MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


02/06/20
森 博嗣「工学部・水柿助教授の日常」(幻冬舎'01)

幻冬舎刊の雑誌、『ポンツーン』に'99年から翌年にかけて掲載された四つの作品に書き下ろし最終話が加わって刊行された、一応小説ということになっている自伝的エッセイ

題名がそのままエッセイ風小説の中身を示しているため、敢えて梗概を起こす気にならない。全体としては、とある国立大学工学部に助教授として所属する水柿氏とその細君である須摩子さん。異様に長く無関係な前振り。そして彼の周囲にいる個性豊かな教授や学校関係者を中心に発現する謎、そして解決と言うより真実。水柿氏は数年後、ミステリィ作家としてデビューすることになる。
『ブルマもハンバーガも居酒屋の梅干で消えた鞄と博士たち』
『ミステリィ・サークルもコンクリート試験体も海の藻屑と消えた笑えない津市の史的指摘』
『試験にまつわる封印その他もろもろを今さら蒸し返す行為の意義に関する事例報告及び考察(「これでも小説か」の疑問を抱えつつ)』
『若き水柿君の悩みとかよりも客観的ノスタルジィあるいは今さら理解するビニル袋の望遠だよ』
『世界食べ歩きとか世界不思議発見とかボルトと机と上履きでゴー(タイトル短くしてくれって言われちゃった)』
以上の五話によって成立している。

森博嗣氏私小説風自叙伝 (それでいて森ミステリィ成立に至る考え方も垣間見えたり)
後に小説家となって活躍する水柿助教授(「森」という単語を解体して再構成すると「水柿」になる)と、奥さんの須摩子氏(「スバル氏」という言葉を解体してもこうならない……)の、作家になる以前、二十代から三十代にかけての経験が、エッセイ風に書き綴られて(書き散らかされて)いく。二人に関係した人物や地名などの固有名詞も登場するのだが、恐らく分かる人には分かるのではないか。これまでにオフィシャルな形で明かされている森博嗣氏のプロフィールや趣味とこれだけ重なるところが多いとなると、小説、小説と強調はしているものの小説風にアレンジした自伝と判断して差し支えないだろう。(但しノンフィクションとは考えない方がいいことは言うまでもない)。
そういう自伝を小説化するにあたって表現された森氏の主張。

それなりのボリュームのほとんどは垂れ流しに近い日常。それでいて一部に「ああ、なるほど」という主張が含まれている。この「なるほど」はミステリとして一般化できるものというよりも、「森ミステリィ」をある程度理解したうえでの「なるほど」なのではあるが。
例えば、日常には「ミステリ」など存在していない。というもの。氏のサイト内日記を読んでいるかのような文章にて綴られる日常の謎。だけどその謎に対する回答は、フィクションのミステリとして捉えるならば噴飯物のネタが続く。好意的に解釈していけば、それは上記のような森氏ならではの世界観に繋がっているように感じられる。それが日常の謎であっても、ミステリは虚構においてのみ成立するエンターテインメントなのだ、という点が一貫して主張されている。よくよく読めば、本書では場所の錯覚、人の錯覚、叙述トリック、物理トリックといった現実の「謎」がいくつも作品内にて取り上げられている。その解決が美しくないということがまた、現実とはこんなもんという冷めた見方を補強しているように思えるのだ。その一方で、それをエンタメ(この場合森ミステリィ)として人に「売る」ためにはどういう処理をすべきなのか、というような主張がなされており、これがちょっと興味深い。
 ある現実に発生した突飛な出来事を指したうえで「しかし、小説では絶対に納得してもらえない。/これは不思議といえば不思議。/ミステリィだ。」とか、「事実は小説よりも奇なり、とよく言う。/だが、それは当然だ。/小説では信じてもらえない。/だから突飛なことは書けない。/筋道の通ったことばかり小説にする。/だから、小説の方が現実よりも「奇」でなくなる。」
言われてみると当たり前のことだけれど、言われてみないと気付かないような事柄ではないか。

これまでの森作品を読んで、そのミステリとしての部分によりも「文章」であるとか「考え方」であるとか「ちょっと冷めたようなものの見方」というあたりに惹かれる読者が手に取るべきか。 深読みすれば深読みできないことはないけれど、ミステリのつもりでノーマルに本作にぶつかると「つまらない」という反応になることもまた間違いない。ちょっと難しい位置づけにあたる作品かと。


02/06/19
福澤徹三「幻日」(ブロンズ新社'00)

ハルキホラー文庫より『怪の標本』という著作のあるアートディレクター、福澤徹三氏のデビュー短編集。ひっそりと刊行されているため、余り話題に上っていないようだが、数年後に探しまくらなければなる可能性もある。ショートショートに近い作品を含むため、作品数ほど長さは感じられない。福澤徹三氏のサイトはこちら

日曜出勤の疲れ切った中年会社員が電車に乗り過ごした駅近くで出会った美女は足を挫いていた。彼女のマンションまで同道した男は彼女とベッドを共にする。愛人関係になった二人だが、彼女は自分のことを全く話そうとしない……。 『幻日』
大学の生徒同士が夏の山荘にて怪談大会。その模様を記したテープを文章に起こそうとしている教授。あの夏の夜に山荘では何が起きたのか……。 『怪談』
私がバーを始めた頃に頻繁に訪れていたホステスの美也子。彼女が一緒に住んでいる真紀が持ち込んできた仏壇は、きっちり閉めたとしても、気づいた時には扉が開いているのだという。 『仏壇』
今年四十二歳になる澤野は末期の胃癌で入院中。家族の行く末を案じていた夜中、真っ黒な得体の知れないものが「お迎えにあがりました」とやってくる。澤野は「後十年」と哀願する。 『お迎え』
伝統と格式を感じさせる豪壮な館のなか。出立することが決まった者が今まで全く知らなかったいくつもの儀式を強要される……。 『出立』
子供のいない夫婦。妻は売りに出ていた小さな喫茶店を経営したいといい購入を決める。商売は順調だったが、なぜかその店の周辺では交通事故が多発し始めた……。 『骨』
寝苦しい夜、目が覚めた私は目の前に見慣れた物体があることに気づいた。それは首から上だけの自分の顔。顔は何かを訴えようとしているのだが……。 『顔』
退屈な本を読んでいた日の夕暮れ、玄関の引き戸越しに見知らぬ男が「開けてくれ」と喚いていた。開けずに翌朝を迎えて確認すると、玄関脇にて父が死んでいた。 『厠牡丹』
親戚が集まる機会があるたびに伯父は、実家のある地方にまつわる奇妙な話を好んで始めた。その村では不審死がなぜか多く発生する傾向があった。 『釘』
地方の百貨店で美術品の売り場主任を務める男。日常に倦んでいた彼はある晩、石畳の上に桜が瞭乱している光景を続けて夢で見た。 『廃憶』以上、十編。

平凡な日常を送る平凡な人々が覗き込む日常と闇との狭間……
先に手に取った『怪の標本』に比べると、多少肩に力が入っている印象が気にかかる。とはいえ、溢れ落ちる恐怖の感触は、前作でも感じた通りの小生好みの味わいを持つ。その理由を考えるに、ひとつは、ごくさりげなくも美しさを孕み、それでいて癖の少ない文章にある。そして、もう一つは日常の延長……という恐怖の源泉となる背景と、小生との親和性が非常に高いことにあると感じる。
読者ひとりひとりが、本を手に取った瞬間に抱えている「経験」「趣味」「好み」といった部分は当然ばらばらである。(本書のケースなら多少は「幻想小説、しかもマイナー出版社の新人作品を手に取るような人」として括れる可能性はあるが) そんななか自分自身(三十代サラリーマン)にとって共感出来る日常性が作品に溢れている。くたびれたサラリーマン。死にかかった実業家。人と普通に接しているように見えながら、心のどこかに違和感を持つ人々。彼らが送る日常が、さしたるきっかけもなしに罅が入って壊れていく。ただ、それに不快感が伴わないのがポイント。退屈な日常など壊れた方がなんぼかマシということなのか。あくまで個人的な印象では、自由業に就く読者よりも普通の勤め人読者の方が本作から得られる共感(眩瞑感、そして恐怖)は大きいのではないかと思う。
二作目の表題作である『怪の標本』と前半部との構成が割と似ている『怪談』。ごく普通の人々がごく普通に夜中に余興として語り合う「怖い話」群。この普通さが、めちゃくちゃに嵌る。どこかで聞いたことがあるようで、はじめて聞く怖い話。以前も書いたが『新耳袋』のような実話のような微妙な語り口が巧い。一つ一つのエピソードだけではそれほどでもない怖さが、連続して聞かされることで相乗効果を得て、読者の目の前に迫り来る。他、冴えない中年サラリーマンの描写が秀逸の表題作『幻日』、都市伝説風の設定が効果を呼ぶ『骨』あたりが印象に残る。幻想小説寄りでは『廃憶』の彷徨感が味わい深い。

福澤氏には申し訳ないが、(少なくともWEB上では)あまり話題に上ることのなかった作品集。何か大切でこっそりと読みたい拾い物を手に入れた感触。人に積極的に紹介するのが勿体ない、一人で味わっていたい……といった不思議な魅力が本作にはある。


02/06/18
恩田 陸「劫尽童女」(光文社'02)

' 題名は「こうじんどうじょ」と読む。光文社の『ジャーロ』誌に'00年から翌年にかけて連載されていた作品に加筆修正を加えたもの。

個人的には最初の一編の衝撃が大きかった。なので皆さんにもできれば先入観なしに読んで欲しいので、梗概については、最初の一短編の導入部のみとする。残りについては現物にあたって頂きたい。一口でいえば、特殊な能力者や凄腕の殺し屋を抱える世界的な謎の組織『ZOO』と、その勢力に抵抗する人々&組織から逃げ出した人々との、平穏な一般市民の日常からは隠されたところで繰り広げられる死闘の物語。
「ハンドラー」は愛犬アレキサンダーを連れて別荘地を散策していた。ただ、彼の身のこなしは一見、別荘に遊びに来た一般人を装いつつも訓練されたものであった。彼は、プロフェッサー、ケン、タンクら、『ZOO』に所属する凄腕の殺し屋たちと共に『ZOO』を失踪した伊勢崎博士の別荘を監視している。しばらく行方が分からなかった伊勢崎博士が、日本の別荘に舞い戻ったという情報が入ったのだ。彼は身体の不自由な子供と共に、管理人の孫娘に時折食料を届けさせる以外には外に出てくることはなかった。周辺の住民や、管理人の老婆、そしてその孫娘らから自然なかたちで情報を入手したハンドラーは、博士を拉致するための日程を決定する。完璧な準備の元、彼らは闇に散り、突入を開始しようとするのだが……。『化現』『化縁』『化色(前後編)』『化生』の全五編。

筒井康隆の「七瀬」か、大友克洋の「AKIRA」か。人間という種族を越えてしまった超能力者たちの苦悩
超能力者を扱った小説である。ミステリ的趣向、SF的趣向を作品内部や舞台背景に器用にたくし込んでいるのでいわゆるジャンルミックス的手法が取られている。ただ、個人的にはSFだとかミステリだとかのジャンル分けを拒む力が本書から発されている気がしてならない。もし、「恩田陸小説」というのがもっとも相応しい呼称ではなかろうか。
謎の組織『ZOO』において実施された伊勢崎博士の人体実験の結果、通常人類からすると化け物じみた能力を授かってしまった主人公。このあたりの経緯は一歩間違えると「仮面ライダー」である。また『ZOO』から逃げ出した博士を、特殊訓練を受けた男たちが追い詰めていく(第一話)のであるが、これも一歩間違えると「仮面ライダー」である。ここからは、主人公らの想像以上の逆襲、放浪、襲撃と応酬、そして懊悩と物語は続く。ただ、いわゆる迷彩服を着た筋骨隆々の男同士が戦うような下卑た(ベタな?)戦闘シーンは本書にはない。意外な人物に意外な能力を持たせるところが面白さであり、逆張りのリアリティとなっている。
我々が暮らす生活の裏側で巨大な組織が実は暗闘している……というのは巻き込まれ型のSFアドベンチャー小説の典型。超能力者が持つ「人間と違うこと」への苦悩を描くのも、超能力を取り上げる全ての小説における典型。これらの「典型」を用いつつも、主人公らへの「罠」を仕掛け、意外な登場人物を配し、あまつさえ読者さえも巻き込んで煙に巻いていく恩田陸ならではの着想、展開がヒット。そして彼女が綴る過剰なリーダビリティを感じさせる文章が読者を捉えて離さない。人間愛が溢れるラストシーンに至るまで一気読み間違いなしの一冊。

やはり「恩田陸は読者の心をつかむのが上手い」。 彼女はいつ第二の宮部みゆき(つまりは国民的ベストセラー作家)に化けるのだろう? それが時間の問題でしかないことは、これら著作群が証明している。作品が何かのオマージュであってもなくても、生み出されるものは常にエンターテインメントの最上位をキープしている。いやはや。


02/06/17
山田風太郎「あと千回の晩飯」(朝日文庫'00)

探偵小説、時代小説、忍法帖……と大車輪の活躍にて昭和の小説界を席巻した山田風太郎も、七十歳近くなった平成5年以降は、その執筆活動はほとんどエッセイが中心となっていた。本書は朝日新聞に連載された表題エッセイに加え、その'93年から'96年にかけて各誌に掲載されたエッセイをまとめ、'97年に朝日新聞社より刊行された単行本を文庫化したもの。

「いろいろな徴候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う」 『あと千回の晩飯』
『風山坊日記』 「アル中ハイマーの一日」「私の夢判断」「風老残散読記」「夜半のさすらい」「蛙はまた鳴くか知らん」「近頃笑いのあれこれ」「B級グルメ考」「乱歩先生のお葬式」
『風来坊随筆』 「少年時代の読書」「少年時代の映画」「漱石の森鴎外宛書簡」「日本人を疑う日本人」「ふんどし二千六百年」「わが意外事」「奇妙な偶然」「日本刀」「生き物鬼行」「金メダル」「蓼科の夏」「風の墓」
『あの世の辻から』 「死後の世界はあるか」「死者の口」「善玉・悪玉」「タブーと不文律」「残念無念の事」「面白や 言葉の誤用」「東京駅の円屋根」「廃用性萎縮」「望郷と亡郷」「昭和の番付」
以上に多田道太郎氏による巻末エッセイが付く。

悠々自適にデタラメ生活を送る一老人による、でも奇想が鏤められたエッセイ
あの壮大な構想、奇想をもって縦横無尽に登場人物を動かし、読者の感激を呼んだベストセラー山積みの大作家、山田風太郎の悠々自適の晩年の生活……は、結構、いや相当にいい加減。 午後に起き出してちょろっと仕事らしきことをこなしたかと思えば、晩酌しながらの夕御飯。その晩酌でいい心地のまま、夜中まで起きていて、仕事らしい仕事もしないまま朝方また眠る。それだけならまだしも、テレビをほとんど見ず、新しい経験もほとんどない生活の中から強引に一冊分のエッセイをひねり出してしまうあたりは結局ただ者ではない証拠であるのだが。ひどい病気を患わせて入院のために中断する経験を描く他は、昔話や思い出話、それに時事ネタが中心となる。結局これでは安楽椅子探偵ならぬ、安楽椅子エッセイストである。 表題作などは最初に気合いが入っていたのだろう。各種の文献から、過去の著名人の食事を分析したりといろいろ調べて書いているのだが、すぐにそれに飽きてしまったらしいのがありありと分かる。ま、それでもそれなりに面白いのが風太郎が風太郎たる所以なのだろうが。
このエッセイを読んで何よりうれしかったのは、'98年に謎宮会にて私の敬愛するヘレン・ケラ一さんが執筆した傑作コラム「『忍法相伝73』で驚け」にて初めて知り、その後ずっっっっっと謎だった「チーズの肉トロ」なる風太郎の好物料理の謎がようやくにして解けたこと。(ちなみに私はこのコラムの読後しばらく『忍法相伝73』読みたい病にかかった。今は癒されたけど。) そうか、そういうことだったのか! 読む限り、量は少ないと言いつつ、毎日かなり贅沢な食事を楽しんでいた風太郎氏が、更に好んだという「チーズの肉トロ」。これは、実はごにょごにょごにょ。(知りたいと思ったそこの貴方、本書を読むように)

当面は新刊書店にて入手が可能かと思われるが、没後継続しているようにみえる現在の第何次かの風太郎ブームが終焉すると、書店に現在並ぶ作品群が再び一気に入手困難の方向へと向かうのではないかと危惧している。そして小説よりも、かえってこういったエッセイの方が先に入手しづらくなる可能性もある。(もちろん、そうじゃない可能性もある) 単なるミステリファン程度で、風太郎マニアではない方が急ぎ読むほどの内容とは正直言い難い。でもやっぱり、年を取っても世間や物事への厳しい皮肉や、突飛な着眼点は健在。 何よりも、いけしゃあしゃあとそれを活字にしてしまうのがやっぱり風太郎。少なくともファンならば面白く読めるエッセイ。そのかわり、ファン以外の人がいきなりコレ読んだら怒るかも。


02/06/16
石崎幸二「袋綴じ事件」(講談社ノベルス'02)

講談社ノベルス20周年記念、メフィスト賞作家特別書き下ろし密室本の石崎版は、これまで同様「ミステリィ同好会」シリーズがベース。その第四弾にあたる作品。

名門、櫻蘭女子学院高校の名ばかりの「ミステリィ研究会」に所属し、冴えない独身サラリーマン石崎を顧問に据えて好き勝手に暴れ回るミリアとユリ。今回もまた彼女らの幼馴染みの仁美が、離婚して八丈島にて研究生活を送る父親と会いに向かうというのを口実に石崎を連れだし、現地へと向かう。また島かよ! というツッコミをよそに訪れた八丈島。電機会社の社長でもある仁美の母親の秘書が同行、更に父親のいる別荘には別の研究者が訪問していた。現地のホテルの従業員が彼女らを迎えにきた直後、土砂崩れにより、別荘はお約束の「嵐の山荘」状態に。その晩、仁美の父親が何者かに殴打されて意識を失う事件が発生する。父親の部屋は荒らされていたが、両側からダイヤル錠にて施錠できる特殊な構造となっており、その開閉には両手を使う必要があって忍び込める人間は限られている。「ミステリィ同好会」の面々は石崎の持ち込んだ五冊の袋綴じミステリを利用して、犯人を特定しようと目論む。

確信的いわゆる「お約束状況」がシリーズの本質。ギャグセンスが相変わらず飛びまくる
相変わらず、というのがこれまでの石崎作品に現在のところもっとも相応しい形容詞のように思う。キャラが被っているミリアとユリの二人組の頓狂な掛け合い、更に「いじられ役」石崎が加わって織りなされる、三十代向けの謎のギャグ群が、物語の緊迫感を逆手にとって笑いに変ずるのも、これまでと同様。さらに、毎度のことながら特殊な意味合いを持つ「島」に彼女ら+石崎が訪れて、殺人事件が発生するのもいつも通り。毎回違った美女が登場して、石崎が知らず惹かれるのと、それをミリアとユリが小馬鹿にするのも一緒。そして、その島では警察が科学捜査など無粋なマネを行うことはなく、それまでの伏線や、彼女らが仕掛ける罠によって犯人が明らかにされていく……という過程等々、やっぱりこれまでと同じ展開を見せている。
もちろん、トリックやディティールといった、もっとも大切な部分には毎回オリジナルな設定が考えられている。単純にミステリとしてだけ抜き出すと、今回の場合は本格ミステリとしてはこぢんまりとまとまっていて及第点。 不可能状況そのものはちょっと「密室のための密室」(といいつつ密室でもないんだが)のような感じがして何なのだが、特に真犯人を引き出すための様々な工夫が面白い。ちょっと作者の本職が絡むのか、化学的な軽めの蘊蓄がちょっと目を引くのと、袋綴じを強引にミステリ内部に放り込みつつ、あまり意味を為していないところとか。それでも真相は二転三転し、めちゃくちゃなようでいて、きっちり論理がはまる展開はマジでいいのでは。
しかし、何といっても本作もギャグが個人的ツボに嵌った。特に三人の女子高生が、石崎と女性秘書がどのような関係に陥るのか賭けを行うシーンが圧巻。電車のなかで思わず吹き出しそうになった。単なるギャグとしてのネタに留まらず、このあたりも伏線として機能しているあたりも見逃せない。

とはいっても、やはりなぜ石崎がこんなキャラなのか、彼女たちが何者なのか、というあたり、本作からだけで読み取るのはまず不可能。従って、シリーズ順番に読むのが吉。キャラには萌えないが、個人的には何かとても読んで楽しいシリーズである。ただ本作に関していえば、これまで未読の読者を引き寄せるほど良かった前作までの題名とはうって代わってベタな題名である。『袋綴じ事件』。なんだそりゃ。細かいところだけれど、勿体ないと思うのは私だけではないだろう。


02/06/15
法月綸太郎「法月綸太郎の功績」(講談社ノベルス'02)

第55回日本推理作家協会賞短編部門受賞作品「都市伝説パズル」を含む、『法月綸太郎の冒険』『法月綸太郎の新冒険』に続くシリーズ三冊目の短編集。 『メフィスト』誌に発表した作品他、講談社文庫のオリジナルアンソロジーに書き下ろした作品を二作含んでおり、読者によってはコストパフォーマンスが悪い可能性もあるか。

夫が浮気をしているかも……。夫の出張中に妹を留守番に呼び、夫の浮気相手のマンションに向かった妻。その留守中に妹が何者かに刺し殺された。現場に残された「=Y」のダイイング・メッセージの意味は? 『=Yの悲劇』
人気作家の執筆しようとしていたミステリ作品は、カタツムリの渦巻きが重大なヒントなのだという。その作家が「チャイナ橙の秘密」さながらの密室から消えてしまった。 『中国蝸牛の謎』
 「電気をつけなくて命拾いしたな」壁に残された血文字は有名な都市伝説の模倣。自宅の飲み会が解散後に刺し殺された大学生。忘れ物を取りに戻った女性は、電気をつけずに部屋から出てきたという。 『都市伝説パズル』
容疑者が固まっている殺人事件の捜査本部に、「自分が犯人です」と自首してきた無関係の男。公務員で動機も見当たらないその男は、別の自殺事件の時にも再び自首。果たして彼は一体何を狙っているのか。 『ABCD包囲網』
一人暮らしのOLが不倫相手に自殺をほのめかす電話を掛けた。不倫相手が駆けつけた時には彼女の部屋には首を釣られた死体が。しかし死因は縊死ではなく、後頭部にある打撲傷であった。なぜこのような状況が発生したのか? 『縊心伝心』 以上、五作品。

状況設定の妙、警察捜査シーンの手堅さ、論理の積み重ね、取捨選択の緻密さ……。法月綸太郎、円熟!
先に言っておこう。五つの作品が取り上げられており、そのうち『中国蝸牛の謎』については、前半の奇妙な導入部が魅力的であるにも関わらず、そのトリックを含む後半部が全体的におざなりになっている印象。特にメインとなるトリックは補助で使う程度に押さえないと、あまり読者は喜ぶタイプのものではない。そのカモフラージュの方法も御都合主義が目立つ。傑作の導入部分を持つ凡作である。
しかーし、しかしだ。
残りの四作が実に面白いのだ。
 いわゆるノリリン節をストレートに表現した緻密な論理によって裏付けられた、王道中の王道ともいえる安楽椅子タイプの本格ミステリ。特に父親の法月警視の持つ豊富なデータ量、そして警察による綿密な捜査にも関わらず、相変わらず「謎」として残る部分が存在する事件そのものも魅力的。読者の推理する余地もいくつも残されており、読みながら立てる仮定が次々と裏切られたうえで、筋道がロジックによってスッキリするときの快感は、何ものにも代え難い。
導入部が非常に魅力的で、そのエピソードと実事件の絡みが見事に効いた、受賞作たる『都市伝説パズル』はそれなりに面白いが、特に本作において個人的に印象に残るのは『縊心伝心』か。首つり自殺に見える遺体が、実は死亡原因は頭部への衝撃という冒頭も不可能犯罪ものとしてなかなかだが、ホットカーペットの向きが逆、という一見どうでも良いようなことから、次々に導かれる解明への過程の鮮やかさ。犯人が明らかになった時点での、それまでの伏線の妙味や、「家族」という共同体に向けられた社会派的な批判など、見るべきところの多い作品といえる。更にロジックと着地点の飛躍ぶりなど、心に残る点の多い作品であった。また既にアンソロジー収録されている『=Yの悲劇』『ABCD包囲網』の両作品も、そのベースとなった原典に対してみせたオマージュが効いた佳作である。

最後になるが、『中国…』に登場する作家のモデルは明らかに連城三紀彦。それはそれでいいとして「ミステリーと名付けると売れなくなる」という有名なエピソードまでそのままパクるのはちょっとどうかと思うな。

協会賞受賞という勲章付きの短編集ではあるが、その内実はこれまでの法月綸太郎作品の肩肘張らない延長上の作品が集まっている。 受賞は、結局これまでの業績によるもの、という意味もあるのだろう。いわゆる過去からの「推理小説」の延長上の渋さと、いわゆる「新本格」ムーヴメントの中心ともいえる論理の飛躍による面白さが共に備わった、大人が十分楽しめる本格ミステリとして、風格さえ感じられる一冊。


02/06/14
物集高音「大東京三十五区 冥都七事件」(祥伝社'01)

'99年に『血食 系図屋奔走セリ』講談社ノベルスにてデビュー(しかし何故かメフィスト賞にあらず)した物集氏。その二冊目は(失礼ながら意外にも)高橋克彦と京極夏彦の推薦辞を得たハードカバー。同社の『小説NON』誌に'99年から翌年にかけて不定期掲載された作品に書き下ろしを加えた連作短編集。

昭和六年。二十六歳の早稲田の学生ながら落ち着きがなく「ちょろ万」と綽名される阿閉万(あとじ・よろず)。彼は明治時代の花柳新聞などから奇妙な記事を探し出しては雑誌に持ち込むという副業を持っていた。彼の下宿の大家で、白き総髪、世捨て人の風格を持ちつつも存外にせこい間直瀬玄蕃(まなせ・げんば)が、安楽椅子探偵宜しくその奇妙な事件を解き明かす。
警官が新羅に巡邏中、血が流れるという伝説のある松の木を按摩が一生懸命揉んでいた。 『老松ヲ揉ムル按摩』
病院に降りかかる小石群。調べてみるが誰もそんな悪戯を行った形跡はない。 『天狗礫、雨リ来ル』
夜泣きをするという伝説のある石の近くを通りかかった二人組。その石が泣いていた。 『暗夜ニ咽ブ祟リ石』
明治時代に作られた見世物の「迷路」に入り込んだ花魁とスポンサー一行。花魁二人が迷路に消えた。 『花ノ堤ノ迷途ニテ』
小川にかかる橋が「落ちる」と予言する子供。彼が逃げ出すと同時に川が増水したのか、橋が落ちて子供を注意した男が川に落ちた。 『橋ヲ堕セル小サ子』
夜中に走っていた機関車の前に立ちふさがる花電車。運転手の急停車の後には、そんな形跡は全く残っていなかった。 『偽電車、イザ参ル』
東京三十五区誕生のお祭りの日。凧揚げ大会にて賑わう日比谷公園の上空に「凶」の文字が浮かんだという。 『天ニ凶、寿グベシ』以上七編による連作短編集。

安楽椅子「探偵小説」を「講談」でもって現代に蘇らせる趣向に、読者が合うか合わないか
最初の一ページを読んだ段階で「これは好みが人によって完璧に分かれるなぁ」と感じた。中身というより、その文体に、である。現代作品を読むのと同様に頭の中で光景を組み立てるような、じっくりとした読み方をすると、はっきり言って非常に読みづらい文章である。旧かな遣いこそないものの、昭和や明治の時代そのままの単語や、体言止めの多用、現代は使わない、ないし滅びかかっている言い回しがぽんぽんと出てくるのだ。この「ぽんぽん」というのがポイント。つまり本書の文章はリズム重視の「音読み」が前提なのだ。頭のなかで本書の文章を音読みして(口にいちいち出さなくてもいいからね)いくと、思い出すのは物語の年代に大衆娯楽として親しまれていた講談の存在である。というか、物集氏の独特の文体は、この講談のノリ、そしてリズムを得ることを目的としているようだ。
ミステリとしては『三番館のバーテン』形式とでもいえば良いのか。謎の隠居老人、玄蕃が阿閉が集めてきた資料をベースに、古い新聞に掲載された奇妙な出来事をまるで掌を指すかのように解き明かしていくもの。昭和六年と明治時代末期。数十年の時を隔てつつも、やっぱり奇妙な過去の事件。それも殺人や傷害といった血生臭いものでなく、人間の論理では説明のつけられない奇妙な現象が中心なのだ。ミステリ的にはちと弱いところも見受けられるが、『老松ヲ揉ムル按摩』における解決ロジック、『天狗礫、雨リ来ル』におけるその時代性とトリックとの結びつきなど、なかなかどうして小粋な作品も見受けられる。
ただ、本作の良さは、時代の雰囲気とトータルで捉えてこその味わいともいえる。受け止める側に多少のセンス(時代を楽しむ空想性と、独特の文体に対する適合性)を要求せざるを得ないところがちょっとだけ難しいか。

。 未だ縁無く物集氏のデビュー作もまだ読んでいない。ただ、ツボにはまった時のパワーはなかなかしっかりとしたセンスを感じさせる。京極、高橋の両氏が揃って推薦文を引き受けるあたりの理由は、読んだ後なら頷けるもの。二人とも、こういう作品好きそうだ。ただ、一般読者まで降りてきた時に、万人受けするかどうかは正直未知数。 現代読者が「読みにくい」、と切って捨ててしまう可能性を否定しきれない。


02/06/13
笠井 潔「オイディプス症候群」(光文社'02)

待望されて久しかった矢吹駆シリーズの長編第五弾。全作の『哲学者の密室』が刊行されたのが'92年のことになるので、十年ぶりのお目見えとなる。(とはいっても作中ではごく僅かしか時間が経過していない……)

アフリカの奥地にて発生したウイルス性の疾患は、性交や血液交換にて感染し長い潜伏期間の後、対象人物の免疫力を奪い死に至らせるという厄介な病だった。パストゥール研究所の若き学者、フランソワは現地駐在の女医の報告書を読んで現地へと至って治療の手伝いを行っていたが、事故からそのウイルスに感染、フランスに帰国していた。一方、フランソワの共同研究者である同じパストゥール研究所の主任研究員、マドックの研究室にて放火事件が発生、目撃証言を父親の部下のジャン=ポールから聞いたナディア・モガールはその犯人が駆の宿敵、ニコライ・イリイチではないかと疑う。旧知のフランソワを駆と共に見舞った彼女は、フランソワからギリシャのアテネに滞在するマドック博士に資料を手渡して欲しいと頼まれる。駆をイリイチのいるパリから離れさせようと、ナディアは駆と共にアテネに向かうが、目的のマドック博士は既にクレタ島へと移動していた。駆と別行動となった彼女は幼なじみの青年、コンスタンと再会、クレタ島の南部のスファキオン村へと共に移動し、博士がいるという牛首島へ渡ることを決める。村のホテルに滞在中、宿泊者の一人が崖から墜死する事故が発生した。ナディアはホテル滞在者数名、そしてある約束から別人を装う駆と共にミノタウロスの伝説のあるその島に渡る。彼女以外の八名はブルーム氏なる人物の招待状を受け取って応じたものだったが、そのブルーム氏はホテルにはいなかった。そして島は悪天候のなか、一人の死者を出し、交通手段を奪われて孤立。それはまた連続殺人の序曲でもあった……。

真意を念入り解体することを目的に作られた、端正、かつ装飾の多い「嵐の孤島連続殺人事件」
全てが収束し、本を閉じた後に思いつくのは新本格ムーヴメントの立て役者の一人、綾辻行人氏の十角館の殺人』との根底での類似性であろうか。作中で言及(暗示?)されているクリスティ作品よりも、笠井氏が意識したのは国産品のこちらではないか。特に最終的に解体した「孤島連続殺人」の意味合いにおいて両者は完全にコンセプトを共有している。つまり、『十角館』のアンチテーゼなどの提示ではなく、『十角館』を十二分に分析したうえで一度部品を解体し、そしてその骨格を一旦自らの「言葉」に返して、再び笠井氏が組み立てたものが本作である。伝統的な「嵐の孤島」のエスプリを集めて現代に産まれた綾辻作品は、ミステリの面白さが詰まったニッポンミステリにおける歴史においても道標的作品。やはり、現代ミステリとしての「嵐の孤島」を論ずるうえでは避けられないということではなかろうか。
その「交通の途絶した孤島における連続殺人」は、なぜ不利な状況を省みない犯人によって引き起こされるのか。容疑者が確実に限定されるなか、偶発以外の理由で犯人がそう行動すべき状態とはなんなのか。 本書の探偵小説的テーマは主にこの点に置かれている。そのテーマを追求する以上、物語は端正な「孤島連続殺人」としての条件を全て満たすことになった。
法月綸太郎氏がどこかで書いていたと思うのだが、矢吹駆シリーズでは、探偵小説的に愚直ともいえるストレートな類型的テーマを根本に置き、そのテーマを駆とナディアとの議論、つまりは現象学的問答によって再構築を行っているのだという。顔のない死体、見立て殺人、バラバラ殺人、そして密室と過去四作にて展開されてきたこの再構築の今回のターゲットは上記の通り「孤島の連続殺人」。過去において、国内外問わずそれこそ枚挙に暇がないほどに執筆されてきた作家にも読者にも魅力的なこのテーマは、やはり実際にその閉鎖的空間の内部に閉じこめられた末に駆とナディアの間で交わされる問答? の結果、明らかにされる。言葉だけ取り上げてもネタバレにはならないと思うので記しておくが、それは『特権的な死の夢想が「内側から」封じこめ』られているということ。さらに本作はそれ以上に「線引き」の概念等が加わり、この一段上の理論へと移っていく。この展開は目からウロコ。ずっと「孤島もの」を読むたびに実は目の前に転がっていた事実から、ポイントのみを抜き取っていくと、こうなっていくのか。この驚きは、優れたミステリ評論の醍醐味に近い。

ただ、内側への封じ込めという論理と、探偵小説的な意外性を両立させようとする余りに、多少筋書き上の無理が感じられることもまた事実。登場人物しかり、館の構造しかり。伏線が不親切というか、意外性を実現させるために隠しすぎているというか……。本格ミステリの基準で厳密にはかった場合は、ちょっとアンフェア寄りだろう。「嵐の孤島」ものとしての分析部分を壊すものではないが、「本格ミステリ」としてだけ評価した場合には、どこか後味が悪い。(私が単に伏線を読み落としている可能性もあるが……)
もう一点、館を彩るモチーフだけでなく、殺人やトリックの伏線、犯罪そのものの装飾にあたってのギリシャ神話への、あまりの傾倒もどうかと思う。「雰囲気作り」を越え、読者に煩雑な読み物を強要する結果になってしまっているようで気になった。「オイディプス」を題名に冠したことから「オイディプス王」だけならまだしも、その他ギリシャ神話への言及が多すぎるのは、教養もなく、神話に興味もない一般読者としてはかなり辛い。後半部に至っての、研究者並みに深い作中人物の知識をもっての行動にしても、かなりこじつけめいているように感じるのは私だけだろうか。
一方で、まだ世間に名を知られる前のエイズを作品のモチーフとして取り上げるだけでなく、テロリストたちが取引の小道具として冷酷に使用させている点には、構想の上手さもあるがその昏い側面に恐怖さえ覚える。黒幕の意外性もさることながら、この辺りに現実の社会との接点を持ち込むことで、リアリティと奇想との両側面からの物語の補強が成されているあたりは実にうまく、そして残酷である。

そのボリュームにも関わらず、中身が詰まったミステリ。 その中身となった諸条件がうまく自身の興味と重なるかどうかが本作を楽しめるかどうかのポイントとなろう。少なくとも駆やナディアにキャラ萌えだけでは、ついていくのは相当にキツイはず。本書を素晴らしいと思うにしろ、大したことがないと思うにしろ、年末以降にに「ベスト10」関係の投票を考えている方ならば、まず避けて通れない今年の本格シーンを代表する一冊。頑張って読もう。


02/06/12
殊能将之「樒/榁」(講談社ノベルス'02)

題名は「しきみ/むろ」と読む。講談社ノベルス20周年記念、メフィスト賞作家特別書き下ろし密室本の殊能版。清涼院流水氏が講談社ノベルスの限界に近く分厚い本を作ったのに対し、殊能氏は対抗してか、流通ルートに乗せるに際し限界に近く薄い本を目指したか。

「樒」 不慮の死を遂げた推理作家、鮎井郁介が遺した水城優臣シリーズの中編が発見された。その題名は『天狗の斧』……1985年、紅蓮荘事件にて四国の温泉旅館の娘、高見綾子と知り合った水城と鮎井は、彼女に招待され、香川県の飯七温泉へと向かう。途中、崇徳院にまつわる史跡を見学した後、休憩していた彼らは、天狗にまつわる伝説のあるという地元の天狗塚にて天狗が目撃された、と地元の人が噂しているのを耳にする。偶然出会ったアルバイトの青年、平山に連れられ、高見旅館に入る二人。祖父の骨董趣味とかで様々の貴重品が飾られたその旅館には、彼らの他に不動産会社社長と専務の二人、それに何やら調べものをしている若者の三人しか宿泊客はいなかった。ゴルフ場建設を目論むその社長のもとに届く怪文書、そしてその社長が閂のかかった部屋で死亡した。名探偵、水城の推理は?
「榁」 そして十数年後、飯七温泉に滞在した経験のある石動戯作が、かつての悪友、平山次郎を訪ねて飯七温泉を訪れる。鄙びた温泉街の面影は今やなく、「天狗原人」と呼ばれる遺跡で知られる観光地と化していた。高見旅館に宿泊した石動はやはり奇妙な事件と出くわす。

単なるトラベルミステリなのか、今後の作品への何らかの序曲なのか? 主題が謎という一冊
驚天動地の作品世界を送り出し続けるあの殊能将之の新作! と肩肘張って読み出すと少々腰砕けとなることは間違いない。『鏡の中は日曜日』にも登場する鮎井郁介の遺作として発表された名探偵・水城優臣ものの中編「天狗の斧」としてまとめられた「樒」というパート。(たぶん)架空 実際に発生した事件を描いたという設定の鮎井作品と、その十数年後に石動が登場して、作中と重なる世界を行動するというパターンは、『鏡の…』と同じ。その中で過去と現在に発生した同一の部屋における、同一の密室事件を取り上げ、異なる解決を付ける……というのが趣向といえば趣向か。
ただ両者とも確かに本格としては、それなりのレベルにはあるのだが、めちゃくちゃに驚いて感心できるレベルにあるとは言い難いのも事実。個人的には目撃された天狗の正体の謎の意外性に驚き、そして笑った。とはいえやっぱり、一読した限りでは何か特異な点を持つミステリにはちょっと見えない。この平凡に見せかけた裏に何か秘密があるのでは??? とかえって深読みを誘うのが殊能将之という作家のカリスマ性。とはいっても、旅情ミステリの新機軸という程の試みがあるわけでもないし……。驚天動地の密室トリックというわけでももちろん違う。うーーーーーむ。そうやって読者を悩ますのが狙いであれば、既に十分に成功していると思うけれど、それが本当に狙いとも思えないし……。いずれにせよ、恐るべし殊能将之。結局意図が何なのかさっぱり分からないぞ!

『鏡の…』におけるサプライズの一部を成した秘密の一部がネタバレとなっているため、少なくとも順番に読む必要はあるだろうし、本作だけを殊能将之だと思われるのもまたとんでもない誤解を招きかねない。いずれにしても、温泉殺人は吉村達也氏だけで十分市場への供給は足りていると思うのだけど。


02/06/11
鳥飼否宇「中空」(角川書店'01)

第21回横溝正史賞の優秀作品として刊行された。(この時の大賞受賞は川崎草志氏の『長い腕』)。鳥飼氏は本書刊行後も生物学的知識を駆使した独自のミステリ世界を切り拓いており、時を追うごとにファンを増やしつつあるように見受けられる。

大隅半島の奥地にある竹茂村では珍しい竹の花が咲くという。行商でこの村を定期的に訪れる旅庵という人物から村の話を聞いた植物専門の女性カメラマン、猫田夏海は、同席していた大学の先輩、鳶山と共に重い荷物を引きずって竹茂村へと赴いた。その名の通り竹林に囲まれ、一字姓ばかりの七世帯十二人から成ったその村では老荘思想を重んじた半自給自足の生活を行っており、二人は歓待される。村の内部の人間関係にどこか奇妙さを感じる夏海。また、到着直後に村で飼っていた猪がおもちゃの矢で射られる悪質ないたずら事件が起きていた。村人はその事件の犯人を、未成年の旺充という青年だと決めてかかっていたが、夏海はその点についても疑問を覚えた。夏海が快調に竹の花の撮影を続けているうちに、恵どんと呼ばれる男が「あいつに殺生を止めさせないといけん」と行って四本の竹を持って通り過ぎるのに遭遇。しかしその恵どんはその晩、自ら張ったと思しき結界の内部にて首のない死体となって発見された。彼の身体には矢が背中の木に突き刺さるほどに刺さっており、その首は刃物で一撃にて切られたような切断面を見せていた。村長の源隻は突如笑い出し、村の封鎖を宣言。「村のことは村で解決する」という村人たちによって、警察への連絡が為されないまま夏海と鳶山は閉鎖環境に置かれることとなってしまう。

新人らしからぬ構成の深謀遠慮。どこか手慣れた作風に風格漂う本格ミステリ
新人の作品にありがちな過剰な思い入れや熱っぽさのようなものが感じられない代わり、閉鎖世界や不可能殺人をバランス良く配置した、既にミステリ作品をいくつか発表した作家のような余裕に似たものがどこか感じられた。ちょっと調べたところによれば、鳥飼氏は別名義で既にライターとしての実績を積んでおり、読みやすい文章等はこのあたりからくるものかと思われる。
陸の孤島となる閉鎖的コミュニティにて発生する連続殺人事件――と書くと横溝作品を想起する方も多いだろうが、本書は横溝の呪縛からどこか突き抜けてしまった、独特の明るさに支配されている。陰惨な事件の割に沈鬱さ、陰鬱さが舞台になく、どこか「ルール」に従って生活するストイックな人々の、どちらかといえば静かでさばさばした反応が却って不気味。ある意味、横溝を冠にしたミステリ賞で、横溝風の設定を使いながら、横溝が創らなかった世界を描いている点に価値を見出すべきなのかもしれない。
奇妙な設定に奇妙な死体、奇妙な論理というのは現代のいわゆる新本格の常套手段。本書も竹で囲まれた少人数の村、死体の首は切断され、その首は猪罠にて中空にぶら下がる。徹底した老荘思想と、竹づくしのエピソード、そして秘められた村人たちの過去……。こういった伏線をバランス良く配置し、更にその真相を二転三転させていく。本格ミステリでは当たり前ともいえる手段ではあるが、デビュー作からきっちりと過不足なくやってのけているのは相応の実力があってのことだろう。作品の主題の統一とかも出来ているのだけれど、かえって瑕疵がない分「よく出来ている」以上のインパクトに欠ける……というのはこちらの望みすぎか。
但し、プロローグ等で描かれるバーでのウイスキーに関する会話は、あまりにも教科書的で嘘臭さが鼻につくのが、あくまで個人的趣味で厳しい採点ながら減点一。

たまたま横溝賞の大賞を逃した優秀作という形にて世に出たが、まっとうな本格ミステリに正面から挑戦しており、鮎川哲也賞やメフィスト賞といった系列ならばもっと高い評価を得られたのではないかと思われる。どこか「部分」が強烈に光るというインパクトはあまりないが、手堅く上質な本格ミステリ的作風は、不思議と心に残る。 本格ミステリファンであれば、チェックが必要な作家であることは間違いない。