MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE 国産ミステリ・レビュー
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


08/02/20
久綱さざれ「神話の島」(東京創元社ミステリ・フロンティア'07)

久綱さざれさんは1965年愛知県生まれ。2001年『ダブル』で第1回ムー伝奇ノベル大賞優秀賞を獲得してデビュー。他の著作に『ハーツ――死に抜けゲーム』があり、本書が三冊目の作品となる。書き下ろし。

 高校生の布津美涼は幼い頃、新興宗教・秋津教に入信した両親から、伯父夫婦によって引き離され、実子同様に育てられてきた。その両親は他の教徒と共に南洋にある小島・御乃呂島に移住してそのまま死亡した。しかし島には生き別れになった妹・真名がいることを知った涼は、御乃呂島を所轄する役所の福祉課職員の矢田と共に島へと向かう。非合法に運行される船には、御乃呂島を最後の秘境と謳ったミステリーツアーの女性客が二人と胡散臭いガイド役の天野、民俗学を学び、古い話を蒐集することが趣味だという大学院生・笹礼らが乗り込んでいた。島についてセンセーと村人から呼ばれる輝野という老人宅に住む真名と再会した涼だったが、六歳になる真名は極端に口数が少なく、野生児じみた行動を取っていた。御乃呂島には戦時中に毒ガス工場があり、その跡地に秋津教の人々は住んでいたのだという。しかし船を操船していた船長が事故死体となって発見され、島から本土に戻る手段が喪われてしまった。排他的な村人に囲まれた外来者たちは困り果ててしまうが、さらに恐ろしいことに矢田がマラリアに感染していたことが判明する。他にも村人が同様の症状を発症するが、彼らは病気を「毒熱」と呼び、病気は涼たちが持ち込んだものだと言い始める。

孤島の集落と病気による緊張感の高いパニックサスペンス。島の歴史に潜む謎の真相は?
 若い者はみんな島を出てしまって年寄りばかり残され、更には頑迷な風習に支配される貧しい島。一方で、普通に育ち普通に学び、都会の感覚を所有している島の外からやって来た人々。孤島という環境に閉ざされるパターンはありきたりながら、そこからはじまるのは連続殺人ではなく、今やほとんど日本では現れる筈のないマラリアという病気である。その病気の発生を境に、もともと折り合いが良いとは言いかねる島の人々と外来人たちとの関係が悪化していく展開がスリリングである。同じ日本であるのに一般的に信じられている常識すら通じないことによる苛立ちと焦燥、そしてじわじわとしみ通る恐怖の表現が巧い。 ほとんど島を出たこともなく既に老境にある人々の頑迷な様子が巧みに表現されており、独自の(?)の方言による彼らの会話がしっとりと物語に溶け込んでいる。また山への信仰、何かあった時に”おぇ様”なる謎の人物に伺いを立てて進めてゆくところなども設定に味がある。南の島=自然豊かという常識を壊している点も印象的だ。
 一方で、外から来た関係者にしても、島に対して不法投棄を行ってきた船長、日本軍の隠し財産を求めるツアーガイド、単なる骨休みの筈が最悪の休暇になったOLたちと決して一枚岩ではない。また島に住むセンセーこと輝野にしても、謎の好青年・笹礼にしても、深いところでは何を考えているのかよく分からないところがある。こういった人物を巧みに配置、さらに少しずつ明かされるエピソードを物語のなかで提示しては少しずつ繋げてゆく手腕にはなかなか見事なものがある。
 かなりの分量のある物語ながら、緊張感がほとんど途切れずに進んでゆく。
 ただ、様々な要素――病気、孤島、旧日本軍の宝、記紀神話……といったガジェットを一つひとつ取り出したところではどこかで見たような……という印象があるもの。(病気を未知の難病ではなく、マラリアという微妙な病気にしている点は評価できよう。薬さえあれば治るのに……という焦燥が加速されたうえ、その薬すら拒絶する島の住人という文化の対比に薬だっている)。

 本格ミステリといった要素よりも、あくまで謎含みのサスペンス作品。島に住む住人が少ない分、パニックという要素は一般的にいわれるそれとは異なるが、それでもやはりパニック小説の系譜に連ねても良いと思う。一般的な孤島ミステリとは異なる、孤島サスペンス。 外界から孤立するという設定における、本格ミステリ以外の要素を強調してゆくとこういう作品になるということ。


08/02/19
大河内常平「九十九本の妖刀」(講談社'59)

『探偵実話』誌に昭和33年から翌年にかけて掲載された『妖かしの刀』が改題された伝奇ミステリ長編『九十九本の妖刀』と、旧『宝石』に昭和32年に発表され、第11回探偵作家クラブ賞の候補作品にもなった本格ミステリ短編『安房国住廣正』 がカップリングされた作品集。

 東北の山奥の村を回るドサ回りのストリップ一座。彼らが歩いて次の村に向かおうとしている最中、シャーリー花子とメリー瞳の二人が行方不明となった。残された男三人は蛇を捕って食いつなぎながら麓の村に到着し、警察に事態を届け出た。この地では十年前にもお金持ちの令嬢が行方不明となり、誰も登らないような辺鄙な山の山頂で凄惨な死体となって発見されたとの事件が迷宮入りとなったことがあり、警察は色めき立つ。続いて近くにある神社の神主・弓削部が何者かに襲われて病院に担ぎ込まれる事件が発生。この白山神社では”ひづくりの祭り”という十年おきに開催される変わった祭りがあり、その日は神職にある人も山を下りる習わしがあった。そのひづくりの祭りの日、神社境内で十何人もの化け物のような男たちが、女性二人をまる裸にして杭に結わえ付け、焚き火をしているとの通報が薪炭製造をする人物から入った。警察が慌てて現場に駆け付けるが、その痕跡が僅かに残るだけで手掛かりは残されていない。そして二人のストリッパーもまた、酸鼻を極めた暴行の結果死亡しているのが発見される……。『九十九本の妖刀』

 戦時中のこと。阿部井子爵が懇ろな援助を与える千葉上総の刀鍛冶・五代目広正。中央の刀匠協会への出品を控え、鑑定家の本阿弥光泉が現地を訪れた。出品にあたり、安房守が初代広正を召し抱えるきっかけとなった「安房守上総大椽源広正」という名刀も参考出品、その刀と五代広正の鍛冶を光泉に見せたいとの意向だった。しかしその秘伝の焼入を行った直後、隣の部屋で広正の弟子の高橋による異様な叫びが聞こえてきた。高橋は密室内で上総大椽源広正によって喉を貫かれて死亡していた。 『安房国住広正』 以上二編。

グロっぽミステリの怪作と、端正な本格ミステリと。大河内常平、深い。
まずは『九十九本の妖刀』だが、刊行されてすぐ『九十九本目の生娘』(○本目の生娘っつー題名、凄いっすね)という題名で映画化もされている。十年前に惨殺された娘、更に誘拐されたうえにこれまた暴行されるストリップ娘に加え、過去現在の死体がぞろぞろと登場する。刀で見事に一刀両断されてみたり、女性の股間から身体内部を刀が突き通されていたり、と残酷な描写も多く、伝奇的要素が多数散見される。ストリップ一座の若者たちが歩いて山越えを普通にしていたり、奇妙な祭りが普通にあったり、後半部に謎の老婆が捕らえられ、米飯に喜んでみたりと時代もリアルに感じさせられる。
 ……が、その背景にあるものは普通の読者であれば、何となく予想がつくのではないか。まあ、そういう発想を実際に物語にしてしまう大河内常平の「変さ」は愛されるべきものであると思う。
恐らく映画ではクライマックスシーンになるであろう、ラストの戦いなども物語的にはもう少し盛り上げてくれても良いと思うし、その幕引きにしても考えられるうちでもっとも凄惨かつあっさりしたもの。このあたりの歪んだバランス感覚もまた逆に面白いと思う。だが、物語の飽和した現代にあってはこの物語の異形性が発する違和感は少ないとはいえ、この五十年もの昔にこういう歪んだ作品を平然と書き上げる作者のセンスは素晴らしい。
もう一方、『安房国住広正』は、本格ミステリの傑作短編。 刀鍛冶の現場の隣室で殺害される人物、現場は密室、死因も不可解……というもので、日本刀に詳しい大河内ならではのトリックが幾重にも用いられている。ちょっと現実性に乏しいといえばいえようが、この日本刀に命を賭ける男たちのなかではここまで凝ったトリックを実行せざるを得なかった状況がむしろ普通にみえる不思議。「九十九本」はとにかくこの『安房』については、かつて角川文庫のアンソロジーに収録されていたこともがあるが、さらにいつかまた復刻されるのではないかと思う。

 自身、刀剣鑑定の資格を持ち、軍装収集の趣味のあったという大河内氏は刀剣に関する著作もある。日本刀に関する偏愛がこの作品を生み出したことは想像に難くないが、そのマニアックさをそのまま小説に持ち込んでしまう信念、やっぱり凄いよなあと改めて感心した次第。(本書を譲ってくださったYさんに感謝)。


08/02/18
古川日出男「ハル、ハル、ハル」(河出書房新社'07)

LOVE』で第19回三島由紀夫賞を受賞した前後に発表された三作品による中編集。表題作から順に『文藝』2006年春号、2006年秋号、2007年夏号に発表されている。

母子家庭から母親が逃げ出して十三歳のハルオミは弟と二人暮らし。山で拳銃を掘り当てたハルは弟と別れ、十六歳のミハルに出会う。彼女は家から作戦をもって逃げ出している最中。さらに二人はタクシードライバー原田悟を巻き込み、コンビニ強盗をし、東京を脱出する。 『ハル、ハル、ハル』
日記をつけている、あたし。日記を誰か一人に読ませるかたちで様々に手を変え品を変え文体を変えて書き続ける。そんなあたしが溺愛しているのは離婚した姉が育てる甥と姪。本来OLであるあたしは、無理に休みをとって東京でその甥、姪と素敵な東京を満喫しようとするのだが……。 『スローモーション』
5歳年上の恋人、ねねと年下の恋人敏也。敏也は盲目的にねねに恋い焦がれており、彼女のために里見八犬伝の八犬士の持つ言葉を両肩に四つずつ刺青として入れている。ねねはかつて孔雀に、そして敏也は犬に特別な感情があり、敏也はある日、ゴミ集積所に袋に入れて捨ててあった犬を見て、覚醒する。 『8ドッグス』 以上三編。

暴力的にして扇情的にして攻撃的。そしてちょっと説教臭い。そんな古川文学が音で響く
 古川日出男、控えめにいって天才。リズムの、物語の。
 中編「ハル、ハル、ハル」のなかで繰り返し語られている(主張されている)言葉が印象的だ。「この物語はきみが読んできた全部の物語の続編だ。」 この言葉に対する補足というか古川氏の主張は作品のなかで行われている。その事実そのものの是非はとにかく、古川日出男作品の面白さ、様々なジャンル読者への親和性みたいなものを考察するにあたっては興味深い言葉だと思う。個人的には、先鋭的、前衛的な言葉や構成を使いながら、結局は神話の時代から続く物語をベースになぞり、裏切りを繰り返しているようにみえるのだが。現在の当たり前の常識を否定し、大多数の者が持つ感性を笑い飛ばし、あくまで個人が考え、個人が感じたことを作品内の無上として昇華させきる。 大それた行為をさらりとやってのけるパワーが作品内に込められている。
 「ハル、ハル、ハル」にしても「スローモーション」にしても「8ドッグス」にしても。三作品に共通するのは、あくまで個人が主であり、世の中の規範や常識を乗り越えていくところ。彼らはコンビニ強盗をして、誘拐されたら誘拐をやり返し、犬を虐待した一家の家屋に放火する。やられたらやり返す。無理な我慢はしない。我慢をさせられたら、復讐をする。解放する。そういった自由な魂が物語中を席巻する。 但し、現実に対する怒りみたいなものが作品に込められている分、ちょっと説教臭かったりもする。だが、それもまた心地よいのだ。
 描かれる魂こそ現実離れしているようにみえるが、物語が空中分解していないのは地平レベルでの観察眼の鋭さ。街にしても町にしても、田舎にしてもどこか道路すれすれの視点からきっちりと全てを観察して咀嚼して、それから物語に登場しているようにみえることだ。また、それを自分のなかに取り込んで、リズムに乗った文章にして打ち出すマシンガンのような才能がまた素晴らしい。本書に限らず、古川作品を読んでいると何か、目で読んでいるのに耳から入ってくるような錯覚に陥る。このリズム感もまた天才的だと思うのだ。

 キレキレの中編、三作品。恐らく古川氏の手であれば、全て長編を維持できるだけのエピソードだと思うのだけれど、それが中編作品として圧縮されることで世界がまた濃密になる。そして全てが、わたしの読んできた物語の続編であり、どこかの物語へと続く、それ以前の物語でもある。するりと入って、リズムを心に刻んで、するりと離脱する。そんな読書体験をどうぞ。


08/02/17
貴志祐介「新世界より(上下)」(講談社'08)

第4回日本ホラー小説大賞を受賞した『黒い家』、第58回日本推理作家協会賞を受賞した『硝子のハンマー』、さらには『青の炎』等、近年は寡作ながら発表する作品がそれぞれきちんとスマッシュヒットを飛ばす貴志祐介氏。本書は大著、三年半ぶりとなる書き下ろし作品ながら、今年もランキング等で高い評価を得ることはほぼ間違いないと思われる傑作。

 千年後の日本。かつての秩序が全て破壊しつくされ、新たなる秩序によって維持されている時代の話。二一〇年、神栖66町に生まれた渡辺早季は、要職である図書館司書の母親、神栖66町の町長である父親とのあいだに生まれた。神栖66町は周囲五十キロメートルほどの地域に点在する七つの郷から構成され、人口は三千人程度。外部の世界とは八丁標(はっちょうじめ)と呼ばれる注連縄で区切られていた。外の世界にはバケネズミ、猫騙し、風船犬、更には悪鬼や業魔といった恐ろしい生物がいると私たちは教えられていた。バケネズミは汚らしい外観に反して知能を持っており、呪力を持った人間には絶対服従して奴隷的作業に使われる生き物だ。私たちは六歳になると小学校に通い出し、その期間中に呪力を身に付ける。呪力はこの時代の人間が普遍的に獲得している念動力で、この力を借りて人々は生活をしているのだ。呪力を身に付けると、上級学校である「全人学級」に進むことができる一方、身に付けられない子どもやその能力が低い子どもは、いつの間にか周囲から消え去ってしまい、その存在自体が忘れ去れてしまうのだった。全人学級での早季は、天才肌の瞬、幼馴染みの真理亜、賑やかな覚と大人しい守の五人で班を形成し、呪力を磨いている。そして夏季キャンプ。彼らは初めて彼らだけで出た八丁標の外で、ミノシロモドキという生物と出会ってしまう。それは実は人類が残したデータベースを記録した生物型機械。そこから彼らは禁断の知識を得てしまう……。

遠い未来の人類の進化と悲劇を、あくまで徹底した現代感覚で描き出す傑作エンターテインメント
 遠い未来、人類が一旦破滅を迎えた後のユートピア。人類が全て呪力(サイコキネシス=念動力)を持つ。日々の暮らしはむしろ原始化、車などはなく水車で細々と貯えられた電気は、町内放送のみに使われる。千年のあいだに動物は謎の進化を遂げており、知能を持ち、蟻に似たコミュニティで暮らしているバケネズミをはじめ、現在存在しない動物たちが多数存在する――そんな世界。ファンタジックでもあり、SF的でもある世界からは当初、宮崎駿の創る世界やスター・ウォーズの世界を想像する。あまり詳しく書くとネタバレになってしまうのだが、まずなぜ人類がこのような暮らしをしているのかという点が上巻の中盤で明らかにされ、その事実(小説内の、であるが)に驚かされる。
 更に、徐々に人類に課せられた枷であるとか、恐怖であるとかの存在が台頭、悪鬼や業魔の伝説の意味、そしてバケネズミをはじめとする世界の真実が、様々なエピソードを通じて明らかにされてゆく展開だ。特に後半は、コミュニティがある存在との絶望的な戦いに巻き込まれていく迫力は熱く凄まじく、目を覆いたくなりながらも、目を離せない(どっちやねん)という物語がぐいぐいと読者を引っ張ってゆく。 もちろん世界の秘密を通じてのサプライズもてんこ盛りであり、主人公の少女が成長して戦いに巻き込まれていく過程は青春小説ともビルトゥイングスロマンとも取れる趣があり、ストーリーテラーとしての貴志祐介氏の才能に舌を巻く。
 普通に読んで普通に面白い作品。間違いなくSFに属するものの肩肘張らずに作品内に入り込める。そしてその読みやすさを支えるのは、千年後の人々、さらに呪力といった能力をもった人々の考え方、センスが実に現代的に処理されている点だろう。通常であれば、千年のも未来、これだけ世の中が変化しているのであれば、人間の判断基準や倫理基準も同じく変化するもので、やりようによってはその変化した感覚を物語の中心に据えるやり方もあったと思う。しかし、この作品における人々の考え方は普通に現代的――むしろ、現代以前のもっと狂気じみた古い価値観による情報統制社会に則って描かれているようにみえる。(はっきり言ってしまえば、戦時中の日本であり、現在の某国である)。コミュニティの運営に必要な知識を上層部が特権的に管理し、住民に対して無言の恐怖をもって統治する点、その上層部の考える安寧のためには、コミュニティ内の異物は強制的な排除をもって取り除いてしまう点等々、抜き出してゆくと分かりやすいのではないか。主人公の少年少女は、外部の敵と戦いながらも実はこのコミュニティの構造を、更に現代的な平等感覚によって一旦破壊することにも一役買っているともいえるだろう。
 もう一点、他の貴志作品でもあった主題だが、その能力そのものよりも知恵や知識といった部分が生き抜くことに重要なポイントとなっているところもエンターテインメント性を際立たせる理由になっている。主人公の少年少女が特異な運命を辿る原因も、大人が隠していた世界の秘密を覗き見したことから始まるものだし、また禁忌の内容にしても結局は知識であり、更に最後の戦いも知恵によって終結され、この世界の凄絶な秘密も知識と探求によってもたらされる。このあたりの統一性もさすがだなと感じられた。

 超大作であるのにするすると読める。SFのテーマとして全く新しいものではないかもしれないが、むしろ作者の狙いは新しい発想で作品を埋め尽くすよりも、この遙か未来の物語を現代読者の手に届かせることにあるのではないか。この作品における呪力を持つ人々の立ち位置は、自らが住む地球を汚染させじわじわと壊しつつる全ての生物の長として君臨する現代の人間たちとも重なるわけで。とはいっても、無理矢理探し出したような主題など気にせず、サプライズや展開が重要視されていることも事実なので素直に物語に飛び込むべきなのだろう。


08/02/16
篠田真由美「一角獣(ユニコーン)の繭」(講談社ノベルス'07)

「建築探偵桜井京介の事件簿」第三部の三冊目(本編では十三冊目、篠田真由美さんデビュー以来四十五冊目にとなるという)。つまりは本書を入れず残り二冊でこのシリーズは完結する。

 前回の物語『聖女の塔』の事件によって入院する羽目に陥った蒼。しかし、その事件の首謀者である人物Mは、自分自身が犯罪を行った痕跡をほとんど消し去っていたが、京介に対する暴行未遂などで一旦は捕まり官憲の手に渡った。しかしその後に自殺未遂を図り、精神異常を装ってその筋の病院に入院。さらに脱走して身代わりの死体が発見された。彼は再び姿を変えて野に潜み、京介に対する復讐心に燃えている二〇〇二年の初夏。京介最大の弱点である蒼は、門野貴邦老人の意向により、栗山深春の護衛付きで上高地に近い会員制の極秘リゾートで静養させられることになる。前回の事件でMに操られ、彼に対して恨みを高める輪王寺綾乃と深春は婚約者同士という設定で、三人で訪れたリゾートは確かにハイソな人間が集まる『去年マリエンバートで』の世界。そんななか、敷地内の森の中を散歩していた蒼は、髪の毛の一部が白い謎めいた少年(少女?)と出会う。七座(ななくら)晶那というその少女は、放火殺人で父親ら親族を喪った過去があり、心が氷のように閉ざされていた。彼女と自分の姿にかつての自分と京介の姿を重ねた蒼は――。

加速、加速――。京介と宿命の対決は最後まで明らかにされていないある謎の呼び水に。
 散々、近作で述べていることながらこの「建築探偵桜井京介の事件簿」のシリーズは、シリーズであることの重要性が、個々の物語の独立性を超えてしまっている。本作はもちろんそのシリーズの方の意味が強烈に出てきており、本作単体でミステリ作品と読むような読者は、そもそも作者は全く考慮していないように思う。また、シリーズが長く継続することによってあまりきちんと評価されていないようなのが残念なのだが、実はこのシリーズ、本格ミステリの観点から眺めても各巻、かなりの佳作が揃っている。 特に第二部に相当する一部作品のレベルはかなり高いと思うのだ。ただ、作者自身もあとがきで述べている通り、既にあまり本格ミステリの形式に則ることにあまり意味が無くなってきている。本作も残念ながら本格ミステリの意味であれば、かなり反則的な技が使われている――のだが。シリーズ全体を通してのエピソードという意味ではかなり重要な作品であるといえ、トータルとしてのエンターテインメント性(さまざまな面白み、興味の合算)は、あまり損なわれている印象がないのだ。作者のミステリ離れと昨今のエンタメ出版業界のそれとが微妙に重なるようにみえるのが個人的には哀しくも残念なのだが。
 さて。本作は、シリーズ全体で最も重要といって良いキャラクタ、蒼の最終成長を描いた巻。 彼が京介にしてもらったこととほぼ同様の行為を、この別荘地で知り合った訳ありの少女に対して注ごうとする物語。無意識的には知っていた自分がしてもらってきたことの意味を、自分が相手を信じて支えることで改めて蒼が気付いてゆく。もう彼も二十歳過ぎであり、立派な男性であることを(特に女性に対しても)示すところは、キャラ読み読者には賛否あろうも、シリーズとしては必然の流れではなかろうか。(このまま、不自然な男性x男性関係が継続する人もおられそうだが……)。
 最後に、繭ともいえるこの別荘地にまで入り込んできていた敵役の恐ろしい手口が明らかにされ、蒼は窮地に立たされる……あたりまでは予定調和。むしろ、この解決編において、そのやり方にいろいろと文句を言う深春と対比して、何か”考え”がありそうな京介が不気味に見える。……と思えば、それがシリーズ最後の謎に繋がっているとは。 ひとことでいえば、他の人間はおおよそ成り立ちが見える/描かれてきたにもかかわらず、ただ一人、過去がよく分からない人物がいることに気付かされた。そういうこと。

 必ず数ヶ月遅れの読者ですが、先も見えてきていることだし、きっちりとシリーズ最後までお付き合いすることと致しましょう。一冊目からリアルタイムで読んでいる訳ではないですが(たぶん、四冊目くらいから)、それなりに感傷的な気分になりつつあるかも。


08/02/15
鳥飼否宇「異界」(角川書店'07)

博物学的知識とバカミス紙一重(場合によりそのもの)のトリックにより、本格ミステリファンのあいだでカルト的人気を誇る鳥飼氏。本書はノンシリーズの長編作品。

 明治時代末期頃、博物学者・南方熊楠は勝浦に逗留、那智山中に弟子で造り酒屋の息子・福田太一を伴って粘菌や茸の調査を行っていた。その街では、狐憑きの少年が現れるという噂があることを太一は熊楠に語り、その謎を解き明かして欲しいと頼む。話を聞いてみると、熊楠らの知人の教師・岩倉吾朗の息子・駿平が犯人ではないかと言われており、実際にその駿平は夜中に家を抜け出すなど怪しい行動を取っていた。熊楠はその裏側に何か事情があると睨むが決め手はない。そんな折り、夜半に近くの遠賀美神社で熊楠や駐在の今井、太一の父親の仁左衛門らが酒宴を行っていたところに、近隣で変わり者と呼ばれる依田医師の娘・静子が駆け込んでくる。診療所で生まれた新生児が攫われたのだというのだ。慌てて現場に駆けつけた関係者だが、その依田は、攫った人物が汚い格好をした山男風の人物であったとは証言したものの、赤子の親が誰なのかは事件とは関係ないと明かそうしない。その身なりの情報からサンカが怪しいと言い出す警察に対し、熊楠は彼らに対する差別的待遇を憤る。しかし、その診療所を巡る事件は続き、静子の兄の和弥が、太一の実家の酒蔵で死体となって発見され、続いて行方不明だった依田医師も海岸で死体となって発見された……。

熊楠が探偵役をする必然、この時代ならではの事件の妙味。終盤の真相解明に素直に驚く
 前半は(書いてしまうのもなんだが)微妙に退屈な展開で物語が進む。熊楠に興味がある人は別だが、鶏などを襲ったりする狐憑きの少年といった現象のみだと読者の興味を引くには少し弱い。熊楠の奇矯な性格など面白くはあるものの、この段階では読者を約百年前の日本に少しずつ取り込む役割に徹している印象だ。殺人事件は中盤以降に発生するが、それも不可能的な興味が引かれるタイプとは微妙に異なって地味に見え、物語の牽引力としてはそう強いといえないのが実際だ。

 が、しかし。
 この作品、後半の謎解きがべらぼうに凄まじい。 単純な二転三転ではなく、事件の見え方、角度がめまぐるしく変化し、その妙味に酔えること請け合いなのだ。途中に登場する狼少年、狐憑き、誘拐された赤子の親、そしてその行方。殺人事件の真相。そうはいっても解かれる謎そのもの、単体としては、実は読者の想像の範疇にある。なぜ凄いのかというと、その背景にある事象が実にバラエティに富んでいるから。 だらしない人間関係がもたらした悲劇が事件の背後にあることを看破したと思えば、自然現象に対する深い洞察から導かれる答えが様々な事態をフォローする。さらに民俗学から来る神道への考察、様々な人間をフラットに観察する能力も重要な要素を構成し、当時ならではの近代医学の知識や常識、さらにはその医学を背負った人間の心意気に至るまでの理解等々、さまざまな事柄が組み合わされることによって推理が成り立っているのだ。
 さらには、サイコめいた人間心理に、純粋な論理による推理、とにかく様々な角度、知識が事件の裏付けとなって機能している。頑迷な考え方や信念を持つ都合の悪い人物を、怒鳴り散らして説得する人間性も含め、南方熊楠を探偵役に持ってくるだけの必然性がここにあり、得心する。
 そして極めつけは、プロローグとエピローグに仕掛けられているネタなのだが、これは本筋とは違うが強烈なバカミス。驚きましたが、その後は笑うしかないです。

 非常に個性の強い作品ゆえに万人に勧められるものでもないが、本格ミステリのコアなファンであれば喜びまくる可能性大。前半の微妙な退屈さに目を瞑って最後まで読み通し、素直に愕然とするのが吉。


08/02/14
古処誠二「メフェナーボウンのつどう道」(文藝春秋'08)

ルール』『七月七日』『分岐点』『接近』『遮断』『敵影』……等と同じく、本書もまた古処戦争文学に連なる一冊。『別冊文藝春秋』二〇〇七年一月号から十一月号にかけて発表された長編作品。

 太平洋戦争末期。ビルマ(ミャンマー)・ラングーン(ヤンゴン)の兵站病院に勤務していた静子ら日本赤十字の看護婦や衛生兵たちは、英印連合軍の侵攻に伴い、約350キロ離れたモーメルンへの撤退を命ぜられる。二班に分かれ、陸路行軍を命ぜられた守屋静子は看護婦としての矜持を胸に抱いて出発する。しかし途中で同僚看護婦の鈴木美津が行方不明となり、シッタン渡河を目前にして静子も彼女の姿を求めて引き返すことになる。美津は、途中の村でわざと置いてけぼりを狙った負傷兵・多々良木兵長を迎えに戻っていた。静子と美津、衛生軍曹の前中、多々良木、さらにはビルマ人看護婦のマイチャンらを加えた一行は、英米空軍の爆撃に晒される街道を、ひたすらに、時に休み時に寄り道しながらモーメルンへと向かって歩いてゆく。日本軍敗戦の匂いが立ちこめはじめた時期、そして場所。彼らはそれぞれ複雑な胸中を抱えつつ、道行きを共にする。

戦時・別の国・避難……という特殊環境下。人々の様々な思いが裏表となり傷つけ合う哀しみ
 古処戦争文学は(一般エンターテインメント文学に比して)重いけれど、重いばかりではなく様々なことを考えさせられる。本書は何も考えずに筋書きだけを捉えれば、そう起伏のある物語ではない。 戦争末期の撤退行というポイントのみを取り上げれば、そのままサバイバル小説を想像させるかもしれないが、その意味は薄く、むしろ本作は比較的安全な道行きであり、多少の不便はあるものの穏やかな撤退だといえるだろう。ほとんど人の死は扱われないし多少の危険はあれども、その転進行軍に参加したメンバーは目的地に到着することができる。これまでの古処作品であれば、その状況の悲惨さを徹底して描写しぬくことで、戦争を知らない読者に”何か”を訴えてきたところであるはずが、本作その点が実に穏やかなのだ。
 むしろ、その比較的穏やかな物語に複雑な人間心理を絡めるところが本作の主要テーマ。かつての日本の占領国のなかで撤退しつつある軍人・民間人・看護婦・現地のシンパ。彼らがそれぞれ抱えている、本来人間らしくあるために必要な優しさ、思いやり、慈しみといったところが、この状況下で反転、その思いを受け取る人にとっては痛みや迷惑となってしまう場面が、様々なエピソードを絡めて淡淡と描かれている。
 例えば、傷ついた軍人を看護婦が助ける行為が、他の人々の足を引っ張りたくないがために自分から離脱した本人にとってはむしろ大きな精神的苦痛をもたらす――といった具合。そんな個々人の人間らしいやり取りが繰り返されることによって、戦争がもたらす”何か”を浮き彫りにしていくというのが、恐らく古処氏の本書における狙いであろう。

 そして戦争ってのは一体なんなのか、いろいろと考えさせられる。(このあたりはこれまでの、他の古処戦争文学と同じといえば同じ。だけど角度はちょっと異なる)。本書、版元も文春であるしそろそろ直木賞の匂いがするのだが……、どんな ものだろうか。


08/02/13
北野勇作「北野勇作どうぶつ図鑑その3 かえる」(ハヤカワ文庫JA'03)

『SFが読みたい!』2004年度版で第12位(微妙)を獲得した、全六冊のシリーズの三冊目。SF界のどうぶつ博士(?)こと北野勇作さんによる文庫オリジナル短編集。『異形コレクション』に発表された三作品にカメリシリーズ第二話が書き下ろし。更に「かめ」に引き続きのショートショート「動物カレンダー」が加わる。折り紙付き。

オーディションに落ちた彼。薄っぺらいと酷評された劇団員の彼は様々な想いを抱えながら螺旋階段を降りる。映画『グランドホテル』の試写会を見た帰り、エレベーターを待たずに階段を選んだのだが……。 『螺旋階段』
奈落、客席、裏方、舞台。劇場には様々なアクシデントがつきもので、楽屋ではそんな様々な噂が語られる。果たして本当のことなのか、そうではないのか。 『楽屋で語られた四つの話』
先生の家からの帰り道。なかなか来ないバスを待たずに田崎と私は雨上がりの夜道を歩く。田崎に密かなライバル心を燃やす私は、彼が狐が怖いと言っていたことを思い出し、その話を振ろうとするのだが……。 『怖いは狐』
カメリやヒトデナシたちの住む世界。テレビのなかにはヒトだけではなく今はない様々なものが映し出される。なかでもケーキにカメリは興味を持ち、その店に行ってみようと町を苦労して通り抜けてゆく。 『カメリ、行列のできるケーキ屋にならぶ』
鯉のぼり。カエル通信システム。蝉時雨。クラゲの夏。 『生き物カレンダー(五月〜八月)』

北野勇作ならではのノスタルジック幻想ホラー群。プラスα。
 どうぶつ図鑑その3になる「かえる」。あくまでも個人的に、幾つかの理由からこのシリーズのなかでは印象深い作品集となった。というのも、ひとつは「異形コレクション」で読んだアンソロジー収録作、特に幻想ホラーの分野で北野さんの才能が強く発揮され、「ぞっとする」怖さを強調することに成功した作品が多いこと。
 一般的な北野作品における怖さは、頭の働きや記憶、経験といったところが自分の住む地平から知らずに切り離されてしまうこと(それも、温かな記憶と共に)から発生することが多いように思う。例えばこの「どうぶつ図鑑」でも「その1 かめ」収録の作品などはそのタイプだ。が、本作における怖さはそれとは違い、かなりストレートに怖さを強調する作品になっているのだ。特に『怖いは狐』は秀逸。夜道を歩く二人の男が、狐が化けたと思しきのっぺらぼうと行き会う話であるのだが、怪異そのものが発生させる何かを上回る怖さを別の角度から演出している。先の尖った傘、先の読めない動き、夜道を走り抜けるバス、男の笑い。等々、物語を構成する要素のひとつひとつが丁寧に演出され、場面が進むにつれてぞっとさせられ続ける。短編ホラーのお手本のような作品だと思う。
 もう一つの角度からの印象深さは、小説家と落語家とのコラボレーション企画「ハナシをノベル!」 に北野さんが提供した落語の、原作となっている作品が含まれている点。一つは、名作で何度か再演の対象となっている『寄席の怪談』の元ネタとなる『楽屋で語られた四つの話』。こちらは、劇場や劇団にまつわる怪異譚を四話のオムニバスでまとめたものだが、この一部は『寄席の怪談』の元ネタとなっている。(CD付き単行本『ハナシをノベル! 花見の巻に収録されて実際に聞くことができるので是非、耳で確認していただきたい)。
 もう一つは「動物カレンダー」収録の『カエル通信システム』。これはショートショートでしかないのだけれど、この作品がベースで同題の落語が月亭八天さんによって演じられている。残念ながら、作品集にも収録されておらず再演もほとんどなされていないようだが、北野さんにしか思いつかない奇想が改めて舞台でかけられたことを思うとやはり感慨深いものがある。

 とまあ、薄い文庫本のわりによくこれだけ書くことがあったなあ、と自分で感心している。あと三冊。


08/02/12
三津田信三「スラッシャー 廃園の殺人」(講談社ノベルス'07)

 「○○の如き○○もの」のシリーズ(怪奇小説家・刀城言耶シリーズ)が怪奇小説と本格ミステリの融合として高い評価を得ている三津田氏。それとは別に『シェルター 終末の殺人』という作品があり、こちらも「音引き単語+○○の殺人」シリーズとして継続してゆく模様だ。狂った作家の創った空間での殺人事件ということになるか。各シリーズはシリーズとして存在するが、三津田ワールドは基本的に地続きで他の作品とも共有される固有名詞等も登場する。

 人嫌いで変人の伝説のホラー作家・廻数回一藍(えすえいちあい)が印税と遺失物拾得の費用とで創り上げた現代の「パノラマ島」〈魔庭〉。テレビや雑誌の取材はシャットアウトされていたが、唯一、関西の同人誌『迷宮草子』には探訪記事が掲載されていた。しかし作者の死と共にその〈魔庭〉も廃園となっているはずだったが、人も滅多に訪れないこの地は高い柵に覆われ、勝手に侵入した者は生きて出られないという噂があった。その〈魔庭〉をテーマに、ホラービデオ製作のスタッフや出演者が撮影のために現地を訪れる。女優や俳優たち、さらにスタッフが車に乗り、不気味なガソリンスタンドを経て到着。入り口から廃園は禍々しい雰囲気に満ちていた。さまざまな趣向を取り入れた廃園を探険するメンバーだが、途中に様々な障害物があり、一人一人と脱落してゆく。そしてその脱落者を襲う黒づくめの服装をした謎の人物。阿鼻叫喚の地獄絵図が始まる……。

ミステリ小説という分野でB級メタ・ホラーを実現しようとする試み
 まずお断りしておきますが、本書には残虐な表現が数多く登場します。 本格ミステリが好きであってもスプラッタ・グロ表現はちょっと……という方は、まず手に取らない方が無難。
 ということで本書。これもまた感想を書きあぐねて再読してみた口。初読時にはまさに”毒”に当てられた。ホラー映画ファンにはお馴染み、ダリオ・アルジェントへの献辞から始まる本書、まず筋書きがホラー映画そのまま。曰く付きの廃園に入り込むスタッフ、一人一人が離ればなれになったところを殺人鬼が襲い、その殺人鬼がスプラッタ系のホラー映画そのままの残酷な殺害方法を念入りに施していくのだ。その描写がまたある意味丁寧であり、人体が苦痛にまみれて解体される様がじっくりと描かれる。少なくとも最初の殺人場面でグロが苦手な人ならばギブアップものだと思う。……というような描写が繰り返されるために本書に本格ミステリの要素がある(かもしれない)ことなど、序盤から頭のなかから吹き飛んでしまったのだ。
 ということで再読して冷静に追ってみた結果、初読時に気付かなかった伏線や隠し味がようやく判明した次第。そもそもがホラー映画の定番を追ったような筋書きそのものがミスリードであり、そういったスプラッタ描写についても、考えようによっては読者の推理力を曇らすための煙幕として機能していたということだ。(多少邪道という気もするけれど……)。
 あと、これも最初から気付いてはいたが、登場人物の不自然さ。口にする台詞が妙に説明じみている点、やたらに多い独り言、台詞そのものが陳腐な内容であること。こういったことも真相に至る道筋であり、作者の小説技巧が下手と思わせていること自体もまたミスリードであるのだ。
 最終的に他にも謎解きをするために取り上げるべき細かな手掛かりや要素について犯人の口から明かされるが、むしろ全体の雰囲気から真相は読み取るべきなのだろう。ただ、ミステリとしてのサプライズよりもこの物語で記憶に残るのは、やはりその中途の残虐シーンであるのは良いことなのか悪いことなのか。

 逆に、ホラー映画ファンであれば、登場する固有名詞といい物語自体といい狂喜することができるのでは。(自分がそうではないので簡単に断言は出来ないのですが……)。ランキングに登場するタイプの作品ではないけれど、一読したら忘れられなくなる作品であることは確か。


08/02/11
中野順一「ロンド・カプリチオーソ」(東京創元社ミステリ・フロンティア'07)

2003年に『セカンド・サイト』で第20回にして最後の回となったサントリーミステリー大賞を受賞した中野順一氏の、ミステリ・フロンティア初登場作品。版元は変更になったことになるが、本書は『セカンド・サイト』の続編にあたる。

 新宿西口のバーでピアノ弾きのアルバイトをしている檜山拓人(タクト)。彼の父親は絶縁状態にあったが世界的な音楽家・檜山晴孝であり、タクトの演奏はその英才教育の賜物であった。タクトは怪我が原因で芸術の道に挫折、フリーターなどを経て現在に至っている。タクトの恋人は花梨。花梨には人に触るとその人物の未来の運命を視る能力〈ビジョン〉を持っていた。その花梨は現在スナックでアルバイト中。彼女を養う甲斐性がないことを自覚しているタクトも黙認せざるを得ない状態だ。その花梨に最近執心しているのが三島組傘下小林興業のナンバーツー・柳田である。見た目は頼りないが頭脳派の切れ者。タクトは友人のアキラとコウジと共に、その柳田を目撃するがコウジは急に落ち着かない様子で店を出てしまう。花梨に柳田のことを訪ねるタクトだったが、店では柳田はそう危ない存在ではないという。しかし「新宿西口には近づかないで欲しい」と花梨はタクトの〈ビジョン〉を視て言い出す。しかしタクトはその忠告を無視して西口のラーメン屋に向かい、そこで一人の女性と知り合った。タクトはそこから父親宛てにかかって来る脅迫電話、さらにはコウジの謎の墜死と事件に次々巻き込まれてゆく――。

軽快に動く登場人物の自覚していない無軌道ぶりが、いかにも現代の青春小説らしさを成す
 前作はキャバクラの実態を赤裸々に描いた風俗小説といった趣にちょっとした超能力を加えた作品で、本作はその続編。相変わらず花梨の超能力は健在ながら、主人公がその運命に反発して行動することから事件が始まる。(このあたりの考え方の変化が、前作からの時間の経過を表現しているといえなくもない)。
 このタクトが水商売系フリーターの経歴から考えられない(偏見?)ほどに”いい人”であるのが本作の核。面倒見がよく責任感も強く、目的には粘り強く食いつき、少々のことではへこたれない。ただ、そのタクトの行動の源泉となる思考が、裏側や真理まで深読みは出来ない一方、ある目的へ達するための考えや手段といったところに軽快にアイデアが浮かぶというタイプとなっており、あくまで個人的にはもどかしさも覚えた。(もちろん最後の最後には真相に到達するのだが)。 ただ、その人格形成が軽めのミステリとしては理想的な登場人物となっている点も事実で、周辺に目配りし、関係者に近づき、わざわざ本人(真相)から遠いところからヒントを得ては少しずつ近づいていく――という軽ハードボイルドめいた状況がすいすいテンポ良く展開していくところは面白い。特に、タクトの行動そのものは一見直情的であまり深い考えがないようにみえるが、ポイントとなる局面だけはそれなりに考えが巡らされており、そのあたりのバランスは良いようにみえる。ところどころの行き当たりばったり、無軌道ぶりが若さを強く感じさせ、現代の青春小説らしさを逆に際立たせている。 また、物語中に登場した幾つかの謎が最終的に綺麗に過不足なく回収されていく過程がすっきりしている点も特徴。ただしこの点については、例えば義絶した父親からの依頼が相対的に軽く感じられるところなど、物語中のエピソードの軽重を犠牲にしているところもあるようにみえる。
 タクトだけでなく、死亡するコウジも、友人のアキラも、恋人の花梨も”いい人”。ついでにいえばヤクザの柳田や、コウジの元彼女のマコリンも、その他登場する人物たちもかなりの”いい人”。平和な環境にいる悪い人間の物語よりも、生き馬の目を抜くと思しき風俗・ヤクザ業界でのいい人の物語という点、どこか石田衣良・IWGPシリーズと表面上似ているようにみえる。また、本作の主人公・タクトとIWGPのマコト、二人のキャラクタもどこか近い。その意味でも舞台が池袋と新宿、と敢えて変えてあるのかな。新宿といえばどうでも良いことながら個人的には、新宿マイシティが既に無くなっていることに愕然としました。(東京から離れてからかなりの時間が経過しているからねえ)。

 物語のエピソード的にも『セカンド・サイト』(今は文春文庫)を読まれてから取り組まれることをお勧めします。軽めの風俗ミステリ(でもって”いい話”)だと思って読んで頂ければ吉かと。