MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


04/02/29
三雲岳斗「聖遺の天使」(双葉社'03)

M.G.H.楽園の鏡像』にて第1回日本SF新人賞を受賞し、同作品がミステリ界からも高い評価を受けた三雲氏ではあるが、前後の著作の多くはライトノベルとして刊行されており、同系統の作家であるという印象が強かった。本作は、そのイメージを根底から覆す、中世のイタリアを舞台にした純然たる本格ミステリ。『小説推理』誌に'02年から'03年にかけて連載された作品が単行本化されたもの。

十五世紀。イタリアは各都市による微妙なバランスのうえで束の間の平穏が成り立っていた。ミラノの宰相・ルドヴィコは、芸術家・レオナルド・ダ・ヴィンチを訪ねた。ルドヴィコと親しい女性・チェチリアの滞在している”沼の館”を訪れ、彼の城にある香炉が聖遺物かどうかの調査と、その館の持ち主・アッラマーニの変死の謎を解き明かして欲しいという依頼であった。その”沼の館”には襲ってきた傭兵部隊を一夜にして全て変死せしめたという伝説があり、その館主であったアッラマーニは「聖遺物かもしれない」香炉を持っており、その力によって成されたのではないかというのだ。香炉から立ち上る煙の中に聖母の姿を目撃したものも多く、各地の教会から調査団が当地に派遣されていた。そんななか、嵐の夜、そのアッマラーニが館の内壁に磔されたような死体となって発見されていた。そしてその直前、天使が目撃されていたのだ。犯行を物理的になし得る者は誰もおらず、偶然その館に滞在していたチェチリアもまた、その天使を目撃していた……。

中世が、堅牢な館が、舞台の要素全てがミステリに奉仕する――年間ベストの端境期にひっそりと咲く傑作
考えようによっては、新本格ミステリの申し子のような作品といえるのではないだろうか。複数並べられる実現不可能の謎があり、それらが探偵役によって合理的な説明がなされる。ただ、その説明もこの中世イタリアという舞台があってこその説明であり、舞台が謎と解決に奉仕する――。歴史小説のなかにミステリがあるのではなく、ミステリの舞台のために歴史小説がある、という構造は、以前から存在しないではないが、近来の新本格ミステリの持つ貪欲さが更に磨きを掛けているような印象がある。本書もその系譜に連なる傑作だといえよう。
とにかく、謎がふわふわと、そして魅力的なのだ。正直、後半に差し掛かるまで、解決のない幻想ミステリなのではないかと思わせる程である。例えば、一夜にして傭兵軍団を全滅させてしまった伝説の城。数々の目撃者が存在する香炉の煙のなかの聖母。時折、館のなかで姿を見せる謎の天使。殺害場所から遠く離れ、かつ余人には手の届かない場所に磔にされた死体。屋敷から消え失せた貴族に事件後消え失せた香炉――。読むにつれ、解かれることが前提となった謎だと思えなくなるほどに、その不可解さが魅力を発する
そして、単に解かれるための謎を羅列するだけではなく、きちんと当時の社会情勢や教会の権勢争いなどを背景に置いている点もポイントだろう。作品内部におけるリアリティは、少なくとも歴史門外漢にとっては全く問題なく確固として存在し、読者の心を遠く中世イタリアに十二分に飛ばしうる。また、わざと説明されない裏の人間関係をはじめ、歴史上の人物の的確に配置したうえでの物語作りも巧い。このような世界のなかでも、人間のさまざまな欲望が絡み合い、複雑な利害が存在していることから、動機によるこの作品全体に横たわる謎に対する類推も可能(絶対条件ではないながら)なのである。
ただ、用いられているトリックそのものは、作者がそれを知ってか知らずかは別にして基本的なアイデアの部分については先例が挙げられるものばかり。ただ、それらを有機的に組み合わせることによって、全く新しいトリックのように見せるだけのテクニックを作者が持っているので、その点はそれほど気にならない。こういった手法は、それこそ新本格ミステリの十数年のあいだに実作者が実践してきたことでもあるのだし。少なくとも、全ての謎が有機的に繋がった解決時に得られる快感は、本格ミステリの傑作にて得られるカタルシスであった。

10月末刊行のため、恐らくほとんどの投票者に読まれる前に昨年度のベストが締め切られるという、まさに端境に生まれた傑作。11月以降刊行であれば、来年のベスト投票に回そうと真剣に思っていたのだが……。個人的な好みもあろうが、本格ミステリの収穫であることは間違いない。お勧め。


04/02/28
桐生祐狩「夏の滴」(角川ホラー文庫'03)

伊島りすと氏の『ジュリエット』が大賞を受賞した第8回日本ホラー小説大賞の長編賞受賞作品。桐生さんは、本作品の後、『フロストハート』『剣の門』等、それほど作品数は多くないながら着実な作品をものにされている。

小学校四年生の藤川真介は、町おこしに失敗した田舎町に母親と二人で暮らしている。親友で車椅子に乗る徳田と、勝ち気な女の子・河合とは本好きという点で繋がった親友同士。急に土地を引っ越していった友人を訪ねに、親に黙って彼らだけで東京に出ようとするが、駅員に見とがめられかける。そこに現れたのは、テレビの美人ディレクター。彼女は徳田とクラスの様子を撮影していた。彼らのクラスでは「植物占い」が流行っており、また奇矯な振る舞いによって徹底的で執拗なイジメに遭わされていた八重垣というクラスメイトがいる。そんな彼らの平凡な筈の夏休み。しかし、急にいなくなってしまうクラスメイトや、負債を抱えて大変な筈の町の住民の一部に異常に羽振りの良い人物が出てくるなど、町は少しずつ変節が始まっていた。真介は、立ち入り禁止の森のなかで不思議な体験をし、植物マニアの等々力という青年と知り合う。そして夏休みの親子キャンプ。彼らが目の当たりにした驚愕の真実とは……?

瑞々しい少年小説を端緒におきながら、これほどの”厭”感覚を喚起するとは。
もとより子どもが残酷であることは言うまでもないだろう。その原点は欲望というよりも、理性や分別といった歯止めの機能を持たないから。では、逆に”残酷な大人”というのは何なのだろう。理性や分別がありながら、それらを超越するようなエゴイスティックな欲望に囚われたり、狂人の論理を持ち込んだりできることにあるのだろうか。
本書の出だしから中盤にかけては、実に瑞々しい少年小説である。 『スタンド・バイ・ミー』さえをも想起させるような日々。主人公と友人たちによる冒険、理解のある大人、「植物占い」なる占いに夢中になる子どもたち。車椅子に乗るハンデキャップを抱える友人と、それをあたかも当たり前の事柄のように友人として振る舞える友情。ただ、兆しはある。彼らによる無邪気にして徹底したイジメであるとか。だが、しかし、それでも。中盤までは冗長ともいえる程に”平和”なのである。
それが、後半三分の一にさしかかると一気に急転する。イジメに遭っていた少女を中心として、子どもの持つ残酷さが噴出し、大人の持つエゴイズムが明らかになり、その結果……。 なんというか、感覚のズレが引き起こす人間の”残酷さ”を二重の世代を使用して描くところに独特の味がある。怖いというよりも、厭なこと書くよなあ、という感覚であり、いくつかある荒唐無稽ともいえる設定もまた、その厭さに奉仕しているあたりが凄い。個人的にはエピローグの”現在”が描かれる部分にその厭さが最高潮に達した。無垢だった子どもだった存在が、きっちりエゴイズムの塊のような大人に成長していく姿を目の当たりにする。この感覚が堪らなく”厭”であった。
主人公たちの描写が、小学生らしくないという意見をどこかで聞いたような気がするのだが、個人的にはあまり気にならなかった――というのも、本作品が発表された時期より文庫化されるまでの数年のあいだに、着々と情報技術や感覚の(一部なのではあろうが)低年齢化みたいなものが進んでいると思うから。こういう小学生だって、いるのではないか? 少なくともこの日本のどこかには――程度の説得力は確実に存在すると思う。

作者の桐生祐狩さんは日本冒険小説協会員でもあり、思い出してみればかつて「深夜プラス1」に連れて行って頂いた時にニアミスしているのであった。あの時点で読んでいなくてすみませんでした……って、今さら遅すぎるのであるが。細かいところを挙げると、小説の構成上の瑕疵みたいなところも目に付くが、それを超える強烈なインパクトを残す作品。ちょっと忘れられそうにない。


04/02/27
鯨統一郎「月に吠えろ! 萩原朔太郎の事件簿」(徳間ノベルス'03)

歴史的人物をテーマにミステリを描くことの多い鯨氏の本流ともいえる系譜の連作短編集。アンソロジー『密室殺人大百科』に発表された『閉じた空』以外は、'02年から'03年にかけて『問題小説』誌に発表された短編がまとめられている。大正から昭和初期にかけて活躍した詩人・萩原朔太郎を探偵役に、詩人の室生犀星がワトソン役を務めるという構成。

朔太郎が思いを寄せる人妻。彼女の兄が旅行先で変死した。その死んだ兄から手紙が立て続けに届くのだという。何者かの悪戯か、死者からの手紙なのか。 『死者からの手紙』
珍しい気球の搭乗会。しかし自ら気球に乗った主催者の様子がおかしい。慌てて引き下ろすと、主催者は死んでおり、その手にはピストルが握られていた。 『閉じた空』
女性画で人気の竹久夢二。あるパーティに飾られる筈の夢二の絵が、厳重な戸締まりにも関わらず消えてしまった。関係者は『青鞜』の同人女性たち。 『消えた夢二の絵』
エレベーターに乗った筈の恋人を追った女性。しかし、彼は下の階に到着する前に消えてしまった。果たして彼はなぜ、そしてどうやってその行為を成したのか。 『目の前で消えた恋人』
洋画家が自宅で殴殺された。その妹の依頼で動く朔太郎。動機もあり、犯人と目された男性は、その時刻は友人たちと麻雀をしていたというが……。 『ひとつの石』
一千万もの値段がする〈星の翼〉という壺。その壺を預かった家に正体不明の怪盗からの予告状が。そして警備にも関わらず、翌朝、その壺は消え失せていた。 『怪盗対名探偵』
菊池寛から紹介され、謎の英国人ショルメス氏と知り合った朔太郎と犀星。しかし、犀星が訪れた菊池邸で書類が盗まれ、その人物が消え失せてしまった。 『謎の英国人』 以上七編。

緻密さはとにかく大胆に昭和の芸術人物史を描く。鯨統一郎らしい荒唐無稽を楽しむ一冊
北原白秋に師事した萩原朔太郎、そして室生犀星といったところを中心に、『青鞜』の同人や竹久夢二、菊池寛といった文学史に名を残す人々と交わりつつ、そして発生した事件を解く……という大胆な物語構成。山田風太郎などが得意とした歴史の再構成を鯨統一郎はいとも易易とやってのける。ただ、その想像の大胆さの裏返しになってしまうのか、時代考証の緻密さに欠けているきらいがあるのも御愛敬。同時代に生きた彼らが交わりを持つところまではいいのだが、その舞台が何となく小道具(風俗や事物)だけ当時のものを借りたまま、会話や思考が中途半端に現代的なのが良くも悪くも鯨氏がこのようなテーマを扱った際のポイントとなっている。これを違和感と取るか「読みやすい」と取るかは、手に取った読者のセンス次第。
一方で、ミステリとしての構成はなかなかのもの。シンプルではあるのだが、伏線もきっちり張られており、短編としての必要十分な要件を満たしている。(ただ、オリジナリティという意味ではちょっと評価を下げるかもしれない。既に存在するトリックの応用的要素が強い)。 個人的に感心したのは『謎の英国人』。これはショルメスという言葉に反応できる方ならお分かりの通り、ある超有名作品のパスティーシュとなっており、その遊び心とトリックとが気持ちよくマッチしていて楽しい。原典から導かれたユーモアも味わい深く、元になった作品に対する愛情が感じられる点も好感。
連作短編集としての構成としては、これらの事件がもとになって、朔太郎の詩が作られた……という設定になっている点にも注目したい。これが物語構成やトリック作りの縛りともヒントに繋がっており、このあたりに凝るところが鯨統一郎らしい、といえるだろう。荒唐無稽と緻密さとのアンバランスが独特の世界を醸し出している。

個人的には正直なところ、歴史に対する違和感もあった。とはいえ、読み終わってみるとそれはそれで作者の個性だと割り切れるだけの中身であることに気付かされた。ミステリとして読むべき作品集であるが、昭和期の文学史を知る人間であれば、この遊び心もまた楽しかろう。完璧とはいえないし、絶賛でもないのだが、それなりの味わいがあることもまた事実。


04/02/26
高田崇史「試験に出ないパズル 千葉千波の事件日記」(講談社ノベルス'02)

本書に関しては完全なる勘違いをしていて、てっきり読了済と思い込んでいて改めてチェックした際に未読だったことに気付いたもの。だって『試験に出るパズル』と『出ないパズル』と両方あるなんて……(言い訳)。QEDとは別に高田崇史氏が持つ、高校生の千葉千波を探偵役とするシリーズの二冊目の短編集。九月から一月まで。

寅さん記念館でバッグを盗まれた女性を追うぼくら。江戸川を渡った犯人を追うためには小さなボートで何往復かする必要が。果たして誰がどの順番で乗る? 「《九月》山羊・海苔・私」
八丁堀図書館を訪れたぼくら。この図書館でどうやらある人物たちが秘密通信を行っているらしい。その鍵を握る人物を捜せ。 「《十月》八丁堀図書館の秘密」
男子校である千波の学校の文化祭。特別イベントとして七人の男子生徒が女装させられて参加しており、彼らのキーワードを集めるイベントが。だけどそこに一人本物の女性がいた? 「《十一月》亜麻色の鍵の乙女」
ボランティアでクリスマスの教会に行くことになったぼくら。沢山の子どもたちと近所を行進することになるが、彼らの挙動がちょっとおかしい? 「《十二月》粉雪はドルチェのように」
柴又天神に初詣にやって来たぼくら。そこで知り合った三組の老夫婦たちは、互いの名前を必ず間違えて呼び合う奇妙な人々。彼ら自身分からない行動を千波が解く。 「《一月》もういくつ寝ると神頼み」 以上五編

パズルから出来上がった物語。もう、これ以上の本格パズラーというのはあり得ない?
いろいろとヒントが出てきて本名を想像するに楽しい(が、決して正解が分からない)ぴいくん、相変わらずの美少年ぶりを発揮する千葉千波、キャラクタとしてのボケぶりに磨きの掛かった饗庭慎之介。三人組のキャラクタに安定感があり(一応浪人生という設定上、着々と季節は過ぎているにもかかわらず)、さすがに二冊目ともなると慣れ親しんだ世界が戻ってきたかのような不思議と落ち着いた気分になる。当初から設定をほとんどいじらない、というのは本書のような指向を持つ作品にとっては結構重要なことなのだ。設定の変更部分に目が行くようでは、純粋なパズルは作りづらいではないか。
で、その中身はというと、前作に引き続き、パズルのためのパズルといった様相である。本作も、古典的なナゾナゾのバリエーションからオリジナルクイズに至るまで、ある所与の条件が提示され(読者に対しても均等に)、その前提条件を意識しつつ、解を見つけだす……というのが基本。その”所与の条件”が、川渡りであったり、嘘をつく人々であったり、前にも書いたが”頭の体操”を彷彿させる(いろいろとひねっているが)。物語性は、後から付加されるようなところがあって、叙情や情報といった、いわゆる小説から得られる感慨はあまりない。あくまで、作品一つで勝負する論理パズルである。
その意味では、本書はいわゆるミステリ読みの経験値を無視している――というようなことがいえるかもしれない。つまり、ここまで究極のパズラー(つまり謎のために作られた謎)ということになると、これまでのミステリにて積み重ねられているトリックや動機などのバリエーションの知識から謎を読み解くことは不可能なのだ。あくまで、文章中からヒントを正確に汲み取り、種々の方程式を駆使して最適の解を探す、という作業が必要になる。だから、本書は初心者に対しても、ぎとぎとのマニアに対しても公平であるということがいえるのではないか。一部で絶賛されつつ、経験中心主義のマニアから敬遠される図式が本書にあるようにも思うのだが、こういった点が理由なのではないかと思う。

純粋に”謎解きが楽しみたい”という方にとっては、本書が最適。しっかりじっくり考えることによって、解を探し出す純粋な行為が楽しめる。さらりと読み流したい方にとっては、ちょっと辛いかもしれない。主人公たちと一緒に考えないと、本書の妙味は味わえないとも言えるから。


04/02/25
歌野晶午「ジェシカが駆け抜けた七年間について」(原書房ミステリー・リーグ'04)

葉桜の季節に君を想うということ』が、2003年のミステリ・ベスト10各種で高い評価を得たこともあり、押しも押されもせぬ大ベストセラーとなった歌野晶午氏。こうなると島田荘司推挽でデビューした過去とか、段々関係なくなってくるのかな。本書は『葉桜…』に続く、書き下ろし長編。(短編集では『家守』が出ている)。

「ねえ、ジェシカ、自分が二人いればいいと思ったことない?」――米国のニューメキシコ州で合宿を行う長距離専門のクラブチーム・NMACに所属するジェシカ・エドルは、アユミ・ハラダから言われる。NMACを主催するのはツトム・カナザワという日本人監督ながら、所属選手は世界各国からナショナルクラスの選手が集まっていた。エチオピア人のジェシカも、日本人のアユミもその一人で、二人は仲が良かった。しかし最近、アユミの様子がおかしい。トレーニングも本調子ではないうえ、ジェシカは彼女が夜中に宿舎を抜け出して、奇妙な服装で近くの木に何かを打ち付けている姿を目撃する。情緒不安定のアユミは、監督への殺意を告白。アユミは監督と関係を持ち妊娠していたのだった。アユミの好意に対しても、監督には結婚の意思などないことが判明。人工流産の結果、走ることができなくなったアユミはこっそりとNMACを離れることを計画していた。結局、ジェシカの奔走によって皆に暖かく送り出されたアユミ。しかし、二人が再会することはなかった。ジェシカのカレンダーが一九九七年四月五日を示した日、ジェシカはLAのホテルでアユミ・ハラダが死んだと警察から知らされた…。

確かに周到で美麗な本格ミステリであるが、物語の訴えは別のところにもあるかのようにもみえる
『葉桜…』が牽制球であるのであれば、本書は確かにスライダー級ではあるだろう。少なくとも日本ミステリでは誰もが使用したことのないあるアイデアをベースに、周到にそして細心を払って物語が組み立てられている。 そのトリックについては敢えて触れまい。確かに最終的に明かされるまで、注意深く読んでいたにもかかわらず真相は窺い知れなかった。だが、『葉桜…』におけるケースとは本書は質が異なる。私を含め、誰もがこのトリックに気付かないことを恥じるべきものではない。いずれにせよ、多くの読者が途中から、もしくはラストから「え?」と、前のページに遡ることになることも間違いない。だが、ペンダントの持ち主であるとか、一つだけ発生する殺人事件の犯人であるとか、なんというか、作者が本格ミステリを強く意識し、周到に過ぎたゆえに裏目に出てしまった部分も正直あるように思える。読者の視線から周到に隠したポイント、それが徹底されることによって、謎を解くための手掛かりも必要以上の隠蔽がなされてしまっている。
ただ、そこに至る過程が、実に周到であることは、誰もが認めることだろう。各章の細かい段落の一つ一つ、登場人物の台詞の端端、何気ない細やかなエピソードに至るまで、特に淡々と描かれているようにみえる前半部における、結末に向けた伏線へのこだわり、フェアとアンフェアぎりぎりの表現の配慮などは、すべて特筆に値する。ジェシカの登場しない中盤部に描かれる「分身」のエピソードも、個々が一応独立した謎解きであるにもかかわらず、このエピソード全体が、物語に対する背景としても、トリックに対する伏線としても機能しているあたりにも注目したい。この部分で描かれる原田歩の性格や行動は、物語全体から最後に感ずる叙情と微妙に通じているように思えるのだ。

だが、そもそも、本格ミステリとして「だけ」本書は論じなければならないのであろうか?
小生は違うと思う。視聴率を稼ぐ女子マラソンという競技における裏面を描いたという意味で、情報ミステリーとして読むのもありだし、一人の(二人の、か)女性の、女子マラソンに対する尽きぬ情熱を描いた文芸作品として楽しむのも悪くない。日本を出ざるを得なかった監督のエピソードもピリッと効いている。少なくともドーピングであるとか、選手の心理であるとか、アフリカ勢の頑張りであるとか、そういった普段漠然とテレビ中継を見ているだけでは窺い知れない”マラソンの真実”もまた、本書には丁寧に込められている。その犠牲になった原田歩やカントクであるとか、そのなかで夢を見続けるジェシカであるとか、彼らの想いをもまた、トリックと同様に真摯に受け止めたいと思わされた。

正直なところをいえば『葉桜…』で強烈だったサプライズは、そのトリックの特殊性もあって、両者を比べると本書が一段落ちることは仕方がない。従って、それだけを求めて本書を読まれる方には、不満もあるだろう。だが一個の物語としても十分楽しめると思うし、そもそも歌野晶午氏は最近は既存のミステリの枠を超えた世界に対する強い指向性を持っている。 これもまた、歌野晶午にしか書けない(ある意味厚かましくもあるトリック含め)作品だといえる。


04/02/24
森 博嗣「ZOKU」(光文社'03)

季刊『ジャーロ』誌に'01年夏号から'03年夏号にかけて不定期掲載されていたシリーズが一冊にまとめられたもの。しばらく森博嗣作品から遠ざかっていたものの、表紙の機関車のイメージが強烈に印象深くて「読まねば」という気分に乗せられてしまった。(某FFなんかを想像していたら、全く違ったお話でした)。

「現代社会に対して、多少なりとも迷惑と不安をばらまいてやろう」 Zionist Organization of Karma Underground、略してZOKUの首領、黒古葉善蔵は科学者にして大富豪。メンバーのロミ・品川とケン・十河を使い、常に法律には触れない程度の目新しい”迷惑”を考え続ける。一方の木曽川大安。彼は科学技術禁欲研究所 Technological Abstinence Institute 略してTAIの創立者。全国の鉄道網を好き勝手に走り回る白い機関車がTAIの本部。こちらは、揖斐純弥と、彼に想いを寄せる大安の孫娘・永良野乃らと共に、ZOKUの企てを阻止する側に回っていた。彼らの、不毛かつ建設的な戦いは続く……。
あちこちで不思議な振動現象が発生。ZOKUが暴振族。 『Episode 1 Off the Beaten Path(第一話:ちょっとどきどき)』
あちこちで不思議な図工が登場。ZOKUが暴図工族。 『Episode 2 Poor at Manual Arts(第二話:苦手な秋・芸術の秋』
あちこちで不思議な笑いが聞こえる。ZOKUが暴笑族。 『Episode 3 A Simple Funny Story(第三話:笑いあり 涙なし』
あちこちでラッキーで大喜び。ZOKUが暴占族。 『Episode 4 It's alomost right(第四話:当たらずといえども遠からず』
あちこちで奇妙な色彩が活発。 ZOKUが暴色族。 『Episode 5 Facts are colored by prejudicds(第五話:おめがねにかなった色メガネ』 以上五編。

実用的でないからこそ、人は熱中する。金と手間をたっぷり注ぎ込んで、そして意味がないのが面白い
一口で本書を形容するならば、愉快犯的犯罪を仕掛ける謎の組織vsその犯罪を感知し阻止するための正義の組織、という物語になるだろうか。そのイタズラにかける費用と規模といい、その大した罪のない狙いといい、また正義の側も同様に費用対効果の今ひとつはっきりしない方法にて対抗するところといい、いわゆるタイムボカンシリーズと同様のノリと考えてもらうと分かりやすい。ただ加えて、森博嗣氏独特のレトリックが多用された言い回しや、脇道に逸れることの多いエピソードなども健在。ただ、そのせいで物語全体が、ちょっと見えづらくなってしまっているようにも感じられた。また本書は、基本的にはシリアスタッチを狙っておらず、あくまでまったりとしたユーモア感覚のなかで展開する。ロミ・品川の年齢コンプレックスや妄想、永良野乃の揖斐純弥への一方的片思いと鈍感な揖斐とのカップリング等々、本筋以外のところに本書の面白さみたいなものが込められているようにも思う。その意味では、そもそも本書が、機関車に関する描写を作者が書きたかったとか、登場するキャラクタの誰かを書きたかったとか、単純な理由で成立しているのかもしれない……などとも想像させられた。
登場人物も、悪の組織の長である黒古葉と、正義の組織の長である木曽川を除いた、特に若手登場人物に当て嵌められた人格には、どこか森氏のこれまでの作品に登場した人物とキャラが重なっているようにみえる。例えば、○○と○○の関係は犀川と萌絵に近いのではないかと。(また複数のキャラクタがごった煮にされているような部分も見受けられるし……)。そのこと自体は別に物語とはあまり関係ないといえば関係ないことではあるが。
個人的には第四話にて永良野乃のために、あるものを一生懸命つくるZOKU面々と、ロミ・品川との会話がツボ。なんというか、涙なしには読めないエピソードである(ちょっと変か)。

広義のミステリーということは出来ようが、もしかするとそれについても明確な指向はなく、単なる物語作りの都合でミステリ的展開を取っているだけではないかという疑いも捨てきれない。何冊も刊行されるシリーズ作品とはひと味違う……ようで、どこか同じ味のような。ちょっと不思議な作品集。一般の方よりも、森博嗣ワールドがイメージできるような、ファン向けの作品かと思われます。


04/02/23
森奈津子「西城秀樹のおかげです」(イーストプレス'00)

森奈津子サマについてはくだくだと述べますまい。本書は、刊行当時、ないとー氏絶賛の必読の書であった筈なのだが、実は手に入れられないまま時が過ぎていたのを、ようやく入手できたので読むことが出来た次第。『SFバカ本』に発表された作品を中心に編集された短編集。題名が全てを物語っている。

恐ろしい疫病で人類が死滅してから一年。生き残った”自称”おさげ髪にセーラー服の女学生・千絵。彼女は廃墟と化した新宿に住み着き、わたしを愛してくれるお姉様に淫らなことをされることを夢見る日々。しかし、その街に闖入者が。 『西城秀樹のおかげです』
時子の兄夫婦が一人娘を残し、多額の遺産を残して死亡した。遺産として相続したアンドロイドのハンナは、バイセクシャルでマゾヒストというとんでもない性格を持ったセクサロイドであった。 『哀愁の女主人、情熱の女奴隷』
一九六六年のある日、一人の若者が天国に行った。生まれ変わりに『色好み』を望む彼に、『人生プランナー』を名乗る天使は、三つの”今後の人生”を提示してくれた。 『天国発ゴミ箱行き』
未来の日本。少子高齢化が問題視されるこの国では同性愛が禁止された。探偵事務所の冴子は友人からロボット・デザイナーの黒川百合絵が同性愛者である証拠を見つけて欲しいと依頼される。伊豆で温泉を利用して植物とワニを育てているという彼女の別荘に、アルバイトの美蘭と共に忍び込んだ冴子の運命は? 『悶絶! バナナワニ園!』
同居する三人娘。一人は「味覚の冒険者」、一人は「真性レスビアン」、そしてもう一人は「SFおたく」。その三人娘の家の外にUFOが死体つきで突っ込んできた。 『地球娘による地球外クッキング』
二十五世紀のある惑星のある国に、男女の性器が四つずつ、計八個かたち取られたテーブルがあった。そのテーブルは町のバザールで売られることになった。十三歳の若く美しい奴隷つきで。 『テーブル物語』
一九七九年。不良少女の麻里亜が下級生をカツアゲしようとしていたところ、相手が呟く『後生ですから』。その言葉とともに生徒会長の山崎智子が現れ、とんでもないことを言い出す。 『エロチカ79』 以上七編。

なんといいますか、異世界の笑いとでもいいますか。電車のなかで読んですこーし恥ずかしかった

    ……。

いきなり形容詞に困る作品集ですな。まずいえるのは、エッチである、ということ。ただ、いわゆる一般的で健康な男女間で交わされる、世間的に健全なものではなく、不健全なエッチなのである。ところが、それらが森奈津子さんの確固たる性愛美学に裏打ちされているがために、不健全さが奇妙に美しく思え、エッチさが突き抜けた爽快感を呼ぶ。また、脱力系を中心とした笑いのセンスがまた独特。自分の性愛性向とは完全なる不一致をみせるにもかかわらず、軽快なノリと途轍もない展開によってするりするりと物語の虜にさせられていく。物語の奴隷かよ、オレは。いいけど。
そして何よりも、常人では思いつかないような舞台設定の数々が強烈。誰が人類の死に絶えた地球でコスプレに命を賭けますか。誰がセックス専用の変態アンドロイドなんて思いつきますか。誰が生まれ変わったらエロ人生を送りたいとリクエストしますか。誰がバナナとワニで陵辱シーンを演出しようとしますか。誰が宇宙人を食べようなんてはなしを作りますか……。いや、とにかく、こんな話、世界中で森奈津子というブランドでしか売ってませんよ、多分

それでですね、あの、正直にいいますと、この作品、凄すぎるんですわ。何がって、バカバカすぎの物語がリミッターを外してダイレクトに読者に届けられているんですからね。これだけの妄想や電波が走り回っていて、それでいて物語の起承転結はできていて。盛り上がりもあれば、オチもある。本来自分が自覚していないツボが、強引にぐりぐりぐりぐりぐりと押しこまれて悲鳴を上げる。だけど気付いてみれば、もしかしたらこれはこれまで気付いていなかっただけで実はツボだったのかも、と不安な気分にさせられます。自分にとっては異世界の話なのにツボに嵌る。書かれている内容はべたべたの性愛描写だったりするのに、突き抜けすぎているがためにめちゃくちゃ明るい。でも、電車で横の人に覗かれたときはすこし恥ずかしかったんですけどね。

しかし、西城秀樹は実は人類を救っていたのだとは。(気になる方は本書を読もう) ♪すばらしい、わーい、えむしえっ、です。 (壊れかけてます)。 


04/02/22
山田風太郎「婆沙羅」(講談社文庫'93)

山田風太郎はその生涯において、集中的にある分野の作品を著した時期がいくつかある。即ち初期は探偵小説であるし、戦国伝奇小説から忍法帖へ、そして幕末物から明治物へとその分野は徐々にではあるが、確実な以降をみせた。その風太郎が晩年にこだわっていたのが、本書を含む室町物、である。'90年に『小説現代』に掲載され同年単行本化された作品の文庫版であるが、この『婆沙羅』は、中篇『室町の大予言』『室町少年倶楽部』に続く、室町物第三弾にして初長篇にあたる作品でもある。

鎌倉時代の末期。鎌倉幕府の朝廷監視を目的とした六波羅探題襲撃が未然に発覚した後醍醐天皇は、隠岐に流されることが決定していた。しかし稀代の魔的な魅力を持つこの人物は、牢中にありながらも配下の公卿を通じて身の回りの望みを叶えようとしていた。この人物に接触したのは幕府の軍目付の高ノ師泰と、検非違使の佐々木道誉の二人。後醍醐天皇は立川流の秘術を用いて、二十一人の側女から隠岐に連れて行く三人を決めるのだという……。 この前後から世情は動乱を極めはじめ、鎌倉幕府が打倒され、足利尊氏により室町幕府が作られ、南北朝の時代へと突入する。この時代に自らの望みを通し、そして権力者のあいだを絶妙な足回りで立ち回ったのが、婆娑羅大名である道誉であった。下克上が当たり前となり、混沌とした世の中に、綺羅星の如く立ち回る武将たちのあいだにあって、彼が貫いた生き様とは。

婆沙羅大名・佐々木道誉を案内人に、風太郎が描くのは室町時代の、まず基本史実
いちおうこの時代を描いた物語でもあり史書でもある『太平記』がベースとなっている。鎌倉幕府の滅亡から、室町幕府の成立に至る歴史物語。ただ、直感的にいえば、山田風太郎らしくもあり、らしくなくもある……といった印象を持った。と、いうのは中心人物を、婆沙羅大名、すなわち横紙破りの怪人物である佐々木道誉にとる視線などは、まこと風太郎らしい。だが、ボリュームの割に、彼にまつわるエピソードが実に淡々として描かれているように思えたのだ。それは彼の人となりが分かる描写が省かれているという意味ではない。この道誉という人物の持つ、戦国時代ならではのポリシーや、それをよくぞ生き抜いていったという強烈かつ頭脳的な性格などは、十二分に伝わってくる。これは山田風太郎の筆力がなせる技であろう。
だが、一方で、まだ二十代の若者であった佐々木道誉が、若き足利義満によって起こされたある事件で命を喪うまで、というこの長大なはずの数十年という年月が、実に薄い分量にまとめられてしまっている。ポイントとなるエピソードこそ描かれるものの、筆の重点がまず『太平記』をトレースすることにあったのではないか、という風にも読めた。つまり、通読すると佐々木道誉の生き様を通じて、室町幕府成立時の動乱を描くことには成功しているといえる一方、佐々木道誉「だけ」を描いて、年代を先へ先へと急いで進めようとしているような意図を感じたのだ。フィクショナルに兼好法師やその他の戦国大名らを舞台に登場させるお馴染みの手法も取られてはいるのであるが、史実を曲げないようにするがために、急ぎ足で描いているように思われる部分も多々あった。こういった印象は風太郎作品を読む際には珍しい。
とはいっても、歴史の教科書では大して目立つ人物としては扱われない、主人公・佐々木道誉の圧倒的存在感は特筆もの。その周囲にいる人物たちも、風太郎独自の史観と照らし合わせてか、強烈な特徴を持つ人物が揃えられている。……それでもなお、舞台の方の展開を急ぎすぎてしまっているように見えるのである。

つまりは、道誉を描くと同時に、晩年の風太郎にとってかなり魅力ある存在であった室町時代を俯瞰しようとするため生み出された作品なのだ。恐らく、本書に取り上げられている室町時代初期という混乱に混乱を重ねた史実を、風太郎なりにまずは整理しようとする意図があったのではないか。それでも、それなりに読ませる作品に仕上げているのは、やはり風太郎ならではの卓抜したセンスゆえだとは思うが。


04/02/21
太田忠司「黄金蝶ひとり」(講談社ミステリー・ランド'04)

「かつて子供だったあなたと少年少女のための――」というキャッチコピーにて'03年7月より開始された、シリーズの第3回配本分。多くのシリーズを持つ太田忠司氏ではあるが、本書はノンシリーズ作品である。

常に無計画に旅行する両親の、五度目の”新婚旅行”の行く先はキプロス。小学生の白木洸は両親と同行するのが嫌さに留守番を主張していたが、父親の父親、即ちおじいちゃんのところにその間出掛けることになった。しかし洸は、そのおじいちゃんの存在を今の今まで知らなかった。両親も十五年前の結婚式以来、会っていないのだという。夏休みに入り、父親からうろ覚えの地図を手渡された洸は、そのおじいちゃんの住む茶木村に一人で出掛ける。途中であった三色の帽子を被った三人の若い男に助けられ、無事に茶木村に到着した洸。ただ山の中を見守るテツなる存在がいることを知る。そして初めて出会ったおじいちゃんは筋骨逞しい人物で、犬しかいない牧場と万能学なる学問を研究しているのだという。多少突き放されながらも、犬の世話などいろいろなことを洸はおじいちゃんから学ぶ。しかし、その村に村長の息子の剣崎なる人物が、村の鍾乳洞を観光資源として開発しようと乗り込んでくる。さらにその鍾乳洞には秘密があり、テツとおじいちゃんはそれを守ろうとしているらしい……。

古き良き時代の探偵小説と、いかにも現代的なトリック。これが現代ジュヴナイル・ミステリの王道かも
少年の一人旅の果てに出会った祖父は、自らの人生哲学を何よりも大切にする大人物だった……。これまで子供でしかなかった主人公が、祖父から新たな視点で物事をみることを学ぶ。これでもう少し内容がサバイバルに傾いていたら、まるで稲見一良の描く冒険小説の世界なのだが、そこまで深くはない。ただ、夏休みの体験における少年の成長を短い描写できっちり表現している点が良い。ただ、物語はここで終わらない。このステージから、少年の冒険が始まり、鍾乳洞を舞台にした謎の組織(というほどでもないが)との戦いへと場面が移る。つまり、伝統的な少年向け探偵小説的な展開へと繋がっていくのである。その戦いの源となっている、村に隠された”秘密”については賛否両論あろうが、この物語の筋書きにおいては、ある意味特殊、ある意味凡庸ともとれるこの”秘密”もなかなか味わいがあって良い。謎の人物・テツと少年とが心を通わせていく展開にも味がある。かくして、物語は大団円……となったところで、まだ別の意味のオチがあるのが現代風。
というのは、本書のプロローグで「この作品は太田忠司名義で刊行されるが、誰が書いたものか当てて欲しい」と、物語の語り手が読者に問いを投げているのである。読み出してから、あまり重要視していなかったこの部分、作者はきっちりと伏線を張っていて、思いも寄らないところに仕掛けがある。特に、本シリーズにおける共通のあとがきである「わたしが子どもだったころ」にまで、それが続いていくあたり、他作品をも含めて読んでいる読者を思わずニヤリとさせることであろう。(というか、私がそうだったんだけれど)。

いわゆる、”血湧き肉躍る少年探偵小説”の系譜と、”意外なところにサプライズが仕掛けられた現代ミステリ”のハイブリッド。それでいて、するすると最初から最後まで読めてしまう。強烈な悪意もなく、対象年齢に対して過不足ない表現。少年少女向けという看板に偽りのない、正真正銘のジュヴナイルにして、エンタテインメント。求められている作品を、きっちり仕上げてきた太田氏に拍手。