MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


02/02/20
斎藤 栄「真夜中の意匠」(春陽文庫'75)

先に『宝石』誌の懸賞等に受賞歴のある斎藤氏は『殺人の棋譜』にて第12回の江戸川乱歩賞を受賞して本格的な作家生活に入った。その後も様々な趣向を持った作品を発表、特に近年はシリーズ探偵を多く持っている。本書は受賞作以外ではその当時の本格ファンの支持を高く受けている長編作品。

代々農業を営み神奈川県に広大な土地を持つ岡一夫は肝臓癌に犯されて、死期が見える状態にあった。一夫には年若い後妻の久子、絵画が好きで留学指向を持つ一夫曰くの放蕩息子、弘がいる。ところが一夫の所有していた土地が県の「港北ニュータウン計画」の一環で高く買い上げられることが決定、億単位の金が将来入ることが確実になった。一夫に愛情を感じていない久子は、実兄の寺門から計画のことを知らされる。その弘がある日、自宅で殺されているのが発見される。捜査にあたった桜林、田所の両刑事は一夫の弟、京二郎が怪しいと睨んだ。相続に絡んで、最も得をするのが京二郎だったからだ。ところが京二郎は酔っ払って女性のアパートにいた、とアリバイを主張する。刑事は必死に京二郎のアリバイを崩し、女性の偽証であることを突き止めた。しかし、京二郎は隠していたことを謝ったうえで、その時間帯は人妻と離れたところで密通していたことを白状する。しかし、これは即ち別のアリバイの登場を意味した。

二転三転、のらりくらり。アリバイを越えた超アリバイが行く手を阻む!
ミステリ作品はフィクションである……という点を徹底的に追求、まさに「作り物」としての面白さが本書の最大のポイントだろう。中途半端なら、捜査過程がだらけてエンタメ性が落ちてしまいがちなアリバイトリックが、徹底追求することによって全く従来味わったことのない面白さを醸し出しているのだ。
副題に「遺産相続殺人事件」とあるのだが、動機は作者は多少凝った意図をもっていた可能性もあるが、実にシンプル。その名の通り「遺産相続」である。また容疑者も早々に一人に絞られる。土地開発による成金という存在を用いるのは、当時ならば社会現象の観察として意味があったのかもしれない。だけど、結局は遺産を狙って別の相続人を殺害して取り分を増やすということに尽きる。
ただ、その人物には鉄壁とも思えるアリバイが……。 これだけで読む気が失せるタイプの読者もあろう。いやいや、そういう人にこそかえって手にとって頂きたい作品なのだ。この人物、トリックや脅迫を駆使して何重ものアリバイで我が身を囲っている。一つのアリバイが破れてもいけしゃあしゃあと次のアリバイを捜査陣に提示する。 それを何度も何度も繰り返すのだ。 「おいおい、実際にそんなことする奴おらんで」というツッコミも最初のうち。これだけ徹底してやる奴なぞ、はじめからいやしない。作者もそれくらい十分承知の上で徹底的にフィクションの面白さ(もちろん、ミステリとして最低限のリアリティは維持されながら)を追い求めている。冒頭から序盤は平凡なミステリであるのが、その平凡さがかえって中盤以降の没入を生む、不思議な作品である。

無理矢理に社会派っぽい犯人の動機を加えているが、これは時代の要請か、ある意味仕方ないだろう。犯人は自分の頭脳と日本の警察力との知恵比べをしたかった、という探偵小説的な動機の方が実はしっくりきたり。本格マニアばかりでなく、ちょっと踏み込んだミステリファンならば読んでみる価値があるように思う作品。


02/02/19
大沢在昌「新宿鮫」(光文社文庫'97)

言わずと知れた大沢在昌の出世作にして大ベストセラー。 デビューより十数年、ハードボイルドにこだわりつつも万年初版作家と揶揄されてきた氏が大作家への階段を駆け上るきっかけとなったシリーズの第一作で'90年にカッパノベルスより刊行された。尚、本作は第44回日本推理作家協会賞長編賞と第12回吉川英治文学新人賞を受賞している。

新宿署の防犯課に勤務する三十代の警部、鮫島。秘密文書を手にしたことから警察内部でも鮫島を忌む声は高かった。そんな彼はエリートコースを捨てて日本最大の歓楽地である歌舞伎町を臨む署内で孤独な立場をかこっていた。かつて自らの持つ独特の正義感により、左派の過激派に対するノンキャリアの汚い捜査方法を許せなかったことから警察のキャリア制度からはみ出してしまった彼は、二十代のロックボーカリスト、晶を恋人にしている。晶と出会ったのは麻薬を売りさばいていた人物を追っていた時。毅然とした性格と孤高の魂が二人を引き合わせたのだ。……新宿署管内で警邏中の降板勤務の制服警官が二人、ライフル状の武器で一発のもとに殺される事件が発生した。鮫島はその事件とは関わらず、武器の密造を行い間接的に多くの人々の命を奪う木津を追っていた。ゲイバーに勤務する情報提供協力者と接触した鮫島は、木津の行きつけのその店から彼を尾行することにより、彼の武器製造工場を発見しようと奮戦、その甲斐があって鮫島は木津の自宅住所を調べ上げた。

偶然なのか計画通りか。90年代日本ハードボイルドの代表作の下地込められたポイントの数々
今や大作家としてハードボイルド界に君臨する大沢氏。しかし氏は『新宿鮫』、つまりこのシリーズが売れ始めるまでは決してメジャーな存在とはいえなかった。それくらいに本書は売れた。この後のシリーズも売れた。確かによく出来ている。しかし、従来のハードボイルド作品に比べどこがミステリファンに受け入れられる要因となったのか、一見してその明らかな要因は見えづらい。ここでちょっと独りよがりの考察を試みてみる。
この文庫の解説の北上次郎氏は人物造形の巧みさに加えて、設定におけるリアリズムぎりぎりの「けれん」を本書の特徴として挙げている。確かに「新宿署」「挫折したエリート」「独自の正義感覚」という鮫島の造形は優れているし、脇を固める鮫島の上司、桃井課長や、恋人でロックシンガーの晶など渋さや華やかさなどの役割を持つ登場人物にも味がある。また彼らのキャラクタはそのまま設定と密接に関係しており、その特異な背景もまたよく考えられているといえよう。また本書で副次的に登場する警察マニアの青年の描写もオタク的に面白い。キャラ読みなんて言葉はまだ存在しなかった頃、恐らく期せずして大沢氏は近いことをやろうとしていたという見方も出来る。しかし、どうも本当に新しいのはこれらまで。他に登場するキャラクタ、つまりゲイであるとか、エリート意識をちらつかせた同僚であるとか、ヤクザであるとか。こちらには旧来から存在する典型的なキャラクタを持ち込むことで、主人公たち以外の存在については読者に過度の負担を与えていない。。
また本書のテーマ、拳銃密売と警察官殺害の事件についても、ハードボイルド的には新機軸のように思えるが、本質は蘊蓄型ハードボイルドと変形ミッシングリンクの本格系推理小説のミクスチュアである。この時点でのミステリ界の流れ、つまり新本格ミステリの勃興を巧みに大沢氏が自らの世界に取り入れたといえないか。純然たる欧米から輸入したハードボイルドではなく、当時の日本ミステリの一角にその存在基盤がある。つまり、90年代に向けてのハードボイルド・ジャパネスクといえるのではないか。日本の、特にミステリの世界における特徴をうまく独自のハードボイルド世界に加え、日本の広い読者層に対してアピールできるものを創り上げた。この点が売れる理由ではないかと思われる。
もう一つはあまり上手とはいえない文章。改行が多く、会話も多い。テンポとスピード感において優れているが、会話部分と蘊蓄部分の差が大きくリズムを打ち出すというには(この段階では)まだ程遠い、というのが私の印象。しかし、本なら漫画、ミステリならテレビドラマといった層にとっては却って読みやすくなっているともいえよう。
……とまあ、実際に作者の意図はとにかく、売れたことで本書が一つのスタンダードとして君臨することになったことは間違いない。そして新宿は十年近く後に、次のヒーロー劉健一を生み出すことになるのだがそれはまた別の話。

何を今更「新宿鮫」の理由は、たまたま実家に転がっていたから。(いつか新宿鮫シリーズは最初から再読したいとは思っていたので良い機会になったが) 約十年ぶりの本書でもっとも印象に残っていたのが「ロケットおっぱい」という表現の巧みさ? と「新宿署の建物が歌舞伎町にない理由」という私は変かな。


02/02/18
阿部陽一「フェニックスの弔鐘」(講談社文庫'93)

第36回江戸川乱歩賞の受賞作品。現在こそ乱歩賞は「ミステリー風なら何でもあり」だが、そうなる前には乱歩賞には様々な試みの作品が寄せられ、そのたび毎に激論が交わされていたのだという。翻訳スパイ小説風の本書も当時の選考会に一波乱を巻き起こしたらしい。氏には他に『水晶の夜から来たスパイ』という作品もある。

ゴルバチョフ書記長の指導の元、ソ連でペレストロイカが進行するなか、自由を謳歌する人々とは裏腹にその経済は弱体化が進んでいた。一方、前職の人気を引き継ぐ形で軍縮と世界平和をキーワードにするアンダースン米国大統領は、そのゴルバチョフと共に双方の政略を実行すべく、経済大国となった日本を引き立てつつ金を引き出す外交戦略を実行に移し始めた。そのことを察知した「何者か」は、その米ソの戦略が気に入らず、とある策略を巡らす――。 共産ゲリラの虜囚となり、脱出したものの廃人寸前となりかかっていた元陸軍少尉、レイモンド・グリーンの元にFBIに勤務する兄から緊急の連絡が入る。しかし、兄はレイモンドと接触する直前、酒酔い運転の交通事故で死亡してしまう。兄の死に疑念を抱くレイモンドは事実関係を調べ始める。その事故の翌日、NYでは多数のVIPを乗せた旅客機が墜落。人気チームが対戦するマジソン・スクエア・ガーデンに激突した機体からは、謎の毒ガスが流れだし死者は二万余を数えた。ソ連製と判明した毒ガスに市民の怒りは爆発、急速に右傾化する国民により、米国大統領は政治的危機に陥る。軍縮の動きを阻止しようと悪魔の計画を進める「何者か」は、果たして誰で何を狙っているのだろうか?

破格の構想、破格の実行。壮大な物語。広い範囲の読者がついてゆけるかどうかは問題
世に出た時期が悪かった、ともいえるか。ベルリンの壁が破壊され、ペレストロイカが進行して米ソ両国の諜報組織が弱体、解体されて「東西冷戦」という世界の枠組みそのものが崩れようとしていた時代。同時進行でその激動のなか、従来の米ソの諜報戦やダブルスパイをベースにしたいわゆるスパイ小説、国際謀略小説(冒険小説という広い枠組みのなかの一部)という作品群の輝きは褪せはじめ、(欧米を中心に)発表される数も減った。(←推測と印象です。裏付けはありません) その意味で「現代史を題材にしながら歴史に裏切られ、傷つけられた作品」(文庫版あとがきより)という作者の自己分析は残念ながら正しいように思う。特に発表より十年経過し、世界の新しい枠組みがおおよそ出来上がっている現代の読者にとっては尚更である。確かに「NYの真ん中にジェット機が人為的に墜落させられる」という想像力は凄いが、現実がそれを飛び越えてしまった。
とはいえ、この作品のなかで作者が示した構想の壮大さ、そして新聞記者という職業がなせる技なのか、虚実の情報の「実」の部分の正確さは特筆すべきものがあろう。その実をベースに、フィクションの衣をまとわせて大国間パワーバランスの危うさを描くあたりの実力には相当なものがある。従来のモノサシでは計れないという意味でのミステリーの新しい地平を創り上げられる……と選考時に見込まれたとしても、それは間違いではないと思う。
ただ、ミステリとしての前に一個の小説として読みづらいことは否めない。ほとんど日本人が登場せず、外国人ばかりが登場する点は仕方ないにしても、最初から日本語で書かれた小説としては、文章やレトリックに奇妙に「外国作品訛り」が感じられる。言い回しやレトリックが翻訳作品的なのだ。その結果、せっかく日本人の執筆した日本語の作品であるに関わらず、翻訳作品特有の硬さが全編を覆う。また、同様にただでさえ複雑なプロットの構成において、読者向けの最適化が図れていないようにも感じられる。中盤過ぎまでにプロットが多すぎて「何がなんだか」な気分になった。

あまり本書のあと作品数を発表したという話も聞かないし、ある意味、阿部氏は異端児のまま終わってしまう可能性もあるように思う。国際謀略小説については脈々とその系譜の作品は出版されており、一定のファン層が存在することは確実だと思われるのだが……。本書そのものはその主題的に残念ながら「旬」は過ぎているように正直感じた。


02/02/17
稲見一良「ソー・ザップ!」(角川文庫'93)

'68年に『推理ストーリー』誌が開催した第3回双葉推理賞の佳作第一席を「凍土の中から」で獲得後、創作活動から遠ざかっていた氏が再び小説の世界に戻ったのは闘病生活がきっかけというのは有名な話。その結実が'89年に刊行された『ダブルオー・バック』だが、本書も同じく闘病生活の中から生み出された第二単行本にして初長編にあたり、'90年に大陸書房より初刊本が出ている。

パブ・パピヨン。かつての武道家や格闘家、銃の名手など男のなかの男、そして相応の経験を持った者が集うバー。ここに四人の男たちがいた。ベアキルと渾名される男は元レスラー。パピヨンでの腕相撲チャンピオン。ハヤと呼ばれる男はまだ少年の面差しを残すダーツの、そして手裏剣の達人。金久木は元警察官で、射撃の達人で逃げ出した虎や人間を撃ち殺した経験を持つ。そしてブルは元アメリカン・フットボールの選手で、かつ狩猟の名人としても知られていた。そんな彼らの前に「レッドムーン」と名乗る男が現れる。彼はサバイバルに関する本を出版して巨万の富を持っており、四人に対してサバイバルゲームの挑戦をしてきたのだ。彼は三千万円の私財を提供するうえ、彼らに対し「銃には銃、刃物には刃物、素手には素手」と相手の得意技で対決する準備があるのだという。四人はそれぞれの事情からこの申し出を受け、十一月の狩猟解禁日の翌日、舞台となる山中に分け入った。当日、金久木が別に連れてきたヤクザ風の男はあっという間に射殺されてしまい、本気のゲームの火蓋が切られた。

単なるマンハント小説ではない、濃縮された稲見一良の人生が詰まった人間対人間の美学のドラマ
ストーリーは単純といっていいだろう。それぞれ強靱な肉体と殺人能力を秘めた四人の男が、山の中でサバイバル生活をしながら、一人の優れた身体能力と冷静な頭脳、そして冷酷な意志を秘めた超人的人物とバトルを繰り広げる物語。ストーリーの筋書きそのものは単純。しかし、その単純さに肉付けされたエピソードやちょっとした台詞が実に深い味わいを持つのだ。 それも山で暮らしたくなるくらいに。特に狩猟に関する知識や、サバイバル技術の細やかさについては、専門書以上に精密で役に立つ描写がなされている。しかも蘊蓄臭くなってもそこに嫌らしさがない。書物を調べて羅列したものでなく、既に作者が実際に体験し、頭の中できっちり整理された文章が並べられているからだろう。

 「あるものを人より美しいと感じるには、何というかある種の力が要るようだな」

これは主人公のブルが何気なく少年に語る台詞を一つ抜き出してみたもの。このような「人生」に対する思索の深さも本書の魅力の一部を成している。これもまた稲見さんが登場人物同様に恐らく山に籠もったりしている時に悟った事柄なのだろうが、これらを噛み締めつつ全身で「男の格好良さ」に痺れるのも稲見作品への正しい取り組み方だろう。ロマンと信念のバランスの良いミクスチュア。 男と男の激烈な戦闘はもちろん、矜持を保って生きていくことの辛さと孤独。狩猟にあたっての動物に対する接し方、男が戦う理由、人を殺すという行為について――「作者の主張」はそこかしこに眼に付く。それらが単なる知識ではなく経験から培われたものだけに、素直に心の中に沁み入ってくる。本書が小説技巧のテクニックではなく、稲見氏の「魂」が込められていることで引き立っている点は、読んで是非とも感じ取って頂きたいもの。

ちなみに耳慣れない題名、「ソー・ザップ!」は弾丸が肉を貫く時の英語による一種の擬音だとのこと。手に取る前は「変テコな題名だなぁ」という思いを覚えても、読了後は「これほど格好いい題名はない」という気分にあっさり変わっている。

濃縮された経験と思想がぎっしりと詰まった一冊。想像力だけで確かにミステリは執筆出来るだろう。しかし、実際に経験したことによる強みを持つ者しか描き得ない世界もまた存在する。 稲見一良。ミステリ界というよりも、日本文学というジャンル全体にとって氏の存在の損失は大きな痛手であった。氏の作品群は永遠に残されるべき輝きを、今なおもちろん放ち続けている。


02/02/16
広瀬 正「マイナス・ゼロ」(集英社文庫'82)

夭折したSF作家として多くのファンを持つ広瀬氏。氏自身は三回の直木賞候補へのノミネートに関わらず、生前に受賞出来たのはSFファンからの「星雲賞」のみと作家生活は不運だった。本書は'65年に筆者の処女長編としてSF同人誌『宇宙塵』に発表された後、'70年に河出書房新社より同じく初単行本として刊行されたもの。この作品自体はロングセラーとなっている。

第二次世界大戦の頃。俗人離れした発言が目立った「先生」、そして娘の啓子は浜田俊夫の隣家に住んでいた。東京大空襲の最中に亡くなった「先生」は中学生だった俊夫に「十八年後にまたドームに来て欲しい」との遺言を残して亡くなり、啓子はその晩に行方不明となった。昭和三十八年。約束を十八年もの間温めていた俊夫は、かつての隣家、つまり先生の住居を訪れる。「先生」宅にあったドームは戦争中の姿を留めたまま今もそこに残されており、俊夫は戦争中の約束を守るため、そこに入らせて欲しい、という申し入れを現在の家主の及川に対して行う。彼は俊夫のことを大して訝りもせずに迎え入れてくれた。約束の時間、そこに現れたのは「先生」の娘、啓子。しかも彼女は行方不明になった時の姿そのものだった。当初は何かの冗談かと考えた俊夫だったが、彼女が「先生」によってタイムマシンに入れられ十八年後に送られてきたことに気付く。慌てて彼女の身の回りの世話を手配した彼は、自身の興味により過去の世界へとちょっとだけ飛ぶことを試みる。しかしダイヤル設定のミスにより、昭和九年に辿り着いた彼は現代に戻ることが出来なくなってしまった。

柔らかな当たりの物語、そしてタイムトラベルの設定を活かした見事なミステリ
SFファンからすると「常識」なのかもしれないが、ミステリ畑の視点から読んだ私にとって本書は素晴らしい拾い物となった。タイムトラベルにおける人間の存在というものを深く思索して突き詰めた物語構成からは、恐らくSFファンにとっては大きなセンス・オブ・ワンダーを感じ取るだろうことも容易に想像できる。ただ、そちらの感覚が鈍い私にとっても深い感動と、サプライズを味わうことが出来た。と、いうのも「人間が過去に遡るとどうなるのか」という命題が作品の骨中にずっと生きていて、それが伏線にもトリックにもレッドヘリングにもなって、結末の驚きに論理的に結びついていたからだ。
現在、新たに広瀬氏の作品に触れる読者にとって、直接の懐かしさを呼ぶということはまずないと思われるが、丁寧に描写された戦前の風景がとにかく凄い。相当数の資料を準備していただろうことは想像に難くないが、作者本人も体験してきたであろう昭和九年の風景が実に鮮やかに、そして(私自身そんな時代のことは伝聞でしか知らないにも関わらず)ノスタルジー溢れて描かれている。ある意味、当時を伺い知る二次的歴史資料としても価値があるかもしれない。それ自体はSFやミステリのセンスとは直接関係はないにも関わらず、語られている世界の分厚さはこういった細やかな描写から生まれている。
しかし、こういった時代背景の中に様々な結末に至る伏線も潜り込んでおり、そのさりげなさが実に素晴らしい。タイムトリップしてしまったら何が困るか。(文化、お金、生活手段、身元保証、二重に存在する自分……)そんな命題に一つ一つ応えつつ、人情や恋情といった物語の起伏をも込める。丹念に積み重ねられたエピソードがラストにて目まぐるしく結実する。いくつもの伏線が結びつけられ、思いも寄らない新たな事象が浮かび上がる……まさにミステリで得られるサプライズと同じか、それ以上といってもいいだろう。そして不思議なハッピーエンド感覚で閉じられる物語は、単なる登場人物のハッピーだけでなく、読者に対しても不思議なハッピー感覚を齎してくれる。

北村薫の『リセット』に共鳴した口ならば、無条件にお勧め。というか、北村氏がかつて「小説トリッパー 北村薫が選ぶ文庫100冊」を選定した際に本書が入っていたことから、氏が本書の影響下で『リセット』を著したのではないか、とも推察される。今まで広瀬作品に触れることのなかった、私のようなミステリ系からの読者にこそ読んで貰いたい作品


02/02/15
海渡英佑「仮面の告発」(集英社文庫'82)

副題に「加藤刑事夢想捜査録」とあるように、捜査一課に勤務しながら夢想家肌の変わり者、さらに”電信柱のように平凡な名前”を持つ刑事、加藤一郎を探偵役としたシリーズ作品集。『オール讀物』『小説現代』等に'73年から'78年の間に発表された作品がまとめられている。

一人暮らしの女子大生が青酸化合物の中毒死体にて発見された。直後、彼女が大学教授と不倫関係にあったことを思わせる匿名の手紙が発見される。その手紙は被害者の親友でもある教授の娘が書いたらしい。 『仮面の告発』
マンションの一室で四十代の女性が首を絞められて殺された。現場の宝石箱がこじ開けられ中身が持ち去られていたが、関係者の証言によればその箱の中には何の変哲もない石ころが入っていただけだという。 『小箱の中の死』
マンションの一室で女子大生が薬物中毒死。彼女は就眠前に一定の儀式を行わないと眠れない性質だったというが、どうもその晩に限って第三者の手によって演出されたような作為が見られた。 『就眠儀式』
厳重に戸締まりのなされた銀座の宝石店で主人が殺され、横で若者が薬物で昏倒していた。若者は主人の娘と交際しており結婚の許可を求めるために訪れていたが、殺人など知らないと主張する。 『一人で二人』
身元を隠してウェイトレスとして働いていた娘が安アパートにて殺された。犯人はネームを剥がすなど周到に彼女の身元を隠そうとしていたが、現場からは不自然な男物のネクタイピンが発見された。 『灰色の傾斜』
夢想家の若者の日記。オスカー・ワイルドの『サロメ』、特にヨカナーンの首にサロメが口づけするシーンを偏愛する彼は、現実にも同じタイプの女性をサロメに見立て、内なる想いを温めていた。 『血と虹と』

ここにも”ロジック”を重要視した本格ミステリ指向の作家がいるじゃないか。
文章や登場人物、そして設定の好みなんかも全く異なるのだが、この短編集からは、都筑道夫の提唱していた名探偵復活論、そしてロジックによる本格推理小説の薦めを忠実に辿っているのでは、とまず感じられた。と、いうのもこの作品集全体を通じての印象が、都筑道夫の一時期の本格推理作品に手触りがよく似ていることが理由と思われる。
その理由を更に分析してみる。まず上記した通り、最初に密室やその他の場所で物言わぬ死体が発見される典型的WHO DONE IT?で全体的に物語が統一されている。とんでもない場所や、とんでもない人物などは被害者として登場せず、あくまで市井に普通に生きる人物が物言わぬ死体となって登場、ただ、その被害者の周辺にほんの少しだけ奇妙な現象が存在している。登場する容疑者は等分に怪しいか、一人だけ余りにも明々白々に疑わしい人物(そしてその人物は、無実だろうと想像される)だったりする。加藤一郎は、その「ほんの少しだけ奇妙な事実」から様々な類推を働かせて、真相に辿り着く。とんでもない物理トリックなどなく、ちょっとした心理的なアヤや、そうせざるを得ないちょっとした理由がその鍵。そしてその心理の裏側を透徹することがそれぞれの「謎」に対する答えとなっている。実に都筑氏のミステリ短編作法に似ていると思う。
納まるべきピースは全て納まるところに納まり、理由のない行動はない。犯人の心理に基づいた過不足ない筋道は、非常に端正なロジックとなっている。ただ、そのロジックは読者にとっては却って落とし穴で、余りに端正過ぎて、ミステリが本来持っている猥雑なパワーというものは感じにくい。その結果、作品それぞれの手触りが非常に似てきてしまっている。このあたり論理が整いすぎているということも、ある意味では考えものなのかもしれない。

あまりにもミステリが端正になると、読者の心の襞にも引っかかりにくくなるのかもしれない。ただ、個人的には海渡氏の様々に変遷した作品群に興味があるので、もう少し当たっていこうと考える。本書のような「本格推理」も海渡氏のほんの一面に過ぎない可能性が高いことだし。


02/02/14
嵯峨島昭「踊り子殺人事件」(徳間文庫'81)

「嵯峨島昭」はある高名な作家が推理小説を執筆するにあたっての別名義……ということで本来は伏せるべきことなのかもしれないが、既にあまりにもその正体は色々なところで触れられているので明かすことに躊躇う必要はないだろう……。宇能鴻一郎である。「私××しちゃったんです」「課長ったら凄いんです」の独特の文体のポルノ小説作家としての顔が現在では有名な気もするが、知る人は知る通りの芥川賞作家。その宇能氏の最初のミステリ長編が本作。

地方を回って余剰不動産を販売するセールスマンの久里村は、出張先の鳥取で偶然に二人組のレズビアンショーのダンサーと知り合う。元は某歌劇団に所属していたという美しい緋沙子、彼女を慕って押し掛け芸人となった芙蓉。彼女らが発する妖しい魅力に引き込まれた久里村は、都合をつけて彼女らと京都で再会、祇園でのステージの楽屋に潜り込む。しかし久里村は行きがかりで金粉ショーのダンサーと関係してしまい、更に数時間後、そのダンサーが何者かに殺されるという事件が発生した。楽屋には緋沙子の「兄」と名乗る人物や、大蛇使いの元女子プロレスラーなど他にも怪しい容疑者はいたが、他人の名刺を渡した上に関わり合いになることを恐れて現場から失踪した久里村が警察からは最大容疑者と目されてしまう。とはいえ、緋沙子と芙蓉は、久里村の存在を警察から隠し通し、彼はこれまでの生活を捨て去って彼女らのマネージャーとなり、旅回りの芸人生活を開始する。

ショービジネスの裏側とサスペンス、そしてこの作風からは全く想像出来ない真相
「全く想像出来ない真相」と自分で記したので告白するが、これはダブルミーニングである。つまり、ミステリとして普通に読んでいく上で仕掛けられたトリックとして驚愕する、という意味が表のニュアンスだが、裏では「あの宇能鴻一郎が書くミステリ」として、多少ミステリプロパーの作家と比べてトリック的な部分を軽視しているものと思いこんでいた自分が突き落とされた驚きを指す。
普通に暮らしていたサラリーマンが非日常の空間に投げ込まれるという意味では典型的な「巻き込まれ型」ストーリー。しかし、そのストーリーテリングが実に上手い。「泳げ! タイヤキくん」を彷彿とさせる「♪毎日、毎日、ぼくらは鉄板の〜」サラリーマンが、ショービジネスの妖しくも刺激的な輝きに満ちた世界に魅せられていく心の動き。恐らくはお手の物であろうナマのショービジネスの世界の華やかな表側と比例して暗さに満ちた裏側。各地に移動するたびに描写される土地土地の祭りは旅情を掻き立て、芸人の派手さと苦労が同居する世界を覗き見るスリルが作品内にある。更に発生する事件、人物設定、逃避行とサスペンス調に展開する物語に、読者はするりと引き込まれるはず。
そのサスペンス調の物語がラストに明かされる落とし所の意外性を引き立てている。個人的には偶然の産物なのではないか、と推察するのだが、それにしても落差の大きさは本書をミステリとして捉えた時のポイントといえるだろう。しかもサスペンスに乗せられて看過してしまいがちの部分にきっちりと伏線を張っているのも凄い。うむ、ある種の傑作なのかもしれない。(断言するのはちょっと憚られるけど)
作者の名前を模した探偵役、酒島章(さかしま しょう)警部の行動は今ひとつ納得し難いものがあるのだが、彼はシリーズ探偵(グルメ探偵!)らしいので次回作以降への何らかの伏線なんだろう、と好意的に捉えることにする。

ちなみに真の作者から想像されるほど(少なくとも本作は)エロティックな作品ではない。確かに風俗的な部分の描写や、性行為そのものも行われるが物語上の必然があることもあって、いやらしさは少ないと思う。嵯峨島昭という作家がどんな作品を書いているのか、味見するのには適当な作品ではないだろうか。(現段階の想像でしかないが……)


02/02/13
小峰 元「アルキメデスは手を汚さない」(講談社文庫'74)

第19回江戸川乱歩賞受賞作品。その乱歩賞を'73年に受賞した本作は、実にその翌年すぐに文庫化されたことになる。小峰氏はこの後、ソクラテスやユークリッドなど中世の哲学者や科学者の名前を冠した題名のミステリ作品を発表しており、歴代の乱歩賞作家のなかでもそのネーミングのユニークさに関しては随一のものがある。

豊能高校二年、柴木美雪は十七歳の生涯を閉じた。死亡原因の表向きは病死だが、実際は子宮外妊娠であった。建設会社のオーナーである美雪の父親、柴木健次郎は、美雪と関係を持った人物に大して激しい怒りを覚えていたが、相手に関しては美雪が完全に口を噤んでいたために誰なのかハッキリ分からない。一計を案じた健次郎はクラス担任に頼み、生前の彼女と親しかった生徒を集めて昼食会を催すが、彼の意図を見透かし、反発する生徒らによって逆襲されてしまう。しかし、その昼食会の最中、出席者の一人で美雪に想いを寄せていた内藤の弁当で食中毒が発生したと連絡が入る。突然の昼食会で余った内藤の弁当はセリにかけられ、落札した柳生という生徒が犠牲になったのだ。柳生自身は生命に別状はなかったが、ここに至り警察も一連の事件に関心を寄せ始める。柳生が退院した後、彼の姉の不倫相手、亀井が失踪するという事件が発生する。

この時代の高校生気質の発露。だけどしかし、世代のギャップはいつの時代も存在する
やはり乱歩賞を受賞している作品であることだし、ミステリとしてきちんと読もう……とすると多少肩透かしを食らうかもしれない。恐らく、当時この作品が乱歩賞を受賞した大きな理由の一つはいわゆる「当世若者気質」が横溢している部分が評価されたのだと思う。確かに、合法でさえあれば弱者を省みない態度で仕事に望む美雪の父親、健次郎を生徒たちが痛烈に弾劾する場面など、そういった当時の若者世代の考え方と父親世代の考え方の断層が端的に現れている。この部分だけでなく、捜査=謎解きをする側の大人世代と、被疑者=犯人の学生世代との様々なギャップや常識の差が全編にわたり、様々なエピソードを介して紹介されている。ミステリとしてのいわゆる「謎」の部分もこの世代間ギャップにおんぶにだっこ。若者世代の感覚によって巧妙に犯行やトリックが固められており、大人世代から物語を俯瞰する読者にとっては真相が見えにくくなっているというのが物語の基本的な構造である。
ただ、この世代間ギャップというのは何となくクセ者だと思うのだ。確かに若者たちの主張する部分にもそれなりの「理」はある。肉親よりも友情を大切にするだとか、自らの正義のために、他者を犠牲にすることも厭わないだとかは、若者世代に共通する部分であろう。しかしあまりにも「ドライな考え方」を強調するあまりに「思いやりの無い」若者像を創り上げているあたり、共感する以前に気持ち悪さを感じた。当時の高校生は単純に計算して現在四十八歳。彼らが作品内の世代の時に感じた苛立ちや怒りは、結局父親世代になった同じ彼らが引き受けることになるのだ。人間は誰しも年を取る。世代のギャップそのものは埋まらないものだが、単純なる「若者視点での無理解な大人世代への反発」だけの小説は少なくともロングセラーにはなりにくいのではないか。またアリバイ崩しのきっかけとなるのがアレというのも何だよなぁ。

小峰作品は一時期爆発的に売れたと聞く。また確かに受賞作である本書が氏の代表作として挙げられることが多いが、ミステリとしては他の作品も優れているらしいのでチェックは続けてみたい。あまり現代の若者に敷衍は出来ないタイプの青春ミステリという位置づけか。現在は講談社文庫の乱歩賞全集で購入が可能のはず。


02/02/12
殊能将之「鏡の中は日曜日」(講談社ノベルス'01)

第13回メフィスト賞を『ハサミ男』にてデビュー後、『美濃牛』『黒い仏』と質の高い、それでいて問題を内包したミステリを世に問うて来た作者が、満を持して放った感のある作品。名探偵・石動戯作が登場するシリーズ三作目にもあたる。

名探偵・石動戯作の元に編集者の殿田という男が訪れる。実際に存在したという名探偵、水城優臣が解決した事件を次々とミステリ作品として発表し、マニアの中で高い評価を受けている鮎井郁介。彼が七年前、連載中に執筆を中断した『梵貝荘事件〈水城優臣最後の事件〉』のモデルとなった実際の事件を再調査して欲しいという。引き受けた石動はさしあたり当時の関係者全てに話を聞こうと手紙を差し出すが、一部の関係者はある病気に罹っているらしい……。
1987年に発生したという『梵貝荘事件』。鮎井の作品によれば、フランスの詩人、マラルメに傾倒していた文学者、瑞門龍司郎が建築した私邸で二階からしか降りられない中庭を持つ梵貝荘にて発生している。その館にて行われる火曜会という親睦会に出席した弁護士が、深夜中庭にて死体で発見された。凶事を告げる叫び声からすぐに人々が駆け付けたにも関わらず、犯人は見あたらない。死体の回りに落とされた紙幣。しかし、名探偵・水城により物語では解決をみたはずなのであるが……。

登場人物のほんの一言で物語の全ての色を反転させる……殊能ミステリの真骨頂
読み終わるまで気付きづらいことだが、大きく三重の入れ子構造となった作品である。核になるのは、切れ切れで挿入された作中作品『梵貝荘殺人事件』。過去の名探偵・水城優臣が解決した事件。綾辻作品、及び「館シリーズ」そのものを皮肉にパロディったこの設定に思わず口元が歪む。またこの『梵貝荘事件』の解決は『黒死館殺人事件』を彷彿とさせるペダンティックなもの。
二つ目となるのが、現実に発生した「梵貝荘殺人事件」とテキスト『梵貝荘殺人事件』とを比較、謎を解き明かそうとする現代の名探偵・石動戯作の行動。テキストで書かれた人々の十七年後の落差には興味が湧く部分もあるが、こちらは結論が出されるまでが総じて退屈な感もなくはない。
そして問題の三つ目。 これは大人の身体を持ちながら精神的に子供に戻ってしまった”ぼく”と、彼を世話する”ユキ”の日常、そして経験を描いた部分。第一章に設置され、固有名詞や状況分析が極端に少ない文章からはいくら想像力を逞しくしたとしても、読者には何がなんだか分からない。物語が進むにつれて少しずつ明らかにされ、そして最後に物語全体の色を反転させるのに大きな効果を持っている。
その一方で、過去の名探偵と、現代の名探偵との対決がもう一つの山場となる。三重構造が包むものならそれを突き通す形で名探偵の存在がもう一方の物語の軸。 名探偵とは一体何なのか。鏡を挟んで向かい合うかのような二人の共通点と相違点。ほんの少し考えさせられる。
ミステリマニアの繰り言と無視して頂ければ良いのだが、殊能氏の作品からは既存のミステリの形態を把握した上で「それにプラスαして何かをやろう」という意図が薄薄と感じられることが多い。本作は作中作でパロディを組み込んでいるように、新本格ミステリという現代の「基礎」の本格世界から一歩進める方向について探りをいれているような印象を受けた。その意図が達成できたかどうかはとにかく、本格ミステリの重要要素であるサプライズという点できっちりとファンを喜ばせてくれるあたりは嬉しい。

恐らく今年末の『本格ミステリベスト10』入りはこの段階で確実と思われる。本格ファンならば押さえるべき作品だろう。このサプライズの源泉となっている第一章の終わりの部分。物語の最終ページとは別に幕の閉じ方を持ってきているあたりの余韻をしっかりと噛み締めたい。


02/02/11
小森健太朗「ネメシスの哄笑」(出版芸術社'96)

昭和57年『ローウェル城の密室』にて16歳という史上最年少での乱歩賞最終候補に残った小森氏。その後の活動中に同人誌発表され、埋もれかかっていた氏の著作を世に出し直した出版社が出版芸術社。本書は前三作に続き、同社より書き下ろし出版された。

出版芸術社に編集者として勤務する溝畑は、ミステリ評論家の鉢塚綴が「や行」の作家を取り上げないことを疑問に感じていた。新人編集者の若北かすみと、ミステリ作家の小森健太朗と三人で、企画中の『新青年の時代』という本の打ち合わせに鉢塚亭を訪れた溝畑は、その疑問をぶつけたところある理由があることを知らされる。鉢塚に貸し出していた同人誌を返却された溝畑は、その一冊に掲載されている『ネメシスの哄笑』が傑作であるというメモを発見する。黄泉路爆運なる人物に後編だけのその作品を読んだ溝畑はその作品が出版に値する作品であると判断、前編を入手すべく奔走するが、同人誌の前編掲載号が何者かに買い占められており入手が出来ないばかりか、作者自身との連絡も不調に終わる。そんな折り、鉢塚が自宅の書庫で本に埋もれて死亡してしまうという事件が発生する。

”ミステリ”としてよりもどこか内輪ウケしてしまう”メタフィクション”
主人公は架空の人物、溝畑康史。彼の名前は偶然にも現実にフリーの編集者として昨今大活躍している某氏の本名と同じなのだ。決して上手とはいえない小森氏の描写や文章が、かえって本筋とはあまり関係のない溝畑氏の日常を浮かび上がらせていて奇妙に興味深い。若手では日本でも有数のミステリ関係の蔵書を持つとか、蔵書にあることが分かっていながら発掘できないとか、立派な髭を生やしているとか、約束の時間通りに待ち合わせに到着しないとか、アニソンを好んで歌うとか……。そのまんまやん。 ある程度、現実の溝畑氏を知る人ならば、そこかしこでウケることはまず間違いない。また本作で重要な役割を果たす二人の研究家も、どうもあの人とあの人を想像すれば良い。マニアであればすぐに思い当たるはず。その特徴、プロフィールも非常によく似ていることだし。
ただ、そういった内輪で採点できる内容を越えた部分、つまり本書で試みられているメタフィクションとして作品として評価することは、一般的にはかなり難しいのではないだろうか。ミステリとして最初にメインとなる部分が、辻褄は合うけれど相当にこれは苦しいな、とまず感じさせ、それは実は○○だったという逆転まで持ってくる構図は良し。ただ、その逆転の構図にもどこか違和感が残る。作者自らが捨て身の攻撃をしているにも関わらず……。結局のところ、フェアに逆転を狙った叙述ミステリというよりもどんでん返しのオチを付けるためにメタに走ったと思われる点が大きいのかもしれない。

ちなみに後にトクマノベルスにて刊行された『眠れぬイヴの夢』は本書の続編にあたる。いずれにせよ、どこか行き過ぎたマニアが面白がる作品のように思う。一般読者が読んで、ミステリとして素直に楽しめるのかどうかについてはちょっと疑問符が付く。