MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−過去の書評群 (掲載順)− 


00/02/29
馳 星周「不夜城」(角川文庫'98)

金城武主演で映画化された、馳星周氏の出世作。第18回吉川英治文学賞受賞。
馳氏に板東齢人という書評家としての別名義があるのは有名だが、別名義YA作品もあり、馳名義の処女作ではあるが、デビュー作というのは適当ではなかろう。

新宿歌舞伎町。ヤクザに支配されていたのは過去の話。現在は台湾、上海、香港など様々な人種がこのアジア最大の歓楽街の利権を巡って凌ぎを削っている。日台混血の青年、劉建一は複雑な生い立ちの中、この歌舞伎町で故買屋として強かに生き延びてきた。そんな彼にトラブルが舞い込む。若い頃組んで仕事をしていた呉富春が歌舞伎町に舞い戻って来たのだ。日中混血の富春は歌舞伎町でも勢力を誇る上海一派の元締め元成貴の片腕だった男を殺して逃亡していた。元は建一に「三日以内に富春を彼の前に差し出せ」と要求する。同じ頃、建一は夏美と名乗る女性から連絡が入る。下調べをした上で彼女とコンタクトした建一に彼女が「売りたい」と言ったものは……?

不夜城のエンタメの本質は戦国シュミレーションゲームにあり?
現代の東京の歓楽街の本質を的確に切り取り、そのリアルな舞台の中で生き抜こうと藻掻く孤独な男の姿に「生」への渇望を見出す……辺りが真っ当な評だろう。独特の過激さ、リアルさを駆使する馳氏が日本のハードボイルド界を背負って立つ才能なのは大いに認めるし、馳氏が既にビッグネームとなり、多くの人々に支持されていることにより事実、証明されていると言える。
遅れて読んだ私は、逆にちょっと醒めた目で一歩引いて観察することで別の側面に気付いた。本作で執拗いくらいに取り上げられているのは「策謀」であり「牽制」であり「保険」であり「裏切り」である。一見激しい描写にとらわれがちの性欲だの権勢欲だの暴力衝動などは、本書においてはリアルさを付加するための道具に過ぎない。根底にあるのは「いかに上手く立ち回るか」という「生命を賭けた危険なゲーム」をこなす男達の姿である。
――さて、これらのキーワードを満たすもの。で、私の頭を過ぎったのは「三国志」であった。しかも物語というよりシュミレーションゲーム。「信長の野望」でもいいのだが。徒手空拳の男。しかし機を見るに敏、人を見るのに長け、策謀に成功することで大きな勢力を得ていくゲーム。なんとこの「不夜城」世界に似ていることか。ゲーム「三国志」においては主人公(つまり自分)が生き残る為にはどんな「汚い」ことをやっても許される。敵国同士を戦わせ戦力を削ぐ、君主を暗殺し混乱させる、敵の中に内応者を造る。これらのエッセンス全てが歌舞伎町における建一の孤独な戦いと重なって見えてくる……。ゲームの中で人間の「生」を追い求めることに抵抗のない人間であれば、不夜城世界により深い理解と共感を感じられるのではないだろうか。

「読んでおこう」と軽く手に取った割りに、非常に楽しく読めてしまったというのが私の本音。性描写、暴力描写に露骨な部分があれども、それまた人間の本質の一つ。本気で潰されようとしている人間が「生」を求め、頭を使って対抗していく。安穏と暮らす現代人が虚構の中にしか求め得ない「ロマン」がここに。


00/02/28
夢野久作「夢野久作集 日本探偵小説全集4」(創元推理文庫'84)

宮本和男時代の北村薫が編纂に尽力した創元推理文庫の全集の一冊。夢野久作の代表的な長、中、短編が一作ずつ再録されている。チャカポコ、チャカポコ。

三つの瓶に込められた手紙形式で絶海の孤島に取り残された兄妹が陥った精神の地獄を描いた傑作短編『瓶詰の地獄』、満州に展開中の日本軍の一兵士が拐帯事件の犯人として告発される裏側を皮肉に、そしてテンポよく描く中編『氷の涯』。そして長編は『ドグラ・マグラ』。九州帝国大学内の精神病院病棟で目覚めた男、「わたし」は、自分が誰なのかに関する一切の記憶を失っていた。隣からは自分を「お兄さま」と叫び呼ぶ狂女の声が壁越しに聞こえる。「自分は何者?」一晩悩み抜いて煩悶を続ける彼の元へ、法医学教授の若林と名乗る男が訪れ、前後の事情を説明し始める。精神科学の優秀な研究者でありながら、先日自殺した正木教授が実施していた『狂人の解放治療』の実験に、「わたし」は一身を投じているというのだ。若林は「わたし」が自分の力で「わたし」の記憶を回復させようと、まずは身なりを整えさせ、様々の資料を「わたし」に見せ、様々な背景や研究内容などをを語り始める。

『ドグラ・マグラ」の凄さというのは果たして何処にあるのか?
これだけのスペースで夢野の代表作のみならず「探偵小説の三代奇書」とも呼ばれる一角を論じられるとは思っていない。しかし敢えて。果たして本当に『ドグラ・マグラ』は夢野久作の代表作なのか、という疑問が湧き上がるのを止められない。(以下、内容に触れます)

まず、『ドグラ・マグラ』が大作、かつ当時非常に大胆な試みを施された「傑作」である点に否定の余地はない。 ・千二百枚ものテキストの洪水が、読者さえも取り囲むかのような緩やかかつ、巨きな円環に沿って物語を構成していること。 ・チャカポコで知られる阿呆陀羅経の文句、映画、新聞記事、演説、古典、漢文等々効果を考えながら使用される実験的かつ的確な文体。 ・遺言形式での真相の告白が中途で成されてしまう構成上の配置の妙。・中国の歴史物語までをもストーリー取り込んでしまうスケールの大きさ。 ・腐敗する死美人という視覚に訴える工夫……等々。これら考えに考え込まれた各章が渾然一体となって織りなしている大きな布は、縦糸と横糸が自由自在に、そして奇想天外に組み合わさることで、ミクロ的には分からなくとも、マクロ的に素晴らしい模様を表現している。物語全体からしても単なる試みとしても、卓抜した探偵小説であることは疑いようのない事実。

以上を踏まえても、私は本作が夢野久作の代表作、という点については懐疑的なのだ。
私の疑問、それは一人称格の「わたし」、彼が巷で定説となっているように「狂人」だとは思えないこと。確かに彼は記憶がなく、時々記憶の障害を起こす。作中でも「狂人」と表現されている。しかしそれだけで彼のことを本当に「狂人」と言い切れるのか。夢野久作の他の物語では、確かに「狂人や変人、社会的弱者を通して観た世界」、というのが描かれ、「世界」を夢野流に諷刺することに大きな役割を果たしている。そちらの印象が強ければ強いほど「わたし」も他作品の主人公らと単純に同一視されがちだ。しかしそんな彼らに比べ、「わたし」はマトモ過ぎるのではないか。「狂人」「狂人」と文章で苛められながらも彼の考え方、彼の物事の受け取り方は、フラットかつノーマルである。故に彼を通して描かれた物語=「狂人を通して観た世界」とは言い切れない、というのが私の考えになる。
本作をその観点から見直すとどうなるのか。
それは「普通人から見た異常な人々の姿」となり、一般的に信じられている物語の構図「狂人から見た世界」を完全に逆転する。夢野が度々描いてきた「主人公の特殊性、異常故に発揮される圧倒的パワー」は、若林博士や正木博士など、従来脇役格と思われてきた人物にこそ当てはまり、主人公には当てはめられない。時に動揺しながらも、終始冷静な眼で彼らの行動を観察する「わたし」は、実は物語中の緩衝剤の役割を果たし、物語全体のバランスを取る緩衝材的存在でしかない。物語の軸となっている「遺伝による犯罪」という考え方は、受け取る側より仕掛ける側に多大な労力が必要である。二人の天才学者がこの「犯罪」に魅入られ、事件に深く関わっていく様子に、人間が根元的に持つ怖さ・強さ・弱さ・哀しみを強く感じる。私としてはこれらから得られる感興が『ドグラ・マグラ』最大の見せ場だと思うのだが、果たしてどうなのだろう。少なくとも、本作から一人の人間の生き様を読みとれ、と言われれば「わたし」よりも正木博士の方に強烈な印象を感じるのだが。

上記はあくまで再読で得た自分の感覚。もちろん人により異論もあるだろうし、三度目をもし読む機会があれば、私はまた違う感想を持つだろうことも確信している。ただ願わくば、夢野未経験者には、短編集をいくつか読んでみてから『ドグラ・マグラ』に入って頂きたいものである。でないと脳髄の地獄に落ち込んでしまうノデ、読み通すのは大変デスゾ。


00/02/27
藤本 泉「針の島」(徳間文庫'83)

厳密には外れるが、辺境vs中央の確執を描いた「えぞ共和国」シリーズの外縁にあたる作品。

山形県沖に浮かぶ小さな島、羽里島。日に数回往復するフェリーに乗り、非番の刑事、五十嵐はその島を訪れていた。彼は不良学生だった時期、この島で精神的な傷を負う事件に遭遇していた。島の茶店で休んでいた彼は、叫び声を聞き、鳥居の下へ男が転がり落ちてくるのを目撃する。瀕死の男は五十嵐に「だま……された」「ぎゃくの……くすりだ」と言い残す。嫌がる茶店の女の子を見張りに立たせて、駐在に知らせるよう通りがかりの男に依頼した五十嵐は、石段の上に駆け上がった。怪しい者は見あたらないが、現場には薬瓶の蓋が落ちていた。現場に戻ったところ、男は既に息絶えており、島の人々が男の周りを取り囲んでいた。

果たして「正義」はどちらにあるのか。明るい島で繰り広げられる因縁の戦い
中央権力者(の代弁者)vs地方の共同体、というのが「えぞ共和国」の基本原則。本作でもその流れはしっかりと継承されている。刑事である男は、共同体からすると異分子であり、最初から敵。序盤はそのことに本人は気付かないが、いつしか、共同体相手に孤独な戦いを挑まざるを得なくなる。島の人々の虚言、悪意ある沈黙、庇い合い、裏切り、調査への間接的な妨害……。これだけだと共同体が単純に悪者のように感じられるかもしれない。が、本質はそれと異なる。
このシリーズの場合、常に共同体が常に先に存在しているのだ。権利を持つのは共同体であり、嗅ぎ回る主人公達、侵入者こそが彼らの権利を犯そうとする盗人である。自らの権利を守るために共同体が全員で吐く嘘。証人が多数である限り、守られる権利。それを現在の法や、自分自身の価値基準の正義によってかき乱す者こそが、悪者なのである。そして一様に侵入者は自分が悪者であることに無自覚で、戸惑い、やがて怒る。
本作、犯人の謎も、動機の謎も薄い。ほとんどそれを隠す必要はないかのように、元から描かれている。強いて言うならば、連続墜死事件の被害者のミッシングリンクと殺害方法、そしてダイイングメッセージの謎は、ミステリ的興味として存在する。その仕組みもそれなりに世見どころであろう。がしかし、本作の内部で激しく葛藤しているのは、社会vs社会、文化vs文化の個人レベルを越えたところの「戦い」であり、それをミステリの形式に託したのが本作品と読むべきだろう。
アガサ・クリスティのポアロものの最も有名な作品で使われたあるトリック。その規模を共同体全体クラスまで大きくしたところに「えぞ共和国」のシリーズがある、とふと思った。

乱歩賞受賞作家ながら、なかなか作品の入手しづらい作家の一人。「えぞ共和国」シリーズを全部読むのはファンだけで構わないと思うが、ミステリ好きなら一冊は読んでみる価値がある。


00/02/26
鷹見緋沙子「血まみれの救世主(メシア)」(徳間ノベルス'85)

『日本ミステリー事典』にて完全にその正体が明かされてしまった女流覆面作家・鷹見緋沙子。本書はデビュー十年として執筆された後期作品で真の筆者はO氏であると類推される。

尾山真由美は、無計画な性格故に借金まみれになった上、入院した母親に金で売られる形で、暴力団蛭田組組長、蛭田壮二の愛人として囲われていた。蛭田組は地元で対抗勢力の伊佐原組と対立、組長は常に完全護衛で真由美の住むマンションに訪れる。もちろん真由美の生活は二十四時間完璧に監視され、自由を奪われていた。そんなある日、蛭田は真由美宅の向かいのマンションからの分厚いカーテン越しの狙撃にて命を失ってしまう。狙撃者は逃げ去り、伊佐原組の手の者の犯行と思われたが、それから一ヶ月手掛かりもなく、時は過ぎた。真由美は、これを機に組と縁を切り、別の町でOLとして生活を開始。そして小さな幸せを掴みかかった時に、蛭田組の組員が真由美のアパートに転がり込んで来てしまい、再び幸福を喪ってしまった。そんな彼女の前に古谷と名乗る男が現れ、真由美を助けたい、と申し出る。

ヤクザ世界を背景にした現代版シンデレラ・ストーリー
「書き下ろし長編官能サスペンス」と打たれている。まぁ否定はするまい。表紙は裸の女性だし、濡れ場はあるし、サスペンス仕立てで謎のウェイトは小さいし、どう考えても本格ミステリとは言えまい。だが通俗作品と割り切るにしても、もったいない部分がある。
まず、濡れ場のシーン。出版事情として入れざるを得なかったのかもしれないが、どう考えても不必要。その描写もちょっと女性蔑視が鼻につき、男性に都合良すぎ。正直今一つパワーなり情熱が感じられない。ヒロインとヒーローのラブロマンス(プラトニックにね)だけに絞った方が作品価値は高かったろう。いずれにせよ、ロマンスそのものもありきたりの誹りは免れまいが。
一方、サスペンスの部分。こちらは意外とイけた。というか、ヤクザ同士の抗争という御都合主義的な背景を持ってきたために、派手目なアクション部分がしっくりと収まり、狙撃、拉致、暗殺などの数々の行動や、スーパーマン的大活躍をする副主人公格、古谷の姿が、違和感なく単純に楽しめてしまった。巨悪、滅ぶべし。対象がヤクザだと考えただけで数ある暴力シーンも、それほど抵抗感なく受け入れてしまう私が単に小市民的なだけなのかもしれないが。ただ抗争そのものの背景などきちんと説得力のある説明をしてある点は、細かいことながら評価したい。ヤクザ映画を見慣れた人なら違った感想を持つのかもしれないが。
結局のところ、辛い思いをした女性が突如現れたスーパーマンに救ってもらって幸せになるお話。舞台が露骨なだけで本質はそういうこと。子供向け少女向け、更にハーレクインでも表現し得ないロマンス。さすが通俗ミステリ。

ハッキリ言って好事家向け。初期鷹見三部作のファンであったとしても、別に好んで読む必要のある作品ではないです。でも私は好事家なもので。


00/02/25
鮎川哲也「死のある風景」(角川文庫'76)

元本は'65年に講談社より出版された作品。本作を鮎川長編の上位に挙げる人も多いと聞く。現在はハルキ文庫版での入手が最も容易。青樹社文庫版もある。

石山真佐子は、妹の誕生日に突如失踪、連絡により阿蘇山の噴火口に身投げ自殺をしていたことが連絡によって判明する。結婚式の日程が迫っており幸福いっぱいの筈の彼女が何故? 理由は家族にとっても全く分からない。一方金沢では、整形外科医、百済木との婚前旅行中の女性、鶴子が百済木が友人宅で夕食に招かれていた頃、米軍の試射場近くの砂丘内で射殺されていた死体が発見される。翌日、事件に使用された拳銃が上野駅のポストから発見され、出所が洗われたが、ルートは発見されない。再び、鶴子や百済木に対する怨恨関係を調べ直したところ、二人はそれぞれ元の婚約者と別れて結婚話を進めていたことが分かり、それぞれの犯行かと疑われるが彼らにはアリバイが存在した。更に百済木のことを調べ廻っていたトップ屋も多摩山中で死体となって発見され、事態は錯綜する。

アリバイの為の完全犯罪トリック。僅かな瑕から崩れる姿が見もの
御約束というか、周知の事実として「鬼貫もの=アリバイトリック」という図式がある。漠然とした印象では鮎川は時刻表トリックを多用しているように思われがちだが、ほとんどの場合、時刻表はそのアリバイの正当性(ないしは鉄壁性)を表現する場合に多く使われ、時刻表のみで成立するトリックを使われている例の方が少なく、実際のトリックは別物であることが多い。さて本作はどうだろう。
読み始めて戸惑うのは、結婚式を控えた二人の女性を巻き込む奇禍をテーマに二つの導入部分が存在する点。全く関わりのない(ように見える)これらの事件は、もちろん、その裏に大いなる陰謀が存在している。これらが、ほんの少し交錯したかと思うとまた離れ、再び交錯しては離れる。徐々に二つの事件が有機的に繋がる展開にまず、強い興味を引かれる。この間、地道な捜査から浮かび上がる人間の本性、裏の顔、欲望、悩み。最終的に姿を現す人間関係の意外性などまで物語の中盤までの大きな魅力は次々浮かび上がる新しい姿のサスペンス性。他のシリーズ作品同様、締めは鬼貫警部によるアリバイ崩しと共通しているし、鬼貫の発見するごく僅かの瑕疵から鉄壁のアリバイに穴が空き、広がり、崩れ去っていく快感そのものも味わえる。どうして、本作のアリバイトリックは、時代性があるにしろ当時としては破りようがないのでは、というものであり、本当にごくごく僅かなところから切り崩す鬼貫の凄さが尚更映える。
どうしてもアリバイ崩しの内容にばかり目が向けられがちの鬼貫作品であるが、その最終的論理的な謎解きの仕上げに至るまでの事件の変遷も実は非常に面白い。それは物語の内部に仕掛けられた、登場人物や、事件そのものが抱える謎。「アリバイ崩し」というメインディッシュに至るまでのオードブルもしっかりと美味しい。これが鮎川作品が今でも高い評価を得ている理由の一つではないか。

到底不可能と思われたアリバイが崩れ落ちる快感は、鬼貫警部もの共通ながら、一冊一冊ごとに微妙な感興の違いがある。読み込めば読み込むほど、味の出るシリーズかと感じる。


00/02/24
山口雅也「續・日本殺人事件」(角川書店'97)

私は山口雅也さんの大ファンである。なのにこの作品を今まで手を着けていなかったことを訝しむ方もおられるかもしれない。理由がある。それは「勿体なくて読めなかった」のだ。推理作家協会賞短編賞受賞の『日本殺人事件』の続編で、Sammuel Xという著者が書いたペーパーバッグを山口氏が訳した、という形式になっているのは前作に同じ。

探偵事務所を開いたトーキョー・サム。彼の元に早速訪れた依頼人はなんとスモウ・レスラーのジシンリキ関であった。巨体に似合わず気の弱い彼は「死霊に脅かされた」と言う。彼の悩みを解決すべく立ち回るサムは日本の盆踊りや色々なスモウに戸惑っているうちに人気スモウ・レスラーのコマイヌオーが殺されているのを発見する『巨人の国のガリヴァー』
依頼がないことや片思いのエクボさんにステディが出来たと聞かされ、様々な不安やストレスを感じはじめたサムは、散歩に出掛けた公園で雲水(禅の修行僧)と出会う。彼は自らの殺人を告白、禅の公案でサムを煙に巻いて姿を消してしまう。数日後、インチキ禅問答のスペシャル番組をテレビで見ていたサムの元に再びその雲水が現れ、外国人で禅寺に入門した男が書いたという『実在の船』という本を託して行った。『実在の船』以上の中編二編。

本書は傑作でないが故に傑作である、でいいのかな。実験性高いミステリ
反転部は完全に『續・日本殺人事件』『鉄鼠の檻』の内容に触れていますので注意。
巨体のスモウレスラーと頭が大きく体の小さいフクスケとが、カンノン・シティを縦横無尽に暴れ回る『巨人の国のガリヴァー』。表面上は、どたばたアクション推理とも思えるこの中編も、盆踊りや死霊など日本人の「死」に対する概念、また「神に対する礼」という観念的で分かりにくい事柄を深く掘り下げている一編。『日本殺人事件』でも日本的なものをわざと突き放した視点で捉えることで全く新しいミステリを創り上げていた山口氏だが、余りにも日本的で日本人さえも一部の研究者を除くとよく理解していない盲点について突っ込んだ議論を展開しているのが本作……だと思う。結末に至るまで、異邦の地で迷い揺れるサムの心は『実在の船』の導入部とマッチする。
山口氏がキッドピストルズの一編として書きかけていた「禅」をテーマにしたミステリ。ところが京極夏彦氏が先に『鉄鼠の檻』にてこのテーマを具現してしまったため、捨てかけていた――ものを再挑戦して見事に完成させた作品が『実在の船』なのだ。献辞に「京極夏彦氏に――」とあり、冒頭の一節も完全に『鉄鼠の檻』のパロディからスタートしている。そしてその共通点は「禅」だけではない。そもそも本自体の装幀も京極夏彦、帯も京極夏彦。本書冒頭の「覚書」には『鉄鼠』に登場した古書店主「山内銃児」がそのままの名前で登場するし(この人物自体が、山口氏がモデル)、『巨人の国』に登場するスモウレスラー、オオジカマロ(大鹿マロイのパロディ)の存在は同じく、『鉄鼠』に登場する僧侶「哲童」と通じるように思う。(以下からネタバレ含む)
『巨人の国』の奇妙な事件の原因になったことが「横綱への見立て」にあるのは、『鉄鼠』にて哲童が果たした「公案への見立て」という役割とまるで同じではないか。
さて、『実在の船』の内容だ。いくつか事件らしきものは起きるのだが、自分自身に悩むサムに徹底的に「禅」について考えさせている部分が本作の根幹である。「実在とは何か」 禅寺の外国人修行僧が書いたという「実在の船」というテキストについて、いくつもの西洋科学や実際に存在する禅の公案を駆使するバショー伯父さんとの話し合うサム。事件のことはさっさと脇に置かれ、「禅」そのものの本質の追求が物語を支配してしまう。その結果、完全に物語は「禅」に破壊されてしまっている。また、結論らしきものに達した彼らの実存をメタにて落とす。結局のところ、彼らはただのインクのシミでしかない――果たしてこのやり方は適当なのだろうか?一見、キレイに「禅」の中の概念「空」でオチを作ったかのように見える。が、しかし。
彼らの実存は読者の頭の中だけに存在する。確かにそうかもしれない。ただ「禅」そして「空」がテーマ故に登場人物を作者が最も安易な方法で消し去ってしまう方法、そこに残るのは単なる「消去」であり「空」ではないはずだ。そこに彼らが物語として綴られていた以上、そこには消去されていたとしても何かが「存在」していたのだから。
この結末を付けてしまったが故に、トーキョー・サムという愉快なキャラクタがいなくなり、続編が書かれないのだとしたら、私はその哀しさ、寂しさだけを感じてしまう。


いずれにせよ、本作が問題作であることは間違いない。どれくらい物語に没入しているか、という物差しによって評価が読者により両極端に振れるのでは、と思われる。単純にストーリーを追っても充分エンターテインメントしているだけに、物語の創りあげていること、語ろうとしていることの深さは計り知れないものがあるのだが。


00/02/23
高田崇史「QED 百人一首の呪」(講談社ノベルス'98)

第九回メフィスト賞受賞作品。高田氏はこの後も「QED」をシリーズとして執筆を継続している。

都内の豪邸に住む会社社長は百人一首の有数なコレクターとして知られていた。その彼は離れて暮らすことを強いている息子や娘を年に一度、正月だけ、家に招く。家族の集まる食事時に気分が悪くなり退出した社長は、寝室に戻る前に廊下で幽霊や人魂を見たと騒ぐ。そして翌朝、頭を殴られた死体となって自室から発見された。手には百人一首の札が一枚。ジャーナリスト小松崎より、その話を聞かされた変わり者の漢方医、桑原崇は百人一首そのものが四つの謎を持つのだ、と同席していた薬剤師、棚旗奈々に語る。さらに桑原崇は自ら、百人一首の持つ謎解きに熱中してしまう。一方、事件は兄妹の中でただ一人社長と同居している長女が「私は父親を呪っていた」と証言、続いて首を吊って死んでしまうことで混迷する。警察は、この首吊りが自殺でなく他殺であることを掴んでいた。

百人一首そのものに込められた謎解きと、殺人事件の謎解き。
とにかく、百人一首に関する徹底的な考察と全く新しい解釈が凄い。説得力が高く、様々な資料を噛み砕いて自分のものにした上、新しい説を創り上げている点、古典の論文としてでも十二分に成立され得る内容。あの国文学に強い(国語の先生だし?)北村薫氏が、百人一首の謎解きそのものを絶賛していることでも分かる。その分、語られる内容はかなり高度な説明性に満ちている。子供の頃、百人一首で遊び、上の句〜下の句の繋がりを全て覚えていた私でも(しかし当時は丸暗記しているだけで意味などに思いを馳せることはなかったが)、この新説の凄さは分かるものの、その論理の筋道を追うだけで意味の反芻を行う気にならなかった。ましてや百人一首に全く興味がない人にはこの部分は読書の苦痛かもしれない。単純なミステリでない分、読者を選ぶことは間違いない。
そして提示される、不可能犯罪。アリバイが完全で誰も実行出来る余地のない犯罪に、幽霊を見たという騒ぎが加わり、色々な伏線共々面白い。また、百人一首マニアの主人が何を試みていたか、というのも大袈裟ながら、説得力もあり、これは良いと思う。が、しかし。私としては証言者が特殊な病気であった、という真相についてはちょっと頂けないように感じた。読者にこの部分を疑え、というのは無理ではなかろうか。ダイイング・メッセージについても同じことが言える。この手が許されるのは島田御大だけではないだろうか。

本作が処女作だが後のQEDシリーズ『六歌仙』の評判が良いので、続きも機会があれば読むことになりそう。本作だけなら読者を選ぶ、とは言っておきたい。
よくよく見ると章題にもアナグラムが。お約束なのかな。(五文字目を拾って読んでね)


00/02/22
陳 舜臣「三色の家」(講談社文庫'78)

陳氏の乱歩賞受賞のデビュー作『枯草の根』にて登場した探偵役、陶展文が日本の留学先を卒業したばかりの頃の事件。'62年に書き下ろしで刊行された作品の遅れた文庫化。

昭和八年。大学を卒業して中国へ帰国しようとしていた陶展文は、友人の喬世修からの手紙を受け取る。喬は一足先に実家のある神戸に帰っていたが、海産物問屋を経営する実業家の父親が急死し、商売の後を継ぐことになっていた。その直前、死んだ父親が喬の聞いたこともない腹違いの兄というのを中国から呼び寄せており、その兄の挙動が不審なので、帰国前に寄って貰いたい、というものだった。陶が訪ねたところ、確かに兄の挙動にはおかしいところがあり、更に喬の妹、純が彼に心を寄せていることに気付く。そんな折り、滞在していた通称「三色の家」と呼ばれる喬家の三階の干し場で、父親の腹心だった料理人が何者かに頭を殴られ殺される事件が発生。争う物音と三階から降ってきた筵により、死亡時間が推定されるた。しかしその出入口には各々人がいたにも関わらず、犯人の姿を目撃した者はいなかった。

不思議な味わいの根元は、時代と風物なのか虚飾に満ちた人間関係なのか
不思議なミステリである。戦前の神戸、しかも海産物を輸出する人々が集うごく一部のコミュニティにて発生する殺人事件。シンプルながら深いトリックも弄されており、伏線も丁寧に張られ、探偵役も存在する。設定だけをみるといかにもトリックを解くミステリに見える。それでも本作は論理に頼る古典本格に流れておらず、なにやら別の部分、人と人との陰日向の関係が少しずつ明かされていく過程から滲み出てくる味わいの方が深い
中国からの移民、華僑。一世一代の成り上がり。許されざる恋。金銭と権勢への欲望。成功者と失敗者の悲哀。
描写に力が入っているのはどちらかというと「戦前の神戸」「海産物問屋」といった時代性のある事柄、実際にそこに存在した静物、風俗、習慣、仕事などの方。人の心の動きとか、感動とか、悲しみとかそういった事柄については余り直接的には表現されておらず、逆に淡淡と押さえて書かれている。それでいて不思議と登場人物の心情が、場面が変わる度に切々と伝わってくる。恐らく地味ながら、確固とした背景(舞台)を創り出せた故に、徐々に人物の真の姿が浮かび上がる部分に独特の迫力が出ているように感じる。個性、出自などきちんと表現され分けた登場人物が物語の厚みを作っている点は間違いない。

実は『枯草の根』を除く陳舜臣の初期ミステリは現在ではかなり入手困難なものが多い。歴史作家として多大な実績を残している陳氏にとり、ミステリはそれほど重要度が高くなくなっているのか。本作など、ミステリでありながら、登場人物それぞれの人生の方に強く胸を打たれる。後の純文学への布石はこんな初期作品からも充分に読みとることが出来る。


00/02/21
西東 登「クロコダイルの涙」(集英社文庫'81)

'64年『蟻の木の下で』で第10回江戸川乱歩賞を受賞した西東氏は、'80年に死去された。その直後に遺作として刊行された作品。

伊豆にある大別荘で夜中に四人の人間が爆殺される事件が発生。爆風により凄惨なバラバラ死体となった彼らは身元がはっきりしないが、最終的に、その別荘の持ち主である大実業家をはじめ、彼と繋がりの深い政治家、彼の女婿の俳優らであることが確認された。その手口から過激派の犯行でないか、と見られたが全く手掛かりはなく、事件は迷宮入りになりかかっていた。そんな折り、地道な捜査の結果、あることを突破口に真犯人が突き止められ、逮捕された。被害者が殺されるに至った原因は、十数年前にその地で発生したある出来事であったことが語られる。この事件の予兆から、終結までを多面的に描いたサスペンス・ミステリ。

叙述の妙でサスペンスを盛り上げる現代版「罪と罰」
序盤の構成が抜群に上手い。十人以上の多数の人間にある時期のある感情、ある経験を独白させることで、まず、多数の視線のベクトルを読者の前に投げ掛ける。中心となる人物が誰なのか、中心となる事件はどれなのか。それぞれ霧中を模索している人物、過去の犯罪を告白する人物、自らの悲劇を語る人物など一様でない。この序盤では神の視点の第三者による説明・視点が一切ないにも関わらず、視線のベクトルを交差させる巧妙なテクニックにより、過去に発生した事件や、現在の主要登場人物それぞれの立場が、自然と読者の頭の中に浮かび上がって来る仕組みとなっている。
次なる興味は犯行を決意した犯人たちによる、計画立案、そして実行に移る。この部分は迫力こそあれ、悪と対決する爽快感を除くと、それほどに奇想天外ということもなく、この部分だけであれば平凡な作品としてしまっても過言でもない。
本作で目を惹くのは、単なる復讐譚で物語を終えないところ。事件が完了した後も、犯人たちの逡巡、葛藤、そして哀しい純愛が丁寧に描かれる。果たして人が人を裁くというのはどういうことなのか。「恨み」を晴らすというのはどういうことなのか。彼らは悩み、本作ではまたある結論に達する。考えさせられる作品であった。余韻の残るラストも悪くない。

本作品の最大の特徴は物語の構成様式に特化される。しかして人間が犯罪を決意するに至る経緯、犯罪を犯した人物が悩みだす経過がまた胸を鋭く突き刺す。完全に埋もれた作品ながら、一流の犯罪小説に出会えたように思う。