MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


02/11/20
栗本 薫「鬼面の研究」(講談社文庫'84)

'78年に『ぼくらの時代』にて乱歩賞を受賞後、栗本薫氏は当時、評論、SF、伝奇に時代小説とジャンルを問わず精力的に作品発表を続けていた。本書は、第2回吉川英治文学賞を受賞する『絃の聖域』にて初登場した探偵役・伊集院大介が登場するシリーズ三作品目にあたり、'82年に「小説現代臨時増刊」にて発表された。

作家の森カオルはテレビの一時間ドキュメンタリーのナレーターの仕事を引き受け、九州の山奥にある鬼家荘という地に向かうことになっていた。交通の便が悪く文明からも途絶したかのようなその地は、昔のままの風習を今なお残しており、彼らは自分たちがアイヌの末裔であると主張しているのだという。カオルを案ずる伊集院大介は彼女のマネージャーとしてロケに強引に同行する。鬼家荘出身という久我というADの案内でその地に辿り着いたロケ隊一行十三名は、いきなり葬式があるので帰れ、という村人の拒絶にあって当惑するが、何とか潜り込むことに成功。しかしカオルは村が持つ独特の陰気な雰囲気に呑まれる。また、カオルが宿泊している部屋の荷物が漁られ、台本の一部に赤字で大きな×印が付けられる。伊集院によればそれをしたのは村人ではなく、スタッフの一人、ディレクターの桜井ではないかという。そしてその晩嵐となり、橋が落とされ孤立した村のなかでスタッフが次々と謎の死を遂げていく……。

迷信と伝説の残る村、嵐の孤島、ダイイングメッセージに見立て殺人。そこに本格ミステリのガジェットを用いた背負い投げ!
発表当時は古くさいとでも評されていたのではないか。あまりにもあまりな典型的本格探偵小説の設定が登場しているのだから。日本を舞台にしているとはいえ奇妙な設定で隠れ里を設定し、唯一の道の吊り橋を落として「嵐の孤島」状態を村全体で創り出し、ムラに対する異邦人であるテレビスタッフが次々と殺されていく。伝説を信じたたりを恐れる旧弊な価値観に支配された村人と、それを笑い飛ばして食い物にしマスメディアに売り渡そうとするスタッフの対立。現代文化vs村社会文化の対立が物語のサスペンス性を盛り上げている。そこで発生する連続殺人。鬼家荘という村の名前にちなんだ鬼の面や角といった小道具が仕掛けられた連続殺人。そのうえ見立てやダイイングメッセージ、不可能殺人等々が続く……。饒舌に過ぎるのではないかと思われるくらいのガジェットの連続。最後には読者への挑戦までが挿入され、果たして誰がどんな目的でこのような「凝った殺人」を繰り返すのか。否が応にも興味は高まる……。
しかし意外性は別のところからやってくるのだ。
つまり、ミステリとして古臭い道具立てにかかわらず、本書は素晴らしく、かつオリジナリティの高い「試み」が為されているということである。大方の古典本格の様々な革新的事例は、現代のいわゆる「新本格」のとめどない拡張の結果、それらを踏まえた、ないし無自覚で同じネタを利用した作品が溢れているが、本書に相当する現代作品はワタシの知る限りまだ現れていない。同様に古典に同じ事例があるかというとそれもなさそうだ。その試みとは作品全体の主題さえもひっくり返しかねない壮大なレッドへリングにある。読者の頭のなかに存在する数ある本格探偵小説そのものが、本書のトリックを構成しているといっても過言ではないだろう。恐らく普通の本格ミステリとして本書を読んだとしても、個々の事件におけるその意外性や不可能犯罪トリック、そして犯人に驚くことは驚くだろう。しかし、本書の全体トリックは、二十一世紀の今であっても「実験的かつ意欲作」として十二分に通用する凄さを内包している。
当時の推理小説という狭い世界のなかで「本格は古臭い」と揶揄されそうなことに対する反発が、もしかするとこの傑作を生み出すきっかけになったのかもしれない。この古臭い設定であるからこそ、これをいかに現代的な仕掛けに還元するかを熟考した結果生み出されたのが本書。設定に囚われすぎず、その本質を見つめて一歩引く……という作業を行わなければ決してこの真相を作ることはできない。評論家気質の中島梓の存在あっての栗本薫……ということなのだろうか。ついでにトリックが明かされた後に残る一種の現代人批判もまた作品そのものの持つメッセージ性と絡んで、その鋭い考察が頭のなかに残るあたりも凄い。

この作品が二十年前に既に書かれていたことそのものに戦慄した。いくら文中に「ナウい」などという言葉が入っているとしても、作品そのものが持つ意義が色褪せるわけではない。強いていえば、栗本薫という作家のファンがその作品の一として読む場合よりも、ある程度ミステリにこなれた方のほうがこの衝撃は大きいと思う。やはり『幻影城』出身というのは決して伊達ではないということなのだろう。世界が反転する酩酊感を味わえる名作。


02/11/19
戸川昌子「欲望の鎮魂歌」(徳間文庫'82)

本書は'73年に実業之日本社から新書版で出た単行本を文庫化したもの。……文庫化されたこと自体かなり不思議な、現在に至るまでその新書かこの文庫版のどちらかでしか読めない超怪作

第二次世界大戦中に腕の良いパイロットとして慣らした森谷は当時の事故によって下半身の機能を喪失していたのだが、五十過ぎになり死病を患った結果、セックス機能の復活を遂げた。彼は当時愛した女性の面影を求めること、そして事故の際に某国の独立指導者より託された約束を果たすために台湾に飛ぶ。死ぬ前に若い女性を抱きたい……しかし彼の心臟は弱く急激な運動は死に繋がりかねない。飛行機の内部で過去の記憶が蘇り、極度の緊張のために倒れた彼は病院に運ばれる。彼に付き添うスチュワーデス、看護婦らが彼に妖しい誘惑を重ねてくる。相手を抱こうと挑んだ結果、女性が死んでしまう事態が発生し彼は混乱。更に、逃亡しようとした彼を助けるという謎の医者、林鎮海と失明しているという彼の妹が彼を再び罠にかけ、森谷は快感のなかで腹上死を遂げる……。
得意先を台湾に招待し女性をあてがう接待を行う大手製薬会社の御曹司。彼自身も多いに羽目を外すつもりだったが彼の妻も同道していた。妻の目を盗んで台北から処女を買い求めた彼は腹上死し、その妻が一人で慰めている最中に謎の巨大シェパードがホテルの部屋に乱入、彼女を襲った。
カメラマンの森谷は芸術的なエロ写真を撮影するために台湾にやって来た。彼は自分と同姓の老人や別の日本人男性が次々と台湾にて腹上死を遂げている事態を聞き、興味をそそられる。

セックスの神秘とタブーを平然と道具に使って奇妙な物語を紡ぐ……。こんな作品、戸川昌子以外には書けないし書かない
初期作品における戸川昌子の作品は濃密な性描写を含みつつも本格ミステリとしても十分なサプライズを感じさせてくれるものが多かった。しかし中期以降の長編作品は「エロナンセンスの玉手箱」といった様相を呈していることは果たしてどこまで知られているのだろうか。本作もそういった系譜に連なる一作で、作者が真面目なのかいい加減なのか分からないのだが、脳味噌がくらくらしてくるような酩酊感覚が味わえる作品。官能推理なんて綺麗なものではなく、情欲SFとでも呼ぶべきタイプ。極端なフェティシズムや変態プレイが数多く、しかも当たり前にばんばか登場する。最初にこの系列の作品を読んだときは「何じゃこりゃ?」としか思わなかったが、この世界に触れ続けているうちに、この奇妙な感覚に慣れてきたのか「ここまでやるの? すげー」と単純に面白がってしまう自分を発見して、正直少し戸惑っている。
本作でいえば、なんといっても「意図して引き起こす腹上死」と「人間と性交する犬」を武器に戦う国際謀略なんて、三流エロ小説家でさえ使うのをためらうだろうネタを、正々堂々と前面に押し出しているあたりの凄さに注目したい。それでいてエピソードの散らし方や伏線の張り方、そして「物語の謎」の魅せ方などが一流で「小説」としての展開の魅力が高い分、用いられている題材との激しいギャップが生じている。ポイントポイントを下手に取り出すと単なる変態小説(悪い意味ではない)のだが、トータルでは物語となっている。ま、それが奇妙な魅力を呼んでいることもまた事実なのであるが。
あと不思議なのは性交における男性的感覚を、女性である戸川さんが非常に巧みに小説に取り入れていること。なんで女性がこんな感覚を表現できるのだ? この点は私にとって文句なしのミステリーである。逆に男性にとってあまりに都合良く女性がぽんぽん裸になっていくような気もするが、このあたりを描くのにはあまり抵抗なかったのだろうか。

いずれにせよ「単純に面白い」というより、こういった特殊な設定を「面白がれる」人向きの作品であることは間違いないだろう。万人が喜ぶ作品ではないけれど、一部のカルトな読者が狂喜していればいいのかも。「どこをどう取ってもヘンなミステリー」。何となく惹かれてしまったら戸川昌子の有名どころではない作品を探して読んでみましょう。


02/11/18
皆川博子「冬の旅人」(講談社'02)

『小説現代』に連載されていた同題の作品を単行本化したもの。皆川さんはその実力、名声の割に「書きたいものを書きたいように書けない時代があった」と嘆いておられたのだが『死の泉』以降、かなりその自由度が増してきたのだという。本書は前世紀末から今世紀初頭にかけて混乱を極めるロシア史とその争乱の時代に彼の国で生き抜いた女性を二重写しに描く歴史物語文学の傑作。

一八八〇年。明治時代初期の日本で一枚の西洋画に魅せられた十四歳の川江環は女性だてらに親の財力をもって洋画と露西亜語とを学んでいた。しかし親が破産しその夢を断念し生活の苦労を強いられるようになる。しかしその画才と語学が認められ、日本の露西亜正教会の推薦を受け、異母妹の花乃と結婚した露西亜人に連れられて聖教画修得の為にペテルブルグにある女学院に留学することになった。露西亜人の白痴の息子、フェージャと共に最下層の船室で厳しい航海を経てようやく彼女は露西亜に入る。”タマーラ”と呼ばれ貴族の娘らと共に厳格な管理のもと女学院の生活を開始した環だったが、自身の欲求と様々な誤解とが重なって強制送還の措置が取られかける。結局いくつかの曲折を経て、ユダヤ人の下働きソーニャと、以前に知り合っていた画学生、ヴォロージャを頼り女学院脱出に成功、そのまま貧民窟での生活に入る。日本で受けた屈辱的な仕打ちによって男性を受け付けない環。女学院で仕置きの際に見た幻想と自身の情念によって、彼女は仕事の合間に『ルサルカ』という題名の絵を描き上げ、ヴォロージャの名前で展覧会に出品する。ヴォロージャは露西亜にて若き画家のパトロンを務める人物に見出されて有頂天になるが、彼は皇帝暗殺によって取締強化された警察によって誤認逮捕、そのままシベリアの流刑地に送られることになってしまった。折しもユダヤ人迫害の気運を恐れるソーニャと環は彼の付き添いとしてシベリアへと向かった。しかしそれはまだ環の体験する遍歴のごく最初の段階に過ぎなかった……。

決して気高くもなく美しくもなく、それでいて心の底の獣を抱えた女性の魂の崇高な遍歴、そして歴史……
最初は本の分厚さにびびった。二段組でびっしり活字の詰まった526頁。読み進めていくうちにやっぱり嵌った。最近、個人的に本格ミステリという狭いジャンルでは大作に否定的な私ではあるが、やはり物語文学というか歴史ロマンというか、別ジャンルでは大作にしないと語りきれない世界が存在することは全肯定してしまう。
一口にいえば、帝政ロシアの末期からロシア革命の動乱までの数十年を地に足をつけた視線から描いた世界を背景に、画才と衝動的な「心の底の獣」を心に抱えた日本人女性の遍歴を描いた物語。 そのどちらも生きる喜びに満ちあふれた素晴らしい世界……とは当然異なり、否応なしに片や歴史という歯車に、片や自ら内に抱く「心の底の獣」が発する衝動に翻弄され、登場人物は波間に漂う小舟のように流されていく。特に主人公、タマーラはロシアに来る前から様々な絶望を背負い、ロシアに来てからも誤解、貧困、逃亡、流浪と、生活が充足して落ち着いていられる期間はごく僅かでしかない。ただ、彼女の「魂」もそうかというとそうは限らないというのが本作のポイントだろう。表面上はどうあろうと、彼女の「心の底の獣」が欲するもの、即ち「ディアーブルの絵」「美しく無垢な白痴、フェージャ」といった彼女にとっての至高の存在を追い求める人生。心の底に無自覚に獣を飼う者同士が傷を舐め合い、一方恩を仇で返し、許し許され頼り頼られ、当面の生活が立ちゆかなくなろうとも、彼女は「心の底の獣」が発する衝動を止めようとはしないし、止められない。むしろその結果、彼女の心と身体がいかに傷つき、絶望と自己嫌悪にまみれようと、その「心の底の獣」の満足を求めることこそが彼女の人生なのであろう。
そこで再び歴史に目を向けると面白い。こういう行動を取ってもと決して幸福になれない……と分かっていながらも、「心の底の獣」に翻弄されるタマーラの人生、一応は平穏なロシア帝政が諸外国や革命勢力などの「外なる獣」に翻弄され崩壊していく歴史。内と外と「獣」の位置は異なるが、対となって存在している。特に普通「運命」と表現されるのは「外なる獣」による襲撃を指すのだろうが、タマーラのように「内なる獣」によって翻弄される人生もまた「運命」なのではないだろうか。

エンターテインメントの枠を軽く無視し、皆川博子さんの自伝的真実を書きつづった浪漫文学。 まるでみてきたかのような歴史の存在感、彼の地それぞれの自然や風景、風俗の濃密な描写、心の衝動を文章にきっちり昇華し、読者に伝えていく力量。皆川博子さんにしか創れない世界。そして重厚な露西亜文学に決して負けない強烈な存在感をもった物語である。

心の底に「自らでは押さえきれない何か別の衝動」を抱える人物、というのは皆川博子さんの他の作品にも通底するモチーフであり、特に本書はそんな女性を前面に押し出すことで皆川世界と歴史ロマンの結託が著しい。 ああ、また素晴らしい物語世界を堪能させて頂きました。ごちそうさま。(但し、主人公の個性が強烈に過ぎるので万人向きではないでしょうが)


02/11/17
鷲尾三郎「鷲尾三郎名作選 文殊の罠」(河出文庫'02)

「本格ミステリコレクション」として河出文庫から刊行された第一期、戦後作家篇の掉尾を飾るのは鷲尾三郎。無事に全六冊の刊行がなったことを素直に喜びたい。本書は一部・二部に中身が大別され、特に第二部には超入手困難だった幻の連作短編集『悪魔の函』('58年刊行)がまるまる収録されているのが目玉。

(第一部)
会社に向かう途中で失踪、海で溺死体となって発見された会社の社長。自殺や事故とは思えない彼の死体の服の隙間にはなぜか指輪が挟まっていた。 『疑問の指輪』
魔女的な性格を持つ美女に翻弄されて有望な前途を喪った医学生。彼は苦労しながらも産婦人科医となっていたが、天は彼に復讐の機会を与えてしまった。 『鬼胎』
自分の過ちを告白した結果、結婚初夜の妻から拒否された男。間に戦争を挟んで彼らは別々の人生を歩んできたが、男は表面上は何気なく装いながら、恐るべき方法にて復讐を行った。 『生きている屍』
アルゼンチンで成功して財を成した実業家が変死した。遺言状は同居していた親戚に遺産を残すことになっていたがその姪の依頼で私立探偵南郷宏が謎に挑戦する。 『文殊の罠』
芸術家の兄が殺人の罪で逮捕された。無実を訴える妹に南郷宏が動くが、死体から発見された凶器はその兄のもので容疑者でアリバイがないのも彼だけだった。 『播かぬ種は生えぬ』
皆既月食の観察のため学校屋上にて天体観測をしていた教師たち。彼らの目の前で学校長がトラック一台が通り過ぎる間に消失してしまった。裏には汚職事件の影が。 『月蝕に消ゆ』
(第二部)
ほとんどアル中の探偵小説作家、毛馬久利とストリッパーにして探偵助手の川島美鈴が難事件(怪事件)に挑む連作中編四編。
精神病院の敷地内での巨大な池。病院院長を訪ねてきた男が殺され池に投げ込まれ、院長は失踪。嵐のため見舞いに来て帰れなくなって病院に泊まり込んでいた毛馬は事件に関わることになるが……。 『風魔』
馬に乗って出かけた十数人の一行は雷雨に遭って駆け戻ってきた。一族会社を仕切る女社長の乗った馬が遅れたうえ、脇道に入って感電死していた。落雷による感電と判断されたが、なぜ彼女がそこに行ったのかが分からない。 『姦魔』
変人揃いの一家の主人が密室のバラック内部で刺し殺されていた。睡眠薬を飲まされ抵抗無く殺されたことは分かったが密室の謎が解けない。毛馬が捜査にあたるが変人一家に邪魔されなかなか手掛かりがつかめない。 『妖魔』
雪の積もった旅館の離れで新妻が殺された。出入りした足跡は全くなくその晩、毛馬と美鈴と飲んだくれていた夫が犯人と目された。毛馬は彼の無実を証明するべく密室殺人に挑む。 『白魔』 以上十作品。

バカミスの元祖呼ばわりされる鷲尾作品だが……、実際はあくまで大まじめな奇想と人を食った大胆さが身上の本格作品である
鷲尾三郎作品のうち最もこれまで入手しやすかった『過去からの狙撃者』は本格ミステリ的興趣とサスペンスが絡まりあう内容で、それなりには面白かったが、古本マニアが血眼になって探すほどの凄さは実はあまり感じなかった。他にアンソロジーでいくつか読んできた短編のなかには「どっひゃー」というトリックが用いられていたものがあり(本書だと『風魔』あたり)、そのどちらが鷲尾の真の姿? と思っていたら……やっぱりというか「どっひゃー」という方が氏の身上だったようだ。そんな「どっひゃー」が詰まった好作品集。
例えば後の綾辻行人氏の某作品のメイントリックと同じ(偶然らしい)……というようなものを始め、本書には数々の驚愕の大トリックが仕掛けられている。(いくつか藤原宰太郎の推理クイズでもみたことがある……) 物理トリックや時間錯誤など、犯人は大仕掛けのトリックを作るためにかなり無理のある行動を取るもの。裏を返せば、これらトリックはいわゆる「本格推理小説」批判の際に、「現実的ではない」などとやり玉に挙げられるようなタイプ。しかし本書を読む限り、「それのどこが悪いんだ!」と思わず正面切って反論したくなる。本作収録の諸作におけるトリックは現代でいうところの「バカミス」の系譜に属する。しかも発表された時期からいえばその元祖と呼んでも差し支えないだろう。しかし作者が大真面目に作品に取り組んでいること、つまりそのトリックに沿って作品づくりをしていることなど物語をなぞる分には、いわれる程の違和感は覚えない。その結果「バカミス」的トリックは「奇想」の域へと昇華しているとさえ感じられる。 褒めすぎのような気もしないでもないが、正直そう感じるのだ。確かにこんなトリックを実際に弄する人間はいないだろう。しかし、こういった物語中で語られるこれらこそ「探偵小説でしか語り得ない真実」にどこか繋がるような気がしてならない。(真実、というのは言い過ぎかもしれないが、探偵小説以外では成立し得ない面白みと言い換えれば良いか) 犯人探しや意外な動機ではなく、トリックが明かされることそのものによって驚かされるという楽しみは、他の地味な推理小説で得られる驚きとは別の、どこか格別の味わいがある。
発表時期からすると昭和三十年代のものが多い。トリック中心の探偵小説が行き詰まりつつあって、社会派推理小説が萌芽する時期にあたる。鷲尾三郎氏は、その「トリック中心」の究極を自らの方向性としていた……というのは考えすぎか。いずれにせよトリック中心の探偵小説として最高峰に位置していることだけは間違いなさそう。

トリックとは無関係だが、構成にも工夫がいくつも感じられた。その一つ、第二部『悪魔の函』のパートにおける探偵と美人助手の掛け合いなどのノリは意外と現代的センスがみられる。言葉遣いや話している内容そのものは確かに古びつつタイプではある。しかし、男女の関係性といった部分に独特の面白さがある。この時代の作品で描かれる男女関係は「あくまで男性が女性を引っ張る」という当時の常識に沿ったものが多いなか、「女性の気が強く、男性が敷かれる」というノリは珍しいのではないか。探偵小説作家+ストリッパーといういかにも通俗な関係でありながら、交際がプラトニックだという意外性にも却って面白みがある。

本書は、新刊書店で入手できる今のうちに買っておかないと、将来何十年かにわたって後悔すること必至。文庫で千円を超すという単価は決して安くないが、その分マニア以外の一般読者が気紛れで購入するには敷居が高く、そうそう古本屋に流れることはないはず。もちろん、所有するだけでなく読んでも十二分に楽しい作品ばかり(一番美味しい作品群がチョイスされているのだから当然かも)。しかしこのシリーズ、早く第二期が真剣に待たれる。日下さん、よろしく!


02/11/16
中町 信「散歩する死者」(徳間文庫'89)

'67年のデビュー以来、そのトリッキーな作品と本格にこだわる姿勢により未だに熱狂的ファンを抱える中町氏。本書は中町氏の初期作品で、'82年にトクマノベルスより刊行された作品が文庫化されたもの。

二年前まで売れっ子推理作家だったがその作風が飽きられ落ち目となっている柳生照彦から、雑誌「小説世界」の編集部員花積明日子に持ち込み原稿の依頼があった。彼は問題編を作ったので犯人当てリレー小説を企画したいのだという。解決編作成のために彼が指名したのはタレントにして小説家の尾道由起子だった。しかし、解決編を執筆するといって温泉に向かった柳生は、遺書めいた文書を残してそのまま消息を絶ってしまう。問題編の内容はビニール工場を経営する社長の妻が、夫と喧嘩して家を飛び出したまま旅行先で殺されたというものだった。その妻は金貸しをしており、その怨恨が原因ではないかと思われた。鍵は社長の元に送られてきた妻からの手紙。封筒には現金三十万円が同封されていた……。明日子はその具体的内容が実際に発生した事件とよく似ていることに気付く。調べてみると福島県で実際にあった事件の関係者が実名で登場していた。問題編を読む限り幾人かの容疑者のうち、その回答は明白かと思われたが、その容疑者が殺されてしまう。さらに事件の証言者や、捜査の過程で犯人と思われた人物が先回りされて次々と殺され、明日子自身にも魔の手が……。

思わず「えっ?」 本格ミステリにこだわる筆者の姿勢が見事に発露した快作
いわゆる”技巧派”タイプの本格ミステリにおけるサプライズの提起方法にはいろいろあって、最初に大胆なヒントを読者に与えてしまったり、犯人を先に種明かししているのに意外性を持ってきたり、物語中の容疑者とは全く別のところから犯人を持ってきたりとその種類は尽きないのだが、基本的には「ミステリマニアでさえ鼻をあかされる」という共通点がある。本作もいわばその系譜にあるのだけれど、そういった趣向が凝らされていると思わせないのが中町氏の技巧。
ミステリ作家の残した普通のミステリとして読み始めたら、その段階で作者の罠に嵌っているという恐るべき作品。 とはいっても何か企みがある作品……として読んでいてもしっかり瞞されるはず。あまりこの点に詳しく触れられないのがもどかしいが、ミステリ作家が作った問題編が、実際の事件をベースにしていて、かつごく普通のお金絡みの殺人事件という普通さ(平凡?)な作品に見せかけつつ、それをとことんまでミステリとして拡げていく手腕は見事としかいいようがない。特に様々な論理から導き出された真犯人と目される人物が次々と舞台から姿を消していく後半のサスペンス性は素晴らしく、途中で止められなくなってしまう。
いわゆる新本格ミステリ最後のフロンティア? が既に'80年代に中町信によって十二分に開拓されていたということか。こういった作品に真正面からぶつかるとマニアが随喜する気持ちがちょっと分かるような気がしてくる。

発表時期から考えると多少古い作品ということになるが、ネタ的には普遍的なものを使用しており現在(たぶん未来も)読んだとしても読者に違和感を与えることのない、純粋な本格ミステリ。現在、この作品が簡単に手に入らないというのはイケナイことなのではないかと思う。(そんなに入手難易度が高いわけでもないけれど)。


02/11/15
馳 星周「マンゴー・レイン」(角川書店'02)

それまでも別名義の著作はあったが馳名義のデビュー作『不夜城』にて鮮烈に文壇に登場、吉川英治文学賞や推理作家協会賞を立て続けに受賞しつつも、著作を重ねる馳氏の創作スタンスに揺るぎは見られない。本書は学芸通信社の配信により'00年2月から翌年まで、約一年にわたって「東京中日スポーツ」や「いわき民報」「宇部時報」等の新聞連載された作品が加筆修正されたもの。トーチュウはとにかく一般地方紙にも連載されていたっていうのは……スゴイ(いろんな意味で)

タイで二世として生まれて育ち、タイと日本とを往復する暮らしをしている十河将人。彼はギャンブルに狂ってタイ人の妻、ナンを喪ってから、タイの女を日本に送り込むというやくざな人買いを生業としていた。バンコクの喫茶店で偶然出会った幼馴染み、富生はタイで事業を大きくした父親のビジネスを受け継ぐ真っ当な実業家。将人、富生、そしてタイ人のチャットは三人つるんでよく遊んでいた。チャットは軍隊に入隊後、現在はヤクザのボディガードをしており、表人生を歩んでいるのは富生だけ。その富生は将人に一人の中国人女性をシンガポールに出国させ、実業家の愛人だった彼女の持つ仏像を持ち帰って欲しい、と法外な報酬を提示する。仏教国タイは仏像の持ち出しに厳しく、事情があることを察した将人は彼女と落ち合うが、その最初から何ものかの襲撃を受ける。彼女ともども命からがら逃げ出した将人は、その仏像に隠された秘密を探るべく逆襲の機会を狙った。敵からの追跡を退けて、仏像を調べたところどうやら日本軍が戦時中に隠した宝の地図が発見された。

馳星周らしいノワールの旋律に乗って、謎の財宝を巡って追いつ追われつする男女、そしてバンコクの暑い夜
いわゆる一般の通俗冒険小説、下手をすれば少年向け探偵小説の時代から存在する王道ストーリー「宝物を巡る冒険」。本作品における基本中の基本の物語構造を取り出すと、その筋書きに実は乗っかって進められていることが分かる。単純明快、ストレートな面白さ。エキゾチックな都会、バンコク。偶然発見される宝物の地図、地図と共に記された暗号、その暗号を解くためのヒント探し、宝物そのものが何なのか、宝物を同時に追う敵たち、その敵との戦い。ね、これだけを抜き出すと、明朗冒険小説のような言葉が並ぶでしょ。
ただし、宝捜し冒険小説とはいっても本書の作者は馳星周なのだ。 彼の描く人間模様には赤裸々な生々しさがある。本作に登場するのも、これまでの作品同様、愛情、友情、未来といった生きるための全ての希望を失った人々。彼らの暴力衝動と打算、そして裏切りと罠の数々。力ある者、知恵のある者だけが生き残り、少しでも隙を見せれば人生そのものを強制的に閉じさせられる世界。宝物は単なる夢ではなく、全てを喪いつつある者たちの「縋り付くべきよすが」となって存在する。宝物への欲望、必要性はそりゃ凄い。当然、物語は快感よりも不快感が強いものとなる。しかしこれが馳星周の描くこの世の真実なのだ。のんびり読書を楽しめる我々は知らない、そして知りたくない世界がここにある。
物語は数々のエピソードを経つつも着々と暗号は解読され、宝の場所は特定され、そして御対面、と「宝捜し冒険小説」の予定調和に進んでいく。 ただしその道行きのあいだに山のような死体と、いくつもの裏切りと絶望が流れ去った後のことではあるが。物語の閉じ方もこれしかない……のだろう。きっと。
もう一つ印象的なのはバンコクという都市の描写。「マンゴー・レイン」とは当地特有のスコールのことを指すのだが、本書ではその気候だけでなく、猥雑な都会の裏側……どこか歌舞伎町にも似た世界がしっかり描かれている。現地のヤクザ、政治家、軍人といったタイという国特有の権力構造や、利権の抗争なども実にリアル。売春や中国との関係、盗難車の横行、スラムなどのいわゆる裏社会的な部分についてもその国特有の事情がありありと分かる。長年住んで見てきたわけでもないだろうに、なぜここまで書くことが出来るのだろう? この暑くて熱い都市のことを。

ダーク・ムーン』の分厚さにはびびったが、本書くらいの分量の方が馳氏の世界は綺麗にまとまっている気がする。物語展開もスピーディであり、緊張感は相変わらず全編を覆っている。馳氏が再び原点に立ち返ってきたような印象。


02/11/14
柄刀 一「3000年の密室」(光文社文庫'02)

'97年、第8回鮎川哲也賞の最終候補作品ながら受賞を逃し、翌'98年に原書房より改めて刊行された作品。これより五年余りで十冊以上の著書をものにする柄刀一氏のデビュー長編にあたる。

三千年前の縄文時代末期に生きていたと推定される縄文人のミイラが長野県の山岳地帯から発見された。考古学的に超重要な発見に関係者ならずとも日本中が大いに沸き立つ。長野歴史人類学研究所に勤務する弓岡真理子の所属する研究室をはじめ、各方面の専門家が”サイモン”と名付けられたミイラの調査を開始した。サイモンは何者かに背中から石斧を突き立てられた他殺死体で発見された上、死後に右腕が切断されていた。また彼が発見された洞窟は内部に雪が積もっており、内側から石積みによって密閉された状態であった。しかし、傷を負ってすぐに絶命したと思われる彼の周囲に犯人はおろか、右腕さえも見あたらなかった。世界最古の密室殺人に一部の人間はロマンティックな興味を示す。一方、洞窟の第一発見者である館川がふらりと姿を消してしまう。彼は古代文字に凝っており、何かその方面の発見がされたのかとも思われたが、彼の周囲では政治や大学絡みの利権関係が渦巻いていたことが発覚する。

密室・文化・物語。柄刀一の原点はデビュー作からきっちりと方向性を示している
新刊書店に欲しい本が並び、財布の中身に限りある身としては、いきなりハードカバーで知らない作家の作品を購入するのはかなり勇気がいる。柄刀氏が登場した時の私はその勇気が出なかった。結局、デビュー作品を読み逃した反動で、柄刀作品に触れるのがかなり遅れたまま今に至っている。時間がかかるが取り戻すしかあるまい。……と自分語りはここまでにして。

ミステリに必要な一つの要素に「けれん」というか「遊び心」がある。 本書はまずその「けれん」を冒頭で頑として主張する。このあたりで余裕がかませるのが後の大物となる柄刀氏ならではの余裕だろうか。三千年前の縄文人のミイラと彼を巡って科学的調査を進める人々……本書を読むに、そこからミイラの正体を探る考古学ミステリに仕上げたとしても、それなりの(乱歩賞向き?)ミステリが出来たのではないかと思う。ただ、柄刀氏はそのミイラに「密室」を与えてしまった。三千年の時を越えて蘇る密室殺人。物語は別の方向へと向かっていく。これが「けれん」でなくて何であろう。
一方、柄刀氏はこの「三千年の密室」だけに拘泥されない物語づくりをしている。見方によっては社会派とも受け取れる利権や地方政治の腐敗を絡ませ、仄かな恋情や、欲望に取り憑かれた人間ドラマもまた絡ませる。当然「縄文人ミイラ」そのものについて「彼は何者なのか」「彼が果たしてどのような行動をしていたのか」といったあたりの議論も十二分にスリリングさに溢れている。 今となっては仕方ないが、前述した通り鮎川哲也賞以外の賞に応募していた方が受賞に近かったのではないか……とも感じられた。手慣れたストーリー展開にこちらとしては引き込まれるしかない。
しかし、本書は現代、そして三千年前の二つの不可能犯罪に立ち返っていく。 現代に行われた犯罪、こちらの動機は良いものの、方法そのものは凝りすぎていて実感が今ひとつ湧かなかった。一方の三千年前の密室はロマン溢れる文句なしに面白いもの。これを「弱い」とする選者の気持ちも分からないでもないが、このオリジナリティはきっちり高く評価したい。創り上げてきた世界と矛盾せず、そして夢さえ拡がる密室――やっぱりいいじゃない、これ。
後の柄刀作品にもいえること(つまりは特徴ということになるのか)だが、登場人物がやたらに多い点はどうかな、という気がする。物語の補強やリアリズムの強化という点ではそれも良いと思うのだが、ミステリという観点から眺めた時には、名前を持った不要登場人物が多すぎるのは夾雑物とも感じられてしまう……あくまで個人的な感覚によって、だが。

その後の柄刀氏の八面六臂の活躍ぶりは皆さんご存じの通り。後の作品に繋がる才能は片鱗どころかこの作品で既に満開といっても良いのではないか。 柄刀氏のデビュー作品にして、柄刀氏をこれから読まれる方にも本書が入り口として好適のように感じられた。


02/11/13
鳥井加南子「天女の末裔」(講談社文庫'87)

'84年、第30回江戸川乱歩賞受賞作品。鳥井さんは前年、取井科南子名義で『トワイライト』(後に刊行)という作品で乱歩賞最終候補となった経歴があり、その翌年筆名をかえてすぐに受賞と相成った。

三重県桑名市に住む中垣内衣通絵(なかがいと・いとえ)は二十三歳。父親と祖父母に育てられた彼女は自分の母親のことを教えてもらえなかった。そんな彼女いnは父親と同じ大学、東西大学を卒業しており親しい友人に民俗学の大学院に通う石田という男がいた。彼は彼女の父親である中垣内純也がかつて岐阜県にある王御滝山の神守地区に伝わるシャーマニズムの研究をしていたことを告げ、それが彼女の出生の秘密と繋がりがあることを仄めかす。そのことを父親と相談する衣通絵だったが、父親の激しい拒絶に合う。彼女に協力的だった石井もまた態度を豹変させ、過去の秘密の根深さを思い知らされる。時間の経過とともに衣通絵は、自分の母親である高仲房枝が二十三年前、王御滝山のシャーマン、イチミコサマと呼ばれる存在であったこと、穢を許されない彼女が妊娠して出産、その直後に殺人の罪に問われていることなどを確認する。さらに自分自身がどうやら純也の本当の子供ではないことを知ってしまう。しかし衣通絵を育てたその父は、王御滝山で転落事故が発生した新聞記事を目に留めると、会社にも告げずにどこかに出かけたきり戻らない。そして遂にはホテル内で自殺死体として発見された。

仮にも乱歩賞作品にここまでいうのは気が引けるのだが……どこかまとまりないだらだらミステリー
設定は悪くないと思うのだ。 山岳信仰の巫女。民俗学の立場からの傍観者。子供を産むはずのないその巫女の娘。当たり前だと考えていた人間関係に亀裂が入る瞬間、彼女は自らのアイデンティティを確かめるために渡れなかった川を一人で渡る決心をする……。彼女の母親の巫女は人を突き落とし、殺したかどでその当時逮捕されており、彼女自身の周囲の人間も次々と謎の死を遂げる。殺人事件も複数描写されているし、特殊な山岳信仰・シャーマニズムを中心に据えるのも当時では斬新だっただろう。主人公衣通絵の、まさにミステリではよくある過去の事件の探求そして自分探しの旅。
物語的には評価できる内容だといえる。しかし鳥井さんがデビューを果たしたのは、仮にも江戸川乱歩賞、当時のミステリを対象とする賞では最も権威があり、新人にとっての最高峰だったはず。それでいてこのミステリ味の薄さはなんなのだろう。謎が解かれても犯人に意外性はなく、探偵たちの調査も今ひとつ伏線として機能しておらず、刑事事件にそれほど詳しくなかっただろう筆者の勘違いが読んでいて引っ掛かる(自殺も変死なので睡眠薬を飲まされているかどうかくらいは警察がチェックするだろうに)。文章や構成が未熟……に未熟なことはデビュー作なので仕方ないとして、ミステリとして重要な物語の内部における「読者を引き付ける謎」が、ほぼ全て「関係者が口を閉ざしていること」によって成立しているのが問題。つまりは登場人物にとってのみ重要な謎であり、解かれるべき謎というよりも無理矢理に過去の事実が謎にされているだけといった印象。本格ミステリではないからダメというよりも、読者と登場人物で物語の謎を共有できていない点に問題がある。
なので、後半どたばたした展開になってしまうし、最後の最後が告白文にて終わるのはダメな方の常套と感じる。東野圭吾『魔球』を蹴落として本書が受賞したことそのものが最大のミステリー。

……ということで、どうして本書が受賞作となったのか気になって古書店で単行本版を探して選評を立ち読みした。この回は応募作が低調だったらしく選者の意見もかなり分かれている。本書についても瑕疵がある点を多くの人が指摘しているのだがどうやら「将来性」を感じる、というのが最大の理由で受賞作となった模様だ。東野圭吾と鳥井加南子、どちらが作家として成功したのかは後世の我々は知っているわけだが。 今となっては江戸川乱歩賞コンプリートを狙われる方のみが読めば良いだろう。


02/11/12
高柳良夫「プラハからの道化たち」(講談社文庫'83)

高柳氏は外務省出身。『「黒い森」の宿』という作品で、第10回オール讀物推理小説新人賞を受賞。その後『「禿鷹城」の惨劇』『「ラインの薔薇城」殺人事件』にて二度の乱歩賞最終候補を得た後に、本作にて第25回江戸川乱歩賞を受賞する。その後も国際謀略を中心とした作品群を中心に発表を続けた。

1968年8月。社会主義を堅持しつつ経済の自由化を押し進めてきたチェコスロバキアにソ連軍が侵攻する。その当日、ひとりの日本人がミュンヘンの女子大生を連れて東ドイツから西ベルリンに脱出しようとし、一旦国境を抜けたものの東ドイツの警備兵によって撃たれてしまう。連れ合いの女性は死亡、そして男は収容先の病院で変死を遂げたが自殺として処理された。男は東栄物産に勤務していた名倉誠一。彼は死の直前プラハで活動しており、入院中にウィーンに住む義弟の川村に手紙を送っていた。川村は義兄の死に疑問を抱き、東栄物産に入社し、名倉の足跡を辿って死の原因を突き止めようとする。事件の鍵を握るらしいプラハに出張で訪れた川村は現地のホテルや出向先にて調査を進めるが、彼のことを快く思わない人々がどうやらいるらしく、彼自身の危険な目に遭い始める。

国際政治の綾を綴るハードボイルドでありながら密室殺人。当時の乱歩賞の傾向が窺える
今となっては昔、ベルリンの壁が崩壊してからかなりの年月が過ぎたが、それまでは東西冷戦というのはスパイ冒険小説の世界ではメジャーというかスタンダードの存在であった。確か一時期、「社会主義の崩壊と共にスパイ小説さえも終わった」とまことしとやかに噂されていたように記憶している。現在も日本の身近な一部の国家にも残る「社会主義」=すなわち「秘密主義」「秘密警察」「主義に反したり、国家の利益を損なうと厳罰」といった恐怖感は、ほんの十数年前まで世界中のあちらこちらに存在しており、それらをテーマにした作品が広義のミステリーで現在よりも遙かに大きな流れだった時代が確かにあった。そして本書はそんな時代特有の「色」を濃く反映した作品だといえよう。この時期だから書かれ、この時期だから乱歩賞を獲れた。 後から乱歩賞の歴史を俯瞰すると、そんな作品が他にもいくつかあることに気付く。

さて本作。日本人の男が政治絡みで殺されたと思しき義兄の正体を、いわば全盛期の社会主義国に探りに行く物語。 その当時に限らず、現在の読者が考えたって、どう考えても「危険がいっぱい」。 曰く付きの秘密主義・横暴な権力が物を言わす危険な国家、更に周囲に存在する登場人物がそれぞれ何か裏のあるような行動。ああそれなのにそれなのに。あらあらそんな発言しちゃって。ああもう、そんなとこ行くなって。――主人公の余りに「素人探偵」として哀しすぎるほどの行動の軽率さ、思慮の浅さがめちゃくちゃ鼻につく。主人公を通じて「平和ボケした日本」という作者の想いを象徴させているのかもしれないが、あまりにもバランスが悪いのだ。これだけ背景設定を現実からリアルに設定しておいて、こんなボケた主人公が動くのではどこか白ける。当時の国際活動の暗部は、彼のようにいつ消えてもおかしくない人間と遊んでくれるほど優しくないんじゃないかなぁ。また、ラストに一種のカタルシスが待ちかまえているのだが、エピローグ共々作者の思い入れが空回りする後味の悪さの方が気になる。

ある時期、ピンポイントで読者に受け、高い評価を得るのは理解できる。 ただ、こういった時事をネタに扱った作品は古ぼけてくるのもまた他の作品よりも遙かに早い。その意味で、時の流れに抗しきれていない印象。乱歩賞を受賞した、という事実にのみ敬意を表するべきか。


02/11/11
松本清張「巨人の磯」(新潮文庫'77)

元は'73年に新潮社より刊行された短編集で、'70年より三年かけて『小説新潮』誌に発表された松本氏の推理小説短編を集成したもの。

大洗の夜の海岸で法医学者は巨人のように膨れあがった土左衛門の死体を発見する。「風土記」の巨人さながらの死体は本来そこに流れ着くはずのない政治家のものだと判明した。 『巨人の磯』
銀行の名誉職についた男は先妻を亡くしたため三十以上年下の若い女性を後妻に迎えた。浪費癖のある彼女は彼の資産を蝕み、そして二人の性格も決定的に異なっていた。 『礼遇の資格』
福岡市郊外の別荘地に住む画家とその若い妻、そして弟子のヒッピー。画家はノイローゼとなっており、彼は散歩に行くといったまま行方不明となった。続いてそのヒッピーも殺された。 『内なる線影』
雑誌のリニューアルに伴い時代小咄の執筆を専門にしていた男の仕事がなくなった。彼は何度も編集部に原稿を持ち込むが決して採用されることはなかった。 『理外の理』
文部政務次官という立場になった政治家、吉良は、同じ文部省に勤務する同窓の小川から、彼の唱える学説がある皇族の興味を引いていると聞き、選挙に役立つとばかりに全面協力を約束するが……。 『東経一三九度線』以上、五編。

松本清張らしいじっくりした動機の醸成、それに伴う大真面目に過ぎるトリックの数々
一般に松本清張は社会派推理小説の書き手として認識されている。といってもミステリファンの間では、実は本格推理小説の書き手としても優れているのだ、というのもまた定説となっている(はず)。本書はそんな「本格推理小説の書き手」としての松本清張の実力が遺憾なく発揮された短編集
ただ、単なる古典的本格推理(ここからは本格ミステリと書き換える)をそのまま踏襲しているものではない。本格ミステリとしての方法論をそのままには用いず、本格ミステリのパズラーとしての面白みを自らの描く世界の中に取り入れているのが特徴だろう。なのでトリック偏重の作品とは「小説そのもの」から受ける印象が大きく異なる。簡単にいえば、犯罪が醸成されるまで、人が犯罪の被害者になるまで、もしくは加害者になるまでといった「動機」「背景」の部分に対する書き込みが大きいということ。本書収録の作品を個別にみていくと下記のように「動機」「背景」→「使用されるトリック」という風に大きく分けられる。
・『巨人の磯』は風土記の解釈→アリバイトリック
・『礼遇の資格』は年の離れた夫婦の愛憎→倒叙の死体移動トリック
・『内なる線影』は芸術家夫婦の悲劇→化学トリック
・『理外の理』は時勢に遅れた文筆家の悲劇→意外な殺し方の倒叙
・『東経一三九度線』は政治家視点の世の中のとらえ方→交通事故トリック

恐らく一般的読者から眺めた場合、前者の「動機」「背景」から受ける印象が強くなり、本格ミステリファンからすれば後者の「トリック」から受ける印象が大きくなるのではないか。ただ、発表から三十年遅れの読者として本書をみた場合、弱点もあるように思う。と、いうのはトリックの見せ方、解き方という部分に本来本格ミステリは「常道」を持ち、どうするのが効果的か作家は経験的に知っているもの。しかし本作を読む限り、敢えてなのか、そんな些末なことに大清張は気を遣っていないのか、かなり無造作に死体を放り出し、あっさりと謎解きをしてみせる。あまりミステリの本分である「謎解き」の部分、特にそのパズルのピースを探し出す過程に重きを置かないのが清張流なのかもしれない。

2002年現在、光文社カッパノベルスにて再び松本清張が復刊されつつある。どの読者層を狙ったものなのかは分からないが、やはりもっと再評価されるべき作家であることはまず間違いない。個人的にはいわゆる「どろどろの社会派」も読まないといけないと思っている。