MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


05/07/20
小路幸也「HEARTBEAT」(東京創元社ミステリ・フロンティア'05)

第29回メフィスト賞を『空を見上げる古い歌を口ずさむ pulp-town fiction』で受賞。その後、爽やかさと一抹の苦さの溢れる独特の世界観を持った作品を次々と編み出す小路幸也氏五冊目となる書き下ろし長編。

ぼくは高校生の頃、マジメで成績優秀だけが取り柄の医学部志望の酒屋の息子だった。そんな優等生のぼくが不幸な生い立ちの結果、不良少女となっていたヤオと出会い、そして修学旅行先の京都で結ばれる。しかもその後、二人は土中に埋められた一億円を発見した。ぼくは、十年後に彼女にその一億円を渡す約束をした――それから十年。ニューヨークへ渡航後、紆余曲折あってホームレスに混じって暮らすなど、世間的には行方不明となりながら奇跡的に帰国したぼくは、約束の場所に赴く。現れたのは彼女ではなく、その夫と名乗る人物だった。ヤオは行方不明だと彼はいい、混乱したぼくはかつての同級生・巡矢(めぐりや)に助けを求める電話をした。ぼくは三年前から行方の分からないヤオを探し出そうと決意した。
一方、大きな館に住む裕理(ひろまさ)は、亡くなった筈の母が幽霊となって祖父の前に姿を現したことを知る。裕理はその当時の事情を詳しく教えてもらっていない。なぜ、母はいなくなったのか。どうしているのか。裕理の友人で彼のことを大切に思うエミィとハンマは、周辺からその謎を探ろうとするが……。

(ちょっと陳腐な言い方ですが)時を超えて交錯する、ちょっと奇妙な経験と純粋な愛情の物語
本書を読み終えて最初に思ったことは、小路幸也という人は風変わりなファンタジー作家だなあ……ということ。叢書がミステリ・フロンティアなので、(古くて新しい)ミステリとしての仕掛けももちろんある。その結果、相応のサプライズが結果的に得られるものの、それよりもじわじわと心にしみ入ってくるような不思議な世界感覚の方が強烈な印象を残す作品なのだ。ミステリから入りながらも本質がファンタジー、それでいて薄っぺらさが一切ない。特に、この世界を構築して維持するための、物語の補助線(というか柱というか)に独特のセンスがあるように感じられた。
その補助線となる一つが、主人公が愛する母子の仇を追うためにNYで地下に潜りホームレス生活を行った――というような特殊なエピソード。主人公がここで身に付けたというある能力を含め、現実にあり得ないわけではないが(実際にあるのだろうか?)実際に普通の人間が足を踏み入れることのない世界を描くことで、まず、ほんの僅かに地に足の着いた現実と、あくまでフィクションである物語との境目を切り離す。
その切り離された世界を支える屋台骨となるのが、どうしようもなく一途で無垢な、いくつもの裸の愛情にあたる。 この愛情がまた一筋縄でいかない。いわゆるフツーの恋人同士の男女の愛情だけではなく、いろいろなかたちの愛情が物語内部で交錯している。しかし、その複数の人々の、複雑なかたちの愛情を淡々と描き続けることによって、さきほど宙に切り離されたファンタジー空間が、じっくりとした厚みを持つ世界へと変貌してゆくのだ。特に、ヤオを巡る大人の”ぼく”の物語と、母親の幽霊を巡る裕理の物語それぞれ全く異なるエピソードであるのに、終盤に至って似たシチュエーションの二重写しであることが判明するあたり、作者の技巧が感じられる。特にこれまでの作品における作者の弱点(?)でもあった、エンディングの構成が実に素晴らしい。ファンタジックな謎を明かしたあと最後の最後のエピソードに至るとちょっとした幸福感を味わえるのが実に嬉しく、読後感の暖かい作品に仕上がっている。

汚いところもあれば悪意もある。物語の結末はむしろ哀しいもの。だけど世の中ってまだまだ捨てたもんじゃない。そういった前向きの気分で最終的には満たされる。そういう作品。


05/07/19
五十嵐貴久「Fake(フェイク)」(幻冬舎'04)

第2回日本ホラーサスペンス大賞を『リカ』で受賞してデビューした五十嵐氏は、その後、系統の異なるエンタメ系作品を次々と打ち出している。本書は五冊目にあたる作品で書き下ろし刊行された。

宮本調査事務所所長・宮本剛史。たった一人で切り盛りする探偵事務所に中年の依頼人がやって来た。名刺によると旅行代理店に勤務する西村一穂なる人物で、依頼は彼の息子を大学に受からせて欲しい――というものだった。剛史は亡くなった親友の娘で東大生の加奈を巻き込んで、確かに一度だけ親戚を大学に入学させるためにある不正行為を働いたことがある。西村はそのことを知っているようだった。彼の息子だという昌史は芸術のセンスに優れたものを持っていたが、いかんせん一般的な勉強ができず浪人を繰り返していた。やむなく依頼を引き受けた剛史は、再び加奈を連れカンニングの手伝いをすることになる。しかし、なぜか彼らの行為はばれて警察に捕まってしまった。さらに事件は、昌史の父親が品川区の区会議員であることでニュース性を帯びた。一連の行為は仕掛けられた罠のなかにあったのだ。それから暫くの雌伏を経た剛史は、被害者父子と加奈とを巻き込んで、事件の黒幕に対する復讐を遂げようと言い出した。狙うは十億円の現金。果たしてその勝負の結末は?

現代の情報機器を駆使した騙し合い。果たして最後に笑うのは? そして泣くのは??
特に序盤で明かされる入試におけるカンニングが面白い。最新テクノロジーを応用することでここまで可能なのか――という感慨を受けた。確かに個々の機器に関する情報を持っていたとしても、それらをこのように組み合わせるという発想がユニークで、その実行した場合の苦労がリアルさに作者の苦心が伺える。
ただ、本作のキモになる部分はそこではない。追いつめられた主人公と被害者たちがヤクザ上がりの男相手に乾坤一擲のポーカー勝負を挑むところにある。このあたりの心理に対する書き込みが徹底されているのだが、このあたりには若干不満が残る。というのは、先の入試と同じような発想を利用したイカサマ勝負に過ぎず、主人公たちは確かに緊張感があることは理解できるものの、いわゆる先の見えない勝負に比べると読者サイドが緊張感を共有できるものではないように思われたのだ。その勝負を終えた後の波乱に意外性はあり楽しめたが、こちらもここまで徹底してリアルを追求しながら、その波乱となる計画全体の大きすぎるリスクがちょい気になった。
物語の発想としては、先にポーカー勝負があって、それからそう至るような物語設定の枠組みが後から付け足されたのではないかと推察するが、その枠組み自体は魅力的。特に芸術バカとして描かれる昌史のキャラクタがいいと思った小生はかなりひねくれているかもしれない。(ヒロインの加奈と主人公の剛史の関係も、あまり例のないタイプで工夫された関係性だと思う)。

いろいろ書いたが、情報小説としても優れており、ラストに至るまでのテンポがよく、良くできたエンターテインメント 作品であるといえるだろう。


05/07/18
麻耶雄嵩「神様ゲーム」(講談社ミステリー・ランド'05)

「かつて子供だったあなたと少年少女のための――」というキャッチコピーにて'03年7月より開始された、シリーズも着々刊行が継続、今回は田中芳樹氏の『ラインの虜囚』と並んでの第7回配本。麻耶作品にこれまで登場したいわゆる探偵は登場しないが、神様が……。

七月十一日、ぼくの十回目の誕生日。父さんと母さんに囲まれてケーキのロウソクを吹き消すものの、一本残ってしまった。去年も一昨年も、実は一本吹き消しても残るロウソクがあって、ぼくはこの日はまだ自分の誕生日が来ていないのではないかと疑ってしまう。しかし父さんのプレゼントはリクエスト通り、ラビレンジャーのジェノサイドロボのデラックス完全版。ぼくは満足していた。ぼくの住む神降市では最近、連続猫殺し事件が発生していて、クラスメイトのミチルちゃんが可愛がっていた猫も被害に遭っていた。ぼくは、刑事をしている父さんに犯人の逮捕をリクエストする。また、ぼくは浜田町の子供で結成している浜田探偵団に所属していて、親友の英樹もそれに加わりたがっていた。だが、山の中に秘密基地を持つ浜田探偵団の掟は堅い。……今週、トイレ掃除の当番に鈴木太郎という転校生と一緒になった。ぼくは何気なく、彼に話しかけるが、彼は天上からやってきた、神様なのだという。全てを創造し、何でも知っている彼にぼくは魅了されるが、彼の口からはショッキングな発言がぽんぽんと飛び出してきた。ぼくは彼の言葉を手掛かりに、探偵団の活動を提案するのだが……。

神様の保証する真実=残酷な現実。ミステリー・ランド屈指の問題作はやっぱり麻耶雄嵩の手から
小学生が主人公、さらに仲間と共に少年探偵団を作って身近に発生した事件を追いかける――というのはよく言えば、多くのジュヴナイル、またこのミステリー・ランドというレーベルのなかでも既に定番となっている。悪く言えば、ありきたりの設定ということになる。まあ、日常の事件でも、殺人事件といった大仰な事件でも、徒党を組んで好奇心から解き明かすというのは物語の展開上使い勝手が良いし、読者としてもすんなりと世界に入ることができるのは事実。
そして、鬼才・麻耶雄嵩の発表する本書でもその方式(少年探偵団方式)が一応踏襲されている。当初は、この小さな田舎町で発生している猫殺し。次々と残酷な(猫の)死体を創り出す謎の犯人。アイドル的存在の団員の可愛がっていた猫もその被害に。立ち上がる少年探偵団、その事件の真相は!? ――という物語かと思いきや、違う。ぜんぜん違う。
神様として、鈴木太郎が登場してくるのだ。主人公がともにトイレ掃除当番だったことから会話を交わすようになった目立たない転校生。実は、彼は作品世界における神様だった。 宇宙の成り立ちから先生の不倫に至るまでありとあらゆることに精通し、世界を思い通りに動かすことのできる神様。一瞬、彼が本当の神様なのかどうかという点を読者は疑うだろうが、その点は早々に否定される。知るはずのないことを知る者。人間に天誅を下すことのできる存在。彼はやっぱり神様なのだ。

さて、ミステリとしてこの神様がクセ者。全知全能の神様のいうことは、真実を手掛かりから洞察する探偵のことばなどとは異なり、間違いが絶対にない。つまり、この『神様ゲーム』というフィクションは、神の言葉は常に真実というルールのもとで展開されているわけだ。紛れない、ウソつかない、ごまかさない、だけどちょっと意地が悪い。その麻耶雄嵩の描く神様の残酷なこと残酷なこと。真実は人を不幸にする。主人公は余命を告げられ、天誅は意外性のある真実を主人公に突きつける。物語のエッセンス、そして設定の妙以上に、神様は物語を支配し、結果的に歪めてゆく。
主人公を巡る事件は後半から一転、殺人事件が発生する。神様がくだす意外な判決(そして真実)。それでこの結末だ。果たしてどう解釈したら良いのだ? 読後に強烈な毒に痺れたまま、脳味噌は小人さんが来てどこいらかに運び出してしまった。

某所で数人の方の意見を伺った結果、なんとなくこじつけになるものの、”真実”の可能性への隘路は発見している。しかし、それで納得できるかどうかは別の問題。神様の誤謬という残酷な主題を狙ったものでなければ、伏線として物語中にない仮定をいくつか設定すれば何とか……というレベル。とはいえこれは、柔らかな語り口で描かれる実に残酷な物語。 ミステリー・ランド屈指の問題作という称号を与えるのに相応しい一作である。


05/07/17
太田忠司「まぼろし曲馬団の逆襲 新宿少年探偵団」(講談社ノベルス'03)

いよいよラストまでのカウントダウンが開始された段階にあたる”宿少”シリーズの七冊目。前作に引き続き、敵は”まぼろし曲馬団”だが、着々と物語の異相が変化しつつある点が興味深い。

まぼろし曲馬団』において、新宿サザンテラスで宙に浮かぶ深海魚を目撃した経験のある新宿署の警官・阿瀬(あせ)と並田(なみだ)は靖国通り南側にある寺院近くの路地をパトロールしていた。彼らは今度は身の丈二メートルはある鋼の巨人を目撃する。一方、陰陽師である母親から啓示を受けた警視庁捜査一課の阿倍北斗は、雪深いペンションに赴いていた。彼は芦屋道満の屋敷に行きたいと所望、老人の助けを得て雪の中に現場に向かい、自分に科せられた使命を知り、その結果強力な式神を手に入れることになる。さらに、新宿では『怪人大鴉博士』の事件で宝石を奪われた、世界的に有名な映画プロデューサー・ウォルター・ガートランドが再び来日、またもや公開する映画にちなんだ大粒のルビーを展示しようとしていた。警察は万全の強化体制を敷くが、大鴉博士によってやはり出し抜かれる。そのガートランドは大鴉博士とコンタクトを試みるが、申し出が一笑に付されて激怒させられることになる。そのガートランドのもとに別のマッド・サイエンティストからの接触があって……。

風雲急を告げる展開。これまでの数々の伏線が”まぼろし曲馬団”を踏み台に次々と噴出してゆく――
だんだんと物語のなかの、マッドサイエンティスト側の目的が明確になり、かつこれまで登場してきた主要人物たちが次々と再登場して賑やかな展開になってきている。一部ゲスト的人物はいるものの、顔見せはひとわたり終了したからか、個々の人物よりも物語全体の方が着々と主人公になりつつある印象を受けた。
今回は、前回と同じく”まぼろし曲馬団”が当面の敵となる展開。ただ、これまでと最も異なるのは新宿一帯が破壊の対象となり、劇的な活動が(敵味方ともども)メディアに乗せられるという部分だろう。(メディアそのものはこれまでも展開されていたが、今回の場合はその意味合いが異なっている)。パラダイム・シフトという考え方が一歩進められた結果、こういった方法が採られたかと思うと興味深いものがある。また、これまでは関係者同士の戦いといった印象が強かったメインのアクション場面も着々と一般市民を巻き込むようになっており、そのあたりも展開に関係していそうだ。(この破壊活動、具体的な新宿の地名やモニュメントが次々と破壊対象となって登場するため、新宿を知る方はそれなりに興味深いかもしれない)。
一方、これも前作あたりから始まった主人公たちの変化が、本作でも更に深化させられているように感じられる。比較的単純な関係、考え方を持っていた壮助、美香、謙太郎、響子それぞれが”役割”を割り振られ、探偵団といいながらもその行動は”団”とは言い難いものとなった。蘇芳やジャン・ポール、それに阿倍母子を巻き込んで、それぞれの”個”が着々と前面に押し出されてきている。 このあたりも、ラストに至るポイントとなってくるのだろう。

ここに至るとラストが気になって仕方がないので、我ながらかなりハイペースでこのシリーズを読んでいる。それだけ吸引力があるということ。一作目から読む必要があるが、「現代に蘇る少年探偵団」というコンセプトが、別の「太田忠司独自のファンタジー空間」へと変貌していく展開は、一度はいるとちょっと目が離せそうにない。


05/07/16
米澤穂信「クドリャフカの順番 十文字事件」(角川書店'05)

米澤穂信氏のデビュー作である『氷菓』、そして『愚者のエンドロール』と角川スニーカー文庫(現在は角川文庫)にて発表されてきた、”古典部シリーズ”の三冊目。書き下ろしで四六版ソフトカバーでの刊行はちょっと意外でもあった。

とうとう神山高校の文化祭”カンヤ祭”当日がやって来た。古典部としての活動は、文集である「氷菓」を発売すること。ただ、当日を迎えて古典部員の表情は硬い。……というのも手違いがあって、三十部だけ刷る予定だった「氷菓」が二百部も完成してしまったのだ。費用の問題から、できる限り多くの部数を捌きたい面々だったが、古典部に与えられた場所は学校のなかでもどん詰まり。折木奉太郎を店番におき、部長の千反田えるは正攻法で他の部に宣伝を依頼しに回り、福部は、種々のイベントに参加することで古典部への生徒の興味を惹こうと考え、摩耶香は所属する漫画研究会の伝手を使おうとする。ただ、彼らそれぞれにはいろいろな事情があって……。さらにカンヤ祭のなかで活動している部活動から、小さなアイテムが連続して盗まれるという事件も発生。果たして事件の真相は、そして文集は売れるのか?

複数の糸によって縦横無尽に織りなされた絶妙のタペストリー。青春小説として真の傑作
これまで二冊の古典部シリーズを助走に(ずっと準備期間のようなものだった)、神山高校最大のスペシャルイベント、にして三日間の非日常の祝祭空間・カンヤ祭が舞台にして物語の期間。まず、この設定にしてからがユニーク。単発作品として文化祭を取り上げたとしてもここまでハレな空間の演出は出来なかったであろう。むしろ前二冊は本作のために存在していた感すら漂う。そしてもう一つ、シリーズ初の試みとして千反田える、福部里志、伊原摩耶香そして折木奉太郎の四人の一人称が交互に舞台の描写を行う点が特徴。文化祭が実施されている学校全体という広い空間をカバーすると同時に、これまで外面的に語られてきた登場人物それぞれの性格や考え方にまでしっかり踏み込んでおり、感情移入の一助となっているのも巧みだ。
さて、物語のメインの謎は副題にもある「十文字事件」である。文化祭の最中に発生する、部活動にまつわるもろもろのものの盗難事件(犯人からの宣言付き)。事件は静かなかたちでスタートしながらも、クライマックスではきっちりと盛り上がる。この事件の動機というか真相は、若干物語に比して微妙に弱いながらも、そのミステリとしての部分だけが売りの作品ではないので、それはそれで良し。例えば、刷りすぎた文集『氷菓』は果たして全て売り切ることが出来るか? というようなコン・ゲーム的要素を持った謎であるとか、クイズ大会、お料理大会といったサブ・イベントにもしっかり力が入っていて(ノリとしては少年マンガのそれだが)それぞれが素直に楽しい。驚かされるのは、これらが全ていろいろな伏線によってしっかりと物語のなかで繋がりを見せていること。文化祭とはいえ、バラバラの展示、主体性のある参加者といったところがまとまりをみせた物語の中に包み込まれている。特に、どっかと店番として腰を据えた折木奉太郎を巡る、わらしべ長者的なエピソードがさりげなくも巧みに全体を繋いでいる点は見事だと思う。
また、本作全体を俯瞰して思うのは、恋愛感情をメインに据えない青春小説としては出色の出来映えであるということ。 (仄かなそれはあるとしても、決して恋愛メインではない点はむしろこの手の作品のなかでは珍しく、その結果、もう若くない小生のような一般読者に受け入れやすい内容になっている。謎の提示にしても、答えにしても、恋愛以外の感情、この時期特有の気負いであるとか、好意であるとか、嫉妬であるとか……といったものが理由であることも作品として特徴的である)。

シリーズ前二作をきっちり読み込んで、この破格の祝祭空間に彼らと共に参加するのが吉。ミステリとしてものすごい、という作品ではないが、的確な伏線や、物語の転がし方加減が実にうまい。読み終わって後悔しない作品である。


05/07/15
横山秀夫「ルパンの消息」(光文社カッパノベルス'05)

横山秀夫の隠し玉……というか、幻のデビュー作品が改稿されてとうとう陽の目を見たというか。'91年の第9回サントリーミステリー大賞に応募され佳作入賞しながら刊行されていなかった長編。(同時に佳作受賞した醍醐麻沙夫の作品は刊行されているのに)。光文社創立60周年記念特別出版として満を持しての再登場となった。

警察関係者の宴会で賑わう会場に、秘密裡に連絡が入った。十五年前に発生し、自殺として処理された女性教師の変死事件に他殺の疑いが出てきたというのだ。少しずつ姿を消して警察署に再び集結する捜査関係者。その事件とは、嶺舞子という教師が学校から飛び降り自殺したというもので、遺書があったことと現場に不審な点がないことからあっさり自殺として処理されたもの。タレコミによると、それは当時の教え子三人による殺人なのだという。時効まで十数時間。その事件の背景には「ルパン作戦」という不良高校生によるテスト問題奪取計画が絡んでいた。三人の高校生だった関係者も今や立派な社会人。その一人、喜多がまず参考人として連行され、そのルパン作戦についての聴取が開始された。そしてその高校生の近くには、三億円事件の有力容疑者と目された人物がおり、捜査陣はその屈辱からも色めきたつ。果たして、時を超えた事件の真相は明らかになるのだろうか?

現在の横山秀夫の才能が垣間見える警察小説。ただし、本作そのものは佳作止まりも致し方ない――か
幻の処女作といわれる本作、ずっと内容が気になっていた。題名にある「ルパン」が微妙に引っ掛かっていたことから、もしや怪盗小説なのではないか、などと想像を膨らませていたことを告白したい。実際に明らかになってみると、本書も、デビュー後の横山作品の軸ともいえる警察小説に連なる作品であった。
本作をひとことでまとめると「良いところもいっぱいあるが瑕疵もみられる作品」といった印象で、何よりも緻密さよりも荒削りな迫力の方により魅力を感じるタイプのものであった。まず、着想の段階で時空に拡がりを持たせている点に好感。現在の警察陣が、十五年前ぎりぎりの事件を捜査する――という基本設定の結果、時間軸のスケールが実に大きい。当時高校生だった関係者が立派な社会人。高校生だけでなく、関係者すべてが十五年の時を経て、それぞれの人生をそれぞれに歩んでおり、彼らが過去の亡霊によって再び集められるという展開はみどころがある。その「時」を、うまく伏線へと転じ、終盤の意外性と泣き所へと繋げる手腕もなかなか。また、期末テストの奪取計画が殺人事件へと繋がり、さらには三億円事件まで絡めていくという豪華でスケールの大きい事件の数々は、後の横山作品へと繋がっていく印象がある。最後に明らかにされる真相の意外性、さらには法曹関連に詳しいところからアイデアの出てくるトラップ等々、読みどころは多い。
一方で、瑕疵というか致命的なように感じられたのは、主人公が不在な点が一つ。警察関係者・容疑者・被害者・当時の関係者をそれぞれ均等に描写しようとしたのかもしれないが、物語の引っ張り手が微妙に分かりにくくなっている点は否めない。また、もう一つ致命的なのは、特に容疑者三人のツッパリ高校生の中途半端さ。まあ、実際はこういうものなのかもしれないけれど、アウトローっぽさと奇妙なマジメさと暴力と優しさが三人が三人ともに同居しており、ピリピリしたこの時期特有の先鋭さが感じられない点が読んでいて奇妙に思えた。そもそも探偵団となるあたりにどうしても違和感が。彼らを優等生(ないし普通のマジメな)三人組にした方が物語としてはすんなりしていたのではないかと感じた。

話題性は確かにあるが、完成度はデビュー後の作品の方が上なのは間違いない。横山ファンならば押さえるべきであろうが、単なるミステリとして読んだ場合は、やっぱり佳作止まりも致し方なかったのかな……ということを再確認してしまった印象がある。


05/07/14
福澤徹三「亡者の家」(光文社文庫'05)

'00年のデビュー作『幻日』が幻冬舎文庫より『再生ボタン』として文庫化され、着々とその足跡を積み重ねつつある現代ホラーの名手・福澤徹三。本書は文庫書き下ろしの長編で、著作としては八冊目にあたる。

消費者金融会社の新米社員・諸星雄太。地元の私立大学を中退後、転々とアルバイトをして暮らすうちに二十五を過ぎた。交際し始めた彼女の手前、正社員となるための就職活動を行った諸星は何度か面接で落とされたあと、「学歴・経験不問」という消費者金融「アイルファイナンス」の門戸を叩き、店長の八代によってあっという間に採用され、今は先輩のベテラン社員・加納の指導のもと、集金や融資に励む日々である。もちろん消費者金融とはいえ金にまつわる小さな事件は常に発生しており、その度毎に諸星は神経をすり減らしてゆく。そしてまた先日金を貸したばかりの勢田からの入金がない。中野区千人塚にある勢田の自宅に赴く諸星。しかし、その空き地に挟まれた家に入る時、なぜか諸星は背中にひやりとしたものを感じ、鳥肌だつことに気付く。自宅には勢田の妻・由貴子とその娘がいたが、勢田自身はもう何日も行方不明なのだという。この日を境に諸星の周囲で奇妙な出来事が発生し始める……。

サラ金情報小説にしてしっかりとホラー。この地に足ついた眩瞑感がたまらない
どちらかといえば、物語の冒頭は金融残酷小説といった趣。中小の消費者金融、しかも働く側を主人公にした作品は、有名どころの漫画や、小説でも金融系の作家の方がそれなりに発表している。金に絡んだあれこれで極限の状況に陥る人間たちを描き、どれもこれも人間の欲望や醜さをこれでもかという風に描いているのが特徴といえよう。本作も、フリーターから何となく消費者金融に就職してしまった青年を通じて、いろいろな人間模様がいくつものエピソードを通じて語られる。正直、緊張感は漂っているものの、どちらかといえば現世の感覚でありサスペンスに手触りが近い。
ただ、名手・福澤徹三。さりげなく伏線を張っている。やはりその家に主人公が最初に訪れた時の予感の描写がいい。「その瞬間、背筋がひやりとした」「厭な顔の家だ」さりげないのだが、これらの言葉が後になってじわりじわりと効いてくる。とはいえ、中盤以降も借金にまつわるエピソードが多く、金を返せず悲劇的に人生を堕ちていく人々の描写により迫力が感じさせられる。さらに上手いのは、物語の雰囲気そのものを変容させるのではなく、この業界の荒波に揉まれるうちに主人公が自覚しないうちに着々と荒んでゆくところを丁寧に描写していることだろう。その結果、一つ一つのエピソードが悲惨な終末を迎えると共に、主人公を取り巻く物語自体も荒み、悲惨さを着実に増してゆくのだ。
そして終盤、幾つもの変死事件を経て奇妙なカタルシスへと誘われる。現実以上の現実(リアル)な複数の物語によって隠蔽された狂気とその狂気を誘ったなにか。一連の事件の真相そのものにはそれほど意外性がないとはいえ、その奥にある”そうさせた何か”の存在が微妙に読者の背筋を這いのぼってくるような感覚を味わえるはずだ。

福澤作品は、間口が広い――ので、ホラーファンのみならず一般読者を受け入れる要素があるはず。本作もホラーと銘打たれ、題名もおどろおどろしいが、普段はあまりホラーを嗜まれない方にこそトライして頂きたい気がする。


05/07/13
伊坂幸太郎(他)「I LOVE YOU(アイ・ラブ・ユー)」(祥伝社'05)

祥伝社創立35周年記念特別出版として、男性人気作家六名による書下し恋愛小説アンソロジー集。同社からこれまで『LOVERS』『Friends』といったかたちで恋愛小説アンソロジーが刊行されているが、そのシリーズにあたる。本書には「中田永一」という覆面作家が参加しているが、刊行もとの機密保持が甘く既にばればれなのはかえってどこか痛い。

遠距離恋愛突入の危機にさらされている僕は、動物園で恋人とデートしている最中、富樫さんに出会う。富樫さんは、僕の姉の元恋人。そしてその当時、富樫さんと僕は仲良くやっていた。 伊坂幸太郎『透明ポーラーベア』
恋人に振られて落ち込みのひどいぼくは、二十年来友人として付き合っている萌枝を呼び出す。男っぽくさっぱりした酒飲みの萌枝はぼくの気持ちを少しずつほぐしてくれる。 石田衣良『魔法のボタン』
スターバックスのなかで、ぷっくりと肉付きの良い顔立ちの男性に名前を呼ばれたわたし。彼はどうやら中学校の同級生のようだったのだが……。市川拓司『卒業写真』
自称レベル2の高校生ノボル。彼はひょんなことから幼い頃から親しく、学校でも人気の宮崎先輩の二股交際の手伝いをすることに。彼は百瀬という女の子と学内で交際しているフリをすることになった。 中田永一『百瀬、こっちを向いて』
恋人と時間と日時を決めた不思議な交際をする大学生の僕。その交際の結果、友人の坂本と、その坂本が尊敬しているという木戸さん(ただしエキセントリックな変人)と時間を過ごすことが多くなってきた。 中村航『突き抜けろ』
金融マーケットの仕事をする彼女と、工務店で設計をする僕。結婚して五年、すれ違いの日々を離婚というかたちで決着をつける日。店の前で僕は彼女のことを待つ。 本多孝好『Sidewalk Talk』 以上六編。

男女の機微を描くのに長けたミステリ系の作家は、恋愛小説を書かせてもやはり上手い
恋愛小説ほど読まれ方のさまざまな作品はないだろう。主人公(男性)に、主人公(女性)に、相手役(男性)相手役(女性)に感情移入するも良し、客観的恋愛シュミレーションとして結末を楽しむのも良し、男や女の感情の動きを眺めるのも良し、いつか実地に応用してやろうと、気の利いた台詞や行動をメモにとって虎視眈々とそういった機会を窺うのも良し。ただ、一応はここもミステリ系書評サイトであるからして、誰それに感情移入できた/できないなんて感想はここでは無意味(あくまでここでは)。ミステリの軸ではないにしても、小説としての構成の巧さで判断してしまう点は了解願いたい。
その意味では、伊坂、石田の両作品がやはり抜けている感。伊坂の『透明ポーラーベア』の場合は、実際に登場しないながら圧倒的な存在感を誇る”姉”の描写、そして物語の関わらせ具合が絶妙。主人公の持つそこはかとないユーモア感覚と、富樫という大人を感じさせる存在とが、恐らくは哀しいだろう過去の出来事を和らげ、絶妙の読み心地を実現している。また終盤に様々な思わせぶりな登場人物が現れるのは注意深い読者には喜ばれよう。 一方の石田『魔法ボタン』だが、幼稚園時代のエピソードが冒頭に配されている……というのが物語のツボにて絶妙の伏線となっているのが上手い。それだけでなく、もう一つ、主人公の男性による一人称にも関わらず、その感情を読者の視線から隠す手腕には唸らされる。主人公が犯人という探偵小説を思わせる……というのは大袈裟か。
市川『卒業写真』は、勘違いのさせ方が巧みなのだが、そのワンアイデアに固執したあまりに、この男性に惹かれる主人公の気持ちが今ひとつ理解しづらいように思えた。中村『突き抜けろ』、これはこれで小説としては好きな部類に入るのだが、脇役が魅力的な謎の青春小説という印象が強い。そういう作品集にあっては評価はできるのだが、いかんせん本書のような恋愛小説アンソロジーのなかに入れるために、無理矢理主人公の男女交際のエピソードが挿入されているような印象を受けた。
さて、問題の中田『百瀬、こっちを向いて』だが(作者の正体はおいておいて)、恋人のフリからスタートするという物語そのものはどちらかというとありきたり(特に恋愛小説のなかにおいては)。本命の先輩の命によって、主人公と交際するフリをする百瀬の考え方が分かるような分からないような曖昧な気分がちょっと重い。ただ、そのありきたりのなかにところどころカミソリのように鋭い描写があり、場面場面ではっとさせられるのは流石。また、最後のほおずきを巡るエピソードあたりで、物語の見え方を逆転させてしまうのは上手い。

ただ、恋愛小説といいながらもそれなりにミステリ的興趣を読みとって楽しませて頂いた。このアンソロジーのまま文庫に行くのは確実なので、個々の作品集などにすんなりと収録される保証はない。収録各作家の熱烈なファンであれば、購入するだけの価値があるかも。装幀も綺麗だし。


05/07/12
中井英夫「新装版 虚無への供物(上下)」(講談社文庫'04)

かつて探偵小説三大奇書ともいわれ、当時としては夢野久作の『ドグラ・マグラ』と並んで千二百枚という破格の分量を誇る、孤高の作家・中井英夫の唯一の長編探偵小説作品。塔晶夫名義で'62年に前半二章のみ書き上げられた状態で乱歩賞に応募され最終候補となって最後まで賞を争うが落選、'64年に初刊行され、現在に至るまで読み継がれている。

一九五四年、バア・アラビクに集う若者たち。探偵としての才があると自負する駆け出しの歌手・奈々村久生、アリョーシャと呼ばれる独身青年・光田亜利夫。ゲイの若者・おキミちゃんによるサロメのショーが終わった頃、待ち合わせていた氷沼藍司がやって来た。彼は上京して従兄弟の住む氷沼家に寄宿している。その従兄弟は兄・蒼司と弟の紅司。彼ら兄弟は洞爺丸の海難事故で両親を喪っており、他の親戚も日本を次々と襲った天災や事故で命を喪っており、不幸な一族とされていた。久生は『氷沼家殺人事件(ザ・ヒヌマ・マーダー・ケース)』が起きているのではないかと藍司にしつこく尋ねる。彼女の信奉する、そして婚約者でもある牟礼田がそういった予言をしたというのだ。久生は、事件が発生する前に事件を解決するのだと興奮。亜利夫を氷沼家に派遣する。そういった推理の試行錯誤を行っていた最中、紅司が密室状態の風呂場で死んでいるのが発見された。また、氷沼家に同居していた橙二郎叔父もまた、一人で二階に上がっているあいだにガスで絶命してしまう。

本格ミステリ各種形態の溢れる現代にこそ”反推理小説”の巨峰は「元祖」として読まれるべきなのでは……
反推理小説(アンチ・ミステリ)の元祖ともいわれる作品で、執筆・発表された時代が着々と過去になりつつあることや、その文量の長大さ、また、アンチミステリの響きによる一般的な取っつきにくさもあることから、作品の題名として非常に有名な割に、最近は特に、未読の読者が実際に手に取ることは少なくなってきているように思われる。しかし、それは残念なこと。やはりこれだけ名前が通っているということは、そこに長い年月のあいだに普遍化され、それでいて多くの人が認めるそれだけの価値があるということなのだから。
本書は、中井英夫の唯一の探偵小説という付加価値もさることながら、次々と密室殺人が発生し、それを素人探偵たちが幾つもの推理に基づいて多面的に解釈する――という構造自体、近年の本格ミステリ作品に近い様式となっており、少なくとも構成としては現代のミステリファンであっても十二分についてゆけるものだと思われる。それに、当時は現実味が薄いとして糾弾されたという素人探偵たちの推理にしても、現代ミステリの読者の方が、より容易に受け入れられるもののはずだ。
氷沼家を巡る、幾つもの殺人事件が発生し、それに対して幾つもの解釈がつくように個々の殺人事件の不可解さは強調されてはいない。しかし、それらの事件に対してくだされるその数々の解釈は合理的なもの、心理的なものから、バカミスさながらのものまであり、そのユニークな解釈の数々は面白いし、いろいろな暗合を絡めてゆく独特の展開はどちらかといえば伏線の妙味を楽しむべき流れのうちにあるだろう。恐らく、本書を初めて読む人は、終盤近くに至るまで「現代的な普通の本格ミステリ」を読む感覚で進まれるのではないだろうか。
終盤に至り、本書が「反推理小説」といわれている意味が明らかになる。――ただ恐らく、このあたりにして初めて、本書はその時代性を意識させる作品と変化を遂げる。試み自体は当時としては非常に斬新だったことは理解できるし、流れのなかの不自然さを補うもので、唐突感はない。だが、現代に至っても唯一無二のものか――というと、手を変え、形を変えて同じ精神をもったフォロワーの方が存在していることは、現代読者であれば思い至るのではないだろうか。もちろん、それだけ本書に「元祖」としての意味があるということなのだが。

ということで、数年ぶりに再読してみると(その間に積んだミステリに対する経験値のせいかもしれないが)、当時読んだのとは当然異なる感覚で接することになった。それでも、発表より40年以上にわたり読まれ続けているミステリとして、確かな価値があることを再確認するに至った。講談社文庫に新装版として本書が復活した今、ミステリ・ファンを名乗るなら、やはり読んでおくべき作品のひとつだろう。


05/07/11
北村 薫「ニッポン硬貨の謎 エラリー・クイーン最後の事件」(東京創元社'05)

もともと北村薫氏が温めていたというクイーンに関する評論を核に、エラリー・クイーン生誕百年記念出版として、クイーンの書かれなかった国名シリーズの体裁を模してパスティーシュとして発表された長編。東京創元社『ミステリーズ!』Vol01〜06、及び08〜10号にかけて連載された作品の単行本化。

一九七七年、ミステリ作家である名探偵エラリー・クイーンが出版社の招きによって来日した。来日したクイーンは想像していた以上に日本のミステリファンに歓迎される。一方、日本では現場に振り袖が残されるという謎の幼児連続殺人事件が発生しており、忙しい公式日程をこなしていながらもクイーンはこの事件に興味を持つ。また、同じ頃、大学のミステリ研究会に所属し、書店でアルバイトしていた小町奈々子は「五十円玉二十枚を千円札に両替してくれ」と頼んでくる謎の男と遭遇していた。その奈々子は、ミステリ研究会の繋がりからクイーン氏を囲む親睦会に出席、『シャム双生児の謎』を巡る論をクイーン本人にぶつけて活躍。世話人の出版社社員から、クイーン氏の都内観光のガイドを依頼されてしまう。その奈々子の誘いで出掛けた上野動物園で、クイーンは幼児誘拐の現場に遭遇。その一連の出来事からクイーンは事件に関する重要なヒントに気付き、警察との協力体制に入るのだった。

読者を若干選べどもクイーンのパスティーシュにして評論の楽しみ。名手・北村薫の深謀遠慮をどこまで捉えられるか?
日本の出版社の招きによって来日したクイーン(このあたりは事実)が、その忙しいスケジュールの合間を縫って、日本で発生した事件を解決した(このあたりはフィクション)という物語を、クイーン自身が書き留めた未発表原稿を北村薫氏が訳した(というのは虚構の話)という体裁。海外作家のパスティーシュ作品としてこういった枠を嵌めるのは基本である。このあたりでまず、フィクションとしての体裁を一つつくっておくわけだ。
本書の一つの側面として、クイーンが来日した当時の雰囲気をできるだけリアルに伝えようというものがある。インターネットのない時代、”神様の来日”に沸き立つ若きミステリ読者たちの盛り上がり。現代のミステリ作家の若かりし頃のものと思われる描写があり、そもそもクイーンをナビゲートする女子大生のモデルは若竹七海さんである。事件の鍵の一つに『五十円玉二十枚の謎』が使われているあたりも、作者独特のサービス精神の発露であろう。彼女がクイーン本人に対して語り始める『シャム双生児の謎』に関する評論は、もともと作者が温めていた内容であり、その論理の詰めは見事。 もう大昔に一度読んだきりという程度のクイーン読者である小生にとっては「そういえばそうだったっけ?」という程度の記憶しかないにも関わらず、この評論が面白いと思わせられるので、クイーン・ファンにとってはそれ以上の内容であろう。また、この評論の手法からは、本文でもしばしば取り上げられる瀬戸川猛資氏の評論を想起させられた。一方で、あくまでクイーン視点によって語られる当時の日本の描写は、微妙な外国人による日本観というフィルターを通しており、「不思議の国・ニッポン」を描いた諸作のパロディの意味合いも持っているように感じられた。
一方で、事件の方はさながらクイーン対サイコ・キラーの様相で、もちろんクイーン後期作の延長上にある。このあたりは先述した「不思議の国・ニッポン」だからこそのヒントや手掛かりがある。ただ、ここでわざと不自然なニッポンの様子を描くことと、その割にところどころクイーンによる鋭い観察や推理を加えることで、日本の作者ではなく外国人ミステリ作家が書いた日本舞台のミステリであることを強調している結果に繋がっているように思う。(数ある註釈がリーダビリティを妨げているという意見を小生は持っていたが、ある方によれば、それもま外国人から見たニッポンを演出するのに不可欠なものだといわれた。そういわれてみると確かにそうだ)。ただ逆に、クイーンらしさを演出しすぎた結果、純粋に本格ミステリとして捉えた時の凄さという点は若干割り引かざるを得ないところもある。このあたりの匙加減は非常に微妙なもの。恐らく北村氏の実力をもってすれば、オリジナルの本格ミステリを作品に割り込ませ、それをクイーンに解決させることも出来たのだろうが、わざとクイーンの実作の延長線に本書のトリックを持ち込む必要の方が強かったということなのだろう。
もう一つ欲を言えば、本書のひとつの中心である『シャム双生児』論を、本書の枠組みトリックのなかに組み入れることが出来ていたら……という気もする。ただ、小生ごときでは、北村薫氏が本作に込めた趣向の全てを理解できたとは思えない。まだまだ気付かない要素が隠されているのではないか。……それがまたパスティーシュという形式の楽しみでもあるわけで。

様々な要素を貪欲に取り入れつつ、かつ本格ミステリとしてきちんとまとまっているという奇跡的な作品。クイーン作品を未読の方はネタバレ表記が多いので躊躇されるだろうが、直近にクイーンの諸作を読む気がないのであれば、本書を読んでしまっても全く構わないのでは。逆に本書を読んでクイーンに興味を感じる人もいることだろうし。それはそれで良いことだと思う。