MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


03/03/31
恩田 陸「ロミオとロミオは永遠に」(ハヤカワSFシリーズ Jコレクション'02)

今をときめく人気エンターテインメント作家、恩田陸さんが'99年から'00年にかけて、すなわち二十世紀のラストに『SFマガジン』誌に連載した作品に、大幅に加筆修正して発表した大長編。恩田陸さんの作家デビュー十周年の意味合いも込められているという。

二十世紀に人類によって積み重ねられた浪費と蕩尽によって地球は完全に汚染され、人類は「新地球」にて生活するようになっていた。しかし日本という国家は他の国々から疎ましがられ、全国民が汚染された旧地球に残り、産業廃棄物の処理を義務づけられる世界。どん底から這い上がるためには「大東京学園」に入学、首席となって卒業することだけが残された希望なのだ。全国で行われる過酷な試験に耐えて「大東京学園」に入学したアキラとシゲル。小柄ながら格闘技の達人のアキラと、優れた判断力を持つ美少年、シゲルはすぐに仲良くなり、華麗なるキャンパスライフがスタートするはずだったのだが、肉体を極限まで苛め抜く原始的な授業と待遇を賭けて争われる毎月の地獄の試験に幻滅を感じさせられる。彼らは「大東京学園」からの脱走にトライする「新宿」クラスと呼ばれる落ちこぼれ集団と接触、実はアキラの兄はかつて「大東京学園」からもっともスマートに脱出した経歴を持つ伝説の人物だったことから、彼らはアキラの協力を求めるのだが……。果たして学園に隠された秘密とは。

時にシリアス、時にコミカル。テーマは大脱走、恩田流のノンストップドリーム
「郷愁と狂騒の20世紀に捧げるオマージュ」として、溢れるほど(呆れるほど?)のサブカルチャーのディティールを積み重ねて作られた世界。流行語、テレビ番組、芸能人、ヒットソング、人気スポット、家電、おもちゃ、社会現象から風俗に至るまで、20世紀というよりも、恩田さんが生きてきた'70年代から'90年代の三十年間を振り返って、さらにそれをパロディ化することで得られた独特のディティールによって編み出される世界観にまず圧倒されよう。ただ、この元ネタをきっちり理解できるのは恩田さんと同年代プラスマイナス十年くらいのものではないか。それ以降の読者は、何も考えずにこの世界を堪能すれば良いのではないかと。
物語は、主に大東京学園という存在と、アキラとシゲル、更には中盤より登場する男子禁制の区域になぜか住む美少女キョウコをも交えた彼らそれぞれが持つ過去の人生とが複雑に絡み合って成されている。「東京」という街全体が監獄化されているなか、彼らがどうやって脱走を試みるのか、というのは確かに物語の一つの主軸ではあるのだが、そこに至ってしまうとあまりにどたばたが過ぎてしまって、展開自体がバタバタしてしまう印象。ストーリーという意味合いでは、ディティールはとにかく大筋は予定調和。極端な言い方ではあるが、ストーリーそのものが二十世紀へのオマージュであり、読み出す前から「先」は見えているわけだ。賛否両論あるというラストについては、これはこれで良いと思うのだけれど、ストーリーそのものよりも、作品の味わい自体は、やはり「構築された世界」にあることは間違いない。恐らく作者自身、この「大東京学園」という世界を構築すること自体がもっとも楽しかったのではないか。作品の分厚さに比例するかのように多くの人物が登場、それぞれを描き出すことで、世界がどんどん厚くなる。ただ、終盤にかけての伏線等については、さすがに序盤からきっちり張られている点については付け加えておきたい。その意味ではミステリファンが読んでも十二分に納得できるあろう内容だともいえる。

基本的にはフツーに二十世紀を生きた人ならば、必ずどこかに「ツボ」があるだろう。何かしら過去の記憶の残滓をむずむずさせるようなガジェットが多数含まれている。 本書を読みながら二十世紀に思いを馳せる――ことは実は難しいように思うのだけれど、本書の実に壮大で、かつ全く想像もできないような深い「世界」を構築する部品の一つ一つを実は知っているという奇妙な感覚。良い意味で厚顔な恩田さんだから出来た、恩田さんならではの作品。その点、間違いはない。表紙のパロディイラストも個人的には好きである。


03/03/30
上遠野浩平「紫骸城事件 inside the apocalypse castle」(講談社ノベルス'01)

'00年に『殺竜事件』にて一般向けレーベル初登場を果たした上遠野氏。本書は同書と世界を同じくする〈戦地調停士〉シリーズの第二作。前作で名前のみ登場した双子の戦地調停士ミラル・キラルが中心となるが、EDや風の騎士といった面々もいいところで登場する。

三百年前――荒野の中心に伝説の魔導師リ・カーズによって建てられた紫骸城。この城の内部では彼女に服従を誓い圧政を引いてきた魔導師や為政者が虐殺されたという歴史を持つ。リ・カーズは、宿敵、究極の破壊兵器、戦鬼オリセ・クォルトと正面衝突に備え、城を彼らの呪咀で満たしたのだ。その戦いは相討ちといわれ、周辺の地域は完膚無きまでに汚染された。しかし紫骸城は今も残り、魔導師たちがその技を五年に一度競う〈限界魔導決定会〉の会場として使用されるときにだけ人々はその地を訪れた。ヒッシバル共和国のフローレイド少佐は、事前に”風の騎士”と共に行動した結果、不本意ながら”英雄”となったがために、その決定会の審判として魔導師組合(ギルド)より招かれた。転送ポイントから外れて城に転移したフローレイドを待ち受けていたのは数十人の魔導師と同じく審判として呼ばれていた双子の戦地調停士〈ミラル・キラル〉。彼らは魔導師大会を荒らし回った挙げ句、その地位を軽視する発言を繰り返した結果、先に審判として参加するよう丸め込まれたらしい。その転送地点では前回優勝者ニーガスアンガーが意外な姿で到着していた。全身バラバラの干涸らびた死体と成り果ててである。不穏な雰囲気で開催することとなった大会は参加者の一人が氷柱で刺し殺され、密封された部屋内部で火炎魔法によって数十名惨殺されるなど次第に狂気の様相を呈し始める。果たしてこの事件の真相は?

独特の世界観がもたらす緊張感。ファンタジー世界における恐怖のWhy done it?
前作と主人公も探偵役(?)も異なっているものの、世界とその政治的な背景は共通であり、ごく近しい。一般的には「本書から読んでも大丈夫」なのだろうが、本書の場合、この「世界観」そのものがミステリとして読むための大前提として君臨しているため、やはり順に読んで作品世界に順応すべきなのだろう。
前回が「竜殺し」とこの世界における魔法のレベルを超越した物理トリックであったことに反し、本作は魔導師による魔導師の大会ということもあり、ポイントになるのは魔術。最初の設定、つまり魔術を駆使する者同士のルールある大会……なんて話を聞くと「ドラゴンボール?」とか考えて首をひねらないでもなかったが、一渡り世界(のなかの紫骸城という世界)が説明されたあとは、早速連続不可解死事件が発生し、物語はさくさく進む。
ミステリとしての主題は「あることを不可知にすること」によって引き起こされる犯罪であり、ただそれが最終的に謎解きされるまで読者には分からない……という設定。一種の叙述トリックが仕掛けられているともいえそうな気もするが、氷柱の殺人については、この説明ではちょっと無理があるような気もする。ただ、真相そのものは恐らく手熟れのミステリ読者でも意表を突かれるものであることは間違いない。(繰り返すがその説明に納得できるかどうかは別にして)。そのための微妙な伏線、例えば人形の赤ん坊を抱く気の触れたような女性の存在などは巧みなだけにかっちりとしていない点は惜しい。
しかし本作の最大の見どころは、こういった細やかな事件を通じて関係者の発言を積み重ねさせることによって、世界そのものの大きな構図を膨らませる上遠野氏らしい方法論にあるといえるのではないか。前作の書評時にも書いたが、政治的な意味合いをファンタジー世界に付加することによって生ずる深み。クローズドサークルと思えたこの物語でさえ、その結末には政治が絡められる。このあたりの深みが世界をより魅力的なものへと変じている。個人的にはこの世界を読み解くこともまた、ミステリとして味わわせて貰っている。

前作時に書いたが本作は「本格ミステリ・クロニクル300」に選ばれており、その拾遺として読み始めた部分がある。個人的には本作よりも取り上げるべきは第一作『殺竜事件』の方かと考える。こちらの方がミステリ的インパクトにおいては優れているように思うが、それもまた個人差だろう。これはこれで創り上げた世界をそのオリジナルなルールのなかでひっくり返すことに長けた佳作ではある。この世界、好きなので三作目の『海賊島事件』もいずれたぶん読むぞっと。


03/03/29
藤本 泉「死霊の町」(カドカワノベルス'85)

'77年『時をきざむ潮』にて第24回の江戸川乱歩賞を受賞している藤本さんは国内の民族間対立を主題とする「えぞ共和国シリーズ」などを著す一方、源氏物語等王宮文学の研究書などでも業績がある。ただ'86年に日本を離れ、'89年以降の消息は不明。その意味で本書は藤本さんのフィクションとしては最後期の作品となる。

二〇××年、世界が中性子爆弾による核戦争に見舞われて三十数年が経過した。人間の生殖機能は著しく低下した結果、人口そのものが激減、若者のあいだでは男女複数パートナーにおいて共同生活を送るグループ婚が常態化、更にエネルギーの不足が世界中を覆い尽くした結果、都市は機能を維持できず、木炭バスや馬車が復活していた。
神奈川県警に所属している江藤は、子供を身籠った最愛の妻を何者かに殺される。スポーツが得意な彼女はロープで念入りな殺され方をしており、必死に捜査にも関わらず容疑者は浮かばない。グループ婚仲間はその死を嘆くが、そんな江藤の元に彼の父親と名乗る人物からの連絡が入る。その男は林平和。戦後のエネルギー変革の時流に乗り、T油脂株式会社の社長として君臨している。彼は事故で自らの跡取り息子を喪ってしまったがために、若い頃に過ちによって生まれた赤ん坊を捜していたのだという。江藤と林の外見はよく似ており、江藤が息子であることは間違いないように思われた。しかし江藤は、妻の死と共に、行方不明になっている自らの母をまた捜しており、過去の警察の資料をあたって霞ヶ関に高層ビルに母親の死体を発見するのだが、そこにまた林の影が……。

近未来の世界観と旧来の価値観が交錯するところの悲劇。ちょっと特異なSF設定ミステリ
二十数年前、本書が執筆された際には「無差別の核戦争」というのが非常に現実的に考えられていた。確かに思い返すに今以上に「核戦争」という言葉に対して切実な響きが感じられる時代があったことは事実。その意味では今であっても各国が「核兵器」を持つという事態そのものは無くなっておらず、かえって悪化しているかもしれないながら、人々の口にあまり核戦争への恐怖という言葉が上がらなくなってしまったのはなぜだろう? 戦争という意味合いだけであるならば、人類がそう賢くなったとは思えないのだが……。
本書はその核戦争後の日本、というのが世界の大主題である。巧いのはそれでも世の中の枠組みが旧来のかたちを保ち続けている(少なくとも保とうと努力している)こと。拙いのは、石油が入手できない後のエネルギーが、いきなり木炭や石炭、家畜に後退していること。こればかりは人間は恐らく必死で「電気」による生活を維持するであろうことは今後も百年くらいは間違いないだろうし、木炭自動車なんて風には。実際ならないと思われるのだが。ただこの当時の未来図としては、それが「リアル」だったのかもしれない。
そういった世界を除くと、変死した妻と母親の死因が、父親にあるのではないか、と疑う青年の物語。 二十数年前に起きた殺人事件と、妻を殺された事件との奇妙なまでの類似が意味するものは? 圧倒的な財力と権力を握る父親に対して抱く疑い、そしてその事件の理由……あたりがポイント。ミステリとして感心するのは手段よりも動機の点。この動機が密接にこの世界観と繋がっているあたりにセンスはある。ただどうも藤本作品のラストは微妙に重苦しくやりきれないケースが多いのだが、本作でもまたそういった作風は健在。後味はあまりよろしくない。

SFとして価値があるかというと、洗練された後世の作品に比べての泥臭さが目立つ気がするし、ミステリとして素晴らしいかというとそれはそれで「?」はつく。独特のWhy done it? としての価値が皆無とはいえないまでも、藤本作品をいくつか読まれて、彼女の作品のテイストが合う方のみが手に取れば良いだろう。


03/03/28
有栖川有栖・いしいひさいち ほか「新本格猛虎会の冒険」(東京創元社'03)

巻頭の辞を飾る逢坂剛氏をして「だれが、こんなばかばかしい企画を考えたのか知らないが、こともあろうに阪神タイガースをさかなに、ミステリーを書かせようとは不届き千万、天人ともに許さざる行為である」といわしめた、阪神タイガースファンの作家による阪神タイガースファンの本格ミステリ読者のための、阪神タイガースなミステリアンソロジー。

まえがきがわりの檄文。 『阪神タイガースは絶対優勝するのである』逢坂剛
二〇〇〇年。タイガースファンの有栖川夫妻は煉獄のスポーツ記者の誘いで、この世界から昇天する二人の人物が残したポーズ《シェー》から、彼らが直前に会った野球選手を推理するよう要請される。 『五人の王と昇天する男達の謎』北村薫
一九八六年。大学院生の神津真理は、後輩の星野君江から、球団創立五十周年の一九八五年に阪神が優勝したのはあるチームによる「言霊」が実現したためだ、と聞かされる。 『一九八五年の言霊』小森健太朗
阪神タイガースの取材に訪れた米国人記者。開幕戦の先発ピッチャーが誘拐される事件と出くわす。彼はの兄が殺され、犯人は身代金一千万円で彼を試合までに解放すると言ってきていた。 『黄昏の阪神タイガース』エドワード・D・ホック(木村二郎訳)
二〇××年。筋金入りの老人虎キチが自宅で頭を殴られて殺されていた。現場は近くを張り込んでいた刑事によって、犯人らしき人物の出入りはなかったという。タイガースの優勝のかかった今日、彼はなぜどうやって殺されたのか。 『虎に捧げる密室』白峰良介
阪神の球団役員が殺された。容疑者は彼から巨人にトレードに出されたことを怨みに思うあるピッチャー。しかし彼はその頃試合に出場していたのだという。 『犯人・タイガース共犯事件』いしいひさいち
甲子園に一人で野球見物に来ていた和戸の元にビール売りのアルバイトの保住がやってくる。和戸は、隣に座っていた親子連れが持つ鞄にビールをこぼしてしまうが、彼らは試合中にもかかわらず鞄を執拗に拭いて座席を移動した。 『甲子園騒動』黒崎緑
家から調度まで全てを「虎」づくしに固めた熱狂的な虎ファンが殺害された。現場に残されていたのは首のない死体。警察は容疑者を調べるが、皆アリバイがあるという。その家から唯一無くなっていたものとは? 『猛虎館の惨劇』有栖川有栖
解説――虎への供物という名の 解説by佳多山大地

この世間に、タイガースファン兼ミステリ読者というのはどれくらいいるものなのだろう?
  私は阪神タイガースのファンである。

オープン戦の調子も良かったし、今年の阪神はもしかすると優勝を狙えるのではないか――と開幕前から毎年うきうきしている人。衛星放送でサンテレビをわざわざ観る人。行ける限り球場に通い、メガホンと喉が潰れるまで声を限りに応援する人。新聞で昨日のゲームで阪神が勝った記事を読んで、一日充実して働ける人。全国に実は結構こういう人たちは存在している。その人数は、恐らく日本国中のミステリファンよりも遙かに多い。本書は、そういうタイガースファンが書いたタイガースファンのためのミステリ作品集。 なので阪神ファンかつミステリファンである私にとって、本書は読む前からツボに入りまくっていたといっても過言ではない。
それぞれの作品でミステリはミステリとしてきっちりとした骨格を持っているのだが、実は結構読者を選ぶだろう。少なくとも野球のルールも知らない、セ・リーグの六球団を全てそらで挙げられないような方には本書は薦められない。また、熱心なプロ野球ファンであっても、阪神以外の球団を熱心に贔屓にしている方にも積極的に読んで欲しいとも言い切れない。自分がマイノリティにもしかすると属していないかもしれない……というのはちょっと不安な気持ちになること十分。
さて、じゃあ野球は知らない、阪神なんて関係ない、という人にとっては本書はどうだろう。
これがまたミステリとしてもそこそこ読ませる作品が揃った。暗号解読あり、密室あり、奇妙な死体あり、トンデモ理論あり、誘拐事件ありと、阪神タイガースと主題を統一しつつも、バリエーションが実に豊富。 特に関係者が「阪神ファン」であることを利用した独創性の高いトリックが使用されている。ネタ的には別に阪神とは限らないのだけれど、『虎に捧げる密室』あたりの動機など、同じ阪神ファンとして涙無くしては読めない。ボケ・ホームズ&ツッコミ・ワトソンにてお馴染み、会話文だけで繋げた『甲子園騒動』は、なるほど関西人ならではのボケとツッコミの応酬が実に笑えるし、『猛虎館の惨劇』のお金に恵まれた虎キチの行く末なども興味深い。関西人が二人揃えば漫才という軽妙な会話が楽しめる作品も多い。そして何よりもその事件の舞台に登場する人物が、単に阪神ファンであるだけでなく「阪神ファンならでは」の心理を実によく考察している。その結果、通常では思いつかないような突飛な事態に対しても説明がつく。(この点に関して野球を知らない人にとってはどうなのかな、とやっぱり躊躇わせられる要因となる)。ただ一方で、ミステリファンでない阪神ファンには十二分に本書は勧められる。あの一九八五年や昔懐かしい選手の名前がぞろぞろ出てくる。もしかすると非ミステリファンの阪神ファンを取り込むことは可能な気がしてきたぞ。
でもしかしやっぱり、本書をしっかり楽しめるのは阪神ファンかつミステリファンであり、そんな私を含む彼らのためのアンソロジーであるということになってしまうような……。しかしなぜエドワード・D・ホックがドメスティックの極みともいえる、阪神ミステリを出しているのだろう?

本書の奥付は「狙ってるな」の3月28日、即ち2003年のプロ野球開幕戦と同日である。そして我が阪神タイガースは横浜球場で開幕戦を迎え、4−2でベイスターズに敗れてしまった。はぁ。これもまた「言霊」のなせるわざなのだろうか。本書の書評はシーズン途中では怖くて書けなくなる可能性があったので、どうしても今日書くしかないのである。阪神、今シーズンは頑張ってくれや。頼むで、ほんま。


03/03/27
倉阪鬼一郎「鳩の来る家」(光文社文庫'03)

『異形コレクション』に収録されたいくつかの作品に様々な雑誌等に掲載された短編を丁度十三編集めて刊行された短編集。文庫オリジナルだが書き下ろしは収録されていない。解説は並木士郎氏。

海の男だった父の晩年は異常に海を畏れていた。息子は両親に反発するように船員になるが、彼らは呪われた一族であった。 『鳩が来る家』
ある事件を起こして故郷を離れていた男。田舎の駅を降りて忌まわしい思い出が詰まった実家に赴き、そこで……。 『骸列車』
ふと自分が学生時代に暮らしていた街を訪れた男。果たしてその頃繰り返し見ていた悪夢はどんな内容だったか。 『片靴』
完全体……という人間そっくりの外見を得るために学習を続ける魂。彼らは人間を狩るために人間を学ぶ。 『裏面』
「恐怖」という感情は実は言葉の怖さにある。なかでも怖いのは「恐怖」のうち「怖」の文字、特に「布」が。 『布』
記憶にある古い道を儀式のために行く何者か。かつて惨劇に襲われたその家は今は誰もいない。 『爪』
網の向こうでソフトボールに興じている人々を眺める少年。網の中は病院、しかし外の方が彼にとっては嫌だった。 『少年』
ゴーストライターの私は取材を兼ねたアルバイトをしながらマンションを購入。街並み探検中に古着屋を見つけ赤い浴衣を買う。 『古着』
どこにでもあるスーパー。自堕落な生活を送る浩司は値段の安さに惹かれ白い缶詰を購入する。中身はひどい臭いがしたが、無理して食べるうちに……。 『蔵煮』
老人ホームに父親を入れるかどうか悩む男は妻と共に友人家族と待ち合わせる。彼らが父親を入れたホームは機能的な墓地とセットになっているという。 『黒い手』
町内会で行う親睦の蕎麦打ち。この会には商売繁盛を約束すると代わりに大切なものを差し出す秘密儀式の意味合いが実はあった……。 『天使の指』
引退し年老いた落語家。彼は節句になるとその陰気な高座へと向かう。そして陰気な出し物を眺めるのだ。 『緑陰亭往来』
会社が倒産しヒマを持て余した男。彼は近所を散歩するうちに「アクアリウム」と書かれた奇妙な看板を見つけ立ち寄ってみるが……。 『アクアリウム』 以上十三編。

もしかすると、倉阪怪奇小説の中間まとめとして相応しい作品集かも……
読者にとって比較的入手し易いと思われる文庫、あるいはノベルスの形式による倉阪鬼一郎作品というのは、現段階では実は氏の本流というべきものよりも、どちらかといえばミステリ的な隠し味があるもの、ないしミステリそのものといったタイプが中心となっている。傑作エッセイ『活字狂想曲』も文庫化されたが、これもまた倉阪氏の本質を能く表現したものではあるが、創作されたストーリーではない。そういったなか、文庫オリジナルにて編まれた本短編集は、そのホラー中心の内容、そしてレベルが相まって当面の間、倉阪ホラー世界への入門として有用な作品集となりそうな予感がする。

内容をみるに、いかにも倉阪鬼一郎らしい作品が並んでいる。特に「心の奥底に隠し持っている過去が、何らかのきっかけによって活性化し、一気に闇へと突き進む」パターンの作品は、倉阪短編のでよく見られ、氏の本領が最も発揮されるタイプといえる。更に少し変化球的ではあるが、「恐怖とは何か」「何が怖いか」を哲学的に突き詰めていく作品あり、謎のシチュエーションに人を巻き込んで、その状況そのものの怖さをイメージで喚起させる作品あり――筆致、そして物語構成そのものは全て倉阪さんの手になるものであることは間違いないながら、虚しく哀しく怖ろしいいくつもの物語が詰められている。
また、気付きたいのはそのディティールの豊富さにもある。中年の失業者から引退した落語家、名前もない存在らが、名もない片田舎、大自然のなか、そして都会の雑踏、ないし都市の暗部と様々な場所でそれぞれの「恐怖」に出会う。本短編集のなかに十三の世界があるように、倉阪氏は物語の数だけ世界を創っている。 パターン化することを厭うかのような世界への探求心もまた、倉阪作品の特徴だといえよう。
個人的な本作の印象を述べると、再読して更に強烈、主人公の畏れが自分のものとすり替わり「その時」を予感するのがひたすらに恐ろしい『天使の指』と、主人公が缶詰を開けた瞬間から読んでいることを後悔する『蔵煮』(クラニー?)。この二作がツボに入った。私の場合は過去の疚しさから追ってくる闇よりも、これから世界が変容する予感の方により「怖さ」を感じるようだ。

ということで倉阪ホラーをこれから識りたい、という読者には入手のハードルの低さゆえにお勧め。倉阪作品を堪能し続ける読者にとっても本作はかなりヒットする短編集となるのではないだろうか。


03/03/26
打海文三「ハルビン・カフェ」(角川書店'02)

打海文三氏は、『灰夜』という作品で'92年の第13回横溝正史賞優秀賞を受賞してデビュー。一部の読者に人気があったものの本書が2003年版『このミステリーがすごい!』にて五位に入り、ようやく読者に拡がりをみせている感。(私もその一人か)また、本書は'03年早々、第5回大藪春彦賞を受賞することが決まった。

近い未来。福井県にある小都市、海士市。新興の港湾都市であるこの街では以前に中国や朝鮮からの難民の大量流入があり、街は日本・朝鮮・中国・ロシアの諸民族が入り乱れてそれぞれが裏にも表にもコミュニティを構えていた。その結果、凶悪犯罪の発生率が急上昇、それを取り締まる警官の殉死率が日本一に達した。犯罪組織は警官らの家族をもテロルの対象とした結果、下級警察組織の内部には”P”と名付けられた地下組織が発生、報復テロを宣言する。心情的に市民の支持を獲得したPではあったが、腐敗した警察官僚をその標的に加えるなど活動が先鋭化。当然警察内部からもP壊滅の動きが巻き起こり、公安部の暗躍の結果、小川勇樹課長ら二十数名の逮捕者を出してPは表向き壊滅した。しかしPの生き残りによって海市警察の高安部長が三人組によって暗殺される事件が発生、彼らは何の手掛かりも与えないまま姿を消した。そして八年後、東京で殺人事件が発生、その被害者がPのメンバーだったことから警視庁の小久保仁や警察庁の水門愛子監察官など、かつての海市を知る者たちが捜査を開始した。

希望と裏切りのエッセンスを吸い取る男とその周辺による一大大河ストーリー
全部で四百ページもなく、最近のハードカバーのなかでは薄い方という背の厚さから判断してサクッと読み終わるつもりでいた。……が、これが甘かった。私自身読書スピードが人より遅いほうではないはずなのだが、二段組とはいえ読了に同程度のエンターテインメントに比して三倍以上の時間を要した。思うに改行が少ない独特の文体だけでなく、過去と現在、そして様々な人物の視点の交錯する物語と匂い立つような重厚な人々の思いがぎっしりと紙上で展開されているせいではないか。普段から読書にあまり慣れていない人であれば、この重厚さに当たるに読了に至らずに投げ出すことケースもあるかもしれない。読み手に理解力・咀嚼力を要求するという点、気軽に手に取れる作品ではないが、最後まで読み通せた人にとっては心にずしりと響くものが残るはず。
内容に触れずに本作を説明するのは難しい。当初はテロリストvs警察との繰り返しのない復讐の輪廻――しかもそれが回想のかたちで描かれるため、どこか兇悪な、しかしなぜか茫洋とした不可解な印象。正直、誰もがある面からみれば善人で、誰もが別の側面からみると悪人という世界観には少し戸惑わされる。近未来、現在堕落しつつある世間一般の犯罪や性、道徳に関するモラルがそのまま堕落していったらこのようになるであろう日本の将来図にうっすらとした不安感を味わわされつつ、警察制度の限界や普遍の親子関係の難しさなど現代的テーマもまた含まれている。
特に本作を印象づけるのは、冒頭で謎めいた男、コウが八歳の娼婦、石川ルカを救う場面とその後に続く「足長おじさん」的なエピソード。都合十四年間にわたる彼女の人生が冒頭に描写されていることによって、作品全体にミスリードが施されることにもなり、更にそのコウ(そしてその人物)が作品内で果たす役割のイメージが複雑化させられている。その他登場する主要な人物にも均等以上に「彼らの物語」が割り振られており、回想と分かって読むシーンにしても緊張感は途切れない。
ひとことで本書を現すと、やはり「近未来ピカレスク・ロマン」ということになるのだろう。 しかしその人物の悪党ぶりは、どうも既存の人間の価値観を大きく超えているようにも思うのだ。普通に「悪人」と呼ばれる人物のレベルではない。奇妙な喩えになるが、少年漫画等のアンリアリスティックな物語における「悪の天才」のような、一見無意味なことに傾倒する無邪気さみたいなものを兼ね備えているだけに、その「非情な兇悪ぶり」が一際目立っている。ただまた、彼を兇悪な人物と言い切れないところがまた物語を複雑にしているのだが。果たして内面に何を抱えているのか。結局これが、現代人が心の底で抱えつつも、ほとんどの人間が発現させることなく抱え込む悪意の象徴なのであろうか……。複雑な読後感を残す作品である。

生半可な気持ちで読み出すと、拒絶されるか火傷する。 物語の内部に込められているぎっしりとした「人間の重み」「尊厳の軽み」のいくつものエピソードをひとつひとつ噛み締めることになる作品。いわゆるノワール、重厚なハードボイルドの一つの到達点という評価もできよう。強烈。


03/03/25
松尾由美「ブラック・エンジェル」(創元推理文庫'02)

『バルーン・タウンの殺人』を筆頭に、SF設定本格ミステリの先駆けとして松尾さんの名前はミステリファンの間でもそこそこ知られるようになっている。ただその松尾作品、比較的コンスタントに作品を打ち出しているにもかかわらず、文庫になかなか入らないこともあって初期作の一部は入手が困難となっているのが現状。特に本作、その松尾さんの一般向け初長編という価値だけでなく、出版元が光風社出版だったり、元版の版型がちょっと特殊だったりとさりげなくも入手が困難だった一冊。私も古本屋を相当回る方ではあるけれど、一度きりしかオリジナルを見かけたことがなく、しかもその時スルーして後でめちゃくちゃ後悔したもんだ。

ある事情からオカマを演じている大学生の加山孝二、通称コーちゃん。彼と大学の女王様的雰囲気のある岡埜映子、ミーハーで軽薄な雰囲気が魅力の久保田奈緒、一浪していて落ち着いた雰囲気を持つ森井芙美子、二枚目の島本、それに大垣といった六人で構成される「マイナーロック研究会」。彼らが注目のバンド、テリブル・スタンダードのファーストアルバムをどうしても聞いてみたい、という岡埜の願いに応え、島本が中古CD屋回りをして幻の一枚を見つけてきた。旅行に出ていた大垣を除く五人が揃って岡埜の部屋でそのCDを演奏させたところ、なかの『ブラック・エンジェル』という曲の最中、翼を持ったミニチュアの女――と見えた存在が突如部屋に現れ、岡埜の右手を握って持っていた果物ナイフを彼女の胸に突き刺した。その人形のような存在は当然いなくなり、瀕死の岡埜が残される。岡埜は結局死亡し、警察の事情聴取に対して孝二らは彼女が自殺したかのような供述を行う。ただ一人、森井は正直に見たままを警察に話したものの相手にはしてもらえない。一体彼女は何に刺し殺されたのだろう? 残された研究会の面々はそのCD屋とわたりをつけて、そのCDを売ったという男と会見する。彼――ダグラス、サザーランドは日本語を操る怪しい西洋人。彼は研究会の話を聞くと一緒になって事件を考えてくれた。だが彼は同時に帰り際にCDを岡埜のものと自分のものをすり替えていた。

ベースはファンタジー。だけどミステリのコードが横溢する不思議な青春ストーリー
ワタシ的に「ブラック・エンジェル」と聞くと反射的に思い出すのは平松伸二による『ブラック・エンジェルズ』という漫画の方。自転車のスポークを耳からずぶずぶと刺して「地獄に落ちろ……」と呟く雪藤洋二の冷たい瞳。必殺仕事人の現代版ないし、ザ・ハングマン(但し序盤から中盤にかけて。途中から超能力ストーリーになっちゃう。)というその非情ぶりは、後の各種のミステリ作品に多大な影響を与えた、かもしれない。ラストはどうなったっけか。

 閑話休題。それは全く別の話。

レアもののCDから飛び出してきた「黒い天使」のようなものが、友人を刺し殺した。本格パズラーのファンならば、そう錯視させる何かトリックがあったのでは、と疑いそうなプロローグなのだが、本書の作者は松尾由美、これはこれで大前提として物語内部における真実である。本書はその「黒い天使」が、一体どういう存在なのかを突き止めるのが主題となった物語。ただ、それだけでなく(当時ならではの)大学生らしい行動と、若者らしい感情や思いの行き違いが伏線や物語の起伏を織りなしており、この時期の若者にしか醸し出せない青春的な味わいをもまた深く感じさせてくれる。また音楽やアートの分野にて成功を収めたという作中の人物たちと、実際に作中でも名前が挙げられる実在するアーチストとをうまく絡ませており、何か本当に彼らが実在しているかのような錯覚(少なくともテキストでしか描かれていないにかかわらず彼らの曲や画のイメージは浮かんだ)を味わわせてくれるのも特徴だといえる。この時期のブリティッシュ・ロックを聴きたくっていた私だけが持つ感慨の可能性もあるが。
また、物語を引っ張る人物たち、例えばオカマを演じている主人公のコーちゃんをはじめとする、登場人物の個性がさりげなくも実にうまく引き出されている。一般小説的な感覚となるのだが、何気なくサークルを作っちゃった……といった六人。世話好き、我が道を行く、軽薄、女王様……等々タイプはいろいろなのだが、その人間関係を構成する「距離感」とでもいった点が抜群。 この時期の若者ならではの人間関係の拙さによって浮かび上がるのが個性であり、若者らしさへと繋がっている。彼らによる謎解き、なぜ岡埜はブラック・エンジェルに刺されたのか……という謎がロジカルに(いやレトリカルに?)解かれるさまも勿論面白いのだが、そういったミステリ的な興趣にこだわって楽しむだけの作品ではないだろう。ほろ苦さを感じさせる青春小説としての味わいからも十二分に評価できよう。

ネット系の方には付加価値がもう一つあって、この創元推理文庫版、解説があの、大矢博子女史なのである。解説でも「なまもの!」節が炸裂! ……とまでにはいかないが(抑え気味)、彼女ならではの個性が出つつもしっかりと「解説」にもなっているという、よく出来た文章。本書をオリジナルで読了済みの方も、文庫は文庫でその部分は要チェック。


03/03/24
横溝正史「病院坂の首縊りの家(上下)」(角川文庫'78)

'54年に旧『宝石』誌に前編のみ掲載され中絶した『病院横町の首縊りの家』(鮎川哲也編『鯉沼家の悲劇』所収)という横溝正史による幻の中編作品があった。その後、同誌にて別の二人の作家、岡田鯱彦、岡村雄輔両氏によってそれぞれによる別々の解決編が発表されて話題となった。その一方で、長らくの中絶期間を経て'75年より横溝氏は本長編を『野性時代』に連載を開始。長らく決着をつけていなかった中編作品に区切りをつけるに至った。またこの作品を最後に名探偵・金田一耕助が米国に渡ってしまうため「金田一耕助・最後の事件」としても知られている。

昭和二十八年の夏、金田一耕助は本條写真館の息子、直吉の訪問を受ける。明治から戦前にかけて法眼一族によって大病院が経営され”病院坂”という地名にまでなった元屋敷、空襲によって廃墟となったこの家で奇妙な結婚式写真の撮影依頼があったというのだ。丁度、法眼一族を取り仕切る弥生からの依頼でその孫娘、由香利が誘拐されたのではないか、という事件のために動いていた耕助は、彼の話に興味を引かれる。毛むくじゃらの大男と、病的に白い肌をしたか弱そうな女性との結婚式はジャズの演奏と共に催され、翌朝にはその屋敷は空っぽになっていたのだという。屋敷には戦後すぐ、法眼家の主人の愛人だった女性が首を縊って死ぬという事件が起きており、どうやらその結婚した両人はその女性の異父兄妹であるらしい。彼らはアングリー・パイレーツというジャズコンボに所属していたが、その仲間内でいろいろと問題が発生していた。数日後、再び写真撮影の依頼を受けた本條写真館は、息子のみならず父親と助手の三人で嵐のなか、再びその病院坂の首縊りの家に赴き、そこで風鈴に見立てられたかのように天井からぶら下げられた大男、山内敏男の生首を発見する。たまたま巡邏中の警官がそれを発見するまで彼ら三人は生首を写真に収めていた。事件は耕助の活躍により、ある人物を犯人として一応の解決を見せるが、それから二十年、齢六十となった金田一耕助と警察を引退した等々力元警部が、法眼・本條の一族の絡む事件を引き受けることになる……。

壮大かつ緻密、そしてグロテスクにして哀しい結末。金田一耕助最後に相応しい事件
金田一耕助が探偵役を努めた作品は、横溝正史の生涯のなかでも数十作が存在するが、この長編は一時期スランプを迎えて沈黙していた横溝氏が『仮面舞踏会』にて復活を遂げた後に執筆された後期の長編ということになる。執筆されたのは七十歳を越えていて、この緻密な作品が上梓されたことはそれだけでも驚異に値すると感じるが、何よりも作品の出来もまた素晴らしい。特に横溝作品における「複雑に絡み合った姻戚関係」が主軸を為す点は戦後に発表された従来の横溝作品と同じ系譜ながら、明治期の初代から延延と続いて、昭和四十八年までの一族の盛衰を描ききるあたりの構成力は驚異。また当然、その一族が事件に深く関わってくるのだが、その大河ストーリーの内部には「探偵小説」という分野が特有して持つエネルギーがぎっしり詰まっている。
昭和二十八年の惨劇の真相、そして昭和四十八年に再び起きる惨劇の真相。それぞれの惨劇の謎は別々にあり、真犯人の存在も別々に存在しながら、その動機となる部分に共通点がある――殺害方法等のトリックはさすがに焼き直しなどであるのだが、二重三重に秘匿された壮大な事件の構図をしっかりと描ききっているあたりのパワーには素直に圧倒される。特にこの両事件を支えるロジックがどっしりと聳え立っており、関係者が共通しているにもかかわらず物語そのものはむしろすっきりした印象さえ覚させられる。ロジカルなトリックが凝らされ、長期間にわたる謎があり、耕助の活躍が冴える――。ふぅ。お腹一杯。
もう一つ特筆すべきは、この二つの時代の風俗を両方ともきちんとメリハリをつけて描いている点にもあるだろう。戦後のジャズ・コンボと、戦後の歌謡界に限らず、彼らの服装であるとか行動様式であるとかがごく自然に書き分けられている。また尺貫法で表現されている先の事件に対し、後の事件ではメートル法が使われているなど、細かい点に対する気配りも十分。総じて陰惨な事件であるのに、不思議と後味がそれほどひどくないのもそこに歪みながらも愛があるから。 こういった処理もまた横溝流ならではの美学といえるであろう。

中学生くらいの頃以来の再読。本作品は石坂浩二主演の金田一耕助最後の映画作品となったことでも有名。(一般的にはそちらの方が原作よりもよく観られているのではないだろうか)。そう意識したわけでもないだろうが、不思議と映像ばえするような描写が多いようにも思う。元より、横溝氏の作品には明暗のコントラストが多いのだが、その独特の表現手法はこの段階においても未だ有効だったということか。読み返すだけの力のこもった作品であった。(最後の一文のみ中島河太郎風)


03/03/23
東川篤哉「密室に向かって撃て!」(光文社カッパノベルス'02)

光文社カッパノベルスのノンジャンルエンターテインメントの登竜門、カッパ・ワンの第一期生四人のうち一人、『密室の鍵貸します』にてデビューした東川氏の書き下ろし第二作。前作と同じく烏賊川市の二人組刑事と探偵の鵜飼はとにかく、前作の被害者である大学生、戸村流平までが登場して完全にシリーズ作品の体を為している。

関東の地方都市、烏賊川市の警察に勤務する砂川警部と志木刑事。彼らはチンピラとの喧嘩の結果、傷害及び器物損壊の容疑を受ける四十一歳の金属加工職人、中山章二の逮捕に出向いていた。アパートに踏み込まれた中山は密造銃を取り出して彼らに対抗、あろうことかアパートの四階から飛び降りて墜死してしまう。しかも彼が握りしめていた銃は行方不明。何者かが持ち去ったと思われた。二週間後、馬ノ瀬海岸にてホームレス、松金正蔵が銃殺死体で発見され、その銃が凶器となったことが発覚する。その松金に仕事を手伝って貰っていた探偵の鵜飼は警察に事情を聞かれて事件を知り、彼の供養のために大学生の戸村と共に現場に赴く。戸村はその近辺に住む烏賊川市きっての名家の娘、十条時さくらと知り合い、成り行きで祖父の十条時十三と食事を共にすることに。十三は「名探偵」の噂を戸村から聞き、さくらの花婿候補三人の素行調査を鵜飼に依頼する。家賃のためにいやいや行った調査報告のために再度十条寺邸を訪れた鵜飼と戸村は、そこで殺人事件に遭遇する。絶壁上に建てられた離れで撃ち殺された花婿候補者。しかし犯人らしき人物は消失。これは一種の密室であると張り切る探偵たちだったが……。

ロジックの本格パズラーにして、作者が露出を控えた分、文体の醸し出すユーモアが却って増した?
前作を評した時にハッキリ書いたが、私はこの作家の文体が好きだ
最近の作家がユーモア・ミステリーを目指した際に陥りがちなのは、登場人物に「笑いを取れる」人物を配して駄洒落や、奇矯な行動をさせることによって「作られた笑い」を生じさせること。しかし、こういった初めから「狙ったギャグ」というのは余程にツボに入らない限り、(作者が意図するほど)読者が爆笑させられることは、実際はほとんどない。
一方、本作。登場人物はとぼけている。とぼけているが大真面目。わざとギャグを狙うのではなく、単なる大ボケの人物を配し、彼らに大真面目に行動させるだけである。そこで生まれるのはどこか落語めいた面白さ。漫才やコントの鋭いツッコミではなく、とぼけた味わいが何とも自然なおかしさを汲み上げる。期待の裏切り、そして繰り返し。先鋭さよりも伝統の笑いのツボをこちょこちょくすぐるやり方が読んでいて何とも心地よい。前作では多少前面に出過ぎていて気になった「神の声」=「作者」の存在が今回は控えめに(存在は確としてあるにしろ)なって、人物のキャラクタによる掛け合いでしっかりと笑いを取れるようになってきている印象で作品としての独特の個性がうまく伝わってくる。
一方、ミステリとしてはどうか、というとこちらは実にオーソドックス。八発の弾丸が装填できる密造銃が中心となって醸し出される謎。衆人環視の密室状態での殺人事件、そして各所に鏤められた伏線の数々。結局のところは「コレしかない」というところに持ち込むのだが、それまでの議論の部分が浅すぎる(これも狙いか)点はとにかく、ミステリ部はあくまでロジカルに回収しようと努めていることがよく分かる。名探偵と助手の組み合わせの推理という趣向も面白く、実に正統派の本格パズラーとなっている。ちょっと小味な気もするが、トータルでみた場合のバランスでは良い感じ。

4月デビューで次作がすぐに10月に刊行されるあたりは、書きためてあったのか、筆が早いのか。烏賊川市という架空都市と、登場人物とのマッチングが小気味良く嵌った快作。コンパクトにまとめられているなかで、しっかりとした本格へのこだわりと、自分のスタイルを貫き通す筆力に好感。まだあまり世間的に評価は高くないような印象だが、個人的には今後楽しみな作家だとしておく。


03/03/22
島田荘司「セント・ニコラスの、ダイヤモンドの靴」(原書房'02)

1999年のクリスマスイヴに刊行された『最後のディナー』はCDジャケットサイズにその装幀から「そのままクリスマスプレゼント」ということで話題となった。本書はそれから三年後の2002年のクリスマスイヴ、まさかの同サイズにて刊行された同じ趣向を持つ一冊。表題作は'00年「季刊・島田荘司」に掲載された作品で、別に書き下ろされた『シアルヴィ館のクリスマス』が併録されている。

スウェーデン、ウプサラ大学の同僚とシアルヴィ館にて語り合う御手洗。クリスマスの話題はいつしかロマノフ王朝の女帝、エカテリーナ二世へと移り、御手洗は二十年前に東京で起きた事件について語り始める……。 『シアルヴィ館のクリスマス』
その二十年前の事件。『占星術殺人事件』を解決したばかりでまだ無名の御手洗と石岡。彼らの元に訪れた無邪気なおばさんの何気ないお喋りから、御手洗は事件の匂いを感じ取る。両手を胸の前で組み合わせてうろつく男たち。教会に礼拝に来ているのに、雨が降ったといって大慌てする家族。あろうことかその身内のお婆さんが倒れて救急車を呼ぶ羽目に陥ったにもかかわらず、穴堀りを決行する夫婦。御手洗は彼ら夫婦の娘に電話するようおばさんに頼み、今は親戚のところにいていない、という返事を聞き、事件の存在を確信。何がなんだか分からない石岡とおばさんを尻目に、捜査一課の竹越警部と連絡を取り始める。 『セント・ニコラスの、ダイヤモンドの靴』

島田荘司流「泣かせ」の系譜。御手洗サンタが運ぶ、穢れない子供への「プレゼント」
『最後のディナー』は当時の島田氏の作風(というかビジネス?)に否定的だったこともあって、私自身はっきり「酷評」したと記憶している。果たして本作は?
――短編作品というよりも『セント…』への導入部分にしか過ぎないようにしかみえない『シアルヴィ…』は前作同様、「?」の作り。これが『セント…』のなかの挿入話として描かれていたら何とも思わないところなのだが、このごく短い蘊蓄満載の部分に短編として題名をくっつけるのはいかがなものか。まぁ、そこはそれ。『セント…』の方は、昔の御手洗作品らしさの漂う中編。特に御手洗の奇人ぶりが、初期短編集を彷彿とさせて面白くも懐かしいような気分にさせてくれたので、こちらの方で帳消し。これはこれで良し。
おばさんの何でもなさそうな世間話から重大な謎を発見する御手洗。これだけでも全く何もないところから事件を嗅ぎ出すと、名探偵としての特異な才能が多いに感じられ、素直に「ほう」と思わされる展開。事件当事者を凌駕する御手洗の思考の早さに事件はあっというまに解決――の筈が、誘拐事件にあったと思しき両親が腹に一物あったり、時価十数億円といわれる歴史遺産である「セント・ニコラスのダイヤモンドの靴」を巡る一風変わった盗難騒ぎがあったりと、展開のスピーディさはとにかくGOOD。この読者さえも置いてけぼりにするサスペンス性は島田作品初期の御手洗もの特有の味わいといえよう。特に「花壇の穴」という小道具に対して普通は気付かないような角度から視点を当てて軽妙な謎に仕上げる手腕や、ロジカルな罠によって関係者を追い込んでいく御手洗の底意地悪さのような部分、更には石岡を徹底的に軽視する姿勢等々に往年の短編における冴えが感じられる。
一方、不満…というほどのものではないだろうが、夢を失った子供(そうでないケースもままある)に奉仕する御手洗&石岡という主題、彼らのささやかな夢を叶えるために奔走する御手洗&石岡という構図が、「あ、どこかで見たかも……」というパターンになりつつあるように感じられる点、ちょっとだけ気になった。(逆にいえばこのシリーズにおける「泣かせ」のパターンという考え方も出来るのだが)。とはいえ物語の構成といい、二転三転する靴の行方といい、御手洗作品らしい奇抜な着想が味わえる佳品といえよう。特に後半の引っ張りが嫌みになっていない点も評価したい。

ただし実質は中編一つという内容に対する1,500円という定価はちょっと「?」。『季刊 島田荘司』を買い込む熱心なファンは既に表題作は既読の訳で、冒頭の短編といえない短編に対価を支払うと思うと気の毒。この装幀が気に入った! という方だけ本書で購入すれば良いような。暫くすると某ノベルスあたりに落ちる気もするので、普通の島田ファンであれば、それから購入しても遅くないかも。


03/03/21
東野圭吾「手紙」(毎日新聞社'03)

毎日新聞の日曜版に'01年の7月より翌'02年の10月の長きにわたって連載されていた作品に加筆修正が加わって刊行されたもの。犯罪が主題となっているが、ミステリというよりは問いかけのニュアンスが強い一般小説といった趣き。

父親を喪い、家計を一人で背負っていた母親が倒れて二人きりになった兄弟、武島剛志と直貴。兄はその直後から高校を中退して、比較的勉強の良く出来た弟を大学に行かせるために働き始める。中学生だった直貴はそんな兄貴の心意気に応えるかのように必死に勉強し、偏差値の高い公立高校に合格、しかし大学進学のためには更にお金がいる――。そんな矢先、剛志は働いていた運送屋で腰を痛め、収入の道が立たれてしまう。弟の大学進学費用を作るために、剛志は仕事で訪れたことのある裕福な老婆の一人暮らしの家に入り込み、首尾良く百万円をせしめかけたが、不在と思いこんでいた老婆に騒がれたために思わず彼女を刺し殺してしまう。激しい腰痛で動けなくなってしまった剛志は逮捕された。突然の出来事に直貴は呆然とするが、「人殺しの弟」となってしまったがための苦難は始まったばかりだった。まずは大家に立ち退きを請求され、生活の手段を必死で探し求めることになった。卒業を目前にした生徒の苦難に、担任の梅村はエスニック料理店でのアルバイトを紹介してくれるが、直貴の素性が知られることでそこもまた退職に追い込まれる……。

目からウロコ。犯罪者だけでなく、その身内が弾劾され、差別されることの意味とは
本書の主人公は「兄が殺人を犯してしまった弟」である。天涯孤独の二人、殺人犯である兄のたった一つの係累が、真面目で出来の良い弟。しかし、当時高校生でこれから人生が始まる……という瞬間に、彼に張られるのは「犯罪者の弟」というレッテル。そんな彼の生き様が物語を形作る主題となる。彼らを結ぶのは、ほとんど兄から一方通行に送られてくる手紙。その手紙に弟が返事を書くとき、物語が終わる……。
「犯罪者の身内」という主人公に対して接する人々が本書には数多く登場する。恐らく他の読者も同じように感じるかもしれないが、私自身が心の奥底に隠している狭い物の見方・精神をなぞるかのような人々が現れ、主人公を傷つけるたびに、あたかも自分自身が彼を傷つけているかのような哀しい思いに囚われる。 あからさまに彼を罵る人、友達づきあいを止めてしまう人、表面上は普通に接しながら裏で陰口を言う人、利害関係がないうちは友達づきあいしながら、何かあると離れていく人。様々な人物がいて、主人公はそのたびに自分自身に原因がないにもかかわらず挫折を繰り返す。だが、彼らの態度を断罪するのが本書の趣旨では決してない。
普通の作品であれば「それでも主人公は生き甲斐を見つけて逞しく生きていくのでした、ちゃんちゃん」とお茶を濁しそうな物語を、東野氏は真っ向から問いかけてくる。「なぜ、犯罪者のみならず、犯罪者の身内までが罰されるのか」と。犯罪者の身内であっても正々堂々生きていく、というのはフィクション、ないし自己満足でしかないことをきっちり断定し、さればどうすれば、という点についても一つの解を作者は提示する。それが犯罪を犯すこと、償うことであるのだと。これが唯一の正解だとは思わない。思わないが、一つの選択肢であることは恐らく間違いはない。
犯罪という行為が引き起こすこと、本人が納得すればそれでいいというものではないことを本書はしみじみと伝えてくれる。現代人は想像力がない、といわれる。犯罪を犯すにあたっても、見つからなければ、捕まらなければいいとしか考えない。そういう人たちは読書そのものをしないかもしれないが、もし一冊でも本を読む機会があれば、是非とも本書を選んで欲しい。罪は、犯した人間一人が被れば良いものではないのだ、ということを一人でも多くの人が知ってくれんことを。

誰もが既に知っていることかもしれないが、東野圭吾は凄い作家である。どこかその凄さの源泉は小説家としての「器用さ」にあるような錯覚を覚えていたのだが、改めて認識した。全方位的に凄いのだ。その作品一つ二つを読んだだけではその凄さの全てを認識できない。東野作品数十作を重ねて俯瞰すると、トリックに秀でた作品、ストーリーに秀でた作品、サスペンスに秀でた作品、テーマの掘り下げに秀でた作品と、一人の作家で「何でも揃う」ことに気付かされる。そしてその全てにおいて、小説の基本である構成力、そして読みやすくもしっかりと確立した文章力が備わっている。既に評価は定まっている感があり、私が別に読まなくても……という思いがなかったとはいえないが、やっぱり「読むと読むたびに凄さ」がひしひしと伝わってくる作家だと思う。少なくとも私にとっては、一生かけてでも全ての作品を読破すべき、現役稀代のエンターテインメント作家。