MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


01/12/31
山田風太郎「奇想ミステリ集」(講談社大衆文学館'97)

惜しまれつつ今年逝去された山田風太郎氏の各方面の作品はここ数年、各方面の努力により再評価の気運高まり、大いに復刊されている。現在は光文社文庫のシリーズが充実してきているが、本作品集はその先鞭とでもいうべきタイミングにて刊行された。

愛児を喪い自棄糞になりつつ遊郭を経営する男。心臓病で療養中の彼の義妹が妊娠したという報せが飛び込んできた。父親は? 『新かぐや姫』
酒場「邪宗門」のマダムに惹かれる若き実業家。彼女を巡って幾人かの男性が凌ぎを削っており、奇妙な人物が彼にライバル宣言をする。 『女妖』
古物商の隣から兄妹の声が聞こえ、彼らはそれを微笑ましく感じていた。古物商の男は銀座の夜の女を目に留める。どうやら隣の妹の方らしい。 『二人』
仮病を使うなど妻の前の夫に仕草が似てきた実業家。彼は前夫の後輩にあたり、前夫のガス中毒死に心の負担を抱えていた。 『ノイローゼ』
夜道で飛び込んできた男を轢いたタクシー運転手。それを目撃した少女が、彼がわざと轢いたと証言。男は糾弾され職を失い窮地に立たされる。 『目撃者』
都落ちした大学教授。その老人と暮らす若い妾。彼女に憧れる隣人の少年。少年が貸した探偵小説の通りに老人は何度も危険な目に遭う。 『不死鳥』
銀座で自転車を押しながら、包帯に巻いた自分の逸物を見せつけながら歩く男。駆け付けた警官に彼は物語を語り始める。 『露出狂奇譚』
一人で死ぬのが寂しいという自殺志望のバーの女給は自分に相応しい心中相手を探し、めぼしい男を家に連れて帰るのだが……。 『祭壇』
生活に困った挙げ句に春本書きはじめた童話作家。彼から原稿を買い上げる文学者志望の大学生。彼らの春本を巡る人間模様。 『春本太平記』
二十五歳にして博士号を取得した美貌の青年。その能力は厳格な教育を施した父親によるものだった。その祝賀会の夜、悲劇が起きた。 『青銅の原人』
扉が開くと自分に硫酸が降りかかるという奇妙な装置の下で手記を認める自殺志願の男。その男の隣人は恋人を別の男に奪われかけていた。 『笛を吹く犯罪』
嵐の夜、突如友人に呼び出される医者。友人は妻と姦通した男を殺し自殺を試みていた。妻が孕んだ子供は誰が父親なのか? 『墓堀人』
耳の聞こえない司祭と口の利けないその甥の共同生活。そこに盲目の若い女性が現れ、彼ら二人は彼女に恋をする。 『司祭館の殺人』以上十三編。

……奇想の設定、奇想の人物、奇想の顛末。風太郎の奇想は時代を超越する……
本書の編集時期から考えるに、まず国書刊行会から『虚像淫楽』が刊行され、更に廣済堂文庫が着々と現代作品を復刻していた時期にあたる。また新潮文庫と、廣済堂文庫の短編集が時期的に被っていたこともあって、ミステリの短編集としてのセレクトの幅は、かなり狭まった中での選択ではないか、と思われる……のだが。それでいてこれだけレベルの高い作品があっさり揃うのが、山田風太郎。
発表当時であっても、ミステリ(発表当時は探偵小説か)の流儀というのがまずあったと思う。謎があり、手掛かりがあり、探偵が登場し、謎を解決する。探偵小説の起承転結。まず、風太郎はそれを全く気にせず、自らの思う通りに筆を運ぶ。自由、かつ闊達。これが、一つの奇想。 そして、事件そのものをとんでもない舞台背景に設定する。本書ではアプレ遊郭の経営者とその清らかな義妹だとか、扉を開いた人間に殺してもらおうと装置を設定した自殺志願者だとか、性器丸出しで銀座を歩く男だとか、口の利けない男と耳の聞こえない司祭の共同生活だとか。舞台設定の妙、これらがまた全て奇想。 そして風太郎の奇想が最も奇想足るのは、彼らが事件を引き起こす動機にある。金銭絡みや単純な愛欲に見えるものも無くはない。しかし、発表当時の「時代」を深く見据えた人間観察の結果生み出されたと思しき動機の数々。人間が成長する過程で親を乗り越えるため。乱れた時代の中における純愛のため。決して表に出すことが許されない歪んだ嫉妬のため。想像もつかない、そして奇妙に納得出来る動機、これは大いなる奇想。

本書など、風太郎ミステリの中でごくごく一部を占めるに過ぎない。それでいて「風太郎らしさ」はありありと伝わってくる。執筆された年代の古さだとか、逆にそれを読んでいる今の時代とのギャップだとか、そういった古くささとは無縁の、人間の本質的な面白さが詰まった物語。 風太郎の物語は永遠に読み継がれるべき輝きに満ちている。風太郎を未来に遺すのは日本人の文化的義務だろう。


01/12/30
樋口有介「探偵は今夜も憂鬱」(講談社文庫'96)

'88年『ぼくと、ぼくらの夏』にてサントリーミステリー大賞読者賞を受賞した樋口氏はミステリーと青春小説二つの作風を持つ。そのミステリーサイドで探偵として活躍する柚木草平が主人公として活躍する三作目。'92年に刊行された連作中編集が元本。

柚木の「恋人」で警視庁のキャリアである吉島冴子の学生時代の後輩からの依頼。エステ会社を経営する彼女の義理の妹が何者かにつきまとわれているのだという。彼女はその男のことを語りたがらない。彼女も妹も従業員も美人が揃って……。 『雨の憂鬱』
柚木の行きつけのバーの女主人、葉子からクリスマスプレゼントと称して依頼の紹介。芸能プロの社長が中堅女優の沢井英美が姿を消したので内密に捜して欲しいのだという。英美は自ら姿を消したように見えたが、彼女のマネージャーがまた美人で……。 『光の憂鬱』
新宿のオカマバーから執筆中の柚木にTEL。彼に仕事を頼みたい女性がいるのだという。自由が丘の雑貨屋の美女店主の夫が三年前に山で失踪、死んだと思われたのが先般急に「自分は生きている」という封書を寄越してきたのだという……。 『風の憂鬱』以上、中編三作品。

「柚木草平」に解決してもらうことを待ち続ける魅力的な謎三つと美女多数
長編だと「最初からこれは決まった設定なの!」なのでそれほど極端には思わないが、本書のように中編にて柚木草平の物語が三連発されることによって、あることが非常に目立ってくる。つまり、主人公・柚木草平と次々登場する美女との「運命の巡り会い」のやたらめったらの多さである。そのこと自体が不自然だと批判する気も、「くそう」とやっかむ気もない。(いや、そりゃ羨ましいとか思うけどさ、そこはそれ) ただ、長編ではせいぜい二人か三人までのそれが、中編一つに同じだけ、三つの作品が合わさる本書ではレギュラーメンバーを含め十人近くのさまざまな美女たちとのやり取りが存在する。よくもまぁ、身体が持つもの……ではなくて、これらの出会い、そして彼女たちへの口説きが樋口ハードボイルドにおける本質的特徴を解き明かすのに非常に重要なのではないか、ということに本書を読んでいてふと思い至ったのだ。(間違っているかもしれないけどね)
柚木草平――美人の妻と小生意気だけど可愛く育った娘と別居する一人暮らしの三十八歳。元刑事で犯罪小説専門のライターにしてアルバイトで探偵めいたことをする。警視庁の元上司の美人を恋人にしつつ、綺麗な女性にすぐに惚れる男。彼が一方的に惚れるだけでなくそれなりに好意を持ってもらうあたりもポイントだろう。
そう、物語のヒロインに柚木は惚れ、そして一瞬の恍惚を経て、苦い経験をまた繰り返す。この「苦い経験」が樋口ハードボイルドには欠かせないエッセンスとなっているように思うのだ。 柚木にとって苦い経験とは、救いたかった美女を救えないこと、惚れた相手を犯罪者として告発すること、自分を頼ってきた女性の偽りの仮面を剥がすこと……。つまり、必ず「事件の影にはヒロインがある」のだ。これを逆手に取れば、こう読める。作品に特徴的なヒロインが登場する。 その彼女はおおよそこのどちらかの役割を持つ。つまり彼女自身が犯人。(柚木は彼女の仮面を自ら剥ぎ取らなければならない……)ないしは彼女がかばっている相手が犯人。(柚木は彼女に振られなければならない……)以上。 中年男はどんなにモテても最後は苦い酒を飲むのであった。

とまあ、自分で書いていてつまらない分析なぞしてみたけれど、そんなことを考えずに軽く読むのが吉。柚木の女性のツボを突く台詞に痺れるも良し、一緒に苦い酒を飲むも良し。謎を解くというよりも、柚木との一体感を楽しむミステリだろう。


01/12/29
山田正紀「ゐのした時空大サーカス」(中央公論社'89)

山田正紀氏の文庫化されていない長編作品。'89年、第3回山本周五郎賞候補作品(受賞は佐々木譲『エトロフ発緊急電』)となっている。書き下ろしの最終章を除くと『中央公論文芸特集』に'87年から'89年にかけて連載された作品。

バイクに乗っていて車に衝突してしまった健一は幼かった頃の事を瞬間的に思い出す。ゐのした大サーカスのこと。鶏を飼って卵をとっていた祖父に命ぜられ、遠い街に魚のアラを買いにやらされていた時のこと。そして嫌悪むき出しに彼のことを見る市電の乗客から離れて眺めた「ゐのした大サーカス」のポスター。健一はモデルとなっていた少女の姿の虜となる。彼はそのサーカスのことを知りたくてたまらなくなる。不幸だった祖父に命ぜられ、サーカスにいなくなった鶏を捜しに行った健一はピエロからチケットを貰う……。
三億年。時間は一方向に流れるものではないことを知る「ぼく」たちは、探査に訪れた地球で事故に遭う。「ぼく」たちは時間を旅しながら母船に一人残ったGと連絡を取ろうと試みている。ただ、三億年前から時間を遡るうちに「ぼく」たちの一部はその「時間」に取り残されるようになってしまった……。

人類の「時の経過」の概念について、色々と角度を変えて語りかけてくる連作SF作品集
数年、数十年に一度、街に巡ってくるサーカス。ある定点に立って待ち続けるならば、その「サーカス」は時間を飛び越えてやって来るものと認識出来るのではないか。そのあたりにこの作品の表現したいポイントが存在するように思える。本書では連作短編集の形式で、交互に中年にさしかかった平凡なサラリーマン健一と、サーカス団を装い三億年の時間を旅する「ぼく」たちの物語が交互に描かれている。この健一のパートが、主題関係なしにノスタルジーで固められており、泣かされる。この実直で悩み多い健一の物語と、時間SFをそのまま体現する「ぼく」の物語を並行して描くことによって、我々が普段何気なく見過ごしてる時間という概念の曖昧さや拡がり、人生との関わりや転機といった可能性を間接的に浮かび上がらせようとするのが山田氏の意図だろう。
ただ、そちら方面に対して読解した印象よりも、私自身(生きてきた世代的に)知らないはずの「健一の持つノスタルジックな体験」の部分から発する「泣き」がとにかく強烈に感じられた。物語中の彼の年齢が現在の私に近いから? サーカスに関する憧れと畏れの同居に共感するから? 幼い頃の異性に対する接し方に重なるものがあるから? そんなこんな理由を考える以前に、問答無用にどこか心が共鳴してしまう。 つまり、空間や時間について思索を深める以前に心の底がきゅっと痛む。ああ、読み手として未熟な私。作者の意図とは全く別のものかもしれないけれど、何か自分がどこかに置いてきた思い出、忘れかけていた記憶がざわざわと自己主張をはじめたので、それはそれで良しとしよう。うん。

山田正紀の作品は多数あり、絶版本でも選ばなければそこそこ古書店で入手出来るし、ネット古書店にも結構出ている。そして現在のミステリ作家としての山田正紀以前、つまり新進SF作家として評価されていた頃の作品は意外と文庫に落ちていないものが多い。本書もその一冊で、題名の魅力(だって「ゐのした」に「サーカス」だよ!)に惹かれた。こんな形の本との出会いもまた素敵なものだと思う。


01/12/28
多岐川恭「微笑する悪魔」(光風社ノベルス'84)

多岐川氏後期の作品集の一つ。光風社のノベルス版には他にも梶龍雄ら渋めの作家が収録されているが発行部数が少なかったのか、現在ではかなり入手が困難。書誌情報が掲載されていないので短編それぞれの出所は不明。

夫に一億円の保険を掛けられた人妻。夫が自分を殺そうとしていると愛人に告げる。自宅から逃げ出した妻は郊外の別荘地に滞在、殺害を目論む夫への逆襲のプランを愛人と練る。 『地獄へ行け』
取り柄のない電気店の主人が散歩中に知り合った自殺未遂の女性と同居、遂に結婚に至る。しかし彼の先輩が彼女を奪い取り、彼女は彼のことを見向きもしなくなる。 『歯ぎしり』
かって好き合っていながらも告白できずに終わった恋愛経験を持つ二人が偶然出会った。男は女を愛し、女の旦那を亡きものにしてやろうと企む。たまたま知り合った「殺し屋」に殺害を依頼して…… 『微笑する悪魔』
銀行の貸付課長の元に食肉の会社の重役が妹連れで訪れた。無理な条件で高額の金を貸して欲しいという。支店長が妹に籠絡され融資の方向で進むが、慎重な彼は彼らから作為の匂いを嗅ぎ取る。 『柔らかい唇』
ある女性と婚約している男の住まいにある日、女性の靴だけが揃えて置いてあった。その靴はいずれなくなったが、次にスカーフ、そしてハンドバックと女性の形跡だけが彼の部屋に残されていく。 『靴を脱いだ女』
中小会社を経営する男が経営不振時にやむなく政治家へ寄金して融資を引き出して持ち直した。その一部始終を知った男が雇ってくれと会社にやってくる。彼のエスカレートする要求に対し、社長は男の家族に目を付けた。 『振り放し』
ゴルフ場のホテルで男が殴り殺された。容疑者は同宿にいた男性と女性。前科のある男性が犯人であると主張する本部の方針とは別に、刑事は徹底的に女性の方を疑い、訴訟沙汰になるまで関係者をつつきまわる。 『負け犬にねぐらはない』
執務中の会社社長が突然窓の桟に立ち、外に飛び込み墜落死した。愛人こそいたものの社長には全く自殺の動機がない。小さな街の探偵と刑事はその謎について検討をはじめた。 『窓の死神』以上八編。

展開にクラクラ、オチに眩暈。端正な本格推理の狭間に垣間見える多岐川スペクトル
上記した通り詳細は不明ながら、本書は多岐川恭の作品群でも、恐らく後期の作品群が収録されているものと思われる。興味深いのは、それぞれの作品から発する主題というか、切り口がそれぞれ異なっていること。作品集の中でばらついているというものではなく、これまで読んだ短編集と併せたとしてもなお、異なる薫りが発せられている感じがする。それでいて、全てから「多岐川恭らしさ」もまた漂っている不思議。
例えば『地獄へ行け』や『窓の死神』といった作品はどちらかといえば、「本格ミステリ」の系譜だろう。犯人が仕掛けたトリックがあり、それを読者ないし探偵が見破ることでミステリとなっている。また『振り放し』や『微笑する悪魔』は、サスペンスが中心となったブラックな味わいを持つ作品といえる。そのブラックな味わいと突飛な謎がマッチングした『靴を脱いだ女』あたりは、トリックそのものは評価出来ないが作品全体の醸し出す皮肉な雰囲気に余韻が残る。しかし、本書にて特徴的なのは多岐川作品の世界に共通する、どこか人生に諦観を持つ登場人物の存在だろう。自分の勤務する銀行が詐欺師に狙われているという予感から行動する『柔らかい唇』の主人公は、結局魅惑的な女性に溺れることを選ぶ。また本書随一の訳の分からないオチが凄まじい(そう、凄まじい)『負け犬にねぐらはない』では、疑いで凝り固まった刑事は遂にストーカーとなって一女性を追い回す。(この結果がモノ凄いので読んでみて欲しい!)
こういった人生そのものに対する一種の諦めのような感覚は『地獄へ行け』や『歯ぎしり』の主人公も持っており、多岐川作品における独特の渋さを醸し出すのに大いに役立っていることは間違いない。これだけいろいろなパターン、雰囲気の作品があっても駄作が少ないのは、その独特の人生観を持つ主人公たちの行動予測が読者には想像出来ないところが重要なのではないか。

叢書がマイナー、著者もマイナー。それでもこの不思議な渋さは、意外と万人受けするのではないかと思えてならない。繰り返しになるが『負け犬にねぐらはない』のラスト数行の衝撃は、私は一生忘れない、いや忘れようにも忘れられない。ああいうオチで終わるとはねぇ……(嘆息)


01/12/27
藤木 稟「スクリーミング・ブルー」(集英社'00)

朱雀十五のシリーズにて登場したせいか、藤木さんには探偵小説作家(もしくは陰陽師作家?)というイメージが依然として存在するのではないか。とはいえ『イツロベ』のような手堅いSF系の収穫もある。そして本作はそれらとは更にまた別のジャンル分けが非常に困難なエンターテインメント

少女に麻薬を投与し血を抜き取って絶命させる。その死体をメスで切り裂き内臓を取り出してハイビスカスの花びらを詰め込み、穴の開いた船に縛り付け沖に流してそのまま沈める……沖縄でこのような猟奇連続殺人事件が発生した。日本版FBIともいえる警察庁の特別広域捜査課から二人の捜査官、エリートで潔癖性の合理主義者の久議と、世界の言語に堪能で人懐こい女性プロファイラー夏目が派遣された。事件に関する遺留品がほとんど残されていない中、最新の犠牲者はボディペインティングが施された状態で発見された。沖縄の一部地域に伝統的に伝わる祭祀と事件の被害者の様子が酷似していることが判明、事件の手掛かりを追って二人は沖縄の様々な領域に踏み込んでいく。繁華街、基地周辺、沖縄の僻地、そして外国人街。彼らの論理、沖縄の抱える問題に触れつつ、彼らは核心へと向かっていく。

超ハイテンション! サイコサスペンス! 沖縄民俗文学!!!!
私自身、沖縄と何ら実地の関わりのない人間なので、あまり偉そうなことはいえない。だけど例えば太平洋戦争時に上陸戦が繰り広げられ、米国による占領が戦後も長く続き、いまだに米軍基地があり、住民と米軍との間にしこりが残る土地であること。沖縄独特の様々な方言や文化、信仰が息づいていること。亜熱帯の気候域に属し、植物や生息動物が本土と異なっていること……等々、数え上げればきりがないほどの「沖縄」に関する知識がある。語弊を恐れず言えば、実際に人々が暮らしている「沖縄の存在」そのものを「本土」の常識に照らし合わせると「重なる部分が多いけれど、どこか異世界的な部分を持つ」世界として見えてくるように思えるのだ。
その世界を舞台に発生する猟奇的な連続殺人事件。しかし、しかし……。この事件、果たして猟奇的と扇情的な見出しを付けるのが正しいようにはどうも思われない。確かに死体は損傷されているし、犯人の意図は分からないのだが……。(以下ネタバレ)
捜査する側の二人を除くと、沖縄の現地の人は方言を徹底して使い、海外から流入した人物は現地の言葉を語る。文化と文化が時にせめぎ合い、時に溶け合うなかに沖縄の核となる信仰が浮かんでくる。その信仰の中にみられる儀式を表現したのがこの死体たちなのだ。即ち、本土の常識に照らせば「猟奇連続殺人」ではあるけれど、これも語弊を恐れずいえば沖縄の文化の中では「猟奇」の二文字は取れ、敬虔な意味合いを持つ「連続殺人」ということになるのではないだろうか。 こういった配慮の一つ一つに「沖縄」への深い想いが感じられる。
また、全知全能とも思える猟奇殺人事件の犯人とそれを追う二人の捜査官の姿は、洋物のサイコサスペンスの雰囲気を漂わせると同時に「本土の常識」の体現者としての役割をも担う。優秀な捜査官である彼らは僅かな手掛かりから、着々と犯人を追いつめるのだが、その一方で「沖縄」という存在の回りをぐるぐると巡り回って核心に切り込めていない。最後に(突飛な特徴が付加された)犯人と彼らが相まみえることが出来るのは、あくまで(ネタバレ)彼らが実際に「沖縄」の内側の人間であったから。バランスが崩れれば崩壊する可能性を孕む危険な伏線。その意味では、構成一つで非常に巧みに読者に対してミステリを仕掛けている。こうするしかないよな、確かに。

通り一遍の知識の羅列に終わらない。あくまで地元住民的視点にて捉えられた沖縄の文化や民俗、そして歴史までふんだんに取り入れられた「沖縄文学」であり、猟奇死体に不可解連続殺人といった「いかにもな新本格ミステリ」でもあり、凝った設定と突飛なトリックが連発される「藤木稟らしい小説」でもある。総合エンターテインメントと割り切るにしては入り込んでいる要素が多すぎる気がする。 ただ本書の場合、藤木さんの視点は、特に沖縄という存在そのものに向いているように感じられた。登場人物でさえ、もちろん探偵も犯人も、その「沖縄」を引き立たせるためのの小道具に過ぎない、とも。


01/12/26
権田萬治「現代推理小説論」(第三文明社'85)

様々な推理作品の文庫解説でお馴染み、権田萬治氏は'60年にチャンドラー論『感傷の効用』にて宝石評論賞に佳作入選し本格的に評論活動を開始。その後60年から90年代、そして現在に至るまで故中島河太郎と共に日本の推理評論の第一人者として長期間活躍、現在も精力的に活動されている。氏は'76年に『日本探偵作家論』を著し、第29回日本推理作家協会賞を受賞している。
本書は氏が'78年から'81年にかけて『幻影城』や地方新聞等に発表した推理評論をまとめた評論集。

I 「現代推理小説論」「現代推理小説の諸問題」「四つの影」「推理小説ブームの社会的意味」「現代推理小説と医学」
II 「名探偵はどこへ行ったか?」「魅力ある犯罪者の肖像を」「現代推理小説と文学」「ヒラリー・ウォーの「名探偵」論について」「現代推理小説におけるトリックの位置」「推理小説の批評は可能か?」「ネオ・ハードボイルド派への疑問」「栗本薫『ぼくらの時代』について」「歴史推理の問題点」「論争「スターリン暗殺計画」」「歴史推理における事実と虚構」
III 「推理小説の新しい傾向」「警察小説の変化」「推理小説の舞台裏を知るために」「誘拐推理小説の面白さ」「実録ものの可能性」「愉快な名探偵もののパロディ」「悪女の魅力」「推理小説より楽しい評伝」
IV 「書物にみるエスケープ」「さよなら、ドラキュラ伯」「怪奇幻想小説の擁護」「コン・ゲーム小説の楽しさ」「わびしいスパイの窓際族」「悪女のいる川辺」「名探偵は美食家か?」
V 「処女作時代の作家群像」「推理評論への道」「あとがき」

半分は推理小説評論家がごく少なかった時代の貴重な推理評論。……残り半分からは時流を学ぼう
十五年といえば、それなりの時間である。推理作家の旬の世代が、二回り以上の交代を遂げるのではないか。(まぁ、才能に期限を区切るのも変な話ではあるが)その結果、発表される作品には世代固有の特徴が存在している。しかしこれが評論となるとどうか。本書を読んで、推理作品評論という存在は時局を経てもどこか本質的な部分で似通ったものがあるのではないか、と感じたのだ。推理小説も現代小説である限り、風俗描写は切り離せない。即ちその当時の世相が反映される部分が内部に存在し、それが作品の時代性を形作る。しかし、推理小説の本質である謎、そして解決といった根本的な部分についてはそれが推理小説である限り、発表年代は関係がない。古典探偵小説に現代の読者が感激出来るのはその根本部分が「推理小説」として共通の言葉を有していることにある。
さらにその本質的な「推理小説」の部分の更に根幹部分を論ずる「推理小説の評論」に関していえば、その初期から現在に至るまで、その「共通の言葉」にて論じることが可能なのではないか。 その結果が、現代推理評論と、十五年以上前に執筆された本書との間に存在する奇妙に近い手触り、ということなのだろう。
とはいえ文脈的には本書にて取り上げられる方法は、どこか現代のものとも似たアプローチだったりするのだが、取り上げられている作品には当然、当時の特徴がある。その執筆当時の話題作が分析されているあたりが面白い。例えば、『黄色い部屋はいかに改装されたか?』にて伺い知ることの出来る、都筑道夫と佐野洋との「名探偵論」を更に権田氏が双方の主張を分析して、噛み砕いて説明していたりする。「こんな文章が今読めるのか」と私的には非常に新鮮な思いをした。また檜山良昭『スターリン暗殺計画』において権田氏と檜山氏が歴史ミステリの方法論について論争をやり取りしていたことがあったなど、本書で初めて知り、かつ黎明期の歴史ミステリの捉え方についての議論を興味深く眺めることが出来た。
惜しむらくは、一冊まるまるの分量の中で、真の「評論」といえるのが前半部だけにとどまること。後半は、雑誌や新聞に掲載したと思しき文章が、あまり統一感なく並べられており「ミステリに関するエッセイ」という印象。かっての評論家たちの活躍出来る場所が、現在よりも遙かに少なかったことを思えば致し方ないことなのかもしれないが、後半部の価値は正直前半に比べやや減ぜざるを得ないだろう。

基本的には推理小説史やミステリ論に興味がある研究肌(?)の読者向け。ただ、本書を読むことで取り上げられている作品のいくつかに興味が引かれるものがあったので、「昭和ミステリ」の埋もれた名作・佳作・珍作を掘り出す一助とするといった楽しみ方も出来るかもしれない。


01/12/25
城戸 禮「つむじ風社員」(春陽文庫'68)

明朗小説の大家、城戸禮さんが「刑事三四郎」シリーズに手を染める以前の作品……とはいっても主人公はやっぱり三四郎なのだけれど。題名の通りサラリーマンもの。

城南大学の柔道日本選手権四連覇の立て役者にして、自分を飾らない色男、竜崎三四郎は、親友の伴大六と共に高田馬場に出向いていた! 彼らは今年大学を卒業するのだが、その就職先に三四郎の父親の知り合いが経営する四流貨物会社、城北貨物を選んだのだ! 社長の気はいいが、経営は火の車!! 「鶏頭となるも牛後となるなかれ」という父親の言葉を実践しようとする三四郎は、社長にトラックを持参することを条件に最初から重役格にて入社することを認めさせた!! やり残したアルバイト先の工事現場に出向いた三四郎は弱い者いじめをする現場監督を投げ飛ばし、隣りのビルの火災でも大活躍!! その時救った大手トラックメーカーの社長の娘の縁で格安で大型トラックを入手することが出来た! 堂々と働き始めた三四郎の前に、悪徳金融屋、黒馬商事の社員が現れるが三四郎は彼らを煙に巻いて追い返す! しかし、黒馬商事の若大将、馬次郎の狙うバーの女性が三四郎に惚れるにつれ、馬次郎は陰湿な復讐を開始した!!! (梗概を春陽文庫のカバ袖風にしてみました)

サラリーマンの三四郎もやっぱりいつもの三四郎。痛快、明快、そして愉快!
いつもの三四郎。そう、喧嘩が滅法強く背の高い現代的美男子。強い者には戦いを挑み、弱き者を身体を張って守る。口ではいろいろ強がりを言いながらも大の照れ屋で若い女性が何よりも苦手。言い寄ってくる美人たちから逃げ回ってばかりいる……。これが三四郎。 職業(というか背景)が学生だろうと刑事だろうと本書のようなサラリーマンであろうと、職業が異なれど三四郎は、みな三四郎なのである。 分かりやすい。
本書はそんな「サラリーマン三四郎」が大活躍する明朗小説。どこか講談のような地の文がテンポを生み出し、三四郎と親友の大六とのやり取りがまた弾む。宮仕えならではの現実を敷衍しながらも、心意気は遙かに大きい。悪人以外の登場人物は皆いい人ばかりで、彼らを守るために三四郎は盾となり剣となる。自ら戦いを起こすのではなく、降りかかる火の粉を払うというスタンスが、三四郎の振るう暴力(ま、手加減しようが暴力だよな)に対する違和感を除去するのに大いに役立っている。三四郎の拳は正義を守るために使うもの。
まだそれほどに城戸作品を読んでいない自分が指摘するにはまだ早いのかもしれないが、「三四郎」シリーズは一種の「時代劇」なのではないか。 どんなに誰かが不幸な目に遭おうとも、必ずラストは最強の主人公が大暴れする結果、悪を滅ぼし、不幸な者は報われ、ハッピーエンドにてページを閉じることが出来る。偉大なるワンパターン。だけど読み終わって嫌な気分になることはまずあり得ない。日本人に長い間愛されて止まない「時代劇」(特に毎週テレビで放映されるタイプのもの)にて、権力者が悪事を働き、庶民が泣き、主人公が悪を懲らしめる――このあたり、大まかな構造を一にしているといえよう。安心して読めるということは、娯楽小説として非常に重要なことなのだ。

個人的には立て続けに読んでいきたいタイプの作品ではないのだが、疲れた時に気軽に手に取れるという点は何とも有り難い。「ダイジョービ」「ダミだ」などの言語感覚に眩暈を覚えつつ、目一杯楽しむことが出来る。「三四郎」シリーズの題名の騒々しさ? に遠慮することなく、一度は手にとってみて頂きたいもの。


01/12/24
井上夢人「クリスマスの四人」(光文社'01)

一昨年『オルファクトグラム』にて健在ぶりをアピールしつつも、その後単行本的には沈黙を続けてきた井上氏の久々の長編。'97、'98、'99年に一度ずつ『EQ』誌に掲載され、更に廃刊後は『GIALLO(ジャーロ)』誌に最終話が発表された。

1970年の12月25日。その日に誕生日を迎えるジュンこと久須田潤次のお祝いに彼を含め四人の男女が集まった。ジュンの恋人橋爪絹枝、塚本譲、番場百合子。大晦日に誕生日を迎える百合子を含め、全員が同い年。そんな彼らは塚本の車に乗ってジョイントを決める為に山奥へと車を走らす。大麻が回り酩酊した僕らは、運転してみたいという百合子の運転で誰もいる筈のない道をスタートさせるやいなや、鈍い衝撃に襲われる。恐る恐る確かめてみると無精髭を生やしスーツを来た男が死んでいた。こんなところでなぜ? 事態におののく僕らは死体を車に詰め込み、別の場所に捨てることにする。さらに死体からは大金、二百万円が見つかってだけど、僕らは死体を裸にして秩父の山中に捨てた……。そして十年ごと、クリスマスの日に集まる僕らに不思議な出来事が降りかかる。

作者が「井上夢人」である、ということ、それが最大の仕掛けといえるかも
冒頭の「奇妙なシチュエーション」だけならありがちかもしれない。若者の身勝手な暴走によりひき殺される中年男。恐怖しつつも自首よりも証拠隠滅を選ぶ彼らの行動は、言い方は悪いが「これから」の世代だけに理解出来る気がしてしまう。心の準備なしに背負うには罪は大きすぎる。しかし、彼らは一生消えない十字架を背負った……。ここからが井上流の展開。学生時代の友人関係はいつしか疎遠になる(これは自然なこと)が、また十年後に半ば偶然集まった時に、「あの時」のことを思い出させるような人物が登場する――。
十年前と全く同じ外見を持つ人物や、密室内からの服の消失など本格ミステリを思わせるガジェットが登場、しかしそこは井上夢人、そちらの指向にがんじがらめではないことを先に頭に入れておきたい。 本書をミステリと信じて読めば、アンフェアと断言されても仕方なかろう。しかし、読み終わって振り返ると本書からはどこかノスタルジックな香り漂う(ネタバレ)「タイムパラドックス」を主題としたSF作品として完成された出来であることに気付くのだ。
登場人物たちと1950年生まれの井上氏は同年とまではいかないまでも同世代。事件を経験した四人が時代の移り変わりと共に、家庭環境や仕事環境、彼ら同士の関係など微妙に変化していく様子が実に鮮やかに描かれていく。発生する奇妙な事件に目が行きがちだが、十年ごとに集うたび順に四人の誰かの家に集まったり、視点がそれぞれ章ごとに異なったりと、細やかな配慮も十分。事件に引き寄せられつつも、ページの下に大書されている年代の表記に「ああ、あんな時代だった」と、作品内容に関係なく自分にとってのその年がどうだったか、ということを思い出しつつ読むことになる。読者の経験を喚起させるノスタルジー感覚。
最終章にて明かされる物語の秘密は、ある意味その章だけ独立しているかのような展開となる。そしてそれはそれで受け入れたいところ。人生にはいくつかの選択肢が存在して、片方を選ぶことにて片方を捨て去ることになる。もしかしたら自分には別の人生があったのでは? という素朴な疑問が「タイムパラドックス」の重要なポイント。それを逆向きにし遡及を可能にすることが、本書内部での整合性を創り出す。ミステリ的にはこじつけっぽいが、SF的には納得行く説明だろう。そして彼の行動は喪われた若さへの限りない憧憬が込められている。読書のモノサシをどこに置くかによって、大きく評価が分かれることは否めない。しかし前から井上氏の創作は、ミステリではないからダメという読者は眼中にない。

「クリスマス」という題名ほどにクリスマスがテーマとして関わってくるかというと実はそうでもない。しかし、年に一度のイベントという意味合いでは本書の事件が発生する日がクリスマスというのは何とも象徴的ではないか。普段は意識もしないサンタクロースがプレゼントを持ってやって来る日。時空を超えたそんな存在が現れたって誰も不思議に思わない日なのだから。


01/12/23
池井戸潤「M1(エム・ワン)」(講談社'00)

'98年、第44回江戸川乱歩賞を『果つる底なき』にて受賞した池井戸氏の受賞後第一長編。金融界出身(そして現役コンサルタント)らしい作品に今回も仕上がっている。

大手商社の調査部に所属していた辛島は、転職先の外資系企業の日本撤退の煽りを食らって失業、友人の伝手を頼って高校教師となっていた。ある晩遅くに彼が副担任を務めるクラスの女生徒、黒沢麻紀が彼を訪ねてくる。何か相談したいことがあったらしい彼女は辛島に「社債」について尋ねる。女子高生と金融用語とのギャップに戸惑った辛島は、結局本当の悩みを聞きだせないまま彼女を見送った。翌日、麻紀が父親の都合で学校を変わるという連絡を聞かされ、辛島は彼女の父親が営む金属関係の会社が不渡りを出したとことを突き止める。そして麻紀も姿を消す。彼女の母親から受け取った資料から、辛島は麻紀が田神亜鉛という会社の発行した社債の繰り上げ返済を求めにいったと推測、中部地方某県の郡部にあるその会社へと向かった。その小さな街は田神亜鉛で成り立っており、その地域での力は経済的なもののみならず絶大なるものがあった。頻発する下請け企業の倒産など不景気に喘ぐこの街には何故か「田神札」と呼ばれる特殊な商品券が、人々に嫌がられながらもあたかも通貨のように流通していた。麻紀と合流した辛島は、田神亜鉛に交渉に出向くが全く相手にしてもらえない。

金融サスペンスを下敷きにしたファンタジーというのはひねくれた見方か?
世の中には金融サスペンスというジャンルがある。いわゆる企業小説よりももう少し身近な、サラ金や銀行員レベルが中心となって動くお金にまつわる物語。お金の貸し借りで友情や親族の深い絆が簡単に壊れることもままある通り、金融に関する様々な事柄には人々の利害が大きく絡む。下手をすれば全人格、全ての人生を金に賭ける人々も少なからず存在する。そういった「金融界」は虚々実々の駆け引きが行われる伏魔殿。そして貴方も少なくともどこかで確実にその世界と関わっている。ちなみにM1はマクロ経済学の用語で最初のマネー・サプライのこと。通貨が一旦市場に投入されて決済代金として使われる。そしてその代金をベースにまた通貨が市場に出回るとM2、M3と当初投入した金額以上に乗数効果にて経済的な影響は増していくわけですね。
銀行員ハードボイルドにてデビューした池井戸氏が今度選んだ題材は、一地方の企業城下町。その企業が発行する私募債に端を発し、その地方都市全域に展開する金融パニック小説といった筋書き。その城下町が一企業の金融的に横暴な振る舞いに蹂躙され、日本の中に別の国家が形成されているという設定、そしてその設定を説明するための導入に巧さが光る。定食屋で目撃される無茶から始まり、下請け、孫請け企業の悲劇、地方銀行の辛さ等々、荒唐無稽なはずの設定が、一定の説得力をもって読者に迫る。このお金をベースにした世界観の構築方法に私は独特のファンタジーを感じた。
この「世界」のからくり、そして破壊が物語のメインストーリー。しかしその「世界」の破綻は、支配者のみならず住民のカタストロフィをもまた意味する。それがパニックを引き起こす。まるで戦争のような終盤部は何か「金の怨み」の恐ろしさをまざまざと感じさせるものがあった。
金融のプロはこの世に数多くいるし、小説家もまた数多くいる。ただ、この二つの世界を繋ぐ知識と才能を併せ持つ人間はごく限られている。池井戸氏はその数少ない両方の才能を持つ作家であろう。その意味でも池井戸氏にはこのまま独自の道を突っ走って欲しい。

読み終えてふと思ったが、本書がツボに入る人はもしかすると限られてくるのではなかろうか。「こう見えても、私は日経を読んでいる」というCMのキャッチコピーがあったが、最低限それくらいの社会的な知識を持った層ならば全く問題がない。しかし社会経験の少ない高校生あたりが読んで本当に面白いか、というとちょっと疑問かも。しっとりした恋愛小説などとは別の意味で「オトナ向け」のミステリーという側面を持っている。


01/12/22
鮎川哲也「時間の檻」(光文社文庫'87)

硝子の塔』に引き続き刊行された、光文社文庫による鮎川氏の初期短編集の二冊目。創元推理文庫から刊行されている『五つの時計』という作品集の元版でもある。旧「宝石」誌上に発表された作品を意識的に選んでおり、全作品に対する江戸川乱歩のコメントを読むことが出来る。作品セレクトと解題を当時無名だった宮本和男氏(つまり北村薫氏)が担当、その部分もひっくるめて創元推理文庫版に継承された。

殺人事件の容疑者には推定殺害時刻には友人を家に呼んで蕎麦を食べていたというアリバイがあった。友人も彼の証言を補足する。鬼貫警部もの。 『五つの時計』
雪の中に残された発見者二人の足跡。教授は書斎で背中を刺されて死亡、しかし犯人の逃亡した足跡が残されていない。星影龍三もの。 『白い密室』
愛人を争って殺されたとみられる男。相手は逃避行の末捕まったが、投函された手紙にて推定される殺害時間にはアリバイがあった。鬼貫警部もの。 『早春に死す』
家具が入っているはずの箱から女性の死体が。梱包した家具屋が疑われるが、その箱は第三者と共に確かに家具を箱詰めしたと主張する。鬼貫警部もの。 『愛に朽ちなん』
ジャズバンドの女性歌手が殺された。道化師の仮装をした犯人はトンネルを逃げたはずなのに、どこかへ忽然と消えてしまった。星影龍三もの。 『道化師の檻』
金持ちの遺産を巡り隔絶された別荘で次々と殺される親族。現場には逆さまになったお面や冷蔵庫が残されている。その意味とは。星影龍三もの。 『悪魔はここに』
共同経営者を亡き者にしようと企んだ男は、相手を撲殺した上、列車から転落したと偽装した。一旦は上手くいった計画はなぜ瓦解したのか。ノンシリーズ。 『不完全犯罪』以上、七作品。

端正かつ緻密。鬼貫&星影が解き明かすのは、アリバイと密室と、そして心理の死角
私が鮎川哲也を知ったのはたかだかここ数年のことであり、現在読了のリストに上げている作品群もその意味では同じくここ数年に読んだ作品ということになる。この経験の結果、私が持っている「鮎川哲也作品」像というものは、巷にてよく言われるような本格一辺倒というものでもない。「本格」を創作の中心として置いている点は否定しないが、その分、そのトリック以外の部分にも十二分に気を使って「物語」としてもバランスがとれている「推理」+「小説」として楽しめる作品という印象だ。 ちなみに、鮎川御大であっても時々存在する「これはちょっとな」という作品は総じて「推理」の部分が軽い。「小説」だけで読ませる鮎川作品もあるが数は少ない。
前置きが長くなったが、この作品集に収録されている作品は「推理」と「小説」を比べたとき、「推理」の比重が非常に高いものが選ばれている。 初期のまだ鮎川氏が作品発表する場が限られていた時期の作品が集められているせいもあろうが、みずみずしさがある。特にトリック部に光るものが多い。更に再読になった作品を含めてこの作品集全体を俯瞰してみるに表面上、強く「不可能犯罪」が前面に押し出されていることに気付く。それはいわゆる密室であり、犯行時の現場不在証明である。その派手な事件に当然眼が行きがちだが、実はこれらの「不可能犯罪」の派手さの裏側に、鮎川氏は心理的なトリックを仕掛けているのだ。時間や物理的な工夫にて仕掛けられるパズルではなく、相手の心理的な隙を突くもの。そしてその心理トリックは事件の登場人物に対する仕掛けであることと同時に、読者をもまた対象にしたものである。極端な言い方をすれば「本格推理」に造詣が深い人ほど騙されるトリックなのだ。 先行する作品にて使用されているトリックと表象上は似た現象を起こしつつ、実は密室や現場不在証明は心理的な死角に解決を求めている。若くして(って執筆当時もそれなりのお年だけど)「老練」なテクニックを駆使していた作家である。

余談になるが『五つの時計』も購入はしたのだが、御大の署名本なので手に取ることが出来ず、こちらの版を手に取った次第。鮎川氏の長編も続々復刻されているが、「さて短編はどうだろう?」と迷った時には好適な短編集。鮎川初心者の方に安心して勧められる。(ということは『五つの時計』もまた)


01/12/21
小野不由美「黄昏の岸 暁の空 十二国記」(講談社文庫'01)

図南の翼』以来、久々の刊行となる小野不由美の人気ファンタジー「十二国記」の長編。先に講談社文庫にて刊行され、続いて講談社X文庫ホワイトハートにてイラスト入りにて同じ作品が出るという変則的な販売方法が取られた。この後『華胥の幽夢』という短編集も刊行されている。

戴国。十二国の中でも北方に位置するこの国は先王、驕王の政治により民は疲弊していた。その没後すぐにに蓬山に登り戴麒に認められたのが先王の下で軍を指揮していた乍将軍であった。彼は泰王驍宗となり国の復興に務めるが内乱鎮圧の為に故郷に向かったまま、行方が分からなくなる。争いを好まない幼い麒麟、泰麒はその報を聞かされ、大鳴動を起こして虚海へと消える。――それから七年、戴国は別の将軍、阿選が支配するようになり、叛乱する者はことごとく誅せられた。女将軍、李斎は騎獣に乗って海を渡り、陽子が景王となっている慶国へと助力を求めてやって来た。途中の戦いで重傷を負った李斎に深く同情、景王陽子は彼女を篤くもてなす。しかしこの世界には軍を他国に進めると滅びるという天の掟があり、更にまだ慶国そのものの地盤が固まっていないなかでの出兵は不可能だった。それならば、と陽子はある考えを隣国の延王に諮る。

十二国記の物語の舞台背景の「支柱」が少しずつ明らかに……
この「十二国記」のシリーズに触れる前、初めて小野不由美という作家と出会ったのは『魔性の子』という作品だった。幼い頃神隠しにあった少年になんらかの危害を加える者全てに謎の制裁が与えられるという物語。彼に対する苛めはもちろん、それが叱咤激励であっても、単純な肉体的苦痛を与えた者は傷つき、時に死に至らしめられるという理不尽な怖さが中盤までを支配していた。そして幻想的、かつ破壊的とすら思える終盤にひたすらに混乱させられた。唐突に出てくるコレは一体何なのだ? ……実は彼こそが蓬莱の国に流れ着いた麒麟であった……というのは「十二国記」の世界を知ってから初めて理解出来たこと。そう、本書はその『魔性の子』に登場する高里少年が「十二国」の世界に帰還する物語。
しかし、そこでふと疑問が湧く。――小野不由美ほどの作家が、いわば「舞台裏」をわざわざ描く必要があったのだろうか、と。 その視点にて全体をもう一度眺めると、本作における「戴国争乱−泰麒帰還」の物語は実は主従の従であり、主となる部分は別に存在することに気付く。それは「十二国記」の世界の中心に疑いなく存在している「天の意志」。 王、麒麟を頂点とするヒエラルキーを持つ十二国という存在の頂点に立つのが「天」。この世界の決まり事は「天意」と称され、これまで疑われることがなかった。そして実際には存在しないものと思われていたその「天」が、物語内部に実在することを本作で小野さんは明かす。その「天」は人智の及ばぬ力を有しながらも、存在することにより無謬の存在であることを否定される。これは少し下の階層に下った陽子ら「王」も同じことがいえる。人智を超えた「天の意志」が人々の不幸を容認する……。これはおかしい。世の中に無謬なものなどなく「個」によって全ては変えていかなければならないものなのだ……。今後、物語はこのあたりに向かって進むのだろうか?

ラブストーリー抜きで夾雑物なし、真っ向勝負のオリエンタルファンタジー。様々な背景を持つ王や麒麟らを押さえて、恐らく「十二国記という世界そのもの」が最終的な主人公となるのだろう。 この世界の着地点がどこになるのか。ここまで読んできた作品だけに、最後まで付き合わせて頂く所存。