MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


03/08/20
海渡英祐「咸臨丸風雲録」(講談社ノベルス'83)

第13回江戸川乱歩賞を『伯林―一八八八年』にて受賞した海渡氏。その後は、ストレートな本格パズラー作品や競馬もの等、幅広い作品を世に出していくのだが、やはり『伯林…』同様の、歴史的事実を根底に据え、そのうえにフィクションを重ねる本書のようなタイプには、深い味わいがある。本書は海渡氏の中期から後期にさしかかる時期の作品で、本ノベルス版以降、文庫化はされていない。

安政四年十二月。日米修好通商条約の交渉が行われた際、日本は条約の批准書の交換をワシントンで行いたいと申し入れた。安政七年、米国軍艦のポーハタン号が正使を迎えに訪れることになっていたが、もう一隻、日本側も遠洋航海の訓練と護衛を兼ねて別の船を出すことが決められた。紆余曲折の結果、使用する艦船は咸臨丸と決定、操練所頭取・勝麟太郎らが中心となって準備を進めていた。通訳として中浜万次郎、そして軍艦奉行・木村摂津守の従者として、福沢諭吉もその乗務員に名を連ねていた。しかしその出帆直前、水夫小頭で粗暴な振る舞いの目立った久次郎が海辺の小屋のなかで他殺死体となって発見される事件が発生。死体の脇には「Wh」と書かれた紙切れが落ちていた。下手人の分からぬまま咸臨丸は出発。補佐役として乗り込んでいた米海軍士官ブルックとその部下による補佐により、何とか最初の暴風雨を抜け出すことに成功した。だが今度は船中で久次郎の幽霊が目撃され、船内の虎の子の食料や水が無くなっていくという事件も起き、米国人と日本人水夫の仲が険悪に。更に船内で殺人事件が発生するが、その死体が消失してしまうという事態が起き、咸臨丸の前途が危ぶまれた。

近代日本黎明期ならでは歴史の輝き。加えて、その”時代”を如実に活かしたミステリと
いわゆる徳川幕府末期と明治維新は時代的に継続しており、明治維新前後に活躍する人々のバックボーンは、当たり前だが徳川時代の末期に存在する。鎖国を旨としつつも、それが破られつつある時代。先進的な人々は、外国の文化や先進的な気風に憧れる一方、そうでない人々は、外国や外国人に対して表に出来ない畏怖のようなものを覚えている。咸臨丸が米国に向けて出帆したのは、そんな世相を背景とした時代であった。
いわゆる”歴史ミステリ”は、歴史背景を従とし、ミステリ部を主とした作品が多いものだが、本書から受けるイメージはあくまで歴史的事実が主、そしてミステリが従である。 咸臨丸がどのような背景で、米国に向かうことになったか。人選はどのようにして為されたのか。複数の史実として残る航海日記を突き合わせて、実際の船旅がどうであったのか……、といった点について、詳細に当時の資料から読み取りが図られ、きっちりと再構成されている。実際の航海の様子に加えて、木村摂津守と勝麟太郎との葛藤、同じく米国人士官と勝麟太郎との葛藤と芽生える友情等々も、物語演出のためのフィクションというよりも、史実から妥当に類推できる範囲ではないだろうか。
ここにフィクションとしてのミステリが”従”として加わる。水夫殺人事件。謎の遺留品。船上での幽霊騒ぎに殺人事件。謎そのものは、海渡氏による演出により巧みに読者に「?」を提供する。しかしながら、その犯人や真実は、先に述べた「この時期の歴史的環境」抜きにはあり得ないものとなっている。 証拠品に関する文化的な背景、そしてその動機。それらが哀しくも、どこか前向きな明るさを感じさせてくれるのは、結局、歴史を”主”として描いた結果、招かれていることだといえるだろう。

史書の引用が為されるなど、当時の歴史を反映しようとする余り、漢字や難易度の高い表現が多用されているきらいがあり、文章そのものは、慣れるまでは多少入り込みづらいかもしれない。ただ、だからこそ、この作品世界を創り上げられているともいえるだろう。ミステリファンで、かつ幕末〜明治期の歴史がお好きな方なら、読んで損はない一作。
個人的には本作から、現代における柳広司氏の一連の歴史+ミステリ作品群への繋がりを少し想起した。


03/08/19
二階堂黎人「猪苗代マジック」(文藝春秋 本格ミステリ・マスターズ'03)

二階堂黎人氏のデビュー以来、氏の作品にて名探偵として君臨する二階堂蘭子。彼女による昭和四十年代を舞台とするかのシリーズと並び、現代を舞台とするケースにて、もう一人の代表的な名探偵の役割を果たすのが、この水乃サトルである。長編としては'95年発表の『軽井沢マジック』、『諏訪湖マジック』に次いで三作目にあたり、他に大学生・サトルの登場する『宇宙神の不思議』、短編集として『名探偵 水乃サトルの大冒険』がある。

十年前、福島県にて猟奇的な連続殺人事件が発生していた。《処刑魔》と名乗る犯人によって、県会議員など私利私欲のために不正行為を働いていた大物政治家らが次々と殺害されていたのだ。しかも、被害者は拘束され人体各部を切り落とされるなど嬲り殺しにされており、現場には新聞から切り取った活字によって作られた犯行声明が残されていた。四人目の被害者となるエリート警察署長が殺害された後、犯人は逮捕され、裁判の結果、極刑が命ぜられた……。
それから十年後。水乃サトルは勤務する日本アンタレス旅行社の同僚・美並由加理と共に福島県磐梯山麓にある《スノーランド猪苗代》の実地取材に出かける準備をしていた。その彼のもとに捜査一課に勤務する馬田が押し掛ける。彼は、たまたま現場に由加理と友人が居合わせた四谷駅構内で、何者かに突き落とされて死亡した老人の身許を探っていた。老人の言い残した「熱海」が福島県の磐梯熱海だとサトルは看破。馬田は礼を言いつつ「サトルといると事件に巻き込まれる」と予言(?)する。その通り、二人が滞在する猪苗代湖畔にて、《処刑魔》の犯行を模した連続殺人事件が発生、興味を持ったサトルは無理矢理に事件捜査に協力する。

密室、アリバイ、そして……。ストレートにサプライズに挑んだサトルシリーズの成功作
密室殺人にアリバイトリック、そして事件全体の構図を覆うもう一つのトリックとして、十年の時を隔てて蘇る《処刑魔》の存在……、とミステリとしての核となるトリックが盛りだくさん。そして、物語のなかにトリックがあるのではなく、トリックが膨らんで物語となる二階堂氏ならではの創作作法に則ったと思しき、ストレートに”本格ミステリ”を指向した作品だといえるだろう。いろいろネタが仕込まれているなかで、個人的にはタオルのトリックの使い方に感心した。そういった試みの結果として、それぞれのトリックがトリックとして際立っている点、そしてその解決にきちんとしたロジックが鏤められている点が素直に高く評価できるし、また最後の一行でサプライズを呼び込んで、そこで物語を打ち止めてあるところも良い感じ。(だらだらとした説明がないところが良い)。ただ、(ネタバレにて反転) 《処刑魔》に対するレッドへリングがあからさまに効き過ぎていて(当然、《処刑魔》は角田副署長だと思うわな)、別の人物が犯人でした! という点は確かにサプライズを呼ぶのだけれど、その人物が物語中であまり重要な役柄を与えられておらず印象が実に薄い点、また、果たして平巡査が巡査長となる程度の人事が、トップの死亡による玉突き人事で発生しうるのか? というあたり 読み終えてから「?」も浮かんで来たりもした。

もう一つ、本書では現代の政治家や官僚による公益無視の利権体質がサトルの口を借りて批判されている。しかし、その一方で、例え捜査協力とはいえ、自らの知識欲を満足させるために、ありとあらゆる伝手を辿って警察上層部に圧力を掛け、ちゃっかり捜査に参加するサトルの遣り口もまた、批判対象の政治家ともまた(少なくとも手段においては)同レベルのように思えた。このあたりは二階堂氏における創作の要諦とはあまり関係ないがため、それほど重要視されていないように思われるのだが。

二階堂氏の創作理念がきっちり発露したトリック中心の本格ミステリ。作品内に手を変え品を変えた色々な仕掛けが凝らされており、読者に対してフェアな手掛かりを配した端正な本格ミステリとして評価できる作品である。ただ、付随するもろもろの細かな点が、気になる人には気になるかも。


03/08/18
芦辺 拓「保瀬警部最大の事件」(カドカワノベルズ'94)

第1回鮎川哲也賞を『殺人喜劇の13人』にて受賞してデビューした芦辺氏だが、'90年に刊行された同書より数年、単行本の刊行がされていない。'94年になって『殺人喜劇のモダン・シティ』が東京創元社より刊行されるのだが、奥付的にはその一ヶ月前に発行された本書が第二長編という扱いになる。歴史作品『明清疾風録』と共に現在は「お蔵入り」となっており、復刊ドットコムにて投票が募られている。

トレンチコートに身を包み、螺鈿細工仕込み鼈甲製という表紙の手帳を持ち歩く男、保瀬七郎。先祖にスペイン戦線に義勇兵として投じた祖父を持ち、熱い血を持つこの男、親の遺産を利用して四十三カ国語をマスターし(でも英語が苦手)、自動車及び諸種操縦免許、マジックから射撃、スキューバ、医学に盆栽とありとあらゆる世事学問道楽に通じ、現在三十近い年齢にして、なぜか××県警で警部として猟奇不可能犯罪の解明に邁進している。そして今、保瀬は上司の花菱警視や部下の阿地谷刑事と共に、豪奢にして陰鬱な屋敷、天狼館にて発生した『十七神家殺人事件』の関係者を集め、まさに犯人を指摘せんとしていた。その時。保瀬に指差された犯人は毒の凶弾に撃たれ倒れる。そこから警察と犯人一味による闇のなかでの過激な銃撃戦が開始された。しかし、これは始祖鳥のシンボルマークのもとに十三人の悪人が集った秘密結社 ARCHAEOPTERYXによる『計画Q』の幕開けにしか過ぎなかった! Q市長の命を受け、保瀬は秘密組織に対して闘いを開始する。

芦辺氏の持つ様々な蘊蓄&知識(映画・探偵小説etc)が詰まる、サービス過剰の一大冒険小説
芦辺氏のインタビュー等を聴いたり読んだりされたことのある方ならお分かりかもしれないが、現在、探偵小説に対して深い愛を注いでおられる氏の読書体験の原点は、実はSFにあるという。また、古典映画や芸能に対する蘊蓄を耳にされたことがあるかもしれない。そしてそれぞれについて深い理解があり、決して探偵小説一辺倒でここまで来ているのではないのが芦辺氏なのである。本書の場合、しばらくぶりに再読してようやく分かってきたのだが、そういった「芦辺拓」そのものが、ある意味詰まった作品だといえる。
物語の大筋としては、スーパーヒーロー保瀬七郎と、その愉快な仲間達と彼を慕う美女らが、採算と現実感を度外視した秘密結社(当然、秘密基地や数多くの戦闘員を擁する)と、手を変え品を変え、場所を変えて(何故か日本の中国地方が中心なのだが)戦い続ける物語。カーチェイス、銃撃戦、基地への潜入、肉弾戦、スパイ合戦、謎のメカ、お色気、そして大○獣登場に至るまで、ハリウッド映画の美味しい場面が立て続けに登場してしまうようなエンタメに徹底した展開、そして、そのめちゃくちゃぶりはスピーディであり、はちゃめちゃぶりはワンダフルですらある。知識に乏しいワタシに分かる範囲でも古今の映画や小説からの蘊蓄や、引用、そしてパロディシーンは数多くあるし、映画好きの方なら、恐らくもっと多く秘められた遊び心に気づかれることであろう。読者のバックボーンによって異なろうが、少なくとも誰にでもそこかしこに「ニヤリ」とさせられる要素が鏤められている。また、要所に挿入されるトニーたけざき氏によるイラストも良い。
ただ正直なところをいえば、(現在の芦辺氏の創作姿勢からは考えづらい程に) 物語が、いわゆる現実との整合性を全く気にせずに筆の赴くままに書かれているようで、場面の展開や切り替え、登場人物や武器等が唐突に登場し過ぎるところがあって、少々場面場面が読み手の頭のなかに浮かびづらくなってしまっているように思われる。読んでいて「ん? こいつら何してるんかいな」と、首をひねるところが結構あった。(分かってさえいればシンプルなストーリーなので、繰り返し読めば味わいが深くなるのであろうが、ある程度のリーダビリティも同時に要求される、現代エンターテインメントとしてはちょっとキツイか)。勝手に類推するに、少なくとも本書が加筆修正なしに復刻されることは、読者が望んだとしても、現在の芦辺氏は納得しないのではないか。いつかリライトされる日がくれば、本書が超絶のエンターテインメントに生まれ変わる可能性があるにしても。

おおよそ十年前に刊行されたノベルス版で、少し前までは結構古書店でも見かけたのだが、最近はほとんど見かけなくなった。ドタバタ系のエンターテインメント小説がお好きな方にとっては、相当に楽しめる作品の筈だが、現在のストレートな芦辺本格ミステリを好まれる方がいきなり手に取られても、ちょっと戸惑われる可能性もありそう。


03/08/17
内田康夫「鄙の記憶」(幻冬舎文庫'02)

巻末の著作リストによれば、本書は氏の109冊目(但し企画もの含む)の作品で浅見光彦シリーズ、読売新聞社より'98年に刊行後、'00年に幻冬舎ノベルスとして再刊行され、更に同社にて文庫化されたという作品。

静岡県の寸又峡にてテレビ局記者・久保が転落死を遂げた。プライドが高いうえ、最近、地元建築業者の談合ネタを下手に捌いたことから地元の記者仲間から総すかんを喰っていた彼の死は自殺と、当初は考えられた。しかし、大手東読新聞社の島田通信部詰めの老記者・伴島の自宅に、死の直前の久保から「『面白い人』に会った」と電話が入っていたことから、伴島は他殺を疑う。伴島の追及によって、寸又峡近くのホテルに偽名で宿泊していた謎の人物がおり、更に彼もまた寸又峡から転落死していたことが発覚する。その人物は住田といい、秋田は大曲にて、地元の旧家の財産分けの際に一億四千万円を奪い、強盗殺人の罪で手配されていた。一方、ルポライターの浅見光彦は、学生時代の知り合いであった久保の細君から、警察がはっきりしないので久保の死の真相を明かして欲しいという依頼を受け、寸又峡を訪れる。彼は、住田が隠していた数百万円の現金を旅館から発見、第三者の事件への関与を看破する。伴島はかつて大曲の通信部に在籍していたことから、休暇を潰して真相追及のために、大曲へと向かうが、同地で行方不明となり、死体となって発見された。

ミステリとしては「?」だが、旅情を掻き立てる手腕はやはり超一流
さすがに”つかみ”が上手い。 プロローグにて、秋田は大曲の有名な花火大会を背景にした強盗事件の点景、そして、もう一つは事件のきっかけとなる、最初の被害者が「面白い人」と出逢った際の風景が描かれる。静岡の片田舎にて日々の暮らしを送る老記者が、事件を通じてかつての”熱い記者魂”を取り戻し、連続殺人事件を追っていく……。
そして後半の大曲にて事件は大詰めを迎えるのであるが、こちらも途中までの展開は絶妙。警察の気づかない手掛かりを追って、「面白い人」とは誰なのかを突き詰めていく浅見。ただ、その人物は自信満々でアリバイを言い立てる……。犯人と思しき人物たちの犯行の可能性が全て否定され、最終的に明らかになる意外な真犯人と犯罪の構図。 これだけなら素晴らしいのだが、読者に対する伏線が十分に張られているとは到底いえず、その手掛かりも、どちらかといえば文章というより、映像向け。(写真を照合したり、とある登場人物がある人物と同一人物であったり……)。 読者がフェアな推理を行うことを全く気に掛けず、執筆しながら犯人を考えるという内田氏らしい後半の展開だともいえるだろう。
なので、ミステリとして高い評価を与えることはさすがに躊躇われるのだが、内田氏の真骨頂ともいえる”旅情ミステリ”という意味では、ほとほと感心した。寸又峡、大曲といった、決して観光名所ではあってもそれほどにメジャーとはいえない地域を取り上げながら、その地域地域におけるちょっとした事象や、明媚な風景の描写、土地の人々の言葉を含めた細やかなエピソードを積み重ねて、その地域の魅力を十二分に引き出している点、なかなか余人が一朝一夕に真似できるものではない。正直、その地域に全く興味がなかったにもかかわらず、「あ、ここはちょっと行ってみたいかも」という気分にさせられてしまうのだ。(殺人現場として描かれているのに……)。

リーダビリティは高く、平易な文章は読みやすい。また、内容的にも二時間ドラマを見慣れている人にとってはすんなりと頭のなかに映像が浮かぶ作品だといえる。浅見光彦のとぼけた活躍ぶりも相変わらずであり、世に内田康夫ファンが多いことは頷ける。何より、読んでいて全く疲れない作品だった。(しばらくすると内容を忘れてしまいそうだが)。


03/08/16
倉知 淳「過ぎ行く風はみどり色」(創元推理文庫'03)

'93年『競作五十円玉二十枚の謎』の一般公募にて投じられた解決編に登場した名探偵・猫丸先輩は、その後『日曜の夜は出たくない』にて本格デビュー。本書は猫丸先輩が登場する倉知氏の初長編にあたる作品で、'95年に同社から刊行された作品が文庫化されたもの。これを機会に再読してみた。

進路に関して祖父と衝突し、家を飛び出してしまい独身サラリーマン生活を続けていた成一は、母親の懇願によって、十年ぶりに世田谷の実家に戻る。一代で巨財を成した祖父・方城兵馬がボケはじめ、長年連れ添った妻の霊と暮らすのだといい、怪しげな霊媒師・穴山慈雲斎に入れ込んでいた。実家には成一の従姉妹で、幼い頃の交通事故で両親を喪い、それ以来、身体の不自由な佐枝子が住んでおり、かつて騎士を任じていたはずの成一は彼女を守ることを放棄したという後ろめたさを持っていた。慈雲斎を呼んできたのは成一の叔父にあたる直嗣で、成一の母は彼らに対抗すべく、若手心理学者を家に招き、祖父への説得を図っていた。正径大学の心理学科助手の神代・大内山のコンビは祖父を説得しようとするも、受け容れられず状況は泥仕合の様相となっている。そして成一が帰ってきたその日、祖父・兵馬は誰も近づけなかった筈の屋敷の離れにて、撲殺された死体となって発見された。成一は事件を猫丸先輩に相談する一方、兵馬の事件は悪霊のせいであると主張する慈雲斎は、降霊会の開催を主張、そしてそこの犯行不可能な状況下で、第二の惨劇が発生した。

さりげなくも練り込まれたトリックと、日常に浮かぶ非日常物語の希有な融合。「倉知淳ならでは」の本格ミステリ
本書のハードカバー版の解説にて法月綸太郎氏が、倉知氏を評して「天然カー」と呼んだ。確かに、霊媒師や降霊会等、さりげなくこめられたオカルティズムにまつわるかのような不可能犯罪が次々と発生した物語展開であり、その解決がまた明解である点等、カーを想起するのはもっともだとは思う。ただ、個人的に改めて思うのは、結果的に「そうなった」作品であり、倉知氏の狙いはまた全く異なるのではないか、ということである。(だから「天然」なのカー?)。 どちらかといえば、そういった凝った狙い以前に、しっかりと本格ミステリを表現したい、というもの(気持ちというか心意気というか)のように感じられた。
その例証はいくつか挙げられるように思うが、まずは、伝統的な「名探偵もの」の形式美。 都合三つの不可能殺人が、たまたま関係者が全員揃った場における「これは雑談ですよ」という猫丸先輩の前置きのなか、警察関係者までもが見守るなかで一気に開陳されるカタルシスは、いわゆる伝統的な本格ミステリの醍醐味といえるだろう。また、本格ミステリとして必要条件である伏線の美も、慎重且つ大胆に本書内部に張り巡らされている 例えば、ヒロインである佐枝子の”密かな恋物語”に込められた独白に込められた仕掛け。関係者のアリバイや、証言の端端に込めた作者の詐術。多少意味合いは異なるが、前もって説明を重ねておいて逃げ道を塞いだかのようにみえる降霊会の真実なんかも、ある意味伏線に通ずる微妙な表現だといえるだろう。
全体を通じてならば、三つの殺人事件の解決におけるミッシングリンクが存在するあたり、長編としての意義を考慮した結果ではないだろうか。小生の指摘する部分にミッシングリンクという言葉を当て嵌めるのは適当ではないようにも思えるのだが、結果的に三つの殺人事件全ての底流に、ある共通点が存在するように思える点がそれ。犯人の意図せざる共通の行為であったり、また、一つの綻びから全てが解けていくような”繋がり”であったり。結果として三つの殺人事件が短編としてではなく、長編の本格ミステリに取り入れられた意義もしっかり整えられている。
倉知氏本人にとって、プロとしての”腕試し”に近い時期に発表された本作だから、というわけではないが、どこか良い意味でのアマチュア臭さがある。それは、文章にしてもミステリとしてみた場合にしても商業出版に値しないとか、そういうことではなく、ミステリマニアが”自分の読みたいミステリを書いてみました”という、ちょっと稚戯めいた気持ちが、作品の端端から伝わってくる。そして、それが読者が同じように感じる気持ちと一体となることで、本作がさりげない傑作として記憶に残る要因となっている。

本文庫版の巽昌章氏による解説がまた絶品。本格探偵小説における「先輩探偵」という存在に目を付けて、いわゆる”日常の謎”ミステリについて短い文章で一論まとめているのだが、非常に説得力が高い論考となっている。本書を既読の方においても(例え立ち読みでも)この文庫解説は、目を通しておくだけの価値が、間違いなく存在する。


03/08/15
梶 龍雄「殺人回廊」(大陸ノベルス'90)

'77年に『透明な季節』にてデビューした梶氏が、唯一'90年代に刊行した作品にして、著者最後となってしまった単行本。本書のあとがきにおいて「去年(89年)に大病を強いられたがようやく完成に漕ぎ着けた」(意訳)という記述があり、発行日より二ヶ月が経過した90年8月に梶氏は永眠されてしまう。書き下ろし。

昭和二十年。内地においても敗色が濃厚となってしまった第二次大戦の末期。警察からも若手は兵力として人員が取られ、残されたのはベテランばかりとなっていた。そんな折り、警視庁の強力犯担当刑事であった堀川は、上司より、目白の御屋敷街にある新田公爵家に出向くよう、指示を受ける。公爵家の周辺に不審人物が数人現れ、屋敷内部を伺っているるといい、当家の娘・智加子のたっての要望もあり、署長は堀川に対し邸内からの張り込みを命ずる。しかし、男たちの正体は、新田家の行方不明の次男・光次をスパイ容疑で内定する”特高”の刑事たちであることが判明、逆に堀川は彼らより、屋敷内部の偵察を行うよう要請されてしまう。新田家を裏切りつつ、情報を得ることに感情的な煩悶はあれど、堀川は役目には忠実。内部情報を着々と調べていくが、いつしかその立場も露見してしまい、監視の役目から降りてしまった。しかし、その直後、新田家の三男・俊三が自殺したという報が警察に。慌てて駆け付けた堀川の眼には、事件そのものは他殺としか思えない状況であったが、新田家の刀自の強硬なる主張から事件は自殺として処理されることに。納得できない堀川は独自に事件を捜査するものの、現場は人の出入りができない密室状況でもあった……。

これこそ、梶龍雄ならではの試み ――人の命が軽視される戦時における殺人事件の意味――
題名の『殺人回廊』からは全く想像することができないが、本書は梶氏が得意としていた(もしかすると現代物よりも?)第二次世界大戦を背景にした作品である。今となっては、第二次大戦を描く作家であっても、いわゆる”戦中派”は少なくなりつつあり、戦後派の手によるものが多くなってきているが、梶氏の世代までは自身の体験をもとに、その戦争中の日常世界を描き出す。多少語弊があるかもしれないが、梶氏の場合、戦争や戦時の日常を扱いつつも、単純に”戦争の悲惨さ”や”平和の尊さ”を描き出そうとするものではない。(そういったメッセージ性が実際は根底にあるにしても) その戦争というものを”経験”として反芻し、どこか日本が通じてきた一時代として受け容れたうえで、そこに殺人事件やミステリを投げ込んでしまうという、奇妙な実験精神ないし遊び心といった姿勢がある
本書の場合、”密室”の作り方が、その意味で凝っている。”特高”に監視されていた家での犯人不明の殺人事件。つまりは”視線による密室”を実に自然な流れで体現しているといえるし、その殺された人物に対する疑惑も戦時中ならでは。また、終戦間際でのスパイ事件という扱われ方の微妙さや、公爵家ならではの体面、更には物不足や食糧不足といった時代背景が全て事件に溶け込んで、一つの”ミステリ”を形成している点、評価できよう。その謎や解決の中身についてはここで詳しくは触れないが、関係者が空襲に巻き込まれたり、機銃掃射で死亡していたりと、戦時中ならではの皮肉な経過を随所に盛り込み、論理の道筋を次々と行き止まりにした挙げ句、最終的な解決に持ち込むやり方に、この作品のテーマ性の深さを感じ取ることができる。ただ、最後の詰めの前後で関係者の証言が揺らぐあたりが読者に予見できるものではなく、”本格”という意味では、他の梶作品に比べると一歩譲ってしまうのが、多少勿体ない気もする。

とはいっても作品に瑕疵があるという程のことはなく、梶ミステリを代表するとまではいかないまでも、氏の実験精神を体現した一冊であることも間違いない。最大の問題は、版元が版元だけに部数がそれほど存在せず、今となっては入手がかなり難しい点にあるだろう。


03/08/14
岩井志麻子「女學校」(マガジンハウス'03)

'99年の日本ホラー大賞を皮切りに、山本周五郎賞、婦人公論文芸賞、島清恋愛文学賞と順風満帆の活躍を続ける岩井志麻子さん(シマコさま)。本書は'02年に『鳩よ!』誌に、そして同年引き続いて『ウフ.』誌に連載されていた作品が単行本化されたもの。大正時代を舞台に、真っ向から幻想小説に挑戦しており、これまでの作品にはあまり見られなかった傾向が感じられる。

元官吏で貿易関係の支配人の父を持つ”わたくし”こと花代子は、女学校を出てすぐ自由恋愛によって進歩的で社交性のある弁護士と結婚。板張りの床と革張りのソファ、飾り棚に収められた蔵書と西洋骨董人形のある自宅の西洋式の居間がお気に入り。その居間で花代子の話し相手をするのは、遣り手の商社経営者の家に生まれ、女学校を出てお見合いで会社経営者の元に嫁いだ月絵さん。彼女は夢見がちで可憐な美しさを持つ女性で、とても人妻には見えない魅力を持っている。月絵は、花代子の通った女学校の話を聞くのが大好き。いつものように花代子が話をする側に回っていたその日、彼女は月絵に対して、話をして欲しいと気まぐれから頼む。月絵はいつものような羞じらいを浮かべつつ「怖い話しかできない」という。無邪気に続きを促す花代子は、突然月絵の顔に深い、奇怪な陰影が刻まれていることに気づく。そして月絵は冷酷な薄い笑いを浮かべてこういうのだ。「……わたし達、本当は女学校に通ったことなど、ないのです」 花代子の周囲の空気が代わり、花代子の記憶が曖昧になっていく……。月絵は更に衝撃のことばを花代子に投げる。現実を見失いかける花代子。しかし二人は再び居間に戻ってくる。しかし束の間の安堵の末に、再び、三度と花代子は月絵の言葉によって戦慄に震えさせられていく……。

ここにいる自分は一体、何なのか。果たして現実は。女学校を巡る心の迷宮の旅路へ……。
別に旧字体や旧仮名遣いが用いられているではないのに、文章に独特のリズムがあるなあ……と考えて思い至った。ルビ打ちが近年のエンターテインメント文学にしては、徹底して少ないのだ。 余程特殊な当て字や固有名詞以外、少々難解程度の漢字や熟語はそのまま読むことを要求される。「瞼」とか「欧羅巴」ならまだしも、皆さん「儚い」「倦み」「繻子」とか普通に読めますか? (ま、読める人には読めるでしょうが)
その文章にて描かれる世界がまた、岩井さんの得意とする世界の両極を味わえると来る。基本的に登場するのは、有閑マダム・花代子と月絵の二人だけ。まずは良家の子女にして裕福な家に嫁いだ二人の、世間ずれして気取った会話。特権意識が滲み出ていながら、それ以外の世界を知らない危うい無垢。いわゆる”世間知らずのお嬢様”を書かせると岩井さんは抜群に上手い。そして、もう一つの岩井世界の極端は社会の底……、なのだが、詳しくは言わずが花というもの。
浮世離れした世界のなかで完結していた二人の物語が、月絵が徐々にその本性を露わにしはじめることによって、打たれ弱く妄想癖の強い花代子の世界が揺らぎ、徐々に崩壊を始める。特に序盤、世界は崩されても、すぐに再び引っ張り上げられて元に戻るのだが、物語が進むにつれ段々と世界の崩され方が激しくなり、花代子のみならず読者も迷宮を彷徨うことになっていく。絶望の名のもとに破壊され、そして強制的に復元され、次々と見え方が変ずる世界。月絵に翻弄される花代子の動揺は、そのまま読者が味わう意外性へと変じていく。この眩瞑感がなんとも不思議で、かつ残酷なのである。特に最後に至っての強烈そして鮮烈な”世界の落差”はそのままいわゆる(先に述べた)岩井世界の両極に繋がるといえるだろう。

特にもの凄く文学的な香気があるとか、逆に強烈な幻想的要素があるとも言い難いのだが、どこか棘が刺さるかのような物語が、ずっと心に引っ掛かる。岩井志麻子にしか書けない世界であり、岩井志麻子らしい表情を持っているとだけはいえるのだが……。ミステリでもホラーでもなく、登場人物のアイデンティティを揺らすことによって成り立つ「幻想小説」というのが本書か。


03/08/13
奥田英朗「東京物語」(集英社'01)

'97年に『ウランバーナの森』にて小説デビュー、その後『最悪』『邪魔』(第4回大藪春彦賞受賞)とスマッシュヒットを飛ばした奥田氏の四冊目の単行本。ミステリとして発表されたものではなく、最初から完全な青春小説が企図されている。'00年から'01年にかけて『小説すばる』誌に掲載された作品が連作短編集として編集されたもの。

1978年。名古屋の高校を卒業するも大学受験に失敗した田村久雄は浪人生として念願の一人暮らしを東京で開始する。洋楽が好きな彼は、音楽評論家になりたいと考えていたが、現実は当然そんなに甘くはない。一浪の後に芸術系の大学に入学し、訳も分からず演劇部に所属するようになるが、結局一年で大学をドロップアウト。小さな広告代理店に勤務するようになり、二十を少し超えたところで、実際の社会経験を開始する。そんな彼が駆け抜けていく70年代後半から80年代の日本。作者自身の年齢と(たぶん経歴もかなり)重なって過ぎ行く、田村久雄の二十代の青春の点景が、それぞれ短編小説の形式によって描かれる。
『あの日、聴いた歌』1980/12/9 『春本番』1978/4/4 『レモン』1979/6/2 『名古屋オリンピック』1981/9/30 『彼女のハイヒール』1985/1/15 『バチェラー・パーティー』1989/11/10

時代や世相は異なっても、あの時期、あの頃、感じることからは世代を超えての共感を呼ぶ
作者は1959年生まれ。 そして本書の主人公・田村久雄の年齢もまた、その作者と同い年に設定されている。まずはその時代についての、地に足ついた描写が秀逸。その一瞬一瞬を実際に体験して、知る者でなければ描き出せない細かなエピソードや設定に呻らされる。恐らく、同時代を経験している読者なら、思わず膝を打つことは間違いない。「ああ、そんなこともあったよな」 と。
ただ、本書の青春小説としての面白みは、もちろんその時代がリアルに表現されていることだけではない。田舎を脱出したい一心で、自分はそこそこ格好いいのではないか、と思っていた自意識過剰の十代の少年が、初めての”東京”に打ちのめされたり、ようやく慣れてきた東京暮らしでの慣れない恋愛に戸惑ったり。また、何年か生活することで板に付いてきた東京暮らしのなかで、ふと望郷の念に駆られたり、社会人としての慌ただしさに戸惑いつつ充実した生活を送ったり。田村久雄の生活は決して特異な体験のうえに成り立ったものではなく、上京したての若者としては”どこにでもいる普通の人間”としての描写がされているだけ。だからこそ、短編としてまとめられているエピソードそれぞれに、不思議な共感を覚えてしまう点にある。たまたま読者であるワタシにも、似た状況を経験したことがあるから、特にそう感じている可能性があることは否定できないが、久雄のその甘い考え方や、青い意気込み等々、その一瞬一瞬に対してどこか暖かく(そしてちょっと皮肉な)同情心が湧いてくるのが止められない。久雄とワタシ自身とでは時代が全く違うのに、その根底にある考え方であるとか、将来に対する漠然とした想いであるとか、そういった”若者”ならではの気持ちだけは世代を越えて共通である点を、再確認したような気分。そしてそれが実に心地よい。

'80年代を描いた青春小説として秀逸。 バブル期に二十代を終えようとして、また一段と大人のステップを上る久雄のエピソードで物語は閉じる。ただ、振り返ってみれば、個々のエピソードの紡ぎ方(その展開や落とし方)も抜群に上手い。特に同年代に青春を東京にて送られた方にとっては、本書はちょっと痛く、そしてほろ苦い”あの頃”を懐かしむことの出来る一冊となるだろう。そして同年代ではない人にとっても。


03/08/12
西東 登「阿蘇惨劇道路」(サンケイノベルス'72)

'64年に第10回江戸川乱歩賞を受賞した『蟻の木の下で』を除くと、西東氏の二十冊弱の単行本のうち、ほとんどの作品が現在はもちろん、恐らく活動されていた当時でさえも入手が難しかったのではないかと思われる。何といっても『蟻…』を除いて文庫化された作品が遺作となった『クロコダイルの涙』だけ、という徹底ぶりなのだ。本書も書き下ろしでサンケイノベルスに発表された作品だが、この版でしか読むことができない作品。

北九州市小倉にある中小企業「神坂金属」社長・神坂一郎は、親会社の資金繰り悪化に伴う手形期日の延長に困り、学生時代の友人に手形を割り引いてもらおうと大阪に出向くが、あっさりと断られる。更に東京まで足を伸ばして別の友人に頼んだところ、快諾されるがそれは実は手形詐欺の一団。罠に取り込まれ、あっさりと手形をパクられ窮地に陥る。一方、大手の大日生命の敏腕セールスマン・伊谷は、会社の金一千万円を賭博に流用、穴埋めが出来ない危機的状況にあった。伊谷はかつて外務員の女性と共謀して保険金を詐取した経歴があり、またその手を使えないか、対象を探していた。彼の目には夫の危機的状況を助けようと、外務員に志望してきた神坂佳津子の姿が目に留まる。また、神坂一郎は、小倉の大衆酒場で痛飲している際、自分と年格好から見た目までそっくりな、的場という人物と知り合う。彼らに、東京で神坂の姿を見て、生き別れになっている父親ではないか、と疑う有沢葉子、そしてその婚約者の武井正巳が絡み、巨額な保険金が掛けられて”ある人物”が事故死する事件は、複雑な様相を呈するようになる……。

これだけいっぱい選択肢がありながら、結局、そこに話を落としちゃうの??
”典型的”とまで言い切ることは小生程度の読者には難しいが、思わず断言したくなる、典型的な”途中まではそこそこ読める”ミステリ作品。
作者は、本書のあとがきにおいて「日常的な人々の恐怖である交通事故」と「保険金を巡る犯罪」が結び付いた時におこる「人間模様」、そしてそれらが「意図的に結び付いた物語りを、どうしても書かねばならぬと考えていたのである」と記している。リアルタイムで読んでいない以上、その当時の時代性を正確に把握することはできないが、少なくとも戦後昭和二十年代の終わりには、日本では保険金目当ての犯罪が発生しており、昭和四十年代に入った後では決して、保険金殺人そのものが珍しい犯罪であったとも思われない。それが交通事故と結びつけられる(見せかけようとする)のは、”現実”としての殺人ならば、意図としてはごくごく自然のことであり、無理して物語にする必要性を強調することも無かったのでは……という疑念も過るのだが。
さて、それはそれとして、物語は複数のエピソードが徐々に交錯していく展開をとっており、その一つ一つは興味深い。手形詐欺に遭い、絶望の淵にある会社経営者。保険金詐欺の実績を持つセールスマン。生き別れの父の姿を追う娘。その社長のそっくりさんが現れ、セールスマンは社長夫人に近づき、生き別れの父の様子が判明する。そういった物語の中心で発生した阿蘇山麓道路での交通事故死。果たして、実際の被害者は誰? その隠された意図とは???

……せっかくここまできて、それが、読者の一番予想しやすい結末に向かうのだよなあ。後味も良くないし、結局は脱力するのみ。

西東氏のもっとも得意とするネタである”小動物”が登場しないせいだけとも思えないが、今となっては何の価値も見いだせない作品。読んじゃダメです。(と書くと、読もうとする人がいたりするのが不思議だが)。


03/08/11
斎藤 栄「Nの悲劇」(講談社文庫'78)

斎藤氏の初期から中期にあたるミステリ作品にはいくつか系統があるといわれているが、本書はそのなかの一つ「私小説+ミステリ」と呼ばれるタイプにあたる作品の模様。表紙に一見して明らかに野口英世と分かるイラストが描かれている通り、題名の「Nの悲劇」における「N」の第一義は「NOGUCHI」の「N」

作家である私は薬品関係の勤めをしていた父親とほとんど接触のないまま成長し、その父も身罷った。私の兄は「英世」と名付けられており、更にその弟となる私の名前は「栄」である。これは野口英世が恩人と仰ぎ、父と呼んだ人物、小林栄から名付けられたのではないだろうか。私が子供の時分過ごした家には野口英世の肖像画が掛けられており、父親が遺した写真からは彼が海外に何度か出かけていた事を示している。父親は何か野口英世と関係があったのではないか……。
そしてその野口英世はアフリカで研究していた黄熱病に罹って死んだのだとされている。その死の間際に遺した言葉は「I don't understand.」。私はいくつかの理由から、彼が殺されたのだと考えている。米国で既に功成し遂げていた野口がなぜわざわざアフリカに出向かなければならなかったのか。黄熱病の峠である七日目を越えた野口が再び発病したのはなぜなのか。そして実際に現地では実は黄熱病などほとんど存在しなかったはずなのに……。私は父親と野口の関係を探るために、父親の日記から判明した関係者の名前を調べ、幾人かの友人の伝手を辿って米国にいるその人物を調べて欲しいと頼む。安西という友人が首尾良く調べたその人物は、偶然にも世界一周旅行の途中で日本に立ち寄るのだという……。

どこかまとまりのない茫洋としたミステリでありながら、ラストにおける叙情は一流
上記の梗概に続いて、その米国の二人の老婦人が立て続けに日本で殺害される。その犯人探し、アリバイトリック崩しが本書のミステリとして読むときの眼目となろう。その外国人の老婦人が滞在することを知る人間、彼女たちを殺すことによって利益を得る(ないし自己の利益の逸失を防げる)人物は限られており、その対象人物にはアリバイが……。 一応、本格ミステリらしい道具立てと推理はあるのだが、その過程で登場するアイデアは「ちょっと無理だろ」というものだし、その真相も凝った作品であれば、最初に疑われた挙げ句捨象されるタイプのもの。時代が時代なので本作自体にオリジナリティがあったともいえる可能性もあるが、現代の読者からしてみれば物足りないことは否めない

そして、一個の小説としてみた時、斎藤氏には珍しく主題がばらついてしまっているように感じられる。と、いうのは野口英世の謎、老婦人殺人の謎、そして犯人追求の謎に、主人公自身の友人関係に関する懊悩が加わって、それぞれがそれなりの分量を取るために全体的に何が最も訴えたいことなのか見えにくくなってしまっているからだ。恐らく自身を私小説的に作品投影するにあたって、作者が作品との距離を巧く取れなかったというあたりなのではないかとは推測される。
ただ、却ってそのばらけた印象のせいなのだろうか。題名の「Nの悲劇」という意味合いがかえって、読了後しみじみと迫ってくるのだ。第一義的な「野口の悲劇」は気付けば後ろに追いやられてしまうのだが(実際のところ、この過去の事件は謎の解きようがない。架空の関係者の証言を打ち出しても何の意味もないことだし)、例えばナショナリティの悲劇であるとか、ノーツ(紙幣)の悲劇であるとか、ニッポンの悲劇であるとか、そういったさまざまな意味合いが渾然一体として終章から立ち上る。 正直、ミステリとして感心できるほどの作品ではないが、ある時代ならではの、何か哀しい物語であることは間違いない。

斎藤栄の初期作品を中心に読み返しているので手に取ったが、現代の読者が無理に引っ張り出すべき作品かどうかは微妙なところ。後のシリーズ(タロット日美子?)によって斎藤栄という作家に興味がある……という方にしてみると、この自伝的内容にも面白さを感じるところがあるかもしれない。ただ残念ながら、ミステリとしては歴史ミステリとしても、本格パズラーとしてもちょっと中途半端である点が否めない。