MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


03/10/31
小森健太朗「Gの残影」(文藝春秋 本格ミステリ・マスターズ'03)

本格ミステリ作家としての貌以前に、小森健太朗氏には中世から近世の思想家・宗教家に対する興味が深く存在している。先に刊行された『ムガール宮の密室』はインドのスーフィー詩人、サルマッドの生涯を描くことにミステリ的部分以上に多くが費やされていたが、本書もそれと似た系譜となる作品。題名の”G”は、本書での重要人物となるロシア後期の神秘主義者・グルジェフのことを指す。

ペテルブルグの若者オスロフは、自分の思想を恋人に理解してもらうことが出来ず離別したことを果敢なんで、橋から飛び降りて自殺しようとしていた。そこに通りかかったのは高名な思想家であるピョートル・デミアノビッチ・ウスペンスキー。彼は一介の聴講者であったオスロフのことを覚えていたことから、オスロフは感激、デミアノビッチのもとへの弟子入りを希望する。デミアノビッチは特殊な薬を用いてオスロフに対し過去の幻覚をみせる施術を施し、彼に対し自己変革を進めるよう示唆、オスロフはデミアノビッチの主宰するグループに入会する。デミアノビッチの知の講義にオスロフは感激するが、一方そのデミアノビッチは人を介してモスクワにいるある思想家と会談をする。それこそがG、ことグルジェフであった。謎めいたグルジェフの影響力は凄まじく、デミアノビッチですら彼の思想に傾倒していった。それがオスロフには面白くなく、グルジェフの過去をさぐり、その人物がぺてんである証拠をつかもうとするのだが……。

本格ミステリとしては「?」だが、後期ロシアを舞台とした歴史ミステリーとしての見どころあり
改めて本書収録のインタビューをみていて思ったのだが、小森氏のデビューは特殊といえば特殊な事例に属するものだろう。十六歳の時に『ローウェル城の密室』が江戸川乱歩賞の最終候補に残ったものの、同作はそのタイミングで刊行はされておらず、小森氏自身はその後コミケ等に活躍の場を移していた。その後、出版芸術社に当時勤務しており小森作品にもしばしば登場する溝畑氏の強い推挽により『コミケ殺人事件』が単行本化されたのは'94年のことだった。その後の作品が特殊な環境下を舞台とすれどミステリ色が強かったせいもあり、本格ミステリ作家の「枠」に周囲と御本人が強く囚われてしまったということが、多少どこか”本来の小森健太朗の表現したいこと”とのあいだに歪が発生してしまっていたようにみえる遠因のように思われる。
ならば、”本来の小森健太朗の表現したいこと”とは何なのか、と問われると本人ではないので何ともいいようがないのだが、先般の『ムガール宮の密室』であり、本作なのではないか、と思うのだ。少なくとも日本国内ではメジャーとはいえない人物や世界史、そして思想史をベースとしたセミフィクション。 この方面に至った時の小森氏の筆は、(失礼な言い方ながら)凡庸な日常下に発生するミステリを表現している時よりも冴えている。
いわゆる広義のミステリーにおいては、セミフィクションで歴史上のちょっとした謎を解き明かしたりすることに焦点を置いている作品にも名作は数あり、本格ミステリのガジェットを作品内に組み込むのもそれが自然な流れがある場合のみ。本書においても第三者オスロフの視線を通じ、ロシア後期のウスペンスキーとグルジェフの邂逅、そして思想の変遷、更に別れといった出来事を、(その背景など真っ白で全く知らなかった小生でさえ)分かりやすく描いており、なかなかに興味深い。加えて彼らの歴史上の”謎”に対しても、独自の解答を提示している点も注目される。叢書の趣旨からして許されなかったのかもしれないが、本書におけるいわゆる”本格ミステリ”の部分が実に蛇足にみえる。このあたりから、作者が描きたいものと、描かなければならないと思われているものとのギャップを感じてしまったのだが……。

あくまで小生は自分の知らなかった人物の生涯を描いた、一種の”歴史ミステリー”として本書を捉えている。とすれば、もっと多方面からの注目を集めても良さそうなものなのに、本格の枠がそれを邪魔している……という考え方は穿ちすぎなのだろうか。


03/10/30
高田崇史「麿の酩酊事件簿 花に舞」(講談社ノベルス'03)

高田崇史+講談社ノベルス=QEDシリーズというくらいに高い評判を持つ高田氏が、講談社ノベルスではじめた別シリーズが「試験〜」の題名で知られる千葉千波の事件日記シリーズ。では本書が何かというと、先に『麿の酩酊事件簿』として、原作:高田紫欄(しいら) 漫画:望月玲子にてコミックスとして発売中の作品がノベライズされたものなのである。ちなみに、本書には「原作者・高田紫欄の許可を得て、高田崇史が大幅に加筆したものです」とある……が、種々の情報を総合するにどっちも同一人物でしょう。「高田らしい」のアナグラムかな。いいけど。

古都・鎌倉の一角にある大時代的な御屋敷を構える勧修寺文麿はもうすぐ三十一歳にして十七代当主。普通ならば、女性に不自由するはずなどない身分ながら、この勧修寺家には代々伝わる厳しい掟があった。見合い厳禁、手助け無用、魅力発掘、自力本願。要は、名門家であることを隠しながら、自身が魅力的で勧修寺家に相応しい女性を捜し出して、結婚に持ち込まなければならないのだ。文麿は今日も祖母のまつゑの嘆き兼愚痴を聞きつつ、女性発掘に勤しむのだが……。
街角でふと入ってみた楽器店。文麿は強引な勧誘に負け、ピアノの講習を受講する羽目に陥ってしまう。その講師・山崎るみに文麿は一目惚れ。しかし、非常に高い技術をるみは持っているにもかかわらず、人前で演奏することを彼女は嫌悪していた。 『ショパンの調べに』
まつゑの策略に負けるかたちで文麿が訪れたのは同じく名門・篠塚家のお茶会。そこで久々に出会った貴志子に文麿は一目惚れ。いい雰囲気になったが貴志子は一ヶ月前に殺人事件に巻き込まれていた。 『待宵草は揺れて』
篠塚貴志子と来ていた筈のバーを訪れた文麿は、店の女性バーテンダーに一目惚れ。しかしカウンターには彼女を狙う別の人物が。彼女・朝比奈薫と偶然出会った文麿はデートに誘うが、彼女には苦い過去があった。 『夜明けのブルー・マンデーを』
朝比奈薫を狙っていたキザったらしい大原七海を偶然見かけた文麿は、後をつけて迷い、プールバーに入り込む。その店の女性ハスラーに一目惚れした文麿は、彼女とその友人の三人で食事に。しかしその店ではかつて困った事件が起きていた。 『プール・バーで貴女と』 以上四編。

定型が織りなす本格ミステリの美学。だけど、なんかどこかで見たような……
山口雅也の作品に『垂里冴子のお見合いと推理』という作品集がある。容姿端麗・健康良好の彼女のお見合いはことごとく本人に否はないのに破談となってしまう――というストーリーの本格ミステリ連作。結婚を前提とした男女の出会いとミステリ、そして結局は縁叶わずお別れ……という展開パターンを繰り返す同書は、解決を前提とした名探偵と犯人との出会い、そして謎解き、結局犯人は断罪されてお別れ……を実にさりげなく二重写しにした面白さがあった。つまり、男女の恋愛システムの「定型」を、本格ミステリの持つ「定型」とに被せたわけである。登場する人物や抱えている背景や事情は違えど、そのシステムそのものは実に似ている……ということ。
本書も、表面上「お見合い厳禁」「自力発掘」とはいっているが、四作品ともシチュエーションや謎の解決の場所等々において定型化にこだわっている点が見えるし、そこに男女の恋愛模様を絡めつつも恋愛+謎、そして別れというそのパターンはどうも先の山口作品との重なりを思い出さされてしまう。
だからといって本作の価値がどう、ということは全くない。そもそも本格ミステリは定型の文学であり、先の作品と似たパターンが存在するというのは、当たり前のことなのだから。問題はその枠のなかでどれだけのオリジナリティを出せるか、ということになろう。本書の場合は、文麿の相手の職業や趣味、即ちピアノ演奏、茶道、カクテル、そしてビリヤードといった物語固有の背景に、ミステリとしての謎が隠されている点がポイントである。相手の女性が抱える悲劇がそれぞれその職業固有のものであり、職業柄の目をもってしても見抜けなかったからくりを文麿(但し泥酔モード時)に快刀乱麻に解明していく。その鮮やかな解決は、文麿に対する興味を女性がそらせてしまうほどの衝撃を伴い、彼自身は幸福になれないところは本書独特のユーモアに繋がっているのだが……。
そのユーモアの評価が実は微妙に難しい。正直、主人公がグランドマザコンかつ世間知らずのぼんぼんにしか見えないので、あまり感情移入できないキャラになっているようにみえる。本来もっとドタバタしても良さそう筈の結婚に対する切迫感があまり伝わって来ないんだよなあ。このあたりは個人的な印象なので、人によって受け取り方は異なると思いますが。

原作となったコミックスの方は未読ではあるけれど、恐らくその雰囲気は本書でも維持されているのではないかと思う。 不思議と物語の場面場面にどこか映像が感じられたし。ただ、高田氏のポテンシャルからすると本格ミステリのレベルとしてはちょっと低め(というかネタが小粒)のような気もしたが、それもこれもコミックス(つまりは読者層が異なる)が最初の媒体であったことが理由なのではないかと類推する次第。初心者が気軽に手に取るのに向いている印象。


03/10/29
舞城王太郎「九十九十九」(講談社ノベルス'03)

少なくとも本書が執筆された段階では、まさか舞城氏が第16回三島由紀夫賞を受賞することなどが予見されているはずがない訳で。『阿修羅ガール』を読んで感銘を受けた人が、受賞後第一作として本書を手に取った場合、清涼院トリビュートといいつつオリジナルなミステリとしてぎりぎり読める本作をどう感じ取るものなのかはよく分からない。

あらすじをまとめるのは私の能力では不可能なので冒頭から引用にてお茶を濁そう。
産道を通って子宮から外に出てきた僕が感動のあまり「ほうな〜♪」と唄うと僕を抱えていた看護婦と医者が失神して、僕はへその緒一本でベッドの端から宙吊りになった。そうれからしばらく母親も皆も失神したままで、僕はそこで三十分ほどそこでそうしてブラブラと揺れていたので、僕にとっての最初の世界は上も下も右も左も何もなかった。そこにあったのは僕の歌声だけだった。
 「はうら〜ふうら〜ほいね〜」と唄うのに飽きて世界=分娩室の白い床/天井/壁の観察を始めているうちに皆がが目覚めて起き上がってさっきの看護婦が僕を見つけて慌てて僕を持ち上げたが、その看護婦の僕を抱く柔らかな感触に嬉しくなって僕がにゃへえと笑うとまたその彼女は失神して僕はまた宙吊りになってしまった。羊水に濡れた身体で裸でさらに十五分ほども放置されて、僕はさすがに風邪をひいた。その風邪で僕が死にかけたとき、父親と母親と医師と看護婦は皆このまま僕を死なせるべきかどうかで迷った。歌声で人を失神させたりニッコリ笑って人を失神させたり、って言うか何をしても人を失神させるっていうのがそもそも人間としておかしい。美しすぎるというのは一種の奇形なのだ。


どこまで深読みすれば良いのか。その必要などないのか。読者は舞城の高みに届くのか
ずっと前に読了していたまま、どう本書のことを捉えて良いかかなり混乱していたため、一文を書くのを放置していた一冊。(本書を読むがために清涼院JDCを全て読み返したというのに)
まずいえることは全くもってJDCトリビュートという捉え方が、いわゆるパロディ系同人誌等の感覚と異なるという点。つまり、確かに探偵神・九十九十九が主人公となっているにも関わらず、通常ならばその圧倒的世界観に飲み込まれそうな「流水大説」世界をほとんどといっていいほど又借りせず、舞城世界の方に主人公を引き込んでしまっているのだ。(九十九十九の容貌・特徴こそ借用しているが、性格は全く舞城ライクであるし、他のJDC探偵たちも名前こそ登場すれ、エピソードの関連等にあまり気を遣っているとは思えない)。九十九十九というJDCシリーズで最も重要な探偵の一人の名前を題名にまで冠しているにも関わらず、本作はその外伝ですらない。ただ、だからといって独立した舞城小説として読めるかというと、清涼院世界ともっと高次での繋がりはあるように思えるのがまた微妙なところ。そしてまた、他の舞城作品と繋がるエピソードが(アルマゲドンとか)がちらりちらりと出ており、この世界そのものがまず確定しづらい存在となっている。
物語のベースとなっている感覚は、恐らく「流水大説」から派生した感覚……といえば良いのか、流水大説において下敷きになっている思想について、舞城は徹底的擁護を試みている点にあるように思う。物語において悪魔的犯罪者による大量不可能殺人を常に掲げ、一つ一つの事件の凄さを更に大量の殺人事件に埋もれさせてしまうJDCシリーズは、その本質よりも探偵のキャラクタ化等と世界設定の荒唐無稽さ、根本トリックの浅さなどによる批判が、ミステリ愛好者から噴出した。この点について清涼院氏自身はどこか飄々として我関せずといった態度を貫いているのだが、舞城はこの風潮そのものを批判しているかのように感じられる。特に笠井潔の戦争の大量死を主題にした探偵小説論を意識した、作品内における反論などは奇妙な説得性がある。以下本文より引用。
推理小説が大戦中の大量死を経て隆盛したということがあるならば、それが起こった理由は人間の死の尊厳の薄まりを推理小説家が回復させようとしたせいではなく、うまく利用したせいだろう。人間の死の尊厳が薄まったことで、推理小説家は登場人物を殺しやすくなった、傷つけやすくなった、おもちゃにしやすくなったということだ。唐突な殺意や荒唐無稽な動機を用いることができるようになったし、人の死に接する登場人物の心理状態も軽く描写できるようになった。何よりも、人の死の尊厳ということに頭を使わなくて良くなった。

清涼院のJDCシリーズでさえ、結果的にその角度は異なれど、いわゆるがちがちの本格ミステリとルーツ的には同根にある――という主張であるようにみえる。探偵小説は結局残酷なヒトゴロシの小説である点で全て同じ。本格ミステリと清涼院は一種の近親憎悪の関係にあるということか。また、この主張には、人の死の尊厳を描くことに(たぶんミステリよりも)長けた純文学に舞城のスタンスが寄っていることも無関係ではないだろう。(ただ舞城自身、作品では、その人の死をパラドックスめいた表現方法を駆使して描くために、その主張そのものが作品内ではかえって単純には分かりにくくなっているきらいはある)。

物語は七部構成ながら、一、二、三、五、四、七、六と順番が入れ替わるメタ構造。最初の第一話は十九の生誕から成長までを描くが、第二話以降はそれぞれのエピソードが”清涼院流水”によって送られてくることが前提となっており、物語における真実はいったい何なのか、というのは物語を通じての謎となっている。またそれぞれのエピソード内部に一応探偵小説的なガジェットが組み込まれており、九十九十九はその謎を解き明かすという役割をも担う。ただ――その謎→解決については、相変わらず瞬間解体。舞城の他の作品同様、謎という魅力で物語を引っ張る意図はそこにはない。どちらかといえば、その謎を交えたシチュエーションのなかで、九十九十九がどのような行動を取るのか、という点の方に大きな謎があるようにさえ見える。また、物語を通じて描かれる家族愛テーマも不変。他人に対する愛情(というか情)の薄さとは裏腹に、舞城作品における血の繋がりの無条件の濃さは不気味なまでに徹底される。ただ、本書においてはそれは通底しているもののメイン・テーマではない。あくまでそういった名探偵や家族を巡る様々な問題を通じて、世の中を動かしている原理、即ち(物語における)”神”の存在に行き着いてゆく。執拗なまでの(同時に無意味にさえみえる)聖書の見立て、”何でもあり”を実現する”清涼院流水”の存在。そしてこの結末。探偵小説のゲーデル的問題まで内包させ、名探偵の存在を舞城的な解釈によって決着させる。章建てをわざとずらすのも神の技ならでは。自分の立つ物語は自分の能力によって決着することができるのか。名探偵自身が関わる大きな事件を解決するのはやはり”神”なのか?   ……ここに至って、この探偵が九十九十九でなければならない必然が、ごく僅かに垣間見える――ようにも思える。”神通理気”の使い手であり、S探偵である彼であるからこそ、凡庸な名探偵たちが気付かない、自分の立つステージ以上の次元に対する謎、物語における神に存在を解き明かすことができるのだ。

『幻影城』殺人事件の見立てなどは探偵小説マニアが狂喜するかも(というか私は舞城直筆イラストに抱腹絶倒したクチ)……なのだが、あまりそういう観点で触れられていないように思われるのは、本書を読む主要読者が若い層中心であろうことと、文学系の方々が多くを占めているせいかな。雑誌『幻影城』をお持ちの方はP381〜P384のイラストだけでも必見のこと。(多少ネタバレですが、いいでしょ、これくらい)。

二段組みになっていないので、すぐに読み終わるだろうとたかをくくっていたら思わぬ中身の濃さに味読させられる羽目に陥った。JDCの感覚で取っついた方には中身は重すぎるだろうし、三島賞受賞作家としか舞城を捉えられない方が読むには舞城のユーモア感覚が辛そうだ。一応気軽な舞城エンタの体裁は取っているものの、本書の立ち位置は実に微妙なところに存在するような気がしてならない。(じゃ、誰が読むのだ? あ、オレか)


03/10/28
海渡英祐「札差弥平治事件帖」(徳間書店'98)

海渡英祐の現在のところ最新の作品集。「問題小説」誌に'89年9月号に発表された『からくり崩し』が最初だが、最終作品となる『夜明け前の闇』に至っては'98年3月号に発表されており、実に十年近くの時間をかけて完結したというシリーズ。表題の通り、札差である主人公が探偵役を務める連作短編集。

札差の弥平治が河竹新七らと共に料亭に繰り出す途中、髭面の侍が若旦那を脅しつける場面に出くわす。その若旦那は翌日死体となって発見された。本来無関係の弥平治だったが、事件のことが気になって仕方ない。 『からくり崩し』
向島の桜見物の帰り道、弥平治は桜餅を買って戻る途中だったらしいお女中の他殺死体を発見する。その死体はなぜか桜餅の葉だけ三枚握りしめて事切れていた。 『花の散りぎわ』
浅草寺の参詣に訪れた弥平治は、知り合いの清水屋のお嬢様・お栄とはぐれた女中と出くわす。お栄は気鬱で実家から離れて女中と暮らしていたが、その寮の小屋で死体となって発見された。 『潰れた青い実』
刀剣商・倉田屋が手に入れた妖しい刀。倉田屋の息子がその刀の魔力み誘われるように夜中に奇妙な振る舞いをするようになる。雪の夜中、一人で家を抜け出した若者は何者かに殺されていた。 『妖刀の誘い』
八代目団十郎を目当てとした悪質な悪戯が料理屋や楽屋で仕掛けられる。新七らから聞いた噂から、その悪戯の仕掛け手は七代目の団十郎ではないかと思われたが。 『梨園柵模様』
江戸時代の木場のあたりは十万坪。何もないところである。たまたま通りかかった弥平治と新七はそのなかでぽつねんと筆を走らす老人を目撃する。行き先の材木問屋・春木屋の息子は彼らと入れ違いに飛び出し、戻ってこない。 『風の中の孤影』
呉服を扱う老舗・和泉屋の息子が出たきり帰らない、と弥平治は相談を受ける。戻ってきた息子は一日何があったのか覚えていないのだという。どうやら身分違いの女性と交際している様子であったが。 『いすかの嘴』(いすかは易+鳥の漢字)
ペリーが来航し、江戸の街は少々騒がしい。攘夷を主張する一隊に知り合いの三島屋の若息子が参加していると聞き、弥平治は様子を探ろうとするが、なかなか口が堅い。もともと遊び人だった筈なのだが……。 『夜明け前の闇』 以上八編。

捕物帖は世の中に多々あれど、やはり海渡はひと味違ったところを狙っている
江戸時代はいくら町人文化が栄えていたとはいってもいずれにせよ武家社会。その時代を舞台にした探偵小説、いわゆる捕物帖における名探偵の多くは、目明かしであったり若侍であったり殿様であったり、引退していようが現役だろうが、武士側につく人間が務めることが圧倒的に多い。そうでない場合も、例えば砂絵のセンセーのように権力に縛られない自由人であったり、役者や芸術家としての顔を持っていて、侍とも仲良しという特殊職業であるケースがほとんどだろう。そんななか、”札差”という職業に目を付ける海渡英祐のセンスにまず感心する。
安政の時代に十八代通と持て囃された、有名な遊び人・大口屋暁雨を血を引く弥平治もまた札差。武士の年貢を担保に金を貸すというのが商売であり、金があって暇もある。奉公人を自由に事件捜査に使える。また武士にも顔が利く。更に彼の側に配されているのが後の河竹黙阿弥として大成する前の芝居作家・河竹新七。なんというか、ベテラン作家の余裕が為す人物配置である。更に八つの事件はそれぞれ、江戸の風物詩やその時代ならではの事件がキッチリ背景に配置されているのも特徴。このあたりの描写が的確かつ自然なので、時代ならではの特色が描かれた物語背景を眺めつつも事件にすんなりと入っていけるバランス感覚が存在する。
また、事件の方は小粒ながらロジックによる謎解きがメインなのが特徴。少々男女の愛憎に動機が偏りすぎるきらいがあるのは海渡英祐の他作品でもみられる特徴ではあるが、ペリー来航を一介の商人が逆手にとって自らの利に変えてしまう『夜明け前の闇』あたりでみられる事件の動機などは秀逸。ダイイングメッセージあり、不可能犯罪ありと、本格ミステリファンであってもこの内容は十二分に通用するだろう。また、弥平治のみならず、河竹黙阿弥や勝海舟など、その時代ならではの登場人物が物語に関わってくるあたりのテクニックも嬉しいところ。ここに不自然さが全くないのは歴史ミステリの大家ならではの「仕事」といえるだろう。

捕物帖という(厳密には「事件帖」)という形式を踏まえつつも、自身が得意とする歴史ミステリに非常に近しく作られている点に好感。今さらと思われているのか文庫化されていないのが勿体ない。この内容であれば、時を超えて時代小説ファンにも歴史小説ファンにも、そしてミステリファンにも受け入れられるはずであるのに。


03/10/27
友成純一「戦闘娼妓伝」(双葉社FUTABA NOVELS'88)

雑誌『幻影城』で第2回新人賞評論部門により商業誌にデビューした友成純一氏は、特に映画ジャンルにおける評論で地位を築いた一方、創作においては独特の猟奇ポルノというジャンルを一人で開拓した人物。本書は友成ファンのなかでも人気の高い(と思われる)〈宇宙船ヴァニスの歌〉というシリーズもの作品の四作目にして未完の最終作品。

銀河連邦が支配するヴラド星域は、鉱物資源が豊富にあったがその環境は厳しく砂ばかり。その採掘に従事する者は流れ者や犯罪者たち。荒れ果てた土地での過酷な労働に耐えかねた脱走者は以前から多かったが、いつしか彼らは組織的なゲリラ活動へと移行していった。その指導者はプレッジ・スミス。民主主義の悪魔であり米国の元大統領である。全体主義を進めた無敵の男・ラオとの戦いに敗れた筈のプレッジは七五年の時を経て魔術をもって復活したのだ。そのヴラド星域のザハル太陽系に娼妓船ヴァニスが係留されることになった。表向きは慰労だが、その役割はプレッジの居場所を突き止め、暗殺すること。戦闘娼妓たちは自らの肉体を利用し、情報収集を進め、プレッジの片腕・竜神童子が潜む拠点が探り当てられた。竜神童子はヴァニスの統率者・リリーの片腕である撫子とかつて愛し合った人物。しかし以前の別れでのショックからホモになっていた。また娼妓船〈愛宕山〉のすぐ近くに、どんな悪環境でも花を育てることのできる爺さんがやって来た。娼妓・メアリアンはその爺さんを愛宕山に引き入れて、船内に花を咲かせてくれるよう依頼した。

グロは控えめエロはあり。だけどこのセンス、めちゃくちゃ面白れえ。笑い死にさせられそうになったぞ
スプラッタ系エログロ小説の頂点を極めた作家・友成純一。とはいえ氏の作品にはカルト的な魅力あるのか一部に根強いファンがいることも事実である。なんというか本書は、友成フォロワーたちの気持ちを垣間見せてくれたような気がする。
なんたってこのシリーズ、”長編エロチック・スペース・オペレーション”なのである。半裸のお姉ちゃんたちが、ファックと戦闘を繰り返し、男どもを暖かく迎え、その一瞬後に残酷に殺してしまうシーンがぞろぞろ。 それでいて、なんでだ。こんなに笑えるんだ。 結局キャラクタ造型の微妙な綾なのか、友成純一のセンスなのか。
無敵の戦闘能力を誇る娼妓のお姉ちゃんたちが、花が醸し出す安らぎに弱かったり、娼妓同士の嫉妬に狂ったり。あっという間に殺人技術を駆使して数人の男性を一瞬にして叩き潰してしまうかと思えば、肝心なスパイとして聞き出すべきポイントを覚えていなかったり。このもの凄く格好良いシーンと、意外と単純でおバカな天然ボケとの落差がもう堪りません。ヴァニスを率いるリリーにしても、単なるわがままなお姉ちゃんでしかないあたりがまた凄いし。(結果的に敵を撃退するわけなんですけどね)。エロティックな描写はもちろん本職、全く手を抜いていないのに(娼妓・お蝶の一人で六人相手にする必殺技、グリーン・ドア・スペシャルなんて、ちょっとすごいよ)、それはそれで笑えてしまうのは一体なぜ?
更に脇役となる男性陣も更におバカ。プレッジ・スミスはとにかくとして竜神童子と花咲か爺さんのキャラクタのアホさ加減がまた絶妙。撫子に裏切られたと思い込み短絡的にホモに走る童子、「枯れ木に花を咲かせましょう〜」という脱力のフレーズと共に、性欲の吐き出し方を知らないがゆえの特殊能力を持つ爺さん。特にリリーに葬られる爺さんのラストの情けなさといったら。ヴァニスの乗組員”下男”たちがのんびりホモ気分で遊んでいるところを次々とやられるところなんざ、笑い無しには読めません。

自作の宣伝を繰り返す作者の「あとがき」も面白い。一度死んだ人物をさらりと再登場させたり、登場人物の髪の毛の色がころころ変化する理由が書かれていたり、ワザと(そして天然で)チープさを演出する友成純一のセンス、万歳! とにかく一冊読むと嵌ります。なので、ああ、前三作が読みてええええええええええ


03/10/26
岩井志麻子「悦びの流刑地」(集英社'03)

第6回日本ホラー小説大賞、第13回山本周五郎賞、第2回婦人公論文芸賞、第9回島清恋愛文学賞……と、デビュー数年でいくつもの賞を獲得した岩井志麻子サマ。本書は「小説すばる」'01年10月号から'02年9月号にかけて連載されていた作品がまとめられた長編。

大正が終わり昭和が始まったある時期。目の見えない僕こと由紀夫は、町はずれの常に風の鳴る借家で三年前から姉と二人で暮らしている。父と母を流行病で亡くしたあと、姉は僕を連れ街に出てきて料亭の仲居として働いている。近所づきあいはなく、姉は僕が働くことを拒むため、僕はずっと家にいる。隣近所に無視される僕のもとを訪れるのは幼い女の子。そして家の外には声高に昭和を批判するアジテーションを続ける男の声。「面白い、お客は来た?」 僕は毎日、姉が帰ってきてからの話を聞くのを楽しみにしていた。姉との話が終わったあとは、姉と僕とは一つ布団の中で互いの身体を貪り合う。姉の料亭の離れに女作家が滞在しているのだという。彼女は今流行のエロ・グロ・ナンセンス作家だといい、筆名は明かしていない。僕は、姉がその女作家の反故を拾ってきて、その女作家が書いている物語を読んでもらうことが無二の楽しみとなっていった。それは、小さな料亭の仲居をしている美しくない女が、男に落籍れ、中国に渡っていく話。背徳と罪に満ちた男女の物語……。

背徳と愛欲とのコラボレーション。作中作がどう物語に溶け込んでいくのかが見どころか
これが岩井作品でないのであれば、盲いた弟と、献身的な愛情を注ぐ姉とのインセストの段階で物語はピークに達するように描かれるのではないだろうか。しかし、さすがはインモラルを恐れず、血肉として作品を創り上げることが当然といったこれまでの岩井作品そのままに、本書のそれもまた、単なる前提にして導入に過ぎない。 そういった姉弟の関係を踏まえつつ、その裏に潜む恐れや密やかな愉悦、さらに不安を次のステージに運ぶのが岩井文学である。
姉の勤める料亭に長逗留しているという女作家が執筆している物語。書き損じを拾ってくるという序盤の体裁上、冒頭は途切れ途切れとなる。一人の女が大陸で知り合った別の男と共謀してもとの夫を殺害する物語――こちらはこちらで、不条理と背徳が溢れる内容となっている。特にその殺された夫が、見世物小屋に叩き込まれるために異形のバケモノの姿とされてしまうシーンは圧巻。江戸〜戦前と続いた日本の”見世物小屋”文化の一端を垣間見せられたような、不安な気分に陥る。作中作である筈の物語が、盲目の弟と料亭で働く姉との生活を浸食しはじめてからは、岩井文学の真骨頂へと移る。現実と幻想が入り交じり、どちらの物語の現実感も徐々に薄くなり、別の幻想的な状況が徐々に現実味を伴ってくるあたりの入れ替わりの絶妙さが本書の最大の見どころだといえるだろう。
最終的な落としどころは見通せるといえば見通せるため、サプライズという意味ではあまり大きくはない。ただ、なぜ由紀夫が盲目なのか、なぜ姉はその盲目の弟を献身的に護るのか、といったあたりにきっちり得心させるだけの異形の愛の構図を持ち込んでくるあたりは「巧い」と思わず唸らされる。もとよりミステリが企図されているわけではなく、素直に背徳の幻想に漂うのが正しい読み方のようにも思う。

岩井志麻子の小説技巧が詰まった作品。とはいえ、背徳が前面に押し出され過ぎているきらいもあり、昭和初期という時代を色濃く反映させすぎたきらいもあって、現代の読者に対する強烈な訴えには微妙に乏しいかも。ただ、この大正〜昭和期を徹底して描くところが岩井文学であり、この時期を舞台にしなければ成立し得ない幻想文学であることもまた確かなのである。


03/10/25
横田順彌「ヨコジュンの大推理狂時代」(ペップ出版'90)

本書は「クロスワードキング」(大陸書房)に連載された『ウルトラ推理〈パズル〉小説』(1987年8月号〜'89年4月号)を、加筆の上、1冊にまとめたものです。」という連載媒体からもどこか想像つくような気もするが、実際、表紙にもある通り「読むナゾナゾ」そのものの作品集。そして……ヨコジュンならでは。

『軽井沢の別荘でおこなわれた大富豪の誕生パーティで、皿回し芸人の皿がぜんぶ割れてしまったにもかかわらず、ことなきをえたという怪事件!?』
『父親の”タイムスリップ”を着てバックトゥしてしまった芸術家の息子が、いったいどの時代に旅立ったのか、さがしてもらいたいという難事件!?』
『ケチな男が無人島で石油を見つけたけれど、それに火がついて焼け死んでしまったというおそろしい怪事件!?』
『”伝説のコイビト”に冷たく殺されてしまった、非常に身だしなみのいい、大天才博士をめぐるいともキッカイな怪事件!?』
『やっとみつけだした大財宝の中から、小判1枚を盗みだした男を、四昼夜も追いかけて殺した犯人の使った凶器はなんだったのかという難事件!?』
『あくまでも悪魔の子をこの世に誕生させたい悪魔が、おそろしい魔力を使って、いったいどの女性を妊娠させたかという難事件』
 ……といった感じに長〜い題名が冠された合計二十一もの事件が収録されている。

柔軟で幅広い想像力と日本語能力・知識の限界、さらに読者の寛容が試される、恐るべき推理クイズ
いわゆる”犯人当て推理小説”を非常に広義に捉えた場合にのみ含まれる作品。とはいえ、ヨコジュンの作風からすると王道。 ……勘の良い方ならば、この二言でおおよそのニュアンスがくみ取れるかと思うのだが、ハチャハチャの駄洒落がベースになった推理クイズなのである。
問題編は二つの形式が交互に出題される。片方は、難事件・怪事件の捜査を依頼されて探偵に解決の依頼を持ち込むというもの、もう一つは松戸○○研究所の所員が探偵のもとを訪れて、変梃な研究をする所長にまつわる事件を解決して欲しいというもの。問題編のボケとツッコミにもそこそこ面白いものがあるのだが、その事件の奇妙さはハチャハチャSFの祖、横田順彌ならではの演出に満ちている。そしてもちろんその回答も……。ちなみに解答編は迷路を使用したパズル形式になっているのはとにかく、二〇〇字程度で全ての謎が解かれてしまうのだ。つまり、その事件を構成する要素となる「日本の慣用句」さえ発見できればいいのだが……。ちなみに上記に紹介した第一問の場合、大道芸人が使用したのは「見慣れない御馳走を目を皿のようにしてみていた、目の皿を使用した」というものだし、第二問だと「岡本太郎を信奉する息子ならば芸術は幕末だ! と幕末にタイムスリップしたに違いない」とか。第三問に至っては、「無人島の石油に、爪に灯を灯すような暮らしをしていた”火”が引火したのだ」となると、もうどういう風に推理(というか想像)して良いのか分からない。ただ、このぶっ飛んだ感覚こそが、ヨコジュンハチャハチャSFのベースなのだから、それはそれ、これはこれ。普通のミステリクイズを期待していた人は第一問で裏切られるけれど、ヨコジュンを知る人ならば、手を叩いて喜ぶ。 つまりはそういった本である。

問題編だけ読む限りは、一応ミステリの体裁となっているのがポイントではあるが、やはり通常のミステリファンに勧められるものではない。ヨコジュンファンであれば、十二分にそのハチャハチャぶりを堪能できることは請け合いなのではあるが。


03/10/24
浦賀和宏「記号を喰う魔女 FOOD CHAIN」(講談社ノベルス'00)

最近はハードカバー作品の刊行も着々と増えてきた浦賀氏ではあるが、本書が発表された段階では、メフィスト賞以来のその著書全てが講談社ノベルスより発表されていた。従ってデビュー作品から継続された「安藤シリーズ」における五冊目にあたる。

川崎市内のとある中学校の天文学部。とはいってもさしたる活動をするわけではなく、放課後に集まって時間を過ごすのみ。主人公の小林をはじめ、美少年の織田、その織田に目一杯想いを寄せる坂本、活発な少年・山根、特に目立たない石井、そして小林が片思いを続けるクールな美少女・安藤が主なメンバー。そんなある日、織田が「さよなら」と安藤に言い残し、皆の前から飛び降り自殺をしてしまう。坂本は、最後の言葉が安藤に向けられていたことを恨み、彼女に対して強烈な苛めを始め、クラスもそれに同調するようになっていた。そんななか、織田が遺言で「自分が死んだ時に居合わせた人間を、僕が生まれた島に向かわせてください」と残していたことから、残された五人は人口が十人に満たないという孤島を訪れる。織田の叔父夫婦に、愛想の悪い若いカップル、島に居着く夫婦、それに男が二人。五人は「アミルスタンで取れた羊の肉」によって歓待される。しかし、船の操縦をしてきた男・スギモトが首を頂点にした「逆さV」の深い傷を負って死体となって発見される。更に次々と発見される惨殺死体。あくまで安藤を庇う小林は、この島に隠されていた強烈な悪意と、その羊の肉の正体を知ってしまう。

乾性かつ閑静なる浦賀和宏の感性の完成は、読者からの歓声にして読者への陥穽
あくまで「もしも」の話になるのだが、浦賀和宏の登場が、あと五年遅ければ、ミステリ界における彼の評価はもっと異なるものになっていたのではないだろうか。 『記憶の果て THE END OF MEMORY』によるメフィスト賞デビューより二年足らずで、浦賀氏はいわれていた様々な瑕疵(例えば文章)を克服、シリーズに、もとから保たれている独特な感性のもと完全に開化させていた(ことに私は長らく気付いていなかった)。加えて、いわゆる脱格系作家と一括りにしてしまうことは抵抗があるが、そんなフォロワーたちと共通する精神が少なくとも浦賀作品の底流に存在している。こういった要素が”現段階”で新しい才能として表出していたら……。このような仮定はナンセンスだろうが、もう少し浦賀和宏の評価というものは、違ったかたちになっていたかも、と本書などを読むと感じるのだ。
特に感心したのは、作家志望の中学三年生の一人称である点。ここに、ところどころに挿入される普段は使わない(中学生なら尚更使うことのない)熟語が独特の味わいを醸しだし、かえってフィクション味を際だてる。またそれと同時に、実はこれらの小難しい単語は、読みやすさと雰囲気作りにも抜群の効果を発揮している。若い方々にはこれらの単語は多少難しいだけの夾雑物かもしれないが、実際は作品世界を築くのための奇妙な道具として機能しているのだ。
もとより、浦賀作品の登場人物はどこか感性の一部が乾いている。一般常識人とのズレの微妙さが味わいとなる。当然、扱われるのは”軽い”動機による殺人。本書でいうならカニバリズムを中心とした蘊蓄はあくまでミスリード。根本的に安い人間は殺されても構わないという、浦賀作品らしい割り切りの方がグサリと胸に突き刺さる。全体を覆う猟奇的な雰囲気のなか、物理的なトリックが用いられる作品ではない。むしろ、その猟奇性をマニュアル通りに捉えてしまう読者を、ロジックの積み重ねで罠にかける作品。 さりげなく考え抜かれた構成の周到さ加減に、正直舌を巻いた。

猟奇的な死体や流血シーンの多さ、カニバリズムを徐々に読者の前に開陳することによって得られるサスペンス……。読者によって浦賀作品に対するツボは確実に異なると思う。だが、このどこか文学的な香気さえ漂う舞台との狭間に生きる論理、そしてそのどんでん返しを素直に「論理のミステリ」として味わいたいようにも感じた。食わず嫌いは、やはり宜しくないということか。


03/10/23
霞 流一「火の鶏」(ハルキ・ノベルス'03)

霞作品は一様に「動物尽くし」という共通点はあるが、その探偵役は複数存在する。最も代表的なのが、私立探偵・紅門福助ものということになるのだろうが、本書における奇蹟鑑定人「魚間岳士」のシリーズはそれに次ぐといえるのではないだろうか。その魚間シリーズの三冊目にあたる作品。

自社捜査局所属の奇蹟鑑定人・魚間(四十二歳)は依頼を受け、相棒であり、巨体と怪力を誇る変人・天倉真喜郎と共に練馬区にある玉古呂町へと向かった。その地にて、夜明けに嘴の先から火を吹きながら三十メートル高さを飛ぶニワトリが目撃されたため、その真偽を確かめようというのだ。目撃者は売れない酒屋の主人・佐久間。彼は奇蹟とは別に、業態をコンビニにしようとしていたのだが、自然食品屋「野ッパライ屋」による執拗な妨害によって、それが果たされずにいた。その「野ッパライ屋」は七十過ぎにして異常に元気な老人・城堂舞門が中心となり、他に数人の若いメンバーが集まって活動していた。周辺をあたる魚間は、自然食野菜の美味さに驚く。町内で自然食を栽培する彼らを目の敵にするのが、区会議員の若月や大地主である水之江の一族。個性的な彼らに振り回される魚間だったが、「野ッパライ屋」の若手メンバーが、自室で殺害されるという事件が発生した。

霞作品には珍しい(?)手堅い展開と、やっぱりちょっとトンデモなトリックと
霞作品における、食事のシーンが現代ミステリ作家のなかでは飛び抜けて凄いことは周知の事実。美食系のミステリ作家は他にも幾人も思い浮かぶが、霞氏が抜けているのは、その料理そのものの描写に留まらず、その味覚や食感といった、実際に「食べる」シーンがよく書けているからに他ならない。そして、本書の主題は鶏。ならばヤキトリ……いや、それ以上に本書のサブテーマが「自然食品」となっている以上、そんな美味しそうなシーンが作品内には目白押しなのだ。
当然、これまでの系譜同様、本作品も本格ミステリではあるのだが、そのトリックよりもやっぱり先に「食べること」の描写の凄さについて特記したくなる気持ちが抑えられない。 とにかく魚間や天倉らの食べるものが、みな美味そうなのだ。ミステリではありながら、食事に関する蘊蓄が物語内に溢れている点は一つのポイントだといえるだろう。
さてミステリ。奇蹟のきっかけとなる空を飛ぶ鶏の謎はそれほどでもない。また、最初の殺人事件に潜む陥穽や、ここまで突飛な絵柄を普通なら考えつかない焼き鳥見立て殺人もこれまでの霞作品同様の凝り方がある。しかし極めつけは二人の人間によって出入り口を監視されたなかでの殺人事件。 これがとにかく強烈。ネタをここで明かすことはしないし、物語全体のなかには、この伏線があることも確かに事実。しかし読み終えると脱力感が伴うこのトリックは”バカミス”的要素に溢れている。「見えない人」による不可能犯罪。その真相のネタ(そしてその裏側にあるセンス)もまた、ちょっと他の作家が真似できるものではない。本格ミステリを標榜しつつある一連の作品を超える凄まじいトリックが中心にある。とにもかくにも、この真相にはもう、笑うしかないだろう。――だからこそ霞流一であるともいえるわけだが。

食にまつわる蘊蓄は、蘊蓄といえども全ての読者にある意味関係するともいえる。なので予備知識なしに読んでも全く構わない。その一連の説明の結果、物語そのものの拡散が押さえられ、いくつかの本格的な謎解きに絞られている。だけど、その真相がなあ……。やっぱりいくらなんでも、トンデモだよなあ……。ということで。


03/10/22
鳥飼否宇「密林」(角川文庫'03)

'03年、『野性時代』新創刊記念フェアの一環で角川文庫で行われているのが「秋のミステリフェア」。その一環なのだろうが、角川文庫にて「角川文庫55周年記念書き下ろし」として一気に三冊、ミステリジャンルにおける刊行作品があった。その一冊が本書、他に霞流一『おさかな棺』、鯨統一郎『あすなろの詩』。

自然が残っているといいつつも着実な開発が進む沖縄。皮肉なことに、原生林が手つかずで残っているのは米軍の演習地敷地内であった。金融会社を辞職し、もともとの趣味であった昆虫採集で事業を興そうとしている松崎は、昔からの友人・柳澤に伴われ、その米軍管理下の敷地内に侵入、ヒラタクワガタを超えてマニアが求める大型のオキナワマルバネクワガタの幼虫を探し求めて森へと踏み込んでいた。しかし彼らは軍服を着た黒人・トムと遭遇。彼らの仲間と思われる米国人兵が現れた瞬間、二人は、なぜか黒人と共に逃げ出す。その黒人は”宝物”が森に隠してあることを示唆、彼らは季節はずれの台風によって荒れる森からの避難のために洞窟に赴くが、そこには脱走米国人士官が隠した財宝を狙う猟師・渡久地がいた。トムは暗号にて、宝物の在処を地図にして彼らに示すが、渡久地との行き違いから下半身を猟銃で撃たれて死亡。松崎・柳澤を脅した渡久地は、宝を求めてさらに奥地へと進む。一方、密林からの脱出を図る松崎らであったが、不慮の怪我にて道中は困難を極めた。かくして、密林を舞台とするサバイバル・ゲームが始まった。

大自然派・鳥飼否宇らしいサバイバル・ミステリ。ただちょっとサスペンスの要素が強すぎるか……
結果的な部分をいえば、本編にもこれまでに鳥飼作品で探偵役を務めてきた”観察者”蔦山が登場し、最終的な謎解きが行われるのであるが、これまでの鳥飼作品とは色々な意味での趣を異にしている感を受けた。
というのも、台風が荒れ狂った結果、ツールを次々と失って山中で遭難しかかる主人公らの視点が中心となっているから。侵犯している以上、何をされても文句のいえない米軍所有地、台風によって厳しい自然が牙を剥いている背景、沖縄という地域特有の、ハブをはじめとする自然の脅威。更に丸腰の主人公に対して銃という飛び道具を持つ敵性の登場人物たち。謎もあるにはあるのだが、こういった舞台特有の狂気が、作品において重要な地位を占めているように思うのだ。即ち、サバイバル・アドベンチャー的な要素が非常に強いということ。
とはいってもそこは鳥飼否宇のこと。死んだ筈の死体が蘇るという不可能状況を付け加えることも忘れてはいない。ただ、この部分に関しては、非常に気を遣って書かれているにもかかわらず、オチとしてはちょっと不満が残るように思う。その現象自体に謎があるのではなく、結局のところ描かれていない物語背景に原因を持ち込んでいる点が気になる。あるモノの隠し方にしろ、過去にさまざまな前例があり衝撃は薄い。その一方で、このサバイバルの強烈さ、そして実地の沖縄を良く知る作者ならではの舞台背景については、いうことなし。 終盤に博学にして変人の蔦山の解説が入ることで、物語全体の謎ともいえる”密林”ならではの様々な事象が、生物学・植物学の蘊蓄をもって読者の前に”真実”として開陳される点は評価できる筈だ。ある意味「21世紀本格」にて提唱された本格ミステリに関する新しい考え方を、鳥飼氏が自らが得意とする生物学やフィールドワークを活かすことで、ちょっと変形したかたちにて実現が為されている――というのが最終的な印象といえるだろう。

鳥飼否宇らしい、というか、こういった作品については現存のミステリ作家では鳥飼否宇氏しか書かないように思う。(昔の西東登と微妙にテイストは近いようにも感じるが)。本格ミステリを過剰に期待する方にはちょっと不足かもしれないが、サスペンス味が利いており、トータルとしての読後感は結構充実したものとなっている。


03/10/21
内田康夫「夏泊殺人岬」(講談社文庫'93)

本書は内田康夫氏の十冊目の長編にあたる作品であり、初刊は'83年の徳間書店版。その後、徳間文庫にも収録されている。浅見光彦シリーズの執筆はとうに始まっていた時期の作品ではあるが、本書は他の内田作品に登場する探偵役はおらず、ノンシリーズ長編という扱いになる。

三重県の伊賀にある友田神社、通称”椿神社”に一人の男が訪ねてくる。その神社の管理者の名前は「君根」ではないかと彼はいい、違うと知ると去っていった。神道の専門学校という側面を持つ、伊勢の皇習館大学に通う女子大生の美香は、知らなかったが、彼女の父親が神主を務めるその神社の以前の神主が「君根」の姓を持っていた。その直後、下北半島にある夏泊にある「椿神社」を訪ねた人物が、旅館のなかで青酸カリを飲んで死亡するという事件が発生した。男は殺人の罪で十五年の懲役を終えて出獄した加部なる人物。事件は自殺ということで片づきそうになるが、地元刑事の村上は一人、青酸カリの薬包紙がないことから他殺説を唱えていた。しかし、その後の発生した地震により、結局事件は迷宮入りしてしまう。一方、美香は、雅楽部の合宿で、部長の佐々木の実家である夏泊に向かう。美香を巡って、佐々木と副部長の秀山とが鞘当てをするなか、美香は自分の担当する楽器”笙”を見事に吹きこなす”吉野”と名乗る三十過ぎの人物に心惹かれるようになる。その秀山が何者かに殺害され、その当日”吉野”もまた姿を消してしまった。

物語として、ミステリ以外の部分における「作者のやりたいこと」は一応成功している――。
青森県の夏泊、三重県の伊賀、新潟県の糸魚川等に東京が加わる物語。とはいっても浅見光彦も登場しないし、旅情ミステリを企図して執筆された作品とはいいきれない。初期作品という背景もあるのだろうが、取材が土地そのものというよりも、本編に登場する雅楽や雅楽器や演奏等に集中しているぶん、中期以降の作品によくみられる「一種の観光地案内」的な要素が大幅に減っているように思われるからである。では、凝った本格ミステリか、といわれても、そちらも否定せねばなるまい。殺人そのものに謎は少なく、典型的といってもいい動機が不明の”Why done it?”の作品であるからだ。
「椿神社」を遍歴していた人物は何なのか。また合宿中に殺される秀山はどういった理由で殺害されるに至ったのか――というあたりに不可能趣味は薄い。そのポイントとなるはずの、登場人物にまつわる伏線がちょっと薄すぎるように思うのだ。いわゆる音引きの”ミステリー”らしい作品だといえるだろう。
ただ「作者のやりたかったこと」のうち、少女期を脱して女へと成長する「微妙な女性心理の変遷」を描く点については、本書は大成功しているといえるだろう。また、恐らく最初から構想に乗っていたのではないかと思われる、ある事件の内田流の解釈もまた(説得性よりも虚構性があまりにも強いとはいえ)それなりに興味深いものと思われる。ただ、見どころがそちらに傾斜しているが故に、ミステリとしてよりもドラマとしての味わいを活字から味わったという印象の作品。

本書のあとがきには歴々の本格ミステリ作家(土屋隆夫・鮎川哲也・佐野洋ら)の眼を意識して執筆している、とある。だが、彼らが興味を持つであろう、ミステリ部分についてはいかにも弱い。実際に彼らが取り上げたという話も聞かないので、本書は内田流の人間ドラマとして、当時も味わわれたのではないかと思う。そして、現代読んだとしても、読者の皆さんは似たような感想を抱かれるのではないだろうか。