MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


04/02/20
三津田信三「蛇棺葬」(講談社ノベルス'03)

ホラー系作品の編集者とも活躍していた三津田氏は『ホラー作家の棲む家』『作者不詳』と講談社ノベルスにてデビューし、着実にその不思議な世界を読者に伝えている。本書は氏の三冊目にあたる作品であり、聞くところによればこの後刊行されている『百蛇堂 怪談作家の語る話』とリンク……というより二冊で一つの作品として捉えるべきだとのこと。

私こと美乃歩は五歳の時に、奈良県の旧家で父親の実家である百巳家に入った。私は「妾の子」として家のなかで冷たい仕打ちにあい、義母は全く彼のことを構わず、惚けかかった祖母に虐待されるという孤独な毎日を送っていた。その私の心をただ一人癒してくれたのは、私同様、家のなかでひっそりと暮らし誰からも無視される立場にあった民というお婆さんであった。民はさまざまな話を私にしてくれた。私はそんななか、家では禁忌とされる百蛇堂に迷いこみ、何か得体のしれない存在に這い寄られるという恐怖体験を味わう。私は他の子供たちと禁忌とされる〈百々山〉に登る計画を立てていたが、そのさなかに祖母が死に、民の指示によりしきたりに則った複雑な手順の葬儀が行われることになった。百蛇堂はその際に使用される施設であった。しかし喪主である父は祖母の遺体とともに百蛇堂に入ったまま、行方不明となってしまう。……それから三十年、成長して再び百巳家に戻ってきた私は、義母の死に立ち会うことになり、恐怖の記憶が残る百蛇堂に自らはいることになる……。

民俗学の該博な知識に裏付けられた本格ホラー・ジャパネスクに、密室消失の謎が込められる
これまでの作品と異なり、作品内にこれまでの作品で主人公として活躍(?)してきた三津田信三が登場しない……ということが、既に何かを予感させたしまったりする訳だが、序盤から淡々と語られる一人称部分による”場の構成”が絶妙に巧い。日本語に対する独特のこだわりある地の文章に加え、更に徹底されて使用される「……け」という語尾を強調する方言。子供に対して容赦なく浴びせかけられる旧家の風習と人々の考え方からくる非道い仕打ちの数々。そして、その彼らをして恐れさせる、一連の蛇にまつわるイメージ……。多少、重苦しすぎるきらいもあるが、前半部における物語の背景設定のあたり、「何かいる」ような恐怖と、その恐怖によって培われている土俗的な雰囲気が積み重なり、日本ならではの恐怖小説を演出する土壌がしっかりと描かれている。今となって客観的に書いているが、読んでいるあいだこちらもまたちりちりとした恐怖を感じさせられていた。怖ぇーーーって感じ。
細かなエピソードを積み重ねつつ、その肝心な部分を決して描かないという方法によって恐怖を感じさせつつ、物語の求心力を高めている。特に暗闇のなかでの恐怖を描き出すことに作者は長けている。恐怖感が目一杯盛り上がるクライマックスごとの場面の切り方が実に印象的。特殊な”場”を事前に巧みに造り出してあるがゆえに、場面が生きている。
そして、本作には百蛇堂という特殊な舞台装置における人間消失も登場する。こちらは本格ミステリとしての要素を満たしており、その演出も凄まじいが解決もかなり強烈なものを感じる。特に、この作品で積み上げきた様々な要素が、事件の動機や方法にきっちり絡めてあるのはセンスだといえるだろう。蛇やその他、恐怖を喚起させる要素をミスリーディングにして得られた結論は、別の要素と絡んで淡々としているものの、かえってその行為の残虐性と狂気が強調されている。アイデアそのものが突飛ということはないのだが、やはり”場”が機能しているがゆえに印象に残るトリックといえるだろう。

そして何よりも……この謎が解けても、いくつもの残された謎を置いてあることがポイントである。こうなると、次作を読まない訳にはいかないじゃないですか。本書単品では、ホラー小説としての重みが勝ってはいるものの、そのトリックと解決も本格ミステリファンを納得させられるだけのレベルに至っている。……とはいっても、どちらかといえばホラーの面白さを解する読者向きではあるか。


04/02/19
山田正紀「サイコトパス」(光文社'03)

『小説宝石』誌の'01年1月号より'03年2月号にかけて掲載された同題の作品に加筆修正が加えられて刊行された作品。作者自身のあとがきで「著者の好きな作品です。多少は自信もあります」とあるが、確かにちょうど山田正紀がこれまで描いてきた興味の集大成のような作品といった印象。連作短編集の体裁を取りつつも、実質的には長編と分類すべきか。

「援交探偵・野添笙子シリーズ」という作品を著し、女子高生作家として知られる新珠静香は三十六歳。実は著者近影に使用しているのは十六歳になる娘の晴香であり、その晴香は家出をしてしまって行方不明となっている。彼女は神奈川県にあるR拘置所を訪れていた。あまりに猟奇的なために公表されないという重要事件を起こし、限りなく死刑に近い無期懲役にて収監されている水頭男(すいずつお)という人物と面談するためである。彼は、行方不明となった晴香の行方を捜すかわりに、あることを彼女に依頼したいのだという。水頭男の示唆により静香は娘のことを解決し、再び拘置所を訪問する。水頭男は「ぼくはバラバラ死体にされてしまいました」といい、彼女に腕や足や頭を探して欲しいのだといいだす。まず、彼女は車を運転しながらトンネル内で耳を切り取られて死亡したという謎の事件を追うことになった。被害者は耳姦春男(みみかしがましはるお)という名で、水頭男の”耳”なのだという。彼女のパートナーに水頭男が抜擢したのは、彼の”目”だというアイと名乗るスキンヘッドのオカマであった……。

これは、実験なのか完成なのか。山田正紀の紡ぎ出す物語の、そして精神の迷宮へようこそ……
これもまた山田正紀氏自身によるあとがきからの抜粋だが「「サイコトパス」はサイコ・スリラーであり、ニューロティックなサスペンスであり、広義な意味でのミステリーであり、アクション小説でもある」と本書について述べている。アクション小説のくだりはどうかとも思うが、まっこと不思議なエンターテインメント作品であることは間違いない。いくつものメタフィクショナルな枠組みに囲まれ、作中作のミステリ短編は現実と同一化し、本来の作者である筈の新珠静香と、娘の新珠晴香の存在が曖昧になり……、と、一読しただけでは作者の真意を読みとるのは容易ではない。だが、断片に本格ミステリの味わいを鏤め、かつ壮大な構想が微妙に尻すぼみになりつつ、最後の最後に謎を残して締めくくるなど、山田正紀ワールドが満喫できる作品であることもまた間違いない。
個人的に頭に思い浮かべたのは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』である。狂人に対する実験をモチーフとして精神の迷宮を描き出した昭和の三大奇書の一つと、この『サイコトパス』は微妙に共振しているように感じられてならない。人間精神の揺らぎであるとか、不確実さを、何者かの大いなる意志によって翻弄される主人公が味わわされる恐怖感。一見完結する個々の断片的エピソードにて読者の興味をがんがんに引き付けつつ、より大きな謎を形成していく手腕。精神という謎に対する山田正紀の尽きない興味がこの作品を造り上げている。また、わざと説明を省くことによって読者の想像力をさまざまな方向に伸ばし、結果的に強烈なリドル・ストーリーとなっている点も特徴であるといえよう。
ミステリファンとしての視点で捉えると、個々の謎が強烈にして鮮烈なのが印象深い。トンネルの出口で首をすっぱり切断されて死亡するドライバー、『赤後家の殺人』をモチーフとした密室殺人事件、手術室内部の人間消失……等々、いわゆる不可能犯罪ミステリが目白押し。その解決も鮮やかであり、今やミステリ界でも重鎮となった山田正紀の凄さをここでもかっちり味わうことができる。ただ、少なくとも本書についていえば、その個別のミステリ作品の断片が積み重なることによって、更に強大な謎を縦横に織り込むという離れ業を演じている点にも触れないわけにはいくまい。現実離れした設定をも随所に織り込みつつ、最終的に精神の謎を描き出している。読み終えて溜め息。恐らく作者の企ての全てを読解しきれていない自分の読みの浅さに自己嫌悪。山田正紀の凄さをまたまた深く感じ入る一冊となった。

なんというか、物語が圧倒的である。作者自身が上記の通りいろいろな形容をしている通り、本格ミステリとかスリラーであるとか、細かいジャンル分類が可能でありつつ、一つのジャンルに安住することを峻拒する作品。山田正紀氏の良い意味での”独りよがり”が、物語の凄まじいスケール感と混迷感を強めるのに役立っている。なんというか、内容は探偵小説であるのに、読後感はホラー小説を読んだかのような気分。今、こういった作品を産み出せるのは山田正紀しかいない、ということのみが確実な現実か。


04/02/18
鯨統一郎「タイムスリップ明治維新」(講談社ノベルス'03)

'03年に八冊もの作品を刊行した鯨氏。量産がきくという才能もまたセンスの一つ。一つ一つの作品が軽めなのは否めないが、その分気軽に手に取れるのは有り難い。本書は題名の通り『タイムスリップ森鴎外』に続いて、登場人物を同じくするシリーズで講談社ノベルスでは二冊目となる長編。

以前にタイムスリップしてきた森鴎外を現在に迎え入れた女子高生・麓うらら。彼女たちは鴎外が明治時代に帰還したあと、大きな変化こそなかったものの、現代の歴史の教科書が微妙に変化したことに気付いていた。麓うららが自宅で入浴中、親友の三須七海とそっくりの顔をした人物が彼女を襲おうとし、何か不思議な液体を飲まされた。……そして、気付くとうららは、日本家屋の一室で目を覚ました。彼女の前に立つ二十代の若者、彼は桂小五郎と名乗った。なんと、今度はうららの方が明治維新前夜の日本にタイムスリップしてしまったのだ。外に出たうららはならず者に襲われそうになるが、彼女の窮地を救ったのは、本来フィクションの人物のはずの森の石松を名乗る人物。なんと彼は、二十五世紀の統一執行部の実行委員でもあるのだという。この時代に潜り込み、勘定奉行・小栗上野介となっている人物が、同じく二十五世紀からやってきた宗教団体幹部で大悪人なのだという。小栗は、歴史を大きく改変してもとの歴史へ戻らない世界を造り上げようとしているのだ。彼らと、同様に未来から来た剣客・剣崎薔薇之介は、史実通りに明治維新が実行されるようにするため、奔走を開始する。

明治維新の全体図を描く壮大な構想を、ノベルス一冊に注ぎ込んだがための急いだ展開。そしてこれも鯨統一郎
……相変わらずというか、これこそ鯨統一郎というか。明治維新の一部ではなく、全体を一冊に取り込んでしまう貪欲さがすごい。お馴染みタイムスリップで、今度は過去の人が現代を訪れるのではなく、ヒロインが過去に放り込まれるという設定。しかも、明治維新を阻止する勢力に対して、なんとか明治維新を史実通りに成功させようというストーリー。このストーリーにせんがための、いろいろな設定(例えば、歴史がある程度以上改変されると元に戻らなくなるとか)については、もう力技であり、コメントのつけようはない。とにかく、明治維新における有名無名問わない重要人物や重要事件に対して、主人公たちが関与しまくるのである。
一応は、『邪馬台国はどこですか?』の一短編のセルフオマージュというか、続編という見方もできるかもしれない通り、その作品で述べられている「明治維新の黒幕は誰?」というテーマが本来は謎の主流。だ、本書だと、ヒロインたちが黒幕そのものになってしまうため、事実上その謎は無効化されてしまっているような。明治維新の立て役者たちが鯨氏の史観をベースとしてユニークにキャラクタライズされており、その発言や行動は面白い。これに浮世離れした麓うららや剣崎薔薇之介といったキャラクタを絡めることにより、歴史上の重要事件が目撃できる面白さもある。ただ、重厚な歴史文学好きの人や、時代考証命といった方々からすればもちろん、普通の幕末フリークの人からしても噴飯ものである描写・内容であることも確かなので、単純に歴史エンターテインメントとして楽しむべき作品だといえるだろう。 また、これもまた鯨作品でよくみられるのだが、本書でもなんというか安易にヒロインを薄っぺらいセックスに走らせる部分はちょっと違和感があるなあ。

本文の最終が246ページの厚みにして、万延元年から官軍の江戸城入城までを一気に描く。さらに改行の多い文章ゆえに、題材に釣り合うだけのボリュームがない。(この量でこれだけの題材を描ききることを褒めるべきなのか)。 とかく斬新なアイデアが魅力の作家ではあるのだが、本書でもまたやってくれた、という感。


04/02/17
新庄節美「修羅の夏」(東京創元社'04)

副題は「江戸冴富蔵捕者暦(えどにさえしとみぞうとりものごよみ)」、とある通り本格ミステリの指向が強い捕り物譚。クライム・クラブの一冊として刊行され、若竹七海さんが解説を書いている。新庄氏は、児童ミステリ「名探偵チビー」のシリーズを著しており、一部に熱狂的ファンを持つ作家ではあるが、本書が一般向けでは初のミステリ作品となる。

南町奉行所の同心・門奈弥之助の手先である、わらびや清五郎の下っぴきとして働くのが二十四歳になる富蔵。彼は訳があって、商家の跡目を継ぐはずであったが、清五郎の下で働いていた。弥之助には冴という目の不自由な一人娘がいて、富蔵は長い間、彼女の守り役として働いてきたが、冴に女性を感じるようになって疎遠になりつつあった。一方の冴は、無邪気に富蔵のことを待ち焦がれる。そして、冴には思いも寄らない推理の才能があった。
商家の御隠居が離れの二階で殺害されているのが発見される。窓は開いていたものの、屋根から出入りした形跡はない。また階下をたまたま見張っていた小女の証言により、二階に上がった者は誰もいないという不可能状況が発生していた。弥之助は現場の状況から、ある解決を提示するが、その解決の間違いを指摘したのは何と冴であった。 『隠居殺卯月大風』
暴力的な夫から逃げて暮らしていた母娘。しかし彼女は娘を残して首を吊った死体となって発見された。自滅として処理されかけたが、富蔵は現場の状況に不審を抱き、彼女のもとを訪れたという三人の男の証言を照らし合わせる。 『母殺皐月薄雲』
隠居していた商家の後家が鉈で頭を割られて殺害された。用心棒格の老人が霍乱で寝込んでいた最中の凶行。ただ、用心棒が役に立たないと知る人間は限られている。鉈はなぜ庭内部で移動していたのか。富蔵は手伝いのかたちで、この捜査に付き合い、ある決め手を獲得して犯人に迫ろうとするが……。 『後家殺水無月驟雨』 以上三編。

江戸時代という舞台と、捕物帖という雰囲気を被った、時代安楽椅子探偵ミステリ
まだサンプルが三話しかなく、それほどバリエーションはないのだが、本書の題名が暗示している通り、殺人事件が発生し、富蔵らが捜査に乗り出し、その話を聞いた冴が、真実を述べる……というのが骨格となる構造。これに江戸時代ならではの風物や土地、さらには人間関係といったところが彩りとなって物語に加えられ、厚みを増している。
大きな印象でいえば、ロジックに淫した本格ミステリであるということがいえようか。つまり、事件発生後に富蔵が様々な事実とつかんで、そこから導き出される論理が最初の答え。しかし、最終的に冴が事件の様子を富蔵から聞くことによって、その提示された論理がものの見事に別の論理によってひっくり返されるのだ。 この”反転”の手際がいい。現場に出ることのない冴を探偵役とした安楽椅子探偵もの、ということは確かにいえるのであるが、実際はその前に既に提出された手掛かりによって(結果的に偽の)真実が提示されている。これを別の角度からの論理を用いて、全く別の真実を取り出す……。作者にしれみれば二重の手間のかかった労作なのである。
特に、二話目、娘のために父親候補たちを脅迫して大金を作った母親が謎の死を遂げる話。このロジックも鮮やかではあるのだが、最後に作者が提示するハッピーではあるがどこか悲壮感漂う真実など、叙情感も高い。江戸の風物や雰囲気もよく出ているし(指摘されるほど硬いとは思わなかった)、悪くないと思う。ただ、主人公側で登場する主要な人々にそれほど厚みを感じなかった点は事実(幾人かの登場人物には逆に存在感があったりもするが)だし、ロジックのための伏線が見え見えであったりするところは今後改善していく余地もあるだろう。

ただ、やはり本書の本質は、捕物帖でも人情譚でもなく、江戸の風物詩が主人公となることもない、本格ミステリであるという点に尽きると思う。時代ものの雰囲気が苦手という方でも、本格ミステリのファンであれば読む価値がある。解説で若竹さんが御指摘の通り、今後作品数を重ねていくことによって良シリーズになる予感がある。


04/02/16
竹本健治「闇のなかの赤い馬」(講談社ミステリー・ランド'04)

「かつて子供だったあなたと少年少女のための――」というキャッチコピーにて'03年7月より開始された、シリーズの第3回配本分。竹本氏にとり、ミステリでは久しぶりの書き下ろし長編ということになる。ただ――、あとがきで竹本氏自身が「いつものように書きました」と述べている通り、子供向けが意識された作品ではないように思う。

明治時代から続いている聖ミレイユ学園。その厳めしい名称にかかわらず、単にくっちゃべるだけという汎虚学研究会というサークルを立ち上げたのはタジオとマサムネの二人。なぜか新入りが部長となる伝統から、僕こと室井環がその役割を務めている。ある日、放課後に部室で喋っていた三人は、雷が近づいてきていることに気付く。雨が激しく降り出した校庭では、浮世離れした女生徒でサークル員のフクスケが運動場を横切っていた。そこに突如落雷が落ち、フクスケの横にいたウォーレン神父が直撃を受けて死亡した。突然の事故に沈む学校。しばらくして明るさを取り戻しつつあったが、環らの住む学校寮はなぜか引き続き重い雰囲気が支配していた。寮生にとってアイドル的存在であるツバサもまた元気のない一人。環はそのツバサのことが気に掛かる。ある晩、夜中に目が覚めた環は、部屋から見える寮の地下室の灯りが点いていることに気付く。探偵を志すフクスケはそのことに興奮し、監視を言いつけるが、その後何も起こらない。そして、学校に勤めている神父の一人、ベルイマン神父が密室となったサンルームのなかで、謎の焼死を遂げているのが発見される。フクスケはこれを他殺とみて、周辺を調べ始める……。

到底子供向けとは思えない。トンデモなトリックミステリ+容赦ない動機が不思議な感覚を引き起こす
キリスト教系の学園で男子のみの寮がある。主人公は男の子で、寮内のアイドル的少年のことを気にしている……と、当初より”やおい”っぽい雰囲気が満点。大体が(一応)清く正しい少年少女向けを標榜した本レーベルのなかにおいて、本書はこういった物語設定を作った段階で異端を決定づけられているような印象。恩田陸描く学園ものなどにみられる、微妙な不健全さが本作からも感じられる。
ただ、本書はそういった学園ものによくみられるロジック中心ではなく、トリック中心の構造を取っている。ミステリ(特に殺人トリック)としてはオリジナリティがかなり高いもので、読んでいるあいだ全くトリックの真相の想像が付けられなかった。校庭への落雷で最初の被害者の神父が死亡する、というのは自然現象なので仕方ないが、その次の死体が強烈な謎を喚起するのだ。鍵が内側にある密室のサンルームで、他に燃えるものなど見あたらないにもかかわらず、被害者が焼死体となって発見される。ミステリ部分としては、この謎が中心となるのであるが、この方法がもの凄い。(作品中でも検討されているけれど、いわゆる球雷現象などではないからね、念のため)。特にこのハウダニットのハウが明かされた後に浮き上がる犯人、そして動機などについては、意識してなのかそうでないのか、かなり強烈なインパクトを持つ。ジュヴナイルというレベルでは、少なくともない。細やかな伏線、大胆な方法、そして驚愕の(特に本書のレーベルという意味では)動機。全てが、オトナの本格ミステリファンを唸らせるだけのレベルを誇る。
また、表題にも使用されている「闇のなかの赤い馬」のイメージにも注目したい。これまでの竹本作品で築かれてきた幻想的イメージが、本書でもかたちこそ変えているものの効果的に使用されているのである。こういった表現において竹本氏が読者に提供する眩瞑感覚は、氏の往年のミステリ作品と、内容はとにかく作品イメージとしては確実に通底されられているように感じられた。ただ、登場する人物たちの個性に今ひとつ厚みが少なく、また登場人物自体も物語全体のバランスからすると少し多いのではないかとも思った。ただやはり、このトリックは凄いよなー。

オトナの本格ミステリファンが読んでも十二分に鑑賞に耐える作品。もう少し分量があっても良いようにも思うが、不思議な雰囲気を出すことには成功しているし、逆にシンプルさがポイントなのかもしれない。子供騙し、ではなくオトナ騙しを竹本氏は実行してしまったという印象。この強烈な真相の部分を読了後に、本書が合う、合わないは個人が判断すべきのような気がした。
最後になるが、本書の巻末に「竹本健治の本」として幻影城版の『匣の中の失楽』の書影が掲載されているのにちょっと驚いた。(私の所持している同書には帯がないんだよなー)。


04/02/15
長尾誠夫「源氏物語人殺し絵巻」(文春文庫'89)

'86年、第4回サントリーミステリー大賞の読者賞受賞作品。この回の大賞は苦節数年、黒川博行が『キャッツアイころがった』にて獲得している。長尾誠夫氏はこの後も時代ミステリや時代小説を中心にいくつかの著作があるが、少なくとも近年は、氏のサイトを見る限りは教育者としての側面を強く押し出されているのではないかと推測する。

桐壺帝の御世。右大臣の娘である弘徽殿とのあいだに帝は一子をもうけてはいたが、その愛情は桐壺更衣のもとへと注がれていた。その桐壺が男の子を生した。だが、その彼女はは、親の身分が低いゆえに後宮での後ろ盾もなく、他の女御や更衣から陰湿な苛めに遭っていた。帝は妻である中宮をまだ誰にするか決めておらず、桐壺はわが子を護りたいがために、帝に弘徽殿を中宮に選ぶよう進言することを決意、夜中に清涼殿へと向かった。しかし、桐壺は弘徽殿の仕掛けた毒針にて足を傷つけられ、その晩、帝の前で命を落とす。……その赤子は成長し、光源氏と呼ばれる美しい若者へと成長した。帝は弘徽殿の産んだ子供を皇子に据え、その外戚である右大臣が権勢を誇っていた。権力の座を凋落しつつある左大臣の庇護にて育てられた源氏は、権力には興味がないといい、色遊びにうつつを抜かす毎日。しかし、その彼が愛した女性が次々と謎の死を遂げるようになった。源氏と幼なじみであり、彼に和歌や漢籍を教えた若き才女・紫式部は、源氏の義兄にあたる頭中将と共に、その謎を追及する。

優雅な物語文学と歴史文学とを融合した舞台。その裏には人間の欲望が渦巻くという単純にて残酷な真実
最近では、鮎川哲也賞を受賞した森谷明子『千年の黙 異本源氏物語』とがあり、本書の以前には、岡田鯱彦『薫大将と匂の宮』がある通り、この平安時代の、かつ源氏物語を基調としてミステリを構成しようという試みは、非常に多いとはいえないものの何年かおきに定期的に世に出ている感がある。おそらくこの「源氏物語」というのが、作家にとって魅力的なテーマなのだろう。本書はそれら他の作品に比すと、原本重視というよりもフィクションの度合いをかなり高めている印象。というのは、源氏物語の登場人物や時代がベースにこそなっているものの、実際に執筆された内容からはかなりの逸脱があるからである。
その結果、意外な効果が得られている。浮世離れした源氏の登場人物に血肉を加えるのみならず、普通に暮らす人間以上にぎとぎとした欲望を彼らに与えることで、普通のミステリとしての面白さ以上にポリティカル・フィクションめいた味わいが出てきているのである。確かに、いくつもの殺人事件が発生し、そのなかの一つは、人々から遠く離れたところで祈祷していた老婆が首を矢で射抜かれて死んでいるのが見つかるものの、それを為しえた人物は誰一人としていないという不可能犯罪。だが、その魅力的な謎でさえ、犯罪のハウダニット的興味よりも、誰が何の目的で、という別の側面が強調されているように思える。ただ一方、原典の興味から本書に入った読者にとってはかなり戸惑いがあるかもしれない。ある意味、かなり徹底しての原本無視の姿勢が裏返しにあるし。
応募された賞の性格上、本書がミステリであるのはもちろんだし、終盤に事件の構図は相次いで反転を見せる。(個人的には最後の方は「ここまでしなくてもいいんじゃないの?」という気もしたが)。その結果、得られる感覚は冷え冷えとしたものがあり、サプライズ以上に虚しさを覚える。これはこれで良いのだけれど、その分、ちょっと人に薦めづらいような微妙な印象となってしまった。

基調となる筆力はしっかりしているし、この時代を手の内に入れるだけの実力は持っている作家。ただ、当初は平安時代ならではの雰囲気を持っていた作品が、徐々に殺伐としていく展開には好悪が分かれるところであろう。国産平安ミステリの制覇のためには避けられない作品ではある。


04/02/14
高田崇史「鬼神伝 鬼の巻」(講談社ミステリー・ランド'04)

「かつて子供だったあなたと少年少女のための――」というキャッチコピーにて'03年7月より開始された、シリーズの第3回配本分。これまでの著書全てが講談社ノベルスであった高田氏にとり、初のハードカバー作品ということになる。また、この作品は、次回配本の『鬼神伝 神の巻』に続く、事実上の上下巻作品になるのだという。ちなみに題名は、「おにがみでん」と読む。

京都の中学校に転校してきた天童純は、その日学校の問題児たちに追いかけられて逃げ回るうち、東山の奥深くにある「不二王寺」という古ぼけた寺に迷いこむ。その寺の和尚で密教僧という源雲が、純を介抱してくれるのだが、その彼により平安時代にタイムスリップさせられてしまう。時空を超えた彼の前に立っていたのが直垂姿で腰に長刀を差した少年。彼は源頼光と名乗り、王城警護の武士なのだという。純を待っていたという頼光は、京の都を案内し、殿上人の前に純を差し出した。純が来ることは分かっていたらしい彼らによれば、胸に勾玉のかたちに痣を持つ純は、彼らが戦う「鬼」と戦う運命にあるのだという。戸惑う純であったが、彼は確かに封印された龍・オロチを復活させてしまう。しかし「鬼」というのもどうやら人間らしいと気付いた純は、自分がなぜ戦わなければならないのか思い悩む。そういうあいだに鬼は都を目指して攻め込んできており、自分のことを気に掛けてくれていた殿上人・麻呂が不可思議状況で殺害されるに至り、純は戦いに身を投じる決意をする。

なぜ歴史や物語上、人は「鬼」と戦ってきたのか。「鬼」とは何者なのかを問う伝奇ストーリー
筋書きだけを取れば、平安時代にタイムスリップした現代少年の主人公が「人」と「鬼」の戦いに翻弄されるという伝奇物語。なので、ミステリではないじゃない? と短絡的には考えないで欲しい。この物語を通じて、恐らく高田氏は「鬼」という存在の謎、数々のお伽話の真実、そして歴史上の謎を、高田氏なりに解明していこうとしている。従って本書は、広義の歴史ミステリーとして解釈することが可能な作品なのである。
惜しむらくは、先に高田氏は自身のメインシリーズでもある「QED」にてこの主題を使用しており、そちらを読んでいる方であれば、その歴史ミステリーとしての”解答”を既に知っていることになる。とはいえ、アプローチを変え、対象とする読者を変え(この点は実は怪しい)て、また異なる物語に仕立てあげており、エンターテインメント性が損なわれているとは感じなかった。寧ろ、こういったアプローチの方が、高田氏が主張する”解答”が、更に身近なものとしてずしりと響くかもしれない気もする。
タイムスリップのみならず、やはり伝奇のアプローチゆえに荒唐無稽な物語であるとはいえる。龍に人が乗り空を飛び、異形の化け物が世界を席巻し、日本の各地には桃源郷がある。だが、本書でも述べられている通り、歴史として残っていることだけが真実とは限らない。極端な言い方をすれば、こういった日本が存在していてもおかしくはない。(ちょっと無理があるにしても)。ただ、その荒唐無稽さゆえにダイナミックに展開する物語が、小難しい理屈とは別の、少年の成長譚かつ冒険譚として単純に読むことができるという点は、素直に評価しても良いのではないか。「かつて子供だったあなた」がどうも強調されすぎているきらいのある、このミステリー・ランドというシリーズにおいて、本格的に「少年少女」のためのをきっちり重視した作品が並ぶということは、それはそれで大切だと思うのだ。

上下巻の「上」の段階でしかないのであるが、一応は完結している。ただ、この後、残された登場人物が再登場してくることは必定であるし、歴史の書き換えがなされるのかどうかや、「人」と「鬼」の戦いの行く末など、下巻に対する興味も尽きない。こちらを読んでしまった以上、間違いなく「神の巻」まで手が伸びることは、もはや必然。刊行が待ち遠しい。上下まとめて一気に読むのもいいかも。


04/02/13
岡嶋二人「熱い砂 パリ〜ダカール11000キロ」(講談社文庫'91)

乱歩賞出身のユニット、岡嶋二人の最後の創作は『クラインの壺』であることは有名(とはいってもほとんど井上夢人氏が単独執筆したものに近いという)であるが、この名義で刊行された最後の作品が、ノンフィクションである本書。『週刊ポスト』に連載され、コンビ解消後に、本文庫オリジナルで発表された。

ミステリ作家の岡嶋二人(井上夢人・徳永諄一)は、主催者であるパイオニアの依頼によってプレス・チームの一員として第11回パリ〜チュニス〜ダカールのラリーレース(いわゆるパリダカ)に随走参加した。初のアフリカ訪問、初のラリー見学。二人は大量に必要とされる予防接種をこなし、やって来たのはスタート地点にあたるクリスマスのパリ。パリダカは、順次スタートし、日中走って夜は整備というサイクルをこなし、終着・ダカールに到着するまでの合計タイムを競い合うレース。岡嶋二人は、交代で一人がプレス・カーによってコースを移動、もう一人は飛行機に乗り、ポイントポイントに先回りするというシステムを決める。その豪華なスタート、各地での歓迎、レースから外れるプレスチームなど、波瀾万丈の一万一千キロ、そして二十日余りのアフリカ体験が瑞々しく語られる。

レース記録というより岡嶋二人のアフリカ漫遊記の様相。パリダカに興味がなくとも、素直に面白い
恐らく他にも同様の方がいらっしゃると思うのだが、傑作多く外れの少ない岡嶋二人作品は読んでいても、ノンフィクション、かつ車のレースの話ということで、本書を実は未だに手にとっていない……ということはないだろうか。私もそのクチであり、それほどカーレースに興味が深くないがために、長い間積ん読のまま放置していた作品である。勝手な先入観でいえば、ラリーカーに関する詳細な情報や、一位争いのデッドヒートが延延と書かれているのではないか……と、思い込んでいた。それが、全然違うのだ。どうしても目が行く副題で、パリダカ記録のように思われ勝ちのこの作品、実は「熱い砂」が本命。つまりは、岡嶋二人という作家の初アフリカ旅行記といった方が正しい
そして作家としての感性が光る。通常の旅行記とは目の付け所が微妙に異なっており、観察対象やエピソードの拾い方が実に巧い。実際、暴走する素人でしかないプレス・カーのドライバーに翻弄され、本来の取材ができていないという要素が実に大きいのだろうが、初めての土地における、その土地でしか味わえない感動が素直に伝わってくるのだ。数多くある写真もそのイメージを助けてくれるとはいえ、それも文章でそれを伝えられる手腕があってこそ。自然だけではない。その国に住む人々や、実際の体験も、また新鮮。さりげなく背景に込められる文明人の驕りや、日本人の狭小な考え方など、いろいろ考えさせられたり発見したりする部分も少なくないし、そういった表現にあまり嫌味がないというのも素晴らしい。もちろん、彼らが取材できた範囲で、パリダカという過酷なレースの現実も伝わってくる。新聞のスポーツ欄の端っこで目にしてきたパリダカ日本の雄・篠塚の偉大さということも、本書を通じて改めて感じた次第。

単純に本書を読んで「ああ、アフリカに行ってみたいなあ」とまでは正直感じていないが、遠く離れた彼の国がほんの少しだけ身近に感じられるようになったことは事実。実力作家のノンフィクション作品の持つパワー、そして面白さを感じないまま放り出しておくのは惜しい。少なくとも、岡嶋ファンを自認する方であれば、読んで損は全くない。


04/02/12
吉津 實「ハードボイルド志願」(ソノラマ文庫'81)

吉津氏はフリーのコピーライターの仕事をするかたわら創作に関わっていた(と紹介されている)。本書はソノラマの「推理」レーベルであったので何気なく読んでみた作品だが、他、吉津氏は同文庫でSF系作品『宇宙翔る虎』や、石ノ森章太郎原作の『宇宙巨艦フリーダム』があり、他ノベルスでもSF作品を刊行している。

恋人の要求により、私立探偵を開業している邦一也。彼は知り合いの尽力にて久しぶりの仕事にありついた。広告代理店への入社が決まっている私立大学生・黒川慎二の素行調査であった。意気揚揚と仕事に就く一也であったが、一週間の調査期間のうちの二日目にして、一也は早くも黒川の姿を見失ってしまう。実家が裕福な黒川は、調査初日、六本木に繰り出し、売り出し中のファッション・モデルである一ノ瀬レナを口説き、ディスコで米兵風の外国人二人と親しげに振る舞っていた。しかしその晩、帰宅したのかどうかよく分からないまま行方不明となってしまったのだ。依頼された調査は失敗したものの、恋人の亜沙美の励ましとハッパにより、黒川の行方を独自に追う一也。しかし、富士山麓の樹海で、黒川のものと思われる遺品が発見され、彼は自殺したものと思われた。黒川は自殺願望があり、遺書を常時携帯していたという話もあるなか、一也は恋人の話から、彼は殺されたものと感じ取る。どうやら、その裏側には麻薬取引が絡んでいるらしい。調査を続ける一也に謎の組織が襲いかかり、彼はその確信を強めた。

海外産ハードボイルドの奇妙な模倣。時代感覚のズレを微妙に愉しむ
先に結論を述べておくと、一部の好事家以外が手に取る必要は全くない作品である。ソノラマ文庫のハードボイルド作品というのは多少珍しいかもしれないが、いろいろな意味で中途半端となっており、このまま時代に埋もれていくのはやむを得ない作品だと感じた。
筋書きは、いわゆる私立探偵系統の王道ともいえる「人捜し」。企業人事部から依頼を受け、しかもその相手が失踪することから話しが多少込み入るのであるが、ヒントを貰いつつ次のステージに行くという黄金パターン。ただ、主人公がどうにも薄っぺらいため、本来この手の作品にあるべき重みが、単なる奇妙なかっこつけに見えてしまい、非常に格好悪く見えてしまう。恋人の勧めで探偵になった若者が、かっこつけた警句を吐いたところで感心するところなのか笑うところなのかの判断が読者にもつけづらいのである。また、麻薬取引というテーマ自体をどうこういうことはないが、取引方法が稚拙だし、米国人とのやり取りも「英語がダメ」という主人公の設定ゆえに迫力に欠ける。主人公がそれなりに喧嘩慣れしているという設定も都合良いし、車やバイク他、小道具に対するこだわりも真性のものではなく、表層をちょろちょろといじくりましたという薄さが透けてみえるし。ソノラマ文庫という媒体のせいもあって、ラブシーンだけがラブコメレベルというのは、何か哀しささえ感じる。
強いていうならば、死体の隠し場所と、主人公らが入り込めないその場所を明らかにする手段についてはそれなりの工夫が感じられた。ただ、それも時代の経過と共にリアリティを(少なくとも東京近辺では)喪いつつある。そして何よりもディスコほか、文章に氾濫する当時の若者言葉の妙が、今となっては微妙なおかしみを誘ってしまう。少なくとも「レナさんはナウい男の人と一緒でしたよ」なんて文章は、なかなかお目にかかれるものでもないだろうし。

やはりソノラマ文庫という媒体に本格ハードボイルドは似合わない。これが軽ハードボイルドを最初から指向していれば、また異なる展開になったものと思われるが……。対象読者と作者の思惑とのあいだのミスマッチを無理に埋めようとした、哀しい結果を見せつけられているように思えた。


04/02/11
笹倉 明「漂流裁判」(文春文庫'91)

'88年、第6回サントリーミステリー大賞の大賞受賞作品。この年の読者賞を獲得したのが樋口有介の『ぼくと、ぼくらの夏』である。笹倉氏は、『海を越えた者たち』にて第4回すばる文学新人賞佳作にてデビュー。その後、本章受賞を経て『遠い国からの殺人者』によって第101回直木賞を受賞している。

弁護士の深水は一審判決で有罪を宣告されたレイプ事件容疑者の弁護を引き受けることになった。被告人は紺野喜一。彼は喫茶店でウェイトレスをしていた19歳、中山知子の処女を脅迫によって奪ったということになっていた。しかも彼には同種犯罪の前科があり、当時、自分が社長であるかのように身分を詐称していたという。だが、紺野は無実を主張。知子との行為はあくまで合意のうえでのものなのだという。深水は事実関係を調べ出すが、確かに知子の発言には不自然な点も多く、誣告ではないかという疑いが持たれた。それならば、なぜ彼女はわざわざ親告罪であるレイプを裁判にまで持ち込んだのか? その背景を深水は検討、中山知子という人物像に迫るべく、彼女が働いており、事件発生のきっかけとなった喫茶店に出入りするようになる。

ミステリというより犯罪を通した人間模様。文学的滋味が評価されたか。
最近でも、電車内で痴漢を働いたということで逮捕された男性が、実は全く無実であり、嘘を並べ立てた女性と周囲の思い込みとによって被害を受けたというような記事を読んだ。性犯罪は卑劣であり許してはならないという点については異論はないのだが、その手続きの難しさについては色々と考える。「していない」ことの証明は簡単ではない。
本書の場合もまた、そういった点から人間心理に切り込んだ物語。なぜ、被害者はわざわざ告訴したのか。なぜ加害者は有罪とされてしまったのか。裁判だけでなく、徹底した周囲からの情報収集を通じて、人間心理の謎に迫る。特に、被害者がわざわざ事件を表沙汰にしたのか、というあたりについては何重にも重ねられたベールが少しずつ剥がれていくことによって明らかにされるのであるが、その考察が秀逸。ただ、それだけでなく、最終的な裁判の行方もさることながら、プロローグで登場したエピソードが、人間の不可思議感を強調している点あたりも実に巧い
ただ、一般的な意味でのミステリとしての興趣とは少し異なるところに焦点が置かれており、扱われているテーマの重さと相まって、読んでいてかなり重苦しい感じはした。本来、踏み込みたくないような心理にまで迫らざるを得ない、裁判という作業のなかでの「業」のようなものが、作品に込められている。こうすることによって初めて浮かびあがる「人間心理」というところもあり、恐らく選考委員はその点を評価したのではないかと思うのだが、一般的なエンターテインメントというより、純文学指向がかなり強いように感じられた。

当初は、笹倉氏は実際に弁護士かなにかなのかと考えていたが、解説によれば、これは取材によって書かれた作品らしい。その努力は凄まじいものがあったであろう。ただ、純粋にミステリとして捉えると、やはりテーマの重さやサプライズの意味など、微妙に通常の意味での楽しみ方とは異なる読書を要求されるように思う。