MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


02/08/20
柳 広司「贋作『坊っちゃん』殺人事件」(朝日新聞社'01)

'01年に『黄金の灰』を原書房より刊行してデビュー、その直後に発表された柳氏の第二長編。本書にて第12回朝日新人文学賞を受賞した。ノベルス系や文庫形態による作品がないため、まだ広い読者層を持つとは言い難いが、個人的に最も注目している本格ミステリ作家の一人。

四国は松山にて中学の教職を奉じた江戸っ子「坊っちゃん」。彼が、陰険な教頭の赤シャツと、その腰巾着である野だいこの二人を同じく教鞭を取っていた数学教師、山嵐と共にぼこぼこにして学校を飛び出して三年の月日が流れた。東京に戻った「坊っちゃん」は、街鉄の技師として喧嘩はしつつも真面目に働く毎日を送っている。そんなある日、坊っちゃんは山嵐と東京にて再会した。牛鍋をつつきながら昔話をしていると、彼らが四国を飛び出すきっかけになった赤シャツが、事件の翌日に無人島で首吊り自殺をしたという古い新聞記事を見せられる。彼と一緒にいたのはマドンナ。「赤シャツは殺されたのではないか」という山嵐に誘われるまま、坊っちゃんは暇を取って再び四国へと向かった。野だいこは事件の直後に気が触れて入院中、更に調査したものの、自殺という状況は疑いようもない様子だった。坊っちゃんが聞き込みを行ううちに、彼が教師だった時分に、この四国の片隅で社会主義と自由民権運動との衝突が起きており、全くそのことに気付いていなかったことを発見していく。あの時の体験には、様々な裏の事情が絡んでいたのだ。

あの『坊ちゃん』オリジナルテキストにミステリが? こんな「やり方」が残されているとは……

  「本書は夏目漱石著『坊ちゃん』(新潮文庫版)を典拠とし、創作したものです。」

いやしくも成人した日本人であるからには『坊ちゃん』のオリジナルくらい読んだことがあるだろう。読んだことがない? そんな貴方はまず本書のプロローグである『坊ちゃん』を読みなさい。ある世代以上にとって漱石の名作と呼ばれる作品群なんかは「一般常識」とされているけれど、ある世代から下にいくと読んだことのない方が当たり前になってしまうのかもしれない。まぁ、それはそれ、文化は千変万化するもの、仕方ないことだとは思う。ただ、『坊っちゃん』を読んでいないことで本作が手に取れず、我々以上の世代が受けるこの衝撃を味わえないの人がいるなんてもったいない。(どこか考え方が歪んでいるような気もするが)。
本書は『坊っちゃん』のパスティーシュ、というか後日譚としてスタートする。そしてかつて四国のこの温泉地で主人公の「坊っちゃん」が体験した様々な出来事の裏には、実は大いなる陰謀と駆け引きが繰り広げられていたことを、本人が自らの手で解き明かしていくという形式が取られるのだ。いわゆる歴史ミステリなどで、文献のなかから新たな解釈によって別の歴史を組み立てる点、多少本書に近い部分はある。しかし、明治期に書かれた「フィクションの傑作」を、ミステリに仕立てあげるなんて……。 しかも作品は、柳氏が書くいわゆる解決編にあたる部分のみで成り立つ。すなわち手掛かりや伏線は全て漱石の『坊っちゃん』に百年前に書かれていること。この大胆な発想と、それだけでなく巧みな筋道に驚嘆させられる場面が多数ある。特に最初の晩、学生に布団の中にバッタを入れられ、天井を足でガンガン踏みつけられて激怒するという有名なシーンの新解釈には驚かされた。また、なぜあれほど執拗なまでに「坊ちゃん」の行動が街の人々や学生の間で素早く噂になったのか。本編では何気なく書かれているエピソードの数々が、柳氏にかかると裏の意味を持つようになる。
さすがに最終的なまとめに入った段階で多少ばたつき気味のところはあるものの、序盤を読んでいるうちの度肝を抜かれた驚きが覆されるものではない。発想段階、検証段階の両方の素晴らしさを噛みしめることになる。『坊ちゃん』さえ読んでいれば、必ず。

これより後に刊行された二冊を先に読了していたこともあって、柳氏は「歴史上の人物と設定を利用してミステリを創る作家」というイメージを勝手に持っていた。それがまた嬉しい裏切りに合う。まず『坊ちゃん』、そしてこの『贋作『坊っちゃん』殺人事件』。このような作品に出逢えることが、ミステリの一つの醍醐味である。


02/08/19
北森 鴻「狐闇」(講談社'02)

学芸通信社を通じて静岡新聞等の地方新聞の小説欄に配信されていた作品の単行本化。'97年に刊行された『狐罠』の続編にあたり、同じく佐久間陶子が主人公を務めている……のだが、単発の連作長編集の多い北森作品の愛読者には嬉しい内容となっている。だってあの人やあの人が出るんだよ。

『狐闇』の事件から半年……。店舗を持たない骨董屋「冬狐堂」を営んでいた旗師、佐久間陶子は、顧客に頼まれ、市で二枚組の青銅鏡を競り落とす。自宅に持ち帰ったそれらを検分してみた陶子は二枚のうちの一枚が、どうしたわけか三角縁神獣鏡にすり替わっていることに気付くが、うち一枚は顧客の依頼で残り一枚は自分のものにする予定だっただけに、その魅力に惹かれて自分のものにしてしまう。その後、鏡を巡って謎の人物から電話がかかるなど不穏な雰囲気が漂うが、その神獣鏡が明治期に創られた精緻なレプリカであることを滝と名乗る学者が指摘、陶子は現金と引き替えにその鏡を弓削という持ち主の代理を名乗る人物に返却する。その弓削の当主の招きにあずかった陶子は、その帰り道に飲酒運転の交通事故を仕組まれ、更には絵画の贋作による詐欺事件の未遂犯として疑われ、骨董業者として命よりも大切な鑑札を警察から取り上げられてしまう。ひどく落ち込む陶子であったが、自分の身に何が起きたのか、神獣鏡を巡る謎を追求していくうちに、あくどいやり方で明治期に古美術を蒐集していたとされる明治期の堺の県令、税所篤という人物に行き当たる。

北森鴻オールスターズによる丁々発止。歴史に埋もれた秘密と骨董商売のからくりと
題名の継続性からも明らかな通り、『狐罠』の冬狐堂こと、佐久間陶子が主人公を務める続編にあたる。彼女が関わった三角縁神獣鏡から罠に嵌められる。前作に比べて遙かにひどい窮地に陥れられた彼女を救うために、『孔雀狂想曲』の雅蘭堂こと越名集治。『凶笑面』の民俗学者、蓮丈那智らのブレーンが揃い、明治時代から流れを汲む歴史の暗部に立ち向かう。ちょっとしたエピソードとして描かれる三軒茶屋にある隠れ家的ビアバーは明らかに『花の下にて春死なむ』の「香菜里家」だろう。そういった各作品の「名探偵」たちがそろい踏みしなければならないほど、本作の謎、そして罠は悪質で深いのだ。
……かといって、彼ら一人一人のゲストキャラクタに合わせて謎が設定されているのではない。謎は謎として「頑」として存在する。この点が本作の本質的な面白さに繋がっているといえる。つまり、オールスターの為の恣意的なミステリ・ストーリー・トリックを創るのではなく、あくまで陶子が取り組むべき事件に絡む「部分」に彼らの知恵や推理が顔を出す、という構造になっている。従って外観上「お祭り」的な設定になっているにかかわらず、彼らは出しゃばらず、陶子も決してサボらない。寧ろ、彼らがいることによって陶子本来の動き、魅力が引き出されている印象。極上の料理人はオードブルやスープでの遊びを知っていても、メインディッシュに手を抜くことはしない。
作品の謎は遙か過去、明治維新直後の事件に遡って行く。その構想の壮大さ、それを現在の事件と絡める手腕などそこかしこで唸らされてしまう。そしてこのミステリを通じて「時代」を描き出す演出もまた、北森氏の上記に挙げたのとはまた別の作品との重なりが思い出される。いや、調味料、スパイス一つ一つに全く手を抜かない方である。

北森氏の他の作品群を全て読んでからでないと楽しめない、なんて不親切なことはない。本書を読んでから彼らの物語に戻って行く読み方もあるだろうし。但し『狐罠』(こちらも傑作)は絶対に先に読んでおいた方が良いかと思われる。題名に「狐」を冠する両作品、それこそ「瞞された」と思って読んで欲しい。


02/08/18
佐藤哲也「イラハイ」(新潮社'93)

'93年に第5回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した作品。'96年に新潮文庫版も刊行されているが、既に絶版の模様。氏の奥さんがこれまたこの2年前に『バルタザールの遍歴』にて同賞受賞の作家、佐藤亜紀さん……というのは本当なの?

遙か昔に滅んだイラハイという国。巨大なオジャマリ山脈の麓に拡がるイラハイは一人の王に統べられていた。国民はいくつかの都市に分かれて生活しており、いくつか珍しい習慣があった。イラハイの人々は住宅など全ての建物に「慎みの穴」と呼ばれる丸い穴を屋根に開けていた。その技を習得した者を彼らは屋根穴職人と呼んでおり、イーサンの父親、ウーサンも腕のいい屋根穴職人だった。だがウーサンはイラハイの娯楽の一つ、「女房転がし」という競技の結果、妻の命を喪わせてしまい、失意にくれて呑んだくれる。息子のイーサンは屋根穴職人の見習いとして家計を助けていたが、いつしかウーサンは失踪。それからも別の職人のもとで成人したイーサンは、シュリという美しい娘と婚約する間柄となる……。
しかし、そのイラハイ。いつしか些細なことから隣国のサバキヤとの戦争が開始される。崖を挟んで上方に住むサバキヤ人は、土をイラハイに落とし込もうとし、イラハイ人はそのサバキヤに対して土を投げ込むというのが戦争の様式。だが、これが長期間に及ぶことにより兵士は次々と埃を吸い込んで病で脱落、それを補充するための機械が投入され、軍は機械の代金の支払いに苦労し、国王は国民に対する税金の値上げを決めた。イラハイの国は徐々に荒みはじめていく……。

猛烈に嵌るか、あっという間に投げ出すか。好みが確実に両極端に分かれるヘンな文体・構成・味わい
少なくとも私は最後まで読んだ。近年のエンタテインメントとしては類を見ないタイプの説明的文章(強いて似た作家を挙げるなら一時期の筒井康隆氏か)が延々と続き、序盤に物語に入り込みにくかったのは事実で、ここで投げ出す人を咎めることはできない。でも、いつしかそんな奇妙な文体の虜になった自分がいた……。
改行の少ない徹底的に説明的で饒舌な地の文。出来事をひたすらに増殖させ反復させることによってもたらされる奇妙な面白さ。寓話の持つ寓話たる所以を不必要に究極まで徹底的に分析したかのような(でも実は分析なんて全くしていないような)つかみ所のない思惟と哲学と説話っぽいエピソードの数々。論理をお手玉のように弄び、次々とひっくり返していくペテン。おとぎ話の世界で現実世界を諷刺しているようでいて、全く何を諷刺しているのか分からない描写……。架空の王国の設定、王国の興隆と衰亡、そして主人公の苦難の物語。それらを描写している筈なのだが、全く別のことを含んでいるような違和感が常につきまとう。 物語そのものの面白さではなく、物語の上に存在する文章にされていない部分に「物語の本質」が込められている。
これはあくまで印象だが、飄飄と、かつシンプルに書かれている物語が秘める「何か裏がありそう」な感じが、厳しいことでも有名な日本ファンタジーノベル大賞の選考委員たちをねじ伏せたのではないだろうか。うまくいえないが単純なエンターテインメントをファンタジーに求める人々よりも、その一歩上を評価する方々のお眼鏡にかないそう……という、一種のあざとさも実は感じないでもなかった。ただ、それが天然なのか、賞獲りでの狙いだったのか、という点に関しては正直、判然としない。

いわゆるファンタジーの持つはらはらどきどき感やジェットコースター的に展開が進む面白さは本書にはない。だが、心の隅の、通常は読書では刺激を受けないような部分をちくりちくりと突いてくる。 これこそ寓話なのだろうが、いったい何の寓話なんだろう。読み終わってなんだか瞞されたような気分。だが、決してそれは裏切られたというものではなく、何か得体の知れない物語に囚われてしまったような感覚。確実にいえるのは嵌る人とそうでない人の別がハッキリしてそうだな、ということのみ。


02/08/17
戸梶圭太「OUTLIMIT アウトリミット」(徳間書店'02)

デビューから四年目に突入しても戸梶圭太氏の勢いは留まることをしらない。本書は戸梶氏にとって十二冊目の単行本にあたる。そして刊行月が三月にも関わらず、これが2002年の三冊目でもある。濫造……ではあるかもしれないが、でも決して粗製ではない。世界はいつしか戸梶圭太で埋まっていくのか。それはそれでちと困るが。

代官山署でネズミ講を社内に拡げたかどで問題を起こし、東京の下町、向島署に転属になった井川刑事。酷暑のなかボロアパートに窃盗犯人を捕まえに同僚の松川と共にやってきた。二人でアパートの入り口に立ち、ケチな犯人に対して出頭を促す。犯人の磯貝は前科があり、よもや抵抗すまいと思われていたが、扉向こうからいきなり発砲、松川を殺害して逃走する。慌ててパトカーに戻ろうとした井川は下町特有の曲がりくねった道に迷い焦りまくった挙げ句、磯貝と鉢合わせ。思わず特殊警棒を使って殴り殺してしまう。そのままなら正当防衛なのだが、磯貝が隠し持っていた曰くありげなメモリースティックを発見、それが何かを知るために彼の持っていた怪しいプリペイドの携帯電話をかけると相手はアニメ声の女。ブツを7時までに持参すれば、三千万円の現金と交換してくれるという。その金額に目が眩んだ井川は現金詐取を決意、緊急手配がかかることも忘れて現場近くの曳舟駅6時半に女と落ち合うことに決める。近所に住む友人、大成に手伝わせて死体を隠させようとするのだが、実はその日、隅田川の花火大会の日でもあったのだった……。

下町・ケーサツ・酷暑・儲け話・汗・ホモ・花火・パニック――――――もうっっ、ブチ切れっっ!!
これまでの戸梶作品はどちらかというと発端は「巻き込まれ」というケースが多かったように思う。主要登場人物は決してトラブルを望むのではなく、トラブルの方からやってきて、それに翻弄されるうちに自らがトラブルの方を制するようになる……というのが一つのパターン。本書における登場人物たちの人格設定や特徴に限っていえば、これまでの「戸梶ケース」と全く同じで、相変わらずのぶちキレぶりを見せているのであるが、トラブルの発生方法がその意味で微妙に異なるように思う。ま、簡単にいえば、主人公が自ら望んでわざわざトラブルの方に近づいているということなのだ。
現役警察官が過剰防衛(正当防衛か)にて犯人を殺してしまう、ということ自体は決して珍しいことではない。特にミステリの世界では。しかし、その後に更なる儲け話を犯人から取り上げて、警察官がそのまま引き継いでしまう……なんて設定は、恐らく古今東西通じて初めてなんじゃないだろうか。 というわけで主人公は半ば自ら招いたかたちで必然的に複数のトラブル(警察の追究、ヤクザの追求、自ら握った謎の儲け話の追跡)に追われることになる。複数の関係者の視点が切り替わりながら、時系列を追って事件の発生を追うパターンは戸梶氏がお得意の構成。暑苦しい夏の日中から夕方、花火客で混雑する下町、集結する警察とヤクザ、逃げる男たち……と基本的にごちゃごちゃごちゃごちゃと絡まるのだが、話そのものがシンプルなために、全く読者の方は期待と謎と笑いを予感しつつ混乱なくすいすいと進む。(物語は混乱しまくっている)。また、戸梶氏ならではの壊れまくった登場人物ひとりひとりの個性もまた目立つ。全身刺青の筋肉男、謎の浮浪者、アニメ声で宿命を背負った女……。いやー、すごいねぇ。
更に珍しいのは主人公が無事に現金を手に入れてしまうことだろう。この結果、エンディングの雰囲気が従来作品に比べてちょっと異なる余韻を残す気がする。たまにはこういうのも悪くないかも。

暑い夏には熱い茶を飲むのが良い――と世間的に言われているようだが、暑い夏にこういう熱い戸梶作品を読むのはまた一服の清涼剤になる……かもしれないしならないかもしれない。 (どっちやねん) ちょっと少なめの頁数の関係か、戸梶氏らしさは出ているものの完璧な戸梶スタイルになりきってはいないか。ラストあたりでバタバタしている印象もちょっとある。


02/08/16
霧舎 巧「マリオネット園」(講談社ノベルス'01)

「マリオネット園(ランド)《あかずの扉》研究会 首吊塔へ」が正式題名。第12回メフィスト賞受賞の霧舎氏は「館もの」「孤島もの」「変形嵐の山荘もの」と発表、今回は「操り」テーマのWHO DONE IT?がテーマらしい。

ぼく、こと二本松翔はこれまで《あかずの扉》研究会で経験してきた事件を原稿にまとめ竜王出版という出版社に送っていた。それがとうとう霧舎巧という筆名にて本になるのだという。その新刊の見本を抱えた水上という女性編集者と共に大学に部室にやってきた翔だったが、ほとんどの部員は部室に集まってくれていなかったことに翔は少し落胆する。そこにやってきたのは沢入美由紀と名乗る女子高生。彼女は過去に研究会が関係した事件の被害者の名前で書かれた暗号の手紙とコインロッカーの鍵を持参していた。暗号を解読し、JRの駅へと向かった彼らが発見したのは次の暗号と鍵であった。その途中、携帯電話を受けた水上は、翔に出版が出来なくなったことを告げる。落胆する翔を見て、水上に対し噛みつくユイ。更なる暗号解読の結果、コインロッカーからは操り人形と携帯電話がみつかり、彼らは川崎にある廃園となったテーマパーク・マリオネット園へと向かうことになる。一方、研究会所属の名探偵、後動は、同じくメンバーである森咲枝に送られてきた同窓会の案内状を巡る謎を解き、彼は彼でマリオネット園へと向かっていた。廃園の中に聳える斜塔は首吊塔という一種の自殺の名所。彼は想像に反して塔の持ち主、遠々見仙水の秘書の押川と名乗る人物によって館に迎え入れられた。

現実感を無視してパズルの世界に淫するか、斜に構えて笑い飛ばすか
送られてきた暗号を解き明かして、次の場所に走り、再び暗号を解いて……島田荘司氏の短編『糸ノコとジグザグ』を意識したのではないかと思われるゲーム性の高い展開は、スリルというより「知恵比べ」的な面白さに満ちている。関東近郊の駅名をこういったゲームにしてしまう遊び心はなかなかよろしい。また廃塔にて出迎える謎の執事の怪しさ、更にその塔の内部における名探偵の危機。死体消失、館の謎、マリオネットの意味……等々、個々のトリックやプロットを取り上げると、サプライズの置き方に工夫をかけた小技の効いた本格ミステリとして楽しめる。

だが……。

だが物語全体としてみると、明らかに小説としてアンバランスな部分の方が多いように見えてならない。
そもそも、犯人が殺人という大罪を犯すにあたってなぜ《あかずの扉》研究会を巻き込むのかが不明。もっと簡単な方法がいくらでもあるだろうに。巻き込まずとも、こんなに複雑かつ無意味なアリバイトリックを作成する必然性も見えない。エレベーターが垂直に上昇下降する以上、斜塔の地下と地上が同じ構造というのも物理的にあり得ない。この塔が建てられた理由がカジノだというのだが、カジノの商売や仕組みについての記述があまりにいい加減。……等々、気になるところを挙げるとキリがないのでもう止めるが、殺人のおきる本格ミステリ風に書くよりも、はじめから研究会のゲームだとか、パズルだとかで表現すべきテーマだったのではないか。アイデアの量に関してだけはものすごいのだが……。
霧舎巧氏は、自らを「本格ミステリ作家」ではなく「新本格ミステリ作家」と自認しているようである。氏の『名探偵はもういない』のあとがきによれば、氏の感覚による「新本格ミステリ」の定義は「作者が何がやりたかったのか」が分かるものなのだという。私の感覚からすると、本作において霧舎氏はあるテーマに拘りすぎたあまりに、そのテーマを支えるもっと根底にあるべき物語の土台を見失ってしまっているようにみえる。読者に「何がやりたかったのか」を伝える以前に、ミステリとして本来作家が深く考える背景だとか、舞台だとかを深く練り込んで頂かないと読んでいて辛い。ミステリはフィクションだけれど、そのフィクションの有りようを支える土台部分は、ミステリそのもの以上に大切な存在だと、少なくとも私は考える。

もしかすると私が引っかかった瑕疵など全く気にせず、トリックやパズル部分、そして研究会のキャラの動きで読了できる方にとっては、批判も的はずれと思われるかもしれない。でもやっぱり、商業出版として、ミステリとして発表されるからには「推理」「小説」の小説部分にももう少し気を使って頂きたいものである。

本書を読了後、本文の方の題名が書かれた扉を見るとちょっと笑えた。こういう趣向は好きなんだけど。


02/08/15
瀬川ことび「妖霊星」(トクマノベルス'02)

第6回日本ホラー小説大賞短編賞佳作にてデビューの瀬川ことび氏。別にヤングアダルト分野にて瀬川貴次名義の著書があるので「ことび」名義は、受賞作含む角川ホラー文庫の作品集等の印象から一般向け現代作品専用かと思っていた。だが、本書はそんな「ことび名義」のイメージをひっくり返すにたる「時代伝奇小説」である。

最近人気が急上昇している能楽一座・結城座にて主役(シテ)を務める若き能楽師、鷹矢。その公演に権勢を誇る守護大名、細川勝元が、愛妾の遊女・地獄太夫と共にお忍びで見物にやってきた。その舞台で鷹矢は能面が外れ落ちてしまうが、見事な舞を踊って気に入られ、地獄太夫のいる遊女屋、松葉屋の座敷に呼ばれることになる。座の古株で鼓打ちの藤次郎が頑強に鷹矢について行くといって聞かず、結局二人は緊張しつつ勝元と地獄太夫と差し向かう。地獄太夫と舞を共に踊った鷹矢は、太夫の禿、初音に誘われそのまま床に着く。退出を促された藤次郎は、再び座敷に舞い戻るが、そこで目にしたのは彼らへの刺客を弄びつつ残酷な死を与える太夫と勝元の姿であった。地獄太夫は外法使い。藤次郎は命乞いにも関わらず、殺されて刺客と共に河原で発見された。鷹矢は勝元の息子、毘沙王に舞の手ほどきをするよう命ぜられ、時々勝元宅に通うが、殺された藤次郎の怨霊が、時々枕元に現れ、地獄太夫への恨み言を連ねることに辟易していた。

煌びやかにして絢爛。残酷にして妖艶。「伝統芸能」がハマった時代伝奇物語
本書題名は「ようれいせい」等ではなく「ようれぼし」と読む。
爽やかなホラー感覚にて知られる瀬川ことび氏名義での初の時代伝奇小説。読前は、瀬川流の軽い文章による物語を予想していたのだが、文章や雰囲気については、どちらかといえば伝統的に存在する伝奇小説のそれに近く、重厚なイメージ。そして魔女的な存在として描かれる「地獄太夫」を中心に繰り広げられる快楽の図絵は、相当にエロティック。かと思えば、少年と少女の身分違い、そしてすれ違いによる叶わぬ恋などの「青春」を感じさせるサブストーリーがあったり、愚痴っぽく鬱陶しい幽霊が登場したりと、わざと様々なコンセプトを内包させようとしている意図はありそう。ただ、伝統芸能の「能楽」を物語の根本に据え、花魁や有力大名など「華」のある人物を重要登場人物としており、全体的にどこか渋さがありながら華やいだ雰囲気を醸し出すことに成功している。歴史的風俗に関する描写も力が入っており、ヤングアダルト系の伝奇とは考証、そして描写のレベルを上げることによって一線を画そうという作者の狙いが感じられる。
また、幾人かの登場人物に強いインパクトがあった。特に印象的なのは、まず地獄太夫。地獄絵図を描いた衣服を纏い、外方を操る淫乱な娼婦、そして残酷な悪女でありながら完全なカリスマ美女。いわゆるキャラが立ちまくっている状態。 そしてもう一人、処女少女でありながら地獄太夫の魅力に飲みこまれる主人公の妹もまた印象的。ひたむきさと孤独と少女からの脱皮などのいくつもの成長テーマを一身に纏う。登場シーンも決して多くないに関わらず、こちらもなぜか存在感が大きい。奔放に活躍する女性たちに比べると、鷹矢、勝元といった本来は重要な男性登場人物の影は比較的薄い気もする。
物語の起承転結をオーソドックスにまとめすぎたきらいもあり、親しみやすい内容である反面、伝奇小説としての目新しさや、瀬川ことび氏しかで書けない世界を期待している向きには、多少物足りないかもしれない可能性もある。(私ももしかすると「更に上」を期待していたかも。ただ、瀬川氏にはそれが出来るのではないかと思っている)。

基本的にこれまでのことびテイスト(といっても『お葬式』一冊でこんなことはいえないけれど)とはちょっと異なる印象一般ホラー作品好きの方よりも、伝統的な時代伝奇小説がお好きな方向けの作品か。


02/08/14
多岐川恭「好都合な死体」(東京文藝社'63)

'62年、'63年に『小説新潮別冊』や『小説中央公論』といったあたりに発表された短編をまとめて単行本化した作品集。本書がオリジナルで後に文庫化等は為されていない。

常藤幸吉が妻に頼まれ、自宅の小さな庭にゴミを埋める穴を掘っていたところ布包みにぶつかった。中からは半分腐敗した死体が現れ、大騒ぎになる。死体の身許は実業家の社長、土屋で、半年ばかり前に料亭の離れで行方不明となっていた人物と思われた。引っ越して数ヶ月の幸吉ではなく、以前にその家に住んでいた大蔵という人物が疑われるが、自堕落な暮らしぶりだった彼と土屋との間に繋がりがあるようには見えなかった。 『好都合な死体』
小さな建材会社に勤務する啓吉は、同僚の鮎子と仲良くなり将来を約束して貯金に励んでいた。二人は啓吉のアパートのベランダに小さな花壇を作っていた。そんな鮎子にやもめ社長の吉田は目を付けている。手当てをやるので愛人になれというのだ。一方、啓吉は悪い仲間から強盗の手伝いをするよう恐喝されていた。 『壊された花壇』
人妻の親代はかつて交際していた丸目顕一そっくりの弟、彰次の訪問を受ける。親代は顕一と愛し合っていたが、彼がノイローゼ気味だったことに加え、彼が遺伝的に欠陥を持つことを知人に知らされた結果交際を止め、その知人である戸並と結婚していた。 『二つの遺書』
娼婦であり複数の男を手玉にとった信子が殴殺された。彼女の愛人であった”私”は彼女の死体と長い時間添い寝をしていたところ、ご用聞きに発見され警察に連行された。しかし私も殴られてぼんやりしていた。 『愛するように』
研吉と信子の結婚は徹底的に失敗だった。離婚を求める研吉に対し、信子は無視を決め込む。どうやらあと数年すれば座れる課長になった後に、慰謝料の引き上げを狙っているらしい。研吉は信子の愛人候補を家に連れ帰る。 『居坐られる』以上五編(前二作は中編)。

多岐川恭が「男女の愛情」を題材にミステリ世界を造り上げたら……
こんな作品集が出来ました。
決して現代においてメジャーとはいえない多岐川作品を一般化しても仕方ないかもしれないが、特に初期作品に共通してみられるのは、自らの人生に対して一種の諦念を若くして覚えてしまい、それが結果として他者に対して冷たくみえる行動を取る主要登場人物が配されていることにある。それが極端に表に出ているケースもあれば、内に秘めたまま深読みする読者にだけ分かるケースもある。本作は、その後者の登場人物を配した短編集である。
多岐川氏は、残酷にもそんな彼らに「男女間の愛情」という動機をぶつける。ただ、それもストレートではない。『壊された花壇』では、若い男女の愛を社長が公然と引き裂こうと画策し、『二つの遺書』(この作品はいろいろと現代では正された誤解があるので、決して再び日の目をみることはない)では、兄と別れて別の男性と結婚した女性に執拗に迫る弟の姿を描き、『愛するように』は、主人公格の男に、決してノーマルとはいえない愛の形を実践させてしまう。ここで表現されている感覚は時代の先を進む先鋭さと時代ならではの封建意識の両方が混じり合って、一種独特の雰囲気となっている
そうやって俯瞰すると、多岐川氏は結局、男女の愛というものもいろんな形があって、かつ世の中の人が思っているほど強固なものではない……というあたりを逆説的に描きたかったのではないか、と推察する。登場するのが普通の人間であれば単なるメロドラマで終わるところを、人物に一癖も二癖もつけることで不思議な余韻を持つ物語に変じさせてしまっている。うーーむ。一筋縄ではいかないお人である。

本書は一部の古書マニアを除くとそう簡単には読めません。それなりに不思議な面白さを持つだけに、何らかの形できっといつか誰かが気づいて再評価してくれる……のをじっと待って頂けますでしょうか。


02/08/13
皆川博子「愛と髑髏と」(集英社文庫'91)

'85年に光風社出版から刊行された、皆川博子さんの五冊目の短編集が文庫化されたもの。皆川さんの短編集としては五冊目にあたり、初期作品にミステリ風のものが多かったことを思えば、本作収録作品は「幻想小説」ジャンルの初期作品といえそうだ。

「庭は寝返りをうって背を向けた。」 鳥の剥製を作る兄嫁と妹との葛藤。 『風』
「私は檻のなかでめざめた。」 動物園の檻のなかに入れられて飼われている女性。 『悦楽園』
「黄昏は奔馬のように街を踏みにじり、太陽をビルのむこうにひきずり下ろした単車の群れは炎の柱となり、幼女のスカートは切り裂かれ、やわらかい股間はえぐられた。」 時計犬の世話という秩序に囚われた男。 『猫の夜』
「鉄球がビルの壁に打ち当たると、もともと亀裂の入っていた壁は、もろくくずれはじめた。」 芸術家夫婦の二人の幼い娘。姉は妹を鬱陶しく思う。 『人それぞれに噴火獣』
「どぶ板の隙間からたちのぼる湯気に、誰が捨てたのか梔子の葩が煮びたした菜のような色あいで萎れている。」 クリーニング屋の男を殺した罪を問われる洋裁屋の住込女性。 『舟唄』
「墓地に行くつもりはなかった。」 葬儀屋の娘に連れられて、丘の上の花見に参加する女性。 『丘の上の宴会』
「治代は庭を見つめていた。」 若い男と愛人関係にある三十路後半の子連れ女性。 『復讐』
「林を抜けると白い道がつづいていた。」 山の中をぼろぼろになった服を着て彷徨っていた女性は、野犬狩りの男のトラックに乗せられる。 『暁神』以上八編。

蜜と闇にて紡ぎ出された世界はあまりにも濃密。噎せ返るような匂いの立ち込める物語群
裏付けのない勝手な想像をしてしまう。この時期、ようやく皆川さんは「自分の好きなように」作品発表できる場が得られるようになってきていたのではないか。皆川さんの短編幻想小説群は、繊細なガラス細工のような構成と文章を持ちながら、読み進めるにつれて読む者もろとも自壊していく怖さがある。 通常の意味でエンターテインメント小説として求められる口当たりの良さを否定し、高踏で繊細で壊れやすい(いや単なるマイノリティなのか?) 精神構造と読解力を、容赦なく読者に要求する。発表当時も、そして今も、そういった作品が世に出る窓口はごくごく狭かったのではないかと想像する。しかし、皆川さんはそれを実力にてこじ開けたのが、まさにこの作品群が発表される時期だったのではないだろうか。
生きている、という現実感を喪ったまま生きていく(時には死んでからも生き続ける)登場人物たちは、皆川さん自身の投影でありながら、読者が心の奥底に隠して安心している醜い心をもまた投影させていく。 ……怖い。幻想と現実の接点が見えるのが怖い。生きていることの無意味さを知らしめられることが怖い。その怖さがクセになることがまた怖い。美しい文章にて綴られた世界が一気に反転するのが怖い。本書に登場する全ての作品は、微妙に異なる「怖さ」を内包し、我々と共に自壊するのを待ち続けている……。

今でこそ皆川作品の再評価が進められてはいるものの、過去に出版されたいくつもの作品がまだまだいくつも眠っている。本書の一部作品は、近年の皆川作品集成系のアンソロジーにて読むことができるが、それ以外が駄作、凡作ということは全くない。いや、かえってマジョリティに受け入れられないと判断されている分、その切っ先は寧ろ鋭いケースが多い。 とにかく「皆川さんの全部」を一生掛けて読み切りたいと切に感じる私など、旧作が手に入れられないことに焦りを覚える。一冊読むごとにその思いが強くなるのは、作品群の持つ魅惑の大きさを示しているとは言えまいか。


02/08/12
鯨統一郎「タイムスリップ森鴎外」(講談社ノベルス'02)

デビュー作品の『邪馬台国はどこですか?』を皮切りに独自の歴史解釈をベースにしたミステリを著してきた鯨氏の、十一作目にして講談社ノベルス初登場(意外?)作品。(鴎外の「鴎」の字は本来旧字)。

大正十一年、六十一歳の森鴎外。医学者でもあった彼は自分の体力の衰えを感じ、何者かが自分に毒を盛っていることに気づいた。執筆の継続のために多くの人間が出入りする自宅を離れ、原稿用紙とペンを持って渋谷は道玄坂にある宿にこっそりと向かうことにする。暗さと体力の低下で足下が覚束ない鴎外を、坂の上で何者かが襲う。ペンを相手に突き刺し応戦する鴎外、しかし彼の足は崖からすでに滑り落ちていた。
そして彼は白昼の渋谷で目を覚ます。もちろん現代。いきなり若者に襲われた鴎外は麓うらら、三須七海という女子高生たちに救われる。そのまま彼女らと話し合ううちに、自分が遙か未来に来てしまった事実に気がつく。変化に戸惑う鴎外だったが、さらに文学少女の本間香葉子、ミステリマニアの小松崎拓海らの助けも借り、徐々に生活に適応を開始、現代文化を吸収しはじめる。そして鴎外は自分を狙ったのが何者だったのか、という推理を歴史のうえから開始する。

SF(タイムスリップ)+歴史(森鴎外)= 鯨統一郎世界
作者の言葉として「作品内で森鴎外が何をするか、誰にも言わないでください。 ―鯨統一郎」 とあるのがいかにも印象的。何をするかはいわないけれど、作品について論ずることは出来る。近作を読み続けた結果、一つ明らかなことがある。鯨氏は、現代の人々を描くのが決して上手くないということ。 確かに、本書はタイムスリップして現代に現れてしまったために戸惑う森鴎外が主題。彼らをサポートするために四人の若者が登場してくるのだが、どうもその世代に属していない者が描く若者像の奇妙なステレオタイプをそのまま使用しているようで、浮いた印象が拭えない。それを糊塗するためか、現代作家にしろミステリ作品にしろ音楽にしろ服装にしろ、固有名詞を多用している点が目に付く。しかし、それだけで改行されると原稿用紙の紙幅稼ぎにもまた見える。急速に現代に同化する鴎外の姿は面白いが、似たテーマでじっくり練られたSF作品に比すと、正直どこかやっつけ仕事に見えてしまう。
ところが、森鴎外が指摘する昭和の文壇についてのある理屈、そしてその検証の段になれば、関係文献やデータを列記するというそれまでと同じ方法論を使用しているにも関わらず、急に物語に潤いを取り戻していく印象。個人的にはこれまでの作品にて取り上げられたテーマとは違って、比較的こちらもよく知る世界だけに、さすがに作品内部の説得力より「そこまで結びつけるか!」というトンデモちっくな奇想の方に感心させられてしまった……。

最近SF方面にも触手を伸ばしつつある鯨氏と、デビュー作依頼の歴史の新規解釈を得意とする鯨氏の、二つの系統が合致して出来上がった作品。 その結果、両方とも半分くらいに薄まってしまって全体的に軽めの印象の作品となっている。ある意味、この軽さも鯨氏の持ち味でもあるし、「歴史ミステリ=資料を多用して重厚」というこれまでのミステリ界の常識となっている方程式をひっくり返す意味で、それはそれで良いのかも。


02/08/11
牧野 修「ビヨンド ザ ビヨンド」(ログアウト冒険文庫'95)

まだ傑作『MOUSE』すら刊行される前、『王の眠る丘』がデビュー作にして代表作だった頃の牧野氏は、ゲームのノベライズ作品を多数手がけていた。本書もそのなかの一つで、ゲームそのものも「ビヨビヨ」の愛称で知られる人気作品である。

グリーンハイム大陸にある神の国、マリオン国は、長年の間バンドール国の侵略に晒されつつも抗戦を続けていた。だが遂に邪悪な軍師、シュタットらによって占領されてしまう。マリオン国の王子、エドワードは国随一の騎士、サムソン、そして本編の主人公であり、マリオン国騎士団長の息子、フィン、そしてフィンの幼なじみで回復魔法を使うアニーらによって救出され、隣国であるザラグーン国へと向かっていた。サムソンの圧倒的な力によって追っ手を振りきった彼らだったが、シュタット配下の女魔法使いラムウの魔の手が襲いかかる。彼女によって呪いがかけられてしまったサムソンは、これまで持っていた力の半分以下しか出せない状態とされてしまった。何とか無事ザラグーンへ到着した一行。バンドール国王への謁見こそ叶うものの、外患を憂うグレード大臣の強硬な主張によってサムソンの力が本物以下であることを理由に放逐されてしまう。まずはサムソンの呪いを解かねばならない。彼らはエドワードの叔母のアドバイスに従って、シャーマンの棲む村へと旅を続けるのであった。

牧野氏のオリジナリティの主張の幅は、名作ゲームの前にはかなり低かった、か。
本書が牧野氏の創作活動の初期に多く手掛けていたゲームノベライズの最初の仕事、ということになる。(少なくとも刊行に至ったものとしては)。 当時も、もしかしたら今も、YA系にてデビューした作家は、生活のためにこのような仕事を引き受けざるを得ない状況が存在し、いまだその風潮は残っているように思える。特にまだデビュー仕立てで海のものとも山のものとも分からない駆け出し作家に至っては、作家の個性を出すこと自体許されなかったのではないかと推測される。少なくとも、他のノベライズ作品に比べても本書の先には現代華々しい活躍を見せる「牧野」像を結ぶことは難しい。
原作が人気RPGゲームということで、その筋書きに沿って進む物語。いくつかの冒険、愛、友情、勇気といったファクターが物語を支配しており、本当に原作のゲームそのものが「正統派」といえるRPGなのだな、という印象を持った。(小生はこのゲームをプレイしたことがない)恐らく原作ゲームの出来も良いのだろう。
ただ、それだけ、なのだ。わざわざテキストにて表現される意味合いが感じにくい。その後、牧野氏が手掛けたホラー系のノベライズの緊迫感といった毒々しさがまずない。その勇気や冒険という要素も、ゲームで自キャラを操る緊張感に比べると、活字で流れを追うだけというのは今ひとつ興が乗らない。物語そのものは、可もなく不可もなし。やはり思い入れが少ない分多少引くところが、こちらにあるのかもしれないが……。

これまでゲームノベライズを含め外れ作品の少なかった牧野氏。ただ、本作は「牧野修」ファンであっても無理に探し出してまで読む必要はない。本書の読者はあくまでRPGゲーム『ビヨンド ザ ビヨンド』のファンだけで十分。