MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


02/11/30
中野 実「お嬢さん探偵」(春陽文庫'65)

若山三郎らと共に明朗小説・ユーモア小説の中核として春陽文庫にて活躍した中野実(實)氏は明治34年生まれ。当初は昭和初期に戯曲を発表、名脚本家としての側面も持つ。事実'54年には『明日の幸福』という作品にて毎日演劇賞を受賞している。同時にその頃から小説も発表しており才人ぶりが際だっている。
表題作については森英俊氏によれば続編として『マダム探偵帳』という作品が存在するとのこと。

女性ならではの悲劇が世の中に多すぎると憤慨する由利三岐子は父親の旧友の探偵事務所の門を叩いた。二十歳を少し超えたばかりの彼女が探偵を志願するのを聞いて驚く探偵事務所長の東氏。彼を半ば脅すようにしてちゃっかり就職した三岐子は意気揚揚と初仕事を行う。男爵令嬢の和子を是非嫁に、と銀行会長が言ってきているとのことだが相手の素性をハッキリ確かめたいのだという。早速、一案を設けて会長宅に女中として三岐子は潜り込むことに成功する――。 『お嬢さん探偵』
結婚した姉と同居する妹。年頃なのに結婚したがらない妹に対して姉夫婦は一計を案じて……。 『結婚星座』
美男子の石渡君は結婚したはいいが、嫁姑の問題がうまく行かない。媒酌人の常務が彼の悩みを聞いて、彼に黙ってある計画を仕掛けた。 『特級媒酌人』

結果良ければ全て良し。でも、意外に世の中は罪のない謀略に満ちている????
最初に断っておくと、「探偵」の二文字が題名に入ってはいるものの、表題作品「お嬢さん探偵」はいわゆる本格探偵小説とは違い、あくまで探偵という職業をテーマにユーモアたっぷりに描かれる青春明朗小説である。 「探偵小説じゃない」=「だから即面白くない」なんて速断できない別の魅力が本作にはあった。
作者の登場人物に当てる視点が「暖かい」のである。明朗小説全般にいえることなのかもしれないが基本的に勧善懲悪なのはもちろん大前提。努力する人間がバカを見るような世界は明朗小説にはあり得ない。正義は必ず勝つ……そして悪もいわゆる邪悪ではないのがポイント。 彼らも必ず心を入れ替えたら善人にと変ずる存在である。なので、事件に対する処置は全てを白日にさらけ出す断罪ではなく、関係者の策略をもって自ら罪を認めるように仕向ける形式が多くなる。ただ、その策略のために我が身を投げ打って奉仕する女探偵の努力がまた強引なのが微笑ましい。嘘をついて女中となって内部観察。不倫男性を自ら誘惑して相手の女性を逃がす……等々。表題作以外の短編も罪のない「計略」の話であり、その両編ともに(シビアな眼でみればツッコミどころは満載ながら)、結果的に関係者全員が幸福になる話であった。ここまで来れば、あざとい気もしないでもないが、それは私の心が濁っているからだろう。(←ちょっと本音かも)

中野作品を初めて読んだことになるが、これまた明朗小説の王道作品という印象。登場人物に良い人が多いこともあって、スリルやサスペンスというよりも、「登場人物の意図の謎」あたりで物語を引っ張っている。その意味では現代の「日常の謎」系列に属する作品とどこか通じないでもない。とはいえミステリとして執筆されていないので結果がミエミエなのは致し方ないところか。正直、現在の多数読者に受ける作品ではないことも確か。


02/11/29
倉知 淳「猫丸先輩の推測」(講談社ノベルス'02)

倉知淳氏の持つシリーズ名探偵「猫丸先輩」。倉知氏にとって講談社ノベルスは二冊目となる本書は、その猫丸先輩を探偵役とする短編集。シリーズ四冊目の本書、東京創元社を飛び出しても、相変わらずのご様子。

心当たりのない人物から夜になって届く電報。しかも何度も。町内でも何人かがその被害に遭っていた……。 『夜届く』
花見の場所取りの新入社員。その場所を巡って様々な人物が彼を排除しようと訪れる。 『桜の森の七分咲きの下』
動物専門の私立探偵。失踪した猫「ヒノマル」を巡って、捜査は妨害され依頼人は依頼を取り消す。 『失踪当時の肉球は』
金魚すくいの水槽に入浴剤。商店街の企画した夜店で連続発生する営業妨害事件。近所の大スーパーの妨害工作か? 『たわしと真夏とスパイ』
動物園で発生したひったくり事件。居合わせたデザイナーと猫丸に財布をパスした犯人は居直って。 『カラスの動物園』
クリスマスイブ。慌ただしい街中で五分ごとに同じ方向にサンタクロースが疾走していく。 『クリスマスの猫丸』以上、六編。

いろいろな人々の日常といろいろな場面。日常の謎の行き着く果て……
いわゆる猫丸先輩以外の人々が遭遇する日常の奇妙な事件と、いわゆる猫丸先輩による「比較的蓋然性が高く、恐らくはそれが真実だろうと思われる」(一部作品を除く)解決の物語。
猫丸先輩が直接犯人に対して追及するシーンのある『たわしと真夏とスパイ』。本書ではこの作品の完成度が最も高いため、他の作品についてはまとめて先に述べておく。
倉知作品は猫丸先輩が経験する様々な奇妙なアルバイトがベースになっているケースが多かったが本書はそれがあまり関係しなくなってきている。他の人物が経験した奇妙な謎を安楽椅子探偵的に猫丸先輩が解き明かすというのが本書におけるパターン。この奇妙な謎の設置の仕方は賛否両論あろうが私は手堅さを取りたい。あまり本筋とは関係ないそれぞれの「依頼人」の抱える些細な悩みやその仕事、考え方を丁寧に描くことによる現場再現。ミステリ短編としてだけ見るならば、謎ともトリックとも関連しない余剰部分であるが、これには「日常の謎」の日常ディティールを強調しようという意図がある(ものだと思われる)。その結果、決して平均点的日常ではない設定が、読者にとっても「日常」であるような錯覚を起こさせる効果を持つようになっている。その依頼者の視点からみての「謎」は確かに奇妙。この奇妙さを演出するために彼らの「日常」の描写が必要になるという図式。例えそれが冗長であっても。ちなみにその解決もまた「依頼人の日常」における「死角」を猫丸先輩が指摘する……という形でほとんどが(一応の)解決とされている。 一応の、と保留されるのはそれが論理的には唯一無二の解決とは言い切れないから。ただそのことが読者のサプライズを妨げるものではないことは付記しておかねばなるまい。
一方、一作品除けた『たわしと真夏とスパイ』。これは天藤真の『あたしと真夏とスパイ』にインスパイアされたもの……ではなさそう。内容的には全く違うので。 ただこの作品はさりげなく鏤められた伏線と解決の妙の噛み合いが絶妙。 商店街活性化のためのお祭り、夜店で発生する奇妙な事件、その事件の持つ特性等々が絡み合って出来ている「謎」が微妙なサスペンス性を醸し出しており、既に文章内で語られている商店街内部事情が謎解きに大いに関係している。謎解きをする人物が部外者の猫丸である必要性は薄いことは残念だが、だからこそ暖かみのある解決に至ったともいえなくもないか。夜店というノスタルジーと寂れ行く商店街、人情あたりが微妙に絡み合った雰囲気が「隠し味」となっている。

創元社からの一連の作品は既に文庫化されていることを考えると、本書が「猫丸先輩」初体験の読者は少ないのではないかと思う。また、作者もそれを想定していない節が見受けられる。癒しとは異なるが殺伐としていないのんびりとした緩めのミステリが好みの方向けか。


02/11/28
浦賀和宏「学園祭の悪魔 ALL IS FULL OF MURDER」(講談社ノベルス'02)

特に講談社ノベルスにおける浦和和宏作品の基幹を為す「安藤直樹もの」のシリーズ六作目。

周囲から明るく元気な女子高生と認識され、私立大学への推薦入試も決まって浮かれている(たぶんシリーズ初登場となる)”わたし”の一人称視点の物語。”わたし”こと幸(みゆき)の通う高校の学園祭にやって来たのはクラスメイト穂波留美の兄と、その友人で軽いノリの社会人飯島、そして陰気で暗い表情をした男、安藤直樹だった。友人も少なくいつも暗い表情をしていて無口な穂波を”わたし”は軽んじていたが、その安藤が穂波と交際していると聞き、彼氏もおらず実は処女の”わたし”は知らず嫉妬の感情を覚えていた。穂波によれば安藤は名探偵なのだという。”わたし”の相談に応じて、安藤は飯島らと近所で発生していた「連続殺犬事件」をあっさりと解決する。一方、同じくクラスメイトの通称”やかん君”と歩いていた”わたし”は安藤と穂波がラブホテルに入って行くのを目撃する。思わず穂波の携帯電話に悪戯する”わたし”。こうして徐々に二人の仲は険悪になっていくなか、リストラされていたサラリーマンだった”わたし”の父親が自殺してしまう。葬儀場で思わず安藤に抱きついて大泣きした”わたし”に対して穂波の嫌がらせがエスカレートしていく。

「名探偵もの」ミステリの究極のパロディ、あるいはハイグレードなメタミステリ
”わたし”の脳天気かつ現代的、そして小悪魔的な自分中心主義の一人称によって綴られる物語。『記憶の果て』から続く一連の「安藤直樹」ものは彼らの事件――飯島、金田に加えその周辺人物を巻き込んだ悪魔的な物語が、これでもかというくらいの多方面から描かれる。ここまでくると「裏エピソード」を物語に据えるのではなく、一連の大事件を多視点で語る浦賀氏の手法は、ミステリにおける新たな道標として後年のミステリ史に刻まれるのではないかとさえ感じさせられる。
そして本書はまた通常のミステリの評価とは異なる意味での凄さ、いや凄まじさを内包している。表面上はケーハク女子高生の上っ面の論理や行動によって「名探偵」であり謎の多い人物、安藤直樹に徐々に惹かれる「ラブゲーム」(書いていて恥ずかしいな……)の様相を呈する。読者である私自身、いい歳こいた男性なので素直な感情移入をするのは無理。ただ、ちょっとばかし極端な恋愛もの小説を読んでいる……という漠然とした自覚があったのだが……。

すぱっと裏切られる。

本書の主題は、「名探偵」という存在を先鋭化、極端化し、その胡散臭さを浮き彫りにすること……なのだろうが、ここまでやるか浦賀和宏。 展開が読めない読めないと思ったら(ないしは読めているような気がしていたのに)こういう落とし方で来るか。ある意味、これは既存のミステリ界そのものに常に攻撃的な疑問と懐疑をぶつけ続ける「浦賀和宏」という作家だからこそのインパクトを持っている。勿体ないというか仕方ないことなのだが「安藤直樹」ものを全く読んでない人間が本書を読んでも、唐突に出てくる固有名詞等に戸惑いを覚えるはず。ただ、このあたりの作品から逆走する読み方もアリかもしれない。

この内容そのものについては本書を当たって頂くしかないが名探偵……その胡散臭さを描いた作品は数あっても、ここまでやった作品をみるのは初めてじゃないかな。インパクト大。既存のミステリに飽き足らない方にはこの「極端」もまた面白いかも。


02/11/27
二階堂黎人「宇宙神の不思議」(角川書店'02)

二階堂氏の創る名探偵シリーズの一つ、水乃サトル(正確には紗杜瑠)ものは『……マジック』を題名の基調とする広告代理店勤務もの、そして『……の不思議』を基調とする大学生ものの二つが並行して発表されている。本作はその題名が示す通り、大学生のサトル、そして『奇跡島の不思議』にも登場した武田紫苑(シオン)が登場する。『KADOKAWAミステリ』に'01年から'02年にかけて連載された作品で、あとがきによれば著者の長編連載第一号となるらしい。

『奇跡島の不思議』事件において知り合った専門学校生、武田紫苑が付き合い始めた女性、宣子。彼女は幼時の時代に孤児院前に置き去りにされ、現在の父母に引き取られて育てられた。その父母とも死別した彼女は、幼い頃に宇宙人とコンタクトしたという経験があるというが、そのことを含め幼時の記憶が抜け落ちてしまっている。宣子の過去を探るべくシオンは水乃サトルに調査を依頼する。彼らが向かったのは、彼女の勤め先であり、過去の記憶を引き出したという施設、八王子の老人ホーム。宗教団体《天界神の会》によって経営されるそのホームはゆったりとした良い環境だったが、そこに居住する老人の多くは宇宙人やUFOを目撃した経験があるのだという。そこで彼らは宣子が受けたという催眠実験のビデオを田名網という医師から見せられる。画面のなかで宣子は幼時にUFOに誘拐されたという記憶について確かに語っていた……。

宇宙人による二つの誘拐に密室殺人……二階堂節満開ではあるが、この長さが果たして必要か?
解体されることを前提としたミステリ作品が提示する「幻想風味」には、閉鎖的な村に古くから伝わっている伝説や化け物、人間の関係性の薄い場所に成立する都市伝説等などがよく使われる。一方であまり宇宙人だのUFOだのという存在が使用されることはほとんど、ない。私見では、宇宙人やそれに類する存在そのものが胡散臭いこと以上に、それを真面目に信じている(と称する)人たちの存在が胡散臭いことが一つ、加えて伝説のように曖昧模糊とした存在でなく、「宇宙人」と限ってしまえば「存在する」「存在しない」のデジタルなガジェットとなってしまうことがその理由だと考える。(例えば「ツチノコ」の正体が獲物を丸飲みした蛇だったとしても、そこには「存在する」「存在しない」以外にも「存在しないがかつてはいたもの」だとか「存在はするが、今まで思われていなかったものとは違うもの」だとかの選択肢があるのに対し、「宇宙人」は宇宙人であるか、宇宙人でないのかのどちらかになる)。
これが新人やあまり知らない作家の手になるものであれば、「宇宙人」だとか「UFO」だとかの存在を真面目に肯定したうえでの作品かも……? という二重の疑いを持って取り組んだかもしれない。しかし自らを「本格ミステリ至上主義者」と認める二階堂氏が唐突にSFミステリのような手を使ってくることはないだろう、と読む前から思っていたし読んでからもそうだった。
つまりミステリの主題として成立しにくい「宇宙人」をどのように処理するのか、が一つポイントになるのだと思って読み進めた。が、本書においてはその点に関し明確な工夫はあまり感じられなかった。筋書きに明らかな齟齬があるわけではないものの、宇宙人の存在を宗教を使って信じさせるというのは登場人物にとって有効であっても読者を謎に巻き込み、物語を引き込む力に乏しい。ミステリ特有の不安感とか眩瞑感といったものがこちらには伝わってこない。

また、本書は原稿用紙換算千百枚にもなる……が、読者にとって不要な書き込みがあまりに多すぎる。同じく二階堂氏の手からなる大作『人狼城の恐怖』ではそういった印象はあまりなかったのだが、どうもこの『不思議』シリーズはその傾向が強いようだ。具体的に一例を指摘する。サトルたちが宣子の恩人夫妻を訪ねた時にお茶を飲むシーン……「ちょうど良かったわ、あなた。今日はね、おいしいケーキのもらいものがあったのよ――宣子ちゃんも好きだったんじゃないかしら。駅の向こうにある白扇屋のモンブランは」「はい、大好きです」「お二方は甘い物は大丈夫かしら」と春江はサトルとシオンにも尋ねる。「ボク、ケーキは大好物です!」……ケーキも店の名前も甘いもの好きも物語には何の関係もない……。こういった細かい文章の無駄が随所に見られる。連載作品ゆえ整理が付かなかった部分もあるだろうけれど、単行本にまとめる際に校正するなり削るなりしてすっきりさせるべき部分。

他にも内容的に引っ掛かる点がいくつかあった。(ネタバレ) 慈善団体が如き存在として冒頭は描かれる宗教団体が、伏線なしに終盤には悪の巣窟扱いされているギャップ、催眠療法で見るという二歳か三歳の記憶が成人女性の言葉で描写される奇妙さ。(記憶逆行であれば幼児なりの周辺認識や精神状態にすべきではないのか?) 最大の疑問は、こういった矛盾が最終的にトリックとして暴かれるにしろ、その過程で誰も「変だな」とか考えない点。サトルとシオンの軽さも相まって物語全体が非常に嘘臭くなってしまっている。(おわり)

宇宙人の誘拐の正体と物語を構成していた過去の事件の真相については予想していた範囲。それでも例えば、老人が「UFOに集団誘拐されたとしか思えないような体験」をしたトリックなどはUFOネタでなければもっと衝撃的な使い方もできただろうし、鍵を握りしめた死体のトリックも(実行時の疑問は残るにしろ)面白いアイデアである。このあたりは二階堂節がよく出ている。ただやはり総体的には(少なくともこのままでは)あまり感心できない作品。その感心できない理由をきっちり述べているうちにこの書評自体もやはり長くなってしまった。申し訳なし。


02/11/26
桐野夏生「OUT(上下)」(講談社文庫'02)

桐野夏生さんは『顔に降りかかる雨』にて、'93年第39回江戸川乱歩賞を受賞し一般デビューを果たした。(それまでもジュニア小説やマンガ原作等を野原野枝実名義で手掛けていた)その後、本作にて第51回推理作家協会賞を受賞、更に『柔らかな頬』にて第121回直木賞を受賞し、推理小説三冠を達成、現在その地位に揺るぎはない。

武蔵村山市にある弁当工場で深夜勤務するパート四人組。内に籠もる夫と登校拒否のうえ家の中では一言も口を利かない息子を持った主婦、雅子。寝たきりの義母と娘との三人暮らしで生活費に困窮するヨシエ。年下の男と同棲し、見栄っ張りで後先を考えられない邦子。そして幼い子供二人を抱えながら、夫の浮気に苦しむ弥生。立場はそれぞれながら辛い重労働を四人は支え合ってきた。そんなある日、賭博に若い女性にお金を注ぎ込み家の貯金を使い果たした夫の健司を衝動的に絞め殺してしまう。狼狽える弥生は雅子に相談。雅子は特に理由もないまま死体の始末を引き受ける。ヨシエと風呂場で死体を解体する雅子は、作業の途中で強引に訪ねてきた邦子を仲間に引き入れる。彼女らは死体をゴミ袋に詰めて生ゴミの日に処分するが、まとめて公園に捨てた邦子の軽挙から死体が発見されてしまう。警察はすぐに死体を健司だと突き止めて捜査を開始、弥生は疑われるが、偶然健司が当夜立ち寄ったバカラ賭博場でごね、オーナーに殴られている現場が目撃されたため、捜査対象はそのオーナー、佐竹に切り替わる。佐竹には猟奇的に女性を殺害した前科があり、徹底的に絞られるが証拠不十分で釈放となった。佐竹は真犯人たちを追い詰めようと決意した。

どん底人生からのOUT……というよりも、今自分のいる環境の違和感からのOUT
深夜の弁当工場のパート。決して良好といえない、むしろ劣悪な労働環境のなかで働く四人の主婦。年齢も環境も働く動機も微妙に異なる彼女らの物語。一般的に「ひょんなことから死体を解体することになった」とされるこの物語のきっかけではあるが、物語全体を読み解くポイントは、死体を解体することを雅子が引き受けるという行為そのものに存在している。 旦那を衝動的に殺した主婦が自らその罪が暴かれるのを恐れて死体を隠すのであれば、(それが非情な行動だと捉えられようとう)世間一般の常識範囲内。また、本書のように姉御肌の友人に事態を相談するのもまぁ理解できる。だけど、自分が他人の犯罪を引っ被るとか、普通は断るよな……。
ただ、このきっかけを持って雅子は死体の処理を引き受ける。理由はないとある。この理由はないという点が「OUT」の「OUT」たる理由になっている……と書いても分かりにくいか。人間誰しも平凡で息の詰まる日常を過ごしていけば、その状態からの脱却を夢見る。脱出。OUT。もっとお金があればというヨシエや邦子。旦那が自分の幸福を壊し続ける日常を破壊行為によって脱出しようとしてしまった弥生。この三人に比して、雅子の行動は明らかに異なる。単に金欲しさ、人生のレベルアップ等の「分かりやすい」OUTを彼女は求めていない。
この点は雅子の過去、そして現在が描写されるにつれ「なぜ」という点は徐々に(但し明快にではないが)明らかにされる。信金勤務時代に仕事はできたが煙たがられていた彼女。引きこもりの息子と、内向性の強い夫との三人暮らしによって、少しずつ心を削られ摩滅しつつあった彼女。弁当工場でのパートがそもそも、彼女自身が抱える彼女の心を少しでも解きほぐそう、解放しようとするOUTの第一段階であったかのよう。そして当然その程度で満たされるはずもない。彼女が心の底に飼う「獣」が彼女自身のOUTを常に求め続けていたのだろう。その結果雅子は「境界線を自ら踏み越えていく」。OUTした後でも彼女は「獣」をこれまで通り飼い慣らす。しかし一旦歯向かうことを覚えた「獣」は時々彼女を狂わし、無謀ともいえる行動に駆り立てていく……これがこの物語であるといえよう。

リーダビリティも高く展開もスピーディ。桐野さんらしさもまたよく出ている。ただ表面の筋書き以上の物語が詰まっている感。
ちなみにこの2002年の秋公開された映画『OUT』では、主人公雅子を原田美枝子、邦子を室井滋、弥生を西田尚美、ヨシエを倍賞美津子が演じている。男性陣はというと十文字を香川照之、そしてなぜか? 佐竹を演じているのが間寛平。カンペーちゃんというのがイメージが……。


02/11/25
小川勝己「撓田村事件 iの遠近法的倒錯」(新潮社'02)

第20回横溝正史賞作家、小川勝己の五作目にあたる、新潮ミステリー倶楽部の書き下ろし長編。一部では有名だが小川氏の作品の題名は全てMORRIEというアーティストの曲の題名から取られているのだという。本書の場合も「i」は「愛」に置き換える必要があれど同様。しかし、小川勝己という作家の作品は、どんなものが飛び出してくるのか読んでみなければ分からない……。

岡山県の郡部にある香住村字撓田。かつて撓田村と呼ばれていた僻地に住む中学生三年生、阿久津智明。同級生で、撓田村の支配者的存在の朝霧家の長男ながら右翼団体に傾倒する朝霧将晴や、幼なじみの篠宮光子らと山を越えて中学に通っていた。担任は体育教師の山田勲、智明はその先生の妹である山田ゆりという同級生に好意を寄せていたが、今はそのゆりは将晴と交際している。朝霧家には一ヶ月ほど前から主人格で将晴の祖母にあたる八千代が行方不明になっていたが、彼女の指示によって遠縁の桑島一家が撓田に迎えられていた。その桑島一家の長男、佳史は頭が良く垢抜けており、将晴を押さえ現在はクラスの中心人物となっていた。当然将晴はあまり面白くない……。智明はゆりとは別に隣家の出戻り、日向千鶴に対しても憧れめいた気持ちを持っていた。ある深夜、家を抜け出した智明は、神社の境内で秘密めいた儀式を三人の取り巻きと共に行っている佳史を目撃、更に千鶴の男性との密会現場をも目にしてしまう。智明が追跡した結果、発見した男は将晴だった……。その二日後、佳史が行方不明となり樹上で脚を切断された死体となって発見された。死体には謎の装飾が施されていた。かつてこの村に駐在していた藤枝警部補らが捜査にあたるが、翌日、行方不明になっていた八千代の腐乱死体が発見された。彼女の死体もまた下半身が引きちぎられ、喪われていた。

横溝正史作品群へのオマージュにして、心に食い込むストレートの青春ミステリ
岡山県、閉鎖的な村社会、夜の闇、因縁と血縁が複雑に絡み合う旧家、神隠し、口伝てに伝わる犬使いの伝説、三十年前の迷宮入り事件、あまりにも変人の探偵、蔵の中、紅白の着物、人気のない神社、見立て猟奇連続殺人、山狩り、探偵は事件発生の最中に証拠探しのために現場を離れ、登場人物の危機にぎりぎりに間に合い、真相は過去に繋がり、現代の愛憎が浮き彫りになる……。
これだけポイントを挙げていけば誰でも分かるだろう。本作はまず横溝正史生誕百年に捧げられる(もしかすると小川氏のデビューそのものが横溝正史賞であったことも含め)大横溝作品群に対する壮大なオマージュである……。その点だけを強調すると、本書が「古式ゆかしい探偵小説」のように思われるかもしれない。さにあらず、本書様々なポイントを使おうと、紛うことなき「現代ミステリ」なのである。
そしてもう一つ、横溝作品を意識させつつも、本書は優れた青春ミステリでもある。横溝と青春。「そんなことが出来るのか?」という疑問も当然あるだろう。そのからくりは横溝が活躍した時代と、いくら田舎といえど現代とのあいだに様々な差異がある点に集約される。感覚の差異、道徳の差異、知識の差異。いろいろな価値観が蔓延する現代社会は、旧弊な日本の価値観がそのまま受け入れられるほど単純な土壌はもはや残されていない。しかしそれが中学生ならばどうだろうか。百パーセント昔と同じではないが、少なくとも模範とされるべき世界の規範はかつての日本社会と現代の理想教育とのあいだにそれほど大きな違いはないのではないか。中学生の(当然その中には個性があるのだが)視点を用いることで、大人だと偽善と思われる規範を現代日本に当てはめることが可能になる。更にオカルトめいたものへの信奉と心からの畏れ、年長者への敬意、正義の希求等、青臭い価値観を前提とすることで、ようやく現代でも横溝めいたガジェットに意味合いを付加できるようになるのだ。
もちろん現代ミステリであるからには「横溝正史? 読んだことないよ」という読者も当然存在する。しかし大丈夫。作品から横溝的なものを抜いたとしても、超一流のミステリとして通用する内容をもまた持っているから。現代の事件と過去との相似形の謎であるとか、下半身が切り取られる見立て犯罪であるとか、犯人が殺人に及んだ真相であるとか。中学生が真相を知るには辛すぎる気もするが、見かけ以上の奥深さを事件は内包している。更に、表向きの解決が終わった後にさらに影の犯人と対決する探偵だとか。これでもか、という見所が詰まっている。ところどころ挿入される主人公以外の物語視点の扱い方が上手い。これだけ展開が多く中身が濃いのはミステリの精神というよりも、横溝が活躍した探偵小説のサービス精神を思わせる。ラストの痛痛しい爽やかさがまた印象的。
これもまた本年の収穫の一つ。傑作。

山田正紀『僧正の手鞠唄』も横溝正史へのオマージュとして凄いレベルの作品だと感じたが、本書の衝撃はそれを遙かに上回る。大作ではあるが、その長さが蘊蓄や思索ではなく物語性に奉仕している点に好感。自分が中学生の頃、横溝正史作品を初めて読んだ時に感じた衝撃の、「衝撃」の部分だけを上手く取り出したミステリ。抽象的ではあるがそんな表現が自分のなかでは正しい気がする。


02/11/24
乙 一「暗黒童話」(集英社'01)

今まで短編から中編にかけての長さの作品を主に発表していた乙氏がはじめて挑戦した長編作品。書き下ろし。推薦辞はあの岩井志麻子サマが書かれている。

女子高生の菜深(なみ)は、事故によって左眼を喪ってしまう。そのショックで記憶までもが抜け落ちた彼女の行動様式はかつての明るく運動神経の良かった過去とは全く異なるもので、家族からも冷遇され友人を失って菜深は失意の底にいた。そんな彼女の為に祖父は非合法に眼球を調達、小さな病院で彼女に移植手術を行った。菜深の両眼は揃ったが、その左眼は何かのきっかけによって時折彼女に奇妙な光景を見せる。彼女が知らないはずの風景。それは元もとの眼球の持ち主、そして今は死んでしまった和弥という若者が見ていた光景だった。記憶を持たない彼女は和弥の見せる情景に夢中になり、彼に沙織という姉がいることや、彼が事故に遭ったことなど彼のことについて調べ始める。彼の死ぬ直前の映像と思われる情景の中には、手足の存在しない袋詰めにされ、しかも生きている女性の姿があった。それが一年前から行方不明になっている相沢瞳という女子高生であることに気付いた菜深は、和弥の住んでいた街に一人向かうことに決める。その小さな街に入った菜深は、和弥が通っていた、そして現在は沙織が働く喫茶店『憂鬱の森』に辿り着き、和弥の友人であると名乗って沙織の家に住み着く。沙織とその父は「和弥が帰ってきたようだ」と彼女の存在を許容してくれた。

ホラー寄りだし痛いシーンが多いし奇妙だしねじくれているし乙一だし。でも通底する暖かさがとても不思議な物語……
乙一は物語を紡ぐ作家である。氏がこれまで発表してきた作品はホラー寄りであっても、ミステリ寄りであっても基本的には全て乙一氏の内面というか、根っこのところの人間観が反映されてきている。主人公となる彼らは盲目だったり、記憶を失っていたり、霊だったり、異形の者だったりするが、結局のところ一般的に平均的とされている人間像から必ず何かが欠落している点が共通している。 本書の場合も記憶が欠落してしまった少女、菜深と、他者を殺害する能力を失ってしまった(その結果、心のなかの人間の尊厳を尊重する心が失われたでもいい)童話作家、三木との二人が重要な登場人物となっている。
この二人の視点が交錯することによって紡がれる世界は単一ではなく、読者は否応なしに二つの視点の交点において「物語の錯視」が強いられるため、ミステリ的要素も持っているともいえる。結果的にそうなっていても、それはミステリとしての狙いではなく、物語の効果を高めるために乙氏が天然で為した「テクニック」のように感じられてならない。(この「テクニック」そのものも勿論だが、例えば双子の館やキーホルダー、落とし物等々いろいろな演出が実に上手い)。従って乙氏が本作という「物語」を創造した目的は読者を驚かそうとかどんでん返ししようとかそういった部分にはないこともまた同時に明らかなようにみえる。
ならば、何が主題か。私が想像するに、これは「失われたものを求める人々」を描くことにあるのではないかと思うのだ。人間という存在、それぞれ平均像というものが存在しようと、個別にじっくり見てみれば、様々な点において持つ者と持たざる者とが頑として存在している。財産や才能はいうに及ばず、人間としての五体、そして感情。その持たざる者、持っていたが失ってしまった者がそれぞれ苦しみながらも、「何か」を探す。その過程は辛いし、時に恐怖をも伴う。しかし、最後に――そのもの、もしくはそれに代わるものを主人公たちが見出すに至る――。ここに乙作品が持つ独特の暖かさがあるように思う。
とはいっても暖かいばかりでは勿論ない。冒頭で菜深が片目の視力を喪う場面。生物を殺せない三木が彷徨いこんできた人間に対して実験を施す場面。淡淡と描かれるがゆえの生理的な怖さがある。このあたりを「淡淡と」描くところと、物語そのものが発する暖かさとのギャップをして乙一が「変な作家」と認識される原因があるのではないだろうか。ある意味、乙一氏自身が「何かが欠落している」がゆえに出来る表現、というのは言い過ぎか。

中編、ないし短編ばかりの乙一作品のなかで長編は浮くのではないかと思ってもいたが、それは杞憂。これだけの長さがあってもやはり乙一は乙一。
なお、本書を読了した方に限り、JUNK LAND内、GooBoo乱入スペシャル『暗黒童話』を読まれることをお勧めしておきます。お馴染みMAQさん、ayaさんに松本楽志さんを加えた鼎談!


02/11/23
安部公房「箱男」(新潮文庫'82)

戦後を代表する文学者、安部公房。'50年に『赤い繭』『洪水』『魔法のチョーク』三部作を発表、翌'51年、代表作の一つとして数えられる『壁』を発表し戦後文学賞と芥川賞を獲得する。戦後、多くの作品が多くの人に読まれたが、読売文学賞を受賞し、世界二十数カ国に翻訳されたといわれる『砂の女』が最も有名か。本書は安部氏後期の作品にあたり、'73年に新潮社より刊行された。

冷蔵庫が入るような丈夫なダンボール箱に数十センチ角の穴を開け、表面を半透明のビニール生地で覆う。中には懐中電灯や安全カミソリなど簡便な生活道具一式。そしてそのなかに入って都市を覗いて暮らすのが「箱男」。「箱男」は日本全国に数多く存在するが一般の人々はその存在を気に留めることはない。物語に登場する箱男は元カメラマン。たまたま撮影した写真に箱男が写っていたことから箱男に興味を持ち、結局自分が箱男になってしまう。ダンボール箱の穴から覗く景色は日常とは異なる新鮮さが満ちあふれており、一旦箱男になった人間は容易なことでは箱を脱いで生活することに戻れない。ある街に暮らしていた箱男は空気銃で何者かに撃たれて怪我をし、治療代を恵んでくれた脚の綺麗な女性を頼りに、坂の上にある医院に向かう。そこにいる看護婦、葉子の存在に興味を持つ箱男は、葉子から五万円と引き替えに箱を譲ってくれるよう頼まれる。単なる箱に五万円。箱男はその破格の申し出に何かの罠の臭いを感じ取り、海岸線で彼女を待つのだが……。

都市の迷宮に彷徨い、活字の迷宮にて遊び、心の底の傷が痛む……人間を諧謔しつつ本質を見つめる作品(それでもメタミステリとして読むことも可)
安部公房は『砂の女』くらいしか読んだ記憶がなく、しかもそれは二十年近く前の話でまったく理解できなかった記憶だけがある。(いずれまた読んでみようと思ってからもはや十年くらいが経過している)。
本書は、本来は都市文学+メタフィクションという捉え方で読むのが王道なのだろう。箱を被って個としてはその内部で生活し、外部の観察をして人に気に留められないまま世間との関係を断ち切った存在、それが箱男。簡単にいえば退屈な日常からの逃避というのが一つあるが、一方向からの関係性を保持し続けているのが世捨て人と異なる。また、こういった存在を通じて描かれるのは、人間が根本的に抱える「覗き」に対する羨望……自らに傷を付けずに他人の行動を見たい知りたいの分析から「見ること」「見られること」による人間の持つ哲学的な二面性、そしてそれが通じて「自己」と「他者」の関係性まで、深読みすればどこまでも深く読める主題が詰まっている。当然、身近な題材に例を取った「日常のSF」?とも読めるし、文章の齎す効果を最大限に引き出した幻想小説とも読める。そして無理すればミステリとして読むことも可能だろう。 

無理すれば、と書いたが、エピソードは様々な方向に飛ぶものの大筋としては「箱男」が自分の箱を五万円で譲り渡すという点がポイントとなる。即ち小汚い箱になぜ五万円もの大金を支払う? その人物の目的は? 等々、ミステリとして読むに遜色のない「謎」の要素が物語に数多く含まれている。この作品のテキストそのものが一体何なのか、というのも加えるべきか。こういった「謎」に読者は引き込まれるのであるが、結論的にはその答えはメタテキストの海のなかに放り込まれてしまい、これといった確実な回答を読者は得ることはない。(個人個人で「これが回答」というものは持ち得るだろうが、それが普遍的に回答と言い切れるだけの説明はない)。書かれているテキストが、結局想像なのか体験なのかそれとも遺書なのかさえ分からないまま、現象は読者の数だけ頭のなかに存在する。それでも、その頭のなかに描かれる現象を得るためには、本書から様々なことを「推理」する必要がある。こういった頭脳の使い方を強いるのはミステリ特有の定型に則っているように感じる。……結局ミステリサイドからの読み方を徹底するとこういう結論が導き出されるかもしれない。「破綻したミステリ」。しかし、この破綻の部分が文学的な饒舌さをもって何かを訴えてくるわけで。
私の読み方では、その謎の破綻と、物語の隙間から生じる都市生活に対するアンチテーゼ、目まぐるしく変更される執筆者等々から、半ば都市文学めいた探偵小説のような印象を受けた。 これはこれで間違ってはいない。ただ、同じ作品を読む貴方はまた異なる印象を持つことだろう。少なくともそれだけは確実。そしてそれも正しい『箱男』の受け止め方だということだ。

なぜ本書を読んだのか、という点が自分でも曖昧。誰に勧められたでもなく全く何気なく手にとって読んでみようという気になったもの。確かハヤカワSF文庫に確か安部公房の作品があったはずで、そちらの系譜には連なるのだろうが、あまりミステリとの関連は語られない作家だし。その割に読んでいる間はその魅力にはまりこんでしまった。これが本当の文学というものが発揮する力なのかもしれない。(とはいっても本当の文学って何や?)


02/11/22
森 博嗣「赤緑黒白」(講談社ノベルス'02)

これまで『黒猫の三角』から始まり、前作『朽ちる散る落ちる』に至るまで講談社ノベルスにて足かけ三年の長きにわたって展開されてきた森ミステリィ、そのVシリーズのラストを飾る長編。

仕事上で付き合いのある友人、蓬田の紹介と名乗って一人の女性が阿漕荘の保呂草の部屋を訪れた。田口美登里と名乗る彼女は、婚約していた男性を殺した犯人に犯罪を認めさせて欲しいというのだ。その男性、赤井寛はつい最近、銃で殺害されたうえ、全身に赤いスプレーでペイントされた真っ赤な死体となって発見されニュースになっていた。田口は彼が時々会っていたという作家、帆山美澪が犯人なのだという。帆山はミステリ作家で彼女の著作には全身を色で塗られた死体が登場する作品もあり、そもそも現場のマンション内には帆山の仕事部屋があった。しかし帆山は赤井と知り合いだったことさえ認めておらず、犯行時間にアリバイもまたあった。調査の結果、この事件を引き受けることを断ろうと、彼女の家に赴いた保呂草。彼は彼女に事情聴取を行うつもりでやって来た祖父江七夏と共に、今度は全身が緑色に塗られた田口美登里の死体を発見する。警察は全くといっていいほど事件の輪郭をつかむことが出来ない。そんななか、朝のジョギングに出ていた小鳥遊と森川が全身真っ黒に塗られた男性の死体を発見した。赤、緑、黒に塗られた死体。犯人とその目的とは?

いわゆるVシリーズ最後の作品は大きな余韻を残しつつも、再び「森ミステリィ」登場の原点に帰ってゆく
(考えてみれば、背景が白だから、白を単純に表題色として使えないじゃないか)
先にミステリ単体としての話をしておこう。連続殺人と思しき死体に吹き付けられたカラースプレー。真っ赤な死体、真緑の死体、真っ黒な死体、真っ白な死体。こんな事件に対面したときにまず思うのは「なぜ?」という犯人の動機の部分になる。しかし、これまでの森作品でも多くみられたケースと同様、本書においてこの「なぜ」という部分に、いわゆる一般常識は通用しない。この一般常識が通用しない殺人というのは「森ミステリィ」における一つのコンセプトとなっている。注意深くいえば「凡人のすること」ではない以上、普遍的な捜査能力を持つ警察は事件の解決は出来ても「動機」の解明は出来ない。そのため、このシリーズでいえば瀬在丸や保呂草といった天才肌の人間が解決にあたり、S&Mシリーズでいえば犀川や萌絵が解決しなければ物語の全体像が見えてこないという必然性が生じるのだ。
本作もまさにそのケースに当てはまる。そして、そのコンセプトそのものは森博嗣がデビュー作から一貫して持ち続けたモチーフに通じているように感じられる。従って、本作をミステリ単体、つまり犯人探しや方法でみた場合は「なんじゃこりゃ」という比較的分かりやすい構造になっているにもかかわらず、その全体像を見通すためには「ガイド」をしてくれる存在、すなわち別の天才が必要なのだ。その意味で本書もまた「森ミステリィ」世界の原点だといえよう。

そしてVシリーズ最終作品という位置づけから、今まで隠されてきた全体を通じての謎が明らかに……と思っていたのだが、そちらは匂わせる程度。勘の良い人、想像力の働く人だけその意味が分かれば良いという姿勢だった。うむ、しかしあからさまに「へへーん、どうだ!」と語られるよりもこちらの方が印象は良いかもしれない。個人的には、人間関係は今まで出てきたいくつかのヒント(イニシャルとか)で分かったつもりで本書でおさらいしたという印象なんだけれど『赤緑黒白』のラストにおいて(ネタバレ)出てくるこの作品の真の犯人、即ち図書館の多重人格少女は『すべF』の犯人であるあの女性と繋がっているってことで良いのだろうか。(あまり自信なし)それと、こういった全体的な意味でのこのシリーズの読みどころは『捩れ屋敷の利鈍』(単体でも結構好きな部類)になるということですな。

ということで、この作品を単体でこれだけ読むという意味合いはあまりない。シリーズ総決算的な人間関係にまつわる挿話も多く、一種の読者サービス的なニュアンスも感じる。ただ同時に森ミステリィの総決算(一時的な棚卸しか?)にあたる意味合いもあるように感じた。


02/11/21
鳥飼否宇「昆虫探偵  シロコパκ(カッパ)氏の華麗なる推理」(世界文化社'02)

中空』にて第21回横溝正史賞を受賞した鳥飼氏は、ミステリ作家であるとともに自然科学の研究家としても相当凄い(具体的にはよく知らないが)実績を残しているのだという。そんな氏ならでは、というか鳥飼氏にしか書けない「昆虫」を探偵に持ってきた異色作品。氏の三冊目の単行本にあたる。

昆虫マニアであることとミステリマニアであること以外、とにかく目立たない人生を送っていた葉古小吉は、ある日目が覚めると昆虫、しかもゴキブリ、その名もペリプラ小吉になっていた。彼がワトソン役となり、クマバチのシロコパκ氏、そしてクロオオアリのカンポノタス刑事が解決する昆虫界の事件の数々。
クヌギの樹液酒場で樹液を啜っていたオオムラサキ。ふらふらと飛び上がったかと思うとムクゲコノハとぶつかったかのように見えたまま墜落、動かなくなってしまった。ムクゲコノハは無罪を主張、さらにあるはずのオオムラサキの死体も現場には見あたらない。 『蝶々殺蛾事件』
糞虫であるダイコクコガネの親が探偵事務所に駆け込んできた。糞団子のなかで大切に育てたわが子が消えてしまったのだという。 『哲学虫の密室』
十七年周期で鳴くセミの声が今年に限って聞こえない。輸入昆虫であるカブトムシの案内で米国に渡ってしまう三人。果たして異国のセミの謎が彼らに解けるのか? 『昼のセミ』
水生昆虫の天国、久月池。この池にやって来たフチトリゲンゴロウ婦人がなにものかに殺された。しかしアメンボをはじめとする証人の意見を総合すると、彼女を殺害できる虫は池の中にはいないように思われた。 『吸血の池』
ベニボタルを擬態するアカハネムシ。同時期に孵化した同類が次々と鳥に襲われて死んでいったのだという。毒を持ち鳥が狙うはずのないホタルに対する擬態が通用しなくなったのはなぜ? 『生けるアカハネの死』
カンポノタス刑事の母親である女王アリが、クロオオアリの巣を乗っ取ることを生業とするトゲアリに乗っ取られかけている。早速シロコパκ氏は作戦を整えるが、その態度が少しおかしいことにペリプラ小吉は気付く。 『ハチの悲劇』

ミステリはなんでも取り込めるものか? 史上初の昆虫ミステリは評価不能のヘンテコミステリ
いやあ、勉強になりました。何がって、もちろん「昆虫の知られざる生態」について、ですよ。
これまでの本格ミステリだって宗教や歴史や哲学や考古学等々、マニアックな世界を引っ張り出すケースは多かった。最近だと理系ミステリ……というわけでもないだろうが『21世紀本格』等が端的に示す通り、科学的な事象をトリックに用いる作品も出てきている。ただ、ぽっかり穴のように残ったジャンルの一つが昆虫学だったということになるのか。少なくともワタシの知る範囲ではこちらの分野に活路? をもとめた少なくともミステリ作家は存在しない。
本格ミステリとしてどうか? という問いは愚問。謎の提起の方法については密室や不可能殺虫等、ミステリの手法を使用して提起してくるが、その解決には深く昆虫たちの生態が関わっており、一般読者の普通の知識で解を求めることのできる作品は一つもない。二人の探偵役の論理のぶつかり合いは面白いが、それも本書に登場する昆虫同様、本格ミステリに「擬態」したもの。ミステリとしてはいわゆる「広義のミステリ」と割り切った方が良い。ただその謎の提起方法が面白く、一つ一つの作品のまとまりは良い。
そしてどこか不思議な魅力を持っている。その設定の超オリジナリティだけでなく、擬人化された彼らをナビゲーターとして知らされる昆虫の世界そのものを新たに知る魅力や、また昆虫の世界と二重写しとなって現れてくる人間界への皮肉等々、読んでいていろいろなことを考えさせられる。もちろん表層で読んでもそれなりに読めるとは思うが、ミステリとしてだけ期待して読むのだけは、本書を詰まらなく読んでしまう危険をはらむので気を付けて。
本書の各作品の表題を見て勘の良い人はすぐにおわかりかと思うが、それぞれ名作ミステリ作品の駄洒落が用いられている。ただ、それが単なる駄洒落ではなくそれぞれの作品そのものと、本書における昆虫にまつわる事件とが微妙な本歌取りによってリンクされているのだ。例えば元の作品が密室であれば密室殺虫などテーマに共通性があることも一読するとすぐに分かる。(本質的に突っ込んだものでなく表層で、の話だけれど) なのでもちろん、その元の作品を読んでいないといけないなんてことはない。これは思い過ごしかもしれないのだが、本書の題名である『昆虫探偵  シロコパκ(カッパ)氏の華麗なる推理』というのも小林信彦の名探偵パロディの名作『超人探偵』『神野推理氏の華麗な冒険』を二つ合わせたものと微妙に似ているような気がする。気のせい?

純粋に本格ミステリとして読むにはちょっと虫の生態がその解決ロジックに絡みすぎていて引っかかりを覚えるし、かといって昆虫生態に興味がある人からすれば、この上滑りするギャグを使った冗漫な会話文(ワタシは嫌いじゃないけど)に辟易することだろう。従って「一風変わったミステリを面白がって読める人」が本書に一番向くのではないかと思うのだけれど……、そんな人ってそんなにたくさんいないような気もするな。