MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


07/02/10
西尾維新「化物語(バケモノガタリ)(下)」(講談社BOX'06)

講談社の新レーベル”講談社ボックス”の第一回配本にて刊行された『化物語(上)』の下巻。上巻の翌月に刊行、完結となっている。(西尾氏はこの翌月より12ヶ月連続刊行の『刀語』シリーズを刊行開始するわけで、講談社BOXの屋台骨を支える作家だといえよう)。

怪異の専門家にして根無しの放浪者、そして阿良々木暦と戦場ヶ原ひたぎと神原駿河らの恩人でもある忍野メメからの依頼で、阿良々木は神原と共に山の中にある神社に向かっていた。荒れ果てたその神社にお札を貼って欲しいのだという。その神社の境内に向かう途中、一人の少女と彼らはすれ違った。彼女は境内で蛇を切断していたらしい。そして阿良々木は、その少女が妹の友人である千石撫子であることを後から思い出す。その千石撫子には蛇が取り憑いていた。 第四話『なでこスネイク』
阿良々木の同級生にして優等生・羽川翼。春休みに阿良々木は彼女に助けられ、そしてゴールデンウィークに羽川は怪異に出会っていた。彼女はその一連の記憶を忘れていたはずなのだが、最近再び頭痛を訴えるようになっていた。彼女に取り憑いている猫がまた現れようとしていた。そして忍野メメが姿を消し、忍の姿が消える。常に阿良々木の側にいた”委員長”羽川の本心は……。 第五話『つばさキャット』

超絶”会話エンターテインメント”。微妙な男女関係でのノリツッコミの絶妙さ加減を堪能せよ。
先に(上)を読んだ時にも書いたことだが、主人公・阿良々木暦と登場する女性陣とのピンポンのような会話が実に楽しい、というか抱腹絶倒。 電車内で読んだのだが人前でなければ声を出して笑いたいところをひたすらに押し隠してにやにやしていたので、周囲からは間違いなく変な奴だと思われたに違いない。特に序盤、本命の恋人である戦場ヶ原ひたぎを差し置いて、神原駿河と二人デートらしき状態で山に向かう阿良々木との会話の破壊力には凄まじいものがある。会話だけでなく内心の独白で会話自体に突っ込みをかける主人公が面白いのだが。
会話文が主体で構成される物語というのは得てして読み飛ばしがちになるのだが、本作に関してはその会話の部分こそが「キモ」であり、丁寧に(とはいっても”丁寧”が普通の意味とはちょっと違うかも)味わいながら読むしかない。なので意外と読書に時間を要した。ただ一方で、ストーリー上の個別テーマである怪異であるとか、その怪異に対する降伏の方法であるとかへの工夫にはそれほど力を注いでいない(ようにみえる)ため、物語としての流れというか、ストーリーによる起伏はむしろ小さい。西尾維新の諸作品にしては珍しいというか、極めて一般的な伝奇ものの手法を踏襲しているようにみえるのだ。
バケモノをテーマにしているとはいいながら、作品から醸し出される味わいは恋愛コメディのそれ。怪異よりも恋愛部分(実にフィクショナルであり妄想的ではあるのだが)に多くの比重が割かれた作品だといえるだろう。本作前半ではあまり比重が置かれない本来のヒロイン戦場ヶ原ひたぎが、ラストに到るまでにやはり別格の存在感を醸すあたり、その恋愛コメディとして非常に巧みに感じられた。

ただ――そうはいっても(あくまで小生の知る限りでは)他に類を見ない”会話エンターテインメント”作品である。読者として、お年を召した年齢層の方にまで合うとはさすがに言えないけれど、一定(というのは具体的に何歳なのかは言葉を濁させていただくが)以下の年齢層の読者にとっては大きくウケるのではないだろうか。


07/02/09
鯨統一郎「オレンジの季節」(角川書店'06)

読み終わってから気付いたが、同じ角川書店から文庫書き下ろしで刊行された『あすなろの詩』の続編にあたる作品。「平和の章」と「殺戮の章」がある……というのが最大のヒント。

ベビー用品販売会社に勤務する立花薫は、以前から交際していた一つ年上の上司・戎怜華に朝礼でいきなりプロポーズをする。課長の怜華もその場でOKの返事を出すが、一つ条件が付けられた。結婚しても良いが、男性である薫の方が家庭に入って”専業主夫”になって欲しいというのだ。会社での評価も怜華の方が高く、生涯賃金も高いことなど計算し尽くされた結果であった。薫にもいろいろ悩む部分はあったものの、最終的にその提案を受け入れる決意を固めた。主夫として婿入りする戎家には、怜華の両親と認知症気味の祖母、更には女優を目指す怜華の姉と大学生の弟、高校生の妹がいた。怜華の父親は保険会社のエリートサラリーマンで、また母親も市役所で助役をしている。主夫をするという薫に対し男性陣はあまり良い顔をしなかったうえ、薫自身決して家事を得意としていた訳ではなく、最初は失敗ばかり。近所の人の視線も何かと厳しいなか、試行錯誤の生活がはじまった。家族それぞれに事情があり、様々な事件に巻き込まれる薫も何とかそれを乗り越えてゆく。しかし、この家庭に最後が迎える結末とは……?

ある意味カタルシス、ある意味むちゃくちゃ。この衝撃は笑うトコか怒るトコか?
旧来の固定観念である「結婚したら女性は仕事を辞め、家庭に入ること」を逆転させてしまう「専業主夫」が出来るまでをコミカルに描いた作品――というのが大半を占める。鯨統一郎作品の特徴ともいえる、ごくごく軽めの人間描写がこういった家庭問題を扱う作品に合うのかという危惧もあったが、かえって相性が良いようで軽快なテンポで物語を進める方に寄与している。複雑な家族関係や、家族それぞれが抱える問題という部分についても、実際は深刻であっても何か「大したことない」ようにみえるのだ。実際のところは、男性が専業主夫となること以上に「家族」という共同体のなかに結婚によって婿入りしてきた「異物」たる主人公が、生活習慣の違いに戸惑ったり、ちょっとした意地悪に苦しめられたりといった、それが男性であっても女性であっても結婚&同居においては必然的につきまとう事態をコミカルに描いているともいえる。(つまりは主夫である必然性もあるような、ないような印象を受けた)。
ただ、『あすなろの詩』を読まれた方であればお判りのように「殺戮の章」にてこれら積み上げた内容は全て破壊される。この短い紙幅のあいだでよくぞまあここまで。まあ、ごくごく不自然なかたちで伏線はあったがこう来るとはちょっと想像出来ないし、想像できる人はちょっと変かも。あと、『あすなろの詩』では主人公を務めた甲斐京四郎が新人刑事として再登場。移川蘭なる女性も登場するが二人の活躍する場は限られている。(というか彼らは見届け人でしかないわけだが)。まあ、本書を語るためにはこの部分に触れなければならないのだけれど。まあ、ミステリでいう謎解きなどでもたらされるサプライズとは意味が違う、物語の文脈という流れをぶちこわすというタイプな乱暴なサプライズがラストに待っている。というか、そうとしかいえんがな。

とにかく”変”なエンターテインメント作品がお好きの向きは、本書に狂喜されるであろうし、まっとうな読者は怒り出すかもしれないというキワモノエンタ。 それなりの覚悟があって読むのであれば止めませんが。普通の意味で感心できる作品ではなく、普通ではない意味で妙な感心はしてしまう作品。しかしよくこれが許されるものだと。


07/02/08
北森 鴻「写楽・考 蓮丈那智フィールドファイルIII」(新潮社'05)

異端にして明晰、そして美人にして酷薄(?)の民俗学者、蓮丈那智を探偵役としたシリーズ短編集三冊目。『触身仏』の最終話にて登場したアイドルを双子の妹に持つ佐江由美子もレギュラーとして定着、もう一人の助手・内藤三國と共に事件に巻き込まれてゆく。『小説新潮』平成一五年一〇月号から平成一六年一二月号までに発表された作品がまとめられたもの。

蓮丈那智の講座に落第点が付かないという御守り代わりに使用される内藤三國の写真。そんな奇妙な都市伝説が東敬大学に流布していた。そんな噂を後に三国と由美子は那智の命により、南アルプス山麓にある旧家・火村家を訪問する。この家に代々伝わる御守り様なる人形を調査する筈だったが、先方身内の邪魔が入る。更に翌日、人形が無くなり、無惨な状態で発見されたかと思うと屋敷の主人がまた殺害されるという事件が発生した。 『憑代忌』
地震によって誕生した湖の底に神社らしい遺跡が発見された。村の関係者の在野の民俗学者・林崎が発見された鳥居にかこつけたレポートを執筆していたが、それは三國からみてもこじつけに思える。更なるヒントを求め那智が旅だった後、「鳥居以外の遺跡が見つかることはないだろう」とのコメントに激怒した林崎が怒鳴り込んできた。 『湖底祀』
東敬大学の教務部主任は、以前は那智と同様にユニークな発想を持つ民俗学者だった。那智とその彼がかつて取材した九州の御厨家では三年に一度、広大な庭園に築かれた塚の上で神像を燃やす儀式が行われていた。かつてその取材時に、その家の執事が殺される事件が発生していたのだ。 『棄神祭』
式直男なる人物が発表した『仮想民俗学序説』は非常に大胆な発想がベースの異端論文だった。那智は四国にあるその式家に古文書を見に出掛けていたが、三國・由美子にも招集が。しかし那智訪問の前に式直男は失踪。丁度、親戚の若槻涼子が様子を見て欲しいと依頼したところだった。例の論文が関係するかと思われたが、実はその論文の執筆者は三國たちの身近にいる人物であることが判明、式氏の行方は杳として知れない。 『写楽・考』 以上四作品。

ありとあらゆる事象の起源と結果の考察。民俗学と殺人事件との二重写しの論理
蓮丈那智先生は民俗学者だが、果たしてその分野の何が専門なんだろう……? と思えるくらい各方面にテーマが毎回飛んでいてそれでいてそのいちいち取り上げられる民俗学のテーマがオリジナルでありながら深い。 この深みがなぜ現れるかという理由を考えるに、フィールドワークの対象が基本的に架空のテーマでありながら(架空ですよね?)、その対象に対するアプローチが現実の民俗学の知識を背景に、分析の方法論・理論が”架空のテーマ”であることを忘れて実に真摯な態度で為されているからにみえる。先に結論ありきかもしれないけれど、事物の存在に対する考察、そこからの想像の飛躍や論理の帰結に隙が少ないのだ。
また、フィールドワークの際に必ず発生する殺人事件。このからくりもまた常にお見事。『憑代忌』など短編としてあっさりまとめられているが、偶像が破壊され、主人が殺害されているというこの事件など長編を支えきれるだけのプロットと内容を持っている。他の作品にしても、アイデアが贅沢に盛り込まれていてミステリとしての興趣も深い。特に動機面が、事物に対する民俗学の侵犯が密接に絡んでいるケースが多く、人間の欲望や保身といった感情が不自然でなく存在している点もポイントだろう。
それぞれ読みどころがあるのだが、本書の圧巻はやはり表題作である『写楽・考』。ぎりぎり終盤に到るまで写楽なんて一つも出てこないなか、民俗学の学説、その作者名の人物の失踪、その家にまつわる謎……ときびきびと展開していくストーリー展開が巧み。また真犯人の持つ底知れない悪意とその犯人と対決する那智の颯爽とした姿も印象に残る。決して探偵として登場しているのではないのに、謎を解決する役目を負った彼女・蓮丈那智は、やはりその冷徹な言動・視線によって犯人ときっちり対決してくれた方が格好いいと思うから。

民俗学の面白みだけでも作品を構成できる実力が作者にあるのに、そこに刑事事件の謎を過不足なく塗り込め、それでいて一つの作品にまとめあげている。この両輪からの「謎解き」を見せつけられるこのシリーズ、面白くないはずがない。シリーズ三冊目を数えるようになって、「ミクニ……」という那智に反応してしまう内藤三國の反応が段々と深刻に(マゾっぽく?)変化しているところも個人的には面白いところだと思っている。


07/02/07
赤川次郎「三毛猫ホームズの追跡」(角川文庫'85)

ベストセラー作家、赤川次郎擁する代表的名探偵シリーズのうちでも異色でありながら、高い人気を誇る一匹、三毛猫ホームズ。そのデビュー作である『三毛猫ホームズの推理』は本格ミステリの歴史のなかでもしばしば取り上げられる作品だが、本書はその続編にあたる長編。

先の事件で辞表を提出した筈の片山義太郎刑事はその辞表がうやむやにされて引き続き警察に奉職。妹の晴美は、心機一転して新宿副都心にあるカルチャーセンター〈新都心教養センター〉にて働き始めていた。その晴美の元に受講を希望する金崎沢子なる女性が現れ、三十数講座ある講座全てに大金を払って申し込みをするという出来事が。ホームズの示唆により、晴美はその沢子の電話番号にかけるが、警視庁捜査一課に繋がった。片山もその住所に引っ掛かりがあって調べたところ、二年前に発生して迷宮入りしている殺人事件被害者の自宅で、更に沢子はその被害者だった。現場には沢子の妹だという涼子が住んでいた。一方、教養センターでは申し込み名簿の沢子の名前を見て動揺する講師が続出。片山家には涼子から、不審な人物に狙われているというコールが入り、片山が駆け付けたところ涼子と思われる死体が部屋にあった。行き違いの無念を悔やむ間もなく、料理教室の大町、映画評論家の山室ら教養センターの講師たちが不可能状況下で次々と殺害される事件が発生。果たして事件の行く末は……?

軽快なテンポに仄かに漂うユーモアが基調も、やたらめったら殺人・傷害・殺人未遂……。
赤川次郎=ユーモア・ミステリーの大家というのが一般的な評価だと思うし、全てがそのレッテルに括れないことはもちろん承知ながら大意としては間違っていないだろう。本書でも片山刑事が、拾ってしまったブラジャーを本人が気付かないままハンカチ代わりに繰り返し使ってしまうところから奇妙な誤解を呼ぶところや、女性と二人きりになって緊張しまくるところ、猫ぎらいの石津の登場、更には登場人物同士の会話にしてもユーモア感覚は健在。(但し、表立って強調されている感は薄い)。
ただこの作品に関していうと、それ以上にやたらめったら連続して殺人事件が発生するところの方が目立つ。 これも赤川流の読者を引き付けるための方法論になるのだろうか。過去に殺人事件があり、その関係者が無惨に殺害され、更にカルチャーセンターの講師陣が次々と殺害されていく展開。このあたりは微妙で、講師が被害者になる殺人事件については、誰も手を触れていない紅茶を飲んでの毒殺や、誰も近づいていない映画解説者の刺殺、更には物理的に不可能な部屋での殺人事件など、トリックが凝らされている。一方で、当初の被害者の関係者の殺人事件は乱暴な殺され方(言い方が不謹慎だが)にて処理されているのだ。事件の背景に隠されているある事情(中盤で明らかにされる)があり、実は二つの陣営による殺し合いのような状況があり、こういったかたちにせざるを得ない作品ではある。だが、ミステリとして印象的な殺され方(特権的な死とでもいうべきか)がむしろ悪人サイドであるという点、なんとなくバランスの悪さを感じる。
真犯人については意外性を演出しすぎたか、伏線があまりないためかえって驚きがない人物となっており、ミステリとしての魅力はフーダニットよりハウダニットに集約される印象。 で、先述した通り時代こそ感じさせるもののトリックは凝っていて面白いのだが、それでも全体の殺人ラッシュにちょっと埋もれてしまっていて、そちらのインパクトも薄れているようにも思え、少し残念な気がする。その結果、殺人に到る背景が陰惨なせいもあるけれど、それ以上に物語全体がなぜか暗い雰囲気を持ってしまっているようだ。

もちろん作品自体が持つ吸引力というか読者を引き付けるだけのインパクトには相当なものがあり、一気読みさせられる作品であることは間違いない。どこを切っても赤川次郎作品であることに相違はないし、こなれているのだけれど特に赤川次郎だけのファンではないミステリファンとしては何となく割り切れないものが残るような印象。結局は物語背景にある憂鬱な事情に影響されているだけかもしれないが。


07/02/06
奈須きのこ「DDD1」(講談社BOX'07)

同人ゲーム『月姫』のシナリオライターとして知る人ぞ知る存在であった奈須きのこ氏は、初の商業出版として講談社ノベルスより『空の境界』を刊行、大ヒットを飛ばした。本書はその後『ファウスト』誌に「新伝綺」と銘打たれて発表されたシリーズ作品がまとめられたもの。「DDD」はDecoration Disorder Disconnectionの略。

近年の日本では異常な体力や精神力を持った者たちによる異常犯罪が多発していた。弱い心が蝕まれた結果、身体能力に異常が発症、結果、悪魔のような所業を行う人間が急増、その精神病は”悪魔憑き”と呼ばれるようになっていた。しかしその中の一部にはアゴニスト異常症(A異常症)と呼ばれる真性の悪魔が取り憑いた症状があった。”新部”と呼ばれる身体の新たな超能力によって彼らは暴走、従来の常識では測れないような犯罪が発生するようになった。――一般の人々に危害を首都圏より電車で二時間、微妙に中途半端な便利さを持つ支倉(しくら)市。2003年の2月、この支倉市で連続殺人事件が発生、その結果、石杖所在(いしづえ・ありか)は左腕を喪い、ある事情からA異常症患者の治療を専門に行うオリガ記念病院に入院することになった。所在はその病院を退院後、両手両足が義手義足で地下室に住む美少年・迦遼海江(かりょう・かいえ)のアルバイトをしながら生計を立て、監察医兼監察官の戸馬的(とうま・まと)の監視のもとで生活している。その所在は海江より借り受けた義手の左腕と共に本人の意思に沿ってか沿わずか悪魔払いをしてしまう。『1.JtheE.』『2.HandS.(R)』『2.HandS.(L)』『formal hunt.』、以上の四編から成るが短編の集積というよりも長編の一エピソードという風に読める。

特に効果的に叙述のテクニックを利用して独特の世界を多重に重厚に造り上げてゆく感覚にキレ
悪魔憑きという発想が良い。序盤にその説明があるのだが精神的に弱い人の心が蝕まれ、別の悪魔的な力を得てしまう過程も、伝奇的で面白く、またその対峙する主人公サイドの造形も深い。やられキャラに相当する人々にしても、じっくりその背景が書き込まれており、世界を構築する力に並々ならぬ情熱と実力を持っていることはうかがえた。一方で、長い伝奇の歴史のなか(それを体系立てて小生は語れる程のものを持たないが)で、何かに似ていたり、何かと重なっていたりという部分に対しては致し方ない。それはそれでもオリジナルな発想が重なったものだと思われるし。
最も感心した点は、ある意味ネタバレ覚悟で書くと、叙述トリックの使い方にある。もちろんミステリにおける叙述トリックは世界が反転するかたちを導いたり、登場人物の意外な姿を浮かび上がらせるなどサプライズとして使用されている。本書における使い方の一部分には、そういったサプライズを読者に提供する要素はあろう。だが、それ以上に感心したのは、そのトリックを使用することで物語の世界背景に対する深みを与えている点だ。(ネタバレ:例えば石杖所在の真似をする久織巻菜の存在、更には所在の妹で超人類ともいえる火鉈によって牙を抜かれてしまった朋里。彼女たちに対しては、一人だと思っていたら、実は二人いたという古典的ともいえる叙述トリックが用いられているが、その結果、この異常性をもった人物が一人ならず複数存在するということを裏側からアピールしているとも感じられるのだ。この歪んだ世界にて似た能力者が複数存在することになったともいえるわけで、その分この作品世界が濃く塗りつぶされるような錯覚を感じる)。

キャラ萌えとかそういうのは判らないので、それは第一人者の方々に感想を譲らせて頂くが、全般に濃密に、より濃密に世界を築き上げようという姿勢に好感。西尾維新的でもあり、そうでもないような個々人のキャラクタ特性などは実に現代的であり、若年層の読者にはきっちりアピールするように思う。問題は疑ってかかると様々な点で先行作品との類似部分を詩的できるように感じられる。本作はもちろん十二ヶ月連続刊行の対象ではないし、伝奇である以上、ある程度はそのあたりは認める必要があるのだと思う。


07/02/05
清涼院流水「パーフェクト・ワールド What a perfect world! Boook.1 One Ace〔ひとつのエース〕」(講談社BOX'07)

講談社の新レーベル、講談社BOXの2007年の目玉企画の一つが「12ヶ月連続刊行企画」。2007年に挑む一人が西尾維新、そしてもう一人がこの清涼院流水。本書がその第一冊目。かなり筆の速い二人であれば何とかなるのだろうか? (副題が長い……。)ちなみに本書は英語が重要なモチーフとなっていることもあり、横書き。

十歳の頃までは野球チームのエースとして活躍したこともある一角英数(いっかく・ひでかず)は、交通事故に遭い下半身が動かない身体となって車椅子生活を送るもうすぐ二十歳を迎える青年。彼には実は特殊な能力――一日に一分間だけ、半身の障害をものともせず超人的な身体能力を発揮する――ことができた。ただ、それは人助けの時にしか発揮されず、複数の医師によって現象こそ確認されているものの原因は不明のまま。そんな彼は父親から世界中どんな人ともコミュニケーションできるという魔法の言葉”キャナスピーク”を習い、今やその達人となっている。京都に住む一角家に一年間、米国からの留学生がホームステイすることになった。名前はレイ。京都駅に出迎えに行った英数はあっという間にレイと意気投合し、不慣れな彼を京都案内をする。レイは英数の特殊な能力をみて驚きはしたが理解をしてくれる。実は、そんなレイにも英数と似た隠された能力があるのだという……。

独特のカナ表記英語と独特の京都の都市解剖。エンタメとしてはこれからデスネ。
12ヶ月連続刊行ということもあってか、また最近の清涼院流水の創作傾向というのか、特殊な背景を持つことは持ちながらも日常的な描写が多い。本書の背表紙にコピーとして「物語を読むだけで、”英語”と”京都”と”運命”の達人に!」――とあるのだが、その意味は本書を読むとよく判る……というか、少なくとも本書の大半はその前半二つ、英語と京都に費やされている。これが流水流というか、あまり世の教科書、テキストでは表立っては書かれない方法論が述べられており、その部分は興味深い。
一つは英語。これは一口にいえば、日本の英語教育の弱点”発音”の問題を補うもので、要はネイティブの発言をカタカナで出来るだけ近く表現することで、伝わりにくいジャパニーズ・イングリッシュの弱点を克服しようというもの例えば、主人公が京都駅にレイモンド・クォーツを迎えにきた第一声は「イエア。ハアイ、ミスタ・(ゥ)レイマンド・クゥオーツ。ゥェゥカム・トゥ・キョゥトゥ!」 である。この後、英文も書かれる。”Yeah. Hi,Mr.Raymond Quartz. Welcome to Kyoto!" (こういった例文を書く以上、縦書きで本書をまとめることは不可能だったと思われる)。このようにレイモンドとの会話は主に本書でいう〈キャナスピーク〉と英文の併記で表記されてゆく。まあ、確かに日本人が平たく「イエイ! ハイ、ミスター・レイモンド・クォーツ。ウェルカム・トウ・京都」というよりも遙かにきちんと意味が通じるであろうことは想像に難くない。ただ、テキストとしてはとにかくエンタ小説としてはずっと繰り返される点には微妙なところがある。
また、京都。京都の街についても通りの構造を通じて判りやすくその都市のかたちや名所についての解説がある。小説であるのに、現実の京都の街の写真等が挿入されていたり、この点についても一種の”ガイド”的な機能を作品が持っている。こちらは固有名詞が多く(当たり前だが)、それらが頭にすんなり入る人、あと実際に京都に住む人以外にとってはすんなり入りにくいところがあるかもしれない。
……といったところにかなりのページが費やされており、物語としては主人公宅にレイがやって来て、あと主人公が憧れる花屋のお姉さんがいて、主人公の特殊能力が説明されて……というあたりで終わる。最後にレイが何か思惑ありげな行動をする点が気に掛かるものの、そこまで。本格的な展開は次巻以降に持ち越し、ということか。

あと11冊続くことを考えると、そうそう早い段階での展開を期待するのは酷なのか。ただ、正直なところ英語や京都といった趣向は面白いものの(本書は英語の教科書でも京都のガイドブックでもないわけで)物語の方で読者に対して引き続き読みたい! と思わせる訴求力が弱いようにも思える。このあたりがどう変化するのか、もう少し見守ってみたい。


07/02/04
森奈津子「地下室の幽霊」(学研エンタティーン倶楽部'04)

学研の刊行するジュヴナイルレーベルである「学研エンタティーン倶楽部」。芦辺拓氏が「ネオ少年探偵」シリーズを刊行しているのもこのレーベル。現在こそ各種な性愛をテーマにして各ジャンルに手広く作品を発表している森奈津子さんだが、デビューは'91年『お嬢様とお呼び!』を学研レモン文庫から刊行してデビューしている。つまり学研と森奈津子さんには縁があるわけだ。

小学校六年生に進級した新クラス発表の日。本田衣緒はそれまで親友だった親友の恵美と別のクラスになった。恵美は幼馴染みの里夏と盛り上がっており、他に友人の居ない衣緒は孤独な気分で新しいクラスに入る。早速掃除の班を編制するにあたって好きな者同士という意見を退ける女の子が居た。「わたしと同じ班になりたいなどという人間は、この学校にはいない」と言い切る高島一子。ちょっと変わった性格の彼女に衣緒は興味を持ち、つきまとううちに一子は少しずつ心を開き始める。そんな折り、クラスの男の子が幽霊屋敷に入り込んだとクラスで自慢する。クールな一子は、その幽霊は単に顔色が悪い人が十人であるのだというが……。一方、衣緒は入院している祖母のお見舞いに行き、話の流れから祖母が子供の頃に見たという幽霊の話を聞く。五十年前、当時は珍しい自家用車を持つという屋敷を見物に行った祖母。しかし声を掛けられ地下室で舞子と名乗る女の子と遊んだのだという。祖母は借りた人形を返しに数日後に改めて屋敷を訪れるが、その女の子は一ヶ月前に死んでおり、さらに屋敷に地下室などないといわれる。衣緒は、祖母のいう屋敷がちょうど幽霊屋敷と同じであることに気付くのだが……。

物語の作りは恐怖も内容はミステリ仕立て。素直に少女たちが成長する様が微笑ましく邪悪さがカケラもない
まあ、作者の名前から邪悪な(?)ジュヴナイルを半分期待、半分恐れながら読んでいたというのが正直なところ。だが杞憂も杞憂、実に素直にしてストレートな小学生が活躍するホラー仕立てのミステリ小説でした。ただ、デビュー当初ならばとにかく2004年のこの段階であれば、アンモラルな方向性を打ち出していて、読者にも認知されていた時期でもあり、かなり《小学生向け》を強く意識してセーブしているということだと思う。
物語自体もシンプルで、かつありがちな展開ではあるものの、森奈津子という作家のことを思えばそのフツーの物語である点がかえって新鮮。また五十年前の幽霊の正体を現代の小学生が解き明かしてしまう過程もなかなか論理的にできており、ミステリとしても侮れない。 サイドストーリーとして挿入される主人公の女の子の孤独と、それを逞しく乗り越えていく過程なども微笑ましい。この素直な展開と物語は、森奈津子=アンモラルな官能シーン+オバカなSF発想というような小生の固定観念を気持ちよくうち崩してくれた。妙な喩えかもしれないが、一般人には理解しがたい抽象画を描く画家や、前衛的な音楽をかき鳴らすミュージシャンなどが、実はたいていの場合、基礎的なデッサン力や演奏力をしっかり持っていることが思い出される。森奈津子さん特有の武器(飛び道具?)を使わずとも、世間一般の常識の範疇に入る、きちんとした普通の楽しい物語を(書こうと思えば)書ける方であることが証明されたというのは大袈裟か。
いずれにせよ普通の小学生に普通に勧められるジュヴナイル。 適度に配置された恐怖感覚、さらには謎が解ける時の快感など、読書の楽しさを普通に感じさせてくれる作品だと思う。そういった意味で、最大のサプライズは原点に立ち返るが本書の作者が森奈津子さんであること、ということになるか。


07/02/03
渡辺浩弐「iKILL ィキル」(講談社BOX'06)

渡辺氏は1962年生。ゲーム制作会社を経営の傍ら精力的に小説も執筆。著作に『アンドロメディア』『怪人21世紀中野ブロードウェイ探偵 ユウ&AI』などがある。本作品は『小説現代増刊メフィスト』2005年1月号、5月号、9月号、2006年1月号に掲載された『プレイヤー THE PLAYER』に加筆修正の上改題し、単行本化されたもの。

小田切明は殺し屋。規定の512万円を受け取れば確実にターゲットに死をもたらすことができる。ただ今回の標的は自らのプライバシーを売り渡し、24時間をカメラ監視させてインターネットで流すことで報酬を得ている女性。彼女は日常品を全て宅配で済ませており、彼女のファンたちが必ずその様子をカメラで見ている。自らの危険を避け、彼女を死に至らしめるために小田切は一計を案ずる。 『猿は猿を殺さない』
小田切のもとに中学生がやって来た。自分をイジメの標的にしている同級生を殺して欲しいという。小田切は報酬は負けられないと彼女に告げ、別室で彼女にアルバイトをさせる。そのアルバイトは小田切が殺害して持ち帰ってきた中年男の死体の解体であった。 『狼なんかこわくない』
一部上場のテレビゲーム制作会社に乗り込んできた小田切。その社長と専務はかつて天才クリエーターだった小田切のかつての仲間だった。今や専務となっている木村がそのゲーム会社の案内をするが、小田切の要件はただ一つ、この会社の依頼後に自殺した男の殺害代金の回収であった。 『中の人などいない』
突如インターネット空間に現れたWEBサイト。そこではかつて行われた少年による母子殺害の残虐な過程の映像が流されていた。当時未成年だった犯人は服役を終え、今なおヤクザ紛いの悪人として生き続けている。ワンクリック300円で規定額512万円に達した時、その男に殺し屋が差し向けられる……。プライベートぶっこ抜きのネット空間では激しく匿名たちによる会話が交わされ、そして犯人が今度は何者かに殺害される映像が流れた。更にこのサイトはエスカレートして……。 『殺し屋には顔がない』 以上四編。

強烈にして鮮烈な現代の殺し屋ストーリー。淡々とした主人公の態度が”現代”を透かしていく
マンガやアニメショップの建ち並ぶ雑居ビルに普通にテナントと入居している男が、実は殺し屋。目的のために淡々と手段を弄し、さらには目的のためにはその過程はいかようにでも工夫できる柔軟な頭脳が持ち味。もちろん普通の意味での倫理や常識は彼に通用しない。……ただ、その主人公が問題ではない。
本書、小生からみて最大の驚きは、この四作、変形ではあるが実に斬新でオリジナリティの高い本格ミステリである点だ(あまり普通には評価されないかもしれないが)。『猿は猿を殺さない』は、二十四時間監視状態のなかで自ら直接手を下さずに殺害を実行する強烈なホワイダニットであるし、『中の人などいない』は、全体の物語は歪んだ青春小説の体裁を取りながら、その一部に死体隠滅の強烈なアイデアを含んでいる。また『中の人などいない』も、見えない人テーマを含んでいて、物語のサスペンスとスリルがその要素によって倍加されている感がある。
しかし何よりも本書のなかでもっとも素晴らしいのは『殺し屋には顔がない』だろう。まず、インターネットの匿名性を徹底的に利用し、某巨大掲示板をもっと進化させたようなサイトが物語に登場する。その発想が秀逸。またアンダーグラウンドの極致を体現した、残虐な現実ビデオをネット上にアップしてしまう恐ろしさ。そういったネットユーザーであれば、「こういうこともあるかもしれない」と、微妙に現実と空想の狭間に落ち込むような戦慄が作品に充満している。そういった派手、かつインパクト重視の物語のように見せかけながら、実はその背景に実に論理的な犯人による、犯罪が潜む。犯罪を犯罪にみえないようにし、読者から真相への視線を完全に逸らすテクニックも素晴らしいが、その真実が明らかになるところで読者は「恐怖」というかたちと「真相そのもの」へのサプライズというかたちとで二重のショックを受け取ることになる。 現代しか描けない恐怖であり、現代しかあり得ないミステリでもある。どこまで他の読者が小生に同意してくれるかは、不明ながら「ちょっと凄い作品に出会っちゃった」という感覚は間違っていないと思う。

残虐シーンも少なくなく、読むのにパワーを要する作品である。ただその残虐な場面や嫌な話こそが、現代という時代が持つ病巣を赤裸々に浮かび上がらせていく。このセンスはちょっとただ者ではない。ノワールじみたテイストが底流にあるものの、決してノワールではないしハードボイルドっぽさはあるけれど、もちろんハードボイルドでもない。個人的には「残酷ミステリ」といったあたりがしっくりくるかな。万人にはもちろん勧めません。ある程度耐性のある本格読者が本書をどう感じるものか知ってみたい気がする。


07/02/02
森 博嗣「フラッタ・リンツ・ライフ」(中央公論新社'06)

森博嗣氏によるノンミステリーの戦争ファンタジー(?)「スカイ・クロラ」シリーズの四冊目。個人的には三冊目の『ダウン・ツ・ヘブン』をスキップしていたことに読了後気付いたのだが、『スカイ・クロラ』の前日譚ということもあって問題なく読めた。

戦闘機「散花」に乗る腕利きパイロット・クリタジンロウ。彼は敵機を撃墜した後は大抵同室のトキノと共にフーコのいる店に行き、彼女と一晩を過ごす。だが別にクリタはフーコに気を許しているわけでもなく、淡々とした態度を崩さない。またフーコのところに行った後、クリタは時々寄り道をしある家で暮らす女性(サガラアオイ)のところへ行き、お茶を飲んで帰ってくる。サガラはクリタの同僚だった男の関係者。だがある日、クリタの上司はクサナギスイト(草薙水素)は、サガラのところには行かないようクリタに要求する。そのクサナギもまた女性パイロットで彼女は抜群のテクニックを持つ。クリタは相変わらず整備士のササクラや、トキノらと生活する。彼は身体の成長がある段階で止まったキルドレと呼ばれるタイプであり、戦闘機に乗り、空を飛び回ることが唯一の望みであり生きる糧なのだ。しかしクリタは偶然、基地を訪れていた情報局のカイという女性とクサナギの会話から、クサナギの身体に秘密があることに気付いてしまう。さらにサガラアオイもまた研究者であり、キルドレの研究をしているのだという。その結果、クリタは嫌でも地上の争いに巻き込まれるかたちになってしまい……。

他人の人生への懐疑と自らの欲求に対するシンプルな信念と行動。森博嗣らしい空間が静かに拡がる
この「スカイ・クロラ」のシリーズ、わざと世界背景についての描写をぎりぎりまで端折っている。ただ、そういうなかでわかるのは戦争が日常的な光景であり、それを会社組織として行っていること、戦闘機乗りのほとんどが”キルドレ”(恐らくはCHILDRENからの造語か他言語で近い単語があるのかも)という特異な人種であること、それ以外は70〜80年代くらいの生活イメージであること等ほんの少し。ただ作品ごとに視点を引き受ける人物は様々であれど一貫してキルドレであり、戦闘機乗りである点は共通していて、そのせいなのかどの主人公が独白を引き受けても感覚的に異なるところがない。誰が喋っても同じ人物のようにみえるところがむしろポイントなのかもしれない。
本書では、一貫して作品に登場する草薙水素自身の秘密が明らかになり、さらに第一冊目にあたる『スカイ・クロラ』で”いなくなっていた”というパイロット、クリタジンロウの物語でもある。なぜ彼がいなくなったのかは本書で明らかにされる。確かに残された人々にとっては”いなくなった”という形容詞が相応しい。
シリーズ全体に拡がる無常観は本書でも健在で、本書の途中、ジンロウとフーコがむつみ合う場面でジンロウの心の中の言葉として語られる「子供に大人はこう教える」と世の中の欺瞞を淡々と挙げていく個所は圧巻。ただ彼はそれを表に出さず淡々と理解している点が森作品らしい。このあたりの世間常識からズレながらも世間常識の矛盾を突き詰めてしまう感覚描写が毎度のことながら巧みだと思う。
このキルドレたちの冷め切った態度と考え方と、それを実践する生き方。決して共感を覚えないけれど、この負の感覚には危険な魅力がある。 結局のところ生きることに意義など見出さず、自らの求めるものを求めることが至上であり、その他のことはどうでも良いという感覚。ここには他者を切り捨てるだとか、何かを犠牲にするだとかの発想すらないのだ。

戦いの場面のキレだとか他にも語るべきところはあるのだけれど、この美しい装幀同様に作品内部に漂う詩的ですらある感覚は透き通っていてある意味では美しい。森博嗣氏が本シリーズが自分の本質に近いというようなことをどこかで書いていたが、その感覚のみを(趣味をちょっと交えて)描き出している作品であることに同意。


07/02/01
鯨統一郎「タイムスリップ水戸黄門」(講談社ノベルス'06)

その題名の通り、森鴎外が現代社会にタイムスリップしてきてしまう『タイムスリップ森鴎外』から、一転して主人公の麓麗(うらら)が明治時代へと飛ぶ『タイムスリップ明治維新』、更に(読んでません)『タイムスリップ釈迦如来』と着々と続いている「タイムスリップ」シリーズの四冊目。

水戸藩主を三十年務めて引退した徳川光圀は、若い娘をつい追いかけてしまい山の中に入り込み狼の群れと対峙していた。七十年もの人生がここで終わりかと思われた瞬間、配下の一人・柘植の飛猿に救われる。しかしその飛猿は仮の姿。彼の本名は石野パイン、二十五世紀からやって来た時空移動の統一執行部の人間だった。時空移動の最中、二十一世紀に燃料補給のために立ち寄った二人だが、光圀はまたもや若い女性の姿を見つけて移動機から彷徨い出てしまう。そして水戸黄門はハイキングに来ていた麓うららの一行と邂逅する。その二十一世紀のこと、国土交通大臣・水戸光右衛門と建設業者、そして官僚が水戸と新潟を直接結ぶ高速道路建設の推進を進めようとしていた。彼らが潤う以外にほとんど意味のない借金道路で環境破壊の恐れもある。一方、そんな日本を憂う急進的環境保護テロリスト集団”赤い馬”が、国内全ての自動車工場の破壊を旗印に水戸光右衛門を誘拐してしまう。慌てた事務次官ら官僚は、たまたま光右衛門そっくりだった光圀を見つけ身代わりをさせることにしてしまう。しかしその道路の真実を知るにつれ水戸黄門は正義を自覚するようになり……。

素直にありのままに物語を受け入れて、笑うべきところを笑い、細かいところを気にしない……というエンタ
森鴎外、明治維新、釈迦如来と来て、遂に水戸黄門登場。これまでの作品とは異なり、水戸黄門(徳川光圀)の場合は史実上の人物であるという点以上に、国民的人気テレビ時代劇の主人公であるという点の方が読者にとっては大きな意味を占めているものと思われる(かくいう小生もそうだから)。ただ、そこは鯨統一郎、歴史にも微妙にこだわりながらも大筋としてのキャラクタ作りはカンペキにテレビ時代劇寄りであり、その場合の”お約束”をパロディとして作品にふんだんに盛り込んでいるところが面白い。
ただ、タイムスリップしてきたのは介さん格さん抜きで黄門さまだけ。とはいえこのシリーズのレギュラーキャラである麓麗(ふもとうらら)と三須七海の強力”ジョシコーセー”コンビや、小松崎拓海といったところがしっかりとサポート役を務めて、しっかり現代の「水戸黄門」としてアクション部分などを引き受けている。また物語構成も、結局は政治と財界、そして官僚が揃って国民を欺いて私腹を肥やそうという企みを黄門さまが暴き立てて、正義の鉄槌を下す……という一種お約束の展開(いわゆる「越前屋、お主もワルよのお」「いえお代官さま、貴方ほどでは」……の世界)なので安心して読める。細かいことをいえば、テロリスト集団の目的にせよ、不用高速道路建設を断罪する理由、そしてその代替案にしてもちょっと深いところの考え方が全般に稚拙といえば稚拙過ぎ、庶民的ではあっても深い考察が背後にあるようにはちょっとみえない。一見、社会派のようにみえても、実際のところこの作品をそう呼ぶことはかなりためらわれる。むしろこれらシンプルかつ明快な考え方自体を笑うところと捉えた方が良いかもしれない。
そのお約束の展開の方は、これまた読者がこうなると良いなあという方向に真っ直ぐ突き進んでくれる。それがまた安心感として機能しており、突飛な設定や、ユニークなキャラクタについて文句をいったりする気は失せてしまう。この定番な展開はやはり時代劇に重なる。計算づくの展開だといえそうだ。

また物語全体に独特のユーモアがあり、普通に読んでいてギャグとして笑うところも多い。そういった”単純に楽しいエンタ”を読むつもりで、軽く斜に構えて読むくらいで丁度良いように思う。それぞれのテーマに対してまじめに読者が取り組むこと自体が恐らく想定されていないことだろうし。ごくごく気軽に読み出して、読んでいるあいだ何時間かを楽しむ、そういう作品だという印象。