MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


03/08/31
倉阪鬼一郎「無言劇」(東京創元社'03)

”日本唯一の怪奇小説作家”にしてミステリの書き手でもある、倉阪鬼一郎氏の東京創元社初登場となる作品が本書。創元クライム・クラブのラインナップとして刊行されているが、最近ちらほらとみられるようになったソフトカバーによる装幀。ちなみに本書はミステリの分類となる。解説は福井健太氏。

中堅ミステリ作家の黒杉鋭一郎は、ボードゲームを趣味としている。囲碁、将棋、そして麻雀。彼の住居の近くにある胡蝶ビルは碁会所、将棋道場にギャル系の雀荘と三軒が全て入居しており、黒杉はヒマができるとそのビルに通い、それぞれのゲームを楽しんでいた。一方そのビルの雀荘、西北荘では、メンバーとして働いていた女性二人が相次いで行方不明となる事件が発生していた。黒杉はビルの各店に出入りしている目つきの鋭い人物”山本”が、その事件の関係者ではないかと目しており、彼の行動を注視している。そして実際、その行方不明の女性は、次々と死体となって発見された。”名探偵”を気取ろうとする黒杉だったが、彼の予想した犯人を見事に裏切るかたちで、警察捜査の結果、犯人は逮捕される。しかし、黒杉の勘は、まだ事件が始まったにすぎないことをしっかりと予感していた。不振を続ける将棋のプロ予備軍・山崎三段を励ます会が行われ、関係者がそこに揃い、胡蝶ビルの関係者にて行われる麻雀大会”胡蝶杯”の当日、ビルに住んでいる囲碁の本橋元女流アマ十段が姿を消した。更に、参加していたある人物が、胡蝶ビルの裏手の袋小路内部で、不可解な死体となって発見される事件も発生。 果たして、不気味な独白を続ける”歩”なる人物は何者なのか? 彼が崇拝する双子とは?

すっきりしているのに割り切れない。ゲームの本質と倉阪ミステリの相性を考える
極度の緊張状態や興奮状態に陥ると、スポーツでも試験でも自身の持つ100%の実力が出せなくなることは、既に周知のことであろう。それが如実に現れるのが、囲碁や将棋、そして麻雀といった、本書で取り上げられるボードゲーム群にある。そして、そのボードゲームにおいては、もちろんルールやいわゆる定石があれど、自分のみならず相手も変化することによって、盤上に小宇宙と見紛うばかりの新しい局面が常に生まれ続ける――これをいかに制御するか。それが、勝利への分かれ目である。いわば、当たり前といえば当たり前。ただ、その感覚をまるままミステリの世界に移植しようとしたのが本作ではないか。
意味ありげな独白やインターローグを挟み込みつつ、発生するのはボードゲーム関係者による殺人事件。特に眼目は、密室状況における不可解なる袋小路での、犯人・凶器の消失である。この部分の不可解さ、そしてその論理的な解決だけに目を向けると、水準レベルの本格ミステリとしての評価に本作は留まるであろう。だが、しかし、作者は倉阪鬼一郎なのである。その論理以上の試みが、テキスト内部に蠢いているような気がしてならない。ミステリと同時に、ボードゲームにおけるとらえどころのない何かを、必死で活字に置き換えていく作業がまた為されたのではないだろうか。読後にどこか残る余剰感は、そんな姿勢が反映された結果のように思われる。
主要人物の「名字」「名前」のうち、名前の方が伏せられており、それが一枚一枚捲られていく奇妙な展開。もちろん、その名前も、別の意味で大きなヒントとなっており、それぞれのインターローグに登場する人物が絞られ、名前が明らかになってはじめて物語の全体像が見えてくる仕組み。意味ありげだった伏線はきちんと回収されるし、主人公・黒杉鋭一郎の”勘”のかたちで提示される暗合も、最終的に全ての意味が与えられる。 しかし、名探偵たらんと欲する黒杉は、最後に”負ける”。解決は他者に奪われ、最後は、道化となってしまう。この黒杉を中心とした作品の全体像は、どこか将棋でも囲碁でも、一手間違えたことで見事に敗北を喫するゲームの勝負(作品内でも数多く描写される)を二重写しにしているように感じられるのだ。相手も多少のミスを犯しているにも関わらず、それよりも悪手を打つことによって、結果的に相手に勝利の女神が微笑んでしまう……。勝負の”手”と名探偵の”手”と。いかに”詰める”かが、勝利と解決へ重要な役割を持つということ。

正直なところをいえば、最低限”倉阪鬼一郎”の作品世界を読み込んだ方でないと、本作の真髄に触れるのは難しいように思える。とはいっても、そんな自分自身でさえ、どこかそれに手が届きそうで届いていないような、もどかしい気持ちが読了後にもまだ心の片隅に残っている。恐らく本書が、普通の”本格ミステリ”として読めると同時に、やはり本書が”倉阪小説”であるがため。倉阪氏の手によって活字となった”不条理”が齎す、その歯切れの悪さが、一連の倉阪作品の読みどころでもあるのだが。


03/08/30
石持浅海「月の扉」(光文社カッパ・ノベルス'03)

'02年、カッパ・ノベルスのエンターテインメント登竜門として新設された「カッパ・ワン」の第一期生として『アイルランドの薔薇』にてデビューした石持氏。本書は約一年ぶりに発表された第二長編。書き下ろし。

七月十六日、国際会議を控え、厳重な警戒体制下にある沖縄。そんななか那覇空港で、新規参入航空会社・琉球航空の二十時羽田行きの航空機がハイジャックされた。犯人は四十代男性・三十代男性・二十代女性の三人組で、小さな凶器を荷物に隠し持って手荷物検査をクリアし、飛行機がゲートを離れた瞬間、近くにいた乳幼児を人質に取った。手首と子供の首をテグスで繋いだ彼らは、機内を掌握。空港の警備責任者に対して、無実の罪で沖縄警察に拘留されている、彼らの「師匠」石嶺孝志を、空港に「連れてくること」を要求、同時にマスコミ各社にもその声明が伝えられた。要求が釈放でないことと、彼らに思想的なバックグラウンドが特にないこと、そして航空機を飛ばそうとしないことなど、前例のない事態に捜査側は困惑する。また、その捜査側にしても、なぜかその石嶺と関わった警官は、皆、彼を尊敬するようになっていた。一方、機内の三人組は、乗客に対し飲み物を振る舞うと同時にトイレ行きを許可。犯人の一人・村上聡美が人質とした子供の母親がトイレに入るが、次に入ろうとした女性が、血まみれになったその母親の死体を発見する。誰も近づかなかった機内のトイレで何が発生したのか。犯人のリーダー格・真壁は、その事態に冷静に対処しうる乗客”座間味”君に、その解決を託した。

精緻な作品内論理に固められた非日常。論理が現実を切り裂き、石持ミステリが煌めく。素晴らしい
前作では国際情勢間の緊張を作品背景に取り入れ、その舞台のなかで嵐の山荘ケースの本格ミステリを展開していた石持氏。次作もまた、そういったジャンルになるのかと思いきや、今度はハイジャック+密室のアクロバットを決めてくれた。二作目で断定することは強引かもしれないが、この作家の持ち味は、舞台背景設定の巧みさと、地に足のついた常識的な論理との融合にある。 一作目の「来たアイルランド紛争」にしても、本作の「ハイジャック」にしても、一般的に世に出る物語としては、冒険小説のコードであろう。そちらはそちらとしての興味を最低限満たしつつ、中身で本格ミステリの論理を組み立ててしまう――。そのためには、IRAの論理やハイジャック犯の心理だけでなく、そのなかで発生した不可解な事件を解き明かすためには、そういった非日常的な事柄を目の当たりにしても、平常心で日常の論理を働かせなければならない。この両者の絶妙な匙加減、その溶け合った末に生まれてくるのは、本格ミステリファンにとっても、冒険小説ファンにとっても十二分に鑑賞に堪える一個の物語なのだ。
ハイジャックした飛行機のなかでの密室? 探偵役はハイジャック犯に指名された一般人? ハイジャックそのものは成功するのか? 彼らの究極の目的は? 密室の凶器はどうやって誰が持ち込んだ? ……等々、作品内に読者にとっての「?」は多い。その解決も大仰ではなく、あっさり犯人の口で明かされたりするのだが、そこに嫌味はないし、また、驚愕のどんでん返しも待っている。特に、犯人側に対して「どうせ人質は殺さない」という舐めた態度で臨む捜査側に対して、犯人たちがある方法をもって対処し、捜査側をパニックに陥らせるくだりなど、快感すら覚えた。密室殺人のロジックも小味ながら、方法にしろ、意外な動機にしろ作品内における説得性は奇妙に高い。
プロットからトリックに至るまで無理が少ないのも本作の特徴。かつて、探偵小説作家の土屋隆夫氏が執筆するにあたって「あるトリックが実現可能かどうか、実際に試してみる」なんて話があったが、本作の場合もどこか、そういったリアリズムに近いものを感じる。もちろん、本書でも試したわけではないだろうが、ハイジャック犯が即席で凶器を持ち込んで、それで飛行機一機を制圧する方法としては、確かにこれはあり得る話。(真似したらダメです)。そういったリアリズムが作品全体に通底しているがために、物語全体が静かに落ち着いているように感じられるのだろう。
また、作者が登場人物たちに対して”非情”なのが良い。物語の結末に安易な大団円を持ち込まないことで、幕切れが強烈に印象に残る作品となっている。

長い長い長い物語にしようとすれば、本作、いくらでも長くできる要素があるのに、最近のノベルスのトレンドからすればかなり薄い(300頁弱)作品となっている。それなのに、読者が心に受け取る物語としては、じっくりと濃く、ねっとりと熱い。長大作品が持て囃されるミステリ界では今や異色の方向性かもしれないが、ワタシとしては不要な表現を可能な限り削いで、紙数でではなく読者の空想力にて世界を膨らませる、これこそ作家の”力”ではないかと思う。前作でも感じたが、石持浅海氏は、独自の感性と創作センスを兼ね備えた、大型新人(二年目だけど)であることを確信する次第。


03/08/29
小野不由美「くらのかみ」(講談社ミステリーランド'03)

「かつて子供だったあなたと少年少女のための――」というキャッチコピーにて'03年7月より開始された、講談社の新シリーズが、この”ミステリーランド”。テキストだけでなく造本も凝っており、本の持つハードとしての魅力も高められている。本書はそのミステリーランド第一期刊行三冊のうちの一作。同時刊行されたのは島田荘司『透明人間の納屋』、殊脳将之『子どもの王様』。

小学校六年生の耕介は、母を亡くしておりハンコ職人である父親と二人暮らし。その夏休み、その母方の”本家”に呼ばれて母方の一族が集合することになった。田舎の素封家である本家を取り仕切る大叔父は病に臥せっており、その”跡継ぎ”が、今回決められるという。本家には、そばにある行者沼にまつわる伝説があり、その行者の呪いによって、代々家に生まれた子供は大人になるまで大きくなれず、子供を持つ親戚が名代を継ぐというしきたりがあった。耕介たち子供四人は、そんなこととは無関係に遊び回るが、離れにある蔵座敷にて「四人遊び」をする。その結果、四人いた子供は、いつの間にか五人になってしまっていた。誰かが座敷童子なの? しかし、みんながみんな最初からいたような気がするため、誰が新たに加わったのかは分からない。そして彼らをみた、大人も皆、最初から子供は五人いたかのように振る舞う。 そんななか、夕飯のおひたしに、毒草であるドクゼリが混入されるという事件が発生、”跡継ぎ”候補の大人たちが食中毒になって苦しむという事件が発生した。本家の近くに暮らす”師匠”によれば、この季節にドクゼリをセリと間違うことはないはずだという。たたりなのか? 子供たちは事件の推理を開始するのだが……。

ジュヴナイルの要件と魅力を全部満たして、本格ミステリにして幻想ミステリであるという贅沢
小野さんは『悪霊シリーズ』や『十二国記シリーズ』をはじめとしたライトノベルを中心に活躍されているわけで、もともと一般向け作品よりも、こちらのジュヴナイル系列の方が作品の本流――のはずである。本作では多少、それらより更に若目の年齢層を狙ったせいなのか、文章や背景など、微妙に従来のシリーズ作品と手触りが異なっている印象。ただ小野さんには、上記の代表シリーズ以外にもノンシリーズのホラー作品などがあり、奇妙さの演出などはそちらには近い。実際、そういった作品群も版元こそX文庫のホワイトハートだったりするものの、その内実は大人でも十二分に楽しめるだけの内容を誇っている。そしてもちろん、この『くらのかみ』にしても、ターゲット年齢こそ若くなったものの、内容的な手抜きが一切ないこと、がまず一つの特徴として挙げられよう。
座敷童子、人が沈むと浮かばない沼、お地蔵さん、火の玉、夜中に軋る井戸……といった田舎の怪談の定番ガジェットを登場させる一方で、離れや屋根裏部屋など、少年たちの冒険スペースもきっちりと配置。更には、少年少女の一夏の冒険にとどまらず、食中毒事件の犯人探しをロジカルに展開させていく。特に「人間関係が分かりづらいな」と思うと、関係者系譜図が、「時系列はどうなのかな」と思うと、事件の時系列図が、「場所関係が今ひとつ……」と思うと、きっちり屋敷周辺の見取り図が、登場する親切さ。最初にまとめてこれらを配置せず、物語の進展に応じて読者に提供する演出は、心憎い気配りである。
その推理の展開が実に論理的。しかもあまり堅苦しくせずに、それでいていわゆる”本格ミステリの作法”をきっちりと踏んでいる点が素晴らしい。また、最終的な解決に至ったときに味わえる快感。これは本格ミステリのパズルが整った時に得られるカタルシスそのもの。ジュヴナイルを子供だましと捉えず、一種、教科書の副読本的にきっちりと作り込まれているあたり、小野さんの丁寧な仕事ぶりが窺える。そしてそのロジックのベースとなる部分に割り切れなさを残している本書は、まず「本格ミステリ」であり、同時に科学の理屈では割り切れない「幻想ミステリ」としての貌を見せる魅力までもが存在している。まさに、贅沢なジュヴナイル・ミステリである。

また、物語の最後に至って、ちょっと説話的に「お金だけが大切なことではないんだよ」というあたりが強調されている点が、実に微笑ましい。本格ミステリにおけるロジックの面白みを子供たちに伝えるだけでなく、良質のジュヴナイルとしての要件をまた、実に的確に取り入れている点、嬉しく思う。(とはいっても、本書が、実際にどれだけ子供たちの手に渡るのか、という点については多少疑問もあるのだが――本シリーズが長く続いて、揃いで図書館で読めるようになってくれると嬉しいな)。


03/08/28
西澤保彦「七回死んだ男」(講談社ノベルス'95)

今や西澤保彦氏はコンスタントに刊行された著書が三十冊を超え、「タック&タカチ」シリーズや「チョーモンイン」シリーズが人気を博して、人気作家としての地歩を築き上げている。そして、その初期に打ち出された一連の「SF設定」+「本格ミステリ」のシリーズの印象は未だ根強い。本書は、そのなかでも最も評価の高い一冊で、西澤作品のベストに挙げられる方も多い作品。再読。

齢八十を超える渕上零治郎宅に、母親の加実寿(かみじ)に連れられ、今年の正月も大庭久太郎(おおば・ひさたろう)は兄の富士高(ふじたか)、世史夫(よしお)と共にやって来た。零治郎は”エッジアップ・レストラン・チェーン”を経営しており、その財は莫大であったが、次女の胡留乃(ことの)を跡継ぎに据える一方、長らくの間、長女の加実寿と、三女の葉流名(はるな)とは絶縁状態にあった。零治郎がどん底暮らしにあった頃、彼女らは次々と勝手に結婚して逃げ出し、残された胡留乃はノイローゼに。しかし強運をもって盛り返した零治郎。子供のいない胡留乃の養子を誰にするか、遺言状を毎年書き換えるのだという。加実寿一家の息子たち、そして葉流名一家の二人の娘、更に、会社の経営を補佐する槌矢龍一、友理絵美らを交えての正月三が日、その地位を彼らは虎視眈々と狙っていた。一方、高校一年生の久太郎は特異体質の持ち主。時々、時間の”反復落とし穴”に嵌り込むのだ。そうなると彼は同じ一日を九回繰り返すことになり、最後の一日が実際の一日として残るのだ。高校生ながら祖父と痛飲して帰りの車に担ぎ込まれた久太郎は、夜中に目が覚め、反復落とし穴に入ったことに気づく。しかも、初日は何ともなかった筈なのに、二周目以降は祖父が何者かに殺されてしまうのだ。何とか祖父の死を阻止しようと久太郎は周回ごとに様々な策を弄するのだが……。

奇抜な設定、緻密な論理、そこはかとなく漂うユーモア。傑作の呼び名は伊達ではない
先に小生の受けている印象からすれば、本書は西澤保彦”初期”を代表する傑作だとは思うが、その後もコンスタントにレベルの高い作品を発表し続けている西澤氏の「これまでの業績のなかでの最高傑作か」と問われると、別の作品でも琴線にぎんぎんに触れまくる作品が多くあるので取り敢えず「NO」とさせて頂く。にしても、様々な角度からみた時に、非常に完成度が高いことは間違いないし、「西澤作品の入門」としては最適であろうことはやっぱり否定できない。
まずは設定。「同じ一日を繰り返す」だけならまだしも、それを九周巡るというのは、実は多少多すぎるのではないか、とも初読時は思っていたが、実際はこれだけ数を繰り返すことによって得られる効果が複数あることに気づかされた。例えば、反復によるユーモアとしての効果。そして、本格ミステリとしてのトリックの埋め込み。また、物語として表面上は分からなかった登場人物たちの”真の性格”が、繰り返しのバリエーションのなかで改めて浮かび上がってくることによる物語の活性化。深いところに様々な意味合いが、この九周に込められている。
また、主人公の設定も意味深である。大抵のミステリでは、名探偵を務める人物は実年齢より大人びて(年取って)いることが多いのだが、それを固有の性格や能力としてだけでなく、実際に設定から理由付けしてしまっているのだ。(某アニメの名探偵をもちょっと想起してみたり)。 また、そのこと自体が謎ではなく、物語としての結末に対する大いなる伏線となっていることも合わせて評価できよう。
そして謎。この謎、実はシンプルである。 シンプル過ぎて、他の目くらましに綺麗に引っ掛かるようにできている。読者が謎だと思うところではなく、ミステリとしてのキモをそれ以外の部分に持ってきているのだが、普通に読んでいては本格マニアですら、まず気付けない。従って、本作は”凝った謎”のミステリというよりも、”凝った演出”が特徴的なミステリだといえよう。そしてもう一つ、本作は探偵役が実は(ネタバレ)探偵ではなく、当事者であり観察者にしか過ぎないという叙述トリックの作品でもある。これもまた演出といってしまえばそれまでなのだが、目くらましとして、実にこの点がよく機能していると考える次第。
もちろん、西澤作品全般に通じてみられる辛辣な人間観察&表現、不自然な設定にリアリティを付随させる努力(原色のトレーナーとか)等々も見逃せない。ドタバタ家族ドラマ的な展開の醸し出すユーモアにより読者を全く飽きさせず、魅力的な謎もまた二重に読者を蠱惑する。 配慮に配慮を重ねた結果、編み出された傑作ミステリである。

小難しいことをいえば、この時期に”第二期”に突入する、いわゆる新本格ミステリのなかでは、本書はやはり道標的な位置づけになる作品のうちの一つであるといえるだろう。新しく出てきたミステリ作家が、本格としてのロジックを大切にしつつ、トリックだけでなくその演出によって”魅せる”ことに成功しはじめた時期(京極夏彦の一連作品とか)の傑作として、やはり記憶にも記録にも留めておきたい作品である。あと、ミステリファンのみならず、SFファンからも本作は高く評価されていることも付記しておく。文庫化されて久しいし、現代のミステリファンで未読という方は少数派かもしれないが、絶対に押さえておくべき作品だといえるだろう。


03/08/27
大倉崇裕「七度狐」(東京創元社'03)

創元クライム・クラブの一冊として刊行された本書は、大倉氏の初単行本にして高い評価を得た本格ミステリの連作集『三人目の幽霊』に続く、「季刊落語」編集長・牧と新米編集部員・間宮緑を主人公とする初長編。大倉氏の他作品には短編集『ツール&ストール』と、訳書『新・刑事コロンボ 死の引受人』がある。

大手出版社に入社、「季刊落語」編集部勤務を命ず――という衝撃の辞令を受け取って一年。落語の世界を全く知らなかった間宮緑もようやく仕事に慣れてきた。というのは、ただ一人の上司にして同僚である編集長・牧大路(まき・おおみち)が、好き勝手に飛び回ってしまうから。そんなある日、北海道にいる牧から彼女に指示が出される。「静岡に行ってくれないかな」。――上方落語会の重鎮、六代目 春華亭古秋が近く引退することを表明、七代目をしきたりに則って、身内から襲名することになっていた。最近、話題となっているこのイベントのための一門会が、静岡県の片田舎で開催されるというのだ。舞台となる杵槌村は、かつて”狐の村”の温泉郷として栄えていた時期もあったものの、交通不便な単なる過疎の村。ただ四十五年前、先代の古秋がこの地で行方をくらませているという、一門にとっては因業の地である。牧の名代として辿り着いた緑は、村で唯一の旅館・御前館にて、七代目を争う六代目の息子達、古市、古春、古吉三兄弟の芸を目の当たりにし、それぞれの持ち味を堪能する。しかし翌日に会を控えた晩、豪雨のなか、旅館近くの畑のなかで全裸の刺殺死体が発見される。息子の一人、古春が殺されたのだ。そして土砂崩れで閉鎖状況におかれた彼らを嘲笑うかのように、第二、第三の殺人が。そしてそれらは、先代古秋が考案したという幻の噺『七度狐』の見立てだと思われた――。

ミステリという伝統芸が持つ贅沢な趣向を数多く取り込みながら、あくまでさりげなさを装う。収穫という名に相応しい傑作本格
落語界を扱った本格ミステリといえば、”日常の謎”ミステリの元祖ともいえる北村薫の私シリーズをまず思い浮かべるところだが、本書は、”ある側面”からはその常識をひっくり返し得るだけの高評価を与えても良さそうな作品である。いやいや、その北村薫氏にしても、本作のような作品は大好きなのではないだろうか。直球勝負、盛りだくさんの趣向が光る真っ向からの本格ミステリなのだから。
筋書きをひとことでいえば、クローズドサークル内の連続殺人事件。これに見立て殺人が絡み、不可能犯罪が絡み、見えない動機が絡み、安楽椅子探偵の趣向が絡み、跡目は一体誰が継ぐのかという興味までが絡んでくる。連続殺人の人数が二人や三人に留まらないことによって、コミュニティ内部におけるパニック小説に近い趣までをも終盤は発している。 本格ミステリのコードをこれだけふんだんに取り込みながら、それらの消化がきちんと為されている点、それだけでも注目に値する。 加えて、もともと存在する落語「七度狐」は、実際の噺では二度しか狐に騙される場面がないにも関わらず、作者はそれを正真正銘の「七度狐」として再創作している。つまり、旅人が七度化かされるのだ。もちろん、落語のツボを押さえ、単に化かされるエピソードが続くと客がネタに気づいてしまって興が削がれるという点まで配慮しているという凄さ。このあたりにはさりげないながら、作者の力が込められている点とみた。終盤で明かされるその全貌は、かいつまんだ内容説明だけにも関わらず、「これはちょっと聴いてみたいぞ」と思わせるだけの内容となっている。
特に真犯人の隠し方も秀逸。レッドへリングが随所にちりばめられており、どれを拾えば良いのか読者を惑わせつつ、しかもとんでもないところに真相を持ち込む。冒頭に配された、狐火や幽体離脱といった奇妙なエピソードが、最後の最後になって綺麗に活かされる妙味も素晴らしい。真相に至るロジカルな推理というよりも、いくつもの欠片を持った複雑なジグソーパズルが、完成形に近づいていくのを眺める快感が味わえる。
しかし、主題が落語だから、というわけでもないだろうが、これだけ「がちがち」に固めておきながら、作品自体は結構するすると読めてしまうのだ。来たな本格パズラー! と読者を構えさせる暇を与えず、物語世界に先に引き込んでしまう手腕があり、読み出した読者を途中で飽きさせることはない。つまり、これだけの趣向を盛り込みながら、作者が興奮していない――ようにみえる。語弊があるかもしれないが、これだけのトリックが込められていれば「どうだ?」 という作者の気負いが作品外に滲み出てしまう作品が世にはままあるのだが、本作にはあまりそれがない。むしろ飄々と語り手に徹している印象さえあり、そんな作者の態度と作品の趣向の渋さ・濃さとのギャップが、恐ろしくさえある。

今年発表された作品(で私が読んだなかでは)のうち、”本格パズラー”指向 (この場合”本格ミステリ”というカテゴリのなかで、サプライズよりも作品内論理重視の作品という意くらいと捉えて欲しいのだけれど)が最も高い作品。 本格ミステリマニアを標榜する方なら外してはいけない作品であることは間違いないし、本書を読まずして年末の投票には臨めないはず。  ところで、ザクはいくつくらいできたのでしょうか? 


03/08/26
島田荘司「透明人間の納屋」(講談社ミステリーランド'03)

「かつて子供だったあなたと少年少女のための――」というキャッチコピーにて'03年7月より開始された、講談社の新シリーズ。講談社ノベルス「新本格」の仕掛け人として長い間、文三を取り仕切っていた編集者・宇山日出臣氏。(講談社では引退間際の名編集者が好きなように新シリーズを企画する権利が与えられるといい、これまでの江戸川乱歩推理文庫や少年倶楽部文庫、大衆文学館等は、全てその権利を得た編集者によって企画されているのだという)。本書はその「ミステリーランド」第一期刊行三冊のうちの一作。同時刊行されたのは小野不由美『くらのかみ』、殊脳将之『子どもの王様』。

昭和五十二年。日本海に面した海辺の小さな町に、母親と共に暮らしていたヨウ君こと”ぼく”は、学校に親しい友人もおらず、もっぱら隣人で印刷所を経営していた真鍋さんと放課後を過ごしていた。真鍋さんは模型作りがうまく、天文学をはじめとした多くの知識を持っており、ぼくのことをよく相手してくれた。ただ、夜の街で働くぼくの母親と、真鍋さんの妹の真由美さんとはなぜか仲が悪かった。そんな幸福な一時がずっと続くと思っていた矢先、その真由美さんが、婚約者と一緒に宿泊していたホテルから、衆人環視のなかで行方不明となってしまう事件が発生した。ぼくは、その事件が真鍋さんから聞いていた”透明人間”のことを思い出す。真鍋さんは、敷地内の納屋に”透明人間になる機械”を持っており、ぼくの前でその実験をしてくれたのだ。その事件があった晩、ぼくは幽霊にのしかかられるような体験をする。そして真由美さんの死体は遠く離れた海辺で発見され、一緒にいた婚約者の篠崎さんが逮捕されてしまう。一方、真鍋さんは、ぼくと母親と一緒に、天国のような生活ができるという”外国”に一緒に行こう、という。

島田荘司流ジュヴナイルは、かっちりとした社会派で、かっちりとした本格。少年少女向けでも真っ向勝負
考え抜かれた結果としての構成なのか、それとも島田荘司がもともと持つセンスなのか。
ジュヴナイル・ミステリとしての面白さをしっかりと維持しつつ、島田ミステリが訴えてきた社会派的な主題を確保しつつ、本格ミステリとして破綻しておらず、ラストにきっちり感動を誘う。 (おまけでいえば「推理小説作家・松下謙三」を出してくるあたり、マニア心をくすぐるのもうまい)。
真鍋さんなる人物が語る、”透明人間”に関する謎、その実演は、がちがちの本格ミステリファンであれば、ある程度の想像がつくだろうし、ホテル四階からの人間消失の謎についても同じことがいえるだろう。特に子供の一人称視点で描かれていることもあって、視点人物が感じる不思議さは倍加するものの、読者は逆に「これはなにかあるな」と、身構えてしまうかもしれない。ただ、島田荘司が凡百の作家と異なるのは、そういった強引な力業でさえ、背景に”ある事情”を持ち込んでしまって、その不自然ささえもをかえって自然な状況に持ち込んでしまうこと。 真鍋さんが行こうとしていた”外国”とは何なのか。彼の目的は何だったのか。そして事件の真相は? 最終的に明かされる真鍋さんの”正体”によって、その全てが理由を含めてしっかりとクリアになっていくのが秀逸。 個人的に、本格ミステリの謎解きが告白文形式で行われるのは邪道ではないかと思っているのだが、その告白文形式にさえ必然性を持たせてしまう”わざ”に溜め息さえ漏れる。
また、真相追及の名のもとに行われるマスコミの無責任な報道ぶり、そして、明らかに冤罪と分かる逮捕までをも含め、社会の毒までもさりげなく振りかけている心配り。少年の目を通して描いた、大人の恋愛の難しさはほろ苦くさえある。文章こそ、ジュヴナイルを意識しているものの、描かれる内容は大人が読んでも遜色を感じさせない。 (それでいてやっぱり本書は完全に大人向けに書かれたものでは、決してない)。 子供にこういった”本物”きちんとぶつけておくのも、意義があることなのではないか。社会の毒を隠すことだけが教育ではないだろう。毒を毒として受け止め、きっちりひとりひとりが消化できる大人になること。これが大切なのだ、という島田荘司のメッセージとも受け取れるのだ。(このあたりに関するネタバレ:かの国に対する批判が最終的な物語の軸になるわけだが、少なくとも当時(そして今も)歴史ではそのようなことが行われていた事実があり、未来にどうなろうと、その点を単純に目をつむることはやはりよろしくない。太平洋戦争で日本人が行ったことから現代の日本人が目を背けてはならないように、かの国に対しても逆の意味で同様の態度で臨むべきなのではないか。それを子供向けだからといって隠さなければならない、煽っている、という批判はナンセンスだと思う)。

主題、登場人物の個性、トリック、物語の構成、そして舞台……。全てが渾然一体となって一つの感動を呼ぶ。一時期、島田氏に対して批判的なことを小生も述べていたが、こういった力作をぶつけてこられると、その口を閉じざるを得なくなる。やっぱり日本のミステリ界において、島田荘司は大いなる存在である。(ただ、この題名だけは、なんか損をしているような気がしないでもない)。


03/08/25
戸梶圭太「CHEAP TRIBE ベイビー、日本の戦後は安かった」(文藝春秋'03)

『別冊文藝春秋』に'02年の9月号より、'03年5月号にわたって掲載が続いてきた作品の単行本化。ソフトカバーの表紙に、ちょっと紙質が一般書物より落ちる「チープ」な紙を使用している点、モデルによる写真がそこかしこに使用されている点、そして何よりも戸梶圭太である点。掲載誌及び刊行もとが、あの文藝春秋であることに不思議なミスマッチを感じる。

episode1 1957  ――志木乃が原炭坑は、劣悪な作業環境の下、多くの労働者が働いていた。食い詰めて流れてきた作業員は、社長らによる徹底した暴力による統制によって、完全服従を誓わされ、逆らう者にはまた容赦のない暴力が浴びせられた。手や足を喪っても、労働は強要され、その結果死んだとしてもゴミのように扱われる。沼田永吉は、その作業員とどこからか流れてきた女性との間に生まれた子供。食料も満足に与えられず、学校にも行かず、大人たちからはほとんど無視され、遊び道具は現場作業員の死体。ある眠れない夜、そんな永吉に声を掛けてきた人物があった。外部から来たと思しき、男性二人と女性一人のグループは自らを”共参党”と名乗り、劣悪な環境にいる労働者を集約し、資本家を糾弾するのだというが、難しいことは永吉には分からない。その女性の美しさに”へっぺしてえ”という押さえがたい感情を抱いた永吉は、彼らを手引きするが……。
episode2以降、東京へ出てきて最低の暮らしをし、1995年にホームレスとなってその生涯を閉じるまでの凄惨な一生が描かれる。

偉大でチープな”昭和”の底辺を彷徨う、アンチ・サクセス・ストーリー
生い立ちは不幸で、貧しく学もなく悲惨な子供時代を過ごしながら、努力によって運を引き寄せて、何らかの世界において成功し、第一人者となる――いわゆるサクセス・ストーリーの方は、世の中に溢れている。どん底から這い上がり、ハッピーエンドを迎えるというのは一般読者が喜ぶ物語として向いているからだろう。
しかし、本作はそういったサクセス・ストーリーをまるでひっくり返し、底辺を底辺のまま這いずり回る人物を、正々堂々と主人公に据えた「一瞬たりとも成功のない」ストーリーである。だから、アンチ・サクセス・ストーリー。
労働者を人間扱いしない炭坑で生まれ、誰にもまともに扱われないまま、一人生き残って上京、でもやっぱり教育を受けていないので、肉体労働者として働いて性欲だけは悶悶と膨らませ続ける主人公。大学生を詐称して”へっぺ”目的で学生紛争に参加し、「ノストラダムスの大予言」のブームでは、本の煽りに真剣に怯え、性欲に駆られた間抜けな殺人を犯して服役。田舎者が幸いして三年半で出獄後、なぜかヤクザに気に入られ、戸塚ヨットスクールばりの学校で無免許教師を務めて生徒を虐待。これが発覚してまた刑務所に行って、行き着く先はホームレス。そして尊厳の一切与えられない無駄な死。
戸梶圭太の美学なのだろう。こういった底辺の生活のなかで、主人公には一切の哲学的な悩みや思考を禁じてしまっている。従って、主人公・沼田永吉の思考や行動は常に単純明快。意地汚い欲望が行動原理の全てであり、その単純さ故に憎めない。”一億総中流”が標榜された昭和後期に至るまで、沼田の底辺生活は永遠に続く。それぞれのエピソードで彼が出会う人物たちのチープさと電波度も凄い。特にペットトリミングスクール校長の石原のキャラが強烈。
この徹底したデフォルメを通じて描かれる、”昭和”の恥ずかしい時代。……とはいっても、時代を描くというよりも、その時代そのものを戸梶氏は手玉にとって、主人公を苛めるための道具にしてしまっているというのが本書の本質であろう。爽快さはないけれど、どこか奇妙に突き抜けた感覚。戸梶の描く昭和史……ではなく、昭和史が戸梶に格好のエンターテインメントの題材を与えてしまった作品である。

常に”度を超す”のが身上の作家であり、その精神は本作でも健在。 めちゃくちゃぶりにひたすらに酔えば良い。ただ、これだけ無情に登場人物を扱える、”いじめっ子”戸梶圭太の凄さは驚嘆に値する。戸梶作品のうち、本作だけを特にお勧めすることはないが、やっぱり独自のエンターテインメントを貫く作家だよなあ。フォロワーも出てこないし。


03/08/24
邱 永漢「被害者は誰だ」(光文社'60)

現在は経済評論家やコンサルタントとしての顔の方が強い邱永漢氏ではあるが、'55年に『香港』という作品で第34回直木賞を受賞するなど、れっきとした作家としての経歴をも持つ。以来、現在では経済書を中心に四百冊以上の著作があるのだという。本書は、旧『宝石』誌の編集長だった江戸川乱歩が、文芸畑の作家に作品を依頼した行動の一環にて執筆された作品がほとんどで「麻薬王」(『婦人公論』発表)以外は全て『宝石』誌に発表された作品である。

街中で小さな映画館を経営する篠原は探偵小説が大好き。妻の制止を振り切り、儲からないスリラー映画ばかりを小屋に掛け、いつしか街の警察からも事件を相談されるようになっていた。彼のアドバイスを受けて事件が解決し、彼は有頂天になるのだが……。 『被害者は誰だ』
現在は判事として働く深沢は、かつて憧れていた女性から電話を受ける。彼女は深沢と離れて十年、彼のことを思い続けていたが近く結婚するのだという。思い出作りを手伝って欲しいと頼まれた深沢は思い悩みつつも、仕事に没頭。前科を隠して結婚した挙げ句、また窃盗を犯した人物の公判を深沢は控えていた。 『懲役五年』
捜査当局の志村警部補は語る。麻薬の売人を捕まえ、そこから大元の販売の元締めを辿っていく捜査の困難を。そして最後かれは王大千という人物に辿り着く。そしてその被告の妻、葉麗月が夫について語る。 『麻薬王』
一地方銀行である報徳銀行は、頭取の葛西の指示による乱脈融資を内部に抱えていた。株主の一人・松岡はその融資リストを入手し経営を正すように要求するが、葛西は松岡の懐柔を図り、東京の代議士・香川に事態の解決を要請する。しかしその香川は松岡に手厳しくはねつけられた……。 『恐喝者』
香港に住む弁護士・チャーリイ・チャンは新聞で、マクドナルド・ロードで男が別の男を刺したという事件を読む。イギリス人夫婦のもと住込で働く唐阿英という女性を巡る痴話喧嘩と報じられていたが、チャーリイはその容疑者・劉水竜の弁護を引き受けることになった。 『視線と刃物』
新興宗教”無門教”を唱える野辺地仰光。彼は来る者は拒まず、去る者は追わずという思想にて信者を増やし、東京郊外に大きな総本山を構えるに至り、また参議院議員選挙にて見事当選を果たした。その総本山で最近盗難が発生するという。私有財産否定が教義の無門教であり、関係者は困惑する。 『教祖と泥棒』

推理小説マニア以外の作家が、推理小説の変奏曲をやろうとして、うまくいかなかった……
全体としていえるのは、現代基準で言うミステリではないだけに留まらず、謎解きではなく、犯罪が描かれるいわゆる犯罪小説でもないという、なんというかとらえどころのない小説が集められている――という印象。冒頭の『被害者は誰だ』は、最近刊行された貫井徳郎さんの作品と題名が似ているものの、正統派フーダニットの変奏曲ではなく、探偵は出てくるものの、一連の事件を通じて、単に”もっとも被害を被ったのはだあれ?”という趣向の作品。人権意識の時代差もあろうが、知り合いの女性を差し向けて色仕掛けで犯人に近づける探偵の身勝手など、ワタシ的には頂けない作品であった。
また『懲役五年』は裁判官が個人的な体験を通じて、自らの抱える裁判の判決が揺れる……という人情話でありながら、これはちょっと実際はマズイでしょう、という作品だし、『麻薬王』は、捜査側が確信的に麻薬の元締めと決めつけた人物は、家族からみれば”いい人”で、実は間違いでした、というお話。とらえどころがない。
それなりに読めるのは『恐喝者』と『教祖と泥棒』。やはり経済・金融関係に造詣の深い邱氏のこと、経済犯罪を通じた悲喜こもごもを描いた前者は、その手口と関係者の動揺ぶりなどに見応えがあり、後味こそあまり良くないものの、その過程に意外性があって、金融ミステリ的面白さがあった。また、後者は、特殊な新興宗教の内部での、”告発できない”犯罪を描いたもの。これもオチとしては大したものではないのだが、この設定自体が持つ面白おかしさは、一定の評価を与えても良いように思う。

とはいっても、やはりトータルとしてみると、ミステリとしては中途半端であるし、一般小説としても懐の深さに欠けており、とらえどころがない、という印象に変化はない。ミステリ読みの琴線に触れる題名ではあるとは思うが、内容的にはわざわざ探し出して読むほどの作品ではない、というのが結論。


03/08/23
浅暮三文「似非エルサレム記」(集英社'03)

第56回日本推理作家協会賞を『石の中の蜘蛛』にて射止めた、浅暮三文氏の受賞後第一作が本書。近々復刻が噂されるデビュー作『ダブ(エ)ストン街道』ともテイストが近い、浅暮魂が詰まった書き下ろしのファンタジー。

その土はついに目覚めた――。意識を持った”土”が、移動する物語。ただ、その”土”が、中東はイスラエルにあるエルサレムだったもんだから、さあ大変。全世界の宗教と国家が大パニックに陥っちゃう。……と、非常に梗概の作成が難しいので、ここは帯にあった登場人物紹介にてお茶を濁そう。
「エルサレム」――イスラエルの中心都市で、ユダヤ・キリスト・イスラムの聖地。ある日突然、自らを呼ぶ声に従い移動を開始する。
「ブラッキー」――黒い雄のテリア。宝物として埋めておいた骨を探していて、移動する聖地にただ一匹だけ残される。
「ノッポ・小太り」――地質学の専門家たち。聖地の動きを観測する。
「ベツレヘム」――同じ土の仲間。キリスト生誕の地。
「砂嵐」――?
「各国首脳・国連・民族」――要するに脇役。

聖地の目覚めと、一匹の犬とともに、グレ・ファンタジーの王道が還ってきた。
協会賞受賞作家に対して失礼な物言いかもしれないが、ようやく浅暮氏が「書きたいものを書きたいときに書きたいように書ける」(某漫画のフレーズのパクリ)状態になりつつあるのではないだろうか。浅暮氏は常に自らを”ファンタジー作家”であるとしているが、デビュー作品と『夜聖の少年』を除けば、ミステリやハードボイルドの手法を自作に取り入れるなど、純然たるファンタジーというよりも、(そのベースがファンタジーにあるにしても)ジャンルミックスを意識し、より広範な読者に受け入れられるような作風が目立ってきていたように思う。小生の独断では協会賞受賞の『石の中の蜘蛛』などもまたその系譜に連なる作品であるように感じられる。
一方、本書は逆に純然たるファンタジーにして、ファンタジー以外のどこにも分類されようがない程の力強さを持っている。聖地は目覚めて意識を持ち、周囲の思惑や姑息な罠を超越して動き出す。イスラエル軍が仕掛ける対エルサレムの作戦と、それぞれにおける対応の非常識ぶりはもちろん、特に現実の世界情勢を諷刺するかのような各国首脳や中東諸国の対応がまた面白い。最初は物理攻撃だったものが、段々と訳の分からない方法に変化していくあたりだとか、大いなるエルサレムをナメた者共が、次々とぺしゃんこにされていく場面だとか。この周囲の雑音を通じて、”聖地”の純粋さが浮かび上がる寸法。しかしどこをどうしたら、エルサレムが実は生物で、土の固まりであるそれが動き出す……などという発想が浮かぶのだろう。まだまだ底知れぬ浅暮魂の、片鱗を垣間見せられただけなのかもしれない点、まだまだ隠れた才能があるようで、実際、空恐ろしくさえある。
南へ向かおうとするエルサレムと、埋められた骨を掘り返すことに執念を燃やす犬・ブラッキー。彼らの一風奇妙な心の通じ合いも暖かい。しかし、ブラッキーは何かの象徴として物語に存在しているのだろうか。人間の矮小さ……なのか。(このあたり自分の読みの浅さを自覚させられる)。いずれにしても、こうした計算された”訳の分からなさ”は、グレ・ファンタジーが本来持っている魅力であることだけは確かである。

浅暮氏はWEB日記のなかで、佐藤哲也氏との交流を述べておられたが、その佐藤哲也作品が一貫して発している、極端な日常性を、極端な非日常のなかに放り込んで現実の様々な事柄を諷刺していく姿勢と、本作の世界にどこか近しいものを感じた。宗教・政治世界を諷刺する寓話でありながら、不思議なエンターテインメントになっており、もしかすると本書はまた何かの文学賞の候補作になってしまうかも……とまでも思う。出たばかりなので、この予想はどうなるかまだ分からないが。


03/08/22
斎藤 肇「殺意の迷走」(天山ノベルス'89)

近年だと『たったひとつの 浦川氏の事件簿』がスマッシュヒットとなった斎藤肇氏だが、その十年以上前のデビュー当時より「思い三部作」など、本格ミステリに対する実験的な作風が特徴的な作家であった。本書は氏のミステリとしては三作目の長編にあたる作品。ノンシリーズで、本書以降文庫化はされていない。

パソコン通信で知り合った新しいゲームソフトを開発するためのスタッフ、総勢十人。彼らはロケハンという名で親睦を深めるために、その打ち合わせのため、日本にある西洋の古城へと赴いた。この不自然な建物は、二十年前に成金・大河原善治が戦前の探偵小説界で特異な位置を占める『薔薇の城』という作品を映画化を望んでわざわざ建築したもの。ただ映画製作開始と同時に大河原財閥は没落、今や不動産会社の管理下にあった。参加者の一人、科田は『薔薇の城』に目を通し、ある「計画」を立案した。最初は細かいことを許せない自分の執念深い性格から、かつて侮辱を受けた他の参加者に対する復讐が理由であったのだが、いつしかそれは殺人のための殺人計画となっていた。科田がこの『薔薇の城』を舞台に選んだ張本人。彼は全員が館に到着した後、電話線を切断し、入り口のモータを破壊、館からの脱出を困難にしてから、最初の犠牲者・静江の部屋へと向かった。彼女は熟睡している筈でその首に凶器を突き刺すのだ。彼女の部屋に入った科田は、闇のなかを進んだ……。翌朝、静江の部屋から死体が発見された。それは、密室内で墜落死の様相を呈した科田の死体であった。

ミステリのための不自然な設定と人物配置、迷走する視点……だが、この”試み”はそれなりに評価できる?
例えば設定にかなり無理がある。一応、作品内でそれなりにもっともらしい説明はあるものの、中世のお城がきちんと管理されたかたちで日本国内に存在している点。そこで互いに非常に親しいでもない男女が数日以上も宿泊する点。その城がおおよそ実用性のないギミックに満ちていたりする点。恐らく”リアリティ”という観点から評点すればマイナス点が与えられてしまいそうな舞台。でも、ま、いいか。
作者が狙ったことが明らかな、登場人物の一人称(視点)がくるくると入れ替わる点、描写の不足による状況描写の拙さ……それも、ま、いいか。
前置きで貶すような書き方になったが、本作は斎藤氏ならではの”本格ミステリ実験作品”なのだから。とにかく、そういった点全てには目を瞑りたいのだ。もちろん、推理”小説”としては本書はあまり高く評価は出来ない。”推理”小説としての面白さ、狙いに着目したい。
そのミステリ部分、念入りに殺人計画を練って準備万端整えた人物が、いきなり他殺死体となって発見されるという冒頭の意外性は抜群。また、連続しておきる殺人事件が(ネタバレ)実は、殺意を抱いている人物が、次々とそれとは別の人物に殺されていく「殺人の連鎖」になっている点、更に冒頭のプロローグの意味合いが通読すると変化してしまう面白さもある。本書で使用されている、特に殺人のトリックについてはどうだろう。解決を読んだ瞬間に「すげーバカミス!」(念のため、褒め言葉だからね) と喜んでしまった。だって、部屋の中での墜落死の真相が……(凄すぎて書けない)。個々のトリック、構成は、はっきりいって本格ミステリマニア向けの凝り方。ただ、そちらを重視する余りに、マニア以外に読まれるための要素が、結果的に軽視されてしまったようなのが惜しまれる。(つまり、一時期あった「新本格バッシング」でいわれていた要素を、本書は全て持っているともいえるわけで)。

本書が発表されたのは、'89年。いわゆる「新本格ミステリ」が別に行き詰まってもいない、寧ろ黎明期にあったこの時期の作品におけるこの実験精神が、かえって異色。文庫化もされず、このノベルスだけでしか刊行されていないため、多くの方の目に触れているとは言い難い作品だが、ミステリ部分に特化して凝った、という特徴がある点、覚えておいても良いかもしれない。


03/08/21
横山秀夫「第三の時効」(集英社'03)

横山氏は'99年『陰の季節』の松本清張賞受賞にてミステリ界にデビュー後、『動機』で第53回日本推理作家協会賞を受賞、また『半落ち』が直木賞候補となり、その内容を巡っていろいろ騒がれるなど、着実に斯界でその地歩を固めている。本書もまた評価の高い一冊で、'01年から'02年にかけて『小説すばる』誌に掲載された作品がまとめられた、連作短編集。

F県警本部捜査一課強行犯捜査一係、通称「一班」の班長・朽木。現金輸送車を襲い、強盗殺人容疑で起訴された湯本の公判を傍聴することになった。共犯者が行方不明のままだが、湯本は自白、問題はない筈だったが、いきなり彼はアリバイを主張し始める。取調にあたった島津に朽木は事態を確認するのだが……。 『沈黙のアリバイ』
「二班」の班長は公安警察上がりの楠見。彼らは「タクシー運転手殺害事件」で逃亡する犯人を追っていた。十五年が経過し最初の時効を迎えたが、容疑者は七日間海外逃亡しており、その期間分時効は延長されるのだ。捜査員は家族に容疑者が接触するのを待ち受けるが……。 『第三の時効』
F県警本部捜査一課長・田畑。彼は現在三つの殺人事件を抱えていた。主婦殺し。証券マン焼殺事件。調理師殺し。それぞれ一から三班までが捜査にあたっていたが、彼らの競争心は激しく、三人の個性的な班長を御する立場の田畑の気苦労は耐えない。楠見が調理師殺しの被害者の妻を取調で落とし、それぞれの事件が急速に動き始める。 『囚人のジレンマ』
「三班」班長の村瀬が脳溢血で倒れ、代行を命じられた東出警部補。彼は担当していた白骨死体事件の犯人を監視している最中に取り逃してしまっていた。責任の所在もさることながら、犯人は果たして警察の監視のなか、どうやって抜け出してしまったのか。 『密室の抜け穴』
朽木班長率いる「一班」で最年少の矢代は、幼い頃、誘拐殺人者の”道具”にされた過去を持ち、顔に偽りの笑いを貼り付ける生き方しかできなくなっていた。隣県で発生した青酸カリによる浮浪者毒殺事件の情報聴取に赴いた矢代は、被害者が十三年前に発生した少年が父親を毒殺した「傀儡」事件の犯人とそっくりな点に驚く。 『ペルソナの微笑』
「一家三人刺殺」事件が発生。「三班」の担当の事件に、捜査一課長の田畑は「一班」をも追加投入する。両班は互いに現場で縄張り争いを開始。関係者を取り込んで、それぞれが事件の解決を図ろうとする。事件現場で目撃された”白い”車がポイントとなると思われたが……。 『モノクロームの反転』 以上六編。

生々しい事件に直接しているからこそ、最後のロジックが詰まる。警察小説の傑作にして本格ミステリの醍醐味も
「続きはどうなるんだ、続きは!」 読み終わって思わず感じること請け合い。F県警捜査一課所属の三つの班、それぞれ上司の手に負えないほど個性的で、かつ担当した事件を必ず解決する超優秀な班長たちを中心に据えた連作短編集。班長のみならず、登場する捜査員それぞれの個性が際立っており、またチームワークによって事件を着実に解決に導いていく展開など、設定と舞台は、いわゆる警察小説のそれ。ただ、班長たちが優秀無比に過ぎるため、事件の最後に確実に訪れる事件の決着から味わう感覚は、突き詰められた論理の帰結によってカタルシスが極められており、まさに本格ミステリにて味わうものに近い。というか、本格ミステリそのものだともいえる。
また、個性豊かな登場人物は到底一冊の単行本には収まりきらない程の魅力を持つ。”笑わない男”朽木、”冷酷無情”楠見、”直感の鬼”村瀬。三人が三人とも、警察というカイシャに奉職するにあたって、余人にはない人生の重みをそれぞれ背負っている。恐らく作者の頭のなかには、彼らの隠されたエピソードがまだまだある筈。それなのに、微妙に毎回、角度を変えて、彼ら自身よりも彼らを取り巻く人物たちを中心に作品を構成しているあたりの余裕は小憎らしくなるほど。これだけ人間観察の妙と、警察のリアリティが注ぎ込まれて、そのうえにこれだけの余韻を毎回与えてくれるなんて。また、ミステリとしても、横山氏の豊富な警察関係の知識をベースにしたアイデア勝負のもの、レッドへリングをピリッと効かせたもの、犯罪者心理を冷静に観察したもの、と、ヴァリエーションが豊か。一編一編で、謎で楽しませてくれると同時に、犯罪者を断罪する際のキリッとした快感も心地よい。

ベースとなっている重厚な文章が、かえって読みやすく感じられる。警察小説として、もっと長くシリーズを続けて欲しいという冒頭の気持ちも正直なところだが、一番驚いたのは、やはり同時にミステリとしての論理を重要視している点。横山作品は、今年になって単行本ラッシュが続き、その全てがハードカバー版であることもあって追いつけていない方も多い(ワタシもだが)だろうが、本書はそれでも押さえるべき作品集だと感じられた。