MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


01/10/10
青井夏海「赤ちゃんをさがせ」(東京創元社'01)

自費出版がネットで評価が急上昇して創元推理文庫入り、少なからぬ話題作となった『スタジアム 虹の事件簿』より七年。その文庫版にて予告されていた通り、青井夏海さんが東京創元社の女流作家書き下ろしシリーズ「クイーンの13」の四冊目として堂々の新作を発表した。

助産婦。出産に際して付き添い手伝いをし、子供を取り上げる仕事。自宅出産専門の出張助産婦、聡子さんのサポートをメインの仕事としている二十代前半の駆け出し極貧助産婦、亀山陽奈が主人公。彼女らの師匠格にあたる伝説のカリスマ助産婦でタフで元気なお婆ちゃん、明楽先生が探偵役。
実業家、加々見さんの第一子の助産を依頼され、邸宅に赴く聡子と陽奈。彼女らを待ち構えていたのは三人の「サツキ」さん。男の子に事業を継がせたい加々見さんは、生まれてきた男の子を「サツキ」の実子として届けたいという。お母さんの一人は本物、他の二人は経済的事情を抱えた別のお母さん。彼女らの話から、本当のお母さんを見抜くことが出来るのか? 第一話『お母さんをさがせ』
高校三年生同士の年若いカップルから助産を依頼された二人。お母さんになる理帆ちゃんは父親が産婦人科医なので、自宅出産でなければ中絶させられてしまう……だけでなく、子供に対して責任があるという彼女の元家庭教師とサラリーマン二人が現れ、彼女に対して結婚を迫ってきた。果たしてお父さんは誰? 第二話『お父さんをさがせ』
聡子さんの元旦那、宝田が陽奈を待ち伏せ、復縁したいので聡子さんに橋渡しして欲しいと強引に言い募ってきた。反感を覚えて断った陽奈。だが聡子さんの患者が相次いで自宅出産をキャンセルしてきたことから、宝田の妨害を感じて調べはじめるが、別の怪しい影もちらついて……。行方不明になったお母さんと赤ちゃんはどこへ行った? 第三話『赤ちゃんをさがせ』

全ての「女性」と全ての「男性」に向けられた暖かい贈り物。本屋で青井夏海をさがせ
三作とも「助産婦」という仕事が密接に関連した「出産」という人生の一大事に絡む人間模様が謎となっている。殺人事件などが発生しないという角度からはいわゆる「日常の謎」の系譜に繋がる位置づけとされそう。しかし、出産ほど「非日常」な出来事もないような気もするな。
三人の母親のコメントから真実を見抜く第一話、三人の男たちから父親を推理する第二話、自宅出産をキャンセルしてくるお母さんたちの事情を探る第三話。それぞれ微妙に異なる趣向を用意している。伏線もしっかりしており(しっかりしすぎて、真相が透けたりするのは御愛嬌)フェアな構造は本格ミステリファンにも喜ばれそう。 主人公の陽奈が駆け回って情報を集めて、ベテラン助産婦、明楽先生が嬉しそうにその真相を語る。この安楽椅子探偵と依頼者? の関係は、どこか鮎川哲也の「三番館のバーテン」シリーズに通じるものがある。また、物語という経験を積むことによって少しずつ助産婦として、女性として、人間として成長する主人公が実に微笑ましい。恐らく誰が読んでも、気持ちよく最後まで読める作品である。

そこで、もうちょっと考える。 三作品を通じてミステリの鍵を握るのが「出産を控えた妊婦」と共通している。そして物語の主人公も、探偵役も助産婦。この両者に共通しているのは、「男性には決してなることが出来ない」ことだろう。つまり女性たちが主体となって物語を引っ張っているのだ。これに対して、それぞれの物語で陽奈が(一方的に)問題視して悩む原因が存在する。一口でくくるのは強引かもしれないが、それは「男性の身勝手」。 男の子が欲しくて策を弄する実業家。若い妊婦の父親になろうとする三人の男たち。そして、一方的に復縁を迫る聡子の元旦那。助産婦としての経験も浅く、未婚の陽奈は彼らに対し、憤り、疑念を抱き、疑いを向ける。「女性」vs「男性」の対決という、分かりやすい構図を陽奈は好んで作りあげている。
一見、この「女性」vs「男性」の構図が成立するような物語を、わざわざミステリに仕立てるのが作者の巧さ。 人生経験が豊富な女性=明楽先生が、この構図を解体していく。ミステリにつきもの……そう、どんでん返しによって、男女の対立を、男女の融和の物語へと見事に変換させてしまうのだ。 赤ちゃんはひとりでにできるものではない。「赤ちゃん」をさがすとき、そこにはお母さんとなる人がいて、そして当たり前だがお父さんとなる人もいるのだ。女性だけでも、男性だけでも赤ちゃんは産まれない。この当たり前で、かつ大切なことが読者の胸にすっと入り込んでいく。男と女、それは決して対立する概念などではなく、しっかりと信じ合うべきものだということ。

ミステリ作品というエンターテインメントに止まらず、青井夏海さんの「想い」も感じられる傑作。長年のブランクに危惧がなかったとは言わないが、気持ちよく裏切られた。文庫に入る前から応援していた身にはこれは嬉しいプレゼント。今後もどしどし魅力的な作品を発表していって欲しい作家である。


01/10/09
京極夏彦「ルー=ガルー 忌避すべき狼」(徳間書店'01)

京極夏彦氏の三年ぶりの書き下ろし長編(妖怪シリーズは時々メフィストに掲載されているからか)にして、初のSF長編。'98年『アニメージュ』誌やインターネットを中心に徳間書店によって「プロジェクトF.F.N」という本書のための企画が開催された。読者より様々な未来予測の応募を募り、その内容を京極氏が作品に反映するという双方向の試みである。もちろんその結果が本書となる。(巻末に応募者がspecial thanksとして連なっているが、末席に私の本名が掲載されていたり) 祖父江慎氏による変形フランス装の装幀。

二十一世紀を超えてから数十年。日本は高度に管理された世界となっていた。国民一人一人が携帯端末を持ち、ほとんどの交渉は互いのモニターを通じて行われ、人々が直接顔を合わせる機会は限られていた。また未成年も含めてプライバシーも徹底的に保護され、警察といえど自由にならない。徹底した環境保護により、食材も全て合成食品となり、紙は貴重品となっていた。学校が無くなり学習は一人一人がモニターを通じて行う。ただ週に一度、カウンセラーの指導のもと彼らは直接に顔を合わせる機会を持った。
十四歳の少女、牧野葉月は神埜歩未と共に過ごす時間が好きだった。そこに現れたのが天才少女、都筑美緒。近隣の地区で連続殺人事件が発生しているので、真っ直ぐ帰らないと危ないと彼女は言う。その美緒の落としたディスクを届けにC地区の彼女の家を直接訪れた葉月と歩未。美緒は沢山の機材の中で暮らしていた。
一方。 未成年を対象とした連続殺人事件の発生に伴い、警察は地区に住む児童のデータを供出するよう青少年保護育成委員会へ要請してきた。潔癖性のカウンセラー、石井静枝は彼らの強引なやり方と未成年を疑うことに反発する。彼女はその結果、データコピーの仕事を押しつけられ、古いタイプの刑事、橡と共にその任にあたらされる。

京極夏彦の描くSFは、世界を徹底的にしゃぶり尽くしてミステリへと着地する――
この時代に発生している連続殺人事件が、最初は裏側で、後に表側に登場する核となる「謎」である。ただ、それを中心にして物語は進まない。あくまでそれは裏側にある流れとして脈々と存在するのみ。前半部は寧ろ、この「世界」の説明や概念についてを端的に示す情景を描写するのに費やされている。少女たちの日常生活、そして日常会話。無理矢理説明するでなく、登場人物らの会話や思考を通じて読者の想像力を刺激し、明確に描かずとも輪郭が頭の中に浮かび上がる。この手腕はさすが。
そして連続殺人事件が徐々に彼女らの身近に迫ってくる。しかし、人間同士の繋がりが薄いこのコミュニティ、映像で伝えられる事実はそれほどの衝撃を伴わない。(現在にしても既にそうかもしれない……)この衝撃の無さがまた伏線ともいえよう。
しかし、彼女らが庇護していたはずの友人が、殺されるはずのない状況下で殺されるあたりから事態は一変していく。描写は世界観から徐々に「少女たち」へと中心を移す。ここまで丁寧に構築してきた世界は、事件によって否定される。彼女らの感じる「?」はそのまま読者の「?」となる。事件そのものの衝撃は実は小さくとも、信じていた世界を否定させることで、少女たちのアイデンティティ、そして物語の謎、共に大きな転換を迎える。実に巧みに京極氏はこのポイントを利用し、物語の推進力へと変換する。
読み進めるうちに連続殺人事件の犯人の予想はつく。しかし、まさか動機がこれとは! これまで再三繰り返されていたある設定が重要な役割を果たしていることに気付かされて愕然とする。管理社会であること、環境保護社会であること。そういった思想をベースに作られた未来が持つ歪みが、本作における「ミステリ」を支えている。 これはミステリの方法論と何ら変わらない。というかSF作品というより寧ろミステリといった方がしっくりくる。しかも京極ミステリ。

本作には「人間を殺すことはいけないことなのか」という永遠に議論が続くとも思われる問題がテーマとして取り上げられている。現代でも、大きな事件がある度に取りざたされるこの問題。私も実は密かに回答については悩んでいたのだが、これまでの人生において最も感銘を受ける一つの解が本書の中で示されていた。これには驚くと同時に感動した。なるほど、法律論と感情論をない交ぜにするから分からなかったのか……。

いくつか覚え書き。この作品で使用されるある小さなトリックの一つは森博嗣氏の某有名作品とコンセプトが同じ。このことに気付いて森ミステリィも、角度によってはSFなのかもしれない、と逆の感想を持った。それと、京極さんの描くアクションシーン、あまり上手とはいえない。 思考の混乱を描くことには卓越した技術を発揮する方なのだが、肉体同士の戦いとなると途端に文章の冷静さが目立ってしまう。(あくまで、アクション主体の物語と比してのことであり、大した問題ではないのだが)

願わくば、京極作品らしいこの厚みはちょっと読んでいてしんどかった。腕も疲れるし。活字が大きいので二段組にしてもっとシンプルにするのも一つの方法だと思う。キャラ萌えで読む読者もいそうだが、私は純粋に高度のSF世界+京極ミステリの二つの世界の密接な繋がり、及び一体感を評価したい。


01/10/08
藤村正太「孤独なアスファルト」(講談社文庫'76)

元々、川島郁夫名義で旧『宝石』誌などで中短編を発表していた藤村氏が本名に近い筆名に変えて'63年に江戸川乱歩賞に挑戦、見事に第9回の同賞受賞を果たした作品。本文庫版の解説は渡辺剣次氏。

東北で中学を卒業後、単身東京の日東グラスウールという中小企業で働く田代省吾。彼は抜けない東北弁から同僚からはズーちゃんとあだ名を付けられていた。仲間は軽い気持ちだったが、そのことは彼自身が深く気にしていた。働きながら通う定時制高校を通じ、大企業の千代田産業への願書を提出した省吾だったが、そのことが会社を仕切るワンマン常務、郷司の耳に入り、こっぴどく叱られる。改めて常務宅にお願いに行った省吾はまたしても手酷く怒鳴りつけられ、慣れない酒を浴びるように飲み前後不覚で寮に帰る。彼は玄関で「郷司のやつ、殺してやる」と怒鳴りちらした。一方、省吾を叱りつけた郷司常務は、専務の柿崎や役人らと料亭で会合していたが、その後行方が分からなくなってしまう。関係者の探索により、他殺死体となった郷司が発見された。柿崎ら社内の競争相手が疑われたがアリバイがあり、動機を持つ省吾が疑われはじめた。

社会派小説+アリバイ=昭和三十年代後半の推理小説の理想型
貧農の倅としての辛苦。中卒での孤独な上京。劣悪な職場環境で働きながら定時制へ。言葉の訛りからくる職場の孤立。学歴や地方出身である為の有形無形の差別……。高度成長期の日本の華々しさの裏側に存在した生臭い現実。これが作品を通じて浮かび上がる。昭和三十年代に生きる人々が知りつつ目を背けていた世界。二十一世紀に生きる我々が、知りつつもどこか現実にあったことと認識しづらい世界。これが泥臭いリアリズムと共に作品内に屹立している。ブルジョアとプロレタリアートの対立という構図が背景に透けて見えるあたりも発表年代を感じさせる。 (そして、それが大いなるリアリティとして支持されたであろうことも想像に難くない。)
基本的には(明かしても構わないだろう)アリバイ崩しの本格推理小説。ミステリーの遊び心よりもリアリズムの文学から生まれたかの重厚な文体と、あくまで現実的で泥臭い捜査内容。 時代背景と、あるちょっとした錯覚とが緊密に接しているので、辛い物語を読まされたというような感慨は抱かないが、やはり本作品は昭和三十年代の落とし子。この時代だから評価され、この時代だから読まれた推理小説という感。現代の読者が無理に手に取る必要のある作品ではないが、「昭和三十年代の推理小説の典型」を知るためには入手もしやすく比較的向いているかもしれない。

本書とは全く関係ないながら、近年世界の工場として注目を集めつつある中国。もしかしたら現代の田代少年は日本にはおらず、かのような国に沢山いるのかもしれない……。などとふと考えてしまった。繁栄が眩しいほど、その下の闇は濃い。果たしてどうなのだろう。

現在は講談社文庫の乱歩賞全集にて西東登『蟻の木の下で』との合本で入手が可能。個人的には講談社文庫のオリジナル初版白背を探していた関係で手に取るまでに時間がかかってしまった。しかし、このペースで果たして今年中の乱歩賞受賞作品全読破が達成できるのか?


01/10/07
皆川博子「結ぶ」(文藝春秋'98)

推理作家協会賞、直木賞、そして本書出版の前年には『死の泉』にて第32吉川英治文学賞を受賞した皆川博子さんはミステリや時代物、そして幻想小説の類い希なる書き手として知られている。本書は'91年から'98年にかけて「ミステリマガジン」「オール讀物」誌他に掲載されたそんな幻想系の作品を中心に集成した作品集。

そこは縫わないでと頼んだのに、縫われてしまった。昨日も一昨日も縫われた。こんなに縫われると見た目にもよくないと思う。 『結ぶ』
客のまばらなティー・ラウンジに、小曾木欣子の姿はなかった。欣子を見逃すことはない。雑踏のなかにいても、欣子なら目につく。 『湖底』
小さかったあなたのために、わたしは、ずいぶんいろいろなものを燃やしたのでした。 わたしの部屋の濡縁にならんで腰かけ、あなたの足は沓脱石にもとどかなくて、宙でぶらぶらしていました。 『水色の煙』
いつだったか、もう思い出せないくらい遠い昔に読んだ詩だ。うろおぼえなのも、無理はない。廃園に、ふたつの影がたたずみ、うつろな会話をかわしている。 『水の琴』
たちまち、城は焼け失せた。ボール紙の城だから、ひとたまりもなかった。城の中の骸も、灰になった。 『城館』
冬は、汐のにおいが強さを増すのでしょうか。夕陽に眼を射られて歩く道の両側はガラス戸を閉ざし、内側に薄汚れたカーテンをひいた人影のない土産物屋だの釣り道具屋だのがつづき、海はどこにも見えないのでした。 『水族写真館』
――わたしは名づけるだろう かってお前だったこの城と砂漠と、この声と夜と お前の顔の不在を ―― 『レイミア』
油煮えたぎる釜のなかに投じられたのは、三つの首。肉は爛れ融け、底に髑髏が残った。〈肉の融け混じった油は、さぞ、美味しくなったんでしょうね〉 『花の眉間尺』
疲れて倒れこむように、めざめた。夢を見たのだろうが、なにもおぼえていない。からだの芯から疲れが湧き出て、そのくせ、妙に心地よいような。 『空の果て』
橋の手すりにもたれた老人は、昏い川面に視線を落としていたが、やがて片手で左の眼をおおった。歌声が流れていた。哀切なメロディであった。 『川』
昼は、仮面をつけた夜にすぎない。光は、闇のまばたきにすぎない。私は、おまえの背中であるがゆえに、おまえの主だ。 『蜘蛛時計』
甃の坂道より一段高くなった石の上に腰をおろした女が、なぜ、ことさら目にとまったのか。 『火蟻』
前略。いつもお世話になっております。このたび左記に転居いたしました。いささか不便な田舎ですが、閑静で仕事には向いています。 『U Bu Me』
姉は金魚売りが好きで、のんびりした呼び声がすると、すぐに表にとびだしていくのだが、心臓売りは、売り声をあげず、黙々とリヤカーをひいいてまわるだけだから、路地の気配に気をつけていないと、知らないうちに通りすぎてしまう。 『心臓売り』以上、十四編。

人間の営みにおける区切りや境界がどんどん曖昧に、作品さえも融けていく――
最初の文章、いや一行目から異界へ引き込まれる。 ……それが極められた皆川幻想文学の真骨頂。単に興味を惹く事柄が必ずあるでもなく、特に奇態な言葉があるでもなく、淡々とした口調で「語り」がはじまる。それがどんなにか、現世と離れた世界を語るにあたっても、あくまでその語り口は淡々としている。淡々。
皆川博子の作品の語り部は、まず激することはない。常に何事もなかったかのように、何事かを語り始める。それを優しく感じる時もあれば、恐ろしく感じることもある。風の吹かない森の奥にひっそりと存在する池の水面。こちらの心がその文章に映し出される。細やかな風がその水面を乱したとしても、すぐにまた元に戻る。静かになる。皆川作品の中では、異界の者と現世の者が混じり合い、会話し、共に暮らす。境界線――生者と死者、男と女、親と子、そういった全ての境界線を皆川世界は静かに、暈かし融かしていく。 それは短編集全体にもいえる。いくつもの物語が、いくつもの世界が存在しているにも関わらず、それらの物語の境界もまたぼやけて、短編集なのに丸ごとが一つの世界かのような印象に変化していく。淡淡と。
本編収録の作品も斯様な理由で一編一編にコメントはあまりしたくない。梗概は物語冒頭の文章をもって代用した。ただ、『鼻の眉間尺』に登場する老婆と少女? 二人が交わすやり取りがユーモラスでいて切り口鋭く、下ネタからボケとツッコミの精神がさりげなく援用された内容となっており、強烈に「ツボ」に嵌った。皆川作品には珍しい切り口かとは思うが、ラストまで読み終えていけば紛れもない皆川幻想の中に自分が居た。『結ぶ』のマゾヒズムに満ちた幻想性、『蜘蛛時計』で構築される残酷世界を通じて語られる人間世界の愚かさ。個別にとっても傑作だが、それでも作品集全部を通じて味わい尽くしたい。

近く白泉社より刊行される『皆川博子作品精華』の編集を担当される千街晶之さんに以前、皆川博子のお薦めを掲示板に記入して頂きました。本書は、その際に幻想系の近年の収穫の一つとされていた作品集。(他は『ゆめこ縮緬』『悦楽園』などが挙げられていました)。アドバイス通りの傑作。……というか現在のところ、皆川短編集にはそもそも「外れ」がありません。


01/10/06
筒井康隆「欠陥大百科」(河出書房新社'70)

デビューして十数年。まだ「若手」SF作家という時期の筒井氏が百科事典風に「あ」から「ん」までの言葉について独自解釈を加えた雑文(失礼ながら)集。読む気はなかったのに、ぱらぱらと捲っているうちに気付けば読了してしまっていた……。

「あくま」「あっこんぞうごんばりざんぼう」「アングラ」「あんぽ」「いたずら」「いちもんいっとう」「いぬ」「イラストレーター」「インタビュー」「うちゅう」「ウマ」「うんどうかい」「えいりん」「エスエフ」「えちごつついしおやしらず」「おおげさ」「おこらないおこらない」「おしゃべり」「おんがく」「おんな」「かみ」「カラーテレビ」「がん」「かんこう」「かんたい」「きかい」「きさま」「ギター」「ギャグ・マンガ」「きょうりゅう」「ぎんざ」「クイズ」「けいこうひにんやく」「けいはく」「けっかん」「こっかい」「コマーシャル」……おおよそ百前後の項目あり。

筒井康隆流「悪魔の事典」。再び蘇らせられないその中身は?
元は様々な雑誌に発表された短文や小さなコラム、マンガ、そして本書のために付け加えたと思しきいくつかの項目によって形成されている。なので、きちんとした事典形式ですらない。
――内容? 当然まともな百科事典のはずがないではないか。なにせ題名で最初から「欠陥」と謳っているくらいだし。冒頭近くの「悪言雑言罵詈讒謗」にて悪口の筒井流分析をしているのだが、××××など差別用語や放送禁止用語がだららららと羅列されている。この頁を見た段階で「あ、これは復刊されることは、まずないな」ということが納得出来てしまう。ただ、刊行された年代を鋭い切り口でぶった斬る手腕には、素直に唸らされる。'60年代後半に書かれたこともあり、未来予測の多くがちょうど今現在くらいを想定していて、筒井氏の予測と現在のギャップについても面白く感じられた。テレビ電話は昔からずっと言われているけれど、流行りませんね。
また、個人的には意外だったのだが、多くの事柄について実際に取材した上で分析を行っていること。例えば「週刊誌」の項目では、当時販売されている全ての週刊誌を購入して分析を試みているし (ほとんどこの三十年の間に廃刊されていて、かえって新鮮だったり)、イラストレーターの養成学校や、精神病院についても実際に取材し、現状を正直に描いている。(正直すぎて差し障りがあるので、今はかえってこのアプローチは難しいだろうな……) また当時の常識が今ではひっくり返っているものもあるし、当時の提言であっても現在に通用しそうなものもある。風俗に関しては完全に過去の遺物が並ぶが、当時を伺い知ることが出来るという別の意味での興味が深い。「ハント・バー」なんて知ってます?
これもおまけの要素だが、当時の文壇の人々が実名で登場。あの人とあの人とあの人が実は銀座で遊び歩いていたとか、執筆ジャンルを超えた意外な人間関係だとか、今読んでこそ面白い部分も多数

アンブローズ・ビアスの『悪魔の事典』ほどの普遍性はありませんが、「毒」の加わり具合は同じか、それ以上。 変わった百科事典ですが、いろいろな意味で面白く読めてしまいました。一家に一冊常備しておくのも悪くはないでしょう。古くはありますが、入手難易度そのものはそれほど高くはない模様。


01/10/05
秋月涼介「月長石の魔犬」(講談社ノベルス'01)

第20回メフィスト賞受賞作品。秋月氏は1971年5月11日生まれ。それ以外のデータは掲載されていない。

理系の美人女子大生の鴇冬静流(ときとうしずる)は、ふとしたことから石細工を生業とし店を出している青年、風桜青紫(かぜくらせいし)に惹かれ、無料アルバイトと称して彼の店に通っていた。彼女は月長石に狼がデザインされた青紫が作ったブローチが気に入り、置き手紙を残して持ち出した。ところが大学構内で、静流に反感を持つ先輩の立花正美にそのブローチを騙し取られてしまう。その立花が変死体で発見された。首を切断された上に、切り取られた犬の首が縫いつけられていたというのだ。立花と同じゼミの学生も行方不明となっており、連続殺人事件とみられた。キャリア警察官の鴻薙冴葉(こうなぎさえは)警視は梅崎賢玖郎巡査部長と共に捜査にあたる。管区では他にも連続殺人や連続爆弾魔事件が発生しており、最後の被害者は殺害後、左手が切り落とされており、更に別の殺人鬼がいるのでは、と目されていた。今回の犯人の渾名を「月狂の魔犬(ルナティックケルベロス)と名付けた冴葉は、検屍担当の嘉神沙遊良(かがみさゆら)から死体の検案書を入手し、被害者をチェックする。一方、十七歳の少女、霧嶋悠璃(きりしまゆうり)は「先生」から早く殺して欲しいと思っていた。生まれつき欲望に障害のある彼女は、自分自身の生きる意味を見失っており、自殺しようと森に入ったところ殺人を犯したばかりの「先生」と出会い、初めて「殺されたい」という欲望を見出したのだ。

近年のミステリに求められる諸要素をわざとふるい落とし、別のものを取り付けて……
登場人物名にヅカか同人誌か! というような名前がつけられているが、作者のこだわりだろうし、想像していた程読みにくくはなかった。(これが何かのアナグラムなのか検討するのはめんどくさいのでしていません。すみません。)また、単語や熟語に独自のルビを振っているあたりの文章センスは個人的には嫌いではない。同じ言葉を視覚的聴覚的に受け止めることでより深い意味合いを感じ取れる。そういった目新しさとは別に、本書がメフィスト賞足る理由は、一見「フツーの新本格ミステリ」と思わせておきながら、本質的にそれとは全く異なる構造を狙っているところにあるだろう。一見「フツー」というのが実にクセ者なのだ。

・理系の女子大生である男性に一途、しかも美人……西之園萌絵。
・女性心理に無愛想、自分の身嗜みには無頓着ながら実は結構いい男、頭の回転も早い……桜井京介他。
・弾けたセンスを持つ美人でキャリアの警察官&お守り役を仰せつかる情けない刑事……根津愛&桐野慶太とか、薬師寺涼子&泉田警部補とか(ここはちょっと苦しいかな)。ないし能解匡緒って手もある。
まず、登場人物のキャラクタ設定に先行作品との類似が全体的に感じられる。 俗にいうキャラ萌え用の登場人物。しかし、設定はどうあれ本書に登場する人々、どこかオリジナルに比べて「外している」ところがある。性格がよく分からなかったり、趣味が悪かったり、自分勝手が過ぎたり、思ったほど明晰でなかったり。なかなか登場人物を素直に受け入れにくい。そして、場面切り換えが頻繁な章建ても、読者の感情移入をわざと拒もうとしているように感じられる。
事件は冒頭から相当猟奇的に飛ばす飛ばす。物語メインの謎となる犬の首を縫いつけられた(縫いつけるってのが凄いよね)連続殺人事件。その他にもこの世界の背景には数件の猟奇連続殺人魔が存在する。この猟奇性を合理的な理由に着地させるのが「新本格ミステリ」の一つの特性だと思うのだが、本作での動機や犯行方法についても説得力が今一つ。しかも、その説得力の足りなさも確信的行為ではないかと疑える。
一方、連続殺人鬼を殺す連続殺人鬼というネタそのものは大賞賛もの。 手掛かりを読者にも与えて、きちんと犯人に結びつけている。事件そのものの謎を解く探偵役そのものについても、小さなミステリを仕掛けているあたりも心憎い。「先生」と悠璃については物語の絡み方が弱いように思えるものの、その他の登場人物については事件との距離など、よく計算されている。これだけの筋書きを作りながら、恐らくわざと肉付けを一般に受けないようにしているように思えてならない。
つまり、一般化してしまった「新本格ミステリ」を一旦解体して、読者をわざと裏切るような形で仕上げた作品なのではないだろうか? 「新本格ミステリ」のように見せかけて、読者を突き放す形で方式を否定する。ただ、物語としてのエンターテインメント性はキープしているものの、「新本格ミステリ」を否定した結果出てきたものがまだ形になり切れていない未熟さも持ち合わせている。しかし、この実験精神は、新世紀のメフィスト賞には、奇妙に相応しく感じられた。

舞城王太郎氏や佐藤友哉氏など、今年のメフィスト賞は本格ミステリを自己否定するような作品が多く受賞しているように感じられる。それでも一定のエンターテインメントになっているのが、やはり才能だろう。問題は王道を外れたスタートを切った彼らが、その後どちらの方向に向かっていくのか、になるような気がする。


01/10/04
土屋隆夫「深夜の法廷」(光文社文庫'96)

現役本格推理作家では最長老の一人、土屋氏が'89年に『不安な産声』を発表し、その七年後に『華やかな喪服』を完成させた。その間、氏は沈黙していたわけでなく'92年に雑誌『EQ』に中編『半分になった男』を、その翌年に同じく中編『泣きぼくろの女』を発表していた。『泣きぼくろの女』は加筆されて題名を『深夜の法廷』と改め、『半分…』と共に一冊の単行本として'93年に光文社より刊行された。本書はその文庫化作品。

香恵は竹久夢二の描く女性のように儚げで細い身体に白い肌、そして泣きぼくろを持っていた。そんな彼女はそのたおやかな外見に似ず、心の奥底には自分を虐げた者に対する復讐心を幼い頃から持ち続けていた。彼女が結婚した相手は中学校の教師の洋平。彼は小心者ながら彼女には尊大で、彼女のほんのちょっとした行動から嫉妬の炎を燃やすのが常だった。そんな彼女の母親が怪我をしたことを機会に洋平は、今までと違い実家に帰ることを香恵に対し快く許可する。母親の薦めに従い、一日早く帰宅した香恵は、洋平が別の女を自宅に引き入れて浮気していることに気づき、彼に対する復讐を決意する。それは完全犯罪でなければならない……。 『深夜の法廷』
財産家のわがままお嬢様の家に婿入りした男。彼は突然自分の身体の半分が、別の人物に支配されていると主張しはじめる。精神科医によれば、彼は一種の精神病と判断されるのだが、彼自身はもちろんそれを認めることはない。ある日、彼は自宅の精神科医の往診を受けた直後、縊死死体となって発見される。彼の顔面から身体にかけて、半分が真っ黒に墨汁が塗られ、自分自身の精神を苦にした自殺だとして処理されたのだが、四年後になってこれは他殺であるという何者からかの投書が新聞社と警察に送られてきた。 『半分になった男』

あくまでトリックにこだわり、物語の形式にこだわる。時代を透明にする本格推理短編
この作品集に収録された二つの作品は、土屋作品の年譜の中ではかなり近年に執筆された部類に属する。従って事件の背景となる時代も、他の短編集収録作品に比べて比較的近い時期にあたる。極端な話、ミステリ界は既に「新本格のムーヴメント」が始まっており、活況といえる年代……と重なるということ。
しかし。 土屋隆夫はその創作スタンスを時代に合わせて変化さえたりしない。 極端な話、この二作品の成立年代を執筆時の更に十年、二十年前と予備知識無しに言われたら信じてしまいそうなくらい。(物語中にいつという記述がないので、この点を追究するのはあまり意味はないのだが) 変遷する時代風俗や家電などの時代的な情報を可能な限り廃し、土屋氏の手の届く範囲で背景を創り上げているため、昭和中期に書かれた初期の短編作品と比しても非常に近い感触があるのだ。さりげなくも端整に仕上げられた文章、誰にでも理解出来る特殊性を廃した時代背景の中で紡がれる推理小説は、誰にでも受け入れられる普遍性を保っている。
『深夜の法廷』は倒叙もの。読み進めることで『深夜の法廷』というタイトルの秀逸さが浮かび上がる。見所はやはり妻が浮気した夫とその愛人に対する完全犯罪の緻密さであろう。倒叙ものの常で、完全犯罪は意外なところから瓦解するのだが、この瓦解がなかった方が個人的には好みかも。
『半分になった男』はインタビュー形式で事件を浮き上がらせる試みが面白い。とにかく章毎に語り手が代わり、一方的な会話文で物語が構成される。トリックそのものは「病気ネタ」なので個人的には好きではないのだが、この試みでまず評価されても良いだろう。
ただ、土屋作品における人間観察の鋭さのようなものについては、初期短編に比べると微妙に衰えているようにも感じる。一定以上のレベルにあることは確かなのだが、どこか考案したトリックに寄りかかっているような印象が拭えない。あくまでこの二作からの判断なので、断言は出来ないのだが。

しかし、土屋作品に出てくる人たちって(ワタシからすれば)異常なくらいに性欲が強いよなぁ。昔の人ってみんなそうだったのかなぁ。こればっかりは人に訊くわけにはいかないので、ワタシの永遠の疑問になるかもしれない。

実はまだ『不安な産声』以降の土屋作品を読んでいない。なのでもしかすると上記の指摘は的はずれかも……と、ここまで書いてから思いついてしまった。ただ「昔懐かしい」シンプルな本格推理小説がこの作品集内に詰まっていることには異論はない。 推理小説の求道者、土屋隆夫らしさが滲み出る二つの作品。


01/10/03
小泉喜美子「ミステリーは私の香水」(文春文庫'85)

'80年に文化出版局より三五判ソフトカバーで刊行された、小泉さん初のエッセイ集が文庫化されたもの。オリジナルに収録されたエッセイのいくつかは『やさしく殺して』他に収録された関係でいくつか割愛がある。またオリジナルと本書であとがきが異なるので注意――といっても、『メインディッシュはミステリー』と並び、比較的入手が容易な小泉エッセイ集ではある。

I あの男(ひと)この女(ひと)
「戸川のあねご」「眉村のニイさん」「色川オヤブンと元・金剛」「松島屋の末息子」「談志・ザ・キッド」「冨士真奈美太夫」「青木の雨さま」「寸鉄人を刺さなくちゃ」「ラストの数行」「涙さそう”栄光の果て”」「弁解屋アイク」「舶来崇拝!」「能の修羅物」「一行が千万語に勝る」「ハマっ子マーロウ」「三つめの名訳」「チャンドラーと猫」「ハードとハート」「日本のハードボイルド」「弁慶が泣いたとき」「男と男 心の接点」「ハリデイの傑作短篇」「保安官と私立探偵」「冷笑的でキザな」「男のロマン『忠臣蔵』」「男は”タフ”と”やさしさ”」「メリー・クリスマス」「文壇交遊」「異性とつきあう妙味」「酒場での誤解」「下町っ子の酒」「正体見たり」「楽しきパーティの一夜」「食べる話」「無頼派の食事」「映画に登場するコーヒー」「おお宝塚」「”下座”と”怪音”と」「「雨」は六月?」「獅子物あれこれ」「往年の名画」「三島由紀夫の麻雀描写」
II ミステリーは私の香水
「ミステリー作家たるからは」「ミステリーは私の香水」「優雅とはお上品という意味ではない」「ミステリーでフルコースを」「美酒とミステリーの味わいと」「真珠とハードボイルド」「警察を馬鹿にして」「外国ミステリーの楽しさ」「知らなければ仕方がない話」「華麗なる小宇宙へ」「『カーテン』」
III 無難な”常識”はいらない
「翻訳修行時代」「『ミスター・グッドバーを探して』」「無難な”常識”はいらない」「結婚国の憲法違反者」「女ざかりを迎える条件」「打算や世間体はお呼びでない」「ヘレン・ジャスタスのような女」「ジン・ライムのような女」「無神経」「私は怒っている」「”君子、危うきに近寄らず”」「そそっかしく候」「健康ってなに?」「二十九。三十九。四十九はミステリー」「桝目の幻想」「色っぽい話」「”花にはよし野”」「日本的」「ROSEはバラじゃない」
 +あとがき。

二十年以上、時代を先取りしていた大人の女性「小泉喜美子」を貴方へ
小泉さんのエッセイをいくつも読んできたが、今現在最も入手しやすい本作が、実はもっともまとまりに欠けているように感じた。小泉さんの交友録からはじまり、生活信条や、ミステリーへの想い、彼女が永遠の興味を注いでいた歌舞伎や能、落語などの伝統芸能に対するこだわりなど、ミステリー作家としての彼女の興味が比較的分かり易いところから語られ、食事の好みやほんのちょっとした日常の点景に至る、自立した女性ならではのポリシーが光る生き方の指針や、反対におっちょこちょいさ加減など「小泉喜美子」という女性の考えや視点が、平易に語られる部分まで。とにかく取り留めなく綴られたエッセイ集という印象。
ただ、この取り留めのなさが「小泉喜美子」の日常の価値観を様々な角度から照らすことになり、本書の中から立体化された「小泉喜美子像」がしっかりと浮かんでくる。(当時の)当たり前の女性の価値観を否定し、泥臭いこと、面白みのない全ての事柄を糾弾し、日本文化の「粋」を大切にする……。つまらない「良識」やらケチくさい「常識」に拘泥されず、自分自身の価値観をしっかり構築して、人生をもっともっと楽しみましょうよ。彼女自身の生き方がメッセージ性に溢れていることに気付かされる。
恐らく二十年弱が経過した現在の女性たちが読者ならば、彼女の生き方や考え方に共感出来る部分が多いかと思う。二十年、いや十年遅く生まれていれば、小泉さんは「世間の良識とやら」に立ち向かうというエネルギーを費やさなくても良かったのでは……などとぼんやりと思う。

ミステリー作家としての小泉喜美子の好みであるとか、こだわりであるとかを知りたいのであれば、もう一冊文庫化されている『メイン・ディッシュはミステリー』の方に軍配が上がる。しかし、若くして夭折した自立した自分の頭で物事を考えることの出来た、自立した大人の女性としての小泉喜美子を知りたいのであれば、断然こちらがお勧め。 とはいうものの、彼女の「ミステリー」のファンにとってはちょっと物足りないであろうことは否定出来ないけど。


01/10/02
貫井徳郎「神のふたつの貌」(文藝春秋'01)

昨年発表された『迷宮遡行』より約一年、貫井氏の長編では十一作目となるのが本書。'99年から'01年にかけて『別冊文藝春秋』誌に三度に分けて掲載された作品が単行本化された。

早乙女輝は十二歳。プロテスタントの敬虔な牧師とその妻との間で育てられたが、生まれながらに無痛症というハンディを背負っていた。小動物を殺しては死について、神について真剣に思い悩む輝。身体の痛みを知らない彼は心の痛みをもまた実感出来ず、父親とも母親とも親しく接することが出来ない。また牧師としては立派な父親と、一般家庭から嫁いできた母親との関係はどこかぎくしゃくしていた。そんな折、日曜の礼拝の最中に「匿ってくれ」と美しい顔立ちの男が教会に飛び込んでくる。ヤクザの情婦に惚れて手を出し追われている朝倉というその男は、追っ手をやり過ごすとそのまま教会に居着いてしまった。如才ない朝倉の存在は、沈みがちだった母親を明るくする。神について知りたいという朝倉は教会の青年会のリーダーである久永を通じて就職、町に溶け込む。しかし小さな町のこと、人々は母親と彼との間を邪推、無神経な噂が流れ始めた。気にして教会を出て暮らし始めた朝倉を時々母親は訪ね続け、父親の耳にもその噂が入ってしまう。最終的には、母親が朝倉の車に同乗している時に峠道で事故が起き、二人とも死亡してしまう。輝はその事件も悲しいと思うことが出来ず、人間の生と死の意味を、神の沈黙の意味を父親や久永に問い、そして悩み続ける。

本格ミステリを超越した本格ミステリ。限りなき「神」への信仰が行き着く果てとは
最初に述べておこう。本書にはトリッキーな仕掛けが潜んでおり、ジャンルとして「本格ミステリ」に分類することに躊躇はない。――しかし。
帯には「ミステリーの限界を超えた新世紀の「罪と罰」!」とある。そしてもちろん、上記のように本格ミステリでもある。しかし私は読み通してまず本書の本質は「クライムノベル」ではないか、と感じた。しかし、本書の中心にあるものはそう簡単なものではないようだ。結局読み終わってしばらく考えてからあることに思い至った。
(すみません。本書の本質を語るのに、どうしてもネタバレが避けられません)

現実も既にそうなりつつあるが、ミステリにおいても一般常識の範囲では理解出来ない理由で人を殺す「サイコ・キラー」と呼ばれる犯人たちが跳梁跋扈している。もちろん、ミステリでは、作品内リアリティの為にそれぞれの殺人に到る彼らなりの論理を取り上げる。とはいえ物語のメインのどうしてもミッシングリンクであるとか不可能猟奇犯罪とかになりがちで、真っ正面から「サイコ・キラーの論理」と向き合う作品は少ない。まず気付いたのは本書が「サイコ・キラーの論理」を内側から辿っている、ということ。「神」について思索に思索を重ね、四六時中「神」に関する悩みを抱える早乙女。早乙女が人を殺すに到った背景について、本書は執拗に描写を重ねる。どうしたら「神」の福音が人々に届くのか。「救い」を齎すためにはどうすれば良いのか。不幸な人はずっと不幸なままなのか。 ……早乙女が達した結論によって、人々は殺される。世間からみればショッキングで理由が理解出来ない「牧師の息子の殺人」。しかし読者はここに到る物語を共有しており、動機は既に知っている。何もないところから犯罪に到る過程が物語となっている。「クライムノベル」ではないか、と最初に感じた所以である。
しかし、改めてじっくりと読後感に浸るうちに、真犯人は早乙女などでなく、「神」そのものではないか、と考えるようになった。 物語にて発生する事件で直接手を下すのは人間。 もちろん「神」はずっと沈黙を守り、明確な殺人指令など発していない。「神」を求める早乙女が、いくら祈りを捧げても「神」は何も応えない。早乙女が人々に手を下した理由は、考えて考えて考えて考えた結果、神からの啓示が閃いたから。「神」の啓示による殺人。 なら、これは何も言わない「神」による操り殺人なのか? いや違う。彼らは犯行の瞬間に「神」の声を聞き、神と自らとの一体を体験しているから、操られてなどいない。 真犯人は「早乙女=神」そのもの。 早乙女自身は殺害の瞬間から「神の領域」に踏み込んでしまっているのだ。
そして父子は「神の領域」にいることを知ったがために「神」と交信出来ることを確信、傷ついた身体を引きずって山に登る。単なる警察からの逃亡ではない。「神」の高みにいるものが人間に裁かれる愚もあろうが、彼らはそんなことを怖れているわけではない。……そして山の頂上。彼らが神との交信を果たした至福の瞬間に物語は幕を閉じる。早乙女父子は人間では到達し得ない高みに登り詰めた。――この時点で、早乙女父子の殺人は犯罪とは呼べなくなる――つまり本書は「クライムノベル」ともまた異なる。強いて呼ぶならば「意外な犯人」のミステリだろう。もっとも意外でないはずの犯人が、実は最も意外なのだ。


本書によれば日本人の人口のうちのキリスト教信者の割合は1%程度なのだという。だが幼稚園や学校教育を通じ、それよりも遙かに多くの人々が何らかの形でキリスト教に接した経験があるのではないだろうか。(私は中学がカソリックだった)そうだとしても「神」の存在を心から信じ切れる人……というのはこの日本には更に僅かしかいまい。「神」も、もちろん私には見えない。

テーマはこれ以上はないくらいに重厚。それでいて決して読んでいる間に「重さ」は感じない。貫井作品らしい硬質な文章ではあるが、登場人物と共に読者も「考えさせられる」。読了した感覚はミステリのそれとはひと味異なる作品。


01/10/01
牧野 修「呪禁官」(祥伝社NON NOVEL'01)

今をときめく人気ホラー作家牧野氏が、実質上のデビュー作品『王が眠る丘』や出世作『MOUSE』などで見せた独特のトンガリSF世界と血沸き肉踊る大アクションストーリーを引っ提げて帰ってきた。(別にどこに出掛けていたわけではないだろうが) ノベルス書き下ろしで東雅夫、井上雅彦、笹川吉晴ら各氏激賞。

その世界では、オカルトが現実に効果を発揮することが実証され、現在は従来の人間の行動原理であった科学を凌ぐ勢いで発達していた。科学者達は冷遇されるようになり、オカルト学者や呪術者が幅を利かせる。元科学雑誌編集長だった西澤は、オカルト側の企みにより編集長の地位を追われ、失意のどん底にいた。焼身自殺を試みた彼を救ったのは狂信的科学集団〈ガリレオ〉に所属する一団。西澤は機械の身体を与えられ、数人の仲間と共に〈ブレーメンの音楽隊〉を名乗る対オカルトのテロ集団の一員となる。一方、霊力や呪術といったオカルト力が不正に使用されることを防ぐため、政府は「呪禁官」という査察官の養成に力を注いでいた。かって「呪禁官」だった父親の遺志を継ぐ少年「ギア」も養成学校に入り、それぞれ事情や得意分野と弱点を持つソーメー、哲也、貢ら四人と共に「呪禁官」を目指していた。だが、力弱い彼らは上級生の苛めに対抗するのが精一杯。それでも必死に努力を続ける。 また同じ頃、不死者ノスフェラトゥの異名を持つ蓮見という男が、強烈な霊力を持つ三つの呪具を集めるために行動を開始していた……。

明るく元気でハイパーな、異世界青春オカルトファンタジーアクション
テンポよく進むサスペンス色を含む本格ホラーもいいけれど、牧野修の作る近未来ファンタジーもまた個人的には非常に好みである。本書はたまたまNON NOVELにて刊行されたが、内容的にはヤングアダルトの文庫で刊行されていてもおかしくない。ということは「男の子心」をくすぐる少年の友情&成長&冒険が主題になっているということ。理解しやすく読みやすく、そして痛快。
相変わらず舞台や設定作りが巧い。本作も独特の科学&オカルト観をしっかりと据えた世界が構築されている。この段階で半ば成功したようなもの。物語の筋書きだけなら「落ちこぼれ集団の努力と根性による成功譚」という「典型中の典型」なのに、独特に設定されたこの世界と密着に繋がっているおかげで、本作は牧野氏らしい展開の予想がつかないファンタジーへと昇華している。古今東西の呪術や魔術、呪文や真言、妖術に使い魔などが飛び交い、それでいてごく普通の現在の我々と代わらない日常も存在するアンバランス。大勢力に反抗するレジスタンス、肉体派の大男(大女)、(あとダジャレとか)など、牧野ファンタジーではお馴染みのガジェットも数多く登場、非常に親しみやすい。
血や肉や膿もばんばん登場するし、人が傷ついたり死んだりというシーンも多数。特にそれなりにこつこつ作って来たキャラクタを終盤であっさり切り捨ててしまうあたりは、ファンタジーよりホラー寄りの牧野氏のスタンスが良く出ている。ただそのことそのものは恐怖感を喚起する意図はなく、却って主人公らに読者の目線が集中するような効果があって良い。ただ大量に切り捨てるとはいえ、元々の物語のエピソードが拡がりすぎていて、ラストの集約時に少し忙しすぎるような印象も多少残る。それぞれの戦いのシーンももう少し丁寧に描写してやった方が良かったかも。(もしかすると映像向き?) とはいってもラストに至っては大団円で読後感も爽やか。 (これも牧野ホラーと牧野ファンタジーの大きな違いだ)

とにかく単純に冒険心が満たされて読んでいて気持ちが良い。 『MOUSE』の時にも感じたが、この世界もまた本作のみで終結させてしまうのは勿体ないように感じる。せっかく主人公たちを満身創痍ながらも生かしているのだから……いや、それは牧野氏が続編に移るための伏線かもしれない。いやそうだ、そうに違いない。そうなんでしょ?