MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


04/03/20
戸梶圭太「あの橋の向こうに」(実業之日本社'03)

「異才トカジ、初の恋愛小説」 という帯コピーが結局のところ問題。これは「大嘘」です。と冒頭で書いておこう。本書は、これから戸梶圭太を読み出そうという初心者(や、恋愛小説好きの女性読者)には絶対に向いていない作品で、これまでの破壊的破滅的戸梶ワールドが大好き、という従来通りの読者向けの作品である。 ……えっと、書き下ろし。

矢追芳美、二十七歳。都内の会社で同僚と三人、朝から晩までひたすらデータ入力するのが仕事。六時前に起きだして一時間半の通勤をこなし、夜中の十時半までひたすらデータ入力して十二時過ぎにホウヨ市にある家に帰り、寝るのは一時過ぎ。多くのストレスを抱えて体調不良が続き、不愉快な同僚や上司によって更にストレスが倍加される毎日。癪に触るのは毎日通わなければならない、駅から自宅までのあいだにある橋の存在である。再就職のあてもないので会社は辞められないし、彼氏もおらず、夢のない毎日。そんなある日、朝の通勤電車が事故で大幅に遅れた。その時に芳美に声を掛けてきた男性がいた。鈴成周雄と名乗るデザイナー。周囲にはいない雰囲気、そしてちょっといい男である彼に芳美は好意を抱き、次の週末にデートする約束をする。そしてその週末、やはり周雄は楽しかった。初回のデートでホテルに引っ張り込まれたものの、芳美は次週も会う約束をする。二回目のデートもまたセックス。しかし周雄のテクニックに芳美は溺れてしまう。しかし、その翌日から、芳美が必死で連絡を取ろうとするものの、周雄からのメールや電話が一切途絶えてしまう。

エロ小説まがいの描写、徹底的なストレス。安い人生を赤裸々に見せつけられても……
「サプライズが全て」という意味では確かに驚いた。冒頭の作者のことばがこう。「私が今よりずっと真面目だった頃の彼女へ」。こういうスタートをかましてくれる以上、あの戸梶といえどストレートの恋愛小説を書き出したのか……と思いますよ、最初は。もしかしたら、作者自身もそういう作品を書こうという心意気はあったのかもしれない。ただ、数ページ読んだところで違和感はすぐに発生するようになっているのだけれど。主人公が安い。安すぎる。
どこにでもいるOLの何の楽しみもない人生。ほんの少しのクライマックスは結局は、更なるどん底への導入に過ぎない。ジェットコースターが滑走しだす前に、高いところに登っていくのと同じ。あとは奈落の底へとまっしぐら。その描写もあまりに赤裸々で、セックスシーンはエロ小説(いわゆる下品な意味での)の描写をもって描かれ、その彼に振られた後の主人公に至っては、電波系へと至ってしまう。はじめから電波系であれば、いつものトカジ作品だよなあ、として読めるのであるのだが、本書の場合はその伏線はあるものの、極端さが過ぎる。性的妄想に囚われ、一人で変態的行為を繰りかえし、客観的にもおかしな行動を繰りかえす描写が続く後半は読んでいて苦痛を覚えた。どこかで取り返すのかと思いきや、最後の最後まで他力本願、向上心皆無のクソ安電波女の生活が描写され続ける。最終的に電波女として本人は生きることになる、というのはカタルシスというよりもオチである。
これまでトカジ作品をほとんど読んでいる当方としてはかなり免疫がある筈なのだが、それでもちょっと本書はキツかった。

ゲテモノ小説好きの方以外にはちょっと勧められない。読み終わって表紙絵をよく見ると……。


04/03/19
恩田 陸「まひるの月を追いかけて」(文藝春秋'03)

もはや説明無用の人気作家・恩田陸さん。『オール讀物』に'01年から'02年にかけて掲載されていた作品が一冊にまとめられたもの――といっても、長編作品である。恩田流のトラベル・ミステリーということも出来るのではないだろうか。

離婚して働きながら一人暮らしをしている静は、異母兄でライターをしている渡部研吾が失踪していることを、研吾の元恋人である君原優佳利から知らされる。研吾は三週間前、奈良を取材中に行方不明になったのだといい、静は優佳利に、その奈良に一緒に行かないかと誘われる。ちょうど仕事のリフレッシュ休暇が利用できることもあって静は了解、二人して新幹線に乗り、奈良へと向かった。研吾の辿った道行きを同じように辿り、手掛かりを探すことが目的だったのだが、あることがきっかけで優佳利を名乗る女性が、実は別の人物であったことが判明する。古都・奈良の名所旧跡を辿るうちに静は研吾とも会うことができるのだが、旅の目的は知らないところで二転三転し、そして研吾、優佳利、そして妙子という女性の仲良し三人組の一風変わった関係が徐々に浮かび上がっていく……。

前提を次々とひっくり返すことで不思議なサスペンス感覚を編み出す。奈良という舞台も悪くない
奈良の明日香村。最近は合併問題等で揺れるこの地ではあるが、古墳や遺跡の数多く残された奈良県の観光名所のひとつである。恩田さんはこの作品を発表するにあたり、舞台をこの明日香村においた。女性二人が、東京から明日香へとやってくる序盤は「おやおやトラベル・ミステリかいな」という落ち着いた展開。だが、優佳利を名乗る女性が、実は別人だったと判明するあたりから、物語の座りが悪くなる。旅の目的も変わり、彼女の目的も変わり、静の目的も変わっていく。 ようやく関係性が見いだせたかと思った瞬間に、読者は次の展開に飲まれていく。彼と彼女と彼女と彼女は、果たして実際はどういう関係だったのか。この旅の目的は何なのか。研吾は何を考えているのか。 だが、そういう前提の変転を続けていくなか、女二人は旅をそのまま続ける。 石舞台や高松塚古墳といった観光名所巡りも物語のなかでは主要の要素。複雑な人間関係の謎を孕みつつも、観光旅行が当たり前のようにそのまま続けられるあたり不自然だが、その不自然さがかえって人間くささを生み出しているのが恩田流でもある。非日常の空間だからこそ、日常的ではない人間関係が浮き彫りになっていくあたりに、ドラマと舞台の関係性がある。(明日香である必然性は特にはないのだが、作者自身お気に入りなのであろう)。結末部分に意外性はあるといえばあるのだけれど……、実際のところこの意外性がきつすぎて、生々しかった人間サスペンスが、度を過ぎた関係性をもったファンタジーに昇華してしまったかのような印象を受けた。(だからいけないということもないのだが)。
これまで恩田さんの人間ドラマはクローズド・サークルや、特殊な環境下で描かれることが多かったが、本書はそれを乗り越える試みだともいえる。ただ、非日常であるという点、大きな意味では閉じた環境であるともいえるか。個人的に、明日香村を観光したことが一度だけ、それも小学生の時分にあるのだが、当時感じた不思議なインパクトを改めて思い起こすことができた。(ただ、一度もこの地を訪れていない人はどうなのだろう?)

意外と? 奈良の名所についても資料引き写しとは異なったかたちで詳しく書かれており、人によっては奈良を訪れてみたくなるのではないか。(実は漠然と私はそう思った)。数日かけて国内観光地をのんびり回るという旅に対する憧れ、うらやましさみたいなものも感じた。ミステリ、及びサスペンスとしても特異な試みが仕掛けられた作品として読むことも出来ようが、恩田流のトラベル・ミステリでもあることを意識の片隅に置いておきたい。


04/03/18
都筑道夫「猫の舌に釘をうて」(講談社文庫'77)

'61年、本書は『やぶにらみの時計』に続く、都筑道夫書き下ろしの長編第二弾として東都書房より刊行された記念碑的作品。 様々な版が存在し、大衆文学館版が入手できなくなったと思ったら、光文社の都筑道夫コレクションでまたもや復活した。

「私はこの事件の犯人であり、探偵であり、どうやら被害者にもなりそうだ。」
淡路瑛一は売れない推理作家。彼は今や人妻となってしまった有紀子を、独身時代からずっと愛していた。しかし、淡路の煮え切らない部分と運命の悪戯によって、有紀子は塚本という性に変わってしまった。彼は、有紀子の夫である塚本稔に殺意を持ってはいたが、実際に殺すつもりなどない。殺すと有紀子が不幸になる。しかし淡路は自分の気持ちを整理させるべく、行きつけの喫茶店《サンドリエ》に来る、塚本稔に似た後藤という男を、しかも殺人のシミュレーションをしようとする。淡路は有紀子の家に行き、風邪薬を一包盗み出し、念入りに準備をして後藤のコーヒーに注ぎ入れた。しかし、後藤はそのコーヒーを飲んだ途端に死亡してしまう。淡路は犯人となったが、この薬はもともと有紀子が飲むはずのものであった。果たして彼女に殺意を抱いているのは誰なのか。淡路は探偵となって秘密裡に捜査を開始する。しかし、その捜査に気付いた犯人から淡路は殺されてしまうかもしれない。淡路は捜査記録を、表紙だけある書籍の束見本に、日記のように記入しておくことにした。しかし有紀子もまた不可解なかたちで殺害され、その束見本には何者かによって「読者への挑戦状」が書き込まれていた……。

構成の妙味が極上。そしてテキストでしか為しえない試み。さらには煮え切らない男の哀しい恋愛譚でもある
購入している光文社文庫版では本書を含む合本は《青春編》とされている。この点、慧眼だと思う。本書は意欲的な本格(変格)パズラーを狙った作品であると同時に、どこか哀しい青春小説ともいえるのではないかと再読してみて感じていたから。こんな性格じゃあどうしてもモテないわなあ、という主人公。しかし、彼なりの思慕の情が事件を引き起こし、そしてややこしくし、一人三役というシチュエーションを作ってしまったともいえる。全編を通じて描かれるこのネガティブな恋愛感情は、本書の持つ印象を題名などからくる軽やかさを切り離し、どこか重苦しい雰囲気に作品を繋げていく。しかも主人公、情けないばかりに負け続ける。これはこれで仕方ないことなのかもしれないが――、物語としては結構読んでいて辛い。トリックの終着地に大きな魅力があるがために読み続けさせられるという作品なのかもしれない。
ただ、世評でも既に固まっている通り、構成については極上だと改めて感じる。束見本(本を刷る前に厚みや表紙を確認するための中身が白紙の本)を利用したトリック。記憶喪失などアンフェア(利用の仕方によってはこれもアンフェアではなくなるが)な手段を利用せず、一人三役を物語上で実現してしまう力量等々、マニア級のミステリファンをきっちり唸らせるだけのテンションが存在する。また、テキストを利用した○○○○○○と見せかけつつ、実は……という終盤の展開は、その内容以上に”本”の使い方が独創的で面白い。(ただ、冷静に考えると作品内部の犯罪に関する最終的な動機等に関しては、平凡に過ぎるように思え、少々不満がなくもない)。少なくとも発表年代まで含めるといくつもの、これまで誰もがしてこなかった試みが作品にあることは間違いない。そして、それが単なる実験に留まらず、ミステリとしてきちんとこなれている点が都筑道夫としての矜持であり、センスなのだと思う。

御存知の方は御存知の通り、主人公につけられた淡路瑛一という名前は、二十代の頃に大量に使い分けて書きまくっていたころの都筑道夫氏のペンネームの一つ。主人公自身が、都筑道夫氏の分身としての意味合いがあった可能性がある(とはいっても私小説にはなっていない)。何のかんの書いたが、国産ミステリとしては異色にして傑作。読んでないなら読んどけ、ということだけは間違いなくいえる。


04/03/17
辻 真先「ローカル線に紅い血が散る」(徳間文庫'85)

キャリアも長く、数多くの著作がある辻真先氏。氏の熱心なファンに伺うと初期作品のほかに必ずといっていいほど題名が上げられる作品が本書。トラベル・ライター瓜生慎と、その恋人で大富豪の跳ねっ返り娘・三ツ江真由子のコンビが主人公兼探偵役を務めるシリーズ作品の一つ。元版は'85年に徳間書店より刊行されている。

女子大生ながら瓜生慎と同棲生活を送る真由子は、大学の同級生・祖父江毬子から恋のお手伝いをして欲しいと頼まれる。毬子は石川県にある加濃北線というローカル線沿線の大地主・祖父江重吉の娘。この土地で有力な議員である須川の甥っ子・春行と勝手に結婚話が進められているのだという。毬子には高校時代の先生で太刀川清と交際していたが、加濃北線の廃止に伴う利害が賛成の重吉と反対の清とのあいだで激しく対立していた。その加濃北線も数日後に廃止されることが決定。土地の人々や、関係者の話を真由子は聞き、心を痛めるがどうにもならない。そして、重吉の元愛人や役者である毬子の兄の劇団らがその土地に集結してくるなか、毬子と真由子は執拗に迫ってくる春行から逃れるため、福井県の芦原温泉に出掛ける。どうやら瓜生慎もこの地に向かいつつあるらしい。そして、そこに悲報が届く。祖父江重吉の死体が加濃北線の廃線区間で轢殺された姿で発見されたのだ。廃止されて列車の通っていない区間で、なぜそんな事件が発生したのか……??

JRになる前にもがき苦しむ国鉄と土地の人々への視線、そして途轍もない不可能犯罪のコラボレーション
構成が洒落ている。 章ごとに発表当時の国鉄ローカル線の名前が付けられており、物語もそのローカル線にまつわる話が綴られる。その土地土地の描写も(現代風のトラベル・ミステリーとは少々趣が異なるが)なされており、まずはトラベル・ミステリとしての体裁は整っているといえるだろう。ちなみに挙げられているのは、士幌線、加濃北線、三国線、宮原線、加濃南線、山手線、美幸線。特に、関係者を集めて山手線車内で謎解きをするラストシーンは圧巻。普通こんなアイデアは出てこない。ちなみに、挙げられたローカル線は2004年現在、加濃南線は長良川鉄道として残っているほかは全て廃止されている(と思う。あまりこっち方面は詳しくないので)。
もちろん、廃止後の路線における轢殺という不可能犯罪が最大の魅力。列車が通らないところで何故、列車に轢かれた死体が出現したのか? また、もう一件、アリバイトリックもあり、普遍的な本格謎解きミステリとしてよく出来ていると感じる。しかし、本書はそれでいて実に見事な社会派的側面をも保持している。個人的には、これらトラベル・ミステリの要素、本格ミステリの要素、そして社会派ミステリの要素の三位一体がエンタテインメントとして成立している点に大きな驚きを覚えた。
特に当時の社会問題でもあった”ローカル線の廃止問題”を、実に器用にそして溢れんばかりの鉄道に対する愛をもって描く。鉄道に対する愛が深すぎるゆえに、微妙に本格ミステリのパートでそちらの要素が出過ぎている点だけちょっと気になったが、それでも、地元の、愛着ある鉄道が無くなってしまう人々の想いが全編に渡って溢れており、それが作品全体の好感度を押し上げる。テーマだけではなく、トラベル・ミステリにも本格ミステリにも社会派ミステリにも、全て”鉄道”という要素がきちんと、そしていろいろなかたちで絡まっている点も、統一感を上げる要因だといえるだろう。

辻作品には、どこか独特の軽さがつきまとう印象がある。しかし本書に関しては、その軽さと動機の深刻さとのギャップが印象を強めている感。今は絶版だが、徳間WEB書店で購入が可能の模様。とはいってもやはり本で、しかもローカル線に乗りながら読みたいとこでしょ、これは。


04/03/16
米澤穂信「さよなら妖精」(東京創元社ミステリ・フロンティア'04)

米澤氏は'01年、学園ミステリである『氷菓』で第5回角川学園小説大賞奨励賞を受賞してデビュー。その後『愚者のエンドロール』を著し、青春ミステリの書き手として一部には知られていた作家である。本書は初の一般向けレーベルでのミステリ作品で、「ミステリ・フロンティア」の第三回配本分である。

一九九二年七月六日。大学生である守屋路行は白河いずると喫茶店で待ち合わせていた。守屋はセンドーこと太刀洗万智に電話を掛けるが、彼女はそのことについては忘れたいのだという。もう一人、文原竹彦は彼らに対し手紙を送っていたが本人は来ていない。その代わりに彼なりに収集した情報が送り届けられていた。守屋と白河の二人は、守屋の付けていた日記と合わせ、あることをしようとしていた。一九九一年の四月、彼らが藤柴市にある藤柴高校の同級生だった時にやって来た、マーヤと名乗った女性が、どこに帰っていったのかを調べようというのだ。あれは唐突の出会いだった。冷たい性格であまり余人と気の合わないセンドーと守屋が二人で学校から帰る途中、不動橋の向こうの雨の中、大きなバッグを抱えた白人の少女が雨宿りをしていたのだ。「May I help you?」 彼らの英語は通じなかったが、それがマーヤとの出会いだった。行くところのないという彼女は、白河いずるの両親が経営する旅館に住み込むことになり、不思議な交流が始まったのだ。

日常という名の非日常。とらえどころなく、それでいて強烈な印象を残す不思議な手触り。再読をお勧め。
少年の成長を描いた文芸作品であり、日常の謎が鏤められたミステリであり、仄かなというよりも微かな恋愛を描く青春小説であり、ある時期の世界を切り取った社会的作品であり、そして、とらえどころがないように見せかけて、強烈な印象を残す傑作である。
具体的に書こうとすると、すぐにネタバレの壁に当たる。それでもあえて大枠をまず説明する。一年少し前のある時期に、平穏な高校生活を送る男女四人のあいだにやって来たのが一人の異邦人。その文化のギャップや、彼女の考え方に影響を受ける彼ら。そして彼女は約束の期間が過ぎると帰国してしまうのだが、約束していた彼女からの連絡が来ない。主人公である守屋の日記(というよりも、当時の回想)が中心にあり、その回想を包み込むようにして「果たして彼女はどこに帰っていったのか」――を後から推理する外枠がある。
一応は、テキストに記述された事柄から、その答えが導き出されるタイプのミステリではあるし、その部分についてはフェアな構造になっている。だが、本書の本質(作者がいちばん言いたかったこと、書きたかったこと)はそのミステリ部分にないことは明白なのだ。つまり、普通の意味でのミステリ的サプライズを狙った作品ではない。また、中途に挿入されているエピソードのなかにも、墓に供えられた紅白饅頭や、彼らの名前の意味についてなど、Tips程度のミステリ的要素も数多くある。しかし、それらも厳密に考え抜かれ、全ての他の可能性を否定されたものではなく、要素から蓋然性の高いポイントを抜き出して得られる最適解に過ぎない。ただ、そういった謎解きは、主人公たちの性格や考え方を補強するための要素としては重要な役割を果たしている。このあたりはデビュー作品である『氷菓』においても、謎の使い方に似たようなところがあったように思う。
ただ、それでも本書はミステリである。最終的に明かされる真実があり、そしてその内容を踏まえて日記部分を再読すれば、細やかな作者の配慮に気付かされる。ただ、それは配慮というよりも、人を見る目の変化によってもたらされるものだといえばいいのだろうか。細やかな人間描写が実に繊細で巧く、ある意味これらも伏線によって微妙に支えられている。つまり、主人公は同じ視点で周囲の人々を見ているにもかかわらず、その行動やしぐさといった一つ一つの意味合いが、最初に通読した時と、真実を知ったあとでの再読とで鮮やかに変化していることに気付くはず。実にさりげないので看過されがちな点ではあるが、本書にはそこまで踏み込んで読むだけの価値があるように思う。物語が醸し出す素朴ともいえるトリックを見逃して欲しくない。
ただ、読了後にもっとも印象に残るのは十代後半のアイデンティティへの目覚め、日常の自分を冷静に見つめ直すこと、若さゆえの甘さ、日本人の平均的高校生の小ささ……といった、誰もが通る、ないし通って来た道筋、考え方を再発見させられたという事実かもしれない。異邦人であるマーヤとの交流によって、自分の立ち位置を相対化していき、そしていろいろなことに気付く。だが、気付いたとはいっても、それがまだまだ甘い考えであることを思い知らされる衝撃。主人公の一人称の日記を後で振り返る場面等々、本書はそういう価値観の相対化の場面が多くある。主人公に感情を移入して、そして読者自身の小ささに改めて気付かされるのはショックでもある。

ひとことでいえば「ミステリの体裁を借りた青春小説」なのであるが、その青春という部分の描き出し方が並みではない。 普通のミステリが与えてくれるものとは別の、物語が編み出すサプライズ。「成長」というキーワードをミステリに応用してしまう作者の巧さ。手に入るのは満足感と、一抹の寂寥感。驚倒させられるタイプではなく、じわじわと味わえるタイプの傑作だといえよう。今後、どのような世界を見せてくれるのか楽しみな作家がまた一人増えてしまった。


04/03/15
沙藤一樹「不思議じゃない国のアリス」(講談社'03)

D-ブリッジ・テープ』にて第4回日本ホラー小説大賞短編賞を受賞してデビュー。その後『プルトニウムと半月』『X雨』の二冊を刊行している。本書は初の短編集で『小説現代』誌に'01年より'03年までのあいだに掲載された短編と書き下ろし一編が加えられた内容となっている。

地元の信用金庫に勤める田中由記子は、スクーターでの通勤途中に木彫りの熊の置物を持った不思議な少女と知り合う。関西弁を使う彼女は十五歳の女の子。そして二人はいろいろなことを話し合う。 『不思議じゃない国のアリス』
廃墟のビルに一人暮らすハル。彼は色覚異常で周囲が青と灰色にしか見えない。その彼のもとにやって来た少女・月子。ハルは記憶を失っている月子に思い出を必死で語る。 『青い月』
周囲の全てがニセモノに感じられる哲也は家を逃げ出した。哲也は入り込んだビルで殺人を行う黒い服の男を目撃する。彼は自分をホンモノだというので哲也は彼を手伝うことにする。 『飛行熱』
オンラインのRPGゲーム「ARKS & ARMS」。仮想空間上でパーティを組んだ、現実世界での接点のない若者たちはチャットのなかで本音を語り、現実にはそれぞれ問題を抱え込んでいた。 『空中庭園』
わたしにしか姿の見えない天使、アマリリ。彼女は銃を持っており、わたしの指示で気に入らない奴を撃ち殺していく。とはいっても実際は死んでいない。わたしはクラスメイトを次々と撃つ。 『銃器のアマリリ』
私は電車に乗って様々な光景を眺めている。外に見えるのはヨーロッパの田園風景。電車が徐行するうちに彼女たちは近づいてきて、あることを言う。 『旅をする人』 以上六編。

ムラっけがありながらも、物語と登場人物が嵌った時に、時折見せる切れ味が滅法鋭い
不器用ながら、物語を心のなかに沢山抱え込んでいる人――というのが、まだ二冊しか読んでいないながら、私が沙藤一樹という作家に対して覚える印象。デビューしてからかなりの時間が経過しているにもかかわらず、著作が四冊。そしてその四冊目の推薦文が後輩でしかも世代的に一つ後になる乙一というあたりはどうかとも思うのだが、マーケットの対象として乙一の読者とどこか重なっていそうだと編集部が判断したことは間違いない。乙一は物語作家であり、器用にその世界をつるつると表現していき、沙藤一樹もまた物語作家でありながら、どこか不器用にぶつりぶつりと作品を発表している。しかし、その本質にあるであろう喪失感覚は非常に近しい。テクニックには残念ながら厳然とした差があるのだが……。
ミステリとしてのどんでん返しが利いている『空中庭園』。現実世界に問題を抱える若者たちが、仮想空間で活き活きと活動する……という展開は、大きな工夫があるでもなく、訳知り顔の評論家がいうところの若者像そのままである。ただ、それを実際に物語に仕立てた時に、これほどインパクトのある哀しい作品に仕上げられる点は才能であろう。『空中庭園』の世界を、その外に立った人間ではなく、未だその内部にある人間が描き出しているという印象。だからこそ、彼ら登場人物ひとりひとりが抱えている叫びが、語られていてもいなくても、胸に突き刺さる。
また、幻想小説としてぎりぎりのところで成立している『銃器のアマリリ』も好きだ。子どもの頃に目に見えない銃を撃ちまくった記憶が蘇る。そんなもやもやとした感情が、物語になって目の前に曝されるのはどこか懐かしくて恥ずかしく、そしてやはり寂しく哀しい気分となる。こういったかたちでしか表現しえない世界があることが気付かされる。
何か特別なことを訴えたいとか、そういう意図は作者にはないような気がする。例えば、本書の隠された主要テーマは”イジメ”を受ける側の心理にあるといった分析は可能なのだけれども、わざわざそういった意識を作者が持って物語を創っているようにみえない。心のなかからわき出してくる物語を、紙の上に記録していくだけ。それでいて、その物語が独立して訴えを持つに至っている。不思議な作家である。

しかし、編集の意向(つまり帯ね)とは別に、実際のところは乙一の読者と重なっているようでいて、実は重なっていないんじゃないか――、という気もする。ま、これはそれぞれ読者が決めることではあるのだけれど。


04/03/14
我孫子武丸「人形はライブハウスで推理する」(講談社ノベルス'01)

もともと角川ノベルズで刊行されていた腹話術の人形が探偵役という「鞠小路鞠夫」シリーズは講談社文庫に移り、我孫子氏の柔らかな方の作風が前面に押し出された内容は未だ手堅い人気を誇っている。本書はその四冊目にあたる短編集。『メフィスト』誌に'99年から'00年にかけて掲載された短編に書き下ろしが加えられている。「我孫子武丸xいっこく堂」の特別対談のおまけつき。

上京してきた睦月の弟が、ライブハウス内の殺人事件に巻き込まれ重要参考人に。駆け付けた朝永と睦月は、現場のトイレが厳重に監視されていたことを知る。 『人形はライブハウスで推理する』
「空の上のおばちゃんのところへママは行ってしまった」急に送り迎えに父親が来るようになった園児の家を訪れた睦月。その園児が大怪我を……。 『ママは空に消える』
殺人事件の被害者はテレビ・ゲームをしていたと思われるが、そのソフトだけが現場から消え去っている。鞠夫は解決のためにはそのゲームをプレイすることが必要だという。 『ゲーム好きの死体』
睦月に幼いプロポーズをした園児が、人形劇観劇の最中に行方不明に。終演後の会館と周囲を睦月は探し回るのだが、彼は完全に姿を消してしまった……。 『人形は楽屋で推理する』
朝永の芸を見て、弟子入り志願のために家に転がり込んできた男。彼の以前のバイト先の先輩がコンビニ強盗に刺されて死亡。なぜか容疑者にされてしまう。 『腹話術志願』
睦月の中学生時代の親友の思い出。しかし彼女に出した手紙は引っ越し先から宛名不明で返却されてしまい睦月の心に傷をつくっていた。 『夏の記憶』 以上六編。

本格ミステリとして軽めの展開が、物語展開の妙味を邪魔しない隠し味。内気な男女のほのぼのラブ・コメディ
何編か『メフィスト』で先に読んでいたこともあって、ノベルスが刊行された時に手に取らないまま時間が過ぎていたもの。改めて読み返して思うのは、本書はミステリというよりも興味のポイントが、この内気べたべたの”いい人”二人の恋物語の展開にあるということ。これまでの恋人同士の関係から、本書では着々とステージを重ねていくのだが、その進行の遅いこと遅いこと。でも、それがまた本書特有の味わいなのである。
ミステリとしてはかなり軽い。可能性を論理で突き詰めていくのではなく、それまで出てきた手掛かりから鞠夫が本質的直感でもって真相を探り当てるタイプ。なので、それぞれの謎に対して別の可能性があるし、それらが徹底的に検証されるようながちがちの本格ではない。とはいえ、物語上で警察がそのヒントをもとに犯人を検挙してしまうので、それで正解ということにされている。つまり本書におけるミステリの味わいは、推理の妙というよりも、ヒントから導かれる飛躍の妙にある。
また、今回はこれまで毒舌で鳴らしてきた鞠小路鞠夫の言葉も微妙に控えめであるし、物語自体にいろいろなかたちで”暖かみ”を強く付加しているのも特徴。この”暖かみ”の部分など、陳腐な展開なので先が読めてしまうのに、陳腐だからこその嬉しい暖かさを感じさせられる。殺人事件も多く、さりげないところに人間の冷たい悪意を込めることも忘れてはいないながら、トータルの物語としてするすると頭に入ってくるあたり、”ソフト”我孫子武丸作品の代表的シリーズであることはやはり間違いない。

「鞠小路鞠夫」シリーズは短編中心にてこれまで展開してきているが、それでも敢えて刊行順に読むことを強くお勧めしておきたい。物語それぞれにて発生している謎を楽しむと同時に、やはりこれは全体を通じてのラブ・ストーリーであるといえるから。


04/03/13
小森健太朗「駒場の七つの迷宮」(光文社カッパ・ノベルス'00)

小森氏が発表すると以前より構想を語っていた、東大ミステリー。小森氏自身が自らの出身である東京大学の駒場キャンパスの思い出をベースに本格ミステリを打ち出したもの。題名からは短編集を想定されるかもしれないが、内容的には長編作品。いずれ続編となる『本郷の九つの聖域』を発表するのだという。

東京大学の二回生・葛城陵治は、父親の事業失敗という経済的理由から伯父が興した新興宗教〈天霊会〉に家族で帰依していた。大学進学の費用の肩代わりして貰うかわりに、葛城は伯父の出身校でもある東大内部での信者拡大を目論んで『思索と超越研究会』に所属、新入生入学のシーズンに合わせ、他の信者とサークル員獲得に奔走している。そんな彼は〈勧誘女王〉の噂を耳にする。彼女・鈴葦素亜羅は勧誘の難しい宗教系サークルにおいて、驚異的な勧誘成功率を誇るのだという。葛城は彼女に接近、彼女が特定宗教に所属せず、複数の宗教を掛け持ちする独特の考え方の持ち主であることを知る。その素亜羅も『思索と超越研究会』に入るが、彼女が高校時代に〈アール・メディテーション〉というサークルに勧誘した女性が、葛城の学内の友人・牧島の妹であった。その牧島の妹は、つい最近、京王線のとある駅から飛び込み自殺してしまったのだという。牧島は、妹の自殺を信じられない。そんな折り、葛城たちのサークルは対立している『宗教から駒場を守る会』と駒場寮内で衝突する。しかし、その時間帯に牧島が密室内で首を切られた死体となって発見された。犯行を為しえたのは鈴葦素亜羅のみ……。更に事件はサークル内女性の連続殴打事件へと発展する。

背景全体が伏線の”トンデモ”(飛んでも)トリック。これぞカルト・ミステリの頂点
まず、物語背景や主人公の立ち位置が、昨今のミステリとしては非常に珍しいところにある。新興宗教を”ワルモノ”として描いたミステリ作品は枚挙に暇がないが、本書においては新興宗教を内側に取り込んでいる。主人公が新興宗教の布教者として(さしたる疑問を抱かず、問題を提起するでなく)普通に登場するのである。 大学キャンパス内で「あなたは神を信じますか」とか、声を掛けまくっている人たちの存在が、中心にある。彼らのサークルにおける日常活動が、こうも淡々と描かれる作品は(文芸全般をとっても)あまり存在しないように思う。
そのうえで、不可能状況での死体創出や、謎の存在による彼らに対する迫害等々がミステリとして描かれる。これらの事件については、例えばもっと前の世代における大学において存在した学生運動といった人々を描いていたとしても、成り立つ事件ではある。新興宗教である必然はあまりない。「誰がそれを知り得たのか」という論理や、深夜の書庫や”駒場の七つの迷宮”つまりは学内の七不思議といった場面を絡め、物語としての盛り上がりはあるのでこれはこれで面白い。
本書で小生が最もたまげた(たまげた、という言葉が最も相応しい)のは、牧島の妹が、駅から飛び込み自殺した理由にある。この動機にあたる部分は前代未聞。しかし、その前代未聞もこの舞台背景においては一定の説得力を持つがゆえに恐ろしい。 京王線、そしてその駅でなければならない理由があるなんて……。
もともと宗教に対する興味を作品内に持ち込むことの多い小森氏ではあるのだが、このトリックのためにこの世界を造り上げているのだとしたら……と思うと、その深謀には溜め息をつくしかない。すげえ。

小森氏の演出するトリックには(特に初期作品に)凄まじい破壊力を持つものが多いのだが、本書におけるそれもなかなかのもの。宗教団体(ただし架空の)をテーマにしており、そういった内容に拒否反応を示される方には向かないが、とんでもないトリックが大好きという方であれば、気に入られるかもしれない。


04/03/12
浅黄 斑「かしくのかじか 明治なんぎ屋探偵録」(祥伝社NON NOVEL'04)

浅黄斑氏は'92年に『雨中の客』にて第14回小説推理新人賞を受賞して本格的デビューを果たした人物。その後年に数作のペースで意欲的に作品を刊行している。本書は『小説NON』誌に'01年から'03年にかけて掲載されてきた作品を集成した連作短編集。

大阪の「なんぎ屋」に寄宿する学生時代の黒岩周六は、後の黒岩涙香。彼は学業の合間に主人である栄之進のもとに持ち込まれる様々なトラブル解決を手伝うことになってしまった。
狸願膏という薬が評判の高橋盛大堂。家に伝わる縁起をもとに狸稲荷を祀っていたが、それが偽りであるという落書が掲げられ迷惑しているという。誰が何の目的でそんなことをしているのか。なんぎ屋に事件が持ち込まれる。 『狸の稲荷』
大阪で、庭の池でかじかを飼うのが大流行。そんななかかじかが大量死した料亭からの依頼が。しかしその裏では殺人計画があったことが判明した。 『かしくのかじか』
元は足軽だったが荒い気性が災いして庶民として暮らす儀兵衛。彼と彼の家族の住む破れ寺に女の幽霊が出るのだという。 『どんどろ大師の幽霊』
小金持ちの商店主・八兵衛は、美人の人妻とわりない仲となる。しかし彼は亭主に踏み込まれ長持ちに隠れたところ、その亭主は長持ちに百五十円の値段を付けて、八兵衛の妻の元に連絡をよこしてきた。 『六万体の長持』
卍が辻という辺鄙な土地で、自分を狐だという女性が出没。株で儲けを出した男たちを奇妙な方法で誑かし、現金を要求するのだという。 『卍が辻の狐』
隣に住む長唄の師匠とねんごろとなってしまった周六。しかしそのパトロンが踏み込んできた。話を付けさせられた周六は、男から貸し倒れそうな借金の取り立てを命ぜられる。 『豊太閤の蟹』
動物絡みの事件ばかり扱うことで揶揄される「なんぎ屋」。時に金が流行っており、栄之進も金の指輪を身につけるが、それがニセモノらしい。購入した店に拗込むと番頭が驚いて交換すると言うのだが……。 『ももんじい』 以上七編。

大阪に何らかの思い入れある人限定。時代は鮮やか、推理はぽしゃる
敢えて厳しいことを書くと、本書に対して「推理小説」というコメントをいれた編集部及び出版サイドの常識を正直疑う。 確かに主人公は、大阪の親戚宅に居候の身分とはいえ、後に日本探偵小説界の始祖・黒岩涙香と後になる人物。また、その寄宿している家の商売も「なんぎ屋」と称する、限りなく探偵業に近いなんでも屋。そこに事件が舞い込んできて――というと、それなりにミステリーっぽいイメージが喚起されるかもしれない。少なくとも、それらの事件に対して、”なんぎ屋”の一家が解決を供する物語である点については異論はない。
問題は「推理小説」という言葉の方にある。明治〜大正〜昭和初期に至るまで、元より推理小説などという言葉はなく、全ては探偵小説であった。この点だけではなく、物語の推理のパートは実にいい加減なのだ。伏線抜きの登場人物が犯人なんていうもの当たり前。確かにかつての探偵小説にはこのようなケースもままあったものなのだろうが、そこまで現代発表する作品でマネをしなくても良さそうなものなのだが……。なので「ミステリ」を期待して本書を購入された方は、かなり期待はずれということになるだろう。
だが、本書は別の面白さが(少なくとも私には)あって、明治期の大阪という街の描写が文句なしに秀逸なのだ。通り一遍の引き写しではなく、実にいきいきと鮮やかに大阪の街が活写されている。地理的な部分しかり、風俗しかり、イベントしかり。大阪を中心にこの時期に発生した歴史的事件に対する蘊蓄も深い。現在の街並みが、かつてこうだったのか、という感動が味わえる。ただ、こういった感動にしても、もともと関西系で、かつ現在も関西を中心に生活する私自身の背景があってこそ。大阪の街並みを知らない人にとって、この部分で感動するのは難しいことは間違いない。逆に、現在大阪で暮らしている人であれば、この背景描写だけでも一見の価値あり。 地名の由来や、近代的な街がかつては別の空間であったことを改めて知らしめてくれる。大阪に対する作者の愛情も感じられる作品である。

なので、大阪地区限定と言い切ってもいいかもしれない。探偵録とあるながら、本格ミステリはもちろん、通常の意味での”広義のミステリー”という期待さえも裏切られる。ひたすら明治期の、この活き活きとした街の描写を楽しむに徹するべきであろう。


04/03/11
島田荘司「吉敷竹史の肖像」(光文社カッパ・ノベルス'02)

'83年『寝台特急「はやぶさ」1/60の壁』にて世の中に飛び出した、御手洗潔と並ぶ島田荘司が生み出した名探偵の一人・吉敷竹史。現在の吉敷が主人公の中編小説と、「最初の事件」を描いた短編の二編を書き下ろしとして掲載し、対談やエッセイ、作品紀行を加えて一冊としたオリジナル作品集。

二〇〇二年、藤波剛の告別式に出席するため久留米を訪れた吉敷。彼はそこで昭島と名乗る青年と出会う。昭島は孤児であった過去を告白、藤波の命により「昭島事件」の容疑者と養子縁組しているのだという。今から二十六年前、昭島はある事件の発生していた当日、稲塚駅構内で発見された。それは彼の義父・昭島が係わった一家三人惨殺事件であり、藤波は生前、吉敷に相談するように遺言していた。 『光る鶴』
小学校時代は倉敷でそれなりに恵まれた暮らしをしていた吉敷竹史。彼は別に警察官になりたいと思っていたわけではなかった。高校時代はラグビーに打ち込み、そして学生運動盛んな大学生活。吉敷は学生運動とは一線を画していたが、この時に遭遇した一つの事件が、彼の後の運命を変えた……。 『吉敷竹史、十八歳の肖像』
以上二編に「吉敷竹史の旅」「対談 吉敷竹史と「冤罪の構造」島田荘司vs山下幸夫」「書き下ろしエッセイと競作イラストレーション 事件の女たち」「ブックカバーコレクション」「吉敷竹史と加納通子 事件史年表」等が加わる。

吉敷竹史は島田荘司という作者の分身であること――が、最前面に打ち出される
どちらかといえば、御手洗潔のシリーズがトリック中心の本格ミステリ系列、吉敷竹史のシリーズが社会的問題を背景とした社会派ミステリ系列、というのがごくごくおおまかに島田荘司作品を判別する際の基準となろう。厳密にいえば、御手洗ものにも社会派はあるし、吉敷ものにも本格があり、そして本格と社会派を融合した名作はどちらのシリーズにも作品として存在している。本書を読んでみて強く感じたのは、こういった区分とは別にある要素が存在するのではないかということ。
作者本人ではないのにこのような分類は乱暴に過ぎることを承知でいえば、御手洗潔シリーズは「作者が書きたいこと」を書いており、吉敷竹史シリーズは「作者が書かなければならないと思ったこと」を書いている、というようにみえるのだ。当然、社会問題に興味を寄せる島田氏は、その怒りを、問題意識を読者に伝えるために吉敷シリーズを利用する機会が多くなる、ということである。
本書は、カラーページを多用し、これまでの作品からの抜粋などが多く利用され、一見ファンブックのような体裁が取られている。だが、『光る鶴』にしても、エッセイにしても主に冤罪事件を中心とした内容であり、これまでも『三浦知義事件』『秋好事件』といった大著を発表してきた著者の意識が強く反映されているようにみえる。なぜ冤罪が作られるのか。その冤罪を晴らすことがどれだけ困難なことなのか。 日本の硬直した司法・検察制度に対する疑問や怒りを小説というかたちで「書かなければならない」という使命感といったものが伝わってくる。それは悪いことではないし、吉敷シリーズそのものが既に大河小説の風格を持つなか、本書一冊にしてみれば”要素”でしかないので、ミステリとして楽しむことは十分に可能であろう。だが……、個人的にはその背後にある島田荘司の意気込みもまた伝わってきてしまう印象は拭えなかった。

つまりは、吉敷竹史という像を使って作者の想いのたけを表現しているということ。なので奮闘する吉敷の姿は、別のかたちで奮闘する島田荘司の姿にダブってみえる。 それがフィクションだと分かっているにしても。そして、吉敷シリーズは今後もそのような姿を、恐らくはとり続けるのであろうことも、なぜだか予感されてしまうのだ。