MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


02/03/20
はやみねかおる「怪盗クイーンはサーカスがお好き」(講談社青い鳥文庫'02)

夢水清志郎シリーズにして松原秀行氏とはやみね氏の合作『いつも心に好奇心』に登場した「怪盗クイーン」が敵役から主人公となって綴られる新たなシリーズの第一作目。イラストが清志郎シリーズの村田四郎氏からK2商会氏に代わり、作品のイメージも少し変わった感。

その地は戦争の傷跡のただ中にあり荒廃していた。しかしそこにサーカスがやって来た。ピエロは「また来てね」という一人の少女に対して指切りげんまんをする。またきっとこの街にやって来ると……。
飛行船トルバドゥールの船内には大量のノラ猫がひしめいていた。退屈しのぎのノミ取りのために怪盗クイーンが連れ込んだのだ。困り切った相棒のジョーカーがクイーンに仕事をするように薦める。人工知能RDの提示するリストをもとに選ばれたのが『リンデンの薔薇』というダイヤモンド。本来は別の名前だったがエジプトで盗難された後、日本の金満家が買い取ったものだという。ノミ取りを終えたクイーンが予告状通りに持ち主である星菱大造宅に降り立ったところ、予想されていた警察の厳戒のなか、別の一団が潜入していた。催眠術師、鍵師、動物使い、軽業師……。彼らはクイーンを出し抜いて『リンデンの薔薇』を盗み取って行く。危うく現場を脱したクイーンはRDに調べさせ、彼らがセブン・リング・サーカスというサーカス団に所属していることを知り、彼らの公演に乗り込んでいく。

「怪盗」という職業を選ぶからには、美学と優しさとを知るロマンチストでなければならない
「怪盗」という響きにはどこか人の心を酔わせるものがある。 ――「怪盗ルパン」やその直系である「ルパン三世」。怪人であるが「二十面相」、泡坂妻夫の生み出した「妖盗S79号」等々、本来は秘すべき犯罪をわざわざ日付つき、名指しで予告し、厳重に警戒を固めさせたうえで、その上を行く妙手でもってやすやすと狙った獲物をかっさらい、高笑いと共に去っていく。本来はヒーローであるべき正義の味方でさえ「怪盗」の物語のなかでは単なる引き立て役でしかない。
その警護がいかに厳重か。現場の責任者は宝の持ち主に滔滔と説明する。読者もその説明を同様に聞かされて「果たしてどうやって?」という疑問が湧くのが基本構成。つまりは「How done it?」が怪盗ミステリの面白さの主眼となる。 「How done it?」は密室やアリバイ崩しなどと共通するミステリ構造であるにも関わらず、怪盗ものはその知名度のわりには作品が少ない。先人たちがいくつもの怪盗ものを生み出したおかげで目新しいトリックが作りづらい点はあるだろうが、それよりも何よりも「怪盗」、平たくいえば「窃盗者」「詐欺者」「泥棒」であるマイナスイメージのキャラクタを、人々(読者)の支持を得るようにきっちり造形していくのが難しいから、というのも大きな理由であろう。
その点、はやみね氏は「怪盗クイーン」その相棒「ジョーカー」人工知能「RD」と類い希なる魅力的なキャラクタをいとも簡単に生み出してしまった。ファンタジー性が許されるジュヴナイルだから出来たのだ、と決めつけるは簡単だが一般作品なら許容される「悪人の魅力」は子供に通用しない分、却って難しいのではないか。
「美貌」「身体能力」「知能」それらが優れているだけでは「怪盗」足り得ない。その点、クイーンらは犯罪に対する彼らなりの美学を持ち、認めた相手に対する優しさに満ちている。今回は警察ではなく、特殊能力を持ったサーカス団との泥棒合戦が主眼ではあるが、どこかゲームのような感覚とその裏にある優しさによってやはり「怪盗クイーン」の魅力とカリスマ性が引き出されているように感じる。

夢水シリーズのような本格ミステリを強く指向した作品に比べると、現実感よりも催眠術や変装術など「怪盗もの」のガジェットが強く、エンターテインメント性を強く打ち出している。物語のドライブ感覚が上がっており、はやみね氏の従来の作品とは違った指向が感じられる。トリックよりもサスペンス、スリルの重視。個人的にあくまで本書は「怪盗クイーンの名刺がわり」の一冊と考えている。今後どのような展開を見せてくれるのか、はやみね氏の手腕に期待したい。


02/03/19
松尾由美「バルーン・タウンの手品師」(文藝春秋'00)

'91年に「バルーン・タウンの殺人」にてハヤカワSFコンテストに入選、同題にて刊行された作品集が本格ミステリファンにも話題を呼んでから数年。'99年から'00年にかけて『別冊文藝春秋』誌に掲載された同シリーズの作品に書き下ろしが一編加わえられて出版されたシリーズ二冊目となる作品集。

臨月の母親に対して夫が持ち込んだディスク。お見舞いの人々が目を離した隙にそれは消えてしまった。国家機密が入っているそれは見舞客によって盗難されたのか? 『バルーン・タウンの手品師』
バルーン・タウンのパフォーマンスのために、人形が腹帯を締めるという芸を行う人形師が街にやって来た。ある部分の手直しのために会場に籠もった人形師は後頭部を強く殴られ失神する。 『バルーン・タウンの自動人形』
妊婦を描いた小説の作家がバルーン・タウンでサイン会を開催。ところがファンの一人が作者にトマトを投げつけてくる。犯人はもちろん妊婦で逃走を図り、オリエント急行を模した占いの館に入ってそのまま消滅してしまった。 『オリエント急行十五時四十分の謎』
バルーン・タウンの妊婦のカウンセリングのために常駐する埴原(はにはら)医師。彼は街の秘密に関わる何かとてつもない陰謀に荷担しているらしい。暮林美央の調査を手伝うことになった夏乃は証拠写真の撮影に協力させられる。 『埴原博士の異常な愛情』以上、四中編。

バルーン・タウンは今日も大賑わい。設定とミステリとジェンダー論の三位一体
妊婦役を探偵にするという試みは一発ものとしては(実践もされていることではあるが)十二分に可能である。しかしシリーズにするとなかなか設定が難しい。つまり、彼女たちは十月十日が満ちると基本的には子供が生まれ「妊婦」という属性が剥奪されてしまうから。
本書においても、バルーン・タウンは着々と日時が経過しており、前回は「妊婦探偵」として特異なオーラを放っていた探偵役の暮林も出産を終えており、事件毎に彼女を登場させることに多少窮屈になっている部分が見受けられる。とはいえ、バルーン・タウンという未来都市のコンセプトがそもそも鮮烈なため、探偵役が多少目立たなくなろうともミステリとしての面白さは健在なのが嬉しい。そしてその都市コンセプトそのものによって、妊娠―出産という男性には決して経験できない女性だけが実行可能の特権を様々な角度から表現しており、松尾さんが特異なジェンダー的な主張も非常に大人しいながらもちらりちらりと感じさせるものがある。妊娠という経験のない人物には気付かない視点、その体型、感情などが物語世界にも、ミステリとしてのトリックにもきっちり反映されている。キャラ萌えや凝ったトリック、蘊蓄等の近年のミステリの人気要素をほとんど持たないにも関わらず、都市、ミステリ、そして主張が渾然一体となって読者に提供されているあたりが、このシリーズの人気の秘密といえるだろう。
そのなかで書き下ろしの『埴原博士〜』は独特の匂いを放っている。明らかにハンニバル・レクター教授をパロった埴原博士の独特なキャラクタと、バルーン・タウンそのものの存在理由に関する謎が醸し出す怪しい雰囲気。これは従来のシリーズにはなかった方向性である。

今後、どのような方向性を見せるのか、暮林の妊娠もあって楽しみではあるのだが、探偵の性格同様、作者がこのシリーズの創作に飽きてしまわないことを心より祈る次第。 本家の『バルーン・タウンの殺人』もロングセラーとなっているようだし、本書もいずれ文庫化されるのではないだろうか。


02/03/18
倉阪鬼一郎「BAD」(エニックス'01)

2001年、ホラー文学の分野で意欲的な活動を新たに開始したのが一部のゲーム系の出版物を扱っていたエニックス。ホラーの新人賞を公募・発表し、ノベルスを立ち上げる(本書を入れてまだ三冊?)等、着実にその歩みを進めている。(最近はどうなったのかはよく分からないのだが)EX NOVELSというその叢書の三冊目にあたるのが本書、つまり怪奇小説家・倉坂鬼一郎作品である。

二十一世紀後半。この世界はディア学園とソロブ大学に大別されていた。全寮制のディア学園では「神の不定形領域を振動させ、リインカネーション(つまり転生)を促進するためには、肉体的快楽と共に出来るだけ残酷に人間を殺害すること」を至上の目的とする教育が行われていた。生徒は授業で同級生をモルモットとして殺し、どこからか連れてこられるロージンを片っ端から殺害した。どれだけの交わりを持ち、どれだけ上手に殺戮出来たかで優劣が付けられるのだから仕方ない。その規範から逸脱する者は校内を監視する大量のロボット、ブラックメンによる刑罰が待ち受けていた。また完全管理の校内と外部との連絡は一切なし。ごくたまに「外の世界」を探検しに行く「冒険者」と呼ばれる者がいたが、そのほとんどは出ていったきり生きて戻ってくることはなかった。そしてディア学園の生徒は卒業が近付くとソロブ大学進学か、ブルーかに進路が分けられる。ディア学園の生徒、ユキはファーストコンタクトの相手、ワタルと同様、ソロブ大学への進学を希望していた。

スーパーインモラル・ファンタジー・ワールド。肉欲と殺戮の饗宴の背後に秘められる謎とは?
登場人物が若いから、というわけばかりではないだろうが、どうもこれまで読んできた倉阪作品とはどこか趣が異なるのが第一印象。 黒い猫耳ロボットこそ登場すれど、怪奇小説家も、怪しい館も、吸血鬼も、伝説の邪神もいない。ラストで世界をヒステリックに崩壊させることもない。物語は序盤から意表を突いた形で始められる。フリーセックスと他者の殺戮を強要される学校生活。それを嬉々として何の疑問もなく受け入れている生徒。愛や平和を忌み嫌い、拷問や殺戮による混沌をもって秩序とする閉鎖世界。人の殺し方や獣欲の満たし方は究極的にえげつなく、登場人物に齎される残酷な仕打ちもまた強烈な印象をもって読者に迫る。また、単にそれらを意味なく延々と、そして事細かに描写しているだけでなく、その秩序に基づき外れることの許されない「世界のルール」が作品世界的に事細かに、そして周到に創造されている点に目が行く。ホラー作家が登場人物に対して接するに「己の筆がルール」としてしまい、強引にばったばったと殺していくのとは全く対照的で異なる恐怖が存在。最終的に明かされる裏の真実が明かされることで、この恐怖の原点が歴史に求められることに気付かされるようになっている。そういう意味で本書は、単純明快なスプラッタ小説とは一線をきっちり画しているといえよう。
最後に明かされる裏の世界観も含めた本書の世界そのものよりも、恐らくは倉阪氏が信奉しているとまではいわないまでも、ある程度の氏の信念が世界に込められているかもしれないという想像によって背筋が寒くなる。残酷かつスリリングなゲーム感覚が横溢している中盤と、その裏に隠されている真実が明かされるパートとのギャップが大きい。きっと読んでいるうちに私の脳味噌も溶かされかかっていた可能性さえある。結局のところ、裏と表の二つの「世界」こそが主人公。この二つの主人公に戦慄せよ。

考えようによっては貴志祐介氏のあの作品をクラサカ流に創造し直したもの、とも受け取れる。(ところどころに似たコンセプトがみられる) あちらが現実と陸続きの怖さだとすると、本書は人間が理性という力で押し隠している欲望に火を付けて煽っているような、どこか脳味噌の一部が痺れるような怖さが特徴。心臓の弱い方や良識溢れる方には決してお勧めできない一冊。


02/03/17
大倉崇裕「三人目の幽霊」(東京創元社'01)

大倉氏は本書収録の『三人目の幽霊』にて第4回創元推理短編賞佳作を受賞しているが、円谷夏樹名義で第20回小説推理新人賞をも受賞している。他にも光文社文庫の「本格推理10」にも収録作がある。

念願叶って就職した出版社で間宮緑が配属されたのは『季刊落語』の編集部。編集長と二人きりという新環境のなか、落語漬けの毎日を送ることになった。そんな彼女が経験したり見聞きしたりするちょっとした(大きな)謎。飄々と解き明かすのは、同誌編集長である牧である。
寄席の高座にて頻発する噺家への悪質な妨害騒ぎ。その背後には急に手打ちをすることになった落語会二大派閥の弟子たちの反目があるのではないかと思われたが……。 『三人目の幽霊』
緑の友人が勤務するホテルの優秀なソムリエ。彼が彼女を残したまま行方不明に。彼の表情を一変させた年代物のワインが原因なのか。 『不機嫌なソムリエ』
落語家の地方公演のため、その息子を預かって山奥の別荘に滞在する緑。幽霊の噂もあるその別荘内部で夜中に悲鳴が響き、管理人のおばさんが失踪する。 『三鶯荘奇談』
緑の祖母は目が不自由。かつて美しい絵を描いていた祖母が最近、熱心に見詰めている絵は額に入った単なる白紙。緑は祖母が散歩途中に寄っていた喫茶店の常連に牧がいたことを知る。 『崩壊する喫茶店』
ふたたび別の寄席で高座の妨害工作が行われた。演題を最後まで続けられない噺家、壊されるベンチ。やはり裏にあるのは勢力争いなのか。 『患う時計』以上、五編。

単なる日常の謎&落語舞台ミステリではない。芸能界を舞台に自由闊達な発想で綴られる本気作品
落語界を舞台としたミステリといえば、そりゃもう北村薫の円紫シリーズということになる。探偵役の噺家、円紫と、語り手兼ワトソン役の「私」に対し、本書でも探偵役は落語界を生きてきて三十年の牧編集長が探偵役、新人社員の緑がワトソン役と構図まで似ている。ただ、物語の謎の位置づけに関するコンセプトに関しては大いに違いを感じる。
探偵役&ワトソン役は落語界周辺人物であるにも関わらず、物語の原点となっているのは落語から離れた日常でも、その反対に落語そのものでもない。(例外あるけど)どちらかといえば「落語界全体」引いては日本独自の古典芸能界ならではの確執であるとか、しがらみであるとかにミステリとしての根幹部が存在している。舞台裏をミステリ舞台にしているとでもいえばいいのか。そう考えると、本書に似たコンセプトとして挙げるべきは北村薫ではなく、古くは戸板康二の中村雅楽シリーズ、そして現代で例えるとするならば、近藤史恵の歌舞伎ミステリではないだろうか。
また、短編における内容のバラエティの付け方……純粋本格推理あり、日常の謎あり、命のやりとりあるサスペンスありと一つの作品集の内部での緩急の付け方が実に上手い。おかげで作品集トータルとしてじっくり楽しませてもらうことが出来る内容となっている。とはいえ、落語とあまり関連のないワインのソムリエの話が出てきたり、高座の妨害という同じコンセプトが繰り返されたりと、バラエティはOKとしても短編集としてバランスが崩れた部分も見受けられる。ただこれも、自分の創造した世界に縛られるでなく、本格ミステリとしての自由性を取り戻そうとする行為の結果なのかもしれない。統一感よりも一つ一つの短編で勝負、ということか。次作でどう来るのか、今から楽しみである。

2002年「本格ミステリベスト10」においてベスト10入りしており、作者の方とも何度か飲み会でご一緒しているに関わらず読み残していたもの。しかしあのキャラクタの方がこんな泣ける作品を書くことができるのか。とかく創作というものは不思議なものである。


02/03/16
山田風太郎「風来忍法帖」(角川文庫'76)

風太郎忍法帖長編のなかでも「最高傑作」に挙げる人がもっとも多いのがこの『風来忍法帖』。個人的にはずっとずっと最後に読もうと決めていた作品だが、幻の『忍法創世記』が刊行され読了した今、遂に手を着けることになった。弊サイトは、本書評にて風太郎忍法帖長編全レビューを完了したことになる。ぱちぱち。

天正十八年。関白秀吉は小田原城の北条家攻めを開始していた。その小田原城下では七人の香具師が活躍していた。色男の七郎義経。容貌魁偉の弁慶。凄みのある陣虚兵衛。哀れっぽい声の夜狩のとろ盛。軍学者めいた昼寝睾丸斎。巨根の持ち主、馬左衛門。一度抱いた女は彼に惚れ込むというリーダー格、悪源太助平……彼ら七人は特殊な技と一丸のチームワークによって、戦場の金品武器略奪から強姦の上女性の売り飛ばしまで何でも商売にしてしまう生活力を持っていた。彼らが女を売り飛ばす現場を目撃した六部から、彼女らの買い戻しという珍妙な要求を受けた彼らは、その六部が世にも美しい女性であることに気付く。しかし彼女は三人の忍者に守られており、香具師たちは逆に脅される羽目に陥る。その女性は麻也姫といい、北条家に頑強に抵抗した太田三楽斎の孫娘であった。七人は、麻也姫の居城侵入を試みるも、三人の忍者に再度阻まれて失敗。なぜか彼らの首領、風摩小太郎に気に入られていた彼らは、結局は自らも忍者となって姫の側に行くべきだという結論に達し、風摩に入門する。修行の結果の披露会にて粗相をした彼らは悪源太を人質に取られ、秀吉の千成り瓢箪を盗み出すという途轍もない課題に挑戦させられてしまう。

歴史の裏側、ナンセンス、そして忍法。バランス抜群、やはり傑作!
忍法帖がかつて一世を風靡したのは、その忍法の独創性やその戦いの激しさだけが要因ではない。山田風太郎のストーリーテリングの巧みさはもちろん、歴史上の事実の大枠を変えることなくそのニッチでエピソードを膨らます巧みさ、忍者という存在の馬鹿馬鹿しさや哀しさ、そして戦国時代が持つ非情な時代ならではの残酷な展開。このようなエンターテインメントの素となる要素できっちり満たされているのが本書。戦国時代を自由に駆け回る香具師が、行き会ったお姫様に侮辱されたことから、復讐するつもりが徐々に彼女の魅力に嵌っていく展開。豊臣秀吉の小田原攻め、そしてそんななか水攻めに合いながらも大いに長期間にわたって城を持ちこたえた忍城の存在。主人の命令は絶対でそれに背くのは命がけという忍者の宿命、そして彼らにもたらされる凄絶な戦い、そして死。傑作の多い忍法帖のこと、これらを満たす作品は実は他にいくつも存在する。
それでも本書が「傑作中の傑作」として数えられる一つの理由は、恐らく主人公七人の天衣無縫の性格と天然のユーモアにあるように思う。忍法帖の物語は基本的には哀しい物語である。忍法と忍法がぶつかり合えば必ずどちらか、あるいは両方が命を散らし、その命懸けで果たした任務さえも正当に評価されるとは限らない。むしろ歴史の上では抹殺され得る。本編の主人公は香具師なので、正確には忍者ではない。彼らに(正確には悪源太に)付き従う七人のくの一、対決する兇悪無比の忍法を繰る敵忍者が持つ一種悲愴さに比べれば、余裕と笑いがそこにある。その明るさによって悲惨な物語が救われており、そしてその明るさが消える時の衝撃は、一般の忍法帖の主人公たちが命を喪うケースよりも遙かに大きいのだ。まさか終盤、忍法帖で涙ぐまされるとは夢にも思っていなかった。
歴史的なエピソードの拾い方、登場人物の設定、奇想天外な忍法、そしてそれらを繋ぐ物語。どれを取っても超一級。いやいや、ホント、風太郎って凄い。

講談社文庫にて復刻されたことは記憶に新しいが、古書でも様々な形で出版されており、入手は最も容易な忍法帖長編の一つ。どのような形で手にとっても構わない。ここに山田風太郎忍法帖の真髄が隠れていた。間違いなく忍法帖の傑作である。


02/03/15
鮎川哲也「呼びとめる女 鮎川哲也名作選10」(角川文庫'78)

発表年代別にほぼ鮎川氏の全短編を収録する……との目論みがあったという角川文庫の名作選。どうも途中で挫折してしまったのか。それでも一応七冊までは順に刊行されている。本書収録の作品のほとんどは'67年に刊行された作品が並ぶ。

殺人事件発生のアパートの向かいで忍び込んだ下着泥棒を追った新聞記者。しかし事故で気を失い下着泥棒の汚名は彼に着せられてしまう。 『下着泥棒』
事故で亡くなった夫はかつて交際していた女性を殺した犯人の汚名が着せられていた。別の容疑者の女性にアリバイが成立していたのが原因だったが。 『夜の訪問者』
行方不明のタレントが芦ノ湖にて発見された。事前に発見された靴から死亡日時が特定され、合い鍵を持つ元妻が疑われたが。 『霧の夜』
ライバル漫画家、月形半平を殺害しようと計画を練った同業のカネコ・カネコ。自殺に見せかけウイスキーに毒を入れて首尾良く成功したかに見えたが。 『月形半平の死』
妻に自殺された男が、その原因が親友にあることに気付き復讐計画を練る。ラジオを使用して死亡時刻を誤算させようと試みるのだが。 『或る誤算』
成功した作家として暮らす男には過去に結婚詐欺を働いていた。自分の過去を抹消するために容姿の似た男に罪をなすりつけて殺そうと試み、成功するが。 『偽りの過去』
長期出張中に妻が交通事故を起こして失踪。殺した相手により恐喝されていたらしい。しかしネタの写真の男は全く身に覚えがない。無実を晴らすべく調査に乗り出す。 『牝の罠』
自分の万引き癖をオールドミスに証拠写真で握られた男。相手を殺すしかないと思い詰め、自殺に見せかけるのに成功したかに思えたが。 『呼びとめる女』以上八編。

短い文章にじっくりと凝ったアリバイトリック。最盛期の鮎川本格の凄さがひしひし伝わる
この時期の角川文庫は活字がページにぎっしり詰まっている。(というか、二十年くらい前の文庫本というのはおおよそ少ないページに活字が詰まっており、現在よりもコストパフォーマンスが良かった)。本書も同様、厚みはそれほどでもないにも関わらず、通常の短編集よりも一編多い、八編の作品が収録されている。
「アリバイ崩し」という言葉から、ミステリ読者は「一種のつまらなさ」を感じ取ることが実は多いのではないだろうか。量産作家の二時間ドラマの原作になるような作品における「アリバイ崩し」の安易さが原因ではないかと個人的には考えている。例えば「時刻表の盲点を突いたトリック」だとか「交通機関の乗り継ぎの勝負」だとか、現場不在証明がまさにその名の通り、「犯人が犯行時に遠く離れたところにいた」ということを証明することで、罪を逃れようとしているケース。これが圧倒的に多いのだ。これらでのアリバイは(もちろんなかには傑作もあるが)比較的ミステリとしても容易に生み出せる側面があるのではないか。一方、本格ファンの支持する「鮎川哲也のアリバイトリック」は実はそれとはちょっと違う。 百パーセント上記のケースが無いとは言わないが、犯人の逃走よりも事件や被害者に対して正面から向き合って、犯罪発生時間を錯誤させたり、被害者が犯行後も生きているように見せかけたりと、被害者を中心とした工作が行われていることが多い。その過程としてどうにでも設定出来る交通機関でのごまかしではなく、普遍的な事件とその周囲のありきたりの小道具によるアリバイ作りが必要になる。ここに真の工夫を凝らしていることが鮎川作品の面白さである。
被害者やその周囲に作為を施す場合の本格ミステリにおける「アリバイ」が、犯人が犯行不可能な場所にいたという一般的な「ミステリー」の「アリバイ」。これらがひとまとめにされて「アリバイ崩し」という言葉で括られることで、「安易だろう、面白くなかろう」という読者が持つ悪いイメージを喚起してしまう部分が少なからずあるのではないかと考えられるのだ。

本書のようなしっかり考えられたアリバイ崩しを眺めていて、上記のようなことをつらつらと考えてしまった。当たりばかりといえない鮎川ミステリだが、本書のようにしっかりした作品を見せつけられるとやはり凄さをしっかりと感じることになる。(ところで名作選の9はどこに仕舞ったんだっけ??)


02/03/14
佐藤友哉「エナメルを塗った魂の比重 鏡稜子ときせかえ密室」(講談社ノベルス'01)

'00年に第21回メフィスト賞を『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』にて受賞した作者が書き下ろした第二長編。一応、設定は前作を引き継いでいるものの、鏡公彦の姉、稜子が中心の物語となっている。

山本砂絵は高校二年生。ある時からありとあらゆる食物に対する食欲を喪い、口に出来るのは人肉だけ、という病に犯されていた。彼女を治療していた若い医師が手を回してくれたお陰で人肉は手に入るようになっていたところ、その先生が妻に刺し殺されてしまった。
香取羽美は高校二年生。彼女は自分自身にコンプレックスを持ち、それをコスプレにて変革しようと試みていた。
石渡、中村、田沢といった男子生徒、藤木、秋川といった女子生徒は高校二年生。彼らは息抜きに殺人容疑者の娘である古川千鶴に対する徹底的なイジメを行っていた。そして彼女も高校二年生。
彼らの属する二年B組に完璧な美貌を誇る須川綾香という生徒が転校してくる。彼女はそのカリスマから独特な地位をクラスで獲得する。そして鏡稜子も同じクラス。彼女は全てに我関せずという傍若無人な態度を貫き通していた。そしてドッペルゲンガーに襲われ、自分を失ったという少女と何かを調査する若い男らが加わって、物語が動き始める……。

本当の次世代「ミステリ」の方向性が示された? 佐藤友哉のミステリ界への挑戦状
いや、もしかすると、うーむ。佐藤友哉という作家はもしかすると大化けするのかもしれない。本格ではないが、ミステリに新しい価値観を持ち込もうとしている……それでいて、本人は恐らくそんな意識がないだろうという点もスゴイ。
様々な価値観……というか強烈な癖を持つ高校生たち。どこにも絶対にいなさそうでいて、その実、どこにでもいそう。 親に殺人事件の容疑がかかっている女子生徒に対して徹底的なイジメが行われ、鏡稜子は我が人生、我が趣味を貫き、別の少女は自分自身のアイデンティティのためにコスプレに励む。ある時期から摂食障害を起こして人肉しか受け付けられなくなった少女を除けば、学園もの小説としてさして目新しい設定はない。またそこからの展開も、謎の美貌女子高生の転校からイジメの矛先が変化し、自らの秘密を守るためにクラスメイトを殺害せざるを得なくなった少女……と、まぁ、極端ではあるが予想の範囲である。
佐藤友哉の凄さは、この拡げられるだけ拡げられた物語の謎の回収方法にあるともいえるだろう。SF的とも荒唐無稽ともファンタジックともいえるような要素が次々と物語のリアルの内部に持ち込まれるのだが、なぜかそこに突飛さがあまり感じられない。物語が開始早々から突飛だから、というよりも三十代の作家には描けない現代高校生のリアリティがあるからか。密室殺人も、ドッペルゲンガーもきちんと謎解きがなされるのだが、そこに放り込まれる追加設定の現実からの遊離度合いがどれも近しいように思える。嘘のレベルが均等。ある臨界点を越えないようなホラ話。ミステリの内部にSF的な設定を何のてらいもなく取り入れて行き、多少の現実の歪みを気にせず、それでいて世界観には一定の統一性が感じられる……ミステリとファンタジーの融合なのか?
一つ一つの謎解きのサプライズは、ミステリのトリックを看破した、というよりもSFのネタを見破ったに近い。最終的な謎解きの結果得られる、物語世界全体を覆っているというある設定にはさすがにぶっ飛んだ。(良い意味で)

どこまで既成作家に慣れた読者に受け入れられるか多少の不安もあるが、筆力もしっかりしており、何よりもストーリーテラーとしての確固たる魅力がこの若さにしてきちんと発現している。乙一らと共に、これらの早熟世代が従来のいわゆる「新本格」とも違う、次世代のミステリを創り上げていく。そんな気がしてならない。


02/03/13
飛鳥部勝則「ヴェロニカの鍵」(文藝春秋'01)

'98年に『殉教カテリナ車輪』にて第9回鮎川哲也賞を受賞した飛鳥部氏は、その後もコンスタントに作品を発表し続けている。本書は氏の六冊目の作品にあたる。(たぶん)書き下ろし。

久我和村は中年の画家で美術教室の講師をしながら年に一度団体展に発表する作品を描いていた。締切の前夜、ある絵の具を切らしていることに気付き、唯一友人といえる画家の郷寺秀宅に電話を入れる。不愛想な彼が住む砂浜近くのアトリエに向かった久我は闇の中で手足の長い化け物を目撃。そして更にある人物らしき人影をも目撃する。訝しく思いつつも開け放しの玄関から中に入ったところ、彼は郷寺が応接間で千枚通しで胸を貫かれた死体となっているのを発見、思わず慌てて飛び出してしまう――。久我は翌日、画商で共通の友人、香田庄乃との約束があって知らぬ顔で郷寺宅に再度向かう。ところが応接間で死んでいた筈の郷寺が鍵の掛かったアトリエ内で死亡していた。死体が移動? しかし郷寺は最近作品が描けないという悩みを抱えていたことから、警察では自殺と判断、特に久我がお咎めを受けることはなかった。その事件の後、特徴的な女子大生と若い男性という教室の生徒が別々に久我に接近してくる。

芸術を愛する男の喪われた青春を追う、どこか物悲しさの漂う小説
どうして、芸術家という人種はこうなのだろう――。いや、純粋に芸術に生き、それで生計が十二分に成り立って世俗一般のことを永遠に知らないようなケースはいい。青春を芸術に打ち込み、その才能の限界に当たった人々が主人公となる物語は、なぜか一様にもの悲しさを湛えているように思う。年を取ってもその頃に受けた傷を舐めているというか、ちっぽけなものを後生大事に抱えているとか。同じ青春の一時期、他の――例えばスポーツだとか、研究だとか――に打ち込んだ人々の物語は爽やかさを感じることが多いのに。
本書の主人公も中年になりながら若い頃の夢を捨てきらない男という設定である。彼が体験した不可解な死体移動、そして密室が物語の片方を支えてはいるが、反対側に聳える「芸術」という名のもとに過ごした青春時代の思い出、そして悔悟の部分がどちらかといえばメイン・テーマにあたるだろう。「なぜ目撃した死体が、翌日密室の中に移動していたのか?」 本格ミステリとしても、十二分に魅力あるテーマなのに、どうしても主人公の性格や人生に当てられたスポットライトの方が明らかに大きく明るいのだ。芸術という熱病に取りつかれた青春を少し醒めた目で眺めた時、振り返った時に何が残されているのか。そこには芸術とは無縁の一般人には見えにくい傷や考え方がある。そしてそれらと関連した殺人行為への動機が、ミステリとしてほとんど類を見ないものであるにも関わらず奇妙な説得性を持つ。物語を繋ぐ軸がちょっと普通のミステリとは異なる……どこか例えば森雅裕や山之口洋らの描く作品に手触りが似ている気がした。つまり、自伝的な小説が発する独特の痛さみたいなもの。

一歩欲を言うならば、動機だけでなく密室殺人の物理的部分と美術をはじめとする芸術との関わりがもっと深ければもの凄い作品になり得たかもしれない。とはいえ多少トーンが暗めながら登場人物に独特の個性が備わっており、ミステリジャンル外の大人が読むに耐える物語が内包されている。


02/03/12
柄刀 一「幽霊船が消えるまで」(祥伝社NON NOVEL'02)

「痛快ミステリー 天才・龍之介が行く!」の副題通り、『殺意は砂糖の右側に』に続く、天才・天地龍之介を主人公とするシリーズ第二作。『小説NON』誌に'00年から翌年にかけて掲載された作品に書き下ろしが加えられた作品集。

前作にて天才・龍之介の後見人となる中畑保氏を追ってフィリピンに向かった龍之介と光章。中畑氏と会えず日本に引き返す彼らは置き引きに会い、帰りの航空券を無くしたため、伝手を使って貨物船で帰国することになった。その貨物船にて聞かされた幽霊話そっくりの幽霊を光章は目撃する。 『幽霊船が消えるまで』
一美さんの友人でバンド活動をしている男が殺人事件の容疑者として逮捕された。被害者はピアノを自作しており、その鍵盤上にその男の指紋が残されていたのだという。 『死が鍵盤を鳴らすまで』
中畑さんの自宅に手がかりを求めに向かう二人。その途中で増水したダムの壁面から、なぜか女神像に掴まっている幼児を救助する。彼は誘拐され行方が心配されていた。犯人は別の場所で溺死体で発見された。 『石の柩が閉じるまで』
中畑氏が滞在している徳之島を訪れた二人と一美。その島の有力者佐々塚一族の経営する旅館にて休息をとっていたところ、県会議員である主人が風呂場で入浴したまま不審な死を遂げる。腕時計の表示が狂っていたことから、ある推理がなされるが。 『雨が殺意を流すまで』
ようやく中畑氏と出会うことが出来た一行。しかし氏が滞在していた分家の佐々塚氏宅の一人娘に婚約騒ぎが起きていた。相手は光章がかつて大金を貸したときに行方を眩ませていた男だった。 『彼が詐欺を終えるまで』
佐々塚家の長男が徳之島に帰島。だがすぐに山の中に籠もってしまう。一行が彼を捜しに出向くと謎の二人連れが山中に、そして見知らぬ男の死体が発見された。 『木の葉が証拠を語るまで』以上、六編。

従来の「科学知識本格」に物語の方が少しずつ近づいてきた!
前作では龍之介のありとあらゆる分野における深い知識(ま、いってみれば科学的雑学か)が炸裂! といった印象があり、それはそれで楽しむことが出来た。本作も前作同様のコンセプトというか底流にある方法論としては近いとは思うのだが、作者がこなれてきたのか、こちらが慣れてきたのか、物語と、その科学的雑学との間に存在する違和感が徐々に薄れつつあるように感じた。前作では物語のなかに強引に科学知識を挿入したような構成がみられたが、本作はもともとベースとなる科学知識が存在して、そこから物語を拡げていくようになっている。つまり、物語と科学知識的トリックとの親和性が増してきているということ。
物語展開に加えて「知らなかった事象を知る」「誤った見方が正される」といった子供の頃に科学雑誌を読んで感じたようなカタルシスが本書に備わっている。別に本格がこのような作風ばかり、というのは困ったことかもしれないが、柄刀氏の場合はそれが自然な作風として身に付いているのだろうか。相変わらずトリックを見抜くことは難しいとは思うが、物語展開と合わせ楽しむことが出来るという点は重要。
特に書き下ろしとなっている『石の柩〜』については、その物語が二重三重のエピソードによって成り立っており、更にその意志が科学的トリックと密接に関係しているなど、非常に印象が強い。トリックのみならず心理的な錯誤をかくもうまく使うあたり、これまで読んだ(少ないけれど)柄刀作品のベストクラス。

ある意味、古来からある物理トリックにしても、昭和後期にあった(当時)最新の家電や通信方法を利用したトリックにしても、「読者がその知識を持っていない」という点をベースに考えれば同じ。島田荘司氏がこういった手法を「二十一世紀本格」として提唱しているようだが(件のアンソロジーが未読なのでその訴える真意を違えていたら申し訳ない)、これまであった方法論を時代をずらして再実践しているに過ぎない、というのはうがった見方だろうか。

また、登場人物の設定が浸透してきたのか、連作としてぎこちなさもあった前作よりも、通じての物語に魅力が増しているように感じられる。柄刀作品をあまり読んでいないため、氏の作風を語る資格はないのだが、イメージされる堅苦しい本格から少しずつ脱皮しつつあるのではないか、と推察する。(生意気言ってごめんなさい)


02/03/11
梶尾真治「綺型虚空館」(早川書房'84)

梶尾氏の四冊目の単行本として出版された短編集。収録の「仰天号の冒険」が「宇宙船<仰天>号の冒険」と改題され、それがそのままタイトルとなって'86年にハヤカワ文庫JAにて文庫化もされている。

妻子に逃げられ人生に絶望した男が新薬の人体実験に志願、若返りが始まった……。 『もう一人のチャーリイ・ゴードン』
人が羨むような眉目秀麗、才気煥発の美男子が超のつく不美人と結婚。その裏にはオムレットが……。 『チーズ・オムレット虜囚』
宇宙時代。おばあちゃんと今は亡きおじいちゃん若かりし頃のラブロマンス。 『ムーンライト・ラブコール』
靄のなかを歩き続ける少年はさまざまな光景を眺め、一人の少女と出会う。 『愛の鼓動』
全てを呑み込むランシブル・ホールにて遭難したはずの恋人が目撃された。彼女は老船長の駆る宇宙船で危険なその空間に乗り込む。 『ランシブル・ホールの伝説』
市職員に相談を持ち掛ける男。クリスマスが近付くとサンタに変身してしまうという。 『サンタクロース症候群』
「ちゃんこ寿司」は巨大で暴力的な主人が経営していた。無一文でその店に入った男が味わう恐怖の体験。 『ちゃんこ寿司の恐慌』
大宇宙の凶器と呼ばれる先頭集団、宇宙船仰天号が不時着した星で住民を脅かす化け物と対決する。 『仰天(ヴイークリ)号の冒険』
神州の謎の渓谷に住むマッドサイエンティストが思いつきで作った細菌は人間を猛スピードで走らせるものだった。 『奔馬性熱暴走』
祖父の家で幸せに育った泰彦はその生活から離れることになった。その後精神的重圧がかかると金木犀の匂いを感じるようになる。 『金木犀の午後』
クラス会に遅刻した中年男三人は皆、金で苦労していた。そこに現れたのはかつてのマドンナ。しかし彼女もまた病気の子供を抱えていた。 『ヴェールマンの末裔たち』以上、十一編。

ノスタルジー、ユーモア、冒険……いろいろあっても全部まとめたのがカジシンワールド
例えば冒頭の『もう一人のチャーリイ・ゴードン』はダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』を和風に置き換えた(思い切り下敷きにした)ファンタジーで、親子の交流が切なく哀しく描かれている。続いての『チーズ・オムレット虜囚』は、極上のオムレットに魅せられた男が味わう悲劇をユーモア感覚で描いたショートショート。同じショートショートながら『愛の鼓動』は、再び哀しみを前面に押し出し……といった感じで、笑いと切なさの配分が見事に作品集として決まっている。『サンタクロース症候群』のように、ほのぼのした感覚をブラックな味わいで裏切る作品も微妙なスパイスとなって効いている。作品個々でも印象に残るものが多くあるのだが、それよりもトータルの作品集として「梶尾真治を読んだぁ」という一種心地よい虚脱感がポイントか。
ただ作品の完成度そのものにはバラツキが見られ、長い間残りそうな作品と時代と共に消え失せそうな作品が両極端。『奔馬性熱暴走』あたり、国枝史郎の『神州纐纈城』をベースにしているのだが、(恐らく発表当時も)出典を理解しつつ読むような読者は少数派ではないかと想像される。これに当時の時代性溢れるギャグを散りばめてしまうと、二十年近く経過した今読むのはちと辛い。ただ逆に、そういった時代性が捨象された作品群の醸し出すノスタルジックな雰囲気は抜群に良い。 こういったアンバランスさがまた本作品集の特徴ともいえる。

いずれにせよ、このさまざまな作品群全てが「梶尾真治」そのものであることは間違いない。自分を偽ったり、実験を求めた作品は、この作品集には含まれてはいないだろう。文庫版でも発見出来ることがあるならば、カジシン作品の入門としてはまずまず適しているのではないかと思われる。