MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−過去の書評群 (掲載順)− 


00/09/10
倉阪鬼一郎「屍船」(徳間書店'00)

刊行ペースの早い倉阪氏であるが、独立短編集は『怪奇十三夜』以来八年ぶりという。「異形コレクション」に収録された十一の作品を中心に書き下ろしも含め合計十七作品が収録された作品集。

南洋の島にあるラヴァーズ・ビーチ、語られる怪奇譚通り、太平洋戦争の怨念が積もる異世界への扉が開いている『屍船』
老夫婦の最後の晩餐は、真昼の桜の下で『老年』
「事」について思索を重ねた結果に出た結論。それを導き出したのは……『事件』
リストラ対象となった男に思いがけず子会社出向ながら昇進の辞令が。ただその子会社は謎に包まれていた『辞令』
雪の降りしきるホテルを訪れた民俗学ライター。どことなく沈鬱な部屋。外は雪嵐『雪夫人』
洞窟で働く二人の男の元に修行に来た日本人少年。彼らが貸してくれた怪談集に書かれている物語とは『墓碑銘』
おさかなさんおさかなさんおさかなさんがいっぱい『水妖記』
人気ソーセージ屋の材料は人肉だった。材料を調達してくれる男が来ないことに業を煮やした店主『霧の夜』
招待状に誘われ鄙びた旅館を訪れた旅行ライター。福助に囲まれた最上級の部屋に通されて『福助旅館』
編集者に誘われて彼女の田舎を訪れた小説家。お宝溢れる巨大な蔵へと案内されるが『茜村より』
死ぬほど暑い夏、丁度新聞が読みたくなった時に訪れた勧誘員は巨大なみみづくだった『みみづく』
「背中についた虫を取ってあげよう」という男性の夢を見る小説家志望の女子大生『夢の中の宴』
見合いがてら休養に伯父の住む田舎を訪れた青年は奇妙な儀式の渦中へと『草笛の鳴る夜』
唯一の主演だったサイレント映画の上映会に訪れた男はいつしか物語と自分が同化して『白い呪いの館』
「月の出た夜に小学校のプレイルームには近付いてはいけない」学校フォークロアの禁を破った男『プレイルーム』
川上から大きな桃がどんぶらこ〜どんぶらこと流れて来ました『おじいさんの失敗』
何の変哲もない洋食屋でいつもと違うサイドディッシュを頼んだ男は特別料理を食することに『ラストディナーは私と』以上十七編。

安心して読めるホラーと安心できないホラーと
ホラー小説に対して「安心」という形容詞を付けるとは、とお叱りのむきもあろう。「安心」が不適当なら「ある意味安心」と置き換えてもらってもいい。
倉阪鬼一郎描く日常世界は、必ず異界と繋がっている。様々な境遇の人間が、様々な手段、罠、陥穽によって、様々な異界へと引きずり込まれていく。短編の序盤を読めば、どの人間が(ほとんどの場合は主人公なのだが)異界へと足を踏み出しつつあるか分かるし、彼(彼女)はどう足掻いても、その運命に抗うことは出来ない。絶対確実最大不幸一直線。 これら一連のクラサカ短編は、その過程における微妙な日常感覚とのズレや違和感、姿を現すいくつもの魔界、絶望……などが手を変え品を変えて独特の世界を紡ぎだしている。この「大筋」が同じで、個別のシチュエーションを楽しむ作品については、同じクラサカホラーでも「ある意味安心」出来る。
一方で、この「大筋」と外れたホラーが十七編もの中に点在する。そちらは安心どころか、不安と共に読み進めることになる。一行目から足許がなくなったり。読み終わって五分後に寒くなったり。やはり私の根がミステリ系なのか、文章による驚きがもたらされる作品に強い印象を覚える。そしてこれら「不安」な作品がこの短編集を油断できないものに化けさせている
冒頭の『屍船』。これは既に異界で囚われ人となっている存在の物語。超絶とも言えるイメージの世界の中で死すら許されぬ「存在」として運命に弄ばれる話。特に題名にもなっている「屍船」そのものの構造に圧倒される。老人夫婦のあっさりとした会話から日常世界の中のどこかに存在しているような異界のイメージを、哀しみと共に描き出した『老年』。再読ながらやはり俳句のイメージが絶妙に世界の崩壊とマッチしている『水妖記』。この三作が個人的には作品集でのベスト3。(読み返して思ったが『水妖記』は最後の付け加えられた段落が余計かも)

怪奇小説は短編に限る、と作者本人も含めよく言われることなのだが、その短い枚数で人の心を締め上げるのはなかなかに難しい。クラサカホラーにはある意味でのパターンがあり、それに沿っていれば一定レベルは常に保証されている。ただ、大傑作にもなりにくい。クラサカ世界をクラサカ氏自身が打破する時に発する闇を、また静かに待ちたい。


00/09/09
藤本 泉「血ぬられた光源氏」(廣済堂文庫'85)

第23回江戸川乱歩賞作家、藤本泉さんが'75年に書き下ろした作品で、十年経過してから初文庫化されたもの。本書出版の翌年、'86年に藤本さんはドイツに移住、数年後消息が不明となってしまう。

源氏物語研究の第一人者で、京都では名士とされる洞院一史教授。最近彼は、交通事故で三人目の妻を喪った。彼女は病院で息を引き取る間際「恐ろしいものを見た……京子と……」と一史の姪の京子に言い残した。京子は、一史が妻と同乗する際、いつも身に着けている貴重品をわざわざ家に置いてきたこと、彼の以前の妻達も不思議な亡くなり方をしていることに気付く。京子は一史とは別アプローチの源氏物語研究を行っている仲間で婚約者の黒鍬と一史の過去について調べ始める。サラブレッドの血統を持つ一史は現代の光源氏なのか?

歴史or文学ミステリと思いきや、実は現代版の青髯物語
はっきり言ってしまえば、この洞院一史という大学教授の過去の罪状が延延と暴かれる物語である。中盤に至る前に、彼が深い関係を結んだ女性のほとんどが何らかの形で「死」を迎えていることは明らかにされる。出征中の兄の嫁、戦時の留学先で知り合ったドイツ人女性、最初の妻、その当時の愛人……その「死」が尋常ではない。自ら手を下す、というよりプロバビリティの犯罪を延延と繰り返しているのだ。
となると、この大学教授の残忍性、異常性が描かれているのか、というとそうでもない。異常なのは後先考えずに見初めた女性を手籠めにする強烈な性欲くらい。残りの社会性は名士として完全なものを持つ。相手の女性が彼にとって必要でなくなった時、台所の生ゴミを捨てるくらいの気軽さで淡淡と処理を行う。そこに感情の激流など微塵もみられない。異常性の無さが異常と言うか。
主人公らが大学教授の過去を探ることで浮き出てくるのは、大勢の女性が彼の毒牙にかかったという事実。その犯罪歴だけで「モンスター」じみているのに、主人公に待っているのは、その男と対決なのだ。源氏物語への懐疑を挟みつつ、サスペンス性を掻き立てる。後味は今一つながら、独特の展開は他にはない魅力を持っている。

サイコサスペンスと犯罪小説が混じったような不思議な味わい。藤本泉の作品らしい不思議な「どろどろ感覚」はこの作品でも健在。「えぞ共和国」シリーズとはまたひと味変わった感覚で男性中心社会の裏告発を行っているあたり、特異なスタンスを貫いた作家だと感じられる。


00/09/08
山村美紗「黒の環状線」(文春文庫'80)

乱歩賞候補作品で松本清張の推薦で刊行された『マラッカの海に消えた』が高い評判を得たことで徳間書店より書き下ろし刊行された……とはいっても、本作は'72年の乱歩賞最終候補作品『死の立体交差』を改稿したもの。

田中千沙子の婚約者、大学助手の日野夏彦が一年間の米国留学に出た。彼からの手紙の様子の変化が気になり、彼を追って米国に向かう千沙子。表面上の彼に変化は見えないものの、謎の美女の姿が見え隠れする。夏彦の帰国後、千沙子はそのまま交際を継続していたが、夏彦の主任教授が死亡する事件が発生した。刺殺された現場はマンション内部で、セミオート錠による密室となっていた。エスカレーター式に助教授に昇格する夏彦にも嫌疑が掛けられたが、彼自身は千沙子と福岡に旅行しており、アリバイがあった。また暫くして作詞家でバーのマダムをしている女性が、店で愛人の作曲家と飲んでいて毒殺される事件が発生。客の一人が犯人と目されたものの、行方が杳として分からない。この結果、別の美人作詞家がその作曲家に取り入って曲がヒット。彼女も疑われたが彼女にも完璧なアリバイがあった。そして今度は国会議事堂付近でベテラン議員が交通事故死。特殊な法律により、次点の議員が繰り上げ当選となった。一連の事件に千沙子は夏彦を疑い始めるが……

あるミステリのパターンを新たなアプローチから再構成する試み
作者自身もこの点は先に確信的に示しているので、触れてもネタバレとは言わないだろう。本作のテーマは「交換殺人」である。この「交換殺人」がミステリで用いられる場合、「交換殺人」であること自体を読者に秘密にして、それを明かすことでサプライズをもたらす……という使い方が一般的。序盤でそれをほとんど明らかにしてしまう本作は、その点がいきなり異質。
多少時代が遡るとはいえ、発表段階で手垢の付いていた「交換殺人」ネタを作品の核に持ち込んだのはかなり大胆。だが、後に稀代の女流トリックメーカーとして名を馳せる山村美紗は、そこにいくつもの新たな工夫を加えることで、今までにないミステリを創造しようとした。具体的には、交換殺人でありながら、その交換殺人自体を様々な不可能犯罪にし、二重の興趣を事件に盛り込んでいるのだ。
ここまでは高く評価出来る……のだが、残念なのは登場人物がその構造に追い付いていないように思えたこと。特に主人公の女性。婚約者を信じたい……と思い込んでいる割りに嘘をついてまで彼のアリバイを調べに行ったり、別の男に協力を要請したり……と、なんとなく行動がちぐはぐに感じられた。私が男性だからというのが理由でもなかろうが、彼女がもっと魅力的であれば、と思う。

乱歩賞の最終候補までは何度も残りながら、受賞は結局出来なかった山村美紗。実際のセールスは凡百の乱歩賞作家を遙かに追い抜いていることが、彼女の実力の一つの証明。思うに、乱歩賞のレベルが現在よりも遙かに高く、ごく僅かな瑕疵でさえ見逃して貰えない「時期」ゆえに受賞を逃しただけではないかと思う。


00/09/07
鮎川哲也「材木座の殺人」(フタバノベルス'86)

鮎川氏の安楽椅子探偵シリーズ「三番館のバーテン」ものの四つ目の短編集でありながら、文庫化されておらず、現段階は本ノベルスでしか読めない。'82年から'85年にかけ『小説推理』他に発表された作品群。いずれ、このシリーズは何らかの形でまとまるものと思われる。

ペンションに四人の芸能人を呼び出して一人一人に恐喝を働いた男が庭の片隅で死体で発見された『棄てられた男』
サラ金から借金をしている男が家に入ったまま消失。その家では以前にも同様の消失事件が『人を呑む家』
社長の娘と結婚の決まったエリートサラリーマンと社内で金貸しをしていたベテランOLが殺された『同期の桜』
資産家の伯父の家で暮らす遺産の相続権を持つ若者四人は伯父の強引で勝手な性格に辟易としていた『青嵐荘事件』
公園で新興宗教教団の有力者が殺された。犯人は勢力争い中の二人と思われたが写真によるアリバイが『停電にご注意』
性格の悪い推理作品の評論家が殺された。容疑者の別れた妻と中堅作家それぞれにアリバイ『材木座の殺人』以上六編。

円熟味のなかに少しずつの変化と工夫が凝らされはじめる
前期三作の徳間文庫収録に比べると、同じ倒叙の短編推理作品であっても微妙に作品内容に変化も現れている。ただ、事件発生−弁護士の依頼−探偵による捜査−バーテンによる解決、までの流れは同じ。そんな「縛り」の中で執筆し続けたことで、本作品集に収録されている作品は二分化しているように感じた。即ち新しい試みを取り入れようしていることを感じさせる作品と、以前のままの流れで執筆されているように感じられる作品と。
驚かされたのは『停電にご注意』。写真によるアリバイトリックなのだが、これは一つ処理を間違えればトンデモになりかねない強引さ(いやそれでもトンデモかも)。新興宗教団体とは、鮎川氏にしては珍しい背景設定だな……というのが実はこの強引なトリックに繋がっていてインパクトはこの作品が最も強かった。また、人間消失を扱った『人を呑む家』。題名がいい。トリックそのものは小味といっていいレベルとはいえ、全体を通じての雰囲気作りに工夫が強く感じられる。盲点を突いた『棄てられた男』。これも分かってみればかなり普遍的トリックの焼き直しとも受け取れるものの、きちんとその必然性まで論理的に詰めてあり、本格に対する鮎川氏のこだわりが感じられて好感。
残り三作。背景や事件などはそれなりに面白いのだが(特に『材木座の殺人』で輪堂寺耀『十二人の抹殺者』小壷天書房なんてさりげなく登場する部分にはのけぞった)、短編のアリバイ崩しものとしてはアイデアも小粒であり、それほどの感心は残念ながら得られなかった。
作品集トータルとしては鮎川ファン向け、という感じで、一般ファンが大喜びするかどうかはちょっと疑問か。

「三番館のバーテン」シリーズの初回が'72年(昭和47年)だというから、現在考えてみればこの達磨に似たバーテンは実に長い間、鮎川氏の短編を引っ張ってきたことになるようだ。執筆時期が比較的最近ということもあり、残りの未読二冊では更なる変化があるのかどうか。期待して読み進めたい。


00/09/06
小泉喜美子「ミステリー歳時記」(晶文社'85)

小泉喜美子さんによる海外ミステリー作品を中心としたエッセイ集。

「一月」〜「十二月」(梅雨、夏休み、クリスマス等も)まで、その季節季節に似合ったミステリから抜き出した一文が冒頭にある……のだが、残りは小泉さんがその時々に読んだ海外ミステリ作品について忌憚のない(本当に忌憚がない!)感想であるとか内容であるとかを紹介しているエッセイ。なので歳時記と言いつつ、内容的には「読書日記」に近いものがある。各章、七〜八作の(当時の)最新作から往年の名作まで、但し小泉さんがその時期に初めて読んだ、という作品が取り上げられている。ジャンルはサスペンス、冒険、ハードボイルド、本格……等々、広義のミステリー全般、英米作品に比べてフランスミステリーが多く取り上げられているのが小泉さんらしいと言えるかもしれない。

海外ミステリを一定の評価軸に乗せて、歯に衣着せずに論評する
小泉さんのミステリ作品において強く意識されていると見られる「洒落っ気」。その創作姿勢と同様の姿勢を、彼女は読書においても全く崩していない。何か新しいもの、洒落たもの、遊び心のあるものには最大限の賛辞を送っている一方、小説として詰まらないもの、旧態依然のもの、下手くそなもの……については手厳しいコメントを寄せている。そして「なぜこの小説が小泉さんにとって低い評価なのか」については常に明快な説明つき。このあたりがスッキリしているため辛口の評論にも関わらず、後味がさっぱりしているのだ。なんたって自分で訳出した『女には向かない職業』あたりもバッサリやっちゃっているくらいなのだから。
その小泉さんの「姿勢」なのだが、通読して感じられた主なものは下記にあたる。

 ・「推理小説」である以上「小説」としての楽しみがなければならない。
 ・「エンタテインメント」である以上「楽しみ」がなければならない。
 ・「新作ミステリー」には「試み」だけでも何か新しいことを期待したい。
 ・評論家ならミステリーを「好き・嫌い」ではなく「良し・悪し」にて論ずるべきだ。


全ての評価軸を個人的に評価するかどうかは別問題。いくつもの海外ミステリーがこれらのフィルターにかけられた結果がどうなるのか。そちらをひたすらに追うのもまた一興。個人的には自分自身の書評をどのようにすべきか、どのようなスタンスで臨むべきか、など色々と考えさせられた次第。瀬戸川猛資さんの評論を初めて読んだ時の衝撃に似たものを本書でも感じた。

小林文庫オーナーの運営する推理小説ノート。このトップに燦然と輝く「ミステリーを好きになってね」という名言は、本書の帯に書かれている言葉です(背景色も同じ)。個人的にはその帯だけでも購入する価値がありました……が、中身そのものも、特にミステリーマニアを自覚している人に「読書の幅を拡げるためにも」是非読んで頂きたい本です。


00/09/05
西村京太郎「終着駅(ターミナル)殺人事件」(双葉文庫'99)

元版は'80年に光文社より刊行された「十津川警部」シリーズの”鉄道もの”の第三長編。第34回日本推理作家協会賞を受賞している。この「十津川警部」シリーズは現在も継続しており、トラベルミステリーの超人気作品であることは周知の通り。

青森の高校の仲良し同窓生七人が計画した卒業後七年目の郷里への帰省。幹事役が全員の消息を調べ、夜行列車「ゆうづる」の切符を手配して手紙を送り、上野駅で待ち合わせる。立場も境遇も変わった彼らのうち六人が集まり、青森へ向けて出発する。ところが上野駅の公衆トイレで七人のうちの一人、通商省の役人となった男が、惨殺死体となって発見される。また「ゆうづる」車内では一人が失踪、五人は青森駅で参考人として警察に拘束された。失踪した運送会社社長の青年は茨城県の鬼怒川で死体となって発見され、彼が上野での殺人の犯人と思われたのだが、連続殺人は更に継続した。青森出身で十津川警部の部下、亀井刑事がこの動機不明の連続殺人事件を追う。たまたま亀井は青森県出身で、高校時代の親友からある相談を持ち掛けられていた。

至高のトラベルミステリー。この隠れた動機は凄すぎる
確かにトラベルミステリーである。♪上野発の夜行列車が物語の重要な核の位置を占めているのだから。執拗なまでに序盤で描かれる「上野駅」の持つ独特の雰囲気。古くは啄木が、演歌歌手が唱ってきた東北地方の玄関口、上野駅が物語の雰囲気を象徴している。
警察の監視下で同窓生七人が次々と連続殺人鬼の毒牙にかかる異常性。一つ一つの殺人には密室、アリバイ、殺人方法など様々な大ネタ小ネタが散りばめられ、決して最後の二人になった段階でも、犯人は誰なのか分からない。トリックだけを取っても十二分に鑑賞価値のある作品だと思うが、他に二つの物語的な価値があることに注目したい。
一つは高校時代を共有しながら、数年後には様々な境遇にいる若者たちの姿。表面上は昔のままの「仲間」でありながら、決して昔日の何の打算も無かった日々に戻れない切なさ。男と女を意識することによる変化。成功者と失敗者の相克。殺人事件に巻き込まれ、容疑者とされたことで否応なく浮かび上がらせられる彼らの心の動きは「青春」とは言えないまでも、大人の世界の入り口をくぐってしまったことの寂しさを強く感じさせる。
そして何と言っても特筆すべきは、エピローグの最後の最後で明らかにされる事件の動機。この衝撃度は抜群。 シンプルでヒントも実は伏線にあるのに。これで本当に連続殺人に至るものか、という疑念もあろうが、フィクション内での説得性は高い。この動機の意外性はもっと高く評価されてもいいはずだ。

しかし十津川警部、そこで発砲しちゃいかんだろう。

昔日の作品についてはそれなりに(一部で)高い評価を受けている西村京太郎だが、本書にしても推協賞受賞は伊達ではない。一般の軽いミステリファンと、濃いマニアックなミステリファンの両方を満足させる「解」が一つまた、ここにも。


00/09/04
森 博嗣「女王の百年密室」(幻冬舎'00)

副題は「GOD SAVE THE QUEEN」 森博嗣初のSFミステリ……というのが一般的な惹句かな。もちろんノンシリーズ長編。

二十二世紀。取材でアジア地区を訪れたミチルは相棒のロイディと共に遭難してしまう。ネットワークから切断され情報を喪った彼らの前に現れたのは完全に世界と遮断されて自活する不思議な街。「神に導かれた」と言って街に入るよう謎の老人からアドバイスされた彼ら。その通りにゲートをくぐると暖かい歓迎を受ける。人口三百人余り、そしてその半数は「眠り」についている、というこの街は、百年間外部との接触が途絶しているという。その街の女王、デボウ・スホは五十二年間生きているというのだが、どうみても二十歳そこそこ。時間の感覚が外界と異なるのか? 百年前の文化に触れ、街を興味深く観察するミチル。百年もの間、この街を訪れたのはミチルを除けばもう一人、マノという男だけだという。そのマノという名前はミチルの忌まわしい記憶を呼び覚ます。彼らの歓迎パーティの最中、第一王子が不審な死に方をする。彼らは「眠り」についただけ、だと言うが、その首には何者かの手によって締められた痕が残っていた。

森博嗣のSF作品。初登場なのにどこかで見たような?
語弊を怖れずいえば「森博嗣のミステリ」というのは、ミステリ(ミステリィ?)そのものの謎や解決よりも、その独特に割り切られた世界観、エキセントリックな登場人物などで裏打ちされた舞台の方に多くの魅力がある。作品内部に仕掛けられたトリックは、あくまで彼らが行動するに際しての付随部品でしかない。舞台そのものは現代のそこいらにある街だったりしても、森博嗣がそれを描けば全ては良くも悪くも「森ワールド」と化してしまう。本作品は、その「森ワールド」を未来世界に求めた作品。既に森ミステリィを味わったことがある方にとって違和感を覚えることは恐らくないだろう。
ただ、結局のところ森氏の大局的世界観は、舞台を移し替えただけでそのまま継続して描かれているような印象。登場人物それぞれの持つパーソナリティについても「どこかで見た」域を抜け出していない。
また、恐らく偶然の一致だとは思うのだが、本書のメイントリックは天城一氏のある有名短編と同じコンセプトにて成立している。(チェスタトンの某作品の応用とも言えるか)トリックの独創性を云々する気はあまりないので、作品評価と繋げるつもりはないが、背景にしろ舞台にしろホントそっくりで、却って驚いた。このトリックを成立させるためにはこのような舞台が必須だったとも逆に好意的に考える事も出来るのだが。
個人的に最も印象に残った「死」の概念に関する問いかけ。考え方そのものは面白いのだが、現代を舞台にした作品で使用した方がそのインパクトは強かっただろうし、森氏はそれを出来るだけの発表の場を持っている。

残念ながら、森博嗣が新境地に至ったという感想は正直持てなかった。氏が従来「現実」という舞台の制約で縛られて、書けなかった部分を解放するかと思って期待していたのだが。シビアな言い方をすれば、ミステリである必要も、SFである必要もない、でも森博嗣しか書けない作品、というところか。


00/09/03
横溝正史「悪魔の手鞠唄」(角川文庫'71)

旧「宝石」誌に'57年(昭和32年)より二年にわたって連載された作品。言わずとしれた横溝正史の代表作の一つで度重なり映像化されている。

昭和三十年。磯川警部の紹介状を携え、金田一耕助は岡山県にある鬼首村(おにこべむら)の温泉宿に静養のために逗留していた。昭和7年、鬼首村にやって来ていた恩田幾三を名乗る男の詐欺事件を巡って、殺人事件が発生したことがあり、若き日の磯川警部が担当したもののお宮入りしてしまったのだ。時しも、女優として成功した大空ゆかりが帰郷するということで鬼首村は湧いていた。そんな折り、耕助はふとしたことから、この村の元庄屋で、今まで八人の妻を持った多々良放庵という老人と知り合う。放庵は分かれた五人目の妻、おりんと復縁出来そうだ、ということを耕助に嬉々として語った。ところがそのおりんは既に死んでいると宿屋のおかみからきかされた耕助は愕然とする。彼はおりんを名乗る女性と村の峠で擦れ違っていたのだ。慌てて放庵宅に舞い戻った耕助だったが、部屋に大量の血の痕を残したまま放庵は行方不明となっていた。更に村を陰惨な事件が襲う。

視覚を効果的に利用した土俗スリラー探偵小説
多分再々読くらいになるかと思うが、内容としては映画やドラマでの印象がやはり強い。特に金田一と逢魔刻にすれ違う老婆とか。ただ、改めて読んでみることで色々なことに気付いた。
一つは「岡山もの」と呼ばれる一連の岡山を舞台とした作品(『獄門島』『犬神家…』etc)に共通しているように思うのだが、光と影のバランスが絶妙だということ。文章だけで読者のイメージを喚起する技は秀逸。夜は真の暗闇。灯りは燃える炎の色。昼間なら見えるものは夜は見えない。顔の向きを僅かに灯りから逸らすだけで、それが誰だか分からない。このコントラストを単なる背景のみならず、物語の核となる部分に的確に配置している。なるほど、映像化した時の鮮烈な印象は、既にきちんと小説内部で構築されていたのだ。
もう一つは本作に限ったことかも知れないのだが、実はあまり「見立て殺人」は犯人にとってあまり意味がないこと。もし本作が普通の連続殺人(普通の、というのもなんだが)だとしたら、金田一耕助は恐らくお手上げになってしまっただろう。あえて「見立て」にすることで、ようやくヒントや手掛かりが登場、実はそれらの助けによりようやく論理で解明される推理小説たり得ている。読み物としての興味としては、この「見立て」があまりに鮮やかなで、ここに引きずり込まれる部分が大きいのだが。
この「推理」と「興味」の微妙なバランス加減が、横溝作品の持ち味のように改めて感じさせられた。そしてそのバランスが優れているが故に、それなりに量のある作品ながら一気読みさせられてしまうのだ。

新刊書店で角川版を手にとって気付いた。もちろん旧角川文庫版でしか読めない作品が多数あるのはもちろんとして、現在の「金田一耕助ファイル」とされた灰色背のシリーズ、差別用語などが(遺族の了解の元に)一部改稿されているらしい。エクスギューズを付けて敢えてもとのまま、という作品が多い中、元の作品の雰囲気が損なわれているのではないか、とそちらを読んでもいないのに危惧してみたり。


00/09/02
甲賀三郎「姿なき怪盗」(春陽文庫'58)

探偵小説作家、甲賀三郎の代表的長編の一つで、敏腕新聞記者、獅子内俊次が主役をつとめる戦前の作品。本文庫も重版がかなり出ているので入手しやすい部類ではあるが、それなりに難しいかも。

今まで様々な事件を解決してきた獅子内が、編集長に休暇を願い出た。一週間、まるまる乳母の経営する志津木の海沿いの旅館で骨休みをする計画だった。ところが旅館に到着してみると、同宿には怪しい植物学者がおり、近くには大理石工場が建設されつつあって、あまり落ち着ける環境ではない。しかも、怪しい男女が岩窟に入っていくのを目撃した獅子内は、記者根性にてその場を捜索、頭に銃弾を受けた白骨死体を発見する。調べものの為に、岩窟を見下ろす断崖に向かった獅子内は工場の関係者から通行を妨げられる。もみ合いになったところに現れたのは、先日の二人連れの女性の方だった。社長秘書という肩書きの彼女の美しさに参る獅子内。宿に戻ると大恩ある新聞社の社長が毒殺未遂にあったと電報が入っており、獅子内は慌てて東京に引き返す。

スピーディな展開と、和製ルパンと戦う獅子内のキャラクタが魅力!
甲賀の獅子内俊次ものはいくつか読んでいるが、さすが代表長編、彼の魅力が遺憾なく発揮されている。当時の「探偵役」には珍しく、やたらめったら綺麗な女性に弱いという軟派なところ、どんなに深刻な状況においても軽口をたたける剽軽なところ、好奇心旺盛で勘も鋭い割りに重要なところでポカをするほんの少しお間抜けなところ。もう一つ加えるならば新聞記者根性というか、自分自身の「正義」を常に大切に行動しているところとか。常にアクティブでポジティブ、彼の魅力が作品を大きく引き立てている。
探偵小説としての魅力がそれに加わる。和製ルパンながら、恐るべき連続毒殺魔。犯人(黒幕)は三橋という稀代の悪党であることはハッキリしている。しかし幾人も登場する怪しい人物の中で、果たして誰が三橋なのか、という点がラストまで巧妙に隠されている。その意味でWho done it?としての興味もあり、展開を追うのを止められない。ばったばったと殺される関係者、三文チックな獅子内とヒロインのロマンス、各所に挿入されるアクションシーン等々、古い小説ながら映像的な感覚で執筆されているように思う。実際に映像化した場合に、この真相がどこまで隠しきれるかはまた別の問題かもしれないが。

国書刊行会、春陽文庫探偵CLUB等で思い出したように復刻される甲賀作品だが、当時の人気に比せば、他の探偵小説作家よりも恵まれていない状況のように感じられる。獅子内ものなどもっと読みたいのだが……なかなかに難しい。


00/09/01
芦辺 拓「和時計の館の殺人」(カッパノベルス'00)

コンスタントに作品を刊行している芦辺氏。本書はシリーズ探偵、森江春策もので「事件簿としては九冊目、第八長編となる」作品(あとがきより)。カッパノベルスの2000年推理フェアの第二弾として刊行された。

愛知県の片田舎、日計村に向かう刑事弁護士、森江春策。彼は旧恩のある九鬼弁護士の代理として天知家の遺言執行人として「時計塔のある家」に向かっていた。天知家は実業家の一家だったが、当主の圭次郎は事業には興味を全く示さず、日本のからくり時計である「和時計」の収集に血道を挙げていた人物。彼の病死に伴う遺産の分割がその目的だった。実は天知家では、二十七年前、当時の当主が急死した際に、豪雨の中を車で駆け付けようとしていた長男が不幸にも事故死、更に三男も時を前後して失踪するという忌まわしい事件が発生していた。森江がバスの中で見かけた顔に包帯を巻いた謎の男をはじめ、個性ある親族六名が揃ったところで、遺言が開陳された。中身は取り立てて普通の財産分割であったが、その便せんが何故だか頁ごとに糊付けされていた。そしてその晩、和時計の鳴り響くその館内で、第一の殺人が行われる。

新本格推理小説から、探偵小説への回帰……?
……と読んでいる間に強く感じたが、どうやら作者自身強くそれを意識して執筆したらしい。少なくとも「印象度」という点では、成功している。「遺産を巡る一族内部の強い確執」「夜は真の暗闇と化す人里離れた家」「殺人が起きても互いを憎み合う鬼畜な親族関係」「反則とも言える当初は語られない秘密の場所」「素顔を見せない登場人物」「関係者全員の前で『さて』と解決」……と探偵小説のコードが大量に使用されている。その一方で「時計に囲まれた非日常的空間」「和時計に関する尽きぬ蘊蓄」「不可能犯罪と強引な論理的解決」「トリックに奉仕する舞台」……これらは、考えようによっては新本格推理によく使用されるコードと受け取れる
これらの融合によって産まれた空間は「おどろおどろしさ」を感じさせ「論理的解決への期待」の入り交じった期待で彩られる。意気は分かる。分かるのだが……伝統あるコードに新しいコードを放り込んで出来た作品、それだけに止まっているようにも。少なくとも、この手法を使用して、目指すところが、私には分からない。
また「現在」に探偵小説的空間を甦らせようとすると、読者にとっては、普遍的舞台から特殊な空間への意識の移動が要求される。これは意外と読者に負担を強いる。昭和二十年代なら、日本国内どこでも見られた(少なくとも有り得ると思われる)光景は、現代に再現されることで非常に特殊な光景へと変化してしまう。真の動機がどうあれ、遺産争いに見せかけた展開は現在のミステリの潮流においては、異端だろう。特殊な舞台は面白いし、形式も整っているものの、本作は試みばかりが先行してしまっている印象が拭えない。勝手なことを言えば、この企みのためには少なくとも森江春策を捨てて新たな探偵を登場させた方が良かったように思う。

個人的には芦辺作品にいくつか未読があるので、そちらも押さえていこうと考え中。ただ、本作中、時計の館を先に扱う綾辻行人の名作『時計館の殺人』が揶揄されているとも受け取れる表現が見られる点、多少引っかかる。