MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


00/10/20
山田風太郎「忍者黒白草紙」(角川文庫'81)

'68年から翌年にかけ『われ天保のGPU』という題名で「漫画サンデー」誌に連載された作品が、'69年ホリデー新書より刊行される時に『天保忍法帖』と改題された。更に角川文庫収録の際に現行の題名に再び改題されている。

御家人の娘が金で買われて蔵前の札差でも有力な板倉屋金兵衛の元に嫁いだ。その初夜を天井裏から見守る二人の伊賀忍者。箒天四郎と塵ノ辻空也。彼らはその娘に惚れていたが、頭目の服部万蔵はそれが彼らの意志力の試験だという。時は天保の頃、倹約令をはじめとする享保の改革を押し進めんとする水野忠邦と、その腹心にして南町奉行の鳥居耀蔵は、その法令の為の実行部隊として意志の強い忍者を伊賀組から求めようとしていたのだ。人間を正すという耀蔵に共鳴し、その命を抛って任務に務める決意をする天四郎、そんな「人間は矛盾に満ちた存在だ」と言い切り、命令は性に合わないので悪の擁護者となろう、と闇に逃げる空也。天四郎は、手始めに商人たちの結ぶカルテルを握る板倉屋金兵衛に狙いを定めるよう申しつけられ、首尾良く罠に陥れる。一方で空也は天四郎のすることに横やりを入れることで己の信念を全うしようとする。

二人の同門の忍者同士の争い……ではなく、描かれているのは天保の改革そのもの
物語が始まる時点で親友同士、かつ能力の高い二人の忍者が「天保の改革」という時代の激変時に、片や権力の実行者として、片や時代の反逆者として対立し、骨肉の争いを繰り広げる……。
……はず、の物語だったのではないか、と思われる。少なくとも初期の舞台配置ではそうなっている。ただ、主人公が勝手に動いてしまうのか、権力者たる鳥居耀蔵に共鳴して、その走狗となって「正義」の名の下に各界の有力者を罠に落とし、傷つけ、虐げる役回りの天四郎に多くの紙幅が割かれている。一方の「悪の擁護者」を自称する空也は、時々物語に思い出したように登場しては、天四郎が女性を罰しようとした時に、彼女たちをさりげなく助けて去っていくのみ。ラストを除くと正直、それほど目立つ存在ではない。
結果、浮き上がってくるのは、南町奉行にして、司法の権化、歴史上でも怪物と謳われる鳥居耀蔵の姿。社会自体の歪みから生じる種々の職業や状態を単純に是正せんと、次から次へとお触れを庶民に発する男。見せしめの効果を信じ、大した罪のない者を罠に陥れる男。自らを引き立ててくれた人物にまで、その権力を行使する男。そして忍者、箒天四郎に酷薄な指示を与え、物語の道標を立てる男。まさにこの忍法帖は、鳥居耀蔵によって成り立っている。自らの正義に酔いしれる権力者の凄まじさ、「天保の改革」の下行われる恐怖の世界。これらが、物語の最大級の印象である点は否めない。真の正義とは一体何なのか。民を治めるというのはどういうことなのか。彼らを通じて考えさせられることは多い……これはこれで良いのだけれど、忍法帖で求められるのはこの種の感興ではないようにも思うが。

この角川文庫版の後、どこからも復刊されていない忍法帖長編。残念ながら確かに他の傑作忍法帖に比べれば、エンターテインメントの度合い、物語の展開等、一歩譲る出来だろう。それでも「面白い」のはやっぱり山田風太郎ならではの、諷刺・諧謔精神が全編を覆っているからか。


00/10/19
渡辺啓助「クムラン洞窟」(出版芸術社'93)

ふしぎ文学館の一冊。渡辺啓助氏は、渡辺温の実兄で怪奇味溢れる短編を戦前「新青年」誌等に発表。戦後も怪奇探偵小説の執筆を継続、日本SFの黎明期にも役割を果たしている。本書は氏が戦後、旧「宝石」誌に'59年より発表した「秘境シリーズ」を集大成した作品集。

密貿易の噂がある同級生が聖書の謎に迫る古文書の買い取りを友人に持ち込んできた。中東はクムランの洞窟から出たという『クムラン洞窟』
フラミンゴを飼い慣らす夢を追い三年前から行方不明の友人を探してアフリカ・マダガスカルを旅する男と奴隷女『島』
様々な臭いを嗅ぎ分ける能力を持った男がジャマイカで接近してきた。私は宝物引き上げのための潜水士の仕事をしていた『嗅ぎ屋』
ブラジルの湿地帯を遊覧船に乗って北上する風来坊は、賭けで手に入れた若い売春婦に原住民の裸族を見に行こうと口説かれる『追跡』
マイアミで水中写真を撮影している男がリゾート女子大生に元監獄島を見に行こうと誘われるが、彼女が一文無しに『悪魔島を見てやろう』
ネッシーは実はネス湖から外海に抜け出たのでは、と男は北海のフェロー島へ向かい、ある男の消息を知る『崖』
大学の授業ノートを交換していた中国人留学生が急に国に戻ると言う。その教授が実はシルクロードの略奪者だというのだ『シルクロード裏通り』
船が難破して紅海の水産物研究所に転がり込んだ男は、その美人所長の助手として暮らし始める。そこに元相棒が押し掛けて来て『紅海』
フィジー島から遠く離れたピトケアン島。過去に英国人の逃亡労務者とタヒチ女が逃げ込んだ島に興味を持った三人の男と一人の女性『逃亡者の島』以上九編。

僻地を旅する人々が、「秘境」に足を踏み入れる、その理由とは?
そもそも戦前に執筆された小栗虫太郎の「人外魔境」シリーズのような小説を思い浮かべ、先入観をもって作品に当たったことは失敗。さすがに戦後、それも昭和三十年代の作品だけあって、内容は荒唐無稽から程遠く、どんなに辺鄙な場所でも基本的にはしっかりとリアルに足が地に着いた作品ばかり。あまり従来の国産小説には取り上げられそうにもない海外のポイントを選ぶ着眼点が面白いのだが、その場所場所にスパイスの効いた小味な秘密が絡ませているところがやはり興味の中心だろう。
中東、中央アフリカ、中南米、南米や中国の奥地……。ちょっと特徴的なのは、大陸の内部よりも島を多く取り上げているところか。前人未踏の秘境は山奥や砂漠ではなくなりつつあり、誰も見向きもしないような絶海の孤島が増えて来ているのも時代のせいかも。上述の「作品中の秘密」も、それぞれの土地が持つ特殊要因というよりも、その秘境を訪れる必要のある人物が持つ秘密であるあたり、ちょっとスパイ小説的な印象もある。作品集の総合的な印象としては、秘境を舞台に人々の抱える秘密が明らかにされていく小説かと思う。その背景が秘境なだけに、その人物の持つ秘密がどんなにトンデモであっても、納得させらてしまうし、また事前にほとんど想像がつかない。その自由度が秘境小説の面白みであろう。

執筆からかなりの時間が経過しているものの、我々にとっても紀行を見せられているような感覚。この当時秘境とされているところは、現在になっても秘境のままなのだ。

明治生まれの渡辺啓助氏、本作品集刊行時に「あとがき」を寄せておられるのだが、来年初頭には百歳を迎えるにあたって、現在もお元気でいらっしゃるとのこと。探偵小説の時代を生で知る数少ない生き証人の一人。渡辺温氏共々、再評価の気運は高いようで我々若い世代にとっても喜ばしいことである。


00/10/18
多岐川恭「静かな教授」(徳間文庫'80)

'58年、乱歩賞、直木賞を立て続けに受賞して華々しく登場した多岐川氏が'60年に河出書房から刊行した長編。初期の代表作に数えられる。

年の離れた恩師の娘と結婚、研究一筋の生活を送ってきた大学教授の相良。だが妻の克子は、虚栄心が強く勝ち気な女で二人の間には子供も出来ず、全く愛情が育たなかった。真面目な性格の相良教授の助手、朽葉は毎日曜日ごとに教授宅を訪問し、教授の創り出す二人だけの時間を利用して克子とプラトニックな恋愛関係を持っていた。冷静な教授は以前より妻を亡き者にしてしまおうと考えており、いくつもの「可能性の犯罪」を実行してきたが、今まで成功しておらず、逆に自分が危険な目に遭うような羽目に陥っていた。そんな教授は毎日曜日に来る朽葉のために、克子が一人で二階に上がることを見越してある行為を仕掛けた。結果、克子は事故死のように死亡、それを見た朽葉は気絶してしまう。仕上げに以前に入手していた朽葉の持ち物である黒いペンシルを現場に教授は落としておく。それには朽葉の指紋しかついていなかったのだ。果たして、事件は事故と処理されたのだが、朽葉とそのガールフレンドは教授のことを徐々に疑い出す。

現在でも十二分に通用するミステリ技巧が凝らされた作品
冒頭で描かれるのが、教授による「プロバビリティの犯罪」(作中では「可能性の犯罪」)による妻殺しのシーン。そこから時系列と共に物語は進み、「なぜ犯罪が露見するに至ったか」をミステリの核とする倒叙型の物語展開となっている。これも当時の国産ミステリにおいては非常に珍しい。そして、最終的に教授がなぜ、その犯罪を犯すに至ったのか、という理由が読者の前に浮かび上がってくるのだが、この動機もまた「動機と言えば金か色」というのが半ば定型化していた?この時期にしては相当に特色あるものではないだろうか。
良くも悪くも様々なミステリがこの後に発表された結果、本書に使用されているそれぞれのエッセンスそのものを現在評価するにしても、さすがに「目新しさ」のポイントは得られない。しかし、執筆された時期が今を遡ること四十年前であったことを考えれば、その先見の明は驚嘆に値する。特に冷静な犯罪計画を練り、それを顔色一つ変えずに実行する相良教授の沈着さ、冷静さ、というのは犯罪者像としては当時としては全く新しいものではなかったか。
そして倒叙の形式にしたことで、少しずつ明かされていく相良教授とその妻克子の性格、生い立ち、生き様、そして人生の目的。当初は犯罪者と被害者という記号でしかない二人が、徐々に肉付けされていくことに他ならない。ラストまで到達してはじめて、教授の、のみならずその妻であった克子の葛藤や目論見が浮かび上がり「人間らしさ」が感じられるようになる。この過程こそが本書の抱える本当の中心的な「ミステリ」ではないだろうか。

これも創元推理文庫の多岐川恭選集に収録が決定している作品の一つ。一冊に長編二つという形式が苦手なので入手出来た範囲で先に読み出しているのだが、改めてこの作家の巧さに舌を巻く。最近蒐集している人が増えているのもむべなるかな。


00/10/17
泡坂妻夫「旋風」(集英社文庫'95)

'92年に集英社から刊行され、文庫化された泡坂氏のノンシリーズ長編。

哲は崖の中腹で目を覚ました。何者かに薬を飲まされ、首を絞められた上に崖から突き落とされたものの、奇跡的に助かったらしい。逞しい生命力で炭焼き小屋の親父の助けを借りて徐々に人心地を取り戻した哲は、自分をこのような目に遭わせた人物に対し復讐を誓う。東京に知人がほとんどいない彼を殺そうとまでに憎悪したのは一体誰なのか……。一週間前、スポーツとしての柔道とは一線を画す、八星流柔術を鹿児島で修得、その師匠から指示され上京した哲は、師匠の親友で同じ流派の殊月院の道場を訪ねる。ところが道場は半ばスポーツジムに改装されており、スポーツ化した柔道を目の当たりにさせられ、哲は失意のうちにそこを後にしようとするが、先だって大阪空港で見かけた青年、英樹と組み合うことでその目が覚める。独特のリズムを持つ英樹に哲は興味を示し、クラブの用心棒をしながら東京の道場に残る決意。また、英樹の妹である奈澪に哲は強く惹かれるのだが、奈澪には別の好きな男があった。

青春ミステリも、泡坂氏の手にかかれば普通とは異なる味が出る
この『旋風』に関しては、泡坂氏による青春スポーツミステリである、という風に以前から聞いていた。ただ、作者は泡坂妻夫である。だから隠れた実力者の主人公が卑劣な手を使う敵役をばったばったと投げ倒し、遂には全日本チャンピオン――なんて、甘っちょろい物語にはならない。メインとなるのは柔道、いや正確には柔術と(この二つはスポーツと格闘技なので、竹刀の剣道と木刀――の果たし合いくらいの差がある)、そして何よりも男と女の、親と子の愛と葛藤。特に後者を絡めたミステリアスな物語は泡坂氏が得意とするところである。
見かけ上は平和に暮らしながら、実は内部に様々な秘密を抱える一家。そこに舞い降りた哲によって引き起こされる波紋はまさに「旋風」。この「旋風」そのものが主人公ながら、「旋風」によって仮面が吹き飛ばされ、素顔が引き出される人々もまた注目されるべき存在と言えるだろう。別に柔術と絡めなくても語ることの出来た物語なのかもしれないが、真っ直ぐで熱い主人公と、柔道と深く関わりのある一家との不協和音は全く感じられない。寧ろ、旋風を真っ向から受け止められるだけの度量を持った人物でないと脇役さえ務まらないのかも。結果的に、愛情や親子の情愛が一本芯の通ったものになっており、どんな役柄の人物に対しても、不思議な好感を覚えてしまった。
そして、爽やかなのか、途轍もなく切ないのか分からないエンディング……いや、幕切れについては、個人的にはもう少し何とかしてやっても良かったのでは、とも感じた。ただ、これも主人公に思いっ切り感情移入してしまった故の感想かもしれず、物語的には本書のままで良いのかもしれない。

物語にあからさまに大きな謎が仕掛けられているといった、それまでの泡坂ミステリに比べると「ミステリアス」の度合いはちょっと低いかも。それでいて読む人の気持ちを離さないのは、物語展開の巧さに他ならない。読んでも損をした気には決してさせられないミステリ。


00/10/16
皆川博子「恋紅」(新潮文庫'88)

'86年に新潮社より刊行、同年第95回の直木賞を受賞した作品。それまで皆川さんは短編「トマト・ゲーム」、歴史長編『夏至祭の果て』で二度同賞の候補となっており、受賞は三度目の正直。

江戸の末期。吉原で名の通った遊女屋「笹屋」の一人娘、ゆう。九つの頃、見世に行った帰りに迷い込んだ場末の芝居小屋で「民谷伊右衛門」を演じる役者と出会う。雨の降り出す中、大根を一串渡してくれたその役者、福之助にゆうは強烈な一目惚れをする。三兄弟みな役者という福之助だが、出身はただの飴売り。垢離場(こりば)と呼ばれる非公認の芝居小屋で世間的には認められない下級の役者。しかし彼は、名優、沢村田之助に憧れその芸を自分のものにしようと必死で自らを磨いていた。別の芝居小屋で福之助と再会したゆうは、それを恋だと知り、また自らが女として成長しつつあることを認識する。また、彼女は遊女の世界に生きつつ、支配する立場にある自分自身の境遇に常に懐疑的であった。炎上する吉原から逃げる途中に顔に傷を負い、花魁から下級娼婦の地位に落ち込んだ玉衣、尊皇攘夷の争いによる疎開中に、武士に殺されてしまった妹分、きつ。遊女たちの涙の上に自分の笑顔があるという事実。ゆうは徐々にそのことに気付き始める。

芝居に生きる人々と芝居に焦がれる人々と、芝居の呼吸と
遊女屋の娘の半生。そして下級役者への汲めども尽きぬ永遠の愛情。物語はこの二つを軸に展開する。彼女の精神的な成長と、その支えとなる福之助への愛情が纏綿と綴られている。これだけなら、並みの作家でも作り出せる世界だと思える。しかし醜い人間の欲望が、未熟なゆうの精神が皆川さんの筆にかかれば、なぜか美しい物語へと変化する。更に、その物語の流れには皆川文学の凄さがある。物語が呼吸している。すぅーーーっと流れていた物語が、ぱっと場面を変え、息が止まる。高みに深みに、ある時は平静な展開を見せ、ある時は全力疾走する。物語における時間の流れが一定ではない。いや、その見せ場を皆川さんは知っていて、そしてそこで読者の息を止めさせるのだ。しかも思わぬところで。ゆうや福之助の生活は、我々の知らない時代なれど現実のもの。それを描き方一つで、皆川さんは物語全体を一つの芝居と変化させてしまう。ため息。緊張。笑い。驚き。涙。人々が芝居に求めるものが、全てのこの小説にぎっしりと詰まっている。
本作はミステリではない。しかしトリックもサスペンスをも仕掛けずとも、芝居の効果でもって読者にサプライズを仕掛けてくる。巧い。
本作の底で作品の下支えをしているのは、遊女達や幼くして悲劇的に死んだ”きつ”や、彼女のよすがとなる桜の種、それから芽生える染井吉野などもがある。が、真の骨格を成すのは幕末の人気役者、沢村田之助ではないか、と感じた。福之助の憧れ、心の師匠として登場する天才役者は、徐々に身体を悪くして最初は片方の足、そして両脚を、更には両腕をも切断された姿で、なおも芝居を演じ続ける。あくまで脇役、ごく僅かなエピソードしか彼には与えられない。なのに、本作を通じて「芝居」というものの業の深さを最も強く主張しているのは、ゆうでも福之助でもなく、この田之助に他ならない。(と解説に目を通す前に書いたのだが、直木賞選評で井上ひさし氏が同じことを述べておられたようだ。ちぇ)

以前『旅芝居殺人事件』評を書いた折りに、掲示板で千街晶之さんより皆川博子さんの著作についてオススメなどいろいろと情報を頂きました。今回、その時挙げられなかった作品を手にとってしまった……のですが、外れてません。寧ろ大当たり。直木賞受賞作だから、ということもないでしょうが胸にずしん、と響く物語。これからまだ皆川作品に新鮮な気持ちで沢山触れられる私は幸せ者かも。いや、幸せ者に間違いない。


00/10/15
鮎川哲也「戌神はなにを見たか」(講談社文庫'83)

講談社で企画された「推理小説特別書き下ろしシリーズ」の七冊目として'76年に刊行された作品。鮎川氏にとり十八冊目の長編にあたり、鬼貫警部・丹那刑事が活躍する。

奥多摩の櫟林の中から、刺殺された男性の遺体が発見された。回りに凶器が見当たらず、手掛かりは現場に残された外国人男性の顔が彫り込まれた金のレリーフと、被害者の口の中に残されていた瓦煎餅のみ。捜査の結果、被害者が女性ヌード専門のカメラマンであり同性愛者であったことが判明した。被害者に対して動機を持つ数人の容疑者が浮かび上がりアリバイが調査された結果、その中の一人が逮捕された。瓦煎餅が乱歩生誕の地である名張の名物であったこと、被害者を刺した凶器が、三重県の山奥にある十二神将の戌神の像から折り取られたものであると判明し、当時彼がこの近辺にいたことがハッキリしていたからである。警察は被害者が三重県の山中で殺され、死体が移動させられたものと考えたのだが……。もう一つの遺失物が推理作家協会で作られた記念品だと判明し、事件は急展開する。

鮎川哲也の、鬼貫警部の、良くも悪くも一つの「典型」か。
鬼貫警部が登場する以上、作品のメインとなるトリックはアリバイによるもの……というのは、ある意味読む前から読者にとっては了解事項と言えるだろう。鮎川氏の作品を読んでいて飽きないのは、そのアリバイ崩しに持ち込むまでの前奏部分の構成が、非常に巧みであることが大きな要因のように思われる。崩されるべき事件そのものになかなか到達しないきらいこそあるものの、それまでに出てくる土地土地の風物や人情など、その時代、その土地の日常を巧みに織り込んだ上、細かい点まで気を使って描かれているため、興味を引かれる気持ちの方が強くなる。極端な話、これらは本格推理を追及する上では「無駄な部分」でもあるのだが、それを楽しめるか否かというのが鮎川作品を読むポイントになるのかもしれない。
また、トリックの組み合わせが巧い。犯人が悪魔的なトリックをいくつも組み合わせて使用しているため、中盤以降、名探偵鬼貫が犯人に挑みはじめても、そう簡単に崩れない。また、一つ崩しても別の難関が必ず顔を出す。果たして鬼貫は全てを崩すことが出来るのか……? 日常風景が顔を潜めて犯人追跡に物語がシフトしてもこちらの興味で物語を引き続き追うことになる。ただ、序盤と後半の物語バランスが崩れてしまっているのと、追及の役目を果たすのが鬼貫のところと別の人物によるところがあるのが、本作について多少引っかかった。
そして、遊び心。特に本作は戦前戦後に名作を編みだしては消えていった現実に存在する推理作家の名前とコメントが大量に出てくる。また、作中人物に乱歩の生誕地である名張を訪ねさせたりも(またその登場人物の人選が大胆だったり)している。これも、物語の展開の中に巧みにその流れに持ち込んでおり、全体としての不自然さは余りない。ただ、その展開にするため、どうしてもミステリーサークルの内側の人物を作品内部にそれなりに配置しなければならなくなってしまっているのは、仕方がないか。推理作家の世界が描かれることが多いのは、鮎川作品の特徴の一つと言えることでもあるし。

講談社文庫が絶版になってからは復刻されていませんが、古書店でじっくり探せばいずれ見つけられるのでは、と思われます。鬼貫警部もの後期の作品で、色々なエッセンスが詰まっていると言えましょう。シリーズの中で傑作とは言えませんが、駄作でもありません。そして、典型です。


00/10/14
伴野 朗「五十万年の死角」(講談社文庫'79)

'76年の第22回乱歩賞受賞作。当時、現役新聞記者だった伴野氏のデビュー作にあたる。本作やこの後に執筆された作品など、近代の歴史に潜む謎を素材にしたミステリを得意としているという。

太平洋戦争開戦の日、北京に駐在していた日本軍は医大の研究施設を急襲した。周口店で発掘された人類の祖先、北京原人の骨を歴史的文化財として接収するためであった。ところが、秘書の女性、ヒルシェブルグしか開けられない金庫の中から目指すものは消えていた。その後、軍属通訳の戸田が司令部の中将に呼ばれ、喪われた北京原人の行方を追って欲しいと依頼を受ける。中将はそれが収まるべきところに収まるのであれば、日本が接収する必要はないと考えていた。ただ、この文化遺産を巡っては日本軍の強硬派松村機関が既に動き出しており、同時に中国の国民党政府の先鋭結社藍衣社、さらに中国共産党までもがその行方を同時に追っていた。松村は自らの意志でこの依頼を引き受ける。手掛かりは二つ。研究施設の事務総長コーエンと、秘書のヒルシェブルグが失踪していること、そして天安門近くで射殺されていた骨董商、丸井陽太郎。彼の側には精巧な模型の北京原人の頭蓋骨が転がっていたという。四者絡みあっての争奪戦の中、戸田は着々と捜査の手を広げ始めた。

歴史上の小さな事実から、スケールの大きなサスペンスを産み出す
北京原人の骨が戦時中に行方不明になっていた――なんて、歴史上の事実だというのだが、この小説に触れる以外に果たしてどれくらいの人がそのことを知っているものなのだろう。知りませんよね、普通。
それくらいのほんのちょっとした事実を出発点にして、本書は成立している。着眼点は普通じゃないにしろ、事態そのものは第二次大戦のスケールからすれば小さいこと。で、ありながら本作はしっかりとその「小さいこと」からスタートして、スケールの大きなサスペンスに無理なく話を膨らませている。
「北京原人の骨」の虚々実々の争奪戦。ある意味これに尽きるだけ――なのだが、主人公をフリーハンドにしたのが成功だろう。この歴史的遺産を巡っての様々な陣営の駆け引きが、客観的に描かれるようになる。日本軍の先鋭、松村機関。中国共産党軍の組織。中国国民党の暗殺者”十三妹”。それに戸田自身が加わる四つ巴の争い。歴史上の実在の人物を巧みに作品に取り入れつつ、歴史そのものの大枠を狂わせないで創り上げられる物語(風太郎忍法帖も実はそうだ)、作者の巧緻な計算が十二分に感じられる。そしてその枠内で、主人公らが頭脳と肉体を極限まで使った駆け引きを行い、誰が最後に勝利を収めるのか分からない面白さで、最後まで引っ張っていってくれる。各種の対決シーンの迫力も良し。

歴史ミステリの面白さが満喫出来る一作。また、この時期の乱歩賞にこのような作品が選ばれた意味――丁度海外の謀略系のミステリ(例えばフォーサイス)が国内でムーブメントを引き起こしつつあった――なども合わせて考えてみたくなる。


00/10/13
荒巻義雄「エッシャー宇宙の殺人」(中公文庫'86)

『カストロバルバ ― エッシャー宇宙の探偵局』という題名で中央公論社より'83年に刊行された作品が、改題の上、文庫化されたもの。本書は個人的に長年の課題図書。

港を中心に城壁に囲まれて存在する都市、カストロバルバ。地形の起伏に沿って回教系の都市さながらに密集して建設された石造りの建物群が、その都市全体の景観を支配していたい。ほとんど平坦な場所のないカストロバルバでは、人々は徒歩か蜥蜴タクシーを使って移動。そんな街の住人に呼ばれた夢探偵、万治陀羅男。カストロバルバは人々の夢で出来た集合体。街の名物である、エッシャーのだまし絵通りに作られた建築物の中で発生する四つの殺人事件を陀羅男が同宿の人々と共に解き明かしていく。『物見の塔の殺人』、『無窮の地の殺人』、『版画画廊の殺人』、『球形住宅の殺人』以上の四編が続く連作中編集。

幻想光景、SF設定、本格ミステリ、精神哲学。四つの支柱に持ち上げられて
「エッシャーのだまし絵」を見たことのない人はいないだろう。水車を流した水がいつの間にか再び水車の上に上っている。二階にとっての外部が一階にとっての内部になってしまう。絵の中でメビウスの輪を表現した天才。強烈な幻想性を銅版画の中に塗り込めた詩人。
そのエッシャーが創り出した世界が現実に、三次元的に存在する……というのが本書の原点となる。そしてこの世界は集団の夢によって成立している。事件を解決するのも、夢の中の事件を解決することを専門とする「夢探偵」……これだけ設定を並べれば荒唐無稽なSFミステリを想像されようが、内容は至って端正。一定の思想に基づいて必ず順を追って事件が解体されていくから。
確かに世界は妙だし、殺人現場も妙だし、実際、トリックもこの世界ならでは、というものが並ぶ。とはいえ、捜査そのものは現実に則り、現地の警察がきちんと行っているし、探偵・陀羅男の推理方法も意外とオーソドックス。しかし、それだけでは事件は解けない。実は事件は有名な文学作品の背景、登場人物がなぞられたかのような様相を呈しており、その登場人物の持つ様々なイデアが、エッシャーのだまし絵の本質と密接に絡まりあう。探偵が事件を解きほぐすためには、それを解体することが必須となるのだ。形而上的な部分を解釈しても、表層的な部分しか見えない。一連の事件に精神分析学的な解釈を与え、関係する人物の立場に当てはめていくことでようやく全貌が明らかにされる仕組み。これらが決して、クソ難しくない比較的平易な文章によって描かれている。本作は、幻想とSFとミステリと哲学の四つのジャンルの交点、まさにその一点でしか成立し得ない物語なのだ。
多分、この小説を読み終えた後、どこかでエッシャーのだまし絵を見る機会があったなら。貴方はそこに死体を描き加えたくなる誘惑に囚われるに違いない。そして、観察者としての自分はいつの間にか、絵の中に入り込んで客体化してしまっているはず。

SFというよりファンタジーをベースにしたかのような一風変わったミステリ。不思議な世界に耽溺したまま、端正なミステリを楽しめる。まことに贅沢な遊び心に満ちた作品である。


00/10/12
倉阪鬼一郎「不可解な事件」(幻冬舎文庫'00)

日本で唯一の怪奇小説作家、倉阪鬼一郎氏の裏の顔は奇妙な味を得意とするミステリ作家。『田舎の事件』に続く、独特クラサカミステリ世界が文庫書き下ろしにて展開する。

ミステリWEBサイトの主宰者は会社を辞め田舎に引きこもり、実家の農家の手伝いを強要されるが拒否『切断』
招き猫チョコレート会社社長の一人娘の女婿となった男は性の不一致で離婚させられ今やリストラ要員『招き猫の殺人』
小栗虫太郎ばりの難解な推理小説で世に出た男が田舎の青年会の講演を依頼され大プレッシャー『密室の蠅』
天狗教に狂った妻をプロパビリティの犯罪にて葬り去ろうと村のバイパスを使って計画を練る夫『一本道の殺意』
出来ちゃった結婚の二人が結婚披露宴の招待客の人数で諍い。お互いいらぬことを口走ってしまい『赤い斜線』
憧れていた同級生の女の子がグラビアアイドルへと上り詰めて行くのを指をくわえ眺める無器用な男『街角の殺人者』
精神治療の為、湖畔の別荘にて暮らす男は村人から新興宗教信者と勝手に誤認されてしまい『湖畔にて』以上七編。

一見似ているように見えて、実は様々に自我の肥大は進み行く
掉尾を飾る『湖畔にて』のみ多少スポットライトの当て方が異なるが、他の六作品に関しては、一定のパターンに則った物語展開がなされている。つまり、客観的にはとにかく、本人の自覚の中では「自分は他の人とは違うはず」という小さな、でも高い自意識が存在しており、その意識を通して見た世間が思い通りに進まなく(というか、普通世間は思うとおりになるものではない)なった時に、頭の中がショートし、爆発する……という物語。その爆発は対象に向かうこともあれば、自分に向かうこともある。それぞれ、彼らの姿がブラックなユーモアと共に描かれている。きっかけだけならば、ホント自分の身の回りで今にも起きているのではないか、というものばかり。壊れていく主人公の姿を、第三者的に客観的に眺めることで、不思議な笑いが読者の側に浮かぶ。ただ、主人公らの壊れる原因となる妄想の一部は、全ての読者において(人により程度の差こそあれ)普遍的に繋がっているもの。だからこそ、この笑いは我が身を切り裂くような痛さに満ちている。乾きかけた瘡蓋を剥がすような。他人を嗤うということは、自分自身を嗤っていることに他ならないのか。健康な男性であれば『街角の殺人者』の少年のような淫靡な経験、誰でも形を変えて持っていることだろう。
友成純一は全ての人間が単なる血肉の詰まった革袋であることを看破したが、倉阪鬼一郎は全ての人間が意識のバランスさえ崩せばすぐに壊れてしまう存在であることを看破している。ちょっとした妄想は誰でも抱くものだけれど、その妄想通りには世の中は動かないものである。このことを「認識」として理解しているか否か、が境界線のどちら側の人間なのかを判別するポイントになる。

いやいやしかし『切断』を読んだ後にネット書評を書くのは辛いものがあるな……。主人公が架空の人物と分かっていながら、頭の中に数人のこの作品のモデルが思い浮かぶ。そして、少なくとも数%は自分が入っているように思えるし……は!これこそ自我の肥大化の始まりなのか?? 自戒、自戒と。


00/10/11
藤本 泉「呪いの聖域」(祥伝社ノン・ノベル'76)

日本国内に存在する原始共同体を描いた藤本さんによる異色連作「えぞ共和国」五部作の最初の作品。本作は直木賞の候補作品にも選ばれている。

東北を中心に不動産業を営んでいた父、山戸騎三が企画した「みちのくを買う会」。セスナ機の発着出来る飛行場を東北に作ろうというこの企画の賛同者が、現地を視察すべくチャーターした飛行機が墜落、搭乗者全員が死亡した。遺体を引き取りに出向いた息子の山戸東介は遺族の一人、津島リトから彼が騎三の実の息子ではなく、その墜落した飛行機のパイロット、細越良和が父親だと聞かされる。父の死のきっかけと自らのルーツにあたる陸の孤島、雪花里(つがり)村のことをリトから聞いた東介は社員数名を連れ、遠い親戚の案内にて村へと向かう。ここから先は車は入れないという村の入り口で彼らは謎の老婆より「死相が出ている」と予言を受け、その直後、山道から飛び出してきた村人のバイクと一人が衝突、大怪我を負わされる。彼に付き添って引き返す人々と別れ、東介ら四人は雪花里村へに入る。待ち受けていたのは思いの外の歓待だった。ただ宴がたけなわの頃、彼は目眩を感じ嘔吐、気を失った……病院で意識を戻した東介は緑青の中毒で他の同行者三名が全て落命したと知る。外来者の一切を拒む雪花里村に対する東介の執拗な追及が始まった。

「えぞ共和国」の原点は、シンプルな筋書きに分厚い肉付け
「えぞ共和国」シリーズ。東北地方を中心に蝦夷と西国から蔑まれ、追われた人々の末裔が脈々と地域で集合体となって生き残っているというのが共通した設定。そしてまた、彼らは公権力の及ばぬ方法で外部からの侵入者を排除して、独立性(そして彼らの純潔性)を保っている。その地味ながら圧倒的な壁に挑む人々の視点から見た、それぞれの地域の物語。
トップを切った本書は、上記の精神がシンプルに貫かれている。ただ、それは読み終わって分かること。どちらかと言うと、序盤と終盤を除けば、そのシンプルな筋の廻りに分厚く肉付けされたその他の謎について主人公共々追いかけさせられているような展開だ。主人公の生い立ちを戸籍や関係者の話を元に、主人公自身が追い求めて行く物語。実は読んでいる間、ちまちまと戸籍を調べたり、口を開かない年寄りや親戚から話を聞いたりという中盤の展開が鬱陶しくさえ感じた……のだが。最後まで読み通すことで、これらの行動が実は「えぞ共和国」の闇の深さを浮き上がらせるための仕掛けであることが分かるのだ。
つまり、西国人の言うところの「理」はあくまで主人公、東介にありながら、その「理」は蝦夷である「雪花里」には全く通じない……。
美しいまでに不気味な一族の結束。歴史上に埋もれたとみえる事実が一瞬だけその牙を剥く。その恐怖をもって、藤本泉は現代人に挑戦状を叩き付けているように思えてならない。 本作も水準の出来ながら、リーダビリティを考えるとシリーズ後期作の方が読みやすいかも。

廣済堂文庫からも刊行されていたことがあり、どちらかと言えばそちらの方が見つかりやすい。全五作、揃えるのは多少難しいながら、古書価がついていない場合が多く古本クエストとしては面白い方では。乱歩賞受賞の『時をきざむ潮』だけは講談社文庫で現役入手が可能です。