MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


01/06/20
笠原 卓「ゼロのある死角」(産報ノベルス'73)

'65、'66、'67年と立て続けにオール讀物推理小説新人賞に最終候補まで残りながら受賞を逃してきた笠原氏。心機一転'73年に第19回江戸川乱歩賞に応募、最終候補作に残ったのが処女長編『蒼白の盛装』で、改題され刊行されたのが本書。

婦人服を販売する太紡株式会社の調査課に勤務する隈井章太は出張の帰り本社に立ち寄った。給料日だというのに調査課の面々が不機嫌な顔で残業をしている。何の兆候もなく取引先の玉興ストアが倒産。営業の伊香が調査課を出し抜いて債権保全をしていたおかげで被害は最小限に食い止められたが、本来与信管理を正業とする調査課にとっては面白くないのだ。その晩、別の取引先、巴里屋の辣腕仕入係長、常見が何者かに撲殺される事件が発生した。訪れたと思しき犯人は痕跡を消していたが、煙草の吸い殻を常見の分まで持ち帰っていた点、注意を引いた。そして警察の目の前でかかってくる無言電話。一方、与信管理を引き継いだ隈井は、伊香が別の会社に対しても目を付けていることに気付く。その伊香は実は常見と深い取引関係にあり、前の晩も常見と行動を共にしていたという。

複数のトリックを投入した本格推理、そして産業推理の趣も。時代性は仕方ない
本作が応募された年の江戸川乱歩賞受賞作が小峰元『アルキメデスは手を汚さない』。ちょうどこの前後数年が従来の乱歩賞と受賞作の傾向が変化しつつある時期でもあり、小説としての完成度とは無関係に受賞は難しかったように感じる。服飾会社の業界の内幕などが語られるあたり、近年の乱歩賞の内幕小説重視の傾向とも重なるものの、そちらで候補となったとしても「本格」にこだわった複数トリックは「現在の」乱歩賞の傾向から外れてしまうこともまた事実か。タイミングとは難しいもの。
閑話休題。服飾業界を舞台にした業界内部でのどろどろした陰謀部分と、具体的な殺人事件に伴うアリバイ解明を主体とした本格推理部分が組み合わさった複合ミステリ。陰謀部分では「なぜ伊香は、他の会社の経営が危ない徴候に気付くことが出来たのか?」というところ、そして「殺人者が安全圏に逃れるために確保しているアリバイトリックの真相は?」という二点が物語を支える骨格となっている。 個人的には最も興味深かった「会社の内情を探る方法」については、(発表はそちらの方が後だが)とある漫画で先に知っていたので真相に対する時の衝撃は少なかったが、アリバイを支えるトリックの群れも十二分に興味の対象となり、トータルとして満足出来る内容だった。特にだんだん絞られてくるとはいえ実行犯人が不明のまま、作品内に登場するアリバイトリックの数の豪華さ。写真あり、鉄道あり、飛行機あり、郵便あり、錯覚あり、電話あり、と一つの物語には贅沢過ぎるほどの種類を込めている。それぞれ派手さが少ないため、一つだけでは長編は支えきれないことも自明だったのだろうが、これだけ数を込められれば本格ミステリとして充分に贅沢。但し、執筆された時期・時代がそれぞれに色濃く反映されており、現在では実現が不可能のものも多数ある。これは致し方ないところ。
文章そのものが硬かったり、不要な描写が多用されたり、登場人物の書き分けがうまくいっておらず、女性の魅力が今一つ、そして男性はなんとなく皆が同じタイプに見えてしまうことなど、小説としての瑕疵が正直いろいろと見え隠れする。が、これは「本格推理」なのだ。そんなこと気にしてどーする?

本書もかなりの重版が出ている上、文華新書版も刊行されていた模様ながら、本書のあと笠原氏はながーーーい執筆中断時期に入る。そうして90年代に入り『仮面の祝祭2/3』を東京創元社より刊行して復活を遂げた。そちらも個人的にはいずれ。


01/06/19
樹下太郎「最後の人」(東都書房'59)

'58年『宝石』『週刊朝日』が共同で募集した賞に佳作入選後、ミステリは短編のみ執筆してきた氏が、東都書房の原田氏に口説かれて執筆した処女長編が本書。つまり樹下氏の最初の単行本にあたる。

静岡から上京して喫茶店に勤める十九歳、なぎさ。彼女は喫茶店のマスターや、常連客に好意を持たれていたが、その日、「恋人」と会うためにいそいそと身支度を終え帰宅の途についた。「恋人」と待ち合わせた彼女は、一瞬別れた隙をつかれQ大の大学生三人組にレイプされてしまう。「恋人」は立ちすくんでしまい、助けに入れない。傷ついた彼女を病院に送り届けた「恋人」は彼女の前から姿を消す――。
一年後、なぎさを襲ったQ大学生の一人が、自らの部屋の中でガス中毒にて死亡した。三月十三日、その日はちょうど彼らが一人の女性を襲ってから一年目の日だった。社会に出てそれなりに順風の生活を送る残りの二人は、事件との関係性を感じ取り、怯え始める。なぎさを愛していたために、彼ら三人を殺したい程憎む存在がこの世に数人存在、果たして殺人者はいったい誰なのか?

多視点の登場人物の中に仕組まれた謎。樹下ミステリの原点
私が今まで読んだ樹下氏のミステリの一つの特徴には、サラリーマンの悲哀を物語の中に込めるところにあったように思う。しかし、その傾向は少なくとも処女長編の本書においてはかなり押さえられており、純粋にサスペンスを核とした上質のミステリとして仕上がっている。また不思議と読みやすい文章といい、心理描写の巧みさといい、これは埋もれた名作に数えられても良いのではないか。もちろん「本格」ではないが、一種のWHO DONE IT? として最後の最後まで予断を許さない緊張感が心地よい。
物語の核となるのは「殺されるほどに憎まれても仕方のない登場人物」に対して、「殺したい程彼らを憎む人々」が複数存在するプロット。これを登場人物の様々な視点を当てはめることによって、「犯人」を被害予定者から、さらには読者から隠すことに成功している。殺人方法そのものが、ごく自然なのもかえって怖さをそそるのに効果が高い。また本来的に加害者である三人のQ大学生が、社会に出てそれぞれの暮らしを積み重ねていく過程を細かく積み上げて描写することで、彼らがまた単純な悪人ではなく(行為が許されることではないのはもちろんだが)、だんだんと被害者然としてくるあたりにも物語巧者らしさを感じる。被害者三人のリアルを高める手法として、後のサラリーマン小説で発揮される技巧の片鱗が見える。人間が生活していく以上、被害者も加害者もいつでも入れ替わり得ること。暖かい筆致で人間を見詰めながら、意外な残酷さも本書は内包している。
最後に至るまでに物語の真相を見破る人もいるかもしれない。ただ、そんなスレた人にとっても「最後の人」の題名にて締めくくられるラストシーンは予想出来まい。

樹下氏の諸作はほぼ全てが入手困難なのが現況。再評価が待たれるとしか言いようがない。少なくとも本書に関しては、時代云云の評価は無用。ミステリとして、そして樹下太郎らしさがよく出た佳作。本作から樹下太郎に入れれば、樹下ファンはもっと増えるはず。今般の復刊ブームに乗りませんか? >日下さん (石井春生さんよりお借りした本です。謝)


01/06/18
梶 龍雄「我が青春に殺意あり」(徳間文庫'89)

'85年に講談社ノベルスより刊行された『青春迷路殺人事件』を改題、文庫化された作品。梶氏には『リア王密室に死す』から続く〈旧制高校三部作〉があり、本書はそのシリーズの更に続編にあたる。本書を踏まえて〈四部作〉とするむきもあるようだ。

昭和十一年。東京の旧制一高と京都の旧制三高は運動競技の定期戦を行っていた。競漕、水上、庭球、野球の四種目。両校とも過激ともいえる熱烈な応援団を繰り出していたが、この年、野球を除く三戦に全敗した三高は更に野球も、一高のエース亀富守人の活躍により敗戦を喫した。前例のない惨敗に三高応援団は荒れ狂い、一高と暴力沙汰を起こして団長以下主たる面々が処分の憂き目にあった……。
慶應の大学生、亀富修人がバットで頭を殴られ何者かに殺害される事件が発生した。修人は一高のエース守人の兄。亀富の家は財産家でかつ複雑な兄弟関係があり、容疑は守人やもう一人の兄、浩二に向けられた。発見者は、一高生で修人の文学仲間の宮寺冬樹。彼は亀富の末娘の美しさに惹かれたこともあり、修人殺害犯人を自らの手で見つけだすことを決意する。一方、京都の三高の新応援団長はエースの守人が真犯人であれば、今後の野球対抗戦を有利に運べると考え、探偵小説が好きだという三高生、宮寺英彦を東京に送り込む。英彦と冬樹は事件周辺を調べるうちに出会い、真犯人追及に向けて協力することに。まず二人は事件関係者のアリバイ確認を開始した。

本格ミステリの骨格が戦前の若者の青春群像がまとうと梶ミステリになる
梶氏のミステリは若者が主人公である場合が多く、現代を舞台にすると「ナウなヤング」が、すさまじい行動をとるため、激しい違和感 (これはこれで慣れてくると快感なのだが)を覚えることが多い。しかし、戦中であるとか、本書のように戦前であれば、その若者像は途端に瑞々しさを得、その時代時代で精一杯の青春を生きる姿に共感を覚える。自分自身、生まれてさえいなかった時代に確実にあった青春群像。その環境は確実に違えど、根本的に若者が考え、悩んでいる点は同じ。探偵役を務める若者たちに限らず、登場する全ての人々が何らかの「若者らしさ」を感じさせ、それに嫌味がない。
「本格」として評価されるべきは、狡猾なアリバイトリックにあるのだろうが、最も印象に残ったのは犯人の動機。もう大人といっていい年齢の人物の特殊な生き方に見えたのは、実は誰へともなく発するメッセージだったというあたり、五十年以上経過した現在にもその理由が通用しそう。 意外性がありながら唐突感がないあたりのさりげなさが巧い。 また二人の探偵役が、動機とトリックと別々に捜査して持ち寄ってくるところもいい。こちらのキーワードは「利害関係を超えた友情」ということになるのだろうが。
本作の背景にあたるのは、旧制高校の度を過ぎた応援合戦。乱闘も当たり前。試合で勝てない相手を陥れるために、殺人事件を調べさせるなんて、現実ならリアリティで「?」ながら、この時代なら、そしてこいつらならやりかねん、と思わせるものがある。 読み終わった後、色々と考えているうちに初めて思い至ったことなのだが、この加熱する応援合戦そのものの、さらに裏に潜むものが、大きな意味で、そして思いも寄らない方向から事件の遠因となっているなんて。非常にさりげないことだが、梶氏の周到さがじんわりと感じられた。
しかし、このころの学生さんってカフェの女給さんや、芸者さんとか玄人遊びが好きだったんだねぇ。

手もとにある本から読んだため〈旧制高校三部作〉を逆行して読み進む形になるかも。特にこのシリーズの作品は初期三部作に並んで梶作品の中でも評価が高いため、手に取るのが楽しみ。しかし、作品にどんな背景を持ってこようと愚直なまでに「本格」にこだわりを持っている人だな、と改めて感慨しきり。(おーかわ氏に頂きました。謝)


01/06/17
篠田節子「カノン」(文春文庫'99)

女たちのジハード』にて第117回直木賞を受賞した篠田節子さんは、デビュー以来の執筆ジャンルが多岐にわたっていることは周知の通り。だが、実はいくつか傾向があるようだ。篠田さんは趣味ながら本格的にチェロを弾くと聞く。その周辺知識やイマジネーションを活かして「音楽」を主題に取り上げる一連の作品がある。取り上げたことのある中では『ハルモニア』がそうであり、それ以前、'96年に文藝春秋社より刊行された本書もその範疇に入る。

小学校の音楽教師にして一児の母親、そして同じく教職にある夫の妻である三十九歳の女性、瑞穂。彼女は学生時代からの友人であり、現在は国際的に活躍する弁護士、小田嶋正寛から、香西康臣が死んだとの連絡を受ける。瑞穂はかってチェロでプロの演奏家を目指しており、天才的バイオリン奏者の康臣、チェンバロを弾く正寛の三人で学生時代に三重奏を完成させるべく合宿をしていた仲だった。その間に三人の間でいくつかの個人的な事件が起き、結果的に三人は別々の道へと進むことになっていた。仕事の都合がつかない正寛と駅で別れた瑞穂は、単身で康臣の葬儀が行われる松本へと向かい、彼の弟から一本のテープを渡される。康臣は卒業後もまともな暮らしは出来なかったという。テープに録音されていたのは康臣が死ぬ直前に演奏したと思しきバッハのカノン。その曲を聴いた瑞穂は、死んだはずの康臣の姿を見てしまう。そしてそのテープを巡って、彼女の周囲では奇妙な事件が次々と発生した。

「音楽」にまつわる非日常を通じて「日常」への懐疑を喚起する
音楽的な素養が一切ない私にとって、そもそも「カノン」ってどんなんや? という疑問にならない疑問があり、音が聞けないテキストは辛いなぁ、とまず感じた。だが、これは中途で読み挟んだ解説にて一気に氷解。基本的には同じフレーズを繰り返して使用する音楽技法、つまり「♪かえるの歌が聞こえてくるよ」〜「♪ぐわぐわぐわぐわ「♪ぐわぐわぐわぐわ「♪ぐわぐわぐわぐわ」とお馴染みのもののバリエーションなのだという。これなら分かる。
さて。物語は、自殺した男の残した一本のカセットテープから始まる……とだけ書くとなんとなく『リング』や『らせん』の「呪いのビデオテープ」を思い浮かべる方があるかもしれない。かくいう私もそう。そのテープを聴き始めた瑞穂の周囲で怪異が発生したり、この世から消滅することをテープ自身が拒絶するかのような現象がおきたりと、器物が媒介するホラー作品のような始まり方。事実、瑞穂自身がテープに録音された音楽に取り憑かれたような状態になる。このまま物語を追求していけば、それなりのホラー作品足り得た……とも思えるのだが。やはり篠田作品、一筋縄ではいかない。このあたりから登場人物それぞれに「意志」を吹き込んでしまうのだ。
その結果、登場人物たちはテープが引き起こす現象の理由探しでなく、怪奇現象を受け入れた上で、故人が何を言い残したかったのか、それを伝えられた自分はどうするか、と一歩進んだいう命題に相対させられる。過去があり、現在があり、未来がある。日本人の平均寿命のちょうど半分、四十前後の年齢に達した人々に対して「生きる目的とは何か」を改めて考えさせる内容、そして彼らの選んだ結末。決して普遍的とはいえないまでも、どことなく共感出来てしまう不思議。 難しいのはこの「特定の世代」を極端に強調させるために「ホラー」の要素を配しているように感じられるところ。「特定の世代」「ホラー」のどちらかでも受け入れられない読者にはこの物語はツライかも、と多少懸念がなくもない。
「謎」というほどではないが、主題に対する伏線の張り方はミステリ顔負け。状況や場面の選択の確かさ、そして描写の巧さ。さりげない仕草や描写に込められたリアリティ。酔わせるような文章ではないながら、やはり物語巧者としての工夫や巧さも随所に見ることが出来た。

そもそもミステリよりはホラー寄りである点は確か。ただ、ジャンルに捉われないエンターテインメント作家たる篠田さんらしい物語であり、序盤、展開から結末に至るまで一切予断を許さない。篠田作品は読み終わるまでどのような感興を得られるのか分からない。それでいてどの作品にも何らかの「高み」があるため、ふと手に取ってしまう。


01/06/16
篠田真由美「龍の黙示録」(祥伝社ノン・ノベル'01)

「建築探偵 桜井京介」シリーズをはじめとするミステリ畑での活躍が認められる篠田さんであるが、もとよりファンタジーのジャンルにも著作がある。特に近年はそちらへの力の入れ方が目覚ましい。本書は元もと半村良や荒巻義雄ら伝奇小説の流れを汲むノン・ノベルというレーベルが満を持して送る「超伝奇小説」で「小説NON」誌に'00年8月より翌年1月まで連載されていた作品。

鎌倉の洋館に住む龍緋比古は美術評論や翻訳を手がけるオカルト系では有名な著述者。明治期にも彼と名前を同じくし、かつそっくりの容貌の人物が存在することから、「吸血鬼」という人もいる。父親の残した借金を返済するため、保険会社の仕事の他にバーでアルバイトをしていた柚ノ木透子は、善意の行動からバイトがバレ、副業禁止の規定のおかげで保険会社を馘に。透子は就職活動を余儀なくされ、バーのマネージャーの紹介で、その龍緋比古の秘書の面接に赴くが、彼はそんな依頼を出していないという。プライドを傷つけられ、席を立つ透子に緋比古は、それでも秘書として雇うと言い出す。うやむやのうちに承諾してしまい、妹同然の翠に祝福されつつ勤務を始める透子。とある都市伝説の調査のために緋比古が東京に向かった日、メイドのライラ(ライル?)にせがまれ透子は館に宿泊、その夜、彼女は館内部で謎の獣に襲われる。必死で逃げ出した彼女を助けたのは、仕事の紹介者のバーのマネージャーの城、そして翠と同じゼミに通う美しい女性、灘だった。彼らは、彼女に緋比古は人間ではない、と話をし、自分たち協力するように求めてくる。

美青年・美少年好き向け? 篠田真由美の伝奇SFアクション
私の場合、冒頭に記した半村氏や荒巻氏、更には菊地秀行氏や夢枕獏氏などが執筆してきた「伝奇SFアクション」やら「伝奇ホラー」あたりの長編にあまり詳しくない。というか、ほとんど読んできていない。私の持つイメージだとこんな感じか。・対立する勢力が血みどろの争いを繰り広げている。 ・主人公は人間の姿をしているが、実は人間以外の生物か、人間でも特殊能力を持っている。 ・基本的に主人公が目茶苦茶に強い。 ・敵も強いがグロい。 ・美男美女がやたら登場する。 ・一般人とは基本的に関係ないところで戦いが行われるが、時々巻き込まれる人がいる……
上記の私のイメージが実際に伝奇SFと合致しているかどうか、という判断はとにかく、少なくとも本作についてはその要素が、おおかた当てはまる。主人公は謎の勢力と二千年以上も孤独な争いを続け、敵に恐れられるほど力を持っている。しかも美男子。百年以上日本でひっそりと一人の美しい召使いと共に暮らす。透子がやって来たところから少しずつ戦いが始まる……。少なくとも私の中では典型的伝奇SFアクション、という印象。 確かに吸血鬼であるとか、龍であるとか登場、更にイエス・キリストの生誕及び処刑を下敷きにしていたりと典型から外れようという努力は感じられる。ただ、その懸命な努力の結果外れた先もまだ「伝奇」のジャンル内部から逸脱できていない感じ。つまらないわけではないのだ。伝奇SFアクションとしてのレベルはもちろん充分クリアしている。 ただそこを到達点にせず、更なる高みを望んで欲しい、という私が贅沢なのか。
単に私の邪推だったらごめんなさいと謝るしかないのだが、作者は男性に甘く、女性、特に美女に対して厳しい。醜い男性は惜しげもなく物語の犠牲となるが、美貌の緋比古とライルのコンビは怪我程度。登場するタイプの異なる美女たちに至っては、ひどく醜く変貌し、死体もろくに残されない。……。潜在的に”やおい”の要素が強く出ている……と正直感じる。(考えてみれば、緋比古とライルの関係は、建築探偵シリーズの京介と蒼のそれに近い)また、主人公の女性が、芯ばかり強い割りに無分別。全体が全く見えておらず、善意で他人に迷惑をかけるタイプ。しかもそれらをほとんど自覚していない性格で、魅力の点でちょっと、と思っていたら、さすがにそちらは物語の一部。たしなめられて素直になった後にはその違和感はなくなった。

篠田真由美さんの作品らしく、独特の教養(特に中世ヨーロッパ関連)が色濃く反映され、物語の装飾だけでなく内部にもその精神は深く息づいている。キリスト教を下敷きにした筋書きも、登場人物の個性もそれほど悪くないと思うのだがごめんなさい、どこか私のフィーリングに完全にフィットしない。私が登場人物に「萌え」ないからなのか。逆に「やっぱり主人公は美形でなくちゃ」などと断言できるお姉さん方向き?


01/06/15
都筑道夫「魔界風雲録」(中公文庫'79)

'53年(昭和29年)弱冠二十五歳の新鋭が大坪砂男の推挽を受け若潮社より伝奇時代小説を書き下ろし刊行した。それが都筑道夫『魔界風雲録』である。あとがきによれば都筑氏は、若書きである本作の再刊を良しとせず、長い間刊行を渋っていたという。また桃源社などで再刊される折りには、『かがみ地獄』と改題してみたり、別の中編にこの題名を使ったりとかなりややこしいことをしたらしい。この中公文庫版は文字遣いなど一部を除けば、ほぼ完全に都筑道夫のデビュー作品をそのまま再現する貴重なテキスト。

毎日同じように過ぎる退屈な日常に飽きたらず、真田の山城を飛び出した若君、真田大助幸綱。彼の身を助けるべく派遣されてきた三好清海入道、望月六郎らから隠れ、見つからぬように旅していた。大助は山の中で明日婚礼の女性の侍女が、屈強な若者に救いを求めているところに出くわす。山大名、卒塔婆禅正の美しい娘が、隣の山大名で醜い容貌の紅面夜叉の元に強制的に嫁がされるらしい。その娘、香織には意中の男、岩千代がおり、救いを求められた男性こそがその岩千代だった。暗躍する忍者にも気付かず、その婚礼の様子を見物しようとする大助。しかしその日、二人の山大名を一気に殲滅すべく、別の勢力がその婚礼に押し掛けようとしていた。腹に一物ある紅面夜叉は、卒塔婆禅正を混乱に乗じて刺し殺すが、別の大名の上田玄蕃の手勢に城を急襲されてしまう。更に城に火がつけられる中、大助と岩千代、更に腕利きの忍者、猿飛佐介が加わって、彼らは因縁のある「鏡」を巡る争いに巻き込まれていく。

大衆文学の流れを汲む、正統派痛快伝奇時代小説! 都筑道夫はデビュー作からスゴイ
青年になったばかりの真田幸村の息子、大助幸綱が、ふとしたことから興味を持った山城の城主らの争いに巻き込まれ、更に埋蔵金の在処を巡る争いが加わって数奇な冒険を体験する……、というおおよその物語だけであれば、そこらにある伝統的伝奇物語でしかない。しかし、それに加えて色々な都筑テイストが加わって、現代読者が今読んでも鑑賞に堪えうるエンターテインメントとなっているように感じる。特に感心したのは、全体的に色鮮やかな印象が味わえること。テキストを通じて「色」という表現が適当なのか、自信は実はあまりないのだが、山や川の描写、夜の暗闇、蝋燭の火のほんのりとした灯り、南蛮船のどぎつい色彩、大海原……等々、決してリアルを狙ったものではないながら、色が全てに感じられるのだ。物語の場面場面が引き立っているのも、この色彩感覚と無縁ではあるまい。
一方、氏がまだ若かったせい? だと思うのだが、居並ぶ特徴をもったヒーローたちの群れに比べ、登場する美女たちの魅力が今ひとつ釣り合っていないように感じられる。あくまでこれは感覚的なものとはいえ、例えば山風の忍法帖に登場する美女(比べる対象として適当かどうかは置いておいても)の濃艶な魅力、薄幸の魅力、潔さの魅力……等々、色々な要素において、少しずつ物足りなく思えた。
それにしても、山の中から江戸市中、そして大海原に出ていく場面展開の妙、幾人もの登場人物を効果的に登場させる配役の妙、そしていくつものドラマが同時に進行している構成の妙等々、この段階にして既にエンターテインメントのツボを完全に会得して執筆されていることは驚き。ありがちなお色気シーンも最低限に押さえられ、老人から子供まで、誰が読んでも引き込まれる作品になっている。

伝奇及び時代小説にしばしば取り入れられる江戸文化の蘊蓄じみた部分が、この段階ではまだ表に出ていない。あくまで徹底的にストーリーで真っ向勝負の娯楽作品。 「都筑道夫」らしさというプラスαはまだ加わっていないに関わらず、これが後のスーパー作家、都筑道夫の原点、というのは大いに頷けるところである。ファンなら読むべし。


01/06/14
小泉迦十「火蛾」(講談社ノベルス'00)

第17回のメフィスト賞受賞作品にして「2001本格ミステリベスト20」で新人ながら堂々2位を獲得。更に第1回本格ミステリ大賞の候補にも選ばれるなど、本格サイドから高い評価を受けている作品。

西暦十二世紀の頃、詩人であり作家のファリードは噂に聞こえた聖者から、アリーという名の行者を主人公とする物語を聴く――。彼はイスラーム神秘主義を信奉するスーフィーと呼ばれる修行者。父の代からイスラームに帰依し、その名前、アリーはシーア宗初代指導者から取られていた。ただ自身は別の宗派である神秘主義に傾き、遂にそちらに入門する。五年後、アリーは導師より聖地メッカへの巡礼を指示される。苦しい旅の後、もう少しで目的地というところで、アリーは聖者と思しき謎の人物の奇蹟を目の当たりにする。《山》へ行け、と彼から指示されたアリーは。気付くとその山におり、登頂後早速、連唱の行を開始する。その最中に天幕に写る影から問答を投げかけられ、やり取りの後、そのまま昏倒。翌朝、アリーは別の修行者よりそれが導師ハラカーニーであると告げられる。翌晩もハラカーニーに様々な疑問をぶつけるアリーは、カーシムという行者を訪ねるよう言われる。ところが先輩修行者であるカーシムは、入り口が紐で内側から結ばれたテントの中央で額に短剣を突き立てて絶命していた。

デビュー作にして既にパーフェクト。イスラームの世界が物語に染み通ったミステリ
中世の中東が舞台、登場人物のほとんどは聖職者でもちろん中東の人々、しかも一般には全く馴染みのないイスラム教が深く主題と関わっている。生活習慣も価値観も異なる世界の物語を構成するパーツでお馴染みなのは「密室殺人」くらい。表層だけみれば、なんとも取っつきにくい。 しかし実際に読む分にはノベルスにしてはコンパクトにまとめられた分量(たったの200P)と、単純かつ効果的な構成、また完璧に確立している世界観等々、新人離れしたリーダビリティが本書にある。とりあえず読み進めるのに抵抗感はない。
しかし、これはスゴイ作品だ。本作が投稿された時、メフィスト編集部が大騒ぎした、というエピソードもなるほど、と頷ける。ポイントポイントが押さえられ、現代ミステリとしてパーフェクトな完成度に到達しているから。
  どこがそんなにスゴイのか。
 ・メジャーな割に日本人に馴染みの薄いイスラム教の世界を物語に完全に取り込んでいる点。
 ・そのイスラムの世界観、宗教観の中で物語の発端から完結まで説明しきっている点。
 ・殺人事件が、その特異な舞台背景と密接に繋がっている点。
 ・奇妙な状況を打ち出した上に、きちんと論理的な事件説明が成される点。
 ・それをまたひっくり返し、更なる納得に読者を導く点。
 ・無駄な登場人物が一人もおらず、必要最低限の分量で最大の効果を読者に与えている点。
結局のところ、単体として高度なミステリのボディに、イスラム教という世界が十二分に染みこんでいるということ。最終的に到達する地点は、作品中で何度も語られているにも関わらず、ちょっと予想出来るものではない。深い思索を伴う宗教的テーマと論理性が重視されるミステリ的テーマ。全く異なる二つの線が収斂していく様の見事さに、感心するしかあるまい。
突きつめた宗教観がミステリを支配している点、京極『鉄鼠の檻』や山口『実在の船』の禅宗をテーマにした二作品をミステリとしては彷彿させるのだが、個人的には手塚治虫の『ブッダ』をなんとなく思い出した。宗教家の持つ悩みや誘惑への恐怖、修行のピークに訪れる恍惚感などのリアリティの描き方がどことなく似ている。宗教テーマを突きつめていくと似た表現に近づいていくのかもしれない。

これだけ完成された、しかも特殊知識の駆使を眺めるに、作者は果たして本当にミステリを書きたかったのだろうか?……という疑問がなくもない。(つまりはこの一作でオシマイ) それと私が仏教徒なだけに、熱心な宗教者である主人公と同じ視点まで物語内部に降りることが出来なかった。その分、完成度の割に実はエンターテインメント性が多少下がっている気もする。それでも、これだけの作品は滅多に世に出てくるものではない。やっぱりスゴイ作品という評価は変えられない。


01/06/13
倉阪鬼一郎「ワンダーランド in 大青山」(集英社'01)

2001年に入り、ほぼ「月刊」ペースで刊行を続ける倉阪氏は、元々本領である本格怪奇小説以外にも、ユーモアミステリ等の作品がある。本作もまた新しい境地を開く一作で、踊る狐と猫が描かれた表紙のイメージが喚起する通り、著者初のユーモアファンタジーになる。

僻地中の僻地、大青山村は常に隣村である稲田町に対しライバル意識を勝手に燃やしていた。稲田町が作った「稲田レジャーランド」に対抗し、村おこしで「ワンダーランドin大青山」の建設を計画、その目玉として日本一の滑り台を建設したのだ。ところが開園も間近なある日、台風による集中豪雨によってその滑り台はずたずたに破壊されてしまう。残されたリフトを活用しようとするも開園前日の二次災害でそちらも破壊され、結局、前売り券を購入してしまった客はただ一つ残ったお化け屋敷に向かうことになる。一方、その大青山には太古の昔から魔力を持った老狐が棲み着いており、偵察に出した手下の猫又から大青山村の惨状を知らされるにつれ、愛する故郷のために無意味に立ち上がろうとする。が、愛娘のコンちゃんにたしなめられ、助力はお化け屋敷をこっそり手伝うに留めることに。しかし、お化けを演じるうち、客に馬鹿にされた老狐は思わず相手を殺してしまう。勿論、狐の仕業とは考えない人間の世界では、奇怪な殺人事件が発生した、と大問題。

広大なクラサカワールドの中で繰り広げられる田舎人と狐たちのパニックファンタジー
大まかに分けると「田舎の事件」に「ボケ狐たちの空騒ぎ」の二つのパートに分かれる。「田舎の事件」のパートについては倉阪氏には、そのまんま『田舎の事件』という作品集があるように、これまでミステリとして表現してきた一連の「田舎もの」(≠田舎者)の流れを踏襲したものとなっている。即ち、閉鎖性、極端な見栄や意地の張り合い、情報の遅れ、意味不明のプライドの高さ等々を巧みに組み合わせて住人たちを諧謔するもの。本書においても、心の拠り所であった大滑り台が壊れた後の彼らの鳩首会談にそのココロが見える。奇妙な価値観や、時代遅れのセンスに裏打ちされた彼らのやり取り、分かっていても (そして失礼に思いつつも) ブラックな笑いが止められない。
一方、新境地であるファンタジーの主眼となるのは「ボケ狐の空騒ぎ」の方。千年以上生きる狐のあまりに大時代的な神経と、それをたしなめる娘狐のツッコミ、更に地獄から戻って来た元猫又の猫彦、早とちり猪突猛進型の猫又、あまり頭の回転の良くない猫又たちそれぞれが取る奇矯な行動。それぞれが「田舎の事件」のパートと絡み合って、独特の世界が展開される。こちらも笑い的にはなかなかイける。物語は両者のほんのちょっとした行き違いからボタンの掛け違えが起きて、いつの間にやら大パニックというパターン。先が全く読めないため、ページはどんどん進む。 一旦加速度がつくと爆発的なスピードでカタストロフィに向かってしまうあたり、やっぱり作者の根っこがホラーだから? 
人死にのシーンがホラーまがいのリアルで描かれるのは御愛嬌。またラストの総決戦(????)の後、どことも言えない世界を彷徨う猫彦の姿などは、従来からの倉阪氏の怪奇小説におけるイマジネーションに大いに重なる。そして物語の終幕もまた、そう。

かって倉阪氏が日記で「著者・担当編集者・デザイナー、すべて『ブラッド』と同じなのですが、まるでジキルとハイドです」と述べておられたが、本格ホラーである『ブラッド』と肌触りが非常に似ているように感じられた。作者が同じなので当然といえば当然ながら、異なるジャンルであってもマクロの視点で捉えた際の物語構造が近いからかも。本書もファンタジーの体裁ながら、やはりこれもまたクラサカワールドに完全に包含される作品。


01/06/12
二階堂黎人「悪魔のラビリンス」(講談社ノベルス'01)

『人狼城の秘密』四部作の完結以来久々になる、蘭子シリーズ最新作品かつ新展開の始まり。『メフィスト』誌に'00年、'01年に発表された中編三作品にて構成されている。

東京駅から寝台特急の個室の乗車した筈の手品師「悪魔サタン」が横浜を過ぎたところで消失、その部屋には東京駅で見送りをしていた筈の女性助手の死体が発見される。「悪魔サタン」は、事前に《魔王ラビリンス》を名乗る謎の人物から脅迫を受けていたが、本人は一笑に付していたという。現場の廊下をマネージャーが監視していたことから、不可能密室殺人の様相を呈する『寝台特急《あさかぜ》の神秘』

《魔王ラビリンス》が隠れ家として使用していたという洋館に隠し部屋があるのを蘭子が発見。中には戦中のものと思われる四人の死体が隠されていた。一方、千葉県の翡翠海岸ではアマチュア画家が一人創作に励んでいた。通りがかりの老人と語りあった後、彼は道に迷って崖の隙間に身体を落としてしまう。人口の抜け穴を発見した彼は、洞窟の中に若い男の死体が閉じ込められた氷柱を発見、屋敷の主人と思われる人物に軟禁されてしまう『ガラスの家の秘密』

上記二つの物語の後日譚、そして《魔王ラビリンス》の恐ろしさについて語られる『解けゆく謎、深まる謎』以上三編。

「本格推理」の骨格に「通俗探偵小説」をまとって。二階堂蘭子再登場
元もとこの、「二階堂蘭子シリーズ」の舞台は昭和三十年代後半から四十年代前半に設定されている。よくこの時代について論じられることが多く、ハイテク科学捜査の有無だとか、物語の架空性の強化だとかいわれることが多いように思う。個人的には「怪しいものが怪しいまま存在し得たぎりぎり最後の時代」に舞台を設定することの重要性に一票を投じたい。蘭子シリーズの従来の作品にしても、怪しい人物や事件が多々発生してきた。しかし本作から始まる後半はまたスゴイ。《魔王ラビリンス》だもの。
ネーミングはもしかしたら非常に重要な意味が後から出てくるかもしれないので是非を問うことはしない。《魔王ラビリンス》は日本に蘇ったモリアーティ教授であり、不可能犯罪、残酷犯罪をプロデュースする悪魔の化身である、という設定。この荒唐無稽さだけであればジュヴナイルでも現代では通用しまい。しかし、本格推理を指向するにあたって実はこれほど、具合の良い存在はない。 なにしろ事件の必然性への配慮が最小限で済むという利点がある。密室にしろ、不可能犯罪にしろ、現代の読者は「なぜそのようにせざるを得なかったのか?」という疑問を必ず持つ。その理由説明が一切不要。何しろ相手は「魔王」だから。強いていえば、人々を混乱に陥れるのが目的。だからわざわざ事件は複雑に猟奇に、耳目を集めれば集めるほど「魔王」の犯罪への快感は増すわけだから、それだけで動機は充分。その結果、作者と読者はパズル性の高いトリックやロジック――《魔王》という衣の下に隠された本格推理たる部分に集中出来るというわけだ。その《魔王》が、「もしかしたら存在が可能だったかもしれない最後の時代」、それが結局冒頭に述べた時代設定に繋がっているともいえる気がする。
その「本格推理たる部分」に関しては『あさかぜ』のパズル性よりも『ガラス』のロジカルな面白みの方が個人的に好み。島久平が冒頭に引かれているのも嬉しかったし。

当然、この作品はプロローグというか、小手調べに過ぎないものかと思う。既に畢生の大作『人狼城の恐怖』を打ち出している二階堂氏は、今度はどのような展開を物語に持ち込んでくるのか。個人的に通俗探偵小説が、かって持っていた胡散臭さが好きなので、本書のノリは非常に楽しい。反面、《魔王ラビリンス》という「敷居」が読者に対して存在するのも事実。その段階で生理的に受け付けない方には、残念ながら向いていないかもしれない。


01/06/11
西村京太郎「歪んだ朝」(角川文庫'01)

「ミステリーBIG4フェア」と銘打たれて森村、内田、赤川の三氏と共に刊行された文庫オリジナルの短編集。表題作は'63年の第2回オール讀物推理小説新人賞の受賞短編。また収録作の『黒の記憶』は'61年に「宝石」誌の第2回宝石賞の候補作品で、氏の真のデビュー作品。他の作品も昭和三十〜四十年代に執筆されたものが集められている。

浅草山谷のドヤ街。浅草署に勤務する田島は、早朝の隅田川に子供の死体が浮かんでいることに気付く。それは十歳くらいの少女で首を絞められて殺されており、なぜだか口に真っ赤な口紅が塗られていた『歪んだ朝』
「週刊パピルス」に仙台で記憶喪失の少年を育てる男から手紙が届く。少年は二年前の誘拐事件の被害者で、事件は迷宮入りしていた。東大病院の精神科で少年の回復が待たれたが『黒の記憶』
「週刊ロマネスク」の編集、野本はどこかで見たことのある女性にいきなり刺され大怪我をする。事件は迷宮入りしたが、回復した野本は自殺女性の新聞記事を読んで、その女性が犯人ではないかと疑う『蘇える過去』
六人のパトロンを持ち、夜な夜なボーイハントに出掛けて五十一人のボーイフレンドを持つ女性が、自室で絞殺された。流しの犯行とも思われたが、凶器がパジャマの紐であったこと鍵が一つ消えていることから……『夜の密戯』
床屋を営む晋吉の元に一人の男がやって来た。晋吉がかって自動車事故で少女を轢き逃げしたことを目撃したといい、借用書を書きながら晋吉から少しずつ現金を奪い取っていく『優しい脅迫者』以上五短編。

大ミステリ作家「西村京太郎」の初期作品としての価値か
あくまで私の場合は昭和三十年代、四十年代に執筆された推理小説(ミステリとか呼ばれる前の)を、少なくとも同世代に比べればそれなりの量を読み込んできたし、現在もリアルタイムで読んでいる。なので、本書に登場する舞台だとか人々の様子だとかに全く違和感はない。しかし二十一世紀の現在、これら数十年前に執筆された「抹香臭い」作品が、天下の角川文庫、しかもフェアの目玉商品として登場してくることには正直「?」も感じないでもない。
ミステリ短編としてそれぞれ、それなりに面白くはある。『歪んだ朝』はさすが受賞作。社会的弱者へ向けられる視線、周囲に対する怒り、そして叙情性などなど綺麗にバランスが取れており (特に少女が口紅を付けていた理由は驚きと悲しみと寂しさがない交ぜになる見事な動機!)、ドヤ街特有の頽廃した雰囲気の中で語られる物語は「これも日本の一部だ」という作者の大いなる主張が感じられる。 続くのは『蘇える過去』か。自分を刺した女は何者? とサスペンス風の展開を見せた物語が、貧しい漁村の酒場にて収斂する。ちょっと短編では語り尽くせない、巨大な主題を込めてしまっている感もあるが、これも「かっての日本」の歪みがよく現れている。
ただ残りの作品については、評価が難しい。かのEQがセレクトしたという『優しい脅迫者』にしろ、心理分析テーマの『黒の記憶』にしろ、実際の犯罪を解体したらしい『夜の密戯』にしろ、それぞれの短編執筆に至った趣向は感じられるのだが、個人的には抜けて作品のレベルがスゴイと思わせる程ではなかった。大作家 西村京太郎の作品でなければ、復活する機会は与えられなかったのではないだろうか。

まぁ、まだ西村を論ずることが出来るほどに西村を読み込んでいないことは自覚している。考えてみれば短編を読むのは初めてかもしれないし……。ただ、特に初期の西村京太郎が偉大なるストーリーテラーであることは間違いないし、まだまだ読むべき作品が残されているのも確か。精進精進。