MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


03/09/20
柳 広司「新世界」(新潮社'03)

'01年『黄金の灰』によるデビュー以来、毎回異なる歴史やフィクション世界を舞台に独自の本格ミステリ観を貫く柳氏の五冊目となる単行本。

私、こと柳は米国の出版エージェントと思いこみ、ある人物と会うこととなった。しかし奇妙に時代遅れの服装をした男は、柳に対して自らが持つ原稿の売り込みを図ろうとした。その原稿とは、第二次世界大戦中、原爆の開発を指揮したロバート・オッペンハイマーの未発表の遺稿、そしてオッペンハイマーの生涯を通じての友人、イザドア・ラビの眼を通じて描かれたミステリーなのだという。柳はその「新世界」と題された原稿を受け取った――。
広島、長崎に落とされた原子爆弾。これはナチスドイツが原爆を製造しているという情報に対抗して米国が二十億ドルもの秘密予算を注ぎ込んで砂漠の真ん中に作られた新しい街、ロスアラモスにて研究開発、そして試作が進められた。科学的な部分でその指揮を執ったのがオッペンハイマーであり、警護や秘密保持に関してはグローヴス将軍が責任者である。第二次大戦が終了した八月十四日、終戦を祝うパーティが行われるが、爆発物専門科学者のキスチャコフスキーが祝砲を撃とうとするが誤って吹き飛ばされてしまう。彼を救おうとした軍人と共に、街の病院に入院したキスチャコフスキーであったが、かすり傷だけだった彼は夜中に勝手に退院、そこに寝かされていた作業者が頭を殴られて殺害されるという事件が発生した。犯人は間違いなくロスアラモス内部にいる――。何かを恐れるオッペンハイマーによって、イザドア・ラビはこの事件の探偵役を命ぜられ、関係者の事情聴取を開始する。

あの歴史のメッセージが強すぎて、読者も作者も登場人物も幻惑されてしまったか
……。 ――評価が非常に難しいのだが、割り切るしかないか。
ミステリ的には、試みが面白いが、瑕疵があるように思える。文学的なメッセージ性は強烈なのだが、これも瑕疵があるように思える。 ただ、こういった瑕疵を全て乗り越えるだけ、作品の持つインパクトが強烈なので、物語として本書を読んだ人々に与える影響は少なからぬものがあることは想像に難くない。――場合によっては文学賞クラスの候補に挙げられる可能性もあるように思う。

ミステリとして本書を論じてみる。ポイントになるのは、病院に入院した学者が、人知れず夜中に退院していたことによって発生する”取り違え殺人”の犯人探し。それだけであれば平凡な”謎”でしかないのだが、柳さんは作品に工夫を凝らしている。第二次大戦終了によるパーティ当夜という時期的な問題、原爆開発に携わった、優れた頭脳を持つ科学者たちが関係者という人的問題、更に、秘密を保つために周囲から隔絶された環境に建造されたロスアラモスという街がもたらす、場所的問題と、相変わらず一筋縄ではいかない奇妙な設定を物語にてぶちあげている。更に、片目で、白い服を着た美少女であるとか、イルカが喋る物語であるとか、幻想小説めいた仕掛けまでもが読者を困惑させる。結果的に明かされる真相はシンプルであり、犯人の心理が激烈に読者に訴えを投げるものでもあるので、説得性は高い。ただ、その心理の方に重きを置きすぎており、そこに至る過程にどうも無理があるように思えてならなかった。
意図的に為されている視点の揺れが、そのミステリの効果を却って引き下げているのだ。端的に言ってしまえば、この終戦直後の段階で”加害者が自らの為した恐るべき事件を悔いる”という行為を実現するにあたり、”広島の爆心地の悲惨さを実際にその場にいない者に見せつける”役割を果たす少女の存在が不可欠となる。その結果、柳氏がこれまで為してきた、「その時代や背景における理屈・論理ならではの本格ミステリ」を結局のところ否定してしまうことになると思うのだ。実際、少なくとも当夜、その事実を具体的に感じることが可能な人物は、”落とした側”に一人もいなかった、というのは歴史的には前提条件なのだから。この動機を持ち込まんがために、物語はねじれていく。結果的にそれが物語としての迫力にも繋がるとはいえ、ミステリとしてのみ鑑賞するには辛いところ。
もちろん、本書が”オッペンハイマーによる創作”というメタの枠が嵌められている以上、そういった指摘そのものが無意味になる、ということかもしれない。なので、変格の幻想ミステリとして評価することは可能であろう。それでも、一連の柳作品を読んできた者にとって、本書はどこか不完全燃焼しているような印象が残ってしまう。

もちろん、小生としても過去の悲劇を忘れてはならないとは思う。(先日、この年齢にして初めて実物の原爆ドームを見てきたし)。もちろんフィクションだろうと何だろうと、”落とした側”も”落とされた側”も両方をカバーして、(色々な意味で)迫力のある現場風景を逐一描写、あの歴史の齎した悲惨な出来事を風化させまいという意志は買う。 だが、それと、ミステリとしての物語との融合が、どこか噛み合っていないように思われるのが実に残念。ミステリとしてよりも、文学的な意味から読まれるのが吉か。


03/09/19
海渡英祐「二十の二倍」(徳間文庫'86)

元版は'81年に刊行されたフタバノベルス版で、”本格社会派推理”と銘打たれている……が、内容的には安保や世代固有の問題が絡んでいるとはいえ、「これが社会派?」という印象。現在の基準でいえば、本格ミステリの系譜に属することになる長編ではないかと感じた。

一月十五日、成人の日を誕生日とする吉沢安芸雄は、今年で四十歳の誕生日を迎えた。二十の二倍の年齢である。妻と二人の女の子、そこそこ一流どころの会社に勤めながら、住宅ローンを背負い込んだ平々凡々の毎日。彼の心には半ばの諦めと同時に、この日常性からの脱出願望が常につきまとうようになっていた。その誕生日を家で過ごすのが嫌で、妻に嘘をついて吉沢は帝都ホテルのバーラウンジで一人で飲んでいた。そこに偶然現れたのが学生時代の友人・藤井。シナリオライターとして活躍する彼は、石崎恭子という美女を連れていた。藤井は吉沢に対し”大塚”の消息を確認する。彼ら学生時代の仲間にとって、安保のデモの後に発生した遠山由美殺人事件を思い出させるその名前はタブーだったはず。藤井が席を立った隙に、恭子から「今度、相談したいことがある」と持ちかけられた吉沢は、心をときめかせる。一方、その仲間の一人が海外勤務になるということで仲間が久しぶりに集まった。吉沢はそこで”大塚”の名前を出したところ、仲間の雰囲気がぎくしゃくとしたものになった。一ヶ月後、恭子からの連絡を受け、”大塚”のことで悩んでいるらしい藤井の元を訪ねたところ、彼は青酸カリによる服毒死体となって彼らを迎える。十八年前の事件が関係しているのか? 恭子の要請もあって吉沢は探偵役を買って出るが、続いて弁護士をしている望月も転落死体となって発見された。

社会派でもサスペンスでもあるかもしれないけれど、海渡流の立派な本格ミステリ
文庫版のあらすじのラストにこうあった。”ふとしたきっかけで日常から逸脱した中年男の悲哀と人生の意味を語る長篇社会派推理”。 これを眼にしていたので、正直なところ「あんまり面白くなさそうだな」という先入観があった。だってだってだって、中年男の悲哀だとか、人生の意味だとか、長篇社会派だとか、こう書かれると地味そうな印象しかないではないか。海渡英祐は読破を目標にしている作家、なので手にとってみたところ、看板に偽りあり、であった。このあらすじだけで、この作品は相当に損をしているようにさえ感じる。
確かに主人公は四十歳だし、日々の生活にくたびれきってはいるし、平々凡々の浮気願望のあるサラリーマンでしかないのだが、本書の眼目は、やはり彼が巻き込まれる原因不明の連続殺人であり、その事件とリンクすると思しき、学生運動のさなかに発生した過去の殺人事件なのだ。過去の友人からと思われる謎の脅迫が周囲の友人たちを訪れ、自分自身二重三重の脅迫を受けながらも、犯人を捜し求める主人公。その相棒が最初の殺人事件で殺された友人の愛人だという点あたりで、ちょっと俗っぽさがあるようにも思うし、家庭を気にしながらの調査というのは、確かに中年男の悲哀といえなくもない。だが、物語の根本にあるのは、いくつかのトリックと見えない動機を推理する謎解きの過程である。その過去の事件が、安保反対の学生運動のさなかに起きている、というだけで社会派推理に押し込められるのは、この作品も、社会派推理というカテゴリの方も、両方が迷惑に感じるに違いない。
仕掛けられたトリックそのものは平凡ながら、犯人に辿り着いていく推理のロジックが本書の見どころ。海渡氏自身が、都筑道夫氏のミステリ論に影響を受けたことは否定していないし、このロジックの紡ぎ方は、都筑作品と根底に繋がりがあるように感じられる。また、ほんのちょっとした主人公に対する不自然な脅迫が、うまくミスリーディングに使われており、この扱い方なども感心。

ちょっとサスペンス味が強く、本格ミステリを前面に押し出すには至らない作品ながら、登場人物や背景、それに物語構成ともしっかりしており、十二分に現代読者の鑑賞に応える佳作。 発表された当時、現実に四十歳を迎えた人は、今や六十歳を超えていることになる。今の四十歳との比較は意味がないのかもしれないが、ちょっと昔の人の方が”老成”しているような気も少しした。


03/09/18
斎藤 栄「日本のハムレットの秘密――天才少年遺言の謎」(祥伝社ノン・ポシェット'91)

斎藤氏のノンシリーズ作品で(強いて云うと歴史推理系統ということになるが)、'73年に講談社より刊行された作品が元版となっている。文庫版では「――」の後の副題が付せられているが、オリジナルは『日本のハムレットの秘密』だけであろう。(元版そのものは未確認)。

推理小説作家の”私”の仕事場をいきなり謎めいた女性が訪ねてきた。彼女・阿南みさをと名乗る人物は、自分が明治時代に”巌頭の感”を書き残して自殺した一高生、藤村操の孫なのだと主張する。しかし、当時高校生で未婚の藤村が自殺したのであれば孫など残るはずもない。しかし、もしあの事件が偽装自殺であったなら? 私は、友人で捜査中の怪我によって入院療養中の安東警部と、更に、別の友人で奇術師を生業としている昇龍斎道庵に、その事件の解決を託す。彼らは哲学的名文と呼ばれる”巌頭の感”のなかに、いくつもの不自然な表現があることに注目。また、当時の新聞や後の調査から、現場となった華厳の滝から、藤村の死体こそ発見されているものの、それが彼だと確認できた筈がないことを指摘する。退院した安東に続いて、検討を続けた道庵と私は、その遺言に隠されて残されている恐るべき言葉を発見する。

斎藤栄流・セミ・フィクション。どこからどこまで事実なの?
本書は(当たり前だが)単行本版の刊行となり、恐らく初刊版にはなかったのではないかと思われる第十一章という、あとがきが存在する。そこで、斎藤氏は本書に登場する一部の人物(もちろん、藤村操ではなく、その後の取材によって登場する人物)が、実在することを告白している。初刊時にどのような評判が本書にあったのかは分からないが、全くのフィクションを前提で読んだ筈の、例えば私のような読者にとっては、ここがまずサプライズである。(これが作者がわざと狙ってメタ・フィクションを構成しているのであれば、それはそれなのだが)。 加えて、本書で斎藤氏に藤村操について調べさせようとするきっかけとなる”阿南みさを”なる人物までもが、実在すると述べられているのにはさらに驚かされた。恐らく名前は変えられているのであろうが、物語中で彼女が迎える運命を含めて考えると、事実は小説よりも奇なり、という格言を地でいっていることになる。
実際、これをフィクションの物語としてみれば平板である。ただ、長田順行氏が認めているという本書の「暗号」部分についてはかなり力が入っている。 一歩間違えれば”トンデモ”の解釈ではあるのだが、この歴史文書そのものを無理矢理細かく刻んでジューサーに入れても、新たな答えを導き出さんとする心意気と、その結果には素直に敬服したい。日頃から作品内に暗号を入れることの多い斎藤氏ならではの業績といえよう。

'73年8月、という初刊の刊行から既に三十年が経過している。その当時でさえ”藤村操”という名詞が齎すインパクトはそれほどに強烈なものではないというのが作品での状況。確かに、哲学的な悩みを抱えて遺書を滝の上に掘り、投身自殺した一高生――藤村操という人物は、その自殺当時にセンセーショナルな話題を巷間に提供したことは間違いないし、後追い自殺を含めて社会現象となったこともまた、恐らく間違いはない。とはいって、それは明治時代のこと。作中では現代に通じる謎として描かれているそれも、今となっては歴史の彼方である。

どうだろう――やはり、現代となってはインパクトがかなり弱まってしまうことは否めまい。ただ、斎藤氏らしい業績であり、スリリングな、セミ・フィクションとしての心意気は通用するのではないかと思う。歴史新解釈や、暗号系ミステリがお好きな方向け。


03/09/17
坂東眞砂子「狗神」(角川文庫'96)

坂東さんの一般向け小説では『死国』に続く、第二作目となる長編。角川書店より'93年に刊行され、'96年の初頭にカドカワノベルス入りしたが、その年末には文庫化されている。'97年の頭に『山妣』が第116回直木賞を受賞したこともあり、セールス的には成功した作品かと思われる。

長野の友人を訪ねた帰り、時田昂路は勧められるままに善光寺参りをすることになる。戒壇廻りでの闇の中、彼は着物姿の女性と出会い、彼女より闇がダメなので手を繋いでくれと頼まれた。その闇の中、二人は迷子になり、見回りに助けを求めるまでの時間潰しに、一人旅をしているという彼女の身の上話を聞くことになる。
彼女・坊之宮美希は、高知県の山岳地帯にある小さな集落・尾峰で暮らしていた。四十を迎える年まで独身を通している彼女には、かつて体験した辛い思い出があったが、今は恋も人生も諦めて、実家に身を寄せ、和紙を漉く仕事を生業としていた。彼女の前に現れたのは二十代前半の奴田原晃。隣町の教師として高知市より赴任してきた彼は、爽やかな笑顔と逞しい肉体、そして礼儀正しい好青年。美希は彼に心惹かれるようになるが、信じられないことに晃もまた、美希に対し年齢とは無関係に好意を覚えているのだという。一方、尾峰はその頃から、村人が悪夢を見てうなされたり、夜中に星も見えない程の黒い闇に覆われたり、巨大な山犬が現れた痕跡が見つかったりと、怪異現象が発生し始めていた。更に、狗神が取り憑いたとしか思えない患者が出るに至り、村人たちは、これらは美希ら、坊之宮一族が”狗神筋”であり、彼らが原因で引き起こされていると考えはじめる。美希は、坊之宮一族が、村で畏れられている理由を祖母から聞かされ、坊之宮の女系一族に護られた狗神が実在することを知ってしまう……。

これぞホラー・ジャパネスクか。日本ならではの伝奇とムラ社会との微妙な融合
前作に引き続き高知の山奥の集落が舞台として大きな比重を占めているのだが、この日本独特ともいえる”ムラ社会”を描き出すのが坂東さんは非常に巧みである。プライバシーや秘密といったことがなく、余所者を排除する傾向があり、伝統を重んじ、家が大事にされる。都会暮らしでは日々実感することのなくとも、少なくともほんの少し昔まではそこかしこに存在していた、現実(リアリティ)を伴う社会がベース。別に周囲と物理的な隔絶はなくとも、心理的な隔絶が存在し、そこに恐怖の種子が播かれていく……という過程は、例えば小野不由美さんのホラー『屍鬼』あたりの世界観と通じるものがあるように思う。
そのなかで、徐々に発生する怪異。狗神憑き、底知れぬ闇、獣の息等々に加え、主人公・美希を巡る、現世の人間模様の血の悲劇が加わる。この、人ならぬモノによる怪異と、人ゆえに犯した過ちとの、絶妙な融合が本作の最大のポイントであろう。勘の良い人ならば、この悲劇は中盤では既に可能性として気づくことが出来るだろうが、そこにカタルシスの萌芽を見つけることは難しい。また、その怪異のみならず、本書はまた”ムラ社会”の悲劇というか、本書固有の伝奇的恐怖に、その”ムラ社会”の物語を返してくるあたりにて、その混然とした恐怖感が最高潮に達するよう、計算されている。坊ノ宮一族を襲う最後の悲劇が醸し出す恐ろしさは、決してsupernaturalそのものではないのだが、宿命を背負った人間の業(自らどうしようもない)ものによって味わわされる恐怖と、自分勝手な人間だからこそ創り出せる狂気とが内外に混じった独特の情念を発揮している。読者としては、恐怖の物語に対し、自然とその筋書きに因果応報や理(ことわり)を求めてしまうものなのだが、その思いが作者に無視され、更に蹂躙されるに至って、味わう怖さが倍加させられていく。本書はそういった倍々ゲーム的恐怖の要素を多く内包している。伝奇的テーマをいかに物語に活かすか、という点、知り抜いた作者ならではの業績だといえよう。

作品そのものが発表されてから十年が経過しているわけだが、最先端の日本を舞台にしていないため、決して物語が古びない。なので、今読んでも、恐らく更に十年してから読んだとしても、読者は全く違和感なく本書が醸し出す恐怖を味わうことが出来るのではないかと思われる。本書は、そのまとまりといい、醸し出す怖さといい、ホラー・ジャパネスクのお手本的存在ですらあるように感じた。


03/09/16
皆川博子「死の泉」(ハヤカワ文庫JA'01)

構想十年……長らくの間、歴史・幻想小説こそコンスタントに発表しつつもミステリというジャンルに対する長編新作がなく、ファンを長らく渇望させていた皆川博子さんが、満を持して発表した超話題作品(発表当時)。各種のランキングに名を連ね、それまで「皆川博子」の名を知らなかった若い読者にその名を浸透させたのみならず、数々の受賞歴を誇る皆川さんに吉川英治文学賞という新たな栄冠を付け加えたという曰く付きの一冊。皆川ファンを自称する自分ではあるのだが、どこか懼れ多く、どうしてもなかなか手に取れなかったもの。ようやく皆川さんの背景作品をそれなりに読みこめたのではないかと判断出来たため、最初の一ページを開くこととしてみた。

第二次世界大戦中のドイツ。アドルフ・ヒトラー総統率いるナチス・ドイツが支配するこの国でマルガレーテという一人の女性が妊娠した。夫になるべきギュンターと彼女は別れていたうえ、彼は戦線に向かった。一人きりで子供を産み育てようとした彼女は、純粋アーリア人の身寄りのない子供を養育する〈生命の泉(レーベンスボルン)〉と呼ばれる施設に赴き、働き始める。施設責任者の医師でSS所属の中年男、クラウスは、ボーイソプラノに異様に執着する人物。施設にやってきた美声のポーランド人少年、フランツとエーリヒの兄弟を無理矢理に手元に置くべく画策する。彼が独身であることで許可が下りないことを知るや、クラウスはマルガレーテに求婚。マルガレーテが生む子供共々庇護に置くことを条件に二人は結婚。クラウスは若い生体を老いた生体とを合体させ生命を引き延ばすという人倫に悖る研究をしていたが、自身と生まれた息子ミヒャエルの安全を願うマルガレーテは彼とフランツ、エーリヒ兄弟との生活にすぐに慣れていく。しかし、戦火は彼らの住む田舎町へも及び、遂に爆撃が彼らの住居を襲う。――そしてそれから十五年、再び運命の歯車は回りはじめ、成長した彼ら、老いた彼らは悲劇へと突き進む。

物語文学としても、幻想ミステリとしても、歴史小説としても重厚にして華麗。奇跡の作品
世評も定まった大傑作であり、皆川ミステリの集大成であり、幻想ミステリの二十世紀の道標であり、その格調の高さと構想の無比無限ぶりは皆川作品ならではの拡がりを読者に魅せる。既に多くの書評が跳梁しているWEBの片隅に、ストレートに本作の凄さを伝える文章を書いても、既に頂点近くに存在するこの作品に新たな価値を付け加えることは不可能だろう。さすれば、多くの人が幻惑されているこの作品の「ミステリとしての構造」について特化して検証してみるのも一興かと。例えそれが客観的な正解であってもなくても。そして恐らくは正解は(本文庫版にて北村薫氏が述べているように)読者一人一人の胸の内に生まれたもの、全て。

 以下、ネタバレを含むが、作品を未読の方に意味は分からない筈、という判断にて反転はさせない。先入観を持たれたくない方は、読了するまで目を通さないようにして頂きたい。

 野上晶+誰=皆川博子

翻訳作品+野上晶によるあとがきという入れ子の形式を取っている以上、その中身(つまり『死の泉』本編)は作中作となり、その描写された事実の真偽そのものでさえ、あとがきという上位レベルにて保証されないことには宙に浮いてしまう。その点から考えると、本作でまず検証すべきは、あとがき(by野上晶)である。
ここで彼女(彼?)は、ギュンター・フォン・フュルステンベルクという作家の作品を翻訳したことになっている。つまりこの作品そのものは既に『死の泉』というフィクションに内在するフィクションである。一九六八年に野上晶が訪れたレーベンスボルンに置いてあった一冊の小説本。作者はギュンター、しかし、作者と名乗る人物は「灰色の眼を持ち贅肉がたるんだ中年の男」だった。この容姿はギュンターとして描写されるものではなく、作品内部においてはクラウスの身体的特徴と見事に合致する。そこまでは比較的単純ともいえる。さて、それ以降の謎について列記してみる。

(1) 野上が聴かされた「私が造ったミヒャエル」の歌い手は誰?
(2) マルガレーテの手記にあるギュンターと名乗った男は誰?
(3) 老婦人の横に揺れているという二本の足の持ち主は?

これまで綴られてきた翻訳部分における『死の泉』でレナとアリツェの双子は最終的に生きていたことが示される。(同姓同名の別人物である可能性までは検証出来ないが)。他にも第一部のミヒャエルと第二部以降のミヒャエルは別人で、第二部でエーリヒとなっていたのが実はミヒャエルである……等々、既に物語の内容そのもので既に変転している。そしてこのごく短い「あとがき」によって物語は悪魔的ともいえる光景に変質していく。さて。

まず、作者は実はギュンターではなく、クラウスであったという前提は構わないだろう。となると『死の泉』の本編の虚実は一挙に入り乱れる。そのなかでも、野上が盗み読んだ、赤い革表紙のマルガレーテの手記が一つポイント。『死の泉』の第二部において廃人扱いされているマルガレーテの視点で描かれているという。こちらによれば、彼女の元を訪れたギュンターと名乗る男はマルガレーテの視点からするとフランツに見えた。そしてその男は犬に腕ではなく喉笛を噛みつかれ、この段階で男は死亡する。……ここが分からない。ここで現れるのがギュンターで、彼女がミヒャエルと誤認するのであれば親子でそっくりという解釈もできるのだが。または実際に現れたのはギュンターだが、アーリア人の特徴が一致したことから彼女が錯覚したと受け取るべきか? この男がフランツなのであれば、彼女にそういう態度をとるはずはない。少なくとも手記ではマルガレーテは失神? その後のページは白紙となっている……。ギュンターと名乗る男、これが誰なのかはとにかく、関係者の一人が死んだことは確か。
しかし重要なのは彼女の手記が『死の泉』と明らかに異なる点。即ち、この結果、第二部以降の物語の信憑性を揺るがせる。マルガレーテが執筆を止めた後の物語は全てクラウスの創りだした完全なフィクションとも考えられる。ミヒャエルはやはりマルガレーテの産んだ子供であり、クラウスの教育(そして人体改造の可能性もある)の結果、ソプラノの音域を持つ歌手となった、と。フランツも生きていたものの、クラウスの人体実験によってマルガレーテのために肉体を供している……とか。

野上は部屋の奥に「唄を口ずさむ老婦人」を目撃、更にその傍らには「二本の足が揺れている」……とある。老婦人は作者がギュンターであれ、クラウスであれ、マルガレーテであることは違いない。先にレコードのミヒャエルから検討する。興ざめながら一つ可能性とあるのは、クラウス錯乱により他人の歌手をミヒャエルと誤認していること。それ以外であれば、この歌手は成長したミヒャエル、ないしエーリヒのどちらか……ということになる。だとするとどうなるか。彼女の横にある二本の足。これは単に並んで座っているだけとも取れるが、第一部のクラウスの研究から類推するに若き生命を老いたマルガレーテに注ぎ込む存在と受け取る方が自然だろう。マルガレーテがギュンターをフランツと誤認したということは、フランツは彼女の側にはいなかった。すると、もう一人消息が描かれていないエーリヒがそこにいるのではないか……。いや、待てよ。この婦人がブリジッテである可能性も皆無とはいえまい。そうすると彼女の息子が……。

色々可能性を書いたが、私の感覚では作者=クラウス 婦人=マルガレーテ 息子=ミヒャエル二代目 二本の足の持ち主=フランツ。最後のところが感覚的なもので、全く別の第三者である可能性も高いと思っているのだけれど。また、二人の身体が必ずしも繋がっているとも思っていない。ただ、いずれにせよ検証しようにも真と偽の保証がないテキストからはこれくらいまでか……。

単純に作者は実際にギュンターであり、クラウスを表現するのに自分の身体的特徴をなぞった可能性等々まで含めれば、いくつでも解がある。いずれにせよ、あとがきで全ての光景を反転させ、更に曖昧にして、読者それぞれが作品から得ていた世界観を混乱の渦に巻き込む……という作者の意図は十二分に果たされている。 本格パズラーとして割り切れない部分は、幻想ミステリの新たなる光景へと転換されていく。宙づりにされて空(くう)にピンで留め置かれた読者の気持ちこそが、幻想ミステリとしての本書の真髄と重なるのだ。

はぁ。それにしてもやっぱり凄い作品だよなぁ。勿体なくて読めない、字義通りの「取っておき」の本に手を付けてしまった。しかし、まだまだ入手困難作品も含めて皆川ワールドは、私の前に大きく拡がっている。これを至福といわずして何と言おう。


03/09/15
岩井三四二「月ノ浦惣庄公事置書」(文藝春秋'03)

第10回松本清張賞受賞作品。岩井氏は新人ではなく、'96年「一所懸命」にて小説現代新人賞を受賞、同作を含む作品集『連歌師幽艶行』という著書を既に刊行している。また'98年には『簒奪者』にて歴史群像大賞を受賞。ほかに『斎藤道三』という著書もあるという。名前は三四二と書き”みよじ”と読む。
雑文にも書いたが、新聞での縄田一男氏の書評が非常に気になったので購入した本。

十五世紀。京の都も近年の不作によって荒れ果て、公家といえど土倉と呼ばれる金貸しから借金をしなければ生活できない状態にあった。百姓による一揆も頻繁に発生していたこの時期、琵琶湖の北端にある高浦という集落に、源左衛門という代官がやって来た。寺門仕込みの武術を身につけ、粗暴な性格にして計算高いこの男、土倉の借金の形にされた代官職を利用してこの地から利益を吸い上げようというのだ。高浦の隣には更に小さい隠れ里、月ノ浦があった。その月ノ浦は村近辺には小規模な田畑しか持たないため、少し離れた米舞、苧ヶ端という浦を穏田として数百年の昔から開拓し、暮らし向きは悪くなかった。隣の高浦とは昔からその両地は、領有争いの対象となっていた。高浦の村人が最近になって米舞、苧ヶ端に侵入するようになり、両惣の関係が悪化。公事(裁判)にて決着を付けようとした月ノ浦だったが、正式書類があるにもかかわらず、高浦に負けてしまう。月ノ浦を率いる、新次郎、右近らは、再び公事にて決着を付けようと、京にいる実力者を再び金と根気で説得しようとするがなかなか上手く行かない。そして高浦にいる源左衛門の存在は、月ノ浦にも知られるようになる。源左衛門は月ノ浦で生まれ、幼い頃、親に捨てられた経歴を持つのだという。

確かに経済に関する詳細も凄いが……中世に生きる日本人の根性と粘り、そして生き様の物語
軸になるのは、確かに「琵琶湖北端の村の土地が、隣村に狙われ、それをいかに守ったか」という話ということになる。それを暴力や通常の説得ではなく、この時代の公事(つまりは裁判)にて争うところが第一の特徴であろう。その様子も具体的で詳細に描かれており、併せてそのベースとなるこの時代の土地支配制度や年貢の貢納、さらに副収入による農民たちの暮らしぶりに関する描写も詳細を極めている。特に”食”の描写が細かく、そのものが経済だった当時の雰囲気がよく伝わってくる。それでいて、恐らく、作者自身時間をかけて深く研究したであろうこれらについての事柄は、物語の文章となるにあたっては抑え気味の表現となっている。つまり、引っかかりを覚えさせずに、すんなりと読者の頭のなかに、数百年前の情勢や仕組みを次々とインプットさせていく。この手腕は素晴らしい。
また、弱々しくも強かな当時の農民像が、それぞれの登場人物の書き分けをもって実に見事に描かれている。武闘派、穏健派に分かれつつも、公事に奔走する村人はもちろん、のらりくらりと彼らの訴えを退ける公家やその使用人、賄賂なしに動かない上層の人々、理を通そうとする山門の僧たちなど、個性も表情も豊か。
しかし、最も個性が強く、独特の輝きを持っているのは、主人公格に相当する月ノ浦の村民たちではなく、悪役として登場する源左衛門という代官なのである。 不幸な生い立ちから月ノ浦を憎み、武芸に通じて余人を寄せ付けず、老獪な手腕と、残酷な方法で惣民を支配する遣り手。彼と、高浦で彼の愛人として差し出された女性・たきの生き様がもっとも鮮烈に物語を彩っている。ある意味、彼らの心の闇を描いた時代・ノワールというのが本書の本質にあるように思えてならない。公事がどう運ぶかに対しても興味は惹かれることは事実ながら、源左衛門の辿る運命を追うのに物語の醍醐味を感じた。

縄田一男氏のいう通り、結びのひとことも確かに良い。良いが、私自身の読み方としては、それ以外に胸に響くシーンが数多くあった。公事云々という以前に、一個の時代小説としてしっかりとした構成を持っていることは間違いない。他の作品をまだ読んではいないが、作品の質に対して信頼できそうな、実力のある作家であることは、この一作にて証明されているといえよう。(ミステリー的な構造にはなっているものの、本格パズラー的な要素はないです。念のため)。


03/09/14
西澤保彦「死者は黄泉が得る」(講談社ノベルス'97)

西澤保彦氏の八冊目、講談社ノベルスでは七冊目となる書き下ろし作品。”SF本格ミステリの書き手”として着実にその認知度を上げていた時期の作品である。本書が、山口雅也『生ける屍の死』にインスパイアされて作られた作品であることは有名だが、改めてあとがきをみるにロバート・ゼメキス監督のホラーコメディ映画『永遠に美しく……』のテイストもかなり活かされている模様。再読。

(死後のパート) 車社会にとって道路から隔絶された地域は、存在しない地域と同義である――。周囲から隔絶された場所にひっそりと建つ屋敷のなかで六人の異形の死者が暮らしていた。生ける屍である彼女らには、手足の感覚と生前の記憶が基本的に存在しない。SUBREという機械によって、死者は蘇生させられ、その後MESSという機械によって、記憶が全員”白紙”に戻されてしまうからだ。ただ、彼らが生きて(?)いくのに彼女らのもとに彷徨い込んでくる人物たちは、なにかを「知って」いるようなのだが、彼女らは彼らを強烈な毒にて殺害し、淡淡と機械にかけてゆく……。
(生前のパート) マーカス・ニューボーンは二十四歳の高校教師。高校時代に同級だったクリスティンの結婚祝いと、日本に留学が決まったジュディの送別を兼ねた同窓会に出席した。他は、エリート銀行員となっているタッドと、刑事となったスタンリー。日本料理店での会食となった会場で、マーカスはみすぼらしいなりで醤油ライスを食べる不審な客を目撃する。そして、執拗く二次会にへと誘うタッドを尻目に、クリスティンとジュディは帰宅。スタンリーとマーカスは飲み直した。その晩、クリスティンの自宅にいた、彼女の弟のフレッドが何者かに殺害される事件が発生した……。 

作者の意図を検証しきった自信無し。SF設定が霞む強烈無比の難解本格パズラー
この時期の西澤作品の読み方としては、毎回毎回鮮烈な設定が楽しい「SF部分」を咀嚼し、そのルールを従えて「本格パズラー」部分に挑む……というのが真っ当なやり方ではなかったか、と思う。まだタック&タカチシリーズなどが始まったばかりで、どちらかといえばやはり、このSF設定が西澤作品の持ち味とされていたからだ。
もちろん、死者が蘇る装置や館がエピソードとして登場、登場するごとに死者の人数が減り、その館の根元の秘密に迫っていくかのような「死後」のパートは本書でも重要。ただ、読み直して思うに、この作品においては、これまでとは異なり、SF設定の方が”ルール以上”の比重を作品内で持っているようなのだ。即ち、SF設定が、単に本格パズラーを成立させるためのルールとして存在し、それを前提とするのではなく、このSF設定の内部に作者が仕掛けた、いくつもの叙述トリック等の謎を拾っていかなければ、本格パズラーとしての「生前」のパートまでもが読み切れなくなってしまうのである。これが普通の本格パズラーであれば、「生前」における表層の事件の解決までは「死後」の最終章にて行われており、そこでおしまいになるはず。しかし本書では、それだけに留まらず同時に「死後」の最終章を再び謎として読者の前に浮かび上がらせる。従って、SF設定のパートに内包される謎が最終的に読者の前に並ぶ。しかも、作者は、こちらの謎については(意図的なものなのだろうが)最終的にまとめを行わない。読者のなかに残るのは「割り切れたのか、割り切れないのか」よく分からないもやもやとした読後感となる。
とにかく、「死後」の最終章が提示する謎が、実に難解。私自身、何度も前半のエピソードを読み返して、さりげない伏線を拾いまくり、一種の叙述トリックとなっている内容を咀嚼するものの、すっきりしたと言い切れない。語り手の”私”が実は……だった、とまでは読みとれるまでも、それが前半部の表現とどこか矛盾があるような気がしてならないし……。
単に、私の読解力の問題だよ、と云ってしまえばそれまでなのだが。

しかし、この奇抜な設定や奇抜な物語構造など、前例となるものがあるとはいえ、やはり西澤氏ならではのセンスであるといえよう。また、米国を舞台にすることによるさりげない説得性や、奇妙なリアリティの創出は、後の作品でもみられるとはいえ、国産作品では西澤氏のオリジナルの演出だといえる。難解なパズルを読み解くことが好きな方向けで、パズラー志向を持たないミステリ読者には、ちょっと読み解くのは辛いかも。 それにしても、きっとジュディは安槻に留学する予定だったんだろうなあ。


03/09/13
山田風太郎「夜よりほかに聴くものもなし」(廣済堂文庫'96)

山田風太郎の代表的現代ミステリ作品の一つ。'62年の1月から12月にかけて『時』という雑誌に連載された連作短編集。同年に東都ミステリーの一冊として刊行されたが、本書では初出時と各編の収録順が異なっているのだという(本書が'77年刊行の現代教養文庫版が底本となっているためだと思われる)。

田舎で行われた母の葬式に出た老刑事・八坂は若い母親と小さな娘が車に轢き殺された現場に出くわす。現場にはかつて恋人と逢い引きした男性に重傷を負わせた罪で指名手配されていた真崎という男がいた。真崎の証言で運転していた会社社長の息子は軽い罪にしか問われず、真崎は出所後、運転手としてその男に雇われる。 『証言』
S市にある刑務所に勤務する若い医者が自殺未遂を図った。人望も厚く、自殺の理由は見あたらないようにみえたが、彼は自ら恨みを持つ死刑囚に対して、ある薬剤を投与していたのである。 『精神安定剤』
八坂刑事の管内の川に札付きのごろつきの死体が浮かんだ。若い南部刑事と組み、そのごろつきに恨みのありそうな人物に当たる八坂。しかし、現場に残されていたボタンから、事件は意外な展開をみせる。 『法の番人』
保守党の代議士夫人が自宅に招いたのは、彼女から援助を受けた作家と別の議員婦人。そして戦争直後に政府によって集められた慰安婦をかつて職業としていた女性だった。思惑が交錯するなか、部屋が暗転し代議士夫人が毒殺される。 『必要悪』
管内外れの新興住宅地にて奇妙な事件が立て続けに発生した。本多という美容院の関係者が立て続けに事故に遭ったというのだ。勘に従って八坂は聞き込みを続け、その美容院が街の無責任な噂話の発信基地であることを突き止める。 『無関係』
娘に絡んだ不良三人組を刺した罪で服役したクリーニング店経営者の鶴北は、出所後もその三人に会い、金を渡しているという。不審を覚えた八坂は彼に話を聞くものの、彼らに脅されている訳ではないのだという。 『黒幕』
新宿駅の雑踏のなかで八坂が眼にした一人の男。浮浪者風の身なりながら、トイレで着替えてこざっぱりした格好に。一方、富士の樹海で若者四人が殺され、土地買収費用が奪われるという事件が発生していた。 『一枚の木の葉』
住宅地の路地でオート三輪による玉突き事故があり、八坂の目の前で、歩いていた税務署員が撥ねられて死亡した。一見普通の交通事故にみえたが、八坂は裏に事件を感じ取り、捜査を続ける。 『ある組織』
産業スパイ事件に巻き込まれ、ノイローゼになった娘が自殺した。彼女の父親は、娘を騙して会社重役と結婚した男を糾弾するが相手にされない。その父親は弾の入っていない空気銃を用いた、奇妙な復讐を開始する。 『敵討ち』
厳しい冬のさなか故郷に再び戻った八坂刑事は、温泉に向かった若夫婦が雪の中で自動車故障を起こし、夫が助けを求めて出ている間に婦人が凍死する、という事件に遭遇する。しかしオーバーに不自然な作為が。 『安楽死』

現代本格ミステリによって取り上げられることの多い社会派テーマが、全て先取りされている……
――重い意味を含んだ『それでも』だった。「私はあんたに、手錠をかけなければならん」」 人情の機微を知り、世間のねじれや、法律の限界を肌で識っている老刑事・八坂が、各編の最後にこう締めくくる。十の物語それぞれに、彼をしてこう言わしめるだけの「それでも」が込められているのだ。つまり、それぞれに八坂をして心情的には理解できる行動とはいえ、(少なくとも本作が発表された時期の)法律では、違法・犯罪に値する事柄を成し遂げてしまった人物が犯人となってしまう物語を、テーマを変えて風太郎は描く。
そのテーマというものが、本書が昭和三十年代に発表されたものにも関わらず、40年が経過した今でも読者に訴えかけるものばかりなのがまず驚きである。例えば、交通事故による加害者の罰の軽さ、囮捜査、マスコミの無責任報道、人々の無関心、国家権力への逆恨み、違法ではない悪意に対する復讐、安楽死……等々。その「核」となる”感情”を挙げていくと、必ず後世に別の作家が、ミステリとして取り上げているテーマや動機とぶつかるものばかり。特に現代展開されている本格ミステリにおいても、少し変化球的な動機として取り上げられるテーマが、先に本書で、しかも強固な説得力をもって取り上げられていたりするのだ。それらを風太郎は、いとも簡単に十の短編にて表現してしまっているのである。確かに”社会正義とは何か”といった問い掛けにあたるものとして、当時は社会派ミステリとして括られてしまったのも頷けなくもないが、風太郎が取り上げる”正義とは?”の感覚は、普通に暮らす普通の人々の膚感覚と乖離していない。 その結果、時代を超える感銘が物語に込められることになったのだと思われる。
特に『証言』、『敵討ち』、『ある組織』の三作品は、適度に伏線が張られており、それを通じた皮肉なラストがぴりりと効いていて、その”正義とは?”という感覚が強調されている。どれも一読忘れがたい傑作。やりきれない事件に中途半端に救いを与えず、きっちりやりきれない物語として仕上げている感覚が、素晴らしい。 残酷ではあるが、その残酷さが強烈な印象に変じて読者に刻み込まれるから。

”痛快”だとか”後味が良い”だとかの対極にある物語。なので、全体を覆う雰囲気も暗さが強い。『それでも』、読者をこれだけ引き付けるのは、稀代のストーリーテラー、風太郎ならではの物語術が勝っているからだろう。『必要悪』あたりの物理トリックからの真相解明など、どんでん返しのミステリとして読むことも出来ようが、やはり犯罪の底にあるものに目を逸らさずに読みたい作品である。
山田風太郎には個人的には忍法帖スタートのところがあって、ミステリと明治もの、時代小説にはまだ未読作品が数多くある。いずれ読破するつもりではあるが、久しぶりに再開のつもりで手に取った一冊がいきなり凄かった。光文社文庫版にて読めます。


03/09/12
東川篤哉「完全犯罪に猫は何匹必要か」(光文社カッパ・ノベルス'03)

光文社カッパ・ノベルスのメフィスト賞(?)ともいえる、ノンジャンルエンターテインメントの登竜門、カッパ・ワン第一期デビューの東川氏の三冊目となる作品。『密室の鍵貸します』『密室に向かって撃て!』に続く、烏賊川市を舞台に、探偵・鵜飼杜夫&助手・戸村流平コンビ等、お馴染みの面々が登場するシリーズ三作目でもある。書下ろし。

烏賊川市に本拠を構える、回転寿司チェーン「招き寿司」社長・豪徳寺豊蔵が、敷地内のビニールハウス内で殺害された。「招き寿司」のシンボルは店の前に置かれた巨大招き猫で、豪徳寺自身も度が過ぎる程に熱心な招き猫マニア。その現場となったビニールハウスには、彼の自宅前に置かれている巨大招き猫が入り口付近に置かれており、通りがかった近所の人の目撃情報より、犯行時間が特定された。また、彼の娘、真紀が何者かに呼び出されて拘束されたまま、その殺害場面を目撃していた。そのビニールハウスは十年前に、奇しくも豊蔵自身が証言者となった殺人事件があったという曰くつきの場所。前の事件にも携わった砂川警部と志木刑事は、豊蔵が残したダイイングメッセージ《ミキオ》から、次男の美樹夫を疑う。一方、探偵の鵜飼は、生前の豪徳寺から、彼の飼っていた三毛猫《ミケ子》を探し出して欲しいという依頼を受けていた。捜索の継続を依頼しに、豊蔵の葬儀に出た鵜飼・戸村・朱美の三人は、その葬儀場を舞台にした次の殺人事件に遭遇する。

徐々にこなれてきたユーモアと、作中にちりばめられたヒントが繋がる興奮と
東川氏の一作目『密室の鍵貸します』を読んだとき、作品内部からユーモアに対する”あざとさ”が消えて、抑えたユーモアが行間からにじみでるようになれば……といったことを書いた。三冊目の本書を読み終えて非常に嬉しく感じたのは、東川氏は私が読者として期待していた方向に着々と力を付けているのがはっきりと分かったこと。登場人物の不自然でない「ボケ」や、ちょっとした仕草から、しっかりと笑いが取れる(微笑みくらいであっても)ようになり、「笑い」における作者の狙いと読者の受け取り方のギャップにて上滑りする場面が確実に少なくなってきている。恐らく、キャラの性格が固まってきたことも大きく寄与していると思われる。主要登場人物にボケキャラが揃っているのだが、キャラクタそれぞれが異なる、固有のボケ傾向を持っていて、その関係性にて笑いを取れるようになっているのが大きい。個人的には朱美のキャラクタにがお気に入り。萌えはよく分からないのだが、ちょっといいな、このお姉さん。
「笑い」ばかりが本作のキモではない。 こういったなかで、しっかりと論理を積み上げていく本格パズラー的要素を持っている点も合わせて評価できる点を忘れてはならない。招き猫、三毛猫といった”猫”づくしの殺人事件……というと霞流一氏の一連の作品群を想起される方もおられるだろうが、やはり作者が違えばやり方が違う道理。十年の時を隔てたビニールハウス内の殺人、容疑者たちそれぞれが持つ鉄壁のアリバイ、刺殺されたうえにみそ汁が掛けられた第二の殺人……、と事件そのものは微妙に普通とはズレがある。ヒントや伏線の張り方が独特。あからさまに「これがヒントです」というような唐突感のある手掛かりがあるかと思えば、ほとんどギャグとしか思えない状況のなかにさりげなく隠されていたりもする。 こういった作風にもかかわらず、そういった数多くの伏線を過不足なく利用して、最終的な謎解きにおける、論理の積み立てが実に緻密に行われている点は驚きですらある。
例えば、アリバイは”偶然”生じてしまった犯人サイドの瑕疵によって、破られていくのだが、その”偶然”についても、確かに高確率で発生することが納得させられるだけの伏線が引いてある。しかもそれが「笑い」に紛れている点はやっぱり恐ろしい。読んでいるうちに笑わせられ、後でそこが伏線だと気づかされる時の悔しさは堪らない。このあたりのセンスが、この作者の真骨頂であろう。
第二の殺人のネタは、かつてふーまーさんがネット上にて公開していた犯人当て小説と被っているなあ、とも思ってみたり。(しかしこんなことが分かるのって、今やほとんどいませんね)。ただ、それに加えてのみそ汁の使い方は面白い。唐突な感じがするが、奇妙な(実に奇妙な)説得力があり、それによってこのトリックが完成に導かれた? ようにも受け取れる。

真相が見えた! と思った部分が一部あっても、全体の構図が見えた時に、改めてそれ以上の驚きが感じられるように作られている。事件の重要なポイントである三毛猫に関するある雑学的知識は、過去に聞いたことがあるにもかかわらず、指摘されるまで気づかなかった。ちょっと悔しい。デビュー作ではちょっと癖があるかも、とも思ったが、徐々に万人受けする作風に良化している感。気軽に手にとって大いに悩んで欲しい作品。


03/09/11
松尾由美「安楽椅子探偵アーチー」(東京創元社'03)

松尾由美さんのミステリの代表作品といえば、SFミステリとして独自の地位を築いた『バルーン・タウンの殺人』をはじめとする一連のシリーズということになるのだろうが、松尾さんの作品はその枠に留まらず、ファンタジーやSFと、ジャンルの枠に囚われない、地道ながら佳作となる作品を多く打ち出している。『銀杏坂』など、あまり読まれていないようだが勿体ない。松尾さんの作品は、最近、入手困難だった『ブラック・エンジェル』が創元推理文庫などに再収録されているが、本書はオリジナルでは初めて東京創元社から刊行された一冊となる。創元クライムクラブの一冊だが、最近増えているソフトカバー装(フランス装)。

小学校五年生の及川衛は、母親から誕生日プレゼントとして貰った新しいゲーム機の代金で、なぜか骨董屋で見かけた古ぼけた安楽椅子を購入してしまう。その椅子が何か、ため息をついたように感じたから。椅子に腰掛け眠ってしまった衛は不思議な夢を見る。びっくりして目を覚ました衛の独り言に応え、椅子が年輩の男性の声で喋りだした。しかもその椅子は、鋭い観察眼から、まるで名探偵のように色々な事柄を考察する能力まで持っていた……。 『首なし宇宙人の謎』
”アーチー”と衛によって名付けられたその椅子に対し、衛は雑誌でみた、天才少女音楽家に起きた事件を解いて貰おうとする。一方、衛の父親は、小競り合いの挙げ句、片方の靴を残して、片足で立ち去った人物に興味を持ち、その靴を持ち帰っていた。 『クリスマスの靴の謎』
小学校の課題で、横浜外人墓地にやって来た衛。ミステリ好きの同級生・野山芙紗が、立ち入り禁止の立て札に奇妙な特徴が残されていることに気づく。英語の一部の文字だけにチョークで印が付けられているのだ。近くにいた印象深い美人が事件に関係すると芙紗は主張。更に、現場で撮影した写真によって、その女性が消えたのではないかという新たな疑念が。 『外人墓地幽霊事件』
アーチーから衛に対して行ったただ一つのお願い、それはアーチーの最初の持ち主・市橋信吾が今、何をしているか調べて欲しい、というもの。偶然、芙紗が購読している推理雑誌の懸賞に、アーチーがかつて語っていた夢とそっくりのあらすじが掲載されていた。二人はアーチーに黙って、その作者、鈴木清六に連絡を取ろうとするが。 『緑のひじ掛け椅子の謎』

少年たちと椅子との暖かな交流を取るか、あくまで変則安楽椅子探偵の物語として読むか
まず興味を引かれるのは、やはり、前代未聞、安楽椅子そのものを名探偵に据えた”安楽椅子探偵”の物語である点だろう。椅子が探偵。六十年の時を経て椅子ならではの視点で、快刀乱麻に謎を解き明かす……。ミステリとしては、当然その”安楽椅子探偵の安楽椅子探偵ぶり”が一つの見どころ。ところが実際は、物語全体を暖かいものが包む、どこかジュヴナイル系統を感じさせる作品に仕上がっている。 そのため、本格ミステリマニア向け、というよりも、もっと広く浅い、読書が好きないろんな方に読んで貰いたいな――と思わせるものがある。本書を、もとからの松尾由美ファンと、創元=本格ミステリと考える人だけに独占させておくのは勿体ない。
はじめて、まともに人と会話を交わすアーチーの相棒が、小学五年生の及川衛であり、同じくアーチーの秘密を知るそのガールフレンドも衛の同級生、野山芙紗だけなのが物語としての一つのポイント。その結果、椅子と人間の交流が、どこか、人生経験を経た大人と、知恵の回る小学生たちとの交流にダブって見えて、想像していた以上に違和感がない。(勿論、映像ではなく活字であることの効果もあるのだろうが)。 物語の序盤に提起される、アーチーの希望、即ち、彼の最初の持ち主を捜し出して欲しい、という依頼に、小学生の身でいろいろ不自由があるなか奔走する二人は微笑ましいし、逆に椅子の身でありながら、彼らの保護者たらんとするアーチーの心遣いもまた暖かい。安楽椅子探偵のために証拠集めをする彼らの行動が、(彼らにとっての)冒険になってしまうあたりが嬉しい。そういった”冒険”は、少年少女のための探偵の物語には不可欠のものだから。特に最終話などは、謎の老人たちと衛たちとの不思議な戦い(?)となっており、どこかわくわくどきどきしてしまう気持ちが抑えられなかった。
ミステリとしては、四つの中編連作。安楽椅子探偵なので、衛や芙紗が持ち込んでくる”証拠品”からアーチーが様々な事象を推理するというのがパターン。 例えば、最終話のテーマともなっている”意識に目覚めたアーチーの最初の持ち主探し”。少々設定に、事前に伏線が張られているにしろ、ちょっと唐突というか、荒唐無稽なところがあるように思うし、他の作品に登場する謎解きにしても、かなり強引さが感じられる。読者にも同様の手掛かりが与えられているとは言い難いが、そのモノから背景を類推する論理そのものを楽しむミステリの形式だとすれば問題ない。下手に設定に文句を付けず、逆に素直に受け入れて楽しむのが吉だろう。また、四話目にして、それまで登場してきた人物たちが、意外なかたちで関係者として再登場するのも面白い。

トータルとして得られるのは心温まる物語。 例えば、講談社のミステリーランドに収録するには少々”毒”の要素が足りないかもしれないが、それでも小学生からみた大人の女性の図太さを兼ね備えた強かさ(したたかさ)であるとかもあり、少なくともひたすらにお気楽な物語でもない。松尾さんならではの世界観が込められた、これこそ、子供から大人まで楽しめる、上質のミステリだといえるだろう。