MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


02/12/31
岩井志麻子「チャイ・コイ」(中央公論社'02)

一冊千円の薄いハードカバー、緑の表紙が印象的な本作品は、'02年に第2回婦人公論文芸賞を受賞。同年の2月に実際に岩井さんがホーチ・ミンを訪れた際に同地で書き下ろしたのだという。「チャイ・コイ」とはベトナム南部の言葉で果物の意。

一度結婚に失敗している作家の”私”は、担当編集者でほんの少し年下の愛人がいる。世間や人生の雑音から逃れるために二人で予約したベトナム旅行。その愛人は酔って階段でこけて肋骨にひびが入ったため旅行をキャンセル。私は一人でベトナムの地に赴く。別の観光客らの親切にも助けられ、何か満たされないものを感じつつも観光を満喫していた私は、彼らと一緒に高級ベトナム料理店に向かった。そしてその店の従業員である黒服のボーイに対して、一目惚れに近い激しい欲情を覚える。自らの感覚に戸惑いつつも、その恍惚とした甘い気分に溺れたい自分を自覚、再び翌日の晩に私は一人で料理店を訪れるがそのボーイとは逢うこと叶わず、最終日となるベトナムを発つ当日に三度目の訪問を実行する。最初と同じフロアに通された私は心の中で「愛人」と名付けたそのボーイに給仕され、指先一つの接触に狂おしい程の官能を覚えるのであった。帰国し、空港に迎えに来た日本の愛人と私はセックスするが、身体の快感とは裏腹に心は冷めていた。結局あのボーイの存在が忘れられない自分に正直に、そして他人に対して偽って、私はすぐにベトナムへ向かう飛行機に搭乗する。

濃厚で猥雑で一直線な欲情、そして爛れ穢れて純粋な愛情。岩井志麻子の愛のカタチ
作家である、特に常人には感知できないような鋭敏な感覚とセンスを備えた作家であるということは素晴らしいことであると同時に不幸なことなのかもしれない……。

しかし本作は扱いに困る作品である。半ばというよりもほとんど体験談に近いらしい。どうも受賞インタビューなどで見る限り、本作に登場するベトナム人青年には実在のモデルがいるようだし、作中の「私」の作家としての経歴は実際のそれとが非常に近しいものだし、担当編集者云々と……というのも、モチーフとして他の作品でも言及されている事柄であるし。ただ岩井さんの場合、ネタに困って身近な存在を作品に取り上げているという雰囲気はない。寧ろ、自らの日常生活から新たな創作への切り口を見出しているという前向きな印象を持つ。

なので。

これは「私小説」である。と断言してみる。 確かに性愛表現は赤裸々にして奔放、そして男性向けエロ小説さながらの具体的描写が続く。そのこと自体は本書を紹介するに必要な事項ではあろうが、読みどころではない。大胆で濃密な官能描写なんて選評をどこかで読んだが、セックスなんて誰でもやっていることをことさら今さら声高にスゴイと書いても致し方なかろう。この物語の特徴は、そういった女性心理の奥底にある性衝動を、第三者にキッチリ伝えられるような文章にて表現している、その岩井さんの表現力にある。 男性女性の違いはこの際置いておくとして、こういった下半身の根元的欲望というのは自身の経験に照らすと「衝動」として感じられる。「やりたい」とか「したい」とか、その衝動からくる欲望だとか、肉体的に訪れる変化(何のことか分かるね)そのもの、つまり結果の部分を文章にて表現することはできても、その衝動そのもの(動機にあたる部分)を言葉によって表現するのは非常に難しい。しかもそれを第三者に的確に伝えようとすると尚更その困難さは増す。それをやってのけているのが本作である。
また、刹那的で退廃的な大人の日本人女性とまだ若い異国の男性との性愛を通じた恋愛は、それはそれでテーマ性を内包している。(文化のギャップであるとか日本での普遍的な男女関係の逆転であるとか)だが、そちらのテーマはあくまで結果的に付随してきたものであるように思えてならない。やはり私は根元的性的衝動が伝わってくることそのものがショックであり、本作の読みどころだと思うのだが、如何。

岩井さんの創作で「貧乏」というキーワードが存在しない初めての物語……ということになるのだろうか。明治時代や岡山という地方を描き続けることで表せる情感も捨てがたいが、岩井さん本人のバランスはこういった世界で培われているのかもしれない。ホラーを期待している人には当然勧められないが、岩井文学を好まれる方は一読をオススメしておく。


02/12/30
櫻沢 順「ブルキナ・ファソの夜」(角川ホラー文庫'02)

1996年の第3回日本ホラー小説大賞短編賞佳作に入った表題作品に一編が加わった作品集。六年越しで初めて本になるというその意外性がちょっとした話題になった。ただ氏には他に『アウグスティヌスの聖杯』という単行本が同じく角川書店から刊行されているらしい。

日本で最大規模を誇り、業界でも影響力が強い旅行会社に勤務する”僕”。Special Interest Tour、略してSIT企画課に所属していた僕は、新進の遣り手常務の目に止まり部長に大抜擢を受ける。SITツアーは長年の不採算部門であったが、他の旅行会社が評判のツアーをいくつも手がけた結果、僕の会社も業界ナンバーワンのプライドを賭けて凄いツアーを企画する必要に迫られたのだ。世界中の支店に連絡をつくし、奇妙なもの、面白いものの噂を連絡させた結果、ナイロビから連絡のあった「発掘された巨大頭骨」が候補に挙がり、僕はアフリカへと飛んだ。 『ブルキナ・ファソの夜』
十畳くらいの部屋のなかにソファが一つ。英国大使館の裏手にあるというその名も「ストリート・バー」はその名の通り、話を売る店。他には何も売らないし、何も置かない。客の好みにあったストーリーを聞かせてくれるだけだ。僕はユリエという馴染みのテラーから『サファリの顛末』という物語を聞かせてもらったところ。そして語り終えた彼女は、僕にこの店を紹介してくれたアダチが失踪していることを話題にする……。 『ストーリー・バー』 以上の中編二編。

現代でも未だに残された秘境は、そのままファンタジー足りうる舞台へと昇華する……
私は語学が苦手な小心者なので、学生時代にバックパック一つで諸国を貧乏旅行するとか、海外赴任を希望するとか、体当たりの「行ってこい!」式の海外文化とのコミュニケーションは苦手である。日本語が通じないことはもちろん、下手な英語も通用しない世界に一人で放り込まれたら……。 「人間同士なんだもの、身振り手振りで何とかなるさ!」と割り切れない人にとっては、異文化の中で味わう孤独、これはかなりの恐怖ではないだろうか。異国というもの、同じ人間が暮らしていても、紛れ込んだ異邦人にとってはあくまで非日常であり、異界なのだ。
表題作のテーマはその「異国が齎す異界」 。表面上は日本人が足を踏み入れることはあっても、その異国のなかに隠された秘密には決して触れることがないタブー。そのタブーを異文化ゆえ、無知ゆえに踏みにじる傲慢な態度に対し、必ず仕返しがやってくる。その仕返しを本能的に恐れながらも、それがどういう形で跳ね返ってくるか分からないという怖さ。そういった、異文化に対する本能的恐怖を上手にくるんだファンタジー。(ちょっとホラーという言葉は本作には使いづらい)。
地球上を網羅する大旅行会社でさえ「噂」でしか聞くことのない不思議な現象やこの世に存在しない物体。これを探し求めることを業務の中心に据えた男は、いわば異界との境界線を自ら踏み越えようとしている存在である。氷河の中で氷漬けになっている救い主、絶海の孤島に拡がる黄金の砂州、某小島で繰り広げられる人魚を食すという正餐、砂漠の奥に眠る身長5mの人骨、そして……。触れてはならないタブーを求めようとした時には、やはりその結界を破っただけの代償を支払わされるのだ。
とはいえ、本書にて表現されている一つ一つのタブーの要素(というかエピソード)に対して、正直「恐怖」なる感覚を覚えることはない。しかし高価な宝石を目にした時のような、魅力によって心の底が痺れさせられるような独特の感覚が読者を包む。電話が繋がらない、時間に対する感覚が違う、飛行機が給油のため見知らぬ空港に足止めされるといった、海外では当たり前の光景が、どこか便利に慣れきった日本人の神経を苛立たせる。苛立った神経は注意力が摩滅してしまうため結果人々は異界への誘いに容易く乗ってしまう……。そして読者も、また。

作者は旅行会社勤務の経験があるのだろう。旅行関係のディティールの濃さは説得性高い。それだけに登場する海外の秘境のシーンが際だってそのエキゾチック、ファンタジックな魅力を発揮する。その反面、ホラー小説で得られるような怖さは無い。日本、そしてもろもろの日常に縛られてしまって、旅さえままならない「大人のための童話」、それが本作。


02/12/29
倉阪鬼一郎「四重奏 Quartet」(講談社ノベルス'01)

倉阪氏の著作はかなり読み込んでいる方だが、なぜか手に取らないまま来てしまった一冊。倉阪氏の著したミステリ系の作品のなかでは現段階もっとも評価が高く、『本格ミステリベスト300』でも取り上げられている。題名の付けられ方では『迷宮 Labyrinth』に近い気もするが本書はノンシリーズの単独作品で、続編ではない。

ラブホテル街を抜けた静かな街のなかにその優美な塔は現れる。「堕天使」「占星術」「魔術」「騙し絵」「迷宮」「愛死」「衒学」といった、それぞれの主題に沿った意匠を凝らした部屋を持つその館は中澤の一族が住んでいた。廊下には幻の弦楽四重奏曲が流れ、一族はそれぞれの役割を日々凝らしている。屋根裏部屋には覗き穴から”天使たち”の行状を覗き、奇妙な画を描くため絵筆を振るう”犬”がおり、その”天使たち”にいいように弄ばれる少年がいる。最大の権力者である中澤政樹は国内外の薔薇の栽培に情熱を傾け、その妻の彰子は館の雑務をこなす影の薄い存在。良樹、泰樹の兄弟は部屋の設計や音楽を担当し、中澤の遠縁の茜は仕事をしながら政樹の愛人にもなっていた。この館で殺人があり、良樹がその死体を薔薇園に埋めた。四という数字にこだわる連続殺人鬼が館に侵入してきた。女衒を裏家業とする”人間の屑”の探偵が金儲けの雰囲気を嗅ぎ付けて館に接近してくる。謎めいた館の内部では今日も誰かが殺され、庭の土が掘り返され、死体が埋められていく。

倉阪氏の紡ぎ出す濃厚な作品世界の裏側にある邪悪な罠。真相を見抜ける者はまずいるまい――
「僕」「彼」「彼女」「彼ら」「私」「探偵」といった章題がつけられた細切れの文章によってこの長編は形成されている。ただそれぞれの視点は一定でなく、内部にて繰り広げられている事態や情況は意図的に分断され、総体としての概観が読者にはわざと不明なまま、細かなエピソードが積み重ねられていく。 倉阪氏の作品を一度でも読んだことがある方ならお分かりの通り、重厚なゴシック感覚と異界を思わせる描写の数々は本作でも健在。切り取られたエピソードが紡ぎ出すのは紛うことなき倉阪ワールド。狂気に支配された人々が紡ぎ出す、常識の通用しない異空間。これだけなら単なる幻想感覚の作品に留まってしまい、幻想文学として世界観を評価されるのであればとにかく、ミステリとして評価されることはなかっただろう。
こういった倉阪世界が創り出されつつも、その裏側に邪悪な仕掛けがあるのだ。つい「邪悪」と表現したが、見方によっては噴飯物かもしれない。ミステリ的にはいわゆるトリックにあたる部分。当然、ここでその内容を開示することは出来ないが、ただこの大胆かつ強引、そして一見めちゃくちゃな仕掛けにしても、作品の「器」がそれを受け止めている点には気付きたい。閑静な住宅街に聳える「塔」のなかで二度にわたって繰り広げられた狂気に彩られた惨劇。その後の第三の狂気が育んだ物語であるからこそ成立が許される技なのだ。それに、どんなカタチであろうとも騙される快感が本作にはあり、こういったカタチを仕組む者を邪悪と読んでも差し支えあるまい。テキストにおける表現の限界に挑戦する清涼院流水氏が似た前例を用いていた記憶があるが、それを同じくテキストに大いにこだわる倉阪氏もまたこの手を使うところに感動さえ覚える。 まさに四重奏、そして騙し絵。 血で血を洗う狂気の世界のなかに一歩進んだトリックという名の狂気を配した怪作。そう、本書を怪作と呼ばずしてなんであろう。もちろんその騙し絵のスライドを経た後に残される余韻もまた、純粋なホラーとして仕上げられた倉阪ワールドそのものである。

惜しむらくはこの「手」は一度しか使えないだろうこと。ただその一度の機会を倉阪氏は十二分に活用した。ミステリの紡ぎ出す幻想的世界を堪能できる逸品。このトリックに怒ったり呆れたりするのも自由だが、素直に騙されたことを認めるのが潔い。単純にびっくりしたい人、ミステリに騙される快感を求める方は見逃してはならない作品であろう。


02/12/28
吉村達也「あじゃ@109」(ハルキ・ホラー文庫'01)

朝比奈耕作、氷室想介、志垣警部、烏丸ひろみら錚々たるシリーズ探偵を抱える吉村氏だが、角川ホラー文庫に書き下ろした『初恋』以来、着々と「ホラー」ないし「サスペンス」系列の作品も増やしている。本書はその系列の一冊でハルキ・ホラー文庫に対する書き下ろし作品。

入社五年目のテレビ局の営業部員である桐島尚紀は、同じテレビ局の経理に勤務する三年後輩で女子アナと見間違えられるほどの美貌を持った新庄玲美との結婚を控えたある日、渋谷のスクランブル交差点で交通事故に遭い右腕右脚骨折の重傷を負って入院した。入院したのは道玄坂にある渋谷ホスピタルの109号室。結婚式を延期せざるを得ず悔しがる尚紀に玲美は優しかった。ところが意識の戻った晩、原色のナース服を身にまとい、いわゆるコギャルのヤマンバメイクをした女性が枕元に立つ。彼女は自らを「あじゃ」と名乗り、三十日後の未来から来たのだという。尚紀は彼女の存在を信じないが、あじゃは尚紀が死ぬところを見たのだという。彼女の言うことを信じるならば、尚紀の命はたったの三十日しか残されていない。当然病院には「あじゃ」なんて看護婦はおらず、尚紀の言動は母親や玲美を辟易させ、同室の患者からも軽蔑の視線を投げられる。

確かにヤマンバメイクはある意味コワイが、あまりにも内容が軽いか
こうやってWEBサイトに記述を残すと何年先に誰が読むか分からないので、流行をネタにするのは気が引ける。私自身、本書が刊行されて一年の後に手に取っているわけで、その意味でも流行は過去の彼方にある。ただ西暦2000年前後に顔を日焼けサロンで極限まで黒く焼き、髪の毛を金色から白色に近くまで脱色し、白っぽいルージュに奇抜なメイク、つけまつげといったいわゆる「ヤマンバメイク」の若いティーンエイジャーが闊歩していた時期があることだけは間違いない。
そういった彼女たちを「理解できない」怖さが仮にあるとしても、それは単に世代の問題でしかない。メイクそのものが生理的に怖いというケースもあろうが、それも異国の文化にいくらでも似たようなメイク(というか顔面彩色の風習)はあるわけだし。ただ、その世代の問題→即ち、一定層以上の年齢の者からみてヤマンバメイクというのは、理解できない若者という記号であり、更に頭が悪い、思いやりがない、自己中心的、若くして享楽主義、拝金主義の象徴を裏返しに表現している……という考え方はできる。本書は、その「記号」であるヤマンバメイクの女性が、その記号を抜け出した優しさを示すことによるギャップを狙いとしている。
ただ、ポイントはその点のみ、といっていいような気もまたする。三十日の未来から来た彼女が彼の死を予言するのであるが、彼女がラストにみせる優しさと、実際に彼女が現れることによって訪れる主人公の身の破滅は背反している。つまり彼女がわざわざ訪れなければ彼が死ぬこともないはずなのだ。また後半部に訪れるいわゆる「いい人」の女性版も、伏線が事前に全くなくとってつけたよう。この結末、本当に美しいのだろうか。

総じての印象はやはり「軽さ」が最も高い。「ヤマンバメイク」の女性を天使役にする――という着想そのものはやはり非凡なのだが、この設定に寄りかかってしまい物語としての完成度をあまり高められなかった感。ホラー文庫に連なる作品一冊ながら怖さよりも現代的な心理を逆手にとった特異な幻想性が強い作品


02/12/27
嵯峨島昭「深海恐竜(ニューネッシー)殺人事件」(徳間文庫'85)

とある芥川賞受賞の有名作家が覆面作家として執筆した別ペンネームが「嵯峨島昭」。名前をそのまま読めば「さがしましょう」(実際は「さがしま・あきら」)となる通り、遊び心に溢れた名称である。『踊り子殺人事件』で颯爽とデビュー後、グルメ探偵、酒島警部が活躍する一連のシリーズを執筆している……。(とかいいながら、作者の正体は『踊り子』で書いちゃってるのだけれど)。

ヒット作の出ないルポライター、本間逸男はニュージーランド(本文ではニューシーランド)沖で死体が引き上げられた謎の海生生物、いわゆるニュー・ネッシーに興味を持ち、関係者に話しを聞いて回っていた。その過程で実際にニューシーランドに出かけて怪獣を目撃したという平井信一という学生に出会うが、彼は口を閉ざしたまま何も語ろうとしない。どうやら彼は同行していた友人を怪獣のせいで喪ったらしい。本間は平井の借りていたヨットの持ち主、テイラーを探し当て、ホテルにその人物を訪ねるが、その直後彼はホテルから墜死してしまう。本間は何らかの陰謀を感じ、秘密を嗅ぎ回るうちに謎の暴力組織のために海中に投じられてしまい絶体絶命! ……だが、彼は蜂須賀伯爵と名乗る謎の人物の操る潜水艦に救出される。多数の国籍を持ち、膨大な資金を操る伯爵は、本間に対し失踪生活を命じるのであった。伯爵は今を遡ること二十年前、ニューシーランドにて恐ろしい事件に巻き込まれ、収監されたという過去を持っていた。

ななななななんだ、これは。こんなトンデモな展開、ありなの???
今となっては二十年前くらいの事件になるのだろうか。ニュージーランド沖で漁船が謎の巨大生物の死体を引き上げ、首長竜の死体ではないか、と大騒ぎになったのは。体長10m、体重2トンの腐乱死体。手足が付いており、首が長い。すわ恐竜の生き残りか! と世界的に喧伝されたものの、死体の繊維の分析から結局は巨大なウバザメということで落ち着いた事件。本書はその分析サンプルにすり替えがあった=陰謀があった、という前提で進む物語である。
その謎に挑むのは軽佻浮薄を絵に描いたようなルポライター。根性があるようにみえてその行動原理は「女」と「金」が占めるろくでなし。彼が口先三寸でニューネッシーの関係者に突撃取材を試みて……しかし、大ピンチ。どうやって対抗するのかと思ったら、そのまま簀巻きで海に投げ込まれちゃったよ! あぁあ。

……ところがここからが面白い。というか物凄い。彼は極秘裏に彼らの動きを監視していた謎の潜水艦(!)に救助されるわ、伯爵と名乗る人物から歓待を受けるわ、月額二百万円のお小遣い(不足したら要求増額も可)で失踪生活を要請されるわ……と、ニューネッシーそのものとは違った意味での荒唐無稽な展開が開始され、まず唖然とさせられる。こいつはいったい、何者で何が目的なんだ???

……そしてここからは想像出来ない。というか、おいおいマジかよ、この展開。 いきなり時制が二十年前にスリップ。ニューシーランドに赴任した商社マンが罠に嵌められるシーンが描かれる。延延と描かれる地獄のような獄中生活。暴力、そして孤独。臥薪嘗胆の故事を地でいくような光景が続く。 ……が、ここんところ確かに陰鬱で悲惨な描写が続くのだけれどもその谷が深いだけに後の山が面白い。脱獄して巨財を為し、戸籍を買って外国から伯爵の称号を得て、この男、復讐を生き甲斐にした生活に入るのだ。日本の巨悪も世界的な財産をもってすれば潰すことは容易い。日本では敵なしで傍若無人の振る舞いをしていた対象が次々に泥にまみれて苦しんでいく様に、痛快感を禁じ得ない。それも伯爵の獄中生活の悲惨さ、そのたたき落とされる時、その後の黒幕たちの動きの汚さの上に成り立っているのだが。

そして最終的に本書はニューネッシーとの邂逅へと向かっていく。こうなると最初のノリの軽さはどこへやら。復讐譚さえも霞んでしまい、どこか原初のSF、ないし科学空想小説や戦前戦後の冒険探偵小説的な展開へと進む。はぁ、それでも「おいおい」と突っ込みつつも最後まで読まされてしまった。

惜しむらくは物語としてのバランスが致命的にまでにバラバラなこと。第一章、第二章、第三章。続いてはいるのだけれど、別の作家が別の主題を別の物語として描いたかのような展開。それでも第二章、第三章はそれぞれ特異なエンターテインメント性を持っており、単純に面白く読めるので一応最後まで読み通すべきだろう。第一章で放り投げる方もいるかもしれないが……、それは勿体ない。


02/12/26
伊坂幸太郎「オーデュボンの祈り」(新潮社'00)

第5回新潮ミステリー倶楽部賞の大賞受賞作品。ちなみに'96年より開始された本賞はこの回が最終回。同賞出身者の出世頭は戸梶圭太だろうが、他にも永井するみや雨宮町子、響堂新、雫井脩介等手堅い作家を輩出してきた。(小川勝己の本年の話題作『撓田村事件』も'99年の同賞応募作品が改稿されたものである)。伊坂氏の第二作は『ラッシュライフ』。

仙台でソフトウェア会社に勤務していた”僕”こと伊藤は、それまで付き合ってきた仕事一筋の恋人、静香と半年前に別れ、自分の生活をリセットすべくふらふらとコンビニ強盗を働く。あっという間に警察に捕まるがその相手が元同級生の城山だった。城山は子供の頃から悪魔的な所業を繰り返す加虐趣味を持った男。僕は交通事故に乗じて逃げ出した。 ――気付くと僕は荻島というところに連れてこられていた。荻島は支倉常長が遣欧使として活躍した時代から”鎖国”を続けていたという不思議な島。その唯一外界と行き来できる轟という人物に僕は連れてこられたのだ。日比野という男に島を案内してもらう僕。島には数千人の住民が暮らしており、日本語も通じるしそれほど外の世界と目立った違いはない。しかしこの百五十年というもの、轟以外に島を出た人間は誰もいないのだという。また島の外からやって来た人間も僕以外にはつい三週間前に猟銃を持ってやって来た曽根川という嫌われ者しかいないのだという。そして僕は島の預言者、優午に引き合わされる。優午は喋るカカシだった。彼は未来が分かるのだという。なぜか彼のことを信じてしまう僕は、夜中に再び優午と会いに行き、いくつかの会話を交わす。その晩、その優午が何者かに殺されてしまう。優午の存在によって安定していた島の人々は不安に包まれ、続いて曽根川が殺される。

とっても変で、どこか優しく懐かしい島。そして殺されたのは預言するカカシ。それでもって本格パズラー
これはもう作者の企みの勝ちであろう。まず目を惹くのは「なんじゃこりゃ」とばかりの設定。個人的には新潮社の作品はいわゆる「新本格ミステリ」とは異なる流れだと思っていたので、こういったメフィスト賞ばりの変なミステリであること自体が新鮮。
なかでも特に江戸の昔から日本に対して鎖国を続けていて、誰一人本土と交流がないという荻島という存在が凄い。当然、それを成り立たせるための力業がそこにあるのだが、最近の奇抜な舞台設定を誇り合うような現代ミステリ界においてそれほどの違和感はない。しかし、そこに預言するカカシなんて存在を持ってくるか? そのカカシが殺される事件がメインかよ? という連発「なんじゃこりゃ」が冒頭続く。しかし、あとあと考えてみればこの「なんじゃこりゃ」と読者が考えている間に触れられる事象、語られる言葉のほぼ全てが後々になって大いなる伏線として効いてくる……なんて読んでいる間は想像もできない。 どこかファンタジー世界を思わせる荻島の描写それぞれ(ルイス・キャロルの「アリス」的世界を意識しているかも?)に、ミステリとして意味を持たせてある。地面に耳を付けて心臟の音を聞いて遊ぶ少女。五年前に妻を喪い、反対のことしか喋らないという画家。余りにも体重が増えすぎて市場から動けなくなった女、甲斐甲斐しく世話を焼くその夫。郵便配達夫と「死に際に手を握る」のが仕事という若妻。優午に犯人の名を尋ねる警察……。不思議の国に来たかのような登場人物たちと彼らを支配する独特の価値観。……。本格パズラーへの強い指向がなければこういった真似は出来まい。
異世界(ないしは極端な非日常)+論理的な謎、というのが一つの現在のミステリの流れとして存在するならば、その王道に切り込んできた作品かといえる。 それに加えて題名(意味は作中で明かされる)に込められた暖かな叙情もまた良い。小説としての完成度を審査員は云云するだろうが、濫発される新人のなかで気になる程のレベルではないし、寧ろ(加筆修正がどうされたのか分からないが)上手といっても良いのではないか。”預言するカカシ”の生前の発言をどう捉えるかは、人によっていろいろと見方もあるだろうが、少なくとも読者の目前に平然と並べている以上、フェアな扱いだと思う。(御都合主義ではないか、という点に反論は出来ないが)。「なんじゃ、こりゃ」という幻惑感がそのままミスリーディングになっているのは作者の狙いなのか、天然のセンスなのか。いずれにせよ、動機にせよ事件の実行方法にせよ真相から解決に至るラストまで一貫して「この島特有のシステム」が働いており、しかもそれは物語で既に述べられていることがベースになっている。これでは「やられた!」と素直に思わされるしかない。 上手い。

一方の現実世界で繰り広げられる底知れない悪意を持った主人公の幼なじみの警察官。こちらの存在そのものは確かにインパクトはある。だが、そのインパクトは逆に現代数多く執筆されるサスペンスやサイコスリラーに比して、それほど強烈とは言い難いのも事実。荻島でのエピソードとの交わりが、多くの読者の予想通りである(そして確かにそれは一種のカタルシスをもたらすことは事実ではあるが)ことを考えれば、こちらの物語は書き込みを増やして厚みを持たせるか、いっそ無くしてしまってもいいかもしれない。

決して急ぎすぎていない独特の物語テンポも心地よい。決して都会的ではないが、時代遅れではないセンスに将来性は十二分に感じる。二作目『ラッシュライフ』も幸いなぜか手元にあることだし、楽しみである。


02/12/25
野尻抱介「太陽の簒奪者」(ハヤカワSFシリーズ Jコレクション'02)

野尻氏のお名前はその著書を知るよりも早く、大森望掲示板等で目にしていた(最初に見たのは『ロケット・ガール』論争だったか)。が、著作を手に取るのは初めて。本書は'99年に発表された『太陽の簒奪者』の短編版がSFマガジン読者賞・星雲賞を受賞、さらにその作品に同誌に掲載された短編『蒼白の黒体輻射』『喪われた思索』の二作品を加えて長編化したものだという。本書はアレク捨てさんに貸して頂きました。

2006年、突如水星に巨大な人工的な建造物らしき存在が観察され、地表から鉱物資源が吹き上げられる。やがてその資源は太陽を取り巻いて直系8000万キロにも及ぶ「リング」を太陽の周囲に形成しはじめる。高校の天文部所属だった白石亜紀はその物質を観察した縁から宇宙飛行士になるための努力を開始する。リングは地球への日照量を減少せしめたため、地球上は大いなる混乱、異常気象、そして全地球的な飢餓に見舞われる。探査機がリングのサンプルを採取しに飛び立ったがリングの抗生物質は探査機の容器を浸食、探査機をも破壊した。自己復活するリング物質はナノテクによる活動によって行動しており、それ自体がある意志をもって活動していることが明白となった。またリング上には〈島〉が形成され、近づく者を撃退する砲台が観察されるようになった。国連宇宙防衛軍UNSDFが発足、2022年、有人探査船によるリング観察に志願した亜紀はUNSSファランクス号に三人のクルーと共に乗り込み、リングに向かう。リング及びその島は太陽系に向かって進行中の異星人、知的生命体によって建設されたものということが明らかになっていた。

「SFって本当に凄いんだ!」改めて実感させてくれる王道にして力作、そして完璧なエンターテインメント
いわゆる人類と未知の異星人との「ファースト・コンタクト」を真っ向から描いた作品である。SFの読み込みの少ない私なので、他作品との比較に関しては遠慮させて頂くが、この精緻な構成力に関しては文句の付けどころがない。現在想像しうる科学技術に関する知識やデータをフル活用し、何十年か未来のありそうな世界を描き出す。こういった「論理的な、未来へ向かう想像力」はSFプロパーの作家ならではのものだろう。特に宇宙船関連の推進や機器記述や、宇宙そのものの知識や活動に関する記述等々に関しては、「ふんふん」と頷くしかない。そのうえ、活字を読んでいるだけなのにもかかわらず映像が次々と頭に浮かんでくる。 太陽であり宇宙であり異星人であり宇宙船でありロケットである……そういった本来「未知」であるはずの存在が読んでいるうちに頭の中で見えてきて、顔こそイメージできないながら登場人物もまたそのなかで活躍する。これもまた現在の世界をベースに共有できるところは共有し、作者の想像力もその延長に働いているということの証左といえるか。
物語構成においてポイントなのは、異星人がいずれ到着することこそはっきりしていながら、その実現が数十年先であるということ。実際、恒星間を移動するというのはそういうタイムスパンを要することであることは理解するが、これは寿命たかだか数十年の人間を主人公とする物語としては扱いにくいだろうことは想像に難くない。また、こういった物語構成に不都合な部分についても科学技術やそちらの世界の常識的な部分については、敢えて無視したりせずにきっちり取り組むことでこれもまた「世界の構成」の奥深さを体現することに繋がっている。
登場人物、特に主人公の白石亜紀らにも独特の魅力があり、当たり前だが彼女の葛藤や、異星人の正体の謎等々、序破急はっきりした物語展開も魅力。
なんのかんの書いたけれど、このままハリウッドに持ち込まれても全然おかしくない。日本のSFは遂にここまで来た。それを我が目で確認できたこと。須く満足。

SFファンならずともオススメ。SFに造詣深い方なら既に読んでいることだろうが、特にハードSFを全然読んだことがない、とか普段は別ジャンルを読んでいる(オレか)ような方はぜひ手にとって欲しい。SFが本来持つ凄さを実感できること請け合い。 私ごとき人間がこういう表現を用いることには抵抗もあるのだが……恐らく、傑作


02/12/24
はやみねかおる「少年名探偵 虹北恭助の新冒険」(講談社ノベルス'02)

これまで「講談社青い鳥文庫」で夢水清志郎シリーズ等で活躍していたはやみね氏が、講談社ノベルス初登場となったのは'00年に刊行された『少年名探偵 虹北恭助の冒険』である。そちらが未読のまま機会があって二作目となる「新冒険」を手に取った。

ご多分に漏れず不況にあえぐ虹北商店街。その振興会会長であるケーキ屋の娘、中学生の野村響子。彼女は映画づくりに異様な執念を燃やす三人組、すなわち喫茶店『FADE IN』のマスター、カメラ屋の若旦那、そして引きこもりイラストレーターの宮崎さんらに「協力者」として引きずり回される。彼ら「映画作り」こそ共通するものの「名探偵」「男はつらいよ」「怪獣もの」を最上と考える彼らの理念はバラバラ。商店街が主催するPR映画”メヌエット賞”に応募するため三つの要素を混ぜた『名探偵はつらいよin虹北大決戦 リターンズ』の撮影を決定するが、彼らの商店街からの評判は最悪だった。一方、響子は小学校の頃から不登校で書物片手に世界を旅する古本屋の孫息子、恭助が旅から戻るのを待ち望んでいる。こんな事件があったことを尋ねたかったのだ。――冬の六時半、小学校一年生の女の子が鍵のかかった小学校の屋上から転落。重体となった。果たして少女を襲った悲劇は自殺なのか他殺なのか? 『夜間飛行』
三人組の映画作り。商店街から封印されてしまった『リターンズ』の上映を決意する。狙いは古いが定評ある映画しか上映しない虹北シネマ。ここの館主は伝説の恐怖映画『妖』を越える作品しか上映しないのだという。 『外伝の一 おれたちビッグなエンターテインメント』

評そのものは↓の『新・新冒険』にてまとめて。


02/12/24
はやみねかおる「少年名探偵 虹北恭助の新・新冒険」(講談社ノベルス'02)

『少年名探偵 虹北恭助の新冒険』と同時刊行されたのが本書『新・新冒険』。はやみね氏のあとがきによれば、当初は一冊刊行する予定だったものが、分量が多すぎるために二分冊にされたものらしい。別名はそれぞれ『少年名探偵 虹北恭助の盆休み』『少年名探偵 虹北恭助の正月休み』。

基本的に↑「新冒険」の続きとなる。三人衆は映画撮影に情熱を燃やし、恭助は盆暮れ以外はどこかに旅に出、響子は学年を重ねつつもその恭助の帰還を右フックを鍛えながら待ちこがれている。

喫茶店『FADE IN』のマスターとアルバイトの由美子さんの結婚が決まり、三人衆は式場で上映する映画の撮影に走り、響子の同級生、鉄也は粗暴だと思われていたが実は……。 『春色幻想』
相変わらず結婚式用の映画撮影が続くなか、由美子さんが鯉にエサをやるエピソードが。池には三匹の鯉のうち二匹しかおらず、残り一匹はバラバラ死体となって発見される。 『殺鯉事件』
クリスマス前。足の悪い宮本さんは、病院に五歳の女の子、亜矢ちゃんの為に絵本を古本屋で探し求める。その母親は忙しく、宮本さんは彼女に想いを寄せている。映画撮影のために三人衆は病院に潜入、それに乗じて響子は恭助と亜矢ちゃんへのサンタ役を演じようとするが……。 『聖降誕祭』以上、中編三編。

人の心の温かい部分――心の底にある善意がトリックの基本。だから見えにくく顕れると不思議な気持ちになる。
探偵役の恭助と、これまではやみね氏が探偵役としてきた夢水清志郎とはどこか……というよりも非常に似通っている。だが、その二人が探偵役を勤める二つの物語は、微妙に立ち位置が異なっていて受ける印象が違う。響子というワトソン役が能動的に動いているからか、映画撮影の三人衆が激しく動き回るからか。それらに加えて、より「日常」に名探偵が回帰しているから……というのが正解かな。下町っぽい、小さなコミュニティが物語のなかにしっかりと居座っているのも理由の一つになるだろう。ミステリが親しみやすい御近所物語のうえに成り立っている虹北と、どこかお伽話めいた世界に拡がる夢水と。 いずれもファンタジックな舞台設定ではあるが、多少ノベルスということが意識されているのかもしれない。
さて、ミステリとして本作を捉えてみる。それぞれの事件、賑やかなサブストーリーがおまけについているため、中心になる謎はそれほど大きくはない。「少女はなぜ学校の屋上から落ちたのか」「伝説の恐怖映画はなぜ強烈な怖さを発揮するのか」「少年の粗暴な行動の理由は」「鯉はなぜバラバラ死体となったのか」「少女の許を訪れたサンタクロースの正体は」。一見、すぐに答えが出そうでも、なかなかすんなりといかないのがこれらの事件の共通点。 単なる小説内ロジックだけでは解きづらいものがある。しかし、方程式に一つスパイスを加えてやることで、これらの事件は綺麗な解を得ることができる。――それは人の優しさ。
これまでのはやみね氏が描いてきた事件もそういった傾向にあった。ただ虹北恭助の手がける(そして謎は恭助が解き明かすとは限らない)事件は、こういった「気持ち」が引き起こしたものが中心となっている。人間の悪意同様、善意、そしてその打算のない善意に基づく行動も、気恥ずかしさもあるからか、あまり人は(特に日本人は、かな) それを表立っては表現しようとしない。それが第三者的には謎になり、ミステリとして成り立つ。こういった深層の心理をはやみね氏は巧みに操る。この心理的共感が全ての年代の人々に受け入れられる大きな要因となっているのではないか。

個人的には謎的には小さくても『春色幻想』のテーマが面白かった。というのは、いわゆる「日常の謎」でありながら、解決されることで、人間そのものの評価がひっくり返るという多面性にまで実質触れている点。ある方向からみた「ひとの評価」だけが人間の価値を示すものではないし、それをわざわざ人は他人に誇示しない。それでも行動に理由があり、立派な本人の正義を貫いている――いい話だ。うん。

最後に苦言を一つだけ。『おれたちビッグなエンターテインメント』等で記述者が変わるので顕著なのだが、映画撮影に情熱を燃やす三人衆の態度、というか姿勢がどうも気になる。いわゆる趣味に没頭する「オタク」の悪い面が強調されているように思えるのだ。趣味なら趣味で徹底的に遊ぶという立場はいいし、いい年の大人になってもそういう態度を持ち続けること自体は好きなのだが、それを免罪符にして他人に多大な迷惑をかけていることに無自覚なのは頂けない。自分の趣味を崇高なものと考え、他人に無理矢理理解を求めようとする行為は格好悪いし、その妄執はカルト宗教なんかのそれと変わらない。病院に無許可で深夜にロケハンを行って、それで何かコトになって他人の命に関わった時に彼らに責任が取れるのか。遊びも度が過ぎると悪ふざけにしかならない点、少し残念ではある。特に少年少女向けを意識した作品であることを考えれば尚更。

もともとが分冊刊行される予定ではなかったのが二冊になって刊行されたことを知り、一気に二冊読んでみた。なので評もまとめた。もう一つ、クリスマステーマの作品『聖降誕祭』が収録されていたので、本書を今年のクリスマス本ということにしてみた。ミステリ文化の底辺拡大が事実上、小説よりも漫画やアニメのカタチに依存してしまっているように思える現在、子供たちに対して真っ正面から活字でぶつかるはやみね氏の姿勢は素晴らしい。 これからも支持していきたい。


02/12/23
佐藤哲也「妻の帝国」(ハヤカワSFシリーズ Jコレクション'02)

'93年に第5回新潮ファンタジーノベル大賞を『イラハイ』にて受賞、第二長編にして大傑作『沢蟹まけると意志の力』、短編集『ぬかるんでから』を刊行後、息を潜めていた著者が満を持して書き下ろしにて復活を遂げたのが本書。

わたしは仕事で知り合った不由子の不思議な眼差しに魅せられ結婚し、生活していた。彼女は直感による民衆独裁を信じ全てのイデオロギーを否定しているとわたしに語ったが、わたしは変化が訪れるまで普通の結婚生活をしようと努力していた。彼女は膨大な量の手紙を書き、住所も書かずに「民衆細胞」たちに対して投函していた。直感的に不由子は自分が「最高指導者」であることを知っており、その任を果たしていたのだ。
一方、真面目な高校二年生だった無道大義はある日突然「七和手地区主任補導官殿」と宛書された手紙を受け取った。「最高指導者」からの指令のみが書かれたその手紙によって彼は民衆国家の建設に目覚める。彼は指令に従い自地区の「補導官」宛に手紙を書き投函する。秘密裏に武器が支給され、裏切り者「個別分子」は粛正され、そしてとうとう運命の革命の日を迎える。日本全国で一斉に蜂起した民衆革命によって国家は解体され、民衆の直感による民衆独裁が始まった。しかしその直感のばらつきによって開始された新しいイデオロギーはいろいろと不便な面が多く、日本全体で多くの混乱が発生した。人々はその状態を受け入れ、そして事態は徐々に悪化していく。

饒舌にそして無意味に語られる日本という文明の終焉。沈思黙考を強いる格別の不条理世界
はて、どこをもって切り口とすべきなのだろう。

物語そのものは日本という国家が民衆の革命によって変化し、衰退し滅びていくという内容。その民衆の革命の指揮者となる不由子を妻に持つわたし視点で、淡淡とその情況の変化が読者に伝えられる。従来の佐藤哲也氏の作品群のような細やかなエピソードの積み立てはなく、その「わたし」と同じく高校生の段階で地区の補導官(地区責任者みたいなもの)に任じられた無道大義という人物が主となって、日本のどこかにある七和手地区(たぶん東京郊外だろう)が変化していく様子だけが徹底して描かれている。外国はこの革命にはどうやら介入してこないようだ。
革命そのものは「民衆の直感」によって全てが為されるという不条理な存在。 不由子は気付けば独裁者だったし、無道は手紙を貰った瞬間にその役目に納得する。全て「民衆の直感」によって、である。個々の指令は不由子が郵便にて出すし、それは住所宛名が書かれていないにもかかわらず、ちゃんと目的者のもとに届く。これも「民衆の直感」によって。実際に革命が始まってからは個々の補導官やその補佐の者による「民衆の直感」によって運営されるが、決してこの「民衆の直感」が統一されきれていないあたりから、世界のバランスが悪くなっていく。一方、独裁者の不由子といえどもほとんど特別扱いはなく、相変わらず七和手地区に自分のマンションに暮らしているし(作者の日記にはSOHOとあった)、個別分子(反乱者のようなもの)の粛清も「民衆の直感」によって行われるので何が正しいのか分からない。とにかく統一性と揺らぎが交互に現れ、揺らぎが大きくなればなるほど、当然国家の損失度合いは大きくなっていく。
一方この「民衆の直感」というイデオロギーはどうかというと、これまた分かるようでいてよく分からない。日本人にありがちな流行に敏感、裏を返せば他人に流されやすい感性に近いように私は感じた。(例えばマスコミ報道の偏重と、それと同じ論調にすぐに乗せられる日本人を見よ) いずれにせよ「詳しい説明が本書にて為されていない」という事実が不条理感を増している。しかし、単なる冗談という可能性も捨てきれない。この、大意として存在するようでいて、少数団に帰せられた際に存在が微妙となってくるイデオロギーは、先鋭化して暴走しがちであることは間違いなく、個別の地域を徹底的に描くことで、イデオロギーそのものが暴力的に変化していく動きを描くテクニックには素直に感心したい。
そういった社会情勢に対する作者独特の視点に加え、例えば「わたし」と不由子の夫婦関係であるとか、無道とその母親との親子関係であるとか、現代社会における人間関係をもまた物語にさりげなく加えられている。別の細かいところでは、「革命」という行為に対する戦略であるとか、集団の統率方法であるとか、民衆のコントロールの段階的方法であるとか、さりげないところに深い心配りがされていると感じた。不条理ななかにもリアリティがあり、これが物語の背骨を筋肉となって支えている。(それがなければ早い段階で物語は崩壊しているだろう)。

しかし全編から漂ってくる虚無感はなんなのだろう。日本が築き上げた国家、文明の崩壊という主題だけなら他にも作品はある。なのに。作者が意図的に説明を省き、読者に丸投げしてしまっていること、革命の準備段階、初期段階は冗談に満ちて(比喩的に)いたにも関わらず、終末へ向けた落差がめちゃくちゃに激しいこと……。理由は等々考えられる。が、これを読んでない人に説明しても無駄だろう。そして読んでいる人同士で話し合っても明確な結論は出るまい。読み終わってのたうち回って考えまくってもこの程度しか書けないオレを笑え。

絶対に万人に受けないし、読んだ人間のうちの半分は首を傾げながらページを閉じることになるような気がする。このテーマの好き嫌い次第、ないし佐藤哲也の不条理世界の好き嫌い次第……といった無責任なことを書いておく。 個人的には佐藤哲也作品を堅牢強固な意志の力をもって愛し抜く所存である。既に脱稿済みという第四長編はどこかから刊行される予定はないのだろうか?


02/12/22
岡嶋二人「解決まではあと6人 5W1H殺人事件」(講談社文庫'94)

'85年に双葉ノベルスより刊行された『5W1H殺人事件』という作品が、'89年に双葉文庫入りする際『解決まではあとあと6人』と改題された。本書の底本はその双葉文庫版とのことだが題名は初出と文庫版が合わさったものになっている。岡嶋二人の10冊目の単行本にして第七長編。

探偵事務所に現れた謎めいた女性。彼女は平林貴子と名乗り、探偵事務所の神山に「このカメラの持ち主を捜し出して欲しい」という依頼をした。小指の付け根にほくろのある二十代と思われる彼女は身許を隠していたが依頼人にはありがちなこと。神山はカメラの持ち主が寺西という学生で、更にカメラは彼から吉池と名乗る人物の許に移動していることを突き止める。吉池のアパートを突き止めた神山は、その部屋のなかで寺西が腐敗死体となっているのを発見する。……別の探偵事務所に現れた平林貴子と名乗る女性は、今度は「緑色のマッチ」「Vで始まる単語二つ」「都内で上がマンション」の喫茶店を探し出して欲しいという依頼をする。更に別の事務所には「白い車の後部座席が何故無くなったのか」について調べて欲しいという依頼を行っている。それぞれの探偵たちはその依頼を苦労しつつも解決していくが、果たしてその裏には何が隠されているのかについては皆「何か」を感じ取りつつも、それを探り当てることができない……。

岡嶋二人による物語構成のバランス感覚の結実。「構成」重視の本格ミステリ
元もと語り口だとか題材の選び方だとか、岡嶋作品を読むといつもその「アイデア」に感心させられる。井上+徳山の二人ユニットだったから……というよりも後の『おかしな二人 岡嶋二人盛衰記』あたりを読む限りでは結局は井上氏の引き出しの多さに尽きるのかもしれないが。本作は題材そのものはいわゆるハードボイルドミステリの定型タイプをベースとし(いくつかのガジェットに井上らしさはみられるものの)、読者に対してのみ手掛かりを与えるかたちでトリッキーな本格ミステリを実現しているといえよう。
いわゆる通常のハードボイルド形式のミステリであれば、依頼人の頼みに対して探偵がその依頼や背景にある謎を一人で解き明かしていくのが定型。本書も一章一章を取れば、それに似た形式を取っている。異なるのは探偵が異なって依頼人が同一である……という点にある。その結果、一人一人の探偵たちは「奇妙な依頼」に振り回されつつも、その持てる能力を最大限に発揮してそれぞれの対象を追い詰めていく。その過程で示されるアイデア一つをとっても、軽めの短編ミステリ一作品くらいにはなるだろう。しかしその探偵たちはそこで(ほとんどが)おしまい。つまり、いつもならハードボイルド探偵が引き受けるべき「事件の全体像」を想像する責任が、読者側に移行しているのだ。最終章が近づくにつれ、その形式は徐々に崩壊しはじめて最後を引き受けるのは警察である。この段階で手掛かりは出そろっており、ロジックによる真相の推理は可能となってくる……はずだが、これはちょっと難しいかも。
述べてきたように本書全体は「構成」の妙味を楽しむのを主眼にしたい気がする。解き明かされ提示される真犯人の意外性は抜群ながら、やっぱりこのラストの後味があまり良いとはいえない。でもその犯人の意外性だけがこの作品の持ち味ではないことだけは繰り返しになるが強調しておきたい。
私事になるが、本書は再読になる。読み直して初めて気付いたのだが作品のラストにある会話文、ずっと犯人のことばだと思っていた。実際は取り調べにあたった警察サイドのことばだったのだが。しかし、これは私の思いこみそのままだった方が犯人の常識はずれを強烈に主張できるのではないかと思う。物語のうえで文意が通じなくなるとしても。

岡嶋ファン=岡嶋二人全冊読破を目指すものなので、特にそういう方々に対するコメントはない。ただ岡嶋初心者ならば、もうちょっとストレートにいわゆる「代表作品」をある程度読み込んでから本書にあたった方が良いのではないか。饒舌な語り口ゆえに技巧を意識させないことそのものは「プロ」の仕事だとはいえるのだけれど。


02/12/21
橘 外男「怪奇探偵小説名作選5 橘外男集 逗子物語」(ちくま文庫'02)

『ナリン殿下への回想』にて直木賞を受賞している橘外男は、その独特の世界観と想像力にて様々な分野で旺盛な執筆活動を行っていた。本書はその氏の著作のなかでも、特に特徴のある奔放な空想力を活かした実話記録風の作品群と、未だに比肩する者がないともされる怪談小説を集めた傑作選。読み応え十分の一冊となっている。

PART I 海外実話篇
アフリカ大陸の奥地で発見された白人美女の死体と彼女が書き残したと思しき日記。類人猿の研究者の父に連れられ密林にやって来た彼女が辿った数奇な経験とは! 『令嬢エミーラの日記』
南米ヴェネズエラの一地方にあるコルソ島。全島人が秘密結社の如き結束で結ばれ文明の威光届かぬこの島の住人は、島外人との結婚を禁じていた。彼らの怒りに触れた一家の運命は! 『聖(セント)コルソ島復讐奇譚』
パラグアイとボリビアの国境地帯にある渓谷地帯。この地に育まれた秘密文化、そして獣人との邂逅を果たした冒険者の運命やいかに! 『マトモッソ渓谷』
南アフリカのケープタウンに通っていたシプリアノという少年は不思議な瞳を持っていた。彼の周辺で奇怪な殺人事件が。そして彼は実は土人ズーヴァン族の統治者であったのだ! 『怪人シプリアノ』
米国にて脳手術を行った日本人の女性医師は手術の完了後、患者の脳をめちゃくちゃにいじり回して死亡させてしまう。告発された彼女は自らの気持ちに従っただけだというが……。 『女豹の博士』

PART II 日本怪談篇
妻を喪い、逗子にて静養する男。彼は散歩の途中で墓参りをする番頭とその娘、そして彼らが仕える子供の姿を目にする。 『逗子物語』
東京で父親が格安で仕入れてきた高級蒲団。店頭にその蒲団を置いた途端に家の雰囲気が暗くなり、店の売り上げは落ち、奇妙な現象が頻発するようになった。 『蒲団』
雪の北海道で出会った火事。火が身体に回った三人が互いが互いをかばい合った末に訪れる悲劇。 『生不動』
喧嘩の末に命を喪いかけた男を救った医者。しかし男は一命を取り留めるが駆けつけたその女房は病持ちで更に哀れな様相を呈していた。医者は彼らに情けを掛け、夫婦は医者に深く感謝する。 『幽魂賦』
研究者の妻となった女性はその姑と気性が合わないことと、研究熱心で家庭を顧みない夫の狭間で悩み、病に倒れ実家に戻らされた末に自害する。夫は彼女に対して申し訳なく思い、ある提案をする。 『棺前結婚』 以上合計十篇。

人間の醜さと美しさを本質から見つめて、稚戯と諧謔の想像力を羽ばたかせる。日本が誇る異端作家
本作品集には上記の通り、海外実話ものと怪談ものとの二系統の作品が収録されている。全くの予備知識なしに両者を読んだとして同一作家のものとは思えない程の両極端な世界が表現されているように思える。方や、日本人が自ら赴くことなど実感し得ない特徴ある僻地を舞台に、更に数奇な運命を辿った人物を配することで(あくまで日本を中心として考えた際に、だが)、世界の果て、人間の果てに存在する何かを希求したかのような物語群。そして一方の怪談は、逆に日本人であることを逆手に取るような手法を用いて、日本人の心の奥底を覗き込み、そのなかで「カタチのない」感情を掻き立てる。即ち人間の内面、心の底、そして恐怖に対する想像力の希求が齎す作品群である。その両者が、海外の異端の物語と日本の怪談物語と両極端の形式となること自体は、とりあえず至極当然のことといえよう。
しかし、ここで考えたいのはこの両極端は、実は一周して繋がっているのではないか、 ということだ。人間を深く深く文学という形式で追求するという願いは一方向ではあり得ない。心の内底を見つめ自らの内側を指でなぞる方法もあれば、人間の突出した環境、状況を求め置いて、その行動を観察する方法もあろう。それを両方やってのけたのが橘外男という作家だった――ということではないだろうか。当然、その著作は両極端に触れていく。その先、通常の人間世界では求め得ないものへの希求という共通点、そしてそれが橘外男というフィルタを通じることでの共通点から、最終的に両者近いところに結論が求められ、物語から受ける手触りも一見異なりながら、深いところでの共通点をどこか覚える。
人間の愛情というものは、対象が死んだことによって終わるのか。人間の不幸というものははっきりした原因があるのだろうか。未知のものに対する畏れは人によって異なるのだろうか。愛情というものは人間と人間との間にだけに存在するのだろうか……橘外男は常人ならば思いもつかないような様々な疑いを持ち、それを紙の上で展開していく。そして氏のセンスと共に異端の文学として活字として残される。ただ異端の文学が訴えることそのものは異端でもなんでもないことには気付きたい。いや読めばそれは読者には伝わるはず。
生半可な橘論は疑問形のままでおいておいて、改めて怪談の凄さを突きつけられたことは書かずにはいられない。『逗子物語』、そして『蒲団』。未だに怪談の最高峰とされる両者の凄さ。何度読んでも味わい深い。物語そのものよりも行間から漂う雰囲気と、吹き出てくる登場人物の感情が心胆を寒くする。頭で考えるよりも、内蔵が凍えていく……といった形容詞が相応しいかもしれない。しかし、この怖さってのは全世界共通とはいえないだろうなぁ。日本人だからこそ、歴史という名の血があるからこそ恐ろしいもの。日本人で良かったのか悪かったのか。この二作の描く世界は、現代ホラー・ジャパネスクの原点であることだけは間違いない。

ちくまの本文庫はそれなりの厚みがあり、普通の小説の優に二冊分に値する内容がある……。他の作家の同様に編集された作品ならば、何となく傾向というか作家のことが分かるように思うのだが、橘外男という人物の場合は、その一端をごくごく僅かに垣間見たに過ぎない。それが異端作家たる所以だともいえるのだが。