MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


03/01/31
法月綸太郎「ノーカット版 密閉教室」(講談社'02)

法月綸太郎のデビュー作品となる『密閉教室』は、元は七百枚あった原稿を削ぎ落として五百枚に削って刊行されたものなのだという。講談社ノベルスの「新本格ミステリ」創立の立て役者である編集者、宇山日出臣氏が一旦現場を離れ、復帰した際に法月氏に持ちかけたのは、その『密閉教室』のオリジナル版を再刊行しよう、というものだった。削られたことによって喪われた「大切な何か」を見極めるために今一度、世に出したい……。法月氏自身がそう乗り気でもなかったにもかかわらず、本書は名伯楽、宇山氏の手によって再びこのようなカタチで問われることとなった。オリジナルタイトル『ア・デイ・イン・ザ・スクール・ライフ』。

毬江北高校三年生、梶川笙子は始業より四十分以上早く登校した。いつも通り7Rの教室についた彼女だったが、教室の扉が開かない。困っている笙子のところに担任の大神がやってくる。彼が強引に扉を開けたところ、机と椅子が全て撤去された教室の床に血を撒き散らして死んでいるクラスメイト、中町圭介の死骸が横たわっていた。笙子はそれを見て失神、駆けつけた同級生、吉沢信子によって保健室に連れられる……。その朝、いつも通りに登校してきた”ぼく”こと工藤順也は警察に道を尋ねられるなど学校の様子がいつもと異なることに気付く。同級生の曲輪と共に教室に向かったぼくは事件があったことを知る。大神によれば教室は全て内側から施錠されており、扉の内側にはガムテープの目張り、そしてコピーながら遺書が残されていたことから、中町は自殺したのだろうと聞かされる。教室から無くなっている四十八組の机と椅子は警察が校舎中捜索したものの見つからない。ぼくは、捜査の指揮を執る森警部に机と椅子に関する示唆を行い、その通りに発見される。そのことから警部に目を掛けられたぼくは「名探偵」となって、事件の真相解決を自らの手で行おうとする……。

現行版から喪われた何か……それは余りにも濃厚な青春の香りなのではないか?
現行の『密閉教室』を読んだのはもう十年近く前になり、その後は機会がなくて再読していない。舞台もトリックも印象的だったため、おおよそ覚えている気でいたが、改めて読んでみれば終盤に何度も変転する犯人像については読み返しつつ思い出した次第。ミステリとしての構成は新人らしいパワーに溢れているし、法月氏が謙遜されている程には文章がひどいとか、構成がまずいといった印象は受けなかった。(ついでにどこが現行版にない描写なのか、実はほとんど分からなかった)。そのなかで宇山氏がいう「喪われた大切な何か」とは何だろう? と考えるとやはりその「青臭さ」にあるのではないか。
高校を舞台にしているにも関わらず、ハードボイルドじみた軽口や警句が飛び交うちょっとした違和感。十代の後半という大人と子供の狭間にあって、大人の経験・感覚を既に持つ者とそうでない者の埋められない差。確かにフェアな手掛かりがばらまかれ、伏線としてそれぞれが回収される本格パズラーとしての要素を強く持っている作品でありながら、実は本書は実に青春小説としての要素が強いのだ。十代ならではの葛藤や懊悩、痛みと哀しみ、虚勢とプライド……。 こういった渦巻くような感情が直接的な表現ではないのに、読み手サイドに実によく伝わってくるのだ。「成長度」とひとくちにはいえないが、そのレベルが異なる者に対する羨望と嫉妬、更に増長と蔑視。同じ学年、同じクラスということで、外部から均一化してみられがちなこの世代に、いかに多くの繊細で複雑な感情が渦巻いているのかを改めて感じさせられた。(そしてかつては自分もそれを抱えていた)。 
どこか、文体や方法には執筆された当時に流行っていたいわゆる「J文学」の影響もみられるように思えるし、寧ろ本格パズラー部を除いた部分における教師と生徒の関係や、生徒同士の会話などは、J文学そのものといっても良いように感じられた。つまり……本格パズラーとしての『密閉教室』が現行版にのみ残っているのであれば、そのため削ぎ落とされたのは、やはり「青春小説」としての感情であるとか、余韻であるとかといったところなのではないだろうか。

(これはあくまで勝手な推測ではあるが)四十代を越えてしまった作家には、この十代の微妙な感情を自然に描くことはかなり困難を伴うだろうし、更にミステリが中心となればこういった「青春小説」としての側面はあくまで余剰として扱われるだろう。だけど、この『ノーカット版 密閉教室』はその青春小説的主題が並列、ないし本格パズラーとしての様式の上に乗って「こちらを見て見て」とアピールしているかのようにさえ感じられる。『密閉教室』は「新本格ミステリ」の旗印のもとに生まれたわけだが、その旗印が異なる陣営に入っていたら、法月綸太郎はまた別のレッテルを持つ作家になっていたかもしれない……などと、ふと考えた。

本書、ハードカバーでそれなりの厚みがあり2,300円というそれなりの定価が付いている。しかし既に広く世間に流通するオリジナル版の『密閉教室』が存在する限り、文庫や他の形態になることはないだろう。余程の法月ファン以外、既に『密閉教室』を読んでいる層に大きなアピールをする作品ではない。 ……ということは、十年後には徹底的なまでに入手が困難になっていることが確実なのではないだろうか。将来のキキメ間違いなし。(ちなみに以上が本書を入手するための正しいバイアスではないことはもちろんである)。


03/01/30
内田康夫「遠野殺人事件」(光文社文庫'87)

内田康夫氏の第六長編作品。本作には浅見光彦は登場しないが「地名+殺人事件」は、後の内田ミステリーのなかでも中心となる題名であり、本書はその第一弾目にあたる。'83年にカッパノベルスにて刊行されたものが元版。

内気なOL、宮城瑠理子は電車で遭遇した痴漢事件を機に先輩OLの河合貴代と親しくなる。瑠理子は、その貴代に遠野に旅行に行かないかと誘われるが、ちょうどその日は、彼女にプロポーズしてきた同じ会社の先輩、土橋剛の実家に挨拶に出向く日と重なっていた。泣く泣く誘いを断る瑠理子。そして、その貴代は遠野の名所、五百羅漢の側で頭を殴られ首を絞められた死体となって発見された。強盗や暴行の後がなかったことから、顔見知りの犯行と警察は断定。遺留品のカメラに残されたフィルムに残された画像より、貴代と同じ経理課に所属するOL、松永貞子が彼女と接触していたものと思われた。重要参考人として松永の行方を警察は追うものの、夏休み期間が終わっても彼女は自宅には戻って来ない。結局、貞子も遠野の山林から死後二ヶ月の死体となって発見された。覚悟の自殺と捜査陣は決定し、事件は集結したかにみえた。しかし、二人の死には、もっと深い謎が隠されていると疑う瑠理子は、警察から返却された写真のネガより、何ものかの作為の跡を見つけだす。彼女は、そのことを捜査の過程で親しくなった所轄署の吉田に告げに一路、遠野まで出向く。吉田は最初は興奮して上司に説明を行うものの、一旦解決した事件の蒸し返しを嫌がる組織の壁にぶつかってしまう。

内田ミステリ(初期)の「地名+殺人事件」は、そのまま「旅情」+「無骨な本格」??
「それがあるから内田康夫なのだ」といわれてしまうと身も蓋もないが、本作の一つの主題は「遠野」である。柳田国男『遠野物語』で一躍その地名が有名になったこの地方は、実は決して観光地向けではない。あるのは数多くの民話が培われた土壌であり、風土である。従って観光地としての遠野がイメージされるのは冒頭の五百羅漢くらいで、後は静かな自然が淡淡とした筆致で描かれている。ミステリ的な骨格部分を取り出して考えるに、実は無理に遠野にこだわる必要はないのだが、その「旅情」というスパイスを注ぐことが、この段階で、そして今後の内田作品の基礎となっていることは事実。
この「旅情」を一つの売り物にする内田ミステリではあるのだが、本作の段階においてはまだ、無骨ともいえる本格ミステリの枠組みをも維持しているのがもう一つの主題といえるだろう。浅見光彦が登場しない本作、探偵役を努めるのは被害者の親友のOLと、所轄署にいる直情の刑事。反骨心の強いこの刑事の姿は、これまでも内田作品に登場してきて地味な探偵役を努めてきた他の刑事たちと通じるものがある。ただ、事件そのものには派手さはない。一人のOLが殺され、そしてそのOLと行動を共にしていたと思われ、行方をくらましていた別のOLが死体となって発見される。一人が他方を殺して、自殺。捜査はその「絵」にて終了してしまうが、その事実を受け入れられない主人公が、まずは写真に隠されたトリックを暴くことからWho done it? へ、そしてある程度の犯人の目星がついてからHow done it? へとミステリは拡がりをみせていく。 ただ、このトリック、真剣に考えられたものとは思うのだが、けれんがない、というか華がないタイプなのが少し寂しい。真面目な内田氏は、この地味なトリックを解き明かすために刑事たちにまた地味な捜査行動を強いており、それがまた独得の泥臭さを際立てる。その結果、犯人の企みを暴くラストシーンにおける主人公の無謀さがなんか目立ってしまっていて、浮いているような印象もある。映像を意識していたのであれば、これはこれで意味があるのかもしれないが……。

ちょっと否定的な評にみえるかもしれないが、このトリッキーさのない、万人が「納得せざるをえない」という堅実なミステリ作りが内田作品の本質にあるのかもしれない。(但し、まだデビューから六作目である本作段階までの感想である点について留保願いたい)。少しずつ「内田作品のなにか」が見えてきたような気がするのだけれど……。


03/01/29
多岐川恭「無頼の十字路」(桃源社ポピュラーブックス'78)

副題として「アクション推理長編」と銘打たれてはいるものの、内容は連作短編集、ないし同一主題の短編集と見なしても良いと思われる作品集。ポピュラーブックス版で二種類版があることは確認しているが、初出は不明。

恐らく1960年代の東京の場末。一杯飲み屋や風俗産業、バタヤ街らが入り乱れて治安もそれほど良くはないこの街に住む男、泊定春。通称ドク。定食屋の隣の一室をねぐらとし、無免許で医者のようなことをしているが、治療に際して決して金を受け取らない。日頃は植木屋の手伝いなどをして暮らし、周期的に病的な孤独を求めて人との交わりを断つ。定食屋の娘、ミハルはそんなドクに想いを寄せているが、彼はその好意を重荷に感じて受け取らない。屋台の天ぷら屋の親父、天徳や定食屋に寄宿するサブ、そして地回りヤクザの東振興行、更にドクを目の敵にする刑事、花園。そんな人々に囲まれて暮らすドクの元には、毎日のように事情を抱えて医者にかかれない、しかし身体と心を傷つけた人物が密かに訪ねてくる。冒頭の物語でドクを訪れたのは、地元でヤクザまがいのチンピラに暴行を受けたと思しき娘。見かねた天徳がドクのもとに連れてきたため、治療を行う。だが、いいところのお嬢さまらしい彼女は事情があるらしく家には帰ろうとしない。ドクは一計を案じて関係者や娘の親元を回り、この事件のからくりを知ろうとする。 『おおかみ』
その他、ドクが巻き込まれる事件『おとうと』『ざまみろ』『きずぐち』『こむすめ』『ちんぴら』『あたりや』『みちずれ』『かつあげ』以上の九つの物語。

多岐川恭版の「なめくじ長屋捕り物騒ぎ」? 社会の底辺に生きる人々の生き様と彼らが抱える謎と。
実にユニークな設定ハードボイルド的な独特の渋み舞台ならではの謎人間同士の確執、そして更には謎解きの面白さが加わるという佳編。多岐川恭の作品主人公に共通する「冷たさと暖かみの同居」する主人公がいい味を出している。
ひとくちにいってしまえば人情溢れるひねくれた物語……。って難しいな。普通の人が嫌がる職業や風俗産業、肉体労働で日々の糧を得る人々が住む街。正規の医者にかかることのできない事情を抱えた彼らの面倒をみてやるドク。ヤクザの顔役からストリッパーまで、住人の誰もから親しまれているが決して金を取ることはない。これだけだと単に「いい人」の話なんだが。
それから微妙にずれているのが多岐川作品らしいところ。
まず特徴的なのは偽悪者ぶりか。人が治療を頼んでも「病院に行け」と断っちゃうケースが圧倒的に多いし、極端な孤独癖にて鬱の期間中は診療どころか人との対面もお休み。もとはインテリだったことだけは確実ながら、人と最低限の交わりを持とうとしない。また、彼の「価値基準」に従って行動するため、好奇心を満たしてしまった後は結構ぞんざいな扱いを取る。本来は窮鳥であったかもしれないその被害者らが、必ずしもハッピーにならないし、悪人として登場した人物も必ずしも罰せられない。もしかすると、このような社会状況のなかでは「善」「悪」の二元論になど意味がないことを多岐川氏は主張したかったのだ……という可能性もあるが、まさかね。
田舎から出てきたばかりのところを悪人に騙されて全財産を取られた娘。行く当てのないという彼女が定食屋を手伝って働くうちに、彼女に魅力を感じた周囲の男性が徐々に振り回されていく『こむすめ』、底辺からはい上がるために強盗をして回って逃げ回る若いカップルがドクの小屋に転がり込んできて治療を強要、ドクは彼らを匿わざるを得なくなる『みちずれ』あたりが、短編の出来として上々か。他にも結末の超意外性と後味の悪さがなんともいえない『ちんぴら』や、何が起きていたのか最後に思わず確認してしまった『ざまみろ』など、通常のミステリの枠組みでは括れないような作品が多くある。ピカレスクロマンとかともまた異なるし……。いずれにせよ、ヘンテコなミステリを好む(私含む)一部の層には熱狂的な支持を受けるはず。
ただ、全体的に主人公と、物語世界を覆ううっすらとした虚無感は、多岐川作品によくみられるエッセンスそのもの。その意味において紛れもない多岐川作品でありながら、多岐川作品で異色作品にあたる気がする。

ということで、漂ってくる雰囲気が実に趣深い内容の連作短編集。本格パズラー的な興趣はないし、副題にあるようなアクションもほとんどない。シチュエーションから導き出される謎を、後出しながら論理で解決する手法そのものは本格ミステリぽさを持つが、やっぱり味わうべきはこの独得の雰囲気だろう。容易に入手出来ない作品なので、そうそうお勧めというわけにはいかないだろうが、やっぱりお勧めということにしておこう。


03/01/28
生垣真太郎「フレームアウト」(講談社ノベルス'03)

第27回メフィスト賞受賞作品。生垣氏は'73年北海道生まれで京都大学卒、NY在住。帯には「メフィスト賞史上最大の挑戦」とあり、話題を呼んだ。(ただ「挑戦」であって「傑作」と断定されているわけではない点には注意)。

一九七九年秋、ニューヨークで映画の編集業を営むディヴィッド・スローターは一人作業を行っているところに家主であり、友人のビリーの訪問を受ける。旅嫌いの彼が旅行に出かけるという一大決心を告げに来たのだ。仕事を手伝おうとしたビリーはゴミ箱の奥底から16ミリのフィルムが巻き付けられたコアを見つける。映写してみたそれは何か寒気のするような雰囲気を持った映像。一人の女性が自分の腹を突き刺し鮮血に染まるというスナッフフィルムだった。繰り返し観ることでディヴィッドは演じている女優が、B級ホラー映画によく出るアンジェリカ・チェンバースだと気付く。だがビリーはなぜだか怒り出し、フィルムを持ち出した挙げ句に破り捨ててしまう。ディヴィッドはそのフィルムに重大な秘密が隠されていることを直感し、ゴミ箱に残ったTake 1のフィルムからその画像の監督がニコラス・デヴランだと突き止め、その二人について調べ始める。二週間の間、仕事も手に付けられずに文献を漁ったディヴィッドに映画狂で豊富な知識を持つ日本人、ダイスから電話が入る。早速落ち合って、ダイスからアンジェリカ・チェンバースとニコラス・デヴランの消息を確認するディヴィッド。しかし、アンジェリカの消息は不明、デヴランは故人となっていた。

うーーーーーーん。とりあえず「メフィスト賞史上最大の挑戦」という帯文句についてはは条件付き保留
海外作品の翻訳調を作者が意識したのか、海外に長年暮らす日本人の喋る日本語が奇妙に聞こえるのと同様、ちょっとした違和感があった。ただ、わざと、なのだとは思う。NY在住の生垣氏の語り口が地のままでこうなのか。個人的には擬海外作品調や、海外作品の翻訳というイメージと微妙に異なり、よくある輸入映画のノベライズの文章に近いように感じた。
さてその仕掛けの部分。恐らく狙いは「普通に読むと同一人物の視点のように見える物語が、実は二人の視点が交互に描かれている……が、更に実はそれは二重人格であり、やっぱり同一人物だった」というもの。この意図は分かるし、この特に最後の部分の新しさをして「史上最大の挑戦」ということになるのだろう。だが、私の個人的感覚でいえば、ミステリトリックとしての意図以前に、本作の文章や背景といったところにあまり魅力が感じられないのが一つ痛い。そして、その文章や背景が自分に合わないがゆえに、読み終えて意図を理解したあと、改めて検証する気になれないのだ。通常、この手の作品を読了したあとは「ええ、嘘、そんなこと書いてあったっけ?」となるのだが……。最後のどんでん返しの部分の整合性が取れている部分と取れていない部分がある(ように思われる)のが、意図的なものなのか、作者の力が至らないせいなのかが今一つ見えない。特に最終的な狙いの部分に関する伏線が、個人の感覚描写によるものなので「あ、そう」てな印象になってしまっている気がする。単にわざとあやふやにしておくことが狙いなのだとすると「史上最大」は大袈裟な煽り文句ということになるだろう。ただ「やろうとしたこと」は確かに小さくはない。

それでも一つ、気に入った文章があったので引用しておく。「俺達の仕事は神話を作ることだ。神話があればそれを強化する。神話の無い所には神話を新たに作り出す。ハリウッドは、自分の出自まで神話にしたわけだな。まあそれが映画というものさ。現実は映画よりも貧なり。」 小説もまた似たことがいえるはず。そして世の中に作り出されるフィクションは全てこうありたいもの。(だけど本作がその域に達しているかどうかについてはちょっと疑問符も付く)。
 相性が悪いのは、私自身が「映画」に対してあまり思い入れがないこともあるかと思う。また鍵となる冒頭の映像そのものに登場人物が掻き回されるほどの魅力を文章のうえで感じられなかったせいもありそう。なので、今ひとつ乗り切れないまま読んでしまった。

ということで、ほとんど事後検証をしていないうえ、あくまで個人的な感想レベルの印象であるので、過度に私のいう事を信用しないように。 本来は、もう少しきちんと読み返してから書くべきなのだろうが、そうする気になれなかった……というのが相性か、やっぱり。


03/01/27
天藤 真「星を拾う男たち」(創元推理文庫'01)

天藤真推理小説全集の第13巻にして『親友記』に続く短編集での二冊目。'63年より'66年に発表された十一編が収録されている。(個人的には創元以外の短編集は全て既読なので、ほとんどが再読。ただし『白い火のゆくえ』は「中二コース」に連載されたジュヴナイル作品で、単行本初収録である)。

成り上がりの代議士、辻は隣人の県会議員、大井に秘密を握られ引退を勧告される。妻の薦めで映像を使ったトリックにて大井を殺害しようと計画するが……。 『天然色アリバイ』
建築業界で画期的な発明をした志摩技師そっくりだといわれた青年は、産業スパイとして出張宅の彼の家に潜り込むよう特訓を受ける。その当日……。 『共謀者』
ボスの命令で滝はある大物の殺害をすることに。すっかりお膳立てされた計画に則り女装して相手宅に潜入、完全犯罪となったはずが……。 『目撃者』
坪川甲二は惚れた女性に相手にしてもらえずもう三年以上が経過していた。同僚の松川はそんな女は拉致して強引に事を進めるべきだと主張、遂に実行に移すが……。 『誘拐者』
クラスの変わり者、与五郎はアルバイトで並んで購入した記念切手を原価で茂に譲ってくれた。その切手は世にも珍しいエラー切手で彼は大きなトラブルに巻き込まれる……。 『白い火のゆくえ』
国際的知名度の高い洋画家、竹本画伯の許に送られてきた殺人予告状。必死の捜査にも関わらず犯人の特定はできない。そして当日……。 『極楽案内』
早朝に仕事に出たバタ屋の二人は洋館の二階から死体が落ちてくるところを目撃する。しかしその館には殺人者が出入りした形跡が全くない……。 『星を拾う男たち』
実父の社長に酷い目に遭わされた副社長は甥に暗殺を依頼する。その甥は二人の若者を唆し、パーティ会場での事故を装った銃殺を計画するが……。 『日本KKK始末』
中央探偵社への密告電話より結婚を間近に控えた上流家庭を訪ねるが、その電話は間違い。だが彼らは別の依頼を持ち帰り、彼らの生い立ちを調べる……。 『密告者』
学者の妻が、その財産を横取った上に若い男と密会を重ねる。だが男は妻の浮気を信じない。探偵たちは浮気現場を押さえて学者に演技を要請するが……。 『重ねて四つ』
どぶ川に面したアパートの屋上で喧嘩が目撃され、その人影が転落した。川からはガウンと針金が引き上げられ、その数日後には死体も揚がる。 『三匹の虻』 以上、十一編。

思い切ったシチュエーションのなかに天藤真の腹黒さ? が垣間見える……
もともと遅咲きデビューだった天藤氏のキャリアにおいては最初期とまではいかないまでも、比較的初期に著された作品が集められている。とはいっても、その創作理念に対する揺らぎのようなものは感じられず、氏の最盛期の長編にも似たコンセプトが表面に出てきているように思われる。その特徴の一つは、背景となる舞台の面白さ。 「素人による殺人計画」だとか「浮気相手の直接制裁」だとか「入れ替わりによる産業スパイ」だとか、とにかく思い切ったシチュエーションを案出したうえで、どことなくユーモラスな登場人物にて更に雰囲気を補強して、何となく「ああ、こういうこともあるかもなー」と思わせてしまう時代を超えた説得力を作品に持たせている。そして、もう一つは鮮やかにして強烈なオチ。そのユーモラスな作風とは裏腹に、登場人物がすっきりとハッピーとは限らない。犯罪者が勝利するケースや、意外な落とし穴に計画者が落ち込んでしまうなど、定石を裏切る結末が垣間見える。本格パズラー的なすっきりした解決というよりも、ショートショート作品における裏切りにそのイメージは近しい。作者の、登場人物に対する姿勢には天藤氏の創作理念が、そして読者を思わぬ感情に走らせる(良い意味での)腹黒さが感じられるように思うのだ。単純な登場人物の幸福よりも、実は物語の読者への与える効果の方を重視しているから。
ただ一方で本格パズラー要素を持たせると、それはそれで徹底的なこだわりがあって面白い。本書では『星を拾う男たち』や『三匹の虻』などがその傾向を持つ。冒頭の事件発生の状況はそれほど不可思議でもないながら、捜査の過程で整合性の取れない点が次々と現れて……。一つの事件に対するいくつもの角度からの考察。一見整合性の取れる解釈に現れる矛盾。最終的な論理的結末に至るまで、犯罪風景が二転三転する本格ならではの面白さを中編・短編の長さのなかに凝縮している。

天藤真の短編は「全てがエンターテインメントとして現代でも、そして未来でも通用する」ということを、またまた改めて再確認した次第。三十年前に発表された作品にして、このとぼけたユーモアと奇妙な設定は今でも生きる。さりげなくも人間の本質的感情を表現し、そしてそのブラックなオチにしても結局、本質的な感覚に根差しているから、なのだろう。老若男女お勧め。読んでなければ読みなさい。一度読んでいるのなら、もう一度読みなさい。


03/01/26
赤川次郎(他)「金田一耕助に捧ぐ九つの狂想曲」(角川書店'02)

かつては百冊近い横溝正史の文庫を刊行していた時期もある角川書店が、横溝正史生誕百年を記念して刊行したアンソロジー。横溝正史賞出身者を中心に九人の執筆者を揃えた豪華なラインナップ。(正式には全員が並んで著者扱いだが、便宜上「赤川次郎(他)とした。なので上記の表記は正確ではない)。

新作が書けないことを苦に思い稀譚舎に出向こうとして失神しかかった関口を助けたのは親切な紳士。第三者との会話の苦手なはずの関口は、なぜかその紳士とはいろいろと話しが出来ることに気付く。 京極夏彦『無題』
中学三年生の金田耕一は推理作家の錦田一と仲良し。その耕一は歌手殺人事件の目撃者として警察で証言したことを錦田に話す。錦田は錦田で最近出向いた岡山の正史の散歩コースにまつわる話を始める。 有栖川有栖『キンダイチ先生の推理』
久保銀造宅に静養に訪れた金田一耕助は、銀造から解決した殺人事件の話しを聞く。小さな村の二つの名家の人間関係を巡る凄惨な事件で犯人は既に自殺を遂げているのだという。 小川勝己『愛の遠近法的倒錯』
元民俗学者でスキンヘッドにして巨体の探偵。近田一耕助。彼はナマ猫教という新興宗教法人の内部で発生した事件に関わる。おりんを名乗る怪しい婆さんが登場、首切り死体が登場するにあたって村井警部と近田一は狂喜する。北森鴻『ナマ猫亭事件』
『幽霊座』の事件から五十年。その時の登場人物の子供や孫が元「稲妻座」があった場所に新たに「月光座」を開設、こけら落としの演目は『鯉つかみ』なのだという。正体された金田一耕助の前で再び人間消失が。 栗本薫『月光座−金田一耕助へのオマージュ−』
女流推理小説家の私は京都の六道珍皇寺で不思議な老人と出会う。彼女は自分と同級生にして担当編集者の由季子が巻き込まれた殺人事件について探偵を名乗る老人に安楽椅子探偵をしてもらうことになる。 柴田よしき『鳥辺野の午後』
京都の古い家屋に開設された「金 田 一 探偵事務所」の戸を初めて叩いたのは水商売の女性。パトロンの男性が約束を破ったことをなじった直後、その男性が自殺。ショックを受けているところに謎のメモを受け取ったのだという。 菅浩江『雪花 散り花』
年老いた金田一耕助が風邪を引いて訪れた病院では看護婦を巡って義母が婿養子の医者を叱る場面に遭遇。それが縁で訪れた歌舞伎で耕助と等々力元警部はその義母らと同席になるが、一緒に訪れていた看護婦が劇場のトイレで殺されてしまう。 服部まゆみ『松竹梅』
四時間かかるローカル線の支線に乗車していたサラリーマンは謎の男に話しかけられ「闇夜のカラス」と云われる。きょとんとしていると男は去るが今度は別の男がやって来た。その男に「闇夜のカラス」と云ったところ……。 赤川次郎『闇夜にカラスが散歩する』

それぞれの金田一耕助の取り上げ方の差異がまた楽し。名探偵への「愛」溢れる好作品集
ミステリとしての内容は後で触れるが、その前にそれぞれの作家による金田一耕助(横溝正史)に対する作品での関わらせ方が異なる点が興味深い。まとめるとこんな感じになる。

 ・現役の金田一耕助登場……小川勝己
 ・年老いた金田一耕助登場……栗本薫、柴田よしき、服部まゆみ、赤川次郎
 ・金田一耕助と名前の似た探偵登場……有栖川有栖、北森鴻、菅浩江
 ・それ以外…… 京極夏彦

意外……というほどでもないのだろうが、真っ向から挑んでいるのは小川氏一人のみ。他の作品はパスティーシュではあるが、どちらかといえば変化球的である。現役バリバリの金田一耕助は勿論、その活躍した頃の時代を再現するのが結構しんどいものなのか、それともやはり横溝正史に対する敬意なのか。

内容的にもまたバラバラ。横溝作品のエッセンスを抽出してユーモアで返す北森鴻、オマージュの度合いが深すぎる程に強く、重厚な雰囲気が響く栗本薫、人物や時代の描写が的確で、ナマの横溝作品を読んでいるかのような錯覚さえ感じさせてくれる小川勝己、歌舞伎と老探偵、そして一族の確執とポイントの選び方の上手い服部まゆみ、そして自らの得意な京都の地ならではの謎へ横溝テイストを運び込む菅浩江。一方では、少年と青年のやり取りとパズルが楽しい有栖川有栖、都会的なセンスが軽やかな柴田よしき、次郎さんテイストが物語からよく出ている赤川次郎、そして関口の一人称が妙に重たい京極夏彦。この四人の作品についてはそれぞれ作家自身の持ち味の方が強く発揮されており、恐らく金田一耕助(横溝正史)である必然性は正直薄く感じられる。ただ、作品の内容としてどちらが上下とかを指摘するつもりはない。いずれにせよ、偉大な日本的名探偵、金田一耕助に捧げられた作品群であるという意味で等価であるのだから。
個人的な印象で挙げるならば小川勝己の『愛の遠近法的倒錯』(これは長編『撓田村事件』の副題にもなったので短編集収録時は題名が変更される可能性があるかな)。まさに横溝。導入の自然さ、起きている謎の横溝らしさ、そして実際に事件関係者が抱く情念に至るまで横溝テイストそのままである。恐らく文章も。パスティーシュとして屈指のレベルにある。また、ミステリとしては柴田よしき『鳥辺野の午後』が、そして金田一耕助らしさで選ぶなら服部まゆみ『松竹梅』あたりか。

ちなみに冒頭にある京極作品は「妖怪シリーズ」の次作刊行予定の『陰摩羅鬼の疵』の一部から抜粋された模様(出版社違うやん)。ただそのせいというわけではあるまいが本書においてはこの題名部分にあまりにイタイ誤植がある。それが何かはここには書けん。ヤバすぎだろ、こりゃ。

執筆者がいずれも人気作家であることだし、いずれバラバラにされてそれぞれの作家の作品集に収録されることになるかと思われる。それはそれで単体で読んだ時、また異なる味わいを感じることが出来そうな予感もある。本書については「横溝作品が好き」という自覚を持たれた方のほうが向いていそう。 作家読みするとちょっと戸惑うかも。


03/01/25
浦賀和宏「こわれもの」(トクマノベルス'02)

'98年に第5回メフィスト賞を『記憶の果て』にて受賞後、講談社ノベルスに「安藤シリーズ」を書き下ろし刊行してきた浦賀氏だが、ここにきて他出版社からシリーズ外の作品を発表するようになってきている。本書も浦賀氏のトクマノベルス初登場にしてノンシリーズの一冊。

『スニヴィライゼイション』というSF作品を「インターナル」という雑誌に連載、大きな人気を博している漫画家、陣内龍二。彼は印税で家を建て更に里美という婚約者を得て人生の絶頂期にあった。しかしある朝、その里美が出勤途上で交通事故に遭い、帰らぬ人となってしまう。哀しみにくれる陣内は、実は里美をモデルとして描いていた『スニヴィライゼイション』の人気女性ヒロイン「ハルシオン」を作品のなかで伏線無しに死亡させるというエピソードを発表する。「ハルシオン」目当てのファンを中心に非難囂々となり、アシスタントも「ついていけない」と一人を残して皆辞めてしまう。編集部には抗議のレターが山積みされ、担当よりそれに目を通すことを強要される陣内は、ある女性読者からの手紙に目を留める。それは里美の事故の二日前の消印が押されていながら、事故を予言するものだった。その差出人、神崎美佐は四十八歳の落ち着いた女性で、その部屋には『スニヴィライゼイション』グッズが山積みされていた。彼女は自身を、身近にいる人の死を予言できる体質なのだという。
一方、世界一を自負する「ハルシオン」ファンの三橋は、作品のなかでの彼女の死を齎した陣内が許せない。彼の彼女である同人作家、千夏が陣内の新アシスタントになることが決まったことから、彼は陣内を殺害する計画を練ろうとする。

――ラス前で驚愕、そしてラストに戦慄――した。
作者には失礼かもしれないが、浦賀作品は作を追うごとに確実に読みやすくなってきている。本書もストーリー的に整理されており、冒頭からするすると読むことが出来た。婚約者を突然の事故で喪い失意の漫画家。連載中の人気作品の女性キャラをもまた作品内にて唐突な死をさせてしまったがために、周囲とファンの大反発を受ける。そんななか、婚約者の死を予言した手紙を受け取って……という展開は分かりやすいし、熱狂的かつ偏執的女性キャラファンを配してサスペンス性の盛り上げも堂に入っている。
中盤までの最大の謎、「人の死を予言する彼女の能力は現実のものなのか」の吸引力がなかなかのものであり、更にその予言者神崎美佐が、衆人環視のなかで映画館の大火を予言、それが実現することで物語中ではその謎が一旦解決される。そうして次の謎、彼女が予言した通りに「主人公の漫画家がある日付に殺害されるのか」に興味は移される。このあたりのスピーディな展開とストーリーテリングは抜群。そしてこの謎がサスペンスめいた展開を見せた後のアクションシーンそして……。もしここで終わったとしても、それだけで驚愕させられたことに違いない。主人公と同じく「え?」と思って宙づりにされてしまう。ここで物語が最初の反転をみせる。今までの展開はそういう意味だったのか……。 本書のここまでにおける凄さは、そのまま浦賀和宏という作家が持つ「残酷さ」に通ずる。 浦賀和宏氏の作品における登場人物は不幸な目に遭うことが実に多い。単に不幸だけならまだしも、徹底的に残酷なカタチで物語の終盤に突き落とされることがままあり、本書もそのパターンに見事に嵌る。

しかし、更に私が戦慄したのは、場面が切られた最終章。これが実は……というところ。さすがに読んで頂くしかないが、もう一度世界が反転させられた。しかもその前の残酷な余韻をみごとに裏切ってくれる。……なるほど。

作中人物の弄するトリックやテキストに仕掛けられたトリックというレベルを超えて、物語によって頭のなかに形成される世界がそのままトリックになっている。 浦賀和宏描く生々しい残酷さと世界が反転する奇妙な美しさとを同時に味わえた。深みという意味では乏しいかもしれないが、ミステリとして十二分に高い品質を持っているかと感じた一冊。


03/01/24
高田崇史「QED 竹取伝説」(講談社ノベルス'03)

QED 百人一首の呪』にて第9回メフィスト賞を受賞した高田氏の書き下ろし作品にて「QEDシリーズ」の六作目にあたる作品。前作『QED 式の密室』から場面はスタートしており、そちらも読まれた方が吉。

棚旗奈々、桑原崇、小松崎良平、三人の新年会の続き。鬼について語り合った後、引き続き桑原は松竹梅、そして竹という植物が不吉であることを述べる。また日本人が当たり前と考えている年中行事、門松、節分、ひな祭り、端午の節句、そして七夕祭りの真の意味について解釈を開始した。そんななか小松崎は「魔のカーヴ」の話をはじめる。奥多摩の山道にあるその道路では特定のカーヴにおいて事故が頻発するというのだ。そしてその事故に遭遇した者は「竹が光った」と言い残したのだという。その地区では「笹姫様」が祀られており、地元の人々はその光こそ笹姫様だとして崇める。ここから桑原がまた話を引き取り、かぐや姫、そして竹取物語は単なるおとぎ話ではなく、裏に秘密の隠された話なのだといいだす。
奈々と同僚の薬剤師、外嶋一郎は山歩きの最中、死体を発見。近くのペンションに通報を依頼したはいいがそこで気を失った。被害者は近所の村に住む若者だったが、その死体の腹からは竹槍が突き出していたのだという。その現場は折しも「魔のカーヴ」にごく近い場所であった。

竹取物語のみならず日本古来の風習と常識を思いも寄らぬ視点から覆す。QEDシリーズ絶好調
本書の主題は「竹取物語」である。いわゆる「かぐや姫」としてお伽話として、そして長じてからは日本の物語文学として親しまれる、誰でもその筋書きを知る物語。その不明とされている作者についても、本書の内部に記述があるが、その点はあまり大きい問題ではない。竹取物語を通じて『式の密室』でも述べられた日本最古の文学が成立した平安時代における日本の真の姿を知らされるのがポイントだ。その論理展開の過程において、読者はこれまで無意識のうちに信じてきた日本のさまざまな年中行事や風習、さらに古来日本から伝わる、いわゆる「むかしばなし」に込められた欺瞞や、隠された意味を知らされる。まずショックを受けない読者はないだろう。一定の説得力があり、怪しげな発掘文書をもとに強引な論理展開をするトンデモ系の史学とは一線を画している。
ミステリとしても、この独特との史学との関連性があり、特に動機の部分については目を見張るものがある。もしかすると二つの村の対立から丁寧に描くことで、横溝ばりの伝奇風味溢れるミステリの傑作に仕上げることも出来た可能性もあっただろう。トリックそのものは前例のあるものだが、その活かし方が実に上手い。ただ、竹取物語を中心とするくだりに割り振られたページが多いので、どこかミステリ的にはあっさりしてしまうのは致し方ないか。確かに主人公三人と事件との関わり方については段々無理が生じてきているようにも感じられないでもないが……。

高田氏が取り上げるのは伝説だが、同じようなアプローチをミステリで行う作家に北森鴻氏がいる。蓮丈那智シリーズなどは、QEDシリーズと合わせ現役作家では民俗学ミステリの双璧といえるだろう。(京極夏彦氏の妖怪シリーズは微妙に違うと思うので) 二人の作風、というか論理展開の違いは高田氏が伝説の時代に遡り、その当時の状況を類推したうえで現在に至ることに対し、北森氏は現代に残された伝説を元に遡っていく……という点にあるように思う。二人の合作、ないし競作なんかを読んでみたい……というのは読者の勝手な思い入れかな。

普通、この手の作品は引き出しの中身が無くなってくる(つまりネタが無くなる)ものなのだが、高田氏の場合はデビュー時に想像していたより遙かにその引き出しが多くあるようだ。ハードルは高いとは思うが、今後もこのシリーズには大きく期待したい。作者の職業柄か、薬行政に関する皮肉がちくりとしているのも面白い。


03/01/23
吉村達也「ゼームス坂から幽霊坂」(双葉ノベルス'02)

本書に関しては'00年に単行本が刊行され、結局ノベルス版が出るまで手に取れなかった。この作品そのものは一時的に吉村氏が「作家としての自己改造」を行っており、ほとんど著作を発表していなかった時期に「小説推理」誌に発表されており、ネットでは唯一嵐山薫氏がそのレビューを載せていたことから、当時は確かめちゃくちゃ読みたい! と感じていたことを記憶している。……ただ、その嵐山氏の文章を読み返すに、雑誌連載内容と単行本とでは相当量の改稿がなされているように推察される。というか、設定から違い過ぎている。

品川に本社を置くOA機器メーカーの営業マン、宮島は三十四歳。六年前にFM局でDJをしていた美貌の女性、田村茉莉と結婚、一人息子の甲太は五歳になっていた。美しくスタイルも良く気だても良く優しい。宮島は基本的に結婚生活に満足していたが、自分に対し積極的な愛情を示さない茉莉に飽きたらず、一回り下の同僚、楢崎理恵とも何度か関係を持っていた。ある台風の晩、ゼームス坂から幽霊坂を下った途中にある自宅マンションに酔って帰り着いた宮島は家の中の様子がおかしいことに気付く。彼を待ち受けていたのはウェディングドレス姿で首吊り自殺をしている茉莉だった。動転した宮島は彼女が助かる万が一の可能性にも思い至らず「貞淑な妻に自殺された夫」となるのが嫌で、甲太に当たり散らした挙げ句、嵐のなか自宅の庭部に彼女を埋めてしまう。翌朝、甲太を幼稚園に連れて行った後出勤した宮島は、午後に甲太を迎えに行こうとするが、既に茉莉が来て幼稚園から連れて行ったと聞き驚愕する。慌てて自宅に戻った彼を待ち受けていたのは普段と変わらず料理をする妻の姿。しかし身体も感情も彼女は持ってはいたが、やはり彼女は幽霊だった。死んで宙に浮かんでいたところ、雷の力で戻ってきたのだという。宮島は今まで知ることのなかった彼女の内面、そして過去に初めて触れることになる。彼女はなぜ死なねばならなかったのか。そしてその生活の行方は?

「喪われて初めて気付く大切なもの」……長年扱われている平凡な主題を、微妙な感覚で斬新に描いた物語
この数年、吉村氏は従来から執筆していたミステリ関係ではなくホラーやサスペンス、そしてSFにまでその活躍範囲を拡げつつある。ある意味、'98年に執筆された本作は氏にとってその転機となった作品ともいえるだろう。本格ミステリではないし、幽霊が出てくるとはいえホラーではない。また、人間の汚い部分、醜い部分を徹底的に描写しつつ(このあたりの表現力は吉村氏は抜群に上手い)も、ミステリやサスペンスにおける犯人や被害者の性格付けに利用するのではなく、舞台演出のための必要事項として利用してしまう。幽霊を科学的な(トンデモか?)分析にてその存在を作品内肯定しようとする意図はあっても、SF臭さはあまりない。ある意味、ノンジャンルの文学作品的な興趣が本作には存在している。 逆にいえば、特定のジャンルを期待して吉村作品に取り組む向きには本書はあまり感動はないかもしれない。
表面上問題なかった夫婦、しかし妻には秘密があってそれが原因で自殺……とこれだけだとサスペンス風。だが、その自殺の原因は後から述べられるため、伏線は一切ない。妻が幽霊になって戻ってくるにあたっても、それが決して夫や子供への真の愛情ではない、というあたり従来にはない展開といえるだろう。ただ、その結果として、それまで自己中心的でしかなかった宮島が、愛情や人生について考え直していく部分にまずジーンとしたものを感じ、終盤での、わざと感動を狙ったと思しきラストシーンには、やられまいやられまい……と考えつつ読んでいた私だったのに、ちょびっと泣けた。

結局は泣かせるための物語……のようにも思われるのだけれど、その過程、展開に新しさはある。本格ミステリをばんばん執筆していた初期吉村達也から、様々なジャンルに手を広げる現在の吉村達也への分岐点にあたる作品である、という位置づけになるだろう、やっぱり。


03/01/22
福本和也「成田空港殺人事件」(光文社文庫'85)

紹介される時に必ず「航空ミステリーの第一人者」という形容詞が付けられる福本和也氏は、デビュー前の同人時代に二年連続の直木賞候補となった経験を持つなど、異例の経歴を持つ。本書は、国産では氏が開拓したというジャンル「航空ミステリー」における代表作品の一つ。

成田空港に小型機が無許可で超低空侵入。滑走路に降り立って無数の鉄製まきびしを撒き散らした挙げ句、再び飛び去った。同時に空港のトイレ内部でも小爆発が発生、成田空港の建設に反対するゲリラ組織の行ったテロ活動と断定された。そんな厳戒体制の中で離陸した極東航空807便。便には過激派が標的とする鷹派の経済閣僚が乗機しており、搭乗者には厳しいチェックが実施されていた。にも関わらず、807便のトイレより「ハイジャック宣言」なる文書が発見される。機体に千フィート以下に降下した際に爆発する爆弾を仕掛けたというのだ。機内には、家計的に行き詰まり自殺目的でテロとは無関係に爆発物を持ち込んだ失業男や、ある人物を暗殺するために送り込まれてきた若いヤクザ、更に過激派の協力人物と思われる航空学校の退校者などがおり、予断を許さない状況となっている。更に、機長の峰山は機転が効かず、口ばかりで役に立たない。副操縦士の矢代や航空機関士の森本、チーフパーサーの前田らが落ち着かせるべく善後策を練るが、森本は矢代が峰山を深く恨む理由があることを知っていた。そんななか、機内で二件の殺人事件が発生した。一つは麻薬の中断症状によってヤクザが、爆弾を抱えた中年男を暗殺したもので、もう一つは原因不明の毒殺だった。

絡み合う複数事件を一つにまとめて生み出される緊張溢れる場面の連続。航空機舞台のサスペンスとしては超一流
ハイジャックを主題にしたミステリはいくつもあるが、本書はその主題をずらすことによって超絶の緊迫感を作品内に生み出すことに成功している。と、いうのは、通常ハイジャックが出てくるとなれば、最も困難なのはハイジャックの実施そのものよりも、ハイジャックした結果得られる「果実」を実際に手に入れるという行動にあるだろう。遙か高い空を飛ぶ飛行機はいつか燃料が尽きるので地上に戻る必要が生じる。別の地域に飛ぶにしろ、降りてから犯人が逃げられるか分からないし、政府に何かを要求するにしろ、大抵は時間が切れてしまう。本書はそういったハイジャックの焦点を、一般的なものにしていない。この点でいきなり雰囲気が変わる。
その目的が何にあったのか、は作品における大きなポイントなので内容をここでは明かさない。ただ、ハイジャックが行われているのに機上に犯人の姿が見あたらない……ということで、別のサスペンス要因をその舞台に持ち込む余裕を作ったといえるだろう。さらに機内という限定環境内部で、誰にもその実行可能性のない毒殺事件である。(おかげで爆弾を持った失業男や、ヤクザの暗殺の方のエピソードが些か軽くなってしまう点は否めないが) また、冒頭で飛んできた小型機事件の犯人探しから、副操縦士矢代が抱えている家庭の問題、航空学校においてかつて発生した事件等々、サブストーリーが盛りだくさん。それらが全て807便に集中するのは余りに非現実だが、フィクションなんで構わないだろう。狭い機内で次々に発生する事件。どれが主筋で、どれがおまけなのか読者に見えず、着々とタイムリミットが迫っていく。この結果、サスペンスには珍しく、落としどころが全く想像できないものとなる。 ほとんど終盤までハイジャック事件の真相は分からないし、飛行機の内部では修羅場が展開される。そして最後の最後。後味がまた……。
一つだけいうと、本来魅力ある設定の「二重密室」における毒殺……というのが、(少なくとも現在の新本格を読み慣れた読者にとっては)笑止千万なオチに終わってしまうのが、かなり残念。この部分が凄ければ歴史に名前を残したかもしれない。

個人的に福本作品二作目。飛行機のなかで本書を読了したこともあって、古い作品とはいえ臨場感が素晴らしいことは保証できる。男女の機微によらない、純粋なサスペンスがお好きな方であれば、時代を超えて読めるだけの価値がある作品。


03/01/21
太田忠司「黄昏という名の劇場」(講談社'02)

『メフィスト』誌に'98年から'01年にかけて掲載された同題のシリーズに書き下ろし最終章を加えた幻想作品集。装画を担当されているのが藤原ヨウコウ氏で、その画が絶妙に作品にマッチしており雰囲気を盛り上げる。

朽ちかけた酒場。海軍士官の制服を着た老人が語る四十年前の話。戦艦に乗り込んでいた男は奇妙な現象に邂逅した……。 『人形たちの航海』
微昏いバーのカウンターで男が語る話。それは探偵が少女から時計に関する依頼を受けるところから始まった……。 『時計譚』
四阿の下で老婦人が語る経験談。それはある奇妙な館に学者としても優秀だった彼女が家庭教師として招かれる話……。 『鎌の館』
山間の宿着飾った太っちょ男が語る寓話。十数年前栄えていた街を荒らし回った大泥棒とその残忍な手下の話……。 『雄牛の角亭の客』
古本屋のカウンタに座る奇妙な老人が語る本の物語。その巨大な図書館では誰もが一冊の本を求めて彷徨い歩く……。 『赤い革装の本』
列車の食堂車で上品な初老の紳士が語る話。同じ列車にかつて乗り込んだ”憂い顔の探偵”と呼ばれる人物がいた……。 『憂い顔の探偵』
流刑人となった者が慰みに聞く物語。年上の夫が死に財産を手中にした妻。しかし彼が受けた尊敬は手に入らない……。 『魔犬』
朝起きて地獄のような一日を開始する男。その路上で何者かに呼び止められ、物語の秘密について聞かれるが……。 『黄昏、または物語のはじまり』

何気なく迎える「黄昏」を意識するとき、世界は異界へと通じ、知られざる物語が蘇る……
このあたりはミステリの、というか文学的な手法といえば良いのだろうか。意識された入れ子構造によってそれぞれの物語が成立している。つまり、物語の書き手がいて、更にその書き手が創造する人物がそれぞれの短編の冒頭、そしてラスト部分にて「聞き手」として存在し、彼に対して語る人物が「物語」を紡ぐ。三重ともいえる物語構造。この結果、それぞれの作品の自由度が高いながら、二つめの入れ子による統一感が醸し出されているため、最終章にて作品集全体を束ねるような独特の余韻を発生させることができている。
また、最終章を除くと物語それぞれがどこか「異国」の興趣を発している。特に欧州の北辺や南端部あたりの中心地から外れたところで、実際にあったか、語り継がれていてもおかしくないようなエピソードが続き、それはそれで日本人が作った物語であることを忘れさせてしまう程のイメージの統一感がある。(良い意味でのバタ臭さを持つ、藤原氏のイラストもその一助となっている)。実際、物語の個々のガジェットにしてもいわゆる洋風のものが取り入れられており、いわゆる日本を源流とする怪談噺とは一線を画す、欧州オリジナルの「怪奇小説」といった雰囲気を引き出すことに成功している。
この二つが組み合わされることによって、物語の架空性が引き立つ。これは作り話っぽいという意ではなく、好事家の物語マニアが蒐集してきたかのような展覧会の雰囲気とでもいえば良いのか。並べられた物語の独創性、オリジナリティが高い作品集では、個々の短編が喧嘩するようなケースがあるが、本書ではそれぞれが引き立てられ、それでいて行儀良く並んでいるのだ。作品集としてのクオリティの高さをイメージして頂けるだろうか。ふらりと覗いた美術館でいくつもの感動に出会うような興奮。それがこの作品集にある。

当然、個々の短編にも印象深いものが多い。いわゆる通常の意味での恐怖というより、禁忌や畏れといった感情が表出するような物語。冒頭の『人形たちの航海』の人形、『鎌の家』の住人、『魔犬』の女主人の甥。ポイントポイントでタブーに触れてしまうことで味わう不思議な緊張感、そして忍び寄るいわれのない怖さが感じられた。個人的には『鎌の家』の設定や構成が心に一番ヒットした。

本書、太田作品をほとんど読めていない身で手に取るのが適当だったかどうか分からない。と、いうのも2002年末に開催された新本格ミステリフェスティバル会場で購入、太田氏にサインを頂いてそのまま読み始めたもので奇縁で読み始めたものなのだ。本書だけの印象で語ることは許されないのだろうが、この強烈なイマジネーションを受け止めた結果、ミステリ中心の創作を行う太田氏が、実は立派な「異形」作家の顔を持つこと……も勝手に確信した次第。