MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


02/09/30
北川歩実「影の肖像」(祥伝社'00)

'95年の『僕を殺した女』によるデビュー以来、覆面作家として一年に約1.5冊ペースで着実に著作を重ねる北川氏。特にデビュー当時より先端科学技術にまつわるトピックスをミステリの世界に融合させる手腕は確立されていたが、その世界を本作もまた踏襲している。

科学雑誌の編集に携わる作間は、かつて幼なじみの川名千早と結婚話があったのだが、彼女が不倫相手の子供を身籠ったことから破談になったという経緯があった。千早は高校時代、かつて作間の友人だった高本一久と交際しており、一旦結婚が具体化しかかったものの高本は事故で死亡。千早は高本の兄、彰と交際していたという噂がたち、更にその彰が火事で死んだあとにまた子供を産んだという。どうやらそれは高本彰の子供ではないらしい。偶然、久々に千早と再会した作間は自宅に彼女を連れ帰り、妹の詩織と会わせるが家族の誤解は簡単には解けそうにない。その翌朝、作間は嘉島という教授が何者かに殺害されたことを知る。その嘉島は千早の現在の愛人であった。図らずも彼女のアリバイを証明することになった作間だったが、どうやら嘉島は作間の甥、裕が執筆した『クローン人間が生まれた日』という小説に絡むトラブルで殺されたらしい。そしてその小説は精神的に不安定だった川副純太という研究者が「クローンネズミ」を作成したと大騒ぎした顛末を、作間が甥に便宜を図って取材させた作品だった。そして続いて裕が殺され、事件はクローンと密接な関係があることが判明してくる。実はクローンが実在すれば、骨髄移植にまつわる諸問題が一気に解決するのだという。

先端科学技術に対する深い理解が生み出す二転三転の展開。その先端ならではのタブーと欲望……
常に様々な先端科学技術テーマを物語に取り入れるのが北川氏のミステリ。そこいらの作家ならば、その技術そのものを「トリックのネタ」にしてしまうケースが多いのだが、北川氏の場合はそう単純には事は運ばない。常にその技術テーマそのものにもミステリアスな雰囲気を保ちつつ、その技術が実現すれば何が起きるのか、誰が喜び、誰が困るのか等々、その技術の周辺に群がる様々な事柄をも物語に取り入れてしまう。つまり、その最先端技術が「実際どのレベルまでが実現しているのか」という点を終盤まで曖昧にして、読者の興味を引き込むテクニックがあり、そうしてその最先端技術を巡る人間たちの間にもまたミステリがある。 この方法論は「クローン人間」を扱った本書でも健在。特に本書は時期的に「クローン羊」が実際にニュース等で話題になった直後であり、そういった技術の不思議(そして知られざる世界への漠然とした畏れ)がまざまざと感じさせられるタイミングだったのではないだろうか。もちろん、今でもその原理をきっちり理解できている人間は少数派であろうし、この作品が色褪せるまではまだ時間がかかりそうだ。
本書のポイントは「クローン羊」でなく「クローン人間」だ、ということ。一見夢物語のように思えるこの技術に徹底的に拘らざるを得ない人間たちが存在することを明らかにするのが作品の妙だろう。クローン人間を作ることさえ出来れば助かる命。治癒が困難な難病……そういった存在が身近にある家族たちの物語だからこその現実感、そして生々しさ。このテーマを島田荘司氏は別角度である作品で扱っているが、北川氏の場合は内側に内側に入り込んでいくため、最終的に禁断の領域に至ってしまう点、ミステリとはいえど別の恐怖が物語の裏側に這い登ってくる。技術の存在が主題と思わせておいて、真のミステリはその技術を巡る思惑のなかに隠されているのだ。
もしかすると「医学フィクション」として発表した方が世の人に多く受け入れられたのではないか、という可能性も感じるが、その枠のなかでこれだけのどんでん返しを繰り返すのはやはり北川氏ならではかもしれない。いわゆるプロットの本格。様々な前提条件を組み替えることで、現実は次々と反転していく。この強引さもまた魅力である。

いかにも北川氏らしいフィールドにおける読者への変化球勝負。(直球勝負とはちと違う気が)。人間のタブー周辺で物語が進むため決して読中感覚が良好とはいえないのだけれど、それ故にどこか引きずり込まれる迫力があることも事実。そしてこれこそが北川歩実ワールドなのだ。


02/09/29
斎藤 肇「思い通りにエンドマーク」(講談社文庫'93)

'88年に講談社ノベルスより本作にてデビューを果たした斎藤氏。本書は「陣内先輩」が登場する三部作の最初の作品にあたり、この後『思いがけないアンコール』『思い上がりのエピローグ』へと続く。この講談社文庫版は表題作とは別に『名探偵大登場』という書き下ろしショートショートが収録されている。

ミステリマニアの大学生、「ぼく」こと大垣洋司は夏休みの間に経験した出来事によって「名探偵」という肩書きを付けられていた。事件から解放されてよれよれになって帰ってきた下宿で待ちかまえていたのは人はよいけれどお節介な大家のおばちゃん、そして体重100kg超、身長150cmの体型を誇る陣内先輩であった。彼らはぼくから事件の話を聞きたがる。それならと、ミステリ風にぼくが事件を語り始める。――夏休み、決して上手でないテニスの上達の為にぼくは友人の宇城に誘われ、山奥にある洞洛館と呼ばれる、宇城の知人の住む別荘へ合宿に出かける。崖の上を不安定な橋で渡ったところに建設された館は、天然の洞窟の入り口を塞いだ形となっており、内部も少し変わった造りになっていた。館には主人の角館俊之と妻の麗子、その娘、美佐緒、そして麗子の弟だという犬沢孝三、お手伝いのタネばあさんの五人が住んでおり、宇城とぼく、更に更に俊之氏が明智という会社関係の人物を連れてきていた。そしていきなりその晩、麗子夫人が密室で殺害される事件が発生する。続いて、電話線が切られていたため、麓に降りようと橋を渡ろうとした宇城も、橋の転落事故に巻き込まれかけて九死に一生を得る。果たして閉じられた空間に潜む犯人はいったい誰なのか?

古典本格を踏まえた深みある「名探偵もの」パロディは、現代「新本格」にも通用するものなのか??
「新本格」を語る際に決して外されない一冊であり、かつ今までも入手する機会なぞ何度もありながら何故か縁遠くきてしまった斎藤肇氏のデビュー長編。想像通り、いや想像以上に深みのある「本格探偵小説に対する考察」にいろいろと唸らされた。本作以外の「名探偵パロディ」といえば、名探偵の行動を皮肉ったり、アリバイや密室といった存在の非現実性をおちょくったりと、どちらかといえばミステリという創作物に付き物のガジェットをいじることによって成立しているものが圧倒的に多い。しかし、本作における「パロディ」はそういう付属部分に狙いを付けていない。寧ろ、「探偵小説」「ミステリ」の持つ本質的な物語構成の意識されない歪みを追求している。
一種の作中作として描かれる事件も、いわゆる本格ミステリファン好み――のクローズドサークル内部の密室連続殺人。一族に伝わる鬼の伝説といい、奇妙な館構造といい、洞窟の暗闇を探検するシーンといい、意外な抜け穴といい、横溝正史世界的探偵小説を現代風にしたといった匂いがぷんぷんして、それはそれで悪くない。いくつかの事件を経て「ぼく」によって導かれる解決も論理的であるように思えるのだが……。名探偵の解決に際して「さて」といって関係者を集められないとか、それ以上に肩透かしが多いところがポイントだろう。一見、名探偵ものとしてまとめられているのに、どこか居心地が悪いのだ。
もちろん、特殊なメタ構造には意味があり、陣内先輩が探偵としてしゃしゃり出てくる展開が待ち受けている。彼の推理による物理トリックの非現実性の方(そしてそれが真相であったとしても)が、パロディのような印象を受けたのだが、「なぜ名探偵が登場してすぐに事件が起きるのか」「なぜ名探偵が館に滞在する必要があったのか」などに対する考え方には、衝撃を受けた。このことに気付いて創作に活かしてしまう斎藤氏の慧眼には素直に驚きを覚える。(今なら、こういった点を取り上げて評論にする方がいてもおかしくない)。また、せっかく一生懸命事件を再構成して語って聞かせた「ぼく」に対する先輩とおばちゃんそれぞれの非情なひとこともまた印象的。現実とはそんなものか。

この作品が発表されたのは、まだいわゆる「新本格ミステリ」の黎明期にあたる時期。すなわち本作がパロディの対象としているのは古典の探偵小説であり、英米の本格推理小説であり、乱歩、横溝の時代の探偵小説である。それでも、作品にてパロられている事象は、結局そのままその後の十五年間に発表された本格ミステリにも往々にして当てはまってしまう。一種、作者も読者も無自覚の本格ミステリの伝統……に対するパロディとして、本作は未だ十分通用する「濃さ」を持ち続けている。 「本格ミステリ・クロニクル300」で取り上げられつつ現在、書店で入手出来ない本のなかの一冊。ある程度ミステリを読んできた方のほうが、この作品の持つ得体の知れない凄さを味わえるのではないだろうか。


02/09/28
鮎川哲也「王を探せ」(角川ノベルス'81)

先日惜しまれつつ逝去された鮎川氏の最後から二番目となる長編。とはいっても『野性時代』誌に'79年に発表された『王』という中編を改稿して長編化したものであり、既に二十年以上前の作品である。後に講談社文庫版が出たあと、それなりに入手が困難の状態が続いていたが、喜ばしいことに今年に入って光文社文庫版が刊行された。

亀取二郎はかつて伊豆のドライブ中、幼女を轢き殺してしまった。彼は咄嗟にその事件の隠蔽を図り、子供の遺体を埋めてしまう……が、その場面を一人の男、木牟田が目撃していた。木牟田は警察に通報しようとはせず、犯人の鼻血のついた子供の長靴を証拠として亀取を強請りはじめた。月々数万円を支払うことは亀取にとっては大したことではなかったが、将来のことを考え彼は木牟田を殺害する計画を立て、実行する。
評論家の木牟田盛隆がゴルフクラブで殴り殺されているのを通いの家政婦が発見した。彼は来客があるといって彼女を遠ざけており、その来客の名前は残されたメモから「亀取二郎」だと判明する。木牟田と亀取二郎の関係は捜査員は明らかに出来なかったが、その人物はスーパーの配達員から「知性を感じさせる中年男」と特定された。結局捜査陣は都下及び近辺に住む全ての「亀取二郎」をピックアップ、該当しそうな四人の人物を特定した。しかし、四人の亀取二郎は全て堅牢なアリバイを主張、丹那をはじめとする捜査員は裏付けに走る。

円熟期の鮎川哲也のアリバイ崩し、そして遊びごころを満喫すべし
本格ミステリ作家、鮎川哲也氏の紹介がなされるとき、本作が代表作品として取り上げられているというケースはまずない。後期の作品であり内容としてはよくまとまっているものの小粒だからだろうか。それでも、本書には後の作家が歯ぎしりするような素晴らしいコンセプトが込められている。それは「冒頭で犯人の名前を明かしながら、WHO DONE IT? を成立させていること」 確かにやり方としては洗練されていないようにも思えるが、このコンセプト、そして心意気だけで本格ファンが喜ばないわけがない。
洗練されていない、というのは先に捜査陣が容疑のある人物の名前をつかんで、ローラー作戦で同姓同名同年代の人物を引っ張り出してくること。(犯人が証拠を隠滅してしまっていたら、アリバイ崩しを待たずとも完全犯罪ではないか) とはいえその後、四人の人物が全て犯行当時のアリバイを主張し、誰のアリバイがニセモノなのかを捜査陣が徹底調査する段になるといわゆる「鬼貫ものらしい展開」となり、それはそれで不思議な安心感を伴う。彼らが述べ立てるのが本当のアリバイなのか、作られたアリバイなのか。丹那のヒアリングと同時に読者が考えるのは悪くない。ただ、本作の場合は少しその構造が専門的に過ぎる気もするが……。この「当時」限定でもあるので、二十年後の我々が解くのは事実上無理かも。あともう一つ、二回目の事件も「亀取二郎」の犯罪だとする「王」の論理の筋道にはちょっと苦笑してしまったり。カタカナで書けばいいじゃんか、とか。ただこのような強引さ含めて、それが鮎川哲也なんだよなぁ、と苦笑いしつつもどこか遠くを見てしまう……。 ふぅ。

鮎川哲也のアリバイ崩しとしてのエッセンスが多く感じられるものの、入門作品としてはどうかな、という印象。とはいえ、数に限りある鮎川長編、多くの方がすぐに行き着く作品ともなるだろう。鮎川作品を全て読まれるような方にとっては味わい深い一編であろうし、そういう位置づけが最も相応しいように思える。長い間、ご苦労さまでした。そしてありがとうございました。


02/09/27
五條 瑛「プラチナ・ビーズ」(集英社'99)

五條氏は防衛庁で調査・情報に関する専門職に就いた後、退職してフリーライターに転身。本書を書き下ろし発表した。本書は続編の『スリー・アゲーツ』へと続き、全四部作になるという。その『スリー・アゲーツ』にて第3回大藪春彦賞を受賞した。

白人と日本人のクォーターで日本人離れした容貌を持つ葉山は、祖国というものを持たない。彼は米国の情報機関と契約している《極東ジャーナル》という専門雑誌の編集者として働いていた。ただ、あくまでそれは表の顔であり本職は下っ端とはいえ米国のために働くアナリスト。養父で大学教授の田所から仕込まれた情報の整理術をもって、流れのなかから「金」を拾い上げる仕事だ。葉山の上司のエディ、同僚の「外見だけ日本人」坂下、日本女性を喰いまくる不良黒人のJD。個性派揃いの彼らのチームは、横須賀基地から脱走したと思われる兵士、ディーノの行方を追っていた。金沢県の海岸で発見された死体が彼のものと思われたが、顔面は潰され両手指が切り取られるというプロの犯行。単なる兵士が何を裏でしていたのか? 海軍での調査は思わしく進まない。一方、葉山は議員団について平壌に行った女優の卵から取材をしていた。彼女は思想的に全くノーマルだったが、彼女が出会った老人は、政治的に一度追放された経済通の大物、金達玄らしいと葉山は気付く。そして彼女を魅了した長身でスマートな謎の男性の存在が気にかかる。葉山は大学に田所を訪ねた帰り、その女性、工藤留美(本名:町田洋子)と偶然再会し、規定違反を承知で彼女と飲む。葉山は、彼女からいくつか新しい情報を引き出すと共に彼女にどこか惹かれるものを感じていた。しかしそれから葉山は謎の人物から尾行を受けるようになり、工藤留美が高速道路で事故にあって死亡したと聞かされる。果たして何が動いているのか?

平和で鈍感な日本が舞台のスパイ戦争。深く描かれるのは哀しくも国家のために生きる人間の人生と心情
物語そのものは北朝鮮が日本に仕掛けた、あるプロジェクトの帰趨を描くもの。その部分だけ取り出し、主人公の視点を変えれば恐らく本書は半分くらいになる可能性がある。単純な冒険小説ファンであれば、そちらの方が良いかとは思う。しかし、本書の狙いは恐らくそちらの盛り上がりにはない。(それはそれで、突飛な発想と現代日本の抱える問題点とが融合した素晴らしい発想であるにしろ) 本書の目的は、前半部に鏤められた、無関係でどうでも良いような情報やインタビュー、雑誌や新聞記事から丹念に「金の粒」を拾い出すことによって、世の中の流れや隠された動きを読みとるという情報分析家(アナリスト)の仕事の面白さ、スリルといった部分にある。 これはまた、作者が仕掛けた(そりゃフィクションである以上、本書もそうなのだが)伏線に対して、仕掛けられた謎のヒントを読みとる「本格ミステリ読み」の姿勢にもまた通じるものがありそうだ。更に、前半部の重厚な登場人物描写によって、ストーリーだけでなく物語としての重みを付け加えていく。国家とは何か、人は何のために生きるのか。そして彼らが何に突き動かされているのか。冒険小説としての「人間」の重みまでもが心の底にずっしりと響く作品である。
ただ、はじめから四部作のつもりがあるのだろうか、前半部から中間部における登場人物ひとりひとりに対する描写が執拗に登場する。確かに主人公の葉山にしろ、その決して相性の良いとはいえない相棒の坂下にしろ、ひとりひとりに細やかに複雑に過ぎる人生をこれまで既に送っている。彼らの姿をしっかりと立体化する意図があるのだろう。後で振り返ると本編の主題とあまり関係ない部分もあるように思うのだが、この描写もまた不可欠なのだと納得したい。
ただ昨今の彼の国と我が国の関係を見るにほんの数年前に発表された本作のような作品も、近く陳腐化してしまう恐れがあるのでは、とも思う。スパイスリラー系が最も面白いのはやっぱりリアルタイム。状況が変わると作品は過去の記憶となってしまうように最近感じることが多い。

……国産のスパイ小説……という表現が為されていることが多いようなのだが、情報戦こそ取り扱うものの旧来から存在するいわゆる「スパイ小説」の流れに乗っているとも思えない。国際政治スリラーに近い雰囲気に冒険小説の面白みが乗りかかっているといった印象。


02/09/26
松尾由美「銀杏坂」(光文社'01)

松尾由美さんといえば'91年にハヤカワSFコンテスト入選を果たした『バルーン・タウンの殺人』をはじめとする「バルーン・タウン」シリーズがSF+ミステリの系譜として語られることが多い(他の著作ではジェンダーの問題に真摯に取り組んだものも実は多い)本書のような独立した形のSFミステリ作品も存在する。'96年に『ミステリマガジン』誌に掲載された「横縞町綺譚」、さらに'00年から一年間『ジャーロ』誌に掲載されたその続編が一冊にまとめられたもの。

北陸にある地方都市、香坂。数人の幻想文学作家を輩出するこの街では、不思議なことが人々のなかにあまり抵抗無く受け入れられるような土壌があった。中年の刑事、木崎と若手刑事の吉村のコンビはなぜかそんな「不思議な事件」と巡り会うことが多かった。
交通事故死した女性の幽霊が出るということでその女性の家族が買い取って使用しているアパート。唯一の住人の持っていた宝石が無くなった。状況から家族しか容疑者がいないなか、木崎と吉村が現場に赴き綿密な調査を実施。その結果、彼らは幽霊と対面してしまう。 『横縞町綺譚』
木崎の上司にあたる安岡部長の親戚の女性。小さな頃から予知夢をよく見ており、それが全て的中してきたのだという。嫁いでしばらくしている彼女が今回久々に見た夢は、自分が夫を包丁で刺してしまうというものだった。木崎は彼女の予知夢が本当に当たっていたのかを調べることになる。 『銀杏坂』
深夜に若手会社経営者が何者かに殴られ怪我をした。容疑者として被害者に婚約者を奪われた男が浮上するが、彼自身そんな大それたことをやりそうなタイプではない。しかし、彼の姿は現場近くで目撃されていた。彼の姉はそれを「生き霊」だと主張する。 『雨月夜』
非番の木崎が散歩をしている途中、ビー玉を手も触れずに宙に持ち上げる練習をしている小学生と中学生の二人組に出会う。幼なじみだという彼らは「手品の練習」と弁明したが木崎は心に引っ掛かりを残す。そしてその小学生の家で殺人事件が発生した。 『香爐峰の雪』
ヤクザが経営する金融会社の社長が飛行機に乗ったはずなのに、空中で消え失せてしまった。その謎に悩む木崎の前に『横縞町奇譚』で出会った幽霊が何かを告げようとするかのように現れた。 『山上記』 以上連作五編から成る。

人の持つ、さまざまな思いが溶け込んでできた街……不可思議で優しい物語
地名をはじめとした固有名詞は全て架空の名称が与えられているが、恐らく本書の舞台となっているのは金沢市であろう。個人的には一度しか訪れたことがなく、観光地としての印象しか残っていない。だが、本書を読み進めると、伝え聞くところの金沢の持つ深い魅力と、本作における香坂という不思議な街とにどこか通底するものがあるように感じられる。
さて本作、いわゆるSFミステリとは言い切れないが、超常現象をミステリの要素として組み入れた作品である。ただ、その超常現象の扱いがこれまでの同系統の作品と少し異なっている。ミステリにおける超常現象の王道は、安易と誹られようが事件の解決にそれを使うもの。そしてもう一つは西澤保彦氏が開拓した、事件の発生原因の前提要因として超常現象を使うもの。しかし、本作はその二つとは微妙に異なっているように思う。ある意味実験的。初っぱなから幽霊が登場し、その幽霊そのものは「そこにある存在」として描かれている。その「そこにある存在」を微妙に扱うことでミステリの消失トリックを成立させている。それに予知夢、生霊、念動力、そして再び幽霊……。ただ徐々に、登場するその怪異も謎解きされて論理の世界に帰るもの、やっぱり不可思議なままのものとの両方があらわれ、「超常現象」の扱いの揺れが物語を今までに例を見ないかたちに進行させていく。とはいってもそれぞれミステリのツボは外していないし、どこか叙情性の強い物語一編一編に物語としての深い味わいがある。作品によっては本格ミステリ的ですらある。特に『山上記』の人間消失トリックの扱いなど、飛行機をよく利用する身にしてこれは巧いな、と唸らされた。
そして、これらが連作ミステリとして各編が繋がっている点も面白い。(ただ、物語を通じた余韻を膨らませる意味では成功しているが、サプライズという意味では正直それほどでもない)。その締めくくり方そのものの是非はとにかくとして、物語全体からくる余韻の暖かさは、松尾さんならではのものだろう。

とある集まりである方が加納朋子さんの『ささら さや』との比較に本書を持ち出しておられたので、慌てて読んでみた次第。表向きは似ている部分もあるが、個人的にはその「超常現象」の扱いと、物語を通じて印象的なイメージとにかなりの差異を覚える。ただ、いずれも作者それぞれの「暖かさ」がみえている点は共通しているともいえるのだが。ちょっと不思議な本格ミステリ。(ああ、平凡な表現に落ち着いてしまった)。


02/09/25
京極夏彦「覘き小平次」(中央公論新社'02)

'97年に刊行され泉鏡花賞を受賞した『嗤う伊右衛門』と系統を同じくする、京極流の怪談本、書き下ろし第二弾。巻末によれば原作は山東京伝の『復讐奇談安積沼』(1803)のようだが、その他同系列の異本も数多く並んでおり、京極オリジナルの怪談となっているものと思われる。

元は名門の一座にいながら演技の余りの拙さに破門を言い渡された木幡小平次。彼が評価されるのは唯一、怪談の幽霊役だけ。周囲の彼への評価は辛気臭いとか、うすのろだとかばかり。死ぬと死臭がするという魚、小鰭と掛けて、小鰭小平次とさえ呼ばれていた。小平次は前妻の志津を貧乏故の病で亡くし、続いて芝居の師匠に素質有と見込まれながら薬売りの養子に出した息子もまた暴漢に殺された。その後、訳ありで迎えた若妻、お塚に蔑まれながらも日々押入れに籠もり我が身の気配を消して暮らす毎日。そこへ小平次の朋友、囃子方の鼓打ち、多九郎がやって来る。彼は小平次を奥州で行う怪談芝居の出演の交渉を小平次に対して行いに来たのだった。うん、とも、すんとも言わない小平次だったは結局はその一座に加わり、幽霊役を演ずる。彼の演技が評判になり、田舎のこともあって講演は盛況であったが、心中複雑なのは立女形の玉川歌仙。さらにその地には親をも無造作に斬り殺した大悪党、動木運平がおり、彼の周囲には小悪党が集まっていた。なかでも地元の藤六は芝居を贔屓にする地元の名家、須賀屋の娘に横恋慕しており、生臭坊主の現西に唆されてその娘を襲おうとするのだが……。

ミステリ的で、現代文学的で、シリーズ作品にも通じていて、それでいて紛うことなき京極「怪談」
有名な話だが、京極氏の発表する作品は頁の変わり目までに必ず一文を終えている。つまりどの頁を捲っても最後の一文字は必ず「。」で締めくくってあるのだ。ノベルスを文庫に落としたり、ハードカバーをノベルスに落としたりする際にもその主義は徹底されており、氏の場合、媒体が変化するたびの作品の改稿が大きいせいか文庫になると「文庫版○○」とまで題されている。(私はノベルス版と文庫版の読み比べをしていないので、どこまで変わっているのか実はよく分かっていないのだが)。
と長々と前振りしたのは意味がある。もちろん本作『覘き小平次』(のぞきこへいじ)も、その約束が徹底されている。ポイントは、その「。」で終わる文章によって、物語の怖さが倍加しているように感じられることだ。本を読む、という行為を考えた時、字面を追っていけば普通場面が頭に浮かぶ。頁を捲る時にはその時の状況が頭のなかに入ったまま次の頁の冒頭にそのまま移るのが普通だろう。しかし本作、頁と頁の隙間が文章の結末によって強調される。その結果、一旦そこで物語が区切られるのだ。つまり「次の頁に何が書かれているのか」が事前に予想できない。その結果、極端な表現をすれば「頁を捲る前に必ず息を吸い込む」ような感覚に襲われる。これがなんとも怪談独特の「厭さ」を引き立てる。京極氏はその意味で、現役では有数の文章のマジシャンだともいえよう。(あれだけ普段使用しない漢字を文章に当てているのも凄まじいが)。

物語そのものに目を向けると様々な要素を内包していることに気付く。怪談噺に相応しい個性的で特異なキャラクタ。彼ら同士の秘められたミッシング・リンク。京極氏得意の操りテーマを発揮したミステリ。更に殺人劇における何重ものどんでん返し。江戸時代を舞台にした都市伝説的分析も面白いし、何よりも登場人物が抱えているさまざまな懊悩を作中で「憑物落とし」してしまう手腕は、見事としかいえまい。一つ気付いたのは、馳星周氏が暴力でしか自己表現できない男に、西尾維新氏が戯言遣いに与えている、「人間の究極的本質」についての京極氏なりの解釈、そして表現が為されていること。 分かりにくいかもしれないが、心に欠片があったり、そもそも心の拠り所がなかったりする人物が掘り下げて描かれる。また、怪談という体裁でありながら、章ごとに語り手となる登場人物が入れ替わり立ち替わり物語視点を担っている。そのため小難しいように一見みえる文章も気にならず、物語が頭のなかにすいすいと入ってくる。もちろんこの結果、読者が怪談噺の内側に踏み込まざるを得ないという別の「厭さ」をもまた醸し出されるのであるが。
江戸時代の人間模様を凝った文章で綴りながら、その深い人間観察は現在にまで確実に通じるものがあるのも特徴。特に主人公と妻であるお塚の関係が特に渋い。人間は好悪いずれであっても関係性のなかに生きている。たとえ嫌われているのだとしても、彼らにとってはその関係性そのもの喪われるときが最大の恐怖なのだ。だから、お塚は小平次を嫌い、小平次はお塚に嫌われようとする……。どこか哀しい。

事触れの治平や、小股くぐりの又市などお馴染みのキャラクタも登場。ただ彼らの活躍する他作品への言及等はなく本作だけを読むのも、もちろん可。ミステリとしても、厳密な意味でのホラーとしてもどちらつかずにはなっているが、本書はそれらを超越した「京極文学」ともいえる存在なのだから仕方ない。濃密な文章が醸し出す濃密な空間。この物語では空気に粘度があるかのよう。
『姑獲鳥の夏』で出会った当初から京極夏彦は凄かった。しかし、本書等で見る限り、その凄い京極夏彦は更なる凄さを身につけ、新しい地平へと着実に歩み続けていることが感じられる。京極氏はオンリージャンルを創り出せる作家なのだ。偉大。


02/09/24
山田正紀「僧正の積木唄」(文藝春秋 本格ミステリ・マスターズ'02)

文藝春秋社の80周年記念といわゆる「新本格ミステリ」の十五周年を記念し、綾辻行人、笠井潔、北村薫、二階堂黎人の各氏が編纂委員を務めて刊行された「本格ミステリ・マスターズ」。その名の通り、現代本格の中心となる第一世代、第二世代の書き下ろし作品を集めていく模様。本書は島田荘司氏と柄刀一氏らの作品と共に発表されたその第一弾にあたる。

1929年に起きた華麗で陰惨な「僧正殺人事件」の舞台となったバートランド・ディラード邸。193X年、それまで欧州にいた事件の関係者の一人、数学者のアーネッソン教授は単身米国に帰国、そのディラード邸に一時的に滞在していた。そのアーネッソン教授が届いたバースデイプレゼントの包みによって爆殺させられたと思しき事件が発生。政界を狙うマーカム地方検事は、当時の米国の黄禍論を微妙に察知、現場に残された封筒から、使用人であった橋本という男を犯人と断定する。日系人社会の有力者、比奈継貴は当時サンフランシスコに滞在していた日本人、金田一耕助を、旧知の久保銀造を通じて招聘、橋本の無罪を晴らそうとした。早速、NYにやって来た金田一だったが事件の捜査にあたって出来たばかりのFBIの妨害に遭うも、久保や橋本の弁護士であるリナ・ターナらと協力し、事件の捜査にあたる。「僧正殺人事件2」と呼ばれるこの事件と対峙するうちに、金田一の心のなかではこれまで解決されていたとされる「僧正殺人事件」が実は解決されておらず、僧正(ビショップ)は別に存在することを確信し始めた。

時代を描くことにも、オマージュを捧げることにも、本格のロジックで勝負するのにも、全てに長けた山田ミステリの完成形
二賞受賞の大作、『ミステリ・オペラ』にて本格ミステリの曼陀羅を紡ぎ上げた山田氏が、また異なる方法論を用いて新たな地平を切り開いた……大袈裟でなくそう言い切ってもいいような作品。そしてまず、その基本となるのは「偉大な先行作品への愛」である。ヴァン・ダインが描くところの衒学趣味の権化、ファイロ・ヴァンス、横溝正史が生み出した偉大な名探偵、金田一耕助。そして作品内部に鏤められた、その他の先行探偵小説群への細やかなオマージュ。マニアであればあるほど「にやり」とさせられる設定が目白押しなのだ。(もちろん、古典探偵小説を知らなくとも本書は楽しめる)。「僧正殺人事件」の犯人は実は異なるのではないか? という問いかけそのものももちろん興味深い。また中盤では、近年あまり見なくなった裁判ミステリ風の駆け引きがあり、そもそもの殺人事件の謎、暗号、ダイイングメッセージとアイデアもてんこ盛りで、読みどころは十二分にある。事情があったとはいえ、事件の最中に金田一が現地を離れなければならなくなるところなど思わず含み笑いが。
そして山田ミステリの一貫したテーマである「時代」と「日本人」がまた全体をしっかりと覆っており、エピソードのみならず物語全体からも深い印象を受ける。 特に本作では、米国に移住して苦労した人々が、日米開戦を控えていくつもの権利を取り上げられ、虐げられていく様が重要な主題となっている。何よりも単純に彼らの苦労を描くのではなく、読者は「なぜ彼らがそんな目に遭わなければならなかったのか」というアプローチが徹底しており、直接の表現はなくとも「戦争の愚」がじわじわと心に浸み入るような展開になっている。これが実に渋い。本作に限ったことではないが、この「時代」という代物が、山田氏の手にかかると別の化け物へと変じてしまう様子には常に感心させられる。
そして、一見平凡ともみられた事件が収束していくに連れ、その裏側には「当時の米国」の姿が見え隠れしはじめる。事件の真相も、裏の解決も、人種のるつぼがるつぼに成りきれていなかった未成熟な米国社会を象徴しているよう。最終的に明かされる連続殺人の犯人もWHo done it? として十分に意外だし、序盤から張られていた細かな伏線の回収方法も見事だし、その犯行動機にもまた慄然とするものを覚えることだろう。だが、それらのバランスがまたこの「時代」のなかでひときわ説得力をもって語られるところが本作の本当の凄さになる。さらに付け加えると、本作における金田一耕助がめちゃめちゃ格好いい。これもやっぱり基本である重要なポイントか。

米国滞在中の金田一が、彼の地で難事件を解決するという趣向そのものは、近年では芦辺氏の贋作が記憶に新しいが、それ以前にも試みられていた作品があったかと思う。本書はそれらの先行作品に勝るとも劣らない奇想、そして+αが作品に込められている。文量も適正だし、これまで山田ミステリと親しんできた読者にとっては素晴らしいお買い物になることは、まず間違いない。山田ミステリの魅力を率直に伝えてくる千街氏の評論も面白かったし、インタビュー、そして著作リストも合わせると非常にお得度が高い一冊。
……最後にぼそり。こっちの方が『魔神の遊戯』という気がしないでもない。


02/09/23
若竹七海「古書店アゼリアの死体」(カッパノベルス'00)

ヴィラ・マグノリアの殺人』に続く、若竹版コージーミステリの第二長編。舞台はお馴染み、湘南海岸沿いの葉崎市で前作に引き続く人物も多数登場する。

勤め先の出版社が倒産し失業、気晴らしに宿泊したホテルでは火災にあって死体を間近に見てしまい、ショックで円形脱毛症にかかったところ新興宗教に勧誘されて、逃げだそうとして足首を捻挫――不幸を全身に背負った三十路女、相澤真琴は長年の夢である「海辺のバカヤロー」を実行するために葉崎の砂浜に来ていた。しかし、彼女はそこで水死体を発見してしまう。しかもその死体は葉崎の名門一族の失踪した息子、前田秀春ではないかと思われた。しかし前田家はFM葉崎を経営する満知子を筆頭に、お金と名誉を巡るきな臭い側面を持っていた。FM葉崎のアナウンサー、渡部千秋は先輩ディレクターの工藤がいち早く死体発見の報を察知し、情報を集め回っていることに気がつく。一方、真琴は葉崎の街を歩き回るうちに一軒の古本屋に入る。そこはロマンス専門『古書アゼリア』。経営者の前田紅子に気に入られ、彼女が検査入院する暫くの間、店を破格の給料で預かって欲しいと頼まれ、思い切って承諾する。しかし、その老齢で気っ風の良い前田紅子は前田の分家の女性で、実は大金持ち。前田秀春を親代わりに面倒を見ていたのだという。刑事の五木原、駒持らも加わり、広くはない葉崎の街は関係者がいっぱい。そして真琴はアゼリアの中で、再び死体と相まみえる。よりによって、最も疑いが強いとされていた満知子の死体と。

若竹コージーに限らない? ご近所と親戚が集う昼ドラ舞台のミステリ世界
一応真っ当な勤め人が表の姿ということもあって最近、とんと昼に放映される連続ドラマ(≠NHK連ドラ)を見ることがない。ただ、噂ではここ何年かスゴイらしい。何がどうスゴイかといわれるとやっぱり見ていないので説明できないのだが、ま、あくまで聞いた話だとどろどろぐちゃぐちゃにスゴイということだ。
そんな前振りと関係あるようなないような。作中でも「昼メロみたーい」というような意のことがしばしば登場するのだが、読んでいるこちらとしても、作品そのものに似た匂いをかぎ取ってしまったということか。試みられているのはコージーであり、いわゆる「日常の謎」とは少し違う。だが、二十代後半から三十代の自立した女性と、彼女たちの日常のなかで発生する事件は、仕事関係、親子関係、恋愛関係、友人関係と普通に生活している社会人における「関係性」が中心となるため、どこか世界に「枠」が嵌め込まれている印象がある。(そして我々が普段生活している世界もそうなのだ)。 その狭い世界のなかで次々と発生する事件。互いに互いを疑い、疑われる困った事態。投げ込まれる事件そのものの「謎」は論理と分析ではなく、登場人物の関係性をもとに推理せざるを得ない。凝ったトリックやアリバイ検証よりも、重要なのは「実はあの人とあの人は××の仲だったのだ!」という近所の噂話的な「情報」だったりするわけで。殺人事件も発生するし、その犯人はもちろんラストまで明かされない。だけど、どこか「謎解き」という雰囲気よりも、どたばたする日常の動きの方に面白みがあるように思える。恐らくその面白みのポイントの差が、どことなく「昼ドラ」を思わせるのではないだろうか。
もちろん若竹さん自身を投影したということはないだろうが、主人公をはじめとした登場人物がいきいきと描かれており、葉崎という架空都市のほのぼのとした雰囲気や町並みに対する細やかな心配りも作品のバックアップに役立っている。そして何よりも、軽妙な会話がよろしい。芯のある大人の女性ならではの発言の数々に「どきっ」とさせられること多数。男がハードボイルド作品の中身以上に「台詞の妙」を楽しむように、女性がこういった作品の「台詞の妙」を楽しむ、というのもありだろう。(近年の若竹作品は、そういった「台詞の妙」がいい味を出しているケースが本作限らず多いのだが)。

紹介している通り、いわゆる「本格ミステリ」の系譜に連なる作品ではなく、大人の女性が軽い読み物として楽しむために創られたミステリ。 作中のゴシックロマンに関する奥の深い蘊蓄は、そちら系統の読者には痺れるものがあるのだろう。(特定のジャンルのマニア同士で交わされる会話という意味では、意味そのものは異なれど、まぁ雰囲気はよく分かる……)。ただカッパ・ノベルスという叢書で刊行されている点、その本来想定される読者に本書が手に取られる可能性が低そうなのは勿体ないか。


02/09/22
島田荘司「魔神の遊戯」(文藝春秋 本格ミステリ・マスターズ'02)

文藝春秋社の80周年記念といわゆる「新本格ミステリ」の十五周年を記念し、綾辻行人、笠井潔、北村薫、二階堂黎人の各氏が編纂委員を務めて刊行された「本格ミステリ・マスターズ」。その名の通り、現代本格の中心となる第一世代、第二世代の書き下ろし作品を集めていく模様。本書は山田正紀氏と柄刀一氏らの作品と共に発表されたその第一弾にあたる。

スウェーデンの大学に勤務するミタライ教授がお茶の時間に周囲に語った物語。それはミタライ教授が昨年、スコットランドのネス湖のほとりに滞在していた頃に発生した事件だった……。
ネス湖の湖畔、ティモシー村に住んでいたロドニー・ラーヒムは村を追放された。ある時期、村に母親と二人で移住してきた彼は、母親の死後に奇行が目立ったため、王立の精神病院に入れられたのだ。ロンドンに移り住んだラーヒムは突如絵画に目覚め、精緻な筆致で何十枚もの絵を描き始めた。ラーヒム自身も知らなかったことだが、その絵は彼がかつて暮らしていたティモシー村の昔の風景らしかった。ミタライ教授は彼に会い、いろいろ話を聞く。彼は自分は未来の記憶を持つといい、その村に実際に出向いたら処刑されると信じ込んでいた。ミタライは彼のためにその村に行くことを約束する。
一方、ティモシー村に滞在中のアル中作家、バートンは毎晩のように、パブで飲んだくれていた。その地でオーロラが観察できたある晩、無理矢理外に連れ出されたバートンらは、ヒイラギの木の上に女性の顔があることに気付く。大騒ぎで下に下ろされたそれは、ティモシー村に住む六十代の女性、ボニー・ベニーの頭が黒いプードル犬の胴体に縫いつけられたという奇妙な代物だった。小さな村は大騒ぎとなり、また死体の腕が小さな飛行場のセスナ機の中から発見される。しかもそれは別人のものだった。

往年の島田荘司が帰ってきたのか、島田荘司が「新本格」の流れに身を投げたということなのか
一部を除くと事実上の「島田荘司・編」「島田荘司責任編集」「島田荘司+誰か・共著」という近作を読んでいない、というか読む気がしていないのだが、さすがに御大の書き下ろし長編、しかもこれまでの国産ミステリの歴史を語るのに欠かせない御手洗ものとなると外すわけにはいかないだろう。
海外に出たっきりの御手洗教授(!)が探偵役を務める久々の長編。舞台はネス湖近くの小さな村。猟奇的バラバラ連続殺人、奇妙なところに据え置かれる死体の一部、事件と共に鳴り響く魔神の咆吼……等々、道具立てはここ数年の島田荘司作品を飛び越えて、往年の御手洗潔シリーズの作品を彷彿とさせる幻想的かつおどろおどろしいものが並ぶ。 石岡が登場しない代わりに、イギリス人のアル中作家が記述担当を務めることによる構造の類似も気付いておきたい。その結果、海外御手洗であるに関わらず、往年の作品に似た雰囲気となっている。また、本作ではメインテーマにユダヤ教という宗教を取り上げている。並みの作家が尻込みするような世界的テーマを、日本国産のミステリに持ち込むあたりの大胆さも、いかにも島田荘司氏らしい力強さ、剛胆さを感じさせる。特に幻想的な死体が続出する序盤は島田ファンであればあるほど「ああ、これこそ島田荘司だよな」 と感涙するであろうことはまず間違いない。
一方で、海外の村社会という一見分かりやすいようでいて、実は日本人にはあまり馴染みのない環境を舞台としていること、記述者のスタイルが石岡と同じであるにかかわらず、アル中特有の描写に凝りすぎて回りくどさがあることなど弱点もある。しかし、個人的にもっとも気になったのは事件の大枠を包むあるトリックの方。この手そのものは既に「新本格」登場より十五年、バリエーション含めれば十では効かないミステリ作家が試みているようなもの。今更にして島田荘司というビッグネームが試みることなのか? という素朴な疑問を受けた。裏返せば、これまで若手作家を引っ張ってきた島田荘司という偶像が、その(彼からみて)若手作家の好んで用いるトリックを自作でも(いくらサプライズのためとはいえ)試みる必要があったのだろうか? あくまで人によりけりという前提ながら個人的にはちょっと「?」である。とはいっても、本書は島田荘司ファンにとって、今年の必読である点は間違いないのだが。

本格ミステリ・マスターズという試みそのものについてはいろいろ思うところもある。(特に編纂委員が期待しているような若手読者の新規獲得という意味で)が、それについてはここには書かない。島田荘司の復活、という事実そのものにおいて、この作品と昨年の『ロシア幽霊軍艦事件』は二つの道標と成りうるだろう。スコットランドの自然や街の異国情緒に浸りながら、秋の夜長を楽しむには好適の一冊。でも、御手洗潔には、そろそろ日本に帰ってきて欲しいような。


02/09/21
柳 広司「黄金の灰」(原書房'01)

後に『贋作『坊ちゃん』殺人事件』にて第12回朝日文学新人賞を受賞し、本格ミステリ作家として認知されるようになる柳氏のデビュー作品。'88年に『拳匪(ボクサーズ)』にて歴史群像大賞佳作を獲得したのがこの段階での経歴。なるほど、最初はやはりというか歴史小説畑だったのか……。

ドイツの小村で身体が弱く貧しかった少年、ハインリッヒ・シュリーマンは不運続きの人生を送っていたが、思いきって飛び込んだ船が難破し、生き残ったところから彼の人生は別人のように変わった。ありとあらゆる国を旅し、取り憑かれたように富を増やし続けた彼は、41歳になった時、彼は若き妻とともに少年時代からの夢であった「伝説の都市トロイア」の発掘に人生を賭ける。オスマン・トルコの僻地でギリシャ人人夫を使って日がな土を掘り起こす毎日。そんなある日、彼は遂に黄金を発見する。その事実をひた隠しにして住居に黄金を持ち帰り、信頼出来る米国副領事カルヴァートを呼び寄せた時には、彼の住居は武装した兵隊に取り囲まれていた。シュリーマンは彼らが強行突破してこないことを看破し、くつろぎながら一晩を過ごす。シュリーマンのことを「黄金に取り憑かれた猿」と喝破した変人・ヨナ修道士、教区のロイソス神父、たまたま訪れていたブラウンと名乗る米国人、シュリーマン夫妻が信頼するニコラスとヘレナ夫婦。彼らが宿泊したその晩、タマネギ箱に隠した黄金は消えてしまう。続いて崩壊した発掘現場でロイソス神父の無惨な遺体が発見された。しかし黄金は見つからない……。

着目点鋭い歴史ミステリとも、密室殺人テーマの本格ミステリとも。いずれにせよ一筋縄ではいかない
私は「柳広司氏」に関しては、どちらかというと話題にのぼってから注目したということもあってデビュー作品から順に……という読み方が出来ていない。結果、デビュー作品である本作品を既刊の他3冊を読了した後に振り返ることとなった。
まず本書の試みについては素直に評価されよう。 なんといってもシュリーマンである。……しかしシュリーマン。偉大な大商人で、あのギリシアの財宝を掘り返した人! という反応は、歴史にそれなりの造詣の深い方でないとまず出てこないのではないか。そんな日本人からすると”マイナー”な有名人を主人公に、ミステリを書いてしまった点、一見無謀な印象さえ感じる。が、しかし、柳氏自身はもともと歴史小説畑の作家でもあったのだ。これは逆に作者の得意なフィールドへ、読者をおびき寄せる罠ではないか。その結果、このシュリーマンが佇むトルコの荒野の一角に読者も共に立たざるを得ないようになっている。
そして本書は次の試みがなされている。まずはシュリーマンの経験した「密室殺人」及び、危機的な状況に関する推理。 これは「本格ミステリ」を系譜とする正統派のもの。当時を設定しつつ、刊行されていたミステリ(外国産)に言及が及ぶあたりはミステリのマニア心をくすぐる。そして、もう一つ、シュリーマン自身の半生に関する謎解きをもまた、作者は同時に一つの作品で行ってしまっている。これは、一種の「歴史ミステリ」の変形となるのであろうか。無駄のない登場人物配置により、回想などがさらりと登場、これもまた効果的な演出がなされている。ただ、メインとなるのはやはり密室や消失トリックであり、こちらは種明かしされるとニヤリとさせられてしまう仕掛けが凝らされている。舞台は背景の説明と思われる前半に、こっそりと伏線を忍ばせておくテクニックもだし、事件の真相が当時特有の風俗も事件に関係しているところも素晴らしい。
一方、せっかく大きな謎を二通りにしてあるにもかかわらず、その個々の演出が今ひとつ読者に伝わりにくい印象もまたある。というのは、読者のフィルタによっては、密室殺人に主眼がいくかもしれず、シュリーマンの謎に主眼がいくかもしれないということ。両方を楽しむためにはそれなりの読前の意識が必要なような気もする。

とはいうものの「ミステリエンターテインメント」としてのレベルの高さは疑いようもない。(たまたまノベルスを手がけない出版社からばかり刊行されているせいなのか) 現在のところ著作がハードカバー四冊という状況が一般読者への敷居となっている可能性があるが、もっと広く読まれて良い作家だと改めて感じる。ということで、まずどれでも手にとってみて欲しい。本格ミステリファン、そして歴史ミステリファンのどちらの期待をもまず裏切ることはない。
最後に登場人物の台詞の「」のなかにさらに()があるのは、気になるを越えて引っ掛かりまくり。非常に読みづらい。(実際どう言葉にするのだ?) ここばかりは今後文庫等で改稿の機会があるのであれば是非訂正して欲しい。