MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


06/03/31
戸梶圭太「さくらインテリーズ」(早川書房'03)

表題作にあたる『さくらインテリーズ』『志木乃が原プリゾナーズ』『神南リベンジャーズ』『新宿サヴァイヴァーズ』の四編仕立てとなっているが事実上は同一の主人公たちが活躍する一長編。早川書房の《ミステリマガジン》2002年7月号から2003年7月号にかけて断続的に掲載された作品が単行本化されたもの。

『北新宿さくら児童公園』に寝泊まりする五人のホームレス。元さいたま市役所職員の山根、元中学校教師の高木、元大手宅配会社の社員の安藤、図書館勤務の鳥越、そして元考古学者ながら捏造問題が発覚してホームレスとなった藤守。それぞれホームレス歴は数年だが、たまたま世代も学歴も知的レベルが似通っていた彼らは自らを「さくらインテリーズ」と呼んで悦に入っていた。そんな彼らが希望がないながらも平和に暮らしていた公園に、一人の闖入者がやって来た。ひとくちでいえばデブのホームレスだ。「さくらインテリーズ」の面々は自らの平和のためにその男に襲いかかり、意識を喪わせる。彼が大事に腹の間に仕舞っていた新聞紙から、尋ね人として彼を捜している家があることを面々は知り、さも保護したかを装って電話をかけた。駆け付けてきたデブの身内から、いろいろ振る舞って貰おうとした矢先、仲間はずれにされかけた藤守の浅知恵が発覚、そのデブを散々に痛めつけたのが「さくらインテリーズ」であることが知られるが……。

一線を越えたあと、さらに一線、もう一線。とことん落ちる人間とその強烈で絶望的で、それでも確実にある未来と
戸梶圭太の作品は、グロテスクな爽快感と現実社会に対する醒めた視点とが同居している――。 「安い」人間を残酷に生々しく描く、トカジ作品において(特に現代を舞台にした場合)ホームレスという存在はある意味不可欠の存在である。そんなホームレスを思いきって主人公に据えたのが本作であり、ある意味トカジらしく、それでいて微妙に異色というような印象がある。序盤のホームレスらしいホームレスから、徐々に作品に勢いが増してゆき、単なるホームレス同士の虚しい攻防をエピソードとする最初の作品から、電波男に拉致された山奥の発掘現場→病院脱出&列車テロ事件、さらには東京という都市を思い切り変貌させた近未来SFへと怒濤の展開をみせてゆく。それでいて本作のコンセプトは序文から判断するに某遺跡捏造の事件を起こした教授にあるというのだから、その発想の多様性は空恐ろしいものすら感じる。
……とまあ、背景をいろいろ想像して書いたものの、中身はやっぱり強烈なトカジ節。 最初五人いた「さくらインテリーズ」の面々を厳しいサバイバル競争に巻き込んで、『新宿サヴァイヴァーズ』に至っては生き残りはただ一人だけ、という展開に持ち込んでしまう。脇役も強烈であり、『新宿…』に至ってはホームレスたちの食料確保を巡る争いや街の治安強化といった面で近未来ホラーの様相すら呈している。物語の内容や背景がころころ変化しても、ホームレスたちに向ける作者の(暖かいとも冷たいとも形容しがたい)視線は一定のテンションを保ってぶれがなく、むしろこれだけ変転を重ねつつも作品としての統一感は他の作品以上にまとまっているように感じられた。
単なるホームレスという状況にある人々ということだけであれば、描きようによってはいろいろなやり方があると思う。ただ、この作品においてはその境遇そのものも、登場人物の一つの付属品としてしか機能が与えられていない。結局のところ他の作品同様「安い人間の怒濤の人生」が凝縮されている結果生まれた異形のエンターテインメントという位置づけになってゆくのだと思う。

ちょっと語弊があるのだが、トカジ作品は読まなければ読まないで別に困らない筈なのに、なぜか次から次へと手にとってしまう麻薬のようなところがある。なんか小生が定期的に手にとっているのは、その麻薬にやられているから(自己分析)。


06/03/30
貫井徳郎「愚行録」(東京創元社'06)

真っ黒い表紙が印象的な単行本。東京創元社の『ミステリーズ!』のvol.09(二〇〇五年二月)から vol.13(二〇〇五年十月)にかけて連載された作品がまとめられたもの。

東京二十三区内。氷川台駅から徒歩十分のところに数軒建てられた戸建て住宅のうち一軒で、サラリーマンと専業主婦、そして二人の子どもの田向家四人が惨殺される事件が発生した。犯人は風呂場から侵入したとみられ、まず主人の田向氏が犯人持参の包丁で刺殺されていた。続いて一階にいた七歳の長男が現場にあった灰皿で撲殺され、さらに二階で就寝中の妻と娘は、田向家の台所にあった包丁でメッタ刺しにされ、やはり殺されていた。どうやら犯人は風呂場で身体を洗って凶行の痕跡を消し、さらに被害者夫婦の衣服を男物女物二着を持ち去っていた。事件発生から一年近くが経過したが、決め手となる手がかりが一切なく、事件の真相は闇の中にあった。そして。
事件の関係者から話を聞きだそうする男。まずは近所の主婦が、そして生前の夫の同僚、そして旧姓・夏原の妻と付き合いのあった人々が次々と彼のインタビューに、彼らの生前の様子を生々しく答えてゆく。そこで浮き上がる人間の「愚行録」とは……?

第三者というフィルターを通した人物像の歪み。ダークな事件の裏側にある更なるダークな被害者の過去は?
全体像があまり詳しく描かれない事件が、その周辺人物から取材する追うルポライターの手でまとめられていくという形式。これ自体は宮部みゆきの『理由』や恩田陸の『ユージニア』などと手法的には近しくもある。ただ、(当たり前だが)本書の作者は貫井徳郎であり、やはりそれらの手法と近いようにみえながらも、それ以上に、独特の工夫を加えている。
本作は、人間の嫌な面を徹底的に描き出し、暗い作品を目指したという作者のことば(どこで聞いたんだっけか)通り、実に暗澹とした内容で、そして極めて具体にその人間の愚かしく生々しい欲望を、生者が死者をエンリョなく語るというかたちによって浮き上がらせている。人間の欲望とはいってもいわゆる「安い」人間のつまらない性欲や支配欲といった欲求ではなく、全般に上昇志向強いエリートたちの、身勝手な欲望である点が独特だ。慶応大学OBを敵に回した? といっていいくらいの内部生・外部生の描写、また早稲田大学独特の泥臭いエリート指向など、現在はどうなのか知らないが、 バブル前後、80年代後半から90年代前半にかけての、二大私立大学の内情が恐ろしく生々しく描かれている。(一応、本書自体はフィクションなのだが、そのアウトラインみたいな部分は、実際に存在したと側聞している、というか同時代に学生時代を送った身としては実際いろいろな類似事例に心当たりがあったりもする)。
そういったインタビュー手法が用いられつつ、夫である田向、そして妻であった旧姓・夏原両名のこれまでの生きてきた姿が第三者的に描写される。だが、もどかしいのは彼らの真実の姿が、本当はどうだったのか手に届きそうでいて決してその真実が分からない点だ。 読者は、その取材された本人以外の口を通じてしか彼らの姿を捉えることができない。だが、そのインタビュー相手にしても、田向や夏原といった存在に対する感情や、それぞれの立場といったものが一定のフィルターとして心の中に持っている。証言が重なるにつれて、殺人事件被害者である彼らの姿はそのたびごとプリズムのごとく姿を変えてゆく……。二人に焦点が当てられていることは間違いないのだが、それ以上に思い出という名のもとにそのインタビュイーたる当人たちまで、思い出の中で自分を美化したり、他の人間に対する印象をゆがめていっている点には注目すべきだろう。つまりその意味で、人間の持つ視点の歪みといった部分もこの作品の重要なポイントの一つとなっているということなのだ。
本編がそういったインタビュー形式で描かれる一方で、「お兄ちゃん」に対する妹なる人物からの独白場面が挿入される。親から強烈な虐待を受けていた彼女は一体誰なのか、そして本編とどう繋がるのか――がミステリとしての注目点。ただ、そこで得られるサプライズは、別のかたちによる究極の”愚行”をもまた描き出すのだ。これが本作の衝撃の最たる部分にあたる。だが、それもまた暗澹とした気持ちを更に沈めてくれるという強烈なタイプとなっている。

慟哭』などでも垣間見えた、貫井徳郎の”ダークサイド”できっちり塗り込められた作品だ。 読み終わっても決してハッピーにはならないし、むしろそれ以上に人間不信のどよーんとした気分になるかもしれない。それでもこれだけの主題を平易なかたちで描き出すことが出来るのはやはり作家としてのセンスの賜物。貴方が貫井徳郎ファンだと胸を張っていえるかどうかの試金石ともハードルとも取れる作品であり、やはりファンであれば必読の書であることもまた間違いない。


06/03/29
荻原 浩「ママの狙撃銃」(双葉社'06)

映画化もされた『明日の記憶』にて第18回山本周五郎賞を受賞し、一躍注目の人となった荻原氏の長編作品。『小説推理』の'05年3月号から'06年1月号にかけて連載された作品に加筆修正が加えられている。

少し気が弱い夫の孝平と、私立中学に通う女子中学生の珠紀、そしてスイミングスクールが大好きな幼稚園児・秀太。福田曜子は彼らの妻として、母親としてマイホームで小さな園芸をするのが趣味という普通の主婦……のはずだった。「リトルガール」と呼びかけてくる一本の電話がかかってくるまでは。夫にも詳細を語ったことはないが、曜子は六歳の時からしばらく、オクラホマに住む祖父のエドのもとに預けられ、米国で育った。銃器社会ということもあって、エドは曜子が小さな頃から銃の撃ち方を教えてくれ、曜子にもまたその才能があった。エドはかつて軍隊にいたが、曜子は薄々、エドが別の”仕事”をしていることを感じ取っていた。そしてそのエドが入院している最中「K」という人物から、エドの代わりに”仕事”をするよう頼まれ、引き受けてしまう。ハロウィーンパーティの日、衣装を着た曜子は凶行を決行。その日から彼女は殺した相手の亡霊に悩まされるようになっていた。長じて日本に帰国後、苦労して暮らすなかで知り合った孝平、そして結婚。過去は払拭した筈であったのだが、再び「K」は彼女に仕事を持ちかけてきたのだ……。

超絶な非日常と平凡な日常とを、これでもか! と対比して、「本当の幸せ」の姿を考えさせる
幼い頃から銃が当たり前の生活を送り、その尊敬していた祖父の仕事を引き継ぐかたちで暗殺までをも経験した曜子。現在、その曜子の周囲にいるのは、外資系による買収劇の結果、リストラ寸前となっている気の弱い夫、私立中学に通い少々色気が出始めたは良いが学校でのイジメに遭っている長女、そして何も知らず我が道を行く幼稚園児の長男。強いママが、その家族を守り抜く話――かというと、そのようでいて本質的には少し違う。
少々話の本筋に触れてしまうが、曜子は暗殺者の指令に怯えつつも、結局、家の窮地もあってある意味お金のために、主婦という立場でありながら再び暗殺を引き受けてしまうのだ。確かに、家族にどこかから害が及ぶよりは見知らぬ他人を殺害する方が楽という選択肢であったかもしれない。だが、かつての自分と今の自分とを対比して、今の方が遙かに喪うものが大きいのに……という読者の危惧をはねのけて、むしろ(少なくとも)準備段階など嬉々としてその緊張感に身を委ねてしまっているようにみえる。この奇妙なサスペンス感覚。 本能と理屈とがせめぎ合う彼女の姿、結局失敗を選択できない彼女の弱み……。確かに、中途では長女の珠紀のイジメを解消するためにすぱっと気っ風の良いところを見せる主人公ではあるけれど、この微妙なアンバランス感覚が引っ掛かる。
ただ、恐らくはそれもまた作者の計算のうちなのだろう。非日常と日常をミクスチュアすることによる精神の混沌。 一見普通の主婦であっても、その裏側には様々な葛藤が渦巻いているという不思議。精神的な弱さを描き出すことで、狙撃は天才かもしれないながら、曜子という人格に大いに弱みを植え付けている。過去の亡霊と戦う曜子は強く、そして弱い。人間誰しもが持つ微妙なエゴを主人公を通じて作者は「本当の幸せって何?」と読者に問いかけているように思えるのだ。確かに設定は非常に突飛ではある。だが、結果的にその設定を通じて「家庭の、家族の幸せとは」という点について繰り返し読者に考えさせる作品である。

とはいえ、単純にスーパー主婦大活躍! という活劇で読むこともできる。主婦ならではの、”仕事”に出向くにあたってのアイデアはミステリー的にも素晴らしい発想であるし、狙撃場所や方法などについても、不可能を可能にするという意味でのすっきり感が味わえる。それでもやはり、これは「家族の幸せ」を問いかける作品なのだよなあ、と個人的には思うのだ。


06/03/28
北森 鴻「ぶぶ漬け伝説の謎 裏(マイナー)京都ミステリー」(光文社'06)

支那そば館の謎』に続く裏(マイナー)京都ミステリーシリーズの第二弾。京都は嵐山の外れにある貧乏寺にしてマイナーな観光名所・大悲閣千光寺の寺男として働く有馬次郎が引き続き主人公を務め、地元マイナー新聞社の自称エース記者・折原 けいと、前作から登場してすっかり居着いてしまったバカミス作家・水森堅(通称ムンちゃん)らが招き寄せる奇妙な事件にケリをつける……というストーリー。

関西と関東の”たぬきうどん”の違いがミステリのネタになるのではないか? 本来作家のムンちゃんが方方にその物語展開を相談して回っていた。 『狐狸夢』
「誰も知らない京都裏案内」という企画を持っていたライターが毒殺された。容疑者には同様の企画を検討していた折原けいの名前が挙がる。 『ぶぶ漬け伝説の謎』
東寺近くの自宅で殺された資産家の男。この男を巡って安井の金比羅さんでは、浪費癖と吝嗇癖という相反する願いごとを書いた札がムンちゃんによって発見されていた。 『悪縁断ち』
大悲閣に備えられたみたらし団子の頭の一個だけが全て抜き取られる事件が発生、折原は殺人予告としてみやこ新聞で一大キャンペーンを張るが……。 『冬の刺客』
ある男が帰宅中、車で疾走する馬をはねたのだという。酔っぱらいの体験談として処理されかけた話に、ある老人が自宅の絵の中の馬がはねられたのだと主張する。 『興ざめた馬を見よ』
スーパーで苦手な白味噌を購入しようとした有馬が、警備員に捕まった。その味噌には「毒入り」と付箋が何者かによって貼られていたのだ。 『白味噌伝説の謎』 以上六編。

京都ならではの事象と美味そうな料理、コミカルな登場人物と意外とブラックな謎解き
基本的な構想というか構造については、前作であった『支那そば館の謎』を踏襲している。表向きは貧乏寺の寺男ながら、かつては広域窃盗犯として活躍していた「裏」の顔をも合わせ持つ有馬次郎。本作はkon's Barのバーテンであり、有馬の「裏」の仕事を知るカズさんという人物も登場し、折原けいやムンちゃん、住職に碇田警部まで加わって登場人物のバリエーションというか豊かさは前作以上になっている。彼らがそれぞれ個性をもって、かつ直接的には登場人物とはあまり関係ない事件のために動き回るため、全体の印象に激しい活気が感じられる。特に、折原vsムンちゃんのハイテンションキャラ同志の掛け合いは物語内でも言及ある通り、上方の夫婦漫才のごときノリとなっており、その絶妙なつっこみに思わず吹き出してしまう場面が多々ある。
また、前作及び北森鴻の一部作品同様に、ちょっとした旬の料理の描写が絶妙。特に奇を衒っている訳ではないのに、小皿に盛られた一品が実に美味しそうにみえるし、事実登場人物の食べっぷり、味わいっぷりがまた素晴らしく良い。料理そのものの描き方自体に工夫があり、旬の食材に一手間かけるというものが中心で、このこと自体が京都らしい(まあ京都に限ったことではないけれど)。特に料理に関しては”作る側”の心遣いがまた込められているように感じられる点も好感だ。
加えて「嵐山」や「ぶぶ漬け」をはじめとした京都ならではの文化・風俗・食習慣などが、各作品にいろいろなかたちで絡められているあたりも、作者の意図と内容とがキレイに一致している点だといえるだろう。
その一方で、謎解きの対象となる事件の方は微妙に落ち着いているというか陰惨というか暗いというか。有馬次郎の「俺」モードとはそれらの事件は馴染むものの、折原・ムンちゃんの夫婦漫才コンビとは事件の印象からして隔絶している印象。その登場人物の空騒ぎと事件の暗さのギャップが大きすぎる結果か、物語から受ける「明」「暗」の印象がちぐはぐになってしまっていて、作品によっては全体のバランスまでが崩れているように感じられるものがある点が少し残念だ。

トータルとしては、本格ミステリの要素よりもユーモアの部分が勝っている。ただ登場人物をもう少し落ち着かせないと、本シリーズは永遠にユーモアの世界に貼り付いてしまい、なかなか折角の「俺」モードと雰囲気が合わなくなりつつある点が若干危惧される。とはいえ、やはり登場人物の描写や掛け合いがお見事で、非常に楽しく読むことができる作品集だといえるだろう。
。 (参考)大悲閣千光寺(ホンモノ)のWEBサイトはこちら


06/03/27
射逆裕二「殺してしまえば判らない」(角川書店'06)

みんな誰かを殺したい』で第24回横溝正史ミステリ大賞の優秀賞・テレビ東京賞のW受賞を果たしてデビューした射逆氏。本書は受賞後第一作(つまりは二冊目)の作品で書き下ろし刊行されている。

ボク、こと首藤彪はエリートサラリーマンだった。しかし、生まれたばかりの息子の死から重度の鬱に陥り、ついには妻が喉を突いて死亡してしまったことに伴い会社を退職。ぼくは、警察は妻が自殺したと断定したものの、何の物証もないその死に疑いを抱いており、彼女が晩年滞在していた伊豆の別宅に居を移すことにした。ぼく自身以前にそこに住んでいたが、その頃からあったトラブル、すなわち手癖の悪いお手伝いや、誤解から関係が険悪となっている近所の住人といった問題はあったが、自炊をしないぼくはレストラン「ROCCA」に通い、そこでの交流を中心に新たな生活を開始した。その店にて、レストランの新しいウェイトレス・中村順子、そして近くのホテルに滞在するという女装趣味の謎の中年男・狐久保朝志らとボクは知り合う。特に外見に似合わず(?)頭脳明晰で観察力抜群という狐久保もまた、ぼくの妻の死について微かな疑問を抱いているようで、色々なことを尋ねてくる。

微妙にして軽妙な文体、変なプロット、そこここのレッドへリングと奇妙なトリックによる、とっても不思議な手触り
孤立した山荘内部で喉を突いて自殺したと思われる妻。どうみても自殺としか思えない状況なのだが殺人が疑われる……というのがメインプロット。別荘地の浮世離れした人間関係や、個々の登場人物の個性が微妙なユーモアを交えて描かれる雰囲気は悪くなく、全体から受ける印象はところどころ強烈に殺伐とした描写があるにも関わらず、不思議と柔らかさを感じる。ただ文体の方を強調するあまりだろうか、主人公の三十四歳のエリートサラリーマンという設定に対し、文体や発言に微妙に幼すぎるような齟齬も感じられる。
「トリックそのもの」については、厳密にいえば、似たシチュエーションのものが、これまでにも数多くあるタイプ。ただ、この文体、このプロット、この流れのなかでこのトリックを使うかっ! というかたちでちょっと驚いた。 勿体ないのは、その驚きに比すると当事者の行動の必然性や理由といったところが、全体的に後付けになってしまっている点。もちろん広義のミステリにおけるサプライズとしては十分なのだけれど、本格ミステリを標榜するに際してはフェアさの面では若干弱い。同様の理由で、妻の事件における真犯人の意外性は凄まじいものがあり、まさかこんなところからから犯人を持ってくるか! と感心はさせられるものの、匂わせる程度の伏線はあるにしても、それまでに決め手にあたる手がかりが提示されておらず、最終的に演繹にて無理矢理落ち着かされているような印象が残る。

また、たとえば主人公が偏愛しているテレビ番組や、そこで取り上げられる事象など、一応レッドへリングでありミスリーディングを狙ったものなのだろうが、結局それらが有機的に活かされていない感じがする(もしかすると次作への伏線の可能性 は残るが)。

なんか否定的なことばかり書いてしまったが前作に引き続き、物語全体が醸し出す、不思議と茫洋とした感覚は、これはこれで好きなタイプなのだ。プロットや構成、そして伏線をもう少し本格寄りに詰めていればもっと評価されそう……というのがとりあえずの感想である。


06/03/25
三崎亜記「バスジャック」(集英社'05)

第17回小説すばる新人賞を『となり町戦争』で受賞してデビューした三崎氏。本書は、第59回推理作家協会賞候補作品(表題作の『バス・ジャック』)を含む、著者の二冊目となる短編集である。

妻が出産で不在のある平日、仕事帰りの私は「二回扉」とつけるよう近所の中年女性から強い注意を受ける。回覧板にあったというが、それは見もせず隣に回してしまっている。 『二階扉をつけてください』
街を見下ろす丘の上からみる夜景。そんななか僕は、僕の家の窓に灯る明かりを双眼鏡で見つめ続ける。 『しあわせな光』
結婚を考えている恋人の薫と、僕自身の記憶とが微妙に重ならなくなってきた。デートの行き先、会話、プレゼント。それらがどうも噛み合わないのだ。 『二人の記憶』
今、「バスジャック」がブームである。一昨年からじわじわと人気を上げたバスジャックはテレビ番組で取り上げられ、乗っ取ったバスで国内一周を果たしたうえで壮絶な自爆を遂げる「黒い旅団」の中継は多大な視聴率を集めた。 『バスジャック』
雨の降る夜。見知らぬ彼女は僕の部屋を訪れて自然に家の中に入ってきた。借りていた本を返すのだという。 『雨降る夜に』
全国の動物園からの依頼で”あること”を引き受けるトータル・プランニング。二十代後半の日野原はヒノヤマホウオウの展示の準備を始めようとするのだが……。 『動物園』
母親が突然家出した。そのことに無頓着な父親に対する堪忍袋の緒が切れた小学六年生の麻美は、父親の手帳を盗み見て母親のいる筈「つづみが浜」の駅まで一人で乗り込んできた。人気のない海岸沿いの道で、麻美は散歩する老人夫婦と出会う。その老婆の方、表情も身体もぴくりとも動かないことが麻美には気になった。 『送りの夏』 以上七編。

不思議な設定が魅力であり、この割り切れなさを突き詰めて、もっともっと邁進して欲しい
のっけから、作者に対する希望を提出してしまいました。
短編集。意図してのことなのかそうではないのか、全て『小説すばる』に2005年2月号から9月号にかけて毎月掲載された作品にもかかわらず、作品の雰囲気がバラバラなのだ。「南都」「東都」という地名がかろうじて共通するものの、登場人物はもちろん、その背景となるパラレルワールド的な世界がものの見事に全て異なっている。一冊で見極めるのはもちろん暴挙だろうけれど『となり町戦争』と合わせ、少しずつ三崎亜紀という作家が見えてくる。(ああ、錯覚かもしれませんよ、当然)。
個人的にはやはり、いわゆる不条理小説というのか、SFとも微妙に違った、むしろパラレルワールド風で作者独特のファンタジー世界を体現している作品に魅力を感じた。表題作の『バスジャック』は、バスジャックが合法化され独特のその価値観を社会の方が許容するという不思議な世界を描いており、(協会賞を獲るには)ミステリ度が若干不足しているとはいえ、その世界観ともども一気に読ませてくれる作品であった。また、擬態を職業にしてしまう『動物園』でみられる、独自の世界の独自の職業であっても、普遍的な仕事や人生の悩みを描き出すあたりにも好感。また巻末になる『送りの夏』は、多少読者を泣かせようというあざとさが見えるものの、見えそうで見えない設定の描写と、主人公の少女のパワフルな魅力が物語を引っ張っており、しみじみと夏の終わりを感じさせてくれる逸品であることは間違いない。
他の作品については、設定そのものへのこだわりこそあるもののどちらかというと普通の恋愛小説や青春小説のテイストが強い。こちらはこちらで決して悪い作品ではないし、読んでいるあいだはそういった小説特有の魅力をきちんと感じさせてくれるのだが、裏を返すと”三崎亜紀”でなくとも、こういう作品は得られるようにも思われた。やはり先に挙げた作品群のように不条理な世界をベースに、プラスアルファの余韻を残してくれるのが、三崎亜紀の持ち味のように(少なくとも現段階では)思うのだ。

アイデアも豊富で小説としても巧みで、文章にしてもところどころに「はっ」と思わせる美しさがある。既に着実にその地歩を固めつつある三崎亜紀ではあるが、いずれもっと広く読まれる作家になるのではないかと予感した。(なんか短編作品『バスジャック』については伊坂幸太郎の物語感覚に近いものを感じたが……、これは気のせいですかねえ)。


06/03/25
多島斗志之「離愁」(角川文庫'06)

多島斗志之氏は、文庫化の際に(単行本化の際にも)題名をかつてのものと思い切って変更してしまわれるケースが多く、本書もまたそういう作品。もとは『汚名』として2003年に新潮社より刊行された作品。さらに元の作品は2001年から2002年にかけて『小説新潮』誌に連載された作品でもある。

五十代になる小説家の”わたし”は高校時代、従姉の美那と共に叔母の藍子に毎週一回ドイツ語を習いに行っていた。練馬の下石神井でひとり暮らしをする叔母は服装に頓着せず、無愛想だった。今では母が叔母に金を渡すために我々を利用していたことが判る。叔母は何度か講義を無しにしたあとに辞退を申し出てきたが、その直後通り魔に刺されて入院していた。その後、五十一歳で亡くなった彼女に、わたしはとある講演で知り合った女性から聞いた話をきっかけに大きな興味を持つようになる。美那によれば、叔母がその頃、男性と一緒にいるところを目撃していたのだという。実家に残されていた藍子叔母の遺品から手紙を見つけたわたしは、その人物が兼井欣二という人物だったことを知る。彼からの手紙にはチュンさんなる人物の名前があったが居ても立ってもいられなくなったわたしは、舞鶴でその兼井の遺族と出会う。甥という人物から、兼井の〈手記〉を入手したわたしは、戦時中に満州にいた兼井の生活内容を知ることになる。そこに登場しているのが中原滋という人物であり、叔母とも深い関係があったことが判明した。

一世代後の人間が探索するからこそ明瞭に見えるある時代の歴史、そしてあまりにも深い愛の物語
ひとことでいってしまえば、戦時中を生きたある人物の隠れた過去を探る物語でしかない。確かにその人物、単なる静かで孤独な人物だと思われていたのだが、その関わった人々を通じて意外な歴史の深部に関わりを持ってはいる。持ってはいるのだが、やはり地味、そして実に地味な物語のはずなのだが……、引き込まれるようにして読まされる何かが本書にはある。
抑制の利いた、落ち着きをもった五十代の大人が主人公。既に亡くなった叔母のことをふとしたきっかけから思い出すことになり、その隠れた過去を作家という職業柄何の気なしにトレースしてゆく。そこには叔母の関わった別の人物が現れ、叔母はその男性に心惹かれてゆくのだ。……うーむ、書いていて何が面白いのか判らないな。ただいえるのは、主人公が、叔母の人生に深い興味を持つのと同じくらいの速度で、読者が物語に引き込まれていくということだ。静かに語られる(あばかれるのではなく)、彼女のそして彼女が命を賭けて愛した恋人の姿。一連の流れのなかに、主人公自身までもが思わぬかたちで組み入れられる不思議。そしてその結果、もたらされる一つの謎……。
人間捜しというハードボイルドの基本形を使用しながらも、実際の日本の歴史を丁寧に絡めることで物語に厚みが加わっている。そして叔母という人間がほぼ見えたと思われるところで、一つの引っ掛かりが巧みに残され、その気丈な筈の叔母の熱烈な生涯が更に強調されるという仕組みなのだ。ラスト数行が持つ意味、そしてその哀しさは、また前半部の彼女の晩年の生き様と重なって読者の胸に熱い何かを呼ぶ。地味という言葉を裏返した落ち着き、そして戦時中の波乱と対照的な静謐さこそが、物語自体のストーリー性以上に作品のエンターテインメントの度合いを高めている。実に不思議な作品である。

多島ファンであれば『汚名』が刊行された際に既に読まれているであろうし、この静かな大人のエンターテインメントは果たしてこれから誰に読まれるべきなのだろう? 多島斗志之の持つ幅の広さは実に驚異的であり、そして素晴らしい……と、とりあえず。


06/03/24
松尾由美「いつもの道、ちがう角」(光文社文庫'05)

近年では『雨恋』がスマッシュヒットとなっている松尾由美さん。本書は(そのムーヴメントに乗った訳ではないでしょうが)『小説宝石』『別冊小説宝石』誌を中心に一九九五年頃から二〇〇五年までに発表されたノンシリーズの短編七編がまとめられた文庫オリジナルの短編集。解説は西澤保彦氏。

三十代後半の会社員・若村はイレギュラーな工業製品を集めるのが趣味。その若村に興味を覚えたOLの真世は……。 『琥珀のなかの虫』
幼稚園児の和之が麻疹で高熱を発した。和之はうなされて何故か言葉すら覚束ない二歳頃に見た光景を口にするのだが……。 『麻疹』
高校二年・演劇部所属の美夏は公園で画家の江崎と知り合う。その江崎が何者かに襲われ怪我をしたことを知った美夏は病院に見舞いに訪れる。 『恐ろしい絵』
一〇六号に住む資産家の須崎夫人に招かれた二〇六号に住む主婦。そのティー・パーティーにはマンションの縦一列の部屋の住人が招かれていた。 『厄介なティー・パーティー』
ぼくの住むアパートの裏に気になる家がある。生垣越しに気になる顔を見かけた僕はそれ以来、その家が気になって仕方がない。 『裏庭には』
講演会に招かれ、事情から仕方なく息子連れで出向いたわたし。その講演に絡み、複数の団体がその地にあり、翌日ある団体が催すイベントに出向いたところ……。 『窪地公園で』
夫が海外に出たため引っ越したばかりのマンションで退屈している主婦。ある偶然から質屋に入ってしまいあるネックレスを衝動買いするのだが……。 『いつもの道、ちがう角』 以上七編。

宙吊りなのか納得なのか。予想のつかないオチが並ぶ不思議なファンタジー・ミステリ集
解説の西澤氏が本書についてまとめるくだりで非常に適切な言葉を抜き出している。なんだかよく判らない、けど判るような気がする どうも、これがこの作品集の不思議さをまとめた言葉として適切なような気がする。シチュエーションも主人公もばらばら、(作品には無関係かもしれないが)執筆時期・発表時期もばらばら、物語それぞれの長さすら微妙にばらばら――と、本来であれば統一感のない作品集になるところ、どこか通底する感覚があるようで読んでいるあいだずっと引っ掛かっていたのだ。だが、結局そういうことか。
最後の一文で読者をくらーーーーーい気持ちに引き入れる本格ミステリ風の作品もある。本書でいえば『琥珀のなかの虫』『厄介なティー・パーティー』といったところか。ある謎に対して答えが明示されているわけではないが、文脈や流れからみてある事実を「読者に想像させる」タイプのもの。一方で、読者の想像をこれまた見事に裏切ることで惑乱させてくれる作品がある。当然の結末に至らない『麻疹』、なんだか目的外のところでハッピーエンドを迎えてしまう『裏庭には』などは、「透かす」ことで読者の期待を裏切り、そのおかげで余計に印象に残る作品となっている。また、他の作品にもさりげないながら微妙にSF(ないし強烈なフィクション)の要素を物語内部に引き入れているため、読者にその結末を読ませない作品もある。『窪地公園で』、表題作である『いつもの道、ちがう角』といったところは予感はさせてくれるものの、結末を読み切れないという点で共通しているように思われる。
なので、作品毎の読後感が微妙に異なる。予想が裏切られ、かつ真相がはっきりしない「宙吊り」感覚の作品、予想外ではあるが物語自体の結末を暗示する「納得」度の高い作品。ただ、納得度が高いといっても、それが本当の真実なのかは、読み返してみてもその証拠がきちんと示されていない点がまた、かえって特徴的なのだ。
こうやって作品毎に改めて振り返ってみるに、作者の発想のバリエーションと物語作りに対する職人芸的なこだわりが感じられるのだ。読者の期待を良い意味で裏切り、ミステリともSFともつかない微妙な境界上に作品を配する――。これって長編含む松尾由美作品全体のこれまでの系譜とも微妙に重なるように感じられるのだ。

小生などからすれば、松尾由美さんといえばやはり代表作は『バルーン・タウンの殺人』をはじめとする一連のSFミステリのように思うのだが、その裏側には実に多くの引き出しを兼ね備えておられる点を再確認。短編集としての微妙なまとまりの無さこそが、松尾由美さんの才能というか方向性を示しているような気がしてならない。


06/03/23
太田忠司「巴里人形の謎」(祥伝社NON NOVEL'96)

太田忠司氏の代表的なシリーズの一つ「霞田兄妹」が探偵役を務めるシリーズの五冊目にあたる長編作品。書き下ろし刊行されているが、それまでの四冊は文庫化されているが本書以降は初刊本(ノベルス版)しかない。

兄妹揃っての原稿の締切に徹夜明けとなった霞田家に志郎の高校時代の友人・鶴田苺子が訪ねてきた。彼女は八月三日のことを相談しにきたのだという。彼らの高校時代の文芸部の仲間で、若くしてパリで客死した天才人形作家・沖村嶺、同じく友人の牧がその沖村の評伝を書き、その出版記念パーティを行うのだという。しかし、沖村の死には奇妙な噂がつきまとっていた。彼はパリで首吊り自殺をしたのだが、その現場では赤いドレスの人形が階段を上ってゆく姿が目撃されていたのだ。出版記念パーティ当日、兄妹揃って出席した霞田兄妹だったが、沖村の人形の蒐集、牧と文芸部仲間の鞠子との結婚等々、関係者の様々な思惑が飛び交うことに辟易とさせられて帰宅する。翌朝にかかってきた一本の電話、それは牧の死を告げるものであった。牧はあたかも血染めのナイフを持った人形に刺し殺されたかのような様相で発見されたのだ……。

精巧な人形の持つ雰囲気と、追憶とが微妙に混じり合い、一般的本格ミステリ以上の叙情が響く
霞田志郎自身の事件といって差し支えないだろう。十年前とはいえ、本人と密接な関係のあった友人たちが被害者であり、容疑者であるという事件の謎解きが彼に課せられる。ただ、その十年近い年月が、結果的に高校時代に彼らのあいだにあった純粋な関係をさまざまなかたちで歪めてしまっているところが何とも哀しい。名探偵を義務づけられた登場人物にこのような役割が振られるのは、シリーズとなってしまった以上いつかは仕方がないことかもしれないが、その結果得られる霞田兄妹の人間味を太田氏は巧みに演出している。
また、人形(と、ひとくちでいってしまうといろいろあるのだが、芸術作品に近いところを考えるべし)を、ミステリの中心に据えた結果、独特の幻想的な雰囲気が高まるところも魅力的だ。さすがにミステリの読者は、人形が殺人を犯したというようなオカルティックな発想はしないだろうけれど、本書の場合そのモチーフを繰り返し描くことで、自殺した沖村嶺という人形作家のカリスマ性を高めているような印象があり、全体を通じて精緻な人形が発する独特の不気味さ(やはり幻想性というべきかも?)が違和感なく作品内部に浸透している。
ただ、幻想味が強調されるのも解決編が始まるまでのこと。そこからは幾つもの手掛かりが実はそれまでの記述のなかに隠されていたことを読者は知らしめられ、それらが積み重なった論理が鮮やか。さらに真犯人の意外性も高いのだが、それもまた容疑者足り得る人間を”嫌な奴”として描くことに長けた太田氏ならではのセンスだといえるだろう。

シリーズ中途の作品につき、微妙な人間関係(霞田千鶴と刑事・三条とか)については判りにくいところも多少あるが、ミステリとしては本作のみ読まれても十二分に楽しめる内容となっている。人形に興味のある方ならば、さらに楽しめる作品なのではないかと感じられた。


06/03/22
綾辻行人「びっくり館の殺人」(講談社ミステリー・ランド'06)

法月綸太郎の『怪盗グリフィン、絶体絶命』と共に刊行された「講談社ミステリー・ランド」の第9回配本分。ミステリー・ランド、即ち一応はジュヴナイルの体裁ながら、これまで綾辻氏の代表作として数えられる「館シリーズ」に連なる作品となっている。これがまず「びっくり」だといえるだろう。

学生街の片隅にある古本屋。一冊の本を手に取ったぼくは鹿谷門実なる人物の著した『迷路館の殺人』という本を手に取った。その著者近影にぼくは見覚えがあり、読み進めていくうちに中村青司という聞き覚えのある人物の名前が登場することに気付いた。インターネットで調べてみたところ「びっくり館」もその一連の事件に含まれることが分かった。一九九四年十二月二十五日。「お屋敷町のびっくり館」で確かに殺人事件が発生している。そしてぼくもその場に居合わせたひとり。その事件とは――。ぼく、こと三知也はふとしたことがきっかけで色々な噂が囁かれる「びっくり館」という屋敷に足を踏み入れるようになる。その屋敷の人々は排他的で、いろいろな噂が町の人のあいだで交わされていた。しかし、そこには頑迷な性格の白髪の老主人、そして内気な少年トシオ、それからちょっと風変わりな人形リリカがいた。クリスマスの夜、「びっくり館」に招待された三知也たちは、<リリカの部屋>で発生した奇怪な密室殺人の第一発見者になった。それからも殺人事件の犯人は未だに捕まっていないというのだが……。

館シリーズよりも囁きシリーズに近い? 異形の館のなかでもかなり異形度の高い作品に仕上がった
まず、ミステリー・ランドというレーベルに発表する著者初のジュヴナイルに対して、「館」という綾辻行人のアイデンティティともいえるシリーズ作品をぶつけてきた点は非常に興味深い。深読みすると、このシリーズの定価が高いこととか、年少読者の入り口として自作を持ち込んだだとか邪推はできるだろうけれど、恐らくそれは正しくない。現在の綾辻行人の創作における方向性が単純にこの作品で出たと考えるべきだとまず思う。
前作にあたる『暗黒館の殺人』にしても、その傾向は顕著にあった。確かに最終的に本格ミステリとしての数多くの謎に解決がつくのであるが、特に上巻における怪奇趣味が横溢した展開には、どこか本書にも重なる傾向が見え隠れしているように思われる。本書の場合、語り手(視点)が小学生ということもあり、その怪奇性、解き明かそうにも真実にたどり着けないという壁は他の「館シリーズ」以上に高い。従って、幻想的な雰囲気が全体を覆ってしまうのも、その視点からみた怪奇現象が強調されるがゆえ。この結果醸し出される不条理さ、幻想感覚といったところが結果的に最近の綾辻氏の傾向と重なるような印象を受けるのだ。これはジュヴナイル特有の、例えば乱歩少年物などにみられる子どもからみた大人の不気味さといった感覚に近い。ただそういった旧き良き少年向け探偵小説と同様、子どもゆえの悲劇、他人の家に干渉できない非力さ、自分自身の無力さといった点を強調して、微妙に読者の共感を喚起させるあたりはやはり巧み。
密室殺人事件――が確かに作品のコアに存在する。ただ、本書においては”読者”vs”作品”の対決姿勢が意図的にか避けられている。 (たぶん、食い足りないという読者はこのあたりがご不満なのではないか)。前例あるトリックに綾辻流の○○トリックを絡めた展開はサプライズを呼ぶというよりも、奇妙な納得感のみを残す。読者の推理を前提とするよりも、可能性の隘路を辿った結果辿り着いた結末というイメージに近い。なので、そのサプライズの本質にしても、論理で打ちのめされることによってもたらされるものではなく、あくまで物語の秘密に触れたことによる驚きなのである。さらに、この作品の着地点でないことは読了した方ならお判りの通り、その密室殺人のトリック(真相)が明かされること自体が、現代の”ぼく”が迎える物語最後のエピソードへと繋がっていくのだ。むしろ、作者はそこで得られる余韻を重視したのではないか。最終的にどこか割り切れないまま物語は結末を迎える。この読後感は、これまで「館シリーズ」で感じられたものとは隔たりがあり、むしろ「囁きシリーズ」などと近いように思うのだ。

そもそも本書の「びっくり館」の事件が発生したのが一九九四年。館シリーズ全盛期の頃と重なる点は意味深だし、ほか中井英夫の『虚無への供物』を意識したかのような記述も散見される。(前作で『黒死館殺人事件』が意識されたいたようにみえることと何か関係がある?) 色々な意味での奥行きが感じられる作品でもある。いずれにせよ館シリーズが全十冊だとすると残り二冊。果たして揺り戻しがあるものかどうか、興味は尽きない。


06/03/21
二階堂黎人「聖域の殺戮」(講談社ノベルス'06)

微妙に唐突感とともに講談社ノベルスにて刊行された「宇宙捜査鑑《ギガンテス》」シリーズの第二長編。このシリーズはe-NOVELSと徳間デュアル文庫で刊行された『宇宙捜査鑑《ギガンテス》』が第一作にあたり、本書はそこから主要登場人物と設定を全て引き継いでいる。

ミッカーサ82星雲に発生していた怪光現象の探索にあたっていた宇宙捜査鑑《ギガンテス》に対し、突如第322宇宙基地への帰還命令が下された。全乗組員が特別捜査官という資格を与えられ、特殊任務に就くことの多い《ギガンテス》は当然その指示に従った。背景――宇宙連邦は構成ベニデイ系の惑星ヒョウシンに住む氷電人に申し入れ、その近くにある惑星バルガを植民地として開拓しようとしていた。太古にヒョウシンを訪れた別の宇宙種族が、バルガは大変危険な星だと警告していた関係で、氷電人の宗教上、その星はこれまで立ち入り禁止の措置が取られていたのだという。ようやく開発を行うための人工衛星を設置し表面を観察、宇宙連邦により人類居住可能の惑星にする計画が発動された。バルガは一向に変化を見せず、氷電人と地球人ほか研究団が上陸したところ彼ら全員変死を遂げてしまったのだという。一名は明らかに巨大な何かで殴殺された結果だったが、他は頭部と手足を除く胴部だけが喪われたかたちでのバラバラ死体となって発見されたのだ。果たしてこの星では一体何が起きたのか。バルガに住む”怪物”とは一体何なのか。この謎に《ギガンテス》のメンバーが挑む。

読みやすさは改善されているものの、作品そのものは本格ミステリより一気に離れ、SFに大きく傾いた
前作の『宇宙捜査鑑《ギガンテス》』では、プライドの高い星で発生したバラバラ殺人事件が描かれ、それが二階堂氏らしい本格ロジックにて解決されていた。ただ、その設定が初物ということもあり読者側としてついていくのがしんどく、どこまでが”有り”でどこまでが”無し”なのか読了してようやく判定できるという問題があった。
一方、二作目となる本作、ゲハゲハいう相手星人が登場せず、主人公格のシュトロム中佐は相変わらずとして、その恋人のミャルル少佐の唸り声がかなり控えめになっており、まず会話文全体が格段に読みやすくなっている点がまず特徴。(本作からこのシリーズに入った方はそれでもまだ引っ掛かるかもしれませんが) また、設定についても二冊目ということにより、前作から引き継がれているものが多く、科学的にここまでが「有り」の線引きが比較的容易に判断できるように感じられた。(もちろん100%という意味ではないけれど)。前作から引き続きとなる登場人物の性格にしても各人種(宇宙種族)の差異などにしても、慣れというか記憶があるため容易に理解できたことは大きい。
ただ、残念なのは今回の舞台となる星系に関する発想が大きくSFサイドに転換しており、不可解な事件含め、どちらかというとそのSF的な設定の方によりシフトしている点か。惑星バルガの正体や、この事件の真相、こういった謎は事件そのものではなく、物語内部で提示されたSF世界の独自性を強調している。残念と書いたが、これはあくまで本格ミステリとしての視点であって、SFとしてはこちらの方がより完成度が高い方に向かっているものだと推察する。(SFの方面は詳しくないので)。ただ、SFとはいってもいわゆるスペース・オペラの系譜に連なる作品であり、現在発表されている一般的なSF作品群との単純な比較は無意味かもしれない。あくまで「独自の路線」としかいいづらいシリーズなので。

ただ時期的な意味合いで(前作でも書いたが)「今なぜスペオペ?」という疑問はどうしても残る。とはいっても恐らく二階堂氏のことであるから、今後もこの世界観を確立したうえで、これまで世界中の誰もが書いたことがないような前作以上のインパクトをもったスペース・オペラ本格ミステリを打ち出すおつもりなのであろう。