MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


02/10/20
佐々木俊介「繭の夏」(東京創元社'95)

'94年、第6回鮎川哲也賞は第1回にも似た激戦となった。最終候補六作品から見事受賞したのは、後の推理作家協会賞受賞作家ともなる北森鴻『狂乱廿四考』。本書は惜しくも佳作となった。もう一作佳作となったのは村瀬継弥『藤田先生のミステリアスな一年』である。

ある八月の夏、大学四年の姉、祥子と高校二年の弟、敬は藤森家を出て引越をした。両親を早くに喪った姉弟は世話になった藤森家を出て、藤森家の娘、咲江がかつて同じ鷹岡大学に通っていた頃暮らしていたカナリア荘に越したのだ。引越を終え、荷物を整理していた二人は、天井裏の片隅から古ぼけた人形を発見する。出来こそ悪いものの人形劇で使用されるものに酷似していたことから、二人はその人形は咲江が所有していたものではないか、と考える。しかもその人形の中から子供の書いたような字で「ゆきちゃんはじさつしたんじゃない。まおうのばつでしんだんだ……」と書かれたメモを発見するにあたって、八年前に起きた痛ましい事件との繋がりがあるのではと二人は考え始めた。咲江は優しい性格で学生時代は児童文化研究会に所属していたが、八年前に部室で自殺をしていた。祥子は現役の児童文化研究会員から、彼女の死が他殺かもという噂があることを聞き、咲江の死について敬と二人調べ始めた。彼らは咲江と同期で研究会に所属していた本堂達哉、水嶋悦子、芝草裕市、南真紀夫の四人から話を聞き、咲江の死の少し前、研究会が訪問した福祉施設で「ゆきちゃん」が自殺した事件があったことを知る。

「匿された過去の秘密」を暴くことの愉悦、その反面の恐ろしさを描き出す、哀しく切ない青春ミステリ
鮎川哲也賞受賞作品のハードカバー版巻末にはその回の審査員による選評が掲載されている。本書が佳作受賞した第6回の受賞作、もう一編の佳作ともに文庫化前に(村瀬作品は文庫化されていないか)読了したこともあり、本書を手に取る前に選評だけは既に目にしていたことになる。本書について、紀田順一郎氏は「あとあじがよくない」と述べ、中島河太郎氏は「殺人の動機に首をひねった」とあり、おおよそ力はあるが暗い作品であることを暗示されていたため、手に取る機会を逸してしまっていた。
これも「選評」に引っ張られてしまった印象で恐縮だが、仁木雄太郎・悦子の姉弟をどこか想起するものがある。年の少し離れた姉弟がのめりこむ「探偵ごっこ」。各種手掛かりの提出方法など御都合主義的なところが目に付かないでもないが、(全てのフィクションは御都合主義なんだが)その捜査の過程はなかなかにスリリングであるし楽しい。学生である二人がはじめて触れる「大人の社会」。どこか「はじめてのおつかい」にも似た初々しさが全編に漂っている。また、二人の境遇からか「生きていく」ことに対する真摯さも感じられ、それもまた良い。
一方で、結果引き出される恐るべき結末。こういったスリーピング・マーダーもの(過去に起きたかもしれない事件を暴く)につきものの、「過去の被害者の名誉を回復するために、現在は平穏に暮らしている犯人と、周囲の人間の幸福をぶちこわしにする」という命題がある。謎を暴いた人、暴かれた人ともにハッピーになりにくいという宿命的な仕組みは、本作においても「やはり……」という形で直面させられた。探偵二人によるインタビュー形式の過去探索、故人が持っていた感情が「優しい」だけではないところ、青春ミステリとして浮き彫りにされる各人それぞれが抱えていた懊悩、繭をテーマにしたトリック、そしてその解釈――それら個々にはそれなりに面白く、工夫も凝らされている。ただやっぱり解決シーンの持つ独特の暗さに隠され、残念ながら全体としては印象がぼやけてしまった感。本書だけにいえることでもないが、過去の犯罪を第三者が暴くという設定は、使いやすい一方で物語を「さっぱりとしたエンタテインメント」に仕上げるには非常に難しい題材だと改めて感じた。

現在は創元推理文庫版が刊行されており、そちらで入手するのが普通かな。ミステリとして構成、トリック、人間関係全てがしっかりと完成されているのに、読後感の一点にて損をしている作品。 ただこの点については私がそう思っただけで、貴方は全く異なる印象を持たれるかもしれない。そればかりは個々人が読んで決めれば良いことである。


02/10/19
斎藤 肇「思いがけないアンコール」(講談社文庫'95)

'88年に講談社ノベルスより『思い通りにエンドマーク』にてデビューを果たした斎藤氏。本書は'89年に発表された「陣内先輩」が登場する三部作の二作目にあたり、この後『思い上がりのエピローグ』へと続く。「思い」三部作で講談社文庫で読めるのは本作までで、三作目は講談社ノベルス版を探しまくる必要がある。(ただ経験則では、ノベルス版で三冊並んでいるのをリサイクル系古書店ではよく見かける)。

夏休みの事件を終えて平凡な日常に戻ったはずの「ぼく」こと大垣洋司は再び「名探偵」としての出動要請を受ける。思いがけないアンコール。「まだ事件は始まっていないのです……」 依頼人の新津省吾が持ち込んできたのは古風ともいえる殺人の予告状だった。政界・財界の黒幕、高槻貞一郎宅に舞い込んだそれを「名探偵」に解決してもらいたいのだという。日当に引かれてぼくと陣内先輩は連れだって高槻邸へと乗り込むが、円形の敷地の四方に同じ形状の館が建ち、芝生の敷き詰められたその中央部では円形のお堂が回転している……という奇妙な構造を持っていた。陣内先輩は「起きるかもしれない事件ではなく、起きた事件を解決するのが名探偵だ」高槻貞一郎相手に一席ぶって認めさせるのだが、直後に高槻貞一郎は変死してしまう。蛇のブロンズ像が首に巻き付いて首の骨を折っているその姿は予告状の通り。そして予告状には第二、第三の殺人予告がなされており、解決を焦る「ぼく」は一気に窮地へと陥っていく。

古来より通じている名探偵ものに対する徹底的かつ的確な皮肉。冷静、だけど暖かな探偵への視線
前作『思い通りにエンドマーク』において斎藤氏は「名探偵」という存在をかなりメタ的視点で捉え、その存在そのものをミステリにおける謎に対する論理構築の鍵として物語を作成していた。本書もまたその意味で作者の立脚点は近い。まだ事件が発生する以前から、脅迫状が届いた段階で「名探偵」が招かれる事態……。実際には誰も傷つかず、困惑以上の被害がない段階で、依頼者にとって見ず知らずの「名探偵」が舞台に招かれる意味とは一体どういうことなのか。 本書の「謎」を解くためには、主人公「名探偵」と同じ地平に立つことは許されない。陣内先輩のいる立場――メタ的視点から物語を見つめる必要があるのだ。
その点に思い至ればある程度のマニア以上であれば、本作の全体構図はすぐに見えてくるはず。いくら事態の進行につれて主人公が困惑していようと、陣内先輩が真っ先に気付いた点については分かって当然だろう。そしてその構図に従って物語が予想通りに進むことにほくそえむことさえ許される。……しかし、本書が凄いのは、その構図に上乗せする形で更に罠が仕掛けられている点にある。 つまり、主人公同様に何が起きているのか理解できなかった読者はもちろん、作者の仕掛けた第一関門を突破したマニアでさえも驚かされるある趣向が作品に凝らされているのだ。ミステリマニアさえも驚かす上級のテクニック。一般的とはいえないながら、このようなミステリが十年もの昔に世に問われていたことに驚きを禁じ得ない。ミステリマニアを自負される方ならば、読んでおいてまず損はない作品。

尚、この文庫版は『名探偵大競技会』というショートショートのおまけ付き。前作の『名探偵大登場』もそうだったが、こちらはこちらで独特の味わいがあって楽しめる。特に本書は流水大系(とまでいかないか)を彷彿させる設定のなかのパズル系本格だが、バカミスなりの論理が際だっており印象的である。


02/10/18
剣持鷹士「あきらめのよい相談者 ――剣持弁護士の多忙な日常」(東京創元社'95)

'93年、『五十円玉二十枚の謎』の一般公募において、日常の謎に「検事」という存在を持ち込んでみごとに最優秀賞を受賞したのが高橋謙一氏。その高橋氏が剣持鷹士に筆名を変えて、「あきらめのよい相談者」にてみごと第1回創元推理短編賞を受賞したのがその翌年のこと。そして受賞作を表題作とする本短編集が'95年に刊行された。

若手弁護士で事務所務めのイソ弁、剣持鷹士。彼には学生時代からの友人で女王光輝、通称コーキがいる。コーキは一見複雑な事柄を繋ぎ合わせるという独特の才能を持っていた。
九州は博多にある弁護士ばかりの入った雑居ビル。剣持弁護士のところにやってきた老人の相談は「ホテルの照明が暗くて自動ドアのガラスに気付かず頭を打って怪我をした。賠償を取りたい」というもの。このケースは難しいという剣持の説得に対し、老人はあっさりと引き下がるが、彼は他の弁護士事務所に出向いて回って同じ相談を繰り返していた。 『あきらめのよい相談者』
剣持の友人、広瀬の住むマンション。朝、彼が出勤しようとするとエレベーターが2Fに止まっていることが多いのだという。確率的にあり得ないことだが、朝帰りの水商売の女性がいれば説明がつく。一方剣持の方は、婚約不履行を主張する若者や、多重債務の女性などそれなりに忙しい毎日を送っていた。 『規則正しいエレベーター』
調停が不調に終わったために離婚裁判を起こしたいという魅力的な女性。彼女の夫がある宗教にかぶれているのが原因。しかし相手は女性の無理解が原因だと主張、ある日彼女を正すべく宗教器物を別居宅に持ち込もうとしたところ逆にそれで殴られたことがあると陳述書にて主張する。一方、彼女はそんなことなどなかったという。 『詳し過ぎる陳述書』
週末一緒に飲んだ後、剣持の家で雑魚寝する三人。朝のニュースで流れた東条英男という名前に剣持は目を覚ます。その人物は剣持のもとを異なる相談で何度も訪れていた。彼が殺されたらしいのだが新聞には掲載されておらず、次のニュースは昼前まで放送がない。時間つぶしもあって剣持は二人に東条の相談内容を説明し始める。 『あきらめの悪い相談者』 以上四中編。

人生の悩み事の吹き溜まりにして最終解決手段の存在する場所。弁護士事務所には事件がいっぱい
個人事務所を抱えていて、そこに引きも切らず悩みを抱えた依頼人が謎を持ち込んでくる――ミステリにおける常道の設定である。ただその事務所というのは大抵が「私立探偵事務所」であるのが普通。免許のいらない探偵稼業の「お仕事」は、実務の経験がなくともある程度は想像力で補えるからか、ミステリ作家が取り上げる例は太古の昔から非常に多い。一方、現実問題として同じように悩み事をもって見ず知らずの人間を頼ろうとする人々が訪れる場所は、本書のように弁護士事務所だとかになるのではないだろうか。 (経済的問題であればサラ金の窓口などのケースもありそうだが) その弁護士事務所について、きっちりとフィクションとはいえ物語として成立させるためには、その「実際」に沿った経験や知見がどうしても必要になる。剣持氏(作者の方)は、その実際経験と物語を綴るだけの文才とミステリ特有の遊び心の三点を全て保有している希有な人材だといえる。
世には法廷ミステリというジャンルがある通り、世間で溢れているような一般的な事件も「裁判」というモノサシを当てることによって全く違った様相を呈してくるケースがままある。どう考えてもAが悪いのに、法律的には過失がないとか、Bが犯人としか思えないのに、Cが犯人であるという大逆転があるとかそのケースは様々。本書はその「ケース」を日常の謎(に近い)部分に求めるのが特徴だろう。もちろん、窓口は弁護士だが法廷シーンは『詳し過ぎる陳述書』にあるくらいで、本書は法廷ミステリではない。しかし、裁判や係争にまつわるあれこれのエピソードの数々がリアルで実に興味深い。(近年の乱歩賞の職業ミステリで味わうものと近い興奮かもしれないが……) こういった数々のエピソードがミステリというフィクションの内部の「現実」を引き立てる役割を果たしている。法律そのものや判例だけでなく、実際に裁判になったらどうだとかというコメントは経験者にしか書けないし、経験者ならではの説得力を有している。
一方、本書における本格ミステリとしての「謎」は、事件と事件の組み合わせによって解かれるのがメイン。従って、絞って書かれたと思しき登場人物の少なさゆえに、描こうとしている「絵」が物語途中で否応なしに浮き上がってしまっている作品もある。ただ総体的には、バラバラと散りばめられたピースが、一所に集まって嵌り別の絵が見えてくるという再構成の快感が味わえる。刑事事件ではないので、コーキによって導かれた回答が真実なのか分からない。それでも「すっきり」という快感を減ずるものではない。また弁護士という立場からは見えにくい、市井の人々の一般的行動が謎を解く鍵となっている点も見逃せない。

「本格ミステリ・クロニクル300」内未読作品につき探し出してきて読了。この時期のムーヴメントとして存在した「日常の謎」の系譜をしっかり守った作品であり、それぞれの質はなかなかに高い。ただ残念ながら続編がない。(本業がお忙しいのだろうか) この後コンスタントに作品発表ができていれば、それなりの人気を博すこともできたのではないかと推察される。惜しい人材である。


02/10/17
西村京太郎「殺しの双曲線」(講談社文庫'79)

既に作家としてデビューしていながら、社会派推理と本格推理の融合めざましい『天使の傷痕』にて第11回江戸川乱歩賞を受賞した西村京太郎氏。現在は十津川警部ものを中心に著作の多くが旅情ミステリのような作家となってしまったが、昔からの本格ミステリファンにはよく知られている通り、初期作品を中心に現代でも通用するような骨太の本格も多数執筆している。本作もその系譜に連なるもので'71年に実業之日本社より書き下ろし刊行されたもの。

今から二十五年前、双子の兄弟が、ある不幸な出来事を経てある犯罪計画を立て、お互いに実行することを誓い合った……。
戸部京子と森口克郎は婚約していたが、結婚準備の貯金のためにあまりお金に自由がなかった。そんな二人の元に東北地方のペンションから招待状が届く。宣伝のため東京在住の人々を無料招待したいのだという。二人同時にそんな招待状が届く心当たりはなかったが、スキーに行きたかったこともあって渡りに船とばかりに参加を決めた。招待されたのはサラリーマン、タクシーの運転手、大学の研究生にトルコ嬢(当時の表現)。彼らも互いには面識がなかった。翌日、陰気な性格で孤立していたサラリーマン、矢部がペンション内で首吊り死体となって発見される。現場には「かくて第一の復讐が行われた」と書かれたメモが。果たして誰の仕業なのだろうか。そして大雪のために孤立したペンションで、第二、第三の殺人が発生する……。
一方、都内では顔を晒して強盗を働く人物が横行。その人物と思しき人物を捕まえて被害者に面通しさせたところ、彼らは彼が犯人に間違いないと証言する。しかし、彼には双子の兄弟がおり、そのどちらが真実の強盗犯なのかについての決めてがない。現代の法律の矛盾を突く犯人たちに警察側は徐々に焦りを募らせていく。

遊び心に社会派精神を絡めていても、これぞ本格ミステリ中の本格ミステリ
「この推理小説のメイントリックは双生児であることを利用したものです。」
「この本を読まれる方へ」という形で冒頭に掲げられている作者のことば。ノックスの十戒を意識し、物語の始まる前に読者に挑戦状をつきつけている。確かに冒頭から双子が登場するし、物語を支える二つのプロットのうち一つは「一卵性双生児による完全犯罪」がテーマとなっている。読み終わって振り返るに、本書のような初期の西村京太郎作品というのは本当に「巧さ」が際立っている。この双子テーマ(こちらだけでもミステリ一編を十分構成できそう)があるがゆえに、読者が幻惑されるだろうことを十二分に予測しているのだ。
そしてもう一方は「雪の山荘」に正面から取り組んだ作品。もろクリスティの『そして誰もいなくなった』の雪山バージョンで、謎の手紙によってペンションに招集された人々が、その招集理由も分からないまま一人、また一人と惨殺されていく。不可解な謎と強烈なサスペンスとのコラボレーション。当然、麓との連絡方法は断たれているし、最後に二人が残された後の恐怖感の処理などもなかなかのもの。頁をめくる手が止められない。どちらも犯人でなければ一体どういうこと? 西村京太郎氏は読者が『そして誰もいなくなった』を読んでいることを前提に、その裏をかいていく。(余談ではあるが、この時期に発表される本格ミステリでは、海外の古典ミステリを読者が「読んでいるもの」という前提で執筆された作品が多いように感じられる)。
「双子による完全犯罪」と「雪の山荘連続殺人」がどのように絡んでいくのか。Who done it?の魅力に、テキストのトリックが加わり、さらにミッシングリンクテーマでもある。 最終的に明かされる動機の部分に、ちょっとした社会派的主張が盛り込まれているのもポイント。ただ、この動機そのものはとにかく、こういった理由で大それた犯罪計画がなされるという偏執的な犯人像は、現代本格ミステリにおける動機テーマに繋がっていると感じるのは考えすぎだろうか。いずれにせよ、本格ミステリの面白さをふんだんに取り入れた贅沢な作品である。少なくとも現代の新たなミステリ読者の目にとまらないのは実に勿体ない。

本書のもう一つの特徴は、未だに簡単に新刊書店で入手できる、という点にもある。(ネット書店だと取り寄せではあるが、少なくとも絶版ではない)。恐らく西村京太郎という作家が巨大な人気を誇り続けるだろうしばらくは、誰でも本書を望めばいつでも入手できるということなのだ。偉大なり、西村京太郎


02/10/16
柄刀 一「凍るタナトス」(文藝春秋 本格ミステリ・マスターズ'02)

文藝春秋社の80周年記念といわゆる「新本格ミステリ」の十五周年を記念し、綾辻行人、笠井潔、北村薫、二階堂黎人の各氏が編纂委員を務めて刊行された「本格ミステリ・マスターズ」。その名の通り、現代本格の中心となる第一世代、第二世代の書き下ろし作品を集めていく模様。本書は山田正紀氏と島田荘司氏らの作品と共に発表されたその第一弾にあたる。

つくば市の大学病院で入院治療中の瀕死の老人が上半身を石膏で塗り固められての窒息死を遂げた。他殺と判断されたその老人の名は瀬ノ尾是光。最近、政府で許可された死体冷凍事業のカリスマ的存在であった。彼らはクライオニストと呼ばれ、未来の復活を信じて遺体の首だけ、あるいは全部を日本遺体冷凍保存推進団体(通称:JOPF)にて特殊な冷凍処理を施していた。捜査員の氷村らは、現場の遺留品から指紋を検出、昨年、猟奇的な殺され方をした冷凍睡眠反対の急先鋒で大学教授だった関憲一郎殺害と同じ犯人であることを確信する。JOPF内部の捜査によって明らかにされたのは、内部が二派に分裂しかかっていること。そして先の事件が落ち着く暇もなくJOPFを引き継いだばかりの是光の息子で理事長の光司が備品室内部で殺され、さらに発火性の溶剤が振りまかれて焼かれる事件が発生した。一方、遺体の冷凍措置を施された是光も密室状態の冷凍室の内部で死体を損壊させられる事態が発生、組織の重鎮二人の「復活」が不可能な状況に陥れられる。犯人は組織内部にいると思われたが、関係者のほとんどにはアリバイが成立。しかも「手配師」と呼ばれる殺し屋を務めていたらしい謎の人物の存在も浮かび上がった。

仮想医学サスペンスであり本格ミステリであり、そして魂の咆吼が迸る力作
既に10冊以上の単行本を発表している柄刀氏に対し、恥ずかしながらまだ過半数を読了していない私が、作品の系譜を語るのは烏沽がましいことは百も承知。ただ、いくつか作品を読んできて、柄刀作品のテーマの取り上げ方、トリックの設定−解明の方法については顕著な特徴があって、現在の「本格ミステリ」のいくつかある方向性のうちの一つに対して重要な旗振り役であることが漠然と見えてきた。分量的に長大な作品が多く手に取るに腰が引ける……というのは冗談。それ以外の点から本作は、一つの柄刀作品の「典型」というか「基本理念」に基づいた作品なのではないかと考える次第。
一つは学術的ジャンル(敢えて科学とは分類できない)に対する徹底的な掘り下げ及びこだわり。 本書においては未来医学のうち、死体の冷凍保存が作品を貫く主題となって取り上げられている。恐らく作者は文献を徹底的に漁り、自身の頭の中で学術的な再構成を行い、さらにそのジャンルについて独自の意見を持つに至っている……と想像される。本作でいうならば、遺体の冷凍保存とは医学的、技術的にどういうことなのか、社会的にはどのような位置づけになるのか、政治的にはどうか、倫理的にはどう捉えられるのか。一面的ではない価値観が物語上でぶつかり合う。つまりこういった専門分野を完全に「我が物」にしてしまったうえで物語が描かれているのだ。柄刀氏の経歴や本書に付するインタビュー等でみる限り、氏はあくまで専業作家であり決して学術畑を飯のタネにしている方ではない。それなのに本作だけでなく他の作品においても、同様に医学だったり宗教だったり考古学だったりとそのジャンルこそ異なりながら、非常に深い知識が体系的に物語に取り入れられている。このあたりは本格ミステリに限ったことではないながら、エンターテインメント小説全体における「ホンモノ指向」が反映されているように思える。
また、もう一つは独特のサスペンス性もあるだろうか。柄刀氏の作品を類型的な本格ミステリ作品と比べた時に一つ目立つのは登場人物の多さである。純粋なWho done it? のみを目指し、論理による解決を読者に提供する作品においては「被害者」「探偵」「容疑者」といった属性を持たない人物を必要以上物語に登場させないのが約束。しかし、柄刀氏の場合は物語の流れのなか次々と人物が登場する。この結果、謎解きの興趣を放棄しないまま、さっぱり容疑者の範囲が狭められないという事態が発生する。普通であれば駄作へ近づくこの手法が、柄刀氏の場合は「果たして一体誰が?」というサスペンス性の惹起に一役買っているように思われる。主題が壮大な分、こぢんまりまとめない方が良いということか。(ただ、読者によってはこの抵抗感を覚える人がいるかもしれない)。
そして最後に登場人物が抱えるトラウマやドラマ性である。本書もまた長大な文章に見合っただけ、登場人物の背景が書き込まれている。特に病を抱えた娘を持つ刑事、氷村の存在が大きい。彼に感情移入できるかどうかはとにかく、彼が作品のうえで辿る運命の大きさには衝撃を感じずにはいられない。こればかりは説明ですまない。読んで味わうしかない部分。「本格ミステリも小説である以上(以下略)」……という命題をクリアすること。これもまた本格ミステリの方向性の一つを示すものだろう。
……長々と書いてきたが、つまるところだ、本書は単なる医学サスペンスでも、単なる本格パズラーでも、単なる感動ドラマでもない。この三者の要素がきちんと融合することによって渾然一体とした味わいを醸す「物語」である。 何気ないジャンルミックスによって、物語が本来のエピソード以上に膨らんでみえる。このボリュームにしてこの中身。様々な方向から読者のツボを刺激する本作品は本格ミステリという狭義の世界に置くには評価のモノサシが窮屈かもしれない。

一応「本格ミステリ・マスターズ」の第一期三作を読み終えたことになるが、それぞれ力作であることは間違いない。(ただ現時点でその叢書としての方向性がはっきり打ち出されているかどうかはとにかく)。 島田、山田という二人のビッグネームと並んで刊行されるに恥じない、柄刀氏の剛速球作品。 今後、氏の代表作に数えられる可能性の高い作品だという手応えを感じる。


02/10/15
城平 京「名探偵に薔薇を」(創元推理文庫'98)

現在はミステリ漫画『スパイラル』シリーズの原作者としても知られる城平氏のデビュー長編。(厳密には『本格推理』誌上に発表短編が先行する)。第8回鮎川哲也賞最終候補作品が改稿のうえ、いきなり創元推理文庫にて書き下ろし作品として発表されたもの。

第一部 『メルヘン小人地獄』
各種メディアに到着した謎のお伽話「メルヘン小人地獄」。わるい博士が毒を作るために小人を多数殺して、その小人たちが人間に対して残酷な復讐を遂げる奇妙な物語。会社経営者の藤田家の一人娘、鈴花の家庭教師を務める大学院生、三橋壮一郎は、駅で不審な男から「小人地獄をご存知か?」と声を掛けられる。知らないという三橋に対して「藤田恵子さんは小人地獄をご存じですよ」と男は言い残して去っていく。藤田恵子とは藤田氏の妻で鈴花の母親。駅で出会った恵子はどうやらその「小人地獄」に心当たりがあるらしい。その恵子が行方不明となり、廃工場のなかで吊し上げられ全身を切り刻まれた死体で発見された。その死に様は「メルヘン小人地獄」をなぞったものとしか思えないものだった。
第二部 『毒杯パズル』
実在した究極の毒薬、小人地獄。前回の事件のあと後妻を迎えた藤田家。壮一郎は社会人になって藤田氏の経営する会社に入社。鈴花の家庭教師は、壮一郎の後輩である山中冬美であった。平穏な週末、致死量を超えるとあまりの苦さに吐き出してしまうため効果がないはずの小人地獄が、団欒する藤田家のティーポッドに投げ込まれた。無味覚症ゆえに苦さに気付かずお茶を飲んだ冬美が死亡。果たして誰がどのような目的で毒をポッドに入れたのか?

いわゆる「探偵小説」的世界と、現代本格ミステリの接点。古びていて新しく、新しくても古い興趣を呼ぶ
本書は変則二部構成となっており、どちらも中編というには長いのだが時系列的にも登場人物的にも有機的に繋がっており、変形連作短編集と位置づけることもできそう。津田裕城氏による解説によれば、本書の実際の創作過程では、本書の第二部にあたる「毒杯パズル」が先に完成され、その前編エピソードの形で「メルヘン小人地獄」が執筆されたのだという。従って、本来作者として訴えたかったのは「毒杯パズル」が主、「メルヘン小人地獄」が従になるのではないかと想像する。が、しかし。一読者として本書を「素」に受け取った時、強烈な印象を受けたのはやはり前編の「メルヘン小人地獄」であり、「毒杯パズル」はその後日譚のように感じられた。
その理由は過剰ともいえる「探偵小説的なガジェット」の物語への奉仕にあると考える。現実的(科学的)な裏付けを無視し、強烈なエピソードの積み重ねの形式で作られる毒薬「小人地獄」の存在。明らかに怪しい服装をした謎の男や、その毒薬の生成のために人生を歪められ、恨みを人生に刻み込んだ人物たち。巷間に流布させられた結果、関係者のみならず世間一般を恐怖に叩き込む残酷なメルヘンストーリー。そして、そのストーリーの見立て通りに残虐かつ猟奇的な殺害方法によって作られた死体が次々に現れる……。事件が関係者だけに止まらず、社会に対して外向きに拡がりを持っているのだ。分かりやすくいえば、明智小五郎と戦ってきた「怪人」たちの所行、つまり世界全体に対する悪意表現に限りなく近い。
過剰な道具をミステリという物語に持ち込むことによる「現実」からの遊離感覚。これは乱歩や甲賀ら人気作家が通俗探偵小説として読者に提供していたものと非常に似通っているように思われる。ついでにいえば、重要な登場人物である三橋壮一郎の存在は、現代風に家庭教師とされているが、実はほとんど「書生」だし、どこか往時によくある人間関係が表現されているとも受け取れる。ただ、本書が通俗探偵小説と決定的に異なるのは、名探偵である瀬川みゆきが物語に登場することによって、この世界に外から風穴が開けられることである。彼女の推理によって物語は、急に目が覚めたかのように現代の世界、我々読者が住む世界に帰還する。
どこか懐かしささえ漂う雰囲気にいた読者は、その懐かしさが本格ミステリ的ロジックによって破壊される(そして勿論別の秩序が成立する)過程を眼にすることになる。またその二重のスタンダードに複数の登場人物の価値観が重ね合わせられることによって、物語全体から独特のペーソスを立ち上らせることに成功しているといえる。懐かしいのに新しい、そしてどこかもの悲しい。これはもう一方の作品「毒杯パズル」にもいえること。こちらの作品は家族の中にしか犯人が存在しないという、誰が実行したことになっても未来の不幸が運命づけられているというWho done it? 。物語の中に輻輳する複数の価値観を名探偵が道化役となりながら解き明かしていくしかない物語。感情を排して論理にて進められる推理。壁となるのは個々人の秘められた感情。しかし家族がその結末を迎えた時に、名探偵の背中にのしかかる「想い」を読者も共有させられていく……。なんともやるせなく哀しみに溢れた作品である。

この通俗探偵小説的興趣は二階堂黎人氏の初期作品にもみられる。ただ城平氏と二階堂氏では怜悧な頭脳と判断力を持つ同じような美少女(美女)探偵を立てているにも関わらず、解体の仕方に明らかな違いがあるように感じられる。通俗探偵小説的世界のなかに入り込む二階堂蘭子と、通俗探偵小説的世界を外側から引き剥がす瀬川みゆきと。これ以上ここで詳しくは述べないが、恐らく読み比べた時にはその意味は理解してもらえるのではないだろうか。

当然刊行時にすぐ読んでいておかしくなかったのになぜか縁がなくて今まで未読できた作品。行間を、そして登場人物を深読みすればするほど嵌る印象。決して読後感爽やかな作品ではないが、そうでなければこの作品は成立し得ない。本格ミステリでありながら、探偵小説の風格とハードボイルド的な興趣をも兼ね備えた独特の作品である。


02/10/14
佐藤哲也「沢蟹まけると意志の力」(新潮社'96)

'93年、『イラハイ』にて第5回新潮ファンタジーノベルス大賞を受賞した佐藤氏の書き下ろし第二長編。(たぶん)夫人の佐藤亜紀さんが新潮社から版権を引き上げた際に一緒に引き上げて絶版扱いになっているのではなかったか。『イラハイ』の世界に魅せられた読者が探しまくっているという噂のある、逸品もしくは規格外品。

四方を山に囲まれたとある小さな村。平和なこの村に「開発」という名の魔手が伸びてきた。この村に対する開発計画を呵呵と大声で独り言した外部からやって来た謎の男は、「計画が聞かれた」と老婆を野壺に突っ込んで哄笑を残して走り去る。義憤に駆られた二匹の沢蟹が彼を追うが所詮が蟹、その男による待ち伏せを受けてあっという間に踏みつぶされてしまう。そうして村は開発され無個性な東京近郊となった。一方その前日、蟹の卵からひとの姿をした赤子が生まれていた。彼の名前は沢蟹まける。意志の力の申し子である彼には、一つ著しく人間と異なる特徴があった。それは臍がないことだ。彼は川原に住む蟹たちから高尚な使命を与えられていた。たっぷりと教育を与えて大学に行かせて法律の学位を取って国家公務員上級試験と司法試験に合格して大蔵省のキャリアとなって適当な時期に国会議員になって蟹に有利な法律の制定と歳出の確保をさせるというものだ。しかし、そういった蟹の一族の思惑からは外れ、沢蟹まけるは川原にぼんやりと佇むことが好きな平凡以下の人間になりつつあった。(とまぁ、これが一応メインの物語のはず。但し脱線しまくり)

なんじゃこりゃなんじゃこりゃなんじゃこりゃ。めちゃくちゃクール、めちゃくちゃハイ。分類不能、謎の哲学エンタ
この作品が持つ「テイスト」をどのように表現すれば良いのだろうか。一応(あくまでも一応)は、いわゆるテレビの「怪人もの」(仮面ライダーと思われる)のパロディとしてのストーリーを持っている。後半も後半、株式会社マングローブに就職した沢蟹まけるは、営業部や経理部ではなく、世界征服事業部に配属されいきなり改造人間にされてしまう。目覚めた沢蟹まけるは単身赴任している上司、事業推進部長の牡蠣浜から社の状況の説明を受ける。この事業部がセグメント会計によって管理されており当期こそ赤字が許されているものの、来期以降粗利ベースで三十パーセント以上利益を伸ばした上で、経費を毎期五パーセントずつ削減する必要があること。好ましくない事態が発生した場合、他の部では左遷や降格で済むが、この事業部はによって償わなければならないこと。ただ一年三ヶ月この事業部を存続させれば牡蠣浜には役員になるチャンスがあること。電飾を施された鎧武者という牡蠣浜の服装は業務命令によるものであること。そして沢蟹まけるは明日の朝までに幼稚園バス襲撃の提案書を提出することを要求されるのだ。「おのれマングローブめ」 沢蟹まけるはシーツを握りしめて煩悶するが、何もする前にそのまま興奮のあまり白目を剥いて失神してしまう……。実に役に立たない、でもヒーローを宿命づけられた男。

……ってこの筋書きの部分だけでも十分面白いのだけれども、本作はこれだけじゃないんだよなぁ。
文章を追うだけで、その部分部分だけで吹き出すところ、腹を抱えて大笑いするシーンが大量に存在する。文章のテンポやリズムに関しては天性のものか、ないし計算し尽くされたものであり、読者は一旦没入すると容易にここから出られない。

「じゃが」と老婆は言った。「これが無事では済まなんだ」
 それから老婆は臭い立つ野壺を指差し、このように叫んだのである。
「狸に化かされておったのじゃ」


この前段階で何が起きているのかについては当然ここで触れない。ただ、この同じフレーズが冒頭のエピソードだけで四回出てくる。 最初は「ふーん」、二回目は「くすっ」、三回目「ぷぷぷ」、四回目には「どわっはっはっは」となった。貴方が同じ反応をするかどうかなんて分からない。ただ(それなりに文章における笑いに厳しい)私がこうだったという事実だけはここに書かずにいられない。このエピソードがまた物語の地雷になっていることは伏せておいた方が良かったか。

……ってこういったエピソードの部分だけでも十分面白いのだけれども、本作はこれだけじゃないんだよなぁ。
巧みな文章によっていくつもの(本当にいくつもの)中世の騎士団から第二次世界大戦、ハードボイルド探偵から宇宙人との戦争まで、ありとあらゆるシチュエーションのエピソードが描かれ、そのそれぞれにおいて押しつけがましくなく控えめで、作者自身が信じているのかどうかさえも怪しい「哲学」が全体を覆っている。「意志の力」というものに対する考察とでもいえば良いのだろうか。実現困難な事象を成し遂げようとする人々、強制力によって転向を命ぜられる人々、いわゆる普通に生きている人々。彼らが前に向かうために必要なもの、それが「意志の力」。世の中は「堅牢強固な意志の力によって」動いている。

……ってこういった哲学の部分だけでも十分面白いのだけれども、本作はこれだけじゃないんだよなぁ。
例えば、前の晩飲み過ぎて仕事やバイトに行く朝が辛い時。重要な会議やテストの時間中に急激な睡魔に襲われた時。オヤジ狩りやいじめに遭いそうになって、無事に家に帰るのに困難が見込まれる時。きっと本書を読んだ人々ならば「堅牢強固な意志の力によって」、困難に打ち克ち、見事目的をやり遂げられるようになる。きっと本書を読むことで貴方の精神は一段階の高みに立つことになるだろう。 (ま、錯覚なんだろうけれど) 


02/10/13
迫 光「シルヴィウス・サークル」(東京創元社'02)

創元社のハードカバーシリーズ「創元クライム・クラブ」の一冊として上梓された本作は、'01年第11回鮎川哲也賞の最終候補作品で、迫氏のデビュー作品にあたる。解説ではないが、巻末に「さかしまの」と題して皆川博子さんが文章を寄せており、そちらも興味深い。

193X年頃、東京に現れた巨大な芸術作品は大パノラマ。支柱を中心に回転しながら観客は上昇し絶対的な「静」を体現するための轟音と円筒内部の壁画に描かれた数々の絵画を眼にすることで彼岸かと見紛うばかりの至福の経験を味わうことができるというものだった。この作品を創り上げたのは”さかしまの娘”を名乗る米国帰りの二人組の娘、露崎恭子と游葉子。彼女らは医学博士、九曜信人氏の援助をもとにこの「死に行く人間が見るパノラマ的幻像」を創り上げたのだ。高等遊民を気取るカメラマン、神野伶弐はその大パノラマの取材に赴き、パノラマのマシンに搭乗するという密室状態のなかで游葉子が変死するのに遭遇、さらに九曜氏もまた同時にパノラマの外で撃ち殺されるという事件に巻き込まれる。事件を調べ始めた神野は、九曜医師が生前、シルヴィウス・サークルと名付けられた臨死体験の再現を目的とする奇妙な実験を行っていたことを知る。九曜医師のノートには彼らが味わった至福の詳細が克明に記録されていた。事件はそのサークルと関係あるらしいと気付いた神野。しかしその真相が判明しないうちに次なる事件が発生する。岬の先端で銃で撃たれて男が死亡、しかしその近辺には誰もいなかったのだという。

昭和初期のモダーンな感覚と、その感覚に培われた幻想的耽美的な美しさを伴う感覚的ミステリ
例えば大正期、江戸川乱歩の生み出した日本で最も有名な名探偵、明智小五郎もそもそもは「高等遊民」と呼ばれる層に属していたのだという。額に汗して労働することを潔しとせず、もともと存在する富やその利殖から、ないし富裕層に属する親親戚、物好きな金持ちらに頼ることでて生計を賄い、もっぱら何やら怪しげなる芸術的活動を行ったり、カフェに通いつめてドンファンを気取ったり、政治や社会について論じたりする。まぁ、無為徒食といってもいいとは思うのだが、その底には江戸明治と連なる微妙な階級意識、特権意識が存在したのだろう。ただ大正から昭和初期にかけてのいわゆる「モダーン」な風俗は彼らなしには成立しなかったこともまた事実。
前置きが長くなったが、彼らが主人公となることによってミステリ(リアルタイムの作品なら、探偵小説)が、まさに知的遊戯の色彩を帯びること、このことを本書を通じて改めて感じたのだ。芸術作品にて作られた密室のなかでの殺人事件。背景に存在する「幸福の記憶」のみを取りだそうとする集団。豪壮な邸宅と華族的生活。こういったいわゆる「現実」と切り離された世界が、全く違和感なく本書には存在している。現実の些事に囚われず、理想の様式のみを希求することが許される人々、そして彼らが生きる環境。これはいわゆる「本格ミステリ」的に理想的な環境設定であるとはいえまいか。
ただ、一方でそういった舞台設定をしながらも作者の企みは一筋縄ではない。探偵役は推理を試みる一方で、この世界により深く取り込まれていく。対象を観察すべき存在がより深く観察を求めることによって対象に取り込まれていく皮肉。取り込まれていくことによって観察が無意味となる皮肉。無意味になった後に真相が判明する皮肉。このあたりに作者が自覚的か無自覚的なのかは分からないが、本格ミステリの名探偵に対する一つのアンチテーゼを提示しているとも読みとれた。
ただ、(当たり前のことではあるが)本作は二十一世紀に発表されたミステリであるという事実も頑として存在する。特に二つの殺人の発生理由など、ベースにあるのはもちろん男女の人間関係ではありながら、その殺意の引き金となるポイントは本書のなかでしか機能しないし、本書のなかにおいてはこれ以上の説得性はない。 フィクションならではのポイントを作者はよく知っている。

本格ミステリの王道にみえるようでいてそうでなく、幻想小説のようでいてそうとも言い切れない。ただ、昭和初期特有の時代の雰囲気と現代的感覚のミステリとが綺麗に(そう、綺麗に)融合している作品。 ただ、いろいろな意味で高度な技術を用いていることもあり、一般受けというよりマニア受けするのだろうな、というのが正直な印象。


02/10/12
内田康夫「本因坊殺人事件」(角川文庫'85)

1980年、栄光出版社よりひっそりと『死者の木霊』を刊行しデビューを飾った内田氏。今でこそ浅見光彦シリーズにてがんがん稼ぐ内田氏もこの段階では無名の推理作家の一人にしか過ぎなかった。本書は、デビュー第二作目の長編にあたる作品。

いくつかある囲碁のタイトルの一つ「天棋戦」。このタイトルを賭けた試合が囲碁界若手の期待の星、浦上八段とベテランで本因坊のタイトルを持つ高村と宮城県鳴子温泉にて開始された。浦上は、政界とも繋がりの深い棋界の実力者、瀬川九段に師事しており、瀬川の娘である礼子と婚約中。ただ浦上の性格からまだ具体的な日取りなどは何一つ決まっていない状態にある。対局が開始されたが、途中から高村の様子がおかしい。長考が必要なはずのポイントなのにやたら早打ちを仕掛けたり、本来ノータイムで打着出来るような凡手に長考を仕掛けたりする。終始ちぐはぐな打ち方のまま高村は投了してしまう。その高村は試合場所からの帰り道、そのまま行方不明になってしまい、近くにある荒雄湖から変死体となって発見された。強盗の仕業や自殺とは考えられないのだが、高村がどうやって現場に来たのかが分からない。しかも数少ない目撃者の証言では、高村は一旦湖を通り過ぎた先から引き返してきていたのだという。一方、天棋戦で記録係を務めていた新宮三段が、瀬川家を訪れた帰り道にまたもや自他殺の判別つかない形で奥多摩にて変死体となって発見された。棋界に渦巻く陰謀と高村が残した棋譜の意味とは??

「あの」内田康夫の第二長編は、囲碁世界テーマのストイックな暗号+サスペンス
内田康夫という作家の代名詞的存在の「浅見光彦」が登場するのは第三長編である『後鳥羽伝説殺人事件』以降であり、本作の段階では当然登場しない。ただどこかそろそろ「内田康夫テイスト」の片鱗がちらりちらりと見え隠れするような印象を受けた。とはいえ、暗号を中心に添えた謎解きの妙味を持ったミステリであることもまた事実
具体的に述べていくと、まずはこの対局場所となる宮城県の鳴尾温泉とその周辺地域に関する描写がくる。この全国的にはメジャーとは言い難いこの地を、内田氏はまるで土地の人間かのように愛情たっぷりに描いている。確かに風光明媚な地であるのだろうな、と思わされるし、旅情ミステリの最重要課題の一つ「あ、機会があれば行ってみたいな」とも感じさせられる文章となっている。「どこが?」といわれると困るのだけれど、微妙な描写の積み重ねにその「綾」がある。
一方、最近『ヒカルの碁』を中心に再び脚光を浴びつつある囲碁の世界を取り上げている点が一つ特徴だろう。現在では竹本健治という大御所がこの世界を渋く描き続けているのだが、それまでのミステリではほとんど触れられることのないテーマであったことは間違いない。それ以前となると、斎藤栄の乱歩賞受賞作『殺人の棋譜』くらいしか思いつかない。その囲碁ならではの暗号が一つのポイント。ただこの点はトリックに気付いたとしても、ちょっと解き明かすのに必要な特殊知識がさらに必要な点、あまり一般的な本格ミステリと分類することにはためらいもある。(私自身がまさにそうだったし) そして謎が一旦解かれた後の展開はサスペンス的要素が強くなってきていることも事実。錯綜する人間関係から「真」を導く方法は既に論理から物語へと移ってしまっている。そうはいっても作品そのものには本格ミステリへの指向があったであろう点もまた間違いない。

ひとことでまとめるならば、暗号テーマのミステリへの好悪が好き嫌いを分ける作品であろう。その一点を除くと全体的にはサスペンス的な興味で読ませる作品となっているように感じられる。内田ファンならば放っておいても読む作品なのだろうが、一般の、特に本格ミステリファンが無理して読んでみるべき作品とまでは至らないかも。


02/10/11
有栖川有栖「暗い宿」(角川書店'01)

『KADOKAWAミステリ』誌に掲載されたヒムアリものの短編が四本収録された短編集。あとがきによれば、一応〈宿シリーズ〉と作者と編集者の間では呼ばれていたものという。

作家アリスがふと思い立って奈良の奥地にある鉄道の廃線を辿る旅に出る。途中で体調を崩した彼は廃業して取り壊す寸前という古い民宿に一夜の宿を求めた。しかし、たまたま掃除に来ていた女主人の好意で泊まったその宿は暗い闇に覆われており、深夜に何か掘り返すような音がした。取り壊しが開始されたその宿から白骨死体が出たというニュースが届く。 『暗い宿』
石垣島に建つリゾートホテル、ホテル・ラフレシア。企画会社の実施するミステリーイベントのオブザーバーとして参加したアリスとリフレッシュを求めてやって来た火村。彼らはそのホテルの雰囲気が忘れられなくてやって来たという老夫婦と知り合う。深夜の散歩をしていたというその老夫婦の様子がどこかおかしい。 『ホテル・ラフレシア』
執筆の合間のリフレッシュのためにアリスが訪れた関西近辺の小さな温泉宿。その離れには大きなマスクとサングラスで顔を隠したうえ、身体中を包帯でぐるぐる巻きにしている異様な風体の客が宿泊していた。折しもカルト教団の先鋭的テロが勃発、その構成員が逃亡しており、従業員もその客におそるおそる接していた。 『異形の客』
赤坂にある超高級ホテルに宿泊することになった火村。上京していたアリスと食事をして一人ホテルに戻ったところ、フロアを間違えて東京にコンサートツアーで訪れていた大物ロックシンガー、ミルトン・ハースと廊下で出会う。ちらりと見えたミルトンの部屋には女性が横たわっており、見られたと知ったミルトンは火村を部屋の中に引きずり込む。 『201号室の災厄』 以上四編。

よく考えられたシチュエーションによく行き届いたネタ。本格ミステリ作家の職人芸
いわゆる作家アリスものの中編集。通読した印象は「こじんまりとよくもまあ綺麗にまとめたこと」というもの。本格ミステリとして目新しい驚天動地のトリックが使用されているわけではない。シチュエーションにぶっ飛んだ状況を用いているでもない。警察がしゃしゃり出て厳しい訊問と徹底的な科学捜査を実施することもない。かといって、読み終わった後に端から忘れられてしまうような印象の軽さは伴わない。作品ごとにどこか心に残る部分が存在する。 ミステリとして執筆された物語におけるミステリ以外の感興とでもいえば良いのか。謎−解決にも決して手抜きがないのに、+αの部分に味わいの深さがあるというのか。
もっとも印象に残るのは『ホテル・ラフレシア』。イーグルスの名曲、ホテル・カリフォルニアのフレーズとどこか重なるこのホテルで実施されるミステリ・イベント。もちろんイベントゆえの事件の人工性がまず存在する。平凡な発想であれば、このミステリ・イベントのなかで本当の殺人が起こって……とするのだろうが、もちろん(そちらにもトリックが存在するにしろ)そういう物語にはなっていない。この人工のイベントと、休暇をのんびり過ごす老夫婦との対比に作品の価値がある。本来人工のものであるイベントを実施する企画者、そして参加者の方が奇妙に生々しく感じられ、本来のリゾートホテルの休日を楽しむ老夫婦の存在が淡い夢物語のようにみえるのだ。浮世離れしたホテル・ラフレシアという奇妙なフィルターを通すことによって、都会における標準と価値観が逆転してしまう。老夫婦の迎える結末、そして現実に冷たい慄えを感じずにはいられない。決してミステリとして凄いということではないのだが、ミステリを通じて描く夢と現実の凄さを感じることができる
他の作品は本格ミステリでありながら、シチュエーションの方に重きを置いた感。決して旅情ミステリを狙っているのではないにしろ、事件以外の部分からは「宿」につきものの「旅」の匂いが強く感じられる。地方都市への旅であっても、都会での宿泊であっても、旅という非日常が醸し出す雰囲気がよく出ているのだ。『暗い宿』における心細さ、『異形の客』における見知らぬ他人に対する興味、『201号室の災厄』における非日常との邂逅。それぞれいわゆる「本格ミステリ」としてのトリックが仕掛けられてはいるものの、個人的には正直ミステリとしてよりも、そのシチュエーション構成の巧さとそこから生み出される非日常的感覚の方から得られる味わいの方が深かった。 (『異形の客』のトリックは一見凄いのだけれどちょっとやりすぎではないかな)

とはいっても市場的に”有栖川有栖”という作家に求められるのはやはりクイーンばりの緻密なトリックであることも(仮にそれが読者にとっての幻想であったとしても)事実。とはいうものの、読者の方がそろそろ彼の作品から別の意義を感じ取らねばならい時期に来ているのかもしれない。使い慣れた「ヒムアリ」からもっと脱していく方が、(セールス的にはとにかく)有栖川氏が今後やろうとしていることに対する自由度は高いように思えるのだけれど。