MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


04/04/30
土屋隆夫「物狂い」(光文社'04)

'01年に第5回日本ミステリー文学大賞(同賞は作家に与えられる)を受賞した土屋隆夫氏。一九一七年生まれで、今年齢八十七歳を迎えて未だ執筆意欲は旺盛。本書は同賞受賞後第一作となる長編書き下ろし作品。

長野県にある地方都市・美岳市。長野県の一部に発行される地方新聞・中信毎日新聞の見出しを「美岳市志木町に女の幽霊? 襲われたのは市の女性職員 怨霊か脅迫か 首筋に残る鋭い爪跡」というこの後に美岳市を揺るがす「幽霊事件」のスクープが飾った。同紙の堂前記者が「幽霊に襲われた」という女性被害者と行き会ったことに端を発している。その女性は、農家である自宅に帰宅したところ、急に何者かに足をつかまれ、白い着物のようなものがふわりと舞い上がって「血を吸いたい」といい、彼女の首筋に傷を付けて消え失せたのだという。すぐに裏から駆け付けた親戚の証言もあり、少なくとも犯人はその場から消え失せたとしか思えない状況であった。続いてホステスの女性が顔面を幽霊に傷つけられるという事件が発生、そして幽霊によってとうとう井垣真代という主婦が殺される事件が発生した。警察は必死の捜査を行うが、現場の奇妙な状況に戸惑うことと、市民が半ば幽霊の存在を信じ込んでいることから芳しい成果が上げられない。特に美岳署の土田警部と津村刑事は焦りを深めていた……。

現代を舞台にしての、昭和三十年代の本格探偵小説の味わい――
本書はある一連の事件に対処する警察小説的な趣を持っている。特に後半部、犯人に迫る美岳署のチームプレーや、執念には見どころがあり、また、そのチームを率いる土田警部は、あの『天狗の面』に登場した土田巡査(派出所の駐在さん)の息子という設定である。このあたり、五十年以上のキャリアを誇る土屋氏ならではの遊び心だといえるだろう。
事件の方は、二つの傷害事件を経由しての殺人事件。Who done it?、Why done it?、How done it? の全ての要素があり、終盤以降は、犯人と目される人物の持つ鉄壁のアリバイ崩しまで用意するという念の入れ方。手掛かりの出し方は完全に読者にフェアとも言い難いが、それでも”本格もの”を強く意識したという作者のことばに偽りはない
ただ――致命的といっていいほどに、その感覚が古いのだ。国産ミステリの黎明期を切り拓いてきた土屋氏のデビューより五十年以上が経過し、本格ものもその間に着々と進化を遂げている。その進化の過程、そして結果についてこの作品は全く考慮がなされていない。その結果、その構造に対する意欲と裏腹に、実に舞台設定もトリックも古臭く、そしてありきたりになってしまっている。幽霊のトリックも、列車のトリックも、現代本格では仮定のうえで真っ先に否定されるタイプの内容を真実としてしまっており、それに気付かない捜査側に対して、読んでいての掻痒感も覚えた。恐らく若い読者にしてみれば、その古臭いトリックを大仰に扱っているあたりでOUTなのではないかと危惧される。また、幽霊という存在に対する大衆意識、つまり、住民の過半数がその存在を新聞記事だけで信じ込んでしまう――という物語内部の状況も、昭和三十年代あたりであれば何とか通用したのかもしれない(それも描き方次第だろうが)が、今となっては正直ツッコミたくなる気持ちの方が強くなるのも仕方ないだろう。

その構想や意気込みについては、高く買えるのであるが、個々のパーツがいかんせん”昭和三十年代の本格もの”のまま時を止めてしまっている。そういった点まで最初から割り切って読めば、それなりに老大家の打ち出した本格ものとして味わい深く読めるとは思う。ただ、土屋作品に思い入れのない素の読者にはさすがに勧められないか。


04/04/29
風見玲子「0秒の悪魔」(廣済堂文庫'88)

歌手にして女優にして推理小説作家・風見玲子。(すみません手元にある資料ではデビューとかよく分かりません……)。本書は角川ノベルスにて'86年に刊行された作品の文庫化。文庫化にあたり若干手直しされているという。

暴風雨の降った翌日、大分県日田市の夜明ダムに若い女性の首切り死体が浮かんだ。死体は何かの制服らしき服装をしており「高―」と書かれているのが分かった。その翌日、東京にて引っ越したばかりの人気競艇選手の自宅に小包が届けられ、その中には生首が。しかしその首は選手が大慌てで管理人に通報している間にどこかへ消えてしまう。大分県警のベテラン警部・江田は死体の足取りを追ったところ、犯人が乗っていたと思われる白い乗用車を発見。車の持ち主は地元観光協会に勤務する宇野次郎という人物のもので、宇野は犯行時間帯はスナックに居たと主張する。そのスナックに勤務する姉を訪ねて日田に里帰りしてきていたのが、競艇学校を卒業したばかりの松永尚美。しかし、自宅には人の気配がなく姉はどこへ行ったものか帰って来ない。姉を訪ねてきた刑事の話から、事件に姉が関係しているらしいと知り、尚美は自らも姉の無実を晴らすために動き出すことを決意する。

ミステリでは実に珍しい試み。事件の舞台は競艇界。そして探偵役も競艇選手
これが同じギャンブルでも舞台が「競馬」になると、舞台としても、登場人物としてもミステリ作品を彩るケースは国内外に山ほどある。D・フランシスあたりはまずその代表格だといえるし、国産であっても様々なかたちで競馬はミステリと関わり合っている。ただ、他の公営ギャンブルはどうか、というとあまり親和性がなかったのが本書のような競艇、更に競輪、オートレースといったところがミステリの舞台として取り上げられるところはまだみたことがない。(ただ、もしかすると存在していながら小生が知らないだけかもしれない)。
まだ若い女性競艇選手の卵が、姉の姿を追い求めつつ警察と適当な距離を置きながら事件と向き合う――という探偵役のスタンスの置き方にオリジナリティがあって巧いことと、序盤から首切り死体、密室での生首出現と消失、更に別の死体の各部分が競艇の主要ポイントに次々と送りつけられる――といった事件の猟奇性もあって、事件そのものへの読者の興味を強く持たせる内容。文章自体はそれほど感心するほどの出来映えではないものの、するすると読むことが出来た。また、主人公の尚美を通じて描く競艇界の内情や、あまり知られない選手たちの姿など(もしかすると微妙なルール等は現在とは異なっているかもしれない)も、距離感がうまく読者によく伝わるように描かれているように思う。また、子どものいない江田警部と、両親のいない松永尚美との微妙で暖かな交流は、真相が明かされるにつれその凄惨さ、悲惨さが目立つ後半部をぎりぎりのところで中和するのに役立っているといえよう。
ただ、一連の奇妙な事柄に対しての犯人の行動に一定の理由があるものの、それが極端な行動に比べると微妙に弱いように感じられること、また密室やバラバラ殺人等、本格ミステリ的な要素を事件に持たせつつも、その真相にトリックらしいトリックがないことなどはちょっと残念。そういった要素を考えるに、事件そのものは本格ものっぽいものの、内容としては競艇界を舞台にしたサスペンスに近いように感じられた。

とはいえ、「競艇を扱っている」という一点だけにしてもオリジナリティは高く、それだけでも印象に残る作品。物語のバランスも取れており、これで何らかのトリックが使用されていれば……というのが正直なところ。公営ギャンブルに興味のあるミステリファンであれば、読んでおいて損はない。


04/04/28
蘇部健一「届かぬ想い」(講談社ノベルス'04)

第3回メフィスト賞を『六枚のとんかつ』にて受賞後、『木乃伊男』までの四冊を講談社ノベルスにて刊行してきた蘇部氏ではあるが、近年は講談社青い鳥文庫にて『ふつうの学校』『ふつうの学校2』を発表。蘇部氏の七冊目はどこから? と思っていたが本作は再び講談社ノベルスからの刊行となった。

一九九三年。小説家を目指しつつも九歳になる愛娘・美香と、美しい妻の広子と、暖かい家庭を持つ小早川嗣利。お父さんのことが好きでたまらないという美香が何より愛おしい。彼は美香が寝る前のお話としてタイムパラドックスについて簡単な講義を行った。それから一ヶ月後、製薬会社に勤務している嗣利のもとに広子から突然電話が入る。「美香が誘拐された?」 封筒に入った脅迫状に書かれた身代金は五百万円の要求。警察の介入を要求したものの、犯人からの連絡は途絶え、送られてきたのは一枚の便箋と、嗣利が美香に買ってやったキーホルダー。そこには犯人が、美香を不注意で死なせてしまったこと、犯人自身も死んでお詫びをするという内容が書かれていた。崩れ落ちる二人。そして自分の不注意で美香を誘拐されたとノイローゼになりかかっていた広子を置いて、暫くぶりに出社した嗣利を家で出迎えたのは、剃刀を握りしめて血まみれになった広子の死体であった。再びノイローゼになりかかった嗣利の精神を救ったのは同僚の竹内だった。そして翌年。嗣利は竹内から合コンに誘われる。

淡々とした蘇部節の物語にして、徹底したタイムパラドックスへのこだわりが新境地を拓いた
タイム・パラドックス……。 弊サイトを御覧になる方は大抵ミステリ系の方ではないかと推察するが、それでもSFのテーマとして有名なこの言葉の意味くらいは御存知のことだろう。タイム・マシンやタイム・スリップによって過去を変化させてしまうこと、例えば自分の両親を不仲にすることによって、自分自身の存在が消えてしまったり……と、簡単にいうとそういう諸現象やその矛盾を指す。今まで多くのSF作品においてこの問題は取り上げられ、様々なかたちで議論され、そして物語の内部へと転化されていった。このテーマの傑作も多く存在する。
ある意味、この作品、非常に分量も薄くあっさりと描かれているが、先人たちのタイム・パラドックス系の名作に挑もうかというような気概が伝わってくる。失礼な言い方ながら、こういった迫力が蘇部作品で感じられるようになったのは最近のことで、特に本作はその意味でミステリ作家として蘇部氏が一皮剥けたのではないかというような印象さえ受けた。
本作についてきちんと論じようとすると、ネタに触れてしまうのであまり詳しく書けないのだが、二重・三重のタイム・パラドックスを受けつつ、ある意志を貫く人物の物語であり、その整合性を悪魔的に描く。一九九三年→一九九四年→一九九七年→二〇二七年→一九九七年→二〇〇六年→二〇〇九年→二〇二八年。それまで薄々と予感させられていた事実が最終的に明かされる最終章では、数々のエピソードの整合性を取るための必然から様々な事象が明かされていくのではあるが、恐らく読者のそこまでの想像を超えたダークな結末に言葉を喪う筈だ。
惜しむらくは一応の主人公である小早川嗣利の人物造型あたり。物語の主題上、そのように動かさないといけないことは理解できるものの、彼の一途な愛情というのが結果的に様々な方向に分散されてしまっており、あまり彼の考え方に共感を抱くことができなかった。とはいえ、その行動の結果、関係者に齎される結末の残酷さを知らないという彼は結局幸福なのかもしれない。読者は最後の一行まで、このタイム・パラドックスによる生き地獄に付き合わされるのであるのだから……。

いやはや、こういう形の作品を蘇部さんが発表するとは思ってもみなかった……という思いそのものが、サプライズの強烈な印象の裏返し。この作品と同系統が良いというつもりはないながら、蘇部さんのミステリ界における立ち位置が本作にて微妙に変化したこともまた確かだろう。次はどんな趣向が用いられるのか。恐ろしくも楽しみになってきた。


04/04/27
服部真澄「清談 佛々堂先生」(講談社'04)

香港返還を巡る謀略を扱った'95年のデビュー作品『龍の契り』がいきなり直木賞候補作品となった服部さんは、二作目の『鷲の驕り』にて第18回吉川英治新人文学賞を授賞し、その地位を早くも確固たるものとした。その後も骨太の作品を発表している印象があったが、本作は少々毛色が異なる感。「小説現代」誌に'02年から'03年にかけて不定期掲載された連作がまとめられた中編集である。

”椿の絵なら関屋次郎”と名高い画家、関屋の画は人気が高かったが、彼自身は自分の才能の限界を感じていた。北陸の画廊で行った個展で出会った美術記者に、彼は自らの創作の秘密を語り出す。彼がまだ趣味で画を書いており、可津子と同棲している時代のこと、喫茶店で彼の画が書かれた花瓶に目を留めた佛々堂に、椿を書いてみないかと誘われたのだった……。 『八百比丘尼』
寂れた門前町から事情があって人口もそう多くない島に引っ越し、細々と営業している『もろたや菓子舗』。そこにやって来た男は籠に入った蛤を形取った最中を所望する。蛤辻占を八百袋、四千個。躊躇する娘のしげ子に対し、父親の康夫は引き受けるという。だが中に入れる籤が足りない。しかし、訪問者はそれを見越して籤を準備してきており、二人は仰天する。 『雛辻占』
飛騨古川の祭の日。高山の『かみむら』の知り合いという一団が祭を見物にやって来ている。料亭『かみむら』を率いているのは兄の急逝にて店を引き継いだ、次男。彼には自信が無かったが、ワゴンで早着替えをして店に悠々とやって来た一人の客人の手によって、着物を覚えてみるみるうちに男っぷりが上がる。しかし客の目的はその店に伝わる印籠であった。 『遠あかり』
資産家・角筈家山の手入れにて生計を立ててきた和田家に、克明は三十過ぎになって戻ってきた。父親の働きぶりと代々守ってきた山の素晴らしさに気付き始めたころ、山の持ち主の角筈家が資産繰りのために”いわくつきの山”を売るという噂を聞く。その噂を聞いた両親は機嫌を悪くしたのか、湯治に出てしまい戻らない。克明は一人で山仕事を行うが、そこに一人の男が現れた。 『寝釈迦』 以上四編。

平成の魯山人は徹底した大胆さと、繊細な審美眼、そしてちょっぴり意地悪い我欲とを合わせ持つ
服部真澄作品を読むのは、実は『鷲の驕り』以来なので実に八年ぶりくらい。その印象は謀略スリラー系統という評価で固まってしまっていた。美術ミステリっぽい帯に惹かれて購入した本作は、その印象を百八十度どころか三百六十度以上ぐるぐるに転回するに足る作品。小粋な芸術の世界を、小気味よく、テンポ良く描いており、骨董・贋作あたりが主題になるところ、北森鴻氏の作品にも通じるところがあるが、その正義感のようなところにちょっぴり苦みを利かせており、また異なる味わいが楽しめた。
描かれる角度は四編それぞれに異なるのであるが(このあたりで既に服部さんの小説家としての能力を感じる)、基本的には芸術や美術の実際の創造者である人物や、その周辺の関係者や、黒幕(?)である佛々堂先生の”粋”を実現するために不可欠な人物に対して、ちょっとそれとは分からないよう先生が援助を行う話。ただ、それが我々の分かりやすい芸術とは限らないのがポイント。詳しく書くとネタを割ってしまうためここでは書かないが、先生が五感全てを大切にしていることと、完成された芸術作品が世に出るためには、製作者自身の才能のみならず、活躍するための”場”や、創作の”道具”、そして”モチーフ”などがきっちり揃わなければならない……というあたりをヒントとして挙げておく。
また、ただ単にその足りない何かを先生が与えるのではなく、表に出たがらないがために色々と裏工作をして、思い切った演出をしているところが本書の魅力になっている。佛々堂先生の仕掛けは読者に見えづらく、物語が進まないとその全貌は見えない。その何が起きるか分からないというストーリーの謎までは、ある意味通常のエンターテインメントだといえよう。ただ、それに加えて、先生の”真”の狙いが最後に明かされることで、読者を「あっ」と驚かせ、それまでのストーリーが反転してしまうなどミステリのサプライズと共通する楽しみが各編に隠されている。ここまで引っくるめて、是非楽しまれたい。

いわゆる骨董・美術系ミステリ作品は既に傑作と呼ばれている作品も多くあるが、本書もそれと十二分に肩を並べる存在だと思う。佛々堂先生の我が儘かつ大胆で繊細な人物像もかなり魅力的だが、周囲を彩る人間も色々個性があって物語を盛り上げる。何よりも”美”に対する確かな審美眼が、これほどまでに物語の中心にびしっと据えられているのが清々しい。だから清談なの? (実際は表向き清談であり、裏が清談とも言い切れないというのが本書の面白さなのだけれど)。 エンターテインメント系としてお勧め


04/04/26
貴志祐介「硝子のハンマー」(角川書店'04)

貴志氏は、『ISOLA』(刊行時は『十三番目の人格−ISOLA−』と改題)が第3回日本ホラー小説大賞佳作となり、翌年『黒い家』が第4回同賞の大賞を受賞して本格デビュー。同書は映画化もされる大ヒット作品となる。その後『天使の囀り』『クリムゾンの迷宮』『青の炎』と立て続けに刊行したものの、四年半ものあいだ沈黙。久々に刊行された本書は、事前に著者が発表していた通りの、本格ミステリ作品である。

六本木センタービルの最上階から3フロアに本社を置く介護事業の大手企業ベイリーフ。日曜日だというのに社長や幹部社員、更に役員秘書までが次々と出勤してくる。上場を間際に控えた彼らにほとんど休日はなかった。介護ザル、介護ロボットのプレゼンの予行演習を行うが、開頭手術をしたばかりの社長は社長室で恒例の仮眠。しかし、社長はその最中に何者かに頭を殴られて殺害されているのを窓拭き業者が発見した。しかし建物の内部には監視カメラが設置されており、加えて秘書が控えていたこともあって誰も廊下からその部屋に出入りした者はおらず、社長室と扉を接した副社長が犯人ではないかと疑われた。その副社長の家族の依頼で、弁護士・青砥純子は弁護にあたる。彼女が頼んだのは防犯コンサルタントである榎本。被疑者以外が現場に侵入できたかどうかの可能性を提示して欲しいと依頼する。榎本と純子は現場に赴き、いくつもの仮説を立てては検証を進めていくのだが……。

精緻なディティールはまさに”職人仕事”。貴志祐介らしさが滲み出る、そして紛れもない本格ミステリ
書店に掲げられたPOPには「この密室を見破ることはできないでしょう」という旨のことが、作者のコメントとして書かれていた。確かに、解決が提示されるまで全く見破れなかったのだが、本書の本質はその密室トリックの独創性のみに依存しているものではない点、まず強調しておきたい。物語そのものは単純といえば単純。密室における謎の殺人死体があり、無実の容疑者がいて、別に真犯人がいるのを探偵役が推理するというもの。確かに、これまで小生が読んだ作品の範囲では、本書と同一のトリックは存在しない。ただ、失礼を承知でいえば、この密室トリックそのものであれば、いわゆる新本格系統のミステリ作家が思いつけば、短編作品や長編作品で幾つか発生する殺人事件の一つとして処理されてしまう程度のものであろう。長編一本を支えうる驚天動地のトリックとは正直言いがたい。だが、それは貴志祐介によって描かれることで、別の価値が付加されていくのである。
それは、もはや”職人芸”と呼んでも差し支えないような徹底したディティールへのこだわりにある。探偵役に防犯対策の専門家である榎本を配し、当初の事件現場は鍵や防犯カメラのみならず、建築学的にも徹底したチェックが入れられる。そのチェックの過程で行われるのは、いくつもある可能性による数多の仮説と、その排除。論理だけでなく、科学的な検証によって検討していく展開が面白いことに加え、エピソードや会話のなかで披露される”防犯Tips”的な話も一つ一つが実に興味深い。介護サービス事業を展開しているという被害者社長の会社の関係で、介護ザルや介護ロボットまでもをトリックに使用された小道具ではないかと疑わせるあたりの展開も小憎い。
名探偵が犯罪の実行方法に目星を付けたところで、真実が明かされないまま、いきなり倒叙方式で犯人の背景に物語が変ずる。このあたりも貴志祐介の某作品を想起させる展開である。こちらで描かれる、一見前半の事件とは全く無関係とも思われる逃避行や、犯行のアイデアを思いつく経緯、更に小道具を仕入れる手口等々、こちらも様々な文献をあたったことが伺われる徹底して詳しい描写が続く。犯人の殺人に対する動機が少々弱く感じられ、そのあたりの読者の感情移入は浅くならざるを得なさそうというのが若干欠点として挙げられようが、後半の物語における激しい起伏は読者の心を捉えて離さないはず。
最終的に二つの物語が混じり合うのではあるが、単に「解明されました、終わり」とせずに、後日譚的な部分にもちょっとした作者の主張が込められており、余韻を巧く残している。このあたりまで配慮してしまうところが、本書における貴志ミステリの斬新さに繋がっているともいえるだろう。

いずれにせよ、今年の本格ミステリの収穫であることは間違いない。見方によってはバカミス的であるトリックが発する本格ミステリ特有の荒唐無稽さを、貴志氏なりに排除しようとする姿勢が何よりも新しく面白い。 本格ミステリにおける、いわゆる世界が反転するようなサプライズを犠牲にしつつ、物語としての整合性や面白さを重視したこの姿勢には素直に感服させられた。フィクションだからこそ、細やかなディティールを大切にするというのは、本格ミステリの基本なのだから。


04/04/25
石田衣良「池袋ウエストゲートパーク」(文藝春秋'98)

今や石田衣良は直木賞作家である。だが個人的には恥ずかしながら、石田作品は本書が初めて。このシリーズがドラマ化されたりしていた時期もあまり気にしていなかったのが正直なところながら、改めて読んでみるとやはりそれなりに濃く、人気があるのも頷ける内容だった。石田氏は、本書の表題作である「池袋ウエストゲートパーク」にて第36回オール讀物推理小説新人賞を受賞。その続編を加えた本作がデビュー作品である。『娼年』、『骨音―池袋ウエストゲートパークIII』の二度の候補を経て『4TEEN フォーティーン』にて第129回の直木賞を受賞した。

高校を卒業してプーになった真島誠ことマコト。相棒のマサ、そしてイラストの得意なシュン。ここにヒカルとリカの二人を加えた五人で池袋西口公園で時間を潰すのが日課。その頃、ストラングラーと呼ばれる人物が、池袋を舞台に援助交際をしていた女子高生に対して連続絞殺未遂事件を起こしていた。思えばその頃からヒカルとリカの様子がおかしくなった……。 『池袋ウエストゲートパーク』
池袋のGボーイスを束ねる王様、安藤崇。彼の依頼でヤクザ絡みの事件にマコトは関わることになる。ヤクザの親分が内縁関係に産ませた”姫”こと天野真央は女子高生。一週間前から連絡が取れなくなっているのだという。若頭から紹介された”姫”のお守り役の若衆は、マコトも旧知の人物。かつてサルと呼んでいた彼と共にマコトは捜索に取りかかる。 『エキサイタブルボーイ』
ファッションヘルスに勤めるかつての同級生から、イラン人の恋人を匿って欲しいという依頼を受けるマコト。なぜかマコトはトラブルシューターとして名前が通ってきていたのだ。彼女の覚醒剤絡みの事件で彼ことカシーフがもめ事を起こし、ヤクザから追われているのだという。マコトは全てを収拾する方法を必死に考える。 『オアシスの恋人』
池袋を仕切っていた安藤崇のGボーイスに対し、新進の尾崎京一率いる「レッドエンジェルス」が静かに勢力を伸ばす。いつの間にか二つのチームの間に宣戦布告がなされ、それはシヴィルウォーと呼ばれ、流血の惨事を引き起こしていた。その状況を取材するという加奈と共に、中立のマコトは両方のチームの橋渡し役となる。 『サンシャイン通り内戦(シヴィルウォー)』

池袋の街を、時代と世代とを活写。物語の楽しみはそれでも万人に共通であるこのシリーズの本質とは
例えば、池袋全体を束ねる若者のボスがいるだとか、その少年がヤクザと対等に渡りをつけるだとか、一つの事件に対して若者が結束してコトにあたるだとか……冷静に考えるとどこか無理がある部分が設定にある。だが、その無理ささえもが心地よく読めるのは何故なのだろう……? と少し考える。四つの中編にて取り上げられているのは、いかにも現代の、先端の、若者の、事件。無関心で残酷、刹那主義的にして、虚栄の蔓る街。 売春少女を襲う大人、少女を拉致して集団暴行する若者、覚醒剤の売人、そして同じ池袋の若者同士の、大人以上に残酷な抗争。池袋に限らず、いかにも日本のどこかの路地裏(裏社会でもない。ただの路地裏なのだ) にて起きていそうな事件と、ちょっと出来すぎな解決。マコトを中心とする面子の一人一人は世の中に存在していそうだけれども、彼らが組む確率など百億分の一ではないかとも思われる見事なチームにより、物語の内部での整合性がきちんと取られている。リアルな事件に息を呑み、捜査にじれったさを覚え、ゆえに解決にカタルシスが存在する。
登場人物の世代をとうに過ぎた自分にとり、彼らの世代の青春は少なくともリアルタイムで味わったものと同じではない。哀しいことに着々と馬齢を重ねている自身は、彼らに狩られるオヤジの方に近づきつつある世代ともいえる。それでも、マコトをはじめとする主人公たちに、読みながら感情を移入してしまう。 読了して少し考えて思い当たった。結局、本書の世界をファンタジーとして読み解いているのではないか。リアルタイムで本書を感じる若い世代は異なる感想を持つことは当然として、我々以前の世代にとってはちょっとした異世界でもある。ファッションや風俗、言葉が異なるだけではない。世の中に対する価値観やものに対する考え方が、微妙に、そしてまれに大きく異なっているから。ただ、根本的な人間感情については前提が同じだから、物語として楽しめるし、共感も覚えるのではないか。
今さらこういう分析をしても仕方ないが、おっさんによる若い世代の感覚(語弊を恐れず書くならば底辺感覚というか)に対する覗き見趣味(極道や裏社会を描くミステリなどで味わうそれ)を満足させられるような面白さもあるし、探偵役が犯人を追いつめていく倒叙的描写にも味がある。推理短編として世に出た作品ながら謎解きの妙味は薄いものの、物語の起伏がしっかりしていて、純粋に高い水準にあるエンタテインメントである点、間違いない。

改めて調べてみたのだが、石田作品は「このミス」とも相性が良くないようで、本作でもぎりぎりランク外の21位で、今年に至るまで実はランクインがない。ただ何気なく書かれているような本作にも、背景には相当の読書や知識が隠されている印象があり、直木賞を受賞せずともその実力は高い作家であることは分かる。引き続き、素直に作品にあたることとしたい。


04/04/24
古処誠二「接近」(新潮社'03)

メフィスト賞出身ながら、近年は太平洋戦争をテーマに、当時の日本人像を真っ向から描く『ルール』『分岐点』を立て続けに著すようになった古処氏。本書も同テーマを取り上げた作品で、『新潮』誌の2003年11月号に掲載された作品を単行本化したもの。

サイパンが陥落し、終戦が間近と思われるようになった太平洋戦争。日系二世のフレッド・サカノは日本人捕虜と共に徹底した語学兵としての教育を受け、沖縄本島に潜入する命令を受けた――。 沖縄に米軍が上陸してきた時、安次嶺弥一は数えで十二になる国民学校の生徒だった。サイパンで米国兵が住民を蹂躙した報道を受け、徹底した皇民化教育を受けてきた彼は、沖縄守備軍と歩調を合わせて、国を護ることこそが皇国民としての務めであると信じ、防衛招集された大人たちに代わり、土木作業に従事していた。弥一は一日徴用で集積地に向かった帰り、怪我のため青年招集から戻ってきていた比嘉という青年と共に畑に寄ったのだが、そこで日本兵同士が殺し合いをしているのを眼にする。カンテラを掲げて怒鳴った比嘉に逃げ出す日本兵。その場には足を怪我した北里と名乗る中尉と仁科という上等兵だった。弥一は彼らのことが気掛かりで、区長に報告をするが、彼は面倒を背負い込むことが嫌であまり良い顔をしない。しかし弥一は沖縄を護ってくれる彼らの為に、独自の判断で救援を行った。

これが、かつての日本の真実。哀しくも虚しくもあれど、確かにそういう日本が在ったのだ……。
今さら驚くことでもないかもしれないが、圧倒的で精密なディティールがまず特徴として挙げられよう。古処氏は全く戦中を知らない世代であるわけなので、ナマの体験などはなく、各種の文献や資料から”世界”を構成している筈。恐らく普通では相当の努力が要される事前準備をこなし、その世界を完全に掌中に入れているのだ。つまり、終戦間際の沖縄の状況が実にリアルに、かつ精密に描かれているのである。ただもちろん、その状況だけを描くのが古処氏の目的などではない。あくまでこれは、その物語のための背景なのである。その背景がしっかりしているからこそ、強烈に物語が生きる。
戦時中に日本が施した皇国民教育による純粋培養と、実際の戦争に放り込まれた兵士(元一般国民)との感情であるとか、考え方の齟齬、というのはここのところの古処作品に一貫している主題。本作も、沖縄という日本で唯一上陸戦が行われた地域におけるそんな国民と兵士とが登場する。”国のために”と思い、弥一が理想に対して献身的になればなるほど、実際の殺し合いに放り込まれた兵士たちの”自分勝手な”生々しい感情が浮き彫りになる。また、この善意と悪意との食い違いによる幾つものドラマ――例えば、護るべき対象の住民を恫喝し、我が身の安全や食料を確保しようとする逃亡兵――などが描かれる。ただ、この弥一少年を通じて描かれるもっとも重要な点、それは、この純粋さを(結果的には歪んでいた……と後世の人間は解するのであろう)、打ち砕くのではなく貫き通させてしまうところにあるように思うのだ。今の日本とは重ならないし、現代日本への問いかけとは主題が少々異なる。ある意味、強烈な意外性をもって迫るラストは、合間に挟まるモノローグの意味を転じ、恐ろしいまでの迫力を物語に付加していく。
ただ、この作品の弥一少年の考え方を、未だに実践していそうなケースが、実際に日本の近くにもあるではないか――果たして古処氏にその意図があるのかないのかはとにかく――否応なく頭のなかに浮かんでくる。日本そのものへの問いかけというよりも、イデオロギーの持つ何かが伝わってくる作品だといえるのではないだろうか。

結論からいえば、ミステリの持つサプライズに近いものはあるものの、決してそれはミステリの持つエンターテインメントを求めたものではないということ。あくまで文芸作品として読まれたい。


04/04/23
内田康夫「十三の冥府」(実業之日本社'04)

実業之日本社刊行の小説雑誌『月刊ジェイ・ノベル』の2002年4月号より2003年12月号にかけて連載されていた同題の作品が初出。名探偵・浅見光彦シリーズに連なる作品。

「なにわより じゅうさんまいり じゅうさんり もらいにのぼる ちえもさまざま」――八戸育ち、青森中央大学に籍を置く女子大生・神尾容子は記憶の隅に引っ掛かったこの歌がなんなのか、ずっと気になっていた。その容子がウミネコで有名な八戸は蕪島を訪れた際、お遍路の女性がその唄を口ずさんでいるのを耳にする。一方、「旅と歴史」の藤田編集長より依頼を受け、浅見光彦は偽書論争のある古文書「都賀留三郡史」の取材のため、青森に向かっていた。この古文書は黒石市にある八荒神社の宮司・湊家で発見され大和朝廷以前の東北に、一大勢力があったことを記しているものである。浅見は同じく偽書と名高い古文書「竹内文書」にてピラミッドとされる山のある新郷村に立ち寄ろうとしたところ、お遍路さんが殺害された事件が発生していたことを知る。警察と関わった浅見だったが、その晩宿泊した宿屋にて「都賀留三郡史」にまつわる地元の噂話を聞く。強硬に同書を否定していた大学教授が突然死したり、その発見の経緯を嘘だという大工が事故死していたりしており、それが「アラハバキ神」の祟りではないかというのだ。

本格とはいえないが、複雑なプロットが入り乱れ、ラストに「十三の冥府」が浮かび上がる……
「竹内文書」から始まり、実際にモデルはあるものの別字を当てた「都賀留三郡史」へと偽書とそれに翻弄される人々を描くパート、人の心に刻まれた「唄」をベースにある人間の変遷を予感させ、辿っていくパート、東北を歩く謎のお遍路さん、そしてその背景にあったものを探るパート、そして偽書の権威を護るために人殺しさえも辞さないのではないかと疑うパート……。近年の内田作品には珍しく、いくつものプロットが錯綜し、そしてそれが大きな物語に収斂していくという構成が取られている。ただ、個々の”筋”については、比較的平易であり、また謎の手掛かりも浅見光彦が行くところ行くところで少しずつ手に入るという方法なので、本格ミステリ的な謎解きのカタルシスはあまりない。いくつもの人の死を「アラハバキ神」の祟りと恐れる地元の人々に対し、殺人ではないかと疑う浅見の姿は、地方vs都会の考え方の差異を浮き彫りにしていて面白い。事件そのものは、犯人一味がおおよそ想像されるなかでの、アリバイ崩しであるとかトリックの解明にあるのだけれども、そのあたりはオリジナリティがあっても少々無理(例えば、大学教授がなぜ心電図モニターをその病院で付けたのか、など)がある感じ。半ば唐突に現れるある重要人物であるとか。というか、それまで重要人物ではなかった筈の人物が、どうみても後付けでトリックに役立てられたり。特に最終的に真犯人一味を誅する存在あたりは、唐突過ぎて、もう。
ただ、普通の観光案内では取り上げないような東北の小さな村や街の名所をさりげなく描き、その土地の人々を描写する、内田氏がこれまで培ってきているテクニックは当然健在。ちょっとした宿や食事、また風景や人々の日常を、作品のなかで邪魔にならない程度に活写している点は、実に巧み。なので、やはり旅情ミステリーとしては一流だといえるだろう。
読了して何よりも意外であったのは、題名の持つ意味。「十三の冥府」……。確かに長編とはいえ、これだけの(以下省略)。

同じ内田氏の作品に岡部警部ものとして『十三の墓標』という作品があり、何らかの共通点があるかと期待したのだが、本作の方は普通の浅見シリーズであるという印象。繰り返しになるが浅見光彦の行動と、各地域の雰囲気であるとかを混ぜ合わせて物語に展開するテクニックは、今さらながら名人芸。旅情ミステリーという分野がある限り、内田氏のセールスは安泰である。


04/04/22
皆川博子「海と十字架」(偕成社文庫'83)

本書は文庫版ではあるが、この元版となった'72年刊行の作品が、稀代の小説家・皆川博子さんが刊行した初めての長編にあたる。版元が示す通り児童書ではあるのだが、その内容は濃い。本書のあとがきで児童文学の賞を受賞しつつも、何かの事情によって出版されなかった「川人」という作品があったらしいことを知るのだが……。これって何かで読めるのだろうか。あと、この作品は長らく幻の一冊であったが『皆川博子作品精華 伝奇 時代小説編』に収録されたので、今は比較的容易に手に入る。

江戸時代。長崎のポルトガル商人で働く下人であった伊太と弥吉は、主人がインドのゴアに引き上げる際に自分たちが奴隷として連れて行かれることを知り、小舟を漕ぎだして脱出を図る。彼らは人の集まる堺に向けて、密航しようと試み、ある船に入り込む。しかし、彼らが乗り込んだのは安南(マカオ)に向かう御朱印船であった。彼らを按針である黒市は海に捨てようとするが、船長の与惣次の配慮により何とか彼らはマカオの地に辿り着く。船員から受けた暴行により伊太は身体がぼろぼろになっていたが、御朱印船の持ち主である木屋助右衛門の出店を任されている小鉄と、現地のイエズス会修道院のバテレン・カルバリオによって助けられる。また、日本人の少年ながらマチアスという名の少年がそこにいた。実は伊太の両親や幼い家族はキリシタンに帰依していたが、その後の弾圧によって殉死しており、特にその公開処刑の際に殉死を勧めた当のバテレンが”転んだ”ことから、伊太は激しくキリシタンを憎むようになっていた。マカオでの暮らしは充実し、伊太は按針を目指して修業をしていたが、庇護者の小鉄が急に帰国を命ぜられたため、伊太と弥吉も帰国することになる。しかしその帰途、黒市の奸計により小鉄は命を喪ってしまう……。

児童文学でこれはアリですか。大人をも真剣に考え込ませる宗教と人間の有り様が、瑞々しく活写されている……
筋立てとしては、江戸時代に生を受けた三人の少年の成長する姿をクロスするように描いた物語。負けん気が強く、キリシタンを憎む伊太、おどおどしながらも自分の道を見つけていく弥吉、マカオでイルマンとして育てられ、その生き方に殉ずるマチアス。彼ら一人一人に対して、十歳程度の年齢であるにもかかわらず、それぞれに”過去”を受け持たせ、それが現在の、そして将来の行動に反映されている。その描写は、文章としては平易に書かれているものの、決して子ども向けに無理に分かりやすくしておらず、寧ろ今の皆川さんが書く一般向け作品の筋書きにも近い。実際の日本の歴史のなかで行われてきた残酷な図も決して避けず、宗教との交わりや、人間の生きる信念、そしてその矛盾等々、大人の世界の難しさをも真っ正面から捉えて逃げ出さない。児童向けだからこそ、真実を書くべきという皆川さんの信念のようなものが見え隠れしている点、凄い。つまりは、子供だましは一切なく、大人が読んでも感銘を受ける物語となっているのだ。
当然、ミステリでも幻想文学でもないかわりに、時代小説であり、青春小説であり、日本人にとっての宗教を主題にとった文芸作品でもある。誰が読んでも面白く、考えさせる物語。ただ版元が児童向けの出版社であるというだけ。特にこの時期のキリシタンに対する人々の視線や、実際にキリシタンであった人たちの心の動きなどの描写は絶妙であるといえる。当然、時代考証もしっかりなされており、使用される言葉や歴史に関しても非常にしっかりしている。ただ、冒頭近くでは少々視線の揺れのようなものが感じられ、ちょっと読みづらさを覚えないでもなかったが、それも中盤以降は安定してくるので気にならない。何よりも、彼らの活き活きとした生き方そのものが、読む人の心を捉えて離さないのである。長崎→マカオ→堺→北陸行→東北……といった物語のテンポや場面の展開もスムースであり、新人の書く文学とは隔絶した完成度を既に持っている。作中の時間経過の進め方など、現在の皆川作品とも通じるところがあるのは御愛敬。

ひとことでいえば、絶賛。特に一般向けの皆川文学に少々入りづらいという人にこそ、こういう物語から入り込んで欲しいと思う。結局、単行本として刊行された児童文学は本書と『炎のように 鳥のように』しかないのだけれど、その両者ともお勧め。そして爺むさいことをいえば、こういう作品にこそ十代のうちに触れておいて欲しいように思う。


04/04/21
雨宮町子「私鉄沿線」(実業之日本社JOY NOVELS'03)

主に『問題小説』等に掲載された同一シリーズの短編作品を集めた連作集。特にそう記載されている訳ではないので断言は出来かねるのではあるが「退職した元警視庁警視の父親と現職刑事の息子」という取り合わせは都筑道夫氏の某シリーズを思わせる。

世田谷区のマンションで若夫婦の妻がスーツ姿で転落死しているのが発見された。自殺で処理されかけているのを刑事の父親の元警視・蔵前は、周辺の人間をあたることを息子に勧める。 『三か四か』
売れっ子作詞家が自室で殺害され、その犯人と思しき女性が自殺死体として発見された。しかし犯人の死体が現れた日は、被害者が殺害された日よりも前。父親は息子に現場の見取り図と関係者の情報を要求する。 『一三七二』
恋愛小説の女王と呼ばれる作家が服毒死した。彼女は若い夫との離婚問題で悩んでいたという。ただ遺書はなく死に装束は彼女の気に入らない服、そして留守電が消去されていることが分かったが……。 『チカチカ』
主婦が自宅で殺害されていた。夫が帰宅し、その従姉妹が尋ねて来たのが発見時間。猫のモモ子はその瞬間に居合わせてしまう。彼女は多くのブランド品を隠し持っており、死体にはダウンジャケットの羽が……。 『モモ子』
蔵前の旧知の若者が引っ越したのが糀谷。そこでは自宅周辺の掃除を熱心に行い、評判の良かった老人が、ある日を境にぷっつりとその行為を止めて性格が変化してしまったという小さな謎があった。 『六つのアザレア』
中央線の高尾駅のトイレ内で蔵前の義理の甥、広志の友人が死体で発見された。その男・秋月はよくもてる人物で、バツイチの人妻と交際していた。また、彼は京王線に直前まで乗っていたことが判明していた。 『私鉄沿線』 以上六編。

本格ミステリ指向でかつそれなりに成功はしているものの、あともう一ひねりが欲しいかも
冒頭にも記した通り、設定そのものはどこかで見たような印象なのだが、退職刑事(あ、書いちゃった)である元刑事の父親の方が「消防署のから来ました」に近い、色々と詐術紛い(?)のことをして現場に出入りするあたりが少々異なるか。なので、解決シーンも安楽椅子探偵に留まらず、変化があるのであまり統一パターンという印象はない。
事件の方は、バラエティに富んでいるものの、ミステリの分野のなかではいわゆる普通の事件というべきか。密室トリックが弄される『一三七二』、猫の視点でアクセントがつけられる『モモ子』、老人の変節という日常の謎を発端にする『六つのアザレア』等々で、冒頭で強烈に猟奇的であったり、不可思議であるものではない。ミステリとしての興味は、事件の詳細が分かるにつれて徐々にフーダニットの色彩を帯びるタイプが多い。そしてそれらは、いくつかの手掛かりをもとに、ロジックを用いて解決されるタイプの本格ミステリであることはいえる。ただ正直――、その論理や犯人に驚かされるかというと、そこまで飛躍しきれていないという印象が残る。厳しい言い方をすれば、予想の範囲内なのである。ここからもう一ひねり飛べるか、飛べないかが、あくまで本格ミステリという意味では佳作として心に残るかどうかの境目だといえるだろう。
その代わり、本作には独特の叙情がある。私鉄沿線……という表題が端的に印象を示す通り、普通の市井の人々が殺人に手を染めてしまう過程の哀しさや、そこに至ってしまう裏側にあるものについてはじっくりと描かれている。特に表題作であり掉尾を飾る『私鉄沿線』は、登場人物の様々な感情が交錯するドラマと、実際の私鉄へのこだわりと、そして何とも哀しい結末とが溶け合った不思議な作品として強い印象を残す。

個々の作品を取り上げるに、失敗作は一つもない。だが、繰り返しになるが今ひとつ個々の印象が残りにくい。もっと人間ドラマに特化した、いわゆる広義のミステリーとするか、本格ミステリをあくまで指向するのであればもう一ひねりを付け加えるかして欲しかったというのが正直なところ。(あくまでこれは個人的な読み方なので、もちろんこのままで良いという方もいらっしゃるのだろうけれど)