MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


05/01/31
浅暮三文「悪夢はダブルでやってくる」(小学館'05)

『週刊アスキー』二〇〇三年一一月二五日号から二〇〇四年三月九日号まで『魔法使いは缶詰にいる』という題名で連載された作品(e-NOVELSではこちらの題名で発売)に、大幅な加筆修正が加えられて刊行された長編作品。

ゴールデンウィークの前日。あなたは三十半ばの電機メーカーの独身サラリーマン。大型連休を前にして自宅でのんびりくつろぐ予定でスーパーマーケットに買い出しに来ていた。大量のウイスキーを買い込み、食料を買い込み、好物を買い込んで、そこで缶詰の特売をしている場所に出向く。あなた好みのキャンペーンガールに勧められるまま、一ダースの缶詰を買い込み、住処のマンションに帰り着く。隣の老婆とちょっとだけ会話を交わしたあなたは、早速ウイスキーを口にし、買ってきたオイルサーディンの缶詰を開けた……。ポンという音と共に中から現れたのは、針金のように細身の男。(ただしオイルサーディンは爆発してあたりは油まみれである)。白いターバンを頭に巻いたアラビア人風のこの男、魔法使いを名乗り、望みを叶えるというのだが、きれい好きのあなたは怒りまくっているので彼のことを信用しない。望みではなく命令として、部屋をきれいにして、出ていけと憤る。困った魔法使いはあなたを宥めようとするのだが、そこへ現れたペンギンが「アフガニスタン・カザフスタン・バナナスタンド!」と呪文を唱えたかと思うと、あなたは彼と共にコンデンスミルクの缶詰に閉じ込められてしまったのだ!

なんというかとっても楽しい。グレさんの遊び心が満載された、洒落の分かる大人のためのファンタジー
筋書きとしては、ひょんなことから魔法使いと関わってしまった”あなた”と、その魔法使いとのドタバタ劇というのが基本。アラビアン・ナイトの基本中の基本”ランプの精”を現代に登場させて、願いを叶える、いや願いなんかないという二人の甥かけっこなど、古式ゆかしいコメディ映画を観ているかのような気分。(但し、舞台は紛う事ないほどに現代)。ただ、古臭いコメディはあくまで踏み台。その誰でも知っている設定を裏返しにすることで、浅暮流のファンタジーに昇華させてあるのがこの作品である。
しかも、独身男性を主人公に据えた大人向けコメディでありながら、上品な笑いが指向されている。つまり下品な笑いやお色気などを出来る限り排除して(そりゃ物語の筋のうえで皆無ではないが)、あくまでドタバタコメディとしての面白さが狙われているのだ。そのうえで戦争や政治家を諷刺し、宇宙人まで登場し、さりげない伏線が張ってあって広義のミステリーとしての骨格まで備えている。なので、恐らくは誰が読んだとしても、このほのぼのとした笑いは共通したものとして味わえることだろう。また、さりげなくも文章のテンポが良く、するすると物語を進められる点もポイントである。一つのエピソードの終わりに缶詰に入れられて移動してしまうため、地球上を股に掛けた大きな物語ともなっているし。
また、魔法使いと”あなた”との人間関係が巧い。最初はぎこちなかった関係がいつの間にやら……てなもので、缶詰に入れられてどこかに行くたびに親密度が増してくるあたりも上手に表現されている。当然、最後近くに登場する魔女の存在も良い味だ。加えて、人によって感じ方はさまざまだろうが作者がところどころに顔を出し、いらぬジョークを交えてくるのも楽しかった。(浅暮さんと面識のある方はたぶん同じ気持ちになることだろう)。しかも随所に活字本ならではのお遊び、即ち三角くじあり、星占いあり、割引券あり、図形クイズありと、意表をつく冗談に、思わずのけぞる。

終わってみれば、物語そのものよりも、実は浅暮三文の遊び心の方が強い印象が残っている。だが、それは決して不快なものではなく、深謀遠慮のエンターテインメントを素直に楽しませて頂いた結果としてのもの。これぞ、大人による大人のためのファンタジー。バンザイ。


05/01/30
西尾維新「新本格魔法少女りすか」(講談社ノベルス'04)

  鳴り物入りで創刊された講談社の新雑誌『ファウスト』に掲載された二中編に、書き下ろし一編が加えられた作品集。メフィスト賞受賞後、意欲的な活躍と独創的な世界観が若い世代を中心とした共感を呼び、人気を誇る西尾維新の新シリーズ。

佐賀県に住む小学生・供犠創貴(くぎ・きずたか)は十歳ながら心に大いなる野望を秘め、周囲を見下し、将来の自らの野望の《駒》足り得る人間のみを求めている。そんな彼の重要な《駒》のひとつが、同じ小学校に一応籍を置いている水倉りすか。彼女は長崎県と佐賀県の県境にある「城門」に隔てられた「魔法の王国」から、父親にして超危険で偉大な魔法使い「水倉神檎」を探し出すために外の世界に出てきていた。魔法使いは余程のことがない限りは長崎県から外に出てくることはない。《駒》としての能力を認めているりすかに対し、創貴は自らが遭遇したある事件が魔法に関わっているのではないかと疑っていることを告げる。用字があって福岡県に出向いた創貴の目の前で、四人同時にやって来た電車に飛び込み死亡するという事件が発生したのだ。その四人は全く無関係で、事故そのものは魔法によるものと判明。その魔法自体は大したものではなかったが、その裏側にいるはずの人物を求め、創貴とりすかは事故現場を訪れる。第一話『やさしい魔法は使えない。』その他『影あるところに光あれ。』『不幸中の災い。』の三編。

西尾維新の手慣れた感じと、その西尾が恐らく狙ったところがなにか微妙で。
戯言シリーズも、このシリーズもさすがに小生の年齢もあって大好きとはいわないが、決してその世界観とかはキライではない。(でなきゃ読まない)。いわゆるミステリとしての法則というか、物語文学の大前提であるとか、そういった常識をすっ飛ばす世界は、ある角度から読む分にはそれなりに気持ちが良い。
ただ、新たに開始されたシリーズ(読むのは遅れたけどね)を眺めるうちに「僕と君」とか以上に薄薄、「西尾作品の根底にあるもの」が感じられるようになってきた。(恐らく)漫画やゲーム的な要素を源流とする、そのエンターテインメント性は誰しもが認めるところだろうが、そこに西尾が建てようとする楼閣がなぜ独特なのか。読み解く鍵が、登場人物と登場人物のあいだ、すなわち人間の繋がりにあるように感じた。必要以上に理屈っぽく、かつひねくれているのである。
本書の場合は登場人物が少ないので逆に顕著になっている。まず、主人公の創貴とりすか。いじめっ子といじめられっ子の図式というか、支配と隷属というか。盲目的な服従を強いる/受け入れるタイプである。りすかとチェンバレンなんかもこれにあたるだろう。また、読者には分かりにくい価値観が働いているとはいえ、「打算」にて繋がっているタイプ。が働いているタイプ。本書で何人か登場してくる魔法使いたちがこれにあたるようにみえる。もう一つ、性的恋愛的感覚抜きの愛情によって繋がっているタイプ。このタイプは一方的な愛玩ということばに置き換えられるかもしれない。これはある時のりすかと、創貴の関係を思わせる。
本書で目に付いた関係を挙げてみたが、このうちの大部分が実はメインである『戯言シリーズ』にも当てはまるようにも思うのだ。西尾維新の物語では、青少年エンターテインメントの王道である友情・愛情を否定するところから始まっているからこうなのか。もちろん、先に述べたような関係で繋がっている人間同士だから、実にドライにしてクール。特に関係性を断ち切る部分においてもこれらの関係であれば「あっという間」であっておかしくないし、いわゆる情も入らない。この乾いた世界観こそがなんというか西尾風じゃないですか?
これに気付くきっかけとなったのが、二話目のラストシーン。物語のなかでも浮いている。先に述べた関係性を強調しまくるエピソードで、恐らく読まれた方にも相当なインパクトがあると思う。とはいっても整合性における居心地の悪さはどうしようもなく、司法に裁かれる危険を犯すのはそれこそ創貴にとっての愚の骨頂だと思ったし、案の定、その後の《駒》の操り具合にも不具合がでているわけで。別に駒にしたったらええやん? とか思うのだが。

一方では、物語の進行については既存のエンターテインメントの王道を行っているわけで。例えば、作品ごとに強くなる相手のレベルであるとか、中途からストーリーがはじまって、そのきっかけを回想してゆく方法論であるとか。本作でもジョジョを思わせる魔法対魔法、一般的な理解を超える必殺の技同士のぶつかり合いがスリル溢れる展開にて描かれ、りすかの魔法に加え、創貴の知恵が加わることによって意外性を演出、先を読ませないエンターテインメントとしてよく出来ている。

なんのかんの言いつつも、西尾維新の作品世界だなーっと思って読みました。世界観で読ませるほどにはやっぱり力不足なのでファンタジーというよりも、魔法エンターテインメントといった感が強いか。あと主人公二人は十歳ですが、十歳が読んで理解できる作品とは違います。


05/01/29
海月ルイ「プルミン」(文藝春秋'03)

子盗り』にて第19回サントリーミステリー大賞と読者賞をダブル受賞した著者の、受賞後第一長編。ちなみに海月氏は同賞受賞前にオール讀物推理小説新人賞を獲っているなどその実力が評価されていた作家である。

乳酸飲料・プルミンを宅配するプルミンレディーが、公園で小学生の子供たちに無料でプルミンを振る舞った。手袋を装着しサングラスをかけ、マスクをした彼女は淡々と集まる子供にプルミンを手渡す……。
小学一年生ながら悪知恵に長け、大きい体躯を利してクラスメイトを陰湿な暴力を用いて徹底的にいじめ抜いていた宇梶雅彦。母親の佐智子は、母親たちの「派閥」のボス格で薄々そのことに気付きながら、いじめられた親の抗議に取り合わず、あまつさえ逆にこちらも陰湿な噂を流すなどして報復していた。息子の信宏が雅彦に取り上げられたゲーム機のことで楠田亮子が宇梶家への抗議に赴いた矢先、その雅彦が吐血して倒れた。毒入りのプルミンを飲んだ結果の事故死。周囲の人々は雅彦の死亡を悼むどころか「天罰」だとさえ感じていた。しかし、警察の捜査にもかかわらず、公園で雅彦にプルミンを手渡した女性が誰なのかは分からない。母親たちの交際のなかで無責任な噂が流され、幾人もの母親たちが犯人ではないかと取り沙汰される。そんななか、第二の殺人が発生した……。

子供のいる一般家庭とコミュニティをリアルに描き出す一方、サプライズは狙い過ぎの感も……
新興住宅地という限られたコミュニティ間の問題。要は問題が発生しても、力の強い者、神経の太い者が勝つという、特に同世代の子供を持つ母親間に発生する諸問題を巧みに物語に取り入れている。PTA、無責任な噂、子供のイジメ、「派閥」……といったあたり、実に「生活」をリアルに生々しく描いている。ただ、そういった生活感だけが本書のポイントではないことはもちろんだ。
身内以外の誰もがその存在の抹消を願っていたという問題児が死んだ……という発端はなかなかに魅力的。小学生が間接的に殺人されたというのに、その覚めた反応もまた、ある意味では現実的ではある。この問題児が行ってきた数々のいじめの描写もまた凄まじいし。また、プルミンレディーという(もちろん何がモデルになっているのかはお判りですよね)、主婦のパート職業を事件に絡めたことで、主婦のミステリとしての十二分な要件を満たすのだ。主婦たちが探偵役や狂言回しといった役割を果たすことに違和感を覚えさせないあたりは巧い。そして繰り返しになるが、その合間合間のエピソードとしてこの小さな地域のなかの、主婦たちが抱える諸問題が提起されており、飽きさせない展開となっている。
しかしこの事件、先に書いてしまうと、実に犯人は意外な人物である。ある証拠によって、犯人像が浮かび上がっていくし、そのための伏線もいろいろと張られている。ただ――、真相が意外に過ぎるようにも思われる。ミステリとしてのサプライズをあくまで重視した結果だろうが、メインと思われたせっかくの主題が置き去りにされてしまっている感があるのだ。できればこれをダミーの解決として、更に本流の問題(子供のイジメや小学校教育、主婦のコミュニティといったあたり)に戻って真相を描いて欲しかったというのはねだり過ぎか。

『子盗り』の時にも感じたことだが、ミステリーファンよりも、一般文芸(エンターテインメント)ファンの方が読者としては向いているように思う。いずれにせよエンターテインメント小説の骨法は心得ている方なので、誰でもすんなりと世界には入れるのだが。特に小学生の子供を持つ親にとっては骨身に染みいる話である。


05/01/28
牧野 修「乙女軍曹ピュセル・アン・フラジャーイル」(ソノラマ文庫'03)

  ここのところ一般向けのSFやホラー小説を中心に発表してきた(とはいっても対象は微妙な世代だが)牧野氏が、久々にライトノベルの世界に帰ってきた――と書くと大袈裟か。もしかすると本書は「乙女」シリーズの端緒となる作品なのかもしれない、と既に『アシャワンの乙女たち』を読了しているので改めて感じたりもする。

宇宙標準歴10414年。擬人種(ヒトデナシ)は惑星ロンドで採取される不定形生物を原型に人工的に造られた生物。用途に応じて高い知能を持っていたが、あくまで人間に従う存在であった。やがて輝王と呼ばれる〈慕頭〉はある時に目覚め、人類に対して反旗を翻した。そもそも人類の使用する兵器のほとんどが擬人種であり、惑星開発や病人介護のために各地に既に入り込んでいた擬人種にとって人間は駆除の対象にしか過ぎなかった。そして七十年が経過し、擬人種は帝国を築き、自らを真人種(マコトノヒト)と呼び、人類は辺境に追われてひっそりと暮らしていた。人類のたった一つの希望は人類の王と、王を救い救済に導く救世主の存在であった。人類の王・縷々砂は擬人種に占領された星・シノンにいた。そして救世主・フラジャーイル家の末娘、ピュセルもまた神の啓示を受けていた……。ピュセルは女戦士となり、〈慕頭〉に操られない古い世代の擬人種を仲間に従え、縷々砂を惑星オルレアンに連れてゆく旅へと出発する。

正統派・美少女・スペース・オペラ by 牧野修。あれ、だけどこの設定、どこかで……?
牧野修の著してきた、これまでのライトノベル、ないしライトノベル寄りSF、または他の原作(ゲームやアニメ)のある作品のノベライズ――は、総じて面白い。まぁ、面白いとだけ書いてしまうと身も蓋もないが、物語の起伏が大きく、起承転結が愚直なまでにしっかりしており、それでいて主人公や敵役の造形が冴え渡る。ちょっとした残酷シーンを描くのはお手の物であることもある一方で、基本的には素直な勧善懲悪なので読んでいてあまり不安にならないという特徴もある。
本書も、その牧野修のエンターテインメント系の才能が、見事に発揮された作品である。人間が自ら造りだした生命体に逆に支配を受けてしまう世界。(ああ、どこかでそんなアニメを観たことがあるという方、貴方は同世代です)。そして、その生命体に対して非力な人間たち。被支配者として怯えて暮らす人々のなかで、決然と戦いを挑めるのは、特殊な能力を持つヒロインと、その部下のみ。またこれが強いのだ。反則気味なまでの技と強さ、その結果としての安心感。決して短くない物語のなかに、大きな世界と波瀾万丈の物語を展開していくのだが、この一定したヒロイン御一行の強さによってテンポ良く物語が進む。
とはいっても、牧野氏が再構築した世界観であるとか、物語の神であるとか、駒のように残酷に使い捨てられる脇役であるとか「ああ、牧野修だなあ」というようなホラー寄りの感覚も見え隠れしており、恐らくホラー作品から牧野修に入られた方にとってもそれなりに読み応えがある作品となっている。戦う相手を人間と違うモノとしてしまうことで、正義と悪との区分に悩むこともなく、実にスッキリとした読み終わり。ラストのハッピーさも、こうなると悪くない。

原作が頭に浮かぶということもあろうが、どこかで観た・読んだ話のつぎはぎ……ともいえなくもないが、それはそれで一大エンターテインメントである点も間違いない。ただ、突き詰めるとあくまでライトノベルではあり、一般読者にも無条件でオススメする……のはちょっとだけ躊躇いも。ただ牧野ファンであれば、読む価値がある作品。


05/01/27
馳 星周「雪月夜」(双葉社'00)

  『不夜城』シリーズで名実とも人気作家の地位を確立した馳氏の第六長編。『小説推理』誌に一九九九年六月号から二〇〇〇年の八月号にかけて連載された作品に若干加筆が加えられたものだという。

根室の街でロシア人相手の電器店を営む内林幸司。かつて露助船頭の息子として周囲から蔑まれ、東京の右翼に入ったが結局根室に舞い戻ってきた男。彼の前に小中学校で一緒だった山口裕司が現れた。幸司と裕司は当時常につるんでいると思われていたが、内実は互いに憎み合っていたのだ。その裕司は、幸司の右翼の合宿所に現れて彼をめちゃくちゃにした挙げ句、現在は東京でヤクザをやっている。裕司はいきなり幸司を脅しつけ、敬二の居所を吐けという。幸司は知らない。めちゃくちゃにされた挙げ句、納得した裕司は、敬二がロシア人の娼婦と共に組の金を持ち逃げしたのを追ってきたのだという。合宿所で一緒だった幸司と敬二は確かに仲が良かったが、実際幸司には連絡がなかった。しかし億単位の金の話を聞き、幸司は裕司を出し抜いてこの根室の街から脱出したいと夢想する。地元ヤクザや腐敗警察官に話をつけていく裕司。狭い街に敬二と大金の話はあっという間に拡がっていく。誰もが敬二を狙うなか、幸司もまた敬二を捜していた。友情のためではなく、その大金のために……。

絶望が約束された物語。エンターテインメント要素をギリギリまで排した暗黒小説
友人の某氏には「馳星周作品はノワール小説ではない」という持論があり、小生も最近では大筋そのニュアンスについては合意している。本来の暗黒小説においては、もっと人間の暗黒面が描かれるべきで、馳作品では暗黒の感情を持つ人物こそ登場するものの、彼らの役割を駒や狂言回しとしたエンターテインメント小説(こう書くと範囲が広すぎるのであれば、バイオレンス、そして広義のミステリー)であるように思われるからだ。沢山人は死ぬし、決してハッピーエンドではない。だが、これだけページを捲りたくなるということは、そのなかにエンタメの要素が多分に含まれているからだろう。
――だが、そういった馳作品の中でも本書に関しては、素直に暗黒小説という言葉を贈りたいように思う。主人公である露助船頭の息子である内林幸司の感情の暗黒面に焦点を当て、徹底してそのことばかりが描かれているのだ。幸司と昔から対をなし、互いに憎み合いながら生きている山口裕司。そして逃亡中の敬二。彼らを前にして小狡く立ち回る幸司は、自らの利益のために全てを捨て去る覚悟ができている。地元のヤクザ、彼らと繋がる悪徳警察官、政治家、その秘書や政治新聞記者、幸司の知り合いのバーのマダムにして政治家の愛人、地元ヤクザの子分……と、大金獲得レースに参加する人間はページのボリュームもあって多数いる。だが、本書ではそのゲーム性をも排した展開が目立つ。いずれも、裏切りをもたらすための駒なのだ。彼らは大金のために手を結び、対立し、そして滅びていく。そしてその無常観を感じているのは読者以上に主人公の幸司であろう。かつての友人ですら、駒としか感じなくなった幸司が、そして常にいろいろな憎悪にまみれている裕司が、彼らを物語の展開に従って順に始末していく。豪雪のなかで大金を巡っての複数人数による争いの場面なども秀逸。当然、これ以上はないというくらいに冷え冷えとしたラストの絶望が凄まじい読後感を残していく。

まあ、一言でいえば関係者の騙し合い、殺し合いでしかない。だが、曲がりなりにも社会人として商売を営んでいた筈の幸司が、裕司と敬二の登場によって徐々に壊れていく様が徹底的に描かれている。このあたりの変化について、直接的ではないのにさりげなく表現している馳氏のテクニックが映える。――ただ、徹底的に暗黒にこだわることで、馳氏の他作品と美妙な壁ながら一線を画しているようにみえるのが不思議である。


05/01/26
皆川博子「巫女の棲む家」(中央公論社C★NOVELS'83)

'83年に書下し刊行された長編作品で、'85年には中公文庫版も出ている。

戦前、上海で娼妓をしていた姉に呼ばれ、上海のフランス租界に呼び出された私・倉田佐市郎は、隣に住んでいたフランス人の霊媒師の助手を務めていた。彼の手品めいた霊媒の手口を私は覚えていったが、姉がパトロンの関係で河北省に移り住む時に同行する。そうこうするうちに日中戦争が勃発し、姉と私は見境無く進撃してきた母国の軍隊に捕らえられてしまう私は軍属となったが、姉はそのまま慰安婦にさせられてしまい行方不明。姉を捜して各地を回った私は、最後に彼女と不幸な別れ方をしてしまう。そうして戦争が終わり、三十八歳となった私は昔取った杵柄で霊媒を職業とするようになっていた。ある交霊会で日馬秀治なる医師と知り合った私は、彼の家に入り込み、純粋に霊の存在を信じる彼を籠絡することによって、彼の家族をも霊の世界へと取り込んでいく。特に、かつて精神に病を患った兄を見殺しにした過去を持つ黎子は暗示に掛かりやすく、父親の暗示と私の巧妙な誘導によって自動書記を行う巫女へと自らを変化させていくのだった。徐々に交霊のイベントは大きくなり、私財を抛って日馬秀治は自らの宗教団体を創り上げ、またその団体を踏み台に大きくのし上がろうという野心を持つ者たちが集まっていく……。

後年の野心作に至る自伝的小説の原点。だが新書の枠は皆川さんには小さすぎて
少女(少年)から大人、壮年、そして老人に至る人間の一生とその波乱の流れに相応しいだけの歴史的事件、更に幻想的な光景とを組合せ、二重三重に丁寧に織られたタペストリーのような絢爛さを誇る物語――というのが、誠に勝手ながら小生の持つ近年の皆川長編のイメージである。そして、その主人公はそれが男女であるかどうかにかかわらず、どこか厭世的でかつ人付き合いが苦手で独自の価値観に殉じて生きていく。自らの欲望・野望に忠実であるが、その望みそのものは世俗の論理で分かりやすいものではない(かといって必ずしも高貴なものでもない)

本書も原点的な意味では、そういった諸作に近いニュアンスを持つように思う。戦争の結果、心身に傷を負った男たちが望む破滅がテーマ。そこにインチキ霊媒師という普通ではなかなか主人公となりえないような人物を配するあたりが特徴的である。ただ、彼らはその目的に容易には到達できない。そこに数々の紆余曲折が待ち受ける。人を操ろうとして操られ、自分の野心を達成するための組織が、別の誰かに簡単に踏み台にされてしまったり……といったトラブル(そして彼らにとって以外からはトラブルですらない)が、待ち受ける。明確な目的を持ちながら、不器用ゆえになかなか目標に到達できない彼らの姿はまた、作者自身のかつての自分を映したものなのかもしれない。
そして、どこか本書にはそのあっけない幕切れ以上にどこか不完全燃焼のような印象を受ける。出来る限り削ぎ落とされた文章で描かれているにもかかわらず、この制限ある紙幅では皆川さんの思いの全てが込められなかったのではないか。また、ノベルスの需要層とかけ離れた内容もまた、そういった制限とも無縁でなかったかもしれない。

それでも戦争という行為が人の心に様々な角度で残した数々の傷跡が、無心に描かれつつ実に残酷な印象をもって読者に迫る。当事者にとって自覚と無自覚にの境目くらいに”戦争”が存在しており、決して戦争憎しという印象は受けないものの、過ぎ去りし時代の不思議なテーマ性がいつの間にか読みとれてしまうのだ。文庫化されているものの、皆川作品のうちで入手しやすい方ではない。また、その内容のクセの強さゆえに、皆川博子ファン以外の方にはあまりオススメできないように感じた。


05/01/25
高田崇史「QED 鬼の城伝説」(講談社ノベルス'05)

メフィスト賞を受賞した『QED 百人一首の呪』から好調な刊行ペースが守られ、このQEDシリーズもとうとう九作目。桑原崇や棚旗奈々・沙織の姉妹、そして小松崎良平らが向かうのは岡山県。桃太郎に黍団子で有名な彼の地に隠された秘密とは?

岡山県総社市の外れにある名家・鬼野辺家には先祖代々伝わる大きな釜があった。この釜が鳴ると鬼野辺家の主人が死ぬという不吉な伝説があった。事実、十年前に釜が鳴った時、当主の源造は屋根から落ちて首の骨を折って死亡、三ヶ月前にも釜が鳴り、一人息子だった康一郎もまた轢き逃げにあって死亡。康一郎の長男で現在の当主である健爾は、その伝説自体を笑い飛ばしていたが、彼の婚約者であり、岡山市役所の観光課に務める妙見明日香は不安に思っていた。最近、また釜が鳴ったというのだ。健爾の母親の誕生日の日、鬼野辺の家に兄の巧実と共に招かれた明日香は「十五分後に土蔵においで」という健爾の言葉に従って、鬼野辺家の土蔵に向かう。小雨降るなか、明日香が目にしたのは土蔵の真ん中に置かれていた首だった。助けを求めて母屋に向かった彼女に応えて、巧実や健爾の弟の圭祐が駆け付けるが、土蔵は内側から閂がかけられ、さらに南京錠がしまっており開けられない。そして体当たりで開いた土蔵の中心には、大量の血の海の中に置かれた健爾の首があった……。果たして、短時間で首を切断し土蔵を密室にした犯人の意図は?

高田氏が繰り返し語る”鬼”テーマ・本格ミステリ。日本人であることによって気付きにくい歴史に潜む秘密……
本当に引き出しの多い作家だ……。と感心させられる。これまでのQEDシリーズや他の著作によって、じわりじわりと歴史や常識に潜む、日本の歴史の裏面史に触れてきた高田氏。本作も、大きな意味ではそれらと共通するテーマではあるのだが、日本人なら誰でも知る桃太郎という昔話や吉備津の釜、さらに古来伝説として吉備の国に伝わる”温羅(うら)”の伝説と絡め合わせて、またそこに一本の筋を通していく。特に「桃太郎」の伝説の裏側に潜む謎――なぜ、唐突に桃太郎は、それまでの脈絡とは全く関係なく「なぜ鬼ヶ島へ鬼退治に出掛けたのか?」という点についての解釈は、また目から鱗が落ちた。(今まで何度、高田作品で目からウロコを落としてきたことか)。
こういった伝説と絡めて、密閉されていた土蔵を舞台とする密室ミステリが描かれる。密室の土蔵の中心部に置かれた首。のみならず、僅かな時間で犯人はなぜこのような行為を行ったのかの理由が全く分からず、こちらも読者を十二分な本格ミステリとしての混沌に冒頭から叩き込む。 ただ、サプライズとしてはこの密室トリックそのものよりも、やはり何故このような行為を行ったのか、という犯人の動機の方に目が向くか。そして、その動機が「桃太郎」において日本人が陥っている錯誤と同根を持っていることに気付くのだ。このあたり、歴史の謎と殺人事件の謎とのリンクが、常にビシッと決まっているのも、QEDシリーズの評価を高めている理由だろう
歴史に関する蘊蓄は相変わらず細かく深い(深すぎる?)ようにも感じられるが、それらから導き出される結論が様々な部分とリンクしており、歴史のパートだけでも本格ミステリとしての骨格を備えているようにさえ感じられる。また、桑原崇を思う棚旗奈々の淡い気持ちや、周囲の応援も良いスパイス。この記述役としての棚旗奈々の存在は、本シリーズでは重要だ。何たって、彼女がいなくて登場人物がみな歴史オタクだった日にはこのシリーズ、歴史や古文書の専門用語ばかりの謎の作品になりかねないのだから。

本格ミステリにして、歴史ミステリ。そして更に同時に岡山県の神社仏閣を巡る際のガイドブック的な役割を果たす――ようにも思う。恐らく、高田崇史さんに”御近所”を取り上げて欲しいと考えている読者も多いはず(わたしもそうだから)。引き続きこのシリーズ、末永く続いていくことを祈っている。(そしていつか我が町へ?)


05/01/24
荻原 浩「明日の記憶」(光文社'04)

荻原浩氏は'97年に『オロロ畑でつかまえて』にて第10回小説すばる新人賞を受賞してデビュー。その後『誘拐ラプソディー』『ハードボイルド・エッグ』等、ミステリー寄りのエンターテインメント小説やサラリーマン小説など新しい趣向に挑戦し続けている。本書は『小説宝石』誌の二〇〇四年六月号から十月号にかけて連載された作品。

広告代理店の営業部長・佐伯は五十歳になったばかり。仕事も順調で一人娘梨恵がひとり暮らしのために家を出ているため、妻の枝実子との二人暮らしである。その梨恵が妊娠、相手と結婚するのだという。複雑な気分ながら、素直に佐伯は娘の前途を喜び、趣味で通い始めた陶芸で娘夫婦のために夫婦湯のみを作ってやろうと張り切る日々。だが、最近ときどき頭痛があり、物忘れが激しくなってきたことを自覚するようになる。仕事でもかなり重要なポカをするようになった彼は、ストレスから来る精神的な病気を疑い、思い切って病院の診療を受けることにした。睡眠薬の処方を受けるだけのつもりだった佐伯は、幾つかの検査をされた後、医師に「若年性アルツハイマーの初期症状」を告知される。人生がこれからだと信じていた佐伯は愕然、しかし、これから生まれてくる孫のためにもと、必死で物忘れと戦いはじめる……。

ごく普通の人間が味わう、誰にでも起こりうる恐怖と、それとの戦い。荻原浩の小説の巧さを噛み締める一冊
最近、ちょっとしたことが思い出せない。先日も飲み会の最中、本上まなみの名前が思い出せず、えーと、誰だっけ、あの人、んーここまで出てきていているんだけど……と延延と一人苦しみ、周囲に呆れられた。誰にでも似たような経験はあるはずなのに、その経験自体が恐怖となる日常を描く作品。
若年性アルツハイマー。日常の記憶がぽつりぽつりと抜け落ちてゆく恐怖に耐えながら、娘の結婚、孫の誕生といった生活の喜びを身近に控えている五十歳男性。その前向きな姿勢、妻の献身的な努力に支えられながらも、着々と進んでいく病状。ごく普通のサラリーマンを描くことによって、この物語はごく普通の人々に共感と一種の恐怖感覚を同時に味わわせることに成功している。事実、寂しく哀しい話であり、淡淡とした日常の変化が主人公の叙述トリック(例えば、日記で書いた事柄と、地の文との矛盾によって記憶脱落の状況が浮かび上がる)や、周囲の戸惑い、対応の変化によって浮かび上がるという寸法だ。こういう深刻な病気であるほどに、他人や家族という人間同士の繋がりの深みがさまざまであることが思い知らされる。意外な人間の意外な心遣い。意外な人間の意外な残酷さ。嬉しく、そして読んでいて辛い物語
若年にして記憶を将来喪ってゆく恐怖を幻想ホラータッチで描いた綾辻行人『最後の記憶』と扱うテーマも似ており、その根底にある悩みというか恐怖は本書と同じ。だが、その恐怖に囚われるのか、それとも戦うのかによって物語の色調はここまで変化する。荻原浩という作家は淡淡とした作風でいるようでいて、普通の、市井に住む一般人の感覚を描くのが抜群にうまい。いわゆるかつてのサラリーマン小説に繋がる味わいがある。この『明日の記憶』に限らず、読み終わって「ああ、良かった」と思える作品も多い。ミステリ味やSF味というテイストは確かに弱いが、大衆文芸をじっくり楽しませてくれるのが持ち味である。

あくまで一般文芸ではあるのだが、様々な含蓄に富み、さらに物語展開のテンポが巧みにコントロールされていることもあって読んでいて止められない。ラストの爽やかなような、それでいて実に哀しい一章は心の奥底に刻まれてしまう。


05/01/23
岡嶋二人「どんなに上手に隠れても」(徳間文庫'88)

乱歩賞出身のユニット作家・岡嶋二人によるノンシリーズ長編にして誘拐もの。現在は講談社文庫にて入手が可能だが、手元にある徳間文庫版にて再読した。元版は'84年にその徳間書店より刊行されている。

大手カメラメーカーであるゼネラル・フィルムの新製品『パチリコ』のイメージ・キャラクターとして大々的に売り出しが開始される予定の新人歌手・結城ちひろ。彼女が誘拐されるという情報をもった人物が警察に電話をかける。ちょうどその頃、ちひろは歌番組の収録のためにテレビ局にいた。彼女のマネージャーが偽電話で呼び出された隙に、木箱を抱えた作業員風の二人の男に彼女は誘拐され、姿を消してしまう。事件の発生は、商品のイメージ・ダウンだとゼネラル・フィルムの関係者は考えるが、ディレクターの一人・長谷川宇一はこの事件を逆手にとって、商品を売り出すことを主張。ゼネラル・フィルムの首脳に対し、誘拐事件の身代金、一億円を用意するよう依頼する。録音された誘拐犯からの指示によって、ちひろのマネージャー・西山玲子は現金をもって誘拐犯の指示通りに都内を動くが、警察の監視を察知した犯人側は連絡を一旦絶ってくる。一方、長谷川は友人のカメラマンに、この身代金授受の一部始終を撮影するよう指示する。はたして、身代金は宅配便を通じて名古屋方面に送られることになるが、監視されていたにもかかわらず、どこかで現金は消え失せてしまっていた……。

身代金の受け渡しにトリック。そしてもう一つ、誘拐自体の目的にもっとトリック
新人タレントのテレビ局での誘拐。派手な身代金の受け渡し。テレビを使った連絡。利害関係者の多くがマスコミの人間……とあって、極端な劇場型の犯罪となっているのがまず特徴。本来は最も被害者の身を案ずるはずの両親が、片隅に押しやられてしまっているように見えるのも、その主題のせいだろう。
個人的に感じたみどころは二つあり、一つは「誘拐」という犯罪の段階段階に用いられるトリックの数々。 衆人環視のなかで正々堂々とアイドルを連れ去ってしまう冒頭の手口。切れ切れの録音をつなぎ合わせて作成した誘拐犯からの電話。都内をさんざん動かしておきながら、交渉をうち切ってしまう大胆さに、ある派手な乗り物まで用意しておく周到さ。そして、実際に現金が消失したかのようにみえる驚きの二重トリック……。個々でよく考え抜かれており、その全てを惜しげもなく詰め込んでしまう作者のサービス精神には脱帽したい。
そして、もう一つが「誘拐の目的」。詳細の解説はここでは伏せるが、読者にしても単に巨額の身代金が犯人の狙いとは思えないように物語は展開していく。そのため、身代金以外の「利益」についても考えざるをえないのだが、これがなかなか分からないようになっているのだ。しかも、利益を得そうな人間は皆、文中に登場しているためにその困惑は極大化していく。
一つの謎が解かれることによって別の謎を呼び起こし、かつ全体を通じての謎がある……という岡嶋二人の絶頂期ならではの作品である。

ただ、改めて考えると、カメラマンに現場を撮影させる長谷川の意図が今ひとつ分かりにくいし、真犯人の行動も航空会社に問い合わせるのではなく、捜査員がパスポートをチェックすればすぐに不自然な行動が発覚するはず……といったあたりにミステリの面から厳密に検証した際にちょっとした不満が残る。まあ、ジェットコースターをも思わせる怒濤の展開のなかにおいては些末な事柄として無視すべきなのかもしれない。当時はまだなかったが、後に実際に行われることになる、マスコミを通じて懸賞金をかけての犯人情報の収集を行う点など、時代を先取りしており興味深い。

刊行から二十年が経過した今となっても、アイドル歌手の扱いや広告代理店の動きなどあまり違和感がない。また、誘拐に関しても、幾つものレッド・へリングが効いており、パートパートでかなり感心させられる。光の当てられる登場人物の数が多く、全体を通じての統一感という意味では他の作品に譲るが、それでもどうして誘拐ミステリとして名前を残すだけのことはある作品である。


05/01/22
桜庭一樹「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」(富士見ミステリー文庫'04)

桜庭一樹氏は、ファミ通えんため賞出身でノベライズからオリジナルまで幅広く執筆。代表作は『GOSICK―ゴシック―』のシリーズ。(ほとんどカバーの引き写しで恐縮ですが)。

十月四日早朝、鳥取県境港市、蜷山の中腹で少女のバラバラ遺体が発見された。身許は市内に住む中学二年生、海野藻屑さん(十三)と判明した。藻屑さんは前日の朝から行方がわからなくなっていた。発見したのは同じ中学に通う友人、A子さん(十三)で、警察では犯人、犯行動機を調べるとともに、A子さんが死体発見現場である蜷山に行った理由についても詳しく聞いている……。
原発と自衛隊のある小さな町。二学期が始まってすぐ、転校生・海野藻屑が山田なぎさのいるクラスに転入してきた。地元出身で元有名バンドメンバーだった海野雅愛の娘なのだという。しかし、彼女は自己紹介でいきなり「自分は人魚だ」と言い出した。有名人の娘にしてお金持ちの彼女に対してクラスの興味は一時的に彼女に集中するが、すぐにその奇矯な振る舞いと言動によって他の友人たちはみんな彼女から引いていく。そんななか、なぜかなぎさは彼女から気に入られてしまう。そのなぎさは現実主義者でしっかり者。家には引きこもりの兄がおり、母親と三人、生活保護を受けながら暮らしていた。

”砂糖菓子の弾丸”に仮託される弱さ。視点の位置を変えることで鮮やかに描かれる社会派、そして家庭小説……か
普段あまりライトノベルを嗜まないこともあって、そういった流れのなかで本作がどのような位置づけとなるのか、正直よく分からない。なので、素で感じたことを書くので、いわゆる”ラノベ読み”の方々にとって以下の言説は違和感があるかもしれないことをお断りしておく。

冒頭で主要登場人物の一人、海野藻屑のバラバラ死体発見の記事が描かれる。ライトノベルの読者層を考えれば、この出だしはかなりショッキングなものだろう。明かしても構わないと思うが、この部分にいわゆる叙述トリックは仕掛けられていないし、海野藻屑はバラバラ死体となっていずれ死ぬ。その前提で読まされる物語なのだ。
あらすじでも書いたが、本書の視点は、十三歳の中学生、しっかり者を自認する山田なぎさが持っている。家庭内に引き籠もりの兄を持ち、中学を卒業してすぐに自衛隊に入って金を稼ごうと考える彼女は、現実主義者。生活に余裕がない彼女は、十三歳にして”自分に役に立つもの”すなわち”実弾”しか信じない人間となっている。現実社会で”実弾攻撃”といえば、選挙戦での現金ばらまきを示す言葉である通り、その年齢にも関わらず、彼女は厳しい現実を醒めた視線で眺めている。
一方の海野藻屑は自分が人魚だと言い張り、コミュニケーション不全とも思われる空想癖の持ち主。地に足がついておらず、生活に不自由のない彼女の存在は当初、主人公を苛立たせる。だが、彼女の身体についている無数のアザが、山田なぎさの気持ちのなかの引っ掛かりとなる――。

ある程度、以下ネタバレとなる。気になる方は目を通さないで欲しい。

この評を書く以前、日記に「変形社会派小説」だとこの作品のことをひとことで評して書いた。確かに物語の内部に、ミステリとしての断片が埋め込まれている。密室からの消失、海野藻屑の不思議な行動の理由、そして衝撃的な結末に向けての微妙な伏線等々。だが、本書は本格ミステリという形式を狙うために、トリック中心の物語が構成されているわけではない。寧ろ、そのミステリにも似た体裁は、物語の本質的な部分のエッジを鋭く立てるために存在している。
性格・行動ともに異なる二人の十三歳。だが、その本質は実に似ているように思うのだ。
それは、彼女たちが自らの意志を形成する際に、彼女たち自身ではどうしようもない家庭環境の影響を強く受けているという点である。山田なぎさは、母子家庭の上に兄の引きこもりによってもたらされた困窮。海野藻屑は、父娘の関係のなかでの、性格的に問題ある父親によってもたらされる家庭内暴力。その結果、山田なぎさは現実主義者となり、海野藻屑は妄想の世界に逃げ込むようになる。――ただ、本書が哀しいのは、彼女たちが自らの意志でそうなったと思っている”主義”は、あくまで彼女たちの置かれた環境の結果に過ぎないこと――。結果、海野藻屑はその環境の餌食となり、山田なぎさは自分の無力さを思い知らされるのだ。彼女たちが撃つ”砂糖菓子の弾丸”の実に無力なこと。結局は家庭環境に左右されるしかない、その無力さが強烈に印象に刻まれる。

こういった貧困や暴力といった家庭の問題を描く小説はいくらでもある。また本書には家庭内部の問題を描こうという企図は、下手すれば作者にも無かった可能性すら感じる(あとがきを読む限り、先にキャラクタありきであったのではないかと類推される)。だが、たかだか十三歳の子供がどんなに頑張っても、家庭環境の影響から逃れることはできないという悲劇が、その当事者である子供たちの視点で描かれた小説だと、少なくとも小生からは見えた。現代の、というよりももっと普遍的な「家庭→子供」という社会的な問題が取り上げられた小説、すなわち社会派なのではないかと感じた次第である。


05/01/21
戸板康二「慶応ボーイ」(河出書房新社'89)

作家としては、中村雅楽のシリーズが知られる戸板氏のノンシリーズ作品集。'64年に発表された『史蹟』から、'80年に発表された『風の日の事故』まで各種の小説雑誌に発表された作品が集められている。表題作は慶応大学出身の著者の、自伝的な作品とも受け取れる。

国史博覧会のイベントの責任者となった男。その展示方法に人形を使うか人間を使うかで悩み、友人とその参考にある観光都市を訪れる。そこで知り合った女性と共に三人である宿屋で食事をするが。 『史蹟』
ある華族の別宅として武蔵野に立てられた別宅は「もくれんでら」と呼ばれる。そこに住まうのは母娘二人で育ったおよし。彼女は生活のため、その華族の愛人として囲われたままずっと暮らしていた。 『もくれんでら』
妻を亡くし、娘と二人暮らしの女性評論家。彼はテレビでもっともらしいことを言いながらも、娘の気持ちが分からない。その娘が失踪、友人の示唆で歌舞伎町の若者の集まる店を彼は訪れてみたが。 『新宿の少女』
戦前の話。西宮の甲南中学を出て上京して慶応大学に入学した松田貞之。最初は親戚宅に寄宿していたが、窮屈になり家を出た。彼は名曲喫茶で篠崎という学生と親しくなる。 『慶応ボーイ』
ジャーナリストの益谷は人気が高まるにつれ、取材を他人に任せそれらしい文章をでっち上げてその場凌ぎをしていた。依頼された講演で長野に向かうことになった彼が巻き込まれた事件とは。 『最高のもてなし』
東大教授の長瀬は大学そばのバー「梅鉢」に通っていた。そのなかの女性の一人、目立たないふく子がお気に入りだったがそんんな素振りは見せない。助手を伴って通っているうちに……。 『ふく子の手紙』
マリリン・モンローオタクの会社員・島本が結婚。しかし妻は若くして亡くなってしまった。彼は出張中、一人の女性と知り合い、そして彼女と一緒になることに決めるが、彼女は過去を語りたがらない。 『妻の過去』
ロープウェイでの宙吊り事故がきっかけで放送作家ののぶ子と十八若いタレントの良樹は知り合い、同棲を開始した。しかし最近良樹の様子がおかしい……。のぶ子はあの日の事故を題材にしたドラマを考える。 『風の日の事故』 以上八編。

シンプルな物語のなかに静かな人間感情の機微を込めて。軽めながら渋い味わいの作品集
無理してミステリの範疇に込めようと思えば込められることもないのだろうが、どちらかといえば普通小説に味わいは近い。人間の持つちょっとした感情を小さな物語に綺麗に仕上げているという印象だ。
物語としての印象としては、恐らく自伝的な意味合いがあるのだろう、戦前の学生たちの交流を描いた表題作『慶応ボーイ』がやはり強い。この時期ならではの風俗であるとか、戦争を控えた世相であるとかのもとで、学生生活を謳歌し、様々な人生に触れあい、大人へと脱皮しつついく多感な時代を瑞々しく描く。感動させようという意図も、サプライズもないのだが、青春小説短編として不思議な余韻を残す。
ほかの作品は、ちょっとブラックなオチのつくものが目立つ。例えば、手抜き記事によって人を不幸に陥れた評論家が、その意趣返しを受ける『最高のもてなし』、堅物の助手を軽視しながら、酒場の女性に浮かれる大学教授を嗤う『ふく子の手紙』、一人の男性を争って負けて、金持ちの愛人として暮らす女性が、その元ライバルの女性と年を取ってから交流する『もくれんでら』、年下の愛人とのあいだで揺れ動く自分の感情を持て余す女性脚本家の葛藤を描いた『風の日の事故』など、ラストの数行にて手厳しい裏切りを主人公たちに強いている。予想できない結末でもないし、サプライズとして大きいという程ではないながら、ブラックユーモアがじわっと効くように算段されている印象だ。
もともとの戸板氏の職業である劇評家という立場を自戒する意味があるのだろうか。人を批判したり、上にたって批評したりする立場の人たちの慢心などを痛烈に叩きつつ、その裏側で批判・批評を受ける立場の人たちにも五分の魂がある……というテーマも裏側にあるように思われた。

ただ、個々に読ませる話、いい話であっても、ジャンル小説ではないので現代となっては特に誰かにお勧めしたくなる……といったタイプの作品集ではないか。戸板康二のファンが読んで、その味わいを楽しむべき本だと思われた。