MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


04/03/10
広瀬 正「T型フォード殺人事件」(集英社文庫'82)

広瀬正小説全集の5('77年に河出書房より刊行されたものの文庫版)。これからの活躍を期待されていたところで'72年、突然夭折された悲運のSF作家・広瀬正氏。本書は氏の遺作にあたる作品で、長編ミステリ。一方『殺そうとした』は処女短編で'61年に『宝石』の臨時増刊号に掲載されたもの。また、『立体交差』は『T型…』と同時期の作品で全集にて初めて活字になった。

嵐の夜、隠遁した道具好きの元社長・泉の邸宅に招かれた、白瀬ら七人の男女。その場では珍しい一九二四年製のT型フォードが開陳された。このフォードは自動車が非常に珍しかった大正十五年から昭和二年にかけてほんの一年ほどしか使用されなかったもので、医師でもある疋田の家に仕舞い込まれたものをリストアしたものであった。疋田は四十六年前にこの車を巡って発生した、殺人事件の話を居合わせた一同に行った。この車のなかで死体が発見され、しかも密室状態となっていたその車に対し、誰も死体搬入などできる筈がなかったという、疋田は先日亡くなった叔母にまつわる、その事件について一同に説明を開始した……。 『T型フォード殺人事件』
自動車教習所の指導員・黒木は若き人妻・啓子の指導を担当し深い仲となってしまう。啓子には年の離れた夫がおり、その夫から黒木は家に招かれるが、啓子の姿が見あたらない。 『殺そうとした』
国道の立体交差の工事に対して抵抗を続ける家屋に住む中村氏。工事責任者の千吉は家に招かれ、その家屋内部に入るが、彼は謎の機械によって未来にタイムスリップさせられてしまう……。 『立体交差』

過去のディティールの丁寧さがまず十分、そして本格ミステリとしても十二分
やはり語るべきは表題作品たる「T型フォード殺人事件」であろう。構成から背景から事件から、実に凝っている。一部のディティールに対するこだわりは、無駄といってもいいくらい。例えば物語に登場するフォードそのもの、この車に対する蘊蓄がずらずらと登場人物のクチを借りて羅列される。そして、事件を描写するということを理由に大正末期から昭和初期までの日本を、雰囲気まで当時のそれを再現すべくがごとく背景の描写が丁寧なのだ。この時期の回想部分に関しては、読者は違和感のないタイムスリップを余儀なくされる。資料を単純に引き写すでなく、ごくごく自然に当時の風俗を描き出す手腕は、他の作品とも共通する広瀬氏の一大才能だといえるだろう。
そして「車に押し込まれた死体の謎」もいい。殺人事件が車内で発生しているのではないのだが、死体を隠匿するにあたって鍵のかかった乗用自動車に押し込んでしまうという、ハウダニット系列の魅力的な謎なのだ。更にこの謎を数十年の時を経て解き明かそうという遊び心も面白い。ただ、本書が本格ミステリサイドからもそれなりの評価を受けているのは、この密室の謎解きだけが理由ではない。ここに書き記すことのできない、ある理由がこの物語に込められているからなのである。ここまでは書いても良いと思うのだが、過去の密室を解き明かそうというゲームの最中に現実に死人が発生してしまうのだ。それらをひっくるめて、物語が持っている謎があるのだが、構成の妙によって読者にそれを悟らせない。実に繊細かつ巧みな技が使用されている作品なのである。
他の二編の作品であるが、『殺そうとした』は、いかにもという印象を持つ変格探偵小説。サスペンスの盛り上げ方が実に巧みである一方で、物語に救いがなく、冷え冷えとした読後感が存在する。考えようによっては後の広瀬作品とはちょっと芸風が異なるような印象である。『立体交差』も後味が良いとは言い難いが、こちらはタイムスリップに真っ正面から取り組んだ、それなりの意欲作であることが窺える。

これまで読んできた広瀬作品は、どちらかというとSF作品としての拡がりや才能を強く感じさせるものが多かったが、本書に関してはミステリサイドからも評価されているという意味合いを感じることが出来た。特に『T型…』に関しては、現代のミステリ作家が好んで用いるモチーフを、古い作品なのに実に上手に利用している印象。 恐らく、若いミステリファンにとっても比較的入りやすい世界なのではないかと考える次第。少なくともあまり古さを感じさせない作品である。


04/03/09
高田崇史「麿の酩酊事件簿 月に酔」(講談社ノベルス'03)

『麿の酩酊事件簿』として、原作:高田紫欄(しいら) 漫画:望月玲子にてコミックスとして発売中の作品がノベライズされたもの……が、このシリーズ。前作の『麿の酩酊事件簿 花に舞』に続く二冊めとなる。本書は書き下ろし二編を含み、全体としての展開も着実に進みつつある感。

以前の事件によって入院中の文麿は、担当の女医に恋をした。一方、自分勝手な性格のモデルの女性が、友人の恋人を奪った挙げ句、交通事故に遭う。彼女の言動に耐えかねた友人は……。 『診察券を忘れずに』
中国人女性が急性の麻薬中毒で死亡し、彼女の家にいた中国人男性が容疑者となった。彼の言葉を翻訳した外国語学校の美女が、文麿に彼の無実を訴えるのであるが……。 『 イ尓 好、中国語翻訳』
陶芸展に訪れ、素敵な美女と再会した文麿。しかしその師匠とバイヤーとの間にはトラブルが。改めて美女の作った陶芸を購入しにきた文麿は、バイヤーの殺人事件に巻き込まれ……。 『轆轤は回る』
若女将・真崎香織と、その妹・翠が切り盛りする、箱根の高級温泉旅館にやって来た文麿御一行。美人姉妹には何か影があり、文麿は大浴場の露天風呂で、翠を付け狙っていた男の死体を発見してしまう。 『湯煙の向こう側』

物語の定型の美学がユーモアとして結実。ミステリとしては緩めも読んでいて楽しい
勧修寺家の掟により、自力で家に相応しい花嫁を捜し続ける文麿。惚れっぽい性格ゆえ美女にいいところまで接近はするものの、必ず難解な事件が発生してしまう。何のかんのとお酒に強くない文麿は、ある酔っぱらいの限界点を過ぎると、絶妙な推理を発揮する……のだが、それを酔いが醒めると全く覚えていない。知らないあいだに美女の人生について的確な助言を与えてしまったがゆえに、常に相手(が自覚を持たないまま)に去られてしまう。
おおよそ、四編の物語(前作を入れると八編にもなる)の構造は決まって以上となっている。ただ、必ずそうなると分かっているのだけれど、そこに至るまでに込められた作者によってぎりぎりまで抑制されたユーモア感覚が個人的にツボ。お昼にだらだら流れるホームドラマでもこんな設定はないというくらいの背景、毅然としつつ涙もろい祖母、徹頭徹尾に勧修寺家に尽くす執事の大原、そして大原の孫娘で一癖ある七海。彼らはあくまで脇役であるのだが、それぞれの個性がしっかりしており、彼らが醸し出す雰囲気がとにかく微笑ましいのが良い。美女たちと文麿の駆け引き、登場人物の動きに伴う、ところどころのボケ加減の構成が絶妙なのだ。ニヤニヤしながら読んでいたのだが、その読み方は間違っていないだろう。
ただ、物語の構成の完成度(定型度?)に比べると本作における”推理”の部分は、不確定要素が強かったり、特殊な知識が必要だったりと、少々インパクトに欠けるのは事実。(『湯煙の向こう側』は中編級の長さのなかに伏線がきちんと張られていることにより、ミステリとしてなかなか読ませるのだが)とはいっても、本書は単純なる謎解きミステリとしてだけで読まれるべき作品ではないだろう。やはり、主人公の行く末(含む未来の恋人)が、誰なのか、どうなっていくのかというあたりが気になる。しかし、文麿は最終回までに結婚相手が見つかるのか? (実は見つかってはいるようなのだけれど……)。

なので、やはりこの作品は”定型ストーリー”があり、しかしその周囲の動き、謎、そして解決がどたばたと提示された後、再び定型に還っていく点に面白さがある。 文麿と恋人探しを巡る、本人及び周囲のどたばたぶりが何ともいい雰囲気を造り出しているし、彼自身のボケぶりもなかなかのもの。そこかしこに描写される様々なお酒についての話なども高田作品らしいともいえ、通して読んで損はない作品に仕上がっていると感じた。丁度物語構成においては、「QED」と「千葉千波」中間点にあるように思える。高田作品としては中道なので、これから高田作品に入る場合は、こういったところスタートというのも良いのではないだろうか。


04/03/08
加納一朗「ふくろうが死を歌う」(ソノラマ文庫'77)

加納一朗のソノラマ文庫収録作品は『透明少年』などかなり多く存在する。本書は『虹魚は海に消えた』に続く、民俗学専攻の大学院生・佐川京介ものの表題作に、『はなやかな追跡者』という中篇が加わった作品。

山奥にある集落、鬼ヶ沢に住む友人宅に向かう佐川京介は山奥で白い着物を着た謎の老婆と行き会う。またその直後、気を失っている辺見京子という若い女性を発見した。彼女は「ふくろう……」と謎の呟きを口にする。京子は鬼ヶ沢に自宅があるのだが、その辺見一族は数百年前の戦国時代に先祖が起こした事件以来、ずっと呪われているのだという。そして二人が到着した直後、村内でも老婆が目撃され、京子の姉が痛ましくも死体となって発見される事件が発生した。 『ふくろうが死を歌う』
生き別れになっている兄を頼りに上京してきた南条佐恵子。しかし兄の香取慎一の経営するフォト・スタジオの住所には谷川勝巳なる人物が経営するデザイン事務所があるばかりであった。佐恵子は谷川に兄の事を尋ねるが彼は知らないという。行く先のない佐恵子に谷川は事務所に住み込みで務めるようにいい、佐恵子はそれを承諾する。佐恵子は兄の居所を探そうとするが、奇妙なことが次々と発生した。 『はなやかな追跡者』

まんま横溝世界をコピーした表題作と、人捜しサスペンスの佳編と。
やっぱり印象が強烈な表題作『ふくろうが死を歌う』から。これが凄いのだ。山奥にある人里離れた村。村にまつわる過去の悲惨な歴史。その歴史がもとになって村に伝わる陰気な子守歌。その子守歌の通りに殺害される因縁の一家。黄金の仏像に、名探偵がいきなり現場を離れてしまうというところまで、まんま横溝正史のどこかで見た作品がいくつか合わさったような世界なのである。そういう意味では現代の読者にもある程度の親和性があるともいえる。また、中編サイズの分量のなかで、これだけの雰囲気作りをあっさりやってのける点は評価できる。ただ問題もあって、というかそれが致命的でもあるのだが、トリックがちゃちなこと。ミステリとしては平々凡々な結末になってしまっており、意外性は小さい。読んでいてするすると引き込まれることは確かなので、不満があるというほどのものではないが……。それにしても佐川京介、浮気ものよのぉ……。
『はなやかな追跡者』の方が、ミステリとしての出来は(相対的ではあるものの)高い。「銀座にある稲荷の数を調べろ」という奇妙な依頼といい、香川慎一の意外な居場所といい、物語の「謎」と「解決」のあいだの飛躍が大きく、力業を楽しませてもらった。 (ただあくまで力業なんだけれどね)。 事件の背景にある陰謀はかなり無理無理なものながら、銀座という街の特性を巧くトリックに埋め込んでいる点は評価したい。都会の特性に特化したかたちであれば、このようなケースがあってもおかしくない。

少なくとも表題作は横溝ファンであれば(そうでなくとも)かなり面白がれるのではないか。誰にでもお勧めできるミステリの傑作などとは間違っても言わないが、好事家にとってはそれなりに美味しい作品である。


04/03/07
加納一朗「虹魚は海に消えた」(ソノラマ文庫'76)

加納一朗氏は'60年に旧『宝石』誌にSF作品を発表してデビュー。その後、サスペンスやユーモア・ミステリを中心に活動をしてきた。その集大成ともいえるのが『ホック氏異郷の冒険』であり、'84年に日本推理作家協会賞長編賞を受賞している。本書はいくつか発表されているジュヴナイルのなかの一点。

新宿のビル街で、東京湾の埋め立て地で、そして高層ビルの建築現場。都内で連続殺人事件が発生していた。都会ならではの死角のかげで殺害されたのは浮浪者や肉体労働者で名前を偽って生活しており、その身許は不明。そして死体はほとんど現金を所持していない代わりに、金の延べ板を一枚後生大切に身につけていた点が共通していた。最初の死体の発見者となった民俗学専攻の大学院生・佐川京介は、素人探偵として活躍した実績から、警視庁の田所警部より協力を求められる。一方、その佐川のもとに美しく若い女性編集者が現れ、女性誌に掲載する原稿の執筆を依頼する。朴念仁の京介だったが、彼女の美しさに魅せられ、密かに”虹魚”となぞらえた。彼女は牧美也子といい、京介と美也子の仲は急接近。しかし何度目かのデートに律儀な彼女が現れなかった。彼女と連絡を取ろうにも行方が分からない。同居している彼女の妹の話を手掛かりに、彼女の実家にある島根県へ京介は向かう。そうして彼女と連続殺人事件との係わりが……。

オーソドックスなサスペンス。ただしジュヴナイルにしてはフーダニットの意外性が○
いろいろな要素で構成されているな、というのが読了後の印象。都会ならではの死角を強調した三人の連続殺人はミッシングリンク。京介と美也子の仄かな恋物語は青春ミステリ。彼女が失踪してからは人捜しハードボイルド風で、最終的にはさまざまな要素を考慮した結果、関係者を集めての謎解きへと至る。特に事件そのものが、探偵役である佐川京介の身近なところで発生するため、サスペンスの要素を全体的に強く持っている。
しかしどうだろう、あまり読んでいてジュヴナイルという印象を受けなかった。というのも、確かに恋愛を扱いながら濃厚なラブシーンの表現などはないし、そこここの描写が丁度、一般的な通俗ミステリー的な雰囲気に溢れているからか。後半も、主人公たちはブレーキパイプを壊され、また家一軒爆破という強烈な危険に巻き込まれかけるという展開の凄さには少々びびらされるのであるが、そこから過去の犯罪も含め「誰がそれを知り得たか」というあたりがキーになるところなどはそれなりに本格ミステリテイストがある。また、犯人の意外性(現在のマニアにとってはみえみえではあるものの)はなかなかのもののように思われる。ジュヴナイルでこの手を使ってもいいものかどうかとも少し思わないでもないが。
物語の場面展開、そしてスピーディな描写は心地よく、すらすらと読めるあたりは吉。ただ、考えてみると物語の背景にあるある大きな事件というか背景には、ジュヴナイルらしい冒険小説的背景があるともいえるか。金の延べ板があるところといえば、確かに金融を除けばそういったことになるわな、うんうん。これらかなり多くの諸要素を綺麗に融合させて、しかもさらりと仕上げているあたりに加納一朗の凄さがあるのかもしれない。

題名がべたべたなので、わざわざ現代の読者でそこから手を出される方はあまりおられないのではないかと思うが、普通のファンが読んでそこそこ楽しめる内容であった。期待せずに読んでみたら、意外と楽しめたというのが正直なところ。


04/03/06
山田正紀「化石の城」(二見書房サラ・ブックス'76)

「SF界待望の大型新人初の書き下ろし長篇!」と表紙に躍っている以上、本書は、現在多大なキャリアを誇り、未だに多くのファンを魅了する山田正紀初の書き下ろし長編。とはいってもこの段階で既に『神狩り』『弥勒戦争』は刊行されており、単行本としては三冊目にあたる。

一九六八年。若くして建設会社の第二企画室長を務める瀬川峻は、休暇を取り自腹でパリを訪れていた。近く開催される万国博覧会で禅寺を会場に移設するという企画が通ったものの、その鍵となる技術を持つ建築家・バチェラーと音信不通となってしまった為、彼を日本に連れ出そうと考えていたのだ。しかしバチェラーの返事は芳しくなく、瀬川の前にはかつての友人、池田灘夫が立ちふさがる。パリは労働者によるデモが頻発しており、彼らはその時代の動きに飛び込んでいたのだ。八方手ふさがりの瀬川の前にロバーツを名乗る男が現れ、バチェラーを連れだしてくれるという。その男に賭けた瀬川であったが、謀略に巻き込まれ、バチェラーは殺害され、瀬川は池田らのいる学生寮へと連れ込まれる。そこには学生運動の中心的人物サンデーや、その妹フライデーといった人々がおり、彼らがやろうとしていたのは、寮の地下の鍾乳洞の中に聳える《城》の移設であった。《城》はユダヤ人にとっての自由のシンボルであり、いつしか瀬川もその運動に身を投じるようになる。しかし、その《城》を巡り、実は大国が思惑を巡らせていた……。

SFというよりも筋金入った国際謀略スリラー。山田正紀の文体と世界観は既に完成の域
山田正紀氏の最初期の長編でありながら、このサラ・ブックス版以降、一度も別のかたちで刊行されたことがない――実際、他の山田作品でも単行本初版っきりという同様のケースはそれなりにあるにせよ――作品。聞くところによると、本書で使用されているものと同様のモチーフが後の長編で焼き直されているとのことで、やはり再刊はないのではないかというのが事情通のことば。しかし、読んでみれば本書は決して駄作などではなく、それなりのクオリティと山田正紀イズムが溢れた好編であったのだ。
本書の題名にある「城」とは、あのフランツ・カフカの『城』のモチーフになった城と同一(厳密に作品を読めばちょっと違うともいえるけれど)。一九六〇年代後半における国際政治の状況を踏まえ、そこに「地下鍾乳洞にある城を別の国に移設する」という学生たちの動きを加えたポリティカル・フィクション(学生運動もの)というのがその大筋である。実際にこの当時に世界を動かした政治家たちの名前が数多く登場し、彼らの行動はまさに歴史そのもの。加えてこちらも現実の思想史、宗教史を物語背景に用意しており、いくつか込められているフィクション部分に対する補強がしっかりと成されており、この手堅さは既に新人離れしているといっていい。また、主人公の造型といったあたりも後の山田作品に登場するヒーローに通じるところがあり、奇妙に感情移入できてしまう。破滅にひた走っていくところも、また。
伏線を効かした物語のどんでん返し、無力な主人公と圧倒的能力を持つ破壊工作員との戦いとその顛末、ヒロインとの破滅的な愛情交歓、歴史という抗えない波に翻弄される運動の指導者たち……といった描写や存在も見逃せない。構成力や発想は、後の山田正紀作品に比べても全く遜色がなく、そして何かしら繋がりを感じさせる。 文章からも、硬質な山田正紀らしさが溢れており、少なくとも現在の読者が読む分について違和感を覚えることはまずないといえる。

確かに大傑作とまでは言い難いが、山田作品の水準作品であることは間違いない。一時期に、山田正紀が大量に発表していた国際謀略ものの作品の原点ということもいえよう。熱心なファンならば、やはり手にとってみたいところ。


04/03/05
森村誠一「結婚の条件」(角川書店'04)

森村誠一作家生活40周年記念と題されて刊行された「○○の条件」シリーズの最新版。「KADOKAWAミステリ」に'02年から翌年にかけて連載された作品が単行本化されたもの。普通ならばスルーする本なのだが、署名本が大々的に売り出されているのをみて衝動購入したので、初めて「新刊で森村」を読んでみた。

逆玉の輿に乗ろうとする市野正敏という男に振られた平凡なOL、大塚彩は傷心旅行で上高地に出掛け、正橋と名乗る男と知り合う。何度かの偶然の出会いから正橋に惹かれるようになった彩や、正橋と結婚することになった。正橋はサラリーマンであったが地方の政治家の息子で、結婚後、急に引退することになった父親の地盤を引き継ぎ、市長として立候補することになった。市長夫人として慣れない生活を送っていた彩だったが、依頼されて書いたエッセイが馬鹿売れし、作家の道を歩み出す。発表する作品がまた売れ、”正橋彩”の名は全国区になっていった。しかし、彩のもとに谷山という高校の同級生から連絡が入り、彼女は暗澹とした気持ちに陥る。彩が隠していた過去――高校時代谷山らからレイプされ、写真まで撮影されていたのであった。彩は、市野正敏と連絡を取る。正敏は立栄グループ総帥の次女で、彩と同級生でもあった竹之内美和と結婚しており、彩はその立栄のグループ企業に勤める谷山に圧力を掛けようとしていた。しかし、そんななか谷山が何者かによって自殺に見せかけられて殺害された。正橋と彩、そして正敏と美和という二つの夫婦関係がそこから変化を開始する。

さすがにミステリとしての興趣は薄い。事件を通じての人間模様から「結婚」像を浮かばせる
いくつもの人間模様を描き出して下地を作ったあと、恐喝者を何者かが殺害。この殺人事件犯人が誰なのか分からないため、一応はミステリとしての体裁を取るかたちになっている。先に書いておくと、この犯人についてはそれなりの意外性こそあるものの、手掛かりがきちんと物語に配置されているとは言い難く、本格ミステリの犯人当てという興趣は少ない。ならば、この殺人事件は何なのかというと、結局、物語における平穏な結婚生活に投じられた一石なのである。
平凡なOLから華麗なる主婦作家に転身した彩、その彩を武器に政治生活を精力的に行う正橋、立身出世のために屈辱的な結婚生活を送っている正敏、夫を一顧だにせず、浮気を繰りかえす美和。平凡とはいえない、かなり特殊な条件をもった二つのカップルが、事件を通じてどのように変貌していくのか、が本書のキモになるといえる。ストーリー展開は手慣れたもので、事前にプロローグで伏線を張っており、沖藤という若い刑事を捜査側の主要人物として置いてあり、ミステリ部分についても落ち着いて読むことができるし、関係者全員が犯人に対する殺害動機を持つなかで、互いに疑心暗鬼に陥るどろどろの人間関係の表現の妙に関しては、森村誠一ならではともいえるだろう。特に、関係者全員が奇妙に冷静で、オトナの解決を図ろうとするあたり、ベテラン作家ならではの余裕を感じる。(とはいっても森村作品なので、展開のなかには生理的不快感を覚える箇所が多いし、セックスやその他性的事項に関する描写も、昨今のミステリの潮流のなかでは珍しい程に目立つ)
とはいっても不思議なのは読み終わってみれば、そういった不快感よりも、結婚というものは不思議な契約なのだなあ、と奇妙な感慨に打たれる点か。決して自分自身が心情を移入できるものではないながら、いろんな人生があるもんだな、と興趣を覚えてしまうのだ。ミステリを読んだというよりも文芸作品を読んだ時の感覚に近い。

冒頭に書いた通り、今や森村誠一氏は作品を発表している推理作家のなかでは既に長老格に近い。それでもまだきっちりとこういった作品を出してくるのか、というあたりを個人的には再発見した気分。題材の取り方、こなし方にはよくも悪くもベテランらしさがあり、さすがに若さを感じることはないし、敢えて若い読者に勧めようという作品でもないのだが、長く活躍する作家にはそれだけの実力があることを感じることは出来るのではないかと思う。


04/03/04
若竹七海「水上音楽堂の冒険」(東京創元社'92)

かつてMYSCONのゲストとして参加してくださった若竹七海さんが「再刊する気がしない」と仰っていたのが『心のなかの冷たい何か』と本書。『ぼくのミステリな日常』によって鮮烈なデビューを飾った、若竹さん自身にとっての三冊目の書き下ろし長編。思うところあって再読してみた。

論文入試でR大学に揃って合格した荒井冬彦と中村真魚。に同じ高校の三年生である二人に、同学年で眉目秀麗な坂上静馬とを加えた三人は、昔からの付き合いで大の仲良し。そして冬彦は、旅行で家にほとんど家にいない母親の代わりに兄の辰彦がほとんど親代わりとなって育てられており、母親の愛人である政治家の援助を受けて暮らすという環境にあった。去年の九月、冬彦は、ある事故で頭を打ってから、彼の記憶が時々混乱するようになった。経験のないことを記憶していたり、予知したり、既視感が増えたり。彼の言動は周囲を気味悪がらせるが、医者の診断結果は単なる脳震盪。そんななか、坂上の所属する合唱部が、学園にある水上音楽堂で卒業コンサートを行うことになり、冬彦と真魚はその手伝いをすることになる。合唱部には坂上を慕う後輩・北浦水江がいたが、その準備中、水江の冬彦に対する暴言に坂上が切れる。準備を終え、帰宅した三人であったが、翌朝、その水江の他殺死体が学園内部で発見された。凶行は水上音楽堂と思われたが、現場の状況から坂上が容疑者として上がる。冬彦と真魚は、彼の無実を信じて探偵活動を開始する。

学園もの青春ミステリにして本格ミステリ。だが驚異的なまでの後味の悪さが若竹流
最近の若竹作品に比べると、文章表現がやや硬かったり甘いところがあったりと、少々読みづらさを感じた。また、場面描写等も優れているとは言い難く、その情景がなかなかすんなりと頭のなかに浮かべられないところもあった。そういった欠点は当初から感じられたが、登場人物造型に関してだけは、絶賛若竹流。記憶に混乱を持つ主人公の冬彦から、さっぱりした気質で姉御肌の友人・真魚、モテモテ男にして彼らに優しい坂上、徹底的な自己中心派にして勝手な言動が目立つ北浦水江……。多少誇張がありながら、いいところだけでなく、きっちり彼らの悪いところ、欠点をも物語中に出してくるあたり、若竹作品ならではの登場人物だといえる。
物語中に登場するのは殺人事件が一つであるし、もしかすると徹底した科学捜査が成されれば、この事件は解決されていたのでは……と思うところがないでもないのだが、そこはお約束。その殺人事件を学生たちが推理するという、学園ベースの本格ミステリだけに留まらず、彼らの生い立ちであるとか、一人一人の性格であるとか、もちろん主人公の記憶の混乱も含め、”謎”は各所に配列されており、結構律儀にその解釈がつけられている。そして、それらの謎を通じて得られるものが、決して爽やかな物語ではないのに、どこか学園生活の真実を突いているところがあり、そういった表現者としての酷薄さに関しては若竹七海以外では描けないものだと感じる。本格ミステリとしての展開と、心理ミステリーとしての落としどころとを巧くミックスして後半のサプライズを何度も演出しているところも凄い。しかもそのサプライズがまた残酷なんだよな、これが。もしこの世界に自分がいたら、強烈なトラウマを人生に残しそうである。

各所に登場する主人公に対する侮蔑表現を示す四文字言葉「○○○○」。大胆に使われているこの言葉を何とかしないと、いずれにせよ再刊はちょっと難しいよなあ、と素人ながら思ってみたり。本書一冊だけだと後味の悪い作品としてしか記憶されないようにも思えるが、一連の若竹作品のなかにおいてはそれなりの位置づけになるような気がする。


04/03/03
福本和也「墜落」(角川文庫'81)

'58年の作家デビューの後、'63年に『霧の翼』を発表以来、福本和也氏は自らの飛行体験・経験をベースに、長らく航空ミステリーの第一人者として君臨してきた。本書は1960年代の後半、福本氏が旺盛に著作を発表していた時期の作品が集められた短編集。もちろん主題は航空関係である。

ジェット旅客機のパイロット嵯峨山から妻のことで話があると電話を受けた新聞記者の伊崎。その嵯峨山の乗った機体が墜落した。原因究明に走り回る伊崎の前に現れた事実とは。 『墜落』
朝鮮戦争時にパイロットとして働いていた浅倉は、機体を不時着させた後、操縦を諦めていた。しかし当時の中国人の同僚がパイロットを探していると浅倉に声を掛ける。 『失われしもの』
ターミナルビルのトイレから若い女性の刺殺死体が発見された。そのトイレから機長の山脇が出てくるところを目撃していた副操縦士の長沢は……。 『寒冷前線』
出来損ないの航空学校の生徒・酒巻に眼をかける教官の小野崎。彼は酒巻をかつての自分の姿と重ねていたが、自身は忍び寄る病魔に苦しんでいた。そんな二人が飛んだ。 『擾乱気流』
貧乏に苦しんだ清と茂の兄弟は異なる性格ながら、異なる理由で戦時中は航空隊を目指した。終戦後、没交渉となっていた二人は再び空の世界で相まみえることになる。 『棺桶と蝋燭』
新聞記者の浅井の要求で燃料少ない飛行機でタンカー火災の特ダネ『レシプロ機応答せよ』 以上六編。

突き詰めてしまえば、失敗すれば死。究極の極限的緊張感を見事にドラマに仕立てた
船乗りの場合、よく「板子の一枚下は地獄」というが、飛行機の場合は板子どころか機体の周囲は全て地獄だといえるだろう。何しろよく言われることではあるが、金属の塊が空を飛ぶのだ。もともと自然の摂理に反したことをしようとする以上、危険なものは危険であることを、より具体的に描き出すのが福本和也氏が得意とする手法である。
本書における作品に登場する人々は様々な背景を持っているが、何らかのかたちで”空”に係わりがある。とはいっても彼らも人間であり、空と関係あるなしに係わらず、泥沼の人間関係や不信、エゴといった負の感情を持つ。そういった人間ドラマを下敷きに、そのクライマックスを空と絡めるのが福本流なのである。ただ、その人間ドラマの部分が、不倫(しかも必要以上に描写が生々しい)であったり麻薬であったりスクープであったりといかにも三流ドラマ風なのが、今読むと痛痛しくもある。だが、クライマックスへの持ち込み方、決着の付け方にて空が絡むことでその不快感が多いに軽減されるように思えるのだ。”空”の世界、即ち、そのまま掛け値なしの命のやり取りになるからだ。ある意味、究極ともいえるサスペンスを自然に演出しているともいえよう。
その結末の付け方は、さまざま。ハッピーな余韻を残すものよりも、非情に残酷に空の世界を描く方が多く、どちらかといえば冷たい後味が残る作品の方が印象深い。ただ、同じ後味が悪いにしても、人間ではなく空の裁きによるものであるのが、ごく僅かながら救いだとも考えられなくもない。

福本作品は長編の場合、物語を膨らませるにあたって既述したような三流ドラマ風展開が多くなってしまう傾向があり、あまり感心しないことが多かった。本書は短編ゆえかそういった欠点が(無くなってはいないにしろ)かなり軽減されている。必要以上の専門用語の羅列も少なく、福本氏の知識と物語のバランスが良い方向に出ているといえるだろう。


04/03/02
都筑道夫「変幻黄金鬼」(富士見時代小説文庫'82)

本書は、一見なんの変哲もない都筑道夫氏の時代伝奇小説短編集なのであるが、テキスト的に面白い配列になっている点、注目したい。まずは表題作品の『変幻黄金鬼』は、都筑道夫氏の代表的時代伝奇長編である『魔海風雲録』のオリジナルとなった昭和二十年代に描かれた中篇版。ほか「都筑道夫ひとり雑誌」というかたちで角川文庫等でも刊行されているが、そのどちらかでしか未だに読めない。また続く三作もその前後に講談雑誌に発表された作品で、本書の他では桃源社で'81年に刊行された『魔海風雲録』に収録されている。後四編は『幽鬼伝』のシリーズで、昭和五十年代に発表された作品。これらは大陸文庫等にて刊行された『幽鬼伝』でまとめて読むことができるが、本書の場合、都筑時代伝奇小説の変遷を知るうえで比較対象として読むことができるという寸法である。

江戸時代。葡萄牙人が運んできた虎が逃げ出し、娘を襲う。その虎に戦いを挑む浪人・美代太郎。助けた娘は海賊の女頭領。彼女の父親の仇で、幻術を使う黄金鬼を討つため、美代太郎は船に乗り込んだ……。 『変幻黄金鬼』
遊び人の水城三之介は町で飾り羽子板を切ったり、奇矯な振る舞いをする美人に気付く。飲み屋でのいざこざで彼女を妻ということにした三之介の家には、秘蔵の宝物があり、それを狙う者共がいた。 『赤銅御殿』
柘植春太郎は丑の刻参りをする女性を襲いかけるが、間に入った怪盗・天狗小僧に阻まれる。反省した春太郎はその女性を袖にした許嫁の変心を探ってやることにする。その背後には怪しい商人が……。 『地獄屋敷』
上野を脱出した彰義隊の若者二人は、空を飛ぶ天女を目撃する。その天女が森に落ちたのを助けた二人だったが、彼女はいつの間にか姿を眩ませる。何とか横浜にかつての手代を頼って潜り込んだ二人だったが、その彼女と意外なかたちで再会する。 『妖説横浜図絵』
鉄製の数珠を使う岡っ引きの弥八。彼にいきなり襲いかかる謎の浪人。彼は死んだが弥八自身が狙われているらしい。弥八は元八丁堀同心の稲生外記に相談に出向くが……。 『からくり念仏』
江戸の街を疾走する物取りが、何者かに矢で射られて死亡する。凶器となった朱塗の矢を握った稲生外記の愛妾・涙は失神する。何か恐ろしい気が込められているのだという。 『矢がすり菩薩』
髑髏をかたち取ったかんざしによって木に紙人形が打ち付けられる事件が発生。その紙に名前のあった娘が誘拐される。果たして事件のからくりは? 『髑髏かんざし』
寺の地蔵堂。地蔵の首が切り取られ、代わりに若い娘の首がすげられるという事件が発生。涙の力により娘の身許は知れたが、その店は娘には何事も起きていないと言い張る。 『首なし地蔵』 以上八編。

都筑道夫の伝奇小説。その立ち位置はずれず、展開の愉悦は時代を超える。初期と後期の内容差も妙味
後の都筑道夫氏の活躍の軌跡を考えるに、時代伝奇という分野は、氏の得意とする世界ではあるものの、その全てではない。それでいて二十代のまだ駆け出しの時代にあって、これだけの作品が書けるという点が凄い。前四編は講談雑誌掲載作品らしく、展開が急ぎすぎている感はあるものの、その臨場感であるとか、場面転換であるとかは既に素人離れしており、後期都筑伝奇作品との差異はあまり感じられない。とはいえ丁寧にみれば、その荒唐無稽の度合いが大きいであるとか、若気といったところもあるのだが、逆にミステリ的なトリックであるとか構成における謎であるとかを短いなかに詰め込んでおり、伝奇のなかに微妙なサプライズを織り込んでいる点が面白い。特に『妖説横浜図絵』でみせる前半の不可解シーンなど、後半に論理的に明かされるのだが、その内容と、また理由が付くことそのものに二重の驚きを感じた。ま、無茶といえば無茶という解釈とはいえ、その心意気がいい。
一方、後半の四作品は再読になる。ただ、前半と比較するとそれほど大きく作風は変化はみられない。いや流石に時代風俗をさりげなく物語に込めたりといった、都筑氏の描き出す時代小説の良さみたいな部分はきっちり踏襲されているし、洗練の度合いは前四作よりも確かに高い。ただ、根底にある奇想といった部分にはあまり揺らぎがないのである。勢いよりも周到さがある。ただ、個々の描写といった力の入り具合は前四作の方に、より力強さを感じる。
だが、同じ作者で執筆時期に三十年以上の時を超えているとは到底思えないのだ、これが。最初の最初から都筑節は健在であり、そして何十年経過してもその初心を都筑氏が守り続けたということか。通して読むと時代伝奇小説ならではの面白さがかっちり伝わってくるのである。

後四編は『幽鬼伝』に収録された際には改題されているが同じ作品。また本書のあとがきは、最近でた光文社文庫版の『魔海風雲録』にも再収録されている。ただ、やはりあとがきは、オリジナルで読んでこそのもの。この時代をわざと越した編集に素直に面白さを覚えた次第。


04/03/01
森 雅裕「推理小説常習犯 ミステリー作家への13階段+おまけ」(講談社+α文庫'03)

'85年『画狂人ラプソディ』にて第5回横溝正史賞の佳作、そして『モーツァルトは子守唄を歌わない』で第31回江戸川乱歩賞を受賞して華々しくデビューした森雅裕氏。その森氏は創作に対する職人的姿勢と、不器用な青春ストーリーを書かせると天下一品のそのセンスから、カルト的ファンを多く擁しているのだが、出版社との折り合いがうまくなく、最近は全く新作が刊行されなくなってしまった。その要因ともいわれてる問題書が本書。'96年8月よりKKベストセラーズより新書版にて刊行された作品に少々増補情報が加わって、初文庫化されたもの。

(一応)推理小説作家への道を入門書風に描いた『推理作家への道』と、推理小説その他にまつわる言葉を辞書風に綴ったエッセイ『ミステリー作家風俗事典』の二部構成となっている。
『推理作家への道』の十五項分のみ章題を書きしておく。
「あなたも推理作家になれる だが、それからが大変だ」 「テーマと人物設定」 「心がけと文章修業」 「ネタの拾い方」 「執筆にあたって」 「ストーリーの作り方」 「道具の選定」 「受賞前後」 「業界処世術」 「責任ある仕事」 「金のはなし」 「新人が陥る罠」 「ストーリー作りのお約束」 「リアリティ」 「売り込みが失敗したら」 「それでも作家になりたいか」

業界人が業界のルールにたてつくとどうなるか。ミステリ作家の華麗で厳しい現実の直視には最適?
”大賞賞金一千万円!”といった賞の惹句のみが世間一般に流通し、ごくごくごく一部の大ベストセラー作家の年収が長者番付に入ってしまうがゆえに、ミステリー作家という職業は誤解を受けてきた。即ち、ミステリー作家=お金持ち、の図式である。”先生”と祭り上げられ、豪邸を建て、外車を乗り回して、銀座のクラブで豪遊する。――しかし、ミステリサイトを何年もやっていれば(そうでなくとも作家の知り合いが一人でもいれば)、それが(ごくごく一部にそういった先生がいるにしても、ほとんどの作家にとっては)途轍もなく大きな誤解であることは直に分かってしまう。中堅どころのミステリー作家が一年かけて準備をして書き下ろした単行本。これから得られる収入は、実は初版止まりということになってしまうと○○○万円程度にしかならない。ベストセラー作家となって大金持ちになるのは、上場企業の社長になるよりも遙かにムズカシイことなのだ。実際のところ単純に比較はできないものの、一般的なサラリーマンと同年代の中堅ミステリー作家(どのレベルの人を指すかは難しいが)を比べると、多くのケースでサラリーマンの方が年収は大きいはずである。
その収入に関する”誤解”が解けたとしよう。しかし、次に待ち構えているのは恐らく「自由業なのだから、好きな時に好きなように好きなものを書けば暮らしていけるなら、宮仕えよりもいいじゃない」といった誤解である。本書におけるキモはこの誤解を解いていくあたりがポイントになっているのではないかと考える。売れている間も、マスコミや編集者に振り回され、書いた作品が本にならず、作家自ら営業を行い、しかも金払いの悪い出版社を相手にしなければならない。徹底的に調べた事実を俗説から間違いと指摘され、書評家や編集者は題名さえきちんと覚えておらず、他の誰かと間違えて連絡してくる。売れなくなると手の平を返したかのように扱いが冷たくなり、人間づきあいも完全に途切れる。作家というのは何と苦労の多い職業であろうか……。
ただ、本書を読んで思うのは、出版社・編集者にとっては作家=作品は、悲しいかなあくまで商品なんだということ。作者本人の思いとは別に”価値”は別のところで決められてしまう。このあたりは難しいのだが……。私憤・悲憤を向けられた編集者側にも、あまりにも非常識な一部の人間を除くと、個人的には理があるのではないかと本書から逆に思わせられるのも皮肉な話である。

ただ、本書には歴史的な価値も少なからず存在する――。森雅裕が出版界のタブーに触れたという意味合いで取り上げられることの多い本書ではあるが、1990年代初期〜中期にかけての出版事情がいろいろと分かるのである。恐らく二十一世紀に入り、ミステリーを取り巻く出版環境も変化を遂げつつあるはずで、この当時の裏事情が回顧できるというのはそれだけでも貴重だといえるのではないか。