもハイテンションな曲が常備薬のように必要となる。
 歌詞カードに目を通すと今更ながらに独特の世界観、価値観を持っている人達なんだと気付いた次第です。
 これまでロックとか、そういう感じの音楽と言えば意味もわからないまま、ラジオから流れてくるのを聞き流すのが常でしたが、これからはもう少し、もう少しだけ意識して聞こうかな、34歳、35歳という最近になってたまにはこういう激しい音楽も悪くないな、そういう感じになっている今日この頃です。

 ちなみにフランボワズのCDは全国のタワーレコードで購入できるそうです。但し、インディーズか何か、そう言うコーナーだそうです。



2005年09月20日 外来種、いらっしゃい。

 何かさ、最近、外来種って言葉をよく耳にします。1つには琵琶湖のピラニア、大阪府豊中市ではサソリ、他府県ではニシキヘビ、他にはなんだろう。アライグマ、タイワンザル、セアカゴケグモですか。ん〜。
 増えていますね。色々な動植物が我が国へ入り込んでいます。
 大昔なら風に飛ばされてきたとか、渡り鳥に引っ付いてきたとか、迷い込んできたとか、そう言うこともあり得たわけです。
 蜘蛛とかはそうですね。風に飛ばされ、高々度へ吹き上げられ、気温が低すぎると仮死状態になり、運良く落ちた場所で目を覚まし、そこで友達か何かを探し、運が良ければ近似種と交尾が出来るか否か、そういう感じでしょうか。
 和歌山県近隣の山中ではタイワンザルがニホンザルと交わり、交雑種が発生しています。良いのか悪いのか、その辺の判断は偉い人に委ねますが、タイワンザルが群れで船に乗り、和歌山県の山中を目指すわけはないし、人間の身勝手が成した結果でしょうね。
 ニシキヘビが海を泳いで日本には来ませんし、誰ですか、淡水魚だからって琵琶湖にピラニアを泳がせて楽しんでいるのは。
 だけどさ、いつから琵琶湖でピラニアが泳いでいるのか知りませんが、泳いでいる最中にピラニアが襲い、そのまま「水泳中に行方不明」とか言う結果になっている人が1人や2人、居るのではないでしょうか。
 サソリの話題で思い出したのですが、昔々、うんと昔、小学生の頃ですが、校庭の側溝でサソリみたいな白い虫を見たことがあります。一瞬だったし、小学生でもサソリが国内にいないことを知っていましたから何かの見間違いだろうと忘れることにしました。実際には八重山にサソリの遠縁が居るらしいです。
 実際、外来種と言うか国内にいない動植物類を飼育する際は御役所の審査とか、誓約書とか、何かさ、「責任負います」って一筆書かせてから購入とか、輸入とかするようにしないと気が付いたら国産ゴキブリが昆虫館でしか見られないとか、そう言う時代がくるかもしれませんよ。



2005年09月20日 エイサー祭り

 今年で31回目を数えるエイサー祭りが無事に終わり、僕にとっての夏も終わったような気がした。
 好天。まさしくエイサー日和、否、沖縄日和、なんとでも表現できますが、カラッとした晴天、時々大阪湾から流れてくる風が何とも言えず、一瞬、沖縄県内の大公園でエイサー祭りを楽しんでいるような、そう言う錯覚に襲われ、里心と言うのでしょうか、無性に沖縄へ帰りたくもなりました。あの5年半、僕にとっては大きな大きな5年半でした。
 沖縄そばを食べ、沖縄焼きそばを食べ、ルートビアを飲み、さんぴん茶とグァバ茶も飲み、塩漬け豚肉も食べ、まさしく食べ歩きの状態です。
 去年、一昨年と観客の1人として参加していましたが、いつも夕方になれば帰っていましたが、今年は最後まで留まり、散々暴れてきました。
 他の観客が踊り出せば一緒になって踊り、エイサー祭りを見に来たのか、カチャーシーを踊りに来たのか、我ながらわからない状態になっていました。その結果、翌月曜、翌々火曜と続けて体調不良になりました。単に体調管理がなっていないという表現も出来ますが、まぁ、僕としてはエイサー祭りで体力を消耗したと言うことにしておきます。
 偶然であったのかもしれないが、中秋の名月でもあり、最後は満月の下、カチャーシーで締めくくることとなった。

 昨年は30回目という節目であった所為もあるだろう、参加したエイサー隊も人数も多かったような気がしたが、今年は先陣を切った名桜エイサー隊からして昨年の半分ぐらいに見えた。
 エイサー隊の参加数や人数ということで贅沢を言ってはいけませんね。
 この大阪でエイサー祭りを楽しめるだけ、素晴らしいことではありませんか。

 来年もどうかエイサー祭りが行われますように。 



2005年09月14日 CDあれこれ

 そう言えばアナログ盤の時代は大体、年に3枚ぐらいシングルを発表、アルバムは年2枚ぐらいだったのではないだろうか。
 それがCDになってからは3か月続けてシングルを出すとか、両A面とか、初回盤限定特典とか、中身が同じでも外装違いが出てきたり、アナログ盤の時代には考えられなかった事態が起きている。
 何故か、私なりに考えてみたが、1つにはレンタルが可能になったと言うことだろうか。
 アナログ盤の場合、落としただけでも割れてしまうと言う欠点があった。しかし、少なくともCDは落としたぐらいでは割れないし、持ち運びも便利である。小さくてまさしくコンパクトである。
 そしてレンタル業界が一気に飛躍した。大量に購入して大量に貸し出す。そして借りる側も本当にそのアーティストのファンでなくても良いわけだ。流行だから借り、持ち帰って録音し、そして覚えて周囲の話しについて行こうとする。たったそれだけである。
 アナログ盤時代のように少ない小遣いを工面してシングルやアルバムを買い、初めて針を降ろす瞬間のドキドキ感、そしてファンクラブに入って今少し、あと少し好きなアイドルに近付こうという感覚、そう言う色々な感覚があの時代にはあったことだろう。しかし、今はどうだろうか。
 多分、CDと同様にアイドルもまた借り物という感覚があるのではないだろうか。
 不要になればMDの中身を書き換え、新しいアイドルやアーティストの楽曲を入れ直す。あくまでもその場限りのファンである。それ故に昔ほど熱狂的なファンというのも減ったのではないだろうか。



2005年09月14日 CDあれこれ

 CDの普及と「おニャン子クラブ」の出現、この2つが芸能界を変えたと言えば大袈裟だろうか。しかし、個人的には何らかの絡みがあると信じている。
 まず「おニャン子クラブ」である。それまでのアイドルと言えばいくつかのオーディションを受け、その中から合格した1人ないしは2人が芸能界へ入り、活躍していたが、「おニャン子クラブ」はその常識を覆してしまった。まさしく普通の女の子が多数在籍する団体となったわけだ。
 確かに「おニャン子クラブ」もオーディションがあったであろうし、その中から篩い落とされた少女も多数いたことだろう。それでも私の記憶が正しければ一時期30数名の少女が在籍して活躍していたわけだ。他のアイドルみたいにデビューまでに数か月を要し、その間に歌やダンスのレッスンをしたかどうか、そこまで調べたわけではないが、いかにも身近に居そうな女の子が画面の向こう側に現れたわけである。
 ごく一般的なアイドルを30人も育成し、デビューさせようとしたらどれだけの労力を要するのか、そう言う芸能界の常識を良かれ悪かれ覆してしまったように思う。「おニャン子クラブ」の出現以降、私はアイドルの使い捨てが始まったように思う。
 少しでも売れないと思えば即座にテレビの画面から消えていき、そして新しいアイドルが姿を現す。以前のように歌って踊れて芝居も出来て、そう言うアイドルが減り、グラビアアイドル、アイドル歌手、アイドル女優、そういう感じで分類化されたようにも思える。



2005年09月13日 無題

 8月29日午前1時40分頃に伯母が亡くなった。享年89歳。私にしてみれば伯母というより祖母と言った方が良いような存在でもあった。
 極端な表現をすれば産まれる前から世話になっていたような存在である。戦災で父が実家を焼かれた時、父はすでに嫁いでいた伯母の家へと避難した。それからと言うもの、大学を卒業するまで世話になっていた。
 そしてまた私も産まれてから何かと言えばこの伯母の家、否、屋敷と言うべきか、ちょくちょく遊びに行ったものである。特に正月と言えば山海の珍味とまでは言わないが、食卓の上へ並べられた御馳走を「満足するまで食べなさい」と言われ、毎年それを実行していたのが、私たち兄弟である。沖縄で言えば「カメー、カメー」にあたるだろうか。
 その伯母と会わなくなったのは1998年の正月以降である。
 その前年、1997年春から私は沖縄県名護市で初めての1人暮らしを始めていた。生活の都合上から住民票も名護市へ移したのがその年の6月、1998年の正月、例年通りに私は伯母の家へと新年の挨拶へ出掛けた。その折、会話の中で住民票を移した話をした途端、伯母に「お前、沖縄人になるのか」と言われた。
 そうである。伯母は戦前の人間である。
 戦前、戦後を通じて日本人による沖縄人差別があることは聞いて知ってはいたが、まさか自分の身内、一番お世話になっていた伯母の口から「沖縄人」という言葉が出てくるとは思っても見なかった。この時、私は初めて伯母に対して嫌悪感と言うべきだろうか、「顔を見たくない、声を聞きたくない」と言う感情を持ち、結局、2年か3年前に一度会ったのが最後となってしまった。
 今から思えば伯母1人を責めても仕方のない話である。戦前の日本という国自体が国内、国外を問わず手当たり次第に差別を助長するような政策を行い、戦後は戦後で戦前の過ちを見直すことなく、ただ外見の復興にのみ力を注いだ結果、大切な何かが戦前のままになってはいないだろうか?
 そう、経済的な復興が最優先され、精神的な復興はおざなりにされている。
 今でも同じアジアでありながらアジア軽視、アジア蔑視を行えるのはまだ日本人の精神が戦前か、もしくは戦後数年の状況から抜け出せていないからだろう。
 経済的な復興を行う以前に精神的な復興と言うべきか、生き残った国民全てが戦前の過ちを学び、そしてそれを将来へ伝えていく、そう言う教育をするべきではなかったろうか。これが成されなかったために今でも戦前同様に精神論で「不可能を可能にしろ」と言う人間が平然とのさばっているのではないだろうか。



2005年09月12日 郵政民営化?

 今回の選挙結果を見て驚かされた。郵政民営化、ここまで指示されていたのですね。
 しかし、郵政公社と言うべきか、身近な郵便局は独立採算ですから民営化したところで国の運営とはあまり関係ないと思われます。それにも関わらず「郵政民営化」を掲げた与党が圧勝したと言うことは1つには郵便局が国家財政を喰っているという印象が強かったのでしょうか。それとも首相の吠え具合を見、国民は首相の世界に引きずり込まれてしまったのでしょうか。
 確かに郵便局が民営化されれば良い意味で競争が起こり、既存の宅配業者と値下げ競争が発生してダイレクトメールなどが溢れかえることになるかもしれません。
 その一方でJRが赤字路線を手当たり次第に廃線したように採算の合わない郵便局は消されていくことでしょう。運が良ければ宅配業者同様、コンビニなどの小さな商店が代理店として郵便を扱うかもしれません。しかし、それで構わないのだろうか。
 確かにインターネットが普及し、紙という媒体を用いて自分の意思を伝えることは減ったかもしれない。しかし、年賀状をはじめとして私たちにとって紙という媒体に思いをぶつけ、相手に伝えると言うことは当分、無くならないだろう。
 郵便、それは人の思いを伝える大事な大事な手段……。



2005年09月04日 今日の雑記

 アメリカ南部においてハリケーン「カトリーナ」が猛威を振るった挙げ句、多くの犠牲者を出した。正確な人数はまだ把握されていないが、増える一方である。
 私たち日本人からすれば「たかが台風」と言う印象が強く、自称「世界の警察官」であるアメリカが台風で2州に多くの被害を出し、未だ救出されていない人々がいると言うことが信じられない。つい先ほどもニュースを見ていたのだが、「スマトラ沖地震とそれに伴う津波の映像です」と言われても信じてしまいそうな、そういう感じだった。
 9月1日、ご存じのように防災の日であり、前後する日曜日になる今日4日もどこかで防災訓練が行われていたことだろう。しかし、防災訓練を見ているとあらかじめ用意された避難所、子供だましの火災、目の前で待機している消防車などを見ていると妙に情けなくなるのは私だけだろうか。
 阪神淡路大震災の時、何もかもが倒壊してしまい、火事が発生していても消防車は消防署の中で生き埋めの状態、出動できたとしても今度は道路が倒壊した家屋で埋まり、数多い火災現場に優先順位は着けられず、結局は多くの家屋と人間が火に飲み込まれてしまった。特に大震災は突然発生して私たちを飲み込もうとする。非常食や救出道具を用意していたところでそれを取り出すだけの余裕があるのか否か、それもまた問題になるだろう。
 公的機関が全く頼れない状況下でいかにして逃げるか、そう言うことを訓練した方が良いように思うし、少なくともピクニック気分で防災訓練に参加している人は参加するだけ無駄だと思う。



2005年09月04日 今日の雑記

 最近、7月上旬くらいからだろうか、迷惑メールが突如として舞い込むようになった。仕方がないと言えばそれまでだが、消すには消すでそれなりの労力が必要となってくる。
 基本的には私用のメールアドレスを目立つ場所には出していないし、偶然の一致か何かで迷惑メールを発信する側が知ったとしか思えないのだが、もしかすると目立たない場所で公表している私用のメールアドレスが発見されたのかもしれない。
 表向きのメールアドレスにも2,3通ほど届いたのだが、すぐに届かなくなってしまった。無駄だと思ったのかもしれない。
 しかし、公用、私用を問わず、舞い込んできたのは全て出会い系のご案内、内容が全く同じで発信者のみ違うのだから芸が無いというのか、見ていて可哀相にもなってくる。もう一工夫、何かあればおもしろいと思うのだが、それに引っ掛かるとあとが大変になりそうだ。
 しかし、何故に出会い系ばかりなのだろうか。いろんな企業からいろんなD.M.が届いたら面白いと思うのだが、片付けるのは大変だろうな。



2005年09月04日 9月4日 秋のご挨拶

 防災の日に前後してアメリカではハリケーンで多くの犠牲者を出しました。またバグダッドでは噂から多くの人々が逃げ惑い、こちらでも多くの死傷者を出しています。
 つい最近、東海地震、東南海地震、南海地震は同じ震源地から連動して発生することを知りました。しかも周期的に見てそろそろ発生しておかしくないことも知りました。地震が発生し、過ぎ去るまで安全な場所で大人しくしているわけにもいかず、私たちは日々、冷や冷やドキドキしながら毎日を送っています。
 準備万端の上で行われる防災訓練に対して最近、疑問を感じています。阪神淡路大震災では警察、消防をはじめとする官公庁の全てが機能しませんでした。実際に災害が起きた時、公的機関を頼ることなく、私たちだけでいかにして助け合い、そして1人でも多くの人間がより安全な場所へ避難できるか、そう言うことを例え図上訓練、または意識の上で持つようにするべきではないでしょうか。

 普天間かおりさんの「泣けないラプソディ」を聞きつつ、気持ちも服装も少し秋的になってきた今日この頃です。9月4日



2005年09月04日 防災訓練あれこれ

 アメリカ南部においてハリケーン「カトリーナ」が猛威を振るった挙げ句、多くの犠牲者を出した。正確な人数はまだ把握されていないが、増える一方である。
 私たち日本人からすれば「たかが台風」と言う印象が強く、自称「世界の警察官」であるアメリカが台風で2州に多くの被害を出し、未だ救出されていない人々がいると言うことが信じられない。つい先ほどもニュースを見ていたのだが、「スマトラ沖地震とそれに伴う津波の映像です」と言われても信じてしまいそうな、そういう感じだった。
 9月1日、ご存じのように防災の日であり、前後する日曜日になる今日4日もどこかで防災訓練が行われていたことだろう。しかし、防災訓練を見ているとあらかじめ用意された避難所、子供だましの火災、目の前で待機している消防車などを見ていると妙に情けなくなるのは私だけだろうか。
 阪神淡路大震災の時、何もかもが倒壊してしまい、火事が発生していても消防車は消防署の中で生き埋めの状態、出動できたとしても今度は道路が倒壊した家屋で埋まり、数多い火災現場に優先順位は着けられず、結局は多くの家屋と人間が火に飲み込まれてしまった。特に大震災は突然発生して私たちを飲み込もうとする。非常食や救出道具を用意していたところでそれを取り出すだけの余裕があるのか否か、それもまた問題になるだろう。
 公的機関が全く頼れない状況下でいかにして逃げるか、そう言うことを訓練した方が良いように思うし、少なくともピクニック気分で防災訓練に参加している人は参加するだけ無駄だと思う。



2005年09月04日 迷惑……。

 最近、7月上旬くらいからだろうか、迷惑メールが突如として舞い込むようになった。仕方がないと言えばそれまでだが、消すには消すでそれなりの労力が必要となってくる。
 基本的には私用のメールアドレスを目立つ場所には出していないし、偶然の一致か何かで迷惑メールを発信する側が知ったとしか思えないのだが、もしかすると目立たない場所で公表している私用のメールアドレスが発見されたのかもしれない。
 表向きのメールアドレスにも2,3通ほど届いたのだが、すぐに届かなくなってしまった。無駄だと思ったのかもしれない。
 しかし、公用、私用を問わず、舞い込んできたのは全て出会い系のご案内、内容が全く同じで発信者のみ違うのだから芸が無いというのか、見ていて可哀相にもなってくる。もう一工夫、何かあればおもしろいと思うのだが、それに引っ掛かるとあとが大変になりそうだ。
 しかし、何故に出会い系ばかりなのだろうか。いろんな企業からいろんなD.M.が届いたら面白いと思うのだが、片付けるのは大変だろうな。



2005年08月28日 今日の雑記

 つい最近、何気無く新聞に目を通していて見付けたのが500人から600人に1人の割合という数字である。
 なんでしょうか。
 答えは口蓋裂、口唇裂の発症率である。あろう事か私はその1人である。ある意味、凄いことなのかもしれない。
 しかし、素直に喜べないのも事実である。
 基本的には二十歳の時に完治し、今は全く医師の世話になってはいないが、通院していた時には全く減らない患者の数に驚かされていた。
 私の場合、大阪大学歯学部付属病院のお世話になっていたのだが、通院する都度、口腔外科の待合には生後間もない子供たちが若い母親に抱かれたり、乳母車で寝ていたり、そう言う光景を目の当たりにしてきた。私は完成見本みたいに温和しく周囲の視線を浴びていた。それを気付かぬふりをして文庫本とかに目を落としていたが、実際には読める状況ではなかった。視線が熱すぎた。そして悲しすぎた。
 子供の頃は漠然としていて自分の症状が一体どの様なものなのか、ほとんど関心を持たなかった。
 この年齢になるまで日々の忙しさや具体的な情報の無さを理由にして口蓋裂、口唇裂に対して関心を持つことはなかったが、どこかで引っ掛かっていたのも事実だ。
 何故、口蓋裂や口唇裂が発症するのか、これも原因は不明である。
 確かに病院へ行き、幾度となく通院し、症状によって差はあるだろうが、幾度か手術をすれば完治する病気ではあるが、原因とか発症率を減らす努力とかは本当に行われているのだろうか。
 今の自分に出来ることは献血でもしてお世話になった医療にせめてもの協力をすることぐらいである。医師や看護士になるほど利口ではないし、口唇裂や口蓋裂の研究に寄付をするほど金持ちでもないし、出来ることはそれぐらいだろうか。



2005年08月28日 口唇裂、口蓋裂

 つい最近、何気無く新聞に目を通していて見付けたのが500人から600人に1人の割合という数字である。
 なんでしょうか。
 答えは口蓋裂、口唇裂の発症率である。あろう事か私はその1人である。ある意味、凄いことなのかもしれない。
 しかし、素直に喜べないのも事実である。
 基本的には二十歳の時に完治し、今は全く医師の世話になってはいないが、通院していた時には全く減らない患者の数に驚かされていた。
 私の場合、大阪大学歯学部付属病院のお世話になっていたのだが、通院する都度、口腔外科の待合には生後間もない子供たちが若い母親に抱かれたり、乳母車で寝ていたり、そう言う光景を目の当たりにしてきた。私は完成見本みたいに温和しく周囲の視線を浴びていた。それを気付かぬふりをして文庫本とかに目を落としていたが、実際には読める状況ではなかった。視線が熱すぎた。そして悲しすぎた。
 子供の頃は漠然としていて自分の症状が一体どの様なものなのか、ほとんど関心を持たなかった。
 この年齢になるまで日々の忙しさや具体的な情報の無さを理由にして口蓋裂、口唇裂に対して関心を持つことはなかったが、どこかで引っ掛かっていたのも事実だ。
 何故、口蓋裂や口唇裂が発症するのか、これも原因は不明である。
 確かに病院へ行き、幾度となく通院し、症状によって差はあるだろうが、幾度か手術をすれば完治する病気ではあるが、原因とか発症率を減らす努力とかは本当に行われているのだろうか。
 今の自分に出来ることは献血でもしてお世話になった医療にせめてもの協力をすることぐらいである。医師や看護士になるほど利口ではないし、口唇裂や口蓋裂の研究に寄付をするほど金持ちでもないし、出来ることはそれぐらいだろうか。



2005年08月28日 光明寺と秀吉

 豊臣秀吉は日吉丸と名乗っていた七歳の頃、光明寺という名の寺に入れられたという。その理由に関しては継父の筑阿弥との関係が良くなかったからとも言われているが、定かではない。
 この光明寺に関しては秀吉が生まれ育った中中村とその近郊に光明寺という名の寺が複数存在するため、実際にどの光明寺に入ったか、特定することは難しいと言われている。そしてもう一つ、秀吉が光明寺に入ったという話自体、小瀬甫庵が執筆した『太閤記』にのみ記された話であり、真偽のほどが疑われている。
 現在の愛知県海部郡甚目寺町に所在する横笛山光明寺には日吉丸と呼ばれていた秀吉が木登りをして遊んだと言われる榎が残っている。
 秀吉は天正十八(一五九〇)年八月小田原の北条氏と奥羽の平定を終え、大阪城への帰路に横笛山光明寺へ立ち寄り、光明寺を破却している。
 秀吉が横笛山光明寺を取り潰した理由についても定かではないが、住職に家系図の作成を依頼したが受け入れて貰えず、それ故に破却へ及んだという。
 しかし、何故に秀吉は横笛山光明寺へ家系図の作成を依頼したのであろうか。
 単純な発想かもしれないが、この横笛山光明寺こそが秀吉の氏寺であったという解釈はできないだろうか。秀吉一族の過去帳が存在し、それに手を加えて立派な家系図を作成するよう命じたのであろうか。いずれにしても秀吉の依頼を断った挙げ句、寺を破却されたという点は権力に迎合しないという宗教者の基本的立場を貫いたとして評価できるだろう。
 秀吉は天正十四(一五八六)年に太政大臣となり、同時に朝廷から「豊臣」姓も下賜され、位人臣を極めたのである。
「今更出自にこだわる必要があるのか」
 現代人の私にはその様に思えて仕方がないのだが、やはり位人臣を極めた以上、先祖には皇室か皇室に近い誰かがいないといけなかったのであろうか。
 秀吉が横笛山光明寺を破却した際、秀吉一族の過去帳も地上から消えてしまったのであろうか。それとも大坂落城の際であろうか、秀吉の出自を知る数少ない資料は一体どこで消えてしまったのであろう。
 横笛山光明寺は一遍上人が始めた時宗の寺院であり、弘安六(一二八三)年に一遍の弟子である真教上人が開いている。
 時宗は踊り念仏の名でも知られ、手元の歴史事典によれば鎌倉時代末期から室町時代初期に掛けて大きな広がりをみせたという。
 日吉丸が踊り念仏を学ぶ姿というのは少し滑稽な気がするのは私だけだろうか。
 秀吉によって破却された横笛山光明寺は慶長十三(一六〇八)年、徳川義直によって再建されているが、義直は前年に尾張国へ入ったばかり、しかも慶長五年の生まれであるから横笛山光明寺の再建は義直の意思ではなく、多分に家康の意向が含まれていたことだろう。
 豊臣が破却した寺を徳川が再建する。しかも光明寺は秀吉が一時の感情で破却に及んだのである。時の権力者であれば後日、どの様な理由、もしくは言い訳をつけてでも再建することは出来たはずである。秀吉の自尊心がそれを許さなかったのか、それとも本当に横笛山光明寺は秀吉の逆鱗に触れるようなことをしたのであろうか。
 愛知県一宮市にある安照院光明寺は織田信長、徳川家康の人生に関わっている。
 この安照院光明寺の住職である青井意足は信長の兵法指南であった。また徳川家康が松平元康から家康へと名乗りを改める際に助言をしている。また信長の兵法指南と言いつつ、信長が平氏であることを理由に青井意足は肝心なことを伝えず、源氏である家康に伝えたと言われている。
 ただの偶然と言ってしまえばそれまでだが、尾張国内の二つの光明寺が信長、秀吉、家康という三人の人生に関わっている。
 小瀬甫庵は信長、家康が安照院光明寺の青井意足と交流があったことは知っていただろう。そして秀吉が横笛山光明寺を破却したことも知っていた。甫庵はその著『太閤記』で家康を美化するために実際には知らない秀吉の幼少期を創作したのであろう。横笛山光明寺を破却した事実を腕白小僧で寺宝の仏像を破壊したと言う話などと置き換えたのかもしれない。
 いずれにしても今一度、私たちは秀吉の出自を見直す時期にきていることだろう。



2005年08月25日 今日の雑記

 僕はお酒が飲めない。
 しかし、僕は月に1度か2度、飲めないお酒を飲みに行くことがある。
 駅前に多数有る雑居ビルの地下1階に僕が通う店がある。
 その店と出会ったのは二十歳になるかならないか、高校を卒業して就職し、自分の自由になる金銭を手にし、自分は酒が飲めると信じつつ、その店にも出入りをしていた。どれだけ無理をしても自分には酒が飲めないと知ったのは社会に出て5年以上経てからだったが、それでも何故かこの店から足を遠のけることは出来無かった。
 転職をして新しい職場では下戸で通し、どの様な席であっても酒には手を出さず、勧められても酒を口にしない僕が唯一、酒を飲むのがこの店である。
 酒を飲むと言ってもガツガツ飲むわけでなし、小さなグラスにマスターが勧める酒を入れてもらい、それを辛気くさくチビリチビリと舐めるようにして味わうだけである。だから僕はその日、自分が何を飲んでいるのか、さっぱり分からないし、改めてマスターに聞くこともしない。
 時々、マスターがボソッと教えてくれる時もあるのだが、大抵の場合、僕は聞き流している。
 僕がその店に通う理由、当初はその独特の雰囲気、20代になった頃、その店が妙に大人の場所という感じを漂わせていたし、週末に行っても空席が目立ち、それでいてなお、どこか一癖有りそうな常連客がしんみりと酒を飲んでいたりする。その雰囲気の虜になっていた。



2005年08月22日 「やんごとなきこと」一考察

 天下布武を推し進めていた織田信長が一命とその夢を断たれた本能寺の変、これまで多くの史家がその謎を解明しようと努力してきた。私もまた歴史愛好家の一人としてこの問題に関する専門家諸氏の書籍に目を通してきたが、一つだけどうしても気になる仮説があり、しかもその仮説が全く取り上げられることがない。そこで改めてここへ記してみたい。
 その仮説は今から十年から十五年ほど前、NHKの歴史番組で取り上げられたものである。
 本能寺で茶会を終えた後、信長は三人の公卿を一室に呼び、雑談をしたが、その内容に「やんごとなきこと」が含まれており、公卿三人は驚愕したそうである。その「やんごとなきこと」の具体的な内容はその場に居合わせた三人の日記にも残っていなかったようだが、番組ではその内容に驚いた公卿の誰かが一番近くにいた光秀へ早馬で知らせたならば沓掛付近で光秀の軍団に出会い、光秀に「やんごとなきこと」を伝え、知った光秀が急遽、本能寺へ向かった可能性はあるとしていた。確かに多くの史家が言われるように光秀は用意周到な人間のようだ。それが後先も見ないような慌ただしさで本能寺、妙覚寺を襲い、信長父子を亡き者にしている。
 私は「やんごとなきこと」を聞いたのは吉田兼見、勧修寺晴豊、山科言継と記憶しているが、これも定かではない。しかし、私たちはこの「やんごとなきこと」の中身を探って行かなくてはいけない。
 私自身は「やんごとなきこと」の中身を皇位纂奪、もしくはそれに近い行為だと考えている。その理由の一つとして信長が武田征伐の帰路、富士山を見ていることを挙げたい。確かにそれだけのことかもしれないが、本能寺の変に遭わず、そのまま秀吉の誘いに応じて中国路へ入るか、もしくは信孝らと共に四国征伐へ入っていたならば間違いなく信長はその脚で厳島神社へ向かっていたと私は想像している。この根拠を私は足利義満に求めている。足利義満は元中五(一三八八)年九月に富士を見、半年後には厳島神社へ参拝している。勿論、これは東西の守護大名に対する示威行動でもあったが、同様のことを信長が考えていたとは思えない。確かに戦国大名に対する示威行動の意味はあったかもしれないが、それよりも信長は義満を真似ることで自身が目指しているもの、この場合は義満が目指して果たせなかった太上天皇の地位を欲しているということを言葉ではなく行動で示していたように思える。信長が三職推任を無視したのは目標が既に太上天皇にあったからではないだろうか。例えば安土城天守閣を金閣寺を意識したものと解釈するのは考え過ぎだろうか。
 しかし、歴史の中では皇室を脅かした者は信長一人ではない。
 皇位纂奪を狙った者に道鏡がいる。そして藤原基経は阿衡事件で宇多天皇の権威を失墜させている。他にも多くの天皇が摂関家の藤原氏や多くの公家、武家に振り回されて皇位を追われたり、命を奪われたりしている。南北朝となって国は乱れたが、天皇が二人になったからと言って特に天変地異が起こるわけでもなかった。
 それ故に信長は皇室に多少の危害を加えても大した事はないと考えたのかもしれない。または西洋のように皇室をローマ教皇のような位置付けをし、信長自身は皇帝に等しい地位を得ようとしたのだろうか。その様にも考えてみたが、それならばハ見寺を建立して自身を神格化する必要はなくなるからこの仮説は成り立たない。
 いずれにしても「やんごとなきこと」自体が何であったのか、私にはわからない。但し、その場に居合わせた人間が「やんごとなきこと」とぼかしているからこそ、「畏れ多いこと」すなわち皇室に関わることだと私は考えている。
 最後に別の仮説を一つ記したい。それは信長が故意に本能寺や妙覚寺を利用していた点、すなわち法華宗寺院を利用することで法華宗徒の怒りを買い、法華宗徒が何らかの形で明智光秀を誘い、信長を襲わせたように考えられる。この時代、確かに仏教徒であっても宗派の違いを理由に殺し合うことも少なくないし、それに疑問を抱くことはなかったであろう。しかし、その事に光秀は疑問を抱いたかもしれない。同じ土岐氏の出で国師号をも得た快川紹喜が信長によって殺される際、救えなかった自身を責めたかもしれない。または光秀自身が五十代半ばとなり、自分の年齢から死期が近いことを考え、迷わず成仏したいと思えばこそ、現世での罪、この場合は仏敵である織田信長を倒すこと、それは同時に同族であった快川紹喜の敵を討つことに繋がったのではなかろうか。



2005年08月22日 パスタ&ヌードル

パスタ どうもどうも。お久しぶりです。
ヌードル ほんま、久しぶりですね。舞台に立つ、感覚忘れていました。
パスタ 約半年間、世界一周の、新婚旅行に行って参りました。
ヌードル 嘘つけ。何でそんな大きな嘘をつくねん。
パスタ だって、事実やんか。
ヌードル 事実やけどな、事実を事実や言うたら、おみやげが大変やろ。そやから、嘘をつくねん。
パスタ どんな嘘、ついたらええの。
ヌードル 簡単やんか。新婚旅行も行ってません、世界一周も行っていません。半年間、家の中にいました。そう言っとけばいいやんか。
パスタ そやけどな、半年間、家の中で何してましたんって聞かれたら、どないすんの。
ヌードル 簡単や。朝から晩までエッチなことしてた、言うといたらええねん。
パスタ いやや。
ヌードル なんでえな、事実やんか
パスタ 恥ずかしいやんか。
ヌードル 事実やんか。そやけど、なんですね。一緒に暮らしてみて、改めて思うことって色々ありますね。
パスタ 例えば。
ヌードル そやな、毎日毎日パスタちゃんのパンツを拝めることかな。赤、白、黒、黄色に青、色々あるなって。
パスタ いやん、恥ずかしいわ。
ヌードル パスタちゃんは、僕と暮らして、改めて思うことって、なんかある?
パスタ そら、有るわよ。
ヌードル 例えば、どんなこと、有るかな。
パスタ おならは臭いし、料理も洗濯も下手やし、掃除はせえへんし、まだまだあるけど、言うたろか。
ヌードル いえ、もういいです。
パスタ ほんま、料理下手でっせ、こいつ。
ヌードル こいつって、そないにけなさんとって。
パスタ 買いもん行かしたら、高いもんばっかし買うてきますしね、奥さん、ほんま、こいつ、あきまへんわ。
ヌードル そないに言わんとって、また自信無くすがな。
パスタ やかましい。しっかり稼がんかい。
ヌードル ほな、わかったわ。相方替えるし、さいなら。
パスタ 嘘やん。あんた、待ってえ。行かんとって。
 どうも、ありがとうございました。



2005年08月21日 加納久武の廃嫡について

 将軍吉宗の御側御用取次を勤めていた加納久通は元文四(一七三九)年四月十二日、息子の久武を病により廃嫡し、甥の久堅を嫡子にした。
 その後、久武は宝暦四(一七五四)年四月十一日に四十二歳で世を去るが、一体どの様な病であったのだろうか。
 加納久通には久武の他に久英という息子がいた。だが、享保十七(一七三二)年四月二十六日に二十五歳で世を去っている。
 久武は廃嫡されてから十五年も生きているからおそらく心の病ではなかったか、その様に感じる。父久通が日夜、将軍の側近として骨身を削る思いで職務に励む姿を見た久武はその重責から来る精神的な圧力から病になったのではないだろうか。
 しかし、本当に久武は病であったのだろうか。そういう疑問も出てくる。久通には何かしら別の意図があったに思われる。
 久通が勤めた御側御用取次という職は老中でさえ一目置かざるを得ない、気を遣うと存在と言われた。久通自身が意識をしていない場所で恨まれていた可能性もある。
 将軍の寵臣で周囲から恨まれた人物にまず本多正純がいる。改易された実際の理由は今でも定かではないが、老中として周囲から相当恨まれた結果であろう。
 柳沢吉保は石高を減らされることはなかったが、甲斐国から大和国郡山へ転封となっている。
 家宣、家継政権を支えた新井白石は職と邸宅を取り上げられ、間部詮房は老中格、側用人として権勢を奮ったが、家継の死後、上野国高崎から越後国村上へ転封となった。
 久通は吉宗という柱を失った時、権力の座を追われる自分自身の姿を想像したのではないだろうか。伊勢国東阿倉川一万石という知行を失うことも考えたであろう。
 久通と同じく紀伊時代から吉宗を支え、御側御用取次を勤めた有馬氏倫は享保二十(一七三五)年十二月十二日に六十八歳で世を去っている。残念ながら弥平二、大助という二人の息子は早くに亡くなり、有馬家は紀伊徳川家から渡辺主水泰綱の次男を迎え、氏久と名乗らせて家督を継がせていた。実子が夭折したことにより、有馬氏倫への非難が多少なりとも緩くなり、同情に変わっていたかもしれない。
 久通は久武を廃嫡し、甥に家督を譲ることで自身や子孫への批判をかわそうとしたのかもしれない。
 久武が廃嫡された元文四年一月、尾張徳川家の当主である宗春が蟄居を命じられている。
 理由は治世の乱れからであったが、御三家で蟄居を命じられたのは宗春のみである。
 六代将軍家宣は当初、家継ではなく尾張家の吉通を迎えて将軍職を譲ろうとしていた。しかし、新井白石が反論して立ち消えとなった。久通は御三家の筆頭である尾張家へ将軍職を譲るよう、吉宗に進言していたのかもしれない。だが、吉宗は宗春の蟄居という行動で御三家筆頭に将軍職を譲らないという意思を示したのであろう。
 享保十四年には吉宗の次男宗武が田安門内に屋敷を与えられ、毎年賄料として三万俵を支給されることになる。元文二年には同じく四男宗尹が一橋門内に屋敷を与えられ、二万俵を支給されるようになった。職務上、公私にわたって吉宗から相談を受けてきたであろう久通は宗武、宗尹が江戸城内で分家する意味を誰よりも理解していたことだろう。
 吉宗は常日頃、「何事も権現様通り」を旨としていたが、家康が尾張、紀伊、水戸の御三家を創設したように吉宗が田安、一橋を創設、後に清水家も加わって御三卿となるが、これに対して久通の本心は賛否いずれであったのであろう。いずれにしても側近として吉宗を止めることができず、江戸城内における分家の創設を許したことで後世、尾張家や水戸家から恨まれることを久通は予測したであろうし、この点で自身や子孫が減封や転封となることを覚悟していたかもしれない。
 吉宗の嫡男である家重は病弱であった。しかし、吉宗は家重に将軍位を含む家督を継承させようとしていた。
 久通は本当に「何事も権現様通り」と吉宗が言うならば結城秀康ではなく、秀忠を後継者とした家康を真似て欲しかったのではないだろうか。
 病弱で将軍職に耐えきれるとは思われない家重より、聡明な宗武を将軍職に最初から就かせれば良いと考えたのであろう。そして久通は吉宗を諫めるため、久武を病気として廃嫡し、甥の久堅を迎えたのではないだろうか。
 老中であり吉宗の片腕であった松平乗邑ですら吉宗が隠居した直後、職を追われたのである。家重が将軍職を継いだことは幕閣でも相当、問題視されていたことだろう。



2005年08月21日 ラーメン&ソーメン

ソーメン いやぁ、気い付いたら、お盆も終わっとるがな。どないすんねん。
ラーメン そない言われてもな、ワシの所為や無いで。
ソーメン わかっとるがな。そやけどな、今年の夏も何もええことなかったがな。
ラーメン それはお互い様や。
ソーメン で、盆休みは、休めたんかいな。
ラーメン 休めるかいな。貧乏暇なしやで。
ソーメン ちょっと待ってや、ワシなんか、仕事無うて、ずっと家で過ごしとったんに、ラーメン君、何をしとったんや。
ラーメン 出稼ぎに決まっとるがな。
ソーメン 出稼ぎって、あんた、それ、冬の東北地方や無いねんから。
ラーメン 出稼ぎは出稼ぎや。
ソーメン 参考までに聞くけどな、どこで何をしとったん。
ラーメン 夏の浜辺でな、ビール売ったりしてな、生活費稼いどったんや。
ソーメン そんなんやったら、誘ってえな。
ラーメン 何言うてんねん。あんた誘ってみいな。飲むの好きやろ。売りもん全部飲んでまうやろ。
ソーメン ま、そらそうや。
ラーメン そやけどな、夏の風物詩、楽しむ間有ったかいな。
ソーメン 今年は、有らへんかったな。
ラーメン ソーメン君にとって、夏の風物言うたら、なんや。
ソーメン やっぱ、花火と浴衣の女の子でっしゃろな。
ラーメン ええとこ、突くな。そやけどな、ソーメン君、ソーメンという名前で、思い付かんか。
ソーメン 何を。
ラーメン 夏の風物言うたら、あるやろが。最近すたれ気味やけどな。
ソーメン 何かなあ。
ラーメン 素麺流しが有るやろ。
ソーメン ああ、最近、話題にも出て来うへんな。廃止になったんかいな。
ラーメン 廃止になんかなるかいな。他にようさん、話題があるからな、出て来うへんだけや。
ソーメン そやけど聞かんようなったな。
ラーメン 有るだけましやで。ワシなんかどないすんねん。夏の暑いときにラーメンの話題なんて、有らへんで。
ソーメン 冷やし中華が有るやんか。
ラーメン 不思議やろ。冷やしラーメンとは言わんから。
ソーメン どや、流しラーメン言うの、作ったら。
ラーメン どないすんねん。
ソーメン ソーメン流しと一緒やんけ。上から流したらええねん。
ラーメン ほんなら何か、冷やし中華、流すんか。
ソーメン ちゃうがな。ラーメンそのまま流すんや。
ラーメン 無茶や、無茶やで。
ソーメン なんでやねん。そーめんはな、水と一緒に流すやろ。ラーメンはな、汁と一緒に流すんや。
ラーメン 余計、わからへん。
ソーメン 例えばな、味噌ラーメン好きな客やったら、味噌ラーメン流す。塩ラーメン好きな客おったら、塩ラーメン流す。
ラーメン 醤油ラーメンとか、豚骨ラーメンも用意するんか。
ソーメン そりゃそうや。客の注文にはこたえなあかんで。
ラーメン なるほどな。
ソーメン それでな、評判ようなって繁盛してみ、ごっつ儲かるで。
ラーメン それで、ほんまにラーメン流しが儲かって儲かってしゃあないようなったら、ソーメン流し、どないなんねん。
ソーメン どないなんねんって、そりゃ、すたれるわな。
ラーメン それって、あかんやんか。
 どうも、ありがとうございました。



2005年08月20日 「幸村」名一考察

 私が真田幸村という人物を知ったのはいつ頃であろうか、おそらく漫画の主人公、大河ドラマの脇役あたりが始まりであろう。
 何よりも関心を持つようになったのは池波正太郎氏の「真田太平記」からであろう。
 残念ながらテレビドラマ化された際、犬伏の別れを俗説に沿わせたのは不愉快極まりなかったが、私は実際の犬伏の別れも池波正太郎氏が描かれたとおりにしんみりとしたものであったと思っている。
 私が真田幸村が実際には真田信繁であると知ったのは十代後半のことである。それまでは「幸村」であることに疑問すら抱かなかったし、「信繁」が正しいと知っても数年間は「幸村」と署名された史料が出てくるのではないか、そう信じていた時期もあった。実際、日本史にあまり詳しくない人でも「真田幸村」と言えば「あぁ、あの人ね」と言う一定の反応は返ってくるだろうが、「真田信繁」と言った場合、どれだけの人が知っているだろうか。
 一体、どこから「幸村」という名前が現れ、定着していったのであろうか。一説によれば江戸時代に流布した「真田三代記」に始まったとの説もあるが、この「真田三代記」自体が著者も不明、版木一つ残すことなく世に伝わってきた。変な表現かもしれないが、それこそ「闇から闇へ」伝えられた書物である。
 その様な「真田三代記」の性格故に「信繁」を「幸村」と書き損じるなどの理由から謝って伝えられたのであろうか。しかし、現在の私達と違い、江戸時代の人々は「真田信繁」の名を知っていたはずである。一度や二度の間違いで誤り伝えることがあるだろうか。
 名も知れぬ著者が苦心して考え出したのが、「幸村」という名前だったのであろう。
 しかし、「幸繁」でも「信村」でもないのは何故であろうか。
 まず最初に「幸村」の「幸」という字だが、この字は真田家では代々大切にしてきた字である。しかし、信繁の兄信幸は関ヶ原合戦以降、徳川家に遠慮したのであろうか、信之と改めている。そして真田家では「幸」の字を使用せず、「信」の字を使用するようになった。真田家の当主が再び「幸」の字を使い始めるのは万治元(一六五八)年に家督を継いだ幸道からである。「真田三代記」の成立時期は元祿十五(一七〇二)年以降という説もあり、幸道の在職期間と重ねられる。仮に幸道が「幸」の字を用いていなければ「幸村」という名前は生まれなかったかもしれない。
 次に「村」であるが、幸道と同じ頃、伊達家の当主が綱村である。奇しくも真田幸道は万治元(一六五八)年の生まれ、伊達綱村は翌年の生まれであり、幼くして家督を継いだ境遇も似ている。また真田信繁と伊達政宗が同じ永禄十(一五六七)年の生まれである。二人とも家康から見れば最後まで油断できなかったという共通点がある。
 余談だが、伊達家では綱村以降、吉村、宗村、重村、斉村、周村と「村」の字が続くのだが、偶然とは言え、面白いものである。
 以上のように私は「真田三代記」の著者が真田家と伊達家を意識しつつ、「幸村」という名前、そして人物を編み出したのであろうと言う結論に達した。
 最後に「真田三代記」の成立時期に注目してみたい。先述したように「真田三代記」は元禄十五年以降に成立したとの説がある。
 元禄十五年十二月には赤穂浪士による討ち入りがあり、翌年三月には四十六人が切腹という形でこの一件は決着しているが、この処分に対して不満を持った人は少なくなかったであろう。また「生類憐れみの令」を始め、倹約令などで贅沢を禁じられた市井の人々による綱吉治世への不満を背景にして「真田三代記」は成立したのであろう。
 私が「真田三代記」の中で唯一、不思議なのは家康、秀忠父子が最後まで運良く生き残る点である。
 最近、改めて「真田三代記」を読み直して気が付いたことが二つある。
 一つは当時の人々が自分達では「生類憐れみの令」や倹約令を変えることができない、そういう諦めを運良く生き延びる家康、秀忠父子に反映させているのではないか、その様に感じた。
 もう一つは徳川自体が「真田三代記」を黙認していたのではないか、その様に感じたのである。徳川への不満を持つ人々が「真田三代記」を「闇から闇へ」と語り伝えることで少しでも鬱憤を晴らしたのではないだろうか。
それ故にいつ、誰が、どの様な形で「真田三代記」を流布させたのか、全く伝わっていないのであろう。おそらくその役目を「真田三代記」は充分果たしたことだろう。



2005年08月16日 民営化…

 何故か揺れ続けている郵政民営化論争。
 賛否いずれかは別としてもこれだけ自由民主党が揺れたのはいつ以来だろうか。
 その昔、自民党内が荒れに荒れた挙げ句、新党結成という結末に至ったこともあったが、今回は久しぶりにそういう結果になりそうだ。
 しかし、小泉純一郎という人はまれに見る強権発動型と言えるだろうか。ここまで党内にけんかを売った人、否、総裁はいないだろう。一方で自民党改革を唱え、その言葉を実現したという意味では評価できるかもしれない。
 大抵の場合、党内がもめたら最後は話し合い、よくわからないが裏取引みたいな感じでまとまってしまい、「おや?」「あれ?」みたいな感想しか出てこないのだが、言った以上、最後まで実行して欲しいものである。今回の郵政民営化論争でも土壇場で反対派と妥協することがないよう、期待してみていたい。
 さて、郵政民営化自体の賛否である。
 身近な例えかどうかわからないが、国鉄がJRとして民営化されたことを思い出してみればよい。
 私が住むような地域、大阪と京都の境目当のいわゆる衛星都市ですと国鉄でもJRでも変わりなく、電車は毎日毎時、適当な間隔で走っています。しかし、同じ近畿でもいわゆる過疎が進む地域へ行けば1時間に1本あるかないか、そういう状況です。見るからに寂しい結果です。
 20年前の地図を広げれば間違いなく路線図が引かれている場所でも今では道路と化したり、わずかに跡が見て取れる程度だったり、長野新幹線を開通させるために在来線が犠牲になったり、国鉄を民営化された結果、不便な思いを押し付けられた人は少ないわけです。それを郵政民営化に当てはめてみましょう。やはり過疎地域は犠牲となるわけです。
 例えば沖縄、人口が100人いるかいないか、そういう離島にも郵便局があり、必要な時に利用できたわけです。それが消えたらどうなることでしょうか?
 郵便局へ行くのに船に揺られるとか、そういうことが笑い話ではなく、現実となるわけです。
 そう言えばJTB、日本交通公社もその名の通り「公社」です。郵便局も日本郵政公社でいいじゃないですか。



2005年08月16日 あれから20年

 早いもので群馬県の御巣鷹山に日航機が墜落して20年が経ちました。当時、私は中学三年生、取り敢えず高校受験を控えつつ、それでいて中学最後の夏休みを暢気に過ごしていました。そう言う中でこの事件、事故が発生したわけです。
 当時の私が第一報に接した時、どの様な感想を抱いたのか、今は記憶にありませんが、おそらくは生意気な中学生のこと、「関係ないし」とか思っていたか、受験勉強そっちのけでテレビの前へ座っていたか、いずれかであろう。
 しかし、この事故が他人事でないことを知ったのは数日を経てからだった。
 母親が乗客名簿の中から1人、お世話になった人の名前を見付けたのだ。
 私と弟が卒園した幼稚園の園長先生が乗客だったのである。園長先生は東京出張の帰りに遭難されたのだが、それ以来、毎年この時期になると園長先生と卒園した幼稚園を思い出している。
 幼稚園児代の記憶というのはほとんど、否、全くと言っていいほど無いし、親を含めて周囲から聞かされた話を頼りに意識の中で美化された物語が作られている程度だろう。
 しかし、この御巣鷹山の一件以来、事件とか事故とか、大惨事とか、そういうことがある都度、犠牲者の遺族以外にも自分のように知人、友人、昔世話になった人とか、そういう表面には出てこない人々が多数いることを考えるようになった。
 家族や親戚縁者のように泣きはしないが、心のどこかでその事件、事故を一生忘れることなく背負っていく人、そういう人がこれ以上、増えて欲しくないのだが、これからも人為的、非人為的に悲しみは続いていくのだろう。



2005年08月16日 今日の雑記 民営化…

 何故か揺れ続けている郵政民営化論争。
 賛否いずれかは別としてもこれだけ自由民主党が揺れたのはいつ以来だろうか。
 その昔、自民党内が荒れに荒れた挙げ句、新党結成という結末に至ったこともあったが、今回は久しぶりにそういう結果になりそうだ。
 しかし、小泉純一郎という人はまれに見る強権発動型と言えるだろうか。ここまで党内にけんかを売った人、否、総裁はいないだろう。一方で自民党改革を唱え、その言葉を実現したという意味では評価できるかもしれない。
 大抵の場合、党内がもめたら最後は話し合い、よくわからないが裏取引みたいな感じでまとまってしまい、「おや?」「あれ?」みたいな感想しか出てこないのだが、言った以上、最後まで実行して欲しいものである。今回の郵政民営化論争でも土壇場で反対派と妥協することがないよう、期待してみていたい。
 さて、郵政民営化自体の賛否である。
 身近な例えかどうかわからないが、国鉄がJRとして民営化されたことを思い出してみればよい。
 私が住むような地域、大阪と京都の境目当のいわゆる衛星都市ですと国鉄でもJRでも変わりなく、電車は毎日毎時、適当な間隔で走っています。しかし、同じ近畿でもいわゆる過疎が進む地域へ行けば1時間に1本あるかないか、そういう状況です。見るからに寂しい結果です。
 20年前の地図を広げれば間違いなく路線図が引かれている場所でも今では道路と化したり、わずかに跡が見て取れる程度だったり、長野新幹線を開通させるために在来線が犠牲になったり、国鉄を民営化された結果、不便な思いを押し付けられた人は少ないわけです。それを郵政民営化に当てはめてみましょう。やはり過疎地域は犠牲となるわけです。
 例えば沖縄、人口が100人いるかいないか、そういう離島にも郵便局があり、必要な時に利用できたわけです。それが消えたらどうなることでしょうか?
 郵便局へ行くのに船に揺られるとか、そういうことが笑い話ではなく、現実となるわけです。
 そう言えばJTB、日本交通公社もその名の通り「公社」です。郵便局も日本郵政公社でいいじゃないですか。



2005年08月15日 あれから20年

 早いもので群馬県の御巣鷹山に日航機が墜落して20年が経ちました。当時、私は中学三年生、取り敢えず高校受験を控えつつ、それでいて中学最後の夏休みを暢気に過ごしていました。そう言う中でこの事件、事故が発生したわけです。
 当時の私が第一報に接した時、どの様な感想を抱いたのか、今は記憶にありませんが、おそらくは生意気な中学生のこと、「関係ないし」とか思っていたか、受験勉強そっちのけでテレビの前へ座っていたか、いずれかであろう。
 しかし、この事故が他人事でないことを知ったのは数日を経てからだった。
 母親が乗客名簿の中から1人、お世話になった人の名前を見付けたのだ。
 私と弟が卒園した幼稚園の園長先生が乗客だったのである。園長先生は東京出張の帰りに遭難されたのだが、それ以来、毎年この時期になると園長先生と卒園した幼稚園を思い出している。
 幼稚園児代の記憶というのはほとんど、否、全くと言っていいほど無いし、親を含めて周囲から聞かされた話を頼りに意識の中で美化された物語が作られている程度だろう。
 しかし、この御巣鷹山の一件以来、事件とか事故とか、大惨事とか、そういうことがある都度、犠牲者の遺族以外にも自分のように知人、友人、昔世話になった人とか、そういう表面には出てこない人々が多数いることを考えるようになった。
 家族や親戚縁者のように泣きはしないが、心のどこかでその事件、事故を一生忘れることなく背負っていく人、そういう人がこれ以上、増えて欲しくないのだが、これからも人為的、非人為的に悲しみは続いていくのだろう。



2005年08月13日 沖縄のワースト1

 沖縄でのワースト1と言えばやはり離婚率と飲酒運転でしょうか。他にもあるかもしれませんが、取り敢えずこの2つについて思い付くまま書いてみます。
 離婚率日本一。
 これはすごいことです。沖縄に住んでみてわかったのは実際、情けない男が多いということです。酒飲んで、自分だけ遊んで、家庭を顧みない奴が多すぎる。子供がいなければ同居している女性もあきらめるのかもしれないが、子供がいたら生活費を入れない男なんてただのクズも同然である。それ故に子供を連れてさっさと実家へ帰ってしまう。子供を持った沖縄の女性はまた強い。子供のためには一生懸命働くんだ。
 飲酒運転ははっきり言って「馬」+「鹿」である。
 ある人曰く「沖縄には鉄道がないから、飲酒運転が多いのだ」そうだ。
 すると何か、自宅の玄関先からお気に入りの飲み屋まで線路を繋げというのか?
 しかもこれを言ったのが、一緒に平和運動をしていた人間だから情けねぇ話だ。



2005年05月21日

 つい最近、職場での会話で「米アレルギー」が存在することを知った。
 これまで蕎麦や小麦のアレルギーがあることは知っていた。数年前、小学生が給食に入っていた蕎麦を先生が食べさせ、死に至らせたことがあった。また小麦アレルギーの方はこの数年、報道でも取り上げられ、小麦アレルギー専用の食品も少しずつ増えていると聴く。
 ちなみに米アレルギー専用の米があるそうだが、やたらと高価だという。
 以前、何気無くラジオを聴いていたら次のような話があった。私の記憶は頼りないが、記しておく。
 日本人に米アレルギーの人がいないのは長い歳月を経て淘汰された結果という。単純に言えば米アレルギーの人は生き残れず、消えていったと言う話だ。
 確かに日本人の主食は何世代もの間、米であった。逆に小麦は戦後にパンやケーキ、各種洋菓子が出回ってから国内に普及した。それ故に小麦アレルギーも数代を経れば消えるかもしれない。
 穀物を育てるにあたり、殺虫や栄養を含めて色々な農薬が利用される。そういう農薬がアレルギーの原因になりはしないだろうか?
 余談だが、私は卵アレルギーである。幸いにして症状は軽く、食べたからと言ってすぐに発作が出たりするわけではない。その代わり背中が痒くなることはある。しかし、ゆで卵と目玉焼きは嫌いだ。小学校に入学してすぐの給食でゆで卵があった。調理室から人数分のゆで卵をゆでる臭いが校内に充満、それで気持ち悪くなり、現物を目の前にして嘔吐した。それ以来、ゆで卵は嫌いだ。だが、私の記憶には全くないのだが、両親に言わせるとこの一件以前はゆで卵を食べていたらしい。
 学校給食の罪である。



2005年05月10日 CDあれこれ

 俗な言い方をすれば「一発屋」と言うべきなのだろうか。いわゆるアイドル、アーティストの新人が世に出たかと思えばいつの間にか消えている。そう言うことが延々と繰り返されているような気がしてならない。そう感じて十年以上が経っている。
 確かに1人でも多くの人が脚光を浴び、表舞台で自分を表現できれば素晴らしいことだろう。それこそ「一億総アイドル時代」という言葉もあるが、誰でも注目される時代が来たと言うことだろうか。その一方で折角デビューしたにも関わらず、1年後には世間から忘れ去られてしまう人も多いように感じる。
 極端な例えかもしれないが、松田聖子さんは今でも永遠のアイドルとして活躍している。松田聖子に追い付け、追い越せと次から次へとデビューしたが、結局は追い付くこともなく、松田聖子はアイドルであり、他の人たちは引退したり、忘れられたり、そう言うところだろうか。しかし、この時代のアイドルはまだ一定の業績を残していたように思う。確かに「歌が下手」とか「踊りが下手」とか、この時代特有の評価もあったが、それでも安定した人気を持っていたと思う。
 アイドルと言えば歌唱力よりも外見、詳細は所属事務所が作り上げる、そう言う感じだろうか。しかし、それが通用しなくなってしまった。芸能界、特にそこを支配していた常識が崩れ去ってしまった。
 1つの変化は「おにゃんこクラブ」の出現だろうか。



2005年05月09日 CDあれこれ

 CDを借りることができる。すなわち音楽を借り、我が家へ持ち帰ることができる。これは画期的なことだったと思う。少なくとも冷や冷やした気持ちで黒い円盤、アナログ盤を持ち帰った時と違うのだ。鞄に放り込んでも構わないというお手軽さが有った。
 これが音楽業界を変えたと思う。
 1つには「買う」事が減ったことだろう。好きなアーティストのCDを借り、自宅でテープやMDに録音していくらでも聴くことができる。1枚2,800円〜3,200円のCDをわずか300円くらいで借り、いくらでも聴く。この結果、1人が複数のアーティストを好きになり、ファンになることができた。その一方で熱狂的なファンは減ったのではないだろうか。
 私が十代の頃と言えば揃いのはっぴを着た親衛隊がコンサート会場の最後列に控えていることは珍しくなかったし、それがアイドルの熱狂的なファンという印象であった。現在、そういう親衛隊はいるのだろうか?
 CDを「買う」と言うことは減ったと書いたが、それでもCDの売れ行きはあまり変化していないと思う。むしろ増えているかもしれない。そこには個人よりもレンタル店が多く含まれていると思う。レンタル店が大量に購入して貸し出すという構図、仮に1枚3,200円のCDを1回300円で貸し出しても10回で元は取れるし、採算が取れているからこそ、大手レンタル店が増える一方なのだろう。
 同じCDを大量に購入、旬を過ぎて貸し出し回数が減ったとしても中古品として売り飛ばせば在庫として抱える心配は必要ないし、処分する手間もなくなる。
 約20年前と比較してアイドル歌手、そしてアーティストが多くなったように感じる。これもCD文化の成せる技なのだろうか。



2005年04月30日 CDあれこれ

 CD、いわゆるCompact Discが世に出て何年になるだろうか。記憶が正しければ1980年代、私が高校へ進学する頃に普及が始まったのではないだろうか。それが今では普及著しいパソコン業界においてもCD-Rとして応用され、さらにはDVDとしても活躍するようになって久しい。
 当初、CDの普及は相当の時間を要すると言われていたと記憶している。世に出た当時、確かに高級品であった。あるアイドルのレコード1枚が2,800円だった場合、CDならば3,200円はした。この400円という差が埋まるには相当な時間が必要だろうと当時、私は考えていた。しかし、レコード店へ行く都度、そこは徐々にCDショップへと移行していった。気が付いた時、レコード店は姿を消し、CDショップしか無かった。
 CDショップと同時に大きく姿を出したのが、いわゆるCDレンタルであろうか。確かにレコードと違って持ち運びが便利、ケースに入っていれば軽く落としたぐらいでは傷も付かない。レコードの場合、レコード店で購入して我が家へ持ち帰るだけでも冷や冷やしていたし、自宅のレコード棚に並べていてもいつ、何が原因で壊れるか、それを心配しなくてはいけなかったが、そう言う心配もCDでは随分と小さくなった。
 CDレンタルの台頭は音楽業界を大きく変えたように思う。



2005年04月22日 犬とか猫とか

 犬が飼い主より先を歩く時、犬は自分がリーダーだと感じているらしい。元々犬科の動物は群を作る。群は強力なリーダーとその家族で構成されているらしい。
 先を行く時は飼い主が群の構成員と思われている証拠だと言うが、本当にそうなのだろうか?
 直接間接を問わず、犬を飼ったことはないが、友人知人の犬を散歩に連れ出したことは幾度かある。そう言う時、他人の犬だから引っ張られるに任せているのだが、大抵の場合、「頼りないやっちゃな」と言いたげに幾度となく犬の方が振り返ってくれる。私はこう言う時、「悪いねぇ」と言うようにしている。
 飼い犬が先を行く時、それは単に飼い主である人間の足が遅いだけなのかもしれない。犬にも若くて血気盛んな時期があったり、発情期で異性の匂いを追い掛けたりする時期があるだろう。そう言う時に「飼い主よりも先を歩いた」と言って叱っても意味はないように思う。本当に大罪を犯した時のみ叱れば充分ではないだろうか。
 犬や猫でも家族を思う心を持っている。飼い主家族が飼い犬や飼い猫を家族として扱えば飼われている側もその様に認識し、付き合ってくれるのではないだろうか?
 犬や猫を飼ったことのない私が偉そうなことを言うべきではないかもしれないが、そう思ったので一筆残しておきます。



2005年04月21日 犬とか猫とか

 名護市に住んでいた頃、私はある商工団体の事務員を一年半ほど務めていた。
 仕事の中に機関紙の配達というものがあった。週に一度、自転車で走れるところをキィコラカァコラと駆け巡るわけだが、名護市のはずれにある安和という集落で僕は友達と呼べる犬が出来た。
 柴犬なのか雑種なのか、種類もよく分からなかったが、小型犬よりはやや大きい赤毛の犬、小さいわりに元気のある犬だった。
 初めてその家へ配達へ行った時から何故か尻尾振り振り、調子の良い犬だった。しかし、相手は初対面の犬である。へたに近付き、襲われても困るので近付かないようにしていた。
 数回目の配達の折、飼い主の小学生男子が偶然居合わせ、「かまないよ」と教えてくれたから安心して近付けた。それからというもの、最後の配達はいつもその家、5分以上も犬と遊んでから帰っていた。
 首輪を繋いでいる紐に多少の余裕があったから軽く走ってみたり、右へ左へ飛び跳ねてみたり、事情を知らない人が見たらどの様な感想を抱いただろうか?
 ある時、ポケットにお菓子を忍ばせていき、食べて貰おうと思ってそのワン君に渡してみたが、そっぽを向かれてしまった。よく分からないが、一緒に遊びたいらしい。
 ある日、私はいつものように名前すら覚えていないワン君と遊び、否、遊んで貰ってから事務所目指して自転車をこいでいた。しばらくしてから何気無く後ろを振り返って驚いた。ワン君、追い掛けてきていた。当然、家に帰るよう説得しても通用する相手ではない。このまま職場まで付いてこられても困るし、仕方無くもと来た道を引き返し、ワン君の家へ戻り、紐をしっかりと繋いで泣く泣く別れてきた。
 この様な巡り合わせをどの様に表現すべきであろうか、個人的には「周波数が合う」と表現しているのだが、「前世の因縁」と言えるかもしれない。このワン君とも前世のどこかで出会っていたのかもしれない。その時は私が犬で先方が人間であったかもしれない。
 残念ながらそのワン君、名前すら覚えていない。



2005年04月20日 犬とか猫とか

 犬とか猫とか、一度でいいから飼ってみたいと思いつつ、これまで飼ったことがない。犬ならば毎日の散歩とか、日常的な世話が大変なように見えて仕方がない。知人や近所で飼っている人を見ていると簡単そうに見えるが、実際には人知れぬ苦労が多々あるのだろう。いわゆる「責任」が終えるのかどうか、それを思うと今は控えておくべきだろう、そう思う。
 猫ならば放し飼い、仮に家の中で飼うとなればそれこそ大変、目も当てられない状況になるだろう。最初の2、3日ならば笑って済ませるだろうが、その後は飼い主としての責任を放棄、猫の方も居心地の良い場所を探して出て行ってしまうだろう。
 これまでの人生で色々な犬や猫と接してきた。もちろん、家族ではなく赤の他人と表現すべき犬や猫である。
 初対面であるにも関わらず、走って逃げてしまう猫、いきなり攻撃態勢の犬、そう言う場合、何が悪いのか、思わず自分の態度を振り返ってしまう。
 そう言う一方で全く警戒心もなく、尻尾を振り振り近付いてくる犬や猫もいる。犬や猫と言えば警戒心が強いという印象のある私から見れば思わず「大丈夫?」と聞きたくなる。
 大抵の場合、犬や猫は身体をこすりつけてくる。2度3度と同じ場所を往復している間、私は黙って突っ立っている。最後には身体をぴったりと引っ付け、同じ方向を見ていたりするのだが、こう言うとき、すぐ目の前が壁だったりする場合が多い。

 しかし、いつかは犬の一匹も飼ってみたいものである。柴犬ぐらいの中型犬、世間一般では赤毛と呼ばれる茶色い毛の犬を一匹、飼ってみたい。多分、おそらく、間違いなく、犬に振り回されてしまう日々になるだろう。



2005年04月14日 女子高生のスカート丈

 下らない話なのだが、この数年、女子高生の間ではスカートの丈を短くすることが流行している。それはそれで構わないのだが、私が現役の頃は全く逆、確か長くすることが流行していたように記憶している。
 沖縄県名護市で5年半過ごしている間、沖縄県内でもそうであったが、修学旅行で来県する高校生を見る都度、うんざりさせられていた。
 素直な話、全く似合っていないのである。思わず「やめてぇ」と叫びたくなる、そう言う感じだ。テレビを見ても雑誌や新聞を読んでも皆が皆、スカートの丈を短くしている。
 何が嬉しくて似合わないのを承知でそう言うことをするのか、これ以上書くと差別的単語が列記されることになるので控えるが、お年頃の思考は理解に苦しむ。
 で、我が家へ戻ってきた時、何かが違うことにしばらくは気付かなかった。市内の女子高校生のスカート丈が膝下数センチであることに気付いた時、私の脳裏にはまず「?」が浮かんだ。
 校則の厳しい私学ならいざ知らず、ごく普通の公立高校で女子生徒がスカート丈を短くしていないのである。まるで時間が止まっているような、それとも私が住んでいる地域だけ、流行が違っているのだろうか。
 いずれにしても「やめてぇ」って叫ばなくて済んだわけだし、朝な夕なに下らないものを見なくて済むわけだ。



2005年04月10日 春期のご挨拶

 気が付いたら桜が満開になっていた。
 そして早いところでは鯉のぼりが泳いでいます。
 新しい1年が始まりました。
 皆さんはこの1年、いかがお過ごしになりましたか?
 そしてこれからの1年をどの様に過ごされるでしょうか。
 私は4月上旬、3か月に至った失業者の身を脱け、また新しい仕事を始めています。この3か月はある意味、慌ただしい日々でもありました。1月には東京へ行き、2月末には沖縄へ行きました。
 1月の東京旅行では以前から会いたかった南極観測船「宗谷」に初めて会って感動、そして新しい企画を持ち帰り、2月末には失いかけていた「元気」を沖縄で貰って帰ってきました。本当は沖縄に「元気」を与えるぐらいでないといけないのですが、今回は頂いて参りました。いつも貰いっぱなしかな?
 これからもこれまで同様、「小さなことからコツコツ」と進めていきたい、そして大きな成果にしていきたい、そう考えています。
 今年度は以前にも増して活気溢れる年にしていこう、そう思っています。
 我ながら格好いい挨拶文になりました。

 東真紀の「ジョンの粋な恋物語」を聴いてちょこっと「ウルッ」とした、そう言う穏やかな4月10日です。吉田浩



2005年04月01日 そば、うどん

ソバ 最近な、国旗とか、国歌とか、色々もめてるやんか。
ウドン そやな、もめてんな。それで。
ソバ それで、や、あらへんな。気にならへんか。
ウドン 別にかまへんやんか。国旗でも、国歌でも、適当に振り回しとけばええねん。
ソバ ま、そらそうやけどな。きみ、国旗とか、国歌とか、なんか、思いであるか。
ウドン あるよ。
ソバ どんな話や。
ウドン 昔な、たまたま道、歩いとったんや。ほんならな、急に、他の車が止まったんや。
ソバ ほうほう、それで。
ウドン なんか有んねんなぁ、思って待っとったら、誰や知らんけど、偉いさんが車乗ってきたんや。
ソバ そら、馬とか駕籠やったら、時代錯誤もはなはだしいで。
ウドン そんでな、なんか振らなあかんやろな、思てんけど、なんも有らへん。そこでな、近所の弁当屋駆け込んで、買うたんが日の丸弁当や。それ振り回したで。
ソバ きみはそれで良かったか知らんが、振り回された日の丸弁当、気の毒やったな。
ウドン そやねん。弁当箱空っぽや。足下にチュンコやらノラやら集まって、賑やかやったで。
ソバ ほんでな、そろそろ本題に入りたいねんけど、かまへんか。
ウドン かまへんけど、本題ってなんやねん。
ソバ きみ、国旗とか国歌とか、どない思てんねん。
ウドン どないって、振り回せばええやんか、さっきも言うたで。
ソバ そらそやけどな。他に意見とか、有らへんか。
ウドン 有らへんな。
ソバ ほな聞くで、今、学校とかで、国旗とか国歌とか、もめてるやんか、どない思う。
ウドン 歌いとうなかったら、口パクでええやんか。歌てまっせって、思わせときゃええやん。高校野球見てみ、勝った連中、自分とこの校歌、まともに歌とる奴、おるか。ソバ おらんな。そやけどな、国歌やで。
ウドン ほな、歌えまっか、国歌。
ソバ いや、歌えへん。わし、音痴やからな。
ウドン 国旗ってな、言い方が悪いと思わへんか。
ソバ なんでや。
ウドン アメリカなんか、書かれへんやんか。日本なんか、日の丸弁当でかまへんけど、星50個かいて赤と白の線書かなあかんねんで。
ソバ そやからか。アメリカで旗屋さんが儲かるんわ。
ウドン ほんまでっか。
ソバ いや、知らんけどな。そやけど、一番難しい国旗って、どこやろな。
ウドン そう来る思て、用意してきましたがな、世界の国旗。
ソバ さすがやな。これ、どこや。
ウドン キルギス。
ソバ これは。
ウドン トルクメニスタン。
ソバ これは。
ウドン ガーナ。
ソバ これは。
ウドン カーボベルデ。
ソバ 次。
ウドン キリバス。
ソバ 次。
ウドン ええ加減にしいや。後は自分で読みなはれ。
ソバ そやけど、色々有るもんやな、国旗って。
ウドン 改めて、日の丸弁当の良さが、分かりましたか。
ソバ そやけど、なんか足らんな。
ウドン 思てんけどね、国旗とか言うのやめて、国章としたらどないでっか。
ソバ なんやそら。
ウドン 国の紋章ですわ。国の正式なマークですわ。アメリカですと、鷲のマークがありますやん。あんな感じですわ。
ソバ なるほどな。そら、ええわ。で、きみはなんか案、有るんか。
ウドン そうですな。梅干しをあと4つ増やしたらどないでっか。
ソバ その心は。
ウドン 北海道、本州、四国、九州の4つですわ。
ソバ もうええわ。



2005年03月03日

 履歴書に用いる写真を撮ろうと思い、数年ぶりにスーツを着てみた。おなかが少し緩んでいたのかきつく感じた。それよりも何よりもネクタイの締め方が全く思い出せなかった。気が付いたら自分の首を絞めていた。
「おげぇ〜」
 仕方がないから父親に助けてもらったが、同じ事を二度しろと言われてもできない。考えたらネクタイを締めるのは本当に何年ぶりだろうか。これから毎日毎日ネクタイを締めて出勤するようになったら嫌だなぁ。自分らしくないよ。案外、似合っていたりしてね。まず無理だな。



2005年03月02日

 二年ぶりに履歴書を購入、書こうとして戸惑った。職務経歴書というのが別紙としてある。
「何を書くんだ?」
 書くことがない。確かに職歴はある。しかし、書くほどのものがほとんど無い。そう思ってしばらくこの職歴書を無視していた。だが、この様な態度は今の時代、許されないようだ。
「書くのか?」
 例えば「ヘリポート建設阻止協議会 命を守る会」の事務局書記とか、書くのか。何か変な感じである。私が思っているほど、本土では注目されていないかもしれない。
「これって、どういう団体」
 こういう感じで聞かれたらどの様に答えようか。沖縄の現状を一から説明して納得してもらうのだろうか。それを考えただけでも面倒になってくる。それを思うと書くのは嫌だな。逆によく知っている人だったらどうしようか。コネで入るみたいでこれまた嫌だな。それで書かなければどうなるか。一年の不気味な空白が生じてしまう。



2005年03月01日 3月1日のトップ・ページ挨拶文

 季節は3月、梅に次いで桃の花が楽しめる季節になりましたが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?
 私は2月末、慌ただしい日程で沖縄へ行ってきました。
 一つには昔お世話になった方が体調を崩したとか、快復したとか、そう言う話が流れてきましたし、幸いにしてまだ求職中、勢い「えいっ」という感じで飛行機に乗っていました。
 2月23日、春一番が吹き、私の乗った飛行機は向かい風に悩まされつつも約2時間の飛行を終え、無事に那覇空港へ降りました。
 ちなみに春一番の風速はなんと200q、窓を開けて体感することはできませんが、どんな感じでしょうね。
「暑い」
 この一言以外、気温差を表す言葉を知りません。しかし、この熱気が好きで住んでいたようなものです。
「懐かしい。俺の空気だ」
 そう言う表現もできます。
 だが、夜はやっぱり寒かった。長袖を持ち込んで正解でした。
 いくら年中暖かいと言ってもやはり沖縄にも冬はあります。長袖も必要ですし、冬服もあります。しかし、元気な人もいて年中半袖半ズボンという方もお見かけします。
「元気だ」
 思わずうなってしまい、その元気がうらやましくなります。
 今回の旅はどちらかと言えば感傷旅行と表現した方がよいかもしれません。
 沖縄の曇天はそう言う私の心を表現しているようにも感じました。

 さぁ、3月です、そしてすぐに4月です。
 新しいことを始めましょう。
 えいっ、えいっ、えいっ、おぉ!!



2005年02月20日

 書店や図書館には神様がいる。最近、そう思う時がある。
 もしかすると神様ではなく、天使と呼んだ方がよいのかもしれないが、今は仮に「書籍の神様」と呼んでおこう。
 例えば大型書店へ足を踏み入れたとしよう。ただ漠然と足を踏み入れたのではなく、どの様な書籍を購入したいか、一定の目的を持って入店した場合、書籍の神様はその書籍が並べられている書棚までさりげなく案内をしてくれる。勿論、大型書店ならば店員に聞くか、最近流行の検索システムを用いて自分で探せばよいことだろう。しかし、それらに頼れないほど曖昧な情報だけで欲しい書籍を探す時、書籍の神様に頼った方が確実である。
 僕は鮪の刺身が大好きである。いつの日か自分で鮪に関する本を書こうか、数年前にはそこまで思ったこともある。だが、書籍の神様にお願いをしてみた。
「いつの日か、自分と同じように、鮪の好きな人が、鮪に関する本を書いてくれますように」
 そうして書店へ行く都度、何気無く書棚を見て歩いていたら見付けました。「魚河岸マグロ経済学」という面白い本、新書ですが見付けることができました。魚河岸の著名人をさりげなく追いかけ回した執筆者は大学教授らしいですが、その苦労が溢れている一品です。この本を読み終えて何かもう一冊、そう考えていた頃に「世界マグロ摩擦!」に出会いました。こちらは今、三分の一を読み終えて止まっています。他の本を読むのに忙しくて鮪どころではありません。
 もう一つ、鮪が好きなら当然と言っていいほどに鮨も好きです。「魚を旨く」という「鮨」という字、誰が考えたのか、素敵な漢字です。
 これも書店へ入る前、いつも書籍の神様に頼んでいました。
「お鮨の本が見つかりますように」
 そして見付けました。
 江戸前「握り」 東京・世田谷「あら輝」のつけ場
 読書中に思わず鮨屋へ駆け込みたくなるような一冊でした。
 一月に東京都世田谷区へ用事があって行きました。さすがにこの「あら輝」には行きませんでしたが、渋谷駅前のホテルに宿泊した私は二日間、ホテル内の鮨屋で大奮発、久しぶりに贅沢な旅をしました。
 どうして書籍の神様がいるのか、少し考えてみました。
 私と同様、「こういう本が読みたい」と内容を想い描くことはできても実際にその様な書籍がこの世に存在するのか否か、それすらもわからぬまま書店や図書館へ行き、端から書棚を見て歩き、時には手に取り、パラパラとページを繰っていく。それを幾度となく繰り返す。その内に力尽きてしまい、探すのを諦めてしまうか、兎に角、当たるを幸いに目に付く書店や図書館を手当たり次第に探して歩くか、二つに一つとなるでしょう。多分、自分が探している書籍が見つからず、悔しい思いをした人が後世、同じ事で他の誰かが悩まぬよう、書籍を探して悩んでいる人を導こう、そう言う思いから書籍の神様が存在するのでしょう。
 幸いにして現代ではインターネットもありますし、大型書店では検索機能もあります。書籍の神様が活躍する場も随分と減ったことでしょう。それでも読みたい書籍が見つからない、そう言うことはまだあります。その内に「自分で執筆してしまえ」となるか、あきらめてしまうか、どちらかになるのではないでしょうか?
 今、私には読みたい書籍があります。しかし、これだけは求めるだけ無駄、自分で少しずつ書き綴って行くことになるでしょう。
 多分、私もいずれは「書籍の神様」か「図書館の天使」になることでしょう。私が「図書館の天使」ならば誰も頼らないか?



2005年02月10日

 一か月二十五時間でインターネットの接続を契約していたのだが、今月はいつの間にやら三十時間近く使用している。それもそのはず、新しいホームページを立ち上げ、その為の情報類を上げるのに相当な時間を必要とした。仕方がないと言えばそれまでだが、これまで時間枠から出たことがないだけにややもすれば腹立たしい気持ちである。あえて原因をもう一つ挙げるならば十八歳未満厳禁の場所へもちょいちょい出入りした結果でもある。情けねぇ。しかし、こういう話を書けるようになったのだから少しは素直になったのだろうか?
 久しぶりに献血へ行った。何か月ぶりだろうか。去年の八月以来である。いつ行っても針が下りる瞬間、否、針が刺さる瞬間というのは痛い、これだけは何度経験しても痛くはならない。わかっている故だろうか、余計に身構えてしまい、それ故にまた痛みが増すような気がする。このほんの一瞬を解決できたらすごいことだろう。
 軽い気持ちで看護婦さんに「痛いの、どうにかならないですかねぇ」と言ったら妙に恐縮されてしまった。
 帰り際、先着十五名様限りとかで食パン一斤を貰った。そう言うキャンペーン期間中だったらしい。一瞬、断ろうと思ったが、これも縁起物だろうと思い、有り難く頂いて帰った。歩きながらその昔、売血という言葉があったことを思い出した。
 我が家に一太郎2005がやってきた。早速、導入してみたが、簡単な文章を作成する以外に何もしない。だから新しい機能が入っていても無駄みたいな気がした。
 二月に入ってから「Justsystem PDF Creator」なるものを購入した。このソフトの御陰でこれまで綴ってきた文書類が全て誰でも読める状態になった。めでたしめでたし。



2005年02月02日

 朝八時頃に目を覚ましたらあたりは雪化粧、これを見た私は即座に行動を開始した。
「雪の金閣寺を見に行こう」と思って電車に飛び乗り、一路、京都へ向かった。JR京都駅からはバスに揺られて金閣寺へ行った。こんなに身近なところにありながら一度も来なかったのは不思議だ。しかし、逆の表現をすれば不思議でも何でもないのかもしれない。雪が降るのは大抵平日である。京都市内に積雪があったからと言って仕事を休み、金閣寺の撮影に行けるだろうか。どだい無理な話である。それ故、今回は本当に幸運だったと言えよう。だが、雪の有無に関わらず一度も金閣寺へ来なかったのは近畿圏で生まれ育った人間として少し問題ではなかろうか。銀閣寺には一度だけ行った記憶があるのだが、銀箔が貼ってあったと言われても信じてしまうほど、遠い昔の話である。
 銀閣寺と言えば予算が無くて銀箔を貼れなかったそうである。逆に予算が余っていたらどうしていただろうか?
 例えば銀閣寺別館とか、二号館とか、銀箔べたべたと貼りまくった妙ちくりんな建物が現在に残っていたかもしれない。
 当時の価値観から言えば確か銀の方が高価だったはずである。銀箔の予定が予算の都合で金箔となって新金閣寺とか、しかもやたら中途半端な箇所で金箔が不足、作業を放り出していたら面白かっただろうな。観光客はそれを見てどういう感想を持つのだろうか。
 考えたら銀閣寺、日本人もそうだが、外国人へはどの様に説明するのだろうか?
「予算の都合で銀箔が貼れず、木閣寺になりました」
「Oh No」
 そう言う会話がガイドさんとの間でやりとりされていたら面白いね。



2005年02月01日

 年賀状に「賀新正旦」と書いたらある方から返事を頂いた。「賀新正旦」の意味は何でしょうか、そう言う内容である。この言葉自体はお気付きの方も多いと思いますが、所謂「臥薪嘗胆」の同音近似語とは言いませんが、意味としては同じだと解釈して頂いて構いません。中学生ぐらいの時に暇潰しで考えた言葉です。高校生ぐらいで一度、年賀状で用いたらある方から「頑張って欲しい」という内容の返事を頂き、えらく恐縮したことを覚えています。多分、この後も毎年年賀状を書くたびに用いることになるでしょう。「今年こそは良い年でありますように」と言う思いを込めて。
 もう一つ年賀状の話題を書けば「猫」であります。猫は可愛いですね。気まぐれで、時に可愛い女性とかに例えられたりしますが、男性にも気まぐれなのは相当数いますね。ほら、今これを書いている奴とか…
 冬と言えばやっぱり炬燵、炬燵と言えば猫、このイラストは今話題の「一太カ」の「6」に入っていたやつです。好きで時々使っていたのですが、今回は年賀状への起用、再来年あたりにまた起用されるかもしれません。
 こういうところで余計なことを書いている暇は無いのですが、気が付いたら書かずにはいられない今日この頃です。やっぱり暇なんでしょうね。



2005年01月17日

 阪神淡路大震災から十年目の日、その日を私は東京都内で迎えることになった。ご存じのように東京都もまた直下型地震に備えなくてはならない、そう言う土地である。
 十年前のあの日、私は実家の自室でいつものように眠っていた。毎朝、両親に叩き起こされても目を覚まさない私が地震の揺れで目を覚ましたのである。後日、私が住んでいた地域は震度四、それに揺れ自体は約四十秒ほどであったことを知ったが、今でも私はあの揺れがわずか四十秒であったことが信じられない。
 地震で目を覚ましたが、停電のためにテレビが使えない。携帯ラジオからの情報を頼りにするしかなかったが、その時、ラジオがどの様な情報を伝えていたのか、残念ながら記憶にない。一時間近い停電が復旧した時、テレビが最所に映し出したのは京都駅前ビルの惨状であった。駅前ビル群の多くが地震によってガラスを割られていた。それを見た私たち家族は地震の震源地は京都府内のどこかであったのであろうと話し合った。実際、京都府内を震源地とする地震は少なくなかったし、その時点ではそれだけの情報しかなかった。時間が経つにつれ、カメラは西へと移動してゆき、夜明けと共に私たちは変わり果てた神戸市内を見ることになった。
 幸いにして私の実家は何事もなかったが、紙一重、断層一つの差と言うべきだろうか、同じ地域でも家具や食器、電化製品が傷付いたり、家屋に被害があったり、様々であった。
 震災からしばらく経ったある日、用があって伊丹空港から空路を利用することになったのだが、離陸してすぐ眼下にブルーシートでおおわれた家屋が目に入った。本来ならば種々な色であるはずの家屋の屋根が不自然な「青色」で統一され、延々と続く光景を見た時、改めて震災の被害を思い知らされた。
 同じことは二度と起きて欲しくない、そう願っていたのだが、昨年は新潟県中越地震があり、多くの人が仮設住宅で新年を迎えることとなってしまった。またインドネシア沖地震とそれに伴う津波で日に日に増える死者、行方不明者の報道には目をそむけることも出来ず、何も出来ない自分を改めて感じています。
 阪神淡路大震災があった一九九五年、沖縄県では少女暴行事件という人災が起きている。そして二〇〇四年、沖縄県では名護市東海岸で行われつつある事柄を人災と解釈するか否かは立場によって変わると思いますが、相次いだ台風や地震をみて一九九五年と重ねてしまうのは私だけでしょうか。これは単なる偶然でしょうか?
 いずれにしてもこれ以上、天災も人災も起きないで欲しい。十年後、「二〇〇五年はよい年でしたね」と言えるような、そう言う年になりますよう祈念してやみません。これは私一人だけではなく、万人の願いだと思います。



2005年01月17日

 随分と前にも似たようなことを書いたような気もするが、人の顔とか名前とかを覚えるのが苦手だ。高校を卒業するまでは毎年4月、新しい学級になる都度、同級生の顔と名札を見比べる日々が2週間ぐらいは続いていた。新年度早々に校外で同級生とすれ違っても気が付かないという状況である。実際にはそう言うことはなかった。大抵は先方が先に声を掛けてくるし、当方は元々ぼんやり屋さんである。
「気ぃ付かへんかったわ」
 この一言で誤魔化せていた。しかし、時にはこれが全く通用しないことがある。
 2年半ぶりに会った女子大生、真後ろから「こんにちは。お久しぶりです」と言われ、おいらは「……」の状態であった。この2年半、「Mさん、元気かねぇ」と気にしていたそのMさんを目の前にして「……」である。名前を聞いて初めて気が付いた次第である。おいらの記憶にあるMさんの面影は一体何だったのだろうか?
 実を言うと四年半ぐらい前にも同様の失敗をしてある女性に失礼をしたことのあるおいらである。
 穴があったら入りたい。



2005年01月16日

 その船を知ったのは確か小学生の頃、どういう訳かアニメとなり、放映されていた。今になって考えれば簡単なこと、映画でもその船が脇役として取り上げられていたからそれに乗ったと言えばそれまでなのだが、当時もそして今も船が主人公のアニメというのは無いであろう。
 確かにその船を取り巻く人間はたくさん出演していたが、造船所の工員だったり、船員だったり、多くは後世にその名が伝わらなかった人達である。戦時中は海軍に徴用され、米軍潜水艦から放たれた魚雷をその鈍足故にかわし、戦後は灯台補給船として「喜びも悲しみも幾年月」という映画にちょこっとだけ顔をのぞかせ、奄美諸島が本土復帰する前夜、当時の9億円という金額を闇夜に紛れて輸送し、さらにさらに戦後復興のただ中、日本人の夢を乗せて南極まで行くことになった。南極へ行くこと6度、その都度改装を加えられ、建造当初とは随分外見も変わり、知らない人が見たら同じ船と気付くかどうか、疑わしいところでもある。
 しかし、総トン数2,700トン少々で南極まで行ったんです。僕なら最初の数分で大酔いです。
 その船の名は「宗谷」と言います。今、東京都お台場にある船の科学館でスクリューも外し、のんびりとしています。
 建造が始まったのは1936年、初めて南極を目指して東京都の晴海ふ頭を出港したのが1956年11月8日、来年は「宗谷」にとって1つ節目の年になります。



2005年01月16日 おいしくない話

 以前、この欄にも書いたような気がします。我が家の近所にクッチーナ・コン・アモーレというイタリア料理系の店があると言うことを。
 そのお店が今日で閉店となりました。利用することわずか一年余り、店舗自体は長らくその場所にあったのだが私が利用したのはわずかに一年と少々である。勿体ない話である。もうあのなめらかなプリンを味わうことも出来ないし、一度も利用しなかったレストランもしないままで終わってしまった。
 もの凄く損をした気分である。
 その建物には今後、ビデオ屋さんが入るそうである。おそらくレンタルビデオと言うことだろうが、必要なのだろうか、あの場所に。



2005年01月15日 おいしい話

 昔と言っても二十代前半の頃だったろうか、僕はモスバーガーが嫌いだった。一つには注文してから待たされたこと、もう一つはライスバーガーが信じられなかったこと、この二つである。ファストフードであるから待たさないのが普通、作り置きしていて当然と信じていたし、それが業界の常識だと考えていたから待たされるのは嫌だった。
 それがいつの頃だろうか、ファストフードの作り置きが問題になり、その一方でモスバーガーが注文を聞いてから調理をすると言うことを知り、贔屓するようになった。もう一つ、創立者がわざわざアメリカまで行って修行した、その話も加わった。それ以来、私の中ではファストフード、もしくはハンバーガーと言えばモスバーガーを指すようになった。
 さて、インターネットは便利であるが、一年ほど前であろうか、試しにモスバーガーのホームページを探し、暢気に眺めていたら一号店が東京にあると知った。
「是非、行こう」
 そう思って一年余りが経ち、ようやくたどり着いたのが板橋区成増の駅前である。しかも世田谷区に住む親友があの大雨の中を同行してくれた。付加すればカメラを持って行きながら一号店の写真を一枚も撮らなかった。なんて情けない話だ。
 久しぶりの東京旅行、その初日、馬鹿みたいな日程はこうして終わった。



2005年01月10日

 数年ぶりに映画館へ行き、そして映画を観た。
 まず一月三日、駅前にある映画館で「POLAR EXPRESS」でも観ようと思い、十時前に映画館へ行ったが、すでに上映を終えていた。そこまで売れていない映画だったのか、それともテーマがクリスマスであったから年を越したら季節外れになるのだろうか。後で調べたら同じ市内でも駅から少し離れた場所の映画館でまだ上映されていたから二日後に改めて観に行くことにした。
 三日の日、興行収入第一位を言われている「ハウルの動く城」を観ることにした。思えば宮崎駿のアニメは「もののけ姫」以来である。
 しかし、内容が難しいね。確かに老人問題を扱っているという点はわかりましたが、それだけではないだろう。何か表面に見えない裏のテーマみたいな物があると感じましたが、まだそれを見つけ切れては居無い。
 妙に印象深かったのは戦争の場面である。現実味というのか、何か観ていて嫌だった。それだけ現実らしい映像、そう言ってしまえばそれまでだが、最近は血生臭い話しか聞いていないし、テレビとか見ていてもそう言う映像しか出てこない。それがまぶたの裏側、否、眼球とか脳裏で重なったのかもしれない。
 沖縄で反戦運動とか、そう言うものに関わる前は戦争映画とか結構見ていたし、好きだったし、やっぱり男の子だったのかもしれない。それは多分、この先も変わらないと思うが、「ハウルの動く城」の戦争場面で湧いたような感想を今後、他の戦争映画で抱くことはないと思う。根拠は何もないのだが、そう思う。
 映画が終わり、舘内にある売店でパンフレットを買おうとして何気無く周囲の棚とか見ていたら「防衛白書」のコンパクト版が並んでいた。並映していた「ゴジラ」のパンフレットと並べられていたからその余波なのだろう。一般書店で購入できるのか否か、そこまでわからなかったが、折角の機会である。購入して今後の参考資料とさせて頂くことにした。インドネシアの復興支援、頑張れぇ、って!!
 ふざけている場合ではないのだが、映画「ゴジラ」を通じて徐々に自衛隊が国民に身近になっていくのかもしれない。
 一月五日、ようやく「POLAR EXPRESS」を観ることが出来た。Motion Captureの発展型であるPerformance Captureを用いて初めて制作された映画、しかも二年がかりの映画、人間が演じるか、最初からアニメにしろよ、そう言いたくなるところかもしれないが、この妙に曖昧な一線が案外、これからの主流になるかもしれない。
 例えば六十代の私と二十代の私が共演し、三十代や四十代の私が観客席に座っている。考えたら少々気持ち悪い場面だが、それも一笑である。
 サンタクロースを信じるか否か、これはなかなか難しいテーマだと思う。サンタクロースが居たらお願いしたいね、被災地に毛布と食料、それから世界中の紛争地に平和を…
 途方も無さすぎて難しいかな。
 しかし、トム・ハンクスという俳優さんは偉いね。こういう作品の映画化権を買い、こういう手法で映画化するんだからどこか他の俳優と感覚が違うのであろう。「フォレスト・ガンプ」以来、上昇していく一方の俳優さんではないだろうか。
 二つの映画共にこの冬一番の興行収入とか何とか、そう聞いていたのだが、朝十時からの「ハウルの動く城」も「POLAR EXPRESS」も客席は空いていた。大体、「POLAR EXPRESS」なんか一日二回しか上映しないし、一本目は朝八時半から、誰が見んねや。冬休みの子供達はその時間、まだ寝とるで。



2005年01月07日

 新しい年になりました。
 皆さんは昨年1年間、いかがでしたでしょうか?
 ご存じのように年末の慌ただしい中、インドネシアでは地震とそれに伴う津波が発生し、史上最悪の犠牲者数となりました。世界各国の首脳が集まり、迅速かつ適切な支援を行おうと努力していますが、その一方で交通路が遮断され、思うように進んでいないと言うのが現状のようです。これだけ文明が発達し、種々の機械が有りながら多くの人を救えないというのが現実です。
 私個人は昨年末を以て2年と1か月勤めたアルバイトを辞め、今は失業中です。もう少し良い表現をすれば休職中もしくは求職中の状態です。同音異義語が面白いと言って遊んでいる場合ではありません。今の時代、次の仕事を探すのはなかなか大変ですが、探さないといけません。どなたか私に仕事を恵んで下さい。あぁ、情けない。
 昨年1年を表す漢字1字として「災」が選ばれました。確かに天災の多い年でした。先に記させて頂きましたインドネシアの地震と津波もそうですが、新潟県での中越地震もそうですし、何よりも台風の上陸が多かった年でした。堤防が決壊して浸水したり、暴風雨で果実や野菜の農家が泣くことになったりしています。せめて今年は台風に休んで欲しい、そう思います。
 しかし、その一方で台風に救われた、そう思う1年でもありました。
 沖縄県名護市の東海岸沖合で今、無謀な計画が行われようとしています。実際には既に珊瑚礁を破壊しつつ、事前調査が始まっています。人間の手では止めようのないこの事前調査を皮肉にも天災、台風が止めてくれるという状況が続きました。私個人としては「台風様々」と言ったところでしょうか。
 今年は台風に頼らず、人の力で種々の無謀な計画を阻止して行かなくてはいけません。
 人災と言えば自衛隊の海外派遣が昨年、政府の意向だけで延長されました。人道支援と言われれば仕方がない、その一言で片付けられるかもしれません。しかし、派遣先は放射性物質が粉塵に混じり、その国の人々も白血病や先天性障害に苦しんでいると聞きます。数年後、派遣から帰還した自衛隊員やその家族が悲しみへ突き落とされた時、誰がどの様な形で謝罪し、償うのでしょうか?
 奇しくも阪神淡路大震災から10年となります。今年は天災も人災もない、そう言う1年であって欲しいと願ってやみません。
 2005年1月7日 吉田浩



2005年01月02日

 紅白歌合戦の視聴率がまた下がったそうな。もう紅白の時代も終わったと思う。
 1つにはアイドルの定義が崩れたことにあると思う。私らが十代の頃と言えば男女合わせて20人ぐらいの顔と名前を覚えていれば取り敢えず何とかなったように思うのだが、今はモーニング娘。だけでも10人を超えているし、ようやく名前と顔が一致したと思ったらそのアイドルが消えていたりしている。入れ替わりの激しさも早いように感じる。視聴者の側にしてみれば馴染みのない人間が出てきて歌われても面白くもないのだろう。
 チャンネル自体が増えていること、いわゆる選択肢が増えていることも原因だろう。衛星放送やハイビジョンもそうだし、レンタルビデオやケーブルテレビもある。紅白を見て正月明けにその話題を無理にする必要もなくなった。
 いわゆる歌手の皆さんも紅白に出ることが一年の締めくくりであったり、自分の存在感を世に示す道具とする必要もなくなった。年越しライブで自分のファンにだけ笑顔を振りまけばよいわけだし、紅白に出たから立派という概念は失われつつある。それを制作者側は会長も含めて理解していないのではないだろうか?
 単に人気投票だけで選抜された歌手が出演している、逆に言えば視聴率を稼げそうな歌手が出ている、それは実力とは乖離した世界である。天下の公共放送が視聴率だけを頼りにして番組を制作しているという情けない話である。私たちの受信料は一体何のために払っているのだろうか?
 個人的には紅白が派手になっていく一方だし、それが面白くなくなったのは気配りで有名なアナウンサーが総合司会を務めた頃である。彼が必死になって白組歌手と同じ衣装をまとい、客席の笑いを得ようとしていたのが、私には理解できなかった。その辺で紅白歌合戦の雰囲気は狂い始めたように考えている。
 昨今、受信料の未払いが増えているというならばこそ、派手な紅白を捨てて原点に戻り、余分な贅肉を捨てて単純な年越しコンサートに戻せばよいのではないだろうか。それかいっそのこと、辞めてしまうかである。大体、双方向で参加して欲しいと言うが、一般の我々にその設備投資がどれだけの負担か、考えた人は制作者の中に1人でもいるのだろうか。残念だが居無いだろうな。
 同じ放送局であっても素敵なドキュメンタリーとかドラマとか、一生懸命制作している人たちがいる、それを無視している一握りの人たちがいる。



2004年12月31日 雀のピーチクパーチク

ピーチク「なんや、最後の最後で、雪降ったなぁ」
パーチク「ちょっと、ちょっと。待ちなはれや。夏毛ですがな」
ピーチク「夏毛って、きみ、犬や猫とちゃうねんから、夏毛って言いなや」
パーチク「ほな、なんて言いますねん」
ピーチク「そこはやっぱり、羽毛やねんから、夏羽毛、冬羽毛言わな、あかんやろ」
パーチク「羽毛でっか。なんや、布団の宣伝みたいやな。そんなんよろしいわ」
ピーチク「よろしいことあらへん。これが大事なことなんや」
パーチク「それよりも、はよ着替えなはれや。風邪ひきまっせ」
ピーチク「それもそうなんやけど、冬毛持ってくるん、忘れた」
パーチク「言うてる先からこれや。今、羽毛言うてはったんちゃいますん」
ピーチク「あぁ、寒いなぁ」
パーチク「冬羽毛、貸したげますさかい、着て下さい」
ピーチク「悪いなぁ。お、なんや、ごっつうキツいなぁ。これ、きみの子供時分のやつちゃうか」
パーチク「ちゃいまんがな。夏毛の上から着てまんがな。先、夏毛脱ぎなはれ」
ピーチク「脱いだら、きみ、鳥肌やで。寒いがな」
パーチク「当たり前、鳥が鳥肌やなかったら、どないなりまんねん」
ピーチク「ようやく落ち着いた。ところできみ、今年1年、どないやった」
パーチク「どないって、色々と悪い年でしたなぁ」
ピーチク「そうかぁ、わしの知らんところで、色々とあったんやな」
パーチク「ちゃいまんがな。南の方で津波もありましたやろ。世間的な話をしてますねん」
ピーチク「あぁ、世間的な話か。大変やったなぁ、今年は。印象に残るのは、なんや」
パーチク「どれもこれも、印象に残ってますな」
ピーチク「特に印象深いのを、1つあげるとしたら、どれや」
パーチク「ピーチクさんと、会ったことかな」
ピーチク「それ、個人的なことや。今、世間的なこと、話してたんちゃうん」
パーチク「似たようなもんですがな」
ピーチク「似てへんって。まぁ、今年は色々あり過ぎて、1個に絞ろうなんて、難しいなぁ」
パーチク「そうでっしゃろ。ピーチクさんはどないです」
ピーチク「そうやなぁ。猟師に撃たれそうになったことかなぁ」
パーチク「惜しいぃ」
ピーチク「何やて。今、なんて言うた」
パーチク「なんも、言うてまへん」
ピーチク「そうか、なんや、余計なこと、聞こえたけどな」
パーチク「気のせいでんがな」
ピーチク「ともかく、来年もよろしくな」
パーチク「もう、紅白も終わってますで」



2004年12月12日

 十二月になり、各地ではクリスマスの飾り付けが話題に上り始めた。私が住む大阪府下の住宅街でも各家庭の電飾を見て歩き、勝手な批評を下すのが一つの楽しみになってきた。おそらく沖縄でも同様にクリスマスの電飾が各家庭を彩っていることだろう。しかし、残念ながら今年は素直に楽しむことができない。それは「省エネ」という言葉を思い出してしまったからである。かつて「省エネ」という言葉が定着し、私達はその言葉を実践するために無駄な電気を探し、消して歩いたのだが、それが今では遠い昔の話になってしまっている。今、私達は多くの電化製品に囲まれて生活をしており、その内の一つでも欠けたならば生活に支障をきたす事だろう。今年は中東情勢の悪化もあり、少々ガソリン代も上がったが、「便乗値上げ」というだけで終わってしまった。限りある資源のためにももう一度、「省エネ」という言葉を思い出す良い時期ではないでしょうか。


2004年12月11日 雑感 親知らず

 確か1999年6月だったと思う。何となく親知らずが気になったので近所の歯科へ足を運び、親知らずを抜いてほしいと頼んでみた。レントゲンを撮影した後、歯医者さんは言った。
「親知らずの根本に、太い血管と、神経があります。ちゃんとした施設のある歯科へ行って下さい」
 なんじゃ、そりゃ。
 当時、名護市に住んでいたのだが、どこに施設のある歯科があるのか、さっぱりわからなかったので結局、大阪の実家へ戻り、以前世話になった大学歯学部附属病院の口腔外科へ足を運んだ。
 その日の内に下の親知らずを一本、抜いて頂いたのは良かったのだが、傷口を縫合し、翌日来て欲しいという。それまでは良かった。帰宅途中、我が家まであと少しという所で麻酔が切れ、痛いの何のって、泣きそうな思い、まさしくその状態だった。
 食事も思うようにいかなかった。痺れのようなものがあり、牛乳と素麺だけという日が二、三日続いた。
 翌日、診察を受けて異常が無いのを確認しただけで終わり、一週間後に抜糸、さらに一週間経ってから抜歯、翌日に傷口を確認、一週間後に抜糸と同じことを繰り返した。結局、一本の抜歯に一週間を費やしていたわけである。二度目の時は帰宅途中の適当な場所で鎮痛剤を飲み、泣きそうな思いはしなかったが、やっぱり食事は思うようにいかず、牛乳と素麺のみという二、三日が続いた。
 さて、今年である。10月末か11月初旬に残していた上の親知らずが疼き始めた。しかも後ろから前歯を押すような、これまでにない大きな痛みを伴っていた。このまま放置しておくと前歯の歯並びが悪くなるような、それ以前に差し歯全てが崩されるような、そういう不安も重なったが、あいにくにしてこういう時に限って時間がとれなかった。
 ようやく時間ができたのは今月4日だった。
 兎に角、1999年6月の記憶が鮮明に残っていたからまず口腔外科を併設している歯科を探し、駅前の一件へ飛び込んでみた。結果、1999年6月の悪夢が嘘のようにあっさりと親知らずは抜かれた。
 鎮痛剤は二日ほど飲んでいたが、普通に食事はできたし、今日は残る一本もまたあっさりと抜歯、正直なところ「あれっ?」て感じである。
 太い血管や神経はどこへ行ったのだろうか?
 今は食欲の秋みたいに食べることが嬉しくて仕方がない。ちょっと食べすぎである。しかし、歯が痛いと本当に味を感じなくなるし、食べてても落ち着かない。
 ちなみに今回、歯石が溜まっている点を指摘され、年内に処置してもらうことになった。名護に住んでいた頃は時間もあったし、年に一回以上は歯科へ行き、異常の有無を確かめてもらっていたのだが、この二年ほどは歯科へ一度も行っていない。
 これからは無理をしてでも歯科へは行くべきだろう、そういう教訓を得た今回である。



2004年10月17日

 今年の五月、私の投稿が論壇に採用されたが、その中で私はインターネットの御陰で名護市辺野古の現状を知る事が出来る、確かそう書いたと記憶している。だが、新聞社や個人、各団体のホームページ等を見ていても今一つ満足できないでいる。それは何故かと言えば運動の中心であるはずの「命を守る会」や名護市内の政党や労組、市民団体を統轄しているはずの「ヘリ基地反対協議会」による公式な情報発信が行われていないからである。
 一九九七年一月に「命を守る会」が結成されて以降、そこには数多くの人が訪れ、その数だけの名刺が残されているはずである。また来訪者名簿もあるだろうし、最近の名刺にはEメールアドレスが印刷されている物も少なくはない。それに「命を守る会」自身にもホームページがあり、Eメールアドレスがある。例えば週に一回、それが無理ならせめて十日に一度でもEメールを用いて公式な情報発信を行う事が出来ないのであろうか。確かに「命を守る会」は地元のおじぃ、おばぁの集まりであり、今からパソコンを学んで欲しいというわけではない。だが、反対協という枠で考えればパソコンが扱え、文章を書け、Eメールで発信できる人間が皆無と言う事ではないだろう。決定的に情報が不足している本土の私達に何故、反対協は何もしてくれないのだろうか。かつて反対協にも事務所があり、専従事務員が居て「命を守る会」同様に多くの来訪者があり、ホームページを持ち、そして年に数回、広報誌を発行していた事は遠い過去の話になってしまったのだろうか。事務所を閉じてしまった時、来訪者名簿等の貴重な資料をどこへ片付けてしまったのだろうか。今こそ全ての来訪者名簿を活用して関心が薄れつつある本土へ全力で訴える時ではないだろうか。月に一度、葉書一枚でも構わない、何かしらの情報発信をして欲しい。私達が自力で情報を収集し、それを周囲に改めて発信するには自ずと限界が生じてしまう事を理解して欲しい。
 そしてもう一点、かつて阿波根昌鴻さんは伊江島の状況を島外の人が誰も知らない、そう言う現実に接した時に乞食行進をして訴え続けたという。反対協の代表や役員にも積極的に本土へ来て直接、訴えていって欲しい。
 反対協の人達は今、何をどの様に考えているのだろうか。本土の私達が無関心である事に立腹しているのだろうか。それとも現地に集う人達だけでどうにか切り抜けていくつもりなのだろうか。しかし、この普天間代替の問題は最近の米軍再編問題でも分かるように単に沖縄県だけの問題ではなく、日本人全体が関心を持たなくてはいけない事である。それにも関わらず、本土のマスコミ各社はどうにか断片を伝えるだけである。八月十三日のヘリ墜落で新たに在沖米軍に関心を持った人達もいる事だろう、反対協の代表、役員諸氏には面倒かもしれないが、本土の私達にも訴える方法を検討して頂きたい。



2004年09月20日

 二〇〇一年二月、私は米軍機の低空飛行を見つけ、それが一日に複数回に及んでいることを確認した上で当時、出入りをしていたヘリ基地反対協の役員に伝えたのだが、相手にして頂けなかった。その役員は空を見上げる事もせず、まるで私が勘違いを起こしているような、そう言うあしらい方であった。私は自分の見た物が米軍機であるという確信はあったし、爆音ではないが、航空機特有のエンジン音が耳障りでもあったから幾度か訴えたのだが、全て無視されてしまった。また新聞社へも投稿したのだが、こちらも採用されなかった。この低空飛行が私の勘違いでないと立証されたのは四月、名護市議会議員の一人が市民から通報されて初めて世に出たのである。仮にこの市議がその市民からの通報を無視していたらどうなっていただろうか。また二月の時点で私の訴えを反対協の役員が真剣に受け止め、観測し、米軍への抗議行動へ結び付けていたらどうなっていただろうか。これ以後、私杯までも反対協の役員に対して不信感を持っている。
 最近、私の訴えがなぜ無視されたのか、これを考えてみた。
 沖縄県では県庁の真上でも米軍機は悠然と飛行をしている。名護市街地上空だけのことではないし、今に始まったことではないから無視されたのだろうか。
 反対協は辺野古沖に普天間代替施設が出来れば間違いなく名護市上空でも宜野湾市同様に米軍機の低空飛行が行われ、私達の生活に悪影響を及ぼすと主張していた。
 おそらく二〇〇一年春の名護市街地上空における米軍機の低空飛行に関しては私以外にも気付いていた人はいたはずだが、残念ながら反対協の役員には見えず、聞こえなかった。反対協が「気付かない」以上、低空飛行はあり得ないことになった。
 しかし、反対協の役員を始め多くの人が米軍機の低空飛行に気付かなかったのはある意味、仕方がないのかも知れない。空調を効かし、閉め切った愛車、職場、家庭に一日中閉じこもっていたら航空機の出す音に気付くことは難しいだろう。私は当時、移動の手段が二輪車であったからこそ視界の確保と生活騒音と違う音を聞くことができたという解釈もできる。だが、爆音ではないにしても航空機特有のエンジン音を聞き分けることができなかったとすれば仮に普天間代替施設が完成した際、どの様にして運動を展開していくつもりだったのであろうか。すでに反対協役員の聴覚が米軍機に慣らされてしまったのだろうか。それとも爆音でなければ許されたのであろうか。今もって私には理解できない。
 二〇〇一年十月から一年間、辺野古沖で行われる海兵隊の演習を観測できる立場にあり、実際、幾度となく水陸両用車を用いた演習をみてきた。反対協の役員から「演習が有れば知らせてほしい」と言われたが、反対協への不信感もあって一度も知らせなかった。無論、反対協から私に対する抗議もなく、翌日の朝刊に載ったとしても問い合わせは一件もなかった。
 今、名護市街地上空で米軍機が低空飛行をしているのかどうか、大阪府に住む私にはわからないが、せめて反対協の役員には音を聞き分けて欲しかったし、自分の目で確かめる心の余裕を持って欲しかった。



2004年09月15日

 私は入社して3か月の女子社員、だけどこの会社、私に仕事と言えばお茶汲みとか、コピーとか、簡単な資料づくりとか、そんな事ばっかり。これでも大学卒業しているし、男女雇用機会均等法とか何とか、そう言う法律だって有るじゃない。私の同期の男子なんか、皆、営業とか経理とか、そろそろ責任有る仕事を任されているのに、何で私だけコピー、コピー、コピーなの。
 あ、向こうから来るのは部長じゃない。愚痴ってやろうかしら。
「あ。きみ、きみ」
 部長、何でしょうか?
「バルセロナオリンピックのマスコット、何と言ったかね」
 え、えぇっと、何でしったっけ。あ、思い出しました。コビー。コビーですよ、部長。
「あ、どうも有り難う。仕事中、悪かったね」
 いいえ。コビー、コビー、コビー。コビー、コビー、コビー。コビー、コビー、コビー。コビー、コビー、コビー。コビー、コビー、コビー。



2004年09月09日 沖繩タイムス 台風18号上陸これは偶然か

 辺野古漁港の一角には龍神様が祭られている。私自身は信心深くないので龍神様を参拝する事はほとんどなかったが、時々、中南部からこの龍神様を参拝に来たと言う人達の話を聞く機会に恵まれた。今となっては話の内容を全く覚えていないが、ただ一点、辺野古漁港の龍神様は沖縄でも重要な位置を占めている存在だと教えられたように思う。確かに静かなリーフ内ならば龍神様でなくても腰を落ち着け、ゆったりとした時間を過ごしたくなるだろう。
 ごく一握りの人間が今、そのゆったりとした空間を破壊しようとしている。私達人間は既に龍神様の逆鱗に触れてしまったのであろうか。それとも最後の曲がり角を曲がろうとしている所なのだろうか。今年は台風の当たり年である。奇しくも九月五日、台風十八号は名護市東海岸へ上陸をした。これを偶然というか、それとも神意と解釈するか、考えなくてはいけない事だろう。



2004年08月15日 美味しい話 2

 沖縄県名護市に住んでいた頃のことである。大阪人としてはお好み焼きやたこ焼きが恋しくなる時がある。いわゆるお祭りなんかでたこ焼きの方は解決するのだが、お好み焼となると少々難が出てくる。屋台のお好み焼となるとどうしても廉価版になってしまう。それはそれで悪くないのだが、「本格的な物が食べたい」と言う贅沢な悩みに取り付かれてしまう。名護市で5年ぐらい暮らしたある日、今となってはラジオだったのか雑誌だったのか、情報源は定かではないが、兎に角、美味しいお好み焼き屋さんがあるという情報を得、早速現場へと走っていた。原動機付自転車で名護市からわざわざ北谷町美浜の繁華街まで1枚のお好み焼を求めて出掛けたわけである。今から思えば馬鹿馬鹿しい限りなのだが、多分、ホームシックに似た何かだったのかもしれない。
 そのお好み焼き屋さん、「お志乃」という店名で道路の反対側に美浜の7PREXが見える2階である。
 今年5月に沖縄へ行った際、琉球料理は1回も食べず、何故かこの「お志乃」で夕食を食べていた。店員さんも顔を覚えていてくれたのはすごく嬉しかった。
 しかし、大阪人が沖縄でお好み焼きを食べるなんてそんな馬鹿なことをする奴が他にいるんだろうか?
 大阪でお好み焼と言えば商店街の片隅でおばちゃんがぺったん、ぺったんと焼いているという感じである。わざわざ格式張った店を構えていると言うことはないし、全国規模で展開している店なんてまず入りはしない。
 今度いつ沖縄へ行けるのか、それは全く分からないが、その時にはまた「お志乃」に入って美味しいお好み焼きで舌鼓を打ちたい物である。
 お志乃、万歳!!



2004年08月15日 美味しい話

 昨年11月のある夜のことである。自宅近くにある「クッチーナ コン・アモーレ」という店に入ってみた。数年前に「菊一堂」という店名でオープンして以来、幾度か名前が変わったが、全く関心を持てず、いつも素通りしていたのだが、仕事帰りに単車出前を通った時、店内のショーケースに入ったケーキと目が合ってしまった。実際にはケーキに目鼻があるわけで無し、「目が合う」と言う表現がおかしいと重々承知しているが、兎に角、店内のショーケースに入れられたショートケーキに呼ばれているような気がした。それで店内に入り、ショートケーキを購入、帰宅して食べてみたら好みの味、あっさりとした生クリームに入れ込んだ次第である。
 本来「コン・アモーレ」はレストランなのだが、そちらの方はまだ利用していない。きっと美味しい食事が運ばれてくることだろう。
 何よりもお勧めはちょっと変わった舌触りのプリンである。



2004年08月14日 沖繩タイムス 琉球が倭寇の拠点に疑問が

 中学、高校の頃、歴史の副読本として配布された資料集には琉球が倭寇の拠点と記されていた。当時は琉球史そのものに関心も無かったから疑問にすら思わなかったが、今はこれに異を唱えたくて仕方がない一人である。
 まず「尚」という苗字は中国にもあるようだが、漢和辞典によれば「尚」という字には「尊ぶ」という意味がある。同じことは「宗」という字にも言える。長崎県の対馬を約八百年にわたって支配してきた宗氏と琉球の尚氏、「宗」と「尚」は発音が似ている、同じ一字姓と言えば無理矢理も甚だしいかもしれないが、宗氏と尚氏の共通点を探していけば第一、第二尚氏の出自などが分かるのではないだろうか。また琉球や九州北部と同様、倭寇の拠点とされた瀬戸内海の水軍にも目を向けてみるべきだろう。この三者はお互いに影響を持ちつ持たれつしていたのではないだろうか。記録が残っていない以上、好き勝手な事を言えるのだが、専門家諸氏には許して頂きたい。



2004年08月13日

 国語辞典で「へのこ」を調べると「陰核」と記されている。
 このことを知ったのは2001年10月から2002年10月の間である。この頃、沖縄県名護市の東海岸にある辺野古集落で1人、事務所番をしていた私に本土から来た人が「へのこ」という言葉にはそう言う意味があると教えて去っていった。
 最近までその事を忘れていたのだが、つい先日、大阪駅前でビラ配りをしている人達を見ていて急に思い出した。
 大阪駅前で「陰核。陰核」と言いながらビラを配っていることになる。これが男性ならともかく、若い女性が「へのこ、へのこ」と連呼しながらビラを配っている風景、考えるまでもないが、恐ろしいことである。
 確かに地域や年齢によっては全く分からない単語のようである。少なくとも私は知らなかったし、1週間ほど数人に聞いてみたが、誰も知らなかった。こうなると気にしすぎる事はないのかもしれない。
 大阪駅前で「辺野古、辺野古」と言いながらビラを配ったとして一体、何人が沖縄県名護市の東海岸にある住民約1500名の集落と理解してくれるのだろうか。国民約1億3000万人の中でどれだけの人が沖縄の集落名を知っているのだろう。
「沖縄県の奇麗な海を埋め立て、新しい軍事施設が造られようとしています」
 それぐらいで抑えてビラを配った方が良いのではないだろうか。
 しかし、恐るべし同音異義語である。
 さて、沖縄県名護市辺野古の漁港の裏手になる場所には龍神様が住んでいる。
 以前から県内各地より龍神様を祭ろうと訪ねてくる人は絶えなかったが、辺野古沖に米軍基地が造られると決まってからは増えている。
 沖縄県には昔から「ユタ」と呼ばれる職業がある。『沖縄コンパクト事典』から最初の数行を抜き書きしてみると「霊的能力で託宣、卜占、病気治療などを行う民間巫者で、ムヌシリとも呼ばれる。多くは女性。以下略」となる。
 ユタ職の人が来ていたのかどうかそこまでは分からないし、わざわざ「小母さん、ユタですか」と聞ける雰囲気でもないので聞かなかったが、多分、恐らくそうだったのだろう。
 確かにU.F.O.も幽霊もまだ見たことがないし、信仰心も薄い方である。「龍神様を信じるか」と聞かれても返答のしようがない。
 戦後間もない頃に辺野古集落の人々は自ら米軍基地を誘致し、集落内に「キャンプ・シュワブ」という広大な施設が造られた。どれだけの実益があったのか分からないが、1997年頃から新たに沖合を埋め立てて新しい基地を造ることに賛成している人がいる。
 仮に沖縄、もしくは沖縄本島を男性とした場合、「辺野古」=「へのこ」を自ら抑え付ける、去勢に等しい行為をしてしまったことにならないだろうか。
 また龍を男性器に例えることが許されるなら異質な物を先端に取り付け、自由を奪うことにならないだろうか。
 いずれにしても日本政府は「辺野古」という集落の同音異義語を知っていただろうし、それを承知の上でこの場所を選んできたのではないだろうか。
 辺野古には戦時中、海軍の特殊艇基地があったし、1960年代に米軍は辺野古沖を埋め立ててキャンプ・シュワブそのものを拡張する計画を持っていた。今回の辺野古沖埋め立てもそれらの延長線上と言えばそれだけかもしれないが、それ以上の何かが含まれているような気がしてならない。
 沖縄には今でも先の「ユタ」を始め風水とかが生活の中でごく普通に利用されている。こういう物を否定する時、一体何が起こるのだろうか?



2004年07月18日 三沢基地と六ヶ所村

 高校生の頃、部活の顧問で生活指導で国語の教師で担任でもあった先生が原発問題について小論文を書かしてくれた。クラス全員、おそらく学年全員が反対と書いたと記憶している。結果、先生はお怒りになった。曰く、小論文だから批評、要するに反対と単純に書けばよいわけではないとのこと。御尤も。確かに言われてみればそうかもしれない。
 しかし、十七年ぐらい前になるこういう話を今もって覚えている自分もすごいが、だからといって六ヶ所村へ行こうと考えた自分はも一つすごいと後になって思う。
 考えたら反対運動がないか、もしくは少ない火力、水力発電所も見に行ったことがない。そういうわけで今回は三沢基地と二またを掛けることにした。
 七月十八日の十一時半に伊丹空港を離陸した機体MD-87は百四十人ぐらいしか乗らない小さな機体、那覇空港から各離島、新千歳空港から道内各地へ飛ぶようなそういう感じで一時間半、空の旅を楽しんだ。
 後ろから二、三列目の席を取ったら窓の外にはエンジンの吸気口があり、まさしく轟音の中、読書をする羽目になった。しかし、徐々に慣らされていき、最後には見知らぬ小父さんたちの何気無い会話の方が耳障りになっていた。爆音に慣らされるというのもこういう事だろうか、そう思った。
 機内は二十席ほどの空席があった。
 十七日土曜日に一坪反戦地主会北部ブロックの川野氏が来阪、一時間ほど喋るだけ喋って帰って行ったが、三沢空港には「軍」と「民」を隔てるゲートがあることを教えてくれたので三沢空港への着陸に際し、窓の外を注視していた。
 三沢空港へ着陸すると機材は逃げるようにして民間地域へと走った。嘉手納基地へ何かの間違いで着陸すればこういう感じになるのだろうか。しかし、広い。
 空港ターミナルビルは中標津空港を思い出すような、少なくとも那覇空港や伊丹空港と比べれば随分と小さなビルである。それは当然と言えば当然だが、駐機場はMD-87が三機並ぶだけのスペースしかない。三沢基地全体の一割にも満たないことだろう。
 日曜日だから演習はないだろうと考えてレンタカーを借り、六ヶ所村の核燃料再処理施設を見物に行った。六ヶ所村は三沢市の真横にあり、三沢市との境には天ヶ森射爆撃場があります。どうしてここまで危ない施設、得体の知れない施設を重ねることが出来るのか、この辺が理解に苦しみます。しかし、一つ危ない物が近隣に来れば「後は野となれ山となれ」「毒食らえば皿まで」という感じでしょうか。
 六ヶ所村の面積がどれくらいか知りませんが、この核燃料再処理施設の大きいこと、延々と続くフェンスにはあきれ果てた。これは基地?
 原燃PRセンターという有り難い施設があった。しかも無料である。私の前にいた十数名の団体さんはコンパニオンさんに掛け合い、案内をして貰っていた。三階の展望室から見る施設面積はただただ広い。風力発電用の大きな風車も見えたが、遙か遠方である。
 子供の頃から原子力発電は危険な物だと信じていたし、反対する物だと信じていたが、あふれかえっているパンフレットの類、そして館内の説明を見て思ったのだが、小学生の頃から「原発は必要不可欠だ」と教育されたら多分、何も疑わずに火力発電や水力発電を「無駄」の一言で片付ける人間が育つことだろう。
 原燃PRセンターが無料だからかどうか知らないが、周囲にある芝生には家族連れが沢山いた。道路をはさんで反対側に郷土資料館があったので入ってみた。こちらも入館料は無料だったが、来館者は誰もいなかった。職員が一人、事務所で暇そうにしていた。おそらく核燃料再処理施設の御陰で郷土資料館は入場料を徴収しなくても経営が成り立っているのだろう。だが、それにしても来館者が一人もいないというのは寂しかった。おそらく基地交付金ならぬ核燃料再処理施設から交付金みたいな物が六ヶ所村へ相当降りているのであろう。
 三沢市街地へ戻るとようやくYナンバーを見かけるようになった。
 基地正門の近くにあるホテルへ宿をとったが、正門前にある商店街はいわゆるシャッター通りである。それは名護十字路を中心とした商店街、沖縄市の空港通り、おそらく基地の御陰で一時期は賑わっていたのだろうが、沖縄でもそうであるように基地内の方が物価も安く、基地外へ出てくる米兵が減ったのであろう。もう一つの理由は郊外型大型店舗が進出した所為であろう。
 ホテルから一キロほど離れた場所にJR三沢駅がある。私の感覚からすればJR、もしくは旧国鉄、私鉄の駅を中心にして街は広がるという概念があったのだが、三沢ではそれは通用しないようだ。
 三沢駅上空をE-2C ホークアイを一機見かけたのが、唯一の米軍機だった。
 商店街はシャッター通りと書いたが、一方でその裏手にはやはり裏通りがあり、ネオンがそれ相応にきらめいていた。しかし、いわゆる外人さんの姿は少なかった。
 フェンスに内側にある背の高い建物から一晩中、探照灯が回転しつつ周囲を照らし出していた。幸いにして私の泊まった部屋はその影響を受けなかったが、暑いからと言って窓を開けていたら何十秒かに一回、音もなく青白い光が部屋の中を照らす、そういう迷惑なことが繰り返されている。見ようによっては収容所の中にいるようなそういう気にもなりそうだった。
 夜が明け、朝食を済ませてからホテルを出ようとした八時半、爆音と共に米軍の戦闘機が二機、離陸していった。
 午前中は少しドライブをして楽しんだが、もう一泊あれば下北半島を回るとか、十和田湖祭に行くとか、そういうことが出来たのに残念で仕方がなかった。
 ドライブの最中に偶然、三沢市の隣にある下田町に入り、郊外型大型店舗に出会った。観覧車まであった。中には入らなかったが、随分と広かったし、周辺市町村から客を吸い取っているのであろう。

 三沢基地の滑走路延長線上に四川目という集落がありました。あまりの爆音に絶えきれず、集落の人は皆して集団移転を行い、今は周辺の土地を防衛施設局が買い取り、立ち入り禁止の札が立っています。

 三沢基地、三沢空港の滑走路をはさんで反対側に三沢航空科学館という立派な施設がありました。入場料は五百円、普通なら千円ぐらい取りそうなそういう施設である。
 三沢市というのは国産旅客機YS-11の設計に携わった人物や太平洋横断など航空機との縁が深い街だそうです。だからといって米軍基地は不要なはずですが、なぜか存在するのが現実です。
 三沢基地と航空科学館はフェンス一枚で仕切られています。三階の展望デッキから基地が眺めることが出来るのか、そう思って昇ってみましたが、見えるのは三沢空港のターミナルビルだけでした。厚木、嘉手納、普天間もそうですが、基地というのは市民からは見えにくいように設計されています。
 三沢空港に戻り、送迎デッキから離着陸する民間機を眺めていると着陸する都度、民間と軍用を隔てるゲートが開閉しています。ゲートを閉めることにどれだけの意義があるのか、それで軍用機の事故が防げればよいのですが、大した意味を感じることは出来ませんでした。
 三沢空港は一日に東京から三便、大阪と札幌から各一便の合計五便が利用します。要するに一日十回ゲートは開閉しますが、仮に普天間代替施設が辺野古沖に完成したら同様に民間部分をゲートで仕切るようになるのだろうか。勿論、杭一本打たせないと言うことが大事だが、代替に賛成している人達は三沢での現実をどの様にとらえているのだろうか?
 自宅へ帰ってから東奥日報のホームページを見るとNLP、夜間離着陸訓練が三沢基地で計画されていたが、中止だか延期だかになっていたことを知った。実施されていたら私は取材が出来て良かったが、地域住民の立場になれば言葉がない。
 厚木基地でもそうだったが、基地の反対を訴えるような看板の類を見かけることがなかった。同じことは六ヶ所村でもそうだった。基地や核燃料再処理施設に反対している人は必ずいるはずである。単に見落としたのであろうか?

 いつもそうなんだが、今回も事前学習なし、行程表もない行き当たりばったりの旅になり、要領を得ない結果になってしまった。



2004年07月14日

 ゲジゲジの話題をもう一つ。二十歳を少し過ぎた頃、あるアルバイト先でのことである。同じ職場に女子大生が4、5人いたのだが、何の話からかゲジゲジの話になった。だが、その女子大生達にいくら話してもゲジゲジを知らないという。「ゲジゲジ眉毛とか言うし、1回ぐらい見てるはずだよ」と言い、胴体が灰色で長い脚が沢山あると言う説明をすると「百足ですか」と言う返事がくる始末、それ以上、説明をする気にもなれなかった。ゴキブリやムカデに比べると知名度が低いのであろうか。それとも我が家が山間部というか、まだ少しでも自然が残っている地域だからだろうか。いわゆる平地の住宅街になるとゲジゲジは住みにくいのだろうか。いずれにしても二十歳になってまだゲジゲジを知らないというのは如何な物だろうか。それとも全く違う名前で教えられていたらいくら私が「ゲジゲジ」と言っても通用しないが、ゲジゲジの別名など有っただろうか。


2004年07月12日

 子供の時に見た図鑑の影響だろうか、ゲジゲジという昆虫を永らく胴体は灰色だと信じていた。1か月ぐらい前だろうか、週末の夜になぜか私の部屋でゴソゴソという音と共に姿を現したのがゲジゲジだった。胴体だけでも10pはあるような大物だったが、ここまでの大物を見るのは初めてだった。幸いにしてゲジゲジは害虫ではなく益虫である。刺されたり咬まれる心配はないが、1つ間違えると顔の上を歩かれる可能性はある。それは分かっていても部屋の中、枕元でゴソゴソと歩かれるとちょっと薄気味悪い。土曜日の夜と言うこともあり、夜を徹する覚悟で眺めていたのだが、結局は睡魔に襲われ、ゲジゲジの行方を確かめるに至らなかった。だが、初めて知ったのは胴体は黒、赤い斑点のような物が幾つか並んでいるという事である。
 ちなみに漢字で書くと「蚰蜒」となるらしい。



2004年07月11日

 参院選が終わった。しかし、選挙期間中は随分と静かに感じた。職場は街外れだから街宣車が来ないし、通勤途中に駅前を通るわけではないから街頭演説に出会うこともない。良いのか悪いのか、本当に静かだった。これが市議選とか府議選だともう少し賑やかに感じ、日曜日とかは「うるさぁい。選挙なんか嫌いだ」とのたまわっていた事だろう。しかし、誰に投票をして良いのか、はっきりとわからない昨今でもある。沖縄県に住んでいた頃ははっきり言って楽だった。「この人物に入れなければいけない」という義務みたいな感覚があったし、自分の清き一票で世の中が変わるような気もしていたが、やっぱり一票は一票だったし、残念ながら世の中を変えるには至らなかった。1人で落ち込んでも仕方がないし、周囲の人間はアッケラカンとしていたからそういう物だったのかもしれない。
 しかし、浮動票というのだろうか、その時の人気投票的になっている今の選挙をどの様に解釈したらよいのだろうか。また投票率の低下も問題である。海外では有権者に罰金や何らかの罰則を与え、無理にでも投票所へ行かせている。それはそれでよい方法かもしれないが、投票用紙にいたずら書きをして帰ることも出来るわけだ。投票率が安定しても無効票が増えるだけなら罰則や罰金だけでは問題の解決にはつながらない。やはり中学や高校で国民としての権利であり、義務であり、自分の清き一票がいかに大切な物か、それをきちんと教育すべきであろう。だが、現在教壇に立っている先生と呼ばれる人達や親がそういう教育を受けていない。仮に明日から選挙教育を学校で始めたとしても家に帰り、親が選挙へ行かない人だったらどうなるのだろうか。ここは1度、国民全員に選挙と投票する権利がいかに大事か、それを伝え直す必要が生じてくる。
 難しい問題である。



2004年07月06日

 マフラーが苦手である。幸いにしてこの歳まで手編みのマフラーをプレゼントしてくれるような異性に恵まれなかったことが良かったのか悪かったのか、それは分からないが、マフラーを貰っていたら相手の前で嫌々首に巻いていなくてはならなかったのだろう。反面、首にタオルを巻くことに関しては何ら違和感を覚えない。この矛盾に最近ようやく気が付いた。要するにタオル地でマフラーを作れば問題にならない。もしくは細長いタオルを首に巻けばよいのだろう。ついでに汗も拭ける。
 しかし、何が原因でマフラーが嫌いになったのか、さっぱり分からない。ネックレスとかをぶら下げている人を見ると感心してしまう。指輪とかも苦手だし、この数年は腕時計もしていない。腕時計も昔から嫌だったのだが、時間を把握するために渋々身に付けていた。携帯電話と懐中時計の御陰で腕時計から解放され、今はホッとしている。



2004年07月02日

 教育放送のETV特集でロボットカーが扱われていた。無人でどこへでも走っていく、そういう目的で研究が進められていたが、番組の中心となっていたのは米軍の研究機関であった。研究機関が独自でロボットカーを研究したが、成功せず、その結果として民間から公募する形を採用、個人から大学、企業までが応募してきた。残念ながら試験コースをゴールまでたどり着いた車両はなく、来年か再来年の第2回大会に望みを託すことになったが、米軍は今回のイラク戦争で移動中の陸軍や海兵隊が襲撃され、犠牲が大きくなっていることに相当頭を痛めており、その事もあってロボットカーの開発と実戦投入を急いでいる。犠牲を減らしたいという気持ちはわかるが、それ以前に戦争を無くせないのだろうか。
 一方で空軍などは無人飛行機を導入、多少の改良を加えた結果、遠隔操作での攻撃、爆撃を可能とした。考えるまでもないが、これもまた恐ろしい話である。



2004年07月01日

 夜、テレビ大阪で映画「U-boat」を見る。何故かよくわからないが、昔からこの映画は好きである。戦争を肯定しているわけではないが、戦争映画の中で「U-boat」は何回見ても飽きないし、原作である小説の方も古本屋で見つけて購入、読み終えている。原作の方は兎に角、ハードカバーで読み応えのある内容だった。
 U-boatもそうだが、当時の日本海軍が誇った零戦なども現在の技術で全く同じ物を製作すればどうなるだろうか、時々そう言うことを考えてしまう。勿論、戦争には反対だが、不思議な物でいつの時代でも戦争によって技術が発展していく。零戦にしても戦艦大和にしても戦争があったからこそ存在したわけである。
 戦艦大和を現代の技術で甦らせたとしても無駄にしかならないが、零戦の1機や2機ならどうだろうか。
 当時、自分が撃墜されると言うことは一切考えず、軽量化を図り、木や布まで用いたそうだが、結果が米軍機に多々撃墜され、最後には未熟練な操縦士を導入せざるを得なかったと言われている。これに対して米軍は極力装甲の厚い機体を持った戦闘機を導入、操縦士には意地でも生きて帰るよう、パラシュートを持たせ、現場海域では飛行艇が最後の1人を確認するまで飛び交ったという。日本との違いである。
 現代の技術ならば薄くても頑丈な金属は多々あるだろうし、それこそコンピュータ制御で未熟練な操縦士でも敵機と渡り合えることだろう。
 話を戻してU-boatだが、これも現代の技術ならばわずか数人の乗員で1000メートルぐらいまでは潜れないだろうか。艦自体が小さいから隠密性にも優れているだろう。
 しかし、何よりも戦争はないに越したことはない。



2004年06月15日

 ここ数年の朝の連続ドラマを見ていて気になることがある。それは現代物が続いていると言うことである。私が子供の頃と言えば代表的な「おしん」もそうでしたが、必ずと言っていいほど、舞台は太平洋戦争をはさんでいましたし、主人公も何らかの形で戦争の悲劇を味わっていたと記憶しています。田舎への疎開はまだ良い方で家族と生き別れになったり、生家や店舗が空襲で焼かれたり、そして主人公の友人に必ず1人は特高に追われる反戦主義者がいました。大抵は戦後になっても行方知れず、主人公がその友人を懐かしみ、友人が正しかったことを身を以て感じるわけです。
 最近のドラマが気に入らないわけではありませんが、現代物と戦中物を交互に制作するとか、一工夫欲しいところです。これは朝や昼の連続ドラマに限らず、夜のドラマでも言えないでしょうか。毎年8月上旬だけ終戦特集みたいな感じでドキュメンタリーとか、ドラマとかを放映しているように感じますが、この国に戦争があったこと、広島や長崎に原爆が落とされたことをどれだけの人が意識して日々を送っているのだろうか。
 10年後か20年後には「多国籍軍に参加する自衛官の恋人とビラを配布しただけで留置所へ放り込まれた幼馴染みの間で揺れる主人公」と言う内容のドラマが制作される時代が来るかもしれません。その時、寝転がって「あぁ、懐かしい。こういう時代も有ったなぁ」とか言いながら暢気にテレビを見ていられたら良いのですが、私たちが望まない方に時代が流れていたらどうしましょうか?



2004年06月10日

 沖縄県で6番目のCOMMUNITY FMが開局した。人口わずか130万人少々の地域で6つのFMがひしめき合っているわけだ。その内1つは宮古島だから実際にはひしめき合っているという表現は似合わないかもしれない。しかし、なんだかんだ言っても6つのFMが運営できているのだから名護市で沖縄サミットが行われた際、短期間だがFM局が設けられたのをそのまま生かせなかったのか、どうしても納得が出来無い。北部12市町村だけで15万人も住んでいるし、海洋博記念公園を始めとした見所も沢山ある。遊びや食、各種イベントを含めれば1年間、毎日情報を発信し続けることは可能だろう。同じCOMMUNITY局同士で情報を交換し合うことも出来るだろう。
 今、私が住んでいる地域は人口35万人の住宅都市である。だが、この手のFM局は存在しない。確かに一般のFM局が溢れているし、情報も飽和状態かもしれない。でも、沖縄のラジオ欄を見ると羨ましい限りだ。



2004年06月09日

 5月10日以来、皇室がゴッタゴッタしている。他人の家と言ってしまえばそれまでだが、恐れ多くも我が国の代表であり、折角、民間から妃を迎えたのである。もう少し、何とかならんのかね。これが70年ぐらい前だったら宮内庁長官から職員まで「国賊!!」と言われ、バッサバッサと暗殺されていたかもしれない。しかも白昼堂々と移動中とか通勤中とか、それで皇太子や秋篠宮あたりが声明文を発表してどうにか犠牲者が5人ぐらいで収まったとか、そう言う感じだろうか。大体、「秋篠宮家に3人目を期待する」と言う発言の時点で東宮の存在を無視しているというか、この発言の裏には「東宮夫婦には、もう期待していません。おたくらの次を考えています」と声明を発表したようなものだし、少なくとも右翼の皆さんはもう少し、怒るべきだと思う。
 しかし、女性天皇が容認されて良いようにも感じるが、世間には古臭い考えを固持する人が多いらしい。
 偶然、皇室に女性が3人たて続いたのかもしれないが、一方で故意に女性が続いたのではないか、そうも思ってしまう。最近は男女の産み分けも出来ると言うし、古臭い考えを持つ人々に陛下や東宮、秋篠宮が挑戦状を叩き付けたような感じ、そう言う推理をしてみた。
 しかし、このままで行くと女子の継承が成らず、皇室は自然消滅という形になるか、それとも継承順位何十番目という人を呼び出し、無理矢理にでも即位させないと主無き皇居となるかもしれない。宮内庁の職員だって私らと同じ人間である。自分が退職した後の心配を本当にしているのだろうか。心配をしていたら何よりもまず女性の継承を真剣に考え、世論をそちらへ持って行くようにしないとギリギリになってから女性の継承を訴えてもその時、世の中が皇室撤廃論が強い時代になっていたらどうするのだろうか?



2004年06月09日

 お刺身が好きで私用のメールアドレスもそれに因んで長いアドレスになっている。それはさておき、今の時代、世界中から冷凍して空輸されてくるのが魚類である。信州の旅館に泊まっても蟹料理とか鮪や烏賊の刺身が出て来た。好きな者にとって嬉しい反面、不思議な気がした。沢蟹とか川魚の料理が強調されていないのだから良いのか悪いのか、少しだけ考えさせられた。何よりも好きな鮪の刺身、7つの海で日の丸を掲げた日本の漁船が日夜、私の胃袋を満たすために頑張っているのだが、一方で近い将来、鮪が高級魚になるほど減ってしまうという話もある。確かに缶詰にもされ、安価で並んでいるのを見ると納得してしまう。困ったと思う反面、個人ではどうしようもない話である。しかし、他の国から苦情は来ないのであろうか。仮にあったとしたら「おい、日本。鮪ばっかり釣るなよ」と言う感じだろうか。自分が生きている間だけでも鮪が安価な魚であって欲しい。しかし、よくわからないのはトロに感激する人達である。鮨関係の本を読んでいたらトロというのは戦後、牛肉などで脂身が珍重されるようになってから急に高級品として扱われるようになったらしい。それ以前は見向きもされなかったし、鮪自体も安価な魚の代表格だったようだ。世の中、変われば変わる物である。最近になってトロを食べる機会に恵まれたが、何か今一つ、良さがわからなかった。確かに柔らかいし、「とろけるような」という表現は出来るが、貧乏性なのか、普通の赤身で充分だと思った。半年に1回ぐらいなら味わってみても良いかもしれない。
 沖縄県の名護市に住んでいた頃は近所に美味しい刺身屋があり、良く通った。魚屋ではなく刺身屋という点が大阪出身の私には不思議な感じもしたが、実際、自分で煮たり焼いたり出来ないし、鮪の刺身ばっかり買っていた。他の刺身にはほとんど手を出さなかった。
 鮪のお刺身、万歳!!



2004年06月05日

 久しぶりというか、何年かぶりに大阪を越えて神戸方面へと足を伸ばした。三ノ宮で電車を降り、ポートライナーに乗り、神戸ポートアイランドを少しだけ散策してみた。結論から書けば建設中の神戸空港を見に行ったわけだ。幸いにして建設現場に近い所にビルがあり、そこの10階にある展望室から見ることは出来たが、同じ物が辺野古沖に出来るのか、そう思うと変な感じである。ポートアイランドには結構空き地があった。既存の建築物を少し動かして空き地を全て空港にしてしまえばわざわざ埋め立てる必要もないだろう、そう考えていた。神戸空港のほぼ真南に関空があり、離着陸航路が重なりそうで地図を見ていて怖くなった。飛行機というのは離陸後、急旋回も可能な乗り物であるが、高度の違いはあれども着陸航路はほぼ重なることになる。
直接事故につながらないかもしれないが、管制官は非常な苦労を強いられることになるだろう。やっぱり怖い。



2004年06月01日

 昨年六月十三日に大阪府内で老夫婦とその兄弟が鉄道への投身自殺をした。理由は闇金融に追い込まれ、その苦しみから逃れるためだった。それまで一生懸命生きてきたにも関わらず、わずかな借金のために命を失わなくてはならないとは一体、どういうことなのだろうか。以前、私が沖縄県に住んでいた頃にも消費者金融を巡る問題が多く、実際に悩んでいる人が増えているという話も聞いた。国や県が低所得者への対策を怠っているのと同時に消費者金融の高金利を放置していることも事実であろう。幸いにして私達には「被害をなくす会」など金融関係の悩みを聞き、解決の方法を指導してくれる場所がある。悩んでいる人がいれば状況が悪化する前にそう言う場所へ行き、相談をして欲しい。また身近な人で悩んでいる人がいれば迷わず教えてあげて欲しい。わずかな金銭と引き換えに命を犠牲にする人がこれ以上増えないことを祈りたい。


2004年05月30日 コンビニの話

 我が家の近所には2つのコンビニがあります。1つは「あなたのコンビニ、Family Mart」で有名なファミマ。もう1つは「7ーELEVEN、いい気分」のセブンイレブン。両方とも歩いていける範囲、休日とかは散歩の途中に寄ったりします。あとは仕事の帰りです。空腹が我慢できず,我が家まであと一歩という所でコンビニに入り、飲料を買ったり、レジの所に置いてある唐揚げとか、その手の物を購入して食べている。我が家までのあと一歩が我慢できないという情けない話である。
 最近、面白いことを発見した。1つは7-ELEVENの店員さんが地域の美化に貢献をしていると言うことである。ある日ある時、近所を歩いていたら向こうから7-ELEVENの店員数名が歩いてきた。しかも大きな護美袋を持っている。「何だろう」と思って見ていたらごみを拾って歩いていた。「偉い!!」の一言である。節分の前には太巻き寿司の広告を一軒一軒ポストに入れいていた。こういうコンビニ、他に見たことがない。もう1つ7-ELEVENで見つけたのは新商品の試食をさせてもらえることである。先日、やはり空腹の状態で近所の7-ELEVENに入ったら焼鯖寿司の試食をさせてもらった。で、空腹もあり、思っていたより美味しかったので購入して帰った。逆に言えば断れない、気が弱いと言うべきだろうか。毎週何らかの新商品が出ているような感じである。一般的な雑貨ならば形を変えると言うことは滅多にないだろうが、食品となれば安定した売れ行きを確保するためにも売れない商品はすぐに姿を消し、売れそうな商品が次から次へと姿を現す。最近笑えたのが関西限定の「たこ焼き」だった。電子レンジで温めて食べるそうだが、今の時代、何でも商品になるんだと改めて感じた。もちろん、美味しかったので買って帰ったのは気が弱い証拠である。情けない。その内にコンビニ太り、7-ELEVENになるかもしれないと最近は心配している。
 面白半分もあり、最近はよく7-ELEVENを利用するようになった。但し、自宅近所の店舗である。他の店舗で試食させて貰ったことはないし、やはり住宅街故の個性を出しているのだろうか。それとも各店舗で同様のサービスをしているのだろうか。7-ELEVENで頻繁に見かける風景の1つにネクタイを締めた社員がある。ぞろぞろと数名で店内を見て歩き、気に入らない箇所を修正していく。周辺にはファミマともう一軒、何かあった記憶があるが、「そこまでして頑張らなくてはいけないの?」と聞きたくなる。確かに目と鼻の先に古くからの商店街、そしてスーパーがある。しかし、商店街に関して言えば日曜日は休むわけだし、スーパーには営業時間がある。変な表現だが、深夜と早朝はコンビニの一人舞台となる。それでもなお営業努力をするのは一体なぜだろうか。意外と客足、もしくは売り上げは良くないのかもしれない。今から店を閉められたら結構寂しい。



2004年05月29日 会長さんのイタズラ

 ある日ある所に大きな大きな会社の会長さんが居ました。
 会長さんは高い高いビルの部屋から外を眺めていました。そこからは沢山沢山背の高いビルが眺められました。
「退屈だなぁ」
 会長さんは言いました。
「なにか、面白いことはないかなぁ」
 外を眺めながら考えました。だけど、何も思い付きませんでした。
「そうだ。重役の皆に、聴いてみよう」
 会長さんは重役10人を呼び出しました。
「皆さん。会長の私は今、退屈です。なにか、面白いことはありませんか」
 重役たちは次から次へと案を出しました。
「南米の土地を買いましょう。そこに投資をすれば、また儲かります」
「カナダの工場を買いましょう。そこで新しい機械を造りましょう」
「いえいえ。滋賀県の琵琶湖を買いましょう。近畿の水瓶を制すれば、儲かります」
「何を言う。これからは中国だよ。上海だよ。新しいビジネスを展開しましょう」
 重役10人は口々に案を出しますが、皆が皆、仕事の話ばっかりです。会長さんは面白くありません。
「違う違う。仕事の話はもういいんだ。もっともっと面白いことはないのかね」
 重役の1人が立ち上がり、ドンドンと机を叩きながら言いました。
「会長がそんなことだから、去年は赤字になったんです」
「そうだそうだ。ヨーロッパでの取引は失敗したじゃないですか」
「この10年で、子会社を3つも売り飛ばしたんですよ」
「南アジアで、環境破壊で訴えられたじゃないですか」
「それは、きみの責任だろう」
「何を言うんだ。きみこそ、赤字をもみ消そうとしたじゃないか」
「なんだと。不正取引をしたのは誰だ」
 会議室は怒号と罵声が飛び交い始めました。会長さんは重役10人をほったらかして会議室を出てしまいました。
「面白くないなぁ」
 会長さんは運転手付きの高級車に乗ってドライブへ行くことにしました。でも、車窓を眺めながら面白いことを考えていました。
「子供の頃は、良かったなぁ」
 学校が終わったら遊んでばっかり、宿題もしないで日が暮れるまで沢山沢山遊びました。中学を卒業すると一生懸命仕事をしました。会長になり、時間が出来るとまた遊ぼうと思いました。でも、何をして遊ぼうか、悩んでしまいました。
「はぁあ」
 会長さんが溜息をつくと運転手さんが聞きました。
「会長。どうしたのですか」
「面白くないんだよ。全く。なにか、楽しいことを思い付かないかね」
 会長さんは運転手さんに会議室での一件を話しました。
「それなら、こういうのはどうでしょうか」
 まだ若い運転手さんは自分のアイデアを話し出しました。
 聞き終えて会長さんは声を立てて笑いながら言いました。
「全くもって面白い。それを実行してみよう」
 数日後、会長さんから重役10人に案内状が届きました。
「なになに。会長主催の夕食会。ホテルにて開催。当日夕方4時までに集合。なお1泊後、翌朝の朝食とおみやげも着きます」
 重役10人は喜んで会場となるホテルへ行きましたが、そこは小さな街の町はずれにある小さなビジネスホテルでした。
「おやぁ、場所を間違えたかなぁ」
「だけど、地図にはこの場所だよ」
「会長、ついにおかしくなったかなぁ」
 口々に愚痴をこぼしながらホテルへ入り、ホテルのレストランへ入りました。
 予約
 レストランには他のお客さんが1人も入ってきません。
 重役10人は次から次へと出てくる美味しい料理に舌鼓を打ちました。食べきれないので困ってしまいました。
 食事も終わり、会長さんは一足先に席を立ちました。
「わしは、眠くなったから、部屋へ戻るよ。重役の皆さん、今夜はゆっくりしくれたまえ。地下のバーもお勧めじゃよ」
「バーもあるのか。諸君、行ってみようじゃないか」
 重役10人はぞろぞろと連れ立って地下のバーへ行きました。
 こぢんまりとしたバーに腰を落ち着けた重役10人は次々に注文をしました。年老いたバーテンダーは1人で注文に応じていましたが、追い着きません。
「おい、まだかね」
「それでも、客商売かね」
「ウチの会社にいたら、とっくに首だぞ」
 重役10人が次々と怒り始めました。
 年老いたバーテンダーは悲しい顔をして言いました。
「わしゃ、この道50年じゃが、お前さんらみたいな客は初めてじゃ」
 そう言い残してどこかへ行ってしまいました。
「おいっ、バーテンダー、どこへ行った。全くなっとらん」
「おいっ、誰かおらんのか」
「おつまみはまだか」
「ワインだ。上等のワインを持ってこい」
 バーのドアが開き、天井に頭が着きそうな大男が2人も入ってきました。
「お待たせしました。ご注文をお伺いいたします」
 重低音で注文を聞かれ、重役10人は急に怖くなりました。
「ワインを下さい」
 重役の1人が言うと大きな大きなグラスにワインをナミナミナミとついで出されました。1リットルはあるでしょうか。
 重役10人は酔いが覚めてしまいました。1人が時計を見ると午前零時を過ぎています。
「我々も、そろそろ、休みませんか」
 1人の重役が言うと残りの9人がうなずきました。重役10人がバーを出ようとすると若い女性20人が店に入ろうとし、重役10人は席に押し戻されてしまいました。
 若い女性20人は皆、化粧は濃いし、服装は派手だし、言葉遣いは乱暴だし、重役10人からお酒をご馳走になるだけなって帰って行きました。
「午前2時だよぉ」
「今度こそ、寝るぞぉお」
 重役10人はトボトボとバーを出てエレベーターの前に立ちました。
 本日の運転は終了いたしました
「なんてこった。エレベーターが、止まってる」
「サービスの悪い、ホテルだ。なっとらん」
 重役10人はトボトボと階段を使って5階の部屋まで歩きました。
 重役10人は1人一部屋ずつ割り当てられていました。
「さぁ、寝よう」
 浴衣に着替え、ベットに入った途端、廊下から大きな声が響いてきました。
 イーヤーサーサー、ハーイーヤーサー。
 スイッ、スイッ、スイッ。
 重役10人が各部屋から廊下をのぞくと沖縄のエイサー隊が狭い廊下一杯に広がり、エイサーを舞っていました。
「今、何時だと思ってるんだ」
「ここをどこだと思ってるんだ」
 怒鳴っても怒ってもエイサー隊には聞こえません。額から汗をにじませつつ、頑張ってエイサーを舞っています。重役10人も廊下へ引きずり出され、一緒になってエイサーを舞っていました。
 そして最後はカチャーシーです。いつの間にか、エイサー隊は1人もいません。
「一体、あれは何だったんだ」
「兎に角、あすは朝食会の後、取引先と会議なんだ」
「寝ましょう」
「午前3時を過ぎています」
 重役10人が寝ようとするとまた廊下から大音響が聞こえてきました。重役10人がまたこわごわドアを開けるとそこにはアフリカの戦士達が槍を持ち、太鼓のリズムに合わせて戦士の踊りを踊っていました。重役10人が部屋のドアを閉めようとすると無理矢理こじ開けられ、引っ張り出されて一緒に踊らされました。
 ドンドン、ドコドコ。ドンドン、ドコドコ。
「もう午前4時を回っています」
「もう、クタクタだ」
「何があっても、今度こそぐっすり眠って、起きないぞ」
「明日の会議、休んじゃお」
 ドアを閉め、眠ろうとしていたら今度は警報音が聞こえてきました。
「なんだなんだ」
「火事か」
「地震か」
 重役10人が廊下をのぞくと大きな大きな熊が一頭、走っていきました。5人の猟師さんが追い掛けていきます。
「危険ですから、部屋から出ないで下さい」
「どうして熊が」
「ここはホテルだぞ」
「近くの民家から、逃げ出したんです」
「熊が来たぁ」
 猟師さんたちは一目散に逃げていきました。
 ドン。ドン。ドン。ドン。ドン。ドン。ドン。ドン。ドン。ドン。
 各部屋のドアを熊が叩いていきます。
 どれくらいの時間が経ったでしょうか。そっと廊下をのぞくと熊はいなくなっていました。
 重役10人が今度こそホッとしていると廊下の向こうから誰かが走ってきます。
「おのれ、国賊。成敗してくれる」
 見ると新選組の羽織を着た武士が走ってきます。刀を抜き、重役10人に斬りかかってきました。
「キャー。なんでぇ」
 反対側から官軍の兵士が古めかしい鉄砲を持って新選組に応戦します。
「どうなってるんだ。このホテルは」
「もう嫌だ」
「寝かせてくれ」
 チュン、チュン。
 夜が明けました。
 朝7時、昨夜と同じレストランで会長主催の朝食会が行われました。
 会長さんは満面笑みを浮かべています。
「昨夜は賑やかだったが、何か楽しんでいたのかね」
「会長。このホテルは、一体どうなっているのですか」
「真夜中に、沖縄のエイサー隊が現れたんですよ」
「熊も出て来ました」
「新選組に襲われました」
「アフリカの戦士も来ました」
 笑っていた会長が急に立ち上がり、テーブルをドンドンドンと叩いて言いました。
「何をふざけたことを言っているのかね。そんなことだから、成績が悪くなり、赤字になったりするんだ。嘘をつくなら、もう少しましな嘘をつきたまえ」
 会長さんは怒って朝食もそこそこにレストランを出て行きました。
 会長さんは高級車に乗って先に会社へ向かいましたが、その道中、運転手さんと2人で大声で笑っていました。
「今度は、どんなイタズラをしようか」
 会長さんが運転手さんに言いました。
「そうですね。10人の重役さんに、出張所の所長にするとか、そういう通達を出してみてはどうですか」
「それは面白そうだな。もちろん、その出張所は全て、架空のものだね」
「思いっ切りおかしな、従業員を集めてみましょうよ」
 おしまい。 



2004年05月29日 漫才 そば&うどん

そば いやぁ、どうもどうも。
うどん 久しぶりでんな。
そば どないでっか。
うどん どないもこないもあるかい。ネタ切れた、そんなんで、出番無うなってたまるかい。
そば ほんまやなぁ。
うどん もそっと、怒らんかい。「ほんまやなぁ」言うだけやったら、わしでもできるわい。
そば ほな、やってみぃなぁ。
うどん ほんまじゃ、おらおら。
そば 全然ちゃうやんか。
うどん ほんまやなぁ。京都の人みたいにな、はんなりせなアカンで。
そば ほんま、や、なぁ。
うどん ぎこちないなぁ。もいっぺん、やってみぃなぁ。
そば 何でせなあかんねん。ま、ええわ。ところでな、今日、ここへ来る途中、急にトイレ探したくなってん。
うどん 探さんかて、ええやんか。トイレなんか、なんぼでもあるやん。
そば ちゃうねんて。探さなあかん、そう言う時、ないか。
うどん あ、分かった。行きたくなったんやな、トイレに。
そば そうなんや。困ったもんや。
うどん そんなん、探さんかて、ええやんか。
そば なんでや。
うどん そこらへんでしときいな。ちょろちょろっと。
そば そんなんできるか。
うどん かまへんやんか。犬なんか、しょっちゅうやっとるやんけ、電信柱とか、壁とかに。
そば わし、犬ちゃうで。
うどん 似たようなもんや。
そば 大体な、電信柱に引っかけるようなこと、ようせんわ。
うどん そらな、きみ、鈍くさいさかい、すぐに見つかって、交番に引っ張られるわな。
そば そう言う意味、ちゃうっちゅうに。表でできる方じゃないから、わざわざトイレを探したんや。
うどん ほな、何か。きみは、表でできる方やったら、表でするっちゅうんかいな。
そば 時と場合に寄るけどな。
うどん お巡りさぁん、こいつ、立ちしょんの常習犯やで!!
そば こら、相棒売る気か。
うどん と言うことは、前置きは長なったけど、今日は、立ちしょんの話やな。
そば ちゃうねんな、これが。わしな、お尻押さえながら、トイレは無いかトイレは無いか、そう思っててん。
うどん わざわざ、お尻抑えて走っとったんかいな、きみは。
そば よろしいがな、細かい描写までは。ほならな、見つけたんや。
うどん 公園の汚れきったトイレやな。紙はないし、前に誰がしたか、分からんような、蝿のたかった、茶色い渦巻き状の物が残ってたら、そらもう、気持ち悪でっせ。皆さん、ご飯時に想像してみて。
そば 余計なこと言いな。見つけましたがな。コンビニ。
うどん 最近は、何でも略しまんな。コンビニ。何の略か知ってるか、きみ。
そば Convenience Storeや。
うどん 完璧な発音やな。ほんで、きみ、何の略や。
そば そやから、Convenience Storeやろ。
うどん 奇麗な発音やなぁ。もういっぺん、どうぞ。
そば Convenience Store
うどん で、どういう意味や?
そば 知るか、そんなもん。
うどん 知ってなあかんで。Computer & Vinylの略やで。
そば うそつけ。
うどん 冗談はともかく。
そば 冗談で済むかいな。まぁ、兎に角、コンビニのトイレを借りることができまして。
うどん お尻押さえる必要が、無くなったわけやな。
そば ま、そう言うこっちゃ。そやけど便利やな、あのコンビニ言うのは。
うどん そうでも、ないやろ。
そば 失礼やな。トイレはただで貸してくれるし、カップ麺は、お湯くれるし、最近は何やで、映画のチケットとかな、電車や飛行機の切付も買えんねんで。
うどん ほな、なにか。今日の話題は、ごっつ前置き長いけど。
そば そうやがなぁ。前置き長なったけど。
うどん 電車や飛行機の切付の話やな。
そば なんでやねん。コンビニの話や。コンビニ。
うどん ほな、長なったし、帰ろか。
そば なんでや!!
うどん いつもの、培ぐらい、話してんで。
そば よろしいがな。原稿書いとる人間も、収拾着かんようなっとんねや。
うどん よう知っとんな。
そば 今さっき、会ってきたがな。
うどん なんて、言うとった。
そば 教えて欲しいか?
うどん そらぁ、もちろんやがな。
そば もう終わりって。
 どうも、ありがとうございました。



2004年05月28日 普天間かおり さん

 普天間代替施設に反対しているからではないが、随分以前から普天間かおりさんのファンだった。いつだったか、普天間さんのCD「真南風」を名護のBook Boxで見つけたのが始まりである。その時は何気無く手にし、購入したのだが、購入した理由の1つに「芭蕉布」と「ティンサグの花」が入っていた事も否めない事実である。その歌唱力も捨てがたく、何気無くファンを続けていた。実際にはファンと呼べるかどうか疑わしいのだが、今に至っている。
 1番好きな曲と言えば「14粒の愛のしずく」の2曲目「光の河」だろうか。素直な話、心が泣いた。ここまで悲しい歌詞を書けることがすごいと感じた。他の歌詞も好きだけどね。
 で、5月26日水曜日、大安だったが、運良く仕事は5時過ぎに終わり、大急ぎで心斎橋まで走った。BIG CATと言うライブハウスで普天間さんのライブがあったからだが、目の前を通り過ぎ、交番で「20メートルほど戻られた、左手のビルの4階です」と言われた時は正直、「たはは」と笑うしかなかった。
 約2時間、休憩なしでライブは行われた。ライブと名のつく物自体初めてだったから休憩がないと言うことが新鮮だったし、不思議でもあった。よく話し、そしてよく歌う普天間さん、こちらもノリノリとは言わないが、結構身体でリズムを取っていた。
 初めて「真南風」を手にした時から何年経ったか、覚えてはいないが、ようやく生で普天間さんを見れ、そして歌声を聞けて嬉しかった。あの会場だとマイクなしで声を響かせることはできたのではないか、そうも思った。また大阪へきて欲しい1人である。



2004年05月24日

 今になって思い出したのだが、5月16日に飛行機に乗ろうとして空港の身体検査の場所をくぐった時のことである。身体の検査は無事だったが、手荷物のナップサックが引っかかってしまった。中に安いカッターナイフが入っていたのだが、それが探知機で見つかったそうである。何かに必要で放り込んでいたのだが、そのままになっていた。入れた本人が忘れていたのだから担当者に改めて頂き、出て来たカッターナイフは航空会社に預かって貰い、無事に関空へ着いてから返してもらった。しかし、15日に伊丹空港から乗った時にはこのカッターナイフ、誰も気が付かなかったわけである。そして同様の人も少なくはないのであろう、搭乗客の破棄品を入れる箱がちゃんとあり、そこには類似のナイフ、ハサミ類が捨てられていた。幾度となく一緒に仕事をした間柄である。レンズ一本無くした後と言うこともあったから到着地で受け取る手続きをした。


2004年05月23日

 私の職場は大阪府茨木市南部にあります。最近のことですが、職場の上を旋回する飛行機がいました。機体の色は灰色、3回か4回は旋回していました。以前から夕方になるとどこの所属かは分かりませんが、必ず1機は飛んできたわけです。大体、16時ぐらいです。飛行機が1機、飛んでくること自体は大して気にならないのです。問題はこの灰色の機体が飛ぶ高度です。やたらと低い高度を飛んでいる。まるで目と鼻の先に空港があるかのように飛んでいる。民間機にしては低すぎるし、前々から気にはなっていた。機種はYS-11かそれに近いと思われる。だから当初、伊丹空港を目指す民間機だと信じてもいたのだが、YS-11は路線から消えて久しいし、航路と高度が不自然なんだよね。要するにこの灰色の機体は民間機ではない。垂直尾翼には会社を示す塗装もない。残ってくる可能性は自衛隊機と言うことになる。まさか米軍機じゃないだろう。何だろうね、一体。


2004年05月23日

 5月15日、16日と1泊2日で沖縄へ行った。先日購入したばかりのAV-1と100-300oズームレンズの試運転も兼ねていたのだが、情けないね、ズームレンズ無くしちゃったわけさ。
 おまけにフィルムは2本とも真っ白けの状態で何をしに沖縄まで行ったのか、分からない結果になってしまった。そこで考えた。もう1度、沖縄へ行こうって。丁度、7月に連休があるからそれを狙ったのだが、一方で3月、5月と沖縄行きが立て続いたから秋か冬にしようと思い、7月の連休は青森県三沢への1泊旅行にした。
 しかし、真っ白けである。写真屋でフィルムを見た瞬間、目の前が真っ白けになった。終わってから気が付いたんだ。恐ろしく初歩的な過ちを犯していたことに。
 遠路はるばる沖縄まで失敗をしに行ったわけだ。しかし、懐かしい人々に会えたという点では実りある旅であった。しかし、情けない結果である。



2004年05月16日

 本来ですとまず始めに三月に伊江島のわびあいの里で行われた学習会へ参加した時の感想文を書かなくてはいけないのですが、一年半ぶりの沖縄、伊江島でのんびりとしていたため、学習会の感想はありません。あしからず。

 新聞に目を通していたら普天間包囲の記事が出ていた。それが四月上旬だったろうか。その記事を見た途端、参加したくなり、旅行代理店へ行って航空券を購入していた。しかし、残念ながら十六日は最終便が取れず、夕方四時半の便となった。もう少し早くに行動を起こしていれば普天間包囲後の県民総決起大会へ出席できたのだが、これは次回としておきましょう。
 琉球新報への投稿にも書きましたが、本当に伝わってこないのが沖縄の現状である。あの投稿文を琉球新報へ送信したのが四月二十五日、読谷沖の定置網にジュゴンが迷い込む前だった。
そして五月十七日の朝刊、我が家は朝日新聞ですが、「載せてやった」と言わんばかりの記事が一面にそれ相応の大きさであったが、同じ十七日の夕刊の料理記事はこの二倍以上の扱いである。この落差は何だろうか。在沖米軍基地より料理特集の方が大事なのだろうか。ある人曰く、「一定以上の動きがないと、記事にしない」とか。
 やはり辺野古の座り込みで例えば市民団体が施設局員とか、機動隊と衝突の一つもしないといけないのだろうか。例えばボーリング調査が始まり、嘆き悲しむ住民の姿がないといけないのだろうか。
 色々と本土の大手マスコミを疑ってしまう。
 先日、気になって青森県の東奥日報という新聞社のホームページを覗いたら琉球新報や沖繩タイムスと変わらず、基地絡みの事件、事故が出ていた。

 十五日の十一時に那覇空港へ着いた私は正午の高速バスで一路、山原を目指した。宜野座I.C.で乗り換え、辺野古に着いたのは十四時前後だったと思う。
 ある程度は想像していたが、辺野古漁港へ通じる新しい道を見、そして漁協の無駄な建物を見、埋め立てられた場所を見るとこれ以上、今は書く気が起きない。
 三月へ伊江島に行った際は全体的に風景の変化を感じなかった。確かに本部新港や伊江港に新しい建物が出来、ある程度は変化を感じたのだが、それに対しての抵抗感は生じなかった。単純に「無駄なことを」という感想しか持てなかった。
 しかし、今回の辺野古では写真を撮ろうにもどの様に撮って良いのか、それすらも分からなかった。だから事務所を正面から撮った写真と座り込み、辺野古の浜の写真しか撮っていない。この一年半の間に埋め立てられた場所は一枚も撮っていない。

 夕方遅くまで辺野古にはいたが、座り込んでいたのは最初の一時間ぐらいだろうか。残りは事務所で引き継ぎのようなことをしていた。陽が落ちてから辺野古を離れ、北谷町美浜で夕食をしてから那覇市内のホテルへと入った時には二十三時を過ぎていた。
 夜も更けてから北谷町美浜界隈を歩いたことはこれまで無かったが、昼間とはまた違って独特の雰囲気であった。まず女性の露出度がひどい。何でそこまで肌をさらけ出すのか、よくわからない。単純に暑いという理由はあるかもしれないが、一方でアメリカの売春婦並という話も聞いたことがある。

 翌朝は八時にはホテルを離れ、バスに揺られて普天間へ行ってみた。普天間高校の近くから佐喜真美術館まで歩いてみた。昨年、厚木基地を約三時間かけて歩いたが、同じことをしようとは思えなかった。
 佐喜真美術館を目指して歩いてた時、一人の外人さんが僕を見て軽く会釈をした。「何でだろう」と考えてみたが、一つには首からぶら下げたカメラ、もう一つには数年前に軍払い下げ品店で買った米海軍の帽子をかぶっていたからだと気が付いた。これが逆に「NO BASE」とかだったらどの様な反応になっていたのだろうか。試してみたい反面、怖い一面もある。
 佐喜真美術館から見た普天間基地は日曜日の所為か、本当に静かだった。これは厚木もそうだったが、全国的に米軍基地は日曜日が休みらしい。美術館の屋上からしばらく普天間基地を眺めていたが、基地の中で動きらしい動きはなく、結局、見るのをやめ、書店で書籍を購入したり、佐喜真美術館の喫茶室でお茶を飲んだりしていたらあっさりと時間は経ち、普天間包囲となりました。
 幸いにして約一万六千人が参加、無事に繋がったそうですが、宜野湾市役所界隈は第一回目では繋がっていなかった。毎回、段取りが悪いんだよ。

 今回はいつもと違ってあまり書く気が起きません。申し訳ありませんが、ここいらで切ります。



2004年05月09日

 一眼レフカメラを買った。そうは言っても中古品、CANON AV-1と言う機種である。
 中学生の時、友人が多いと言うだけの理由で写真部へ籍を置いた。しかし、カメラを持っていなかったので親に無理を言い、どうにか買ってもらったのがCANON T-50である。当時としては初の自動巻き上げ式、嬉しかった反面、手動巻き上げを持っている周囲が妙に羨ましかった。それ以後、いつか手動巻き上げ式を入手しようと言う思いが片隅にあった。それから約二十年である。中古品を扱う店では当時の中学生がどうあがいても手が出せなかった高級機種CANONのF-1が給与の半月分で購入できるようになっている。ちなみにAV-1は三日分ぐらいの値段であった。カメラに限らず今、世間には中古品が溢れている。車でも新型が出れば平然と買い換える人がいる。確かに機能とかを考えれば新しいにこしたことはないが、本当にそれで良いのだろうか。リサイクルショップを見るとホッとする。



2004年05月09日

 朝日新聞を始めとするマスコミが大阪で報じる沖縄の情報と言えば海開き、八重干瀬、読谷村沖で定置網から解放されたジュゴンの話題である。勿論、そう言う話題も大事だろうが、一方で税金が最低三千億円の無駄遣いが行われようとしている事実をどれだけの人が知っているのだろうか。沖縄本島東海岸の名護市辺野古で今、埋め立てをした上で米軍基地を造ろうという動きがあり、その為に必要なボーリング調査が行われようとしている。地元の人々はこれに反対し、必死の抵抗を続けているが何故、こういう事が本土で報じられないのか、疑問を持たざるを得ない。環境破壊という点だけでも充分報道に値するし、年金問題が話題になっている今、税金の無駄遣いという理由で報じることも可能だろう。それともボーリング調査が始まるか、反対派住民が防衛施設局職員や機動隊と衝突し、負傷者の一人でも出さないと報じられないのでしょうか。それから報じられても遅いのです。辺野古とその周辺にはジュゴンの食糧となる海草が豊富にあり、今回の計画がこれ以上進めば沖縄近海に住むジュゴンの生命線を断つことになります。一人でも多くの人がこの問題に関心を持つことを願ってやみません。


2004年05月08日 雀のピーチクパーチク

ピーチク 久しぶりやなぁ。どないしとったんや。
パーチク どうもどうも。連休中でっか、家でゴロゴロしてましたがな。そちらはどないでっか。
ピーチク わしか、わしはな音楽、聞いとったんや。
パーチク 音楽ですか。また趣味のええことで。
ピーチク 知っとるやろ。毎年、連休中には高槻JAZZSTREET言う、企画有るやろ。あれ、聞きにいっとたんや。
パーチク JAZZでっか、趣味宜しいなぁ。
ピーチク それはそうとな。最近、ええ話、無いか。
パーチク おまへんなぁ。
ピーチク 話飛ぶけどな、きみ、燕に、友達居るか?
パーチク えらいまた、飛びますな。残念ですが、いまへんわ。
ピーチク そうか。実はな、わし、燕に友達居るねん。
パーチク 宜しいでんな。それで、燕に友達居るんが、どないしましてん。
ピーチク その燕な、名前がピュッルリ君言うねん。な、舌、嚙みそうやろ。
パーチク 今日は、舌を嚙むような話ですか?
ピーチク ちゃうねんな、これが。実わな、そのピュッルリ君がようやく、帰ってきたんや。
パーチク どこからです?
ピーチク どこからって、燕は、ほれ、冬になると南へ行くやろ。春になったから、大阪へ帰ってきたんや。
パーチク 寒いの、嫌いですからなぁ。燕さんは。
ピーチク ほんでな、帰ってくる途中、沖縄に寄ったそうや。
パーチク 海開きしたから、泳ぎに行ったんですね。
ピーチク 違うがな。旅疲れで、羽伸ばしに寄ったんや。ほんならな、なんやよう分からんけど、人間がようさん集まっとる所があったんやて。ほんで聞いたんや、何しとんねんって。
パーチク ピュッルリさんは、人間の言葉、分かるんですか。
ピーチク 違うがな。たまたま通りすがりのヤンバルクイナが居ったから、聞いたんや。ほんならな、人間がまた、埋め立てしよる言うさかい、反対しとるんと、そうでないのとが、いがみ合うとったそうや。
パーチク ややこしいでんなぁ、人間言うのは。
ピーチク そうやなぁ。
パーチク 埋め立て言うたら、ここらでもそないですやんか。山壊して、海潰して、結局、山の住まい追われたわてらが、野に移り、野の連中が街へ行き、街の連中が埋め立て地に行って、苦労ばっかりでんがな。
ピーチク 雑学ついでに1つ聞くけどな、この国で一番面積小さい都道府県って、知っとるか?
パーチク んー、北海道!!
ピーチク ふざけなや。分かるか?
パーチク ほな、沖縄!!
ピーチク 分かってないようやな。実はな、意外なことに、この大阪なんや。
パーチク ほんま、意外でんな。何でですねん。
ピーチク 何でって言われても、聞かれても困るけどな。兎に角、埋め立てで香川県を抜いて、どうにか下から二番目になったそうや。
パーチク それって、めでたいんでっか?
ピーチク まぁ、よう分からんけどなぁ。最後にもう一個聞いたろ。北海道の次にでかい県はどこや。知っとるか?
パーチク 調べときますわ。



2004年05月08日 私に向けられた銃口/辺野古の今、報道ない本土 琉球新報

 二〇〇二年十月までの一年間、私は名護市辺野古の漁港前にある小さな事務所で事務員をしていた。そこでは毎朝、コーヒーを飲みながら海を眺め、のんびりと新聞を読み、地元のおばぁたちとゆんたくをして一日を過ごすという緊張感とは無縁に近い日々だった。
 私がその事務所に籍を置いていた一年間、幾度か辺野古沖で米軍の演習を見ることが出来た。その都度、私はカメラを片手に浜へ走り、演習を撮影すると同時に新聞社や知人へ連絡を入れた。フェンスの向こう側で演習をしている海兵隊員たちも演習故だろうか、水陸両用装甲車に乗って歓声を挙げたり、私たちに対して手を振ったり、軍隊の演習を見ていると言うより、何かしら遊びを見ているように感じる時もあった。無論、演習が行われる都度、海が茶色く濁るのを見て現実を感じていた。
 二〇〇二年九月十一日、それはニューヨークでの同時多発テロから丁度一年目の朝、出勤した私はいつものようにフェンスの向こう側を見に行った。少し奥まった場所で車体の半分を隠した装甲車がこちらへ銃口を向け、フェンスに沿って米兵二人が警備をしている点は変わりなかったが、その内の一人が妙にフェンスの辺りを気にしていた。漁港から眺めていた私に気付き、その米兵が私に怒鳴ってきた。英語の分からない私には何を言っているのかさっぱりだったが、どうやらカメラを向けたことが気に障ったようだった。偶然居合わせた友人と共に朝から不愉快な思いした。この一件は一部マスコミによって報じられたが、翌朝には「良き隣人」の代名詞になりそうな兵士が一人でフェンス沿いを警備していた。英語を話せる人が問いかけると出身地や名前、年齢に家族構成まで丁寧に話し、自分が怒鳴られたのは一体何だったのか、怒鳴られ損だったのか、そう自問自答してしまう。しかし、沖縄県に五年半も住んでいたが、この体験がなければフェンスの向こう側に対して最後まで「良き隣人」という思いを持っていたかもしれない。そう言う意味では貴重な体験をしたことになるだろう。昨年四月にバグダッドで米軍がアルジャジーラの取材陣を攻撃した際、カメラを対戦車砲と見間違えたという理由だったと記憶しているが、もしも辺野古の浜で私の持っていた黒いカメラを米兵が拳銃と見間違えたと主張し、私に向けて発砲していたらどうなっていただろうか。これを考えたら今でも背筋に冷たいものがはしる。
 四月十九日以降、辺野古漁港周辺は騒然としているのだが、この状況を本土のマスコミは全く報じてくれない。インターネットがなければ私も知らずに過ごしているところだった。五月十六日に行われる普天間包囲行動へ参加して今、辺野古で行われている暴挙に対する反対の声を挙げようと思っています。そして辺野古を訪ね、自分の目で何が起きようとしているのか、確かめようと考えています。



2004年04月18日 雀のピーチクパーチク

パーチク どうもどうも、お久しぶりで。
ピーチク どうや、きみ。
パーチク 新聞、読んでましたわ。
ピーチク そうか。それは、ええ事や。で、なんか、ええ事書いてあったか。
パーチク なんか、イラクとか言う国で、日本人が3人、さらわれたそうでっせ。
ピーチク えらい古い話やなぁ。
パーチク 古いんでっか。おかしいなぁ。先週の新聞でっせ。
ピーチク もう、終わってるがな。解放されたんや。きみ、そしたら別に2人拉致されたん、知らんのと違うか。
パーチク 3人の他に、またさらわれたんですか?
ピーチク あかんなぁ。どんな読み方しとんねん、きみは。
パーチク 人間の新聞なんて、読んでたら、頭は痛くなるし、目も痛くなるし、隅から隅まで読んでたら、3日や4日、あっちゅう間に過ぎまっせ。
ピーチク あかんなぁ。そんな読み方しとったら、そら日ぃ足らんわ。あんな、見出しだけ読み、見出しだけ。
パーチク 見出しだけですか。そしたら字は大きいし、楽ですな。ところで別にさらわれた2人はどうなったんですか。
ピーチク その2人も解放されたわ。えらい待遇良かったらしいぞ。
パーチク それやったら、拉致とか言わんと、客人にされたとか、言い方、かえなあきまへんな。
ピーチク そしたら何か、こういう見出しが付く訳やな。「日本人3人、イラクの武装勢力の客人にされる」と言う感じか?
パーチク そうなりまへんか?
ピーチク 新聞の見出しにしたら、受けが悪いなぁ。第一、駅の売店とかで、売れへんぞ。
パーチク そこまで心配してたら、何にもなりまへんやんか。で、3人と2人は、けがとか無かったんですか。
ピーチク それもあらへんかったんや。
パーチク 良かったですなぁ。
ピーチク 問題はここからや。きみも新聞読んどったから、誹謗中傷が多かったことは知っとるやろ。
パーチク ひどかったらしいですな。
ピーチク きみは、今回の3人について、どない思てんねや。
パーチク 難しい質問でんな。まぁ、無事で良かったなぁ、と。
ピーチク ほんまに、そう思とるか?
パーチク 思ってますって。難儀やなぁ。
ピーチク きみのことやから、また、過激な意見が聞けると思たけど、無理かぁ。
パーチク 過激って、例えば、どんなんですか。
ピーチク 3人にやな、戻ってくるな、とか、そう言う罵声を浴びせるかと、そう言うのは、どうや。
パーチク 何言うても無理ですやんか。人間には、ちゅんちゅんとしか、聞こえへんのですから。
ピーチク そうやったな。



2004年04月17日

 私の住む高槻市で不幸な事故が続いた。その内二件は子供が普段遊んでいる公園で一生消えない傷を負うという内容であった。しかも一件目の事故の後、周囲の対応が早ければ二件目の事故は起こらなかったはずである。何というお粗末であろうか。今回の事故が起きてから慌ただしく全国各地で公園の遊具で点検が行われ、使用禁止となった遊具も少なくない。事故を予防するために使用禁止するのは良いが、昨日までその遊具を利用していた子供たちはどの様な感想を持つだろうか。回転ドアでの死亡事故でもそうだが、犠牲者が出て初めて問題視され、過去の事故について数字や事例が報じられ、全国規模で点検、極端に使用禁止となる。小さな事故が起きる都度、見直して改善を重ねていれば死傷者を出さずに済んだはずである。残念で仕方がない。今回の事故を教訓として今後、関係者はは小さな事故を見落とさず、一つずつ改善をしていって欲しいものである。


2004年04月11日 雀のピーチクパーチク

ピーチク ようやく、暖かくなってきたなぁ。どうや、きみ。なんか、ええ話、あるか。
パーチク おまへんなぁ。悪い話、ばっかしや。
ピーチク 何言うてんねん。春やで。そろそろきみも、相手見つけて、家作って、子育ての用意せな、あかん時期ちゃうんか。
パーチク そら一般論ですわ。自慢やないけど、今まで、春はいつも、1人で花見ばっかしですわ。
ピーチク そら、自慢にならんわ。
パーチク そちらは、どないですねん。
ピーチク わしか。わしは、若い頃は、毎年毎年、違う相手と結ばれてやな。
パーチク ほな、何ですか。この辺の若い雀、みな、そちらの子孫でっか。
ピーチク アホ言いな。
パーチク そやけど、ピーチクさんに似て、頭の上、白い雀が多いでっせ。
ピーチク そら、きみ、年食った雀やがな。難儀やなぁ。きみと話すと。
パーチク それはそうと、なんか、ええ話、おますか?
ピーチク 大したこと、ないなぁ。それはそうと、きみ、さっき、悪い話ばっかし、言うとったけど、なんかあったか。
パーチク ほれ、鳥のインフルエンザ、はやりましたでっしゃろ。いやぁ、もう、怖くて怖くて、2、3日は布団頭からかぶって寝てましたわ。
ピーチク なんや、余計、病気になりそうやな。そう言えば、この街の南の方で、不幸なことがあったな。
パーチク あ、あれですか。パラソルの先っちょが、頭に刺さった言う奴ですか。
ピーチク それもあるけどな、公園で子供が、けがしたやろ。
パーチク あ、そんなんもありましたな。そう言えば、近所の公園で、人間の奥さん連中が、目つり上げて、ブランコやすべり台、見てましたわ。
ピーチク そやろ。わしな、若い頃、例の公園で遊んだこと、あんねんで。
パーチク あんな遠いところまで飛んでましたんか。やっぱり、淀川に近いと、きれいな女性がおりますか?
ピーチク 無茶言うなぁ。わし、あの辺の産まれなんやで。
パーチク そうでしたか。長い付き合いやけど、それ、初めて聞きましたわ。
ピーチク 嘘つけ。わし、言うた覚え、あるで。そやけど、人間もアホやな。
パーチク 何でです?
ピーチク 考えてもみぃ。けが人出た途端にやな、あっちゃこっちゃで公園のおもちゃ確かめてやな、使たあかん言い出しよんねんで。今までけがした連中、損やないけ。
パーチク 損かどうかはともかく、遅いでんな。
ピーチク わし、前からいつも言うてんのに、誰も聞かへんがな。
パーチク 言うてはったんですか?
ピーチク わしな、毎朝、市長の家の庭先で、おかしいで、おかしいで、言うてやってんねん。
パーチク そやけど、人間には、せいぜい、ちゅんちゅんとしか、聞こえまへんでっしゃろ。
ピーチク それ言うたら、何にもならんやんけ。
 はぁ〜



2004年04月09日

 職場で担当している部署で横須賀基地宛の荷物があった。基地へ行く荷物自体、珍しいことだったが、伝票の住所を見ると「神奈川県横須賀市 横須賀基地」の工事現場になっていた。細かい住所とか番地とかが不要なのである。確かにあれだけ大きな施設、基地であるから郵便番号も独立した番号があるだろうし、運送屋でなくても正門までたどり着くことは出来るだろう。
 木曜日に沖縄では5月16日の日曜日に普天間飛行場の包囲行動が決定した。横須賀基地宛の伝票を見た途端、普天間包囲に参加しようと思った。すごく単純な僕である。



2004年04月04日

 「_」これはアンダーバー。ついでに、あんた、パー。
 自分で書いてて情け無い。



2004年04月04日

 単車で通勤する身にとって雨というのは厄介な存在である。まず雨合羽に身を包まなくてはならない。視界が悪くなるから自然と速度は落とし気味となるし、好天時より車の量が増えている感じがする中、職場へと急がなくてはならない。最近まで天気予報を見て雨が降らないことを祈る日々であった。私の住む地域は隣の隣、滋賀県にある琵琶湖から生活用水全般を頼っている。琵琶湖の真上で雨が降ればそれでよいと思っていたのだが、沖縄県で夜間断水の話が出てきた時、長らく忘れていた雨への感謝の気持ちを思い出した。蛇口をひねれば水が出て当然という感覚ではなく、一滴の雨水に恵まれて不自由していない生活に感謝をしなくてはいけない。しかし、官民を挙げての「節水」という掛け声とは裏腹に私も含めて水の有り難みを忘れている人が多くなっているようにも感じる。私達は数年に一度でも渇水となり、夜間断水を経験した方が良いのかもしれない。


2004年03月25日 最期まで面倒を… 琉球新報

 私が住む高槻市の隣に位置する茨木市でも鳥インフルエンザに感染したカラスが確認された。基本的には人間へ感染もしないし、騒ぐことはないと言われてはいるが、それでも報じられた翌朝は通勤途中に見かけるカラスと言うカラスが気になって仕方がなかった。国内で鳥インフルエンザが確認されて以降、飼い鳥を捨てる人が増えているという。昨日まで餌を与え、大事に育てていた動物を簡単に捨てられる、その感覚が分からない。この話題を聞いて思い出したのは以前、仕事で山原路を単車で走っていた時に山間部でうつろな目をした犬に出会ったことである。「どうして?なぜ?」と自分の捨てられた理由を尋ねているようにも見えた。自然界で餌を得る方法も知らず、空腹にも耐えきれなかったであろう。一方で観光客から餌を貰い、満腹顔の猫を見たこともある。犬や猫が家族の一員として扱われる時代である。どの様な理由があっても最後まで面倒を見て欲しい。


2004年03月14日 漫才 ラーメン&ソーメン

 皆さん、こんにちは。
ソーメン ええ天気ですなぁ。今日は。
ラーメン そない、くだらんあいさつしなや。
ソーメン ほな、どないしたらええねん。
ラーメン もっと、珍しい挨拶してみぃや。
ソーメン ほな、いやぁ、皆さん、こんにちは。外はええ天気ですな。
ラーメン 普通やなぁ。
ソーメン ええ天気の証拠に、お日さん、ようさん降ってまんがな。
ラーメン うそつけ。どこの世界に、ええ天気や言うて、お日さんが降るねん。第一、熱うてたまらんわ。
ソーメン なんや、珍しい挨拶せえ、言うさかいに、考えたのに。
ラーメン 実はね、僕、きみに黙っていたことがあるんや。
ソーメン お、珍しいなぁ。コンビ組んで長いけど、告白なんて。どないしたんや。
ラーメン いやぁ、これだけは黙ってたら、いかんやろ。そない思ったんや。
ソーメン 僕は何でも知っとるで。当てたろか。
ラーメン おぉ、当てて見せてくれや。
ソーメン わかっとんで、あれやろ。先週、控え室にあったたこ焼き、全部1人で食うたやろ。
ラーメン なんや、知っとんたんかいな。そやけどな、違うねん。
ソーメン ちゃうんかいな。あ、分かった。これやで、きっと。先月の舞台で、差し入れにあったお好み焼、2人分食ったやろ。
ラーメン なんや、それも分かっとったんかいな。そやけど、これもちゃうねん。
ソーメン ほな、なんや。
ラーメン ヒント、出したろか。
ソーメン うんうん。ヒント、なんや。
ラーメン それは、夏や。
ソーメン 夏、分かった、去年の夏やな。思い出したで。去年の夏言うたら、あれや、ほら、あれやで、そやろ、やっぱりな。きみやと思っとったんや。
ラーメン なんや、何言うてんのか、さっぱりやで。
ソーメン 去年の夏言うたら、大阪で1か月ほど舞台に立ったやろ。
ラーメン ふんふん。
ソーメン そん時、差し入れに毎日、かき氷があったけど、わしが食べようと思ってたら、いっつも無くなってたやんか。
ラーメン そう言えば、そんなこともあったなぁ。
ソーメン あれ、全部、きみが食うとったんやろ。そやから、本番の途中でいっつも、顔青うして、まぁ、役が幽霊の役やったから、迫真の演技言われてたけど、もう、済んだ話や、許したるで。
ラーメン なんや、食いもんの話ばっかしやなぁ。わし、そんなに、食い意地張ってへんで。
ソーメン よう言うわ。人のもんまで食っといて。ほんで、かき氷の詫びを言うんかいな。
ラーメン ちゃうがな。
ソーメン なんや、かき氷以外にまだ、なんかわしのもん食うとったんかいな。
ラーメン ちゃうちゃう。実は、わし、去年の夏、初めてソーメン流し言うもんに行きましてんや。
ソーメン なんや、それだけの話か。
ラーメン なんやとはなんや。大事な話やんか。今日はソーメン君、きみの宣伝も兼ねて、あえてソーメンの話題にしたんやで。
ソーメン そら、すんまへんなぁ。で、ソーメン流しに初めて言った感想は、どないでっか。
ラーメン いやぁ、それがな、一番下に行かされましてな。往生しましたわ。
ソーメン 一番下で往生した、どういう事や。
ラーメン 分からんか。流れて来うへんねや。一本も。
ソーメン 何が。
ラーメン 何がって、ソーメン流しに行って流れてくるもん言うたら決まっとるやろ。
ソーメン あ、分かった。竹刀や。
ラーメン なんでやねん。ボケるにもほどがあるで。
ソーメン そやかて、なぁ。面、胴、小手、はい、一本言うやんか。
ラーメン そんなもん、どないして流れてくるねん。ソーメンやソーメン。ソーメンが流れて来うへんねや。
ソーメン ほな、何しにソーメン流しに行っとるんや。水が流れるん、見に行ったんか。
ラーメン こっちがそれを、あんたに言うとんねや。
ソーメン あ、そうか。ほんで、どないしたん。
ラーメン そやからな、係の人に言うたんや。
ソーメン おや、お客さん、どないかしましたか。
ラーメン いやぁ、なんや、相方のソーメン君にそっくりの、係の人ですな。
ソーメン そりゃそうや、わしが演じてるもん。
ラーメン 余計なこと、言わんでええわ。あ、すんまへんな。一本も流れてきまへんわ。ソーメンが。
ソーメン わざわざ、ソーメンって言わんでも分かりますがな。ソーメン流しでっせ。他に何が流れてきますねん。
ラーメン よう言うわ。さっき、竹刀が流れてくる、言うたん、誰やねん。
ソーメン ほっとけや。で、お客さん、ソーメンが流れて来うへん言うてますが、どないしましょ。
ラーメン どないしましょって、一本も、食べんと帰ったら、もったいないやないですか。
ソーメン かまへんやないですか。人のかき氷まで食うて腹下したん誰でっか。
ラーメン それとこれ、関係ないやんけ。わし、客やで。
ソーメン ほな、ソーメン、買うて帰って下されや。
ラーメン と、言うようなことがあったわけですわ。
ソーメン 天罰やでぇ。
ラーメン ほっとけや。ところで、ソーメン君はやっぱり、ソーメン流しはよう行く方でっか。
ソーメン 行きますよ。名前がソーメンですからね。
ラーメン で、やっぱり下の方ですか。
ソーメン そんな場所、取りまへんがな。
ラーメン ほな、やっぱり上の方ですな。
ソーメン 上も上、一番上やな。
ラーメン そやけど、そない都合よう、場所取れまっか。
ソーメン 何言うてんねん。前日の晩から並んどくねん。
ラーメン えらい気合いでんな。それで流れてくるソーメンをバッシバッシと取るわけやな。
ソーメン それがな、あかんかってん。
ラーメン なんで。
ソーメン 勢いよすぎて、箸が流されてん。
ラーメン なんじゃそりゃ。

 どうも、ありがとうございました。



2004年03月14日 漫才 そば&うどん

 いやぁ、どうもどうも。
そば 3月ですなぁ。
うどん 三寒四温やねぇ。
そば きみ、三寒四温って、意味知ってるか。
うどん 日本人やで、それぐらい知っとるがな。3月は寒い、4月は暖かくなる、意味やろ。
そば 何言うてんねん。情けないやっちゃなぁ。日本人の恥やで。あのな、3日寒くて、4日暖かくなる。それが交互になって、最後は暖かくなる、そう言う意味や。
うどん そう言う意味やったんか。通りでなぁ。
そば 何が、どおりでなぁ、やねん。
うどん 3月にも暖かい日が有るやろ。あれがさっぱり分からんでなぁ。
そば アホか。
うどん そやけどな、おかしくないか。
そば 何が。
うどん 3日寒くて、4日暖かいねやろ。
そば そうや。
うどん ほな、何か、3日はストーブ焚いて、4日は扇風機回さなあかんのか。
そば ストーブ焚くのは分かるで。何で、扇風機がいんねん。
うどん そやかて、暑いやんか。
そば 暑けりゃ、脱げよ。
うどん 着たり脱いだりしとったら、かえって風邪ひくで。
そば そんなもん知るかいな。3月に扇風機回しとったら、余計、風邪ひきそうやわ。
うどん なんや、今日は風邪の話でっか。
そば ちゃうわ。もうじき暖かくなりまっしゃろ。そしたらすぐに夏や。そやから今日は夏に関する話題をしようと思いましてな。
うどん また、気の早い話ですな。鬼が笑うでぇ。
そば それは、来年の話をした時やろ。
うどん そやけど、年末の大晦日に、来年の話しても、鬼って笑うんやろか。
そば 知るかいな。鬼にでも、聞いてくれや。
うどん なぁ、鬼ってどこにおるん。
そば 知らん。そやから鬼に聞いてくれ、言うとるやろ。
うどん 鬼の居場所も分からんのに、鬼に聞けって、無茶やな。
そば 鬼の話はもうええねん。兎に角、夏の話をするで。
うどん そやけど、早いがなぁ。
そば あんた、ファッション業界、知っとるか。
うどん ファッション言うたかて、この服、どこで作ってるか、それも知らんのに。
そば そんなん、工場に決まっとるがな。あんな、ファッション業界では、もう、次の冬のことを考えとんねや。
うどん 次の冬。そりゃまた気の早い話やがな。
そば そう思うやろ。そやけどな、ファッション業界ではたえず、半年以上先の事を考えとんねや。
うどん なんでや。
そば なんでやって、夏になってからやで、水着のデザインしたかて、遅いやろ。今年の水着はこんなんが宜しいで、言うたかて、間に合わへんがな。
うどん ほんなら、皆、裸で泳いだら宜しいがな。わしゃ、嬉しいで。
そば それもそやなって、何を言わすねん。そやからな、冬の間にやな、次の夏は、こないな水着が流行りまっせ、夏の間に、今年の秋、冬はこないなコートが流行りまっせ、言うて、客に見せるんやな。
うどん ほなら何か、ウチらの商売も、今から、来るべき夏に備えな、あかんのか。どないすんねん。
そば どないすんねんって。今から、夏の話しても、季節外れで、おもろないがな。
うどん おもろないって、今日、夏の話しよう言うたん誰や。
そば わしや。
うどん 話、進まへんやんけ。
そば そやなぁ。ほな、やめよっか。

 どうも、ありがとうございました。



2004年03月11日

A ララァが急ブレーキをかけました。キキーッ。
B オチはどこ?
A キキとララに引っかけてみたんだけど
B ……



2004年03月10日

 相変わらず熱しやすくて冷めやすい私、本上まなみの写真集は1月に古本屋へ戻り、今は何もない。
 昨年10月に購入した自転車はまだ10回も乗っていない。なにせ土曜日、日曜日の休みは家の中、自室でゴロゴロしていることが多く、乗る機会を逸している。暖かくなるとまた出歩く機会も増えてくるかもしれませんが、もともと出不精ですから乗る機会は増えないかもしれない。
 運動不足を解消しようと寝る前に腹筋を10回だけすることにした。これでは運動不足の解消にはあまりにも遠いなぁ。



2004年03月08日 漫才 パスタ&ヌードル

 皆さん、こんにちは。
 パスタ&ヌードルのパスタ、でぇす。
 ヌードルです。
パスタ 今日もようさん、お客さん、来てくれてるわ。
ヌードル 嬉しいこっちゃね。
パスタ この間、同じ事務所のそば&うどんのコンビがうちらのことを間違えて紹介しましたね。
ヌードル そうそう。パスタ&スパゲッティー言いましてん。困りまんな。
パスタ そやけど、スパゲッティー言うのも、結構宜しいな。
ヌードル なんか、言いにくいなぁ。
パスタ それはそうと、ヌードル君、なんか、今日は、弁解することがあるんやってね。ヌードル そうなんですよ。僕ね、この業界に入って、初めて、3F1Sを経験したんですよ。お騒がせ、しましたね。
パスタ それって、もしかして、例の。
ヌードル そう、例の3F1Sですわ。
パスタ キャーッ。近付かんとって。
ヌードル なんや急に、舞台の端っこまで、逃げんでもええやんけ。
パスタ それって、今流行りなんやろ。怖い。
ヌードル 怖いこと、あらへんて。
パスタ そやけど、移るんやろ。
ヌードル まぁ、そりゃ、写ったけど。防ぎよう、あらへんやんか。
パスタ そやから言うてるやんか、冬はマスクしときや、て。
ヌードル そやけどな、マスクしたかて、逃げ切れへんで。
パスタ そらそうや、目に見えへんねんから。
ヌードル そやろ、どこに隠れてるか、分からへんねんもん。帽子とサングラスもいるで。
パスタ ほんで、治療に何週間かかったん。いつ入院したん。
ヌードル 治療。何で治療が必要やねん。この1週間、ずっと一緒に仕事しとったやん。
パスタ 悪いこと言わんわ。今すぐ、医者に診て貰い。
ヌードル 何をみて貰うねん。頭の中か。頭悪いんわ、今に始まったことちゃうわい。
パスタ 3F1S言うたら、新手のウィルスとちゃうん。
ヌードル 何を言うてんねん。3F1S言うたらやな、写真週刊誌に載ったことを言うんや。知らんのか、FLUSH、FOCUS、FRIDAY、SPAや。
パスタ なんや、良かった。てっきり今流行りのウィルスや、思たわ。それはそうと、ヌードル君。何を悪いことしたん。
ヌードル 何も悪いこと、してへんわ。
パスタ ほんなら、何で、写真週刊誌に撮られるん。
ヌードル パスタちゃん、ちゃんと、お昼のワイドショーとか、チェックしときや。バスに乗り遅れるで。
パスタ そうやん、昨日も仕事に行こうと思たら、バスに乗り遅れてん。次のバスまで、20分も待ってんで。
ヌードル そのバスとちゃうって。
パスタ 大阪市営バスとちゃうんか。ほな、阪急バスや。
ヌードル もう、バスの話はええねん。あのな、わし、この間、パスタちゃんのマンションで夜中まで一緒におったやろ。
パスタ そうなんですよ。私、マンション1つ持ってますねん。25階建てのごっついマンションですねん。
ヌードル うそつけ。築10年以上の安いマンション住んどるだけやないか。
パスタ ばらしたら、アカンやんか。自分だって変わらへんくせに。
ヌードル 住んどるマンションの話はどうでもええねん。兎に角、わしが、パスタちゃんのマンションから、午前4時に出て、自分のマンションに帰ろうとしたんですわ。
パスタ そしたら、お巡りさんに捕まったんですな。はい、貴身、不審者ですね。
ヌードル すんません。まだ、何もしてません。
パスタ その、ポケットから出ているのは、何だね。
ヌードル あ、これですか。新しいハンカチですわ。
パスタ うそつけ。これは女性のパンティーやないか。パスタちゃんのパンティー盗んだな。
ヌードル お巡りさん、パスタちゃんのパンティー盗むくらいやったら、首くくりますで。
パスタ 私の下着は、そんなにひどいんかい。
ヌードル 話、そらしなや。パスタちゃんのマンションを出てですね、その辺で、タクシーでも拾おうとしたんですわ。
パスタ おもちゃのタクシーやったら、ポケットに入りますな。
ヌードル そしたら、突然ですわ。
パスタ きっと、タクシー踏ん付けたんですよ。
ヌードル パシャ、パシャ、言うて。
パスタ 前の晩、雨降ってましたからね。水溜に、足突っ込んだんですよ。鈍くさいから。
ヌードル ちゃうわ、フラッシュや、フラッシュ。
パスタ 朝一番の電車が、混んでたんですね。
ヌードル それはラッシュ。ストロボや。光、分かるか。
パスタ こっちみてもの言いなや。お客さん、あっちやで。
ヌードル 次の週ですわ。ヌードル、パスタの部屋から朝帰り、言うて、写真週刊誌に載りましたわ。
パスタ すごいやん。うちらもついに、有名人やん。
ヌードル 前から、有名人や。ま、そんなんでね、今、世間をお騒がせしています。
パスタ 結局、何か悪いこと、したん。
ヌードル そやから言うてるやろ。何もしてへんて。
パスタ ほな、なんで、午前4時に出ていったん。
ヌードル 自分の部屋に帰りたかったんや。
パスタ なんで。私の部屋でも、ええやんか。相方の部屋が落ち着かんのか。
ヌードル 落ち着くわけないやんか。相方の部屋やで。自分の部屋の方が、落ち着くやんか。
パスタ ところでな、パンティーが何枚か、無くなってんねんけど、知らんか。
ヌードル 知らん。
パスタ もしかして、口止め料の代わりかなんかで、誰かに渡してへんか。
ヌードル なんでやねん。向こうが迷惑するわ。
パスタ なにぃ、いつもいつも、私のパンティーみて喜んでるくせに、偉そうな口、聞くなぁ。
ヌードル アカンやんか、そないに大きな口で言うたら。
パスタ 何でよ。事実やんか。
ヌードル また、写真週刊誌に載るやんか。

 どうもありがとうございました。



2004年03月07日 漫才 ラーメン&ソーメン

 いやぁ、どうも、どうも、ラーメン&ソーメンのラーメンです。
 どうも、ソーメンです。
ラーメン 唐突やけどな、ソーメン君、
ソーメン なんや、
ラーメン 貴身、考えたこと、あるか。
ソーメン なにをや。
ラーメン 僕らの名前、ラーメン&ソーメンやけどな、地域によって、ソーメン&ラーメンになってること。
ソーメン そう言えば、たまにそう言うこともありますな。なんでや。
ラーメン なんでや、て、貴身。自分のコンビ名に、疑問持ったことないんかいな。
ソーメン 自慢やけど、無い。
ラーメン 自慢すなや。
ソーメン なんでまた、急に、そんな話をせなあかんねん。
ラーメン 実を言うとですね。
ソーメン なんや、急にかしこまって。
ラーメン 実はですね、先日、ファンから手紙が来ましてね。
ソーメン あぁ、封筒の中に白紙の便せんと、カミソリが入っとったんやな。
ラーメン よう、知っとんなぁ。ちゃうって。今言うたんと同じ質問が書いてあったんや。
ソーメン なんや、そうか。わしはまた、おもんないから、さっさと辞めぇ、そう言う内容かと思たわ。
ラーメン アホか、そう言うこと、ここで言うたら、真似する人が出てくるやないか。
ソーメン かまへんやんか。事務所の社長に、全部、ファンレターや言うといたら。
ラーメン それもそうやな。何、言わせるねん。まぁ、ええわ。実を言うとですね、僕らのコンビ名は地域によって、変わるんですわ。
ソーメン アホ&バカとか
ラーメン ちゃうがな。ソーメン&ラーメンか、ラーメン&ソーメンか、や。
ソーメン なんでや。
ラーメン ほんまに知らんのかいな。難儀な相棒やな。あんな。
ソーメン あぁ、そうか、そうか。よう分かった。
ラーメン まだ説明してへんがな。
ソーメン なんや、まだか。もう終わったんかと、思ってたがな。
ラーメン 地域によってちゃうねんて。
ソーメン それはさっき聞いたがな。なんでや。
ラーメン そやから、ラーメンの有名な土地では、ラーメン&ソーメン。ソーメンの有名な地域では、ソーメン&ラーメンやねん。
ソーメン ああ、なるほど、皆さん、分かりましたか。
ラーメン 皆さんの前に。お前や。
ソーメン 言うたら、オール巨人 阪神みたい感じやな。大阪やったら阪神 巨人言うわな。
ラーメン そやそや。
ソーメン そやけどな、ソーメンの有名な地域って、どこやねん。
ラーメン 小豆島とか、三輪とか、色々あるやんけ。
ソーメン 色々言いないな。ラーメンに比べたら、有らへんやんけ。知ってるか、今、ラーメンのテーマパーク言うたら、全国に30ぐらい有んねんで。
ラーメン そ、そうなん。知らんかった。
ソーメン ラーメンのくせに、ラーメンのこと何も知らんのか。
ラーメン 知らん。
ソーメン 自慢しなや。そやけど、ラーメン言うたら、今や国民食ですな。
ラーメン そうですな。インスタントなんか、掃いて捨てるほど、有りますな。
ソーメン 全国どこ行っても、ラーメンはいつでも食べれますからな。
ラーメン そんなこと、あるかぁ。
ソーメン 北は北海道から、南は九州、沖縄まで、どこ行っても食べれるやんけ。
ラーメン どこでもって、言えるか。
ソーメン 言えへんか、言えるで。
ラーメン 言えへんよ。店に入らな。
ソーメン それは分かっとんがな。全国、どこへ行ってもラーメン屋がある、そう言う話を今、しとんねや。
ラーメン カップヌードルやったら、店がなくても、食べるで。
ソーメン ひねくれたツッコミやなぁ。ラーメンは特ですわ。年中食べれますし、ソーメンなんか、夏だけですで。
ラーメン 何言うてんねん。ソーメンかて、特やんけ。お中元に、ラーメン贈る奴、おるか?
ソーメン まぁ、百貨店でラーメン並んでる、聞いたこと、有りませんな。
ラーメン そやろ。ソーメンもな、もっと手軽にしたらええねん。
ソーメン この上、どない手軽にすんねん。
ラーメン カップに入れてやな、お湯注ぐだけで、食べるようにする。これに限る。
ソーメン そのまんまやんけ。

 どうもありがとうございました。



2004年02月29日

 最近、普天間飛行場の無条件返還の話題が出る一方、作業ヤードの中城湾港への設置が出てきたりと情報が入り乱れている感じがする。おそらく政府が沖縄県や名護市に対して揺さぶりを掛けているのだろう。仮に普天間飛行場が本土へ移転した場合、沖縄県内における雇用や経済に与える影響は計り知れない。十五年問題や軍民共用、環境問題まで持ち出してなかなか移設を進めようとしない沖縄県に「補償も振興策も打ち切るぞ」と言う遠回しな圧力のように見えて仕方がない。本当に政府の圧力であっても屈する事はない。韓国でも米軍基地の返還が実現しようとしているし、仮に明日、代替施設の工事を始めても完成まで約十年、それまで普天間飛行場で我慢できないであろう。必然的に海兵隊は他の移転先を探すことになる。今から自然を破壊することを考えるより、一日も早く普天間飛行場を無条件返還して貰うことを考えることが現実的だと私は感じる。


2004年02月28日

 戦争は最初の対応が遅れるほど、後へ尾を引くそうだが、現在、この地球上において米軍を物量で圧倒できる国や軍隊が他にあるだろうか。五十年前ならいざ知らず、現在の航空輸送能力から考えれば仮に朝鮮半島や台湾海峡で有事と言える事態が発生した場合でも米軍は二十四時間以内に米本国やハワイから軍隊の派遣、展開は可能であろう。最近では韓国の米軍基地が返還されようともしている。沖縄でも普天間飛行場の無条件返還が話題になり始めた。普天間飛行場が無くても海兵隊の運用は可能だと米軍自身が私達へ伝えてくれている。仮に明日から工事を始めたとしても完成まで最低十年は待つことになる代替施設、しかもそこには国際的に保護を必要としている自然が溢れている。米軍も再検討をして当然であろう。あとは日本政府が安保を理由にして米軍を引き留めず、思いやり予算を無くせば米軍は日本に留まる魅力を失い、少しずつ撤退していくことだろう。


2004年02月27日

 ある新興宗教団体の教祖に死刑の判決が出た。しかし、最後まで一言も話さなかった教祖をどの様に評価するべきだろうか。
 単に宗教団体を起こすだけなら誰にでもできるし、信教の自由である。だが、多くの犠牲を出し、ここまで社会問題と化しておきながら言い訳もないし、その理由の説明もない。何一つ理由が判明しないまま一連の事件は終結してしまうのだろうか。
 多少強引な方法を使ってでも何を考え、何を求めた結果でこの様な事態に至ったのか、説明をして欲しかった。このまま永遠に謎で終わってしまうのだろうか。



2004年02月20日

 知らなかったではすまされないのですが、今日の朝刊によればビキニで被曝したと思われる船舶、主に漁船は856隻のなるそうです。今まで第五福竜丸だけに注目し、他に被害を受けた漁船がいるとは思っていませんでした。ビキニ環礁に住民がいたことやそこの自然が汚染を受けたことは知っていましたが、同じ国の漁船が多数、被害を受けていたとは考えが及びませんでした。確かに疑いがあったとしても名乗り出せない状況にあったかもしれませんし、我が国の性格上、すぐに大騒ぎになり、本人や家族、近所の人々も落ち着いて正しい情報を得ることは出来無くなるでしょう。その結果、極端な差別とかが発生したかもしれません。
 さて第五福竜丸には23人の乗員がいました。単純に23人に856隻という数字を掛けてみて下さい。直接、間接を問わず、それだけの人数が放射能の影響を受け、苦しんでいると言うことです。



2004年02月18日 折れたバス停 琉球新報

 名護に住んでいた頃の話だが、仕事で幾度となく山原路を走ってその都度、気になることがあった。それはバス停である。バス停の標識が根元から折れている停留所があった。暴風雨に負けたのか、それとも交通事故に巻き込まれたのか原因は定かではないが、一か月以上見ていてもそのまま放置されており、地元の人間ではないにしても気になって仕方がなかった。バス停の中には時刻表に落書きされて読めなくなったり、半分以上が雨に流されて利用できない場所もあった。
 私が住む大阪府下では少々のことでは根元から折れぬよう補強されたバス停の標識が一般的である。また時刻表は風雨にさらされぬよう、透明のプラスチック板に守られている。
 時刻表は最寄りの公民館や売店、交番、学校などにも提供して地域の人々が利用しやすいようにした方が良いのではないだろうか。
 利用者が減っている今こそ利用者へのサービスを見直すべきではないだろうか。



2004年02月15日 1年のご挨拶

 イラクで行われた戦争は昨年5月に大統領自らが戦闘機を操縦し、航空母艦の甲板で格好良く終結宣言を出しました。だが、この宣言後に死傷者が多くなり、大統領の面目丸潰れと言った感じでしょうか。大統領の面目が潰れるだけなら良いのですが、そこには1人1人の大切な命が関わっているのです。その事を大統領や閣僚、多くの政治家は考えるべきでしょう。
 そして私達の国もまたイラクへ向けて自衛隊を派遣するに至りました。一国の復興を支援すると言うことは大事です。しかし、戦争が終結をしているのなら軍服を脱ぎ、地元の人たちに溶け込める服装をするべきです。銃口を地域の人々へ向けて信頼を得られるのでしょうか?
 イラクでは多くの劣化ウラン弾が使用されました。1991年にも湾岸戦争で同じものが使用され、白血病の発症率が多くなり、先天性障害を持たされる新生児も少なくありません。そう言う土地へ自国民を平然と送り込める我が国の首相は一体、何を思い、何を考えているのでしょうか。世界で唯一の被爆国である私達の国、広島、長崎で多くの犠牲者を出し、少なくとも核兵器、放射能に関しては他国民より知識を持っているはずです。その国の首相が劣化ウランに対する知識がないとは考えられません。奇しくも今年は第五福竜丸が被爆して50年になります。今後10年、20年を経てから2004年をどの様な思いで振り返ることになるのでしょうか。想像はしたくありませんが、今年は悲劇の序章でしかありません。

 早いものでこのH.P.も運営を開始して2年になります。少しは当初の目的通りにtownらしさが出てきたでしょうか。これからも裏通りの名店、珍店のように来訪者の皆さんを大切にしていける、そう言うH.P.でありたいと願っています。



2004年02月15日

 日朝問題が話題になっている。思うのだが、これまでの内閣は何をしてきたのだろうか。2002年に首相が訪朝し、北朝鮮の将軍様と会談をした結果、拉致被害者5人を帰してもらったわけだが、その時も一時的な訪日だったような記憶がある。なんでその時に家族を含めた帰国にしなかったのだろうか。
 話を始めに戻すが、この拉致問題は少なくとも25年以上前から存在したわけだ。これまでの政府、外務省は何をしていたのだろうか。内々に調査をしていたと言われればそれまでだが、そうとは思えない。逆に今の内閣が何故、2002年に首相自ら訪朝してこの問題を解決しようとしたのか、それもまた気になってくる。
 外相と外務省の担当部局に関しては特に非難が集中しているように思えるが、25年分の遅れを1、2年で取り戻せと言うのは酷と言えないだろうか。個人的には今の首相も外相も好きではないが、この件に関しては容易く非難することを控えたいと考えている。



2004年02月15日

 二六二万人に二件という数字を見て何を思い浮かべますか。これは大阪市の人口に対する夜間の小児対応病院数です。二件あるからと言って安心できるわけではありません。空べっとが無かったり、もし運悪く医師が不在であったら患者を乗せた救急車は他の病院を探すことになります。先進国と言われながら小児医療が充実していないという現状である。全国を三六〇に区分けした場合、年中二四時間態勢で小児医療を行えるのはたった一一五区しかないそうだ。沖縄県はどうであろうか。子供病院の計画は消され、その上に県立南部病院の廃止と言う話が出てきている。確かに民間病院は増えているし、赤字が続けば閉鎖を検討したくなる県の事情も理解はできる。だが、出生率は全国一を保ち、長寿県でもあり、人口も増えつつある。地域住民から身近な医療施設を奪うことは辞めて欲しい。何よりも深夜、救急車が患者を乗せたまま搬送先を探すようなことがあってはいけない。


2004年02月11日 漫才 そば&うどん

 皆さん、こんにちは。
 そば&うどんのそばです。
 うどんです。
そば いやぁー、今日はデビュー2周年の記念すべき日に…
うどん よう、来さらしたな、われ。
そば 何を言うてんねん。来て下さいましたなぁ、やろ。
うどん すまんのぉ
そば まぁ、ええわ
うどん ええこと有るかいな。相方の間違いを正すのが、相方のつとめやろ。
そば そやなぁ
うどん 早いもんですわ。もう2年も経ったんですから。
そば ほんま、早いなぁ。ついこの間、初舞台に立った思たら、もう2年でっせ。しかも今日は、こんなでっかい会場ですがな。
うどん あ、拍手、ようさんの拍手、ほんま、有り難うございます。
そば まぁ、なんと言っても、テレビの力ですわ。
うどん 皆さん、見てましたか、あの料理番組。
そば すごい拍手やわ。皆、見てくれてたんやなぁ。
うどん このあいだ、別の土地であの料理番組の話したんですわ。
そば そしたら、反応全くありまへんねん。そんで、気になって前のお客さんに聞いたら、この地域では、そんな番組、やってへん、そう言われまして、がっくりですわ。
うどん そうですねん。うちら、その土地でも取材でお伺いしてましたしね、てっきり、放送されてる、思てましてん。
そば まぁ、あの料理番組の御陰でね、うちらも知名度が一気に上がりまして、こないして、大きな会場で2周年記念言うて、漫才できるようになったんですから、立派なもんですわ。
うどん 拍手、有り難うございます。拍手、有り難うございます。
そば このまま、あと2時間ぐらい拍手していて下さい。
うどん なんでや。
そば うちら、その間、しゃべらんですむやないけ。
うどん それもええなぁ
そば 冗談はさておきましてね、うちら、ほんまに全国津々浦々お伺いさせていただきましたわ。
うどん 疲れたわぁ
そば そない、言いないな。御陰でただで全国歩けてんで。
うどん そやけどなぁ、ずっと和食でっせ。うちら。和食ばっかり食べ歩きましてんで。
そば まぁ、コンビ名がそば&うどん、でっしゃろ。番組のディレクターが、よっしゃ、和食担当や、言うたらしいですわ。
うどん 同じ事務所にね、ラーメン&ソーメンとか、パスタ&ヌードルとか居ますからね。
そば ラーメン君たちは中華料理担当やったし。
うどん パスタちゃんたちは洋食ばっかりやったし。
そば ディレクターに言うたんですわ。たまには変えてくれ
うどん なんや、言うたんかいな。
そば そしたらな
うどん そしたら、あのディレクター、なんちゅうてん
そば 視聴者が混乱するから辞めてくれ、て
うどん そやけど、うちら、1か所だけ行ってない場所がおますねん。
そば どこや、思います。
うどん 実は、沖縄なんですよ。
そば 意外でしょ。ねぇ、うちらも終わってから、言われて気ぃ付いたんですよ
うどん 意外やわぁ。何で行かへんかってん
そば そんなん、俺に聞くなよ。
うどん 行きたかったなぁ、沖縄
そば 何で、沖縄なんて、いつでも行けるやんけ。
うどん それがな、ちゃうねん
そば 何が、ちゃうねん
うどん わし、まだ、沖縄行ったこと有らへんねん
そば え、うそやろ
うどん 何で、相方にうそ付かなあかんねん。
そば 長い付き合いやけど、知らんかったわぁ。
うどん うそ付け、知ってても、知らんかった言え、て、台本に書いてあったやんけ。
そば そやそや。そやけど、ほんまに沖縄、行ったことないねんなぁ
うどん 無いんですわ。うちな、1度でええから沖縄そば、食べてみたいなぁ。
そば なんや、食べたこと、無いんか
うどん そらそうや、沖縄そばやで、沖縄でしか食べられへんに決まってるやないか。
そば そんなこと有らへんて。沖縄そばなんて、どこででも食べられるって。
うどん ほんまかぁ。なんか、しょうもない、落ちが着くんちゃうか。
そば あんなん、普通のそばやで。
うどん 行ったことある言うて、うそ着いてるんやったら、いまのうちに白状しぃや
そば 違うって。ほんなら聞くけどな、なんで沖縄そば言うか、知ってるか。
うどん 知らんから、聞いとんねや。
そば 今でもそうやけどな、沖縄言うたら、結構断水とかあるやろ、それは、知ってるやろ
うどん まぁな。聞いたことはあるな
そば そやからな、水不足でも育つ、そう言う食べもんとして、信州からそばを贈ったんや。それが沖縄そばの始まりや
うどん ほんまに、ほんまか。それ、いつの話や。
そば そうやな、ずっとずっと昔の話や。
うどん むかし、て、どれぐらい昔や。
そば まぁ、2000年ぐらい前やな。
うどん ほんなら、中華そばとか焼きそばはどないなんねん。
そば あれもな、目には見えへんけど、実はそば粉が入ってんねん。
うどん もうええわ
 どうも、ありがとうございました。 



2004年02月07日

 ファイルを整理していたら以下の文章を見つけました。一切編集せずに載せておきます。

 十月一日の朝刊で高橋尚子選手が二度目の快挙を成し遂げたことを知った。残念ながらわずか十日で記録は塗り替えられてしまったが、それでも「Qちゃんスマイル」を見ることが出来たし、次の快挙へ向けて頑張ってほしいものである。
 昨年、シドニー五輪で高橋選手は日本陸上界へ六十四年ぶりに金メダルをもたらしたと言われたが、肝心の六十四年前に一体誰が日本へ金メダルをもたらしたのか、去年は随分と気になったのだが、マスコミは高橋選手だけを大々的に取り上げ、六十四年前の快挙を振り返るマスコミは皆無だったと記憶している。普通ならば当時の映像資料などを持ち出し、その快挙を改めて称えるところではないだろうか。
 私がようやく見つけた名前は孫基禎選手、当時は日本へ併合されていた朝鮮半島の人だった。
 一年前の私は孫基禎選手の名前を見つけられただけで満足し、それ以上のことを調べようとはしなかった。
 しかし、脳裏の片隅で眠っていた記憶がかすかだが、よみがえっていた。
 大阪府の小学校では道徳の授業で「にんげん」という教科書を用いる。その中で孫基禎選手の金メダルに関係する事件についての話が載っていたと思うのだが、手元に当時の教科書もないし、記憶が曖昧なまま一年近くを過ごしたある日、図書館で「朝鮮人物事典」を見つけ、何気無く孫基禎選手の頁に目を通し、一年近く抱えていた疑問に終止符を打つことができた。
 孫基禎選手は一九三六年のベルリン五輪に日本人選手として日本名を名乗ってマラソンへ出場、そして金メダルを得られたのである。三位には孫基禎選手と同じ朝鮮半島の南昇竜選手だった。
 この時、朝鮮半島の「東亜日報」は孫基禎選手の写真を号外や新聞へ掲載するにあたり、胸に縫い付けられていた日章旗を黒く塗りつぶした。
 これを見た日本政府の出先機関である朝鮮総督府は「東亜日報」を無期停刊としたが、この事件とは関係ないはずの「朝鮮中央日報」まで停刊処分にしている。
 沖縄で例えれば「沖繩タイムス」の失敗で「琉球新報」まで笑いものにされたという感じだろうか。
 いずれにしても昨年、高橋尚子選手にのみ注意が集中し、孫基禎選手がほとんど取り上げられなかったのは問題ではないだろうか。単に私が見落としていただけならば構わないのだが、周りにいる数人に聞いても孫基禎選手が取り上げられたという話は聞かなかった。
 現在、孫基禎選手の金メダルが北朝鮮や韓国と日本の間でどの様に扱われているのか、私はそこまで調べきれなかったが、日本のマスコミが孫基禎選手の功績を本気で取り上げないならば高橋選手を日本陸上初の金メダルとし、孫基禎選手の功績を朝鮮半島へ返しても良いのではないだろうか。
 昨今、歴史教科書や歴史認識で日本の立場は微妙になっている。こう言う時期だからこそ私達はあえて孫基禎選手に光を当て、同時に日本が戦前、朝鮮半島をはじめアジア各国で何をしたかもう一度、学ぶべきではないだろうか。



2004年02月07日

 2月1日に行われた大阪府知事選、夜9時過ぎに何気無くラジオのスイッチを入れたらもう現職の当確が出ていた。アホらしくなったのでラジオを切り、そのまま寝てしまった。
 翌朝の新聞を見たら大差でした。2位、3位の候補は一体何をしていたのか、そう思うような結果です。各々は頑張ったのかもしれませんが、それにしてもここまで差が開くと呆気にとられる以外、何もありません。



2004年02月01日

 最近、急に沖縄の屋号に関心が向いて早速、新聞のお悔やみ欄に載っている屋号を拾い集め始めた。確か沖縄の屋号に関しては書籍があったように記憶している。だから無駄になるかもしれないが、その時はその時で考えたらよいわけである。
 しかし、もう少しなんかの役に立ちそうな事へ関心を持ちたい、そう思う今日この頃でもある。



2004年02月01日 作業用地は軍港転用? 琉球新報

 昨年十二月、普天間代替施設の建設が予定されている辺野古沖に接した大浦湾へ作業用地を埋め立てで設けるとの報道があった。これに接した時、一九六六年に計画があったキャンプ・シュワブ拡張計画が脳裏をよぎった。
 気になって代替施設協議会の資料を見直してみたのだが、この作業用地には「船舶の仮泊場所は含まない」とのことである。ホワイトビーチのように細長い桟橋を一本設置しただけで軍艦が停泊するには充分である。作業に必要との理由で大型クレーンを一基でも設ければ軍用物資の搬入が可能になるだろう。
 作業用地が必要ならばキャンプ・シュワブの中に幾らでも転用可能な土地があるはずである。一度埋め立てた海を作業が終わったからと言って土砂を取り除くことを本当にするのだろうか。最初から作業用地から軍港への転用を考慮した上での計画に思えて仕方がない。無駄ばかりで環境に悪影響を与える暴挙は今すぐ廃案にして頂きたいものである。



2004年02月01日 私案 ゴジラ

 初めてメカゴジラが世に現れたのは1794年、沖縄県が復帰する前年です。
 月は東に沈むし、太陽は西から上がってくるし、琉装のお姉さんが歌えばキング・シーサーが巨大なシーサーの石像から姿を現し、一瞬にしてメカゴジラに倒される。まるでシーサーの知名度を上げる以外、他に目的がないような役柄だった。
 西表島がモスラの故郷になったことだし、もう一度、ゴジラが沖縄へ来ても良いのではないでしょうか?

 沖縄県でオニヒトデの異常繁殖、しかも通常より1.5倍ほど大きなオニヒトデが現れ、海水浴客など人間にも危害を与えるようになる。幸いにして死者は出ていないが、これまでサンゴを食い荒らす以外、人畜に対して無害だっただけに関係者は首をひねり、専門家は悩むばかりであった。
 同じ頃、気象庁では1つの不思議な地震を捉えていた。震源が少しずつ南へと下っていた。
「おかしい」
 海底地震担当の若い職員は1人で首をひねっていた。
 同じ地震を全く別の組織が捉え、別の角度から検討を始めていた。
 それは防衛庁内に設置された特殊災害対策局の局員たちだった。この特殊災害対策局、表向きには特殊災害対策局の看板を掲げているが、実際には対ゴジラ対策局であった。すでにゴジラの死体も確認し、その役割と規模は縮小されていたが、万が一に備えて解散には至っていなかった。南下する地震の始まりが以前、ゴジラが海に沈められた東京近海から始まっていたのである。
「ゴジラは死んだ」
 そう確信していただけに今回の地震は目を離せなかった。マスコミや国民の関心もあり、堂々とゴジラの遺体を確認することも出来無い。仮にゴジラの生存を確認した場合、国民のパニックは避けられないだろう。
 そこで演習という名目で海上自衛隊の潜水艦が謎の震源を追跡を始め、同時にゴジラが沈められた海域の調査も始められた。
 この防衛庁特殊災害対策局はマスコミの中では対G局と呼ばれていた。防衛庁は特殊災害対策局に関して対ゴジラであることを否定していた。隠す必要はなかったのかもしれないが、あくまでもゴジラを特殊災害として位置付けている政府の姿勢が捉えられる局名であった。
 対G局を専門に取材しているフリーのライターがいた。数年前までゴジラを追いかけていたのだが、ゴジラ消滅宣言が出て以降、失業同然の状態になっていた。しかし、彼はゴジラの生存を胸中、どこかで信じていた。
「奴は、帰ってくる。必ず」
 いつも仲間達にそう言ってはばからなかった。
 彼の下に連絡が入った。昔は一緒にゴジラを担当し、今は気象庁担当に回されていた新聞記者からであった。
 2人は街角の小さな居酒屋で会い、久しぶりの再会を祝しつつ、話を始めた。その新聞記者は不思議な地震の話を持ってきた。地震の始まりがゴジラが沈められた場所であること、それだけしか根拠はないが、気象庁の職員もこの不思議な地震に説明が加えられず、悩んでいる話をした。
 ゴジラの海底移動速度がわかれば答えは自ずから出てくる。2人の結論はそこへ行き着き、フリーライターは安アパートへ戻ってから押し入れに片付けてあったゴジラ関係の資料を漁り、ゴジラの海底移動速度と謎の地震の移動速度を計算してみた。
 ちゃぶ台の足元には缶ビールの空き缶が数本転がり、小さな灰皿には吸い殻の山ができ、周囲に散乱したコピー用紙にはいくつもの計算が途中で投げ出されていた。ゴジラの海底移動速度など、記録が乏しく、フリーライターの彼自身が計算せざるを得なかったのである。しかし、努力の結果、どうにかほぼ一致するという答えを出していた。そして疲れて寝ていた。
 同じ答えを特殊災害対策局の局員たちは早くに出していた。しかし、その結果がゴジラに至ることを認めたくはなかった。ゴジラだとして何故、南下するのか、最終的な目的地がどこなのか、それを把握できず、局員たちは歯がゆい思いをしていた。
 そこへインファント島から幼生モスラ2匹が海路、北上を始めたと連絡が入る。局員たちに緊張が走る。
「南下する、謎の震源をゴジラと、仮定する」
 局長の判断で局員たちが一斉に動き始めた。
 同じ頃、沖縄県北部にある大学の研究棟5階の会議室では1人の教授がため息をついていた。机上を見ればつい数分前まで議論が戦わされていたことがわかる。散乱した資料の山、パイプ椅子などが無造作に放置されている。席を蹴って出ていった人が1人2人でないことがわかる。
 琉球史の中で最も信頼できる史料と言われる役人の日記に何故か不思議な記事があった。巨大なシーサーが海賊を追い返したという話だが、他の記事と同様、細かい描写がなされており、夢物語とも思えない。しかし、多くの研究者は役人の悪ふざけとして一蹴、一笑に付してしまった。だが、この教授だけは巨大シーサーにこだわっていた。会ったこともない日記の著者が嘘を付くとはどうしても思えなかった。
「巨大シーサーは必ず居る」
 日記に記されているように山原の深い深い森の中で眠っているに違いない、教授はそう信じつつ、窓の外に広がる名護浦を見つめていた。

 その頃、アメリカ海軍の原子力潜水艦が偶然にも謎の震源の近くを航行していた。
「ソナーに反応有り」
 原潜の艦長は通信でそう伝え、司令部の指示を待った。
 アメリカ政府もまたモスラの動きと同時にたびたび日本を襲うゴジラにも強い関心を持っていた。日本以外の国にも類似の怪獣が存在するかもしれない、その仮定から米国防総省内には極秘裏に怪獣対応部局が設置されていた。
「攻撃態勢を維持の上、一定の距離を保ちつつ、その影を追え」
 原子力潜水艦の艦長はそう言う命令を海軍の相当上層部から直接受け取り、やや戸惑いつつも命令に従った。艦内もやや緊迫した雰囲気となる。
 その影の後方を海上自衛隊の潜水艦3隻が突撃態勢を維持しつつ、航行していた。3隻の乗員は艦長も含めて海自幕僚長の指示通りの演習を行っていた。
「急な、演習だもんな」
 乗員の1人が同僚に話しかけていた。
「しかも、あと2隻、居るんだろ。こういう演習、珍しいよな」
「艦長も、目を白黒させていたよな」
 だが、東京近海では防衛庁上層部を震撼させる事態が発生していた。
 無人潜水艇で調査を行ったところ、ゴジラが沈んでいるはずの場所から南へ向けて重い物を引きずったような跡が一本、発見されたのである。
 特殊災害対策局の局員が有人潜水艇で改めて調査し、ゴジラが尾を引きずった跡と一致することを確認した。
 何一つ事情を知らない演習中の潜水艦3隻に進路変更が伝えられた。

 影を追尾していたアメリカ海軍の原子力潜水艦は近付きすぎたのかもしれない。突如、影は進行方向を変え、原潜に近付いてきた。原潜の艦長は攻撃命令を出す。影に向かって魚雷が2本発射される。命中し、艦内がどっと沸くが、しばらくするとまた影がこちらへ向かってくる。続けて2発、また2発と魚雷を発し、どうにか動きを止めたが、艦内からでは相手の姿は見えないし、正体もわからない。兎に角、原潜の艦長はその場を急いで離れることとし、同時に応援を呼ぶことにした。
 横須賀、佐世保や沖縄にいたアメリカ海軍の艦船が現場海域へ派遣される。この動きは防衛庁も把握はするが、アメリカ政府や国防総省からは一切、連絡が来ない。日本政府、防衛庁、特に特殊災害対策局のメンバーは舌打ちをする。
 アメリカ海軍は影を発見し、正確な確認をせぬまま攻撃を開始した。付近にいた原潜も攻撃に加わったが、影の正体に関してはまだ誰もゴジラだとは思っていなかった。
 爆雷の雨が海底に向けて次から次へと降り注がれる。
 影の動きが完全に止まり、海軍艦船内は歓声が上がった。しかし、それは束の間、次の瞬間、放射能光線で一隻が艦底に穴を開けられ、乗員は大騒ぎとなる。穴に大きく白い爪が現れ、さらに乗員が騒ぐが、そのまま浸水が進み、あっという間に海中へ引きずり込まれてしまった。残る一隻が僚艦から脱出する乗員を助けていたが、原潜の発射した魚雷をゴジラが破壊し、その衝撃で艦は傷付き、少なからぬ浸水をどうにかこらえながらホワイトビーチへと入港することになった。
 軍艦2隻と多数の死傷者を出したアメリカ軍はゴジラ打倒へ必死になる。アメリカ本国からテスト段階である最新兵器の搬入まで計画する始末だったが、これ以後、ゴジラの補足は出来無かった。
 原潜を始めとしてアメリカ軍はゴジラの形跡を追い求めるが、何故か見つからない。防衛庁もゴジラを捜すが、やはり見つからない。アメリカ軍と自衛隊は各々縄張り争いをし、関係はかんばしくない。沖縄近辺の制海、制空はアメリカ軍の管理下である。自衛隊は行動が取りにくくて仕方がなかった。

 数日後。
「モスラ、だ」
 フリーライターは沖縄県の西表島にいた。
 深夜、モーターボートに誘導されるような形で2匹の幼生モスラは浦内川をゆっくりと上流へ向かって進み始めた。周囲には数隻のモーターボートが控えており、川岸には迷彩服でマングローブ林にとけ込んでいるつもりの陸上自衛隊員が多数、見受けられた。
 浦内川の河口付近には海上保安庁の大型艦が2隻、月明かりに照らし出されていた。
「申し訳ありません。今、市民の目にモスラが触れれば、市民が動揺いたしますから」
 双子の妖精にネクタイを締めた防衛庁職員が詫びを言っていた。
 モスラがゴジラを感じたのである。それでインファント島を出て北上してきたのだ。
 特殊災害対策局の局員は今、航空自衛隊那覇基地にある航空機シェルター内に現地司令部を設置しつつあった。
 残念ながらゴジラとほぼ対等に戦えるのはモスラ以外、手段がない。防衛庁の威信にかけても今度こそゴジラの息の根を止めたい。だが、通常兵器しか持たない防衛庁にはモスラに頼るしかなかった。
 フリーライターは自衛隊員が予想以上に多かったため、動くに動けないままマングローブ林の中で身を潜めていた。
「2、3日はこの状態かな」
 彼はそれを覚悟していた。もしかすると陸自隊員に見つかり、どこかに監禁されるかもしれない。それも覚悟していたし、ゴジラを取材する上で半ば常識と化していた。
 まだフリーライター氏の耳にもアメリカ軍がゴジラと交戦した話を伝わっていなかった。知っているのは政府の閣僚と防衛庁のみである。
 浦内川を上っていた幼生モスラが突然、向きを変えた。
「ゴジラです。ゴジラが上陸します」
 海保の大型艦上で双子の妖精も気が付いた。
「どこです。どこに上陸しますか」
 特殊災害対策局の面々は動揺を隠そうともしなかった。

 その夜、ゴジラはホワイトビーチへ出没、停泊していた米艦船と戦闘を開始した。嘉手納基地から離陸した戦闘機も加わり、海岸線でゴジラとアメリカ軍による一進一退の攻防が繰り広げられた。周辺は火の海と化し、地域住民は逃げまどう。
 危険を顧みず、地元マスコミが数社、現場近くで取材を続ける。アメリカ軍は多くの犠牲を出しながらもゴジラの上陸だけは阻止した。
 翌朝、1人の女性がホワイトビーチ近隣の惨状に接し、平和を願う琉歌を口ずさんだ。
 2匹の幼生モスラが沖縄本島南端近海へ姿を現した。米軍は「怪獣=敵」と考えていたからモスラを攻撃してしまう。しかもほとんど同時にゴジラが海中から姿を現し、モスラと米軍へ攻撃を開始し、現場海域はゴジラ、モスラ、米軍が入り乱れた状態になる。
 米軍からモスラ出現の報告を受けた防衛庁はモスラがインファント島の守護神であり、敵でないことを報告するが、この連絡も現場には届かなかった。
 悲しげな泣き声を上げて1匹のモスラが海中深く沈み、残る1匹も傷だらけになりながらどうにかゴジラから逃れ、西海岸沿岸を北上し、伊江島へ上陸して城山に繭をつくる。
 ゴジラは増強された米軍と敵対するかのように再びホワイトビーチに姿を現し、勝連半島で米軍及び自衛隊の猛攻に遭い、またも海中へ姿を隠した。
 この闘いの最中、米軍がアメリカ本土から嘉手納基地を目指していた輸送機がホワイトビーチ沖上空でゴジラの放射能光線を浴びて墜落してしまった。この輸送機にはアメリカ軍が対ゴジラに用意した最新兵器が積まれていたのだが、1度も使うことがなく、海の藻屑と化してしまった。
 自衛隊はゴジラがモスラを追うと判断、北部に拠点を移してゴジラの出現を待つことにした。
 ゴジラは3度、東海岸へ姿を現した。今度は名護市東海岸のキャンプ・シュワブから上陸、伊江島ではなく北を目指した。中南部へ重火器を動かしていた米軍は大きな抵抗ができず、自衛隊が応戦する。
 1人のエコ・ガイドがやんばるの異様な静寂に気付いた次の瞬間、巨大なシーサーが飛び出してゴジラへ立ち向かった。巨大とはいうものの身長50メートルのゴジラを1メートル80センチの人間とすればシーサーは土佐犬ぐらいにしか見えない。口から火を吐くわけでもないし、せいぜいゴジラに噛み付くぐらいである。だが、ゴジラには放射能光線がある。巨大シーサーはゴジラへ容易に近付くこともできず、吠えたてることと隙を探す以外、何もできなかった。
 シーサーが何もできないからゴジラは北部の市街地を破壊して歩く。シーサーの方は住宅街を背にして抵抗するが、ゴジラの放射能光線がシーサーを通り越して街を破壊していく。我が身を犠牲にして地域を守ろうとするシーサー、それをあざ笑うかのようにゴジラは次から次へと破壊する。
 誰もがゴジラの目的が伊江島で繭を張っているモスラだと感じていた。
 突然、ゴジラが海岸線を南下し始めた。米軍と自衛隊のレーダーが中国大陸から海面すれすれを飛行してくる巨大な物体を確認していた。中国政府から巨大な龍が沖縄へ向かっているとの連絡が入る。
 南下することにのみ神経を集中するゴジラとそれを追いかけるシーサー、幾度となく飛びかかっては強力なゴジラの尻尾に叩かれ、時には放射能光線を浴び、傷付いてなおシーサーはゴジラを追った。
 幾度となくゴジラから放射能光線の攻撃を受けたシーサーは恩納村の万座毛から蹴落とされ、海岸で力尽きてしまった。
 残波岬に到着したゴジラは中国大陸の方を睨み、うなり声を出していると巨大な龍がゴジラに正面から激突、後ろへ倒れ込むゴジラ、天高く昇った龍はふらつきながらも立ち上がったゴジラに再び激突した。再び倒れ込むゴジラ、三度体当たりを喰らわせようとした龍だが、ゴジラは放射能光線を浴びせてその体当たりを逃れる。巨大な龍はゴジラにその長い身体を巻き付け、締め潰そうとするが、ゴジラはもがきながら放射能光線を発し、龍の力を徐々に弱めていく。ついにゴジラを締め付けている力を失った龍はその場に倒れ込む。
 ゴジラは龍を無視して南へ進もうとしていた。喜屋武岬に幼生モスラが上陸していた。幼生モスラは国道を北上し、2匹は嘉手納基地周辺で遭遇、幼生モスラは1匹で口から糸を出しつつゴジラを攻撃するが、傷ついた身体である。ゴジラの放射能光線でさらに痛め付けられていった。ようやく伊江島の繭が割れ、成虫となったモスラが姿を現した。
 成虫モスラは背後からゴジラに体当たりをしてその動きを一旦止め、その間に幼虫モスラを逃した。こうして成虫モスラ対ゴジラの闘いが始まった。
 ゴジラの放射能光線がなかなかモスラには当たらなかった。その代わりにモスラが激しく羽を動かすとゴジラは身体のバランスを失い、幾度か転倒していた。放射能光線もモスラの激しい羽ばたきの前では役に立たなかった。しかし、ゴジラも本気になったのか、モスラをぎりぎりまで引き付けてから放射能光線を発し、モスラが一瞬の隙を見せた時、羽を掴んで離さず、幾度となく放射能光線を浴びせ、最後は宙高く放り投げた。成虫モスラは普天間飛行場に背中から叩き付けられ、その動きを止めてしまった。
 米軍も自衛隊もあきらめかけていた。だが、万座毛で力尽きていた巨大シーサーが足を引きずりながら嘉手納基地へ姿を現し、ゴジラの尾にかみついて離さなかった。残波岬では巨大な龍がふらふらと空に舞い、途中で落下するという事を繰り返しながらどうにか嘉手納基地へ到着、もう一度、ゴジラに体当たりを喰らわせた。逃げたはずの幼生モスラも姿を見せ、ゴジラの足に糸を吐きかけていく。龍はゴジラの下半身を中心に巻き付き、ゴジラの動きを止めてしまった。シーサーと龍が最後の力を振り絞ってゴジラを海へ引きずり込もうとする。待機していた米軍と自衛隊の艦船もゴジラを海へ引きずり込むため、ワイヤーをゴジラの身体に打ち込み、引っ張ろうとしたが、ゴジラはまだ余力があり、口から放射能光線を出す都度、数隻の艦船が犠牲になる。
 普天間飛行場で仰向けになっていた成虫モスラが羽をばたつかせるが、起きあがることができないでいた。警備の制止を振り切って住民が成虫モスラにワイヤーを渡し、起き上がらせた。住民が離れたのを見届けてから成虫モスラは夜空へ舞ったが、すぐに普天間飛行場内に墜落した。もう一度だけ夜空へ舞い、今度はゴジラの背中に体当たり、最後の力でゴジラの顔にしがみつき、放射能光線を自らが浴び続けることで犠牲を減らそうとした。
 こうして顔に成虫モスラがしがみついたままの状態でゴジラは海中へ徐々に沈んでいく。米軍と自衛隊の艦船はワイヤーを切り離した。急いでその場を離脱しようとするが、ゴジラの発する放射能光線が時々、海面に達し、小型艦船が沈められ、大型艦船も艦艇に穴が空く被害が出る。そして放射能光線が全くなくなった。
 まず龍が姿を現す。その尾にはシーサーがしがみついていた。シーサーの下には幼生モスラがいた。自らの浮力を使ってシーサーを海面へ上げていたのである。
 そして海岸には成虫モスラのものと思われる美しい破片が数限りなく流れ着いていた。
 龍と幼生モスラは各々大型タンカーに乗せて帰郷することになった。シーサーは国道をゆっくりとやんばるへ帰っていくが、国道沿いには多くの県民が集まり、拍手や歓声をシーサーに贈っていた。その拍手や歓声がシーサーの傷を癒しているように見えたのは気のせいであろうか。

 以後、ゴジラを見た者はいない。



2004年01月31日

 1か月も前の話で申し訳ないのですが、皆さんは大晦日恒例の紅白歌合戦を見られたでしょうか?
 私はもう長いこと、見ていません。なぜか。それは遠い昔の話ですが、気配りで有名だったあのアナウンサーが白組の司会者だった時、飽きることなく白組歌手と全く同じ衣装を身に付け、1人で微笑んでいたのを見て「こいつ、本当に気配り、しとるんか」と思ってから見なくなりました。客席も最初の内は爆笑だったが、5度、6度と繰り返すと苦笑すら聞こえなくなった。公共放送のアナウンサーがすることか?
 2003年の紅白歌合戦もほぼ50%の視聴率だったとか、他の番組に比べれば立派な数字だがそれでも低下しているらしい。それでNHKの偉い人たちはお怒りだと聞くが、それは仕方がないことだろう。
 1つには年末年始の過ごし方が多様化している点だ。20年前に比べれば海外で年末年始を過ごすことも常識化してきている。紅白歌合戦を見なくても年が越せないわけではないし、少ない冬休みだ、遊びを優先して当然だろう。
 2つ目はテレビだけでも選択肢が増えたことだろう。特にこの2、3年はハイビジョンも出てきたし、民放各社も紅白歌合戦に視聴率では負けるとは分かっていても懸命に裏番組を製作し、ぶつけてきている。その努力を買う視聴者も少なくないだろう。それにNHK自身、教育放送に衛星放送を持っている。NHK自身が裏番組を製作しているようなものではないだろうか。
 3つ目はやはりレンタルビデオだろうか。年末年始でもレンタルビデオ店は開いているし、ここぞとばかりにビデオを見る人はいるだろう。わざわざ好きでもない歌手の歌を聞く人もいないだろう。
 紅白歌合戦を見なかったからといって職場や学校で仲間はずれにされる時代でもないし、そろそろ紅白歌合戦という企画自体、見直す時期ではないだろうか。

 聞いた話だが、紅白歌合戦に選ばれるのはNHKへの貢献度が高かった歌手、もしくは視聴率が稼げそうな歌手だという。確かに最近は全体的に歌唱力が高くなり、思わず耳をふさぎたくなるような歌手はいないが、それでもねぇ、同じ歌手が同じ曲を歌うのはやめて欲しいし、実力が有れば無名でも引きずり出すぐらいの気概を持って欲しい、d(^-^)ネ!

 最後にどうでもいい話だが、NHKの女子アナウンサーが肌を露出したりするのはやめて欲しい。民放でもあそこまではしないぞ!!
 それにさ、この数年、NHKって全体に民放じみてきたというか、いわゆるネジが2、3本緩んできた感じがする。極端な例えかもしれないが、やはりアマゾンの奥地へ行ってどれだけ暑苦しくてもネクタイ締めているような雰囲気を持っていて欲しい。物心が着く前からニュースといえばNHKだったせいか、最近はNHKのニュースを見ているとなぜか落ち着かない。
 誰か、どうにかして… 



2004年01月25日

 大阪府知事選挙が始まり、あと一週間で投票となりましたが、大阪府内の方は誰に投票するか、決められたでしょうか?
 選挙用の掲示板を見ると10人分用意されているが、実際に立候補をしたのは5人、しかもポスターを貼っているのはたったの3人である。あとの2人はどうしたのであろうか?
 おそらく現職の辛勝という感じだが、案外、接戦を演じた結果に現職が泣くことになるかもしれない。



2004年01月19日

 例えば「携帯電話の普及と荒れる成人式」とか「小泉政権と荒れる成人式」という題の論文は書けないだろうか?


2004年01月08日 湾岸戦争症候群 琉球新報

 基地をもつ国は 基地で亡び
 核をもつ国は 核で亡ぶ
 伊江島にある反戦平和資料館の壁にはそのように記されていた。湾岸戦争が終わった後、米国では湾岸戦争症候群が従軍兵士の間に広まった。原因不明といわれているが、劣化ウランの影響は否定できないだろう。従軍兵士の子供には障害を負って産まれた例も少ないそうだ。今回のイラク戦争でも数年後には類似の症状が従軍兵士の間に広まることだろう。日本は広島、長崎、第5福竜丸と核の恐怖を幾度となく体験し、学んでいるにも関わらず、イラクへ自衛隊員を派遣しつつある。残念だが、湾岸戦争症候群が他人事ではなくなってしまう。日本政府はイラクへ派遣される自衛隊員の健康や今後の生活に対して本当に最後まで責任を負いきれるのだろうか。米国と同様、原因不明を理由に無視しないよう、私たちも絶えず意識するようにしなくてはいけない。



2004年01月02日

 なんかあっさりと新年を迎えてしまいました。
 昨年は地球規模で血生臭い一年でした。個人的にもあまり芳しいとは言えず、もう少し何かが欲しいと感じる一年でした。
 今年は少しでも良い年になって欲しいと思うのですが、どうなるのでしょうか。
 少なくともこれ以上、些細なことで犠牲者が出ないことを祈念してやみません。



2003年12月28日

 最近、「もし、パソコンがなければ」と考えてみた。正直な処、怖いことである。
 このホームページで作成しているデータベースの類は全て存在しないことになるし、恐らくアイディアだけで終わっていたかもしれない。
 例えば新聞記事見出し目録、これを延々紙に書いていたら多分、分厚いファイルが1冊や2冊では済まなかったであろう。第一、どの様な形で公開したであろうか?
 そう言うことを考えると今の時代に生まれて良かったと思わずにはいられない。仮に同じ人間、同じ人生を歩み、それで産まれるのが10年早かったりしたらどうなっていただろうか。間違いなくどこかで行き詰まっていたことだろう。
 パソコン自体にはまだまだ不満はあるが、それでも感謝している。



2003年12月14日

 またパソコンの調子が悪くなり、再インストールという結果になった。幸いにして今回も個人的なファイルは消えることなく、無事だったのだが、これまで何一つ不都合がなかっただけに嫌な感じである。
 10年ぐらい前、「Windows」という物が普及し始めた頃はよくフリーズという減小がみられた。前触れもなく突然、パソコンの画面がまさしく凍て付くわけである。結局、電源を入れ直すことになるのだが、そこまで綴り続けてきたデータが「パッ」と消えてしまうわけである。あれは何とも情けなかった。
 例えばワープロで一生懸命、夜更かしをする思いでせっせ、せっせと3時間近く机に向かい、何十行と文字を連ねてきた苦労が水の泡になるわけだ。
 丁度、10年ぐらい前になるのだろうか、MS-DOSがまだ幅を効かせていた頃、これをOSとして「一太郎dash」や「桐5」を使っていた。今の時代、フロッピー3枚のOSやソフトなんて考えられないだろうし、存在すれば奇跡だろう。
 しかし、単純な文字を入力するだけの作業ならば昔のまさに「古典的」なソフトで充分だと思う。



2003年11月24日

 悪いことは続くものである。
 まず腰痛である。15日の夜、読書をしていて何気無く立ち上がろうとしたのか、体の角度を変えようとしたのか、いずれかの動作を行った瞬間、腰痛が始まった。次に風邪を患った。記憶にあるのは11月16日の時点で既にある程度、進行していたことである。いつもならNHKの特番を見てから就寝をするのだが、それを諦めて寝てしまった。
 続いて18日、パソコンのフリーズが始まった。インターネットへ接続すると自動的にWindowsの最新版がダウンロードされるよう設定してあったのだが、一定量の情報が溜まり、インストールして欲しいと画面に出たので指示通りにした途端、フリーズが始まった。何をしていても途中で操作できなくなるわけだ。そして20日にはついに動かなくなってしまった。
「はぁ〜」
 溜め息しか出なかった。仕方無く購入以来初めて説明書を広げ、O.S.から何から全ての再インストールとなった。購入以来、本当に今まで何事もなかったのである。この結果、いくつかの情報が消えてしまったが、それでも過去の失敗と比較すれば嘘みたいなことである。
 21日には風邪が悪化し、朝から近所の総合病院へ行き、診察をしてもらってから職場へ行った。しかし、朝食と昼食を抜いた状態である。仕事をしていても力は全く出なかった。
 翌22日の土曜日、病院でもらった薬を馬鹿正直に飲んでいたら喘息になった。3種類もらっていたのだが、その内の1種類が体に合わず、喘息を招いたわけである。
 かつて小児喘息の持ち主であったが、大抵は3時間以内で収まったものだが、今回は違った。呼吸が徐々に弱くなり、息が詰まるかと思った。夕方5時頃、病院へ駆け込み、診察を受け、どうにか生きて我が家の玄関へたどり着いた。
 まだしんどくて何もする気がない。



2003年11月11日

 選挙結果はいかがだったでしょうか?
 私の住む地域では自民党の若者が落選、民主党の前職が当選しました。投票日の三日前でしたか、小泉純一郎氏も駅前へ姿を見せ、何やら訴えていったそうです。まぁ、有名な辻本清美氏の地元ですからね、自民党を始め民主党、共産党も幹部が相次いで来ていました。把握しているだけでも民主党は岡田幹事長、共産党は市田書記局長です。人だかりという意味ではやはり小泉首相が一番だったようです。近くの道路がほとんど渋滞したそうです。逆に言えば迷惑な話です。その結果が自民党の候補者が落選ですから悲しいでしょうね。
 社民党の土井党首は地元で落選、比例でどうにか議席は維持したが、立場はないでしょうね。党首交代の時期かな。大体さ、関東には羽田と成田しかないのに、なんで関西には関空から伊丹、南紀白浜は潰れたけど、但馬とか、挙げ句の果てに神戸空港だろ、必要なのか、税金の無駄遣いじゃん。この神戸空港に土井さん、賛成したんだぜ。わからないよな。
 土井さんの悪口で終わってしまった。



2003年11月09日

昨年十月末まで私は名護市に住んでいたが、この間、色々なことを経験したが、縁あって選挙運動も体験した。朝から街角で手を振ったこともあるし、一軒ずつビラを配って歩いたこともある。そのビラ配りの中でのことだが、郵便受に郵便物や広告類が無造作に突っ込まれたままの状態で放置されているのを幾度となく見かけた。その多くは学生向けのマンション、アパートであった。護美箱へ捨てるのも面倒だったのか、郵便物の封を切ることもなく、郵便受の周囲へ投げ捨てている場所もあった。そう言う投げ捨てられた郵便物の中に投票所の入場整理券を見たことがあった。仮に私がそれを拾い、一票を投じたところで候補者の当落に影響が出るわけでもない。
 政治に無関心な人が増えているのはのは仕方がないことかもしれないが、せめて清き一票の重みだけは理解してほしいし、政治や選挙に絡んだ犯罪が増えないよう、一人一人が気を付けてほしいものである。



2003年11月03日

 日本共産党、日共はよくわからない政党だ。
 一つに民主主義を掲げながら不破から志位へ委員長職が禅譲されている。なんで党内選挙がないのか、これが疑問である。
 自民党みたいに幾つも党内派閥があって派閥の維持、発展に力を入れられても困るのだが、一方でそれだけ議論ができるという見方もある。確かに総裁選挙の際に見せるわけのわからん駆け引きは目を覆いたくなるし、同じ党かと思うぐらいに人によって言うことが異なるのも聞いていて嫌になる。
 しかし、日共は民主主義を掲げている。それならば委員長選挙があっても良いだろう。なんか見ていると中央集権制の代表みたいな感じがするね。
 日共と言えば戦前から頑張っているわけだし、戦後も周囲から嫌われつつも頑張ってきたわけだ。そこには当然、無名の党員が掃いて捨てるほどいるわけだし、地方の議員として名を挙げた人もいるだろう。そう言う人達が中央へ出て行く機会には恵まれないわけだ。中央で気に入られた人間だけが中央委員会へ入って幹部となり、いずれは委員長になるという感じしか見えてこない。この図式、社会主義や共産主義の国では当たり前のことである。
 仮に日共が政権を握り、委員長が首相になった際、それは今の自民党と何ら変わりのないことになってしまう。それとも国民投票で首相を選ばせてくれるのだろうか。無理だろうな。



2003年11月03日

 人の噂も七十五日という。しかし、最近の情報化社会では半分の一か月余ではないか、そう考えることもある。
 今年の六月だったか、日本共産党の筆坂秀世という国会議員が女性問題で議員バッチを外した。別に日共の贔屓ではないが、もう少し説明をしてほしかったね。
 日共と言えば他政党の不祥事とかを徹底追及することで有名じゃないですか。それでいて自分ところの不祥事に関しては「相手に迷惑だから」とか何とか、結局はうやむやにしてしまう。
 問題が起きた場所が都内なのか違うのか、中央区なのか世田谷区なのか、居酒屋なのか事務所なのか、女性の年齢が三十代か四十代か、いくら相手に迷惑でも名前や住所、顔写真を公表しろと言っているわけではない。事件の大体の経緯を説明することがなぜできないのか、それが疑問である。逆に言えば他政党で今後、同様の問題が出てきた際、日共は追及できなくなるわけである。
 自民党なんか、相手の女性が堂々と訴えてもなお「知らぬ存ぜぬ」を貫いている人間がどれだけいることか、そして議員バッチも外さないし、これもまた問題だ。
 ちなみに筆坂秀世は親の法事にも顔を見せず、いまだ行方不明の状態である。



2003年11月02日

 先日、自転車を買った。
 なんで買ったか、それはある夜のことだが、やや激しい運動をしていたら途中で呼吸が乱れ、咳が出始めて止まらなくなった。この時、気が付いた。「運動不足だ」と。
 元々小児喘息を持っていた。高校に入り、自転車通学で毎朝毎夕、片道30分の道のりを走っている内に喘息は影を潜め、体重も落ち、最近まで健康な生活を送っていた。しかし、2001年の5月から単車に乗り始め、心肺機能を酷使する運動から遠ざかってしまった。その結果、昨年の秋に咳が出て止まらず、喘息と診断された。「これはいかん」と思い、室内で身体を動かすようにしたが、三日坊主で終わった。結局、病院へ行って薬に頼ったわけだ。
 今年は大丈夫だろうと思っていたのだが、結果は再発、まだ医者の世話になっていないが、世話にならないように心肺機能を鍛えようと思っている。
 多分、また三日坊主だろう。



2003年10月31日

 私が住む高槻市は沖縄県でいえば那覇市と同じぐらいの人口約35万の都市である。大阪市内と京都市内の丁度中間に位置する典型的な衛星都市と言えるでしょう。
 今春、内容をまともに把握していませんが、「中核市」宣言をしています。要するに政令指定都市の一歩か半歩手前の資格らしい。
 衆議院選挙の始まった10月28日の朝10時過ぎに自民党の安倍幹事長が駅前へ出現、第一声を挙げたそうです。1人の高槻市民としては「時の人、話題の人が我が街へ来た!」と言う喜びもありますが、一方で大阪駅前とか、京都とか、「他にも第一声を挙げるべき場所はあるだろうに」と言う疑問も湧くわけです。
 確かに高槻市と言えば社民党の辻本清美さんは今回出馬はしないとは言え、地元です。万が一にも出馬した際を考慮したのか、なんなのか、実際のところは演説を聞かないと分からないわけですが、高槻市に来た理由を聞いてみたい気もします。
 余談ですが、社民党の土井党首は沖縄で第一声を挙げています。これも沖縄びいきとしては嬉しい反面、よくわからない。
 先にも書きましたが、高槻市は衛星都市、新興住宅地が多々ある街です。以前、革新勢力が強いと聞いたこともあります。
 今回、高槻市のある大阪10区で立候補したのは自民、民主、共産、無所属の4人です。社民党が1人も出さなかったのは少し残念な気もします。革新票が割れずに済むという表現もできます。

 今回の選挙、大阪10区では誰が勝利をするのか、全体で民主党がどれだけ議席を増やすのか、正直なところ、ほとんど関心が持てません。それでも投票に行かなくてはいけません。
 ぎりぎりまで誰に投票するか、悩まなくてはいけないのでしょうね、多分。



2003年10月25日

 つい最近のことですが、新大阪駅で人と待ち合わせることがあった。改札を出て見て気付いたのだが、ベンチが無い。座って待てないわけである。今時の女の子は地べたにペタンと座って話し込んでいるし、あとは皆、立っている。爺ちゃん、婆ちゃんなんかが人を待つ時、どうするんだろうね。
 結局、俺は本屋で立ち読みをして時間を潰したが、ベンチぐらい有っても良さそうなものではないだろうか。駅構内にある喫茶店とか、ファストフード店は時間潰しの場として収入は増えるかもしれないが、それも許し難い。
 そう言えば公衆電話も減っていた。携帯電話が普及し始めた頃、誰かが「これはNTTの謀略だ」と言っていた。要するに公衆電話一台あたりの維持費は結構な金額になるらしい。携帯電話だとその維持費は所有者個人の負担となる。契約料や通話料が多少高くても便利だから皆が持つだろうというわけだ。
 俺もほとんど鳴らないが、携帯電話を持っている。確かに契約料は高いと感じる。
 もう少しどうにかならんのかね。



2003年10月25日

 最近、ある雑誌を読んでいたら米海軍が使用するソナーがクジラに影響を与えるという話が出ていた。同様の話題は今、沖縄近海でも問題になっている。
 米軍のみならず、各国海軍が使用するソナーはクジラに影響を与えるだろう。
 クジラと言えばベトナム戦争の頃でしたか、国際的な場で日本の捕鯨が問題となり、それで日本ではクジラが食べれなくなりました。私も鯨肉の食感は少しだけ覚えています。
 以前、何かのテレビ番組で取り扱っていましたが、ベトナム戦争での政府批判をかわそうとして米国政府が捕鯨問題に着目し、一番の犠牲者が日本だったと聞いたことがあります。国際的な環境団体はこの説を否定していますが、時期が重なっているだけに説得力がありましたし、私個人はこの説を信じています。それ以前に捕鯨問題は出てこなかったわけですし、何よりも鹿や熊の捕獲は許され、クジラはいけないと言われたら少し変ではありませんか?
 確かに日本人の場合、缶詰にするほど捕鯨するわけですから諺の「過ぎたるは及ばざるがごとし」ではありませんが、少々やりすぎな面はあったでしょう。マグロとかもその内に世界の海から消えるかもしれませんし、その時は責任の大半を日本人が負わなくてはいけないでしょうね。
 さてソナーの話に戻ります。ここから先はNewsweek日本版2003.10.29号47頁の真似です。
 ソナー、水中音波探知装置は低周波で約240デシベルの音が使用されているそうです。戦争映画などで潜水艦を探す際、「ドワーン」という音が響きますが、まさしくあれです。
 ご存じのようにイルカ、クジラは私達人間と同様に声でコミュニケーションをしている動物です。確か甲高い鳴き声で会話をしていたはずです。それが邪魔されるわけですから家族とか、グループで行動していたら混乱を起こすでしょう。それで本来の進行方向とは全く違う方角へ泳ぎだしたり、仲間同士でぶつかったり、浅瀬に乗り上げたりするのかもしれません。
 イルカ、クジラの類は呼吸をしながら海中で暮らす動物です。ソナーの発する音波で驚き、呼吸が乱れているかもしれません。
 何よりも本来、自然界では有り得ない音が突然発生した時点で戸惑うでしょう。150キロ先でも150から160デシベルになるそうです。クジラのような大型生物が戸惑うなら一般の魚たちにはどの様な影響が出ているのでしょうか?
 ちなみに210デシベルで人間の鼓膜が破裂する音量を超えているそうです。

 クジラの話題をもう一つ。
 名護市に住んでいた頃、ある人が次のような内容のことを言っていました。
 曰く「沖縄近海でイルカ猟が行われている。しかし、そこで捕獲されたイルカが県内で出回っていない。県外へ販売されているのでは」と言うことでした。
 確かに最近、意識して百貨店の地下にある食料品売り場なんかを歩いてみると「鯨肉」がありました。果たしてこれは調査捕鯨の結果なのか、それとも沖縄近海のイルカが持ち込まれた結果なのか、真相はどこに…



2003年10月25日

 ある人から指摘を受けました。
 嘉手納や普天間より、厚木の爆音は深刻だそうです。私が厚木を訪問したのが日曜日でしたから嘘みたいに静かだったのでしょう。



2003年10月17日

 バスの話題をもう一つ。
 那覇B.T.を出たバスのほとんどは国際通りを通ってから各々の目的地へ向かいます。南部方面は別ですが、それでも那覇市内をぐるりと回ることには変わりない。
 これが乗る側にしてみればすごい長々しい儀式みたいに感じるわけです。
 例えば那覇から名護へ戻る時、那覇B.T.から即、国道58号線へ入ってくれればその分、わずか数分でも早いわけです。いつから路線バスが国際通りを通るようになったのか、そこまでは知りませんが、今やバスの存在が国際通りの渋滞を生んでいるのではないか、時にそう思ってしまいます。実際には用のない車両が多数入り込んでいるのでしょうが、国際通りは市内線に一任して良いと感じます。但し、乗り換えが重なると厄介だし、またバス離れにつながるかもしれません。
 さらにバスの話題を続けます。
 以前と言っても何年も前ですが、ある人が言っていました。
「自分の住む地域から、県庁所在地まで、乗り換えなしで行けると言うことは、大事なことなんだ…」というような話です。
 乗り換えに慣れている身にはこの話が最後までわかりませんでした。
 例えば那覇から名護へ行く際、中北部を目指す路線バスが延々連なるわけですよ。気が付いたら20分ぐらい前に出たバスを追い抜いたりしてね。最初の内はそれも楽しかったのですが、最後になると馬鹿馬鹿しいというか、恐ろしく不経済なことだと気が付きました。
 読谷B.T.行きと名護B.T.行きが並ぶことは珍しい光景ではありません。私が考えたのは嘉手納とか読谷B.T.で名護行きに乗り換える方法です。聞いた話では昔、嘉手納にもB.T.があったそうです。今から嘉手納にB.T.を設けるのは無理があるかもしれない。近くのB.T.、読谷B.T.から時間になれば嘉手納停留所へ名護行きが出かけ、客を拾って北上していくのも良いだろうし、同じ国道58号線沿いの読谷村内で新たにバスの待機所か何かを設け、絶えずバスが2、3台は待機できるようにしておくのも良いだろう。辺土名B.T.を手本にすればいいかもしれない。
 同じことは東海岸線でも言える。具志川B.T.か安慶名十字路あたりで乗り換えれるようにして良いのではないだろうか。
 中南部でこういう不経済なことを止めれば北部の赤字路線をどうにかこうにか維持できないだろうか。こういう風に考える今日この頃である。



2003年10月17日

 10月12日の沖縄タイムス論壇に谷生至誠氏が高速バスについて書かれていましたが、読まれた方はおられるでしょうか。私は読んでいて思わず「うんうん」と頷いていました。
 沖縄の高速バス、那覇空港から那覇B.T.を経由して高速に入り、途中は幾つかの停留所で乗客の有無を確認しつつ名護B.T.へ到着します。名護に5年半住んでいた間、幾度となくこの高速バスにはお世話になりました。
 B.T.はバスターミナルの略です。
 平日の始発に乗ればどこかの附属小学校へ通うのか、小学生の姿を見かけたこともあります。確か名護B.T.は6時25分発だったと記憶しています。那覇空港に着くのが8時過ぎか8時半だったと思いますが、それでも目的地によっては一番機に間に合わないことになります。できれば6時ぐらいに名護B.T.を始発が出てほしかった。
 那覇空港を出る最終の高速バスも早かったと思います。那覇空港から国道58号線を北上する路線バスも最終は午後8時発でした。それに乗り遅れたら極端な話、その日の内に北部へ帰れないことになります。せめて午後10時発の高速バスがあってほしかった。
 沖縄は車社会、一家に1台は当たり前で2台、3台も普通という状況です。県民のほとんどが路線バスに頼らないで当たり前の状況です。
 私なんかは最寄りの空港から我が家までモノレール、私鉄、市営バスと公共交通機関に頼りっぱなしです。しかし、日本全国を見ると沖縄県みたいに愛車に頼る方が多く、公共交通機関に頼れるのは東京とか大阪などの大都市圏に限られてしまうと言うのもまた実状です。
 話が飛びました。高速バスは谷生氏も指摘しているように途中の停留所を削減して名護から那覇までの時間短縮を図るべきでしょう。その一方で例えば具志川B.T.発那覇行きの高速バス、もしくはそれに準じるバスを設定して中部の利用者にも応えていくべきでしょう。具志川B.T.から最寄りの高速バス停留所まで往復する路線を設定するのも良いかもしれません。
 具志川市以外にも石川市や沖縄市などから高速バスを出すことを検討しても良いでしょう。ただしこれらは朝夕に限定しても良いでしょう。



2003年10月16日 横須賀、厚木の旅

 2003年10月11日から13日まで私は横浜に行きました。

 目的は横須賀軍港と厚木飛行場の見学です。いつも通りに事前学習も無く、ほとんど行き当たりばったり方式です。その結果がどうなったか、あえて書きませんが、結局はそれを物語らなくてはいけません。

 昼前に新幹線で新横浜駅に着いた私はそのまま横浜駅へ移動し、京浜急行に乗って約40分、横須賀中央駅を目指しました。後で気がついたのですが、横須賀軍港にはJR横須賀駅のほうが近いです。ただし、賑やかなのは京浜急行の横須賀中央駅です。ここですとまるで沖縄にいるような感じで非番の米兵さんや自衛隊の水兵さんがたくさん見れます。私は海上自衛隊の水兵さんが制服で歩いているのを始めて見ました。横須賀中央駅から横須賀駅までてくてくと歩きながら米海軍の艦船を見ようとしましたが、手前に見えるのは全て海上自衛隊の艦船だけです。うまく見えないようにしていたのか、それとも米軍の艦船が一隻もいなかっただけなのか、どちらかはわかりませんが、見えるのは自衛隊の艦船ばかりでした。でも、考えてみればそういうものかもしれません。横須賀に出入りするのは米軍でも大型の艦船です。そう簡単に見られては困るものでしょう。沖縄のホワイトビーチとか那覇軍港にくるのは輸送船とか実体が知られている強襲揚陸艦です。素人が原子力空母を簡単に見つけたら米軍も面白くないでしょうね。
 地図上では米軍施設として出ていますが、実際には海上自衛隊の施設が手前にあり、うまく米軍施設を隠している感じでした。結局、JR横須賀駅を通り越し、隣の田浦駅まで歩きましたが、米軍艦船が見えるような場所は見つかりませんでした。沖縄でも嘉手納基地とか普天間基地は近所の高台に登ってもなかなか実体をつかむことは出来ません。嘉手納基地の場合は安保の丘に登ればどうにかなりますが、ここはどうにもなりませんでした。
 海岸線に沿って歩き、疲れて適当に歩いていたら横浜ベイスターズの演習球場にぶつかりました。そこからまた道路に沿って歩いているとささやかな線路に出合いました。
「なぜだろう」
 そういう疑問を感じました。小さなトンネルの手前で途切れている線路、その線路の延長線上には運送会社か何かの倉庫群がありました。そして途切れた線路の延長線上、私が歩いてきた道のほうを見ると米軍の小さな、そして封鎖された状態のゲートがありました。おそらく以前は米軍が鉄道を利用して物資を搬入していたのでしょう。それが経費か何かの理由で廃線となり、線路そのものを切ってしまったのでしょう。
 それからJR田浦駅へ出、JRに乗って横浜へ行き、ちょこっと中華街で遊んでから新横浜駅から徒歩5分ほどの場所にあるホテルへと入りました。歩いて一分ほどのところにラーメン博物館があります。大阪の人間は並ぶことが大嫌い、それになんでラーメン食べるのに3百円の入場料が必要なのか、それが理解できず、とうとう入りませんでした。大体、観光バスで来る人々がいるのも分からなかった。
 その日の夕食はホテル近くにあったアジア料理の店で沖縄そばとかゴーヤーチャンプルーなどを食べました。「RELIEF」確かこういう名前でした。良かったらご利用下さい。

10月12日
 夜間に降った雨は上がり、のこのこと相模鉄道に乗って大和駅で降り、いい加減な一枚の地図を頼りに厚木飛行場の周囲を約三時間かけて歩いてみました。以前、与那国島の外周道路を歩いたら丁度、三時間で一周できましたから同じぐらいの面積かもしれません。
 出合ったほとんどのゲートで海上自衛隊が警備の中心になっていました。横須賀基地周辺でよく見かけたYナンバー車とかも見かけた台数は少なかったし、非番の米兵が基地の周囲でランニングをしたり、ショッピングをしたりする風景も見られませんでした。
「なぜだろう」
 そういう疑問が出てくるのは必然でしょう。しかし、具志川市の基地内にあるような高層住宅などの施設は整っていました。そこが全て満室だったとしたらかなりの人数、兵隊がいることになります。しかし、見かけない。時々、軍警察のバイクや車両がビュンビュンと走り抜けていきます。警備だけはしっかりとしているようです。しかし、この静けさは理解できませんでした。
 周囲を歩いている最中、見かけた航空機は白いヘリが一機だけ飛び立ちましたが、それ以外はまったくの静寂、この広くて立派な滑走路が日中、一度も使用されていないなんて無駄もよいところです。このヘリも海上自衛隊か米軍かさっぱりわかりませんでした。当然、この飛行場が利用されるということは近隣に住む多くの住民の迷惑になるのでしょうが、これを税金で維持しているとなれば無駄もはなはだしい限りです。表向きには海上自衛隊厚木基地と米海軍厚木基地と二枚の表看板がありますが、フェンスに張ってある看板には「米海軍施設のため、無断立ち入りを禁ず」と沖縄同様のことが書いてあります。どちらが家主なのか、これではわかりません。
 ここでも海上自衛隊の日の丸入りの航空機は見えましたが、米軍機は一機も見れませんでした。夜間に発着訓練をしていなければよいのですが、考えただけでも怖くなります。
 歩いている最中にずっと航空機の騒音がしていました。気になって幾度か空を見上げていると時折、航空機の姿が一定の高度で確認できました。おそらく羽田かどこかから離陸した民間機だろうと思いましたが、一方で横田基地もあります。この点も考えてみなくてはいけません。二日間の宿とした新横浜界隈でも真上を何かが飛んでいたようです。近くに羽田空港があることを考えれば離着陸コースの真下だと思えば納得も出来ますが、それで納得してよいのかどうか、最近は些細なことが気になります。
 厚木基地を左に見ながら歩いている間、4人一組で歩いている機動隊員とか、白い自転車に乗ったお巡りさんとかも見かけました。しかし、特別な緊張感は感じませんでした。例えば嘉手納や普天間ですとどこで見ているのか、フェンスの内側へカメラを向けるとどこからともなく警備兵や通訳が現れて撮影中止を命じられます。厚木ではポケットカメラで恐る恐るフェンスの内側を撮影してみましたが、なんの反応もありませんでした。横須賀軍港では一眼レフを用いましたが、ただの軍艦マニアだと思われたのか、外人さんが微笑みながら真横を通り過ぎていったのが記憶に残っています。
 厚木基地を一周している間、これに反対する看板や張り紙らしい物を見かけませんでした。唯一、目立ったのは大和駅前にあった市議か誰かの事務所に掲げられていた大きな看板だけです。「厚木基地をなくして静かな夜を…」と言うようなことが書いてありました。
 相模鉄道で大和駅の次が相模大塚という駅です。帰りはここから横浜駅へ戻ったのですが、ようやく外人さんに出会いました。雰囲気から勝手に非番の米兵と決めていましたが、違ったかもしれません。
 相模大塚駅からも厚木基地は近いというか、大和駅と変わらない距離ですが、近くの住宅街を歩いていると突然、踏切に出合いました。「?」と思いながら一方を見るとそこには基地のフェンスがありました。当然、線路もありましたが、残念ながらこちらの方は最後がどうなっているのか、確認しませんでした。この報告書を書くにあたり、改めて地図を見ましたところ、相模鉄道の終着駅海老名駅でJRに通じている線路があるようです。
 考えてみたら沖縄に5年半も住んでいましたが、嘉手納基地や普天間飛行場をゆっくりと徒歩で一周したことはありませんでした。厚木基地も嘉手納や普天間同様に地域住民の視点では見えないようになっています。一部では常緑樹を植えて目隠しとして用いていた点も沖縄と同じでした。

10月13日
 旅の最終日、私用のために一旦、東京へ入り、それからまた新横浜へ戻るという日程でした。千代田区では本当にたばこのポイ捨てがありませんでした。
 この間、世の中では色々なことが起きていたのです。
 まず横須賀軍港では米軍艦船が動いていました。詳細を知ったのは夕方、自宅へ戻ってから知ったのですが、横須賀軍港に米空母キティホークがいたのでした。五月にイラクから戻って以来、大がかりな船体の修理をしていたようです。それが終わり、午前十時頃に出港していったようです。自衛隊艦船の隙間から「63」という数字が見えいていたので気にはなっていたのですが、それがキティホークの背番号だったとは…
 一方、長崎県の佐世保市では陸自の隊員250人が武装して行進をしていたそうです。
 12日には私の地元、高槻市に自民党の安倍晋三幹事長が来て演説をしていったそうです。その結果、駅前に人だかりができて動けなかったとか。

 長い感想文になりました。改めて現場を見て歩く必要性というか、大事であることを感じた旅となりました。



2003年10月10日

1944年 米軍機動部隊の艦載機、那覇市を中心に空襲。被害は被害は家屋1万2000戸余り、市民、軍人約1200人の死傷。後に10・10空襲と呼ばれる。


2003年10月06日

 米軍の司令官は「事務的ミス」と言うが、4万トンの強襲揚陸艦が訓練をするわけだ。それを連絡し忘れると言うことがあるだろうか。例えば戦車の参加が15両を14両しか連絡せず、「1両数え間違えました」と言われても納得はしないが、取り敢えず許そうという気になる。どうしても「事務的ミス」といういいわけが納得できないし、それを「遺憾の意」を表明して受け入れている名護市側もよく分からない。もう少し強い抗議をするべきではないだろうか。
 米軍は世界の警察官を自任している取り敢えず最強の軍隊である。それが演習とは言え、強襲揚陸艦1隻の連絡を忘れると言うことがあるだろうか。こうなると演習以前に事務部門の再検討から始めなくてはいけないし、この状態で戦争をすれば米軍、負けて当然だろう。これは絶対に間違いではなく、「故意に連絡をせず、名護市側の出方を米軍が試している」という結論を私は出している。



2003年10月05日

 1998年に琉球新報社が「沖縄コンパクト事典」を発行した。いつでも入手できるだろうと思い、購入しなかったら品切れとなっていた。しかし、図書館でいつでも見れたので不自由しなかったが、いざ沖縄を離れてみるとこういう事典がないと案外、不便なものである。幸いにして「沖縄コンパクト事典」は今春、琉球新報の創刊110周年を記念して最新版という形で帰ってきた。有り難い話と思う反面、初版を増刷しなかった狙いがここにあったのではないか、そう思ってしまう。
 何はともあれ最近、最新版が出ていることを知り、購入した。少しでも気になったことをすぐに調べられるので手元にあると便利である。
 ところで「沖縄コンパクト事典」を見ていて思い出すのが1983年に沖繩タイムス社が発行した「沖縄大百科事典」である。約17,000項目を載せているからすごい。以前、タイムスの記者に「なぜ、再発行か増刷をしないのか」と聞いたことがある。確かその場の返答は「内容が古くて、当時のまま使えない項目もある」と言うものだったと記憶している。
 例え半分でも8,500項目だし、うまく利用して再発行できないのであろうか。いつか提案してみたい。
 逆に「沖縄コンパクト事典」が5年とか10年単位で版を重ねていき、その内に「沖縄大百科事典」へ追い付き、追い越すぐらいの項目数となればそれはそれで面白いと思う。だが、その時にはコンパクトではないコンパクト事典になっているだろう。ちなみに現在の収録項目数は約3,400となっている。旅行者が鞄に忍ばせて知ったか振りをするには今ぐらいの大きさが限界だろう。しかし、少しでも専門的に沖縄を学ぼうとすればもう少し項目数が欲しいところでもある。タイムスと新報の両社が競って新しい沖縄事典を発行するか、もしくは本土の大手が手を出すか、いずれにしても本格的な一冊が欲しい。



2003年10月03日

 9月25日でしたか、名護市東海岸沖に米海軍の4万トン級強襲揚陸艦が出没して抗議の対象となりました。私は一年間、辺野古で海ばっかし眺めてましたが、強襲揚陸艦はついに見ることは出来ませんでした。ちょっと悔しい。15,000トン前後のドック型揚陸艦は数回見ることが出来ました。長崎県の佐世保軍港から強襲揚陸艦1隻、ドック型揚陸艦2隻の編成で沖縄に来るようです。ドック型揚陸艦が名護市東海岸沖で演習をしている時、強襲揚陸艦はどこで何をしていたのか、今でも不思議です。おそらく遠方の提供水域で1人寂しく演習をしていたのかもしれませんが、もしかすると皆が寝ている時間帯とか、私が休んでいる時に来ていたのかもしれない。関心無い人が強襲揚陸艦を見てもただの軍艦にしか見えないし、マスコミに連絡しようともしないだろう。
 今回、東海岸沖に出没した強襲揚陸艦、おそらくエセックスだろうと言われているが、無通知の演習だった点が抗議の軸となっているが、通知をしていたら何をしても良いのだろうか?
 逆に言えば今まで私が見てきた演習の全てが通知済みだったことになる。しかし、米軍が日本政府に伝える演習内容というのは曖昧というか、ほとんど当てにならない。しかも日本政府がそれを全て現場で確認しているわけでもない。今回の強襲揚陸艦にしても名護市が四六時中、市内各所で監視行動でもしていれば即座に分かったはずだが、実際には市民がマスコミへ通報し、それが市役所へ伝えた結果である。要するに役所はなあんもしてない。
 軍隊というのは厳格なところである。上官の命令は絶対であるから強襲揚陸艦の艦長が独断で東海岸へ来たとは思えない。米軍全体が納得の上で行動をしているはずだ。しかし、もし普天間飛行場の代替施設が東海岸に来たら毎日が無通知訓練になるだろうな。



2003年10月01日

「エルンスト」
 メアリーは草原の真ん中にある一本道を自転車で走っていた時、向こうから歩いてくる青年の姿を見付け、それが誰であるかを確認した途端、自転車を止めて名前を呼んでいた。エルンストと呼ばれた青年はメアリーの声に気付き、手を振った。
 メアリーは改めて自転車に乗り、エルンストのそばまで一気に走った。
「久しぶりね」
 メアリーはエルンストの目の前で自転車を止めながら声を掛けていた。
「うん」
 エルンストは頷いていた。
「痩せたんじゃない」
 メアリーはエルンストが頷き終わらぬうちにまた聞いていた。
「徴兵されてから、もう一年になるわね。戦争、まだ終わってないんでしょ。休暇なの」
「うん」
 頷くエルンストを見てメアリーは少しだけ不安になった。時折、脱走兵の話を聞く。エルンストは文学好きな大人しい青年である。スポーツはほとんど音痴と言っても良いほどだ。それが徴兵され、戦場に行く時いた時、メアリーのみならず村中の人が心配したものだ。そのエルンストが今、多少青白い顔をしているとは言え、メアリーの目の前にいる。
「今度、映画を見に行きましょうよ」
 メアリーは誘ってみた。
「うん」
 エルンストはまた小さく頷いた。
「今度の土曜日に、ね」
 メアリーは用事を思い出し、ペダルをこぎながらそう言って走り出した。ふっと後ろを見た時、そこにはもうエルンストの姿は見えなかった。
 土曜日になり、メアリーはいつものように自転車で颯爽とエルンストの自宅へ向かった。エルンストの自宅には近所の人が集まっていた。玄関先で泣いている老婦人もいる。メアリーはおそるおそるそばの男性に聞いてみた。
「何か、あったのですか」
「エルンストがよ、戦死したんだと。月曜日に撃たれちまって、さっきようやく、役場から、報せがきたんだと」
 メアリーは目の前が真っ白になっていた。
 目が覚めた時、メアリーは自分のベッドの上だった。母親の話ではエルンストの自宅から自転車と一緒に運ばれてきたそうである。
 メアリーは月曜日にエルンストと会った話をしたが、「夢だよぉ」と相手にして貰えなかった。それ以後、メアリーはエルンストに会った話を誰にもしなかった。
 そう、誰にも。



2003年09月30日

 九月六日に初めて松代大本営を訪ねた。大阪から長野への車中、偶然にも松代に住んでいたことがある女性が隣席だった。その女性から松代大本営に資料館があること、関連書籍として「キムの十字架」と「悲しみの砦」という二冊の本があることなどを教えて頂いた。その女性は松本で下車されたが、名前すら聞かなかったが、旅の始まりで信州人の良い面に出会えて心地良かった。
 さて松代大本営、象山地下壕へ行って案内所で資料館の場所を聞いたら諸事情があって閉館したとのことであった。資料には当時の工具類などがあったそうだが、資料館を運営していた団体が保管していると聞いた。民営、公営を問わず、早期に資料館を運営して頂きたいものである。また勧めて頂いた二冊は出版社にも在庫が無い状態だと言う。私のように県外から関心を持って訪れる人間も中にはいるだろう、書籍面の充実も関係者には検討して頂きたい。



2003年09月28日

 七月に初めて北海道、しかも根室まで足を伸ばして後、なぜか台風は行き、地震は襲い、一体どうなっているのだろうか。次は長野県で悪いことが起こるのではないだろうか、そうも考えてしまう。
 考えるまでもないが、名護市に住んだ時もどこか似ている感じがする。何も知らずに名護市に住んだのだが、並行して普天間代替の問題が進んでいた。住民投票などは御存知の通りですが、私が大阪府へ戻ってから宜野湾市の市長が革新へ替わり、名護市でも新しい動きが出てきている。自分が疫病神に思えて仕方がない。今、沖縄県へ戻るとまた災いが起こるかもしれない。試してみたい反面、少しだけ怖い。台風と言えば沖縄県は宮古島が今回は大きな被害が出ている。1962年9月15日にも台風14号が宮古島で暴れている。中心気圧905ミリバールで当時、東洋最大と言われたそうである。復旧作業が進んでいるとは言え、失われたものはあまりにも大きい。



2003年09月27日

 最近、急にマイブームが本上まなみになった。これと言った理由はないが、なんか見ていて好きになった。元々、熱しやすくて冷めやすい性格である。早速、まずは古本屋へ行ってみた。写真集三冊とエッセイ集一冊を手に入れた。考えるまでもないが、本上まなみは既に人妻である。羨ましいというか、早く自分も結婚したい。
 写真集を毎晩、枕元に置くわけにはいかない。そこまでの元気がない。エッセイ集の方は既に積ん読状態である。写真集というのは一度見てしまうと飽きちゃうね。これが少し残念である。
 しかし、以前と女性の好みが変わったように思う。今は西田尚美とか森下涼子、それで本上まなみとどちらかと言えば華奢な感じの女性が好みだが、昔はいわゆる健康的なアイドル系、最近で言えば誰になるだろうか、分からないが、この歳だからキャピキャピ系は自然と離れてしまうのだろう。



2003年09月26日

 久しぶりに風邪を患った。幸いにして仕事を休むほどではないが、それにしても咳が急に出てきたりするから困った。調子が悪いから早く寝ていたら夜中に咳で目が覚めたり、咳のお陰で早起きができたり、そう言うことが二度ばかり有った。単純に風邪と言えば熱と鼻水、時に頭痛、これに足して腹具合が悪くなる程度だったのだが、今回のには参った。
 昔々、小児喘息を持っていてそれなりに悩まされた人間としては咳が止まらないと言うことがある意味、怖くて仕方がない。この歳になってまた喘息に悩まされるのか、その不安はつきまとっている。
 風邪は万病の元と言うが、風邪のウイルスほど難解なものもないらしい。ウイルス自体が単純な構造でコピーが簡単な一方、失敗作も簡単に出るらしい。
 例えば猿の病気だったウイルスが殺人ウイルスになったりして地球規模で騒ぐことになる。だから風邪だと言って馬鹿にしているとそのまま寿命を縮める結果にもなりかねない。だから「お医者さんへ行きましょう」という話になるが、医者だからと言ってその場でウイルスを調べて「この薬で治療できます」とは断言できないわけだ。一番ありふれた風邪薬を飲んで一晩寝て治る時もあれば結構きつい薬を飲んでも三日以上悩まされる時もある。
 風邪、本当は一人一人でウイルスが違うのかもしれない。そうであっても驚きはしないが、それこそ一人一人に合った風邪薬を作っていたら大変なことになるだろう。
 何よりもまず簡単に風邪を患わないような体力のある身体を作ろうと言うことになるが、普段、風邪一つ召さないような人間に限って急な病でそれこそ「あっ」という間に病院から火葬場へ運ばれたりしてしまう。反対に普段から病弱で医者の世話になってばかりの人が案外長生きしたりしてね。願わくば後者、長生きをしてみたい。時代の移り変わりとか、そう言うのを見て、生きていきたい。



2003年09月23日

 最近、夜更かしというものができなくなった。仮にコーヒーとかを飲んでも持つのはせいぜい午前3時ぐらいまでである。どうしても寝てしまう。例えば何か楽しいことをしたり、何か締め切りのあることだと多分、夜が明けるまで持つのだろうが、無理して起きている必要はないわけだし、そう言う考えが先行して寝てしまうわけだ。30歳を過ぎてしまい、身体が付いてこないのだろうか、そうだとすれば悲しい限りである。
 有名なナポレオンは1日3時間しか寝なかったとか。しかし、思うんだが、週に1回ぐらいは10時間以上寝てたんじゃないか、最近はそう考える時がある。以前、聞いた話だが、人間は最低8時間は寝るようにできているそうである。これに刃向かうと健康に悪いとか、寿命を縮めるとか言われるが、それでも無茶苦茶な生活をしていても長生きをしている人は結構いる者である。結局、寿命を測ることは出来ないと言うことか。



2003年09月23日

 小泉改造内閣とか言うのが、発足した。いつも思うのだが、国民が選んでいるわけではない。確かに有権者の多数が自民党に票を投じた結果、その自民党が党内で選挙をして総裁を選び、そこで選ばれた総裁が首相になり、同時に大臣や長官を選ぶわけである。そうなると多数の有権者が自分で自分の首を絞めていることになるのだろうか。
 自国の首相を自分の清き一票で選びたいと思うのは当然のことだと思うのだが、何故、自民党はそれを許してくれないのだろうか。仮にそうなったとしても当分は自民党の一人勝ちになるように思う。
 今回は小泉首相が派閥にこだわらず、自民党内の派閥破壊になるかどうか、そこまで言われているが、それもまた考えようである。一人が「右」と言って皆が右を向くようになったら党内での論争が消えてしまう。しかし、首相って結局は何なんだろうね。国民に選ばれない無責任大臣ですか。



2003年09月22日

 つい先日、久しぶりに路線バスに乗った。つり革を持って立っていたら目の前、半径1メートル以内に20代の女性が立っていたわけだが、最近の流行を純粋に追いかけているのか、胸元と背中が大きく開いた服を着ていた。そこまでは別に構わないのだが、何気無く背中を見ているとうぶ毛というか、むだ毛というのか、背中一面に薄く見えたわけです。本人は気が付いていないのだろうな、そう思った。例えばこれでデートしてセックスになった場合、相手はどう思うのだろう。百年の恋も興ざめだろうな。普段からこういう服を着て、背中がクーラーで寒くなってむだ毛が勝手に伸びたのかもしれない。
 この数年、夏になると女性は露出度の高い服を着ている。1人の男としては嬉しい反面、怖く感じる面もある。胸元とかあまり大胆に見せられると「こいつ、露出狂か?」と感じずにはいられない時がある。
 女性の皆さん、ほどほどに…



2003年09月21日

 最近、旅行代理店をよく利用します。そこまでは良いのですが、何かしっくりしません。その原因は何なのか、自分でもよく分からないが、何か機械的に処理されているようで好きになれない。以前、人口130万ぐらいの県の5万人しか住んでいない市に住んでいた頃、近所の旅行代理店をよく使っていましたが、気候が暑いせいか必ずお茶とおしぼりが出ましたね。何もお茶や菓子を出して欲しいわけではありませんが、あまりにもテキパキと処理されすぎて面白くないです。カウンターにパソコンが置いてあって目の前でキー叩きながら次から次へと入力して発券してくれるのも嬉しいが、そこまでしなくてもいいように思う。一件あたりの処理時間が決められているのかどうか、そこまでは知らないが、少しどこかにゆとりが欲しい。後ろに何十人も客が並んでいるのなら別だが、旅行代理店で客が並ぶと言うことは滅多にないだろう。一言ぐらい世間話をしても良いじゃないか。


2003年09月15日

 もう一点、沖縄のバス会社へ言いたいのが時刻表である。バス停に紙が一枚貼られているだけである。確か風雨対策がなされていたのは那覇バスターミナルだけではないだろうか。あとは破れようが、落書きされようが、風雨で飛ばされようが、そのままの状態である。例えば那覇から名護までの路線ならば始発と最終の時間さえ覚えておけばあとは1時間に3、4本は必ず来るのだから安心して待っていればよいわけである。しかし、それ以外の路線ではどうだろうか。特に中北部では1時間に1本有るか無いか、そう言う路線は少なくない。これもバスを運行する側が利用者の立場を理解していない証拠であろう。少なくとも地元の人はいつ頃バスが通過するかを把握しているのかもしれないが、果たしてそれで良いのだろうか。いつでも、誰でも利用できるようにするのが路線バスの役目だと思っているのだが、現実は私が思うより厳しいのかもしれない。


2003年09月14日

 やんばるを単車で走っていると時々、根元から標識の取れているバス停を見つけることができた。塩害や風雨によるものか、それとも交通事故なのか、原因は分からないが、週一回ぐらい見ていても修復されず、そのままの場所があったように思う。確かに地元の人ならば大体いつバスが来るか把握しているだろうが、それ以外の人はどうなるのだろうか。 最近はマイカー、レンタカーが路線バスを圧迫しているから他地域の人や観光客がやんばるで路線バスを利用することは滅多にないだろうし、まして途中下車することもないだろう。しかし、利用者へのサービスという点ではどうだろうか。私が住む大阪府でバス停の標識が根元から折れているというのは見たことがないし、折れないように随分と頑丈な物が作られている。沖縄のバス会社も今一度、利用者の視点に立って欲しいし、また利用者もバス会社に対して積極的に改善を求めるべきだろう。


2003年09月07日 松代大本営

 松代大本営をご存じですか?
 先の大戦中、陸軍が中心となって長野県長野市松代に昭和19年11月から工事を初めた巨大な地下トンネル群です。実際には象山地下壕、皆神山地下壕、舞I山地下壕の3つに分けることが出来ます。
 この松代大本営を知ったのはごく最近のことです。どうしても気になったので9月6日、7日を利用して見学へ行ってきました。
 9月6日の朝9時25分に京都駅を発したしなの15号は私を乗せて一路、長野へ向けて走った。名古屋を過ぎてから行程を再確認しようとプリント類をナップサックから取り出したら隣席の女性が「松代へ行かれるのですか?」と声を掛けてきた。聞けば以前、松代に住んでいたとか。彼女からは有益な情報を得ることが出来た。まず松代大本営に資料館があること、次に「キムの十字架」と「悲しみの砦」の2冊は読むべきであること、地元の高校生達が熱心に松代大本営を研究していることなどである。隣席の彼女も「キムの十字架」を読んでから松代大本営を見学に行ったそうである。その彼女にはJR長野駅前の大きな書店まで紹介してもらったが、名前も聞かぬまま松本駅で降車していった。単なる偶然だったのだろうが、彼女に会わなければこういう情報を得られなかったわけである。
 しかし、これらの情報全てに残念な結果が待っていた。
 まず資料館であるが、これは無くなっていた。資料館は民間団体が運営していたが、借りていた土地などを地主へ返し、展示する場所が無くなり、これまでの展示物は全て団体が引き取って自宅かどこかで保存しているらしい。この話は地下壕の案内所で聞いた話です。詳細は分かりませんが、色々と価値のある資料、当時使われた道具類があったそうです。
 次に紹介してもらった2冊の本ですが、長野駅前の書店で見つけられず、槻へ戻ってすぐに駅前の書店で注文してみました。書店の人が調べた結果、出版社にも在庫がない状態であることが分かりました。あとは図書館かどこかで探して読むしか有りません。
 「キムの十字架 松代大本営地下壕のかげに」 著者・和田登
 出版社・明石書店
 「悲しみの砦」 著者・和田登
 出版社・岩ア書店 創作児童文学ですから子供向けですね、多分。

 ちなみに長野の書店で株式会社櫟が出している「松代大本営」と言う書籍に出会いました。「櫟」は「いちい」と読むそうですが、読めましたか?
 この書籍は昭和58年5月に出版されていますからもしかすると内容に古い箇所があるかもしれません。私もまだ最初の方しか読んでいません。読み終えたらまた感想などを書きたいと考えています。
 話は随分飛びました。JR長野駅から松代大本営までは川中島バスに乗れば約30分ですが、本数が少ないので免許のある方はレンタカーを利用した方が良いでしょう。
 松代大本営で唯一公開されている象山地下壕のすぐそばには駐車場がありません。長野電鉄松代駅周辺は松代城跡を中心とした史跡、史料館があり、観光客向けの有料、無料の駐車場があります。地図を片手に少しだけ歩いて下さい。
 3か所の地下壕の総延長は10キロメートルですが、公開されているのは先にも書きました象山地下壕の約500メートルだけです。入り口にはプレハブの案内所があり、ここで都道府県と人数を申告しなくてはいけません。私の場合ですと「大阪府から来ました。一人です」のような感じです。この案内所は長野市の管轄で必要な人にはヘルメットを貸してくれます。足下は滑りやすいので注意して下さい。実際、滑りそうになりました。相当固い地盤を無理矢理破壊して掘り進んでいたようです。もう一つ注意しなくてはいけないのは結構暗いと言うことです。視力に自信がない人は懐中電灯も必要になるでしょう。
 また「松代大本営の保存をすすめる会」もあり、ガイドもして貰えるそうです。私は一人旅でしたから依頼しませんでしたが、団体なら頼んでみるのも良いかもしれません。http://villagge.infoweb.ne.jp/~kibonoie/が「松代大本営の保存をすすめる会」のホームページです。充実した内容でうらやましい限りのH.P.です。
 この時代の例に漏れず、動員されたのは地域の人から朝鮮半島の人々まで様々です。地下壕入り口の案内板に書いてあったのですが、この松代大本営の工事では少なく見積もっても300名、多ければ1000名を超す犠牲者が出ていると言われていますが、現在、名前が分かっているのは4人だけだそうです。

 今年8月になってから私の育った高槻市の山間部にも地下壕があったことを知りました。市内に軍需工場があり、それの移転先として工事が進められたそうです。現在入り口もふさがり、危険な状態で中を確認することは出来ないそうです。
 全国にはこういう地下壕、地下トンネルが沢山あるのでしょうね。



2003年09月07日 さんぴんのイメージ 琉球新報

 「三一(さんぴん)侍」と言う言葉がある。年収が三両一分という身分の低い武士を軽んじた江戸時代の言葉だが、現代でも「さんぴん野郎」という感じで使われる。この言葉が頭にあったせいか、沖縄で初めてさんぴん茶を見た際、中身を確かめることもなく悪い印象を持ってしまった。しばらくしてから「悪い物を店舗に並べることはないだろう」と考え、さんぴんは「県産品」の略ではないか、そう考えてようやくさんぴん茶を手にとって中身を知った次第である。その結果、私がさんぴん茶を飲み始めたのは五年半の沖縄暮らしの中でも後半になってからだ。大阪に戻った今でも家族の中で一人、愛飲している。幸いにして大阪にはわしたショップを中心に沖縄物産を扱う店舗が幾つかあり、さんぴん茶の入手には苦労せずに済んでいる。しかし、私と同様に沖縄でさんぴん茶を見て「?」と思った本土の人は他にいないだろうか。



2003年09月01日 基地の返還・移設、跡地利用と沖縄振興問題−その3−2002年度研究報告 第十章 命を守る会での一年

 私が沖縄の地を初めて踏んだのは一九九三年九月のことである。高校以来の親友に勧められたのも一つの理由である。もう一つは寒いのが嫌いだから南の気候が体質に合うだろうと考えたからである。この時、親友が北海道を勧めていたら私の人生はまた変わっていたかもしれない。
 当時は今と違ってまだ空路は高値であったから海路、沖縄を目指すことにしたのだが、残念ながらこの時、戦後最大と言われた台風十三号に出合い、私が乗船したフェリーは広島湾で二十四時間を過ごした。この結果、私の初めての一人旅は惨憺たる結果となった。もしこの時に台風にも遭わず、何一つ問題の旅だったら今ほど沖縄に対するこだわりを持たなかったかもしれない。
 最初の沖縄旅行の結果から「もう一度、沖縄へ」と言うこだわりを持つようになり、時間を見つけては大阪と沖縄を往復するようになっていた。最初の内は薄いガイドブックを頼りに名所旧跡を巡るだけだったが、その内にナップサック一つを背負って路線バスの旅をしたり、途中下車をして知らない町を歩いてみたり、そういうことを楽しんでいた。
 その内に沖縄へ住んでみたいという思いが脳裏に浮かんで離れず、一九九七年三月末に私は沖縄県名護市のアパートへ住所を移すことになった。そして生まれて初めての一人暮らしが始まった。
 一九九六年秋頃から名護市では普天間飛行場の移設問題で揺れ始めていたが、私はその事を全く知らなかった。名護市を選んだ理由はただ一つ、聴講生として通うことになっていた名桜大学が市街地を一望できる高台にあり、校内全体が奇麗だったことだけである。だが、この時期に名護市に住み着いたことから後日、活動家と勘違いされたのは一度や二度ではなかった。
 私が名護市の状況をある程度把握できるようになったのは六月六日に行われた「ヘリポート建設の是非を問う名護市民投票推進協議会」の結成総会に参加以降である。この時、私の脳裏にはテレビで見た一九九五年十月二十一日の県民大会があった。県民大会同様、この普天間移設問題も県民が立ち上がれば簡単に解決するだろうと私は楽観視していた。
 一九九七年九月のある日、今となっては誰に何を言われたのか覚えてもいないが、私は推進協の事務所へ出入りするようになっていた。そこでは夕方と日曜日の事務所で主に電話番を担当することになった。それ故にこの頃の抗議行動や集会、デモにはほとんど関わっておらず、事務所の外で一体何が行われていたのか、さっぱり把握していなかった。こういう中、唯一参加したのは十月十七日に行われた推進協の発展解消と同時に発足した「海上ヘリ基地反対・平和と名護市政民主化を求める協議会」の結成総会ぐらいだったように記憶している。
 こうして十二月二十一日を迎えた。いつもの感覚で夕方に事務所へ行くと知らない人が沢山事務所にいた。大半は県外から応援に来た人達だったが、自分の居場所が見つからず、知人を見つけて片隅に陣取り、早々と祝杯を傾けていた。政府の反撃も予想されていたが、誰かが「年明け以降だろう」と言っていたのを今でも覚えている。しかし、案に相違して二十四日には比嘉鉄也市長が受け入れを表明して辞任してしまい、反対協は年末年始を返上して市長候補の選抜を行っていた。
 年が明け、選対事務所も開かれたが、私は閑散とした反対協の事務所へ通い、一度も選対事務所へは行かなかった。
 今度の市長選も当然勝つだろうと思い、二月八日の投票日を前にして私は反対協への出入りを取り敢えず控えることにした。この時まで取り敢えず毎夕反対協で電話番をしていたのである。
 二月以降、大きな動きがなかった中、私は「伊江島へ、援農に行こう」と誘われた。伊江島へは観光で訪れたことはあったが、「援農」と言う漢字が頭の中で思い浮かばず、「エンノウ」とは何だろうか、そう自問しながら伊江島行きのフェリーに乗船、現場であるわびあいの里に着き、作業を初めてようやく「援農」を理解した次第である。これを機に伊江島、わびあいの里へ行く機会は増えていった。特に二〇〇一年の五月連休前に単車を購入して以降はその回数が一気に増えている。それ以前は頭の中で「わびあいの里=援農=人数が必要」という図式ができあがっていたのだが、単身で訪問して出来ることを手伝えばよいと言う事を理解したのが、ようやくこの頃のことだった。
 伊江島、わびあいの里で学んだと言えば表現が大袈裟になるかもしれないが、阿波根昌鴻さんが事件、事故の証拠品として現場の写真を細かく残していると言う話に接し、私は取り敢えずそれを真似てみることにした。幸いにして私には中学以来愛用しているカメラがあったし、下手の横好きで続けてみたが、最後まで良質の記録写真にはほど遠かった。
 二〇〇〇年の春に名護民主商工会に拾われるまで私は幾つかのアルバイトをしながら過ごしていた。その中で特に印象深いのは一九九九年二月に二十日ほどであったが新規開館寸前の名護市立中央図書館で手伝ったことである。以前から図書館は好きだったし、カウンターの向こう側がどの様になっているのか、一度でいいから覗いてみたいと思っていたのだが、その願いが思わぬ形で叶ったのである。仕事は職員の指示通り動くだけであったが、毎日が楽しかった。新しい図書館を誰よりも早く利用している気分であった。この図書館が開館以後も本一冊を借りるだけであっても多くの職員と挨拶をして帰るということを楽しんでいた。
 二〇〇〇年の夏、名護市で行われた先進国首脳会議では反対協が中心となった行動には参加せず、別の市民団体が中心となった先進国首脳会議その物に反対する行動に三日間参加した。その頃の私は反対協と少し距離が開いていた。そこでいつも出入りしている市民団体に付着して先進国首脳会議に反対する行動へ参加したのである。
 八月には十八年ぶりに広島へ行く機会に恵まれた。それは広島で行われる原水爆禁止世界大会へ沖縄県から派遣される人数に運良く空席があり、そこへ名護民商からと言うことで入れてもらえたのであった。小学校六年生の修学旅行以来、広島は新幹線で通過するぐらいであったし、事前学習で学んだことは全て記憶から抜け落ちていた。結果から書けば新しくなった原爆資料館へは行かなかった。名護へ戻ってから行くべきだったと後悔したが、広島にいた時は資料館で重苦しい感じに包まれるのが嫌だった。この重苦しい感覚というのを初めて感じたのは糸満市にあるひめゆり平和祈念資料館の中である。地下だったと記憶しているが、犠牲となった生徒の顔写真が掲げられている資料室に入った時、重苦しい感じに包まれ、息苦しくなった。全て見なくてはいけない資料であるが、一方で早くこの部屋を出たいという衝動に駆られた。単に換気上の問題だったのか、それとも気持ちの問題だったのか、今でもわからないが、同じ気持ちに広島でとらわれるのが嫌だったので資料館に入らなかったのである。
 またこの時、初めて日本には「原水禁」と「原水協」の二つの反核組織があることも知った。同じ会場を時間差で利用するのが、不思議に思えた。大阪から観光や何かのついでで広島へ行くのではなく、沖縄で実際に米軍基地の問題に関わりながら広島へ行けたのはこれまでと違う視点で広島や核兵器の問題を見ることが出来て良かった。
 九月には東京都の石原知事が始めたビック・レスキューに反対する集会へ参加するために生まれて初めて箱根の関を越えて東京の土を踏んだ。この時は先進国首脳会議の際に知り合った人達が都内での行動で案内を勤めてくれたのみならず、宿泊先も用意してくれた。以後、これが縁で翌二〇〇一年のビック・レスキューでも抗議行動へ参加したし、規模は縮小されたが、二〇〇二年の災害演習にも抗議行動へ参加している。
 また二〇〇〇年十二月から新聞へ投稿することを覚えた。基地問題よりも他愛もないことや社会的な内容の方が多い。しかし、一つ気になると次から次へと投稿したくなるからこれまた不思議なものである。採用、不採用は別にしてまだ続いている。
 投稿をしていて気付いたのは他府県民が沖縄県を見る視点が必要なことである。私の場合、先述したように基地問題にもあまり触れ切れていないし、自分が生まれ育った大阪府と沖縄県の比較対照も出来ていない。だが、これを新聞や他の媒体で手短に出来れば素晴らしいだろうし、その中で基地問題を少しずつ訴えていき、今の私には具体的にうまく表現は出来無いが、沖縄県民が基地問題にこれまでと違う視点を持ってくれればまた何かが変わるような気がした。
 二〇〇一年秋、一年半勤務した名護民主商工会で人員整理があり、私はこの職場を離れることになった。一か月は大好きな図書館で毎日本を読むか、伊江島へ行って援農でもしようと呑気に考えていたら反対協の代表委員の一人から電話が来たのは十月五日の夕方だった。しかも民商を離れる一時間ほど前、自分の机を片付け終えて一息付いていた時のことである。
 こうして私は十月七日日曜日から二〇〇二年十月六日までの丁度一年間、私は「ヘリポート建設阻止協議会 命を守る会」の書記を勤めることになった。
 幸か不幸か九月十一日に発生した米国での同時多発テロの余波は「命を守る会」をも襲っていた。代表の話では土曜日、日曜日は必ず来客があったとのことだが、一日、誰も来ない日もあった。私にしてみれば自分が仕事を覚えるにはこれが幸いした。
 名護民主商工会に一年半勤務した御陰で事務職の意味をある程度は把握できていたし、何よりもここまでの四年間、基地問題に関わってきた御陰で沖縄県内を中心として運動に関わっている主立った団体や人物の顔と名前がわかっていたのも良かった。一から人間関係を築き上げる必要がなかったという意味ではこれまで経験してきた仕事の中では随分と楽な方だったと感じる。
 書記として時には来訪客の応対もした。当初は自分が四年余の間に見聞したことを中心に話していたが、自分自身が辺野古という土地やキャンプ・シュワブ、そして問題の本質を知らなさすぎていることに改めて気付いた。「命を守る会」の書記になるまでの四年間、私が辺野古へ来たのは五回から十回程度である。名護市街地のある西側でいくら基地問題に関わる運動をしても現場を全く知らないに等しかった。それまで何ら疑問を持たずに運動をしてきた自分がすごく情けなく感じた。しかし、私と同じように名護市街地に住み、運動をしている人の中でどれだけの人が現場である辺野古を訪れていたのだろうか。
 「命を守る会」を訪問してくる人は多種多様である。
 沖縄県内で私の年齢に近い年数を運動に携わっているような人でも何故か事前連絡なしで突然訪問してきて「代表は?」と平気な顔をして聞く人にはあきれる以外、何も感想が抱けなかった。本土の人達に「命を守る会」の代表に会わせたいという気持ちは痛いほどわかるのだが、それならば間に立った人間として事前連絡の一つもするべきだろう、それに「命を守る会」が辺野古という小さな地域のごく限られた人間によって運営されている事実を本当に理解していたらこの様な訪問はしないはずである。
 沖縄県内には平和ガイドと呼ばれる人達がいる。この人達は戦跡巡りを中心にしているが、本土からの団体客を引率して辺野古へ来る時もある。だが、ガイドであるから自分たちで要点を説明して風のように去っていく。運良く代表がいれば会釈の一つも残していくが、極力「命を守る会」を煩わさないという配慮が手に取るようにわかる。この違いは一体どこから生じるのだろうか。
 名護市街地で運動に関わっている人達にも似たような感覚を持った方は少なくなかった。集会などの場では「命を守る会」を支えようと声を大にして訴えるのだが、実際には何もしてくれなかったように思える。
 例えばある団体は集会の折、土曜日や日曜日の空いている時間に「命を守る会」の事務所に詰め、代表に代わって来訪者の応対をしようと言っていた。しかし、言った本人はどの様な理由があったのか、しばらくは顔も見せなかったし、この話自体、いつの間にか消えていた。代表の健康が芳しくないことは沖縄県内でこの問題に関わっている人間なら誰もが承知しているはずである。それでいて客を引率してきて応対をさせ、「代表、お身体は大丈夫ですか?」と神妙な顔をして聞く神経が私には未だに理解できなかった。
 私も県外から事前連絡はないが、ようやくの想いで訪問してきた人には事情を説明し、極力失礼にならないように応対してきたつもりである。大抵の人は理解してくれたが、やはり中には「代表は?」と平然と聞く人はいた。こういう人達は本土でどの様な運動をしているのか、気になって仕方がない。
 運動をしている人達の次によく訪ねてきたのは大学生ではないだろうか。
 ある大学の法学部の学生達が沖縄の基地問題に関心を持って訪問してきたこともあった。彼らは自分たちで日程を立案、きめ細かに基地を巡っていたことには頭が下がる思いであった。また研究対象、もしくは卒業論文の題材として単身で訪問してくる学生もいた。こういう学生達はまだ相応に関心を持っており、接していても気持ちが良かった。
 しかし、中には教授が引率していながら「命を守る会」の代表が一から十まで説明をしなくてはいけない、そういう事例も幾つかあった。沖縄県へ観光のついでに基地を巡っているのだろうか、そういう疑問を抱かざるを得なかった。

 丁度一年間を「命を守る会」で過ごしたが、書記の職に就く以前の四年間同様、周囲に追い付くのが精一杯、走り回っている内に一年が経ってしまったように思う。
 沖縄県での五年半の生活がこれから先、どの様な形で私に影響を与えるのか、それは私自身にもわからないが、少しでも政治や社会を深く見ようとする感覚は大事にしたいし、また大阪からどの様な形になるかわからないが、沖縄県の基地問題を支援していきたい。  



2003年08月18日

「私は今日の昼食を学生食堂でトンカツ定食を食べようと思っていましたが残念ながら品切れでしたのでミートスパゲッティーで我慢しました」
 さて、この文章で「、」を入れるとしたらどこに入れますか?



2003年08月17日

 小学校の修学旅行が広島二泊だった。その時の記憶は全く無い。それ以来、二〇〇〇年の夏まで全く広島に行く機会に恵まれなかった。その間、広島や長崎について深く考える機会は少なく、ともすれば忘れがちになっていた。一九九七年春から昨年十月まで名護市に住むようになって沖縄の基地や反戦、平和について少しは考えるようになったが、この五年半が無ければ最近の情勢にどこまで関心を持てたか、疑問である。沖縄には修学旅行で毎年、多数の中高生が訪問している。中には全行程が観光のみの学校もあるだろうが、沖縄で基地に触れるだけで何かを考えるきっかけになるだろう。私も中学か高校の修学旅行で広島か長崎を訪ねていたら違った視点で十代、二十代を過ごしていたかもしれない。沖縄へ行った人達には沖縄への関心を持ち続けて欲しいし、そこから自分が生まれ育った国への関心も持って欲しい、そう思う今日この頃である。



2003年08月17日

 日本は広島、長崎の体験から「唯一の被爆国」と言われている。本当に「唯一」なのだろうか、最近は疑問に感じる。まず広島、長崎へ投下する前、米軍はネバダ砂漠で実際に原爆を投下して実験をしている。それは戦後も続き、南太平洋でも同様の実験が行われ、そこでも投下直後の爆心地へ何も知らない兵士が次々と調査や訓練と称して送り込まれている。また旧ソ連のチェルノブイリやセミパラチンスクの悲劇も加えるべきだろう。この米ロ両国だけでも核の後遺症で苦しんでいる人はどれだけいるのだろう。またインド、パキスタンも核を保有し、実験を繰り返している。そこへ湾岸戦争、イラク戦争で劣化ウラン弾が使用され、同じ悲劇が繰り返されている。広島、長崎以後も兵器として核が幾度となく使用されている以上、「唯一」という言葉を外し、「世界最初の被爆国」と改めても良いのではないだろうか。



2003年08月17日

 ベトナム戦争の際、米国内で反戦運動が盛り上がった理由の一つに長期化により、厭戦気分が広がったからだという。その事もあり、湾岸戦争は短期間で終結したと言う。もう一つは報道陣が戦場の事実を正確に発信したからだとも言われている。十二年前の湾岸戦争では米軍司令部が提供する情報しか得られず、逆にイラクから発信される情報で誤爆や市民の犠牲を私達は知ることができた。今回のイラク戦争では日本人を含め、多くの報道陣が同行取材として戦場に入っている。そして自由に取材を行っているように見えるが、どこまで事実が伝えられているのか、どうしても疑問が残ってしまう。戦争が終わってから様々な事実が私達の下へ伝わってくるのかもしれない。しかし、本当に事実を知らなくてはいけない人達が実際には無関心でいるのだろう。戦争が心身共に蝕む事は歴史が伝えている。



2003年08月16日

 沖縄で英語も分からぬまま時々AFRTSを見ていた。番組の間にCMが流れるのは同じだが、時に米国や州の歴史を扱っており、言葉が分からないなりに見ていて学ばせてもらったこともある。また格好良く航空母艦から飛び立つ戦闘機、訓練用の壁を必死になって越えようとする兵士が出てきて軍隊へ勧誘するCMもあった。だが、海兵隊の勧誘CM随分は違った。C.G.で描かれたスタジアム、そして大観衆の声援を受けながら青年が剣を振り回し、これまたC.G.で描かれた大怪獣と闘っているのである。陸、海、空の三軍よりも先に現地へ行き、一番危険な目に遭う海兵隊が非現実的な映像で新兵を募集するというのはどういうことなのだろうか。最近、自衛隊でも人気アイドルグループを隊員募集の宣伝に起用したことが話題になっている。自衛隊よりも海兵隊が一年ほど先を走っていたと思えば不思議ではないが、軍隊とはその様に生やさしいところだったのだろうか。



2003年08月16日

 八月十日にゆいレールが開通した。その一方で今になって市内を走るバス路線の再編が行われている。どうしてこの様なことになったのか、不思議でならない。モノレールが沖縄のみの交通ならいざ知らず、東京や大阪など全国で十路線が営業をしている。そこには既存の鉄道やバスとの競合もあっただろう。私が住む大阪府のモノレールも大阪伊丹空港への重要な交通手段であり、それまでの路線バスや私鉄と競合となったが、やはり渋滞知らずと言う点で勝利したようだ。せめて一年前にモノレール開業に伴う路線の再編を計画し、利用者へ伝えていく必要があっただろう。その中で利用者からの意見、要望を集めて路線の存続、廃止、改編を考えて欲しかった。今のバス会社を見ているとあまりにも一方的すぎると感じる。また県や沖縄都市モノレールの側も一度でいいから那覇市内の交通に関してバス会社と話し合う機会を設けるべきではなかっただろうか。



2003年08月16日

 今夏、関東では電力不足が心配されていましたが、皮肉にも冷夏となり、電力の方は間に合っているようだ。一方、米国では未だ正確な原因は解明されていないが、電力供給が止まるという事件が発生した。幸いにして復旧しつつあるし、大きな二次災害もなかったようだ。だが、学ぶべきことは沢山あった。ニューヨークでは地下鉄が動かなくなったが、同じことは日本でも起こるそうだ。日本の鉄道は自前の発電所を持っていない。電力会社が今回の米国と同じ状況になれば鉄道は停まることになる。仮に関西でJRが止まればその影響は同じ線路を走っている東海、北陸や山陽のJRにも必然的に出てくる。それだけで済めばいいが、今の日本はもしかすると米国以上に電力に頼っている点が少なくないかもしれない。もう一度、十年ほど前に戻って省エネという言葉と行動をやり直してみても良いのではないでしょうか。



2003年07月27日 根室市、矢臼別演習場訪問記 2003/07/19-21

 昔、「北海道は、でっかいどぉ」と笑えない事を言った人がいましたが、実際に北海道は大きかったです。
 私の住む大阪府は都道府県の中では日本で一番小さいのです。但し、埋め立てを繰り返してどうにか下から二番目になったそうです。

 五月三十一日の朝日新聞に昨年一年間で米軍が国内民間空港を利用したのは二十八空港、七百九十回だったという記事がありました。その中に北海道の中標津空港が鹿児島空港と並んで八回と有りました。それが気になったわけではありませんが、七月十九日から二十一日までの三連休を使って中標津空港へ行ってみました。
 まず初めに何故、米軍が中標津空港を利用するのでしょうか?
 中標津空港のある中標津町の隣に別海町という町があります。ここには自衛隊の矢臼別演習場があります。この矢臼別演習場は東西二十八キロ、南北十キロ、面積は一万六千八百十三ヘクタールです。
 沖縄県で言えば北部演習場やキャンプ・シュワブの演習場に似ているでしょうか。原生林もあれば山あり、谷ありと起伏に富んでいますし、海兵隊の方でもこの矢臼別演習場は気に入っているようです。
 兎に角、この矢臼別演習場が根釧原野の真ん中をこれが占拠している形です。ここへ沖縄県のキャンプ・ハンセンで行われていた実弾演習、世に「県道一〇四号線越え」と言われていた演習が移転したのは一九九七年のことでした。
 それ以前から矢臼別演習場では自衛隊が射爆撃訓練を繰り返し、周辺の牧場ではその爆音に耐えきれず、矢臼別を離れていった人達も少なくはありません。その所為か、演習場周辺には防衛施設局が管理している土地が幾つもありました。
 話を中標津空港へ戻します。私は大阪伊丹空港から新千歳空港経由で中標津空港へ降り立ちました。標準座席数一六六のA320と言う機種に乗ったのですが、民間機の中では中型機に属するのでしょう。中標津空港は滑走路が一本、駐機場から滑走路までの誘導路もない小さな空港です。この小さな空港には一日に四便が飛来します。まず札幌丘珠空港から二便、東京羽田空港から一便、そして私が利用した札幌新千歳空港から一便です。七月十八日から八月三十一日までは東京発新千歳経由便が一便だけ増えるようです。それでも一日五便、残りの時間は自由に使えることになりますが、駐機場は一機分しか有りませんから一度に数機が飛来することはまず無いでしょう。しかし、中型機ならばどの様な機種でも間違いなく離着陸できると言うことにもなります。
 ここから先は少し想像力を駆使してみて下さい。
 まず中標津空港をそっくりそのまま辺野古沖へ浮かべてみましょう。中標津空港を御存知でない方は防衛施設庁が作成した完成予想図かお近くの小さな空港を思い浮かべて下さい。
 普天間代替軍民共用空港には私が知る限り、一日三便の本土便が想定されていました。東京羽田、中部、大阪の三便です。この計画が出た時点で各航空会社は採算が合わないと言っていました。同時に那覇空港には今、二本目の滑走路を設置する計画が出ていますが、間違いなく増設されるでしょう。しかし、滑走路が増設されても駐機場やターミナルが増設されないと意味はないと思います。次に那覇空港は自衛隊と同居の状態ですから滑走路一本を自衛隊が独占する可能性も出てきます。何よりも沖縄の空は米軍が優先ですから滑走路が二本になったところで空の混雑が解消されるとは思いません。那覇空港の新ターミナルにしても混雑していますし、一部の観光客は辺野古沖の軍民共用空港を利用することになります。確かに危険性はありますし、都市部から離れていますが、空港からレンタカーで目的地へ行けます。中標津空港も空港の真横にレンタカーの営業所が軒を並べていました。また空港ターミナルの中には土産物店や食堂が必要になってきます。これだけでいくらかの雇用を生み出せます。
 ここまで賛成派の気分で書いてみましたが、皆さんはどの様に感じますでしょうか?
 中標津空港でレンタカーを借りた私は一路、矢臼別演習場を目指しました。七月三日から二十二日まで自衛隊の射爆撃演習が行われているという情報を事前に得ていましたから偶然とは言え、日程が重なったので運が良かったのかもしれません。結論を先に書きますと射爆撃演習は十九日から二十一日まではお休みでした。
 さて別海町に入り、地図を見ながら矢臼別演習場の周囲を私は走りました。最終的な目的地は矢臼別演習場内でたった一人、反対運動を続けておられる川瀬氾二さんのお宅でしたが、これがなかなか見つかりませんでした。演習場の外周を走る一般道に面した牧場には例えば「JAべつかい 吉田牧場」と言う感じで看板が設置されていたのですが、それらしい物が全く見つからないまま同じ道路を行ったり来たりしていました。時間だけが過ぎていきます。まさか演習場正門で警備している隊員に聞くわけにも行かず、走り続けることを一時間以上、思考力がやや弱り始めてようやく気が付きました。演習場の中に住宅がある以上、一般道から横へそれていると言うことです。その感覚で探すと演習場の中へ延びている道路が一本、すぐに見つかりました。レンタカーに着いているナビゲーションシステムにも載っていない道を走っていきます。途中で砂利道に変わる辺り、どこへ行ってもこういう事に反対すると同じような嫌がらせを受けるのだと改めて感じました。
 砂利道の左右には自衛隊の管理地である旨を記した看板と金網が続いていました。そして演習場に反対する手作りの看板が幾つも並んでいます。ようやく川瀬氾二さんのお宅へ着くことが出来ました。
 川瀬さんの敷地には一泊研修をしていた釧路民医連青年部の十六名が集っていました。丁度、夕食のバーベキューが始まるところでした。私はそこへ入れてもらいました。季節が良ければ蛍も飛び交う場所であることも教えていただきました。それだけ牧場に適した場所であることは言うまでもありません。
 実弾演習が行われていたら爆音を気にしながら不安な一夜を過ごすことになるかもしれない、そう考えていましたから実弾演習が休みでホッとしながら就寝しました。
 沖縄でも実弾演習は数キロ先まで爆音は響きます。辺野古では度重なる実弾演習により、家屋にひびが入ったりする被害が出ています。また爆音が人体へ与える影響についても近年、ようやく取り上げられるようになってきました。人間でも多くの影響を受けるのです。これがほ乳類、牛や馬、豚や鶏にはどの様な影響を与えるでしょうか?
 人間と同様のストレスを感じていることは容易に想像できるでしょう。

 バーベキューをしながら聞いた話ですが、在沖海兵隊員は特別便で沖縄から中標津空港へ移動してきます。地図を見ると矢臼別演習場の近くに航空自衛隊の計根別飛行場がある事がわかります。どうしてここを利用しないのか、やや疑問が残ります。私は今回、残念ながらこの飛行場を見に行きませんでしたが、滑走路が短いとか、そう言う些細な理由ではないような気がします。
 中標津空港に降り立った海兵隊員は銃を担いだままバスに乗り、矢臼別演習場へ来るそうです。しかも私達の税金で宿舎まで新築しています。
 バスに乗るのは構いませんが、バスの列が延々と続きます。そこへ花咲港で陸揚げされた演習に必要な物資もまた公道に列をなして矢臼別演習場へ向けて続きます。これがとんでもない渋滞を生み出すそうです。法定速度を守ることはよいことですが、最悪の場合、二キロから三キロの渋滞になるそうです。

 翌朝、九時半頃でしたか、後片付けと朝食の準備をしていると真上を自衛隊のヘリコプターが一機、飛行していきました。静かな原野の真ん中で一夜を過ごしたと言う以外、演習場の真ん中にいるという感覚を持つようなことはほとんどありませんでした。
 川瀬氾二さんにお別れの挨拶をし、釧路民医連青年部の車両に前後して私もレンタカーを走らせ、国道二七二号線を南下してみました。この国道二七二号線は矢臼別演習場の西部を縦断しています。矢臼別演習場は東西に分かれているとも表現できます。沖縄県の県道一〇四号線のように封鎖してまで射爆撃演習を行ってはいませんが、その代わりにある国会議員は国道二七二号線で演習場を分断している箇所を「全て地下に埋めてしまえ」と提案したそうです。幸か不幸か、この国会議員さんは今、議会へ出たくても出られない状態になっています。

 道道十四号線から国道四四号線へ乗り換え、私は当初の目的地でもあった根室市を目指しました。
 今回、ゆっくりと川瀬さんのお話を聞くことが出来ず、また演習自体が休日だったためか、緊張感に欠けた旅になり、取材ノートも白紙に等しかった。しかし、あの広大な原野が演習場として使用されていると言う事実を地図上ではなく、車で走り、実感できたことは良かったと思う。どの様な運動の現場でもまず行って体感することが大事だと聞いたし、自分でも他人には沖縄へ行って欲しいと常々言っているが、その言葉を再認識できたような気がする。

 尚、現地の詳細に関しましては以下のホームページを御覧になって下さい。
 北海道平和委員会
 http://www10.ocn.ne.jp/~dhi
 週間矢臼別
 http://www4.ocn.ne.jp/~shusan
 海兵隊移転訓練反対別海町連絡会
 http://www.aurens.or.jp/hp/kaihei/kaihei.htm

 根室編
 国道四四号線を東へと走る。
 空を見上げると雲が少しは高くなっていることに気付く。中標津空港や矢臼別演習場では雲が低く感じられた。道東、特にこの地方特有の雲らしいが、沖縄でも普通の雨天でも雲が低く、真上でシャワーか何かを浴びせられているような気になったこともありました。しかし、それに比べるとまだ根室の雲は高い位置にありました。
 JR根室駅で小休止をしました。観光案内所があり、今夜の宿を探し、そして観光マップを入手してから太平洋を右手に見ながら一路、道道三五号線で納沙布岬を目指した。
 納沙布岬には平和の塔というものがある。まず入ってすぐに入場料を払います。エレベーターを使って三階か四階に上がります。三階と四階が展望室になっていて三百六十度を見渡せます。歯舞諸島と国後島が目と鼻の先であることを改めて実感しました。納沙布岬と歯舞諸島の西端である貝殻島まで三・七キロメートルです。この間に珸瑶瑁水道があるわけですが、ここで領海侵犯をしたら拿捕されてしまうわけです。最近、何かと北朝鮮の話題が出てきますが、北方領土近海で漁をする人達にしてみればその恐怖は私達には計り知れない物でしょう。
 私が納沙布岬で過ごした時間は全部で一時間前後だったと思いますが、その間に平和の塔を訪れていたのは僅かな人でした。観光バス数台が納沙布岬へ来ていましたが、道道を挟んで反対側の駐車場へ入り、乗客は全て軒を並べる土産物店へ足を運んでいました。私も土産物店へ足を運びましたが、どこかひめゆりの塔付近の土産物店に通じる物を感じました。
 納沙布岬の駐車場には自衛隊の車両が二台並んでいました。根室の市街地付近でも一、二台すれ違いましたし、翌二十一日に中標津空港を目指している時にもすれ違いました。根室市街地付近に航空自衛隊の根室分屯地があったからでしょうか、矢臼別演習場では全く影も形も見なかった自衛隊車両にここで出会えるとは思いませんでした。
 自衛隊の基地や施設がある土地では必ず隊員を相手にした夜の街があると聞いたことがあります。「それで」と言うわけではありませんが、夕方になってから根室市街地を少し散策してそれらしい場所を探してみましたが、見つけることは出来ませんでした。見落としたのか、それとも最初から無かったのかもしれません。根室市は十九日、二十日の二日間は盆踊りでした。しかし、そこにもちゃんと「島を返せ」というスローガンが目に付きました。
 余談ですが、十九時半から二十時まで花火が上がりました。一発ずつ丁寧に花火を上げる点も名護と同じでした。

 根室支庁舎、根室市役所など至る所で「北方領土返還」を訴える看板などを見かけましたが、その一方でロシア語もまた見かけました。駅前の交番や市街地図にもロシア語が書かれていましたし、市街地の店舗では楽器、CDを扱っている店が壁にロシア語を大書していたのが記憶に残っています。私が一夜の宿とした駅前のホテルにもロシア語を話す三人の男性が宿泊していました。
 一方では「北方領土返還」と言うが、一方では大事なお客さんという点も名護を思い起こさせる物があります。事件、事故さえ起こさなければ米兵も「大事なお客さん」です。仮に今、在沖米軍が全て撤退したら嬉しい反面、経済的には大きな打撃となるでしょう。何よりも米軍がその点を当初から把握して自分達に有利な経済構造を沖縄で構築した点が嫌らしいという以外、他に表現があるでしょうか?
 さて矢臼別演習場で演習をする米海兵隊は夜遊びをするのでしょうか?
 川瀬氾二さん宅で会った釧路医労連の方に聞きましたら米兵はわざわざ釧路まで足を伸ばすそうです。しかし、ほとんど全ての店で米兵は断られるそうです。しかも沖縄と違って米兵も無理強いせず、あっさりと諦めて釧路の街をあてもなくさまようそうです。同じ日本でも沖縄では誰彼構わず「welcome」で事件、事故を起こしても誤魔化したり、逃げ切ることも出来るのに全く違う北海道で米兵も戸惑ったことでしょう。上官からも紳士として振る舞うように強く言われているらしいです。そう言うわけで北海道ではまだ米兵絡みの事件、事故は無いようです。しかし、油断すると進んで米兵相手に商売をする店も出てくるだろうし、米兵の方も事件、事故を起こすかもしれない。

 JR根室駅には一日で十数本が発着します。大阪の交通的に便利な土地に住んでいるとこれがまず信じられない。今回の旅を計画した当初、高校時代に使っていた地図帳を見ながら移動方法を考えていた。そこには確かに中標津から別海町を通り、厚床まで線路が通っていた。この十五年あまりの間に北海道の中だけでどれだけの線路が消えたのだろう。それを考えたら少し悲しくなりました。
 マイカー、レンタカーの普及で公共交通を利用者が減った結果なのでしょうが、沖縄でも現在、路線バス四社が赤字で頭を抱えている現状が脳裏で重なりました。

 最後に一言だけ本音を書きます。幸いにして体調を崩しませんでしたが、やっぱり寒かった。ホテルでは全館暖房中という張り紙があった。矢臼別演習場でも通称「川瀬ホテル」と呼ばれている建物の中ではガス・ストーブを焚いて夜を過ごしました。沖縄で冬でも冷房が必要なのと同じと言えば同じかもしれません。 

 追記
 矢臼別演習場に関しましては矢臼別平和委員会が発行している『演習場のどまん中から 2002年・米海兵隊移転訓練監視記録』がよくまとまっています。

 また新千歳空港の周囲には広大な自衛隊の駐屯地があります。新千歳空港には二本の滑走路がありますが、ここに那覇空港の将来を重ねてみることは出来無いでしょうか?



2003年07月12日

 長崎県と沖縄県で相次いで中学生による事件が発生したせいか、最近は「教育」という言葉を良く耳にします。
 今の教育が間違っているとも言われています。そこで少し考えてみました。

 戦前、明治になってから義務教育がようやく日本に普及しました。しかし、「おしん」は極端な例かもしれませんが、学校へ行くこともできず、十代前半で働いていた子供がいたわけです。義務教育がようやく安定したのは皮肉にも本当の意味で戦前でした。いわゆる皇民化教育です。誰もが義務教育という制度を守るようになった反面、そこには大きな偏りがあったわけです。
 終戦後はどうでしょうか。
 昨日まで大東亜共栄圏を唱えていたような人が突然、手の平を返したように学校で民主主義を教えるわけです。軍国主義に盲従していた人が民主主義を本当に教育することができたのでしょうか。私にはわかりません。
 本来ならば自分達の犯してきた過ちを一定期間反省し、同時に改めて教壇へ立つために教職員自身が学び直す必要があったでしょう。それがなかったのです。ここには日本という国の早急な復興と対共産圏を考慮したアメリカの思惑があったと言うことは否めませんが、同時に日本政府がそれに甘えてしまったと言う面もあります。同じ敗戦国であってもドイツでは全く逆でヒトラーに協力した人々を裁き、賠償金を支払い、教育も重視しています。
 ベトナム戦争や湾岸戦争で問題になりましたが、戦場へ行った兵士の心の傷は当然、日本軍の兵士にもあったでしょう。当時は心の問題は重視されていませんでしたし、ようやくの思いで生き残り、祖国の土を踏んだ人達は人知れず、悩んだことでしょう。その人達が家庭に入り、良き夫、良き父親になった時、何らかの弊害が生じていたかもしれません。
 戦後の日本は「欧米に追い付け、追い越せ」一辺倒でした。その結果、中卒は「金の卵」と言われて地方から都会を目指し、ただひたすら働きました。この人達が日本の技術力を高めたことは言うまでもありません。中小零細企業の小さな町工場が国際的にも評価の高い技術、職人技を維持してきたのです。しかし、その人達は十五歳までしか親元にいなかったことになります。結婚して子供が出来た時、親としてどこまで振る舞えるのでしょうか。皆が皆、悪いとは言いませんが、中卒の人達は我が子を高校、大学へ進学させ、自分と同じ苦労をさせたくないと思い、塾へ通わせ、「勉強、勉強、また勉強」と言うことになります。これが自然と競争社会を産み出していきます。受験産業を繁栄させます。誰彼問わず成績至上主義へ陥っていきます。
 親は教育費を払い、一坪でも大きな土地を買い、一畳でも広い家を建てて自分の出世を確かめます。その反面、休日には接待ゴルフに行き、仕事と称して夜遅くまで飲み歩きます。この結果、父親は家庭から精神的に離れていくわけです。いくら「俺は、お前らのために働いている」と言っても空回りしかしません。
 同じことは教職員にも言えます。受験競争を生き残り、教員免許を取得したものしか教員にはなれません。多くの教員は同時に公務員という言葉と「=」で結ぶことが出来ます。
「公務員になること」
「大手企業に入ること」
 幼い時から呪文のようにそれを聞かされ、ようやくの思いで大学に入った途端、制服もない、塾に通う必要はない、一つや二つ単位を落としても誰にも叱られない、授業は選択制で空き時間は自由に使える、小学一年以来高校三年までの緊張感が全てひっくり返されるわけです。解放された中で四年間を過ごし、試験の時だけ少し勉強して済む、それで教壇に立つ。教師自身が人間関係を知らず、社会を知らず、子供を知らず、本当の教育を知らないわけです。
 戦後、六十年近くになりますが、今までの矛盾が今、一番嫌な形で噴き出しつつあるように思います。



2003年07月03日 身近なところに無駄が 琉球新報

 色々な場面で景品や記念品として私達は社名とかが記されたボールペンを頂戴する機会が多い。そういう場面で貰ったボールペンの大半は原価も知れている物だろうし、現在の私たちにしてみれば使い捨ての代名詞みたいな面もある。高校を卒業して以来、幾つか事務関係のアルバイトをしてきたが、大抵の事務所ではインクの出なくなったボールペンを即座に護美箱へ放り込む場面をたびたび見てきた。しかし、どれだけ安価なボールペンでもインクの入っている芯を交換すれば幾らでも使える。それでも新しいボールペンを購入してくる人は後を絶たなかった。リサイクルと言う言葉が定着して久しいが、案外、こう言うところで無駄を繰り返している人は多いのではないだろうか。捨てるに捨てられないようにボールペンの単価を上げてみるのも良いかも知れない。一本のボールペンが教えてくれた大事な事である。因みに今、私の部屋には芯のないボールペンが貯まっている。



2003年07月01日

 六月に浦添ようどれの調査が行われ、男性の人骨から中世日本人の特徴が見つかり、女性の人骨からは南方系の特徴が見つかっている。沖縄県民がどこから来たのか、昔から問われてきたことである。しかし、尚寧王以降は政治的な理由から日本人から分かれたのが琉球民族だと言われてきた。私が高校生の頃に使っていた日本史の教科書では倭寇の拠点の一つに琉球が記されていた。当時は沖縄そのものを知らなかったし、何ら疑問も抱かなかったが、今は極端な記載であったように感じる。だが、倭寇と並行して多くの商人や冒険者が海を渡り、各地から琉球へ来たことだろう。今後は県民が持っている遺伝情報を調べていけば琉球民族の出身地が割り出せるだろう。
 ただ一つ残念なことは科学的に解明されてしまうと一人の素人として「琉球民族はどこから来たのか」という推理する楽しみが無くなってしまうことである。



2003年06月14日 米軍機の民間空港着陸 琉球新報

 先日、新聞を読んでいると昨年、米軍機が国内民間空港へ着陸したのは二十八空港、七百九十回との数字が載っていた。一番多いのは三百六回の長崎空港である。この時点で軍民共用空港と言えるのではないだろうか。近くに佐世保基地が有るから最寄りの空港として利用されたのであろう。二番目は百十四回の福岡空港である。以下五番目に奄美空港の名前は出てくるが、沖縄県内の空港は出てこない。米軍側にしてみれば県内の空港を強引に利用しても「年間を通して一桁ならば」という気持ちが起こっても不思議ではない。沖縄の空と同様、日本中の空が米軍に提供されていると表現して過言ではない。その提供空域のすき間を縫うようにして私達は民間機に乗り、他府県へと移動しているのである。報じられないニアミスも少なくはないだろう。県外で米軍機に利用されている空港周辺の住民とも連携し、在日米軍への抗議行動を大きくしていくべきだろう。



2003年05月19日

 いつも私達がお世話になっている投稿欄の片隅に「きょうの歴史」欄がある。その五月八日付には「米誌ニューズウィークは、一九六五年に米海軍水爆搭載機が沖縄近海に水没、米軍は事故をもみ消したと−と報道」と言う話が載っていた。昨年十月下旬に私は「辺野古弾薬庫からキャンプ・ハンセンまで地下トンネルが通じているかもしれない」という一九七二年十月二十九日の琉球新報を記事を題材にして投稿をしたが、この記事は当時、北部支社にいた記者氏に確認をしてもらったのだが、真偽のほどはわからずじまいだった。私が知らないだけで沖縄には他にも類似の疑惑はある事だろう。復帰して三十一年も経っているし、こういう疑惑の全てを再調査して真偽を確かめてみても良いのではないだろうか。確かに沖縄近海に水爆が沈んだままになっているという話が事実ならば気持ちの良いものではないが、疑惑が疑惑のままで残る方がより気持ちが悪いと感じる。



2003年05月19日 万全の態勢で8月10日を 琉球新報

 八月十日に沖縄都市モノレールが営業を開始する事が決まった。地図上で沿線を確かめていると那覇空港から首里城まで結構、住宅街を走っている事が気になった。鉄道などに乗っていると分かるのだが、沿線の住宅は大抵、線路側の窓などに目隠しをしている。電車がどれだけ速度を出していてもやはり車窓から家の中が見えてしまうからだ。大阪モノレールが開通した際も同様の事が問題になった。特にモノレールは高所を走る乗り物である。それだけ車窓の角度も広くなり、沿線の一般住宅のみならず、マンションなどでも気を使うことになるだろう。こういう悪条件から既存のマンションなどでは賃貸料を低くしないと入室者が減る事になるかも知れない。また逆に駅周辺では利便性から地価が高騰していく事が考えられる。当然、こういう問題は既に解決されている事だろう。だが、営業を開始してから問題が出てこぬよう、万全の態勢で八月十日を迎えて欲しい。



2003年05月08日 ジュゴンは藻場荒らし許さず 琉球新報

 四月十七日に辺野古沖で海兵隊の水陸両用車一両が演習中に事故で海中へ沈没した。一九九六年十二月にも一日に二両が相次いで辺野古沖に沈んでいる。合計三両が魚の住みかになっているわけだが、環境への影響はどうなのだろうか、気になってしまう。当然、車両全体が金属であり、戦場で使用するようある程度の加工がなされているだろう。塗料にも有害物質が含まれているだろう。先の大戦以来、艦船を始めとして薬莢や化学薬品まで大小様々なものが沖縄近海に沈められてきた。中には魚の住みかとして故意に海中へ投棄された物もあるかもしれないが、自然が長い時間を費やして作り出した環境を人間が勝手に変えてしまって良い物だろうか。特に今回のように事故で沈んだ物は可能な限り回収の努力をするべきではないだろうか。海の生物達が気に入っていれば良いが、少なくともジュゴンは藻場を踏み荒らす水陸両用車の存在を許しているとは思えない。



2003年04月27日

 先日、新聞に目を通しているとベトナム戦争で使用された枯葉剤のダイオキシンはこれまで考えられていた二倍以上の量が含まれていたとの記事があった。その記事には参戦した米兵の健康も心配とも書かれていた。「ベトナム戦争症候群」と言うべきだろうか。ベトナム戦争当時、米兵の中で自分の健康に関心を持った人がどれだけいただろうか。誰もいなかったからこそ、今まで問題にもならなかったのだろう。私は広島、長崎の被害に目を向けるだけで耐えきれないものがある。私が知っている枯葉剤の惨禍は断片でしかないが、それでも直視できるものではなかった。ベトナムから世界へ決して多くは伝わっていないだろう。少なくとも三十年前にもう少し枯葉剤の影響を世界へ伝えていれば最近の戦争で悲劇を繰り返さずに済んだかもしれない。命ある以上、争いが起きるのは仕方がない事だろう。しかし、同じ人間として直視できないような悲劇だけは産み出さないで欲しい。



2003年04月24日 真実が伝わらない国家? 琉球新報

 今回の対イラク戦争でまた劣化ウラン弾が使用されたという。十二年前と同様に従軍兵士やイラク国民に想像を絶する後遺症を残す事になるのだろう。この劣化ウラン弾にも生産している工場があり、そこで働く従業員がいるはずだが、その人達の身体にも影響は出ているだろう。日本より環境基準が厳格な米国である、本来ならば今頃は問題視され、劣化ウラン弾は生産停止になっていたはずだ。知人に調べて貰ったのだが、米国政府は湾岸戦争症候群と劣化ウラン弾の関連を徹底的に否定しているようである。定かな記憶ではないが先の大戦後、太平洋で核実験を行った際、現場近くで海水浴を楽しんだり、防護服を着用しないで爆心地に入っている兵士がいたと聞いた事がある。米国は自国民に核の恐怖そのものを隠している感じがする。自由の国と言われながらも真実が伝わりにくい国家なのかもしれない。



2003年04月11日 アフリカ象のモナちゃん

 一九七三年三月十六日に「那覇空港で、タイから着いた象一頭逃走。懸賞金をつけたが行方不明」と言うことがあったそうです。
 そこで次のような話を思い付きました。

 アフリカの草原でアフリカ象のモナちゃんは今日も弟たちの面倒を見ていました。そこへ大きな大きなトラックが走ってきました。モナちゃん達が「なんだろう」と見ているとトラックから大きな銃を持った人が出てきました。
「皆、逃げて」
 ママが叫びました。モナちゃん達は逃げました。
 ズドーン!
 大きな音が草原に響きました。モナちゃんが倒れてしまいました。
 モナちゃんが目を覚ましたのはオリの中でした。オリの外には飼育係の小父さんが立っていました。
「モナちゃん。きみは今から飛行機に乗って、日本の動物園へ行くんだよ」
 モナちゃんは泣きました。
「いやだよ。日本なんか、行きたくないよ。ママに会いたいよ」
 飼育係の小父さんは言いました。
「動物園は、バナナが沢山食べれるよ」
「バナナなんかいらないよ。みんなに会いたいよ」
「芸を覚えて、子どもたちに見せてあげられるよ」
「芸なんか、覚えたくないよ。エーン。エーン」
 モナちゃんはトラックの中でずうっとずうっと泣いていました。
 飛行機に乗ってからも窓の外を見ながらずうっとずうっと泣いていました。
 何時間も飛行機に乗ってモナちゃんは日本の空港に着きました。
 空港では大勢の子どもたちがモナちゃんを出迎えました。
 モナちゃんは長い鼻を使ってオリの鍵をはずして外へ出て走り出しました。
「あ!モナちゃんが逃げた」
 飼育係の小父さんが叫びました。
「モナちゃん!待って!」
 みんながモナちゃんを追いかけました。でも、モナちゃんは駆け足が早かったので誰も追い付きませんでした。
 モナちゃんはとぼとぼと歩きました。足元はコンクリートとアスファルト、周りはビルばっかりです。モナちゃんは悲しくなりました。
「アフリカに帰りたいよぉ」
 ごつん。モナちゃんは誰かにぶつかりました。
 幼稚園の黄色い帽子を深めにかぶった女の子が立っていました。
「あなたは、だぁれ」
 女の子がモナちゃんに聞きました。
「わたしは、アフリカ象のモナちゃん。あなたは?」
「わたしは、ナナちゃんよ。モナちゃんって、空港から逃げ出したの?」
「うん、そうよ。アフリカに帰りたいの」
 ナナちゃんは言いました。
「アフリカって、海の向こうなのよね。だったら、船に乗ればいいわ」
 ナナちゃんはモナちゃんの鼻を引っ張って、公園へ連れて行きました。
 公園には手こぎボートがありました。
「これに乗れば、いいわ」
 ナナちゃんは言います。
 モナちゃんは手こぎボートに乗りました。
「モナちゃん、さようなら。気を付けてね」
 ナナちゃんが手を振りました。
 どぼどぼどぼ。
 手こぎボートはモナちゃんと一緒に沈んでしまいました。
「そうか。もっと大きな船じゃないと、駄目か」
 ナナちゃんは一人で考えていました。
 びしょぬれになったモナちゃんとナナちゃんは大きな船を探して歩き出しました。 ようやく大きな港に着きました。あたりはすっかり真っ暗です。
 モナちゃんもナナちゃんも歩き続けて疲れてしまいました。悲しくて悲しく泣き出しそうになった時でした
「おや?こんな所に、ゾウさんがいるよ」
 二人の前にパイプをくわえた船長さんが立っていました。
「もしかすると、空港から逃げ出した、モナちゃんかい?」
 モナちゃんはうなずきました。
「どうして逃げ出したの?」と船長さんが聞きました。
 モナちゃんは泣きながら言いました。
「ママに会いたいよ。弟たちに会いたいよ。アフリカに帰りたいよ」
 するとナナちゃんも泣き出しました。
「モナちゃんがかわいそうだよ」
 船長さんは大きな船を指差しながら優しく言いました。
「あれが、わしの船だ。今からアフリカに行くから、乗せてあげよう」
 モナちゃんとナナちゃんは嬉しくなって踊り出しました。
「シィーッ。静かに!誰かに見つからないように、こっそりと、急いで船に乗って」と船長さんが言いました。
「それから、ナナちゃんも迎にきてもらおう」
 そう言うと船長さんはナナちゃんのおうちに電話をしてくれました。
 ナナちゃんはモナちゃんに幼稚園の黄色い帽子をあげました。
 ナナちゃんのお母さんが港まで迎にきてくれました。
 ナナちゃんはお母さんと一緒にモナちゃんを見送りました。
「さようなら、モナちゃん。気を付けてね」
「さようなら、ナナちゃん。ありがとう」
 モナちゃんは黄色い帽子を振りました。
 モナちゃんは何日も何日も船に揺られ、ようやくアフリカに着きました。アフリカの港からモナちゃんは小さなトラックに乗せてもらいました。
 がたごと、がたごと。
 モナちゃんを乗せたトラックは草原を目指して走ります。
 がたごと、がたごと。
「おや?」
 モナちゃんの耳に誰かの泣き声が聞こえてきました。ママの声です。
「ママー!」
 モナちゃんはトラックの上から鼻を振りました。
 こうしてモナちゃんはアフリカの草原へ戻ることができました。
 おしまい。



2003年04月06日

 沖縄都市モノレールの開通が八月十日に決まったが、一方で路線バス四社の統合問題が一向に前へ進んでいない。観光客が那覇空港から国際通り、首里城へ行こうとすれば渋滞を知らないモノレールを選択するだろう。その結果、またバス会社は赤字を増やす事になる。確かに路線バスは地域住民の足であり、観光客を気にしてはいないかも知れない。大半の個人旅行者はレンタカーを利用し、タクシー業界を苦しめる結果となっている。だが、公共交通機関で旅を楽しむ人もまだ少なくない。何故、モノレールの導入が決定された時点でバスとモノレールが共存共栄する道を模索しなかったのだろうか。例えばモノレールの駅を起点とした新しいバス路線を設定する、
相互の路線が重複しないよう極力配慮をするなど考えられたはずである。今のままだと両者が乗客を奪い合い、結果としてモノレールも赤字になるだろう。今からでもバス路線の再編は間に合うだろう。



2003年04月01日 嘉吉附庸一考察 歴史読本 二〇〇三年四月号

 嘉吉元(一四四一)年、将軍足利義教に対し、弟の大覚寺義昭が謀反を起こしたが破れ、日向国へ逃れてきた大覚寺義昭を討った島津忠国は恩賞として琉球を賜ったという。この時に義教が発行した琉球充行状は延宝八(一六八〇)年に焼失したと言われている。これ故に「嘉吉附庸」その物が虚構と思われている。仮に足利義教が琉球充行状を発したとしても義教本人がどこまで琉球王国の実態を知っていたのか、それが疑問である。おそらく義教が知っていた琉球とは海外貿易の中継地点と言うことぐらいではなかっただろうか。当時の国内情勢から言えば義教が恩賞として島津氏に与えられる土地もなく、海外貿易上の特権を恩賞として与えたと考えられる。もしくは全く逆で大覚寺義昭が逃亡への助力を島津忠国へ求め、協力の見返りとして琉球王国を条件に提示したのかもしれない。それが誤り伝わって「嘉吉附庸」になったとも考えられる。どちらにしても六月には将軍である義教自身が暗殺されるような時代である。琉球貿易で何らかの特権を得、島津氏は経済的な安定を確保したのではないだろうか。
 この「嘉吉附庸」が次に歴史上へ出てくるのは寛永十一(一六三四)年五月四日付の書状である。この書状は島津氏の家老である伊勢貞昌が主君家久へ宛てたものである。この時期に「嘉吉附庸」が何故出てきたのか、一番の疑問である。しかし、この書状からわずか三か月後の八月四日に島津氏の琉球十二万三千七百石を領地として石高に加えることが認められている。おそらく貞昌は嘉吉元年以来の由緒があるから領地として認めさせるつもりだったのかもしれない。そうすれば同格である仙台の伊達家より約十万石多い領地となり、官位や江戸城内の席次にも影響が出ると考えていたのかもしれない。同月、幕府は譜代大名の妻子を江戸に置くことを命じているが、これは伊勢貞昌が土井利勝に提言したとも言われている。
 次に「嘉吉附庸」が歴史上へ出てくるのは享和二(一八〇二)年に編纂された『島津国史』の中でこの「嘉吉附庸」が明記されている。寛政十一(一七九九)年に編纂が始まった『寛政重修諸家譜』に影響されたとも考えられるが、同じ年に東蝦夷地を幕府が直轄地にしている。寛政四(一七九二)年九月に大黒屋光太夫がロシア人ラクスマンに伴われて根室へ帰国している。また寛政八(一七九六)年八月にはイギリス人ブロートンが海図製作のために室蘭へ来航している。これらが直接のきっかけになったのだろうか、寛政十年一月に幕府は渡辺胤らに蝦夷地巡見を命じているし、同じ年に近藤守重が択捉にまで達している。蝦夷地巡見の結果、松前氏の蝦夷地支配が地元住民を酷使している点、また蝦夷地からの収益が大きいこと、そしてロシアの南下を理由にして直接支配へ至ったのだが、これを島津氏はどの様に受け止めたであろうか。蝦夷地同様に琉球にも幕府の巡見が入れば間違いなく幕府の直接支配になるだろう。それで十二万石余を失うだけならまだ良いが、島津氏は琉球で圧政を強いて暴利を得ている。隠居している重豪が将軍家斉の岳父であっても悪事が露見したら厳罰を受けることになるだろう。ここで「嘉吉附庸」が再び引き出される。まず『島津国史』を編纂し、事実として固定すると同時に編纂中の『寛政重修諸家譜』にもこの事実を載せることで幕府の琉球への干渉を避ける努力をしたように見える。単なる偶然であろうが、嘉吉元年の「嘉吉附庸」に対して対馬宗氏は嘉吉三年に嘉吉条約を結んで以来、朝鮮との通交を独占していた。そして同じように徳川将軍家の代替わり毎に使節を派遣していた。結局、琉球には幕府の巡見は入らなかったし、直接支配にもならなかった。
 私には実体のない「嘉吉附庸」が島津氏によって都合良く利用されたように見られる。



2003年04月01日

1945 米軍、北谷村から読谷村渡具知に至る海岸線へ上陸。その日の内に北飛行場(読谷補助飛行場)、中飛行場(嘉手納基地)を占拠する。


2003年04月01日

 当ホームページが開設して1年が経ちました。この間、本当に色々なことがありました。まず私が2002年10月26日に5年半暮らした沖縄県名護市に別れを告げて大阪府の実家へ戻りました。
 今でも名護市をはじめとして単車で走り回った土地の風景が時折、脳裏をかすめていきます。そう言う風景や接してきた人達を思い出しつつ、飽きることなく沖縄の新聞である「沖繩タイムス」と「琉球新報」へ投稿を続けています。私自身としては「他府県人の視点から見た沖縄県」という立場を基本姿勢にしているつもりですが、内容が合致しているかどうか、疑わしい限りです。

 公私を問わず一番大きな事件はアメリカ、イギリスによる「第二次湾岸戦争」と表現しても決して大げさではない戦争が始まったことです。今回の戦争に関しては前回の湾岸戦争時に比べて賛否両論が激しく飛び交っている点は重要視するべきでしょう。連日、世界のどこかで反戦集会やデモが繰り広げられています。それは日本国、沖縄県でも同じです。特に沖縄県では米軍基地があるが故に危険視され、修学旅行などの予定が相次いで取り消されているというのが現状です。これと同様の現象は2001年9月11日に起きた同時多発テロの後にもありました。若い人には具体的にどこがどの様に危険なのか、その目で確かめて貰いとも感じています。

 私自身は殴ったり、蹴ったりというのは苦手です。争い事に巻き込まれそうになったら真っ先に逃げ出す方です。こういう自分の性格に合わせるつもりで戦争に反対する、それだけではありません。
 どこかで戦争が起こるたびに人類は新しい兵器を戦場へ持ち込み、さらに多くの人を苦しめようとします。
 世界で初めて核兵器の犠牲となった国民の1人として何か考えてみたい、そして考えてほしい、そう感じる今日この頃です。

 2003年4月1日



2003年03月31日 生まれる前から傷付ける 琉球新報

 名護市に住んでいた頃、市立図書館でウランの被害を訴える写真展が行われていた。その中でウラン鉱山の近くでは口蓋破裂を持って生まれる子供が多いという説明の付いた一枚があった。この病気自体は古くからあり、未だに原因は不明らしい。私自身もこの病気を持って生まれたが、今は何一つ不自由なく生活している。医師と医療設備が整っていれば治療できるわけだが、中にはそう簡単にいかない場合もある。十二年前の湾岸戦争で劣化ウラン弾が使用されたイラクでは医薬品や医療設備も満足ではなく、仮に医療が充実していても治療の施しようのない症状の子供達が苦しんでいる。また劣化ウラン弾を使用した側である米軍でも湾岸戦争症候群という原因不明の病気が拡がっている。しかも従軍した兵士だけでなく、その子供にも何らかの症状が現れているという。広島と長崎の原爆、ベトナムの枯葉剤と同じ過ちを幾度繰り返し、今起きている戦争と全く関係ない次世代を産まれる前から傷付けている事に戦争を起こす人達は早く気付いて欲しいものである。



2003年03月09日 大阪にいても沖縄問題訴え 沖繩タイムス

 昨年十月に伊江島のわびあいの里を訪ねた。朝九時の船には修学旅行の高校生が所狭しとバス四台分も乗っていた。その高校生達は伊江島へ着くと全員がサイクリングをしていたようである。わびあいの里を目指して歩いていれば次々と私の真横を自転車が追い抜いていった。最終便まで私はわびあいの里でゆっくりと時間を過ごしたのだが、この間に修学旅行生はついに一人も訪ねて来なかった。本土から見れば伊江島はサイクリングに適した島という以外、何もないようだった。おそらく引率している先生達も伊江島が先の大戦で三千名を超す犠牲者を出した事は知らなかったのだろう。大抵の修学旅行は南部の戦跡だけを巡って沖縄戦を学んだつもりになり、中北部はそれと相対する観光地と思われているように感じているのは私だけだろうか。阿波根昌鴻さんが永眠されて早くも一年になろうとしている。大阪にいても沖縄の問題を訴えていく必要性を改めて感じている。



2003年03月08日 岩国基地の増設拡張 琉球新報

 一月下旬、広島県沖美町の町長が神奈川県厚木基地で行われている夜間発着訓練を受け入れようとした。幸いにして町民や周囲の反対もあり、一週間ほどで町長は白紙撤回の上、辞職した。この話が進められていたら私が住む大阪府も何らかの影響を受ける事になっていただろう。厚木基地で訓練を行っているのは横須賀港を母港とする航空母艦の艦載機である。航空母艦が沖美町沖合の瀬戸内海まで出かけるだろうか。おそらく横須賀沖から沖美町まで生活圏の真上を低空飛行して病院、学校などの施設を仮想標的としながら爆音をまき散らしていく事になっただろう。現在、沖美町から十二キロほど離れた岩国基地では新滑走路と五万トンの艦船が接岸できる岸壁が増設中である。これが完成すると厚木から岩国まで米軍機が昼夜を問わず、私達の真上を飛行する事になるかも知れない。爆音訴訟は嘉手納や普天間、厚木や岩国だけでなく、米軍機が飛行する地域全体の問題である。



2003年02月23日 今、もう一度海を見直そう 沖繩タイムス

 オーストラリアを中心に世界で約十万頭が生息しているジュゴンは音に敏感な動物である。今、沖縄近海には多くて三十頭から五十頭が生息していると言われている。実際には三十頭以下に減っているかも知れない。かつて八重山諸島の新城島では年一回だけ捕獲され、肉は塩漬けにして首里城への年貢としていたそうだ。当時から珍重していたと言う事は生息数は少なかったのかも知れない。戦後の一時期とは言え、生活のために行われたダイナマイト漁や動力船の普及でジュゴンはその数が急激に減ったとも言われている。しかし、先の大戦中、一九四四年十月十日以来の空襲、一九四五年四月一日の上陸に際して米軍は艦船約千五百隻を沖縄本島へ最接近させている。これに伴う射爆撃を考慮すればジュゴンでなくても耳を塞いで逃げ出したくなるだろう。最近、新たに八種類の貝が発見されている。私達はもう一度海を見つめ直す時期に来ているのではないでしょうか。



2003年02月15日 「象のオリ」撤去を 琉球新報

 現在、読谷村から金武町のキャンプ・ハンセンへ移設工事が進んでいる楚辺通信所、通称「象のオリ」は不要な施設だと聞いた事がある。読谷村に「象のオリ」が建設された当時と違い、通信傍受の役目はそのほとんどが私達の遙か上空、宇宙に浮いている人工衛星が立派に役目を担っているそうである。代替施設が宇宙にあると言えるだろうか。確かに私達が日頃使っているパソコンを含む多くの電化製品が僅か十年余りで格段の進歩を遂げた。同様に携帯電話は小さくなる一方、映像を送信できるようになっている。その事を思えば「象のオリ」も格段に面積や施設の規模を小さくできるはずだ。そのままの規模で移設されると言う事は中身がさらに強化され、「象のオリ」は多くの電波を傍受する事になる。通信傍受だけでは誰も傷付ける事はないが、そこで得た情報が遠く離れた場所で爆撃などを行い、人命を奪う事になる。今からでも工事を中止し、撤去してほしい。



2003年01月16日 新都心などに採血車を 琉球新報

 私が新聞への投稿を始めたのは献血の件からだった。今、沖縄では一日に必要な献血数は二百人前後と以前に比べて増えている。だが、献血ルームはパレット久茂地前と旭町の血液センターだけである。しかし、沖縄の繁華街は那覇新都心や北谷町へ移行しつつある。今すぐ献血ルームの増設をする事は無理かもしれないが、例えば移動採血車を試験的に北谷町美浜や那覇新都心で人通りの多い場所へ一週間程度、通わせてみてはどうだろうか。久茂地より血液提供者が増えるような気がする。私が住んでいる大阪府でも面白い所では運転免許試験場の敷地内に献血ルームがあり、「免許取得の記念に献血しませんか」や「血液検査で健康診断にもなりますよ」と担当のおばちゃんが呼び込みをしている。大阪らしいと思う反面、本来の趣旨と違うような気もするが、それだけ血液提供者を獲得しようと必死だとも言える。沖縄でも少々強引な呼び込みをしても良いのではないだろうか。



2003年01月07日 成人式に思う 琉球新報

 この一、二年は成人式の都度、悪い意味で騒がれている。しかし、翻ってみるに私達が成人した十年程前に小道具として携帯電話がなかっただけで成人式崩壊の予兆があったような気がする。例えば私の時には振り袖姿の女性達は市民会館の入り口で同級生との再会に歓声を上げて喜び、市職員が会場へ入るように促してもその声が響かない状態であった。私は友人とその真横をすり抜けて会場へ入ったが、市長を始め来賓や新成人代表の挨拶に退屈し、記念品だけ頂いて途中で席を立ってしまった。その頃はまだ会場周辺で新聞に載るような事件までは起きていなかったが、少なくとも十年前に成人式の崩壊は始まっていたように思うし、同時に成人式の賛否や方法についても検討する時期ではなかっただろうか。また昨今問題になっている学級崩壊も成人式の崩壊と類似点があると感じるのは私だけだろうか。次の成人式は新聞に載るような事件を起こさないよう、新成人に期待したい。



2002年12月14日 米軍機の低空飛行 琉球新報

 五年半住み暮らした名護市から大阪の実家へと帰った。私の実家は閑静な住宅街、昼間でもあまり騒音という物がない。しかし、耳をすますまでもなく名護市にいた時と変わらない音が私の耳に入ってきた。それは航空機の騒音である。沖縄のように米軍機が爆音で低空飛行しているわけでもないし、風向き一つで全く聞こえない時もある。自宅の前を自動車が通ったと思えばさして気にならない程度の音量である。それでも航空機の出す騒音である事はすぐにわかる。だが、名護市に住んでいた頃、爆音に慣らされてしまったのか、気付かない人が多かった事に私は驚いた。例えば二〇〇一年二月、米軍機が低空で市街地上空を飛んでいた。私は気付いて周囲の人に訴えたのだが、確認すらしてもらえなかった結果、二か月以上に渡り低空飛行を許す事となった。嘉手納基地や普天間飛行場周辺の住民と同様に爆音訴訟を起こすようになってからでは遅いから日々気を付けて欲しい。



2002年12月07日

 十一月十四日に島根県隠岐諸島近海で米軍が水中爆破訓練を行った。私はこの件に関する情報の大半を島根県の新聞社ホームページから得た。沖縄の新聞をホームページ上で確認したが、この件は大きく扱われていなかった。本土では「沖縄の情報が得られない」と言われる。私も大阪へ戻ってその点は実感した。沖縄の新聞が県外での米軍演習を一々詳細まで扱っていたら県民の新聞と言う役目が二の次になるだろう。しかし、沖縄が一番全国に伝える必要のある米軍の問題である。県外でも米軍がどの様な横暴を行っているか、詳細を沖縄県内へ伝える必要はあるだろう。確かに島根県の新聞が沖縄の米軍問題を扱う事も少ないだろうが、これを機会に関心を持ってもらうよう、連絡を取り合う必要もあるだろう。特に島根県沖ではカニ漁が解禁になった直後である。最高の漁場を米軍に提供水域として取り上げられている沖縄の気持ちが少しは理解してもらえたかも知れない。



2002年11月17日 いろんな「記者の余録」を 琉球新報

 どこの世界にも表では扱えない裏話や後日譚というものはある。投稿欄の片隅に載る記者の余録で取材現場や新聞製作の苦労などをいつも教えられている。昨年十一月だったか、記者の余録に「辺野古のおばあ」と言う一文が掲載された。名護市辺野古の命を守る会のおばぁ達を取材した際の余録である。命を守る会自体は政治面や社会面でたびたび扱われるし、代表らの発言などは紙面に載るが、おばぁ達は滅多に紙面へは出てこない。事務所の中で日々、どの様におばぁ達が過ごしているのか、これも事務所の外にはなかなか伝わらない。それと「辺野古のおばあ」を執筆された記者さんも書かれているが、たびたび足を運ばないとあのおばぁ達の雰囲気を伝えることは難しいだろう。最近は米軍の演習でもない限り、辺野古でマスコミの姿を見かけることもないようだ。辺野古のみならず、今後も読者の目にはなかなか届かない、色々な記者の余録を伝えていって欲しい。



2002年11月01日 歴史読本 二〇〇二年一一月号 歴読ショートショート専科 景季の慢心

「重い」
 敗戦でただでさえ重い甲冑がさらに重く感じられた。
 強雨が鎧直垂に水を含ませて重みが増していく。せめて兜だけでも外したかったが、源氏の御曹司としてそれはできなかった。
 今は土肥実平が引きずるようにして頼朝と共に山中を逃げていたが、実平にしても自分がどこにいるのか、全く把握していなかった。「ここで、一休みしましょう」
 息も切れ切れに実平は倒木の根本にできたうろに頼朝を押し込み、自身は抜き身の切っ先を外へ向けて頼朝を死守するつもりであった。
 松明が近付いてきた。二人は息を殺した。頭上で軋む音がし始めた。
「確かに、この辺だ」
 大庭三郎景親は自ら松明を持って周囲を照らしていた。
「三郎殿。見つけたか」
 梶原平三景時が追い付いて声を掛けた。
「やぁ、平三。この辺りで見失った。よく探してくれ」
「狐狸の類に、化かされてはおるまいな」
 景時はそう言いながら郎党から松明を受け取り、自ら周囲を照らしてみた。ふと、景親の足下にうろがあることに気が付いた。
「まさか、な」
 一人つぶやきながら景時はそこを覗き込んだ瞬間、全身が凍り付いてしまった。自分の鼻先に切っ先があった。
「おい、平三、どうした」
 景親の呼びかけにも景時は答えられなかった。
 襟元を景親に引っ張られた。
「どうした、一体」
 景親に怒鳴られて景時は我に返ることはできなかった。
「大庭様。平三様は震えておられます。きっと、この雨で風邪を召されたのでしょう」
 郎党の一人が景時を指差して言うと景親は松明で景時の顔を照らした。
「確かに、顔が青ざめておる。ここは他の者に任せ、我らは山を下りるとしよう」
 景親は震えが止まらない景時を抱き抱えるようにして陣へと向かった。
「どうせ、名も無き郎党であろう。そんな奴に、この儂が、討たれてたまるか」
 陣へ戻った景時は震えが止まらない中、胸中ではそうつぶやいていた。

「まさか、その時の侍が、実平殿と頼朝殿とは、思いもよらなんだそうだ」
 そう言うと景季は苦笑しながら杯を傾けた。
「そのような話、聞いたことがない」
 杯をあおってから結城朝光は言った。
「いやいや。儂もつい最近まで知らなんだ。頼朝殿が亡くなられて、父上も気が緩んだのかも知れぬ。急に教えてくれてな」
 手酌で一杯あおってから景季は話を続けた。
「儂も、おかしいとは思っておった。戦場でこれと言った手柄働きもしておらぬ父上が、侍所所司になって、別当にもなった」
「勝手に別当となられても、頼朝殿は、何も言われなかったな」
「そうであろう。父上が弱みを握っておったからな。怖くて言い出せなかったのであろう」
「すると何か、景時殿が臆病を起こさねば、今の我らも無かったわけか」
 朝光は景季に合わせたつもりで苦笑しながら杯を傾けた。だが、景季は酔いながらも朝光の「景時殿が臆病を起こさねば」と言う箇所を聞き逃してはいなかった。景季は酒を嘗めるようにして味わいながら朝光を追い落とす方法を考え始めていた。同じ頃、鎌倉御家人の間では景時父子の讒言に耐えかね、排斥の声が徐々に高まり始めていた。だが、景季はその事をまだ知らなかった。



2002年11月01日

 一九九七年春から名護市に住み、色々な体験をした。問題になっている普天間飛行場でカメラを持ってフェンスに沿って歩いていたら通訳付きの米兵に注意をされた事があった。その時は見られて困るならフェンスをやめて防音壁にすれば良いのにと思ったものである。昨年九月十一日のテロ事件以後、米軍がマスコミの取材に対しても神経質になり、ある記者がカメラを取り上げられたという話も伝え聞いていたが、どこか他人事に感じていた。昨年十月から一年間、私は辺野古漁港の側にある職場で仕事をした。キャンプ・シュワブの第一ゲートには本土から来た機動隊が警備をし、ゲート付近で立ち止まっただけで所持品検査をされたという話も聞いた。辺野古の浜に沿ったフェンスの向こう側には機関砲をこちらに向けた装甲車、大きな双眼鏡を両手でしっかりと持った米兵が微動だにせず、動くもの全てをとらえていた。それでも私には恐怖心というものは湧かなかった。その内にフェンス近くにいた装甲車と機動隊も姿を消していた。そしてキャンプ・シュワブでは揚陸艦を使った演習が始まった。揚陸艦はリーフにぎりぎりまで近付き、水陸両用装甲車を乗せたり、降ろしたりするのだが、私はこの手の演習をフェンスのこちら側でカメラを構えて見物していた。水陸両用装甲車に乗っている米兵の大半はキャンプ・シュワブの外にいる私や他の市民には目も向けなかったが、中には遊び半分だろう、手を振ったり、大声で何か言ってくる米兵もいた。そういう時、私も軽く手を振って応じていた。普天間飛行場のように通訳を連れた米兵が来るわけでもないし、カメラを取り上げられる事もなかった。私が辺野古でフェンスの向こう側に恐怖心を覚えたのは八月二十七日の事だ。十六時過ぎに水陸両用装甲車が十三台、キャンプ・シュワブの浜に並び、何かを待つように動かなかった。二時間ほどした頃だろうか、暇を持て余したように米兵が木々へ向けて銃を撃ち始めた。その時、七月二十三日に発生した名護市数久田の流弾事件が脳裏をよぎった。実弾ではなかっただろうが、硝煙の臭いがフェンスの向こう側が別世界であることを再認識させてくれた。そして九月十一日の朝、水陸両用装甲車が揚陸艦から降り、キャンプ・シュワブの浜を目指していたのでカメラを持ち、フェンス沿いに出かけたら警備の米兵に制止された。実際には米兵は英語で怒鳴るが、私には何を言っているのかわからず、ただカメラを下へ向けたら米兵が黙るので制止されていると解釈できたわけだ。米兵にわからないように物陰からカメラを向けても英語の怒鳴り声が周囲に響いた。その後、駆け付けた記者氏は何も言われなかったし、翌日からは人当たりの良さそうな兵士が笑みを浮かべながら警備するようになった。二か月を経た最近、私自身もあの時の恐怖心が薄れつつある。しかし、同じ恐怖をこれ以上、他の誰かが体験しないようにしていかなくてはいけない。



2002年10月27日 基地の地下トンネル 琉球新報

 二年前のある日、知人から一九七二年十月二十九日の琉球新報に載った一つの記事を見せられた。そこには辺野古弾薬庫からキャンプ・ハンセンまで地下トンネルが通じており、完成したのは一九六二年頃だと書かれていた。残念ながら真偽のほどを確かめるには至らなかったが、「火のない所に煙は立たない」と言う諺もあるし、類似のトンネルがあるのかもしれない。今でも興味をそそられる記事である。もう一つ私が紙面に引き付けられたのはトンネルに関する記事の周りにある別の記事である。大半が米軍人、軍属による事件、事故だ。三十年前に比べれば今は事件、事故も減ったと言えるかもしれない。しかし、事件や事故が持つ一件あたりの重さ、被害者の痛みに大小の区別はない。それに本来、米軍人や軍属による事件、事故はあってはならないものである。このような現実が一日でも早く無くなるように私たちは努力をしなくてはならない。



2002年10月21日

 米国史上で例外の三度当選したルーズベルト大統領は小児麻痺を患っていたが、マスコミはそれを自主的に報じなかった。それ故、ルーズベルト大統領が亡くなって初めて時、多くの国民はその事実に接したそうである。
 今、日本のテレビを見ているとどこの放送局でも北朝鮮から帰国した五人を特集した内容が目立って仕方がない。マスコミの報じたいという気持ちと知りたいという国民の気持ちはわかるが、親族が集まっての団欒や墓参まで電波に乗せる必要があるのかどうか、テレビを見ていて考えてしまった。仮に本人の許可が有ったとしてもそこは控えるべきではないだろうか。また深夜でも自宅前から一日の行動を報じたり、友人や知人からどの様な発言をしたか聞き出していたら帰国して本当に心身の疲れを癒す事が出来ているのかどうか疑問である。約六十年前の米国マスコミを見習えとは言わないが、余程の事がない限り、マスコミが追いかける必要はないと感じた。



2002年10月11日

 一九九九年七月二十六日、台風が通り過ぎた後、来沖していた友人と二人で那覇市内の店舗で時間を潰していた時、私はその女性とすれ違った。それ以前にも名護市内で幾度か会っていたのだが、その日は彼女の黒くて綺麗な髪と白い肌のコントラストに惹かれ、思わず振り返っていた。以後、名護市内で彼女と出会う都度、意識をしてしまい、故意に彼女との距離を開けるようになっていた。その反面、胸中では野暮用でも見つけて彼女と話すことだけを考えていた。二〇〇〇年の春だったか、彼女が髪を流行の色へ染めた時は「何事か」と一人、ヒヤリとしたものである。今にして思えば用が無くても声を掛ければ良かったと悔やまれて仕方がない。その彼女も那覇へ転勤になって二年になる。残念ながら私は十月二十四日で名護での五年半にわたった日々、そして三年三か月に及んだ温かい片想いに終止符を打ち、実家へ帰ることとなった。素敵な思い出を多々胸へ詰め込んで…


2002年10月02日 離島フェア 琉球新報

 大阪から沖縄へ来て五年。毎年九月の楽しみが離島フェアである。昨年は台風で中止となり、楽しみを奪われて残念だった。今年は最終日に行くことができた。県内に住むとなかなか離島へ足を運ぶ機会に恵まれない。そういう時に離島フェアはちょうど良い催事である。一度でも行ったことのある島なら懐かしい、まだ訪れたことのない島の特産品に出合えるのもまたうれしい。
 それと毎年、どこかで新商品が出てくる。しかし、欠点もある。人気商品のある場所に人が集まるのは良いが、身動きがとれなくなる。隣の店で買い物をしたくてもたどり着けない。逆に閑散とした場所もあった。各店の間隔を考えた方がよいのではないだろうか。今一つは毎年、天候を気にするならば季節をずらして台風の心配をしない時期に開催してはどうだろうか。去年のように台風で中止となったら、かかわった人々の努力は無駄になるし、楽しみにしている私たちも残念に思うから検討してほしい。



2002年09月26日 関連の施設は規模明示なし 沖繩タイムス

 九月十二日の論壇に安次富浩氏が普天間代替施設について書かれていた。その中に「燃料パイプライン」という一行があった。飛行場である以上、航空燃料の貯油施設が必要となるのは当然である。具志川市天願にある米軍貯油施設から新たにパイプラインを敷設するのか、それとも関西新空港のように代替施設の貯油施設へ海上のタンカーから直接送油する方法もあるが、代替施設には桟橋などの港湾施設が不可欠となる。いずれにしても今言われている面積では不足するのではないだろうか。大浦湾に面した場所、辺野古弾薬庫に隣接した地域に貯油施設が造られる事も考えられる。政府が昨年六月八日以降に公開している資料でも代替施設にどの様な構造物が設置されるのか、一切触れられていない。安次富氏も指摘されているが、兵舎などが新設されればキャンプ・シュワブのみならず、周辺の風景は一変するだろう。それが生活や環境へ与える影響は本当に計り知れない。



2002年08月04日 北部にもFM曲を 琉球新報

 七月八日に県内では四番目になるコミュニティーFMが那覇市内で開局した。そして県内五番目のコミュニティーFMとしてエフエムみやこが予備免許を付与された。名護に住む一人としては中南部に集中するコミュニティーFMの一局が北部に来ても良いような気がする。個人的にはサミットの際に期間限定で開局していた「エフエムなご」をそのまま県内三番目のコミュニティーFMとして残しておいて欲しかった。確かに北部は離島や山間部が多く、全域へ電波を届けることに無理があるかもしれない。そして那覇市内や北谷町のような繁華街も無いが、広大な自然があるし、そこではエコ・ツーリズムなどが注目を浴びつつある。北部十二市町村では絶えず催事があり、そこに住む約十五万人の住民へ向けて発信する話題には事欠かないだろう。
 県内六番目のコミュニティーFMが北部で誕生することを期待しているのは私だけでしょうか。



2002年07月30日

 国頭村の中学校が七校から一校へ統廃合の計画が出ている。この計画に性急さを感じるのは私だけだろうか。例えば東海岸の楚洲、安波、安田の統廃合、北部の奥と北国を統廃合してみるとか、もしくは一本校六分校にして体育祭などの行事から少しずつ統廃合へ話を進めていくなどいくつかの段階があっても良いと感じた。確かに少人数では部活動もままならず、級友の数も少なくて面白くない時があるかもしれない。反面、通学バスの運行を予定していると言うが、朝寝坊をしたり、部活動で遅くなった一生徒のために通学バスがどこまで対応しきれるのだろうか。結局は家族が送迎をする結果にはならないだろうか。義務教育である以上、バスの時間を気にするのはいかがであろうか。
 また中学校の統廃合がされればいずれは小学校の統廃合も検討される時期が来るだろう。それが各地域の過疎化にもつながっていくようにも感じる。



2002年07月18日 「星になった子どもたち」

http://www6.ocn.ne.jp/~hateruma/web4/web4-1.htm



2002年07月11日 星になった子供たち 琉球新報

 一九九五年四月、波照間島を訪ねた。一目で観光客とわかるのであろう、散歩中の保育園児に「こんにちは」と挨拶をされた時、妙に照れ臭かった事は今でも記憶に新しい。同宿した人に「小学校に美しい詩がある」と聞いて波照間小学校を訪ねてみた。学校の塀に「星になった子どもたち」という詩が記されていた。私は島の人に詩の意味を聞く事もなく、何気無く手帳に書き写した。この詩が持つ意味を知ったのはそれから二、三年も後の事である。先の大戦中、波照間島の住民が疎開先である西表島でマラリアを患い、多くの島民が犠牲になった。沖縄戦が語られる時、どうしても本島南部での激戦が中心となり、他地域の戦禍は忘れられがちになり、県内の方でも知らずに過ごされていると聞く。県外にはなかなか伝わらないだろう。しかし、私達は今、五十七年前の悲劇をもう一度見直す時期に来ているのではないでしょうか。

 この波照間島の悲劇は石原昌家編著「もうひとつの沖縄戦」と言う書籍にまとめられています。関心を持たれた方はぜひ一読して下さい。



2002年06月29日 安全な通行に街灯ぜひ必要 沖縄タイムス

 以前、自転車で名護市内の国道五十八号線沿いの歩道を走っていて気付いたことがあった。それは街灯が全くない箇所があることだ。自転車の弱々しい電灯を頼りに走っていたら突然、目の前に人影を見つけて驚いたことがあった。幸いにしてぶつからずに済んだし、私も自転車の電灯を強くしておくべきであったのかもしれない。最近は国道沿いも住宅や店舗が増え、夜中でも明る過ぎて、逆に迷惑をしている人もいるかもしれない。しかし、暗闇ですれ違ったのが通り魔のような犯罪者であればどうなるであろうか。確かに街灯が少ないのは国道だけに限られたことでもない。だが、公道の管理者には少しずつ街灯を増やすように努力をしていただきたい。同時に私達は各家庭で外灯を一つずつ提供するという一戸一灯運動へ参加することで防犯に協力していくことも大事であろう。


2002年06月08日 戦跡維持にも関心向けよう 沖繩タイムス

 先日、久しぶりに伊江島へ渡った。伊江島では必ずアハシャガマへ行くことにしているが、今回はいつもと違った感想を抱くことになった。アハシャガマの真横のフェンスに囲まれた芝生が目に入った。ゴルフ場である。離島ゆえに大きな娯楽施設もないのだろうが、やはり似合わないと感じた。
 一つには国が助成金を出したという話を聞いたからかもしれない。国が助成金を出すならば福祉や医療、文化面の充実へ投資しても良かったのではないだろうか。アハシャガマには小さな案内板が掲げられているだけだ。
 伊江島では少なくとも三千五百人が犠牲になったと聞いている。ゴルフ場の建設が先の大戦の悲しい記憶を打ち消そうとしているように見えてならない。助成金の百分の一でも戦跡の維持管理などに回せなかったのだろうか。



2002年05月31日

 最近、米軍機の低空飛行がひどくなっている。去年の九月十一日以降とも言われているが、その辺は分からない。気が付いた時には低空飛行になっていた。音が小さかったり、低かったりして小型機か輸送機だと思って空を見たら、戦闘機がゆっくりと飛んでいた。実際にはものすごく早いんだろうけど、あそこまでゆっくりで、しかも音が小さければ見落とすというか、それならいいだろう、みたいな感じになってしまう。実際にはこれが始まりというか、少しずつ耳を慣らしていく米軍の作戦かもしれない。見ての通り、沖縄の山はせいぜい四百メートルかそこらの高さしかない。その半分ぐらいの高さを戦闘機や輸送機が飛んでいたりする。あと雨降りの日も気を付けないといけない。低い雨雲に沿って戦闘機が飛んでいたりする。音がして、雨雲をにらんでいると、わずかな隙間に米軍機の影が見える。皆でもっと空を見て、一つずつ抗議していかないと駄目だろうな。


2002年05月30日 犠牲者を悼み悲劇忘れるな 沖繩タイムス

 今、名護市の久志地域では公民館が建て替えられたり、新しい道路が造られたりしている。確かに二見三叉路から二見区へ抜ける道路は蛇行し、不便この上ない−報じられない事故も多いだろう。
 一九九七年十二月十四日付朝刊の論壇に「大浦湾に沈んだ修学旅行」という投稿があった。「明治四十四年に当時の美里校が修学旅行で瀬嵩から辺野古へと渡海中に遭難して死者五人、行方不明二人を出したが、この悲劇が忘れ去られようとしている」という内容だった。当時は陸路が今以上に不便であり、海路が主だったようだ。これを読んだ後、二見三叉路を通るたびにこの一件が思い出されてならない。
 現在、私たちの生活が豊かで便利なのは先の大戦も含めて多くの犠牲の上に成り立っている。この事件を後世に伝える碑の一つもないようなら造ってもらいたい−同様に県内各地で忘れられかけている戦前の事件、事故を見直す機会も設ける必要があるのではないでしょうか。



2002年05月06日 専門店に限定を 琉球新報

 四月二十七日の朝刊に「成人コーナー未徹底」という記事があった。昨年一月にこれと関連した内容で投稿した。その時は新年早々に米兵の少女暴行事件があり、それに前後して私は二人の白人青年がコンビニで成人誌を指さして何事かをささやき合っている姿を目にしていた。その二人が観光客だったのか、非番の米兵だったのかはわからないが、それで成人誌に関する投稿をした。
 しかし、書店やレンタルビデオ店で成人コーナーを設けたとしても大半は未成年が前を通ることも可能だし、酒やたばこと同様に未成年でも購入ができそうな感じである。成人向けの書籍やビデオを制作しているのは大半が本土企業である。仮に県内への入荷を禁じる条例を制定したとしても一定の需要がある以上、条例の網の目をくぐる業者は必ず出てくるだろう。まずは成人向けの書籍やビデオなどの取り扱いを専門店などに限定するようにして、未成年の目へ届かないようにしてはどうだろうか。



2002年05月05日 (仮称)べいぐん天国?

太平洋のかなめいし
そういう理由で居続ける
戦争終わって六十年
そろそろ土地を返してよ

北部、シュワブ、ハンセン
安波、伊江、楚辺
慶佐次、泡瀬、天願、コートニー

辺野古、辺野古、辺野古
辺野古を守ろう
自然、自然、自然
自然が無くなる
辺野古、辺野古、辺野古
辺野古を守ろう
ジュゴン、ジュゴン、ジュゴン
ジュゴンが泣いてる

さあさ、みんなで辺野古を守ろう
辺野古はぼくらを待っている Oh!

良き隣人と言いながら
事件、事故が絶え間ない
人権無視してどうするの
裁判できない悔しい気持ち

キンザー、フォスター、シールズ
那覇軍港
嘉手納、桑江、瑞慶覧、普天間

辺野古、辺野古、辺野古
辺野古を守ろう
自然、自然、自然
自然が無くなる
辺野古、辺野古、辺野古
辺野古を守ろう
ジュゴン、ジュゴン、ジュゴン
ジュゴンが泣いてる

さあさ、みんなでジュゴンを守ろう
ジュゴンはぼくらを待っている

辺野古、辺野古、辺野古
辺野古を守ろう
自然、自然、自然
自然が無くなる
辺野古、辺野古、辺野古
辺野古を守ろう
ジュゴン、ジュゴン、ジュゴン
ジュゴンが泣いてる

さあさ、みんなでジュゴンを守ろう
ジュゴンはぼくらを待っている

辺野古、辺野古、辺野古
辺野古を守ろう
自然、自然、自然
自然が無くなる
辺野古、辺野古、辺野古
辺野古を守ろう
ジュゴン、ジュゴン、ジュゴン
ジュゴンが泣いてる

さあさ、みんなで辺野古を守ろう
辺野古はぼくらを待っている Oh!




2002年02月14日

 この二、三年、髪を染めることが流行っている。髪を染めること自体は個人の自由だし。中には染めて似合っている人も案外多い。しかし、ある人から染毛剤が髪だけではなく、頭蓋骨まで染めると聞いた時には背筋が寒くなった。この話は極端な例なのかもしれないが、その内に七色の頭蓋骨が火葬場で見つかるような時代が来るかもしれない。確かに年々染毛剤は質が良くなり、洗っても落ちにくくなった反面、毛髪や皮膚を通して染料が頭蓋骨へ達するのだろう。当然、染毛剤には化学薬品も含まれているだろうし、それが骨を染めるのみならず、人体への影響も考えたら髪を染めるのは控えた方が良いのかもしれない。


2002年02月07日 子供たちの元気な姿に… 琉球新報

 沖縄へ来て約五年、この間に多くの集会へ参加してきた。曜日や時間帯にもよるが、親に手をひかれてくる子供たちがいる。当然、子供たちにとって大人の集会は退屈なものだ。遊びたい盛りでもある。会場を所狭しと駆け回る姿は見ていて楽しいし、そういう子供たちの姿にカメラのピントを合わせている自分自身に気付いた時にまた楽しくなる。しかし、集会へ参加している人の中にはこういう子供たちの姿に対して嫌な顔をする人も少なくない。
 かつて沖繩戦では食べ盛り、遊び盛りの子供たちが戦争の意味すら理解できぬまま閉じ込められ、そこから出る事を許されずに短い一生を終えた例は少なくない。その事を思えば集会の場で子供たちが元気よく走り回るのは平和な証拠と感じる。国外では今も飢えや戦争で遊ぶ気力すら奪われている子供たちが数多くいる事を考えたら嫌な顔をせず、見逃すべきだろう。そしてこの平和がいつまでも続く事を祈念してやまない。




2002年01月17日 ノンステップ・バス 琉球新報

 年末年始に大阪の実家に戻った際、ノンステップ・バスに出合った。車体の床が歩道とほぼ同じ高さとなっており、乗降が随分と楽になっていた。私のような健常者がそう感じるのだから身体が不自由な方や高齢者、幼児にとってもさらにバスが利用しやすくなったのではないだろうか。車両の後部三分の一ほどはエンジンの関係からか従来通りの高さであったが、改めてわずか三段のステップが高いかと言う事を実感した。
 沖繩では現在、路線バス四社は統合問題で手いっぱいと思うが、この問題が一段落した時にはノンステップ・バスなど身体的弱者に優しい車両の導入を検討してほしい。




2002年01月17日 事故は突然やってくる 週間レキオ

 その日の朝、いつものように単車で通勤途中、転倒した。幸いにして私はかすり傷で済み、単車の方も付属品が一つ壊れただけで済んだ。ちょうどこの日は雨だった。
 バスの運転手をしていた先輩に聞いたら、好天が続いた後に雨が降ると、アスファルトの中に溜まっていたゴミや油が浮き出し、余計にすべり易くなるそうだ。バスでも、ブレーキをかけたらかえって前に進むものらしい。確かに、雨の日といえば、妙な場所で滑っている自動車や単車は多い。
 しかし、転倒した瞬間、本当に頭の中は真っ白になってしまった。自分では安全運転をしていたつもりだし、転倒したと理解した時には「なぜ?」という思いと痛みしか伝わってこない。反対車線へ投げ出されていたり、後続車がいたら、今ごろは投稿をしている状態ではなかっただろう。
 ちなみにこの日の琉球新報朝刊「きょうの運勢」欄で、私の誕生月は「寝不足が大たたり。特に眠気抑えての運転、事故のもと」とあった。寝不足ではなかったが、嫌なことだけは、昔からよく当たる。せめて夕刊で「あすの運勢」を扱ってくれていたら、気をつけていたかもしれない。

 編コメ
 大事に至らなくて、本当に良かったですね。お手紙の通り、好天後の雨天は、ほこりが雨と混じって、オイルのような役目をして、すべりやすい路面状態になります。細心の注意をしないといけない状態です。速度だけでは守れない安全の知識、重要です。




2001年12月13日 昼夜逆転の夜間照明 琉球新報

 夜になると名護湾に面した場所から嘉手納基地の位置を指し示す事ができる。それは飛行場の夜間照明が夜空をオレンジ色に染めるからわかるのである。今の住所へ転居した当初、それは中部、特にコザや北谷の繁華街が夜中までにぎわっている証拠なのだろうと単純に信じていた。しかし、偶然に近所の方からそれが嘉手納基地の夜間照明と教えられ、改めて米軍基地と施設の広大さを実感した。
 最近は米軍機による爆音が学習力の低下や胎児の生育などに影響を与えていると言われているが、昼夜を逆転させるような夜間照明は人体への影響が無いのだろうか。
 米軍機による夜間訓練の中止を求める声は頻繁に聞くが、ついでに夜間照明も落とすように求めるべきではないだろうか。




2001年11月12日 台風の中で作業船座礁 琉球新報

 去る十月十六日、台風二十一号の中で、一隻の作業船が本部町沖で座礁する事故が起きた。幸いにして乗員は無事だったが、タグボートとのけん引綱が切れた時の恐怖というものはとても想像できるものではない。
 毎回、台風が来るたびに暴風を避けるため、数隻の船が名護湾へ停泊する。長い時には三日以上同じ船が同じ場所で台風が過ぎ去るのを待っているのだが、事故を起こした作業船とタグボートは停泊できなかったのであろうか。名護湾を行きつ戻りつしていたことが記憶に残っている。
 大型船は台風の時、接岸するよりは沖合にいた方が安全といわれているが、今回のように停泊できない作業船などは名護漁港か那覇港などで接岸させたり、専用の港湾施設を設けることはできないのであろうか。同じことはどこの港でも言えることだろうが、似たような事故がまた起きる前に専門家の方には、一度検討してもらいたいと思う。




2001年11月01日 歴史読本 二〇〇一年十一月号 れきどくショートショート専科 惟光と光秀

「騒々しい」
 信長は寝床で上半身を起こし、暗闇の中で目を凝らしてふすまの向こう側で生じている騒ぎを確かめようとした。
 耳をすましているととてもただの喧嘩とは思えなかった。
 隣室で宿直をしている蘭丸を呼び、外の様子を見るように命じたが、蘭丸も気になっていたのか、表情が硬くなっていた。
 蘭丸が信長の下へ戻ってきた時、その表情から血の気が引いており、信長も何かしらの予測が出来た。
「惟任日向殿、御謀反と見えまする」
「是非におよばず」
 蘭丸が言い終わる前に信長は答えながら立ち上がり、ふすまを開けていた。隣室の障子に異様な影が映っている。込み上げてくる怒りにまかせ、勢いよく障子を開けた。
 欄干の向こう、松明に照らされて桔梗紋を染め抜いた旗が見える。信長は本能寺を包囲する軍勢のどこかにいる光秀へ叩き付けるような勢いで「惟光」と大音声で叫んでいた。

 天正三年七月三日、光秀は羽柴秀吉ら数名と共に叙任して日向守となり、同時に九州の名族である惟任姓を名乗ることとなった。その翌日からだろうか、公家達の間では陰で光秀のことを「惟光」と呼び始めた。無論、光秀本人の耳へ届くのに時間はかからなかった。
 ただでさえ神経質な光秀の顔が青白くなる。信長を始めとする尾張の武辺者達には「惟光」の意味がわからなかった。
 負けず嫌いな信長は自分から「惟光」の意味を聞こうとはしなかったが、その内に耳へと入ってきた。「源氏物語」で主人公光源氏の機嫌をとる下僕の名であった。
 確かに惟任光秀を略せば「惟光」となるし、朝倉義景、足利義昭、そして信長と仕官先を変え、しかも朝倉、義昭共に信長が滅ぼしている。信長の機嫌をとるために光秀が旧主を売ったという噂まで出ていた。調停にしか仕えたことのない公家には武士がよりよい主君を求める気持ちが理解できなかったのだろう。そして光秀はこの噂に頭を痛めていた。これが秀吉ならば軽口を叩いて笑い飛ばしていたことだろう。その性格ゆえに信長も秀吉を「猿」や「禿げ鼠」と諢名で呼んで冷やかしていた。しかし、きまじめな光秀にはそれが出来なかった。
 そう言う光秀の性格を承知していたから信長も「惟光」という諢名を使わなかった。信長が使わないから織田家中では誰一人として光秀を「惟光」と呼ぶ者は居無かった。しかし、洛中では公家のみならず、庶民に至るまで光秀を「惟光」と呼ばない者はいない始末であった。
 いくら信長が恐れられても家中で一、二位を争う光秀が公家や庶民から「惟光」扱いされては主人である信長の武威が轟いていないに事と等しい。
 そこで信長は天正九年正月十五日、安土城下における左義長を始め、二月二十八日と三月五日の洛中馬揃えにおいて光秀を担当奉行に任じ、信長家中第一位の地位を洛中、洛外へ見せ付けたのであった。

 ここまで気を使った家臣である光秀が今、本能寺を囲んでいる。
 負傷した腕でろうそくを持ち、手当たり次第に火を着けて回っている信長は光秀が謀反を起こした原因を考えていた。
「馬揃えの、奉行にしたのが悪かったか」
 二度目の馬揃えが終わった後、光秀が珍しく表情を緩めていたのを信長は思い出した。
「所詮、ただの野心家であったか」
 他に思い当たる理由がなかった。
 諢名の「惟光」を打ち消すために惟住姓を与えた信長自身を殺す必要があったのだろうか。



2001年10月16日 めざましクラシックス 琉球新報

 十月六日、那覇市民会館で「めざましクラシックス」のコンサートがあった。フジテレビの軽部真一アナと高嶋ちさ子さんが楽曲、楽器の知識を楽しい会話で教えてくれた。演出も楽しく、舞台の演奏に集中すべきか、客席のどこかに現れる軽部アナを探すべきか、迷わされる一瞬もあった。私にとってクラシックと言えばテレビの中で交響楽団が演奏するもの、ラジオから流れてくるのは構わないが、私が正装して会場まで聴きに行くというのは想像した事もなかった。
 しかし、「めざましクラシックス」は普段着で行けるし、一曲ごとに曲の説明があり、高島さんと軽部アナのやりとりで会場は笑いに包まれた。私の稚拙な文章ではとても当夜の雰囲気を伝える事はできないが、本当に楽しませてもらった。高嶋ちさ子さん、軽部真一アナに出演者全員、そして主催者と後援者の皆さんには改めて「ありがとう」と感謝の意を表したい−。ぜひ来年も「めざましクラシックス」を沖縄へ招いてほしい。




2001年09月20日 米軍機の低空飛行 けーし風

 私は一九九七年四月から二年間、聴講生として名桜大学へ通ったが、時折、真上を米軍戦闘機が通過した。当然、一瞬とは言え爆音が講義を妨害した。しかし、講義をする側、される側は共にこの爆音が耳に入らないかのように平然と講義を続けていた。確かに普天間基地の真横にある沖繩国際大学に比べれば静かな方かもしれないし、一瞬ならば誰もが我慢を選んだのかもしれません。実際、教職員が抗議行動を行ったという話も聞きませんでした。しかし、今から思えばこの時からすでに米軍による低空飛行は始まっていたと言えないでしょうか。低空飛行の定義を高度何メートルにするかで変わるものもあるでしょうが、しかし、名桜大学も名護市の中にありますし、名護市民が抗議行動をする条件は充分あるでしょう。それに未来ある若者が学ぶ場を爆音で邪魔するというのは「良き隣人」のすることとは思えません。
 因みに名桜大学の真上を飛ぶ米軍機は高度を維持しつつ北部農林高校の真上から名護湾へ出て恩納村の方へ直進していきます。
 今年二月、三月と八月上旬に行われた岩国基地所属のF/A-18による低空飛行が行われた際、名護市民の中でどれだけの人が気付いていたのだろうか。
 二月は辺野古から市役所上空、本部町を通過して伊江島へ向かうコースだった。三月は名護市の屋我地から市役所上空を通過して名護湾へ出るコース、八月上旬の訓練に関して私はコースを確認することが出来なかった。
 二月、三月の低空飛行を見ていて気付いたのは米軍が必ずしも無茶をしないと言うことだろうか。岩国基地や沖縄への空路上の天候も考慮する必要もあるが、爆音がしたのは必ず晴天で多少雲がある日だ。爆音がしても大抵の場合、機体はうまく雲に隠れて確認できなかった。それでも音の流れや辺野古、伊江島、屋我地の住人から情報を得ることが出来た御陰もあって二月、三月に関してはF/A-18のコースを特定することが出来たのである。しかし、八月上旬は視界がいつもの半分程度になるような霧が訓練期間と重なり、F/A-18自体もこれを避けたのか二月、三月よりは高度があったように感じられる。また私自身も飛行コースを特定しようと爆音がする都度、空を見上げてみたが、ついに視認できなかった。ただ幸運だったのは二月、三月よりは爆音が小さかったことだろうか。
 四月五日に名護市議会議員が那覇防衛施設局へ爆音に関する抗議行動をしたが、これは名護市だけの問題ではないから本部町、恩納村、伊江村などの議員を含めて抗議行動をした方が効果的だろう。また今後も低空飛行が繰り返されるならば各市町村と協力し、機種や高度、飛行ルートの特定をして行くべきだろう。
 また私達の真上を飛んでいるのはF/A-18だけではないと言うことである。大型輸送機や輸送ヘリなどが低音でさりげなく飛んでいることに一人でも多くの方に気付いてほしい。
 中国、四国地方のように米軍機が低空飛行をして山間部の送電線を切断するだけならまだよい方かもしれない。何よりも恐いのは宮森小学校と同じ悲劇が繰り返された時である。



2001年09月11日 救急車の配備を 琉球新報

 ある夏、知人の助手席へ乗せてもらい、名護市世冨慶を通った際、久志地域へ向かう救急車とすれ違った。この時、改めて気づいたのだが、久志地域には救急車が一台も配備されていない。救急車両だけに速度を出せば大抵は間に合うかもしれないが、わずか数分が命取りになりかねない。名護市は人口の割に面積が広く、各地域へ救急車を配備するのは無理なのだろうか。
 特に久志地域は過疎化、高齢化も進んでいる。何か対策がほしいところだ。同じ事は北部全域で言えるだろう。県立北部病院や夜間急病診療所へ他町村の救急車が駆け込むのを見る都度、各市町村で救急医療を充実させられないか、考えてしまう。しかし、まだ陸続きなのは良い方かもしれない。やはり離島の医療を考える方が先だろうか。




2001年08月28日 再認識したい孫選手の功績 沖繩タイムス

 シドニー五輪で高橋尚子選手が金メダルを獲得して一年、今でもあの瞬間は忘れられない。
 私の周囲では話題にもならなかったが、日本陸上初の快挙を成し遂げたのは孫基禎選手、当時は日本に併合されていた朝鮮半島の人である。一九三六年のベルリン・オリンピックで日本人として日本名でマラソンへ出場して優勝された。この時、朝鮮の新聞「東亜日報」は孫選手の胸に縫い付けられていた日章旗を黒く塗りつぶした写真を号外や新聞紙上に用いた。その結果「東亜日報」は無期停刊処分を受けた。
 この一件は別にしても、もう少し孫選手を取り上げる機会が多くてもよかったと思う。もし多くの日本人が孫選手の功績を忘れているならば、高橋選手を日本陸上初の快挙とし、孫選手の金メダルは朝鮮半島へ返してもよいのではないでしょうか。




2001年08月18日 駐輪場の設置を 琉球新報

 先日、那覇の街を散策していて気付いたのは駐輪場が少ない事だ。ある百貨店では駐輪禁止という看板の下に単車が並んでおり、思わず苦笑した。北谷町美浜でも駐車場は広々としているが、二輪車は歩道の片隅で申し訳なさそうに駐輪している。
 名護でも施設によっては駐輪場所を探さねばならぬ時があり、二輪車派としては複雑な思いである。沖縄は二輪車よりも先に自動車が普及したから駐輪場が不要であったかもしれないが、注意して見ているせいか、最近は二輪車が増えているようにも感じる。
 大型店舗や公共施設などでは駐輪場について見直してほしい。特に那覇の場合、モノレールが営業を開始すれば駅周辺の歩道に違法駐輪が発生し、観光客らが迷惑と感じる事になるだろう。今からでも駐輪場について検討し直してほしいと思います。




2001年07月12日 やめよう「飲酒運転」 琉球新報

 ビールがおいしい季節だ。沖縄へ来て四年余となるが、飲酒運転の多さには今でも驚かされる。私の周囲でも「一杯だけ」や「一本だけ」と言って缶ビールを傾ける方がいる。法律で禁じられている飲酒運転を親や教師がした場合、若い世代はどのように感じているのだろうか。
 三十歳を過ぎた私でさえ周りにいる先輩たちが飲酒運転を堂々としていると腹立たしいものを感じる。昼間は常識や道徳をいくら訴えられてもいったん陽が沈むと法を犯すという矛盾した行動をされると、その人の話に耳を傾ける気力すらなくなってしまう。特に沖縄では米兵が飲酒の上で事件、事故を起こすが、そういう際に抗議行動へ参加する人の中には当然、飲酒運転をなさる方はいないだろう。そういう方がいたら大変な矛盾である。いずれにしても次の世代を正しい方向へ導くためにも飲酒運転はやめてほしい。




2001年07月03日 騒音が爆音に 琉球新報

 大阪伊丹空港は普天間飛行場同様、市街地にあって騒音をはじめ幾多の問題を抱えていたから泉州沖へ関西新空港が開港したのである。しかし、国際線が関空へ移っただけで伊丹空港は残った。普天間飛行場も全面返還と言われているが、何らかの形で米軍施設が残るような気がしてならないのは私だけだろうか。近ごろ、地盤沈下で有名な関空は沖合約五キロの地点であるが、それでも騒音はあるし、関空のある泉佐野市は財政難に陥っている。
 辺野古沖合に計画されている普天間代替施設は遠くても約三キロ、近ければ集落から一・五キロほどである。それで騒音は最小限度に抑えられると言うが、米軍機がタッチ・アンド・ゴーをしないとは限らないし、風向きによっては騒音が爆音に変じかねない。また中型民間機が就航した場合、特に着陸に際しては数キロの直進が必要となり、最低でも松田区と安部区の真上を飛ぶ事になるが、それを考慮されているのか疑問が残る点である。




2001年06月14日 楽しい偶然に期待 琉球新報

 趣味というほどでもないが中学以来、カメラを愛用してきた。他人様を写す機会は多いが、自分が撮られることはめったにない。年月日は忘れたが、琉球新報に公開講座を受講している私の姿が載った。幼いころから「覚えやすい顔立ち」とか「一挙一動が目立つ」と言われて育ってきたから紙面で自分の姿を見つけた時には気恥ずかしい思いでいっぱいになった。
 当日、取材をされた記者さんもカメラのピントを合わせやすかったのかもしれない。二年以上を経た最近、記憶を頼りにこの辺と見当をつけて縮刷版で探してみたが、見つけられなかった。軽い気持ちで探したのが悪かったのだろう。
 単なる偶然だろうが、大切な思い出となる。同じ事は「声」への投稿にも言える。採用されて友人、知人から感想を聞くのも楽しいが、自分自身が今という時代を生きている証となっている。
 いつかまた紙面で楽しい偶然がある事を期待しつつ、投書の方も頑張りたい。




2001年05月31日 日本の移動献血車 琉球新報

 五月は「赤十字社員増強運動月間」である。名護市広報で毎年五月だけ「日赤」という文字を見る事ができる。私の育った大阪府高槻市の広報には毎月、移動献血車の巡回日程を載せている。市内に日赤病院がある影響もあるだろうが、何よりもその姿勢がまず大事だと感じた。
 当然、日赤側が巡回日程を早めに作成して各市町村へ伝える必要がある。高槻市の場合、巡回日程がほぼ決まっており、広報を見落としても目安をつけて指定の場所へ行けば移動献血車に出会える。
 ご存じのように献血は提供者の健康が第一である。新聞の朝刊で巡回日程を知っても二日酔いならば献血はできない。日程がわかっていれば二日前から酒を止め、体調を整えることができるだろう。日赤や各市町村の担当者のみなさんにはぜひ見直していただきたい点である。




2001年05月07日 バス運転手に休憩を 琉球新報

 昨年、路線バスの運転手は接客態度が悪いとの話題が出ていた。私は停留所で無視された経験はないが、時折、無愛想な運転手に嫌な思いをしたことはある。
 確か自動車教習所で二時間に一度は休憩をとるよう学んだ記憶がある。那覇から名護まで約七十キロ。路線バスなら二時間半から三時間近い道程である。幾つもの市町村を越え、絶えず車両内外の乗客へ気を使えば運転が乱暴になったり、乗客を見落とすような悪循環を生み出すのではないだろうか。
 鉄道が無い故に一本の路線バスが三時間近くも走るということになるのだろうが、例えば途中の適当な場所で五分か十分休憩をとるようにするか、運転手の交代を検討してみてはどうだろうか。
 年々交通量は増え、一瞬の油断が大惨事を招く昨今、原因となりそうなものは一つでも取り除くように努力するべきではないだろうか。




2001年05月01日 「えひめ丸」事件に思う

 新年早々、やんばるを中心に幾つかの米兵による事件、事故が続いた。県外では原潜グリーンビルによる実習船「えひめ丸」衝突事件があった。
 この五十年間、絶えず米軍の持つ危険性を訴えてきたが、それが一切無視されて今回の「えひめ丸」事件へつながったように感じる。
 米軍は「世界の警察官」という認識が自他共にある。今回の事故にしても行方不明者が出なければ「パトカーと単車の接触事故」ぐらいで済まされていたのではないだろうか。
 今回の事故で原潜グリーンビルに民間人が十八名も乗っていたことに私は当初、驚かされた。だが、これが日常茶飯事と知って二度驚かされた。冷戦が終わると同時に米軍は自らの必要性を自国民に訴えなければならなくなった。私たちの身近で言えば米軍がフェスティバルと称して基地を開放し、一般市民の入場を許可したり、自衛隊の音楽隊がコンサートを開催したりするのがよい例だろう。自分たちの存在を認めさせるために多少のパフォーマンスも苦にならないのだろう。
 今回の事故後、在日米軍も少しは自粛して「哀悼の意」を示すのかと思いきや、米軍戦闘機が名護市街地上空で演習をするという暴挙に出た。しかもそれを許して恥じないと言う有様だ。今も米軍機は堂々と飛んでいる。今一度、反対運動を強化し、米軍基地撤去を勝ちとりましょう。



2001年04月21日 自粛しない米軍とは… 琉球新報

 三月上旬、名護市街地上空で米軍機の低空飛行が続き、爆音が迷惑、との内容で投書したが採用されなかった。周りの人にも気づかなかったというから、神経質になり過ぎたか、と反省していたら、四月六日の朝刊を見て驚かされた。爆音の主が岩国基地から来ていたとは考えもしなかった。当然、嘉手納基地所属機ならば、まず地域住民が抗議の声を上げるだろうし、中南部でも相応の反応が出ただろう。遅い時には夜十時ごろにも飛行していた。この時間から岩国基地へ戻るとすれば岩国市民もかなり悩まされたのではないだろうか。
 二月には、えひめ丸を沈め、本来ならば、その時点で行動を自粛すべきにもかかわらず、他人ごとのように演習をする米軍とは一体何であろうか。
 今回の経験で、私も少しは嘉手納や普天間の爆音問題を理解したつもりだが、実際にはまだまだ甘いのだろう。




2001年04月01日 図書館の充実を 琉球新報

 知人から「沖縄の図書館」という本を頂いた。想像以上に沖縄の図書館は歴史が古く驚かされた。だが、現状は決して芳しくない。県内の五十三市町村中、図書館があるのは二十一市町村、残る町村は公民館図書室が頑張っていたり、それすらない自治体もある。金武町の区立図書館は大きく評価するべきだろう。しかし、島嶼県に過疎化、財政難と悪条件が重なり、すべての自治体に図書館を設けるのはやはり不可能なのだろうか。
 例えば恩納村の場合、公民館図書室もないし、図書館の計画もないと聞く。確かに名護、石川、読谷、金武の図書館を利用すればすむ事かもしれないし、大人はそれで良いだろう。しかし、子供たちはどうなるのだろう。絵本一冊のために親が送迎するのだろうか。
 大切な人生の後輩たちが知識を得るためにも自治体は少々無理をしてでも図書館建設に力を入れて欲しい。




2001年01月18日 性犯罪を助長するもの 琉球新報

 新年早々、またしても米兵による痛ましい事件が発生した。一少女の人権を無視してはばからない米兵に怒りを覚える反面、自分の無力さにも腹立たしさを感じる。今回の事件で考えたのだが、事件を起こす多くの米兵は日本の成人誌から影響を受けているように感じた。以前聞いた話で真偽のほどは分からないが、米国では一般図書と成人誌が明確に分けられており、成人誌は決して未成年の目の届かない場所に置かれているという。
 これが事実とすれば日本の書店やコンビニは米兵の目にどのように映るのだろうか。店頭へ成人誌を並べることができるほど、女性軽視の国と思われてはいないだろうか。成人誌だけに原因を求めるのは間違いかもしれないが、青少年へも悪影響だし、性犯罪を助長しているようにも感じる。市民団体、書店、コンビニが協力して成人誌を店頭から排除してはどうだろうか。「守礼之邦」沖縄の店頭に成人誌が似合わないと感じるのは私だけだろうか。




2001年01月05日 2000/12/14 献血ルームについて 琉球新報

 十二月、約九カ月ぶりにパレット前の献血ルームを利用した。献血を終えてしばらく休息をしていた時、職員に呼ばれて話を聞くと年末年始は特に献血者が減るから協力して欲しいと言われた。気持ちは分かるのだが、献血のためだけに那覇へ行くわけにもいかない。
 移動献血車の日程が分かるのは当日の朝刊である。数日前に移動献血車の日程をはがきででも通知してくれればありがたいのだが、そういうことはされていない。例えば県立病院や保健所、その他の公共施設に献血ルームを設けることはできないものだろうか。年中無休が無理ならば週一回、曜日を決めて業務を行うこともできるだろう。ほかにも考えればよい方法はいくらでも出てくる。
 沖縄は他府県と違い、緊急の際、車両で取り寄せると言うことができない。今は一人でも多くの方が献血ルームへ行ってくださることと那覇まで行かなくても献血が出きる体制を整えて欲しい。




2001年01月03日 2000/06/28 平和サミットへ行こう 琉球新報

 七月一日に読谷村で平和サミットが行われる。この宣伝を意外な場所で聞いた。それは六月十八日、日曜日の午後九時半から放送されたあるFM番組の中である。番組自体は時間帯からも分かるようにどちらかと言えば若者向けなのだが、そこで七月一日に平和サミットで総合司会を務める声優の小山茉美さんがゲストとして出演され、当日の宣伝をされたわけだが、これが私にはなぜか新鮮に感じられた。
 同じFMでも県内で作られる番組が「反戦・平和」を訴えることはまれである。時々故意に避けているようにも感じられる。これはどこのFM局でも同じかもしれない。そういう状況の中で小山さんは「平和サミット」という、ともすれば堅苦しくイメージしがちなイベントをやわらかくごく自然体でリスナーへ参加を呼びかけていた。この呼びかけに一人でも多くの人が応じてくれることを期待しつつ、私も七月一日は読谷村へ行きたいと思う。



2001年01月01日 1999/6/11 ゲリラ訓練は生物に悪影響 沖繩タイムス

 先日、米軍が北部演習場で訓練をしている様子をビデオで見る機会がありました。その折、ふと思ったのですが、ここではジャングル戦を想定しているということは当然、数日間演習場内を歩き回ることもあると思います。
 私が見ましたビデオは五時間か六時間程度の日帰りの訓練の様子でしたが、本格的な対ゲリラ向けジャングル戦の訓練を行えば、おそらく自分たちで食料を確保するような訓練も行われていないでしょうか。
 となりますと、山原の希少な動植物が米兵の胃袋に納まっていないか、ということです。
 また、銃弾の破片とかを動物が飲み込んだり、演習に使われた種々の道具が動植物に与える影響も心配です。