MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


03/10/20
香山 滋「遊星人M他」(春陽堂書店'56)

一九五〇年代に春陽堂が刊行した変形ノベルスサイズ(?)の長篇探偵小説全集は全十六巻。(全部出てるのかな) その巻の六にあたる作品集。MYSCONのオークションで彩古さんより落札させて頂きました。

突如東京の上空にやってきた巨大な光球。それは地球上から観察できない場所にある遊星・ガロアからの使者が操る円盤であった。「魔術師ヨチャムリ」と名乗るその遊星人が一人、長い指と緑色の血を持って東京のかしこに現れた。娘を誘拐し、オランウータンを動物園から逃がし、謎の奇病を蔓延させる遊星人Mは、東京を恐怖のどん底に叩き込む。 『遊星人M』
資産家の水産学者が愛する妻の為に作った超巨大水槽は、彼女の裏切りにより、大量のウツボが熱帯魚の代わりに飼育されることに。彼女の残した娘が十八に成長した時、その海鰻荘と呼ばれる豪邸では全身が骨と皮だけとなった奇妙な死体が発見された。 『海鰻荘奇譚』
東南アジアの奥地で、新発見の別人類「オラン・ペンデク」、そして「オラン・ペッテ」を発見した学者が発表中に木乃伊化して急死。その親友の学者も死亡した後、学者の養子が失踪した……。 『オラン・ペンデクの復讐』
砂丘近くのホテルに滞在する若い作家。彼はホテルの窓から白い旗が立てられた廃屋を眺める。どうやらそこには膚が緑色に光る老人が住んでいるらしい。その老人に声を掛けた作家は、夜しか会うことのできないという金髪の孫娘と引き合わされる。 『砂丘の家』

香山滋の先進感覚。そしてB級感覚。
ちなみに何度目かの再読となる『海鰻荘奇譚』と『オラン・ペンデクの復讐』に関しては、空想生物小説の元祖であり、SFミステリの元祖でもあり、そして香山滋の持ち味が横溢する傑作であるので、未読の方は何らかのかたちで触れておいて頂きたい。多少文章が古めかしく感じられるかもしれないが、その底にある先取の精神は必ず感じ取れるはずである。この二編については、ここではこれ以上触れない。
やっぱり表題作『遊星人M』がポイントであろう。まだ特撮映画さえもが原初であった時代、さすがは『ゴジラ』の原作者! と唸らされる独特の感覚が溢れているのだ。宇宙からやって来た謎の使者、という考えそのものは国産はとにかく海外作品では既に存在していたであろうし、当時も翻案がなされていたと思うので強烈なオリジナリティがあるわけではないだろう。だが、このどこかB級めいた感覚は、香山独特のものではないだろうか。いきなり、二人暮らしの兄妹の妹を宇宙船に攫っていったり、微妙に紳士的だったり、オラン・ウータンを逃がすことで混乱を招こうとしたり(ちなみに、この騒動を収拾するシーンは奇妙にエッチであり、それもまたB級らしさを掻き立てる)。謎の奇病はいいとして、銀座のバーを軒並み暇にさせた(どうやって?)挙げ句に飲みに来てみたり。科学者の助手の美女に惚れてしまうあたりの展開には、逆の意味で度肝を抜かれる。(しかもどこかマゾっけまで出てくるし)。でも、きっちり東京を一旦壊滅に追いやってます。でも、なぜか東京だけ、というのもまたよく分からなくて面白い。
ただ、この遊星人の目的というのに、微妙な意外性があって面白い。透明な寒天状の生き物という発想などはなかなか出てくるものではないのではないか。進取の精神とB級の発想との絶妙の同居。 なんというか香山の持つ独特の感覚に振り回されているうちに物語が終わってしまって、物語が終わってしまうのがなんか寂しい。また、物語中に「ゴジラ」なんて言葉が登場する遊び心もいいよね。

『砂丘の家』は、香山の伝奇風作品の系譜。幻想味の込め方が他の成功作品と比べると多少落ちる気がするが、これもまた”らしさ”が出た佳作といえるだろう。

恐らく全集で読める作品であろうし、普通に購入するとかなり高値であろう一冊。ただ、香山滋の世界にはどこか人を惹きつける何かがある。その国産SFのルーツであること以外でも、必ずといっていいほど各作品に登場する、妖しい美女だとかも含めて。


03/10/19
島田荘司「ネジ式ザゼツキー」(講談社ノベルス'03)

「講談社ノベルス初の書き下ろし!」と背にあるのでそうなのだろう。確認できていないが初期作品にしろ中期作品にしろ、単行本が刊行されずにいきなり講談社ノベルス、という作品は多かったように思うのだが。それらは雑誌発表作品だった、ということなのか。昨年の『魔神の遊戯』『セント・ニコラスの、ダイヤモンドの靴』、『上高地の切り裂きジャック』に本書と、一年少しのうちに御手洗ものが四冊刊行されるというのは有り難いこと。

北欧のウプサラ大学にて脳に関する研究を行う御手洗は、研究者仲間のハインリッヒから、エゴン・マーカットという人物と引き合わされる。彼は『タンジール蜜柑共和国への帰還』という奇妙な童話を著した人物なのだが、記憶の蓄積がほとんどできず、実際は五十以上の年齢にも関わらず、二十代までの記憶しか持っていなかった。その童話は、砂漠から掘り出した骨の持ち主を捜しにきたぼくが、船に乗って辿り着いた土地で巨大な蜜柑の樹のうえに住む人々と交流、その骨の持ち主である羽根の生えた美少女・ルネスに出会う物語。ぼくは宙を飛び、土地を支配するサンキングの博物館に筋肉で羽ばたく飛行機に乗ってルネスと共に突入する――といったファンタジーストーリー。御手洗は、同じような台詞を繰り返す彼に対して念入りなインタビューを試み、その『タンジール蜜柑共和国への帰還』は、実際にエゴンが経験したであろう様々な知識がベースになった作品であると看破。彼の喪われた背景を様々なキーワードから類推し、遂にはザゼツキーという人物の首がネジのように外れたという奇怪な現実事件へと辿り着く。

発想の妙に構成の妙。本格ミステリの時代を築き上げた作者ならではの野心作
ノベルスには珍しい横書きと縦書きの組み合わせ、場面を意識して微妙に変化するフォント、唐突感をもって挿入される英語の原文による会話。まず目を惹かれるのは内容に至る前の、いわゆる”凝った作り”。ノベルスという大枠がある以上、限界があるなかでの工夫。もちろん作者は島田荘司。これは単純にビジュアルを意識したものではなく、作品の雰囲気作りに繋げたものである。
そして、一方で物語の構成にもまた凝る。「奇妙な幻想的状況が論理によって解明されていく」のが島田荘司の本格ミステリの方法論。それを忠実に実行しつつ、読者に見せる際に駆使される演出がとにかく素晴らしい。冒頭の記憶障害の男に対するインタビューの奇妙さ。加えてこれにあたる御手洗の、いかにも御手洗らしい振る舞いでツカミは完璧。続いて作中作となるファンタジーである『タンジール蜜柑共和国への帰還』そのものも奇想。少年の架空世界での冒険譚であり、奇妙奇天烈なファンタジーとしか普通は考えられない。島田荘司がそこに数々の逆算した仕掛けを施していることは、分かっていても初読で気付ける読者はまずいるまい。そしてそのファンタジーが、それはそれとしてきちんとそれなりのエンターテインメントとして成立させてしまうのは簡単なようでもの凄いことだと思う。
のみならず、更にその裏に「首がネジのように外れた死体」が登場する殺人事件を配す周到さ。発想の原点がどこにあるのか分からないが、とにかくいくつもの奇想を繋げていくにあたり、それが本格ミステリを構成していくよう物語を膨らませていく腕前は、今さらいうのはなんだが島田荘司の天性のみが為せる技だといえるだろう。単純であるが、いくつものとんでもない謎が、”逆奇想”ともいえる御手洗流(島田流)の該博な知識と論理によって解明されていく筋道は、本格ミステリに引き付けられた原初の記憶を蘇らせる。読み終えて、溜め息。

島田荘司のこれまでの傑作群と比べても遜色はないだけの内容ではある。――ただ、試みが斬新に過ぎるがために、その”試み”そのものの不安定さは読者にもどうしても伝わってしまう。その部分の連結に多少強引さがあり、各章の結節部が浮き上がっている点がごくごく微妙ではあるが100%の完成度に足りない部分か。とはいっても、その強引さもまた島田荘司だし、読者を力業で投げ飛ばしてしまうことが出来るのも島田荘司であるのだ。石岡は全く登場しないが、初期の島田作品に似たテイストを最終的に味わえた。

本作についてはまだ何か書き足りないような気がするが、とりあえず。「極限の奇想は読者の推理を放棄させる」あたりかな。


03/10/18
倉阪鬼一郎「学校の事件」(幻冬舎'03)

怪奇小説家とは別にミステリ作家としての顔を持つ、倉阪氏の隠れた人気シリーズがこの「事件シリーズ」。本書は『田舎の事件』『不可解な事件』に続いた三冊目にあたる書き下ろし連作短編集。このシリーズ、まだまだ続くらしいので楽しみ。

日本の僻地にして一日に急行が一本しか停車することのない田舎町・青山県吹上市。人口は六万人を数えるものの、人口密度は低い。のどかにして平和なこの吹上にある学校の関係者には、心のなかに表現できない葛藤を抱えている者が多く存在した……。
吹上高校の古文の新任教師・堂島俊太郎。元校長の息子である彼はラジオ体操にまつわるトラウマを持っており、授業に失敗してから登校拒否となってしまった。しかも彼の分裂した人格はそれを”レジスタンス”だと言い出す。 『一学期 ラジオ体操殺人事件』
吹上工業高校を二年で中退した雨宮天一郎。彼は吹上市独立を標榜する変人であった。上京してさまざまな職業遍歴を加えた後に帰郷。母親の狂気に気付いた彼は、夏休みの山の中での大量虐殺を計画する。 『夏休み 吹上四十人殺し』
自動車事故に巻き込まれそうになった女生徒を一命を捨てて助けた教師・高本義夫。彼の蔵書印が入った古本を見かけるたびに市民はその教育熱心な教師を偲んだ……、がその彼の真実とは。 『二学期 蔵書印の謎』
地元の文学界でさえごく僅かにしか評価されない教師OBの田村正蔵は、街の小説教室にて講師を務めていた。しかし、その弟子から中央の新人文学賞受賞者が現れて、彼の心は穏やかでない。 『冬休み 吹上駅よ、さようなら』
吹上市の唯一の私立高校・吹上中央高校は軟式野球では全国レベルとなっていた。ワンマン校長の方針でさまざまな役務を兼務させられるようになった北見は遂に野球部部長までを兼務。激務に押し潰される。 『三学期 部長の殉職』
吹上高校三年C組同窓会。小説家となった同級生を囲む集まりに、劇毒を抱えて現れた招かれざる男。彼はかつてのイジメを根に持っており、同級生の全員毒殺を計画していたのだが。 『春休み ホームルーム・グッドバイ』

奇矯な登場人物たちが発する高いテンションと物語全体の押し殺したような静けさと
例えば、渋谷のセンター街で大声で喚きまくれば、多数の人が足を止めて何が起きたんだ? と(実際はすぐに飽きられこそすれ)それなりの注目を浴びることが出来るだろう。しかし、誰もいない山奥で同様の行為をしたとして、せいぜい小動物が逃げ出す以上の反応は得られまい。本書にはどこかそういった意味での登場人物それぞれのハイテンションの自意識に対する、ローテンションの田舎ならではの反応ギャップが多く描かれている。それこそが即ち倉阪氏が描くところの「田舎」の象徴でもあるのだが。
各作品とも、犯罪者ないしは犯罪予備軍たる人物を内面から描く。 現実を直視せず、肥大化して醜く歪んだ自意識は、周囲に対する過剰反応として現れ、そして犯罪へと至ってゆく。これまでの「事件シリーズ」の印象では、犯罪は事前に露見したり、犯行に及んでもあまりにもナサケナイ理由からそれが露呈することが多かったのだが、本書においてはその半分は実際に実行され、残り半分は計画されるものの実行されないまま終わり、別の悲劇的なかたちで物語は幕が下ろされる。実際に実行されてしまうと事件が、本当に救いようのない、悲惨なかたちを取ってしまうのは、いかにも倉阪氏らしい。
犯罪の準備→実行という形式はいわゆる倒叙ミステリを想起するかもしれないが、小説としての主眼はその実行方法よりも、実行するための”意識”の方に集中しており、サイコミステリの系譜に近いのが実際のところ。とはいってもあくまで主題は「田舎」にあり、登場人物の自意識は結局はこの「吹上」という土地に埋没していってしまう。 また、これまでの倉阪作品にて登場するさまざまなシーンがセルフパロディとして登場していたりするのは愛読者としては楽しいところ。(もちろんこのあたりは知らなくとも、何の問題もない)。
また収録作品のうち、『蔵書印の謎』のベースは、実際に存在しているいわゆる「T蔵書」からアイデアが発されたものと思われる。奥付が破り取られ、小口だろうが目次だろうがぺたぺたと押印された本。確かにT蔵書が何故売られたのか? という謎については喜国雅彦『本棚探偵の冒険』に、真相が書かれているのだが、なぜ本をこのような状態にしてしまうのか? という謎に挑んだ作品はこれが初めてではないだろうか。

題名は「学校の事件」ではあるが、本当に「学校」という固有の組織・文化と関係する必然のある作品で固められていない点が微妙に惜しいような。 これまでの「事件シリーズ」作品ともまた異なり、連作集の体裁が取られてはいるものの、個々の作品への影響力の必然に乏しく(ミステリとして、だが)何かとってつけたような印象が正直なところ残った。


03/10/17
笠井 潔「魔」(文藝春秋 本格ミステリ・マスターズ'03)

笠井氏も編纂委員に名を連ねるこの本格ミステリ・マスターズも本書で十一冊目を数えることとなった。私立探偵・飛鳥井を主人公とした中編二作からなり、初出はいずれも『別冊文藝春秋』でそれぞれ'97、'98年。飛鳥井の登場する単行本としては『三匹の猿』『道 ジェルミソーナ』に続いて三冊目。

道楽で経営されている巽探偵事務所を切り盛りする私立探偵・飛鳥井。彼のもとを訪れたのは大学の教員でサイコセラピストも行う鷺沼晶子だった。彼女のクライアントの槇野百合佳のボディガードがその依頼。百合佳は大学生だった五年前、津島浩平という男にストーキングの被害に遭い、精神の安定を崩してしまった。ようやく落ち着いてきた最近、再びストーキングの被害が再開し始めたのだという。傷害事件を起こした津島が出所したタイミングと被害は合致。飛鳥井は引き受け、周辺調査を開始するが、津島と百合佳の死体を発見してしまう。現場には暴行の痕跡を留めたビデオテープが残されていた。 『追跡の魔』
鷺沼晶子がかつて拒食症のセラピーを施した間宮梨沙が失踪した。晶子は再び探偵としての飛鳥井を頼る。晶子の父、間宮令二郎は少し前に愛人と思われる謎の女性に殺害されており、その結果、梨沙は再び状態を崩したためセラピーを再開しようとしていた矢先のことだった。飛鳥井が父親の事件を調べ直したところ、父親の死は事故死に近いながら、影にアジア系と思われる若い女性が介在していたこと、梨沙にはブラジルから働きにきた男性の友人がおり、失踪直前に連絡を取っていたことが判明した。 『痩身の魔』

ハードボイルドで社会派本格ミステリを体現――という精神は、既に斯界に広まりつつあるのでは?
麻耶雄嵩『痾』に並ぶ、最短題名同率一位国産ミステリ登場、というのはつまらない冗談。
『三匹の猿』にて多少意識していたのだが、本書でも著者によるあとがきや、佳多山大地氏によるインタビュー等で、笠井氏がどのような意図をもって本作を著したかを知ることができる。乱暴に要約すると、ハードボイルド独特の形式で「私」を透明化して社会派作品を志し、同時に本格ミステリとしても読める作品にすること。 ハードボイルドと社会派という点のマッチングは本作でも見事。ストーカーの問題、外国人労働者問題、過激なダイエットの問題等について触れられており、それらに対する思想的に偏した怒りが飛鳥井にないだけに、かえって透明に問題のみが読者に伝わってくる仕掛けであるといえるだろう。本格ミステリとしてみても、二重三重に仕掛けられた伏線が、思いも寄らないところで繋がる美しい仕上がりとなっており、その深謀遠慮と、詰め込まれたネタの豪華さには手練れの本格ミステリファンであっても目を見張るものがあるはずだ。特に『追跡の魔』は、プロットを中心とした論理が冴え渡っており、Who done it? としても十二分に読ませるものがある。世界が反転する感覚に素直に酔った。
また、笠井氏が描く本格ミステリの美点ともいえるポイントが本書にもある。物語にテーマ性を与えると、それが作品そのものの主題のみならず、本格ミステリとして顕現する真相とも密接に繋がっている点だ。これは中編の両方の作品にいえることであり、仕掛けられたトリックが物語にしっくり馴染む効果もある。ただ、それが過ぎて『痩身の魔』の場合は、真相が透き見できてしまうきらいも多少はあるが、そこがキモとも言い切れないので。

ただ、笠井が求めてきたテーマ性をもって本書を読んだ時に一つ感じたことがある。既に、本格ミステリというジャンルは今まで社会派が担ってきた様々な主題と既に不可分化しているのではないか、ということ。このようの大上段に振りかぶらなくとも、既に本格ミステリの世界には様々な社会の切り口が持ち込まれている。実際の発表年代の前後はあるだろうが、社会悪の告発という意味合いは、様々な作家が既に取り組んで成功を収めているように思うのだ。一方で国産ハードボイルドもまた、現実を直視することで社会派的ニュアンスが先に取り込まれている。笠井の意図そのものを否定するものではないが、既事実上、他の作家の手によって実現されていることを、改めて理念と共に組み合わせてみたという見方も出来ないか。もちろん「社会派」「ハードボイルド」「本格」の三点を見事に融合させる笠井の力量はそれでも感嘆に値する点は変わらないのだが。

読み応えアリ。いろいろ書いてはみたものの、単純に物語を追うことでミステリファンが楽しめる作品になっている。また本書と直接は関係ないのだが、笠井氏がインタビューの最後の方でコメントしていた言葉が心に残ったのでここに転記しておく。
小説というのは象徴的に二十歳を主要なターゲットにするジャンルだと僕は思うんです。(中略) たとえば清涼院や脱格系は気に食わないという本格作家が多いわけだけど、だったら今の高校生読者を清涼院や西尾維新から奪い返してやると思わなければ、結局最後はオヤジの繰り言になって、先に死ぬほうが負けだということになりかねない


03/10/16
戸梶圭太「トカジャクソン」(光文社'03)

戸梶圭太には既に『トカジノフ』『トカジャンゴ』の二冊の同時発売の短編集があり、本書が三冊目となる。題名へのこだわりに独自の美学(?)が感じられる。(四冊目以降はトカジャンプとかトカジノリとかトカジョーカーとかトカジョークとか、想像すると楽しいぞ) 『小説宝石』を中心とした小説誌に'01年から'03年にかけて発表された作品が集められている。ちなみに帯の「この本をベストセラーにするぞ」というコピーに吸い寄せられたクチです。はい。

ワンマン出版社社長が最低百万部のベストセラーを刊行すると宣言。おろおろする社員に対して独自の哲学を振りかざしての陣頭指揮。果たして出来上がった本とは? 『涙でベストセラー』
世田谷一家五人殺人事件の捜査本部長が急に交代となった。公安から送られてきた人物はなんとネコ。彼は事件へのキッチョンの関与を強調、捜査員に猫式捜査を強制する。 『Alexander』
アルバイトで金を貯め、念願の映画撮影に乗り出すことを決めたゆみこ。シナリオ無し、現場でのアクションこそが全てという彼女の映画は街を破壊に導いていく。 『映画監督 ゆみこ』
事件を目撃して警察に通報することを趣味とする人々が組織する「110番通報倶楽部」。所属する六十六歳・神谷は最高権力者の小野田を憎み、六十三歳の文子に思いを寄せていた。 『110番通報倶楽部』
貧乏劇団に所属する奥野は公演に来た華村かおるに一目惚れ。バイトでの昼食中に携帯で電話中に事故に遭い、病院に行くという車に乗せられて彼女に会いに向かうのだ。 『君に会いたくて(はあと)』
木岐ノ町の悪ガキ集団に所属する伸之はリーダーの上田の命令で処刑されることになった。山奥に穴を掘り自分が首だけ出して埋まるのだ。そこへヤクザがやって来て……。 『木岐ノ町貝塚組』
情報提供者を拷問にかけて対象を罠にかける公安刑事たち。ボケた祖父がドン・キホーテからどこかに行ってしまった家族、そして悪ガキたちが歌舞伎町を走り回り……。 『歌舞伎町スラッシュ』
どうでもいい刑事事件に多くの人々が集まっていた。スーパー裁判官・白鳥亜津摩を一目見るためである。美男長身の彼は法律以上の途轍もない判決を下すことでも有名だった。 『ジャッジ・ザ・ナスティー』
売上をごまかしヤクザの細野にいたぶられる大橋は自ら切腹を提案。その切り裂かれた大橋の腹から「クルッパー」と鳴く愛らしい動物が顔を出した。 『いたずらクルッパー』 以上お得な九編。

戸梶は短編でも凄い。リズムに乗って世界は破壊され、安い人間は蹴散らされていく
「安い人間に生きる価値なし」 戸梶圭太の作品からは、つねづねこの主張が感じられる――。
実は戸梶圭太の先に刊行された二冊の短編集をまだ読んでいない。なので、ノンシリーズの短編とは初めて接したことになるのだが。やはり戸梶は戸梶だった。長編に注ぎ込まれるパワーは短編でも同じかそれ以上。説明不足や結末の練り方の足り無さを差し引いても、読者を襲う強烈なインパクトは健在。しかも、本書など九つもの作品が収められているのだ。その衝撃は少なくとも一冊あたり九倍。これはおトク……と、考えないかフツー。
分析的なことをいえば、戸梶作品には物語のイニシアティブを握る人間と(彼らが高いとか高級とかという意味でもない)、そうではない”安い人間”(作品中に頻出。意味合いとしては……ちょっと書けないので読んでみてくれ)とに大別される。戸梶のストーリー作りは、基本的にハチャメチャで、荒唐無稽なシチュエーション、そして破滅指向があるので、常に物語はジェットコースター感覚。いかにも「破滅させてください」と仕組まれたプロット構成が、読者の想像通りに流れていく。短編だからなのか、特に特徴的なのは、安い人間に対する描写が微妙に不徹底なようにみえること。彼らには彼らの人生がある(あった)という配慮は無し。そして醜い者の醜い行動を、アホな者のアホな行動をそのままに描くため、人間の尊厳などない。そういったストレートな手法でしか描けないエンターテインメントを描く。 それが結局戸梶流ということになるのか。
そこかしこで爆発が起き、大量殺人が起き、人権無視など当たり前。どこか読者の感覚を麻痺させる麻薬のようなものが作品内部に潜んでいるかのようである。更に物語に救いを期待してはならない――というか、読者はその麻薬によってハッピーエンドなぞ期待しない身体にされてしまっている。ああ、面白い。なぜだ。

それぞれの作品のシチュエーションはかけ離れており、物語の統一感はあまり感じられない。一つの作品が追われば、また全く別の世界が幕を拡げる。演出の方法は、小説のそれというよりも映画を感じさせる。(事実パロディと思われる部分も多い)。既に私は戸梶世界にどっぷり浸かっているので、正確なことはいえなくなっているのだが、まだ一度も読んだことのない方がいきなりこの短編集を読んでしまうのは毒がキツ過ぎのように思う。


03/10/15
海渡英祐「趣味の犯罪 華麗な殺し」(トクマノベルス'85)

副題で”ブランディ・ミステリー”と銘打たれてはいるが、もともと多趣味で知られる海渡氏が、その八つの種類の趣味、即ちポーカー、切手蒐集、ゴルフ、ジグソーパズル、競馬、チェス、テニス、迷路にちなんだ短編を自選した作品集。 当然ノン・シリーズ作品ばかりではあるが、読み応えある作品が多い好作品集。残念ながら文庫化はされていない。

戦前の海外留学中の不良学生がイカサマ賭博を謎の日本人に見破られた。ヤマと名乗るその男、賭場に案内して欲しいという。そしてその学生はその日、愛人の女優の殺人事件に巻き込まれる。 『ミスタ・ヤマ』
切手収集狂の叔父のもとに雑誌の取材で訪れた青年。彼は前から叔父の秘書を務める女性が気に入っていた。しかし、堅牢なその建物内部で、取材直後に叔父が他殺死体となって発見された。 『虎穴の死者』
大学の同級生のゴルフ好き四人。うち中尾と吉崎が、仲間の従姉妹に惚れ込む。プレイのことで喧嘩した二人は彼女と交際する権利を賭け、インチキOKの決闘ゴルフを行うことになるが。 『多すぎる罠』
何事にも不器用な小出は、友人の藤田からかつて憎からず思っていた典子との不倫を持ちかけられる。妻の目を気にしつつ典子と交際していた小出は彼女の夫の死体と体面してしまう。 『情事のパズル』
競馬記者の立花は未勝利戦ならば八百長を騎手にやらせても目立たないことに気付き、跳ねっ返りの馬主の娘と組んで騎手の一人を罠に落とす。果たしてその結果は。 『凍てついた影』
チェス仲間の恋人と深い関係に陥った男。その仲間はプレイボーイで他の女性とも交際中。部屋を訪ねていったところそいつが、チェスの途中で殺されたかのような撲殺死体で発見された。 『強制列車』
大金を借りている友人から、有利に離婚するため妻を誘惑して欲しいという依頼を受けた男。だが男は既に彼女と深い関係にあった。その罠を裏返しにしようと二人で企むが。 『ラヴ・ゲーム』
売れない作家の私が人事不省から目覚めてみれば、見知らぬ部屋で美女が側に。自分は彼女の夫でかつ会社社長なのだという。逃げ出せない部屋のなかで朦朧としながら私は葛藤する。 『堂々めぐり』 以上八つの趣味八編のミステリ。

シチュエーションが全体的に似た感はあるが、凝った作りのミステリの味わいが深い
長編やシリーズ作品ではそうでもないのだが、海渡氏のノンシリーズ作品における男の登場人物はちょっと気が弱く、でも女性も好きで、浮気をしてしまって抜き差しならない関係に陥ってしまう……というパターンが結構多く、本書においてもそのバリエーションとみられるシチュエーションが多い。また、対して登場する女性は悪女か、結果的に悪女であることが判明する、というケースもまた多い。当時のミステリーというものの対象読者の願望を反映したものなのかどうかは分からないが、よくあるパターンといえばよくあるパターンなので、そう気にすべきことでもないか。
さて本書、作品ごとの前書きのかたちで海渡氏自身がそれぞれの趣味に対するこだわりを述べている。また、その趣味ごとにそれに関連する作品を書いているあたり、まさに「趣味と実益を兼ねた」ということになるのではないだろうか。この遊び心はやっぱりこの時期の作家としては珍しいし、またそれに相応しいレベルの作品が揃うあたりも素晴らしい。海渡氏のノンシリーズ作品集には、この手の「遊び心」が加わっているケースが多いのは追いかけていても楽しいところ。
さて、ミステリとしては自選短編集にも別に入っている『ミスタ・ヤマ』がちょっと抜けている。犯人と疑われた男の冤罪を、謎を解決することで解き明かす、という王道もの。それでいて戦前の米国というシチュエーションが洒落ているのと、最後に明かされるミスタ・ヤマの正体も楽しい。特にこの作り方は短編ながら、数々の歴史ミステリをモノにしてきた海渡氏の面目躍如の感がある。また、リドルストーリーっぽい『堂々めぐり』、そして「インチキありありのゴルフ(但し判明した場合はペナルティ)」というシチュエーションそのものに面白みがある『多すぎる罠』などはどんでん返しもキレイに決まっており、佳作といえるだろう。その他の作品も、シチュエーションはとにかく、いわゆる本格ミステリのロジックが駆使された作品が多く、その手の作品を好まれる方ならば満足できるレベルにある。

ちょっと現代基準でみると、ミステリにしては男女の愛欲関係がどろどろしている部分の評価がどうか、という点があって、趣味を基準としてみれば、泥臭さも存在する。ただ前述の通り、作品そのものの根底にある「ミステリ」としての楽しさは本物であり、やはり評価すべき作家である点を確信した。本格ミステリファンで手に入る機会がある方は、読むだけの価値が恐らく存在するといえるだろう。


03/10/14
佐々木丸美「影の姉妹」(講談社'82)

佐々木丸美作品は、様々なシリーズがあれど深いところで繋がっている――がために、ファンは未読作品を探し求めて奔走する。本書は文庫化もされている『沙霧秘話』との関係の深い作品で非ミステリ。他の作品に比べると佐々木サーガ内での繋がりは薄いが、南原家という固有名詞が最後に現れるあたり、例えば「会社シリーズ」等の作品の遙かなるプロローグとも受け取ることが出来る。

戦争が始まるずっと前。人里離れた隠れ里に奉公人として訪れた少女・多瑞(たず)。そこにはお館さまと呼ばれる若き主人と邇々玉(ににぎ)という双子の少女、更には他には料理人や乳母など三人の男女が、ほとんど自給自足に近い状態にて暮らしていた。実は邇々玉は近隣の村の有力な商家の娘として生まれたのだが、出生直後に双子となったことから”呪われた血”として殺される運命にあった。それを当時は書生であったお館さまが三人の奉公人と共に連れ出して、彼女たちの秘密が解けるまで全く他人との接触を断って暮らしているのだという。お館さまに惹かれ、邇々玉に忠誠を誓うようになる多瑞。邇々玉は長じてお館さまと婚礼を遂げて、毘翠(びなす)という娘がまた生まれる。しかし毘翠にもまたその双子の血は受け継がれていた。若くして邇々玉は死に、毘翠の成長をこころ待ちにする傭人たち。しかし、隠れ里に人が近づくたびに、奉公人たちは自らの命と共にその訪れた人々を葬り、秘密は守られる。そしていつか毘翠もまた……。

半ば伝奇にして幻想小説。佐々木サーガに貫かれるのは無償の愛の物語でもあって。
とにかく壮大。 時代がはっきりとは描かれていないので端端から類推するしかないのだが、物語の端緒はイメージからすると大正時代あたり。そこから一冊にして、現代(の少し前)まで一気に持ち込んでしまうのだから。(とはいっても、発表された当時の現代だから、正確な意味では今から二十年前か)。ただ、現代を舞台にする「会社シリーズ」「館シリーズ」とは根底では繋がりをみせながらも、強烈な結びつき、というほどではない。ただ単独で楽しめるかというとちょっと難しい気もする。
というのは、本書そのものが佐々木世界というものが”どんなものか”ということを理解している人々が読むことを前提にしているように思われるから。時代の流れとともに移り変わる複数の人々の視点。世代が交代していき語り部もまた変化する。ただ貫かれているのは、秘めたる愛、として共通している。このあたり、感情移入した女性が読むといろいろあるのかもしれないが、個人的には(以前にも同様のことを書いたが)演歌の世界の感じた。世界の成り立ちを何よりも大切にし、自分の身の前をわきまえて、決して乗り越えられない愛に殉じる女の静かで確固とした情熱。人が世が移り変われど、必ずそういった人物が、物語の舵を取ってゆく。
特に前半部。隠れ里に住む傭人たちが、主人たちの秘密を守るために涙ながらに闖入者を殺害していく。このあたりは不可能犯罪というか不可解犯罪を裏から見せられているような強烈なインパクトを感じた。ただ、それもこれも私がミステリ的に読みとろうとしすぎていたからかもしれない。

謎の双子という存在が中心に据えられていることで、どこか伝奇作品風の感触もあるが、中盤以降はどこか幻想小説風。それを当たり前のものとして許容できてしまう懐の深さがある。そしてやっぱり、女性の愛の物語なんですよね、基本的には。佐々木丸美のカルトなファンは探し出して読むべき作品でしょうが、触れたことのない方がいきなり読む(なんてケースはあまり考えられないにしても)ちょっと不適です。


03/10/13
黒川博行「文福茶釜」(文春文庫'02)

'99年に文藝春秋社より刊行されたハードカバーが元版。'97年から'98年にかけて『オール讀物』誌に発表された短編がまとめられたもので、本文庫においても異同はない。また本書は受賞は逃したものの第121回の直木賞の候補作品ともなった。(受賞は佐藤賢一と桐野夏生)。

美術雑誌『アートワース』副編集長の佐保は、上司から星野産業という会社が所蔵する美術品を税務署に知られずこっそり換金する手伝いをするよう頼まれる。佐保はそのうちの水墨画を利用して一儲けを企むのだが……。 『山居静観 さんきょせいかん』
表具師の牧野は、かつての客の息子から道具類の見立てをして欲しいと頼まれる。ガラクタばかりの中に仁科伯爵家の図録に掲載されている高麗茶碗と宗林の茶杓があるのを目に留め、処分を口実に譲り受けようとするが……。 『宗林寂秋 そうりんじゃくしゅう』
ギャラリーを経営する尾山は楠井という彫刻家のブロンズ像の処分を依頼される。そのなかに田沼彰のものと思われる石膏像があることに気付き、まとめて買い取ることにするが、ブローカーの大野木がそれだけ先に持ち出して……。 『永遠縹渺 えいえんひょうびょう』
敦賀の旧家に初出し屋が入り込み、老齢の女性を騙して無理矢理に由緒ある茶釜を持ち出した。その主人は怒り、買い戻しを佐保らに依頼するが、高値がついて手が出ない。佐保は別の方法での仕返しを検討して……。 『文福茶釜 ぶんぶくちゃがま』
大阪富南市が行う陶器の展示会。ある宗教団体主宰者がメインで出品するという話しに共同出品者が疑念を抱く。佐保は展示会の図録を受注すべく、頼まれて教祖・近衛頼章を調べるが本名も分からずなかなか尻尾がつかめない。 『色絵祥瑞 いろえしょんずい』 以上五編。

狐と狸の化かし合い。欲の皮の突っ張ったプロの詐欺合戦。素人は美術品には手は出せねえ。
いわゆる古美術品や贋作を巡るミステリは、該博な知識が要求されることもあってそうそうどんな作家でも書けるものではない。現代でいえば、一人は北森鴻氏であろうが、そのもう一翼を担うのが美術講師出身でもあるこの黒川博行氏である。二人の作品に共通するのは、巧妙を通り越して芸術的ですらある贋作の手口が詳細に描かれている点にある。本書においても、例えば水墨画を複製するための相剥ぎと呼ばれる手口であるとか、古びた焼き物や、時代がかった茶釜の贋作であるとかの作成方法が詳細に描かれる。そうった豆知識を拾い読みするだけでも知的好奇心が満たされるため、本書はそれだけでも十分価値があるといえるだろう。また、黒川氏が作品内で繰り返しているのは、これらのテクニックは「玄人同士の化かし合い」があくまで対象であって「素人筋を騙すことは許されない」という点にも好感。(ちなみに道具屋が素人に贋作を売りつけ、それが発覚した場合、同価格での買い戻しがルールなのだという)。
北森氏の作品(例えば冬狐堂シリーズなど)は、本物に対する目利きといった視点も重要視されている一方、黒川氏の本書の場合は、メインとなるのはあくまで「化かし合い・騙し合い」である。表題から狸を連想させる点もおかしみを増していると思われるのだが、メインとなる主人公を作品毎に違えることによって、騙す快感だけでなく、騙される側の視点でも読者は作品世界に入らざるを得なくなる。いずれも、欲の皮の突っ張った業界の狸たち。いわば、詐欺師と詐欺師の騙し合いといった展開なので、どろどろしながらもどこか奇妙な明るさがある。当然、先に述べた”手口”の巧妙さだけでなく、そこに欲望にまみれた人間の裏側を突く心理的なテクニックもまた多用されているがため、本書は総合的にミステリ的な作品となっているといえるのだ。騙す側が首尾良く相手を陥穽に落とし込む物語では、倒叙ミステリの緊張感を、逆に自分が騙されていることに後から気付かされる物語では、謎解きものの論理を(これは被害者が自分であるだけに、哀しいものがあるのだが)。 快感と言い切れないながら、受ける印象はミステリ作品そのものと同じだといえよう。

しかし、本書などを読んでしまうと、「鑑定団」とかの影響で素人が美術品に手を出すのは怖いな、と正直感じた。本書内から引用になるが「我々のような素人が掘り出し物を手に入れることはないんですね」「道具屋が掘り出しもんを客に売ってどないしますねん。飯の食い上げですがな」 このあたりが業界人の本音なんだろうなとも思うし。ただ、本書は古美術なんかに興味がない――という人の方が、真っ白な分、かえって単純に楽しめる作品のように思う。歯切れの良い関西弁が絶妙にマッチした物語世界を存分に楽しんで頂きたい。


03/10/12
小栗虫太郎「怪奇探偵小説名作選6 小栗虫太郎集 完全犯罪」(ちくま文庫'03)

全十巻からなる怪奇探偵小説傑作選の巻の六にあたる作品集。解説で編集の日下三蔵氏が述べているのだが、当初この選集に小栗虫太郎を入れるつもりはなかったのだという。状況が変化したのは現代教養文庫の版元である社会思想社の倒産。この結果、小栗虫太郎の入門編として適当であり、比較的容易に入手できた教養文庫版の〈小栗虫太郎傑作選〉の短編集が全て絶版となるに至り、そのフォローの意義が込められて編まれたのだという。言わずとしれた『黒死館殺人事件』に、先に出た扶桑社文庫の法水麟太郎ものと本書を合わせれば、小栗のミステリ作家としての業績がほぼ分かるということになる。

苗族共産軍が中国を席巻していた時期、士官たちが滞在する学者夫人の館のなかで不可思議な殺人事件が発生した。完全な館のなかでの密室内の殺人。この謎に指揮官ザロフが挑むが……。 『完全犯罪』
宗教関連の出来事から山奥に暮らす家族。落盤事故から帰還した夫が別人と入れ替わっているのではないかと悩む人妻は一計を案じて……。 『白蟻』
マレー半島の奥地で社会の平穏を揺るがす「海峡天地会」の首領・張崙と思われる人物が捉えられた。しかしその人物は口を利かず、拷問に衰弱。軍医と従軍作家の二人は別の方法で彼の正体を知ろうと試みようとするが。 『海峡天地会』
千島の海賊砦に流れ着いた露船は悪疫を満載していた。そこから逃げ出した謎めいた美女・フローラは自らの数奇な運命を海賊たちに語る。そしてこの島が黄金伝説の島であるとも……。 『紅毛傾城』
失踪した平賀源内が旧友に自らの焼いた皿を送ってくる。その皿には実はかつて島原で繰り広げられた阿蘭陀商船と地元の人々との戦いに関する物語が隠されており……。 『源内焼六術和尚』
事件に巻き込まれて手首に不思議な入れ墨が彫られた野枝は流れ流れて、死んでしまったサーカスのシャム双生児の身代わりとして働かされはじめる。サーカスにはブランコ乗りの兄弟がおり、その双子に愛情を注いでいた……。 『倶利伽藍信号』
大都市の陰にある出島。なかの売春宿に向かおうとする男の前に水死体が。果たして密輸団「欧航組」の権力争いの末に死んだ筈の首領・高坂三伝が生きているのか。奇妙な殺人事件が再び発生する。 『地虫』
異常な愛欲模様に彩られた宮路家。主人の廉三は自らの母親の醜聞を小説化し、その母親は廉三が関係を持ったかつての女中・霜にその体験談を書かせようとする。廉三の妻・住江は肺を患い、息子の幡太郎に奇形の愛情を注ぎ込む……。 『屍体七十五歩にて死す』
母親が密室で殺された末起という少女と病床の方子との幼い二人の女性が愛情を語り合う書簡。末起の母の刺殺死体の横に刃物をもった祖母が人事不省となっていた。祖母はそのまま意識不明のまま。不思議の国が謎解きのヒント……。 『方子と末起』
平安時代。都に名高い快賊・百済根童子。近日上洛するという性空法師をさらうと予告する。不遇の夫を持ち家計を切り盛りする女房・伊勢大輔は他人ごとのようにこの事件を眺めるが、都はなかなかに騒々しい。 『月と陽と暗い星』 以上十編。

小栗ミステリの方向性の不可思議さ、そして法水の不存在による読者の困惑と驚愕……
改めて〈入門編〉として編まれた本書を読了してようやく一つのことが分かりだした。小栗の作品集というものは、その編まれ方のコンセプトによって、読者に与える印象というものがまるで変化してしまうように思えるのだ。本書でもいくつかの作品は既読であったにもかかわらず、まったく初めて読むような錯覚を覚えた。これもまた、作品集が違うと”作品の貌”が変化してみえることが理由に他ならない。結局、小栗の場合は常に一つ一つの作品が独立した小宇宙が如き世界を内包しているがため、その個々の作品が光り輝くことによって、個々の小栗作品集というのはどこか星座の如き存在になってしまうのではないだろうか?
そしてその小宇宙という喩えは、小栗虫太郎作品について使用する際は決して伊達でもなんでもない。そうとしか言いようのない事実なのだ。多少現代読者にとっては(当然、発表当時の読者にとってもだろうが)難解な部分があることは事実ながら、小栗独特の衒学趣味以前、伝奇小説風・時代小説風・歴史小説風・戦争文学風……等々の舞台を常に緻密に精細に描き出している点にまず注目したい。また、そのそれぞれに、どこか小栗的な臭いを感じさせつつも、その創られた時代風景に違和感がないどころか、独自の深さを漂わせているのだ。江戸時代なら江戸時代の、平安時代なら平安時代なりの風俗であるとか、言葉遣いであるとかにそれ専門の作家なみの深い洞察が加えられている。その部分を取り上げても、本書は驚愕を超えて呆れるほどのバラエティに富んでいるといえる。

そうだ、これはそのうえにノンシリーズのミステリ作品を中心に編集されているのであった。ここがまた評価の難しいところ。例えば『完全犯罪』あたりは、発表当時「海外作品の翻案なのではないか」とまことしとやかな噂が立ったという作品。内部的な論理は、辻褄が合うようでいて、小栗の衒学趣味に彩られ惑わされるだけで、現実的な整合性が取れるとは到底いえない。少なくとも読者が推理することを主眼とした小説ではない。にも関わらず、どこか「それならばそれで全く構わない」という読み方が許されるように思う。小栗の小宇宙の内部における真実を探求するための探偵小説といえるのではないか。
『白蟻』の奇想天外の殺人方法、『倶利伽藍信号』における情報伝達の妙にしても、小栗世界ならではのひねくれた洞察や、強引なロジック抜きには成立しえない。『海象に舌なきや』→『海峡天地会』にしても、その誘導尋問の方法の発想は小栗ワールドそのままであろう。こういった読者の納得を要求しないミステリ系統作品というのは、やっぱり珍しいように思うのだ。だからこそ、逆説的ではあるが、小栗虫太郎が亡くなってからも長きにわたって(特に一部のマニアの間で)読まれ続けているということなのかもしれない。

……でもって結局疑念もある。本書は確かに小栗虫太郎という作家の入門編なのだろう。だけど。この世界の混沌を一気に引き受けたかのような小栗世界に、本書で初めて小栗に触れる読者に、果たして免疫ができるのか、というとよく分からない。小栗虫太郎は「こういう作家」なのだ、としか今はなんとも。どっぷりと浸るか、拒絶するか。どちらか極端な結果にならざるを得ないのが、また小栗ならでは、ということなのかもしれない。


03/10/11
横山秀夫「クライマーズ・ハイ」(文藝春秋'03)

陰の季節』や『動機』といった受賞作から、『顔』『半落ち』『第三の時効』といった作品に至るまで、横山秀夫の作品群には色濃く”警察組織”というものが影を落としていることは周知の事実であり、それが横山作品の一つの特徴とさえ考えられていてもおかしくない。本書は少なくとも警察を扱った作品ではない――が、紛れもない横山作品の色を感じさせる新聞小説(?)。『別冊文藝春秋』に掲載されてきた作品がまとめられたもの。

――十七年前。北関東の地方紙、通称”北関”の事件記者として活躍していた悠木和雅は、業務中の部下の死の責任を問われ、フリー記者のような立場にあった。そんな悩める彼が引き寄せられたのは、山登り。北関の山岳会で最も悠木が仲が良かったのは、販売部の安西である。彼に誘われて、難関中の難関、谷川岳の「衝立岩」登りを承知していた悠木だったが、その約束の当日、北関東を揺るがす大事件が発生してします。日航機の御鷹巣山への墜落、である。事情から日航機事故の全権デスクを任された悠木。悠木の、事件と、そして組織との長い戦いの日々がその瞬間から始まった。一方の安西は一人で山に向かった筈だったが、その途中の路上で倒れて意識不明のまま病院に担ぎ込まれていた。その意識が戻らないまま安西は死亡する。
その後、息子・淳との仲がしっくりいっていない問題を抱えていた悠木は、その後、安西の息子であり同年代の順一郎を息子のように可愛がった。そして順一郎は山を覚えて優秀なアルピニストとなり、そして現在。五十七歳の悠木は当時の出来事を反芻しながら、順一郎と共にはじめて「衝立岩」に挑む。果たして安西が言い残した「下りるために登るんさ――」。その言葉の意味を探して。

事実が下敷きとなるセミフィクションならではの緊迫感。全編を覆うテンションの高さがポイント
死んだ友人の息子と、その友人とのあいだで果たせなかった約束を守るため、危険な山登りに挑戦する、という現在。更に、その約束が果たせなかった理由が、十七年前の日航機事故という過去。その事件を新聞報道する責任がゆえに受けた当時の様々なプレッシャーへの回顧が描かれるという構成。報道という立場の現場の緊張感と、山登りをキーとする家族への想いが、横山秀夫の手によって、コントロールされて一個の小説へと昇華している。確認していないが、横山氏の経歴からいえば、あの事故の当時、主人公同様の立場かはとにかく、地元紙の記者だったことは間違いない。当時の実際に体験した者ならではの思い、そして何らかのかたちで「書き残しておかなければ」という決意が小説内部から溢れている。
横山秀夫の緊迫感溢れる文章と、実際の日航機事故を題材に取ったリアルに加え、地元新聞紙という微妙な立場がもたらす組織の軋轢と個々人の懊悩がよく表現されている。 特に読者の味わうテンションのコントロールが絶妙。硬直した組織に対する怒りや、行き場のない思いを描かせると横山氏は抜群に巧い。息を止めて一気に読まされ、ところどころでふっとブレイク。 なので、通読するに非常に迫力のある小説となっている。
ただ、一人称のために気づきにくいのだが、微妙な引っかかりがあったことも事実。この悠木という主人公、作者が描き出そうとするほどに魅力がある人物だとは到底思えないのだ。特に新聞の編集者としての能力に疑問がつきまとう。取材現場の人間や遺族、上司、経営陣といった軋轢に揉まれて、自分を見失いすぎ。何かのために熱くなるのはとにかく、そのあいだを揺れ動き、結局中途半端なかたちにしか決着できていないエピソードが多すぎる。こんな人物に果たして部下や同僚がついていくのか(というか、引っかかりの原因の最大の部分は、この人物が自分の上司だったら凄く嫌だよな、と思ったことにある)。警察小説であれば、正義という大義名分がある以上、こういった展開でいいケースもあるだろう。だが、新聞はいくら公共性を持とうとやはり民間企業。通せる筋と通せない筋があることは自明の筈なのに。(結局はフィクション、という割り切り方もあるので、この部分はあくまで個人的感想に過ぎないです)。

何で触れないんだ、という指摘がありそうなので、本書を既に読了された方にお断りを入れておく。本書のうち、親子の断絶とその回復を示すエピソードはどうも個人的にしっくり来ないところがある。これは、いわゆる”感動”を読者に押しつけているような印象が残ったから。安西の息子・順一郎とのエピソードは素直に良いのだけれど。

小説技巧というか、構成上のテクニック等と横山秀夫らしい緊迫感溢れる文章とが非常にマッチしており読み応えのある作品であることは事実。なので、小生のようにひねくれた読者でなければ、横山秀夫の作品世界に素直に酔えるはず。