MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


01/08/31
樹下太郎「初夏の雪」(双葉新書'74)

かって双葉社から刊行されていた新書のうちの一冊。『小説推理』及び『推理』という雑誌に'71年から'74年にかけて発表された短編がまとめられた作品集。副題が「怪奇ファンタジー」とあり、読む前から俄然期待が高まる。

出世を諦めた平凡なサラリーマン。ひょんなことから心の中で念じるだけで人を殺す能力を身につけてしまった。気に入らない部長を殺した彼は、会社を辞め人から仕事を請け負うようになる。 『殺人鬼』
執務中、急に外に飛び出していった課長。様子を訝しんだ事務職員が様子を見に行くと急に地震が。課長は五分前の地震などの災害を予知する能力を持っていた。ある地方の有力者が彼を雇い入れようとする。 『五分前』
人生の何よりも楽しい「夢」を見る達人が、様々な人々から蒐集した「夢」話の数々。 『夢の達人』
蒸発希望者のみで構成された謎の村に男は「旅人」としてやって来た。ある程度の若さを持つ男女数百名で構成された村は、全てが自由になり暮らしも保証されたこの世の天国。しかし特殊なルールがいくつか存在した。 『小さな村 1旅人』
その村に引き続き滞在する男は、村の奇妙なルールに接することになる。村の秘密に疑問を持ちつつも、男はそこでの暮らしを愛し始める。 『小さな村 2初夏』
その家にあった小さな窓。その部屋で仕事する作家が文章に詰まった時、部屋にいる何かが簡単な指示を作家に暗示し、作家はまたすらすらと続きが書けるようになる。 『窓』
山奥の会社の保養地で偶然にベランダに出ていた五人がひとだまを目撃した。彼らはそれを見なかったことにしようとするが、一人が他人に伝えたことから波紋がわき起こる。 『目撃者 ―五人がひとだまを見たのである』
交通事故死した部長がその前の晩に預けていった紙袋。中には一千万円の現金が入っていた。男はその現金に執着がなく、訪ねてきた部長の愛人だった女性に渡そうとするが……。 『欲望のない男』
出張で地方のバーに行った晩、ある会社の社長は謎の女性に「来年死ぬ」と予言される。もう一度彼女と会えば、その予言は解除されることから、同行した社員に彼女の行方を探らせるのだが……。 『遙かなる彼方』
「雪でも降ればいいな」と念じたところ初夏の東京に雪が降った。男は非常に優れた勘と、念じたことを思い通りに出来る力を持っており、それを利用したがる男のために時々その力を貸していた。 『初夏の雪』

想像以上の面白さ。勤め人の押さえつけられた虚しさが見せる束の間の夢
樹下太郎といえばサラリーマン小説である。自ら望まない出世ラインに乗せられた男の悲劇だとか、ソリの合わない上司とぶつかる憤りだとか、退屈な日常から逃避出来ない男の哀しさだとか、言葉にしてしまうと簡単だが、そのような現代でも見られるような平凡な光景を鮮やかに描き出すことに長けている作家である。もちろん初期に執筆されたミステリーも「謎」よりも、事件が引き起こす情感が重視された作品が多い。そんな樹下氏のサラリーマン小説のラインにありつつ、どこかしら変化が感じられる作品が集められている。ストレートのように見えつつ、打者の手もとで微妙に変化するスライダーのような。
やはり作品の主人公は圧倒的にサラリーマンが多い。ただ本作に登場するサラリーマンはひょんなことから特殊な能力を得たり、不思議な環境に投げ込まれたりする。退屈な日常を送る我々の願望を具現化させたかのような力、一種SFといっても良いような設定がサラリーマン小説に付け加えられるのだ。「思った通りに物事を運ぶ」「予知能力」「考えただけで殺人が出来る」……等々、日頃鬱屈した宮仕えをしている身には、(荒唐無稽ながらも) 羨ましい限りの能力。ただ、ここからスーパーマン小説には決してならないのが樹下流。彼らはそんな能力を持ちながら、あくまで勤め人たるくびきから逃れていないし、もちろん人類の正義のために戦ったりもしない。心と体に染みついた「小市民的考え方」からほんのちょっと逸脱し、そのスリルを味わうだけなのだ。それが大人の読者を安心させ、皮肉な結末やもの悲しいラストを引き立たせるのに役立っている。
最も印象に残ったのは『小さな村』の二作品。これは上記の「特殊な能力」を外部、即ち「村」の存在に置き換えたバリエーションなのだが、その村の設定が秀逸。外部から切り離され、快楽を貪る人々の描写にショックを受けつつも、その享楽を受け入れる主人公。それでも色々なことを考えざるを得ない小市民的な感覚が、村の楽園ぶりとの対比で鮮やかに描かれる。また村の秘密も解き明かされないため、この辺りを描いた三作目をぜひ読んでみたかった。

既に亡くなられてしまい、結局御存命のうちに樹下作品の再評価は事実上なされなかったことになる。しかし、この味わいは捨てがたい。勤め人がこの世に存在する限り、樹下作品の世界に共感する人は少なくないはず。これを勿体ないと言わずして、なんと言おう。


01/08/30
友成純一「黒魔館の惨劇」(天山出版/大陸書房'91)

内蔵感覚溢れるスプラッタ系統のホラー作品が身上の友成氏。本書はその系統を保ちつつ、正統派のホラー作品の様式を取り入れ、更に造詣が深い英国を舞台とすることで氏の作品の中でも比較的ホラー・エンターテインメントとして高い評価を得ている作品。

ロンドンの外れ、ハムステッドビレッジ。日本人とユダヤ人が多く住む高級住宅街のこの一帯に周囲よりは若干小さいが歴史有る小さな館があり、日本人専門の不動産業者の手で借り手が探されていた。大家はコーンウォールに住む貴族、ド・センタビー。整備も行き届き、由緒正しい家具や食器が備え付けられたこの館は物件を探す人々にとって格好の案件のように思えた。最初に越してきたのは商社勤務の夫と専業主婦の妻、そして一人息子の三人家族。五歳の息子、悟郎は屋敷内を遊び回るうちに、子供ながらにこの館に「何かいる」ことを感じ取っていた。最初は穏やかな徴候から始まる。椅子が独りでに動いたり、置物の向きが勝手に変わったり、目覚まし時計が急に鳴り出したり。だが、不審に思った家族は不動産屋に相談するが、業者が様子を見に来た間、屋敷には何も起こらない。そしてある日、夫が会社に出た後、残された妻子はキッチンでポルターガイストに遭遇、更にはかってこの館で行われた惨劇を幻視し、恐慌を来す……。

友成テイストはごくほんのり。正統派「館もの」の傑作ホラー作品。人気が高いのも頷ける
友成純一=スプラッタ系の猟奇残酷作品という図式が頭の中で出来上がっていた。即ち、あくまで友成作品の怖さというのは、supernaturalな要素が含まれていても内蔵が引きずり出され身体が切り刻まれるといった「想像するだけで痛い」ところから発するものであると。本作品、その考えをひっくり返すだけの力を持っている。
形式としては、呪われた館があって、引っ越してくる住人が次々と犠牲になる……という、ある意味ホラーとしては単純といっていいストーリー。 それを変則的な連作形式、すなわちいくつかの家族が味わう恐怖と、インターローグ代わりのその不動産を斡旋する業者の様子を交互に描くことで、一つ一つの物語における恐怖のポイントにしっかり頂点を迎えさせている。メリハリが利いており、読み進むのに全く飽きない。そして、登場する人物のほとんどを感情移入しやすい日本人としながらも、舞台をロンドンにとっているところも注目すべきだろう。幽霊屋敷の本場である英国、なんらかの形で訪れる日本人は定住の意志がないかぎり、基本的に「旅人」である。文化的背景や言葉の異なる日本人が感じるカルチャーギャップによる心細さに加えて、「家」という心の拠り所、帰るところを占拠されることによって味わう逃げ場の無い恐怖は通常の怪奇現象による恐ろしさを倍加していく。
また、それらに加えてイギリス文化に詳しい友成氏ならではの、その「館」において過去に発生した惨劇、及び現在に継続されている呪いの真相もまた鮮烈。特に実はロンドンの街にはほとんどアングロ・サクソンが見られない、それは何故か……というちょっとした文化論的な観察(おそらく、氏の実感ではないだろうか?) から派生させた大胆な発想も、ホラーとしての中身の濃さに繋がっている。
あくまでホラーであり、あくまで友成作品であるので、怖いし、生理的嫌悪を催すような表現そのものが無くなっているわけではない。本作がはじめて、という方なら、この描写のリアルさにショックを受けることだろう。しかし、他の作品を読んでいる人ならば「随分表現を抑えているな」と感じるはずだ。

発行日はさほど古くないが、古書的な人気も高いのは、マイナーノベルスであること以上に作品の面白さが喧伝されるからではないか。氏の本流、スプラッタとは個人的に相性があまり良くないので、読む度に「友成純一なんてもうこれっきり読むものか」と思うのだが、少なくともこの作品はアタリであった。国産正統派ホラーとして、きちんと評価されるべき作品だろう。


01/08/29
山村正夫「怪人くらやみ殿下」(ソノラマ文庫'75)

現在も続くソノラマ文庫の創刊は恐らくこの1975年。『宇宙戦艦ヤマト』(石津嵐著/豊田有恒原案)をシリーズナンバーの1に構え、SFと冒険小説を中心としたジュヴナイルが第一弾として十冊が刊行された。そのうちの一冊に堂堂と入っていた作品。遙か昔に絶版、現在は入手困難となっている。

友達の後藤昭一の誕生日パーティの帰り道、車で送ってもらう途中の敏彦。青山の絵画館のそばで車は謎の人物と衝突する。蒼冷める運転手。しかしはねられたはずの王様風の不思議な服装をしたその人物は笑いだし、駆け出してどこかに向かう。慌てて追った敏彦だったが、彼は近くに止めてあった「馬車」に飛び乗ると再びどこかに走り出した。御者が料金所の職員を脅し、馬車は高速道路に入っていく。敏彦の乗った車は後を追うが、トンネルに入ったきりその馬車は忽然と消え失せてしまった。同日夜、練馬区のガソリンスタンドを「ガソリン1リットル」を売って欲しいという謎の老人が訪れる。ピストルを突きつけられた店員の前で、少年はガソリンを口にくわえて飲み始めた。
後藤昭一の姉、久美子(つまり彼女は「後藤久美子」)は中等部のテニスの優秀な選手だった。練習の終わった彼女を上品な外国人女性が、王子のテニスの相手をして欲しいとスカウトする。誘いに乗った久美子は車に乗ってしばらく、気を失ってしまう。彼女は実は、夜の王国のくらやみ殿下のお后として選ばれたらしい。久美子を拉致したまま、くらやみ殿下は後藤家に対し、代々伝わっている宝石つき黄金の王冠を要求する。しかもその品物を渡したとして娘が帰る保証はない……。

ひたすら怪しい浪漫の薫り。「乱歩型ジュヴナイル」の直系
なんたって「くらやみ殿下」である。グロテスクな表紙絵は小さい子供が見たら夢に見そうな迫力。また「くらやみ」が「暗闇」でなく「くらやみ」なのがいい。分かりやすい。そして、わざわざ主人公の少年の注意を惹くような登場方法が素晴らしい。突っ立っていたら衝突するのは分かるだろうに、走行中の自動車の前に立ちはだかるくらやみ殿下。はね飛ばされても全くダメージを受けず、何がおかしいのか肩を震わせて笑っている。骸骨の顔を持ち、いわゆる王子様の服装を身に纏いガソリンを食事がわりに1リットル飲み、金貨を主食とする。なんといっても彼は「夜の王国」のプリンス様なのだ。常人と違って当たり前。髑髏のマークのついた馬車に乗り、追跡する自動車をぶっち切るスピードで人々を(さしたる意味なく)脅かす。さらに馬車のまま高速道路を突っ走って、突如消え失せてみたり、宙に浮かび上がったりする。迫り来るせむし男と能面男、変貌する美女、わざわざ緑色をした盗聴用カブトムシ。すごいでしょ。一部の「すごい」には合理的な説明がつけられるのだが、それも無くても全く支障はなかったと思われる。だって他の「すごい」があまりにも凄いから。
それにしても、明らかに乱歩少年物がお手本のジュヴナイルなのだが、執筆年代が近年に近い分、かなり背景だとか、設定だとかに制約がある感じがする。「くらやみ殿下」の存在について歴史的背景を踏まえてきちんと説明しようとしていたり(あまりの荒唐無稽な存在は許されないのだろう)、正義の味方が万能でなくなっていたり(そうそう武器を振り回すわけにはいかないのだろう)、少年自身の行動にあまり無謀や無茶がなくなっていたり(曲技紛いの冒険をする少年なんて現実にはいないだろうし、あまり無茶を推奨するとPTAから苦情が出るとか?)……。結局のところ、戦前から戦後、そして現代に近づくにつれ、同じ東京を舞台にしていても「怪しい闇」の存在を読者のすぐ隣に設定出来なくなって来ているということか。夜の闇が明るく照らされ、子供に対しても様々な情報が流れ込む現在、このような不可思議な賊を相手にする「乱歩型ジュヴナイル」の成立はこの当時より更に制約が進むだろうことは想像に難くない。

現在、大人が入手して読む分にはこの「荒唐無稽さ」が最高に面白い作品。物語そのものは「おいおい」な設定が連続することを除けば、基本的に一本の筋が通った冒険小説。考えようによっては、後に筆者が執筆した一連のユーモアミステリに「トンデモ」な部分での共通の思想が感じられる。


01/08/28
鳴海 章「ナイト・ダンサー」(講談社文庫'94)

1991年、第37回江戸川乱歩賞受賞作品。航空サスペンスorアクションという異色の作風はとにかく、本書が乱歩賞を受賞したこと自体を驚く方が多かった。鳴海氏は、戦闘機パイロット「ゼロ」を主人公とする「ゼロシリーズ」等、本書と同じく軍事・航空アクション系の作品を多く発表し、近年は仮想戦記も手がけている模様。

貨物室が強引に閉じられたアンカレジ行きM航空の旅客機61便には、N化学工業の中央研究所に勤務する神部と部下の西原佐和子が乗り込んでいた。神部は研究所で開発したアルミ合金を侵食するNC90Y菌を極秘裏に米国に輸送するためにスーツケースに入れていたが、羽田の荷物検査を怖れ、鉛のケースから取り出していた。離陸後、貨物室の気圧が低下、空気漏れのために荷物が壊れ、NC90Y菌が機内に漏れ、エンジンや油圧系統に大きな被害を与え始めた。61便は千歳空港へ引き返すことを決める。一方、米国では女性大統領を中心にある陰謀が進行しており、その結果出された指令により、米海軍のF−14戦闘機が61便を撃墜すべく公海上を追ってきていた。旅客機と、その米軍機を捉えたレーダー哨戒機がミサイル攻撃を受けたが、折しも61便を保護すべく離陸していた自衛隊機の好判断によりミサイルを撃墜、最初の危機は回避された。米国はどうしても61便を消滅させようとしており、謎の戦闘機”ナイト・ダンサー”に撃墜の指令を送る。果たして”ナイト・ダンサー”の正体とは?

濃密かつスリリングな戦闘機アクション。純粋さゆえの美しさ(ヤバイ?)
本文庫の解説でもちらりと触れられていることなのだが、この物語の密度は非常に濃い。事実上、中心となる旅客機が離陸して、異常に気が付いて、引き返すまでの時間が一冊のミステリなのだから。その濃さの主たる要因は細やかすぎる登場する兵器とそれを操縦する人間の描写、及びその戦いの細やかな描写にある。
本書はミステリとしての「謎」→「解決」の構造はほとんど持っていない。とにかく色々な形での「戦い」が次々と発生し、それが二転三転する。極端な話、「その戦いはどちらが勝つのか?」という興味を連続させることで物語全体の構成が支えられている。その構成ゆえ、当然一つ一つの「戦い」について丁寧に語る必要が生じる。まずは武器や背景。一般には馴染みの薄い旅客機や戦闘機の操縦、自衛隊の役割、戦闘ヘリの構造、ミサイルやバルカン砲などの武器、潜水艦……等々、それぞれがどのような「力」を持ち、どのような「役割」を果たすのか。分からない人にはイメージが浮かぶところまで、作者は事細やかに描写していく。(戦闘機の名前が出れば、少なくともそのフォルムくらいなら私の場合は頭に浮かぶんだが) そしてその「戦い」も同様。何が勝負のポイントなのか、どこが勝敗を分けるのか。それらがきっちりと描写され読者の頭の中にコックピットが浮かぶ時、はじめて物語は血肉をもって読者に迫ることになる。
その点に関して『ナイト・ダンサー』は十二分に語られているといって良い。数値や説明を多用することで裏打ちされるリアリズム。そして戦闘機等を自由に扱うことで、メカと身体精神とも一体化している登場人物。登場人物=戦闘機(か、他の乗り物)といって良い。その結果、戦闘機の戦いは武器を持った人間同士の戦いとなり、戦闘機が旅客機を狙うのも人間が別の人間を狙撃するといった印象に置き換わっていく。そうして、兵器と兵器の戦いのはずが、気付けば生身の人間同士の魂のぶつかり合いへと純化しているように感じられるのだ。私はこれを美しいと感じた。いけないことなのだろうか?
ちょっとしたアイデアや、ほんのちょっとした過ちが生死を分ける世界。緊張感に心臓を掴まれたまま、物語はクライマックスへと繋がっていく。登場人物同様、読者も最後まで息の抜けない作品である。

本書は刊行直後に読んでおり、今回が再読。だが、面白さの質が本格ミステリとは異なるためか、二回目であっても充分楽しめた。但し、この手の「兵器を駆る男たちの命がけの戦い」を主題とした作品の面白さというのは、感じる人と感じない人の差が非常に大きい。ということでやはり「この手」の作品に興味ある人向けかも。


01/08/27
篠田節子「斎藤家の核弾頭」(朝日文庫'99)

女たちのジハード』で第117回直木賞を受賞するなど華々しい活躍が続く篠田節子さん。彼女の作風は幻想小説やホラー、ミステリなど多岐にわたるエンターテインメント作品で、ジャンル分類を拒むような作品が多い。本書はそれらとはまた別の作風であり、この作家の懐の深さを思い知らされる。'97年に朝日新聞社より刊行された作品が文庫化されたもの。

2075年、東京。市民はその頭脳等により厳しい格付けがなされた国家主義カースト制度の管理下にあり、産児制限など様々な市民の義務が課せられていた。また様々な分野で機械化が進み、市民の仕事はそれらに奪われる形で減らされていく。特A級にランクされる斎藤総一郎もそのとばっちりを受け、裁判官の仕事を喪った。斎藤一家は代々東京に住む由緒正しい一家。二百階を超える高層アパート群に囲まれながらも、一家十人、三十坪の古い二階建の家に住み続けてきた。特A級の市民の義務に従い、せっせと子造りに励んだ結果、斎藤家は五人の子供が生まれ、更に妻の美和子はもう一人をお腹の中に抱えていた。子供の一人、小夜子は見た目は三ヶ月の乳児のまま身体だけが大きくなる異常を持ち、四世代が同居するストレスに美和子が爆発寸前。しかし総一郎はあまり気に留めてくれない。目下のところ、高度土地収用法に基づいて立ち退きを迫る役人を毎日撃退するのが大変だからだ。しかし改築もままならない家の二階が床が抜けるに及び、彼らは国家の謀略もあり引っ越しを余儀なくされてしまう。

夫婦の絆とは、家族の絆とは何かを問う、人間風刺近未来SFコメディ家族小説
題名や副題から想像出来るように「未来社会の一家族が自分の「家」を守るために、核武装して日本政府と戦う」作品であり、ストーリーを追っていくだけでも十二分に面白いエンターテインメント小説である。とはいっても、そこは篠田節子さんのこと、その物語を通してさまざまな現代日本の光景を想起させる情景を交えて、極めてメッセージ性の高い作品にも仕上げている。多分、角度によって、読者によって様々な読み方が出来る作品なのは間違いないし、作者も受け取りたいように受け取って、とちょっと突き放している部分もみえる。
まずは何よりも、五人の子供の母親であり、更に妊娠中という美和子の視点だろう。彼女の冷めた視線が夫の総一郎が振りかざす「家父長制度」のアホらしさを浮き彫りにする。彼女だけでなく総一郎の母親の孝子、総一郎の愛人のレサなど、一様に彼女らは「一家の長」「男性の役割」を過剰に守ろうとする男性陣に身体は従いつつ、内心で強く反発している。彼女らが忍従を止め、叛乱を起こした時の男性のうろたえぶりには(男性としては)身をつまされるものがある。(同時に女性なら喝采するかもしれないな)
また、大義名分に流されやすい男性と、身の丈の安全や幸福を重視する女性の考え方のベースの対比、男性としての優位を必死で守ろうとする夫の醜さ、結婚した妻、母親となった妻を「一個の人間」として認めない夫の態度、プライドを拠り所とするしかない男の哀れな姿といった夫婦・ジェンダーの孕む問題が多数登場する。更に、世代間同居のストレス、裁判の長期化問題、行政への無関心の怖さや、効率主義的官僚主義の皮肉、当事者にならなければ分からない土地収用法の問題、環境や土地・住宅の問題等々、世代間の問題や社会的問題もさりげなく問題提起している。だが、あまり押しつけがましさは感じない。このあたりのさりげなさがめちゃ巧い。
ただあくまで物語の核となるのは「家族」である。(総一郎がそう思っていないところが哀しいが) 次々と対面する困難な事態を通じ、夫婦の在り方、家族の在り方について何度も何度も考えさせられる。現代に通じる様々な事柄をカリカチュアし、タッチはユーモアに溢れているのにメッセージは深刻。考えてみれば凄い小説だ。

一番凄いのは、どんなテーマで物語が進められても「篠田節」たるエンターテインメント性が必ず健在なこと。普通、これだけいろんなことを語ろうとすれば説教じみたり、物語から浮いたりしそうなものなのに、しっかりストーリーに組み込まれており、しっとりと馴染んでいる点に注目すべきだろう。大作ながら一気に読ませる作品。朝日文庫という叢書がエンターテインメントを売るには地味な文庫である点が最大の敵かも。(補足:新潮文庫にて再刊された模様)


01/08/26
多岐川恭「黒い木の葉」(河出書房新社'59)

多岐川氏が「白家太郎」名義で発表したデビュー作品『みかん山』などを含む、直木賞受賞の『落ちる』に続く二冊目の短編集。後に春陽文庫で同題の作品集も刊行されているが、『雲がくれ観音』はその版では割愛されている。

みかん山に住む美しい早苗さんを巡って高校生の友人たちの間に葛藤が。その一人、矢坂が一本道のみかん山へ向かってきた途中、早苗さんの家の前で刺殺死体となっているのが発見される。早苗さんの兄の笹野が疑われたが…… 『みかん山』
満員の映画館で中年男が背中を刺され死亡。目撃者はなく、彼が遊びで言い寄っていた映画館の雑用をする娘の父親が容疑者となった。 『黄いろい道しるべ』
炭坑の街で役立たずの老人が縊死した。巡査は彼の娘で食事を運んでいた主婦に目を付けるが凶器と思われる赤い紐は見つからない。 『澄んだ目』
入院している少女の元へ通う男の子。少女の母親は大学教授夫人、少年の父親はアル中の画家でかって恋仲だったことから、少年の訪問は禁じられた。しかし二人は木の葉を合図に密会を続けていたのだが、ある日少女が絞殺されてしまう。 『黒い木の葉』
旧制高校に浪人して入ったぼく。南寮には親分格の二人がいた。一人は体力抜群の大林、もう一人は引き締まった榊原。二人の仲は良かったが、いくつかの事件を経て二人の仲が徐々に険悪になって行き、特に大林は孤独を託つようになる。 『ライバル』
かって仕事で蹴落とした則之の持つ山奥の山荘に招かれた茂。そこには四人の先客がいた。彼らは人生に苦しみながら、自分で死ぬのが嫌だという自殺志願者で、則之は彼らの願いを叶えるという。茂は則之も自分に殺意を抱いているのでは、と警戒する。 『おれは死なない』
戯曲形式。江戸からほど遠からぬ小藩。純金製の仏像が自慢の法灯寺で、和尚が茶屋の女、お雪としっぽりしている間にその仏像が盗まれた。和尚が居ぬ間にお雪は和尚の部屋に隠された宝を忍んで来た男に手渡す。奉行の花本は徹底捜査を命じた後、一人になると女性を招き入れる。それはまたお雪であった。 『雲がくれ観音』以上八編。

ノスタルジーがかき立てられる……ほのかな叙情と特異な試みの詰まった短編集
『落ちる』と前後して刊行されたごく初期に執筆された第二作品集ということになるのだが、前作とは作者まで違うのではないだろうか、と疑いたくなるくらいに作品集全体から受ける印象が異なる。なぜだろう、と考えているうちに思い当たることがあった。特に前半部分、物語の鍵となる登場人物が全体的に若いのである。旧制高校生や、少年少女がそれぞれの作品に登場、今となっては昔の四十〜五十年近く前に生きていた若者の姿が物語で大きな意味を持っているものが多い。その「若さ」は物語全体を瑞々しくさせると同時に、今は喪われたほのかなノスタルジーを薫りだたせているように思える。旧制高校の青春を描く『ライバル』でその感はピークに達する。但し『ライバル』そのものはミステリというより、若さゆえの嫉妬や悩みが色濃く反映された青春小説といった内容だが。 全体的に多岐川恭の描く若さには、不思議な翳りが見え隠れするようだ。不幸とか幸福とかその彼らが置かれた境遇と関係なく、自らの未来に対する不安のようなもの。それが、物語の登場人物の、そして物語そのものの厚みを作る要因となっている。
一方、後半の二作品は「怪作」と名付けたくなる作品。まず『おれは死なない』は、このシチュエーションだけで一本勝ち。後進ならば赤川次郎とかこんな作品を書きそうな感じ。自殺志願者と、彼らを知らず殺害する役目を負った男が存在する中に飛び込んだ主人公。「自分も殺されるのでは」という疑心暗鬼と皮肉とが結実したオチが巧い。後に発表される長編作品群にも繋がる「奇妙な味わい」を持つ短編。 そして文庫版には収録されていないという『雲がくれ観音』これは戯曲形式が示す通り、舞台劇を見ているかの印象。そしてその中で徐々に本性を現す美女の様子が変遷していく様がたまらなく面白い。ミステリのネタとしては大したものではないながら「見せ方」という演出で魅せてくれる。

創元推理文庫版の『落ちる』には、『落ちる』本来の作品に加えて本書から『みかん山』『黒い木の葉』が採用されている。だが、それ以外でも充分に現代でも通用する試みがあって面白い作品が揃う。……多岐川恭の更なる再評価が待たれることを痛感。そうだ! 「ふしぎ文学館」で多岐川恭未刊行作品を含む短編集を作るというのはどうでしょう? <誰に向かって言っている?


01/08/25
戸松淳矩「名探偵は九回裏に謎を解く」(ソノラマ文庫'80)

かって謎宮会で「隠れたジュヴナイル本格ミステリ」として取り上げられたことで一部で高い評価を受けたのが戸松氏のデビュー作『名探偵は千秋楽に謎を解く』。本書はそれに続くソノラマ文庫第二弾で、題名が暗示する通り、第一作に続くキャラクタが活躍するミステリ。

十月に入り、両国の明和学園高校にヒョータンのような体型の男、鳴門が転校してきた。野球部に入ろうとする彼を枝川、筒井、オレの三人は「向いていない」と引き止める。しかし鳴門は実はかって大阪の名門野球部でレギュラー投手という経歴の持ち主だった。かって名門だった明和学園野球部も現在では鳴かず飛ばずの状態で、街の野球好きのオヤジたちもやきもきしており、秋期予選の始まらんとする時期、鳴門は大いに期待された。しかし、この頃から街に不思議な事件が発生しはじめた。野球部コーチの熊さんこと熊田の車が暴走し、更に茶席で毒を飲まされたりしてどうも命を狙われているらしいと噂になる。また鳴門の姉が所属するバトン部の部室では爆弾騒ぎ。犯人の要求は「熊さんを野球部コーチから外せ」というもの。探偵役のオレたちとしては謎を解くしかない、ということで学校の隣の寺の和尚や、気っ風のいい姉さんで熊田コーチの恋人千代恵さんらとともに大捜査を開始するが、犯人の脅迫はエスカレートしていく。

事件の度に大騒ぎ! 下町を揺るがす連続事件の意外な真相とは?
本書、というより戸松淳矩については戸田和光氏による謎宮会98年3月号ご町内ミステリ讃歌 −戸松淳矩の世界−という優れた評論があるので、そちらを御覧になる方が良いのではないだろうか――。

とも言っていられないので、フク的な評も付け加えたい。
ジュヴナイルの「本格ミステリ」として評価すべき……、という印象。主人公というか語り手は高校生三人組の一人であるのだが、町内の酒屋から米屋、議員から和尚、芸者の姐さんまで様々な人物が登場する。それぞれの人物が独特なユーモアタッチのもとに描かれながらも無責任な憶測を飛ばしていく。この結果ワトソンいっぱいの集団キャラクタ推理という印象となっている。これが「ご町内ミステリ」たる所以だろう。事件も「身の危険」こそ感じられるが、殺人どころか人は傷つかないものばかり。そして、それぞれの事件の標的や目的がよく分からない……のがミステリとしてのポイント。つまりWhy done it? がメインとなっているのだ。ジュヴナイルミステリとして、物語タッチと事件の深刻さのレベルが絶妙にマッチしており、登場人物全体が走り回った結果、本当に「九回裏」に謎が解かれるという趣向。特に「九回裏」というタイムリミットが単なる題名の修辞でなく、意味を為しているところが嬉しい。様々な事件も、ある人物の「謎解き」の結果、伏線が回収されて収まるところに収まると綺麗に環が閉じる。どたばたしたユーモアタッチであっても、本格ミステリとしての手順がきちんと押さえられた、実は端整な骨格を持つ。 事件の度に野次馬登場人物が「わーーーーーーっ!」と大騒ぎする賑やかさが、実は最大の煙幕なのかもしれない。個人的には「実力有るピッチャーが、なぜ不可解な打たれ方を続けたのか?」という漠然とした謎に対する答え(答えになってないかも)が気に入った。

ただ注文もいくつかある。「Aという行動」の後に「A」を説明するような場面転換が頻発され、読んでいて状況をつかみにくい。また同様に、構成だけでなくちょっとした文章も普通に書けばいいものを、同様に「行動」→「理由」の順に独白調にしているところも気になる。個人的に一番気になったなのは犯人の一連の事件の動機……が、ちょっとどうかな、という点。ネタバレ反転(個人的に病気ネタが嫌いということもあるが、コレラの治療で同じ病院に入院していた ← コレラがうつるような行為 ← 売春 という理由は短絡的に過ぎないか? 確かにあり得ない話ではないが、コレラは経口感染だし可能性は高いとはいえ、性行為そのもので感染する病気ではないはずだ。いくらジュヴナイルとはいえ(ジュヴナイルだからこそ)、このあたりは慎重に扱ってもらいたいもの) 折角明るく楽しい「ご町内ミステリ」であったのに、急に生々しい理由が登場した瞬間、その読感が大いに傷つけられてしまった。

戸松氏は本書と『千秋楽』の他は、単行本化されていない短編、長編が一本あるのみ。一作で印象を語るのはちょっとツライかな。『千秋楽』の方が評価が高いようなので、そちらも読んでみたい。


01/08/24
福井晴敏「Twelve Y.O」(講談社文庫'01)

1998年、第44回江戸川乱歩賞を受賞した作品。池井戸潤氏の『果つる底なき』が同時受賞。さらに福井氏は第二作にあたる『亡国のイージス』にて第2回大藪春彦賞、第18回日本冒険小説協会大賞、第53回日本推理作家協会賞長編賞のトリプル受賞を果たすなど、一気に人気作家への地位を駆け上った感がある。

沖縄から米軍の海兵隊の大部隊が撤退した。一人の男が最強のコンピューターウイルス「アポトーシスII」と人間兵器「ウルマ」を使って米国国防総省を脅迫、勝利したのだ。彼こそ「トゥエルブ」と呼ばれる男。全世界を転覆させる「BB文書」によって身を保証されている彼は、その撤退に飽きたらず次の要求を繰り出す。一方、自衛隊の勧誘の仕事についている平は入隊手続きをしながら、当日顔を見せなかった少年を追って上野の街に現れた。平はかって自衛隊内部に極秘裏に設立された「海兵旅団」の優秀なヘリパイロットだったが、事故をきっかけに操縦が出来なくなり落魄れていた。酒場にいた少年たちは説得に来た平に逆に襲いかかり、反撃虚しく彼は一方的暴力に晒される。そんな彼を救ったのが東馬という元自衛隊エリートと、彼に付き従う謎の少女、理沙だった。平は翌日、自衛隊の特殊な任務につく男らに拉致され「トゥエルブ」を釣る罠に協力して欲しいと要請される。東馬こそ在日米軍を震撼させる男「トゥエルブ」だったのだ。

日本人の弛緩した魂に冷水を。圧倒的迫力の「超」現代版軍事スリラー
現在はそういう呼び方そのものが絶滅している(冒険小説リーグはあまり詳しくない)ようだが、かって「ハイテク軍事スリラー」という言葉があった。トム・クランシーがその代表で、多分1980年代後半に発表された『レッド・オクトーバーを追え』だとか『レッド・ストーム作戦発動』あたりを評してつけられたのだと思う。本書を通読してのイメージも似ていた。しかし軍事や外交の虚実をフィクション化する部分に手を抜いているわけではないに関わらず、主人公らの生き様に鮮烈な印象を感じる作品となっている。
本書の主人公は、元自衛隊のエリート、脇を固めるのも現役もしくはかっての選りすぐりの兵士たち。冒頭から軍事専門用語が飛び交うことために主題が多少見えにくいが、物語の根っ子には米国や日本を転覆させられる程の大いなる機密事項がある。そして、たびたび登場する最新型の兵器や戦略・戦術システムが物語をかなり深く「黒光り」(フクの造語:軍や軍事にまつわる「詳細な」事項が物語に組み込まれること、もしくは組み込まれる必要性があること)させている。メカニックや戦い、謀略等が中心となるストーリーの中に、通常の意味での「事件」−「解決」のミステリーはない。物語全体が「事件」であり、例えばトゥエルブの握るBB文書とは? とか「GUSOHの門」とは? といった細かな謎よりも「トゥエルブ」は果たしてどのような運命を辿るのか、という物語の流れが「謎」となっている。そしてその「謎」を読者に追わせるための展開のテンポが良い。アクションがあり、束の間の休息がある。冷酷な人物の対極に人情がある。
後半……というより本書最大のクライマックス、圧倒的な戦力に対して、知力とアイデア、優れた身体能力で対抗する「トゥエルブ」らの戦いがすごい。この迫力は下手な映画を遙かに超えるインパクトがある。深夜に立ち上る火柱から、爆発する橋や火薬庫など頭の中でハリウッド的映像が次々と浮かんだ。こういったアクションシーンに関しての描写力は新人離れしている。これは今後、冒険小説を執筆していくのに大きな武器となる要素だろう。

本人もかなりの軍事オタク? でなければこの作品は生まれでなかっただろう。本作が乱歩賞、というのもまたミステリーの懐の広さを感じさせる出来事だと思う。軍事ミリタリ関連のフィクションがお好きな方なら嵌ること請け合い。(個人的には同じ乱歩賞の異色作品、鳴海章の『ナイト・ダンサー』を読み返したくなってきました……)


01/08/23
篠田真由美「センティメンタル・ブルー」(講談社ノベルス'01)

建築探偵「桜井京介」シリーズの重要なサブキャラクタ、蒼(本編では別の名前で登場する作品も有り)が主人公を務める四編から成る中編集。副題もその名の通り「蒼の四つの冒険」。

11歳の蒼。世の中に怯え暮らす彼は日課の散歩の過程で一人の女性と知り合う。奈々江さん、六十七歳。大きな屋敷に犬と共に暮らす彼女と仲良くなった蒼は、彼女が過去について語るのを聞く。フィクションだというその話だったが、蒼はその話の裏面の真実に気付き、自ら行動を起こす。 『ブルー ハート、ブルー スカイ』「BLUE HEART, BLUE SKY」
高校に編入した蒼。毎朝屋上で落ち合う友人、翳と仲良くなる。蒼の通う向陵高校は進学校。ある日の早朝から校内に「BEELZEBUB」と落書きされる事件が発生、徐々にその内容はエスカレートする。この事件の背景には大学紛争時代にこの学校で起きた学園闘争の影があった。 『ベルゼブブ』「BEELZEBUB ONE DAY OF THEIR HIGH SCHOOL LIFE」
同じく高校生の蒼。陽気な友人、坂本広尾はインターネットで知り合ったEmiという女性と親しくなり、校内でも話題になる。事情からEmiはゲリラ的なミステリ劇を学園祭で行う計画があり、それを事前に見て欲しいという。坂本は蒼にEmiの学校に同行するよう求める。 『ダイイングメッセージ《Y》』「DYING MESSAGE 《Y》」
大学生になった蒼。久々に会った翳らと観劇に出た蒼の前を鷺沼蓉が過る。酔った勢いで蒼の過去を聞きたがる翳。そして蒼のマンションを突如訪問してきた坂本。彼は歌舞伎町でEmiそっくりの女性が歩いていたという。折しも歌舞伎町では連続通り魔事件が発生していた。 『センティメンタル・ブルー』「SENTIMENTAL BLUE」以上四編。

「キャラ萌え作品」で切り捨てるには惜しい。青春ミステリとしてきちんと評価したい
実際に確かめたわけではないし、確かめにくいことなのだが、篠田さんの「建築探偵 桜井京介」シリーズを熱狂的に支持しているのは、コアの本格ミステリファンよりも、「不愛想で偏屈、但しぼさぼさの髪の下には超美形」の桜井京介をはじめとするキャラクタに萌えるファン――なのではないだろうか。いわゆる同人系の心をくすぐるようなエピソードや、登場人物配置については多少確信犯的に篠田さんが行っているような気もする。そのシリーズの京介に続く重要な「萌え」キャラ、蒼が主人公を務める中編集ともなれば、手に取られる前から「キャラ萌え」ミステリと思われてしまうのも仕方ない。
しかし、ちょっと待って欲しい。このシリーズ、そういった要素があるけれどももう一つ重要な要素が意外ときっちり込められていることを忘れてないだろうか。そう「ミステリ」。このシリーズ、あまり強調されないが、ミステリとして優れた作品が多いのだ。
立ち返って本書の四つの作品、全てがその「ミステリ」という意味だけで優れているとは言わない。でも、別の意味で優れているように感じる。 蒼の成長と、更に絡められる別のいくつものテーマの豊かさが物語の中で醸成されることで、一つ一つがミステリ短編としての深い味わいを持つ作品となっているのだ。 蒼の孤独と優しさが、友達となった女性の家庭を救う『ブルー ハート、ブルー スカイ』をプロローグとし、「薬師寺香澄」の名で高校に通う蒼が、自己を確立しつつ、友人のために奔走する二編を経て、本書の総まとめ、かつ篠田流憑物落とし『センティメンタル・ブルー』至るまで、男の子が少年となり、更に他人の心の痛みを理解する優しい青年へと成長していく姿がしっかり描かれる。また登場する友人たちの個性もまたしっかりしており、彼らとの若さがにじむ関係などのエピソードも良い感じ。うまく語り手をずらすことで「蒼」という人物の変化が立体化させられていく演出も憎く、(照れ臭いが)「青春」の日々を作品内部に見事に取り入れ、かつそれぞれのミステリと結びついていわゆる「青春ミステリ」としての光を得ている。

特に印象的なのは『ベルゼブブ』。悪魔の名前を冠したこの作品は、若者の理性と野性、大人世界との関係性を寓話にしたゴールディングの傑作、『蠅の王』が強いモチーフとなっている。謎解きという意味だけで取れば優れた作品とはいえないかもしれないが、この時期の高校生の持つ多様な感性――子供っぽい屁理屈や逃避、大人顔負けの謀略、親の威を借る無神経等々――がいくつも混じり合った結果発生する複数の事件が、ラストに一気に収斂していく緊張感が素晴らしい。それらの謎が一つの象徴的な建物の中で瓦解していき、最後に感じられる爽やかさなど「青春ミステリ」でしか表現し得ないものだろう。

雑誌掲載が主体となりがちな近年の短編集には珍しく、講談社文庫オリジナルアンソロジー『「Y」の悲劇』にかって収録されたことのある『ダイイングメッセージ《Y》』を除いた三編が全て書き下ろし。特に建築探偵シリーズを知らなくとも読める内容ではあるが、やはりシリーズを知る方が物語世界に入りやすいこともまた事実。シリーズものは中間の一作品のみ読め、としにくいところが難しい。


01/08/22
山崎洋子「花園の迷宮」(講談社文庫'89)

1986年(昭和61年)第32回の江戸川乱歩賞を受賞した作品。'88年には島田陽子らが主演して映画化もされた。山崎さんはこの後も著作を重ねているが、徐々にミステリの分野から離れていった模様である。

昭和七年。浅草の演芸ホールで一人の男が刺殺された。被害者は「天満団」という反政府グループの集合場所を暗示する紙切れを持っていた。特高警察によりメンバーは一網打尽にされるが資金を持った二人は依然行方を眩ましていた……
横浜の公娼街、真金町。娼家の「福寿」に二人の少女が売られてきた。若狭から出てきた友達同士、美津とふみ。既に十八歳になっていた美津はそのまま娼妓として店に出ることが決まり、一方のふみは十七だったためにしばらく店に住込で働くこととなった。身体は弱いが美しい美津はすぐに評判となり客がついた。そこへかって美津と通じてきた大工、常吉が現れる。親方を裏切った常吉のことを美津は決して好きではなかったが、自分のせいで落魄れた彼に対する同情でずるずると常吉との交際が続く。美津は自らいずれ死ぬ、と言い、常吉もまたそれに付き合うというが店の監視は厳しかった。一方ふみは持ち前の好奇心から店の主人一家や他の娼妓の情報を知らず蓄えていく。最大の謎は遣り手婆のお民の存在だった。そんな中、美津が客を刺し殺し、毒を飲んで死んでしまう。ふみは、美津が誰かに殺されたのだと確信し、一人調べ始める。

昭和初期の「時代」が「壁」となって行く手を塞ぐ。哀しく虚しい愛のミステリ
一見華やかなプチ吉原の花魁世界。男と女がかりそめの愛を語り、美しく着飾った女性が男に夢を売る――なんて美化して書くと誤解を招きそうだ。昭和初期の娼館が舞台となって、多数の美しい娼妓が登場することは事実。だが、主人公のふみがその世界の舞台裏にいることから、どうしても華やかな世界の「どす黒い裏側」がありありと伝わってくる。即ち、事情があって身体を売ることになってしまった女性たち。醜い欲望から彼女たちに金を落としていく男たち。彼ら双方からむしり取れるだけむしり取る館の経営者たち。そのおこぼれにあずかるべく徘徊する男や女たち。歪んだピラミッド構造。農村と都会の貧富の差が激しかった時代の哀しい仕組みが見えてくる。かっての日本にはこのような世界があった。目を背けず理解しておきたい事柄かと思う。
公娼自身が借金を抱えて逃げられない。その公娼街そのものの構造が街として女たちを逃がさない。籠の中の鳥。美津とふみのいる「福寿」そのものにまつわる暗い影と相まって見えない壁が物語を取り囲んでいる。発生する不可能事件のからくりそのものは比較的見抜きやすいものなのだが、人間関係における見えない壁が事件の真相を隠し通している感。 真相を探るふみの無鉄砲さが、その壁のいくつかを突き破っていく。「家」の壁、「主従」の壁、「制度」の壁……。それがミステリに仮託する形で描かれる、この「壁の突破」の見事さ、清々しさが、本書を乱歩賞に登り詰めさせた主因だと思う。作者がそこまで意図していたとも感じられないのだが、これこそが作家としての天性の感覚ではなかろうか。
また、ふみの淡い恋愛感情の変化もまた、物語の隠し味としてうまく使われており、ちょっとした恋愛小説にも似た味わいがある。これも女性作家らしい物語に対する繊細な配慮だと感じた。

これも発表年代のせいかもしれない。現代の作家が同じテーマで作品を書いたとしたら、動機は恐らく「娼妓」という世界特有のものに求めるものと思う。つまり舞台と犯罪や動機に更なる一体感、統一感を持たせるだろうということ。とはいえ、これはこれで評価できる作品であることは間違いない。


01/08/21
東 雅夫(編)「少女怪談」(学研M文庫'00)

1994年に《学研ホラーノベルズ》の一冊として刊行された同題のアンソロジーに四作品(岡本綺堂、松浦寿輝、山尾悠子、小池真理子各氏の作品)が増補され、当時創刊されたばかりのこの学研M文庫にて刊行された。東雅夫さんは幻想文学専門雑誌『幻想文学』の編集長を務め、他にも優れたホラーアンソロジーを編纂している。

僕の目の前に落ちてきた同級生、なつみさん。彼女は目玉をくるくると回す。緑色のちっちゃい人を探す 大槻ケンヂ『なつみさん』
恭子がいじめられていることに気付いた教師の私。彼女の母親と昵懇になる。恭子は悪魔学を使って。 森村誠一『青の魔性』
友人の綾夫は森の中の一軒家に住む少女に魅せられて。彼女はお腹の大きな奇形。家長は白蟻の専門家。 村田基『白い少女』
あまのじゃくの昔話をしつこく求める娘は眠らない。リアルなあまのじゃく譚を語り、彼は生まれ変わりに気付く。 高橋克彦『眠らない少女』
年上女性の逢瀬に同行した少女は予定通りの帰宅の為、彼女を残し辞去。停車場で「彼女は死にましたよ」と声。 岡本綺堂『停車場の少女』
海辺のヨットマン、敏夫は野性的で泳ぎの上手な彼女に魅せられる。彼女は人並みはずれて魚を獲るのが上手い。 石原慎太郎『鱶女』
校正ノイローゼの吉村は公団住宅の屋上で唄を歌う少女を絞め殺し、死体を自宅に持ち帰る。その死体を。 生島治郎『頭の中の昏い唄』
戦闘機の残骸の中で宝石占いを営む老婆は、別に「宝石」の性器を持つ少女を売る。私はその娘を犯した。 松浦寿輝『宝筺』
一風変わった親戚中が集まる通夜の席。勲はミノ夫人に興味を持つ。彼女はタキ氏と会い、特別な行動を取る。 山尾悠子『通夜の客』
私は教室に戻ってきた。コックリさんを信じたあの頃、私たちは自信過剰だった。和子先生を助けるために。 大原まり子『憑依教室』
市村里枝という老婆が孫にピアノを教えて欲しいとわたしの元へ。彼女の家族は皆交通事故で死んだはず。 小池真理子『ミミ』以上十一編。

「少女」……魅了される者、幻惑された者、取り憑かれる者、そして「少女」そのもの
ワタクシ、別に特殊な嗜好は持たない成人男子のつもりなのだが、やはり「少女」という響きには独特なものを感じてしまう。自分が「そうであった」時期が絶対に存在しないためか、世の男性の多くは例えば「処女性」であるとか「無垢」であるとか、単純なこの成長段階だけが持つ独特の「可憐な美しさ」であるとか、そういったキーワード抜きに無条件にでもどことなく惹かれるものを感じるのではないだろうか。
本作収録の十一編のうち八編が男性、後半三編は女性が執筆している。「誰が執筆したか」など先入観に囚われず、当然テキストの中身を論じるべきなことは十分理解しているつもりだが、両者の作風の違いに触れたくなる誘惑に勝てない。完璧に断言こそ出来ないものの、男性陣が少女を主題にすると対象そのものが持つ「謎/不可思議性/理解不能」をベースにホラーを組み立てるのに対し、女性陣が主題にした場合には少女そのものよりも、「取り巻く環境」「彼女らに接する周囲」をベースに組み立てているように感じられるのだ。これこそ「経験の差?」だろう。「少女」に対する無意識の神秘性を感じているのは男性サイドに圧倒的に多い。つまり、男性はどうしても少女に対し、そのもの以上を幻視してしまうのだ。反面、女性が少女を見る視線は、冷静である。少女の中に神秘性があることを認めつつも、単に「すごく若い女性」として捉える場合が多いように思える。このあたりに両性の手触りの差、みたいなものが出てくる要因ではないか。
男性執筆群の中では『眠らない少女』や『頭の中の昏い歌』に「理解できないもの」に対する恐怖を、女性執筆群では『ミミ』に「少女」ならではの幼さと神秘性を混ぜ合わせた怖さを感じた。それらと雰囲気を異にする『鱶女』は「少女」に惹かれる青年の気持ちと異生物の交流が醸し出す不思議な怖さが印象に残る作品。なるほど、東京都知事もこんなの書いていたんだ。

「ホラー」の短編集としてもなかなか質の高い作品が並んでおりお得な一冊。「少女」は確かに主題として存在しながら、様々なタイプの「恐怖のツボ」を持っており、どんな人でもいくつか心にじんわり染み通る恐怖を味わうことが出来るはず。