MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


02/10/31
山田正紀「サブウェイ」(ハルキホラー文庫'02)

最近、SFへの復帰が噂される山田正紀氏の文庫書き下ろしのホラー長編。ハルキホラー文庫では『ナース』に続く二冊目となる作品。

「……地下鉄「永田町」駅のさらにその地下には死んだ人たちがいる。(略)人が「永田町」駅に来て、本当に心より願うのであれば、その人は死んだ人間に会うことができるだろう。その人が、誰よりも大切に思っていた、しかし、すでに死んでしまった人たちに……」
営団地下鉄「永田町」駅。地下深いところに造られ、国会議員のための「核シェルター」という噂もある、この駅にまつわる都市伝説。この噂を聞きつけて、死んだ者に一目会いたいと様々な人がこの駅を徘徊する。ただその「都市伝説」は伝説であるがゆえに様々な分派を繰り広げ、彼らの行動は一様ではない。課外授業のために乗車していたクラス全員が死亡したバス事故に、体調を崩して欠席したため生き残ってしまった女子中学生、和美は気高く美しく、そして徹底的に自分をいじめぬいていたアガワのことを思い、インスタント写真に向かう。定年を間近に迎えた地下鉄運転手の島田はホームの端に立つ母娘連れから、自分を残して死んだ母を思い、幼い娘が「永田町」駅で行方不明になった夫婦は占い師の託宣に従う。連れ合いに自殺された男は、本当に妻を愛していたのか自問して苦しみ、不倫相手に会う方法を知った女性は、その実現を考える――そしてたしかに「永田町」駅は徐々に何かを現しはじめる。

真偽の定かでない都市伝説と東京の小市民の哀しみを切り取った散文的幻想文学
「世界は山田正紀でできている」……最近刊行された山田正紀氏の短編集に大森望氏がつけた帯の推薦文。本書など読むと山田正紀の「世界の構築感覚」がデビューしてから一貫して衰えていないことに驚かされる。ただ本作は全てのジャンルを執筆範囲として網羅し得る山田作品のなかでも、かなり「静かな」作品といえるだろう。
地下鉄「永田町」駅。実際の永田町駅の半蔵門線ホームから改札階へのエスカレーターの長さは一本ものとしては営団地下鉄でも屈指のものであり、ホームから見上げた時の高さ、もしくはその逆は「遙か」といっていい距離がある。また、南北線全体でいえることでもあるのだが有楽町線や半蔵門線から南北線の「永田町」駅に移動すると、それまでの喧噪が嘘のように閑散とした静かな空間が拡がっており、そのギャップには驚かされる。五年近く「永田町」駅と連接する隣の駅を利用していたので、当然「永田町」駅をも良く知るのだけれど、物語に登場するのもまた現実の「永田町」駅の構造と特徴をしっかりと下敷きにしていることがありありと感じられた。あそこにインスタント写真はあったかな。――ただ、本作に登場するような都市伝説が本当に存在するのかどうか、山田氏による創作なのかは寡聞にしてよく分からない。

作品の主題は「心の底から思うことで死んだ人と再会できる空間」を巡る人間模様にある。 ただ山田氏が一筋縄でそう望む人の願いを叶えたりはしない。その伝説を通じて「本当に心の底から思っているのか」「生前に彼(彼女)を本当に愛していたのか」「心の底から思っているのは誰なのか」……と登場人物に残酷な問いを投げかける。「心の底から思っている」という自分に対して疑問符を持ってしまうことから発生する悲劇。純粋な思いなどは、実際は狂気のなかからしか生まれてこないという諦念。そういった悩み苦しむ人々の前に、果たして「異界」は現れるのか……。
最終的なカタルシスを迎えても、登場する人々の間に有機的な繋がりがないため、どこか淡淡と出来事が述べられているといった印象が残る。しかしでも、山田氏が地下深くに創り上げた魔宮は読者の心を鏡として全く別の想いを映し出す。どこか散文的、どこか幻想的。やっぱり山田正紀の創る世界はスゴイ。

一方で普通の意味でのホラー小説(ハルキホラー文庫から出ているという意味でこのレッテルは仕方ない)を期待する向きにはちょっと向いていないかも。どちらかといえば幻想文学の愛好者により受けそうな作品。そして山田正紀ならではの世界を愛する人に。


02/10/30
篠田秀幸「蝶たちの迷宮」(講談社ノベルス'94)

竹本健治氏の賛辞と共に講談社ノベルスより書き下ろし刊行された作品。この年、講談社ノベルスからは京極夏彦がデビューすることになり、翌年からメフィスト賞が創設されるのだが、本書も「いきなり講談社ノベルスに新人書き下ろしで初登場」であり、もしかすると京極氏に近いエピソード? があったのではないかと推察される。篠田氏はこの後も本格ミステリを多数発表している。

一九七九年、神戸にあるK大学に通う学生、シノこと篠田秀幸、邦彦、カオルの三人は理恵とユミという女性二人を迎えて同人誌「停車場」を編集していた。彼らの同人募集の広告によって池田君という進学校の高校三年生が『蝶』と題された奇妙な小説を投稿してくる。その池田君が農薬を飲んで自殺したという事件を新聞で知り、三人は悔やみに出かけるがその池田家の様子はどこかおかしかった。どうやら池田君は「家庭内暴力」をしていたらしい。その六週間後、シノの部屋でカオルの失恋コンパと称して飲み明かしていた三人は、早朝、隣の部屋のステレオが大音響で鳴り響くのを聞く。隣の部屋に住むのは香川さんという予備校講師で「停車場」の指南役として三人とも親しくしている人だった。一向に止まらない音響に合鍵を大家に借りて戻ってくると、部屋の中の音楽が止み、女性の悲鳴が聞こえた。慌てて鍵を開けようとするが内鍵が掛けられ外からでは開かない。扉をぶち破って中に突入した三人は香川さんの死体を発見する。しかも現場は中から鍵がかかっており、密室状態だったにかかわらず、悲鳴を上げた女性の姿がみえなかった。香川さんは青酸化合物にて死亡していたのだが、首には細い紐が巻き付けられた跡があった。そして彼はかつて学生運動に関わっており、事件は意外な方向へと拡がっていく。

七十年代に大学時代を過ごした読者が特権的に楽しむ青春ミステリ……として読むのが正解?
全共闘世代……。この時代に特有の熱気が確かに若者のあいだにあったのだろう。ただ、自身でそのムーブメントを体験していない者にとっては「一歩引く」感覚がつきまとう。恐らく、その世代の「大人たち」の自分語り(オレたちの世代は最高だ!)を散々聞かされてきた反動かもしれない。本書はその時代まっただ中がキーポイントとなっており、学生運動の余韻が色濃く残った特有の雰囲気が作品を覆う。この時代性については、本書を読む読者の属する「世代」によって受け取り方は激しく異なるのではないかと推察される。実際はそれから少し後の世代が中心となって、その時代を読み解こうという試みがなされているのであり、厳密にいうと異なる。ただ、後世の我々からすればいずれにせよ時代性と無関係に読むことは難しい。
ただ、その時代特有の「青春ミステリ」であり、同時に本格スピリット溢れる「密室ミステリ」であることも確か。 本書の場合、ミステリとしても様々な要素を備えており、読者の興味によって異なる角度で作品を読み解くことができそう。繰り返されるメタ構造や、何度も解体されては否定される謎解きの繰り返しなど『虚無への供物』を明らかに意識した内容は、こういった作品好みの方には堪らないだろう。メタ構造にはちょっと引いたが、個人的にはこのあたりの密室解釈の議論の部分に一番興味が持てた。
そして作者が再三アピールしている本作の最大のポイントについて。作者は本書の冒頭でこの作品が「《犯人》=「探偵」=「被害者」=《作者》→《読者》」であると明示している……が、先に言っておくと、古今東西にある同様のないしはそれに近い試みに比して、本作が成功しているか、というとハッキリいってそれほどでもない。等式の前半三つについては、こう提示することによって勘の良い読者なら物語の語り方、そして事件を見ただけで正答を導くことが出来てしまうし、後半の等式二つは読者が納得するというよりも、単に作者がそう思い入れているだけであって説得力に著しく欠けている。(特にこの後半の思い入れは読者を一歩引かせるに相当する激しさを感じる)。 そういったとらえ方をすると本作そのものが詰まらないかのように読めるかもしれないが、そこはどうして別の側面、結局は不可能殺人や青春ミステリ的興趣から評価すべき作品だろう。

『本格ミステリ・クロニクル300』登場作品の読み残し消化にて読了。本作はこの後、講談社文庫ではなくハルキ文庫に収録されている。確かにエポックとして残るべき作品だとは思うが、作者の思い入れに比するほど世間的な評価がないように思われる。ミステリとしての諸要素の絡まり合いが現代読者のテイストに合わなかったのか??


02/10/29
小川勝己「まどろむベイビーキッス」(角川書店'02)

第20回横溝正史賞を『葬列』にて受賞してデビュー。その作品を含め三冊の著書があり、前二冊は紛うことなきジャパニーズノワール、『眩暈を愛して夢を見よ』はメタ構造を駆使した不思議な本格ミステリだった。さて、本作はというと……。

西東京市にあるキャバクラ「パブ&クラブ ベイビーキッス」。営業上手で仕事熱心ながら後輩に対して意地の悪いナンバーワンキャバ嬢のケイ、特に愛想もないのに我が道を行きつつナンバーツーの座を獲得している留美を中心とする店のメンバー。そんななか、新人キャバ嬢のみちるは必死の営業活動によって顧客を捕まえようと努力していた。そのためにはかなり阿漕なことも厭わないため、先輩たちの反感を買ってしまう。風間みちるは「ベイビーキッス」の仕事とは別に、SHIHOというハンドルを使用して「現役キャバクラ嬢、SHIHOの部屋」というホームページを運営していた。そこでの見知らぬ訪問者とのやり取りが彼女にとっての心の支えとなり、日々の仕事をこなすことができるのだった。そんななか「ベイビーキッス」のキャバ嬢の一人、千里がお客さんと結婚することになってホストクラブで送別会が催されることになった。ケイは徹底的なみちる苛めを指示し、ゲームを装って徹底的に飲ませ続ける嫌がらせを行う。その晩、家に帰って何度も吐いた風間みちるはホームページを見て愕然とする。掲示板が徹底的なまでに荒らされているのだ。彼女があるサイトで不用意に行った書き込みがその原因らしかったが……。

本格ミステリに対する軽めのパロディ、そして水商売やネットワークの匿名に隠された魂の孤独
大森望氏は日記にて本書を評して「2ちゃんノワール」と書いていた。恐らく大森氏よりも先に本書を読んだ友人もまた「2ちゃんミステリ」と曰っていた。確かに、これまでもインターネットの掲示板を物語の展開に取り入れた作品は多々あるし、本書におけるその描写もそれらに負けない程の雰囲気が出ていると思う。確かにカバーに書かれた本書の英語表記、「まどろむ」について「doze off」や「take a nap」といった本来のとろとろ眠くなるという言葉は使われず、表音そのまま「MAD ROM」とされている。このサイトを御覧になっているような方にはもはや常識だろうが、インターネット上のROMとはRead Only Member、つまりは「見てるだけの人々」の意味だ。なので本書はインターネットの匿名性を題材にしたミステリだ――とするのはちょっと表面的に過ぎるのでは……と感じた。
ポイントの一つは形式の話になるのだが、本格ミステリに対するかなり自覚的なパロディだ。本書の冒頭、いきなり「ベイビーキッス」の見取り図が登場する。これがどういう意味を果たすのか、これは読み終わるまで分からない。答えは「あまり意味がない」。ついでにある人物がアリバイトリックを組み立て、実行する様子がスリル満点の描写にて描かれる。が、これがどのような結末を迎えるのかも分からない。答えは「自己崩壊を迎える」。そんなこんなのなかにきちんとしたトリックも仕掛けられており、こっちの伏線の埋め方は素直に巧いと感じた。驚いたし。特に文脈上、キャバクラ嬢の仕事や生活、ホームページ上での騒乱やインターネットの恐ろしさ等々、濃密な描写が続くため、目立たないこういった(ともすれば浮き上がりそうな)遊び心が点在していることが本作品の、ともすれば小川作品通じて感じられる一つの魅力であろう。
そして本質にあるのは、匿名を被ることによって平常では気付きにくい、人々が抱える徹底した孤独の演出である。水商売の源氏名、インターネットにおけるハンドル。便利な別名を使い分ける日常。気付けばかりそめのはずだったそちらの方が、本人のアイデンティティよりも重要に思えてくる逆転現象が起きる。容赦ない他人からの攻撃や、ふとした自覚によってそういった仮面が全て剥がされた時に「個人」に何が残るのか。それに気付いた時の衝撃的にして暗澹となる気分、そしてその感覚の最も濃い闇に巣喰った暗黒面が小川氏の手にかかってとんでもない方向へと向かっていく。一種爽快感さえ覚えるクライシスを予感して物語は閉じる――「風間みちる、突撃します。」  痺れた。
どんなに足掻こうが個人なんて他人にとっては矮小な記号に過ぎない。そのことを突きつける象徴的ラストも印象に残る。

横溝賞作家という殻を突き破り、出す作品ごとに変幻自在のエンターテインメントを打ち出しまくる小川勝己氏。果たしてこの作品群はいつしか市民権を得ることが出来るのだろうか? この圧倒的世界はいずれ映像化されるのではないかとは思うのだが。今のところ単行本しか出てないし「どういう作家なのか」を人に最も説明しにくい作家のような気がする。


02/10/28
高瀬美恵「スウィート・ブラッド」(祥伝社400円文庫'01)

祥伝社が企画する「400円文庫」の第二期作品として刊行された一冊。括りとしては「競作「吸血鬼」SF・ホラー&ミステリー」に属する。他、田中啓文『星の国のアリス』と柴田よしき『Vビレッジの殺人』の二作が同時刊行された。

二十七歳になる佐代子は、高校教師で真面目な性格の夫との二人暮らし。コーラのペットボトルに付属するフィギュア集めに嵌る平凡な主婦。彼女が通うコンビニには、真柴と名札を付けたハンサムな青年がおり、佐代子は彼のことが気に入っていた。その真柴から、現在コレクトしている大相撲フィギュアの最後の一体、北の湖の袋がついたコーラを手渡され、佐代子は有頂天になる。一方、そのコンビニで知り合った小学生が行方不明となり、ゴミ袋に入れられた変死体となって発見された。死体には血液がほとんど残されていなかったのだという。佐代子は買い物に行く途中、真柴と夫の教え子の高校生が談笑しているのをみて、声を掛ける。しかし、彼女は真柴に記憶されておらずショックを受ける。そしてその教え子、池間が佐代子と夫を襲う。彼が吸血鬼だったのだ。しかしその場に真柴が現れ、池間を特殊な方法で殺し佐代子を救う。彼もまた吸血鬼で佐代子は仲間になるよう求められる。一方、池間に襲われたはずの夫はそのまま失踪してしまった。

異形の者に変質する恐怖を歪めた形で和らげて……もちろん、それだけで済むわけがない……
『本格ミステリ・クロニクル300』にて取り上げられたある祥伝社400円文庫のコメントに「中編形式によって作者の実力がきっちり作品のレベルに反映される怖いシリーズ」といった意の表現があった。これまでミステリとホラーに関しては半数以上、この400円文庫を読んできていると思うのだが、その感覚はよく理解できる。ただ、どちらかといえばヤングアダルト系列に属していて、あまり一般向けの作品を発表しない(最近、文庫書き下ろし作品が出たようなのだけれど)高瀬さんのようなタイプの作家が、こういった異色作品を上梓してくれるという意味で、このシリーズの価値は計り知れないものがある。
さて本作。「吸血鬼」競作というテーマで執筆されたという言葉通り、吸血鬼ものである。これまで幾多の吸血鬼をモチーフとした作品が世の中に問われているが、本書の位置づけとしては普遍的な現代吸血鬼ものの側面と、意外なところに「怖さ」の落としどころを持ち込むホラー作品の側面とがうまく絡み合った佳作に仕上がっている。現代日本に吸血鬼がいるとしたらどうなるだろう……という主題はさまざまな人が試みている。血を吸われた死体が恒常的に出てこない以上、何か特殊な食物を摂取しているのではないか、とか。不老不死であるということは却って生きていくのには邪魔で、戸籍をねつ造したり戸籍の関係ない世界に生きないといけないだとか、何年かごとに居所を転々としなければならないだろうとか。そういった点については高瀬さんも熟慮したのであろう、抜かりない設定がなされており、あまり違和感はなかった。その世界で果たしてどのように「恐怖」を喚起するか。本書のポイントはそちらに集中する。 この部分が最も衝撃的かつ魅力的な部分なのでここで触れることはしない。(ため、この評は実際本書の中身についてほとんど触れていないものになってしまった)。 しないが、人間の背負う苦しみ、業といった感情を夫婦というフィルタを通してみごとに体現している。 主人公が「お気楽主婦」という設定がラストに反転していくのが上手い。このあたり女性ならではの視点ではないかと思うし、本書を読んだ際にはこの「落差」の醸し出す妙にぜひ気付いて欲しい。

失礼な物言いなのは承知ながら、高瀬さんがここまで「本格ホラー」の血を持っているとは思わなかった。どうやらWEB書評等見渡す限りではあまり読まれていないようなのだが、埋もれさせておくには惜しい作品。中編ホラーならではのキレが心地よい。


02/10/27
山口雅也「奇偶」(講談社'02)

『生ける屍の死』以来、山口雅也十数年ぶりの長編第二作! というのが触れ込み。山口氏の著作は決して少なくないが、そのほとんどが短編・中編集であったことに改めて気付かされる。だけど改稿版『十三人目の探偵士』は広義の長編にはならないんかな。『小説現代別冊メフィスト』誌に'02年の一月増刊号より九月増刊号にかけて連載された作品がベース。

”私”こと火渡雅は推理作家。劇団女優のシルフィーと同棲生活を送り、書き下ろし長編の執筆に悩む日々を送っていた。神奈川県にある原子力発電所で信じられないような偶然から操作ミスが発生、偶然その近辺をドライブしていた火渡は被曝したかもしれないと我が身を疑うが、病院等には出向かなかった。担当作家の鏑木と共に取材と称して横須賀のカジノバーに出かけた火渡は、そこで偶然、市内で何度も偶然見かけた人物を再会する。太極マークのネクタイを締めたその男はクラップスで勝負しており、火渡もその勝負を何ともなく眺めていた。骰子三つを振り、出目に賭けるその勝負で六が三つ揃う。謎の小男がそこに賭けており大量のチップを獲得、更に続けて三度、骰子は六の三つ揃いを出した……。その晩、渋谷に移動した火渡は、太極マークのネクタイの男を目撃、さらにその男がビル上から落下した巨大な骰子のオブジェに衝突するところを見てしまう。そこにはまた六のゾロ目が。ホテルに入り、自分に起きた違和感を考えていた火渡は右目に異常を感じる。彼の目は網膜動脈閉塞症と診断され、治療を施しても片目の視力のほとんどを喪うことが確実となった。作家の命ともいえる目の病気に彼は暗澹となる。見舞いに来たシルフィーの様子もどこかおかしい。そんな火渡は入院中の病院で相部屋となった守屋という老人に声を掛けられ、世の中の様々な事象について語り合うことになる。

偶然、たまたま、奇遇。タブーとされている事象を徹底的に発生させた時、ミステリはどのような結末を迎えるのか?
古典探偵小説のお約束、ノックスの十戒の六番目は「偶然の発見や探偵の直感によって事件を解決してはいけない」というものである。ノックスの十戒そのものは、もはや現代本格シーンでは「破られるためにあるルール」と思える部分もあるのだが、(例えば物語の作者が犯人はダメとか) 本書ではそのなかでも比較的オーソドックスで、多くの作家が完璧に守れないまでも出来る限り排除しようとするルール、「探偵小説における偶然」の存在に対して真っ向から挑むテーマ性の高いミステリとなっている。
主人公、火渡が経験する「偶然」「奇遇」「たまたま」「暗合」の数々……生起確率の著しく低い事象が立て続けに起きる物語。実際はこれまでも多くのミステリに偶然の要素は存在していたにしろ、最初から最後までここまで偶然尽くしという物語は、これまでに存在していなかった(と、断言しても差し支えあるまい)。原発事故との遭遇、骰子は六の三つ揃い、関係者との偶然の再会、名前や場所の暗合、探していた頁が開く図書館の天使、同一場所での二度の落下事件、身体的特徴、関係者の繋がり……。物語のなかに数え切れない偶然が押し込まれている。ある意味、全ての伏線からエピソードに至るまで「偶然」を演出するために存在しているといえるくらい。
そしてまた本書はそんな「偶然」に関する徹底的な学術的な分析をもまた作中で試みている。量子力学から、中国の易経、南方熊楠、ユングの共時性理論、旧約聖書から神学の数々、不完全性定理、柳田国男に至るまで(これでもまだ書き漏れがある)、古今東西、ありとあらゆる文献や研究や考察から「偶然」や「暗合」といった働きに関する考え方を抜き出し、それを登場人物同士の議論や講義の形式で物語に取り込む。まぁ「偶然」に翻弄される主人公が「真実」を希求するために行われる議論だけに、物語のうえでの必然性は当然存在している。しかしこれらの学術的部分の凄さというか徹底ぶりは生半可なものではなく、関係資料をあたるだけで私だったら一生かかるだろうと思われるだけの内容が一つの物語のために費やされているのだ。感覚的には本書の三分の一がこういった議論であり、物語の展開がその度に中断してしまってリーダビリティを落としていることは些か問題がある。こういった蘊蓄が苦手な読者は脱落を強いられる可能性さえもあるのでは。

前半部は主人公にまつわる「偶発事態」を中心に主に事件性を予感させる伏線がひたすらに登場、物語としては淡淡と進んでいた印象。それが後半に入るにつれ、「奇偶」という新興宗教教団に場面を移して物語が動き始める。特に超絶ともいえる密室殺人事件が発生し、俄然ミステリ味を増していく。コンクリで塗り固められた密室にて死亡した教祖とその愛人。後から誰も入る余地のない部屋には容疑者がなぜか入り込んでおり、教祖の首にはナイフが刺さっていて、しかし二人の死因は窒息死……。しかも密室内の容疑者は犯人ではない、となるとちょっと普通の論理では解決できそうにない。ただ当然というか、この事件は本書にて徹底的に下敷きにされている理論のもと、これまた超絶の解決を迎える。竹本健治氏の実験作短編集、『閉じ箱』のなかの短編で同じネタが記されているのをみた時は「ほえ?」と思ったある解釈が、これだけ徹底した物語の下では、唯一論理的な解釈(のように見える)となってしまう不思議。この謎と回答だけ抜き出すとまんまバカミスになり得るのだが、この密室−回答は物語と不可分に語られなければならない。それとは別に、主人公にとっての「偶然」の存在を、論理にてねじ伏せてしまうが勢いのある後半の議論の迫力もまた凄い。ただ多用されるメタ的手法によってその現実感が再び次々と引き剥がし、一旦まとめられつつあった「偶然」の意味合いを、再び物語内部でわざわざ解体してしまうのもまた印象的である。

ここで書くべきかどうか迷ったが敢えて記しておこう。『本格ミステリ・クロニクル300』に各作家が寄せるコラムに山口雅也氏が『崖っぷちを走る』という文章を寄せており、そこで自らが(本書の主人公と同じ)目の網膜の動脈閉塞症を患ったことに触れている。その短い文章からは、作家山口雅也のひどい落ち込みとそこからの開き直りが感じられる。丁度、本作で火渡雅が作家として吐露している心情はそのまま作者の偽らざる気持ちだろう。本書そのものの背景を知って読めば、作家山口雅也の挫折と再生の書とも受け取れる。 少なくとももともと作者が暖めていたであろう本書の主題と、作者の生々しい実体験が融合した結果、本来作品が発するパワーに鬼気迫る一段の凄みが加わっていることは間違いない。

『生きる屍の死』という超大作から十年。『屍』は、明らかに後世のミステリに対し大いなる影響を発揮した。本書はその独自のテーマ性が特殊に過ぎることもあってフォロワーが生まれることは考えにくい。だが、ミステリを読み込んだ者にとって心の底で感じていた疑問、徹底的に事件に偶然が続いたらミステリはどうなってしまうのか? 「誰もがやらなかったことを実際に書いてしまった」というこの凄みは、今後も金字塔となって孤独で気高い光を発し続けるのではないか。 そういった予感をもって本書を閉じた。ただその凄みゆえ、読むのにこちらも疲れるのもまた事実だったけど。


02/10/26
折原 一「101号室の女」(講談社文庫'00)

本書は'97年に刊行された同題のハードカバーが元本で、著者の経歴にして初めてのノンシリーズ短編集である。

陰気なラブホテルの支配人、沼尻由紀夫四十二歳。支配欲の強い母親と二人でホテルを切り盛りする彼だったが、場所が悪いことと不況が重なり、ホテルの経営は思わしくない。そのホテルに一人でやって来た古屋正美。いわくありげな客に対し、由紀夫は何かれと世話を焼こうとするが母親は「淫売女」と軽蔑する。 『101号室の女』
短編の新人賞を受賞し小説家になると啖呵を切って会社を辞めた男は芽が出ないままほとんど仕事がない状態となっていた。彼のことを軽蔑する妻は、彼に生まれたばかりの赤ん坊を押しつけ仕事に復帰した。ベビーカーを押して公園に来た彼は、小野田と名乗る同じくベビーカーを押した男に声を掛けられる。 『眠れ、わが子よ』
網走刑務所から出所、自分の昔の女だった立花ゆかりの元へ苦労しながら戻ってくる凶暴な男。ロンドン支店への単身赴任から妻である立花ゆかりの元へシベリア鉄道経由で戻ろうという男。二人の手紙の文面が並んで……。 『網走まで……』
石廊崎でカメラを拾いました……加納由起子は新聞の夕刊に載っている記事に気付く。写真は彼女のものと思われた。どうやら夫と石廊崎に行った際にカメラが入れ違ってしまったらしい。 『石廊崎心中』
丸岡真司は妻を殺したいほど憎んでいた。北極のように冷え込んだ関係ながら経済的な理由から妻は離婚を拒否、一方の丸岡には二十六歳になる愛人もいた。その愛人が妊娠し子供を産みたいという。行き詰まった丸岡が飲みまくっていたところ、身だしなみの良い紳士から声を掛けられる。 『恐妻家』
銀行強盗を失敗し、人を殺した男があろうことか我が家に侵入してきた。生後六ヶ月の娘を抱える真紀は強盗犯に出ていってもらうよう懇願するが聞き入れられない。彼女は一計を案じ、夫に預金を下ろしてもらうよう電話で頼む。 『わが子が泣いている』
翻訳家、杉田史郎は妻に殺されようとしていた。少しずつ妻に与えられた毒によって身体の自由が奪われている。依頼があった原稿に紛らせて編集者に対して救いを求めるメッセージを発しているのだが……。 『殺人計画』
やっとの思いで梓との新婚旅行に出かけることになった”ぼく”。松本行きのあずさ5号の指定が取れたのだ。一方、チンピラの坪井は兄貴格の男を殺した人物を追って、同じあずさに乗り込んできた。 『追跡』
定年退職した元巡査、進藤金之助が、自分が担当し迷宮入りとなった女子高生連続殺人について自費出版すべく再調査を開始した。ある人物が犯人として挙げられたのだが、別の殺人がすぐに発生し釈放されたのだ。その犯人、高橋春男らに再度インタビューを試みる進藤だったが……。 『わが生涯最大の事件』以上九編

「折原一」というブランドが醸し出すサスペンス。文章の裏の意味を考えさせられ、さらに裏切られて驚愕する
折原一氏の作品の特徴を「叙述トリック」と規定することはある意味、現在のミステリ界では当たり前のこととなっているように思われる。しかし、本作を読むにつれ確かに「叙述トリック」は折原氏の作品が有する重要な特徴であることは否定しないが、そういった「叙述トリック」だけが持ち味かというと、疑問を呈示せずにはおられない。
本書に取り上げられた短編にももちろん叙述トリックは組み込まれている。ただ、それはサプライズの手段であって目的とは考えにくい。「折原一が書いた作品だぞ」「叙述トリックがきっとあるぞ」と思わせること、つまり自らの「折原一」という作家が創り上げたブランド力をそのまま作品の一つの仕掛けとして利用してしまうのが折原氏のしたたかさ。 その仕掛けが心の隅っこにあるがゆえに読者が強いられる緊張感。そして物語の登場人物らが巻き込まれる事件とが融合して、類い希なるサスペンス性を醸成することに成功している。この点が現在の折原氏の立ち位置ではないか。
特に本書のように短編形式であれば、ラスト数行で世界を反転させるトリックは「キレ」無しには存在しえない。そして、本書のなかにはそのキレがあちらこちらに存在している。描写を気を付けて読み取ることで構図が先に見えてしまう作品も正直存在した。しかし、そのキレの鋭さゆえにサスペンス作品として、それでも楽しめるようになっているのが印象的。
とはいっても、やっぱり凝った作りの作品に個人的には目が向く。一人の女を巡る何も知らない二人の男性が出す書簡が並ぶだけ、という『網走まで……』だとか、事件の回顧録の作成に使用したメモや新聞記事、起こしたテープ等を点々と並べつつ、独特の恐怖感を喚起することに成功していた『わが生涯最大の事件』あたりが印象に残った。後々考えてみれば、この二つの作品は事件の構図が似ているか。

適度な緊張感と見事なサプライズ。全部で九つと短編集にしては多めの作品が収録されているに関わらず、あっという間に読めてしまった。全てが傑作とはいえないが、読んでおいて損はしない一冊。
おまけのコメント。いわゆる新本格ミステリ以降の作家のなかでは、この折原一氏、そしてついでに書いてしまうと太田忠司氏、さらには柴田よしき氏の三氏が私の読書経歴の大弱点状態になっている。いずれ、いずれと思いつつ皆さんそれなりにコンスタントに刊行されているためになかなか追いつかない。


02/10/25
後藤 均「写本室(スクリプトリウム)の迷宮」(東京創元社'02)

第12回鮎川哲也賞受賞作品。後藤氏は1958年、東京生まれ。投稿時は富井多恵夫名義で題名も『スクリプトリウムの迷宮』とされていた。

大学の教授で欧州史の教鞭を執る”私”は専門分野を活かして推理小説作家としても知名度を有している。そんな私はローザンヌで行われる学会に出席するため、ロンドン経由でチューリヒに向かった。その地を散歩していたところ小さな画廊に飾られていた絵が目に入る。どうやら南フランスのモンセギュールの戦いを描いた絵らしい。画廊の女主人によれば、この絵は戦前活躍したホシノ画伯から奇妙な依頼と共に預けられたものであるという。その奇妙な依頼とは、この絵をみて興味を示した日本人に手紙を渡して欲しいというものだった。その手紙はホシノ画伯が経験した謎を解き、絵の持つ意味を理解して欲しいというものだった。興味に駆られた私は、ホシノ画伯が残したという「手記」そして手記の作中作となる「イギリス靴の謎」という作品を受け取り読みふける。……手記はホシノ画伯が欧州を移動中に、雪で移動不能となったため立ち寄った館に集った各国のミステリーマニアの間で発生した殺人事件、その作中作になる「イギリス靴の謎」は死体が移動する不可能事件を描いたものであった。

中盤までは王道本格ミステリのド級的傑作の展開。終盤にそれが失速して……ああ、勿体ない
旅人が偶然に巻き込まれる事件のきっかけが美しい。中世の攻城戦を描いた絵に目を留めたところ、外国の女主人が日本人が戦後に残した謎を手渡してくる……。なんとも神秘的、そして不可思議。しかもその謎は手記の形式をとっており、執筆者が遭遇した殺人事件の謎が描かれる。更にその殺人事件の機縁となったミステリ作品があり、順番に解いていかないことには事件の全貌が見えない……。 ここまでの展開で興味を持たない貴方は、本格ミステリファンではないね。
前半部に凝らされる様々な衒学趣味がまた味わい深い。芸術、中世史、欧州の地理、現代の異国の風景や気候。旅情と知識欲が刺激され、謎解きの雰囲気は盛り上がる。このあたりの気配りもまた素晴らしい。作中作のなかの作中作は『イギリス靴の謎』。この題名を正々堂々と持ち込むあたりの気合い(気負い?)もデビュー作ならではの力強さを感じる。こちらの謎解きはアリバイトリックで、ロンドンで殺された被害者が、その数時間前に遙か離れた場所で目撃されているもの。しかも被害者の首と胴体は切り離され、これまた離れたところで発見された……。謎の提示にセンスがあり、読者の心を捉えることに非常に長けている。果たしてこんなに沢山の謎が提示されて、果たして本当にロジックで解き明かせるのか???

よし、ここまでは誉めたぞ。この作中作中作の途中までは本当に魅力がいっぱいなのだ。確かに文章的には気になるところがいくつもある。戦後の手紙や小説が全くの現代口語口調で書かれているとか、同じくところどころ言い回しや文章表現に引っかかるところがあるとか(それぞれ滅・こぉる氏の指摘と同様である)。たあ、これはまぁ仕方ない部分もあるだろう。
しかし何よりも残念なのは、それぞれの「謎」の着地場所であろうか。作中作については様々な解釈が順繰りに為されている点はまぁ良しとしよう。しかしその最終的な解決が「軍がそれをわざわざ奇妙にみえるように仕組んだから」というのは感心できない。登場人物による検討の過程で出てくるならまだしも、最終解決をそこに持ち込むのは読者に対するエンタメ性を無視した行為だろう。更にその外側の箱となる手記の持つ謎。こちらは解決の過程における描写の異様な駆け足の早さと作者の頭のなかでしか繋がらないような特殊な知識とが結びついて、恐るべき牽強付会な解釈にて進められる。今まで本書の「謎」を解くべく頭を使った読者を(本書にはご丁寧に「挑戦状」が二つもあるのに)裏切るかのような真相。その手記の成立に関する「謎」にしても、「なんでこないにめんどくさいことをすんねん!」というのが主な感想。「都合良く謎(というか、なぞなぞ)を大がかりな仕掛けにするだけの理由」が、感じられない。これが無駄になったら、どうするんだろう? 前半部で盛り上がった気持ちに冷や水ががんがんかけられる後半。うーむ。
鮎川賞受賞作品の常として、巻末に選評が付されている。鮎川哲也、笠井潔、島田荘司三氏による選評によれば、本書は大幅な改稿を前提としての受賞だったらしい。……が、噂に聞くところによれば筆者はほとんど改稿を実施せず、受賞作に限りなく近いままで出版してしまったという。おかげで選評にて弱点とされているところがそのまま読了時に感じた本書に対する不満に繋がってしまっているのは誠に残念。

デビュー作に対して厳しいことをいうようだが、謎をつくるセンスはあるのにそれを解体するセンスに乏しいという印象。ミステリが読者に対する知的エンターテインメントであるというプロ意識を持って今後作品創作に臨んでもらえれば、また変わってくるものだとは思うのだが。


02/10/24
黒崎 緑「未熟の獣」(小学館'02)

しゃべくり探偵の四季』以来となる黒崎緑さん七年ぶりの作品。『本の窓』に'98年から'01年にかけて掲載されていた作品に大幅な加筆修正を加えたもの。元もと黒崎さんの持ち味の一つであるサスペンス性を重視している印象。

とある小さな町。この町に越してきて公園デビューを上手く果たせない主婦、磯村貴子はどうすれば公園ママたちと仲良くなることができるかを深夜の公園で一人シミュレートしていた。彼女は突然近づいてきた足音に驚いて隠れようとするが、その弾みで柔らかなものを踏みつけてしまう。幼女連続殺害事件の発端だった。その足音の持ち主、堂島修は女性作家の桂木まゆみの担当編集者にして、彼女の七歳年下の恋人。彼は早朝のジョギングの最中に死体を発見したのだという。被害者、五百旗(いおき)珠恵は小学校一年生の女の子で、少女アイドルタレントの浅香亜未に似たかわいい子だった。修によれば彼女は「1+1=」と書かれたと思しき紙を握りしめていたのだという。そんな折り、桂木まゆみは同じ名前ということで親しかった高校時代の友人、岡本真弓から連絡を受ける。結婚して雨宮という姓になった彼女は、桂木まゆみの近所に住んでおり、彼女たちは一緒に食事をすることになる。真弓と話しているうちに「1+1=」というメッセージが「シナノ」と読めることに気付き、まゆみは慄然とする。マンションの隣に住んでいるのは週刊誌で「日本でもっとも稼いでいるオタク」ともいわれる科野一昭、綱紀という「シナノ」兄弟だったからだ。そして、事件は第二局面を迎える。八歳の小学生、計徳絵里花が誘拐される。二週間後、絵里花は解放されるがその場所には絵里花の母親の撲殺死体が横たわっていたのだ……。

黒崎緑の復帰作は、複数視点によるサスペンス。全員「怪しげ」な容疑者のうち、果たして誰が実行犯?
語弊はあるが黒崎緑という作家が活躍していたのは90年代の前半期のこと。それから七年近くの年月が経過し、著書の多くが入手し辛くなっている今となっては、「黒崎緑? 『しゃべくり探偵』の人でしょ」という風な印象で捉えられていてもおかしくない。しかし、登場当時の黒崎緑さんはまさに変幻自在の作風を誇る実力作家という存在だった。 館もののド本格パズラー、軽妙洒脱な大人ミステリ、女性ならではの視点が冴えるサスペンス、そしてその作風変化の極みにあったのがべたべた関西弁本格ミステリである『しゃべくり探偵』の一連のシリーズなのだ。
その前提に立てば、久々の本作は黒崎さんの多彩な芸風がミクスチュアされたものだと理解できる。一見しただけだと本作は、現場に残された「1+1=」というダイイングメッセージと、難読名字の幼女連続殺人事件のミッシングリンクがテーマの「普通の」本格ミステリである。しかも序盤から名前こそは伏せてあるが、犯人を描写するシーンがところどころに挟まれており、その犯人足り得る条件を備えた容疑者が少ないこともあって、あまりWho done it? 的な興趣は湧かない。人によっては「すぐに犯人が分かった」ということで本作を見限る人もいるだろう。しかし、本書のポイントはそちらではないのだ。
登場人物に目を向けて欲しい。年下の男に過剰な熱意を燃やす三十過ぎの独身女性作家、公園に溶け込めない娘を憂う生真面目過ぎる母親、一見飄々としたハンサム優男編集者、噂好きの無責任ゴシップ主婦たち、オタクと経営感覚とを兼ね備えた兄弟、国民的美少女アイドルタレント……。様々な人物が登場するが、それぞれが特徴的ではあるけれどとりたてて「ヘン」というほどなどではない。しかし、こういった普通の存在である彼ら彼女らが、どう犯罪と関わるのか。そのWhy done it? が本書の持つ独特の風貌を醸し出している。 もちろん、犯人特定に至るロジックは本格ミステリのそれであるのに、その事件の全貌が明らかになるにつれ、犯人の心の闇が覗ける構造になっているのだ。読み終わった味わいは暗黒小説やクライム・ノベルのそれに近いかも知れない。複数の人々の複数の闇。何かに囚われて日常を逸する者たち。日常の細やかなエピソードの積み重ねによる現実よりもリアルな「現実」の描き出し。二十一世紀に再登場するに相応しい題材をしっかりと黒崎さんが抱えてやって来た。

作者のイメージや題材からして一般的なミステリファン誰もが手に取れる作品のように思える。ただ、ある程度の深みを感じ取れる読者の方が本作から受け取る印象は大きいのではないか。表面上をさらりと流してしまうには惜しい作品なので、じっくりと味わえる方向けだろう。


02/10/23
霞 流一「デッド・ロブスター」(角川書店'02)

私立探偵・紅門福助が活躍するエビ尽くし事件の予告がめいっぱいあとがきでなされていた『ミステリー・クラブ』から四年。ようやく発表となった書き下ろし長編。動物・生物尽くしを常に試みる霞氏のちょうど10冊目の作品にあたる。

私立探偵の紅門福助は劇団「健光新団」のスタッフから調査依頼を受ける。劇団宛に木彫りの恵比寿像が送られてきた、しかし差出人は二週間前に事故死した劇団の看板俳優、神島良平なのだという。他に神島の役を引き継いだ富塚と三沢という二人の俳優に対しても神島から恵比寿像が描かれた絵馬が送られてきている。劇団は「幕末幇間伝」の公演を控えてぴりぴりした状態にあり、誰がこのようなことをしたのか調査をして欲しいのだという。神島は二週間前、杉並区の中学校のプールで全裸の溺死体で発見された。服がずたずたになった学校の警備員もまた彼同様に溺死した。神島は泳げたというが、酔っぱらった弾みで警備員を巻き込んでプールに落ちたと思われたが、第三者がその場にいたという痕跡もあるのだという。紅門は、調査の結果、劇団が次の主演男優二人の二派に分かれていること、神島が「エビ」という言葉を口にしていたことなどを知る。その晩、劇団の嫌われ者にしてゴシップ屋の林という人物が紅門に事件情報を伝えたいと連絡が入る。彼は「ロボットの話」と思わせぶりなことを言っていたが、翌朝、雑居ビルの屋上でエビぞりに背骨を折られて死亡しているのが発見される。しかも現場は生乾きのコンクリによって、死体以外の足跡が見あたらない状態になっていた。果たして「エビ」とは、そして劇団を襲う殺人鬼の正体は?

ベタベタガクガクの霞流一ワールドが炸裂。名前の通りのエビ尽くし
不可能犯罪てんこ盛りの動物ネタ本格ミステリという霞氏にとっての正統を突き進んでいる作品。 このまま行くと最後にはミジンコ尽くしだとか、マッコウクジラ尽くしとか迄仮に進んだとしても、地球上の生物が絶滅しない限りは霞氏のネタが尽きることはなさそうな。
正直、出だしは他作品に比べちょっとスムースさに欠けている印象。劇団の調査を依頼されたといっても恵比寿様の像と「エビ」って単に発音の一部が一緒なだけじゃん! 二週間前に死亡した人物の残した「エビ」という言葉と劇団が公演する「幇間」の舞台とが合わさりつつ発生する事件。それが一旦紅門の前で事件が発生し始めてからはドライブ感満点、というか超スピードで「エビ」に魅入られたかのような不可能犯罪が登場する。 ロボットに襲われたかのような不自然なエビ反り死体、足跡のない殺人、幇間に関する見立て殺人、残酷なアリバイトリック、ダイイングメッセージに密室殺人等々、本格ミステリのガジェットだけはありとあらゆるパターンを組み込んでいる感。ここに着目して、本気で本格ミステリとして取り組む……人は少数派だろうか。「エビ」という生物が持つある本質を補助線として引っ張れば、これらの謎に決着が見えてくる。 それが、強引かつむちゃくちゃ、自ら「バカミス」と呼ぶようなトリックであったとしても、物語の真相は作者が語る以上はこうなのだ。
霞氏のベタベタのギャグは「おかしい」とか「ほほえましい」とかいったテンションを遙かに越えて、正直「寒い」。既に読者を笑わせようとするよりも、作者が一人面白がっている可能性さえ感じられる。ただ、このスーパーハイテンションが、トリックの強引さをも納得させる要因の一つとなっていることもあるし、今さら作風を変えてしまってもらってもこちらも戸惑う。これが霞流一という作家なのだから。

話題作『首断ち六地蔵』を手に取る前にキッチュな表紙に惹かれて先に読了してしまった。ただ本書の場合、シリーズとはいっても作品の順番はあまり関係ない。『デッド・ロブスター』という題名のせいか、某ファミレスのCMソングの一節が読んでいる間ずっと鳴り響いていた。♪「レッド・ロ○スター〜」


02/10/22
乙 一「GOTH リストカット事件」(角川書店'02)

16歳で『夏と花火と私の死体』を発表し第6回ジャンプ小説・ノンフィクション賞を受賞(刊行時は17歳)しデビューした乙氏は、これまでせいぜいがノベルス書き下ろしまでと比較的単価の安い媒体で作品を発表してきている。本書は23歳の乙氏が打ち出す初のハードカバー作品。冒頭2作品のみ角川書店の『ザ・スニーカー』に発表されたもので、残りは全て書き下ろし。

GOTHとはGOTHICのことだが、人間を処刑する道具や拷問の方法など人間の暗黒面に惹かれる者たちのことを指す。”僕”とクラスメイトの森野夜がそうだ。 森野夜が喫茶店で拾った手帳は巷を賑わす連続猟奇殺人犯の犯行が克明に記されていた。僕と森野はまだ警察が未発見の死体を捜しに手帳を元に山の中に分け入り、切り刻まれた女性死体を発見する。当然、警察に手帳を渡す気など毛頭ない。 『暗黒系』
人や動物の「手」に魅入られた男は、人間の手を切断して冷蔵庫に保管してそれを慈しんでいた。いつしか彼の行為は「リストカット事件」と名付けられていた。学校の化学教師の片づけの手伝いをした”僕”はゴミ箱の中に手が切り取られた人形を発見する。 『リストカット事件』
私は週に二回ユカと共に夜中に家を抜け出し、彼女から自分の身体よりも小さな犬を近所から攫って噛み殺すことを命ぜられていた。”僕”は近所の犬が攫われて行方不明になる事件に興味を持ち、新聞部を装って取材に回る。 『犬』
森野が不眠症を”僕”に訴え、眠るために必要な首に巻き付ける紐を一緒に探して欲しいと頼む。そんな森野に自殺した双子の妹がいたことを”僕”は聞き、彼女の過去に興味を持って双子の妹、夕が死んだ彼女の祖父母宅へと出向く。 『記憶』
独身で真面目な暮らしをする佐伯はある日、自らの衝動に従って近所の五歳の男の子を自作の棺桶に生きたまま入れて蓋をし、土の中に埋めた。空気穴から水を注いで彼を殺す。……再び佐伯は衝動に突き動かされるように髪の長い女子高生を攫い、棺桶に入れる。 『土』
病院の廃墟で女子大生、北沢博子の惨殺死体が発見された。それから七週間、妹の夏海は本屋で出会った少年から、博子が死ぬ直前に残したというカセットテープを受け取る。確かにそれは殺される直前のもので、少年は後二本そのテープがあると彼女に告げる。 『声』以上六編の連作短編集。

独特の不器用さと独特の思考回路の登場人物たち――そして思いも寄らないところから来る驚愕
乙氏の作品に登場する人々はどこにでもいるどこかの誰かに――みえる。しかし、それは装っているだけで、彼らは本質的にいわゆる「世間」「世の中」「社会」に対する違和感を常に抱き続けている。 その違和感を表立って表現したり、カミングアウトして我が意を貫いて生き抜いたりする大胆さを彼らは持たない。波風を立たせないよう常に何か、本質的な自分とは異なる「衣」をまとって生きている。こう書くと彼らが「異常」な部分を持っているのではないか、と思われる方もいるかもしれない。しかし考えてみれば、誰だって100%自分をさらけ出して生きている人間なんていない。多かれ少なかれ、社会に対する折り合いのために自分を偽って生きている。乙氏の作品はそんな自分を見つめ直させる――そこが魅力的でもあり、怖いところでもある。特にそんな彼らに救いをもたらしてきたのが乙一という作家のこれまでの創作の中心であり、人気の源泉であったと思う。氏がこれまで「癒し系ホラー作家」として認知されてきたのは、そういった人間の心の深淵を描き、そこから救い出すことを得意として来たからだろう。
さて本書は”僕”と森野夜という「人間の暗黒面」に接することを好む二人が主人公である。彼らは殺人鬼の所業を目の当たりにし、連続殺人犯と会話し、告発されない犯罪者を嗅ぎ付け、そして観察する。死体が発見された現場、事件があった場所を好む。被害者の遺留品や、死体の一部等を所有したりすることには興味があるが、もちろん社会正義が行われることそのものにはあまり興味がない。こういった感覚の持ち主を、これまで同様、本書でも乙氏は淡淡と描く。
それだけなら、これまでの乙氏が描いてきた物語群と本書は、軌道を同じくするものでそう変わらない……はずなのだが、二つの点において相違点が存在する。一つは、徹底的に人間の暗黒面のみに物語が終始していくこと、そしてもう一つは「ミステリ的仕掛け」を作者自ら重視したという構造にある。
表題そのものの「GOTH」という人種。本書の登場人物はここから最初から最後まで抜け出さない。感情移入するしないに関わらず、物語のトーンは不気味に暗いまま、最初から最後まで一貫している。殺人鬼に救いはなく、殺人鬼を好む者にも救いは来ない。心の深いところが、冷たい何者かの手によって握りしめられているかのような読中感、そして読後感もまた同じ。そんな暗い雰囲気にキラリと刃物が一閃する。刃物とは、実際の刃物ではなく(いや実際の刃物も多数出てくるのだが)、ミステリ的な仕掛けである。これがまた、おそらく作者が自覚している以上に読者の心を翻弄する。内容については触れないが、私レベルの読者を「えええええ!」と驚かせるだけの鋭いキレが物語の内部に存在する。これ以上は言わない。あくまで自分の眼で、頭で確かめて欲しい。

恐らく今後も、少なくとも当面は乙一ミステリ作品の傑作として語り継がれるであろう作品。一方で、これまでの乙一ワールド好みの方も素直に入ることはできるだろうが、読了した後にどういった感想を持つかについては……私の口からは何ともいえない。最後に、内容と表紙とがパーフェクトなマッチングである点も付け加えておきたい。特にこの本のカバーを外して裏側をチェックすることを忘れないように。


02/10/21
高田崇史「試験に敗けない密室 千葉千波の事件日記」(講談社ノベルス'02)

高田氏といえば第9回メフィスト賞を『QED 百人一首の呪』にて受賞、その後もこのシリーズは継続しているが、別に千葉千波シリーズという論理パズルを徹底した短編があり、'01年に『試験に出るパズル』と題され短編集が刊行された。本書もそのシリーズにあたり、書き下ろし刊行された長編(中編?)作品。本来は「密室本」として刊行される予定だったのだという。

夏休みのシーズンを迎えた浪人生、”八丁堀”ことぴいくん、前進黒ずくめの勘違い男、饗庭慎之介、そして天才高校生、千葉千波の三人は千葉家の別荘で夏を過ごすべく、群馬県にやって来た。本来「水香」に行きたかった彼らは、言い違えによって「十三塚」という田舎の駅に放り出される。数少ない電車を更に乗り間違え、結局十三塚近くの旅館「清滝」に三人は宿泊することになってしまった。しかも折しも降ってきた大雨によって土砂崩れが発生、電車は不通、電話も使用不可能、道路は通行止めと十三塚に閉じこめられてしまう。旅館の近くには地元の名物、善人だけが脱出可能だという”神裁きの土牢”や”龍神池”、”六部殺し跡”に”首切り塚”と気味の悪い名所があり、三人は時間つぶしのために見学に出かける。しかしそこでよりによって慎之介が”神裁きの土牢”に閉じこめられてしまった。彼を救出するために旅館に駆けつけた残り二人は、今度は密室となった納戸内で旅館の女将が縛られているのに遭遇する。しかも納戸の鍵は、その納戸の棚のなか、しかも広口瓶の中に取り出し不可能状態で入っているのが発見されたのだ。

本格ミステリに相応しい場所に相応しい謎。独特の不安感を積み上げた先に待ち受ける回答は……?
八丁堀の煮え切らない言葉で三人組がやって来たのは僻地の村。唯一の交通手段が鉄道といわれるその村で、鉄道事故が発生し、村の宿屋に取り残されてしまう。その地の名所がまた怪しげなものばかり……と舞台装置は簡潔ながら「TRICK」もかくやと思われる「典型性」を持っている。警察も来ない。現地の人は頑迷。村を支配する奇妙な伝説。その典型がまた、ミステリファンにとっては居心地がよい。 村という名のクローズドサークル。怪しげな因縁を持つ村の遺跡の数々に、その呪いに囚われていくかのような主人公たち。宿泊している宿屋にいる美しい女性、しかもそれは従業員でも泊まり客でもないという。横溝世界を簡潔にしたというか、古めかしい本格ミステリの舞台装置を蘇らせたというか、ある意味インチキ臭くもある舞台が本書の最大の魅力であろう。もちろん「ひとりでに開く土牢」だとか、「宿屋の一室に消失する女性」だとか、「密室内部で縛られた老婆」だとか、「瓶の中に入って取り出せない鍵」……等々謎の方も、現代本格に相応しい不可能趣味に満ちている。
千葉千波は前作のパズル指向(パズラー指向ではない)が、頭に残っていたので、このような展開になるというのは嬉しい誤算。果たしてこれらはどういう理に落とされるのか……? がもちろん後半最大の興味となる。そして、その解決方法は……うあ強引だよこいつあ! 心理トリックや偶然の要素を抜いて、必然をトレースしていくとこういう結論しか出ないか。ただ、そう悪い意味ばかりでもない。先に「TRICK」と述べたが(あ、Cの字は逆ね)、本書で味わう興趣もまたそれに近い。読んでいてそっちの決めぜりふが頭に浮かんだし。←この意味は読めば分かるかも。
もちろんトータルでは十二分に面白く読めたのは事実。何といっても重厚長大ばやりの日本ミステリ界で、この薄さでこれだけ内容が濃いのは嬉しい限り。

その薄さの理由の一つはたぶんこれ。もともと講談社ノベルス十五周年記念「密室本」の一冊として上梓される予定の本だったのだという。高田氏は結局、何かの理由から『QED 式の密室』をそちらに差し替え、本書は通常のノベルスとして刊行された。両者を読んではみたことになるがその明確な理由は見えてこなかった。ただ、こちらも「密室」が取り扱われていることであるし、密室本系列の作品がお好きの方は楽しめること間違いなし。