MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


04/10/10
中町 信「模倣の殺意」(創元推理文庫'04)

以前より名作の復刻・復刊に意欲的な創元社ではあるが、いささか唐突な印象を受ける復刊。あの中町信のデビュー作品にしてあるトリックの先駆的名作ともいえる『新人文学賞殺人事件』。この作品が雑誌掲載時('72年『推理』誌)のタイトルに戻され、大幅な改稿を施されて決定版として上梓されたのだ。上記の『新人…』としては既読だが、変更部分に興味があったので再読してみた。

七月七日の午後七時、新進作家の坂井正夫が青酸カリによる服毒自殺を遂げた。遺書はなかったがその状況から事件は自殺として処理された……。
高名な作家・瀬川恒太郎の娘で、坂井正夫からプロポーズされていた中田秋子は医学書系出版社に勤務。彼女は、彼の死に疑問を覚える。かつて彼の部屋で彼に対して大金の小切手を渡していた女性・遠賀野律子が何らかの関係があるのではないかと感じたのだ。富山県魚津市に住むという彼女を訪ねた秋子は、律子が律子自身の姉の子どもを誘拐した事件に関連があるのではと追及、その秘密を坂井が握っていたのだと決めつけ追及するも、軽くかわされてしまう。
一方、ルポライターの津久見伸助は坂井の死を記事にするよう依頼を受け、周辺状況を調べるが、新人賞受賞後長らく作品が発表できずに苦しんでいた坂井がようやく自信作をものにしようとしていたことを知る。しかし、その作品には瀬川恒太郎がひっそりと発表した作品からの盗作疑惑があったのだ。坂井に対して恨みを持っていたと思しき編集者・柳川を津久見は追及する。

『新人文学賞殺人事件』よりも、ミステリとしての興趣はグレードアップ。決定稿ならではのお楽しみ
……実は、それほど強固な記憶力を誇っているのではないもので、五年ほど前に読んでいる前の作品のトリック構造しか覚えていないで本書を読んだ。その程度だと「ここは明らかに違うよなー」と思ったのは、「第四部 真相」の扉に記された、著者からのコメントくらいだった。ただ、幸いなことに解説の濱中利信氏がそのあたりについて詳しく記してくれていたので、読後に反芻することができた。
重要なポイントは、ヒントが少なくなっているという点だろう。先駆として発表された三十数年前ならとにかく、今となっては本作品と同様の構造を持つ本格ミステリ作品というものも多数発表されるようになってきている。この作品のポイントはあくまで「構造」にあるので(途中のアリバイ崩しも興味深いのだけれど)、その「構造」をいかに読者の目から隠すかがポイントとなっている。プロローグの思わせぶりな記述も変更され、加えて物語の文中のヒントはそのまま残されているものの、それ以外に存在していたあるテクニックがわざと本作からは削ぎ落とされている。この結果、内容はフェアなまま、現代のスレたミステリ読者に対しても通用しうる強靭さを取り戻したといえるのではないか。
とはいえ、改めて感心したのはそういったメインとなるポイント以外にも、実に巧みなミスリーディングや捨てトリックが数多く存在している点。単に作者の企みを解き明かすためだけの作品ではなく、本筋でもミステリらしいミステリになっている点は特徴として挙げられよう。 また、改めて登場人物のセコさ(生活感覚ともいうか?) なども目に付いたが、この後いくつかの中町作品を読み込んでいったうえでは、そういった愛すべき庶民性も実は中町作品の特徴というべき部分で、決して本作だけのことではない。

国産ミステリの愛好者でまだ本書を読まれていない人はとりあえず騙されたと思って手にとって騙されてみて欲しい。創元推理文庫に中町作品は初収録だが、本来著者作品を入れるところに「バリンジャー」「貫井徳郎」の二人の名前が挙がっているのは御愛敬。某書店で文庫の週刊売上ナンバーワンを記録しているのを目撃しているが、内容そのもののレベルを考えればあながちおかしいことでもあるまい。


04/10/09
貫井徳郎「鬼流殺生祭」(講談社文庫'02)

'98年に講談社ノベルスにて刊行された同題の作品の文庫化。「明詞」を舞台にした時代ミステリ、かつ〈九条&朱芳〉をワトソン役&探偵役としたシリーズ(……二作目の『妖奇切断譜』以降発表がないのが寂しいが)の最初の作品でもある。再読。

京都の公家の三男として育った九条惟親は、内務省の要職にある父と共に上京し、戯作者を目指すという目的のもと無職のまま日々を過ごしていた。友人で肥前出身の軍人・武知正純が二年間の洋行から帰国するのを迎えた惟親。その正純は霧生という家の傍系で、同じ親族である婚約者のお蝶がいた。その霧生本家を長らく支配していた八十になる霧生カツが身罷ったにあたり、正純はその一風変わっており親族のみにて執り行われる霧生家の本葬に惟親を招く。出席に対する猛反対のなか、正純に賛成をしたのは意外にも本家の嫡子である霧生史郎であった。その本葬が行われてから日を置かず、霧生家の使者が惟親のもとを訪れる。正純が何者かによって殺されてしまったというのだ。現場の外で夜通し営業をしていた蕎麦屋の証言により、犯人は屋敷のなかの人物としか思えなかったが、物取りの様相も呈しており、捜査は混乱。惟親は幾人かの霧生家の人物により捜査を依頼される。調べれば調べるほど深まる謎に、惟親は博学にして病弱、そして変人の友人・朱芳慶尚に助言を求めるが、彼の態度は素っ気ないものだった。

密室・動機・方法・背景……古き良き探偵小説のオマージュにして全てが新しく良質な本格ミステリ
それまでどちらかといえば本格ミステリではありながら社会派テーマを好んで描いてきたかと思われる貫井徳郎氏が真っ正面から「新本格ミステリ」の長編に挑んだのが当初の本作のイメージ。そのイメージは覆るものではないが、本格ミステリとしての超上質な仕上がりには改めて瞠目した。決して個々に取り上げるに目新しい試みを加えているわけではないのに、その設定と構成、そしてトリックの全てが「まとまる」ことによって得られる、ミステリとしての感興は「これまでにない」ほどの衝撃があるのだ。
冒頭に複雑な家系図に純和風家屋の見取り図。これだけで、何が起きるのかわくわくさせるのに十分な期待を抱かせるのに加え、次々明らかになる霧生家の謎が拍車を掛ける。親族のみにしか許されない婚姻、呪われた伝説、怪しげな風習、和風住宅での密室殺人。さらに他者を拒絶する親族たちに部外者の探偵が困惑し、真の名探偵はその事件から遠ざかるようアドバイス。誰が? だけでなく、どうやって? なぜ? の全てが謎のまま、きっちり物語の緊張感を維持しながら進められる物語テクニックがさりげなくも素晴らしい。決して途中で読むのを止められない。
基本的には誰が犯人でもおかしくないが、誰が犯人でもおかしいという冒頭の事件が枷となり、犯人当てが停滞。次々と発生する連続殺人に読者の「?」がピークに達する後半に惟親が、そして朱芳が犯人を解き明かす。そして改めて驚きがピークに達するという仕掛け。朱芳によって明かされる真相が、実は二重になっている点も面白い。霧生家にまつわる謎を解き明かすことによっておおよその謎が解けるのだが、一部解き明かされない秘密が残る。その秘密を朱芳が密かに惟親に語る際、謎の氷解とともに読者の背に冷や水を浴びせるような真相が浮かび上がる。単に明快な謎解きだけに終わらない、このダークな味わいがまた、本格探偵小説の醍醐味の一つでもある。序盤の明るい構成のなかで描かれる人物像と、後半の真実とのギャップがまた物語に凄まじい迫力を加えている。

時代を明治でなく「明詞」とし、様々な歴史上の著名人を登場させているあたりは風太郎の明治物へのオマージュを感じさせるし、一族にかけられた呪いといったあたりは横溝のテイストに近い。(もう一つ、事件のある真相はクリスティかな?) とはいえ、そういった過去の作品を乗り越え、新たな味わいを加えたところに現代のミステリ・シーンがあるということを再確認させてくれる作品。探偵小説らしい探偵小説にして、これ以上ない本格ミステリだといえる。


04/10/08
柳 広司「聖フランシスコ・ザビエルの首」(講談社ノベルス'04)

'01年の『黄金の灰』によるデビュー後、『贋作『坊っちゃん』殺人事件』『饗宴』『はじまりの島』(傑作!)等、ハードカバー中心に歴史と本格ミステリの融合を図って高い評価を得ている著者のノベルス初登場作品。

もとは社会派で国際政治の記事を追っていたフリー・ライターの片瀬修平。彼はある時期からオカルト関係専門のライターとなり、主に雑誌『ワルプルギス』からの依頼でオカルトめいた記事を書くことをメインの仕事としていた。今回の仕事は日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルにまつわるもので、鹿児島で彼の首が見つかったので取材して欲しいというものだった。もともと中国で最期を迎えたザビエルの遺体が腐らなかったという話があり、死後、その右手が切り落とされてローマに送られ事績調査委員会が奇跡を認定、《ザビエルの奇跡の右手》として保管されている。鹿児島のその村で、かくれ切支丹がらみの儀式の神体が修平の前に晒された。修平はその首と目が合った瞬間、混沌の闇の中に突き落とされた。目覚めた時、修平はアンジローなる人物の視点で生きたザビエルの姿を見ていた。どうやら一五四九年の世界に来てしまったらしい。ザビエルはある寺で僧たちと問答を始める。その問答終了後、ザビエル一行の一人アントニオが首を刺された死体となって発見される。修平はアンジローの口を借り、その事件の真相を解き明かす……。

一風変わった歴史本格ミステリのアプローチ。様々な興趣が溶け合った実力派ならではの充実度
最後まで読み終えた時に感じた本書の印象は「様々な事象の溶け合い」。 ひとことでいうならば紛れもない歴史ミステリであるのだが、扱われている要素が実に多いのがひとつの特徴となっており、だがそれらが散漫にではなく、最終的に溶け合って「一個の物語」として完璧な結合がなされている点が印象深い。
基本的に四章に分かれており、ザビエルの生涯のなかのポイントを逆順に辿り、その四つの事件を、ザビエルの身近な人物のなかに入った片瀬修平が解き明かすという構造。最初の事件は上述の、アントニオの殺人事件であるが、二つ目はインドの聖パウロ学院における修道士毒殺事件。三つ目はパリで修道士となる決意をするザビエルのかつての従者が殺人の疑いをかけられ、自分も死んでしまうという事件、最後はザビエル少年の居城が巻き込まれる、戦争のエピソードとなっている。
要素の一つは、これら、特に前三つの事件にある「本格ミステリ」としての部分。特に時代と宗教観・歴史的視点まで巻き込んで、事件の見え方を百八十度転換させてしまう手腕は、これまでの柳ミステリが見せてきたように実に鮮やかなもの。どこかファンタジーにも似たミステリ手法には幻惑させられ、かつ魅惑が存在する。ただ、本書の要素はそれらだけではなく「ザビエルの死体は何故腐らなかったのか?」等、歴史そのものに対する推論やtips的な要素が数多くあることも加えられよう。これらはさらりと流されてはいるが、普通の作家であればメインディッシュに据えてしまいそうなネタをこんなに簡単に使ってしまうあたりに、余裕というか凄さがある。加えて、幻想ミステリの要素がある。「なぜ修平は、ザビエルの周囲に呼び出されるのか」「編集長や編集者はなぜ修平の体験を奇妙に思わないのか」等々、少々割り切れないネタが含まれており、作品全体の余情を高める効果をあげている。
なによりも凄いのは、こういった一見バラバラの要素を集積して、連作短編集というよりエピソード多い長編といったかたちに仕上げてあることだろう。(あくまで事件は第一章、第二章……というかたちで分けられており、第一話、第二話ではない点に注意を払いたい)。

全てがきっちりと割り切れる作品ではないので一部読者は苦手とする方もいようが、少なくとも「通好み」のミステリに仕上がっていることだけは間違いない。柳氏の作品は、一応全て「歴史ミステリ」に属しており(「坊っちゃん」は違うか)、本書で興味を持たれた方は、是非とも他の作品にも手を伸ばして頂きたい。それぞれ作品で歴史に対するアプローチが異なっているあたりも面白いはずだ。


04/10/07
深谷忠記「ハムレットの内申書」(ソノラマ文庫'83)

深谷氏は'82年『ハーメルンの笛を聴け』で第28回江戸川乱歩賞の最終候補となった後、同年ソノラマ文庫より『落ちこぼれ探偵塾』と翌年に本書を立て続けに刊行してデビュー。ジュニア向けはこの二冊のみで、着々と一般向けの作品も発表、'85年に第3回サントリーミステリー大賞の佳作も受賞している。『落ちこぼれ』と本書は合本となり『偏差値・内申書殺人事件』として再刊されている。

東京近郊のP県間沢市にある私立河端中学校の三年生・早川育江。お喋りの清水ゆかり、見た目と内容のギャップの激しいおっちょこちょいの太田留理子。三人は勉強嫌いで好奇心旺盛、駅前の裏通りに通う「落ちこぼれ塾」に通う三人娘で通称「コボレーズ」と呼ばれている。市民祭が終わればすぐに二学期期末テストという秋も深まるこの時期、「内申点を上げてくれなければ自殺してやるから」と書いた怪文書が複数の先生のあいだに出回り、筆跡が似ていたことで育江が疑われた。もちろん彼女にそんな覚えはない。追及を振り切って帰ろうとした育江と、彼女を待っていた二人は、今度は河端中学のスケ番グループに絡まれ、女番長のサミーに金銭を要求される。困っていた彼女たちを救ったのは容姿端麗で頭脳明晰の同級生・高峰香百合。彼女は演劇部に所属しており市民祭にて「ハムレット」の主役を演ずる予定でもある。彼女がサミーを一喝し、その場は事なきを得た。だが、翌日、サミーは仲間と別れたあと、他殺死体となって発見された。続いて中学の二年先輩の不良・串野という男もまた殺害される事件が発生した。

少々の時代性はあるものの、その真相はかなりブラック。ミステリー・ランドの精神にも通ずる本格ミステリ
その文章や中学三年生の行動・感覚・言動はもちろん、いわゆる「不良」「スケ番」といった扱いが七十年代〜八十年代の初期の感覚を引きずっており、今読むとさすがに古びた印象は拭えない。だが、フーダニットを中心とした本格ミステリの骨法は、動機面を含めて現代に通じるところがありなかなか読ませる内容だといえる作品。
扱われているのは連続殺人事件。しかも容疑者の一人が、主人公の兄貴の友人で、主人公が憎からず思っている人物という事件への関わらせ方がまず自然。相手が不良たちということもあって、主人公らはたびたび危地に陥るものの、友人の父親の市会議員などをうまく利用して立ち回っていくあたりの展開も良い。そして、中盤以降に物語に登場するのが「オトナの醜さ」。それを探ろうとしたり利用したりしようとした学生たちが、返り討ちに遭っていた……というあたりの現実性は、時代を超越する感覚であり、特にオトナ側に立った今の方が理解しやすい。またこういった設定は、ジュニア系作品に似わないような気もするが、現実というものを直視させてしまうという姿勢は、現在刊行されている講談社「ミステリー・ランド」にて貫かれている一連の考え方にも共通し、感慨深いものがある。特に意外な犯人として最終的に現れる人物の意外性は、一般向けとしてはありがちな設定なのだが、ジュニア向けということもあって最後まで見とおせなかった。最後の最後、サスペンスを盛り上げた後の結末がちょっとどたばたしてしまうのは、この手の作品のお約束なのでそれはそれで致し方なし。

小生が騙されたから、というわけでもないがミステリとしての構造がしっかりしているという印象。小味なミステリとして十二分に楽しむことができた。 ……とはいえ繰り返しながら、時代性や文体等には今となっては取っつきにくさもあるかもしれない。(そもそも古書として評価されていない作品だけに入手が意外と難しいという壁もあるか……)


04/10/06
山田正紀「魔境物語」(光風社出版'83)

もともとのコンセプトがどのような意図で描かれたのか、そのあたりに関する情報がないのだが、恐らく『ツングース特命隊』等をはじめとする一連の山田正紀の魔境ものの流れのなかに位置づけられる作品かと思われる。徳間文庫版が出ているらしいが、元版の光風社出版版が入手できたのでそちらで読了した。二編のうち『まぼろしの門』が書き下ろし、『アマゾンの怪物』は『アマゾンの赤い湖』として『小説現代』誌の昭和56年4月号に発表されたもの。
(ちなみにこの単行本は作中に挿画があり、カバーイラストと共に天野喜孝画伯が手がけているのである)。

日本を訪れたロシア皇太子が斬りつけ、その下手人を車夫が取り押さえた――という事件を知った駒戸奥の鉄砲猟師・嘉兵衛。彼はその車夫に年金がつくことを知り、上京を考える。その嘉兵衛の口癖は「天皇を助けた血筋」。その話をきちんと聞いてくれた男・山形孝平が頼りである。山形は新進の仏教学者であり、嘉兵衛と会った後に、インドへ向かい、ブッダの教えを純粋に守り続けるというチベット民族を探し当てる旅に出た。 『まぼろしの門』
国連情報局――日本が国際貢献のために打ち出した、ほとんど有名無実の組織の一因として、元報道カメラマンの奥田はアマゾンの奥地へと調査に向かうことを命ぜられた。ペルーをはじめとするこの時期のアマゾンは石油の採掘で好景気に沸いている一方、何やら不穏な噂があったのだ。さしたるやる気もなく現地に入った奥田は、現地の商社員・緒方の紹介によって幾人かの人々と会ったが、地元民はどうやら何かを隠しているらしい。 『アマゾンの怪物』

前人未踏の魔境、説明付かない怪異を通じて、人間とは何か、宗教とは何かを問う意欲作
背景となる社会情勢(例えば石油を求めて人々が狂奔する世界だとか)こそは微妙に二十年の年月の経過を感じさせる。ただもとより『まぼろしの門』は明治期の人物を扱った歴史ものであるし、『アマゾンの怪物に』にしてもポイントは未開地に分け入ったところで主人公が出会う怪物といった具合であるので、基本的に現代読むことに全く差し支えはない。
そして、求められているテーマは壮大である。特に『まぼろしの門』。”神”の存在を描こうと試みられることの多かった初期山田作品の血統にある作品であるともいえる物語。一人の酔狂な若者が、遮二無二仏教の聖地中の聖地を求める、という筋書きだけであれば比較的単純な物語なのだが、実に含蓄が深いのだ。リーダー格の山形はとにかく、無頼の徒であった嘉兵衛、博打打ち、芸者といった一風変わった一行が、自然と向き合うことによってその性格が変化していく様子が特徴的。強いてこの部分に形容詞を当てるなら「神々しい」というイメージすら感じられる。特に、この幕の切り方が秀逸。人によっては中途半端に感じるかもしれないが、その先にあるものを想像だけに留めることで、物語空間がより大きく拡がったまま余韻を残させるのに成功している。
もう一方の『アマゾンの怪物』は、人間による自然破壊とその自然による復讐が表のテーマ。だが、ハードボイルド作品と見紛う、クールで冷静、それでいて投げやりな主人公が中心となるがために、本来のメインテーマがサブテーマのようにみえてしまう不思議な雰囲気がある。エンターテインメントのやり方として主人公中心の冒険小説という形態がとられているだけとみた(とはいっても、単純に筋書きを追うだけで面白いのが山田作品の凄いところだが)。主人公の奥田が眼にするもの――に驚くよりも、その心理状態に興味が引かれる。

山田正紀作品は外れが少ない。あまり有名とはいえない作品ながら、本書も本書なりに一定の感慨を得ることが出来た。時期的なものもあるとは思うが、SFを通じて何でもやろうとした山田氏の若さも少々滲み出ているように思われる。とはいえ、怪獣文学としても貴重だし、戦前より連なる秘境小説の系譜に繋がる作品と単純に位置づけできない。それ以上の感慨を抱かせてくれる作品である。


04/10/05
法月綸太郎「生首に聞いてみろ」(角川書店'04)

新本格第一世代ともいうべき、法月綸太郎の久々の書き下ろし長編。長編がどれくらい久々かといえば、実に『二の悲劇』以来という。(そういう意味では『ノーカット版 密閉教室』なんてのも出てますが)。『KADOKAWAミステリ』誌に'01年4月号より'03年5月号にかけて連載された作品に大幅な加筆修正が加えられた作品。

一九九九年のこと。作家の法月綸太郎は後輩で写真家の田代周平の招待で訪れた写真展で、川島江知佳という魅力的な若い女性と知り合う。写真家志望だという彼女は、後から会場にやって来た法月の知り合いの翻訳家・川島敦志の姪御だと判った。江知佳の父親で敦志の兄である川島伊作は日本の前衛彫刻シーンを代表する彫刻家だったが、業界内では敦志と伊作との不仲は有名なことであった。ただ敦志は、最近伊作がガン手術を受けた際に話し合い、その不仲の原因は十五、六年前におきたある事件の際に、伊作が一方的勘違いをしたものであり誤解だったのだという。綸太郎と敦志とが出会った日に、秘書の国友レイカより伊作が倒れたとの連絡があり数日後、病院で息を引き取った。一時期不振に陥っていた川島は、美術評論家の宇佐見のサポートによって秋に向けて個展の開催を企画していた。伊作の代表作はかつての妻が妊娠した姿を石膏型にとった「母子像」という作品。伊作は封印していたこの手法を復活させようと、娘の江知佳をモデルとして、死の直前にそれを完成させていた。しかし、伊作が病院に運ばれた直後、家が留守のあいだにその石膏像の首から上が切り取られるという事件が発生、敦志は内々に探偵としての綸太郎の助力を仰いだ。

頭の先から尻尾の先まで、全てに意味合いを持たせたかっちかちの本格推理小説。法月綸太郎ならではの腕前
メインとなるのは、ヒロインとして登場した(と最初は思った)女性が、首を切断されて殺害された事件を法月綸太郎が追うというもの。ただ、そのメインストーリー以外にも随所に細やかな配慮がなされており、大枠としてはもう一つの事件が背景にあって、そちらと両方をまとめて綸太郎が面倒をみる。
とにかく、さりげない。物語をかたちづくるのに必要と思われる描写が、既に単なるミステリ作家を超えた”小説家”としての丁寧な仕事によって形成されている。彫刻にしても写真にしても、感覚が現代的であり、ミステリが描かれる際に感じられる現実との違和感がほとんど感じられない。あくまで、現代を舞台にした(職業こそは一般的ではないものの)普通の感覚を持つ普通の人による物語であるという印象。
それでいて、中身はしっかり過ぎるほどのミステリ。上記したようなさらりとした描写のなかに、小さな謎と解決を伏線含みで織り込んでおいて、一つ謎が解けると更なる謎が表出、そしてメインの謎はしっかり温存しているという構成。実に丁寧な仕事がなされている。そして何よりも冗長さが一切排されているのもポイント。ちょっとした台詞や描写にも意味づけがあり、何かに繋がっていたり、別の意味をもって後半に反転したりと、後から読み返せば凄まじいばかりの伏線の嵐だったりする。ミステリといえど小説であり、多少の無駄な描写は必然とも考えていたが、この作品はその「無駄」をかなり徹底的に排除した試みが感じられた。
ただ――あくまで個人的な感覚だが――構成があまりにしっかりしている分、メインとなる謎やその結末に対して真の意味での「驚き」は少なかったように思われた。めくるめくような「謎」によって吸引されるのではなく、「物語」の巧みさによって引き入れられている感覚。本格ミステリを「謎」で引っ張る物語だとすると、本書の場合は「本格推理小説」というレッテルの方がより相応しいように思うのだ。このあたりの地味さという点をどう判断するかは本書のポイントとなるように思う。もとより、法月綸太郎が探偵役とする作品はこの地味さが滋味となっているあたりが魅力でもあるのだが。

各所で絶賛されている通り、今年の本格ミステリの収穫の一つ。テーマ的な目新しさではなく、その構造に対して真っ正面から挑んでいる作品。 確かに本格ファンであれば見逃せない作品ではあるだろう。


04/10/04
山村正夫「逃げ出した死体」(光文社文庫'85)

光文社文庫のために書き下ろされた”ユーモア・ミステリー”。同文庫では「○○○死体」という山村氏の作品が追って刊行されておりシリーズ作品なのだと思われる。山村氏は宮部みゆき、篠田節子をはじめとした若手の後進育成に大きな功がある方なのであり、御本人も様々な著作をお持ちのはずなのだが、小生が手に取るのが何故かユーモア系作品ばかりになるのは何故なのだろう?

私、こと小泉譲二。ハーフでプロダクション所属のタレントだった。だが、小さな子どもを救うために身代わりで交通事故に遭遇。大きな傷のあった顔面は整形手術を受けるが、頭を打ったせいか自分自身の記憶を失ってしまっていた。加害者が病院関係者であったこともあって多大な援助を受け無事退院した。彼を追ってきたテレビ・プロデューサーの笠井という人物から聞くところによれば直前までの自分は女性関係にルーズで、ホステスをしている妻の玲子が愛人を作ったことを、テレビのアフタヌーン・ショーの蒸発コーナーで訴えたらしい。相手は桑田章吉なる人物。さらに管理人より妻からの言付けがあり、離婚届を持って桑田のマンションを訪れた彼は、桑田らしい人物の死体を眼にして退散する。しかも翌朝の報道によると、その部屋にあった死体は桑田ではなく妻・玲子のものだったのだという。主治医として紹介された古沢夕起子に事態を相談した私は、なぜか事故後にシャーロック・ホームズばりの推理力が身に付いていたこともあり、事件の真相を探るべく警察から逃げながら調査を開始することになった。

設定による脱線が多い、典型的ともいえる”ユーモア・ミステリー”
設定そのものの突飛さがまずユーモア・ミステリー的である。記憶喪失の結果、類い希なる推理力を身に付けた色男。美人でコケティッシュなその主治医兼恋人兼ワトソン役。浮浪者と見紛うばかりのだらしない服装をしたどケチ刑事といった面々が、事件に巻き込まれるというもの。主人公が色男で、しかもエッチをすると推理力が格段に下がってしまうとか、その娘役が金持ちで行動的で好奇心旺盛と、理想のワトソン役像を兼ね備えているとか、刑事がケチなあまりに、いろいろ要求した結果捜査情報をだだ漏らししてしまうとか、実に物語を柔らかくするために都合の良い設定が連なっている。それらの点はユーモア・ミステリーにおいては王道であるので、とやかくいうべきことではない。
一方、本筋となる事件の方は、当初は「死体の入れ替わり」がテーマとなっている。ただ、この入れ替わりにしても格段工夫されたトリックがある訳ではなく、犯人はマンションの普段使わない通路を使って主人公の前から逃れただけの話で、特に推理の要素はない。全体の構図としても、ある人物と人物を繋ぐ関係がちょっと人と変わっているというもので、前例にも思い当たるし、正直にいって新味に乏しい印象である。探偵役の一群がどたばたと事件をこねくりまわしている印象が強い。ポイントを抜き出すと赤川次郎氏のユーモア・ミステリ系の作品群にありそうな部分部分なのではあるが、醸し出す雰囲気が全く異なっているのは不思議ですらある。 本格といえば本格と呼べないこともないものの手掛かりがあまりに露骨なため、主人公たちが感じる意外性ほど読者が驚けない……からなのか。人物像が特徴的な割に、それらに乗っかってしまって薄っぺらい印象が強いからなのか(ラストにおいて刑事はいい味を出しているとはいえ)。少なくとも、ホームズばりと作中で強調されている以上、主人公の推理に、もう少し強烈なキレが欲しかったのは正直なところ。論理の飛躍の度合いが素人の推測の域を超えておらず、ホームズの名を冠する者の凄みが感じられなかったのが残念。

ユーモア・ミステリーは読者との相性が確実に存在していて、少なくともこの作品とはどうやら小生との相性が良くないらしい。お色気系統が強調されすぎているきらいもあるが、何よりユーモア・ミステリーのユーモアの部分もミステリーの部分も微妙に中途半端に感じられるところがあって、結局脱線シーンが目立ってしまい一本筋が通っていないように感じられたのが大きい。ただ、ここで見切るのではなく、いずれ続編を読んでからこのシリーズがどうなのかは判断したい。


04/10/03
二階堂黎人「魔術王事件」(講談社ノベルス'04)

二階堂黎人氏の代表的シリーズ探偵・二階堂蘭子の登場する、長編としては六作目となる作品。(他に短編集が三冊)『メフィスト』誌の'02年1月号より'04年5月号にかけて掲載された作品に大幅な加筆修正が加わっての単行本化となる。

北海道・函館の名家である宝生家を土台から揺るがした世紀の大犯罪《魔術王事件》。その発端となったのは桑形という宝石商が巻き込まれた奇妙な事件であった。国立にある二階堂家を訪れた桑形氏は、顧客であり愛人でもあるナオミから預かっている《炎の眼》なる宝石を所持していた。ナオミはその宝石を鑑賞後、帰宅し事務所に残った桑形氏は奇妙な人物の訪問を受ける。それは全身を紫の長衣で覆い、金色の仮面を付けた謎の人物。彼は《魔術王》と名乗り、彼を椅子に縛り付けると窓の外を見せた。そこから見える向かいのビルの一室には先ほど出ていったばかりのナオミが椅子に縛り付けられていたのだ。しかもその傍らにはもう一人の魔術王。そしてナオミは胸を刺されて殺される。しかも驚いたことに、魔術王が一瞬の視界を遮ったその後、向かいのビルは全くの空っぽになっていたのだ。魔術王が去った後、縛めを解いた桑形氏は助けを呼んで向かいの部屋を改めるものの、人が殺害された形跡など全く残っていなかった。蘭子はこの謎を鮮やかに解き明かすが、《炎の眼》が奪われたこの事件は《白い牙》《黒の心》と宝生家に伝わる他の宝石をも巻き込み、そして次々と惨殺される宝生家一族連続殺人事件の端緒に過ぎなかった!

探偵小説原理主義への着実なる回帰。登場するのは世紀の悪人、頭脳を駆使して戦うは正義の味方
二階堂氏の最初の長編である『地獄の奇術師』が発表されてから既に十年以上が経過した。長きにわたって継続されてきたシリーズではあるが、巨編ともいえるボリュームを誇る本作に至って二階堂蘭子シリーズの方向性が微妙に原点に戻りつつあるように感じられる。最近のこのシリーズは、小生のなかのイメージとして物理的トリックを中心とした本格ミステリとしての求心性が強く顕れており、物語性というのはそのトリックに従属するものであるという作者の意志があったように思う(誤解かもしれない)。この昭和四十年代という年代設定にしろ、そのトリックを成立させるための科学捜査であるとか、現代文明の利器からのしがらみから逃れるため、そして探偵小説の雰囲気をぎりぎり成立させるための必要不可欠な要素として存在していた(誤解かもしれない)。
いずれにせよ、本作にあたっては物語性とトリックの従属関係が逆転したようにみえるのだ。それは、あくまで物語性を主に取り、トリックはどちらかといえば従という存在になっているということ。つまりは、近年多く発表される普通の意味での本格ミステリではなく、かつての江戸川乱歩が得意としていたような通俗探偵小説にもの凄く近くなったように思われるのである。その証左として正義の女神として登場する二階堂蘭子に対し、邪悪の固まり・魔術王の凶悪さが凄まじい。犯罪のための犯罪、共犯者を切り捨て、歳端のいかない子供を切り刻む、心の底からの笑顔で人を殺せる悪魔。そういった魔術王の悪事を引き立てるためにトリックがあり、その存在を追及する蘭子の存在との対比は、(凶悪のレベルに差異はあれど)明智小五郎と怪人二十面相との戦いに重なってみえるものがある。また本作には、宝物を予告して盗む、秘密の地下通路等々、そういった探偵小説のオマージュとも思しき場面も多数登場している。
その過程にトリックも多く仕掛けられてはいるが、探偵小説特有の補助線を当てることによってある程度犯人の目星がつくため、それらについてのサプライズは薄くなる。(ただ、誘拐した子供に関する、あるトリックについては度肝を抜かれた)。とはいえ、その個々のトリックの是非を問うべき作品ではないと思われるのだ。あくまで蘭子と魔術王との戦い、これをじっくり楽しむべき作品だろう。正義と悪との代理戦争。単純ゆえにのめり込みやすい構図。いわゆるかつての探偵小説を愛好した方に対するプレゼントのようですらある。

探偵小説に対する熱狂を知らない若い世代の読者や、いわゆるトリックの良否だけを判断する本格原理主義読者にとっては確かに微妙な位置づけの作品であることは否めない。だが、かつて現在のオトナたちが子どもの頃に心を躍らせたあの世界を再び、という心意気を買う作品だと思う。決して現代的なスマートさはないが、ちょっとインチキ臭いあの時期特有の探偵小説の匂いがぷんぷん漂う、最近では珍しい作品(これは誉め言葉です)。


04/10/02
吉村達也「万華狂殺人事件 −魔界百物語3−」(カッパ・ノベルス'04)

ご存じ――とはいっても追いかけている読者がどれくらいいるのか不明だが、吉村達也氏の打ち出した魔界百物語シリーズのその3、つまり三作目にあたる作品。前作の『平安楽土の殺人』から二年と七ヶ月ぶりの書き下ろしである。(ちなみに第一作の『京都魔界伝説の女』からは実に五年)。氷室想介を探偵役とするシリーズではあるが、スーパーマルチ学者・聖橋甲一郎のアドバイスもあり、このシリーズは独立して独特の雰囲気を持つようになりつつある。

殺人プロデューサーQAZ。彼は「辻」という平凡な人間の名前を騙ってホームページを開設した。その掲示板を解放し人間の醜い側面を観察するのがその目的。そのなかで彼が目に留めたのは”三田蹴子”という名前で為された書き込み。彼女の虚言を読みとったQAZは興味深く観察を続ける。そして「辻さん」ことQAZのもとに彼女から直接「相談メール」が届いた。彼女は一人を除いてある一家を皆殺しにしたいのだという。QAZは万華鏡に関する文章を作成し、彼女に送信した――。
一方、京都に移り住んでいる氷室想介のもとに、三年前に山梨県の甲府で一家惨殺事件に巻き込まれ、押入に隠れていたことで生き残ったという青年・滝沢英貴がやって来た。東京の田丸警部の紹介である。その事件は英貴の十七歳の誕生日当日に発生し、一家は刃物により切り刻まれ、一人英貴が生き残るという凄惨な事件であった。犯人は女性であると推測されるのだが、肝心の英貴はその当時の記憶が完全に欠落してしまっている。そして、彼は二十歳の誕生日を迎える時、「あいつ」に殺されると怯えていた。

「見せ方」が実に惜しい! 本格ミステリの収穫になり損なってしまった達也流・サイコ・ミステリー
偉そうなことをいきなり書いたが、ちょっと個人的感情が入る。これまで吉村作品を軽く百作以上は読んできて、やっぱり好みなのは初期に多かったトリッキーな本格系のミステリなのだ。近年のホラー系、サイコサスペンス系も嫌いではないが、本格サイドに戻ってきて欲しい、というのが個人的な願いでもあって、それが叶えられかけたのが本作。

近年の吉村作品(ミステリもホラーも問わず)にしばしば登場し、常にその描写に鬼気迫るものがある、いわゆるサイコ系の人物が本書にも登場する。真夏の京都で薄汚い古い浴衣を着て往来のど真ん中で万華鏡を覗きつつぶつぶつと独り言をつぶやく厚化粧の中年女。典型的なサイコおばさん。一方、その彼女に追いかけられるのは一家惨殺事件の生き残りで、当時の記憶が喪われてしまっているというこちらも万華鏡マニアの引き籠もり青年。まずは彼らにまつわる謎が中心となって物語が形成される。だが、かつての殺人事件の犯人はその女だということはかなり早い段階で明かされ、こちらのエピソードにおけるサプライズは、その彼が生き残った理由について、十七歳の青年の心理を分析して鋭く解き明かす氷室京介の推理にある。
そして本作で注目すべきは後半に発生する事件の密室トリック。すごくいい。 雨の夜。青年と浴衣女がマンションに入り、その出入り口は乗せてきたタクシーの運転手により監視されている密室状態。青年は氷室と電話している最中に殺害され、だがしかし後を追ってきて現場を発見したタクシーの運転手の前から、サイコおばさんは消え失せていた……。
そしてその事件の裏側に凝らされているのは、本格ミステリマニアをも唸らすだけのトリック(ただ原理主義者は文句をつけるかも)、なのに、見せ方にて失敗、というか大きく損をしている。どうして関係者をもう少し伏線を絡めて事前に登場させておかなかったのか。その人物の存在があまりに唐突ゆえに、せっかくのトリックが、物語のなかでは許容されるものの、本格ミステリとしてアンフェアになってしまっているのが実に惜しい。 あああ、もったいないもったいない。

インターネットの存在をうまくサイコに絡めた展開や、久々にトリックを重視した(近作をちょっと追いきれていないので断言しづらいが)ミステリーである点、往年の吉村ファンであっても楽しめる内容であるといえる。シリーズ続けて読むのが当然望ましいが、この惜しいトリックが……、ああこれが微妙なのでちょっと勧めづらい。個人的には非常に楽しめたのだけれど。


04/10/01
皆川博子「みだら英泉」(新潮文庫'91)

'88年に『小説新潮』誌に発表された同題の作品が翌年単行本化され、本書はその二年後に文庫化されたもの。歴史上の人物に焦点を当てて自らの世界に取り込む……という皆川作品群の一つの潮流のなかの一冊。本書のカバーには本編の主人公である渓斎英泉の画が用いられている。

後の渓斎英泉。独自の画風で江戸時代に生々しく艶っぽい春画をものにした怪人物。春画・春本の厳しい取り締まりを行った寛政の改革を経て、下っ端の武士でありながら春画を描いていた英泉も咎めを受けて職を追われた。彼には三人の妹がいたが、彼女らはまとめて奉公に出され、英泉は北斎の門下に転がり込み鬱々とした生を送っていた。四渓淫乱斎と名乗って書いた安い作品に目を留めてくれたのが、駆け出しの版元であった越前屋長二郎(後の為永春水)。彼らは権勢を誇る歌川一門に対抗意識を燃やすものの引っかけても貰えない。鬱屈した生活のなか、それでも画を描き続け機会を窺っていた。そのためには何か才能の壁を超えねばならぬ――。英泉の生活は荒れた。その英泉の三人の妹、お津賀、おたま、おりよ。しっかり者のお津賀、どことなく淫蕩の風漂うおたま、そして末娘ながら激しい気性を持つおりよ。奉公先から長二郎の奔走により、それぞれに暮らす彼女たち。英泉は彼女たちに関わることを避けようとするがお津賀はそんな兄の身が気になって仕方がない。しかし、その兄の才能を飛躍させるきっかけは、やはり妹たちにあったのだ――。

荒んだ生活であっても絢爛を生み出す才、微妙な描写からエロティシズムを生み出す才。浮世絵の妙と皆川文学の妙
皆川博子さんの近作は少々長大となる傾向がある。それはそれで物語が薄まっているのではなく濃密な内容については相変わらずなので特に不満があるわけではないのだけれど。ただ、本作あたりを読むと、短めの長編のなかに溶ろけるような濃密な描写と想像力の深みを感じさせる作品もまた、素晴らしいと思うのだ。
時代小説は数あれど、本書で描かれている江戸時代は本当の江戸。風俗描写や歴史上の事件のみならず、当時の人々の感覚までもが生粋の江戸時代になりきっているところがとにかく凄い。現代作家が描く江戸文学も悪くはないが、そちらが綿々と繋がる「時代小説」という分野を現代的な感覚で描くことが多いのに対し、皆川博子の描く時代小説は、その当時の文学をそのまま現代語に引き写すかのような飛躍を感じさせられる。つまり、通常の時代小説ではあいだに挟まるべき、明治、大正、昭和の時代小説の香りを全く感じさせない。
さて、そういった江戸のなかで描かれる英泉の人生。もちろん単なる伝記に終わらない。画においては歌川一門に葛飾北斎に頭を抑えられ、生活という意味では日々の糧に汲々とし、思い通りにならない人生に憤る。それでも己の画風を求め彷徨う男の姿がじりじりと描かれる。前半部では彼の苦悩と投げやりともいえる生活態度が描かれ、それをベースにしながら中盤での妹たちの姿が描かれ、それらが融合され一気に後半の飛躍へと(しかし飛躍すれども決して幸福にはみえない)繋がっていく。才能を持て余す、凡人と異なる人間ゆえの苦悩。周囲の人間との隔絶。凡人には窺い知れない感覚といったあたりが、皆川博子さんの筆により再現されている。一旦活字となった文章も艶っぽいながら、その行間の深みが凄まじく、短いとはいっても読書に要求されるエネルギーは強烈。本筋とは無関係とも思われるエピソードの一つ一つが濃く薄く、英泉の人生と繋がっているあたり、妙としか表現できない。物語全体で特筆すべき凄さというものはない。というか物語全体そのものが全て特筆すべき皆川博子さんの凄さを感じさせる。読んで堪能する。これが全て。

結果として心に残るのは、才能と格闘する凄絶な男の生涯。 もちろん、これが本作の主題であるのだが、その主題がこれだけ読者の心にぐさりとくるのはこの物語がまた、別の天才”皆川博子”によって描かれているがゆえであろう。皆川作品に外れなし。常に凄まじく、狂おしい。