MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


04/06/30
大谷羊太郎「真夜中の殺意」(新潮文庫'85)

'71年に発表された『偽装自殺』『殺意の二重奏』に加え、'80年代初期に発表された短編作品を集めた、文庫オリジナルの作品集。解説は中島河太郎。

妻帯者を奪った女性が、妻に呼び出されて決着を付けるべく深夜の訪問。しかし相手は死亡、しかも死体が動いたような気配がある。 『真夜中の殺意』
事業の実権を握る男が山荘の密室で死亡。周辺には動機を持つ男女がいたが、部屋は密室状態となっており、誰にも犯行は為しえない状況であった。 『女ふたりの密室』
正体不明の人物から向かいに住む女性の監視を頼まれた男。女性の部屋の隣人と協力し、異変があった時に駆け付けるが、女性は死亡、犯人は消失した。 『二秒間の死角』
優等生の息子がバイクを隠すため忍び込んだ廃墟。なかで拾った財布から彼が巻き込まれるトラブル。父親は息子とさらに娘を守るため、必死の推理を。 『同じ二枚の名刺』
慕っていた同僚の老夜警が、助けを求めてきた直後ビルの部屋から墜落死。室内には争った跡と、最近暗躍する怪盗が忍び込んだ痕跡が。 『夜警殺し』
娘を新婚旅行に送り出した田舎の刑事。警察署の前で迷っていた若い女性と知り合い、自殺を考えている彼女をなだめるが、翌日彼女は死んでいるのを発見される。 『偽装自殺』
追われて地方に流れてきた四人のバンドマン。訪れた殺し屋から身を守るため密室のスタジオで一夜を明かした筈の男が、絞殺されてしまった。 『殺意の二重奏』 以上七編。

単にトリックだけでなく、二転三転させられる事件の見え方が空恐ろしくさえある傑作短編集
事件があって、単純に推理して、謎を解き明かす……だけではない。そこからいくつの「ひねり」が飛び出してくるか。大谷羊太郎の作品をそれほど沢山読んできているわけではないが、この作品集からは素直に強烈なインパクトを受けた。大谷作品にて特徴的な男女のあいだを巡るサスペンスと、かなり凝った趣向の凝らされたトリックが楽しめることはもちろん、その完成度がそれぞれ見事なまでに高い。そして何よりもいわゆる「どんでん返し」が短編作品集にしては贅沢なくらいに何度も作品内に凝らされているところが凄い。というか執念めいた迫力さえをも感じさせられた。
個々の情景の設定もいい。トラブルに巻き込まれた息子を助けようとする父親、親しい夜警がいきなり死んでしまうというハプニング。娘に年の近い女性に親近感を覚えた老刑事……。物語そのものにどこか意外性があり、微妙に登場人物が平均像から外れており、どの短編も読み出すとするすると引き込まれていく。事件はどちらかといえば少々トリックめいた部分があるタイプが中心で、本格パズラー愛好者であれば、きっちり伏線を拾って推理するという読み方が可能。それでいて、登場人物やプロットにまた別のかたちで仕掛けが張られていて、普通に読んでいるとその陥穽にきっちり嵌るという仕掛けがある。しかし、この人物が実は……なんて。意外は意外ながら、読み返すときっちりその伏線がある。しかも短編、一作一作ごとにきっちりその仕事が成されているという丁寧さ。自分がアンソロジーを編む機会があるのであれば、ここから作品を引きたいと真面目に考えてしまう。

ミステリに冷たい(ようにみえる)新潮文庫が、二十年近く前とはいえ、これほどの作品集をオリジナルで編んでいたことそのものにも驚き。大谷羊太郎自体、それほど現代読まれている作家ではないのだが、この作品集は古本屋巡りをしてでも絶対の買い、である。 本書一冊を読むだけで、貴方もきっとあっという間に大谷ファンと化すことだろう。ホント、傑作。


04/06/29
尾之上浩司(監修)「ホラーセレクション モンスターズ1970」(中央公論社C★NOVELS'04)

噂を全く聞いていなかったので些か唐突な印象もあるものの、C★NOVELSよりホラー小説の書き下ろしアンソロジー「ホラーセレクション」というシリーズが刊行されることになった。第一弾として本書と『暗闇』が刊行され、予定では秋に『ゴーストハンターズ』『平成都市伝説』が出る予定という模様。本書は井上雅彦、菊地秀行、田中啓文、友成純一の共著……とみることも出来ようが、後の統一性を考え、監修者の尾之上氏を優先した↑。

1970年代、あの人口に膾炙した事件とそっくりの事件が実際に起きていた。モデルとなった話ではない。ワシントン市に住まう上流家庭の娘(十一歳)に怪異が起き、悪魔憑きと判断した母親が神父に除霊を依頼した……というものである。 井上雅彦『デモン・ウォーズ』
会社をリストラされ、妻の無理解にもめげず中国地方の僻地・厭逆村に発掘のために住み着いたアマチュア考古学者・吉村善幸。やたらと糞の強烈な臭いの漂うこの村ではババガミ様という荒神の眠りを妨げると吉村の行いは忌み嫌われていた。 田中啓文『糞臭の村』
住宅地のど真ん中に取り残されたように存在する荒れ放題の私有地。その中にある沼は「入らずの沼」として以前から注意されてきた。夜中、三人の悪ガキたちが敷地に無理矢理入り込み、その沼でひと泳ぎしようと目論んだのだが……。 友成純一『魔物の沼』
「トラブル専門のトップ屋」”コルチャック”こと”おれ”は、山手線のなかで素晴らしい美貌を持つ娘に出会う。しかし彼女は様子がおかしい。いきなり彼に迫ってきて「お付き合いして欲しい」と言い出したのだ。三十六歳の中年男にいったい何を? 菊地秀行『甘い告白』 以上四編。

作家の個性ってここまで出るの? 各作家の作品に”らしさ”爆発、読み応え十二分
”モンスターズ”という題名から漠然と怪物ホラー作品を期待しつつ読み始めた。題名はもちろん、装幀というか表紙の題字がまさに七十年代モンスター映画をどこか彷彿させるロゴが使用されていたり。だが、その期待はとりあえず裏切られる。モンスターに対する期待という意味では「裏切られた」ということになるのだが、ホラーアンソロジーとしての期待感は別の意味で満足に至った。というのは、これまでいくつも作品を読んできた各作家の個性が「これでもか!」という程に、収録中編において発揮されているから。

これは、個別に感想を述べていくしかあるまい。井上雅彦『デモン・ウォーズ』。これは現実の21世紀、世の中が既に悪魔に支配されているかのような視点にて捉え、そして七十年代に発生したというある事件をメタの手法によって描くという作品。その作中作となるのが名作『エクソシスト』をベースに登場人物に映画やドラマの名キャラクタを割り振ったという独特のもの。言葉の持つ膨らみを最大限に利用、飾られた雰囲気をちゃっちゃと盛り上げていく手法が井上氏ならではの文体にてさらに盛り上がり、エクソシストの悪魔対神の戦いに、あっと驚く仕掛けを凝らすあたり人を食っているともいえる。また、ポイントポイントの描写はさすがにえげつなく、慣れない人間がホラー映画を観ているような嫌な想像力も同時に掻き立てられるという代物である。

田中啓文『糞臭の村』。これもまた、田中節絶好調といった内容。本来的な意味での伝奇小説作家らしい、古代史や神々の系譜に関する歴史を、スカトロの村に投げ込み、あくまで救いようのない世界を紡ぎ出す。登場する人物の造型、ストーリー展開、ラストに至るアクションなども伝奇の王道なのに、糞尽くしにしてしまうという恐ろしさ。ポイントに嵌る駄洒落が雰囲気を和らげるというよりも壊してしまってはいるものの、そのトンデモな物語作りの部分をより強調している感がある。いやしかし、こんな作品、田中啓文以外には書けまい。

友成純一『悪魔の沼』トモナリキターーーーーッ! 新興住宅地のほとりにある取り残された屋敷。財閥が所有し、日本と思えない強烈な自然のはびこるスペースを見事に描き出す。そのなかに迷いこんだ三人の若者を生け贄として行われる残虐な儀式の強烈さ加減は、まさに友成。いきなり女の子の全身に巨大蛭をべたべた張り付け、助けようとしようとする若者二人の行動によってその残虐さが加速するあたりの歪みの凄まじさ。その後の「後は野となれ山となれ」といった後半から終盤に至る容赦ない展開もまた友成流だといえるだろう。とにかく残虐さ、救いようの無さは本作品集随一であることは間違いない。

最後は、『甘い告白』菊地秀行。この作品は上記三作とは異色である。七十年代はおろか完全なる年代不詳の時代。ただ、菊池センセーならではの、異常なまでにテンポの良い展開は健在。なんというか主題や人間関係がよくかみ砕けないうちにクライマックスに至ってしまう。最終的にある存在と現在を繋いでおり、その根本コンセプトは井上氏と同じながら、短編にしてこれだけ魅力的な登場人物を造型し、そこにどこかとぼけた芸風まであるのは小憎い。

上記した四人の作者の誰かにでも「ぴくりっ」とでも反応した貴方、買いです。 それ以外の方は、異形コレクションの読者であるとか、もとよりある程度はホラー作品に興味がある方に読んで頂きたいという印象。一般的な、というよりも一歩マニアックなところに踏み込んでいるようなところがあるので。あくまでホラー・アンソロジーとしての正当な読み方が求められているという作品集。


04/06/28
横溝正史「スペードの女王」(角川文庫'76)

横溝正史の看板ともいえる金田一耕助シリーズの長編で、元版は'60年に書き下ろしで東京文芸社より刊行されたもの。ただ、先に発表されていた短編『ハートのクイン』という作品を長編化したものだという。現行版は春陽文庫か。

金田一耕助の住む緑ヶ丘のアパートに坂口キクなる五十年輩の女性が訪ねてきていた。彼女は夫である彫物師・坂口亀三郎こと”彫亀”が四ヶ月前に交通事故死をしたことを告げる。旧知の彫亀の死に驚く金田一だったが、彼女はその彫亀が体験したあるできごとが、最近発生したある事件に関わりがあるのではと考えていた。生前、謎の女性が彼の前に現れ、その女性の内股のところにある、トランプのスペードの女王の入れ墨と同じ入れ墨を、ある人物に施してもらいたいと大金をもって要請してきたのだ。目隠しされ、豪奢な一室に連れ込まれた彫亀は意識を失っている女性にその入れ墨を施したという。 ――そして現在、神奈川県の片瀬海岸にて若い女の変死体が発見されていた。その女性の内股にはまさしくスペードの入れ墨が。しかし、その入れ墨を施された女性がもうひとりいる? 捜査の結果、ひとりは政財界の黒幕の愛人、そしてもうひとりもその妹の通報により誰なのかは判明したももの、彼女もまた行方不明。いったい殺されたのはどちらなのか? 

”顔のない死体”テーマも、装飾過剰のサスペンスの様相強く、不完全燃焼……の印象強い
全裸女性の変死体。内股の入れ墨。顔を隠した謎めく美女。妖しくも豪華な秘密部屋……といった感じで、冒頭から、横溝の著した通俗小説におけるキーワードというか小道具が満載でスタート。これ自体は悪いとも良いともいえないながら、いかにも俗めいた探偵小説といった印象が最初からつきまとう。そもそも、これらは本格ミステリを指向しない場合の横溝作品の持ち味でもある。ただ本作の場合、そういった小道具が雰囲気づくりのためのみ用いられている印象で、浮世離れしたフィクションを創る意味では有効だといえるものの、かえって現実感が喪失した浮ついた世界となってしまっている。まあ、推理小説自体がフィクションなので、それはそれで否定すべきことではないのだが。
本書をミステリとして取り上げた場合のテーマは、いわゆる顔のない死体。ただ、一ひねりしてあってそこに別の身体的特徴を施すことで、その可能性を二名に限定している。つまりは入れ墨を入れた女性のどちらの死体なのか? という点により、物語の構図が二つに分かれてくるという展開となっておりこの点は意欲的。死体と別のひとりは行方不明になっており、死体がどちらの女性になるかによって事件の見え方ががらりと変わるようになっているのだ。このあたりは、通常の”顔のない死体”の主題を角度を変え、バリエーションを狙ったものとして評価できよう。正史がこのテーマに積極的に取り組んだことは有名であり、本書はそのなかでもアイデアとしては面白いものだと思う。
ただ、厳しい言い方になるがこの作品はアイデア止まり。小説としての盛り上がりにはいささか欠けるきらいがある。この事件を収束させるにあたっての犯人設定のあまりの唐突さ(とはいえ論理で金田一が推理しているのだけれど、推定にかなり無理がありながら、物語上ではそれが正解になる)や、後半の慌ただしさはキツイし、そもそも事件が大時代がかっており、いくらフィクションといっても無理が強く感じられる。それはそれで仕方ないと割り切るべきなのかもしれない。

今となっては金田一耕助シリーズのコンプリートを目指す方のみが読めば良いのではないかと思われる。角川文庫にて改めて刊行された「金田一耕助ファイル」からも割愛されていることだし。


04/06/27
小野不由美「華胥の幽夢 十二国記」(講談社文庫'01)

小野不由美さんの人気作品である「十二国記」シリーズの外伝的エピソードが連ねられた作品。'04年現在でも最新作にあたる。登場する人物の多くは、これまでの作品で主役・準主役を張った人物が多く、本作に関してはこれまでのエピソードとの絡みもあるため、独立した作品集として読むことはお勧めできない。

雪に閉ざされた戴国の麒麟、泰麒が驍宗の命により南方にある漣国に使者として立つ。到着したのは良いが、廉王の宮殿にはほとんど人気がなく、奥にはなぜか畑が広がっていた。 『冬栄』
民に対して圧政を引いた峯王を退けた芳国の地方州の長である恵侯・月渓。彼は自らの行為を天道に悖るとし、偽王の座に着くことを頑なに拒み、彼に続いた者達を困惑させていた。そこに慶国の景王からの親書が届けられる。 『乗月』
半獣の身ながら関弓・雁国大学に入学、しかし周囲の無理解に苦労する楽俊の元に、慶国の景王となった陽子から書簡が届く。明るい書簡のやり取りの裏側で二人は互いを想う。 『書簡』
才国の王となった国王・砥尚のもとで采麟が、その身を病気にし天意に政道が背いている失道を示す。前王・扶王の治世を否定してきた砥尚は何を誤ったのか。彼を補佐してきた栄祝と朱夏の夫妻は悩む。そして王宮で殺人が。事件の裏側にあるのは、理想の治世を写すという宝物「華胥華朶」……。 『華胥』
柳国王都・芝草で風漢(尚隆)と出会った利広。彼らは長いあいだ、傾きかけた国の様子を旅しながら観察してきた。華やかさの裏側にある危うさを見てとった利広は奏国・清漢宮へと帰還する。 『帰山』 以上五編。

人のための政治とは何なのか。上に立つ者の心構えとは。現代の政治家にも考えて貰いたい社会派・十二国記
これまで十二国記に登場してきた多くのキャラクタが、本編でも多く顔を出す。重要な役割を担うこともあれば、名前が出てくるだけということもある。これまでシリーズを通して読んできた読者であれば「ニヤリ」とさせられる部分が多数ある――のだが、本書の訴えは単なる読者サービスに留まらず、また異なったところにある点、正直驚かされた。
どちらかといえば「王になるまで」という物語がこれまでの十二国記の中心を占めてきていた。したがって自然と冒険譚としての体裁、そして主人公の成長を感じさせる青春小説としての彩りを帯びてきていたといえる。その外伝たる本書のテーマは「王になった後」。 その後、どのように政務をこなしていくか、という陽子のような例もあれば、治世が何年かにわたって悩みを深くする王、我が道を行き、それでも成り立っている王、何百年ものあいだ人々に安寧をもたらしてきた王もいる。彼らがどのように政局に立ち向かっていくか――を複数の登場人物、視点を用いて描いているのが本短編集のテーマだと小生は思う。特に『華胥』における、一見正しい道を行くようでいて、その道が実際は正しくないというあたりなどショックですらある。
どうしても、この作品を読むと”政治屋”が跋扈する日本の状況を憂わずにはいられない。政治内容ではなく、選挙の方をより重視する政治家たち。全体の利益と地盤の利益とのバランスを著しく欠いていたり、不穏当な発言を繰りかえしたり。果たして、本当の日本の将来を託せるのか疑問を抱かざるを得ない人々が、実際の日本を動かしている。正解はないのかもしれないが、政治とは何なのか? ということを考えさせるだけのパワーを本書は持っている。十二国記というオリエンタル・ファンタジーといえど、現実の鏡であるということか。

もちろん、後日譚としても十分面白く読める。陽子と楽俊の時と場所が離れても互いを思いやる気持ちであるとかも良いし、『華胥』にはロジックで詰める本格ミステリの要素もある。ただ、冒頭に示した通り、全てとは言わないまでも、十二国記の作品世界が頭のなかに入っている人向け、という点は頑として存在する。ただ逆に、本編を読まれて本書が抜けているという方は、是非読まれたし。


04/06/26
二階堂黎人「ドアの向こう側」(双葉社'04)

『私が捜した少年』より連なる〈渋柿信介〉シリーズ、つまりは幼稚園児、シンちゃんが探偵役を務めるシリーズの三冊目。『小説推理』誌に'03年から'04年にかけて連載された作品が集められた短編を単行本化したもの。

ケン一と共に立川から鎌倉に電車で結婚式場に出掛けることになった私。しかし車内では若いカップルが大声でレベルの低い口喧嘩をしていた。迷惑に感じたケン一が注意をし、その場は収まったのだが、その男の方が鎌倉のホテルで他殺死体となって発見されたのだ。 『B型の女』
白熊ゲレンデに遊びに来ていた私は、友人のタツヤとその愛犬マックスともども雪上を走ってきたRV車に轢かれそうなる。犬ぞり大会を控えて盛り上がる街では、このように人々を襲う車が頻発していた。そして一家の泊まるペンションには謎の外国人客が……。 『長く冷たい冬』
ケン一の同僚・ゴリさんが購入を決めている北アルプスの別荘は条件が整っているにもかかわらず格安だった。その理由はその別荘からかつて女の子が行方不明になっていることにあった。ルル子と私は、その過去の事件を解決してしまおうと周辺の関係者から事情を聞き出すのだったが……。 『かたい頬』
ステディのリコちゃんとは別のGF、カオルコちゃんの家のパーティに出た私は、彼女より飼っていたウサギが消えたので捜して欲しいという依頼を受ける。どうやらそのウサギは偏屈一家で知られる木佐家に入り込み、そこで消息を絶っていた。私は笑顔を武器に一家に確認を試みたが……。 『ドアの向こう側』 以上五編

徐々にこなれたこの世界、幼年ハードボイルドから主眼が謎解きに?
徹底したハードボイルド観と、その主人公が幼稚園児という世界観、未だに最初に『私の捜した少年』を読んだときの衝撃は忘れられないものがあるのだけれど、さすがにシリーズ三冊目となると読者たるこちらも少々慣れてきたところがあるのか、その幼年ハードボイルドというだけのインパクトは薄れてきた。子どもならではの悲哀であるとか、会話の言い換え等のギャップは相変わらず面白いのだけれど、それそのものだけに作品の吸引力を保たせ続けることは少々難しい。ならば、どういう作品になるのかというと、幼稚園児を主人公とした謎解き小説という位置づけに変化を遂げてきた印象がある。それも、いわゆる本格パズラーとしての要素が色濃くでており、しっかりとした伏線が張られたうえ、ケン一が出張る(つまりは警察沙汰)事件も多いように感じられた。幼稚園児特有のポイントが事件そのものに大きな影響を与えているのは表題作『ドアの向こう側』であり、他の作品はその要素があっても薄いといえる。
その結果、本作を通読したイメージでは、前作以上になんとなく某少年探偵の漫画を想起してしまった。推理こそ自分で行いながら、それを大人の口を介して事件を終結させていく……というイメージ。事件は全て正統派本格パズラーとなっており、読者にも同等にヒントが提供されている以上、事件の真相を見抜くことは我々にも可能。そしてその事件は大人のエゴがぶつかりあった結果発生するなど、背景や動機が暗いものだったりするあたりは、すでに普通の一般向けミステリとそう変わるものではない。パズラーとしてはなかなか凝った作品であるため、物語そのものは堪能できるのだけれど、これがシンちゃんの事件である必要は……、という疑問がそこはかとなく浮かびもした。しかしそれを吹っ飛ばしたのが、上でも挙げた『ドアの向こう側』である。これは見事。大切に飼っていたウサギの行方不明から始まる事件、その意外ともいえる真相、何よりも素晴らしいのはその解決を、この作品では信介自身が引き受けている点にある。ここに至り、ハードボイルド風の一人称呼称と、相手の大人の醜さが見事な釣り合いを取り、物語全体の背景と事件、そして登場人物たちとのあいだに完全なバランスが成立させられているのだ。扱いによっては”日常の謎”の範疇でも描けそうな事件、それを敢えて”信介の事件”としたことによって、不思議な読後感を残す魅力的な作品となっている。

描写であるとか文章であるとかが、信介、ケン一、ルル子といったキャラクタにマッチ。その意味では、シリーズそのものが徐々に完成されつつある印象。個人的には好きなシリーズであるので、この方向性は是非堅持して頂きたいもの。


04/06/25
倉阪鬼一郎「大鬼神 平成陰陽師 国防指令」(祥伝社ノン・ノベル'04)

倉阪氏の書き下ろしによる長編伝奇小説。怪奇小説家を標榜し、これまで多数の作品を刊行してきた倉阪氏だが、正面から”伝奇小説”と謳っているのはこの作品が初めてではないか。確かに対決シーンが印象的ながら、根っこにあるのは○○系統のホラーとしての要素も強いと感じられるのだが。

いわゆる自衛隊の存在とは別に、日本の国家中枢にて最高機密として扱われる裏の国防。それは霊的国防であった。その重責を一手に担うのはまだ若き陰陽師・中橋空斎である。彼が行った卦によれば、今年〈未曾有の大凶事〉が日本に迫っているのだという。空斎は、師匠筋にあたる引退した斎宮寺より『滋川秘録』と呼ばれる陰陽師天貴流の秘書を譲り受け、その解読を急いでいた。その秘伝の解読が、この災厄を防ぐ鍵となるのだ。 一方、空斎の親友で小説家の神山、そしてその妹で民俗学者の卵である、まみとは丹波の山中で発見された亀の甲羅の謎を追っていた。古代に何らかの理由でその地に封印されたと思われる甲羅の破片は何を意味するのか。折しも、その地・神亀村出身の関取、大神亀の横綱昇進を祝い、村では大規模な祝勝会が企画されようとしていた。しかし、それこそが大災厄の始まりであったのだ。

亀づくし。倉阪流の伝奇アクションに、倉阪流ホラーと諧謔的田舎観とが絡む……
――らしからぬ。 というのが最初の印象。だが、読み進めていくうちに、やっぱり――らしい。という印象に変ずる。つまりはこれまでの倉阪作品とのイメージとの整合性という意味なのであるが。
さすがにライトノベルとは異なるが、イラストがところどころに挿入された作品で、主人公の陰陽師の造型にあまり隙がない。強大な能力を持ち、正義感と真面目な性格を持った男前、人と異なる趣味があるわけでもなく、微妙にマニアックなところに不思議な人間性を感じさせるこれまでの倉阪作品に登場してきた主人公とはひと味異なる人工的なキャラクタぶりなのである。(その分、親友の神山にそのキャラは割り振られている部分があるが)。中盤に至るまでは、世界の設計や、古文書などが有機的に絡んだ、蘊蓄混じりの災厄の説明が続く。このあたり伝奇小説の王道か。主題が亀なのは読み出してすぐに分かるし、こだわり方はミステリ作家・霞流一氏の方法論にも微妙に近いか。なので、中盤に至るまでの物語は倉阪氏らしさがあまり窺えず、あたかも誰か別の作家の描く作品のような印象を受けた。
ところが、中盤以降、綱取りなった関取・大神亀、そして彼を迎えるパーティを必死で準備する神亀村の人々の描写に至ると完全にいつもの倉阪節へ。彼らが真面目になればなるほどギャグになるこのパートは、まさに『田舎の事件』を彷彿させるそこはかとない面白さへと続く。このあたりで前半部に仕掛けられた伏線が微妙に効いてくるのはミステリ作家・倉阪鬼一郎ならではの配慮か。結局、村民の無知が扉を開き、阿鼻叫喚の地獄絵図に至っていくのであるけれど、ここは恐怖と笑いと紙一重の状態になってしまう。怪奇小説家ならではの発想の飛躍がここにある。ただ、この○○の姿が何というか……。やっていることはめちゃくちゃなのだけれど、姿を想像すると……怖がるべきなのか、笑うところなのか。クライマックスなど綺麗に戦いがまとめられているだけに。この○○の姿、これが本作最大のポイントなのでここで触れることが出来ないのだが。ううむ、その醸し出される邪悪さや、姿を見ただけで発狂する人間が続出というあたりは少々安易のような気も少し。

今後シリーズ化されるとは明記されていないものの、その可能性は高そう。ただ、それにはレギュラーでもう少し美女が出てこないことには……と、それも脱線。私からみれば、伝奇小説のポイントは押さえてあるようには見えるのであるけれど、この作品、伝奇のプロパー読者がどのように読まれるのか、そのあたり少し気になる。


04/06/24
石田衣良「うつくしい子ども」(文春文庫'01)

デビュー作品となる中編集『池袋ウエストゲートパーク』が刊行された翌年、'99年に石田氏の長編第一作品として刊行されたものが本書。石田氏自身が作成した帯のコピーがネタバレではないかと話題になっていたが、本書の村上貴史氏の解説でそのあたりについての言及がある。

郊外にあるベッドタウン・東野市夢見山。”ぼく”こと三村幹生は地元の中学に通う二年生で、「ジャガ」の渾名の通りあまり見目は良くないが、植物について興味があり生物部に所属する普通の中学生だった。父親は研究職になり毎日遅く、中学一年生の弟と、CMモデルとしても活躍する小学生の妹、そしてその娘のステージママとして頑張る母親との平凡な暮らし。しかし、その夢見山で地元の九歳の少女が行方不明になり、猟奇死体となって発見されるという事件が発生した。現場には”夜の王子”なる犯行声明が残されており、捜査は難航したがその結果、実行犯として補導されたのは、なんと弟のカズシだった……。報道では伏せられたものの、一瞬で噂は街を駆け抜け三村家はずたずたに。幹生は、自分では理解してやることのできなかった弟の犯行の理由を知りたいと、再び中学に戻るが彼は異質な存在として迎えられる。

犯罪者の身内であるということ。重いテーマを正面から逃げずに捉え、それをエンタに昇華させる超実力
少年が起こした猟奇事件として、下敷きになっているのは”あの事件”であることは明らか。ただ、事件を起こした人物の家族というテーマは重い。 いくら遠くに逃げようとも、家族という絆は切っても切れない。実際、彼らがこの日本では普段通りに生活できるということはまずあり得ない。マスコミ、そして世間という名の化け物が、法律で保護される加害者以外、被害者の家族と加害者の家族に牙を剥くからだ。本書においてもそのあたりに手加減はない。”ぼく”が覚悟を決めているだけに物語では耐えて乗り越えていっているものの、実際に身近に同じことが起きたと想像するに、暗澹とした気持ちになる。
本書でもその周囲の圧力についての手加減がない。興味本位のマスコミ、インターネット、事件見物に来る無責任な人々、変質する地域社会、学校における陰湿なイジメ……。そういった部分は実際もかくやというレベルにあり、リアルである。実際、事件が忘れ去られても、そこに残される傷跡は深く、一生残るもの。そして傷を付ける側は一時の快楽や間違った義憤からそうしているだけ。だが、石田衣良はこのテーマを、意志が強く(老成した?)しっかりものの主人公と、彼を理解してくれる数人の友人、そして事件の背後にある謎を付け加えることで、実際にエンターテインメント・ストーリーにしているのである。
この主題を扱ったほかの作品と異なる点、それは主人公が無駄には戦わないこと。事件を起こした人物の家族であるということから逃げないし、自分が苛められることも仕方のないことだと割り切っている。そこの理不尽さを糾弾するのが物語の目的ではない。ぎりぎりのラインで自分に課せられた重い十字架を堪え忍びつつ、しかし別の目的に向かっては、執拗に追い縋る。生き方、行動に独自の美学が溢れており、主人公は中学生ながら、半端ではないハードボイルドな世界観が創り出されている。どちらかといえば現代の若者の生き方を、決めつけた価値基準に囚われずにリアルに描くことを主目的とした『池袋ウエストゲートパーク』から一転、確とした価値観を据えたこの作品を描き得てしまうあたり、石田衣良の実力のほどが窺える。

重苦しい悲惨で陰鬱な世界に、主人公が光をもたらす物語でありながら、自分自身を含む日本人(マスコミではなく日本人ひとりひとりがそれを望むからマスコミが動くのである)のいやらしさが思い知らされる。きっちり社会派テーマを作品内部に織り込みつつエンターテインメント小説足り得ているという奇跡の作品。


04/06/23
恩田 陸「Q&A」(幻冬舎'04)

「星星峡」に'02年から'04年にかけて連載された作品が単行本化されたもの。本体のカバーは上質な紙にあっさりと文字だけというシンプルなものなのだが、その三分の二を覆う帯に、人が逃げ出すベタなイラストが描かれおり異彩を放つ装幀となっている。

二〇〇二年二月十一日。週末の午後二時過ぎ、都内郊外の大型商業施設にて重大な死傷事故が発生した。最終的に死者六十九名、負傷者百十六名を数える大惨事となるのであるが、その原因は未だに特定できていない――。
「それでは、これからあなたに幾つかの質問をします。ここで話したことが外に出ることはありません。質問の内容に対し、あなたが見たこと、感じたこと、知っていることについて、正直に、最後まで誠意を持って答えることを誓っていただけますか。」
それぞれ、帯、そして冒頭より抜粋。物語の背景では、とあるショッピングセンターにて週末に突然のパニックが発生、多数の死傷者が出た事件があり、その事故後に調査が入りながら、幾つかの不審なできごとがあったこととこそ確認されこそすれ、その真の要因が発見されないままになっている状態がある。”調査員”が、複数のその事件の関係者、つまり事故現場にいた人、最初に訪れた新聞記者、現場に入った消防隊員……といった人々にインタビューをする。その「問い」「答え」がそのまま文章化され、一つの作品となっている。

表現形式は冒険、事故の全容も奇抜、個々の挿話は抜群も、風呂敷は畳まれずに放り出された
原因不明の事故を、調査員がヒアリングすることで何が起きたのかについて解き明かそうとする――。この形式に惹かれて読み始めた。この作品に限ったことではないが、恩田さん、ツカミに関しては抜群に巧い。 ショッピングセンターで週末を過ごす人々が、突然パニックに陥って我先に現場から逃げ出そうとした結果、起きた事故。死傷者のほとんどは逃げ出す際のパニックによる圧死であるとか、人同士の衝突によるもの。各フロアに不審な人物がいたようには思われるものの、後で調べても彼らが決定的な”何か”をしたとは思えない。しかし、現場の”場”そのものに不思議な”何か”があったのだ、という雰囲気が、読み進めていくうちに醸成されていく――。
更に、読み進めるうちにこのインタビューそのものが謎に思えてくる。そもそもインタビュアーが複数いて、その素性も端端は語られるものの、決定的な”誰か”であるという部分は語られない。彼らはどういった目的でこのインタビューをしているのか? という謎がまた付け加えられていく。そして、ひとりひとりのインタビュー形式も、序盤はとにかく中盤以降は変化が付けられる。最初はインタビューらしいインタビューだったのが、徐々に世間話を装うもの、相手を糾弾するもの等、予想しない方向に変化する。なかにはインタビューひとつが短編小説が如き手触りを持つものもある。特に消防士に対するもの、そして都市伝説観察者に対するものなど、印象に強く残った。
だが―――物語の最後に至っても、この作品はその断片を結合しきれていない。 恩田陸さんらしいともらしくないともいえるのだけれども、実験的で興味深い題材であるにもかかわらず、最終的に物語が収束させられていないきらいがある。「事故の原因は、本当にこんなんでいいわけ?」「最後のエピソードの意味は?」という疑念というかすっきりしなさというかが、読み終えてからずっとつきまとう。リドルストーリーとするにも、オカルト系と現実系、(さらにはトンデモ系)とのエピソードの統一感がなく、中途半端だし……。これまでの作品では大風呂敷を広げても、無理矢理畳み込んでいた恩田さんだが、本書においては途中で畳むのを止めてしまっているような印象が残った。

読んでいるあいだの楽しみは素晴らしいのに、読了後にその印象が急速に萎んでしまったという作品。この独創性をもっと深いところで回収し、きっちりまとめるに至らなかったばかりに傑作になりきれなかったようにみえる。恩田作品としては珍しく、あまり他人には勧めづらいという作品となっていると感じた。


04/06/22
岩井志麻子「偽偽満州(ウェイウェイマンジョウ)」(集英社'04)

'99年の『ぼっけえ、きょうてえ』以来、着々とその作品を重ね、いくつもの賞を獲得した背徳の作家(?)岩井志麻子さん。彼女の作品の底流に共通する生々しい女性の一人称視点が活かされた”彼女らしい”作品。'03年に「小説すばる」に隔月連載された作品の単行本化。少々短めの長編。

昭和六年。岡山東中島遊郭に店を構える貸座敷・爛漫楼、いわゆる女郎屋である。この店に自ら売り込んで来た小鈴は一番人気ではないけれど、常に二番目三番目の人気を誇っている。彼女は美しい顔立ちと華奢ながら豊満な肉体を持っていたが、人を苦笑させる程の虚言癖を持っていた。彼女の本名は君嶋稲子というが、それさえも本名なのかどうか定かではない。そんな彼女は奔放な性格で今日もしっかり仕事をこなしていた。そんな折り、巷ではピストル強盗の「ピス完」こと、石神完次が話題になっていた。ブローニングの八連で相手を脅し、金品を巻き上げるのだが、必ず現場に自分の名前を言い残す男。警察も新聞社も彼に関して入手できた写真がただ一枚であり、それが大層色男なのだった。小鈴はその自分に店に来た客が「ピス完」にどことなく似ていることに気付く。彼は中西正太郎と名乗り、小鈴はひと目見た瞬間から彼に惚れ込み、客と女郎の関係を超えてゆく。その中西に「俺と逃げないか」言われたことから、小鈴も同調、二人して岡山を脱した。中西は大金を持っており、大阪神戸と渡った結果、彼は満州に行くという。稲子も当然それに従うのだが……。

身体一つで生きる、これぞ悪女。しかしその変幻自在の一途さがどうしても憎めない……
物語としては、単純ともいえる。岩井志麻子さんが好んで描く、昭和初期のセピア色の風景、そしてその時代に自らの身体を売って生活をする女性の物語。 ただ、本作の主人公・君嶋稲子のキャラクタがいつにも増して強烈なのである。ひとことでいえば「悪女」ということになるのだろう。嘘を吐きまくり、恩人を裏切り、朋輩や客を自らの目的のために騙し、金のために他人を殺害し、憧れの君「ピス完」を追って悪知恵を働かせて逃げ回る――。やっていることは犯罪だし、彼女の自己中心的行為に巻き込まれる人間は往々にして不幸になる。岡山から、当時の満州を点々とする魂の逃避行、そして愛人の追跡行というめまぐるしくさえもある展開のなか、彼女は不思議なほどに様々な「悪女」の側面をみせてゆく。ただ、なぜだかそれが憎めない。むしろ彼女を不思議と愛おしくさえ感じさせられる。
そんななか女性が助平であるという部分の、本音以上の本音を伴った描写が念入りに施される。その結果、人間の根元的な存在・本能が間接的に描かれている。 彼女は打算というよりも心の欲望のおもむくままに生きる。登場する男たちに対し、全身全霊で惚れるケース、身体の相性で好きになるケース、精神的な部分だけで好きになるケース、支配されることによって勘違いさせられるケース等々、いろいろな”好き”を、ひとりの女性を描きながら作者は体現するのだ。その裏側にある、他人と相容れられないという強烈な孤独感を裏返しにして。筋書きや描写だけを読むにエロティックな部分が目立つ。しかし、その裏側にひとりの人間の持つ純粋な欲望が垣間見えるために、単なる官能小説、単なる文芸という域から微妙に外れているように感じさせられる。
もう一方、そんな稲子を弄び、自分のために異国の地で彼女を女郎屋に売り飛ばす”中西”という人物のキャラクタも強烈。またそれ以外の男性も、実はひとりひとりが印象に残る個性を発揮している。岡山、大連、奉天、新京と移る場面は、その移動の時間も含めて華麗に描写される。時代と舞台と、そして主人公が結託してつくる偽満州の物語。満州という存在もニセモノ、惚れた相手もニセモノ、そして自分自身がニセモノ。ありとあらゆる虚構と全ての人間の本質が詰まった、一個の物語。

なんというか、自分でいうのもなんだが抽象的な感想中心の評となってしまった。単純なエンターテインメントともいえず、かといって直球勝負の純文学ともいえない、不思議な手触りを持つ作品。これまでの岩井志麻子の作品系列のなかで特に異色を放つということもないのに、なぜだか心に奇妙にひっかかる内容を持っている。


04/06/21
矢作俊彦「ららら科學の子」(文藝春秋'03)

矢作氏は十七歳で漫画家デビュー、その後『リンゴォ・キッドの休日』等の作品によりハードボイルド系作家としてその地位を確立した。映画監督を務めるなど多彩な側面を持つ。本作品は著者六年ぶりの長編で、『文學界』誌に'97年から'01年にかけて連載された作品。第17回三島由紀夫賞を受賞した。

大学闘争が激しかった頃、東大生だった主人公は警察に対する殺人未遂容疑で指名手配され、なりゆきで中国の紅衛兵となるべく中国へ密航する。しかし文化大革命を経て紅衛兵に対する措置の一環として中国の僻地の農村に追放され、そこで暮らし始める。その地で妻を娶った彼だったが、妻は日本語が出来ることを頼りに広州へと出てしまい、男はある方法で一財産をこしらえ、蛇頭の手を借りて三十年ぶりに日本へと戻ってきた。何もかもが三十年前と異なる日本の姿。男は両親と、自分にまとわりついていた幼かった妹と連絡を取ろうとするものの。しかし、すぐに再会は叶わず、男はかつての親友・志垣に自分の存在を伝えた。羽振りの良い志垣はハワイへ向かうところだったが、彼のことを気に掛けてくれ、当面の住まいと現金、そして案内役として傑(ジェイ)という混血の若者を彼のもとに寄越す。中国での百姓としての暮らしと、現代日本とのギャップに戸惑う彼も、徐々に周囲に目を向ける余裕を持つようになるのだが……。

三十年の時代を超えて、現代日本を、素朴に鋭く描く。これもまた一つのタイムスリップストーリー
題名、そして装幀。さらに表紙には鉄腕アトムの中国語版。小生は先入観なしにこの作品を手に取った時、勝手にSF作品だと思い込んでいた(帯をまともに見ていなかったこともある)し、まだ未読の方にはそう思われている方も多いのではないか。言っとくけど、全然違うからね。 中身は、いくつかの重たいテーマが仮託された日本再発見のハードボイルド系ストーリー。 その重い内容、そしてそれらを描き出すことに成功しているゆえに高い評価を受けたことに違和感はないけれど、”全共闘世代”ものという側面がかなり強く、それより若い世代にとってはエンターテインメントとしては読みづらくもあるのではないか――とも少し思った。
とはいっても、主人公が過去や未来に行く、いわゆるタイムスリップものエンターテインメントと、その手触りは近い。本書の場合は、学生運動時代ならではの合理によって”隔絶”を設定しており、SFではないのだが、事実上「三十年前の人間が現代の日本にやって来た」というストーリーであるのだ。視点人物がその三十年前の価値観(そして喪われた三十年間に中国の僻地で培われた貧農民としての価値観)をもっており、直接的間接的に、そしてかなりシビアに現代日本の様々な事柄が比較される。特に少なくとも物質的に豊かな日本が貧困であるという逆説的な見方などは新鮮であり、ズバリと現代の本質を突くものがあるように感じられた。

この作品本体の感想とは少々異なるのだけれど、本書を中心的に支持しているのがいわゆる全共闘世代の読者のように思えることに素朴な疑問を覚える。確かに彼らにとって主人公は同世代であろうし、回顧シーンなど懐かしいものがあるだろう。だけど、それは主人公にとっの、あくまで喪われた三十年の回顧でもある訳で、主人公はその長い期間を事情により中国でずっと暮らしてきている。 主人公の持つ日本に対する愛着が少ないゆえに”こんな日本にだれがした?””なぜ日本はこうなったのか?”というあたりの問いかけは、あまり真剣に追求されていない。それでも現在の日本と三十年前の日本と比べることで漠然と”昔は良かった””今の日本の若者はダメ”という作者−読者の無意識レベルにおける批判意識みたいなものは作品内部に存在する。少なくとも匂う。 小生はそこに漠然とした居心地の悪さを感じるのだ。今の日本を今の日本のように作って今の日本を動かしてきたのは、その全共闘世代なのではないですか。その全共闘世代が本来責任をもって教育を引き受けていたはずの世代が今の二十代、三十代であって、そこには連関があるはずなのに文明の隔絶を強調するように感じられるあたり、……どうもね。
いやもちろん、個人にとって国家とは何なのかであるとか、家族の在り方であるとか普遍的なテーマもいくつものテーマが錯綜して物語の底辺をきっちり固めており、作品としては立派なもの。場面場面の印象の深さだとか、それらテーマに関する洞察の深さなど、若手作家では決して描き得ない重みが作品にある。あと登場人物にどこか都合の良すぎるものを感じたり(彼にまとわりつく女子高生だとか)するのも事実だが、それはそれ、フィクションなのだからどうということもない。ただ――それらのテーマ以上に、作品内に存在する同世代意識そして、強烈に過ぎるノスタルジーに、一読者としてというよりも主人公と異なる世代に属する者としてのギャップを感じたことだけは間違いなく事実なので。

各賞にノミネートされ、その結果を獲得したことには素直に拍手を送りたい。物足りないところもなく余剰もなく、完成された文学作品としてはみるべきところが多いことは事実。だが、私の世代以下の人間に「面白いよ」と勧めづらい作品だとやっぱり思うのである。

最後にもっと関係ないこと。私にとっての”矢作俊彦”ブランドは大友克洋が作画をつとめた『気分はもう戦争』に尽きる。ソ連軍の戦車が無人の荒野を超えてやって来る。その戦車の指揮官が実に何気なく「♪ダンシングクイーン」と唄っている場面など、頭に焼き付いて離れない。(というか未だにあの曲を聴くとあの場面が頭に浮かぶくらい)。