MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


02/07/31
戸梶圭太「ギャングスター ドライブ」(幻冬舎'00)

'98年に『闇の楽園』にてデビューした戸梶氏の四冊目にあたる書き下ろし長編。まだこの段階ではこれほどの人気多作作家になるとは考えられなかったはずなのだが、受賞後、(恐らく)いち早く書き下ろし刊行を依頼していた幻冬舎は慧眼。

今年で二十六歳になるダンサー志望の敏子はおばの麗子に呼び出されていた。麗子は今年四十九になるが、今年四回目の結婚をしたばかりだった。相手は五十三歳の会社役員で彼女は強烈な上昇志向と自己中心的な考え方の持ち主。彼女の前の夫は脂ののりきった暴力団組長で、彼と麗子との間に生まれた娘、理沙は親権争いの結果、その組長の元にとどまっている。麗子はその娘を誘拐してきて欲しいと強引に敏子に迫る。娘と三人、海外で暮らしたいというおばの申し出はかなり無理があったが、お金が必要な事情を持つ敏子は結局引き受けてしまう。敏子が声を掛けたのは、幼なじみで車の運転が得意な海老島一生。一生は一生なりの事情を抱え、ヤバイと思いつつ敏子の申し入れを引き受けてしまう。彼らは車を借りて組長の別荘へ出発。散歩中の理沙を犬ごと拉致するのだが、車の運転に異常な情熱を燃やす薬師寺と、銃の腕前はピカ一の大藪春彦マニア、塚原の強烈な追撃に合う。一方、組長宅には「娘を預かった」という電話が入り、娘の声が電話口に聞こえてくる。実際に娘が誘拐されている組長は、身代金を用意しつつも、相手を返り討ちにする準備をまた進めた。片やドライビングバトル、片や身代金誘拐。この事件の真相は、そして結末は???

「ろくでなし」を書かせたら戸梶圭太の右に出る者なし。人間の屑による捨て身のバトルストーリー
暴力や威嚇にて他人を屈服させる暴力団の組長や構成員。自分の欲求を満たすことが、全てに優先する若者。自己顕示欲の固まりにして男遍歴の激しいおばはん。薬物、セックス、犯罪なんでもあり、享楽に溺れる道徳観念皆無の人々……。登場人物各人の「ろくでなし」ぶりに相当激しいデフォルメがされているのだけれど、こういうヤツら、いそうだよなぁ、いや実際にどこかにいるんだろうなぁ。――という特異なキャラクタ造形が、そのまま物語の構造の基礎となっている。 後の戸梶作品についてもいえるのだが、マニアックだったり、電波チックだったり、暴力的だったりというフツーの人間が表に出さない「秘密の特性」を戸梶氏は徹底して露出させる。 そして「事件」というスパイスを加えたうえで、彼ら同士が激しくぶつかりあったらどうなるか――が、そのままストーリーなのだ。
さすがに主人公二人の性格は多少他の登場人物よりも感情移入し易いようにか「抑えられた」印象もあるが、あくまでそれも比較論での話。だって、自分の夢のために非合法行動を引き受けてしまうのだから、結局は同類でしょ、やっぱり。
一般人によるヤクザの娘誘拐とそれに付随するバトル。その誘拐事件に乗じて悪魔的計画を練る若者たちによるバトルの二本立て。その両方の戦いにて彼らのキャラクタが遺憾なく発揮される。勧善懲悪でも生者必滅といった物語の一般的パターンに嵌らないまま「あれあれ?」と進むノリは天下一品。明るいノリので描かれる必殺のノワール。 改めて、戸梶圭太という作家は、個人がそのままオンリー・ジャンルだなと実感させられる。

それでも第四長編となる本作、既に完成されているようでいて、そのキャラクタを少し安易な形で使ってしまっているようにもみえる。近作ではこれらで培った強烈なキャラクタ造形を、工夫した状況に置くことによって物語が意外な拡がりを得ていることを考えると、常に完成形でありながら常に現在進行形なのかも。戸梶圭太。読めば読むほど嵌る。困る。


02/07/30
田中啓文「ベルゼブブ」(トクマノベルス'01)

最近はプレイステーション2用ゲームソフト、『かまいたちの夜2』のシナリオを我孫子武丸氏、牧野修氏らと手がけたことにより一歩一歩メジャーな作家への道を独自のルートによって開拓しつつある田中氏。氏がミレニアム構想を持ちながら執筆に時間がかかったため刊行が2001年へとずれ込んだという大作書き下ろし長編ホラー作品。

中東の発掘調査を行う日本人学者と学生による調査隊。そのなかでもさえない風貌から学生からもバカにされる蛭川は、最初の妻が彼との退屈な暮らしに飽きて一人娘を残して逃げた後、わざわざ迎えた若い後妻が浪費家で苦しんでいた。彼の唯一の楽しみだった娘の成長も、交通事故死にてあっけなく幕切れとなった。後妻は保険金を使い尽くし、若手教授の狩野と公然と浮気を開始。蛭川の研究を妻の手引きによって横取りした狩野は学会で地位を確立、調査団長となって蛭川を苦しめた。蛭川は他のメンバーが見捨てた〈虫の間〉を熱心に発掘、妄執じみた直感から封印された壷を掘り当てる。その発掘品を小馬鹿にした若い吉崎を蛭川は惨殺、続いて他のメンバーを全て殺して回った蛭川の周囲には、彼の偉業を称えるかのように蠅が三匹飛び回っていた……。
日本。平凡な女子高生、瀬美はアイドルグループのTICCAのメンバー、ショウと極秘裏に交際していた。狂的な昆虫学者夫婦を親に持っていた彼女だったが、その経験から大の虫嫌い。その両親も自宅火災で死亡、今は保険金を虎視眈々と狙う叔母との二人暮らし。スケジュールからなかなか会えないショウを思い自慰にふけるうちに、毎晩、絶妙の快楽をもたらしてくれる夢魔がやってくるようになった。
小学校二年生のいじめられっ子、オサマルは塾の帰りに友達から無理矢理”ヒギ”に参加するよう強制される。彼はその途中、彼の母親を知るという不気味な老人と出会っていた。〈虫の王〉を呼び出すヒギの結果、オサマルの口の中にスカラベと呼ばれる虫が糞の固まりを押し込んできた。そしてオサマルは不思議な力を手に入れる。

強烈にして悪辣、邪悪にして兇悪。啓文節満開!
ゴキブリを見ただけで身体がすくむ……という人は女性を中心に意外と多い。蟻の巣、蜂の巣箱、蚊柱等、一匹ではなんということもない虫も、多数集まっているとそれほど虫に抵抗のない私でも、なんとなく生理的な怖さを感じる。そんな、虫に対する人間心理の奥底に潜む根元的恐怖を煽るエピソードが満載。 題名が示す通り、ベルゼブブとはいわゆる蝿の王。虫がダメ、という人は鳥肌なしに本書は読めないだろう。(というか、そんな人には読み通せないと思う)。
これに田中氏ならではの人間の邪悪な部分の描写が絡む。人間に「完璧な」者など過去未来人種性別問わず、一人として存在しない。いくら善性が人格の多くを占めていようとも、心の片隅には邪な欲望を飼っているもの。人によっては善性などカケラくらいしか持たず、狂的、病的な欲望が人格の多くを占めているケースもあるだろう。本書はそんな人間の持つ「邪性」をぷちぷちと刺激する。 本来、無機質な存在である虫に人間の邪悪さを振りかけることで、その行動様式や存在そのものに対して恐怖というイメージを与えることに成功している。大量の虫が醸し出す不気味さと人間の邪悪な心を結びつけ、伝奇的な世界観を織り込むことによって創られる一大田中ワールド。 大変困ったことに……完成度が高い。夢に見そう。
一口でいえば、虫を核とする邪悪な意志が人間世界を浸食する物語。彼らに対する非力な対抗勢力が絡むことで、物語は一気にカタルシスに陥ることなく推移する。救う側の壊れ方、壊され方も凄まじく人間の尊厳はカケラもなく踏み躙られる。虫を愛する夫婦研究者とその娘(主人公だ)の親子関係の破綻、悪魔崇拝者のサバトの生々しい残虐絵図、虫に魂を奪われた者が実行する具体的な描写を伴う虐殺の数々。血と肉片がこれでもかというばかりに飛び交う描写の数々。この世の闇と人間の心の闇をここまで徹底的に描写する田中氏の筆力は、強烈な衝撃を読者に与える。こっそりと使われている地口にニヤリと笑う暇もなく訪れる破壊と狂騒の繰り返し。登場人物は善悪問わず悲壮な最期を遂げていく。特に冒頭近く、呪われた赤ん坊を救いにきたキリスト教関係者が陥る地獄は悲惨すぎて爽快感さえ伴っている。ああ、救いがねぇ。でもこれが田中啓文

虫に関して怖い思いをした作品はホラー短編や漫画等、いくつも存在するのだが、これまでの経験を押しのける存在感は別格かも。大作長編一本まるまる徹底して虫にこだわったうえ、なまじ長いだけに濃厚なエピソードがいくつも繰り返される。毒々しく禍々しい世界に酔い(悪酔いかも)したい方へ……。


02/07/29
属 十三「後楽園ジャック」(集英社'77)

名前の聞き慣れない作家だと思われるかもしれない。「さっかじゅうぞう」。本書が最初の作品となる複数プロ作家による創作ユニットである。この回は、勝目梓、平忠夫(後の平竜生)、長谷川敬、藤田健三、麗羅という布陣。ただし、藤田健三なる人物が誰なのかよく分からない。

大使館員の息子という境遇にありながら学生運動で主導者的役割を果たした後に地下に潜伏していた醍醐は、サタン環礁における原子力実験を凍結するという目的を持ったテロ集団〈太平洋の子〉を一年がかりで組織した。元自衛隊員、学生運動家、爆弾マニアらを擁したその集団は、デモンストレーションで長崎の端島、北海道の炭坑と二カ所で大規模な爆発を発生させ、政府に対して脅迫を行う。優勝のかかった最終戦、東京マンモスズと大阪ジャガースとのプロ野球の一戦で盛り上がる後楽園球場にも同様に爆弾を仕掛けたというのだ。要求は日本銀行にある一億ドルの現金。野球の進行が不自然になったら爆弾を爆発させるという〈太平洋の子〉に対し、政府は彼らの正体をつかむことができず、パニックを避けるため現金の準備を開始せざるを得ない。ただその途中で一味を捕らえるタイミングを図る計画。そんな政府の動きもお見通しの醍醐の思惑通りに計画は進行しつつあったが、その〈太平洋の子〉内部では醍醐に対する裏切りの計画がまた進行しつつあった。

いかにも「七十年代!」を感じさせるコン・ゲーム・エンターテインメント
球場での観戦客を人質に一億ドルを強奪! という発端のアイデアは素晴らしい。
金持ちや銀行からではなく、政府から金をもぎ取るという発想も素晴らしい。
そのために専門技能を持った人物をスカウトして、理想的なチームを作って……という展開もまた良し。
だけど、学生運動から端を発した流れで特定の理想思想を持った団体(今なら○リーン○ースとか)が、その彼らが崇高と考えている目的のために行動を開始した……という当時のリアリティを尊重したであろう設定は、今となってはどうかな? とも思える。この設定は読者の感情移入を得ることが出来たのか。いくら綺麗事を並べても、結局のところこの計画は理想論を唱える一部の人間の欲求を満たすために行われるテロでしかない。今となっては恐らくかえって反感さえ覚える方もいるかもしれない(というか、私がそう)。なので、作品内で裏切りをするメンバーや、あくまで金のためと割り切って参加しているメンバーに対しての方が素直に共鳴できたりした側面がある。このようなコン・ゲーム小説は男の全人生を賭けた悲壮な決意は似合わない。あくまで「ゲーム」として、強大な相手を翻弄するから面白いのではないか。
「東京ドームではなく後楽園球場」「最新の乗り物としてのモノレール」「成田空港でなくて羽田空港」……といったあたりの時代のギャップはここまで中途半端に時が経過していてかえって面白い。また、一つ一つのエピソード、ラジコン飛行機や、狂言誘拐、更にプロ野球チームの(あまり意味のない)サボタージュなど、完璧なB級テイストが溢れており、そちらもまた魅力。これは凄い発想だ! という個々の作戦の奇想は実はあまりないのが作品のポイントでもあり、欠点でもある。しかし監督と審判が結託して試合を引き延ばそうとするという考えはとにかく、優勝のかかった人気チーム(モデルは巨人−阪神)の最終戦でそんなことやったら完璧に観客が暴動起こすね。爆弾の被害よりもそっちで起きるパニックの方が遙かに甚大な気がするのだけれど。
あとがきを読む限り「議論白熱」で「アイデアが噴出」して整理に困った……といったことが書いてあるのだが、文章はとにかく、アイデアそのものは大枠を除くとどうも小粒な気がしないでもない。(それが上述のB級っぽさに繋がる) 捜査にあたる警察の方も、大規模事件の対応にしてはかなりお間抜けに扱われるし、一部メンバーが複数殺人を犯した犯罪グループに対する取り組みとしては、めちゃくちゃ甘い不自然さ。全体として一気に読めるのだけれど、いくつもの「?」が頭の片隅に残る。作者の一人がそういったことを気にしても、恐らく合作ゆえに完璧さに対する追求レベルが統一出来なかったのか。もう一冊くらいは捜して読んでみたい気もするが。

今となってはそうそう手に入れて読める作品でもないし、文庫にもなっていない。(権利化が難しかったか?)なのでこういったゲーム的設定がお好きな方や「属十三」というユニットそのものに興味がある方にはオススメ。逆に興味のない方に無理に薦められるほど価値のある作品ではないかと思う。


02/07/28
北森 鴻「狐罠」(講談社'97)

北森作品は全読破を目標にしているのになぜか機会を逸して手に取れていなかった作品。今年、同じ主人公が登場する『狐闇』という作品が出たので慌てて積ん読を掘り起こした次第。氏の骨董世界を主題にした他の作品に『孔雀狂想曲』があるが、そちらは連作短編集という形式の他に、店舗を持っている持っていないの違いがある。

大英博物館の凄腕キューレーターとして勤務していたホソノ・シンイチは日本から送られてきた高麗象嵌青磁に目を奪われ、婚約していた恋人とも別れて日本へ帰国する――。
東都芸術大学で美術を学び、旗師と呼ばれる店を持たない骨董屋、「冬狐堂」を経営する佐久間陶子はかつて恩師で美術品の大家である「D」と結婚していたものの、その「美」への飽くなき追求に違和感を覚え二年で離婚していた。彼女はその若さと目利きの確かさによって業界で着実に地歩を固めつつあった。そんな彼女の元に老舗「橘薫堂」の主人、橘が電話を掛けてくる。発掘ものと呼ばれる唐様切子紺碧椀があるという。彼女の目をしても本物と見えたその陶器は、自宅に持ち帰って確認したところ精巧な贋作であった。贋作を売りつけられても、表立って抗議できないこの業界、「目利き殺し」と呼ばれる仕掛けに嵌められたことに彼女は気付く。折しも現れた美術品専門の保険屋、鄭富健に煽られたこともあって逆に「橘薫堂」に目利き殺しを仕掛けることを決意、教授「D」の伝手を辿って、贋作造りの名人と再会する。一方、「橘薫堂」では遣り手外商員だった田倉俊子が刺殺体で発見される事件が発生。根岸と四阿の二人の刑事が事件の謎に迫るが、骨董業界特有の厚い壁に阻まれて思うように捜査は進まない。田倉俊子が所有していたメモから、なぜか佐久間陶子もまた重要参考人として名前が挙げられる。

プロットの妙味、業界の妙味。本格に淫せず、ハードボイルドに逃げず。ジャンルの境界に屹立する骨董エンターテインメント
この世界、何か馴染みがあるなぁ……と思ったら、結局「開運なんでも鑑定団」と近しい世界を描いているからか。とはいっても、単なる「鑑定団」の裏側お見せします……という安易な発想によるものではない。骨董業界という魑魅魍魎がはびこり、金と欲が絡まる業界の瞞し瞞されという世界をきっちりコン・ゲーム風の展開で描き、かつ北森氏の創作のコアともいえる本格ミステリ的な枠組みにて覆うという優れもの。 二重三重に凝らされたプロットと、ページをめくる手が止められない展開の絶妙なバランス。今や推理作家協会賞を受賞し、本格ミステリファンからは既に一連の作品にて高い評価を得ている北森鴻氏が大化けしたのはこの作品からだったのか。
佐久間陶子に関わるエピソードのサイドには骨董業界の知られざる世界、特殊性、そして凄まじさを描く語りが詰まっている。目利き殺しを仕掛けられた過程、相手を仕掛けによって瞞す快感、贋作の世界を追求してく過程(材料やその工程)の執念、店対店、店対客のありとあらゆるエピソード等々、意地悪な言い方をすれば情報小説的な面白さでもある。そしてその世界ならではで成立するストーリーがまたいい感じで進む。気っ風のいい佐久間陶子という主人公に溢れる魅力が、その世界を明るく描くことに役立っている。どちらかといえばハードボイルド系統の展開になりそうでいて、過剰にそちらに傾かないよう抑えている物語づくりがまた巧い。
一方ではいわゆる「謎解き」の要素も詰まっている。田倉俊子殺しから過去にあった関係者の起こした事件に繋がる……というのは本格ミステリではよく見られる展開。果たして表舞台からは見えない殺人者は誰なのか。誰がどのような動機で殺人を犯したのか。根岸と四阿という二人の捜査手法や、発想方法がまた面白く、本格ミステリ的手法をもまた存分に用いられている。その結果そのものは驚くべき……というほどではないのもまぁ事実ではあるが(関係者が少ないため)、終盤にその「絵」は二転三転させられ、このあたりは鮎川哲也賞受賞者の面目躍如。 また、二人の刑事によって黒幕が捕まえられるシーンには、思わず手放しの喝采を与えたくなるほどの快感に満ちている。

少なからぬボリュームに圧倒される向きもあるかもしれないが、そのボリュームは中身の豊富さの現れであり、決して水増しされたものではない。 骨董業界の専門用語は出来る平易な言葉に置き換えられて、かなり抑えられており、その面白さのエッセンスだけを読者はつまみ食いすることができるのもまた良し。もちろん、物語展開のテンポの良さもまた一級。正直、評価を下げる部分が見つけられなかった。名作の多い北森作品のうちでも、長編では代表作に挙げることに異論なし。
この佐久間陶子、確か氏の別の作品にも登場していたように記憶しているのだが、ちょっとそれが何だったのかすぐに思い出せない。ああ、喉もとまで出かかっているんだけれど……。


02/07/27
辻 真先「SLブーム殺人事件」(ソノラマ文庫'79)

ソノラマ文庫の緑背時代に刊行された辻氏のジュヴナイル本格ミステリのうち一作。『仮題・中学』『盗作・高校』『改訂・受験』の三部作が有名だが、本作もその流れを汲んだ、スーパーことキリコと、ポテトこと薩次の二人のコンビが活躍する同一シリーズの系譜に連なる作品。

W大学にすんなり入学した薩次と対照的に、体力知力知識美貌スタイル共々に優れ「スーパー」と綽名されるキリコは、普通の受験勉強嫌いが災いして今は浪人生の身。そんな折り、時代の流れと共に姿を消したSLが、山口県の一支線にて復活するというSLブームが発生。たまたま総選挙の手伝いを、原稿作成ブレーンとして抜擢された日刊タブロイド紙の記者で、キリコの兄の克郎が山口県に赴くと知り、キリコと薩次は見物よろしく克郎を頼って山口県に向かう。克郎が手伝うことになったのは保守系の大物、国見氏、そしてその相手と目されるのが地元成金の重金氏だった。行きしなの新幹線で重金の息子と知り合ったキリコらは、好む好まざるに関わらず両陣営の選挙戦の裏側が見えてきてしまう。そんな両陣営に「出馬を取り消さなければ身内を殺す」と新聞の切り抜きで書かれた脅迫状が同時期に届く。悪戯と高をくくっていたところ、よもやの犠牲者が出てきてしまった。

二十年以上前、そしてジュヴナイルになんでこんなセンスのある○○○○ネタミステリが存在しているのだろう?
一旦全て廃止が決定したSLが、暫くしてから観光資源として各地で蘇った……というのは今となっては当たり前? というかそれほど奇異な印象を受ける話ではない。実際、ミステリの世界においてもその観光用のSL列車を題材にした作品は、旅情系を中心に枚挙に暇がない。ただ当時はそれなりのインパクトがあったのだろう。鉄道マニアでも知られる辻氏が、このような形で取り上げることも分からないでもない。ただ、最初に言っておくとミステリとしての本筋と、このSL復活という事象とが密接にリンクしているとは言い難い。強引とも思える作中作にて繋げられてはいるものの、その作中作の雰囲気はとにかくとして出来がそれほどたいしたことないので特にそう感じるのかもしれない。
ただ、それらを離れたミステリとしての骨組みは秀逸。文句なし。 二大陣営の選挙戦を舞台に、ロミオとジュリエットよろしく愛し合う恋人たち、選挙中心の両親、その両親に放任される子供ら、血気溢れる「選挙」という状況下が織りなす人間模様。そんななかに発生する謎の脅迫状、密室殺人や消えた死体、不可能犯罪のてんこ盛り。 怪しい登場人物までもしっかり配置した後に訪れる、意外な動機に意外な犯行方法による締めくくり。圧巻はこの設定で「交換殺人」ネタを敢えて持ち込んだところか。トリックメイカーとしての辻氏の存在を強く感じさせてくれる。更に読者層がオトナでなく、青少年であることを考えると、この真相は深い共感を呼び起こすのではないか。逆にジュヴナイルだからこそ活きるトリックでもある。またシリーズ途中作品を読んでいないので中途半端なコメントになるのだが、薩次とキリコ、二人の関係なんかもサイドストーリーとして、そこはかとない良さがある。この時代の健全な男女交際はこうだったんだろうねぇ。(赤面)

緑背のソノラマ文庫、未だにいくつか捜している作品はあるのだが、背表紙の上方に「推理」だとか「SF」だとか書かれているバージョンは、緑背でも比較的後期作品だということもあって、あまりこれまで巡り会ってもスルーしてきた。そして今、それが悔やまれる。この時代のジュヴナイル、私の場合リアルタイムで読むには少し後の世代になることもあってチェックが甘かった。辻氏が凄いのか、この時代のジュヴナイルミステリがどんなだったのか。これから時間が掛かったとしても検証していきたいところ。


02/07/26
大沢在昌「毒猿 新宿鮫II」(カッパノベルス'91)

何を今更、と声が聞こえてきそうだが。読み返したくなったので手に取った大沢在昌の大人気シリーズ「新宿鮫」の二冊目。(最近の数冊がまだ未読なので、どうせならシリーズを読み返そうとしているのだけれど、なかなか進みませんな) もちろん刊行時に読んでいるのだが、もうあれから十年が経過したのか……(遠い目)。本書を原作としたテレビドラマで、メジャーになる前の本上まなみが奈美役を演じていたのが何故か印象に残っている。(と、どうでもいい前振り)。

シンナー密売を路上で行う売人を長期間にわたる張り込みの末に逮捕すること鮫島。しかし、その元締めは突然現れた外国人に刺されて死亡する。さらに鮫島は台湾人が中心となって実施される違法麻雀現場の監視の手伝いに出向き、同じくキャリアながら冷や飯を食わされている国際畑の荒木という警視と出会う。その監視カメラに写された一人の男の隙の無さに鮫島は注目する。恋人の晶とのデートの最中、鮫島はその男を目撃、しかも怪しい若者に後をつけられているように見えた。晶を置いて二人を追った鮫島は、男がナイフを取り出した若者を素手で返り討ちにするのを目撃する。男は郭という名の台湾の刑事で、休暇を取ってある男を追って日本に来ていたのだ。ある男とは「毒猿」と呼ばれる謎の暗殺者。毒猿は自分を裏切った台湾暗黒社会の大物を追って、来日して歌舞伎町に潜伏しているのだという。「毒猿」の正体は誰にも分からないのだが、郭は軍隊特殊部隊時代の同期が、その「毒猿」ではないかと疑っていた。

ストーリーを全部知っていても、やっぱりスゴイ、この迫力、そして痛烈な哀切感
前作にてハードボイルドミステリの新機軸を打ち出して、世の喝采を浴びた大沢氏。第二作にぶつかるに当たって選んだのは、冒険小説、特に肉弾系の正統派ともいえる「強敵とのサシの戦い」。ただ、本作おける魅力は、前作創り上げた鮫島の遙かに上を行く強烈な個性を放つダーティ・ヒーロー「毒猿」の造型によるもの、そして上記の梗概では触れなかったが日本史の暗部の落とし子、奈美という悲劇のヒロインの存在によるものだろう。これらもまた読んでいくうえでの興味にあたるので彼らのプロフィールについてはここでは述べない。ただ台湾、日本という国家の枠組みのなか、形式的にしか国家の庇護がない弱者として生まれてきた彼らが、生き抜いていくために我が身を我が心を切り売りしなければならない現実は、平和ボケした日本人誰もの心を鋭く突き刺す。 これまでの人生で受けた深い傷を隠しつつ裏街道でしか生きることの出来ない彼と彼女がお互いに惹かれ合って行く様子には深い哀しさが満ちている。さらに物語は、彼らにどうしてそこまで更に苛烈な運命を課せることができるのか……。
一方で、鮫島を中心とした日本警察サイドから語られるストーリー、こちらは中盤以降、「毒猿」の復讐行の一歩後を追い続ける物語となる。この間に物語の裏側にて繰り広げられている、一旦戦闘モードと化した「毒猿」の強靱な戦闘能力の凄まじさ。「毒猿」はその能力をもって、日本の暴力団や台湾ギャングのボディガードを軽々と「虐殺」していく。ただこれら暴力組織の暗黒面が鮫島の考え方との比較によって強調されているため、それら暴力シーンに不思議な爽快感を伴う。心ない表現だが、彼らが皆殺し・半殺しになっても「いい気味」と思わされてしまう部分があるのだ。変形した勧善懲悪の図式なのか。
ただ反面、鮫島と郭の友情だとか、鮫島と「毒猿」との対決だとかは、毒猿と奈美とのキャラクタに喰われてしまって作者が企図したほどの印象は読者に残せていないきらいもある。ただ、本来メインストーリーであるそちらが目立たないことで、かえって本作が傑作へと昇華したという見方も出来よう。

昔の「このミス」を読み返していたら匿名座談会にて、前作の『新宿鮫』にて、それまでの初版作家からの大ブレイクを果たした大沢在昌氏に対して実は「奥さんが執筆した」という揶揄のコメントがあり、それに発奮して本書を著した……という冗談が本人から出ていた。しかし本作をして「どうだ!」と仁王立ちされていたら、「恐れ入りました」というしかないではないか。 冒険小説・ハードボイルド・警察小説として高い完成度を誇る作品。この系統に興味があって、まだ本書が未読ならば迷わず手に取る必要あり。


02/07/25
樋口有介「11月そして12月」(中央公論社C☆NOVELS'97)

樋口氏の十冊目の単行本で、新潮社より'95年に刊行された非ミステリ作品のノベルス化。しかしなぜにC☆NOVELS? 新潮文庫入りはない、ということなのかな。

高校を中退し、大検で大学入学するも二年で再び中退した二十二歳の柿郎(しろう)。東京の生物をテーマに趣味とも仕事ともつかない写真を撮影して歩く彼は、高田馬場の公園で犬を散歩につれてきていた山口明夜という女性と出会う。彼女は近所のペットショップでアルバイトをしており、柿郎に犬を飼わないかと薦める。彼女に心惹かれた柿郎は、その帰り道、駅で姉貴と偶然に出会い飲みに行くことになる。二十七歳になる姉は高橋なる妻子持ちの男と不倫関係にあり、その高橋の奥さんが双子を産んだことに激昂していた。酔っぱらった姉貴は死ぬだの、奥さんと話しをつけてこいと柿郎に愚痴る。翌朝、宿酔いの頭を抱えた柿郎は今度は母に捕まる。カルチャーセンター通いが生き甲斐の母は、突如舞い込んだ父の不倫を告発する手紙に動揺していた。会社での部下との関係について父は「悪戯だ」と一笑に付したらしいが、母は柿郎に相手を確かめて来いと命ずる。相手の住所に出かけ、その女性と会談を果たし、帰ってきた柿郎を待っていたのは二週間分の睡眠薬を飲んで姉貴が自殺を図ったという報せだった。幸い命には別状がないという。

どこにでもある家族の、どこにでもいる若者の、どこにもない行動と、そして決断と
透明感、と表現したら良いのか。主人公の柿郎は決して格好良くなく(かといって不細工でもなく)、気の利いた台詞は口をついて出るけれど、自信の裏付けはなく、思い切りが良いのか悪いのか分からない。家族の身勝手な意見に翻弄されつつも、実は家族一人一人のことを一番真剣に考えている。体験する恋においても相手のことを真剣に考えてやれる優しさを持つ。誰もがどこか彼と重なる要素を持っているため、物語に奇妙な感情移入が伴う。 そんな彼が、様々な傷つけられ方をし、落ち込みつつもそれでも前向きに生きていく。アクの少ない人物でありながら、どこか心の奥底で深い共感を覚え、しかも若かりし頃の自分と重ね合わせてしまう。
さらに樋口氏の淡淡とした物語造りが作品の不思議さを引き出している。いわゆるラッキーな要素とアンラッキーな要素を公平に? 主人公に振りかける。実際の人生、ラッキーばかりでもアンラッキーばかりでもない。そんな達観を持った作者が、主人公に対しても同じだけの幸福と試練を与えている……といった感。 ヒロインの山口明夜の造型の深さ。街中で偶然知り合った魅力的な女の子が抱え、表に出ない深い悩みや、不倫中の姉の論理や、父親の論理。常識と自己愛の狭間で、柿郎に都合良く助けを求める「オトナ」たち。柿郎の素直さが、彼らに対する救いとなっていることもまた間違いない。そういった接着剤としての役割、犠牲的な役割を自覚せずとも果たす柿郎は、主人公なのに主人公らしさを持たない不思議な存在。 作者は物語の筋書きそのものよりも、彼のような「存在」を「彼の視点」で作者が描きたかったのではないか、という気がする。

誰のために書かれた青春小説なのだろう? 柿郎と同じ年頃の男女が読むというよりも、周辺人物、例えば姉(二十六歳)や父親(六十歳近く)らと似た悩みを抱えた同年代の人々が、柿郎に心癒されるために読むのが適切な気がする。樋口作品にありがちな軽さは、心地よさと切なさを同時に発揮することが多いように思うのだが、本作は人生の辛酸を軽めに打ち出してきた、という印象。


02/07/24
歌野晶午「館という名の楽園で」(祥伝社400円文庫'02)

第三期と呼べば良いのだろうか。今年で三回目を迎える祥伝社400円文庫のうち「”館”ミステリー」と題された二冊のうちの一冊。もう一つは柄刀一氏『殺意は幽霊館から』。ちなみに歌野氏は鯨統一郎氏と共に400円文庫2度目の登場ということになる。

N大ミステリ研のOBが四人は北関東の端に位置するS市へとやってきた。同じくOBの冬木が、長年の夢であった三星館と名付けられた洋館を建築、その披露の小宴を催すという招待状を受け取ったのだ。高級リムジンに出迎えられた彼らは久々の再会を喜ぶ暇もなく、一介の勤め人であった冬木がなぜ館なぞ、という疑問を抱えたまま三星館に到着する。執事にメイド、料理人まで揃った見事な「館」には、正装した冬木が、車椅子に乗った妻と共に彼らを迎え入れる。「奇妙な殺人事件は、奇妙な構造の館で起こるのが定説です」 冬木は四人の招待客に殺人トリックゲームを提案する。それぞれが犯人、被害者、探偵役に分かれて演技をするというものだ。その「遊び」を了解した彼らは、冬木の語る、百数十年前にこの館にまつわっていた奇妙な事件とその噂について耳を傾ける。そしていよいよゲームはスタートした。

デビュー直後の歌野晶午が帰ってきた? 館にまつわる凝った仕掛けとそしてもう一つ……
最近ミステリを読み始めた読者にとってはイメージしづらいかもしれない。現在は本格・非本格共々手堅い作品を数多く発表している歌野氏は、島田荘司氏推挽によるデビュー直後はかなりひどく批判されていた。新人作家叩き、新本格ミステリ叩きといった当時のミステリ界(特に評論サイド)の様相が前提として存在していたのは勿論なのだが、実際、稚拙な文章、トリックのための強引で不自然なトリック……等々、当時ミステリ初心者の私にしても「うーむ、叩かれても仕方ないかも」と思わせる部分も確かに存在した。特に初期三部作のうち『長い家の殺人』『白い家の殺人』あたりは私レベルの読み手であってもきつかった記憶がある。(ちなみに『動く家の殺人』以降は急速に実力を付けた感あり、歌野氏の評価は急上昇していくのだが)
さて、本作、文章こそ現在は作家としてのキャリア十分の歌野晶午の手によるもの、まったく問題はない。引っかかりなしにすらすらと読める。ただ使用されているトリックと、ラストのまとめ方にかつての初期歌野作品が持っていた特徴がダブってみえて仕方がなかった
一つは強引、かつヒントの多すぎる物理的トリック。自己パロディ? とさえ思える壮麗な「館」の存在。特に同じ館ものということで初期三部作にも似た伏線の張り方があったことが思い起こされた。しかも読者へのヒント過剰がまた最近の歌野氏らしくない。結局、トリックがみえみえのまま物語を読まされることになってしまった。
そしてもう一つ、独特の後味の悪さが本書の特徴。強引なトリックの方は、は本格ミステリとしての評価を下げざるを得ないのだが、こちらの後味については好きずきか。歌野氏には『正月十一日、鏡殺し』という短編集があるのだが、そこでみられた救いのない結末群を思わず思い出した。ミステリを無理にハッピーに持ち込む必要はないし、本作に「より強いリアル」を付加させるために必要だったのだろう。逆に淡淡とこのような結末を持って来られるのが歌野氏らしさでもある。最近の作品群を眺めると、特異な場面設定や叙述方法などトリックの独創性に磨きがかかっているのだけれど、やはり歌野氏の原点は、こういったトリックと作品構成にあるのかもしれない。

ただ、館の主人の存在は、本格ミステリファンにとってはツボかも。自ら怪しい洋館の主人となって事件をプロデュースしてみたい、という些か子供じみた欲求を簡単には笑い飛ばせない自分もいる。……機会があればやってみたい気がしないでもないしな……。 物語そのものは中編でちょうど良い内容。400円文庫向きで、その価値を大きく超過はしないもののそれだけの価値はある作品。


02/07/23
小林泰三「海を見る人」(ハヤカワSFシリーズ Jコレクション'02)

小林氏は、第2回日本ホラー小説大賞短編賞を『玩具修理者』にて受賞しデビュー。その出自故、ホラー小説畑と見られていたが、ご本人の表現したいジャンルは寧ろSFに近いサイド(しかもハードSF)にあることを最近繰り返し表明されている。本書の表題作品は、'98年SFマガジン読者賞を受賞。本書そのものは氏の初のSF作品集となる。

円筒形世界のなかを羊を連れて移動する一族。目的地に近づくにつれて発生する様々な事象に族長の少年は判断に戸惑いをみせる。 『時計の中のレンズ』
限られた宇宙船燃料を巡って宇宙に浮かびつつ争いを続けてきた民主連邦と第一帝国。総統が統べる第一帝国で少女が冒険をはじめた。 『独裁者の掟』
空賊が荒らした跡の「飛び地」を宇宙船を駆って燃料や物資を漁る『落穂拾い』。カムロギらはある飛び地で事故に遭い、その無人の村に暫く腰を落ち着けることにした。 『天獄と地国』
恒星間飛行に伴う冷凍催眠の間、人々は合同の仮想現実の世界に住むことにより自己を保っていた。その世界のなかに異変が起きつつあると探偵は調査を命ぜられる。 『キャッシュ』
純一郎君はお母さんに送り出されて宇宙に遊びに出かけました。お母さんに新しい発見をもたらすためです。純一郎君は奇妙な現象を発見してそこに近づいていきました。 『母と子と渦を旋る冒険』
山の世界と海の世界は繋がっていたが時間の流れが異なっていた。海から遊びに来た少女と山に住む少年の美しく切ない恋物語。 『海を見る人』
「門」と呼ばれる存在に最も近いコロニーには百人余りの人々が大姉という女性の指導の元に暮らす。そこへ「門」を破壊するための宇宙戦艦がやってきた。 『門』以上、七編。

これがハードSFを指向する作家、小林泰三の本質? (ちょいと私にゃ難しい)
私の読書経験は、特にSFのケースでは特定作家に偏る傾向が正直あって全般的、体系的な読書を行っていない。更に日常的に最先端の科学的知識・思考・実験・現象等々に触れることもない暮らしを送っているし、それに対して自らの知識を積み上げていこうという意識なぞハナからない。(仕事柄、材料系だけは多少詳しいけれど) そんな身にとっては本作のようなハードSFを「ぽん」と手に取ると作品から物語を読み取る以前に、戸惑いに近いものが先に立ってしまう。 ……何気なく使用されている単語の意味、物語に関わる描写の意味、登場人物が話している会話の意味に「不明」が多いのだ。恐らくSF系専門の方が、例えば専門用語が駆使される金融ミステリなんかを手に取った場合に覚えるかもしれない戸惑いとかにちょっと似ているのかも。従って以下の私の読みが正しいのか、全く自信がないと先に告白しておこう。
それぞれの作品には独特の世界設定がなされている。そしてその世界設定を単なる奇想(アイデアのみ)に終わらせず、出来る限りの物理・時間・宇宙・生物といった考え方について科学的な解釈を加えてある。世界は新しく創造されても、そこでは物理学や天文学、相対性原理といった原則は無視され得ない。というか、その原理の方から世界が創られているといってもいい。SF作品とはいえ、そういった学問的解釈の妥当性等についてはいろいろな意見があるのだろうが、その点については私には分からない。また、いくら世界が奇想に満ちているとはいっても、そこに存在するのは人間。あくまで軸は人間たちの物語。彼ら一人一人は短編であるにかかわらず、活き活きと描かれているし、その行動、考え方は理解しやすく共感しやすい。当然、そこから滲み出ている叙情性だとか、人類に対する暖かい視線だとか、人間成長の可能性だとか、理解できない単語の隙間からでも物語の総意は当然読みとることはできる。感銘も受ける。
ただ、私が読みとった範囲での理解が「作者の狙いをきちんと汲み取って、正しいのか?」という疑問もまた同時に湧き起こるのだ。誤解しないで頂きたいのだが、別に分かりやすく書いて欲しいといっているつもりはない。あくまで私自身のこの分野に関する素養の低さが問題なのだ。ということで恥ずかしながら、設定そのものが分かりやすい『海を見る人』だとか『キャッシュ』だとかに素直な面白さを(そしてミステリ的サプライズをもまた)、特に世界設定のための理論が先走っているかのように見える『時計の中のレンズ』『天獄と地国』からは困惑をもまた味わうことになった。SFを読み慣れている読者ではないため、総じての印象は「ハードSF」というのはこのような作品をいうのか! というジャンルに対する感慨だったり。 (ああ恥ずかしい)。『独裁者の掟』におけるミステリ的なある趣向なんて、すごく面白いのだが。

作者があとがきで述べているように、ハードSFを指向しない読者は「ファンタジー」と割り切って読むものなのかもしれない。ただ、その世界説明に費やされる文章の量が無視できないほどにあるため、どうしてもそちらが理解出来ないことで「損している」ような気がしたのも事実。本サイトを訪れるようなミステリ系・ホラー系の読者には素直に薦めづらい作品ということなるのだろうか。うーむ。


02/07/22
吉村達也「平安楽土の殺人 ―魔界百物語2―」(トクマノベルス'02)

「殺人プロデュース」を行うという悪の化身、QAZ。彼が引き起こす百の事件と、サイコセラピスト氷室想介との戦いを描く「魔界百物語」。『京都魔界伝説の女』に続く二作目が本作。一冊目から二冊目が刊行されるのが二年越しなのだが、残り98作は大丈夫だろうか。つい心配してしまう……あとがきに構想に変化があるようなことがいわれているので、何らかの形では完結させてしまいそうだけれど。

カウンセラーを志望する女子大学生のための講演会にて、カウンセラーという職業の欺瞞について講義した氷室想介は、年輩の女性からサイコセラピーの依頼を受ける。その女性は青井紗英子、四十八歳でカウンセラーを職業としていたが、最近恐ろしい目にあったのだという。元もと彼女は、自分が高校生の時、家族三人で食事中、日本刀を持った殺人鬼が自宅に乱入、父母を惨殺されるという経験を持っていた。その経験を元に現在はカウンセラーという職業を選び、様々な人物と接触している。最近の顧客の一人、菊池という男はそもそも奇行が目立つ危険人物。しばらく来ていなかったが数ヶ月の間隔を空けて彼女の元を訪問した。彼は彼女の経歴を念入りに調べており、遂に彼女にあることを告白する決意をしたのだという ――それは彼が三十年前に犯した殺人事件。自らが被害者となり、迷宮入りした殺人事件の加害者と思われる人物が、自分のことを調べあげたうえでやってきたのだ……。 翌日、青井は死体となって発見され、当然菊池が犯人として疑われるのだが、その犯行当日、菊池は京都で氷室想介のサイコセラピーを受けていたという。菊池のアリバイ確認に赴いた田丸警部に対し、氷室は菊池の弁護をし、二人は対立する。

ミステリ作家として「体質改造」した吉村達也氏がやろうとしていることとは?
「魔界百物語」という同一シリーズ百冊をミステリ長編で! という空前絶後(結果的にそうなっている作家はいても、最初から宣言して書き始める作家はいない)の試みについては吉村氏も考え直されたのか、あとがきではちょっと風向きが変化している様子。全てを長編ミステリにこだわることは止め、短編集や写真集等、様々な発表形態に「魔界百物語」の冠をつけて作者存命中に完結させる意向をあくまで持たれているようだ。ただ二年ぶりの二作目となる本作は長編の形式のままである。そして百物語1とは似ているし、異なっている。
QAZが二十五年前に仕掛けた第二の策略が引き起こす悲劇。事件の謎は犯人と目された人物は犯行当時に遠く離れた地におり、その証人が名探偵、というアリバイトリック。ただその解決というか真相だけをみると腰砕け。作品から得られる印象は、そんな事件のあり方よりも、氷室想介の口を通して語られる「カウンセラーという職業の現実や本質」といった、どこか蘊蓄くさい部分の方が強い。(そしてその部分の説得力は高い。他人に対して優位に立つ快感を、職業上の美徳で押し隠しているのが大半のカウンセラーの真の姿だ! というあたり人間の本質に触れている)。
 ……そこで少し考えてみた。
どうだろう、ノベルス系で普段ミステリはあまり読まないけれど吉村達也のファン、といった読者にとってはミステリとしてはこのようなレベルで良いのかもしれない。サスペンスが盛り上がり、そこにちょっとした意外性をまぶしてさえおけば。事件そのものよりも、何らかの蘊蓄がためになればそれで「良かった」という感想を抱くことができる。 ただ、初期吉村作品のアイデアを詰め込んだ本格ミステリ風トリックにこだわった作品を読んできた身には「吉村さん、変わっちゃったよな」という印象がどうしても残る。そこで思い出されるのが近年の吉村氏が宣言している「作家としての体質改造」という言葉。これは形を変えた吉村氏の「脱トリック宣言」なのではないか?? 吉村作品のリアルタイム読者は恐らく現在の新本格系ミステリを追う読者との重なりは少ない。(ミステリ系のWEBサイトでの取り上げ方の少なさをみれば分かる) 「このミス」で過去に看破されていたように、西村・森村・赤川・夏樹、そして内田といった大物作家の作品は既に「ミステリー」とは異なるジャンルのファン層を獲得しており、温泉殺人等のシリーズを打ち出した結果、吉村作品の読者もいつしかこちら側に多くなってしまったのではないか。彼らの需要を満たすためには、凝ったトリックよりもサスペンス、ある程度の固定キャラ、そしてプラスアルファとなる蘊蓄や旅情を重要視すべし、という結論に達していたとしてもおかしくない。だとすると最近の作品の傾向がなんとなく理解出来るのだ。

もしかすると、もう吉村氏は本格ミステリファンを唸らせる作品を書く気はないのかもしれない。それでも最低限、国産ミステリの魅力を再確認させてくれた恩が氏にある以上、私は追えるだけ追ってみる所存である。往年の大トリックを期待する方に本作を薦めることは出来ないが、最近の氏の作品傾向が比較的よく現れているように思える作品。


02/07/21
霧舎 巧「名探偵はもういない」(原書房ミステリー・リーグ'02)

第12回メフィスト賞を『ドッペルゲンガー宮』にて受賞後、同作品に登場する《あかずの扉》研究会シリーズを続けて四冊講談社ノベルスから発表した霧舎氏にとって、初の研究会以外もの、初の他社刊行、かつ初のハードカバーにあたる作品。(但し、作品世界は研究会とリンクしている)。

木岬研吾は「犯罪学者」を名乗り、遺産によって保証された生活を背景に古今の犯罪を研究していた。鍵の開け方や毒物の抽出方法等を本にするため、当局には危険人物と見なされている。彼の義弟で小学生の敬二は、そんな義兄に憧れ、いつかは世間を騒がす犯罪者になりたいという希望を持っていた。そんな二人がある冬の日、栃木県の山奥へと向かっていた。木岬らは小規模な雪崩に道を塞がれ、先にあるペンション《すずかけ》を訪れる。辺鄙な場所にあるにかかわらず、木岬は以前からこのペンションを知っていたらしかった。そしてなぜかペンションは満員、ただオーナーの鈴掛さゆみの好意により、同じく紛れ込んだ外国人、リチャードと共に普段は使用しない西の離れに彼らは宿泊させてもらう。さゆみの持つ暖かさに一行は大いに感激する。ペンションは他に東観寺という羽織袴で高圧的な物言いをする男と、実直で判断力の低い福永という大男がいた。木岬とさゆみは実は五年前、さゆみの両親が亡くなった交通事故の現場で一度出会っており、二人はその晩お互いに強く惹かれ合う。翌朝、元もとペンションに宿泊していた人々の理由が判明。さゆみがリチャードの息子を車で迎えに行っている間に、北関東一帯を地震が襲う。ペンションは孤立、そして中では奇怪な殺人事件が発生していた。

ミステリにおける定型、その定型を作品が乗り越えるのはテクニックだけでなく込められたテーマにある
真夏の盛りに読んだ私が悪いのか。「雪の密室」というミステリにおける定番的状況を使いながら、本格ミステリに対する作者の気構えはびしばしと感じるのだが、全体を通じて得られるのは、どこかファンタジーにめいた印象。 特に、他の作品にもいえることながら、なんというか登場人物の「恋愛」部分を描き方にぎこちなさと大袈裟さが同居して居心地悪いというか……定番ラブコメからそのまま抜き出したかのような深みのなさを、大胆にもそのままこのファンタジー感覚の軸にしている。最初は「ここまでくれば一種の「芸」だよな……」と半ば揶揄感覚半分でこの部分を読んでいたのだが、終盤にこの「おままごと恋愛」に物語上の大きな意味があることに気付かされ、この作品の評価を一変させざるを得なくなった。
これまでの霧舎作品と同じく、ミステリとしての評価以前に気になる小説としての不自然さ、都合の良すぎる関係者の蝟集、その他設定上の瑕疵といったところはいくつもある。ただこのファンタジックな大技ゆえに、これまでの《あかずの扉》研究会シリーズとは明らかに違い、作品の本格ミステリとしての一本筋の通った味わいが大きく高まっている。どちらかというとこれまで霧舎氏は、溢れるばかりの本格ミステリへの強い指向、情熱こそ認められながら、それが作品の完成度に結びつかなかったことが多かったように思うのだが、結局多少の瑕疵を吹き飛ばすくらいの強引な大技、しかも作品全体を支配するような技があればここまでの作品が創れるということだろう。
前述のように物語の大筋としてはミステリとしては定型の雪の密室であり、細やかなエピソードや付随するトリックを多く詰め込んでいる。アイデアの量に関しては相変わらず豊富で、そこかしこにポイントが内在する。宿泊する二人の外国人の扱いなぞも、ある程度予想されるとはいえ面白さがある。しかし、やっぱり振り返ると、あれこれの枝葉のエピソードや小技トリックなんかより、一本筋の通った部分に作品の価値が集約されている。一つ残念なのは、結局小説技巧に立ち戻ってしまうのだが、そのサプライズが「情」による感動でなく「理」による感銘に傾く点。物語のテーマが渾然一体となって読者を酩酊させる感動でなく、あの伏線、この伏線はこのためだったのか、と読者も冷静に判断できる感銘に終わっていることは、霧舎氏にとっての今後の課題となろう。

実は霧舎氏の《あかずの扉》研究会シリーズ第四作、『マリオネット園』の書評がストックであるのだが、先に本書の書評を敢えて挙げておく。というのはそちらの私的評価が著しく低いため(予告)。本書は同じ世界を扱っていながらシリーズから離れることで制約がなくなって良くなった例。複数名探偵の存在が、霧舎氏の自由な発想を邪魔してないか? (まだ噂の密室本は読んでないんだけれど)。