MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


01/11/20
舞城王太郎「暗闇の中で子供 The Childish Darkness」(講談社ノベルス'01)

煙か土か食い物 Smoke, Soil or Sacrifices』にて衝撃的に第19回のメフィスト賞をゲットしてデビューした舞城氏の第二弾。再び蛇柄のカバーに、一段組の文章とノベルスの常識を打破した装幀は本作も健在。

福井県の名家、奈津川家の三男、三郎。ミステリ作家として数冊の著書のある三郎は、前回の事件以来、実家で生活していた。三郎は普通の女性と交際出来ず、友人の妻や彼女と密通することを好んでいた。そんな彼の唯一の友人、猿江楓は三郎をたしなめるが、もちろん言うことを聞く三郎ではない。かえって楓は下手くそな男性と交際を繰り返し、失敗する度に三郎に慰められていた。そんなある日、三郎はマネキンを土中に埋める作業に熱中する少女を見かけ、興味を持つ。次々とマネキンを生き埋めにする作業に熱中する彼女の名前はユリオ、十三歳。しかし彼女がやろうとしているのは前回の事件の犯人が作ろうとしていた渦巻きの続きを作ろうというものであることに三郎は気付く。一方、三郎の弟、四郎は渦巻きの延長から、切断された足首を発掘、奈津川家に楯突くものは容赦しない二人は、ユリオ宅に上がり込んで、彼女が、その彼氏とともに自殺しようとしていることを知る。三郎がユリオを助けた(その彼氏は別の犯人によって惨殺)ことから、奈津川家は更なる混迷の渦に巻き込まれていく。

疾走するドライブ感覚+前作がラップならば、今度はレゲエのリズム? 三郎ドゥビドゥバ!
本作の舞台はデビュー作に続いて奈津川家。だけど主人公を務めるのは前作の「超人」ともいえる活躍をした四男の四郎ではなく、ミステリ作家として(現在はプーとして)暮らしている三郎となっている。三郎自身のキャラクタは四郎と異なり、変わった性癖や些か内向的でもあるため、前作の快刀乱麻の切れ味は正直鈍っている……が、作品そのものに流れるクレージーぶりはやっぱり健在。 奈津川家の一員でいる、ということは世間一般の常識の範疇にある人間を遙かに超えている。
本作では、奈津川家の一族に対して”個性”という意味で対抗しうるユリオという女の子が登場し、前作とは負けずと劣らない物語の混迷ぶりに拍車がかかる。また、物語全体の底流を占める「奈津川家の物語」についても、大きな進展がある。まぁ、「奈津川家の家族愛」については感動する前に予想のつかない方向に進んでしまうため、度肝を抜かれる方の印象が強い。この「奈津川家の家族愛」の元、発生するいくつもの事件。そして今回は全て三郎の事件。
絶対的スピード、つまり物語の奏でるテンポは変化した。前作を引っ張った四郎のテンポに比べれば(本作もそれなりに引っ張っているとはいえ)三郎の思考テンポは多少パワーダウンの感。但し、優秀な頭脳を持っているので、読者の予想を遙かに上回るスピードで猟奇的事件は解決されていくのだが、前作に比べて多少こっちも考える余裕がある。ただ、今回のポイントはその論理よりも、その論理に導かれて登場する多彩な人物たちの強烈さにある。まず事件があり、それに合わせて事件と同じくらいのインパクトを持つ人物を登場させてしまう強引さ。もしくは登場していた人物が隠し持っていた強烈な人格。いずれにせよ、明らかにされてから絶句してしまう。論理にしても、登場人物にしても、この強引さが結局舞城王太郎の持ち味、ということになるような気がする。まずインパクトありき。 次にテンポ。 最後に論理。それでいて、この三つが作品の中では見事に調和しているのだよなぁ。作者はホントの天才なのか?

この世界ではすぐに猟奇的な連続殺人が発生してしまう。ミステリ的に過ぎる過剰な表現。しかし、ホントに猟奇なのは、本気になった奈津川家の人間に捕らえられてしまう彼らが、ぼこぼこにされるシーンかもしれない。また、価値基準の違い、特に幸せや不幸せ、笑いなどについての基準の曖昧さも一つの特徴。ミステリ、そして現実のパラメーターを数限りなく変化させ、それをベースに設計図を引き、物語に昇華する。常人が努力で表現出来る作品ではない。やっぱり天才なのかも。

相変わらずの文体。物語に多少の矛盾があるような気がするのだけれど、全く気にさせないスピード。「本」そのものが持つ、今までのミステリにはなかった「迫力」に引き寄せられる怪作。 さて、次はどんな世界を見せてくれるのだろうか。一郎の二郎の事件なのか、それとも?


01/11/19
有栖川有栖「絶叫城殺人事件」(集英社'01)

有栖川有栖の現在もっとも作品数の多いシリーズ「作家アリス」(「ヒムアリ」とも)もの。'96年から'01年にかけて主に『小説新潮』誌に掲載された作品が集められた短編集。(ところで『マレー鉄道』はどうなっているのだろう?)

兵庫県の日本海側の僻地に立つ大きな館。かってこの家では夫婦喧嘩から夫が妻を刺し殺して自殺する事件が発生していた。その夫の死体が十年以上経過した館の裏庭の井戸から、死後一週間程度の死体となって発見された。 『黒鳥館殺人事件』
「壺中庵」と名づけられた四方が壁に囲まれた風変わりな地下室。主人の返事がないことを訝しんだ使用人と家人は、宙吊りとなって死んでいる主人を発見する。現場は閂がかかった密室にも関わらず、死体は自殺でなく他殺と断定された。 『壺中庵殺人事件』
ホームレスが川原に寄せ集めの建材で造り上げた三階建ての不思議な家。この家を気に入ったアリスは火村を連れて再度訪問を試みるが、建物は悪ガキに放火されていた。そして主人の焼死体も中から発見されたが目撃情報が食い違う。 『月宮殿殺人事件』
建設中に廃棄された山奥の六階建ての建物。家出した若いカップルがそこを寝ぐらとしていた。その男がその屋上から飛び降り自殺……したが頭の後部に裂傷があり他殺と思われた。ただそれを目撃していた筈の女は記憶を喪っている。 『雪花楼殺人事件』
映画にも使われた特徴のある美しい家の持ち主で、財産家の元女社長が不自然な殺され方をした。自殺に見せかけられた死体は明らかに他殺で彼女の三人の子供のアリバイが調べられたが、いずれも成立。火村とアリスが事件に臨む。 『紅雨荘殺人事件』
大阪で発生する若い女性ばかりを狙った連続通り魔事件。背中から凶器で突き刺して殺すやり口と、被害者の口の中に残された「ナイト・プローラー」と書かれた紙。これらから犯人はカルトな人気を誇るホラーアドベンチャーゲーム「絶叫城」の怪物を模倣していると思われた。 『絶叫城殺人事件』以上、六編。

「火村英生」の位置づけが確定、「有栖川有栖」レーベルの変貌が明瞭になった?
有栖川有栖の初期作品は問答無用の本格パズラーだった。 読者への挑戦を配置し、密室やアリバイにこだわり、舞台背景を犠牲にしてもトリックに奉仕するようなその作品は、本格ファンの熱烈な支持を受けていた。それがどうも最近方向が変わってきているらしい。一応本格テイストを持つミステリを今も執筆はしている。だが、揺らぎながらも求める何かが変化しつつある。
それは何か、というと「ミステリ形式とすることで表現ができるもの」ではないかと思う。移行期間にあたるのは講談社ノベルスのヒムアリシリーズ。三冊目、四冊目とトリックと物語とのバランスが極端に悪く、謎解きミステリとしても短編小説としての物語としても辛い評価とせざるを得ない作品が続いた。その後、有栖川有栖は作風を微妙に変えて復活した。トリックをそこそこに押さえて、物語背景から語られる何かを追うようになったのだ。犯罪心理学者という「火村英生」の存在を単なる「探偵役」から、「犯罪の背後にあるもの」を洞察する、本来火村が持つべき役割を重要視するようになったことが大きな要因だろう。その犯罪の背後に存在する何か、つまりミステリの形式でなければ表現し得ない感情や叙情や激情、印象や分析、時代……等々が、有栖川氏の求めるところになっている……という風に近作から私は受けとめている。

本書はわざと「……殺人事件」で統一され、それぞれまた題名のヴァリエーションにも統一感のある凝った題名が並ぶ。しかし、その題名とは裏腹に扱われている事件は決して「館もの」に留まらない。「絶叫城」はゲームの題名だし、他にも館以外が存在する。館であっても、事件と館の存在とに密接な関係があるか、というとまた全てには当てはまらない。収録作品に共通するのは題名に現れていない「背景」の凝り方である。
ここに有栖川氏の鋭い洞察力が集中している。特に今後もヒムアリ短編の傑作として語り継がれるであろう『絶叫城殺人事件』の動機は、強烈にして兇悪、そして秀逸。これこそが現代であり、ミステリの形式でしか語り得ないリアルである。また『月宮殿殺人事件』における河原の城のイメージ、『紅雨荘殺人事件』の「そこまでするか犯人?」という奇妙な脱力感など、トリックそのものよりも背景に強烈な印象を抱ける作品に圧倒された。

この変節? は続くのか、それともこの作品集に限ったことなのか。本格パズラーとしての有栖川有栖が復活するのか、強烈な犯罪背景を描き続ける有栖川有栖が今後の作品を創るのか。従来とは違った意味で、目が離せなくなってしまった。講談社ノベルス以外からの作品がメインとなっているのが毛色の変化した原因なのか。もしかしたら将来、有栖川氏が大家となった時に「中期の好短編集」というようなフレーズで紹介されることもあるかもしれない……などと漠然と考えたりもする。


01/11/18
篠田節子「インコは戻ってきたか」(集英社'01)

'00年から'01年にかけて『小説すばる』誌に連載された作品が単行本化されたもの。山本周五郎賞を受賞した『ゴサインタン―神の座―』や直木賞を受賞した『女たちのジハード』を例に挙げるまでもなく、長編中心に旺盛な執筆活動を続ける篠田さんの実に十八番目の作品にあたる。

女性雑誌『サン・クレール』のベテラン編集者、響子。三十九歳になる彼女は理解ある夫と義母、そして息子に恵まれながらも、一人の女性として漠然とした不安を抱えつつ仕事を続けていた。ハイクラスのOL向け旅行記事の特集で地中海のキプロス島を取材することになった彼女は、予定していたカメラマンが来られなくなったという連絡をイタリアで受ける。代わりにやってきたカメラマンの檜山の無骨な容貌や振る舞いに彼女は苛立つ。キプロスに渡ったところで、彼女のスーツケースが到着していないアクシデント。それをさりげなくカバーし、更に灼熱の土地や言葉のハンデをもまたさり気なく気遣ってくれる檜山に少しずつ信頼を寄せていく。とはいえ、先に決められた絵コンテ以外に様々な写真を撮りたがる檜山に対する根本的な不信感は残っていた。彼の積極的な行動によって響子はキプロスが北のトルコ系の住人と南のギリシャ系の住民が憎み在っており、かっての内戦の傷跡を引きずっていること、人々の意識の中には争いの火種があることを知り、更にはこの地に不穏な動きがあることに気付き始める。いつの間にか檜山のペースで行動していた響子は、遂にはその争いに巻き込まれてしまう。

なるほど! 「女の側からみた冒険小説」とはこういうことか!
おおよそ冒険・ハードボイルド系のミステリーというのは男の読み物であるという暗黙の了解がある。女性が主人公を務める作品があったとしても、実はそれは男性が読むための女性主人公でしかない。作者によれば本書の試みは「女の側からみた冒険小説」なのだという。つまり、女性を主人公とした単なる既成の冒険小説そのものの模倣を目指すものではなく、一般の冒険小説が冒険小説に登場するヒロインの視点にて描かれていたらどうなる?、という試みを試した冒険小説である。
冒険小説の主人公はタフで機転が利いて、生き残る根性と知識を兼ね備えて粘り強くて強くってと(例外も沢山あるけれど)、「ヒーロー」となる人物としての要素をいくつも備えている。本書では檜山がそれにあたる。そして、その物語に潤いを与える「ヒロイン」もまた冒険小説には登場する。グラマラスな美女であったり、無垢な少女であったり、女戦士であったり、足を引っ張る悪女だったりと、こちらは様々。そして本書の主人公、響子はこのヒロインにあたる。三十九歳で色気がなくなりかかって、仕事に疲れた子持ちの主婦……であっても。彼女は紛れなくこの物語の「ヒロイン」なのだ
篠田さんがやろうとしたのは、その「ヒロイン」サイドから冒険小説を眺めること。ヒーローに付き従い、状況を見通すことが出来ず、敵の出現に戸惑い、現実離れしたことを口にし、ヒーローの足手まといとなり、ごくたまにヒーローを助ける。冒険小説を楽しむ男性読者が「何やってんだよ」とか「嫌な女だな」と思うようなヒロイン。彼女の視点からすれば、冒険に挑む男は愚かになり、危地は苛立つものでしかなく、窮地に陥っても何とかするのは自分の仕事ではなくなってしまう。正直、ハードボイルドとはいえず、冒険小説はあくまで背景に追いやられ、結果的にハーレクイン的な要素までもが登場する。これじゃまるでつまらない小説みたいではないか。
それでいて、男性読者たる私が読んでもぐいぐい読ませてしまう、この篠田さんの剛腕はいったい何なのだ……? 物語を構成するごく細かな要素に対しても取材を怠らず、ワーキング・ウーマンの生態から、普通の人間が興味など抱かない欧州の小国の政治的情勢まで、誤魔化さずに描く篠田さんの丁寧な物語造りはすぐに分かる。(例えば、今年六月に発表されたこの作品に既にオサマ・ビンラディンの名前が見えることとか) そして、その取材結果に溺れず最初から最後まで一貫して物語と読者との一定距離(つまり家庭環境から戦争、性的な描写まで)を保つバランス感覚。そういったストーリーテラーぶりが本書でも遺憾なく発揮されている。小説の巧さというのはこのようなことを言うのかもしれない。つまり、「冒険小説」としては不満が残る形になっても、女性が危地に巻き込まれた冒険入りサスペンスストーリーとして一級品となっていることが「読ませる」理由なのだろう。冒険小説として評価するではなく、やはり女性視点の新たなる冒険小説の試みの結果がこうなのだ、と受け入れるべきなのかもしれない。

署名本が売られていたので新刊書店で衝動買いしたものだが、内容にも満足。篠田作品は読むたびに異なる感慨を読者に与えてくれる。 文体でなく、千変万化するその物語の内容が読者を魅せる、「才能」の作家であること、読むたびに確信を深めてくれる。


01/11/17
高田崇史「試験に出るパズル 千葉千波の事件日記」(講談社ノベルス'01)

'98年に『QED 百人一首の呪』にて第9回メフィスト賞を受賞してデビューした高田氏は、その後も物事の見方の角度を変えて常識をひっくり返す「QED」シリーズを都合四冊刊行してきたが、本書は五冊目にして初めての「QED」以外の短編集。『小説現代別冊メフィスト』誌に'00年から'01年にかけて発表した作品に書き下ろしを一編加えた。解説は森博嗣氏。

浪人生の”八丁堀”ないし”ぴいくん”ことぼくは変な名前がコンプレックス。同じく巨体の浪人生の友人、饗庭慎之介と、高校二年生ながら頭脳明晰、見た目ジャニーズ系、由緒正しき大金持ちの従兄弟、千葉千波との三人が出会う事件。
麻薬取引に関する情報交換が定期的に代々木の喫茶店で行われるという。しかし犯人は警察の監視に関わらず全く尻尾を見せる気配はない。千波は慎之介をたき付けてその現場へと偶然のフリをして足を運ぶ。 『《四月》 9番ボールをコーナーへ』
ホテルのバイキングランチ。巨体を揺らすおばさまの集団の一人が填めていた指輪の黒真珠が紛失した。レストラン内部をくまなく探すが見つからない。千波は手伝いを買って出て関係者を指揮するが……。 『《五月》 My Fair Rainy Day』
下町の空き地が爆破され、続いて女神像の首から上が吹き飛んだ。弓道場が爆破され、教会の屋根が吹き飛んだ。下町ばかり狙う爆弾魔の次の標的はどこなのか? 三人は法則性を探し出そうとする。 『《六月》 クリスマスは特別な日』
千波宅に遊びに行った二人。他のゲストも交えて大いに盛り上がる。準備していたカレーは交代で火を通すことになっていたのだが、誰かが焦がしてしまったために量が減ってしまった。その犯人は誰? 『《七月》 誰かがカレーを焦がした』
三人が訪れた避暑地。すいか泥棒の少年が古寺のある山に消える。小坊主に少年の行方を尋ねるが嘘を教えられ、三人はさんざんな目に。そこは坊さんが双子、小坊主が三つ子という奇妙な寺だったのだ。 『《八月》 夏休み、または避暑地の怪』
作品内部に登場したパズルの答え。 『《追伸簿》』

ミステリ本来の効用の一つ「頭の体操」……時間つぶしの読書に好適
多湖輝という人がかって新書版にて刊行していた『頭の体操』という作品をご存知だろうか。もしかしたら今もあるのかもしれない。「ウソつき村の住人と正直村の住人が住む島である男に道を聞こうとした」とか「土地を何本の線で三等分しなさい」とか「マッチ棒でつくられた三角形を○回動かしてこんな形状にするには」とか。大抵問題が一ページにイラスト入りで描かれ、ページを捲ると答えが書いてあって……というもの。
前置きが長くなった。本書はまさにその『頭の体操』を、改めて小説にて実現しようとした作品
QEDシリーズで見せてきたような「明確な主題」に対して「一般常識を裏切る回答」を用意、「じっくりと論証」するといった構成とは本書は異なる。短編集という形態がそうさせるというよりも、はじめから「パズル」を小説にすることを目指しているといった感。従ってそれなりの背景を持つ登場人物が現れ、その「パズル」的事件への案内役を務めるのだが、その設定が物語に奉仕しているとは言い難い。つまり、登場人物が謎解きをする必然性は特にないのだ。ただ、その必然性の無さが実は本書では必要だったのかもしれない。リアルとかけ離れたパズル。それを物語形式にするのが作者の狙いだから。その意味ではこの一冊の中でも作者の試行錯誤が見え隠れする。パズルを日常の謎に組み入れようとして散漫になってしまった最初の二作から、徐々にパズル度を上げて試している。ラストの『夏休み、または避暑地の怪』に至っては、完璧なパズル作品へと物語は変化を完遂している。

いや結局何が言いたいのかというと、物語そっちのけでパズルを解くことに熱中できるタイプの読者には最高のプレゼントとなる反面、本格ミステリを読んでも全く推理する気はないもんねー、というぬるい読者にとっては全く楽しめない作品となる……という極端な両面性を持つ作品だということ。ただ、ミステリファンには、比較的パズル好きの読者が多いと思われるので、半々より六四くらいで「面白い」派が多いかもしれない。私の場合は、本格ミステリの謎は考えて読むけれど、本書のパズルは最初からお手上げ! で、「ふーん」と流してしまうことになった。(読書スタイルの問題でもある)

一冊を読了するのに何日かかってもいい、逆に時間が保てば保つほど有り難いというタイプの読者にとっては、近年の中では最適かも。もちろん、反対にミステリの謎解きを探偵任せにしてしまう人にとっては疲れるだけ、ということになる恐れも多分にある作品。   ……で、主人公の名前は結局何だったの?


01/11/16
多岐川恭「地獄のカレンダー」(実業之日本社JOY NOVELS'85)

『週刊小説』誌上に'81年から'84年にかけて掲載された短編を改題し、長編風に改めた作品。章題として「序章」「一年後」「三年後」「四年半後」「五年半後」「七年後」「七年半後」「終章」と付けられているが、元もとの題名は以下。「地獄のカレンダー」「赤い階段」「野獣のうごめき」「闇の狩猟」「褐色の人形」「泥の王座」「襲撃者たち」「策謀のピラミッド」

チンピラヤクザの日比野は、籍こそ入れていないが内妻のルリ子という美女と暮らしていた。そんな日比野は自らの事業の借金が返済出来ず、サラ金を経営する倉地に返済の猶予を頼み込んでいた。売春組織から美女を差し出すことで譲歩を引き出そうとする日比野に対し、倉地の要求はルリ子の身体だった。日比野は結局涙を呑んでルリ子を差し出す。そんな日比野に対し、倉地は自ら繋がりのある暴力団組織、大都連合の勝股という男からの依頼で、対抗組織の組長を殺して復讐に追われる原木という男を匿って欲しいと依頼する。日比野は仕方なくルリ子が経営する喫茶店の二階に住まわせることにしたが、果たして原木は大人しくしておらず、ルリ子を暴力的にモノにしてしまう。しかし、数日してその原木が部屋の中で何者かに刺し殺されてしまう。ルリ子は関係者に何本かの電話を掛けることで、この事件の真相を見破った。(以上は「序章」のお話)

それでも多岐川流任侠の世界。描かれているのは不思議な人生観
本書がミステリらしい展開を見せるのは、実は冒頭の一編だけ。ここではチンピラヤクザの日比野が、自らの妻が犠牲となることを知りつつ出世のために、他のヤクザに屈する。そしてそのヤクザが、誰もいない時に殺されたという事件の犯人を、ルリ子が関係者の証言からみごと、推理にて解き明かす。繰り返すが読者にも手掛かりが与えられるミステリはこの一編だけなのだ。
この後の作品には何が書かれているかというと、ヤクザ版山内一豊の妻というか、身体を張った細腕繁盛記というか。ルリ子が、嫌よ嫌よと言いつつ、読者にとっても「こいつのどこがいいんだ?」というくらいろくでなしで女たらしで卑屈で魅力のないヤクザの旦那、日比野に尽くす物語。なんか「嫌がるルリ子を暴力で支配する日比野」みたいな構図が想像されるかもしれないが、さにあらず。ルリ子は日比野に強制されても、されなくても、自らの意志で娼婦まがいのことまでして夫の野望を支えるのだ。
日比野自身はホントにどうしようもない男なのだが、このルリ子と二人を支える番頭格の男の諦念さえ感じられる献身的奉仕によって、ヤクザの世界で出世街道を駆け上がっていく。ルリ子一人ならば、面倒を見ようという有力者が数多くいるのに「あれが夫ですから」と、決して表立つことなく日比野を捨てることをしない。自分の力で地位を手に入れたと思いこむ日比野は最初から道化。しかしてその道化であることにも気付かない愚かさと強がりがまた、物語を進行させるベクトルとなっているのがまた面白い。
そして、さすがは多岐川恭。いくつかのエピソードを超えて最終話近くになれば、さりげなくラストのカタルシスを考えた人員配置を終えている。そして、この任侠ミステリのラストに何が残るのか。 読後感はまさしく他の多岐川作品を読了した時と同じ。一抹の寂寥感と不思議な爽快感で幕を閉じる。

一般的な意味で「ミステリ」に分類することは正直、躊躇われる。しかし多岐川恭が描くニヒルな人間が、本書にもまた複数配置されており、トータルとしての人生観、世界観は全く同じであることに驚く。入手の難しいノベルスでもあるし、無理に読むほどのものではないが、多岐川恭の世界にのめり込んだ人ならば(俺か?)それなりの楽しい読書時間になることだろう。


01/10/15
倉阪鬼一郎「首のない鳥」(祥伝社NON NOVEL'00)

エッセイ集『活字狂想曲』にて校正の世界の裏側を描いた倉阪氏が、勝手知ったる印刷会社を舞台に描く「ジェット・コースター・ホラー」。帯にある「菊地秀行氏、絶叫!」 というコピーが秀逸。単なる絶賛を超えたホラー作品への最大級の賛辞。

一部上場の大印刷会社、光鳥印刷。社のシンボルは創始者、余部源一郎がデザインしたという首から上の存在しない鳥。辻堂怜子はその百%子会社である光鳥プリントロニクスに勤務する校正者だった。しかし怜子は親会社の指示により窓のない密室に籠もって特別な仕事をさせられていた。それはさる重要な試験問題の校正で、社の重要なプロジェクトとして秘密保持が要求されるものだった。彼女は特別にデザインされた社章を付けるよう指示されたが、それを見た古参社員の様子がおかしい。さらに「ここは恐ろしい、気をつけて」と言い残して退職した同僚、そして怜子の親友が留守番電話に助けを求めるメッセージを残して失踪した。仕事の進捗状況が思わしくない怜子のパートナーとして、派遣会社から寄越された城野。明るすぎる性格を持つ彼は、その部屋にはいろいろなものがいることを見抜き、怜子と共に会社について調査を開始する。

「会社」という組織の持つ胡散臭い部分を徹底的に拡大するとホラーとなる……
倉阪氏の職歴がそうさせるのか、倉阪作品にはホラーとしてのツボに関係あるなしに関わらず、「文字」に纏わる職業にこだわっているシチュエーションが数多く登場する。私には校正といった経験がないので実際のところは不明ながら、長時間文字をみつめているような職業においては、文字の方がそのものの意味を超えて「別の何か」を訴えてくるような気分になることがあるのではないか。 特に作家という職業は文字とは切り離せない。文字が呪いを発するのなら、作家は常に呪われた職業ということになる。……というのは本書とは直接関係はない。
本書は倉阪氏の長編としては珍しく、若い女性が主人公となっている。所属する印刷会社から特別扱いされる彼女がはめられた黒い罠。徐々に発生する奇妙な出来事。消える同僚。そして自分自身に降りかかる恐怖……。 最終的には行き着くところに行くとはいえ、表向きの敵は会社組織という存在である。不思議なことに「会社」というのは組織のあくまで呼称でしかなく、実際に働く者に影響を与えるのはあくまで上司であり同僚であり部下であり……つまり人間個人である。それなのに組織の内部にある者にとって「会社」は、何か畏怖を伴った存在として実感されるのだ。本書の怖さの源泉はここにある。
とはいえ上場している会社組織の裏側にこんな呪咀が隠されている――というあたりは正直、現実的とはいえないだろう。リアルだけを考えるならば、ついツッコミを入れたくなる部分もある。従って舞台に関しては一種のファンタジーとして捉えた方が良いのかもしれない。

女性主人公ということで彼女が陥れられる友成純一的な陵辱シーンは好悪が分かれそう。(従来から表明しているが、私はこの手のシーンが好きじゃない) 関係者が一同に会し、儀式が行われる終盤、そしてそこからラストに繋がる登場人物全てがドミノ倒しのように破滅していくカタルシスは、倉阪ホラーにおいては既にお馴染みの光景であり、無くてはならないシーンだろう。倉阪作品を読む毎に、この部分に奇妙な興奮を感じる私は歪んでいるのか? 


01/11/14
吉村達也「心霊写真 氷室想介のサイコ・カルテ」(カッパノベルス'01)

吉村氏のシリーズキャラクタの一人、氷室想介が登場する十一作目の作品集にして、キャラクタ初の短編集。『小説宝石』誌を中心に'97年より'01年にかけて掲載された作品に「プロローグ」等を加筆して連作短編集としたもの。

「プロローグ 氷室想介からの御挨拶」
女子中学生が続けざまに猟奇殺人の餌食になった。鋏で皮膚が切り刻まれた被害者の一人は優等生、一人は筋金入りの不良学生。左利き専用の鋏が事件解決の鍵と思われた……。 『シザーズ―鋏―』「サイコ・カルテ1 プライド」
教育評論家の妻が、鏡に映った夫の姿が時々悪魔のように見える、と氷室に相談。児童評論家はかって若い愛人と不倫関係にあったが、「壊し屋」の異名をとる彼女の正体に気付いて殺してしまっていた……。 『鏡の中に悪魔が見える』「サイコ・カルテ2 怨嗟の連鎖」
売り出し中の俳優は、長年尽くさせてきた年上の女性との縁を切るため、彼女をセブ島に連れだし殺した。アリバイは完璧な筈だったが、彼女の父親が彼の元を訪問、彼女の正体を語りだした……。『夏をだきしめて』「サイコ・カルテ3 究極の復讐」
若いモデルと愛人関係にあったノンフィクション・ライターは、若い男性に彼女を取られて失恋に苦しんでいた。そんな彼女が殺された前後、彼はその若い男性から電話を受けていた……。 『蒲団―謎の提示編―』「サイコ・カルテ4 心理ゲーム」
モデルと本当の愛人関係にあったのは、ライターに彼女を紹介した編集者だった。ライターからの手紙を読んだ彼の妻が手紙に隠された真相を解き明かす……。 『蒲団―謎の解明編―』「サイコ・カルテ5 ミスマッチ」
氷室の元に届いたダイレクトのEメール。彼女は奈良から東京に向かう夜行バスの中で奇妙な幻を見た、とカウンセリングを要求する。彼女のメールの矛盾に気付いた氷室と舞は……。 『深夜バスの女』「サイコ・カルテ6 沈黙は悪魔の巣」
密室となったビルの会議室にて会社社長が毒にて死亡した。捜査に息詰まった田丸警部が氷室にEメールにてヘルプを要求。関係者の証言や見取り図から氷室は真相へ近づいていく……。 『遠隔推理』「サイコ・カルテ7 金色の罠」
建築設計技師の夫は妻が自分に黙って庭の樹の写真を「心霊写真」として人に見せていたことを知る。夫はその妻の行動を嘘吐きと決めつけ、なじるのだが……。 『心霊写真』「エピローグ 追いつめないで」

殺人事件の分析がクール。「被害者の罪」と「加害者の罪」、二つの差とは?
言い方が適当でないかもしれないが、本作が単に雑誌発表のまま作品を七つまとめただけの短編集として発表されていたとしたら、吉村氏の大量の作品群の中に埋もれて「氷室想介ものの短編集……あったけど、どんなんだっけ?」という状態になっていた可能性が高い。しかし「プロローグ」と「エピローグ」でサンドイッチして短編そのものに氷室想介のコメントの形で「自作解説」を付けてしまうことで、統一テーマにて貫かれた意志を持った短編集として記憶に残るものに変貌している。長編では「?」も最近多い吉村氏だが、テーマに凝ったときに関しては、さすがに吉村氏というセンスを未だ見せてくれる。
取り上げられているのは、ちょっとサイコがかった、つまり精神的な要因により発生した殺人事件が中心。しかし個別短編について「サイコ・カルテ」という氷室のコメントが事前と事後に付け加えられており、普通のミステリ短編を読むときに比べ、物語に対する視点がちょこっとずらされるのがポイント。本書のテーマは「殺人事件の加害者とは本当に最初からずっと加害者だったのか? 精神的には実は被害者だったのでないのか?」という点。これが、プロローグで説明されるうちに、なるほどな、と思い、読み終わって更に深く頷かされるのだ。つまり、快楽殺人を除けば、殺人事件を引き起こすような人物は精神的に追いつめられた結果、殺人行為に手を染めざるを得なくなる……という主張。(それ相応の精神的な歪みなり、プライドが異常に高かったり、という要因は存在する。しかしその要因そのものを持つ人間はどこにでもいるし、単純にそのことが殺人を引き起こすことはない) つまり殺人事件には犯人を殺人に駆り立てた「要因」が存在する……その「要因」は、実は被害者側が発していたのではないか、というもの。言われてみれば当たり前。だけど改めてそのような視点で見ると、鮮やかに事情の浮かび上がる作品が並べられており、それぞれの作品が普通に持つインパクトが強化されている印象が残る。
ただ、二編に分けることで読者への挑戦を挟んだ仕上がりとなっている『蒲団』を除くと、トリックだけ取り出すとちょっとした知識や小道具を利用した「小ネタ」という気がしないでもない。ただ、上記した通りトリックで読ませる作品ではないため、あまり気にならない。『夏をだきしめて』にて最後に明かされる被害者の復讐なんか、さりげなくも凄まじい怨みが伝わってくる。

分量的にもそれほどでなく、久々に吉村ミステリらしい佳作にあたったという印象。(ホントの近作を最近あまり読んでいないことは割り引いて欲しいが) 文章の読みやすさや、人間感情のディティールの造り方などには定評がある吉村氏、テーマに貫かれた作品集というのはその巧さが活かされる形態のように感じられる。


01/11/13
乾くるみ「マリオネット症候群」(徳間デュアル文庫'01)

乾くるみさんは、'98年『Jの神話』にて第四回メフィスト賞を受賞してデビュー。同じ講談社ノベルスから『匣の中』『塔の断章』の三作を立て続けに発表後、二年余りの沈黙の末に発表された待望の第四作。(その間に何をしていたのかというと……協会パーティとか?)

十六歳の高校生のわたしこと、御子柴里美は夜中に突然何者かに身体を乗っ取られてしまった。意識ははっきりしているのに、全く自分の力では身体が思うとおりにならない。乗っ取ったはずのそいつも自分の状態に戸惑っているらしく、ママに奇妙に思われつつもいろいろな行動を取って状況を確かめようとしているようだ……。どうやら、私の身体を操っているのは昨日バレンタインデーにチョコレートを渡した片思いの相手、森川先輩らしい。苦労しながらも、堂々と御子柴里美として学校に行く森川先輩。学校で聞いた噂では、彼はたくさん貰ったチョコレートの中に仕掛けられた毒で殺されてしまったとのだという。当然わたしの意向を聞くこともなく、森川先輩は実は不倫していた兄嫁に自分の正体を明かし、犯人を捜そうとするが、その前にママに正体を見破られて、おまけにママから衝撃の告白を聞かされることになる。さらにその告白はわたしにとっても衝撃だった。ママだと思っていた人物も実は……。

乾くるみがSF? いやいやこれは西○保彦を超える悶絶ミステリ。奇想炸裂、一家団欒
解説の大森望氏が触れているように、世の中には既に「あるきっかけの結果、他人の身体の中に入ってしまう」という設定のSF作品は多数存在し、短編も含め枚挙に暇はないほど。だけど、私の狭い読書範囲で言うのは誠に恐縮ながら、自分自身が他人に操られながら元の意志が存在し、なおかつ「全くコミュニケートが取れない」という設定は初めてのような気がする。うら若き女子高生の身体に入り込んでしまった森川先輩。普通の作家ならば、ここは男性視点で事態の突飛さをアピールする手に出るのが常道。しかし乾くるみはただ者ではない。 それを逆手にとって、その混乱の様子を意識だけになった身体の本来の持ち主に冷静に観察させてしまう。これはどことなく二人称ミステリの手法を思わせる。
森川先輩の本体? は殺されていた。しからばその犯人は一体誰? 二人称ミステリならば”わたし”の身体をもった森川先輩がその犯人を探しだし……という展開が常道。しかし乾くるみはただ者ではない。 この犯人を思いの外あっさりと明かしてしまう。しかも、この段階で読者はサプライズのまっただ中に落とし込まれる。ははは……そんなんアリ? 空疎な笑いが思わず口から漏れる激烈な真相
この真相から、物語はどうすんねん? と思いきや、やっぱり乾くるみはただ者ではない。 通常のWho done it? のミステリの形態がいつの間にやらクライムノベル風ミステリへと変化を遂げている。犯人は既に読者にも分かっている。しかるにこれを完全犯罪に帰着させるにはどうすれば良いものか。スケープゴート発見、そんでもってあれれ? ここから再び怒濤の展開へ。更には読者が無意識に予想する展開を裏切り続け二転三転。あの人もこの人も予想外の行動を取って……。さすがは乾くるみ。 転ばなくても転ばせて、タダで起きないとみせかけてまた転ばせる。いや、最後の最後までやってくれました。どこかぶっ飛んびつつも暖かいラストもいい感じ。

この作品を母体にし、一般向けの文章にし、数百枚の原稿にしてメフィスト賞に応募したら、もう一回受賞出来るかも……。などとまで考えさせる作品。デュアル文庫は書店で新刊を見かけることすら難しい可能性があるけれど、これは間違いなく買い。今やミステリにSF設定を持ち込むことなど珍しくないが、ミステリを知り尽くした人間が書くことでこんなに奇妙な作品が出来上がる。 少なくとも「新本格」以降の読者なら間違いなく楽しめること受け合います。


01/11/12
馳 星周「ダーク・ムーン」(集英社'01)

ひたすらにロマンノワールを追い求める馳氏の七作目の長編にあたる作品。『小説すばる』誌に'98年9月から'01年3月の長きにわたって連載された作品に、大幅な加筆修正を加えたもの。

カナダ、ヴァンクーバー。この地で財を成し現在は故郷の香港で権勢を振るう黒社会の実力者、李耀明の愛娘、李少芳が行方不明となった。フランス語を喋るミッシェルという男に誑かされ、ベトナム系の古惑仔(チンピラ)らと共にいるらしい。かってヤクザの情婦に手を出し香港に逃げた元公安警察の富沢脩(サム)は、李耀明の命で彼女を連れ戻すためにヴァンクーバーに飛ぶ。折しもヴァンクーバーは下院議員選挙の真っ最中。白人の候補、ヘイワースと中華系を代表する鄭奎の事実上の一騎打ちと見られていた。広東人のヴァンクーバー市警の悪徳警官、呉龍達は香港に二人の子供を残しており、彼らを呼び寄せるための金を稼ぐために鄭奎から裏の仕事を請け負っていた。一方、ヘイワースの一人娘を嫌いながらも、自らの出世のために婚約している日系カナダ人、ハロルド加藤。カナダ版FBI、CLEUのエリート刑事の彼は、父親の貿易会社社長、加藤明に反発して警官になったのだが、貪欲に地位の向上を企んでいた。ヴァンクーバーの黒社会内部では、白粉(ヘロイン)取引の現場が襲われて何者かが白粉と現金を持ち去る事件が頻発しており、人々は疑心暗鬼になっていた。

悪徳警察官、元警察官、エリート警察官が欲望と度胸と機転と情報収集力を争う地獄へのチキンレース
本書に登場する数多い登場人物の中で、最も異色なのが三人の主人公の中の一人、元公安の刑事の富沢という日本人。曲がりなりにも刑事だった彼が落魄れて香港の黒社会の人間に心と体を売り渡し、代参とは名ばかりで使い走りでヴァンクーバーにやってくる。彼がその境遇に陥ったのは彼自身の心の中に原因が存在している。その原因こそが、本書、つまり『ダーク・ムーン』そのものを端的に体現しているように感じられてならない。
それが……「覗き見野郎」
富沢の持つ「覗き見野郎」は、全てのことを「知りたい」という興味が病的に亢進した感情として描かれる。しかし、これは本書を追う読者と同じ気持ちである。『ダーク・ムーン』では従来からの馳作品と同じく、金銭欲、性欲、出世欲、権勢欲、数々の欲望と、プライド、面子、歪んだ家族愛、仲間意識等々のいくつもの感情が、舞台となる裏社会内部にて蠢いており、物語の多くのパーツはこれらによって形成されている。ただ普通、読者は彼らを傍観するのみで登場人物の様々な欲望や感情に共感を覚えるのは難しい。そんな読者が物語を追う興味はこの「覗き見野郎」に集約される。つまり、作中人物が抱える秘密――即ち、謎。 読者の欲望はその謎の答えを知りたいというもの。一体何が起きているのか、起きたのか、彼らにどんな過去があるのか、彼らの行動の真の目的は何なのか――。そして本書は分厚い紙幅をもってその「覗き見野郎」の興味を全て叶えてくれる。
実はこの物語の基本的な「事件」となる部分はそれほど複雑ではない。「香港の実力者の娘が家出した」「ヴァンクーバーの裏社会のヘロインが次々と盗まれている」の二つ。多少、政治絡みで複雑になっていたりする点はあるものの、最終的にこの二つに集約される。そして、この二つの事件が解かれる時、読者の「覗き見野郎」は大いなる満足が与えられる。もちろん、その過程における登場人物は満足な運命を与えられているとは言い難いのだが。

別の側面から。 馳星周の作品に登場する主要人物に「未来」は与えられない。 その何百頁かの物語の中で、それまでの人生の終焉を迎える人物の方が圧倒的に多い。行き止まりの小説。 崖に向かって全員が全力疾走しているようなもの。旧来から存在する活劇小説であれば、崖とみえた終端から飛び降りても、何人かは生き残り、次なる線上へと再び向かう。しかし、馳作品における崖はそのまま奈落の底なのだ。これは人間の暗闇を従来以上に徹底的に描くためには、避けられない方法論なのか。

正直にいうと重くて手が痛くなった。しかし、その甲斐は報われたようだ。読み始めてからは馳作品の特徴的な中国人の名前と、多すぎる登場人物に多少辟易としたものを感じたが、終盤にかかるにつれて整理(つまり作品内部で殺されてしまうから)がつき、その闇の持つ迫力だけが浮かび上がるように感じられた。そして私の「覗き見野郎」も満足している。


01/11/11
稲見一良「ガン・ロッカーのある書斎」(角川書店'94)

独特のハードボイルド世界を短い間にうち立てた稲見氏は、'94年の2月に永眠された。本書は氏が、'83年に『ミステリマガジン』に連載していた表題エッセイと、'83年から翌年にかけてモデルガン雑誌『チャレンジャー』誌に連載していた「ミッドナイト・ガン・ブルー」というエッセイが一冊にまとめられた作品。

『ガン・ロッカーのある書斎』
「銃の選択」「〈口径〉のはなし」「連発について」「大統領を狙撃するには」「命中の音」「巨匠マクリーンは銃器に弱い?」「射撃のスタイル」「飛び道具と日本人」「銃口を向けるな」「銃の機能美」「姿のいい銃、悪い銃」「銃を折る」
『ミッドナイト・ガン・ブルー』
「マックイーンとショット・ガン」「”ルパラ”マフィアの処刑の銃」「リメンバー、ピース・メーカー」「男は、心に銃を抱いて眠れ」「ワルサーを取られたボンド」「暗殺、今も昔も」「防弾チョッキ迷信」「人狩り(マン・ハント)」「流れ弾に気をつけろ」「免許更新す」「ボウガンとサバイバル」「銃のニックネーム」「箒の柄をもった殺し屋たち」「映画の中の「ナイフ」」「ナイフを投げる」「ナイフで突く・刺す」「ナイフで切る・裂く」「ナイフを使えない男なんて」「SFの銃って、つまらない」「ハードボイルドが死んだ」「ライセンス不要の隠れ武器」「おとなしい武器、めだたない兇器」「ハードボイルドの隠れ武器」「血が男に流れている限り」

これもまた私の理想の評論型の一つかも。銃を通じてミステリの魅力を拡げていく……
読者にとって、物語におけるディティールの正しさは重要な要素の一つである。感情移入してのめり込める作品であればあるほど、文章中の作者のちょっとした間違いや、勘違いが気になるもの。物語当時には存在しないはずの交通や建築が出てきたり、警察が現実にはあり得ない行動をとったり、トリックが物理的に不可能だったりと、人によってそのポイントは異なれど、気になる人は気になるという間違いというものが存在する。それが例え大きな間違いであっても、作品そのものの面白さがそれを上回っていればOKというのが私のスタンス。でも、間違いは「ない」に越したことはない。
後に発表される自作からも明らかなように、稲見氏の持つ「銃」に関する知識と経験は半端ではない。その知識と照らし合わせて映画やミステリの論評を進めていくのが本作。その中の印象的なワン・シーン、特に銃を扱っているシーンを取り出して、その巧拙や優美さ醜さ、そして記述内容の正誤を論ずる。特に翻訳ミステリには彼我の文化の違いもあって、銃がよく登場する。その銃を扱う場面のほんの数行に隠された素晴らしさを氏はあますところなく、いや、おまけさえつけて読者に伝えてくる。 場面のディティールから全体のイメージを読者に喚起させてしまうところがとにかく素晴らしい。また、稲見氏の場合、作者の勘違いや誤訳を含めて、間違っているところはここが間違っているときっちり指摘している。しかしそれも根拠がハッキリしており、批判というより指摘であるため嫌味がない。一歩間違えば、(間違えていると思えてしまうものもあるが)単なるガン・マニアの難癖になり得る書き方が、それでも一般読者に対して興味を喪わせないよう配慮している点にも感心する。評論を通じて、稲見氏の思想、そして理想が伝わってくる。 そしてその思想が、永遠の男の子たる私などにとってはたまらなく「カッコイイ」のだ。 このあたりの蘊蓄にこだわり過ぎると物語のバランスは崩れるし、知らな過ぎると物語のリアリティが崩れる。バランスの取れた良い表現とは……本書の中に抜き書きされているので是非とも御参照頂きたい。

また、『ガン・ロッカー・ブルース』と名づけられた内藤陳氏の解説もイイ。内藤氏らしいノリの良い文章で、とりとめなく書き散らしているように見えながら、亡くなった稲見一良に対する深い哀惜と愛情がないまぜになって迫ってくる。ファンから愛されていた、というのがどういうことなのか深く感じられる。

土田裕之さんに譲って頂きました。多謝。