MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


01/08/10
片瀬二郎「スリル」(エニックス'01)

2000年初頭に「十二幻想シリーズ」を世に送り出しホラー出版界へ名乗りを挙げたエニックスが、大々的に募集した「ENIXエンターテインメントホラー大賞」の長編賞受賞作品。藤田新策氏による装画をベースに、ビデオを模したプラスチックケースなど斬新な装幀。力の入れ方が分かろうというもの。……の割りに一般書店であまり見掛けないのは営業的に問題だと思うぞ、エニックス。

三流女性週刊誌の記者、板東は巷で密かに噂が広がっている謎のゲーム”スリル”に参加して潜入取材を行うことを決める。何の変哲もないカラオケボックスに集められた男女五人に淡々と説明を行う謎の美女。「誰かに”ポイント”が与えられる。制限時間の”ターン”の間に、”徴候”を感じ取ったら、指定の電話番号に連絡し”ポイント”を他の参加者に移す……。”ポイント”を持ったまま、”ターン”の終了を迎えた参加者は死ぬ……」。最後に残った一人には他の参加者にもかけられた巨額の保険金が全て手に入れることが出来るという。板東以外には、家庭から逃避したい主婦、”逃げ出したい”という風俗嬢、年上の女性のヒモとして暮らす若い男、そして謎の老人が参加していた。彼らはそれぞれ参加するだけの事情を持っている。そして、いざ”スリル”が始まると、一様に脅え始める。徹底的に部下の平山と共に黒幕の調査を続ける板東、浮気相手の若い男の妻と対決する主婦、日々の仕事の中で若干の変化を認める風俗嬢、同棲相手から「他の全員を殺せばいい」と持ち掛けられる男、そして家から一歩も出ないで過ごす老人。果たして何が”徴候”なのか? そして最初の犠牲者が出た。主婦が一家ごと狂った隣人に惨殺されたのだ。

”スリル”は単に参加するだけのものではない。気付けば自分自身が”スリル”そのものへ
ツカミが甘い……というのか。物語全体を通していえるのだが、文章が全体的にくどいように読み始めから感じられた。なので、数十頁が捲られるまで正直、なかなか物語に入りづらい。だが、参加者一人一人のディティールが明らかにされ、”スリル”というゲームの概要が明らかにされるにつれ、一気に世界に没入させられることになる。 仮にもホラー小説に対して不謹慎な表現かもしれないが、単純に面白いのだ。私は『バトル・ロワイヤル』が未読なので比較は出来ないが、一定の死の法則によって支配された世界の中で、苦しみあがく登場人物をその世界から眺めるあたり、似ているかもしれないな、と思うのだがどうだろう。
主要登場人物はたった五人。彼らそれぞれに人生があり、家庭があり、過去がある。謎のゲーム”スリル”を通すことで彼らは否応なくそのことを直視せざるを得なくなる。たかがゲームと気楽に考えるものを突き落とし、怖けづいて逃げ回るものを確実に追いつめ、ゲームのからくりを知ろうと試みるものを排除する。 ”スリル”は、彼らを恐怖の淵へと着実に追い込んでいく。果たして”スリル”とはいったい何なのか? 彼らは最終的にどうなるのか? 現在は果たして誰の”ターン”なのか? いくつもの「ミステリー」を含みつつ、物語はノンストップでひた走る。 なにしろ制限時間”ターン”は終盤に進むにつれ短くなっていくのだから。特に各人が”スリル”の勝者となるために「当然」思いつくことを実行に移し始めた後の、狂気と狂気のぶつかり合いが強烈。ただ、ゲームの参加者が中心となって物語が進むことによりテンポが上がるのは良いながら、”スリル”というゲームの持つ折角の「逃れられようのない恐ろしさ」が、かえって薄れてしまっているのがいささか残念かも。
本書の最大の魅力は、ゲームと登場人物を設定しまってある程度物語が進められた後、”スリル”そのものが暴走をはじめて、作者自身さえもがコントロール出来なくなっているところだろう。人間のエゴだとか、計算だとかが徐々に関係なくなって、生存本能の強いものが最後に勝つという、ある意味では単純な図式なのだが。その、後半のジェットコースター的展開に瞠目すべし。

うーむ。本を確認しただけでは「第一回」という文字がどこにもない。つまりENIXが第二回、第三回とこの賞を継続するのか分からない。(これでオシマイのような気もするな……) いずれにせよ、片瀬氏には何らかの形で、次作を発表して頂きたいもの。(出来れば、もう少しすっきりした文章で)


01/08/09
伊島りすと「ジュリエット」(角川書店'01)

第8回日本ホラー小説大賞大賞受賞作品。伊島氏は本作以前に、『不思議』にて第7回の同賞の最終候補にも残っているが、本書が実質のデビュー作品。この第8回は他に長編賞を桐生祐狩『妙薬』、短編賞を吉永達彦『古川』が受賞するなど、'97年の第4回以来の三賞揃い踏みとなった。

十四歳の長女ルカと五歳になる長男の洋一を連れ、小泉健次は南の島を訪れていた。震災による過労死で妻を喪い、また友人の連帯保証人となっていたことで自己破産を余儀なくされた彼は、家族三人で人生の再出発にのぞもうとしていた。仕事は開発を中止したジャングル奥のゴルフ場の住込管理。健次は、その前にせめてリゾート気分を子供たちに味わわせてやろうと海岸近いペンションに宿泊していた。海水浴の最中、健次は洋一に海の底にいる水字貝を取って欲しいとせがまれ、水圧に苦労しつつ捕まえる。ただ、その貝を貝殻にしてやるためには、中身を取り出さなければならない。その作業をペンションに住む老人が引き受けてくれるという。身に重石を付け、木に貝をぶら下げ、重みで中身が落ちるのを待つのだ。ただ、その老人は「魂抜け」と呼ばれるこの作業の間に、中身が抜けるところは決して見てはならないと忠告する。「のりうつられ」「思い出す」というのだ。しかし貝を心配する洋一が夜中に起き出したことで、三人は中身が落ちる瞬間を見てしまう。彼らはそんな言い伝えは迷信だと言い聞かせ、ジャングルの奥地のクラブハウスへと向かった……。

南の島の熱気が夜の闇と混じり合って溶け合い、思い出を連れてくる……
一般に「思い出」という言葉には、「甘く切ない」とか「ほろ苦い」という形容詞が想像される。だがこの作品の中における「思い出」とは、どちらかといえば「忘れたくても忘れられない」「忘れようとすることでかえって強く思い出される」という、登場人物にとって「不快」ないし「辛い」記憶のことを指している。
南の島(場所は明示されていないが、沖縄諸島のどこかと思われる)の亜熱帯のジャングルの中に聳え建つ、廃墟寸前のクラブハウス。我々の住む世界とはごく細いパイプのみで繋がるこの世界を中心として発生する怪異。「魂抜け」の目撃から、登場人物それぞれの抱えた苦い経験が明らかにされる。そして孤絶した環境の中、じわじわと「思い出」が彼らのもとへと這い寄ってくる……。本書における怖さは、この「予感」とその「実現」にある。 悪ガキに殺された犬の思い出を持つ洋一、自らの過失で友人を殺し、かつ謎の自殺を遂げた友人を持つルカ。そして妻を不幸な形で亡くした健次。三人三様の「思い出」がいかなる形をもって彼らに迫るか。離島という「檻」の上に更に僻地という「檻」に入り、自己破産という咎を背負った主人公は逃げ出せない。読者は予感し、そして実現した状況を凝視させられる……。ちょうど背筋を冷たい汗が逆に這い登ってくるかのようにじわりとじわりと。来る。

巻末の作品評では本作の瑕疵として「冗長」が挙げられていた。が、私はこの長大な前半から中盤にかけての描写はホラーとしての作品成立のためには必要な部分だと感じる。植物の濃い匂いに噎せるような薫りや、這い寄る飛び回る昆虫や謎の生き物……。これらのじわじわ盛り上がる前哨部分があってこその作品だと思うから。却って「思い出」登場後の描写ならもっと丁寧にじわじわと攻めてくれても良かった気も。

ちょっとした旅行などで行楽地などに宿泊すると、都会に住む身には不意打ちのような、思いがけない夜の闇に出くわすことがある。そんな夜の闇と共にこの作品を「思い出す」のではないか、と思うとそれだけでも怖い。あとプロローグとしっかり繋がるエピローグ。そのエピローグにおけるオチともいえる「ある事実」には思わず「ほーお」と感心した。完成度も高く、次作の方向性など注目される。


01/08/08
皆川博子「骨笛」(集英社文庫'96)

'93年に集英社より刊行された短編集が文庫化されたもの。文庫版解説は千街晶之氏。

高志が遠い親戚のマユと喫茶店『カト』で会う日はいつも雨。マユの家は色々と複雑。彼女は「沼猫」「鍵猫」の話をする 『沼猫』
ぼくは十か十一くらいの不思議な女の子、ミオと出会った時、かってアヤコが骨の歌を唄ったことを思い出した 『月ノ光』
中学生のわたしのあまり広くない家に、父方のいとこの夏生が遊びに来る。「夢事典」を持って今日もやって来た 『夢の雫』
両親の海外駐在の関係で、義理の叔母、由里子の住む母の実家に住むことのなった秋人。由里子の風変わりな性格に戸惑いながら過去のある事件を知る 『溶ける薔薇』
母の葬式以来会っていない伯母の呼び出しで病身の祖父宅を訪れた典子。エキセントリックな伯母は典子に理不尽な要求をつきつける 『冬薔薇』
デパートに設置された噴水で出会ったマユと泉は仲良くなる。それを階上の喫茶店で見つめるわたしは、海外駐在時代の鬱陶しい知り合いを前にしていた 『噴水』
二十年以上前の大学時代、劇団に所属していたわたしは台本を持って川べりの待ち合わせ場所に行った。そこには幽霊を名乗る男がいた 『夢の黄昏』
十数年ぶりに喫茶店『カト』を訪問したわたし。『カト』のママは店を廃業する決心をし、真由は母親となっており、高志はテレビのプロダクション勤務。高志は海外駐在経験のある真由にテレビ出演を依頼するが彼女は固辞する 『骨笛』以上八編。

人間という存在の輪郭はかくも淡く薄く……
不思議な短編集である。いや、皆川博子の短編集が不思議でなかったことなどないのだが。それにつけても不思議な……いや、逃げないでなんとか説明を試みたい。
八編の作品の内部で、複雑に同名の人物が様々な形で関与しあっている。少女で登場した女性は別の作品で母親で主婦となり、少年で登場した人物は勤め人となっている。ただ、彼ら彼女らの年齢や存在が合わない部分が散見されるのだ。なので単純に連作短編小説とは言い切れない不思議さ――繋がっているのにねじれている――を作品全体から感じるのだ。また、皆川作品では特徴的な、生きている人間と死んでいる人間とのなんのてらいもない交流も、作品の中での時間の流れを判りにくくしている要因の一つか。ただ、年齢の不一致だの家族の不一致だの生死の不一致だのは、作品内を流れる世界の中では大した問題ではないのだろう。
また、作中の人物も感情を持つとはいえ、淡淡としたタイプが多い。例えば、幽霊という存在は、一般的にはこの世に怨みを残した人間が変化するもの、と相場が決まっている。が、皆川作品の幽霊はかえって何にも執着を持っていない。「生」への執着ももちろん。同様に「生」への執着を持たない人間たちと相まり、作品内での生と死の境界はどんどん薄らいでいく。また、矛盾するように聞こえるかもしれないが、登場人物の神経は強靱である。いや、強靱ならざるを得ない境遇にあるというべきか。複雑な家庭環境に幼い頃から晒され、その中で一種の諦念と一種のしたたかさをもって成長せざるを得ない子供たち。彼らは、心の中に幻想的な隠れ家を持つことで現実の世界を生きている。ここにもまた、曖昧な境界が存在する。
何が現実で何が幻想で、などを必死で読みとるなどナンセンス。頁を開けば、世界は世界。皆川博子のラビリンスに彷徨う時間は私にとっては至福のひとときであり、かつまたちょっとナイーヴになる時間でもある。

もちろん、ふとした表現一つをとってもその奥深さには心が震えるし、ほんのちょっと飛び出た棘は心にぐさりと突き刺さる。言葉の持つ力を魔力のレベルまであっさりと目の前に持ってこられると、未熟な読者である私など戸惑いが先に立つ。皆川作品世界に入り込み過ぎると、戻って来られなくなるかもしれない――それが杞憂でないと誰が言えよう。本書はミステリではない。物語の世界に引き込まれ、かつその世界に漂うのが好きな方に浸って頂きたいもの。


01/08/07
浅暮三文「夜聖の少年」(徳間デュアル文庫'00)

'98年に第8回メフィスト賞を『ダブ(エ)ストン街道』にて受賞した浅暮氏による書き下ろし第三作。デビュー作が大人向けファンタジー、第二作がSF設定ハードボイルドミステリと、作品毎に異なる「貌」を見せる浅暮氏が、本書ではどのようなパフォーマンスを演じるのか。

サーズデイ。この街に住む者は大人になると”木曜日の儀式”で抑制遺伝子を身体に埋め込み、暴力衝動を押さえた聖遺伝者となる。管理された社会の中、枠からはみ出た子供たちは〈土竜〉と呼ばれ、下水道をはじめとする地下で暮らしていた。街に住む者のゴミを生活の糧とし、時に略奪を行う〈土竜〉を狩るために存在するのが、〈炎人〉と呼ばれる人々。彼らは抑制遺伝子を埋め込まれながらも暴力衝動を抑えられなかったことで記憶を消され、改造された人間だった。
内気な少年、カオルはケンをリーダーとする土竜のグループに属していた。彼は幼い頃、夢で自分自身の”神”を見ることから孤児院で虐待され、逃亡したのだ。聖夜、食料調達のために手薄のはずの炎人の監視所をカオルたちは襲撃する。ぎりぎりのところで発見された彼らは炎人に襲われ逃亡、メンバーとはぐれたカオルは封印された研究室に彷徨いこみ、自らの夢で見た白い巨人を発見する。カオルに対し「パパ……」と呟き、彼を守って炎人を返り討ちにする巨人を、彼らは「ミトラ」と名付けた。

ヤングアダルトの装いの中、芯にあるのはグレ流ファンタジー
少年向けの「成長」テーマのファンタジーが確かに頑として物語に存在するし、それは否定出来ない。地味で大人しい少年がいくつかの経験を経て、自らのアイデンティティを自覚し、逞しく成長していく物語。ただしかし、平凡な少年少女向けのエンターテインメントとは明らかに異なる手触りが本書からは感じられる。地下世界に棲む少年たちだけのコミュニティ、暴力の遺伝子レベルの抑制、街の守護者の炎人、姿を隠した情報提供者〈ウサギ〉、そしてフランケンシュタインを思わせる巨人ミトラ……等の奇抜な、そして興味深い設定がまず目を引く。一方、その発想の奇抜さを抑えるかのように配された、優柔不断なリーダーのケン、土竜のリーダーを狙うガルシア、いつの間にか主人公に惹かれるマリア等の「標準的」登場人物と「標準的」人間関係。名前も与えられずに炎人に焼かれる土竜の仲間たち。主人公カオルの成長譚を除くと、創造された世界が、登場人物全てを圧倒してしまっている。 つまり、物語で大きく自己主張をするのは、この独特な世界と、主人公の二つなのだ。
そして主人公の成長の糧となるのは戦いの勝利や仲間を喪う悲しみから来るものではない。カオルのステージアップは「探して見つけること」で行われる。 自分の”神様”であったミトラを、炎人から逃亡する逃げ道を、暗い地下道からの出口を、そして攫われたマリアを……いくつもの探し物を見つけだした時に、カオルは少しずつ成長する。その「探す」という行為を煽るかのように、カオルの帰る場所も次々と喪われていく。後戻りの出来ないカオルは、前を向いて探し続けるしかない――。 また、カオルは作中で様々なものを喪う……のだが、物語の特徴として喪うことは、「探して見つける」ことで獲得される彼の成長に比べ、明らかに影響は小さい。
この「探して見つける」という行為を繰り返すというコンセプトは、浅暮氏の原点『ダブ(エ)ストン街道』からずっと繋がっているように思う。登場人物に常に何かを探させる――もしかしたらずっと何かを「探して」いるのは作者自身なのかもしれない……。

都筑道夫に『未来警察殺人課』というシリーズ作品があり、こちらも「人類全体の強制的予防管理で暴力衝動を身体そのものから無くす」という設定がよく似ている。ただ、本書ではその世界からはみ出した者が中心、『未来…』では体制側の人間が主人公(本書でいえば炎人か)なので、全く異なる構造なので、例示するだけ野暮だったか。

私は気にならなかったが、物語の内容は完全にヤングアダルト向けで、登場人物の会話などはもちろん相応に対応しているのだが、地の部分の文章は遠慮会釈なく一般成人読者向け。もう少しひらいた書き方の方が、叢書の読者層を考えれば良かったのでは。あとは視点の不統一と。

恐らく本書ではじめて浅暮作品に触れる方が特に若年層に多いと思う。が、それはそれで構わない。少年向けエンターテインメントのツボを押さえた物語は充分魅惑的かと思うし。 ただ、前二作を読まれた方の方がこの浅暮世界にすんなり溶け込めるように感じられた。浅暮さんには、今後もきっちりと地歩を固めたグレ流ファンタジーを創造し続けて欲しい。


01/08/06
北川歩実「硝子のドレス」(新潮社'96)

「新潮ミステリー倶楽部特別書き下ろし」にて刊行された、北川歩実の二冊目の単行本。この後に同社より刊行された『猿の証言』が文庫化されながら、本書がされないのは何か理由があるのだろうか。このまま将来、北川歩実のキキメ本になるとか。

恋人の実咲と過ごしていた夜の公園。菅見は包丁を持った異様に痩せ細った謎の女性に襲われる。彼女の保護者だという五十嵐を名乗る男性の静止で事なきを得たが、菅見は彼女の頭に頭髪がまばらにしか生えておらず、前歯が一本だけしかないことを見てとった。その事件のしばらく後、菅見は実咲の様子がおかしいことに気付き、別れてから跡をつけた。そして麻薬を購入する彼女の姿を目撃、難詰。その結果、実咲は姿を消してしまう。
肥満に悩む千夏は様々な面で苦しんでいた。様々なダイエットを試しては失敗していた彼女は一大決心をし、エステティック会社の主催するダイエットコンクールに参加することを決意する。缶詰で行われる日向式痩身法のホテル合宿に参加するため、絶食と下剤の併用で9kgもの体重を落として参加した千夏。彼女はそこで最近電話で話をしたかっての同級生、菅見の姿を見つけて羞恥する。

ダイエット広告「before →after」を巡る内幕と悲劇、そしてミステリ
「スリムな女が美しい」ってのはいつ頃から生まれた価値観なのだろう? 良く読む昭和中期のミステリ作品なんかでは、痩せた女=貧相の代名詞で、魅力的な女性の形容詞はかえって「太り肉(ふとりじし)」だったりする。ある程度、女性はふくよかでなければならない時代が確かにあったはず。従って、歴史的にはたかだかここ二〜三十年くらいのもんだと思うのだが。(私自身、あまり痩せた女性に魅力を感じない方だし) ただ実際に現代に立ち返ると、その二十年の価値観はあまりに重い。今、二十代〜三十代、そしてそれ以下の女性たちは、皆この価値観の中で育っているのだから……。
本書はその価値観の中で苦しむ女性たちと、彼女らを標的とするビジネス、そして彼女らと関わる男性たちとの間で繰り広げられるミステリ。失踪してしまった恋人、実咲の正体を知ろうと、関係者を訪ね歩くうちにエステティックの会社に行き当たる菅見と、肥満が(というより肥満によるコンプレックスが)大きな悩みとなっている千夏。二人の行動が交互に、微妙に時間軸をずらして描写される。この二人が実は中学時代の同級生であったことから、徐々に二つの物語が交錯、収斂していく。「謎」はいくつも作中に存在するのだが、それを公約数にまとめていくと、実はこの一点に尽きる……「before 三ヶ月前体重○○kgのAさん → after 現在体重○○kg、20kgの減量に成功!」 新聞折り込みチラシから女性誌の広告まで、どこでも見掛ける実践体験広告の裏側に存在しているもの。作中に述べられている世界が全て真実だとは思わないまでも、かなりの説得力をもって語りかけてくることは確かである。それが何なのか、興味のある方は御自身にて確認されたい。
北川氏は決して「肥満」=「悪」という書き方はしていないのだが、登場人物の肥満に関する固定観念があまりに強烈で生々しいため、読者によっては抵抗感を持つ方もいるかもしれない。ミステリとしては意外性を引き出すため、最終的に人間関係の設定で辻褄合わせをしていると感じる部分があり、そこだけ少し残念かも。

いろいろな読み方の出来る作品だと思う。エステ業界の裏事情を知る蘊蓄本。肥満や無理なダイエットや拒食症の恐ろしさを知る啓蒙本。痩せるという観念に取り憑かれた女性たちの織りなすサイコ・サスペンス。いくつものからくりの込められたミステリ。どのように読んだとしても、一定以上の感慨は保証出来る作品。(文庫化出来ないのは余りにも内容が女性にとって生々しいからか……?)


01/08/05
稲見一良「セント・メリーのリボン」(新潮文庫'96)

'93年に新潮社より刊行された稲見一良氏の四冊目の単行本が文庫化されたもの。とはいえ、現在は既に絶版らしい。表題作品は第12回日本冒険小説協会大賞最優秀短編賞を受賞しており、後の『猟犬探偵』へと繋がっていく。

他人の女を助けたことから殺し屋に追われ山中に逃げ込んだ男は、焚火をしながら亡妻と会話する一人暮らしの農夫と出会い、食事を恵まれる 『焚火』
カメラマンの”俺”は取材の最中に山の中に残された戦時中のトーチカを見つける。担ぎ屋の老婆と軍服を着て銃を持った少年がいた 『花見川の要塞』
イギリス空軍の爆撃機B17のパイロット、リチャードは束の間の休暇を息子と楽しんでいた。彼は仲間と出撃してドイツを爆撃する予定だった 『麦畑のミッション』
三十年以上東京駅で赤帽として働く男。彼は田舎に住む兄が語るペンション経営の夢を何とか叶えたかったが現実には無理だった 『終着駅』
『猟犬探偵』の主人公・竜門のデビュー中編。盲導犬失踪事件を追う 『セント・メリーのリボン』

虚飾を捨てた「人間」そのものの価値、「人間」同士の関係の逞しさ、強さ、そして美しさ
 稲見一良の描く世界は、どこか「男にとっての安心」を感じさせる。
収録された五つの作品に、ミステリや冒険小説には必須(と思いこまれている)の魅力的な美女はほとんど登場しない。『焚火』の主人公が助けた女性は既に銃で撃たれて死亡しており、回想シーンのみ。また『花見川…』に登場するのは性別こそ女性だが、八十歳の老婆である。また、『麦畑…』『終着駅』に登場する女性も、脇役どころか端役でしかない。いや、『麦畑…』には極端に身体の曲線を強調した女性が登場する……が、彼女は爆撃機に描かれたイラストだった。(唯一『セント・メリー…』には依頼人、盲目の二人の娘と三人の女性が登場するが、この点は後で述べる。)
つまりメインとなるのは、男と動物。 これだけなのだ。世間からの目に惑わされず、自分なりの正義と生き方を貫く男たち。彼らと共に、もしくは自由に生きる動物たち。そこに描かれるのはピュアな信頼であり、愛情であり、男同士の友情である。これがストレートに心の襞に染み通ってくる。稲見氏はあとがきで本書を「男の贈り物をテーマにした」と述べている。贈り物。プレゼント。モノとは限らない。行動でも夢を与えることでもいい。大切なのは、贈る相手のことを真剣に思いやる気持ちだから。さりげなく、でも確かにその男の気持ちが頁の隙間から我々にも姿を垣間見せている。。打算のない、無骨で純粋な男の気持ちが本書の核だ。
そしてその『セント・メリーのリボン』。冒頭からしばらく、竜門という主人公のアウトラインを描くためにいくつかのエピソードを経由するが、まずそこまでは完全な男世界。中編の中心となる盲導犬盗難事件に至ってようやく、若くて美しい女性依頼人が登場する。しかし竜門は彼女に対しては反抗期の少年のような振る舞いをする。結局最後まで、彼は彼女を魅力的だとは認めつつも「依頼人」としかみていない。また竜門は、物語最後に盲目女性の一人に「贈り物」をする。ただ、この部分も本質は「男同士」の話のように思えるのだ。その少女に対する竜門の行動には彼自身の持つ「優しさ」の発露とも受け取れる。が、私は竜門をそんな行動に駆り立てた最大の理由は (ネタバレ反転) 「盲目の娘のために、罪と知りつつ盲導犬を盗んでまで何とかしてやりたいという父親の思い」 に対する敬意なのだと思う。一見、女性のための行動に見えつつ、そう考えればやはり男同士の物語だということができる。

あるシーンにさしかかり、冗談でなく涙をごまかすのに必死になってしまった。丸の内線満員の通勤時間帯だというのに。こんなの、前に『ダック・コール』(これも稲見作品)読んだ時以来じゃないか……。

格好いい大人になりたいと思っている少年に。格好いい不良になりたいと思っている大人の男に。そして人生を格好良く充実させたい全ての人に。 本書こそ稲見一良が遺してくれた我々への「贈り物」そのもの……。


01/08/04
西澤保彦「解体諸因」(講談社文庫'99)

西澤氏の「裏の顔」。本格ミステリ指向の強い、タック・タカチシリーズの第一作目の本にして、西澤氏のデビュー作品でもある。講談社ノベルスにて刊行された'95年に読了しているが、今般シリーズが進むにつれ再読してみたくなったもの。

両手に手錠をかけられたまま柱に縛り付けられて解体された主婦。(匠千暁) 『解体迅速』
主婦は合計34個にもなるバラバラ死体に分断されていた。(辺見祐輔) 『解体信条』
エレベーターに乗った女性が一階でバラバラ死体に。他のパーツは階段に。(中越警部) 『解体昇降』
お見合い相手から、一婦人がエロ本百冊の購入したと聞かされる。(辺見祐輔) 『解体譲渡』
高瀬千帆の家庭教師先でぬいぐるみの腕がちぎれ、大切なハンカチが無くなった(匠千暁) 『解体守護』
千暁の叔母が娘と婚約者を別れさせて欲しいと依頼。叔母と婚約者は出来ていた(匠千暁) 『解体出途』
ポスターのモデルの女の子の顔の部分だけが執拗に切り取られる事件(匠千暁) 『解体肖像』
七人の女性の頭部が切り取られ、順送りに別の女性の別の女性の元で頭部が発見される(刑事) 『解体照応 推理劇「スライド殺人事件」』
死体の首がすげ替えられる事件について中越警部を名乗る男から意見を求められた千暁。この短編集の総括編。 (匠千暁) 『解体順路』以上、九編からなる短編集。

タック・タカチシリーズの最初は、バラバラ殺人トリックのバラエティ重視
現場がほとんど登場せず、リアルタイムではなく後から解決をつける形の作品が多いため、「九つのバラバラ殺人ストーリー」というほどには残酷味はない。(次々と死体発見現場を舞台とする「照応」は別だけれど、これもあくまで「劇」という設定だし) ポスターが切り取られたり、ぬいぐるみの腕がもがれたりという形での「バラバラ」もあり、物語も単純に「人間の死体」をバラバラにするだけではない点にも留意したい。物語そのものでなく、ミステリの成立の根っ子から各短編を見直せば、同じバラバラ殺人でありながら西澤氏のオリジナリティというか、主張というか、遊び心みたいなものが見えてくる。(微妙なネタバレなので一応反転させます)

1 バラバラにすることで、特徴的な殺害方法を印象付け、同一犯と誤認させるため
2 バラバラにすることで、死体の身体の一部特徴を目立たなくさせるため
3 バラバラにすることで、死体を発見させやすくし、世間を別の目的で騒がせるため
4 バラバラにすることで、死体を軽くして、持ち運びしやすくするため
5 バラバラにすることで、別の被害者と誤認させるため
6 バラバラにすることで、死体でないものを、死体のパーツとして印象づけるため
7 バラバラにすることで、被害者であることを印象づけるため
8 バラバラにすることで、殺人の順番を誤認させるため
9 バラバラにすることで、今までの物語をバラバラにしてしまうため

とまあ「バラバラ」は同じながら、西澤氏が日夜腐心していると思しき「本格ミステリの骨格」については、変化がきちんとつけられていることが分かる。推理方法も、事件を様々な角度から分解、構成、要素を加えたり引いたり再結合したり、あくまで登場人物のロジックのやり取りによって解決されるあたりも後のシリーズに通じており、興味深い。骨格に凝り、犯人の心理に凝り、状況に凝る。やややりすぎと思われる部分もあるが、これが西澤保彦の原点だろう。最終話、連作短編の締めについては、「それまでの作品の中に伏線があった」ではなく「それまでの作品を強引に下敷きにした」かたちになってしまっており、整理が今ひとつのままごちゃごちゃし過ぎてそれまでの興が却って削がれるようにも思う。勇み足かな。

タックもタカチもボアン先輩にしても、シリーズでずっと追うことで後の性格づけを知っているため、本作を後読みすれば「あ〜なるほど」と頷ける描写が多い。これはいい。ただ、最初にあたる本書だけで彼らの性格を深く知るのはちょっと無理でした。道理でトリックの記憶はあっても、キャラクタとしての彼らの記憶が抜け落ちているわけだ。そうか、卒業までにボアン先輩は誰かと同棲するわけか……。タカチとタックは結ばれないのかな、しかし。いやいや、この時期に単にタカチが海外留学してるとかで、この後実は……とか。(こういうところが再読の楽しみではある)


01/08/03
島田一男「社会部記者」(双葉文庫'95)

双葉文庫の例の黒い背表紙の……日本推理小説協会賞受賞作全集の6。'51年第4回日本探偵作家クラブ賞の短編部門を「社会部記者」(別題「午前零時の出獄」)その他にて受賞したもの。表題作は'50年の「週刊朝日増刊」に発表された。(他の作品は『宝石』他に発表) この回の長篇賞は大下宇陀児の『石の下の記録』である。

ヤクザの片腕分を誤って殺してしまった男。彼は出獄した瞬間に報復されることを恐れ、獄内で暴力行為を繰り返していた。彼の真っ直ぐな性分を知る刑務所長と新聞記者は、彼を救おうと工作、深夜に出獄させた上、新聞社が保護するようという計画を立てた 『午前零時の出獄』
商業美術専門学校の写真研究所の火事。女子学生の焼死体が発見された。東京日報は乱れた男女関係や、遺体の状況から他殺と判断して報道するが、肝心の決め手を欠いた 『遊軍記者』
劇団「奇面座」にて何者かが投稿してきた”狂人王国”という劇を上演することになる。その直前、作者と思しき人物から警告が送られたため、厳戒態勢の中での上演となるが意外な人物が殺される 『新聞記者』
仙石バレー団の扇情的な踊り子、仙石踏絵が東京に戻ってきた。社会部で彼女の噂をしていたところ当の彼女の死体が空飛ぶ風船にくくりつけられ、嘲笑うかのように目の前を飛んでいく 『風船魔』以上四編。

新聞社の持つ活気と勢い、威勢の良い会話と純粋な正義感が物語のテンポを高める
全ての作品が東京日報の社会部、北崎部長とその部下たちが中心となって、事件の通報、関連情報収集、記事の組立、さらに続報収集とめまぐるしく動き回る。時期的には朝鮮戦争の頃になるのだろうか。日本が太平洋戦争の傷跡を癒しつつ、再び勢いを取り戻しつつあった時代。その当時の世相が、そのまま物語内に反映されているかのように感じられた。と、いうのは一種漫才師の掛け合いのごとく部下と上司、同僚同士でぽんぽんと取り交わされる会話の妙。その中身には、戦前派ならではの倫理感覚や、当時の風俗事情が満ち溢れている。また、発生する事件そのものも、価値観が交錯する混沌とした当時を濃厚に反映している印象。 戦後日本のごみごみした雰囲気を余さず伝えるその時代性! が現在読むとかえって新鮮に感じられてならない。
さらにお仕着せでない自分なりの基準の「社会正義」を実現しようと末端の社員から会社のトップまでが同じ価値基準で動く爽快さ。自らの身体を張り、信念に燃えるその正義感は、後の一連の社会派が描く小難しい正義感とは明らかに違う。ごみごみして活気ある編集室の雰囲気や、社員同士のチームワーク、そして記者たちの連帯感……まるで往年の刑事ドラマの世界のよう。そのおかげで(受賞作品といえど)ミステリのトリックとしては漠然と瑕疵があったり、急ぎすぎたりしているように思えるものもあるのだが、ノリと雰囲気で押し切ってしまって文句を付けさせない。この年代、この時代が大きく後ろ盾になっている探偵小説なのだ、としみじみと思う。

「無職」と書いてヤクザ。「新宿」と書いてジュク。「上野」と書いてノガミ。略語もここまで来ればイヤらしさはない。島田氏は「捜査官」「鉄道公安官」「部長刑事」等々さまざまなシリーズを持っている。もちろんこの「社会部記者」のシリーズも他でも文庫化(春陽、天山等マイナーではあるけれど)されている。時代を念頭において読むのが吉。


01/08/02
多岐川恭「消せない女」(光文社文庫'86)

'64年頃に「東京スポーツ紙」他に連載、'65年に講談社ロマンブックス版として刊行されていた同題の作品が二十年の時を経て文庫化された作品。(まぁその文庫化からまた十五年経過して手に取っているんだけどさ) この前後、光文社では積極的に多岐川作品を文庫化しているが、内容が創元推理文庫の選集と重なっておらず、遅れてきた多岐川ファンとしては非常に助かる。

立派な体格と先見の明、そして幸運を兼ね備えた女実業家、鴨池徳子と、自称作曲家で無収入の鴨池信夫の夫婦。豪放磊落な徳子に対して、信夫は鬱屈した感情を持っていた。信夫は理想の恋人が出来たと主張、結婚するために徳子との離婚を申し入れても鼻で笑い飛ばされる。業を煮やした信夫は、偶然を装って徳子を殺そうとしたが、彼女の運に負け何度やってもまるでダメ。結局、ある人物の紹介により信夫は嶺という殺し屋を雇うことにする。徳子に雇われて、信夫の秘書を務めるケイはその話を聞きつけて信夫を止めようとするのだが、信夫はもちろん徳子も「自分が命を狙われているはずなどない」と全く耳を貸さない。ケイは自分に惚れている友人を助手にし、計画を阻止しようと、その殺し屋の周囲を探ってみる……。

シチュエーション・クライム・コメディ + 倒叙ミステリ
的の男』をお読みの方は上記あらすじで漠然と感じられたかもしれない。女性と男性が入れ替わっただけで、本書と『的の男』の作品シチュエーションは、実は酷似している。つまり、命を狙われつつも本人が全く気付かないうちに強運で助かってしまう人物と、その人物を殺そうとするその他の登場人物。更に、その計画を頼まれないのに阻止しようとする第三勢力まで加わって、本人が台風の目のごとくにのんびり構えている間に周囲で悲喜こもごもの人間模様が繰り広げられるという物語。一応は、倒叙形式のクライムストーリーという体裁なのだが、奇抜な殺害方法が出てくるわけでも、緻密な完全犯罪が描かれるわけでもない。主眼は「殺人実行」を巡っての周囲の人々のコミカルな感情の変化だろう。阻止を決意した女性秘書が殺し屋に心惹かれてみたり、勝手に彼女に惚れられていると勘違いし、恥ずかしい行為を繰り返す課長、二号を妻からあてがわれて嬉々としている首謀者、その首謀者もいつの間にか見放されているなどなど、「おいおい」という状況、人々の考え方の変化が次々と現れる。
しかし、多岐川恭は物語の流れを単に語るだけではない。登場人物をあちこちに動かしつつ「信夫の恋人とは果たして誰なのか?」という謎をきちんと引っ張っており(ただ明かし方はあっさりしすぎかな)、それに付随して登場人物の秘めたる思惑が次々と明らかにされてくる。そう意識させられないまま、「意外な真相」に驚く仕掛け。登場人物は大真面目なのに表面的にはどたばたコメディ。そしてミステリをミステリと意識させずに、きちんとミステリとして読ませる。 これら全て、円熟期にあった多岐川恭の構成の巧さと言えよう。

『的の男』と『消せない女』、どちらを復刊するか? と問われればやはり後に執筆された分、完成度の高い『的の男』ということになるだろうか。とはいえ、本書そのものの魅力が低いわけでは決してない。特に意外性満点の不思議な結末など、多岐川作品らしい人間への皮肉があちこち垣間見え、それもまた作品全体への印象を強めている。この光文社文庫版、古書店で比較的見るので、見掛けたら「買い」です。


01/08/01
東野圭吾「白夜行」(講談社'99)

秘密』が広末涼子主演で映画化されるなど、ここ数年で完全に人気作家としての地位を確立した感のある東野氏が、更にその名を高めた異色作品。'97年から'99年にかけ「小説すばる」誌に隔月連載された作品に大幅な加筆訂正が加えられて刊行された。

近鉄布施駅付近で質屋の店主、桐原洋介が殺された。彼は店を出た後、金を貸した先の未亡人、西本文代宅に寄り、そこを出た後に廃ビル内で刺し殺されていた。その未亡人にはアリバイがあり、彼女と交際していた男が疑われたが物証がないまま交通事故で死亡。続いてその未亡人もガス中毒で亡くなった。捜査にあたっていた刑事の笹垣は、質屋の店主の小学生の息子、亮司の暗い目と、未亡人の小学生の娘、雪穂の大人びた態度が妙に心に引っかかった……。
四年の時が過ぎた。西本雪穂は親戚宅に引き取られ、唐沢雪穂と名前を変えて私立精華女子学園中等部に通っていた。美しい彼女らは近隣の中学でも有名で、彼女の写真を盗み撮りし小遣い稼ぎをする生徒もいた。彼女らの同級生が何者かに襲われる事件が発生、雪穂とその友人、江利子が発見者となった……。
集文館高校に通う園村友彦は、桐原亮司に割の良いバイトがあると誘われマンションの一室へと赴く。彼らはそこにいた二人の女性にいつの間にか身体を提供させられていた。友彦は桐原の警告を無視し、その相手と密会を続けていたところ、ホテルの一室で彼女が突然死してしまった。パニックに陥った友彦は桐原に泣きつく……

昏い意志を持った種子たちは、闇夜に花開き、互いに相照らして白夜と為す
物語の冒頭の事件は語られている事件から類推するに昭和48年(1973年)。その時点より昭和最後期を経て、平成の世に至るまで時の流れと登場人物たちはリンクする。物語の一つ一つの舞台は、恐らく現在この『白夜行』を手に取る読者の過半数が知る時代を強く背景に意識させたものとなっている。事件、流行、マスコミ、風俗等々細部にわたって細やかなディティールが使用された結果、点在する物語の断片は読者の頭の中で線となって繋がり、あたかも昭和史を辿っているかのような印象が続く。
それほど勘の良くない読者でも、この物語は二人の天才的犯罪者の半生が描かれている物語であることは中盤までに気付くだろう。ただ彼らは、その時々で関わる第三者の視点を通して描写されるため、クライムストーリーにしては、一つ一つの事件は何が起きているのか、裏で何が行われたのか、については分かりにくくなっている。また、彼らの真情もほとんど描かれない。僅かに二人それぞれ題名に絡んだ台詞を吐くシーンがあり、そこに強烈な印象が残る。そしてまた「何かが行われ」てから「結果が発生」するまで、一拍置いてから描かれるせいか、犯罪者の持つ「悪意」そのものがダイレクトに伝わらない。かえって騙され続けている人々が結果的に幸せになっていたりすると、いったい彼らは何なのだろう? という疑問だけが募っていく。しかし、読み通すことで判った。

彼らは、平成の世を動かす昭和世代が持つ、「歪み」を一身に引き受けている。

本書における様々な犯罪には強く時代性が打ち出されている。動機は単純な金銭への欲望から、性犯罪まで。方法は、コンピューターソフト海賊版から、インサイダー取引まで。そして凶悪犯罪が多発する現在、世の中の乱れや人々のモラルの低下が謳われて久しい。しかし、その根っ子はいくらでも過去に遡って求めることが出来ることに気付かされる。悪意の花はいきなり開くのではない。どこかにその種子が撒かれ、いろいろなところに蕾が存在している。時代を通して培われた様々な負の感情が水となり、肥料となる。それを吸収して花開くこともあれば、蕾のままで枯れることもある。種子を撒いたのが誰か、は問題ではない。撒いたのも育てたのも「昭和」という歪みそのもの。特に登場する彼ら二人が持っていた種子の昏さは、最終章によってある意味はじめて明かされるだけに、どうしようもないやるせなさを感じる。彼らが夜に花開き、白夜を生きたことは、少なくとも彼ら自身が選んだ道ではない。

ほんの数年前まで私は東野圭吾氏は「器用」な作家だと思っていた。ここに来てそのイメージは崩壊しつつある。実に「凄い」作家なのだ。一口にミステリといっても様々な種類の作品があるのだが、そのどこに手を出しても一定どころか、非常に高い水準の作品を次々と打ち出してくる。いや、本書の持つ圧倒的な迫力は、ミステリのジャンルなど細かいことへのこだわりは微塵も感じられない。陳腐な言い方で恐縮だが、目を離せない作家であることは確かだろう。今が本当の旬。