MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


01/09/10
多岐川恭「殺人ゲーム」(ワールド・フォト・プレス WILD BOOK'75)

裏表紙の著者のことばによれば、単行本未収録の短編がある程度たまったなかから「マシ」だと思えるもの数編を選び、これに近作を二、三作加えて出版したものだという。(詳細は記載なし)とはいえ、全て多岐川恭の味が滲み出ていてこの作品集でいうところの新作と旧作の違いが私には分からなかった。

大金持ちのおやじに嫁いできた六人目の妻、奈美。今までおやじの妻となった女性は、財産目当てでおやじを殺そうと狙うがことごとく失敗してきた。彼女の場合は……? 『待てない女たち』
元市警勤務の武田家の様子がおかしい、と近所の女性が駆け込んで来た。辺鄙な地ゆえ武田家は少し離れている。彼女は強盗が家の中で彼らを脅しているのでは、というのだが……。 『真夜中の訪問者』
友人に貸した五十万円が戻って来ない。厳格な夫に打ち明けるのが怖く江美子は途方にくれる。そこに金回りの良さそうな学生時代の男友達が偶然に現れる。彼が用立てしようというのを、結局江美子の理性が断ってしまう。 『紳士的なワナ』
かって強盗を働いた五人組は一人の裏切りを許さず、私刑で殺していた。その男が蘇り、生き残りに対して復讐をはじめた。おれは、矢も盾もたまらず九州に逃げ出すが、さらに不気味な電報が追って来た。 『待っていた』
高台の小さな温泉地。長期逗留の者たちは互いに仲良くなった。盲目の金持ちという新村の情婦、千佳子は別の夫婦の旦那と浮気をはじめた。新村はお手伝いの女性と、夫婦の妻と共に浮気の証拠を押さえるべく画策を開始する。 『殺しの協力者』
近所の燃料屋に強盗が入ったという。店主の妻の自宅の金庫やへそくりが奪われていたことから内部犯の疑いが強く、前科のある住込の青年が疑われた。しかし、織田は彼が犯人とは思えない。 『ある訣別』
近所の美容院の店主が借りていた三百万円が紛失した。彼女は一旦警察に電話した後、再び取り消していた。未亡人の彼女を巡って様々な男性の影が見え隠れしていたが……。 『求婚者の迷惑』
映画館でダイヤをスリ取った男二人と女一人の三人組。追われる身となってダイヤを女は自分のお腹の中に隠すが、いざとなっても一向に出てくる気配が見えない。結局警察に捕まってしまって……。 『腹の中のダイヤ』
作家、青江兆太郎は表に全く顔を見せない覆面作家。醜い容貌がそうさせたという。徐々に書けなくなる青江に対し、志願の弟子入りした若者は、いつの間にか代作者となって表に出ることも含め、彼になりかわってしまう。 『代作者』
美しい妹に虫がつかないよう気を配る看護婦の姉。妹の交際相手のところに乗り込んで縁切りを強要する。彼女は冴えない上司のある医者を妹の婿として相応しいと考えていた。 『きょうだい』以上十編。

刊行時期が良かったか? 多岐川恭らしい皮肉なサプライズ。粒の揃った好短編集
中小出版社による昭和五十年代のマイナーノベルス。巻末の広告を見る限り、他作品として大藪春彦、川上宗薫、斎藤栄、山田信夫、菊村到、島田一男、藤原審爾、樹下太郎などの名前が挙がっている。ただ顔ぶれを見る限り(カルト人気を現在も維持する作家がいるとはいえ)、「通俗ミステリ」のシリーズと呼ばれても仕方ない。という意味で本書収録作、確かに「本格推理」ではない。しかし、単なる「通俗」と片づけられない不思議な魅力をしっかりと持っていることに驚いた。
本作も主題は通俗的である。金に困った主婦、遺産目当てで結婚する女性、未亡人にしつこく言い寄る男性から、妹を過保護する姉など「お隣さん」感覚の題材が多く採られている。事件の動機も色か金、せいぜい復讐と理解しやすいものが並ぶ。これらの材料を利用しつつ、多岐川シェフの料理の腕は冴える。いくら彼の腕前がが凄くても、材料が材料なので高級フランス料理や和風懐石は作れない。それでも「素人が作るのとはひと味違う晩ご飯」のレベルにはきっちり仕上げてくる。ミスリーディングや、レッドへリングを巧みに隠し味として混ぜ、冷徹な視点で火を通し、サプライズというスパイスをめいっぱい利かせる。身近な素材ばかりでも、一流の人間の手にかかればきちんとミステリ料理として味わえるものなのだ。
また『待てない女たち』や『腹の中のダイヤ』あたりで感じられる独特のユーモア感覚がいい。決して地の文や会話で笑わせようというのでなく、奇妙なシチュエーションを構成し、その中で困ったり奢ったりする人間をブラックユーモアな展開に持ち込み、更に奇想天外なオチへと繋げていく。このオチがおかしいと同時にミステリ的な独創性も感じられるのが凄いところ。また、『求婚者の迷惑』にて探偵役を務める中年の未亡人は、アンソロジー『犬のミステリー傑作選』に採られた多岐川作品「蝋燭を持つ犬」に登場する女性とは同一人物。こういう細かな繋がりが見つかるのも嬉しい。

どこにもそういう表現はされていないが、当時未刊行だった作品を母体とした「自選傑作集」ともいえる素晴らしい出来映え。一歩間違えれば「単なる通俗ミステリ」になりそうな題材を使って独自の「多岐川ミステリ」に仕上げている点は、さすがとしか言いようがない。

本書が刊行された前後、多岐川氏の短編は桃源社ポピュラーブックスを中心に多数の作品集が刊行されていたのだが、その全てが絶版となっており、現在での入手は不可能。多岐川作品に興味がある方なら、見たら買い、で行きましょう。


01/09/09
北森 鴻「共犯マジック」(徳間書店'01)

長編にも佳作がある作家なのだが、第52回推理作家協会賞を連作短編集『花の下にて春死なむ』にて受賞しているせいか、北森氏には「短編の名手」という称号がついてまわるように思う。本書も『問題小説』誌に''99年から'01年にかけて発表された作品のラストを大幅に改稿したという連作短編集。

「プロローグ」 一九六七年。占いの本でありながら、そのあまりにネガティブな内容と的中率から書店が自主的に販売を自粛した『フォーチュンブック』。長野県松本市の書店員、蜷川は倉庫でその本を発見して六冊を販売した。六冊はそれぞれ事情ありそうな人々が買い求め、最後の一冊は駆け込んできた男の目の前で女子高生が手にした……。
第一話『原点』 一九六九年。学生運動がピークを迎える中、大学生グループの兄貴分、ケン兄が公園で首を吊って死亡した。ケン兄は「フォーチュンブック」で悪い運勢が出ていたところだった。
第二話『それからの貌』 一九八二年。偽五百円硬貨が新聞社に対し送りつけられる。過剰な取材がたたり謹慎中の新聞記者、檻口の元を刑事が「北条幸江を知らないか」と訪れる。彼女はかって一緒に「フォーチュンブック」を買い、共に東京旅行した仲だった。
第三話『羽化の季節』 一九八七年、画商の小茂田は夭折した画家の若き頃の作品に見入っていた。その画を見て驚愕する別の男。小茂田はその男の話を聞く。その絵は既に喪われているはずのものだという。
第四話『封印迷宮』 一九八四年、新聞社を止め故郷に戻った檻口は仕事で失敗し東京に舞い戻ってその日暮らしをしていた。宿の相棒《サクラダ》に誘われ、当時話題の「グリコ・森永事件」の模倣犯罪に手を着ける。
第五話『さよなら神様』 一九六八年に列車事故に遭い片足を喪った真理子。彼女は事故の前、どん底の暮らしの中で「フォーチュンブック」を松本で購入したことがきっかけとなり、一人の同僚から脅されていた。
第六話『六人の謡える乙子』 一九七四年。彫刻家の樺沢は肺癌により死の床についていた。彼はかっての師匠の墓標が台風で流された時のことを思い出していた。何かに押し出されるように現れたのは六体の少女像だった。
最終話『共犯マジック』 一九八五年。記憶の戻った《サクラダ》は自分の過去について檻口に語り始める。「木津修平」を探し出したいという《サクラダ》がかって手を染めた昭和の一大犯罪とは……。

昭和の犯罪史をベースに想像力というのはここまで翼を拡げることが出来る
少々長め、かつ時代背景も含めてじっくりと書き込まれたプロローグ。『フォーチュンブック』の内容説明から、買い求めた人物それぞれの名前まで触れられる販売シーン。作品への予感を覚えつつも、後からこの部分にまで何度も遡って読み直すことになるとは、この時点では全く気付かない
そこからは北森短編らしい、ヒネリが効いた本格ミステリが開始される。一定の探偵役が存在せず、それぞれの物語における登場人物が思い当たる(解き明かす、とはちょっと異なる)事件の真相は手掛かりから論理的に導かれる「推理」ではなく、こういう解釈も出来るかな、という「思いつき」の印象が強い。真相へのアクロバットが強烈なだけに一つ一つの作品に多少強引さも感じられるが、さして不満には至らない。
新聞記者として登場する檻口が比較的物語によく登場、彼を謎の人物《サクラダ》のワトソン役にあてている。彼らが複数作品にわたって登場することで、短編作品それぞれの間の「壁」が崩壊していき、後半にさしかかるにつれ短編集を読んでいる感覚から、長編を読んでいく感覚へと知らず変化させられている。よくぞこれだけ登場人物を繋げたもの。それだけでも感心するところながら、北森氏はさらに多くのモノを繋げようと試みている。
また、本書は全体的にモノトーンが似合いそうな雰囲気を持つ。暗い話が多いのも事実だが、平成におきる事件とはまた別の、違った臭いを昭和の大事件は発しているから、尚更きつく感じられるのかもしれない。その暗めのトーンこそが、物語を象徴している。またその事件たちの色合いを『フォーチュンブック』が更に変えていく。
読み終わってみれば、北森氏の構想の壮大さにため息。「帝銀事件」「三億円事件」「グリコ・森永事件」「ホテル・ニュージャパン火災」……等々の日本を揺るがした実際におきた大事件。これら事件を隠し味や時代表現として使うだけでなく、自らのミステリ世界にしっかり組み込んでしまい、かつそれで読者に全く違和感を抱かせない点、注目すべきだろう。

連作短編集として非常に高い水準にあることは間違いない。ただ、短編それぞれがちょっと詰め込まれすぎてごちゃごちゃした感じになっているところが、少し惜しいかも。多少暗めの話が多いので、きちんと受け止められる精神状態の時に読むこと。


01/09/08
天沢退二郎「オレンジ党と黒い釜」(筑摩書房'76)

詩人や《宮沢賢治》に関する評論などで名高い天沢氏による一連のファンタジー作品の中の一つ。『光車よ、まわれ!』、短編集『闇の中のオレンジ』に引き続き、同じ世界観のもとで刊行されたもので、「三つの魔法」と呼ばれる三部作の第一作目にあたる。

「ひわた」駅に向かって電車で一人旅してきたルミは小学生。母親が生きていた頃、父親と二人住んでいたという小さな家に引っ越して来たのだ。荷物と一緒に父親は後から来る。しっかり者のルミは引っ越しそばを作ろうとインスタントラーメンを取り出し、トッピング代わりの野草を探しに庭に出た。ところが、庭の石が突然動き、下にあった穴から謎の声が聞こえてきた。
翌朝、六方小学校に始業式に出席したルミは何やら自分を見るような視線に気付く。翌日の日曜日、父親はルミと一緒にピクニックに出掛けようと言い出す。急いでお弁当を作って大きな森に入った二人だったが、父親はどこか急ぎ足。しかも昼食の最中に森の奥から聞こえてきた「唄」に誘われたかのように、消えてしまう。森の中に取り残されたルミは、奇妙なバケモノに遭遇してしまう。何とか危機を脱したルミは数人の子供たちに助けられる。彼らは「ときの老人」とオレンジ党というらしい。

ほんの膜一枚隔てた向こう側には別の世界がある。子供に教えていいのだろうか?
『闇の中のオレンジ』において、「断片一つ一つに込められた「世界の情報」が少なく、そして世界の統一感が薄い」ということを書いた。本作はその点、長編ということもあって少しずつこの「世界」が見えてくるような印象がある。特に「黒い魔法」「古い魔法」「ときの魔法」の「三つの魔法」があるのがポイント。単なる善と悪の体現でなく、第三勢力を設けることによって物語に深みが生じ、ミステリ性が上がっている。更に正義の側の「ときの魔法」にさえ、ひとわたりの説明では、説明し切れていない部分が多く存在しており、単純なジュヴナイルのファンタジーとは一線を画しているのは間違いなかろう。
ただ、物語の流れについては分かり易くなっており「なぜそれをしなければならないのか」という部分さえ抜きにすれば、目的に向かって知恵と勇気で立ち向かう少年少女たちの姿に感情を移入して楽しめる。またおのおのの「魔法」も単純ではなく、どちらかといえば「恐怖」を喚起するタイプの魔法が続々登場する。
とはいえ、この手触りの黒さはなんなのだろう。大人を信用しない子供。地図と異なる道。かっての田舎、現在の新興住宅地という、物語中の魔法とも異なる形での「自然」と「文明」の歪んだせめぎ合い――。裏に潜むメッセージ性は容赦なく深い

児童向け文学ゆえ文庫化されることもなく、現在古書店等でまともに入手しようとしてもかなりの困難が伴う(というか、古書店、古書市では見たことが全くない!) 作品。私もご多分に漏れず、近所の図書館で借りて読みました。結局、それが一番早道のような気がしたり。


01/09/07
芦辺 拓「死体の冷めないうちに」(双葉社'98)

芦辺氏には珍しい「非」森江春策が探偵役を務める連作本格ミステリ短編集。『小説推理』誌上で'97年から翌年にかけ隔月連載された作品に'95年に『野性時代』誌に発表された表題作を加えたもの。

××××年。地方自決構想に基づき、大阪府知事の維康は、民間人や警察OBを中心にした組織、〈自治体警察〉を復活させた。その自治体警察局特殊捜査室に所属する、元弁護士の支倉遼介警部以下、赤津宗和、蒔岡久美両刑事、玉村由梨子婦警らが遭遇する事件の数々。
”知性を備えた野獣”知能犯罪犯の小野瀬が、少女を誘拐した。身代金受け渡し後の逃走中、小野瀬はバイクの事故で記憶を喪ってしまう。果たして少女はどこに監禁されているのか? 『忘れられた誘拐』
ホテル勤務の女性が深夜の殺人を目撃。警察が処理しマスコミも到着していたにも関わらず、翌日全く事件が報道されないどころか、事件そのものなどなかったという。 『存在しない殺人鬼』
旧友と決着をつけるために大学の研究室に赴いた男。先に来ていた旧友は部屋を引っかき回すような奇妙な行動を取っていた。争いの末に相手を殺した男はアリバイ工作を開始する。 『死体の冷めないうちに』
赤津が友人の部屋に遊びに来たところ隣りの老人の様子がおかしい。階下で電話を取った後、部屋に戻った老人は苦しみながらナイフによる切腹を試みていた。 『世にも切実な動機』
支倉と蒔岡が通報者の裏取りの為訪れた廃屋に閉じ込められた。その中には時限爆弾らしきものがセットされていたが、肝心の爆薬が見あたらない。果たしてその爆弾の意図は? 『不完全な処刑台』
小野瀬は裁判中に脱走。前回の事件の手掛かりから協力者を察知した自治警は容疑者のマンションに赴く。しかし、警察の大集団が登場し妨害されるうち部屋から火が。 『最もアンフェアな密室』
自治警の生みの親、維康の暗殺を臭わせる小野瀬のメッセージ。大人数の集まる就任演説の警備を任された自治警の面々は総力を振り絞り計画阻止に尽力する。 『仮想現実の暗殺者』以上、七編。

本格ミステリという「枠」の中で放映される刑事物連続テレビドラマ
テレビの刑事ドラマには映像ならではの味わいがある。派手なアクションシーン。分かりやすい登場人物の個性。悪人が捕まる時のカタルシス。これらが「映像」というメディアを活かしつつ描かれ、視聴者はその世界にすんなりと溶け込む。
この作品はその刑事ドラマを本の中で行おうとする試み。さらに作者は現在の本格ミステリ界の旗手の一人、芦辺氏とあれば、作品一つ一つに「本格」への指向が感じられる。どのあたりがテレビドラマか、というと、例えば主要な登場人物が決められ、彼らが毎回活躍すること。事件そのものの描き方の角度が毎回異なること。一話完結でありながら、物語の底流に流れがあり、各話が微妙に繋がっていること……などなど。一人一人の登場人物への書き込みが頁の制約か多少中途半端になっているとはいえ、テキストでありながらドラマ顔負けの迫力とスピードを演出出来ている
そして一方のテキストであるという利点。これは「本格ミステリを設定しやすい」こと。そこをまた本作は十分に活用している。もちろん映像でも本格ミステリは可能だが、伏線の張り方などに制約がある。例えば冒頭の『忘れられた誘拐』など映像ではちょっと成立出来ないだろう。ただ各作品のトリックの一部は革袋の入れ替え的である(前例が思い浮かぶ)点は目をつぶるべきか。
本作の重要なモチーフとなっている「自治体警察」については芦辺氏自身が『時の誘拐』にて歴史的なその成立経緯等について執筆している。恐らく本編はそのアイデアや、芦辺作品の底流を流れる現在の司法・警察力不信がベースとなって執筆されたであろうことは想像に難くない。この「不信」が前面に出てくるとエンターテインメント小説として脇道に入り込んでしまう欠点が氏の作品に時たま見られるが、本作は(ところどころはみ出ているものの)ギリギリながら限度の内側か。ただ、結果的に短編のモチーフに構造のそっくりな作品が出てきてしまっているのは少し残念かも。

現在は双葉文庫にて文庫化されており、そちらでの入手が容易かと思われる。芦辺作品では、多少不向きな事件であっても、ほとんど必ず名探偵・森江春策が登場させられるという弱点があるように思っていたが、彼を思い切って抜きにしたこの世界、芦辺的でありながら手触りの異なる骨太作品になっていて面白い。


01/09/06
野村胡堂「地底の都」(講談社少年倶楽部文庫'76)

昭和五十年代に刊行された「少年倶楽部」の名作選集として刊行されたシリーズの一作。'32年(昭和7年)頃に連載されていたもの。挿し絵も復刻されており、本書の表紙絵は田中満氏、挿画は富永謙太郎氏によるもの。雰囲気が出ていて非常によろしい。

仲の良い従兄弟同士、春日陽一と鼓哲郎はスキーに行った帰り、上野駅に向かう電車の中にあった。彼らの元に一人の黒マントを羽織った少年が飛び込んで来る。マントの下に王子のような扮装をした彼は、千松と名乗り、ひどい仕打ちをするサーカス団から逃げ出してきたのだという。車掌から彼をかばい、千松を連れて自宅に戻って来た陽一は、自分の家族ら一家八人と飼い犬全てが家にいないことに気付く。陽一の父親は高名な考古学者で家を空けることは考えられなかったのだ。哲郎が警察に届けに行っている間に、陽一は怪漢に襲われ、誘拐されそうになるが、千松の活躍で事なきを得る。縛られたまま逃げ出した哲郎の妹、恵美子が発見され、曲者たちが一家を自動車でどこかに連れ去ったことが判明する。街に住む馬鹿、通称馬鹿竹の口を借り、彼らへの脅迫は続けられたが、哲郎少年は賊の目的が家捜しにあることを推理にて看破、また家族がそれほど遠くない場所に監禁されていることを言い当てる。幾多の冒険の末、賊は外国人の集団で、日本のどこかにある「地底の都」の財宝が目的であることが解ってきた。

少年冒険小説に込められた探偵小説エッセンスがみごとに嵌った一作
主人公が少年であること、書き口が「ですます」調の優しい口調であることをを除けば、物語の筋書きといい、数々のミステリといい、更に論理的なそれらの解決といい、大人向けの探偵小説として出版されていてもおかしくない、冒険と謎解きのバランスが抜群のアクションミステリ。獅子内俊次か明石良輔あたり(二人の性格はちょっと違うけれど) が主人公であれば、それぞれ甲賀三郎や角田喜久雄の傑作として残っていたかもしれない。<誉めすぎかなぁ?
千松の出会いのシーンで印象づけられる少年たちの性格描写の後、いきなり一家八人消失という大サプライズを持ってくる展開の巧さ。次々に襲いかかる事件を解決するうちに徐々に姿を見せる賊の不気味さの演出も巧いし、人間が消失したり、暗号が届けられたり、主人公らが閉じこめられたりの危機が、アイデアや工夫によって解決されていく様子は見ていて気持ちが良い。特に哲郎少年の「ミニ・ホームズ」ばりの論理の飛躍など、ジュヴナイルらしからぬ鋭さが感じられた。また、八人の人質が小事件を経るごとに少しずつ戻ってきて安心させてくれる演出、危険な罠を事前に見破ることで少年たち自身は大きな危険に突っ込まないことなど、ジュヴナイルらしい配慮も合わせて感じられ、考え抜かれて構成された作品であることがよく分かる。
もちろん、優秀な頭脳や運動能力を持つ少年達の造型や、都合が良く繋がる人間同士の関係など、リアルさを犠牲にしている部分も確かにある。しかし、ジュヴナイルとしての物語のテンポや紙幅を考えた場合に仕方がなかった(少年向けだから手を抜いたのではなく)と考えるべきだろう。
テレビも漫画もない時代。少年たちの娯楽は活字だった。しかし提供されていたのはこんなに良質の作品だったのだ。

野村胡堂といえばあまりにも有名な時代劇、『銭形平次』の原作者として知られ、捕り物小説の中興の祖としてがもっとも有名である。音楽評論家あらえびすとしての顔の他にも、少年小説をいくつも手がけており、本書はそれを伺い知る格好の一冊……とはいっても現在、この文庫そのものがそれなりの高値で取引されているのが実状ではあるのだが……。これは面白いよ。


01/09/05
小栗虫太郎「失楽園殺人事件」(扶桑社文庫'00)

「昭和ミステリ秘宝」として刊行された作品の一つ。小栗といえば『黒死館殺人事件』なのだが、この長編をかき回す探偵、法水麟太郎が登場する全短編を集成し、『二十世紀鉄仮面』との二分冊となって刊行された。巻末には珍しい小栗のエッセイ集が収録されている。

寺社の一角で住職が合掌をした姿勢のまま額に穴を穿たれて死亡。争った形跡はなかった。前捜査局長にして、目下一流の刑事弁護士たる法水麟太郎、初登場 『後光殺人事件』
ロシア人の居留する鐘堂を持つ西洋寺院の鐘が、怪しく打ち鳴らされた。訝しんだ支倉検事と法水が現場に駆け付けると、塔の側で老人の変死体を発見する 『聖アレキセイ寺院の惨劇』
奇蹟を行うと評判の行者と尼僧が、夢殿の密室内で殺害された。行者は法印の痕跡が身体に残り、尼僧は縊られた跡が。状況は装飾画の孔雀があたかも現実化したかのようだった 『夢殿殺人事件』
兼常博士が設立した外界と隔絶された癲病院の中に「失楽園」と呼ばれる施設があった。そこでは死体の屍鑞化の研究がされていたが、博士と助手が密室内で殺害された 『失楽園殺人事件』
座長が失踪した劇団が法水の助けを借り「ハムレット」を演ずる。その最中、奈落に降りたヒロイン役の座長の娘が喉を切り裂かれて死亡した。その前後怪しい影が 『オフェリヤ殺し』
かって艇内で死亡した船長が消え失せたという栄光の歴史を持つ潜航艇「鷹の城」号。因縁ある人々を乗せて潜航中に現在の船長が艇内の密室で殺害された 『潜航艇「鷹の城」』
浅尾里虹の劇団の主要な四人の俳優は、人魚が目撃された離島で数奇な運命を辿った。互いを疑心暗鬼の視線で見詰める彼らのうち一人が「四谷怪談」上演中に不思議な死に方をした 『人魚謎お岩殺し』以上七編に単行本初収録を含む100頁以上ものエッセイ集付き。

計画犯罪と偶然が織りなす探偵小説の交響楽。犯罪者と法水との超高々度空中戦を眺めよう
小栗の生み出す事件は短編小説であっても全く容赦がない。単に「犯人はどうやって脱出したのか」「密室はどのようにして作られたのか」という密室レベルの不可能犯罪興味を遙かに超える。密室も、事件の一つのアクセサリーに過ぎず、微笑んだまま頭に穴をゆっくりと開けられた死体だとか、身体に梵字を浮かび上がらせた死体だとか、とにかく「神様が冗談で作ったんだ」というような形容詞の似合う、とんでもない状況にある「死体」が基本的に主役を張る。小栗独特の文体によって現代読者にとっては受け止めるのが難解かもしれないが、じっくりその描写を噛みしめ、そして法水の口を借りて語られる死体の奇妙さが補足された結果、スペシャル奇妙な状況がようやく見えてくる。
そして更に事件はWho done it? の要素も存在する。従って、死体と出会った瞬間から、法水麟太郎は見えない敵と戦い始めるのだ。延延と開陳される古今東西のありとあらゆる分野に関する知識は、小栗と法水以外の人間を煙に巻く。恐らく犯人さえも混乱に陥れられて困っているに違いない。何言っとんねん、こいつ。
その殺人事件の真相が明らかにされる時、読者は登場人物の支倉や熊城同様、驚愕以外の反応は許されない。ハッキリ言ってしまえば、明らかになるその殺害方法や、犯人が弄するトリックというのは、例外なく「トンデモ」なのだ。心理学に物理学、光学に医学、病理学、文学、歴史学、博物学……機関銃のごとく繰り出される弾は遙か上空を飛び回るのを読者は口を開けて眺める。犯人らしき影がひらりひらりと交わしているのも見えるけれど……あ、撃墜されたみたい。この儀式が済んで、うやく法水は一応その戦闘の状況なんかを地上にいる我々に報告してくれるわけだ。だけど「なるほど、そうだったんですか」 事後報告を聞きながら、我々は頷くばかり。実は理解出来たような気分になっているだけかもしれない。「トンデモ」の真相は「と学会」な理屈だったりするわけで。

結局、小栗の世界を楽しめる人、というのは、この「高々度空中戦」を眺めるのが好きな人、なのだと考えるのだが。小栗の前に小栗なし。小栗の後にも小栗なし。小栗虫太郎、というジャンルには小栗虫太郎しかいない。

小栗作品、特に探偵小説における奇想は凄まじいものがある。ただ冷静に分析すると身体的な障害などをトリックの一部に使用している場合も多い。執筆当時では当たり前の価値観だったのかもしれないが、時代性を考慮してたとしても(個人的に嫌いなこともあって)その点に関してだけはやっぱりあまり評価出来ないように感じる。

いくつかの作品は再読になる。しかし全くその興味は初読時と変わらず読めた。実を言えば、フクの鳥頭では法水の持つ強烈な個性や衒学趣味が一度通読した程度では100%頭に入りきらないから。また時間が経過してから読むと新たな発見がある作品群かと思われる。全部読んでるから、と手に取らない剛の読者も改めて手にとってみてはいかがだろうか。


01/09/04
橘 外男「私は前科者である」(新潮社小説文庫'55)

『ナリン殿下への回想』にて'38年第7回の直木賞を受賞した橘氏は独特の猟奇趣味が横溢する幻想小説の書き手として没後四十年以上経過する現在に至っても高く評価する人の多い作家である。本書は'55年「週刊新潮」誌に連載された作品で、自ら服役経験があることと告白する私小説の一種。

”私”は官吏時代に公金を横領して不相応に芸者の身請けを行い、その罪が元で札幌典獄に収監された。一年ほどの務めを終えて出獄した私は二十二歳。軍人の一族は私のことを「恥」と公言して憚らず、絶縁状態だったために私は広い東京に出た。しかし就職の際に役所が交付する書類に前科が記されることもあって、前科者にろくな働き口などなかった。一計を案じた私はそうした書類の必要ない外国人が経営する商館に、架空の保証人をでっちあげた上、英文の履歴書をもって何とか潜り込むことに成功した。その会社に申し訳ないと思う気持ちから毎日きっちりと勤務に明け暮れる毎日だったが、仮出獄の措置中のため刑事が時々様子を見に来ることは閉口した。何とか前科者の過去を隠し、社長秘書に気に入られて本を貸してもらったりする平穏な生活を続けていたところ、かって札幌典獄にて同室だった稲田という男が新聞記者として営業部長を訪ねて来る。稲田は”私”が前科者であることを部長に告げたことから、必死で許しを請願したにも関わらず”私”は部長の手によってあっさりと会社を懲戒免職とされてしまう。

橘外男の人生から発する「過ちを犯した人たち」への重厚で軽妙なメッセージ
作品の成立背景などを考えず、純粋に物語だけを抜き出すならば、不幸な境遇にある青年が幾多の苦労の結果、成功者となるまでの記録、ということになるだろう。なので最後まで読めば救いのある内容なのだが、そこに到るまでの過程の寒々しさが、凄まじくリアルなのだ。かっての日本。氏の略歴と合わせて考えれば、本書の舞台は大正時代初期ということになる。労働条件を選ぼうにもそもそも就職の口さえない。あっても前科者とばれれば、それだけでクビにされてもおかしくない。人間に権利などなく、歪んだ資本主義が芽生えつつあった時代。”私”はどんどん追いつめられて、窮地に立てば立つほど選択肢を喪って追い立てられるように転がり落ちていく。ただ、その重い内容に関わらず、橘氏の筆の冴えにより物語そのものはリーダビリティが高く、くいくい進む。文章の軽さが物語の重さを助けている
あまりにも悲惨な物語だけに、ほんのちょっとした情けがまるで慈雨の恵のように”私”の心を潤していく描写が美しい。メシの恩義のために監獄の罰を代わりに受けてくれた男。分け隔てなく接してくれた外国人秘書、悪事に”私”を引き込むまいとする青年、食い逃げを見逃してくれたそば屋の親父。彼らの「優しさ」(もしかすると、それが実はほんのちょっとした気まぐれな「同情」であったとしても)が、いかに追い込まれた人間にとっては救いになるのか。逆に、世間の前科者に対する偏見がどれほど酷いものであるか。その描写が極端であればあるほど、人間心理の本質に迫る迫力が感じられる。
「詮方尽くれども、われら望みを失わず」 橘氏は不幸にも前科を持ってしまった人だけならず、全ての人に対して、このメッセージを送っている。どんなに不幸な境遇に落ちても、望みは決して捨ててはいけない。普段なら空疎に響くこの言葉も、実際に極限を経験した人間の口から発せられることにより、大いなる重さを持つようになる。
現代でも安部譲二など「塀の中」を見てきた作家は存在する。橘氏の場合は直木賞を受賞するなど作家としての成功を得た後、晩年に近い時期に本書を発表(発表後四年後、橘氏は逝去する)した。これは一種のカミングアウト小説といえるだろう。 ただ本書の主題となっているのはいわゆる「獄中」ではなく、あくまで出獄後の冷たい世間、そして身内の仕打ちの方にある。それでいて、もしかすると本質的には百年弱が経過した現代も、この主題は同じ問題を我々に突きつけてくるような気がしてならない。

橘外男といえば「蒲団」らしい。他の作品集もいくつか所有しているに関わらず、本作から橘作品に入るワタシは間違っているのだろうか? 本書、2001年夏の伊勢丹古書市でそれなりの価格で掴みました。よしだまさしさんがそれから一月経たないうちに三冊二百円で掴みました。これが古書的な経験の差というものでしょう。しくしく……。


01/09/03
恩田 陸「ドミノ」(角川書店'01)

「KADOKAWAミステリ」誌に2000年5月より翌年にかけて連載された作品が長編として刊行されたもの。ポップな活字が踊る表紙も良いが、ページを捲ると総勢二十八名にも及ぶ主要(!)登場人物の一覧がイラストと本人のコメント付きで描かれているのが目を引く。それを眺めているだけで楽しくなってしまう。

ある七月下旬の金曜日。東京駅の付近では……。
・関東生命八重洲支社のOLたちは、月次ノルマを達成する大口契約書を営業部長が千葉から持ち帰るのを待ちわびていた。規定の時間までに処理を済ませなければならないのだ……。
・関東劇場で開催されるミュージカル『エミー』の登場人物の一人を決めるオーディションが開催されていた。緊張する麻里花の前にライバル、都築玲奈が母親と共に現れる……。
・俳句仲間とのオフ会に参加するために東京駅を訪れた老人は、東京駅で集合場所が分からなくなり迷子になってしまった……。
・東日本ミステリ連合の幹事長の座を争い、二人の学生が映画『ナイトメア』に秘められた真相を見抜こうと緊張しつつ画面を必死で眺めていた……。
・大手銀行総合職、浅田佳代子は交際相手の青年実業家の態度の急変に気付き、思い知らせようとステーションホテルのカウンターで変装までして彼を待ち構える……。
・そしてテロリストが手製の爆弾を持って集合場所の東京駅に現れた、はずだったのだが……

「ドミノ倒し」というよりも「チキチキマシン猛レース」! 東京駅目指して走れ!
一つ一つがドミノの小片を成す、ごく小さな段落で物語の場面が次々と切り替わる。東京駅の近く、東京駅から遠く。そのドミノたちは静かに倒れはじめる。現実に即した部分は徹底的に則し、むちゃくちゃな部分は徹底的にむちゃくちゃに展開する。 例えば、ノルマが達成できるかどうか微妙な締め日の独特の緊張感溢れるオフィスのリアル。ちょっとした「気配りのためにお遣いでお菓子を買ってきて」(しかもこれも一つのドミノだったりするのだが)といった仕事の出来るボス格OLの配慮など「あるある」と思う人も多いだろう。一方、鉄道事故で営業部長が足止めを食らい、書類が届かなくなった。その部長を東京駅まで連れてくるのに取られた措置とは……こっちの展開はむちゃくちゃ。これ以上はネタバレのため伏せるが、とにかく登場人物設定が「絶妙」。 加えて彼らの絡み方も「絶妙」。そしてまた、適度に押さえた文章がかえって笑いを呼ぶように出来ている。一つ一つの物語だけでも十分に面白い、ちょっとした中編が出来るかもしれない。
多数の並行して語られる物語が徐々に合流し、その勢いを増して行く。 「ドミノ」と一口にいっても、子供が一人で作るようなもんではなく、二十四時間テレビの余興で行われるような規模。てんでばらばらに見えた人々が、「あるもの」をキーにして巻き込まれていく。幅広い世代の物語(いや人生そのもの)がエピソードとして次々と登場するが、それはまた様々な人々が集まっては旅立つ「東京駅」の姿とも重なるものがある。三十人近くの登場人物のほとんどは、東京駅近辺で終盤のクライマックスを迎える。あたかも一つ一つの物語がレースを開始し、ゴールの東京駅を目指してきたかのよう。(とはいえ、レースではないので勝者がいるとかいうわけでもない) 
物語のスピード感も終盤に向けてどんどん加速し、迫力も激しさを増してくる。それでいてきちんと過不足なく人々が収まるべきところにも収まっていく。これはもう綿密な三次元設計図を引き、それを小説として実行してしまった恩田さんの完全勝利でしょう。

とにかく何も考えずにこのスピード感に身をゆだねて欲しい作品。恩田さんはとうにジャンルを超えたエンターテインメント作家としての地位を確立している。更に本書のような作品もラインナップに加わるとなると、どこまで色々なことが出来るのかもっともっと見せて欲しいと強く感じる。


01/09/02
生島治郎「男たちのブルース」(ポケット文春'70)

'67年に『追いつめる』で第57回直木賞を受賞している、日本ハードボイルドの先駆者の一人、生島氏。たまたま立ち寄った古書店の100円均一コーナーにあったポケット文春に惹かれ購入。'79年に中公文庫でも刊行されたが現在は絶版。

特攻隊に所属するも生き残り、連絡士官として終戦を迎えた泉一は、戦後水商売に手を染め、横浜でも有数のクラブ『サブマリーン』の経営者としての地位を築き上げた。妻と死別し一人娘の洋子を十八まで育て上げた彼は、終戦の日に特攻させた部下に対し大きな負い目を感じていた。元部下の一人で地元の今井組に所属するヤクザの平田が、泉を慕って店を守ってくれているのが、独立独歩の生き方を身上とする泉にとってはあまり有り難くない。そんな折り、広域暴力団の悠朋会の幹部で、貿易会社社長を隠れ蓑にする池永から泉は呼び出しを受ける。横浜で有力なクラブの経営者を集め、ショウに出演する芸能人を安く融通する代わり、経営に参画させて欲しいというのだ。現在は警察の要職をつとめ、悠朋会撲滅に燃えるかっての上司、八木が泉に手伝いを要請するが無視、また池永の誘いをも泉は断る。泉に先だって池永の誘いを断ったクラブの経営者が事故に見せかけられ殺されるに及び、俄かに情勢は緊迫。地元今井組の組長は反対する平田を煙たく思いつつ、池永と手を結ぼうとする。

ストレートなストーリーだからこそハードボイルドな生き方が強く浮かび上がる
とにかく題材がストレート。戦争の傷跡を心に残す男。自分の店を巡るヤクザの争い。自分を慕って身体を張ってくれる元部下。自らの目的を満たすためなら手段を選ばない敵。一つ一つのガジェット全て「どこかで見たような……」というものばかり。それでいて、一切陳腐さを感じさせないのは、これまたストレートに主人公がハードボイルドを体現しているから、だろう。自分の生き方、信条を愚直なまでに貫き通し、強大卑劣な脅迫はもちろん、自分に差し伸べられる慈愛の手まで振り切ってしまう。たしなみや仕草、嗜好など全てにこだわりがありつつ、決して気障に堕すことなく描写される。自分の生き方に自分で責任を持ち、他人を巻き込むことを潔しとしない……。唯我独尊までをも感じさせるのだが、嫌味がない。単純なまでのストレートだから。
読者に「妥協したら楽になるのに」とまで思わせるシーンを多数配しつつ、主人公は、いや生島氏は決して妥協を許さず、泉一に彼自身のやり方を徹底させる。ヤクザの誘いを断り、元部下の助けを断り、娘の恋人を殴りつける。他の登場人物からみれば、これだけ扱い難い人物はいないが、やはり本人の発する魅力に結局人は集まってくる。終盤、物語は加速していくつかの謀略やアクションが続けざまに描かれ、一応は物語のピークといえる。しかしこの作品が本来出している味わいは、やはりこの一貫した主人公の姿から読みとるものだろう。
合間合間に挟まれるかっての、そして今なおその雰囲気を残す横浜らしい光景が、作品のトーンと微妙にマッチしている点もまた印象深い。

生島氏は今なお旺盛に執筆活動を続けており、そのハードボイルド以外の作品も含め著作数も膨大である。なので、初期の傑作群を押さえた後にどちらに向かえばいいのか、私のように「後から来た読者」には分かりにくい。ああ、どこかに羅針盤はないものか。<横浜らしい表現


01/09/01
愛川 晶「七週間の闇」(講談社文庫'99)

'94年に『化身』にて第5回鮎川哲也賞を受賞しデビューした愛川氏。氏が'95年に講談社より刊行したデビュー第二長編が本作。文庫化にあたり、オリジナルに無かったエピローグを付け加えるなど、かなりの加筆修正を加えたとのこと。

臨死体験の研究家の中年女性、磯村澄子が、チベット仏教の装飾で満たされた自宅の一室の壁際で不思議な首吊り死体となって発見された。奇妙な像に抱え込まれるような形で、つま先立ちで首を引っかけられ死んでいたのだ。そして彼女の額には「第三の眼」が描かれていた。家の主は独特のテンペラ画で有名な画家、磯村明で彼女を前にして号泣した。彼は彼女が自殺したのだという。捜査を担当した馬目警部は、彼の身体であれば妻を吊して殺すことが可能だと考え、アリバイを確認する。しかし、明は鎌倉の画廊で絵を描いていたという。証言者は画廊の女性従業員。果たして事件は自殺として決着したが、馬目は何か割り切れないものを感じていた。
五年後。磯村家には妻を名乗る女性と幼稚園に通う優麻という娘がいた。未だに過去の事件を疑う馬目警部は彼女に接触する。彼女は事件の時、磯村明のアリバイを証明した画廊の従業員だったのだ。彼女は彼女で娘のことで大きな秘密を磯村に対して抱えていた。

全編を飾る極彩色のチベット仏教の思想が最後に巻き起こす本格ミステリの驚愕
今では決して珍しくなくなった、様々な文化や宗教をベースにした本格ミステリだが、発表当時は多少珍しかったのだろうか? 解説の紀田順一郎氏がこのあたり力説しているが……。そういう意味では綾辻氏ら第一世代の「新本格」と、その後の「第二世代」の新本格との橋渡し的な時期の作品にあたるのかも。
物語は時系列に分かれ、猟奇的な死体を捜査、自殺という結果に割り切れない思いを抱く刑事の視点、そして画家の後妻で一人娘の優麻の母親の視点とで語られる。刑事はその後妻を犯人と見込み、後妻自身は秘密を持っている。一見、その後妻さえ独白すればその奇妙な事件の真相が明らかになっておしまい……とはならない。確かに彼女は真相を独白する。それはそれで意表を突いた内容である。しかし、読み進めることで読者はこの「物語」が抱え込んでいる秘密が、別のところにあることを薄薄と気付かされるという仕組みだ。特にこの後、妻視点のパートは「怯える主婦」という彼女の役柄も相まって、サスペンス的な雰囲気が強くなってくる。この独特の緊張感が維持されたまま、物語はスピードを上げて反転していく。どことなくメビウスの環を思わせる語り口のテクニック。意味深なプロローグが終盤のどこと繋がってくるのか。そして何よりも、物語に極彩色の彩りを与えている臨死体験や、そのチベット仏教の教えが、単なる装飾ではなく核心を突いて来た時、驚きと同時に畏れさえも感じた。
物語のサブテーマとして説明されてきた事柄が、思いも寄らぬところから顔を出すショック。これもまたメビウスの環を想像させる。文庫版で付け加えられたというカタストロフィは、個人的に直接描写としては必要ないように思えたが、確かに注意深く読まないと冒頭へ還らない読者もいるだろうし、判断し辛いところ。受け取り方次第かな、とも。

現在も二階堂黎人氏、芦辺拓氏らと並んで「本格ミステリ」にもっとも強いこだわりをみせた作品を発表し続ける愛川晶氏。本格ミステリに止まらず、作品には社会派的テーマが込められることも多く、そのあたりは芦辺氏の作品に近いスタンスを感じる。いずれにせよ、鮎川哲也賞出身として筋の通った活躍には今後も目を離せない。