MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


06/03/10
北村 薫「紙魚家崩壊 九つの謎」(講談社'06)

デビュー作品が連作短編集だったことや、各種の短編小説アンソロジーを編んでいることもあり、個人的にはどこか短編作家の印象のある北村薫氏のノンシリーズ短編集。古くは'90年に『鮎川哲也と十三の謎』に収録された作品や同年の『ミステリ・マガジン』誌に発表された作品、新しいところでは'04年から'05年にかけて『メフィスト』誌に発表された「新釈おとぎばなし」に至るまで、発表年月で十五年の幅を持つ作品が収録されている。

苦労して就職活動を行い健康食品の会社で新卒入社した美咲。コンビニの雑誌コーナーでふと手に取った漫画に描かれた中年男が、勤め先の店長にそっくりに見えたのだ。 『溶けていく』
両手が恋している女と探偵の三十七番目の事件。紙魚という名字と一二三という名前を持つ男。男と結婚したのは数子という女。書物収集狂の二人の家を探偵が訪れた時、事件が。 『紙魚家崩壊』
両手が恋している女と探偵の三十八番目の事件。《幻の園》という、もはや作品を発表しなくなったミステリ作家たちの住む老人専用アパート。そこで奇妙な密室殺人事件が発生した。 『死と密室』
母親と、もうすぐ母親になる娘との昔語り。寒い日が続いたある日に発生した疑問。車全体が真っ白になるような日が続いても、その車のバックミラーにだけは霜がつかない。 『白い朝』
園芸関係の出版社に勤務する千春さん。喫茶店で見かけた中年のおじさんのポケットから十面ダイスが転がりでてきた。 『サイコロ、コロコロ』
キノコのハンドブックのフィールドワーク。千春さん一行は三人の女性の握ったあにぎりを食べることになるのだが……。 『おにぎり、ぎりぎり』
お見合いの当人が入院、更に紹介する妻が高熱ということで代理でやってきた夫。その見合い相手の女性と食事をしているうちに話が盛り上がって。 『蝶』
徹夜麻雀明けの平日の朝。東京まで二時間半かかる駅には既にサラリーマン姿がちらほら。座席に座るとなにやら視線が突き刺さってきた。 『俺の席』
『アリとキリギリス』、そして『カチカチ山』。伝統のおとぎばなしに対して北村薫が奇妙な解釈を加えてゆくと……? 『新釈おとぎばなし』 以上九編。

美しい謎が解けていくというのが北村薫の本格ミステリ定義。そのバラエティの広さが実感できる作品集
『溶けていく』は何ともいえない狂気を北村氏らしい筆致で捉えたらどうなるか――というあたりが興味深い一作。この手の作品は、作者自ら編纂するアンソロジーでもしばしば取り上げており、そういった狂気への微妙な憧れが作者自身にもあるのだと思う。ホラー小説系の作家が同じテーマを取り上げたらもっとどぎつく下品に仕上げられるテーマを、北村氏が描くことで実にソフトに包まれ、むしろ優しい手触りとなっているところが「作風」なのだろう。
『紙魚家崩壊』『死と密室』は、オルメスにも言及があるし、その内容からは数々のミステリ全体を一括りに、ミステリというジャンルへの自己言及を当然化した世界を舞台にした二作。登場人物が自らがミステリ世界に存在することを認識しており、発生する事件もまた、現実よりもミステリのルールを重視したという事件にならざるを得ないという皮肉を、これまた北村流の優しい筆致で表現するのだから始末が悪い。この結果、不思議な味わいのミステリとしても読めるし、マニアにとってはミステリというジャンル全体への強烈なパロディを含有する作品としても読めるのだ。
『白い朝』『サイコロ、コロコロ』『おにぎり、ぎりぎり』は、'90年から'91年という、発表当時の年代と媒体を考えることで何か合点のいく、覆面作家としてデビューした北村薫・原点的な日常の謎。というか、覆面時代の北村薫はやはりこういう作風を望まれていて、それをやはり返したのではないか――というような印象。現在の、ではなく一昔前の北村薫らしい、作品。(一般的には未だにこういった作品の方が受けると思うけれど)。
『蝶』『俺の席』は、奇妙な話の系統。特に『俺の席』は、ちょっと誇張されているきらいがあるけれども、人の心の奥底にこういった既得権益感情みたいな自分でも理不尽と分かっていながらも当然視しているといった、複雑な感情があることを独特の感覚とともに描き出している。
『新釈おとぎばなし』 喜国雅彦さんが過去に「ネタに詰まると昔話だ」とある作品で描いていたことを思い出したが、稀代の読書家でもある北村薫氏にかかると、またそう思わせないネタ遣いとなっている感。半ばエッセイ、半ば物語ながら、一級の読書経験と見識とが織りなす諧謔精神がみごとに嵌っている。北村薫が最近特に優しいだけの作風ではないことを改めて思い出させられる。

……という風にバラエティは実に豊か。そのバラエティの豊饒さが北村薫の魅力なのでもあるが、逆に「このうちの○○という作品くらいしか面白くなかった」という読者もいるかもしれない。「ミステリ短編集」となっているが、ミステリのみのファン以上に広く読まれるべきなのではないかと思う。


06/03/09
道尾秀介「向日葵の咲かない夏」(新潮社'05)

背の眼』で第5回ホラーサスペンス大賞特別賞を受賞した作者の第二長編。第6回本格ミステリ大賞の候補作にもなった。個人的には帯の「分類能、説明可、ネタバレ厳! (でもロジカル)超絶・条理ミステリ」というコピーに異様に惹かれた。

家庭内では妹のミカばかりを可愛がるためネグレクトされている小学校四年生の僕。明日から夏休みという終業式の日、僕は先生の指示により学校を休んでいたS君の家に宿題を持って行きく。その途中で無惨に何者かによって殺された猫を目撃したあと、さらに無人の家で一人首を吊って死んでいるS君の死体を発見してしまった。庭にあったのはたくさんの向日葵の花。僕は慌てて先生に事態を伝えに学校に戻るが、先生の連絡で警察がS君の家に到着した時、そこに確かにあった筈の死体が消え失せてしまっていた。ただ幸いなことに(?)、床の汚物や欄間などに首つりの痕跡が残されてており、S君自身の姿が見えなくなっていたため行方不明事件として捜査されることになった。その夜、S君は生前とは異なる姿で僕の前に姿を現した。彼は自分は殺されたのだと主張、体を見つけて欲しいという願いを僕にぶつけてきた。僕と妹は、小学生という立場に不自由しながらも彼の願いを引き受け、事件調査を開始することにした……。

SFミステリを超えた、不条理小説ミステリ? これまで世界に存在していない新しいカタチ
(ニュアンス的にネタバレになる可能性があるので、未読の方は以下を読まれないことをお勧め致します)
ある意味ネタバレなのだが、本作のベースにあるのは恐らくやはりカフカの『変身』なのだと思う。換骨奪胎というのともまた微妙にニュアンスが異なるが、『変身』などでみられる不条理であってもそれを許容する世界観といえばいいのか、これが淡淡と描かれることで独特の異形(グロテスク)が支配する世界をまず作り上げることに成功しているようにみえる。(が、この世界もまた作者の企みの内側にあるパラレルワールドに過ぎないわけなのだが)。
『背の眼』などで見せた、古典的なオカルティックな雰囲気を使って読者を引き入れる手法は本作では用いられていない。むしろ、本格ミステリを標榜してオーソドックスな展開をみせながら全く異なる方向から(つまりは不条理な展開を連発することで)興味を提示してそれをやってしまう点、人を食っているというか大胆というか、非常に独特なセンスを感じる。(好きだー)。
更にすごいのは、恐らく結果的にだとは思うが上記の帯がまたミスリーディングにおける絶妙のアシストを行っている点である。実際、物語世界では、そういった不条理状況とは別に奇妙な連続殺人事件が発生しているし、心にどす黒い闇を抱えた登場人物を描くことで暗澹とした気分で(でも引き込まれながら)読み進めることになる。その展開と、帯によって読者は中盤 で漠然とした結末の予感を覚える筈。しかし。
そちらの謎はそちらの謎で名探偵のごとき快刀乱麻の結末が与えられながらも、別の角度からスコーンと作者は楔を打ち込んでくるのだ。そちらにヤラレタ。この作品に限っていえば伏線が十分だとはいえないながら、そういった不満を吹き飛ばすような「無茶」を行っている。その結果、これは明示する気はないんだろうなあ、というようなちょっとした違和感についても実にグロテスクな解を作者は準備してしまっている点も驚きだ。

何ともいえない奇妙なミステリ。それでいて異形の青春小説にもなっている。さらに作者に社会派を気取るつもりはないだろうけれど、結果的に現代の家庭環境が内包する歪みをも浮き出させる手腕は侮りがたい。 特にグロテスクな心理状態と、”人間離れしてしまった”人間を描かせると絶妙に巧い。この作者。無条件にお勧めできる作品ではないが、いろいろな本格ミステリの書き手が少しずつやろうとしてきた「新しいこと」を一挙に取り込んでしまって特別に変質を遂げきった、変梃な本格ミステリなので、新しいもの好きの人と、とにかくサプライズを求める人には特にお勧めでしょう。


06/03/08
浅暮三文「錆びたブルー」(角川春樹事務所'06)

嗅覚を扱った『カニスの血を嗣ぐ』に始まる”五感シリーズ”の特別篇という位置づけのようだ。特別篇というのはいわゆる一般的な人間の持つ五感と異なる感覚をテーマ(共感? テレパシー?)を取り上げているから。書下しの長編作品。

「ただいま。ここだけは幸福だ。」
「あれからもう何年になるかしら」女はいう。男と女の二人暮らし。女のお腹には二人の子どもが宿る。他人の名前を借り、他人の人生になりすましたまま、目立たないように日々を過ごす。あの声はもう聞こえない。錆びたブルーをやり過ごして、薄いピンクの水玉模様に囲まれた生活。殺人者としての日常・動物のような生活にはもう戻りたくない――。耳元で誰かに囁かれた気がして目が覚めた。ワンボックスカーの内部で暮らす男。五月だからなんとか過ごせるものの、本格的な夏が始まるとまた地獄のような暮らしが始まる。先週は手配師から仕事をもらい、四日ほど働いた。ビッグサイズの紙パックに入った焼酎。普段は商店街を巡って空き瓶から溜め集めたちゃんぽんの酒。人を殺してからというもの、ずっとこんな生活だ。ワンボックスカーを根城にしたホームレス。潜伏先は都内。人を殺すまでは普通の男だったはずだ。その時は三十八歳の歯科医師。しかしその行為の瞬間から男は犯罪者となり、一般社会に留まることなくすすんでゴミとなった。公園で水を飲む。その時、見知らぬ男に声をかけられた。男は話しかけてくる。ある名前が告げられ、見知らぬ男た煙草の火を点けた時、男の視界にも赤い火が拡がり……。

どこまでが妄想で、どこからが現実なのか。「五感」を超えて、感覚の境界をあくまで曖昧にしてゆく
ある男の妄想を軸に、実際に行われた犯罪を従に描かれた独特のクライム・ストーリー。 通常の物語であれば、現実に発生する犯罪の方が主であり、例えばその犯罪が行われるに至る妄想の方が従となって、犯罪の発生理由を妄想のなかに求める――というような構造となるはずの物語。それをひっくり返してしまうのが浅暮流ということになるのか。男は妄想のなかで、さまざまな色を見る。帯のことばを借りれば「幸せはピンク色。時間は黄色。殺意の配色は黒。」そして「錆びたブルー」。
この作品では物語を異なるかたちで分断している。ひとつは、男の主観による物語、別のひとつは、とあるWEBサイトにおける犯罪の記録と推理、そしてもう一つ「――誰だって? 神の目が開く。」から始まる神の視点による変幻自在の物語。まず、これら別々の表現様式で描かれる物語が断片的に場面を描写していく。しかも時系列は計算づくで入れ替えられており、必然的に物語を追う読者もまた、その変幻に飲み込まれていく。
単に物語の断片が全編読了後に集積されて、一つのストーリーが見えてくるのであれば、一般的なミステリの構造にもよくあるのだが、本編の場合は全編読了後にも主観をどこに持っていくかによって物語の見え方が異なってくるのが厄介だ。そのあたり、メタ構造が存在しており、そうなることを恐らくは作者も想定している。ある視点で貫き通せば、操りテーマのミステリとも受け取れるし、ある視点から物語を眺めれば、悲劇から引き起こされた妄想が産み落とした更なる悲劇とも受け取れる。最終的な解決位置にある「捜索についての推理・記録 その七」については、部分的には(事件にいたる骨子としては)正しいと思うものの、最後に神の目が開いてしまう点から、この物語全体を説明しきれて/しきっていないと疑ってかかるべきだと思う。そこから物語全体を見直すと――と、いろいろと疑わしい描写が数多くあり、どの部分の妄想が「いつ」発生したのかが段々と曖昧となってゆき、人と人との持つ感覚が溶け合ってゆくため、物語全体が茫洋とした一つのまとまりとしてしか捉えられなくなってゆく。

しかしまた厄介な作品である。犯罪が描かれているためミステリの範疇に入ることは入るのだけれども、実験的な要素が多くあまり一般的だとはいえない印象。浅暮三文ファンか、じっくり物語構造を分析できる手練れの読者向け。まあ、ある意味『実験小説 ぬ』あたりでアサグレミツフミを知った読者にとっては好適なのかもしれないけれど。


06/03/07
古川日出男「二〇〇二年のスロウ・ボート」(文春文庫'06)

もともと雑誌『ダ・ヴィンチ』の十周年記念の「村上春樹トリビュート」企画によって発表された作品。2003年に『中国行きのスロウ・ボートRMX』としてメディア・ファクトリーから刊行されており、この題名は、改題された本文庫版においても扉をめくってすぐのところに記載がある。

まだ東京を脱出できない。たしかに国境は存在しない。でもパスポートが要らないからって安易に抜け出せるわけじゃない。僕はここで生まれて、僕はここから出られない。『出トウキョウ記』。――人けのないクリスマス・イブの浜離宮庭園。二〇〇二年の冬の東京で、僕は時々拳を握りしめる。そしてずっと最新の算段を練っている。これまで僕は三度脱出できなかった。そのはじめての越境の試みは小学校五年生の時。推定年齢十歳か、十一歳の時に行われた。最後の脱出計画は今から二年前。この三回で、僕は三人のガールフレンドを失った。具体的な最初の脱出計画。それ以前、僕は突然に学校に行かなくなった。周囲は、僕が学校に行けなくなったと思ったようだが、実際は違う。こどもの日の欺瞞を感じ取り、限界を感じた僕は夢に生きることを選んだのだ。その結果、不登校のレッテルを貼られ、杉並区から東京の奥多摩に送り込まれ、山村留学をするようになる。そこで僕には彼女との運命の出逢いがあった――。

古川のスーパー・ハイ、村上のウルトラ・ロウ。はじけ飛ぶ感情と、その微妙な抑制が奇妙なクールを生み出していく
今のように国産ミステリにどっぷり浸かる前の一時期、村上春樹はもっとも好きな作家の一人だった。ただもう、それから十数年くらいが経過してしまって、恥ずかしながら――この作品のオリジナルにあたる『中国行きのスロウ・ボート』。読んだことは間違いなく、題名も覚えているけれど、内容をさっぱり思い出せない。なのでこの『二〇〇二年』が村上春樹のオリジナルと比べてどうか(一部の文章が使用されていることは確実なのだけれど)は、恐らく小生以外に熱心な両者のファンがいて、きっと分析してくれるに違いない! ということで、ずぼらな小生は本書のみの感想を記す。
メインとなるテーマは「脱トウキョウ記」 だけど「世界と戦う主人公の物語」として受け取った。人間が世の中と戦おうとする動きとして、学生運動だとか、政治への挑戦だとか、理由無き反抗だとか、世間・世の中といったものに対して、比較的わかりやすい/受け入れられやすいかたちで反旗を翻す動きは確かにこの世に存在し、そういったテーマを扱った物語も数限りなくある。だけど、この作品では、小学生の、十九歳の、社会人となった僕が、「僕ルール」に従って世界(東京という街か? いや東京は何の象徴なんだこの場合)戦っている。 僕にとって何が勝利なのか、どうなると僕にとってハッピーなのか。その感覚は読者の共感を必要としているようで必要としていない。分かる奴だけ感じてくれ。そういったある種傲慢なまでの世界を造り上げている点は、古川も村上も同じ。その孤立感が青春文学としての魅力となっている点も間違いない。とにかくこの感性は独特で、その感性を活字にして描き出す作者自身の感性もまた独特。”僕”のみならず、三人のガールフレンドもかなり特別な存在で、だからこそ失われることが惜しい……という感情が激しく噴出しており、それが物語のエネルギーとなり熱となっている。どこにでもいる誰もが、特別な誰かだということ。

全体としては、いつも通りの古川流、エッジとビートの効いた文章は、作品の筋書き以上にテンポと迫力を物語内部に発生させてしまっている。その結果、トリビュートなんてせせこましいこと抜きにした古川日出男の物語になっている……と思う一方で、「ああ、確かに作品のルーツは村上春樹の何かと共通するんだな」ということが分かってくる。そういう作品。
しかし、ワタシにとっての村上春樹は、ビールを実においしそうに飲む場面を印象的にそれでいてさりげなく描く作家であるのだがそういった描写はこの作品ではなかったですね。


06/03/06
芦辺 拓「少年は探偵を夢見る――森江春策クロニクル」(東京創元社'06)

芦辺拓氏の擁する名探偵・森江春策。現在は弁護士兼素人探偵として活躍する彼には、当然少年時代・学生時代があり、弁護士になる前は新聞記者だった時代もあった。これまでそんな若き時代の森江の活躍する物語は一度『探偵宣言 森江春策の事件簿』に短編集としてまとめられている。ただ、良きにしろ悪しきにしろ、そこで使用された設定が、逆に後の森江春策を規定するための枷となっている面もある。本書はその更に間隙を縫うようなかたちで創られた「森江春策クロニクル」となる作品集。東京創元社「ミステリーズ!」創刊号より不定期掲載された作品に書き下ろしが一編加えられている。

市立図書館に通うため電車に乗っていた小学校五年生の森江少年。あるきっかけから下車した街で《電氣世界館》へと招じられ、奇妙な冒険をすることに……。 『少年探偵はキネオラマの夢を見る』
洋風賃貸アパート雪間荘。この12号室に住む筆者は推理文壇への進出を狙っている。この筆者が「幽鬼魔荘」と名付けるこのアパートの一室で殺人事件が発生した! 『幽鬼魔荘殺人事件と13号室の謎』
ストーカー被害に悩み警察に相談しにきていた若い女性が睡眠薬自殺? 滝警部補は内心忸怩たる思いを抱えつつ、その変死に自殺ではないとの直感が働いて……。 『滝警部補自身の事件』
様々な出自、そして好事家の常連客が集まるバー《ファントマ》。客の発案でぞろぞろと近辺の廃ホテルを見学に行った一行は、先ほど見かけた筈の知人の生首を発見した! 『街角の断頭台(ギロチン)』
学界の重鎮が山荘で何者かに殺害された。その人物に恨みを持つのは元門下の俊才。だがその彼は自らものにした”タイムマシン”を用いて教授を殺害したのだと主張する。 『時空を征服した男』以上五編。

個々の作品の設定ごとに変じられる冴えた筆、かっちりとした本格。ここに思わぬ大技が綺麗に嵌った
個別には内容を確認頂きたいので細かく内容には触れないが、それぞれの事件にトリックがあり欺瞞があり錯覚がある。加えてフェアに手掛かりは開示されており、正統派の本格ミステリとしてまず優れた作品が並ぶ。本格ミステリ作家・芦辺拓のブランドを信頼する読者にとって、個別の作品集としても満足できる内容であろう。
ただ、本書の場合は、その本格ミステリ以上に、趣向が多いように思われるのだ。特に、それぞれの本格ミステリとしての長所が、作品毎に異なる雰囲気、設定のなかでより生きるよう工夫がされている点。 例えば『少年探偵は…』の場合、恐らく少年・森江春策でなければそのトリックは成り立たない。だが、その少年・森江春策を主人公格とすることによって、作品の謎が最大限に膨らんでいる。小学生には小学生の、学生には学生の視点があり考え方がある――といった当たり前といえば当たり前の事実。これをきっちり押さえることで、同じネタでも最大の効果を発揮させているのだ。つまり、怪奇現象(それが論理的に解決できる事柄だったとしても)を目の当たりにした人間が示す反応は同じではなく、それぞれの年代や個人によって受け取り方が異なるはず。クロニクル、つまりは年代記のかたちでまとめられた本作品集では、この点を逆手にとってそれぞれの物語が巧みに異なった演出がなされている。『少年探偵は…』では、乱歩の少年探偵団風の構成となり、『幽鬼魔荘…』では黒死館被れの作家志望者が語り手となり、『滝警部補…』では、ハードボイルドめいた滝警部補の視点と、作家志望の青年とを重ね、後の『殺人喜劇の13人』への繋がりをみせる。(さらに『街角の…』が狙ったのは、昭和後期の通俗スリラーの雰囲気でしょう)。
同じく、それらの演出により、その当時当時の森江春策が探偵役を務めているにも関わらず、その作品それぞれの印象が全然異なるということもいえる。少年は昔から探偵でした――という点を否定するものではないけれど、活躍の仕方(司直との距離感とでもいおうか)が微妙に異なることにより気持ち良いまでのバリエーションが作品集内に存在している。また、それぞれ実に”奇妙な現象”が取り上げられているにもかかわらず、それぞれ作品の舞台となる”当時”であれば一定の必然性のなかで現実に有り得る設定となっている点も見逃してはならない。芦辺作品に共通した良心だと思うが、こういった現実との繋がりをつけることによって、探偵小説でありながら絵空事に終わらせないだけの意地というか、トリックのためのトリック小説にはならないぞという心意気を感じるのだ。
あと、言及を避けられない――というか、この作品集のキモは間違いなく『時空を征服した男』。アリバイ崩しを主眼とした個の本格ミステリとしても傑作だが、この作品が作品集のラストにおいて全体に与える印象がとにかく強烈。ある意味、上で述べたような作者の創作姿勢そのものをミスリーディングに変えたような変格の一撃が加わる。犯罪者の欺瞞を暴いている筈が、いつの間にかその欺瞞を前提とさせられてしまい、神の視点で物語を味わうはずの読者の立ち位置をぐらりと揺らす作品である。しかも、この作品集が”クロニクル”である理由(というかクロニクルでなければならない理由)が、ここにおいて表出するのだ。芦辺作品の熱心な読者であればあるほど、この衝撃は強烈なのではないか。

芦辺拓の作家デビュー十五周年+著作三十冊目の節目にあたる記念すべき作品。細かなトリックを丁寧に積み重ねた本格ミステリ作品集として、個々の短編が合わさった作品集としてだけでもまずは年間ベストクラスであることは間違いない。個人的には、先に述べたように、かつての東京創元社らしい(というので分かる人には分かるだろうが)読者の裏をかくような大技を(良い意味で)ぬけぬけとやってくれたことに喝采を浴びせたい。 人により好悪はあるかもしれないが、小生の場合は圧倒的に”大好き”ですよ、この大胆なやり方は。


06/03/05
法月綸太郎「怪盗グリフィン、絶対絶命」(講談社ミステリーランド'06)

「かつて子供だったあなたと少年少女のための――」というキャッチコピーにて'03年7月より開始された、講談社のこのジュヴナイルシリーズ、”ミステリーランド”。あの作家がこの作家が(いわゆる寡作の作家)、名前が入っていたなか、本当に出るという事実自体がかなり驚きとなるのが、この第9回配本。法月綸太郎。綾辻行人。叢書刊行開始の当時、結構疑っていたことが思い出さされる。

ニューヨークを根城に活躍する「あるべき物をあるべき場所に」が信条の怪盗グリフィン、こと”ぼく”。ぼくの元に、いきなり一通の手紙が送られてきたことが今回のトラブルの始まりだった。「ジャック・グリフィン様」となっている手紙の内容は、第二十三回〈国際泥棒コンテスト〉の北アメリカ代表の選出のお知らせだった。慎重なぼくは、この手紙を当然信用せず封を切っていないように装って転居先不明で返送してやった。――それから一週間後、オストアンデルと名乗る人物から仕事を依頼する電話がかかってきた。大学の哲学教授のような風貌をしたその男、ニューヨーク名物メトロポリタン美術館に展示しているゴッホの自画像を盗み出して欲しいのだという。成功報酬は二万ドル。だが、ぼくは一旦その依頼を断った。ぼくの信条に反するからだ。しかしオストアンデルは、美術館に展示されているゴッホは実はニセモノで、本物をオストアンデルの依頼人にあたる大富豪・ハマースタイン所有しているというのだ。半分疑いながらもぼくは仕事に関する調査を始める。ぼくの表の職業、即ち保険の調査員としての友人、スーザン・フレミングと共に美術館に出掛けた。彼女は画商で絵画に造詣が深いからだ。ゴッホの自画像、その警備は想像した通り非常に厳重だったのだが……。

うまい話には裏がある。裏の話にゃその裏がある……古き良き欧米ユーモア小説のようなテイストがミステリーランドと見事にマッチ
ストーリーそのものも、テンポが良くて二転三転する展開によって巧みに構成されているのだが、それを脇に置きたくなるくらい登場人物の造形がまず絶妙。 軽ハードボイルド小説の登場人物をさらに柔らかくしたといえばいいか。”ぼく”ことグリフィン、彼に無理難題を押しつけるオストアンデル、途中から”ぼく”のパートナー役に指名されるアグネス。また適役として配置される(とはいっても別に悪人というわけでもない)中米某国の政治家・軍人たちに至るまで、しっかり個性が付与されているうえに、ストーリーの軽妙さ加減ともベストマッチを果たしているのだ。
そしてその中心となる物語もやはり楽しい。オストアンデルとグリフィン、そして後半はグリフィン&アグネスによる南米のボコノン共和国内部でのオペレーションが中心だが、まず表にたつグリフィンのアイデアが面白い。さらにその動きをベースに、そこでの丁々発止、味方と敵、敵と敵、味方と味方同士で互いに相手の裏をかこう裏をかこうという動きが次々と表出してくるので目が離せないのだ。AがB、BがCならAはC、というような論理的な思考が裏にあるので作品としてもどこか端正にまとまっているようにみえる。加えて怪盗グリフィンを中心とした人物の個性が醸し出す軽めのハードボイルドめいた味わい、ボコノン共和国を舞台とした内政の暴露は国際謀略小説の定番的思考が裏側にある。これら全体からは、一般的な欧米系ミステリ全般――即ち、ハードボイルドからスパイ小説に至るまで全ての面白みが取り込もうという意志が感じられる。例えば、本格やサスペンス、伝奇小説に関しては既にミステリーランドで既出だと考えると、ミステリーのなかでもその残りの分野の”面白いところ”を怪盗グリフィンが文字通りかっさらってしまったともいえるのではないか。

個人的に心に残るのは、巻末の作者のことばで「『エルマーのぼうけん』という本を夢中になって読みました」とあるくだり。『怪盗グリフィン』と似た作品とは到底いえないだろうけれど、エルマーのシリーズは面白かったよなあ。いずれにせよ、ミステリーランドのシリーズのなかでは珍しく大人にも子どもにも、素直にお勧めといえる作品。


06/03/04
太田忠司「レンテンローズ 囁く百合」(富士見ミステリー文庫'03)

レンテンローズ』『レンテンローズ 笑う月』に続く、「レンテンローズ」シリーズの三作目。月刊『ドラゴンマガジン』の2003年7月号から12月号にかけて連載されたもの。これまでとは趣向が若干異なり、アカンサスやプリムラといった人物たちが存在する「裏世界」の説明が若干だがなされている。

最初の事件は十年前に起きた。幼児や小学校低学年の子供を狙った連続殺人事件。白いセダンに乗っていると思しき殺人者。その容疑者・蘇我憂水に誘われた皆瀬早紀を救ったのは、彼女より少し年上の、四人の少年少女たちだった。彼らは蘇我を追いかけ、逃がしはしたものの早紀の救出に成功、街の英雄となった。彼らは代表の那須鷹人を中心にそれより後、犯罪防止と青少年の健全な育成を目的とするNPO「ナイトフッド」を立ち上げる。『割れ窓』理論をもとに、非行の早期発見と解除を旨とする彼らの活動は、若干の息苦しさはあったものの成功とみなされていた。その彼らに感謝しなければならないはずの早紀だが、中学生となった彼女は、犯人よりも「ナイトフッド」に助けられたこと自体が何やら忌まわしさを伴う記憶となって残っていることに気付く。早紀は行きつけの花屋「レンテンローズ」に行って会話を楽しんでいたところ、そこに「ナイトフッド」の主要メンバー吉岡達巳と嶋田能里子が現れる。彼らは十年前に早紀を助けてくれた四人のうちの二人だった。そして翌日、吉岡の死体が発見された。その死体には花が添えられており、あたかもそれは十年前の事件が再現されているようにもみえた……。

ファンタジーの枠組みにラノベのイラスト。その裏側には周到に練られた設定によるミステリを忘れない
前二作はトリックの部分に凝っていて、本格ミステリとしての要素をかなり強めに打ち出していたが、本作は若干方向性を変じた感がある。(とはいっても、この後、この「レンテンローズ」のシリーズはストップしてしまっているため、今後の方向性を探っても仕方ないのかもしれない……)。当初は描かれる予定ではなかったという、アカンサスとプリムラ、すなわちノブとミユキの二人の所属するファンタジックな別世界の様子が完全ではないものの明らかにされつつあるからだ。こちらは全く現世とは隔絶したファンタジー世界。こちらはこちらで「設定」に対する謎を数多く鏤めており、今後解かれる予定だったのかもしれない。その世界ですら浮世離れした存在であるアカンサスらの目的が、実は物語で主要な位置を占める現世の謎解き(の必然性)に繋がっている……という点、面白い。
一方の、その現世の謎は、犯罪防止NPOを背景に置いたところに工夫が感じられる。街の正義を守るという肩書きを持つ者、正義という名のもとに行われる独善の演出が巧い。犯罪率は低下しているものの、同時に何か大切なものが喪われてしまっている街。何か全体主義的な社会を見せつけられているようでちょっとした怖さも感じられる。その関係者の連続殺人、主人公の持つ過去と記憶のトラウマといったあたりが絡められ、サスペンスの度合いは高いものの、着地点はかなり早い段階で想像もついてしまうのはご愛敬。むしろ、その最終的に示される犯人の造形に背筋の凍るような迫力を覚え、そちらの印象の方が読了後強く残る。

ライトノベルという形式から逸脱しないなかで、本格ミステリとしての必要条件を揃えた作品。一方で、太田氏がそのライトノベルという形式を活かしはじめているようにみえる部分もあり、興味深い。


06/03/03
柄刀 一「ゴーレムの檻 三月宇佐見のお茶の会」(光文社カッパノベルス'05)

アリア系銀河鉄道 三月宇佐見のお茶会』に続く、宇佐見教授シリーズの第二作品集。本書そのものはカッパノベルスではあるが、講談社『メフィスト』に掲載された短編が二作、光文社『ジャーロ』掲載の作品が二作、それに書き下ろしが一編加わった構成となっている。

騙し絵で有名なエッシャーの後継者が残した絵画。その絵は家族を殺した犯人を告発するという。宇佐見博士は推理を働かせるうちにそのエッシャーの世界に入り込み、そこでも殺人事件と遭遇してしまう。 『エッシャー世界(ワールド)』
自分が爆弾魔であることを告白して自殺したカーリー。彼が遺した最後の謎は一卵性双生児のジェラードを時限毒ガス噴射装置付きの装置の箱に閉じ込めたことだった。 『シュレディンガーDOOR』
宇佐見博士は同僚が書いたというミステリ短編を受け取り読み始める。宇佐見博士自身も実名で登場、悪事をものともせずのし上がった女性の小説のようにみえたが……。 『見えない人、宇佐見風』
一六三〇年代のイギリス。ゴーレムと呼ばれ恐れられた人物が厳重な檻のなかに収監されていた。彼は看守を操り脱出しかけたことがあり、その対立者がゴーレムを恐れていた。彼は再び脱獄を宣言する……。 『ゴーレムの檻』
現代。『ゴーレムの檻』と同様に、太陽を崇める新興宗教教団の幹部が密室に軟禁されていた。そしてその男もまたまんまと密室を脱出したというのだが……。 『太陽神のイシス』 以上五編。

とてもとても奇妙な、そして凝りに凝った。新規性高い本格ミステリーのために全てを歪めて物語を構築する
前作の『アリア系銀河鉄道』もそうだったが、相変わらず(良い意味で)奇妙なことを考える作家だなあ、というのが第一印象。新しい本格ミステリを活かす舞台のために、そのトリックに沿った世界を構築するのはよくある手法だろうが、柄刀氏のこのシリーズに関しては、本格ミステリのため、それだけのために世界の方がぽんぽん作られているのだ。 一般的な論理型の本格ミステリで複数の探偵役がああでもないこうでもないと論戦を交わすかわりに、ある本格ミステリの精神(トリックとは限らないので)がコアに据えられ、その周辺部となる世界の方のルールを「ああいうのはどうだろう」「こういうのだともっと生きるだろう」と作者がいろいろと画策して動かしていく。その作られた世界がまた、本格ミステリのいろいろな主題とも微妙に絡んでいて、いきなり感はあっても違和感がないという点も素晴らしい。
結果的になのか意図されたことなのか、このシリーズは本格ミステリのルールそのものを根本から作り替えてしまうような不思議な印象が伴われる。また、メインとなる「トリック」がそれぞれ素晴らしく、奇想と独創性に満ちあふれている。 小生、あまりトリックそのものを褒めることはないのだけれど、それでも敢えてトリックに注視したくなる魅力があるのだ。広い意味では旧来から綿々と続いてきているトリックのバリエーションにあたるのだろうが、それでもトリックそのものにどこか目新しさを感じさせるのは、本格のど真ん中から動かない作者の立ち位置によるものか。
まあ、いろいろ書いたが、本書における勘所は、巻末の杉江松恋さんによる解説に詳しい。本書の場合、こういった”手引き”がなければ「なんだこれは」で終わってしまう読み物となる側面があるのだ。市井の一般読者が本書を読んだとしても、内容のメタ性、話の飛び方等々についてゆけない可能性の方が高いだろう。単純なエンターテインメントとしての本格ミステリではなく、いろいろな本格ミステリに在り方を踏まえたうえで、それを否定・曲解・敷衍したかたちで生まれた異形の作品集として読まれるべき作品なのかもしれない。ひとつひとつの作品の物語性も(低いとはいわないまでも)、いわゆるリーダビリティは高くない。

本格ミステリを愛し、解する読者のための至高の逸品。逆に考えると、本格ミステリとしての新しさを感じさせる作品ほど一般読者に受けなくなりつつあるという現況がぼんやりと見えてきてしまう。嗚呼。


06/03/02
鯨統一郎「すべての美人は名探偵である」(光文社カッパノベルス'04)

邪馬台国はどこですか?』『新・世界の七不思議』などに登場した若き美人歴史学者・早乙女静香を(一応)主人公とする作品。一応、歴史における謎も主題にはかかわっているが全体的には、陰謀や本格の要素も多く盛りだくさんの内容となっている。

若き歴史学者で自他共に認める美人・早乙女静香。彼女はテレビ出演した時に相手役の歴史教授・阿南と意見の相違から罵りあいになり番組をめちゃめちゃにして自宅謹慎を言い渡される。その早乙女のゼミ生・三宅亮太は慌てた。憧れの彼女と共に沖縄にフィールドワークに行くという夢の計画があったのだ。亮太は自腹を切ってでもとその計画を無理矢理成立させてしまった。一方その頃、学界では徳川家に関する一級の資料が見つかったという噂が流れていた。実は阿南は数千万円はするといわれるその資料を極秘裏に入手しほくそ笑んでいたのだが、その阿南は沖縄の民家で刺殺死体となって発見される。その発見者はフィールドワーク中の早乙女静香だった。一応の疑いは晴れたものの、阿南が持っていたとされる古文書は行方不明。静香は、偶然出会った女子大生・桜川東子らと共に、同じ美人歴史学者である翁ひとみらと手を組み、古文書追跡の旅に出た。

鯨統一郎オールスターキャストが繰り広げるドタバタ長編&歴史の新解釈
『邪馬台国はどこですか?』の早乙女静香は、歴史の新解釈及びアクションを担当し、鉄壁強烈なアリバイ崩し及び”ずいずいずっころばし”という童謡の解釈は『九つの殺人メルヘン』(鯨連作のなかでも一二を争う傑作集)は桜川東子が担当する……という構成がユニーク。鯨氏は他にも多くの探偵を連作ごとに登場させているので、このような試みは素直に面白く感じる。他にも諸作品に登場した人物がちょこちょこと顔を出しており、ファンにとっては待望の作品だといえるだろう。
いつもの鯨流、軽めの文章にて構成される物語は、古文書争奪戦から新興宗教が絡む展開。さらに古文書を追って沖縄や東北といったところにも主人公たちは旅をするなど、微妙に旅情ミステリーの要素も絡む。とはいえ、ある程度の伏線があからさまに張られていることもあり、物語全体に仕掛けられた大きな謎それ自体を見通すことは比較的に容易だろう。細かな部分では、北海道と沖縄で同時に実行された殺人事件という興味深い謎もあるが、そちらは解決編があまりにもあっさりと描かれており、要素の組合せとしてはとにかくオリジナリティ溢れるとはちょっと言い難いか。むしろ、鯨氏のオリジナリティは歴史の新(珍?)解釈部分に発揮されている。特に”ずいずいずっころばし”という歌に、徳川幕府の秘密が隠されている……という点を突き詰めて最後に辿り着く結果については、『邪馬台国』にも通じる面白さがある。
美人コンテストに隠された秘密……という点も謎の一つにあたる。だがこの点に関しては、他の鯨作品にも感じられる微妙な女性蔑視の視線が感じられ、それが物語上の必然であろうと個人的にこの真相部分はどうだかなあ、と思う。まあ、あくまで個人的な印象ではあるのだが。

リアリティを重視する堅物の読者にお勧めする気はさらさらないが、展開のテンポの速さや微妙なユーモアといった鯨作品の軽さを愛する方にとってはかなり面白く読める部類の作品にあたるだろう。数多くのシリーズ探偵を登場させている鯨氏ということもあり、このような試みはまだいくらでも打ち出せそうだ。


06/03/01
行川 渉「ソウ――SAW」(角川ホラー文庫'04)

ジェームズ・ワン/リー・ワネル原作――ということで、'04年に日米同時公開となった映画『SAW』のノベライズ作品。小生、映画の方は観ていないのだが、作品を観た人から凄く驚いたという話を聞いていたので、なんとなくノベライズで手にとってみた次第。

薄汚れたまま放置された、老朽化したバスルーム。そこで二人の男が目覚めた。一人は医師・ゴードン、もう一人はその医師の行動を依頼によって追跡していた男・アダム。二人はそれぞれ部屋の反対側で、足首を頑丈な鎖で繋がれており身動きが取れない。あいだにあるのは頭から大量の血を流してぴくりとも動かない大男。その右手にはテープレコーダーが握られている。果たしていったい何が起きているのか。二人の男たちの服のポケットに入れられていたマイクロテープ。苦労の末にそのレコーダーを引き寄せた二人は、それぞれのテープを再生、声を聞いたことのない人物から「ゲームの開始」を告げられる。ゴードンには午後6時までにアダムを殺せという指令。さもなくば、ゴードンの家族が殺されるという。どうやら彼らは”ジグソウ・キラー”というサイコ殺人鬼の罠に嵌ってしまったようだ。そいつは、自らの手では殺人を下さないが、対象を罠に引き入れてじわじわと死の恐怖に落とし込むという狂気めいた事件を次々と引き起こしていた。かつてゴードンはその事件の容疑者と目されていたことがあったのだが……。

本来の怖さ・厭さのみならず原作の驚きを、非常に巧く再現したノベライズ
《小生は本編となる映画を観ていません。ノベライズのみの評になります》

最近は角川ホラー文庫といっても内容は多岐に渡っていて、ホントにホラー? と思えるようなちょっとした幻想を含むだけの作品から、恐怖はあるけれども単なるサイコサスペンスというもの、そしてこれぞ正統派のホラーというもの等々、なんでもありの状態である。本書も恐怖映画のノベライズであり、内容的にはsupernaturalの要素自体は厳密にはないので、一種のサイコサスペンスだとは思うのだが。ただ、この訪れる恐怖の事態そのものの厭さ、そしてその理不尽さ加減はホラーの持つ感覚のすぐ隣まで来ているように思えた。
そして、ラスト近辺に強烈なショックがある。これは映画でも恐らくはキモにあたる部分だといえるだろう。そのショックを本ノベライズでは実に周到に、そして活字で書かれたミステリにおけるフェアの精神を貫き通したかたちで表現しているのだ。登場人物の内面からにじみ出る恐怖、理不尽な状況に突き落とされた恐怖、一方で第三者的な場面の視点人物として割り振られた刑事タップによる”ジグソウ・キラー”の描写、等々、それぞれの章が語るべきものを余すところなく語っておきながら、それでいて、各々の存在がしっかりと全体の構成に奉仕しているという点、物語のショックとは別の意味でじわりと読者としての驚きを感じさせられた。

実際に映画を観てからいうべき台詞かもしれないが、本書を読んだだけで(あと文庫に幾つか本編の写真が収録されていることもあって)、何か既にこの映画を観てしまったような気がする。若干本編と内容は変更しているとのことだが、大筋での衝撃は本書で味わうものとそう変わらないのではないか。(というか、このショックが最大の売りだとすると、ノベライズでそれを知ってしまうのも不幸なのかな)。