MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


01/03/20
小林信彦「紳士同盟ふたたび」(新潮文庫'86)

'83年から翌年にかけ『週刊サンケイ』誌に連載され、'84年に単行本化された作品。もちろん国産初のコン・ゲーム(詐欺)小説として高い評価を受けた前作『紳士同盟』の続編である。

1983年、ニューヨークにて一人の日本人ツーリストが殺された。ギャンブル狂いの為にやばい筋から金を借り、返済出来ず見せしめの為にマフィアにやられたのだ。――その男、上田は《寺尾企画》の営業担当だった。四年前、コン・ゲームで大金をせしめて会社を立て直した寺尾は、次回製作する社運を賭けた番組『太平洋の果てまで』の三億円の予算のうちの一億を上田が横領していたことを知らされ窮地に立つ。かっての仲間で現在タレント事務所を経営する旗本、その愛人で事務所を代表する女優に育ちつつある久子の二人も『太平洋の果てまで』に大いに期するところがあった上、 そして偶然にも「コン・ゲーム」の師匠、長島老人と出会った寺井。老人ホームに入居するためにまとまった金が必要な長島老人をブレーンに、再び彼らは策を練り始める。

全て「贋作」テーマ、被害者を喜ばせてこそのコン・ゲーム道
前作から四年(作品中で経過して)「コン・ゲーム道」を知る男たちが再び帰ってきた!
真っ当な方法では手に入れることの出来ない膨大な金額が必要となった寺井、旗本らが再び、そしてやむなくコン・ゲームに挑む。一種の詐欺、ただ単なる詐欺ではないのがこのシリーズの良さの最初の一つ。騙しても良さそう、という相手を選び、彼らの方から「お金を出したい!」と思うようなシチュエーションをいかに作っていくか、がポイント。つまり、被害を受けた人間が被害を受けたと思わない、むしろ嬉しがらせなければいけない、といけないという鉄則を頑なに彼らは守る。その裏での努力も惜しまない。虚々実々の駆け引き、何重にも相手の心理を見抜く洞察力、そして一見アホらしくさえ見える大がかりな舞台装置の設置。(このあたり、テレビ業界を舞台にしていることによる説得力が大きいかも)一つ一つに趣向が凝らされており、相変わらず実に楽しい。
特に本作、ターゲットとなる三人の人物が全て「マニア」というのが特徴。女優、山岸久子の大ファン、世界中の映画フィルムをコレクトしようとする米国人、自分の目を何よりも信じる絵画ブローカー。好きなものなれど、人々は盲目となる。(くわばらくわばら。自戒自戒)
そして「お金が必要」というシチュエーションが当人たちにとって不幸なこと、またその「お金」が単なる金銭欲というより「夢の実現のために必要」という部分が読了後の清々しさに繋がっているようにも思う。また、これだけコン・ゲームの対象に対して心理的洞察を怠らなかった彼らが、ラストになっていろんな人物の心の底を見抜けなかったことによって発生する、ちょっとしたどたばたも微笑ましい。
設定、人物、仕掛け、背景等々「完成された」という形容詞が相応しい作品。 コン・ゲームそのものも緻密な計算を要するが、物語そのものの計算も同様、カンペキに成されている。『紳士同盟』を読んだならば、是非ともこちらも手にとって欲しい一作。

うーむ、調べて気づいたのだが、ミステリ作品でなくとも非常に人気の高い作家だけに大丈夫だと勝手に思っていたのだが、小林氏の作品が多数収録された新潮文庫がバシバシ絶版(というか品切)にしてしまっている模様。本書も絶版なので、古書店で探すことになります。(というような情報はこちらを参考にさせて頂きました)


01/03/19
阿刀田高「冷蔵庫より愛をこめて」(講談社文庫'81)

昔風にいうところの「奇妙な味」、現代でいうところの「ブラックユーモア」のジャンルにおいて数多い傑作を誇る阿刀田氏が'78年に刊行した処女短編集が本作。氏は一貫したこの作風にて、後に直木賞、推理作家協会賞などを受賞していく。

脱サラに失敗、借金苦から精神に異常を来して病院に入院していた男。妻は知らないうちに多額の借金を返済して何も心配はなくなったというが、退院後の男は妻に愛人が出来たことを感じ取る『冷蔵庫より愛をこめて』
弟と称する青年とひっそりとマンションに暮らす中年女。彼女は見知らぬ他人の葬式に故人への贈り物持参で乗り込む癖があった『趣味を持つ女』
玩具会社の社長は年一回仮装パーティを催していたが、男は妻を喪ってから欠席していた。飲みに行ったバーで妻そっくりのホステスを見かけて『仮装パーティ』
一山当てようとして逆に借金の山をこしらえた若者は、母に田舎に連れ戻されるが、船上でしたたかに酔っ払う『海藻』
種を丹念に育てることで人間の女性そっくりの姿になる珍木。妻の美しい姪を再現させようとした男が陥る罠『あやかしの樹』
電話口から聞こえてくる「私はコンピューター」と名乗る無機質な女性の声は競馬の結果や株価を見事に的中させていた『幸福通信』
入院中の妻に隠れて浮気を試みる夫は、ホテルでいるはずのない妻の影に怯える『知らない旅』
驚異的な痩せ薬、それは夢の中でたらふく味わって満腹感を覚えるというものだった『わたし食べる人』
あこや貝の中で育てられる真珠。バーで横に座った男は女性の「貝」でも真珠が出来る場合があるという『夜の真珠貝』
山中で道に迷った男は牧場主の車に拾われる。牧場といっても鼠を餌に猫を繁殖させてるというもの『エネルギーの法則』
一時の愛人の別荘に飼われていたと思しき鸚鵡は、彼女の思い出の言葉を喋り始めた『歌を忘れない鸚鵡』
娘が殺人容疑で逮捕? 信じられない母親は娘が当日自分の横で寝ていたと主張『真実は強し』
一年遅れの新婚旅行中に知り合った老婦人は破格の掛け金で煙草の銘柄当てをしようという『ギャンブル狂夫人』
中華街で豆腐料理を食べた男は自分の知るはずのない光景が瞼に浮かびはじめる『心の旅路』
三千年前、女王の命令で亡くなった、王子の嫁を蘇らせるよう求められた学者の悲劇『幽霊面会術』
昔付き合っていた女性が亡くなったと電話。妻子ある男はこっそりとその友人に会いに出る『ホーム・スイート・ホーム』
失職中の男は月に十五人と握手をするだけで五十万円というアルバイトを持ち掛けられる『最後の配達人』
恐怖アンソロジーを編むために評判の読書家宅に訪れた編集者は革装幀の本を渡される『恐怖の研究』以上十八編。

ワン・アイデアの持ち込み方が秀逸。余韻に優れたブラックの味わい
阿刀田氏の短編は「短め」である。もちろんショートショートよりは長いが、通常のミステリ短編に比べれば遙かに短い。この理由は、物語にカミソリの切れ味を氏が求め、表現しようとしているからではないか。極端な例を引けば、いくら鋭利でも針一本で刺された傷は一瞬の痛みだけで、後にあまり引かない。一方、ナイフでずばっと切られたとしたら、傷口は大きく血があふれ出る。しかしそのナイフが大振りであればあるほど、かわすことも困難ではない。ショートショートが針。ミステリ短編はナイフ。そして阿刀田短編はカミソリ。
阿刀田氏が手に持ったカミソリ、これで切られるものはまず逃げられない。すっぱりと切られる。そしてその一瞬は痛みも出血もない。じんわりと血があふれ出てくるのは、その短編を読了したあたりから。つまり、読了後、反芻する時に、痛みのピークが来るように計算されているということだ。
嫉妬に狂った夫がその”友人”と計画する奇想天外な新商売。香典泥棒? としか思えない行動をとる中年女。夜ごとかかってくる電話でギャンブルが百発百中の男。シチュエーションはそれほど突飛でもないが、登場人物の体験はどこか奇妙。 そして意外な真相、意外でなくともイヤな結末、「その後」どうなったのか、を思わず想像してしまう幕切れ。全ては一つのアイデアから発しているのであろうが、この結末の付け方、終わらせ方が非常に巧い。 読者は否応なく、阿刀田氏が描くことを意図的に避けた「その後の登場人物の物語」を心に思い描きながら一つの物語を閉じなければならないのだ。読み終わった後に感じる、この複雑な気持ち、複雑な余韻こそが、阿刀田作品の最大の魅力だろう。

執筆されてから軽く二十年が経過しているものの、全く古さがない。時代とは関係なく、人間の心理の裏側、油断している箇所を狙ってカミソリをふるう阿刀田氏。身近な世界を描きつつ、人間の本質、他人に見せたくない裏側を切り裂くのが実に巧い作家である。


01/03/18
矢野 徹「折紙宇宙船の伝説」(角川文庫'82)

個人的にはずっと冒険小説の翻訳家だと思い続けていた矢野氏、実はSFの分野では語るに欠かせない重鎮でありました。「砂の惑星 デューン」シリーズの翻訳をはじめ、自身の創作の分野でも『カムイの剣』などの映画化作品も発表されておられます。ああ今更ながら自分の不明が恥ずかしい。

山奥にあるその村にはお仙と呼ばれる狂女が住んでいた。四十は越えているはずなのに二十過ぎとしか思えない肢体を持ち、裸、もしくは浴衣一枚の半裸で紙飛行機を飛ばし、その後を追って森の中を走り回る。村の男は彼女で性欲を処理するのが習わしで、お仙もそれを嫌がることなく受け入れていた。ところがある日、彼女が妊娠していることが発覚、村人の助けで子供を生んだ。衛門と名付けられたその子はお仙と共に生活していたが、幼い頃から人の心を読みとる力を持っていた。お仙と離れて暮らすようになった衛門はやがて、村人の貪婪な性欲を読みとることに嫌気を感じて、九歳の時に村を捨てて街へと飛び出した。成長が異常に早い彼は整った顔立ちと十四、五歳の外見を持っていることから、人の心を読んで上手く立ち回り、何者かの呼び声に従って東京へと向かう。泥王教という新興宗教の集会に出た衛門は謎の老人に心で呼びかけられる。彼は養女の加代子と暮らしており、これからはテレパシーを使う新人類の時代になると衛門に説き、彼らは「仲間」を集め始める。

エロティックな彩りを伴う不思議な叙情感
私がSFを読み込んでいないせいかもしれない――ながら、物語の語り口のテクニックに舌を巻いた。多重構造かつ螺旋状に繋がる構造となった物語展開、同じようなシチュエーションながら一つ一つがエロティックな幻想小説として機能する挿入話。全身からエロティシズムを発散する狂った美女、そしてその息子の話から、いつの間にやら超能力が飛び交う世界の暗黒面の戦いに至ってしまう展開。その物語の時々によって、語られる主題が微妙にずれていくあたりに、居心地の悪さが確かにある。ただ関係者を巧く配置した大河的発想を元に展開していく物語が、アクション小説の趣きを得て、そのパートパートの盛り上がりをきっちりと作っているため、徐々に違和感は消し去られる。エロティックな光景に目を奪われ、超能力のせめぎ合いに引き込まれ、最後の戦いに至った後に、気づくとスタート地点に戻ってくるあたりの余裕が心憎い。
舞台の発端は、どこか地方の、いつの時代かさえも定かではない物語。古き良き、大らかで明るく、そして多少排他的な農村風景……つまり「非科学的」な風習が支配し「非科学的」な感情や論理がまかり通っている世界。そこに宇宙船だの、テレパシーだの、超能力だのの一般的SF用語、SF世界が交わってくるミスマッチ。冒頭ではこのミスマッチ感覚に戸惑いを覚えるのだが、徐々にそれら全てが渾然一体と溶け合って、独特の叙情を醸し出す。この叙情感の元になった仕掛けは、物語世界を一周して原点に戻ってきた時に、ミステリ的サプライズさえ作品に付加している。特に終盤にて明かされる、名作SF作品が本書世界の中に現れている点、パロディとは次元を越えた「理由」があることが明かされた時には、まず愕然となって、その底に込められた想いに感動し、そしてその鮮やかさに拍手したくなった。
最後まで読み通した後に、作者自身が自らの思い出を綴った「あとがき」が抜群に良い。物語そのものも感動的、そして悲劇的ながら、物語世界そのものに対する矢野氏の愛着の理由が加わることで、一冊の本から受ける印象がこれほどまで高まるとは思わなかった。

土田裕之さん、松本真人さん、わんだらさんら、SF読みの達人たちに勧めて手に取ることになった本。これも読書の、そしてサイト運営していることでの縁の一つ。全く翻訳の世界とは異なる(ように思える)矢野ワールドの一端に触れることが出来ました。皆さん、ありがとうございました。日本SFって凄いんですねぇ。(今更)


01/03/17
奥田英朗「最悪」(講談社'99)

コラムニストとして人気の高い奥田氏の単行本デビューはコラムの集成『B型陳情団』(結構面白かった)。続いて昨年文庫化された『ウランバーナの森』にて小説デビュー。さらに本作が、いささか唐突の感がありながらミステリとして刊行された。2000年「このミス」で七位を獲得。

川崎で部品加工の孫請け会社を経営する川谷信次郎。多くの会社から安い工賃で仕事を請け負う毎日で、無口で内気な青年と外国人労働者を雇っている。得意先から融資の面倒をみるから中古の機械を入れるよう要請され説得されるが、隣のマンションにて騒音反対行動が起きており、そちらも頭が痛い。
街のどこにでもいるチンピラ、野村和也。就職したものの長続きせず、パチンコや恐喝で日々の糧をなんとか得て凌ぐ。パチンコ屋で知り合った水商売の女と仲良くなり幸先良いように思われた彼はまとまった金を得るため、、友人のタカオと共に塗装工場からトルエンを盗み出すことを計画する。
大手の都市銀行の支店に勤める藤崎みどり。窓口業務をこなす彼女は、彼女目的で毎日来参する老人に辟易していた。彼女の妹はグレており、毎日に楽しいことなど何もない。組織が優先される社内イベントで、キャンプにかりだされた彼女は、飲み過ぎて吐いているところを支店長にセクハラされる。
ハッピーとは言い難いが、そこそこ無難な毎日を送っていた彼らが、そこからずぶずぶと沈み始める。

平凡な三人のジェットコースター不幸は、現代日本の歪みの象徴
「どんどん不幸のぬかるみ」に陥っていく三人の物語。この作品をジェットコースターと描写することはたやすい。ただ、登場人物の乗車したコースターは、普通とは異なるように思える。遊園地にある普通のジェットコースターは、たんたんたんたんと最高地点に到達してから、滑り降りつつ様々な動きを伴う。急速なカーブ、降下の後の上昇、宙返り。しかし、本作のコースターは、地上からスタートして、そのまま地下深くに落下していくコースター。観客はおらず、元の地点に帰れそうにもない。果たしてどこに終点があるのか。
いくつかの体験から、徐々に神経をすり減らしていく三人。物語が始まった瞬間から、彼らは自分の境遇を「最悪」と呪い続ける。しかし「最悪」には更なる上の「最悪」が待ちかまえている。弱い者には徹底的に弱い。壁を破れないものは押しつぶされる運命にあり、先行き判断を誤ったものは呑み込まれて行く。果たして、どこで彼らが交わるのか? ミステリとしては、その一点で物語が成り立っているが、本書はそもそもミステリとして意図があったのかは疑わしい。物語の展開の必然から偶然ミステリになったのではないか。彼らの物語が交錯する地点は予想がついたが、その後の行動の方に大きな意外性、そして更なる悲劇が潜んでいた。特に三人が出会った後、「自分こそこの中で一番最悪」と皆がみんな考え、奇妙な連帯感の中でも「最悪」を抜け出るように互いに足を引っ張り合う姿は、人間の本性が如実に現され、醜く哀しく感じた。最初から最後まで「リアル」」を貫いた結果、作者が登場人物に与えた「救い」のレベルも、それを反映したものとなっている。悪くない。
先にシチュエーションありきで三人の設定が決められ、それから執筆されたように推測される。その中では特に中小企業経営者の陥っていく地獄を書いている章の構成が秀逸。現代日本で決して珍しくない話ながら、エンターテインメント小説になかなか持ち込まれにくい世界を赤裸々に描き出し、自らの意志とは関係なく、周囲の住民や銀行など「社会環境」によって人格ごと会社が壊滅に持ち込まれ、全てが奪われていく様に寒気さえ感じる。(感情移入という意味では、川谷の敵役となる、銀行員高梨や、付近住民の太田の方に理があるように思えるんだけどね、実は)
義理も人情もない。経済原則しかない。皆が権利を主張する。見つからなければ何をしても良い。生きる目的がない。景気が悪い。組織には逆らえない。今後の日本も味気ない時代が続くだろう。単純に彼らに登場人物に同情している場合ではない、というのが私の感想。細かいディテールの積み重ねで、究極のリアリズムをもって描かれた、三人の「最悪」。これを別世界の物語とみていられるほど、現代社会は甘くなくなっている

帯の「最悪」の文字を新刊書店で見た瞬間にいつか手に取るような気がしていたんだよな……。不況下に悩む日本の歪みを三方向から描き出した作品。但し浮かび上がってくるのは社会告発というより、その社会に押しつぶされる一人一人の矮小さ。読んで元気になる本とは到底言えないが、読み始めると「先を知るのが厭なのに、ページを捲る手が止められない」作品。


01/03/16
殊能将之「黒い仏」(講談社ノベルス'01)

ハサミ男』にて第13回メフィスト賞受賞し鮮烈なデビューを飾った殊能氏の第三作目。前作に引き続き、石動戯作が登場する。本作は賛否両論噴出した模様。

九世紀、天台宗の僧が唐の国から「宝」を持ち帰ろうとしたが、暴風雨で志半ばでの命を喪った。その宝は九州に漂着、福岡県の安蘭寺の本尊となっているという――、バイオ関係のベンチャー企業社長、大生部暁彦は、探偵の石動戯作とその助手、徐彬にその安蘭寺に残された古文書を手掛かりに、宝探しを依頼する。一方、福岡市内では身元不明の男性の絞殺死体が発見される。偽名でアパートに暮らしていた男の部屋には、犯人はおろか、被害者の指紋までが完全にふき取られており一切残っていない。捜査一課の中村は地道な捜査によって殺された男の身元確認に奔走する。――空路、福岡にやって来た石動らは、安蘭寺に到着。住職、星彗に案内されて拝んだ本尊は真っ黒の身体を持ち、顔面が何者かに削り取られているという不気味なものだった。この寺の書庫で漢文だらけの古文書に取り組む二人だったが、徐彬は「ある気配」を感じ取っていた。

殊能将之作品の方向性が見えてきたかも。
(ネタバレでしか本作品は語れないでしょう)
『黒い仏』という題名は、前作の『美濃牛』が刊行された段階で既に明らかにされていた。
(第三作の構想を練る殊能氏を想像する)
「『美濃牛』でミノタウロスを使ったことだし、次作はクトゥルーで行きたいなぁ。でもミステリにもしないとなぁ。クトゥルーかぁ。……そうか、邪神崇拝を犯罪動機にすりゃいいんだよな。なんだ、簡単♪ クトゥルーとミステリのゆ・う・ご・う、と。いやいや、まてよ……クトゥルーに比べたら人間の起こす犯罪なんてちっちゃすぎるよなぁ。ミステリをおまけにして……そうだな、人智を越えたクトゥルーの旧支配者に本格推理が弄ばれる。これくらいでちょうどいいか。で、作者は読者を弄ぶくらいでちょうどいい、ってか。へへ。密室よりもアリバイの方が弄ばれた時の脱力は大きいだろうし。アリバイトリックにしよう。アリバイねぇ……アリバイと言えば鮎川かクロフツか。く、ろ、ふ、つ。あ、ワープロで叩いて変換すると「黒仏」か。そりゃデフォルトでワープロ辞書に入ってはないよな。黒い仏。そうだ、題名はこれにしよう。クロフツと思わせといて、これが実は邪神なの。くくくく。お釈迦様でも気がつくまいて」

(ネーミングを考える殊能氏を想像する)
「やっぱり邪神の子供を孕ませないとねぇ。『ダンウィッチの怪』の……ああ、そうだラヴィニア・ウェイトリイ。うん、母親になる女性は上鳥(うえとり)という名字にしよう。お台場なんてインスマスみたいなもんだから、ホテルはギルマンズホテルで決まり……」

さて。

殊能氏はミステリサイドの出身者ではなく、ミステリセンスを持ったSF・ファンタジーの人というのがその本質だと思う。 別の要素を包含した物語をミステリの仕掛けを使って物語に仕上げるところに大きな才能がある。しかし、主題はあくまで別のところに持っている。例えば本作、結果的に本格推理のパロディのように思われがちだが、取り上げた主題(つまりクトゥルーね)が大きすぎて、ミステリが負けた結果こうなっただけではないかと私は思っている。殊能氏にミステリのルールを求め、それから逸脱したからといって「期待はずれ」としてしまうのは間違い。そして殊能氏に「本格」を求め続けることはもはや叶うまい。作品ごとに、全く別の殊能氏お気に入りのジャンルがかなり大仰に持ち込まれ、ミステリの衣を纏って「今回はどれくらいの人が、隠したネタに気づくかな?」と殊能氏がほくそ笑みながら読者を眺める。ミステリの謎解きとは全く別の、作者と読者の知的ゲーム。 殊能氏の今後はそちらに向かうのではないだろうか。

本作に関してだけ、ながら気になったのは、アリバイトリックと一人二役トリックのセンスの古さ。個人的には飛行機の乗客名簿を証拠にするのは七十年代ミステリで終わりだと思っているのだが。謎解きがミステリとして平凡に過ぎ、推理結果に沿って現実を作り替えてしまうというという強力なオチ(これは真実というより、オチだよね)に、ミステリ部分が完全に埋没してしまっている。ここは、バカミスないしバカミス寸前の驚天動地、「そんなのフツー出来へんやろ」というトリックであるべきだったのでは。鉄道が一分遅れたら成立不可能クラスのアクロバティックトリック、それを解きあかす石動、その通りに現実を歪める闇の人々、でないとね。

多分、これがメフィスト賞受賞作品であったなら、恐らく賛否両論の「否」の比率はもっと低かったのではないかと思う。(その代わり、第二作以降手にとってもらえない可能性も否定出来ないが) 「否」を感じた人は、前二作を読んできて、ある一定方向の期待を持たれていた方だと思われる。そういう意味ではリトマス試験紙のような作品。個人的には、殊能氏は殊能氏にしか出来ない作品世界を今後も作り続けていくと確信している。


01/03/15
高木彬光「成吉思汗の秘密」(角川文庫'73)

神津恭介が探偵役を務めるシリーズの一作で、かつ病身の彼が歴史を推理する「ベッドデティクティブ」+「歴史推理」。'58年に旧『宝石』誌に連載された後、光文社にて単行本化。その後も何度も大幅に手が加えられており、著者の代表作として数える人も多い。

急性盲腸炎にて入院生活を余儀なくされた神津恭介。病院生活の退屈さを訴える彼に、推理作家の松下研三は苦し紛れにティの『時の娘』の例に倣い「源義経=成吉思汗」という伝説を検討してみては、と勧めたところ名探偵は大いに乗り気となる。下調べにて二人の活躍時期が同時期、かつ重なっていないことを確認。続いて義経が衣川の戦いで戦死したかどうかを検討、義経を討ったとされる藤原泰衡が頼朝に首実検を持ち込んだのが夏であり、かつ移動時間が通常より多くかかっていたこと、勇猛になる義経を討つ軍勢が少なすぎたことなどから、替え玉の首が持ち込まれたのではと疑う。大学で歴史を研究する女性、鎮子を巻き込み検討を続ける彼らは、奥州から北海道にかけての義経の足跡を調べ、その伝説の妥当性を感じ取る。一方、蒙古の英雄、成吉思汗について調べてみるとこちらもその生誕がハッキリしないこと、色々な言葉の暗合と共に、戦いぶりに日本の戦国武将の影が存在することなどが判明し、徐々に「源義経=成吉思汗」という考え方に真実味が伴ってくるのだった。

歴史推理はキライじゃないですが、本作は個人的にあまり向いていないようでした
彬光の歴史推理の傑作としてだけでなく、国産初のベッドデティクティブだとか、国産歴史推理の草分けだとか、高い評価で固まっている作品なのだが。
恐らく本書執筆のために為された苦労は並大抵の歴史物作品の比ではないことは分かる。史書を揃え、文献をあたり、事実に様々な論理的考察を試みる。作者を代表する探偵、神津恭介を主人公に据える意気込みも伝わってくる。ただしかし……。
根本的なベースとなる「成吉思汗=源義経」という説って、途轍もない「トンデモ」な考え方という気持ちが読んでいる間、読み終わってからもつきまとって離れなかった。特に、前半の大半を占めるこの説の説明と、歴史的事実のおさらいともいえる部分が、読んでいて重い。どうしても教科書的にならざるを得ないのも分かるが、神津と松下の会話が頭の中を通り過ぎていく……だけ。ところどころ「お?」と思わせる部分もあるにはあっても、根本的に「トンデモ」と思いながら読んでいるだけに「これは凄い」という気持ちが「逞しい想像力だなぁ」と感心するに止まってしまう。これは、私自身がこの分野の歴史にあまり興味がないことが大きな理由かと思われる。恐らく歴史に興味がある人にとっては堪らなく面白い……のかもしれない。
いずれにせよ、論理的であればあるほど「文献」の信頼性に左右されてしまうところが「歴史推理作品」の限界だと思っている。なので歴史推理をテーマにしながらエンターテインメント小説として「+α」で何を語るのか、を私は求める。本作にも、一応それはある。神津恭介と大学助手、鎮子の密やかなラブストーリー。特に彼女が神津に寄せる想いが意外な形で明かされる終盤、そして何とも印象的なラスト。歴史とは全く関係ないながら、こちらには感動があった。

確かに「歴史推理」に分類される作品ではあるが、説そのものが江戸時代から存在し、現在も伝わるものだけに「if」そのものにはオリジナリティが少ない(本作がその現代に伝える役割を果たした、とも考えられるか)。結局、歴史的に検証可能の部分に、さりげない創作を加えることで歴史テーマの新しいエンターテインメントを作り上げたところに、本書の最大価値があるのではなかろうか。


01/03/14
陳 舜臣「青玉獅子香炉」(文春文庫'77)

江戸川乱歩賞、推理作家協会賞、直木賞と「ミステリ作家三冠」ともいえる受賞歴を誇りながら、近年は中国を中心とする歴史作品の執筆により、大作家の風格が漂っている。そんな陳氏が'69年に第60回直木賞を受賞したのが表題中編作品である。本書そのものは'68年に刊行された短編集の文庫化作品。

ラワン材買い付けのためにボルネオのサンダカンに出向いた商社マン。華僑の老人の年下の妻に誘惑され関係を持つ。再び出向いた男は老人の息子の恩人が老人の妻と浮気をしていることを知る『年輪のない木』
かって栄耀を誇った菊川家は没落、貧乏家政婦と貧乏彫刻家の姉弟だけが残った。姉はかっての自宅にて働いており、庭石の帰田石を取り返すべく、弟にレプリカの作成を強要する『太湖帰田石』
少年誘拐事件が発生したのと同時期に文化財の仏像の盗難事件が発生。岡田警部補は盗難事件に回され、仕方なく地道な捜査を行って不良少年が事件に関与していることを突き止める『小指を追う』
アフガニスタンの遺跡を発掘するソ連の大学教授から、米国人への土産物を託された日本人の観光客たる私。首尾良く米国人キャンプに辿り着くが事故で一人が命を失ったところだった『カーブルへの道』
戦前。中国にある潤古堂という美術品店の主人、王福生は玉を彫るのが生き甲斐で、その腕も確かであった。1923年、皇帝溥儀に仕える宦官が紫禁城から売り飛ばした香炉の代品の制作を彼に依頼する。引き受けた王は脳溢血で倒れ、弟子の李月源が引き継ぎ完成させる。李は城に納められる自作の香炉に異常な執着を燃やした人生を送る『青玉獅子香炉』以上五編。

本気で描かれた陳舜臣作品世界のもの凄さ
陳氏のミステリといえば、歴史が絡むことが多い。特に大陸の戦前〜戦後を通じた歴史に関する物語は、直接の経験ではないにしろ、日本育ちの中国人という氏自身の背景も相まって、日本語がオリジナルの小説の中では抜群のリアリティと存在感を誇っているように思う。
ただ、確かにそれらは背景として重要なファクターの一つであることは事実だが、これだけではエンターテインメント足り得ない。その歴史の中に生きた人々の、嫉妬や執念、妄念というものを「これでもか!」とばかりに物語に込める。ここが本当の凄さだと思う。 歴史が絡んでいても絡んでいなくても、陳氏の描く人間は、煩悩に満ちている。直接描かれずとも、事件の動機となっていたり、重要な行動の理由となっていたり、扱い方はさまざま。それでいて読者の心に「人間の弱さ」がストレートに飛び込むよう仕組まれている。
表題作は中国の歴史と密接に絡み合わせて、一人の人物の執念のある生き方を描いた不思議な作品。「中編」の長さがまた長くなく短くなくベストフィット。美術品の美しさと人の心の美しさの両方が味わえる佳品。『年輪のない木』『太湖帰田石』では奇妙な味わいが面白く、またオチこそ見えながらもユーモアある『小指を追う』には作者の余裕が感じられた。また、タリバンの仏像破壊が問題となる現在、同地を舞台にした『カーブルへの道』は、本来物語に込められた思いとは別に、何ともいえない感慨を味わえる。

これほどの大作家といえど絶版の多い陳氏のミステリ作品の中でも、さすがに本書は初版の古さにも関わらず、その話題性共々現在でも版が重ねられている模様。「歴史」「海外」といったキーワードを肩肘張らずに作品背後に点描が出来る作家は、陳氏の他にそうは思い当たらない。凄い作家だと思う。


01/03/13
梶 龍雄「清里高原殺人別荘」(立風ノベルス'88)

乱歩賞受賞作品『透明な季節』にてデビュー以来、本格にこだわり続ける梶氏の書き下ろし長編。80年代に多くの作品を刊行した氏だが、どうもマイナーノベルスが多いように思えるのは気のせいだろうか。

雪の降り積もる清里。六本木の遊び人川口光一が親に建てさせたという別荘に一時的に身を隠すために五人の大学生が忍び込んだ。リーダー格の勝浦、女好きでノリの軽い高森、沈鬱な美術至上主義者、呉、お坊ちゃんで料理の得意な義信、義信の恋人で紅一点のルリ子。彼らは呉の計画で八王子の銀行を襲い、真のリーダー沢木からの連絡を待っていた。別荘内部を検分する彼らの前に光一と名乗る秋江という女性が現れる。彼女は数日前から別荘に滞在していたのだという。大胆な性格の秋江の前に、彼らは逆に翻弄されてしまう。事件は、めいめい好きな部屋に引き取った後の夕食時に発生した。夕食に出てこない高森が部屋から数歩出て倒れた。深々と胸に刺さったナイフ。「へやに……へやに……」と言い残して高森は息を引き取る。しかし、これは後に引き続く連続殺人事件のほんの序章に過ぎなかった。

巨匠が本格推理の王道、雪の山荘の連続殺人に挑む
ミステリマニアなら、いくつものパターンをそらで挙げることが出来るであろう「雪の山荘」ないし「絶海の孤島」パターン。つまり、複数人数が閉じこめられた環境下で、一人また一人とその数を減らしていくミステリ。残された人数が少なければ少ないほど、読者にとっては犯人指摘の手掛かりが増えていくことになり、サプライズを伴う完成されたミステリとするには高度なテクニックを必要とすることは論を待たない。綾辻氏が前年に発表した『十角館の殺人』に刺激を受けての執筆なのかは分からないが、この後の「新本格」ムーブメントとは明らかに異なるトリックの仕掛け方、サプライズの処理方法に、新人では絶対に出せない渋みが感じられる
犯罪を犯したとおぼしき青年たちが、雪の別荘に籠城。外には出られない。別荘に残っていた一人の謎の女性。不確定要因を内包し、独特の緊張を孕みつつ、一人、そして一人と何者かに殺され、死んでいく。そもそも別荘潜入に犯罪が絡むだけに警察に訴え出ることも出来ない、という設定もなかなか巧い。最終的にごくごく限られた人数になって、そこで探偵役が謎解きを行うわけだ。ミステリファンにとって、このストーリー展開の王道が嬉しくないわけがない。
……しかし、本書のサプライズは実は……。とにかく意表を突く真相。ジャブを待っていたボクサーが突然のアッパーカットを食らうような。これはちょっと、いやかなり驚いた。雪の山荘テーマのサプライズが、まさかこのような形で持ち込むとは……。老練ともいえる梶氏のテクニックに素直に脱帽。

後は読んでのお楽しみ……としたいのだが、梶氏の文庫落ちしていないノベルスはそれなりに入手が困難だったりする。新本格とそれまでの謎解きミステリとの過渡的な意味合いがある……かもしれない。 題名のセンスの無さに惑わされず、本書は探してみる価値がある。 あと、作品の風俗的な部分に八十年代に執筆されたとは到底思えない「古いセンス」があるのは笑って見逃すこと。


01/03/12
黒川博行「カウント・プラン」(文春文庫'00)

サントリーミステリー大賞出身の黒川氏の、'96年、文芸春秋社から刊行された単行本の文庫化。表題短編は'96年、第49回推理作家協会賞の短編部門賞を受賞している。

人間嫌いの上、目に入ったもの全てを数えずにはいられない「計算症」の男。彼はメッキ工場の職人として働いていた。大阪の大手スーパーに毒物混入を予告したチラシが届く『カウント・プラン』
坊主が葬儀屋をゴルフクラブで殴りつけて重傷を負わせた。葬儀屋は分不相応の札束四百万円分を所持していたが坊主は言を左右して容疑を否認する『黒い白髪』
カラフルなものが病的に好きなティッシュ配りの男は、スリングショットを使用してペットショップに押し入り、美しい熱帯魚を盗み出した『オーバー・ザ・レインボー』
人を殺したと隣人に申し出た女性は、昔からの親友の女性を刺し殺したという。しかし凶器の出刃包丁は親友が購入、女性は正当防衛だという『うろこ落とし』
近所に住む美女のゴミを持ち帰って蒐集するのが趣味の男は近所から気味悪がられている。モーテルで商売女が何者かに絞殺されて発見された『鑑』以上五作品。解説は東野圭吾氏。

一人の人間をじっくりと描き出すことで現代の世相を抉ることも、ミステリにすることも出来る
極論すれば、世の中に「普通の人」など存在しない。当然、人間である以上、どんなに平凡に見える人であっても何らかの個性を持っている。その個性が、たまたま社会生活を営むのに不自由なほどに突出している人、その個性故に社会との折り合いを欠いてしまった人、その個性そのものが社会では犯罪に相当してしまう人……。本書で扱われているのは、そうした「突出した個性」を持つ人々の物語
例えば表題作。計算症の男の日常が丹念に描かれる。袋に入った菓子の数を数え、電車の乗客を数え、階段の段数を数え、とにかく目に付くものを数えなければ気が済まない。恐らく読者はちょっとした興味と奇異の念をもって彼の行動を眺めるだろう。そんな彼の生活とは別に、大阪府警を中心とした犯罪捜査の場面が描かれる。スーパーを毒物をもって脅す卑怯な犯罪。丹念かつ直感を大事にして警察サイドは犯人像へと迫っていく。この二つをどのように交錯させていくのか。基本的に似た構造を持った作品群ながら、この両者の「交錯」の部分に作者は意外な落とし穴を潜ませる。どうやって読者の意表を突こうかと虎視眈々と狙う作者の意気が感じられ、落とされた時の快感は倍加する。こういう形の「意外性」も確かに「あり」だから。
もう一つの特徴は、不幸にも(そう幸運にではなく不幸にも)、途中で作者の仕掛けた「落とし穴」に気づいてしまった時にある。(実は表題作が私にとってはそれ)普通の倒叙推理であれば、その時点で興味が半減してしまうのだが、この作品集においてはそれでも(ごく僅かに興味が削がれるにしろ)、物語そのものの出来で、最後まで面白く読めてしまうのだ。丹念に練り上げられた人物造形の賜物ではないかと思う。

一貫して大阪を舞台にしていることで、他の地方の人々には多少取っつきにくい部分があるかもしれない。また東野氏がいみじくも看破している通り、ユーモアが勝ちすぎていると感じるかもしれない。しかし、関西人の日常会話って元からこんなもの。そういう表層も楽しいが、やはり黒川作品の本質はサプライズにあるのではなかろうか。


01/03/11
山田風太郎「御用侠」(小学館文庫'00)

(「侠」は旧字体)
本書が文庫で刊行された時、少なからず風太郎ファンに動揺が走った。と、いうのもこの『御用侠』という作品、当時、'75年に一度刊行されて依頼、風太郎自身の評価が”E”ランクだったことと相まって全くその後の再刊がなかったのだ。長編の中でも相当の入手困難なことで知られてたるキキメ本が、新刊文庫で読める。ワタシは幸福。

全ての文化が爛熟していた江戸時代文政年間。単純で剛直、磊落な性格の牧童、勝太は口癖の「屁のカッパ」と放屁癖から屁のカッパという綽名で呼ばれていた。牧場を経営する父親が、将軍家に奉納する馬の飼育に伴う競争相手、板鼻の卑劣な手段にかかって横死する。その真相を板鼻の妾、お麦が暴露したことから、カッパは板鼻と、役人とを殺してしまう。お麦と共に逃げ出したカッパは、板鼻の名馬に跨り一路江戸へと向かう。江戸で博奕に明け暮れたカッパは不思議な魅力を持つ蓮樫瓢兵衛という同心と知り合い、いかさま相手との諍いを納めてもらう。不正を憎む心と、投げ縄の才能を認められたカッパは、瓢兵衛から十手を預けられ、意気揚揚と岡っ引き稼業に就く。しかし、乱れきり不正が横行する世の中で巡り会う事件は正義を貫くカッパに対し、常に皮肉な結末を用意するものばかりであった。

果たして「正義」とは何なのか。人になにをもたらすものなのか
投げ縄を飛ばしカウボーイのような履き物をつけ、博奕が好きで喧嘩っ早く、そして「丁か半か」と物事に白黒をつけなければ気の済まない主人公、屁のカッパ。その心情は「単純」に尽きる。日本一の侠客を目指して(逃げるように)上京、そして自らの正義を実践できる岡っ引きという立場に。
「さぁ、これから!」 その自らの正義を貫く先にあるのは、その正義によって犠牲になる人たち。賄賂を受け取らないことから……岡場所の女の誘いを断ることから……カッパが信奉する正義は、人を助けるどころか人を追い込んでいく。果たして、正義とは何なのか? この問いかけがエピソードごとに複雑な形で物語を覆っている。正義が正義であることの難しさ……正義が必ずしも人の幸福に繋がらないもどかしさ……単純な正義が巨悪に押しつぶされる虚しさ……巨悪に対し悪をもって報いることの難しさ……「正義」をテーマにしながら、その込められている想いはむしろ複雑な方向へと進む。むしろ、物語がこのような展開になっていくことに、作者である風太郎自身さえ戸惑っていたのではないかと思われるフシさえも伺える。カッパの持つ単純な正義が失われ、輝きを喪っていき、弱さが垣間見えていくことにより、物語は終盤の盛り上がりへと繋がっていく。作品に込められた「謎」の意外性は低いものの、やはり破滅的なラストへと至るにはこうせざるを得ない。漂う虚しさ、そして無常観。最終的な勝者の後味の悪さが、風太郎が復刊に首をタテに振らなかった理由なのかもしれない。
本作も明治物や忍法帖同様、同時代に生きた実在の人物が様々な形で登場、物語に厚みを加えている。そういった点では、山田風太郎の小説作法は本作にも健在。

山田風太郎自身の評価はアテにならないというが、本書のE評価もまたそのことを証明しているように思う。確かに全体の構成のバランスの悪さなどはあり、AとかBでないのも理解出来るが、エピソードの一つ一つに十二分に山風らしさが感じられる。他の時代ものの作品に比べても、まずまずの出来ではないかと思う。