MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


08/03/10
篠田真由美「美(うるわ)しきもの見し人は」(光文社カッパノベルス'08)

 このシリーズはどうやら「さいはての館」シリーズとして名付けられたようだ。前作『すべてのものをひとつの夜が待つ』が非常に優れた作品だった。前作のゴシック+本格から本作は更にゴシック寄りの小説へと転換しつつある印象。

 長崎県の北西部、生月島のさらに先に浮かぶさいはての島・波手島。この島にはかつては幾つかの作品と、妻との交流を描いたエッセイ風私小説で一世を風靡したキリスト教文学者・蘭堂叡人が住み着いた。僅かな村落とほとんど産業のない貧しいこの島には、隠れ切支丹の伝承があった。しかし蘭堂は今は亡く村人も島を去り、彼の親族と何人かの使用人らが、蘭堂の建てた修道院を模したという巨大な屋敷のなかで暮らしていた。出版社からの派遣ライターとして島を訪れた「私」は、実は探偵でもあった。叡人の妻の妹で養女扱いの女性・蘭堂キアラの依頼を受けたのだ。キアラは叡人の著作権継承者であったが、叡人の隠し子という青石羊子なる女性が現れ、島に乗り込んでくるに際し、羊子の嘘を暴いて欲しいのだという。一方、その叡人は、この館に居住したまま失踪宣告がなされ、死亡したと見なされていたが、キアラをはじめとした島の住人によれば、彼は密室状態の書斎のなかから「昇天」したのだという。醜悪な老嬢の依頼に対し「私」は迷路のような複雑な構造を持った館の構造に戸惑い、さらに一癖も二癖もある使用人たちのあいだで翻弄される。果たして青石羊子が乗り込んできた直後、島を訪れていた美貌の編集者が死体となって発見された――。

館、島、そして人間関係。全てがゴシックの香りを色濃くまとって重厚。この妖しさがそのまま魅力。
 篠田真由美版『聖女の島』……というのは表層だけか。まずは中世のゴシックめいた重苦しくむさ苦しい感覚を現代に蘇らせるための舞台装置を見事に設えたところがポイント。 世界のさいはて、俗世間から隔絶した島、さらにその島に建てられた実用本位からはほど遠い、使い勝手の悪そうな館。こういったハード面はもちろんだが、更に住人についても凝っている。主人から使用人に至るまで女性ばかり。醜さを強調するような下品な化粧と装飾を身に付けた女主人、年老いてなお気位が高くかつてを懐かしむきっちりしたメイド頭、人間臭さを感じさせないロボットのような司書……。こうった全ての人が様々な想いを抱きながらも、亡き主人の「昇天」については疑いを差し挟まない。美少女も令嬢も登場せず、むしろ島に暮らす人々は癖が強く、一般社会に迎合できないようなタイプの人々ばかり。この段階で何が起きてもおかしくないという下地が整っているように思われる。
 本書、例えば、蘭堂叡人の「昇天」であるとか、中盤の女編集者の謎の墜死であるとかミステリの要素も揃っているし、本格風の解決がつけられている。面白いのはそれらの謎解きが本格の手法で行われず、むしろその謎が解体される過程の方に小説自体の意味合いがあるようにみえること。つまりは亡くなった主人自体が矮小なつまらない人間である一方で、その男性に縋ることで自我を保ってきた女たちの関係。さらにはこの「さいはての島」に籠もらざるを得なかった作家の感情と状況といったところ。これらが少しずつ明らかになり、この重厚な空間がいかにして構築されたかの過程が、謎解きの経過のなかで明らかにされていく。重苦しい世界の重苦しい理由がそのままこの小説の根幹を成している。謎は解体されてもすっきりせず、狂気は狂気のまま残り、世界は解きほぐされた結果、滅びへと突き進む。
 ある意味、狂気に彩られた世界の狂気の理由を垣間見、そしてその雰囲気のなかの謎めいた何かが読後も解き明かされきれないまま残る。幻想ミステリともいえようが、やはりゴシックが強すぎる。以前にも書いたが本格ミステリのルーツがゴシック小説にあったことを改めて感じさせてくれる作品。温故知新、か。

 気軽にミステリを楽しみたいという人にはちと重いかもしれないながら、本格ミステリがお好きという方には相性が良いはず。これもまた、ミステリという存在を見据えた末の篠田真由美さんならではの味わいだといえるだろう。

 この波手島という固有名詞、どこかで……と思ったら作者自身があとがきで、建築探偵・桜井京介のシリーズ作品『聖女の塔』にも登場した島だと明かしてくれていた。道理で。ついでにいうと人名などの固有名詞の付け方がなんとも意味深だったりします。探偵の名字が沢崎っていうのはまだ分かるにしても。


08/03/09
石持浅海「君の望む死に方」(祥伝社NON NOVEL'08)

 『このミス』第二位に選ばれるなど、本格ミステリとして非常に高い評価を得た『扉は閉ざされたまま』の続編となる長編作品。前作に引き続き、倒叙形式が踏襲されている。

独自のフライホイールの開発によって発展してきたソル電機株式会社の創業社長・日向貞則はガンにより、余命六ヶ月の告知を受けた。過去に日向自身の過ちによって、創業時のパートナーであった境陽一を喪い、自分一人で会社を発展させてきた日向は、境陽一の忘れ形見で、生い立ちを隠して入社してきた梶間晴征に自分を殺させようと思い立つ。梶間には様々な意味で自分に対して殺意を抱いていることを日向は確信していた。ソル電機の有望社員を集めて保養所で行われる「お見合い研修」に日向は梶間を含む四人の男女を集め、様々な凶器や仕掛けを準備、お膳立ては整えた。また日向は梶間自身が殺人者として告発されないよう、外部犯が侵入できるような形跡までをも仕掛けている。そもそもお見合い研修は、研修名目で優秀な男女社員に出会いを与え、社内結婚を推奨するというシステム。梶間自身殺意をもって研修に乗り込み、様々な計画を練り始めるが、社長の甥らが呼ばれた「お見合い研修」の立会人のなかには、あの碓井優佳がいた――。

特殊な設定のなかで繰り広げられる倒叙+逆倒叙。探偵の立ち位置すら歪む、本格ミステリの涯――。
 自分の余命が決定したところで「はて、自分を殺させてやろう」という設定だけみると、なんとなく多岐川恭っぽいとか思う。ただ、この設定をユーモアミステリとして処理するのではなく、本格ミステリにしてしまうのが石持浅海。ただ、どうやって自分を殺させようかと保養所のなかに様々な凶器を仕込む姿は、考えようによってはユーモアミステリっぽくはある。(ブラックではあるが)。
 被害者になろうとする日向、加害者になろうとする梶間の双方からの視点で物語は進み、双方の殺意と被殺意(?)が交錯する展開はスリリング。このタイミングで実行しようとすると、何か計画違いがおきて断念する――というのは、計画殺人ものならではの緊張感と繋がっている。ミステリでありがちな御都合主義の反対というか、結構簡単な懸念によってその実行をためらう姿は、殺人者にとってのリアルだともいえよう。また、一方で被殺意(殺されようという気持ち)を抱く、日向にとっても、いつの間にか自分の準備した凶器が何者かによって無力化、無効化されてしまっている展開も居心地が悪く、逆の意味でのサスペンスを形成している。
 そして名探偵。前作をお読みの方ならば誰がその役を務めるのかは自明のことだが、まだ発生していない殺人を前にして「さて」となるところが面白い。普通ならば事件発生後に行われる「さて」が、あまりにも明敏な観察者の目によってその事件が発生する以前に行われてしまう点、定型からの歪が激しく、そしてそれでいて座りが良い。ある段階に謎解きが行われ、そして、その探偵役が提示する物語の結末にまた意外性が存在する。石持長編では動機の特殊性が議論されることが多いながら、この場合は殺す、殺されるのみではなく全体を通じての展開の特殊性が特徴の本格だといえそうだ。

 これまた特殊な本格ながら、読み応えは十分。派手なトリックはないながら、構成で魅せる作品として印象に残る。
 個人的にはソル電機が、新薬やITの会社ではなくてフライホイールの会社というあたりがツボだったりもする(ミステリにおいて急速に発展した会社という設定は数あれど、その発展するための製品という点はある程度決まり切っていることが多いなか、フライホイールってのは意表を突かれましたよ。個人的にですが)。


08/03/08
青柳友子「黒魔術の少女」(集英社文庫'92)

 '91年に作者の青柳友子さんが逝去され、その翌年に文庫書き下ろしで刊行された長編作品。(出版社に原稿が預けられていたということなのだろうか)。

 町田カオリ、十六歳、高校一年生。カオリには神様から貰った特別な力があるのだという。カオリが人間の胸を指差し、心の中で強く「死ね」と念じると相手は死んでしまうのだという。更にカオリは黒魔術を知っており、悪魔を呼び出せるのだという。その悪魔は死体の新鮮な心臟があれば、相手を蘇らせることができるのだという――。そのカオリは怠け者の祖母と放埒な生活を送る母親と三人で生活していた。彼らは働くことがきらいでカオリもまともに育てて貰えなかったが、カオリ自身は世間でも目を引く素晴らしい美少女であった。内向的なカオリは、頭自体は悪くなかったが行動が遅く、そのせいで頭が悪い子どもとして認知されていた。母親や祖母から虐げられながら暮らしてきたカオリは、ボロアパートの一室をこっそり自分の部屋に改造し、時々そこで一人の時間を過ごしていた。優しかった義父をそこに案内してしまった時に間違いが起きそうになり、義父は彼女の超能力で死んでしまう。さらに祖母と母親の思惑から、野崎という社長のもとで働いていたカオリは、また身体を狙われる――。

美貌を持ちながらあまり賢くない女の子の悲劇――。
 非常に微妙。
 黒魔術及び超能力が自分に備わっていると信じ込んでいる美貌の少女(といっても高校生くらい)が、巻き込まれる悲劇の物語。ただ、書き下ろしなのでたかだか十数年前、ミステリを標榜する作品に”超能力””黒魔術”なんて言葉が出た段階でかなり怪しいし、普通は「超能力でしか説明がつかない事象」が発生してそれを現実論理で読み解くという展開になりそうなところ、この作品ではかなりの無理をした結果、別の展開となっている。 というのは、主人公の少女が本気で超能力を信じているのだ。しかも電波でも狂信でもなく、頭が良くない(知的能力が一般水準より劣っている)ということを理由にしている。この段階で物語が歪んでしまうのは仕方ないのか。
 ――冒頭で殺人事件の回顧から始まる。部屋の一室で勤め先の社長の腹を引き裂き、黒魔術で生き返らせるため心臟を探し求めて腹の中に手を突っ込む少女。彼女は超能力で男を殺害したと自白――。この自白の裏側に、殺人に関してだけは彼女が行っておらず、別に犯人がいたという点のみミステリーとしての意味があるものの、彼女の自白から肝心な部分が抜けていただけというもので、どんでん返しというレベルからはほど遠い。
 という訳で、本書はミステリとしては楽しめる作品ではない。ならば何かというと、不幸な少女の一代記といった通俗読み物といった印象だ。主人公少女の母親と祖母が悪質で、義理の父親のエピソードも辛くもの悲しい。彼女自身、知能が十分発達しておらず、その美貌と肉体とのギャップを周囲から利用されていることに気付かない。彼女が陥る悲劇が結局のところこの物語の本質そのものなのである。

 現代のミステリを含むエンターテインメントでは禁忌の領域に無邪気に脚を踏み込んでいるような作品。昭和の昼ドラの感覚に近いか。ミステリ的に目新しいことはなく、現代読者に対してはとりあえず薦められないです。


08/03/07
式 貴士「式貴士 怪奇小説コレクション カンタン刑」(光文社文庫'08)

今なお根強いファンのいる異色SF作家・式貴士。'93年に刊行された『鉄輪の舞』以来、久々で刊行された文庫オリジナル短編集。ほとんどが既に単行本化されている作品ではあるが、初単行本化となる短編が二編、間羊太郎名義で原作を発表した劇画(画:上村一夫)が収録されており、単行本を完集されている読者もまた購入する必要がある(はず)。

残酷非情な殺人鬼が逮捕された。世間の感情が収まらないため、検察は死刑では軽すぎるのでカンタン刑に処すとの求刑を行った。死刑より重いというカンタン刑の内容とは……。 『カンタン刑』
古今東西のさまざまな首吊りや絞首刑に関して博学を誇る男。その彼が曰く付きの三味線を弾きながら自身の人生について独白をする……。 『首吊り三味線』
大雨のある日、自宅の庭に一人の女性が裸で突っ立っていた。そんな彼女の魅力に取り付かれた主人公は家に招き入れて一緒に暮らすことにする。彼女は学習を開始、少しずつ周囲のことを学び始める。 『涸いた子宮』
ぼくの不注意の事故で全身不随の大怪我をした妻。ぼくは妻の不要な身体を取り去り、首人間にした。その首だけで生きる妻は毎日、家でぼくの帰りを待っている。 『ヘッド・ワイフ』
『おれの人形』
大学一年生の時に理想のアドニスに出会った彫刻科の私。中学三年生・舞木純を思い切り愛し、その身体を彫刻に刻んだ結果……。 『マイ・アドニス』
白血病で苦しむ妻とお祈りしていたら、ある日突然世界中の水という水、水分という水分がいつの間にか全て血液に変わってしまう。雨や海水までが血となり、人々は血を啜りながら生きてゆくのだが……。 『血の海』
中絶した胎児を特殊な方法で成長させ、人間型ペット扱いとして認可されたアイス・ベイビー。主人公もなけなしの金をはたいて購入を試みるが……。 『アイス・ベイビー』
蝉の鳴き声のような耳鳴りが聞こえるメニエール病。この病気に罹った男がバーにゆくと、同じ病気に罹ったという男が常連客にもいるのだという。 『メニエール蝉』
占星学を嗜む雄三は、米国のパソコンソフトを利用して人間の死期を知ることに成功、人間には人生に三度ほど死期に近づくタイミングがあり、雄三にもその一度目が近づいていることを知った。 『塵もつもれば』
その夫婦はあまりに気が合いすぎるせいで会話がなくとも普通に暮らしてゆくことができたが、徐々に妻の表情が暗くなってきていた。 『鉄輪の舞』
パラレルワールドの日本。胃毛袋(いけぶくろ)から皮声(かわごえ)まで塔京都(とうきょうと)の私鉄、東城線(とうじょうせん)の沿線を詳しくご案内してゆきましょう。 『東城線見聞録』
夫と妻、小学生の息子の三人家族。妻は家族に隠れ、自宅にセールスマンを招じ入れて浮気をしており、そのことに小学生の息子は気付いていた。やがて妻は妊娠し、息子は飼っている猫に少しずつ調教を加えて……。 『仕置猫』 以上、十二編。

久しぶりに麻薬と再会。人間の欲望やさまざまなテーマを徹底追及してエンタに高める式貴士のマジック
 久しぶりに式貴士作品に触れることが出来て狂喜。蘭光生、間羊太郎、小早川博といった様々なペンネームを駆使して各方面で才能を発揮した氏だが、やはり個人的にもっとも合うのは、この式貴士の名義で書かれたスーパーSF作品群だと思う。『ミステリ博物館』が唐突に文庫で近年復刊されたと思うと、今回こういった作品集が出たのは嬉しい限りだ。
 さて、このスーパーSFだが不思議な味わい……がある。いわゆるエロとグロを全くタブーとせず、正面から描くのがまず特徴。特にエロ方面については時々行き過ぎてしまい、奇想を超えて単なるエロになってしまうところもご愛敬。また、その奇想も、(疑似)科学などの裏付けなし。思いつきで世界を構築してしまう割に、その世界を短編の短い分量のなかでも徹底的に造り上げようとする職人芸がまた魅力である。本書では、その式作品の代表作や特徴ある作品をうまく抜き出しており、その式式奇想をしっかり堪能できるセレクトとなっており、これから式作品に飛び込む読者には好適な一冊だといえるだろう。
 著者全体の作品群のなかでも代表作扱いの『カンタン刑』はグロ系統の、本書収録でいうと『アイスベイビー』といったあたりがエロ奇想系統の特徴をよく現した作品になる。特にその着想、発想にまず目が行くし、そのアイデアに感心しながら読むのが一つの楽しみ方である。ただ、突き詰めてゆくと単に面白アイデアだけの作品ではなく、その裏側に様々な愛のカタチがあるところがもう一つの式作品の読みどころなのである。異形と化した状態でも対象を愛し続ける主人公。愛情ゆえに相手を歪ませ傷つけてしまう主人公。式作品の登場人物は生真面目に対象を愛していく。それが変態性欲の部類であっても、実に生真面目なのだ。その愛情のかたちが一般的なそれと異なっているからこそ、式作品は心に残るものになってゆく。(同時に単なる悪ふざけのような作品が混じっていたりするところもまた式貴士らしいところでもあるのだが)。
 そしてその奇想も時代を超えてゆく。というのは、先に述べた科学や疑似科学の裏付けがない発想のため、発表された年代から今に至り、また未来になったとしても常にこの作品世界は「あり得ない」世界なのだ。さすがスーパーSF。実現されることのない未来の世界が物語となっている。この結果、出版界の動向によって入手できる出来ないの違いはあったとしても、未来永劫に式貴士の描いた作品は常に新しく、新鮮な驚きを未読の読者にもたらすことになるはずなのだ。(それをまた本書は証明しているといえるのではないか)。

 単行本未収録作品もあり(うち、『塵もつもれば』などは式貴士らしいブラックな味わいに満ちている)、従来からの式貴士ファンはもちろん、式貴士を代表するような作品群も並ぶため、こういった作風に興味のある読者も良い機会なのでぜひとも手にとって欲しい。とりあえず間違いなく来年の「この文庫がすごい」あたりで高い評価を得ることになると思う。


08/03/06
芦辺 拓「十三番目の陪審員」(角川文庫'03)

'98年に”新本格ミステリー書き下ろしシリーズ”の一環として単行本で刊行された同題の作品の文庫化。芦辺拓氏の代表的名探偵・森江春策シリーズの一冊。本年(08年)に『裁判員法廷』が刊行されたこともあり、再読してみた。

 反りの合わない会社を辞めて一年余り。貯金も底を尽きかけている作家志望者の鷹見瞭一は、高校の先輩であり編集者である船井信より一風変わったオファーを受ける。有名なノンフィクション作家小日向晃によるプロジェクトの一環として、鷹見に無実の罪を着てもらい、わざと冤罪事件を演出するというのだ。鷹見は承諾し、真犯人になりすますための工作としてDNA鑑定を欺くため、身体にある措置を施すために入院。さらに目撃者を仕立てた、人里離れた住宅で、相方の女性とともにあたかも殺人が行われたかのような劇を演ずる。目撃者側メンバーの弁護士として鷹見の様子を目撃した森江春策らは、事件の痕跡の残った現場を発見、警察に通報する。殺人劇だった筈の事件に実際の被害者が現れ、鷹見はいきなり逮捕され、女性殺害容疑で裁判に掛けられることになった。その裁判は昭和初期以来初めての陪審制で行われることになり、森江は鷹見側の弁護士として裁判所に登場する。

陪審制、冤罪、つくられた計画犯罪に政界の裏側。スリリングに展開する不可能挑戦型ミステリ
 一連の新本格ミステリにおける、例えば館だとか吹雪の山荘だとか、そういった特殊状況を「あり得ない設定」と切り捨てる向きがいることは承知している。本書における芦辺氏はその「あり得ない」を逆手に取る。人工冤罪、さらには陪審制と現実との繋がりをぎりぎりのところでつけながらも、非常に特殊なミステリを、しかも本格として成立させている。 この物語構造自体が既にアクロバティックだといえる。(陪審制については、本書発表より十年、絵空事から現実味を帯びた話へと変化しつつあるのだが)。
 冒頭で登場する遺伝学を用いたトリックも(前例はあるのだが)、かなり医学的に突っ込んだ内容であり、本来はメイントリックとなり得るもの。まず凄いのが、このトリック自体を倒叙のかたちによって描くことで物語上の捨て石として使用してしまう点だ。DNA鑑定すら欺くこのトリックを犯人自体が弄してしまったことにより、後半の裁判部分を乗り越えることが徹底的に苦しくなるのだ。本来、そのトリックの実行者である鷹見が、そのトリックゆえに窮地に陥る展開は謎めいており、サスペンス感覚が強い。ただこの部分でも、冤罪をわざと発生させることと作家デビューという鷹見が食いついた餌とが関連しており、設定だけなら突飛なのに物語上の違和感がないところもポイントだ。
 そこから後半の読みどころにあたる、陪審制による裁判へと繋がってゆく。裁判を描いたミステリは数あるが、本書もまたその一連の傑作群に引けを取らない内容だと感じられた。そもそも読者はどうやって犯罪が行われたかを知っており、その完璧性がゆえに、一般人である陪審員をして無罪を勝ち取ることの難しさを熟知している。さらにどうやって鷹見が犯罪に陥ったか知っていても、誰が何のためにそれを行ったのか分からない森江春策の苦闘(ここでまた当初の医学トリックの意味合いが復活する)が素晴らしい。ただ作者は、その解決でちゃんちゃんと終わらせない。さらに森江を「有罪になっても、無罪なっても陥る罠」に直面させてゆくのだ。この陰謀に対する解決策に、思わず唸ったときに本書の題名の深遠な意味合いに思い至るという仕掛けだ。

 その全ての手掛かりを作品中においておき、読者が感じるサスペンス感覚を序盤、中盤、終盤と質を変えて提供するサービス精神が物語性を高めている。社会派的性格が若干強すぎるところも感じられるが、この時期の芦辺作品には多少なりともそういったスパイスがあったことも事実。陪審制というテーマを実に巧みに物語に取り込んだ、先見性溢れる長編ミステリの傑作だといえるだろう。


08/03/05
北野勇作「北野勇作どうぶつ図鑑その5 ざりがに」(ハヤカワ文庫JA'03)

『SFが読みたい!』2004年度版で第12位(微妙)を獲得した、全六冊のシリーズの五冊目。SF界のどうぶつ博士(?)こと北野勇作さんによる文庫オリジナル短編集。'94年から'96年にかけて『SFマガジン』に発表された短編三編に、'97年に「産経新聞関西版夕刊」に掲載されたショートショート四編が「生き物カレンダー」として加わっている。

友だちの友だちに二十年間押し入れに住んでいたヒトがいるのだという。とても給料の安い会社に勤めていたのでまともな家を借りられず、やむなく無理矢理会社内に作った寮に住んでいた、仮にキタノさん。機嫌の悪い西野さんによって彼は……。 『押し入れのヒト』
お通夜の最中にいなくなった新田の爺さんが、なぜか家にやって来た。関わり合いになりたくない親父は逃げ、結局おれが爺さんをお盆の海へと送る羽目に陥る。爺さんは死んでいるはずだが、実は喋ることも出来た。 『ヒトデナシの海』
近所の河川敷を散歩していたところ上流から流されてきたペットを拾った僕。結局家に連れて帰ってきてしまった僕は、不思議な音色で鳴くそいつを飼うことにし、いろいろと飼い方について勉強をはじめる。 『ペットを飼うヒト』
ラッパ犬、ザリガニさま、豆狸祭、卵の記憶。 『生き物カレンダー(九月〜十二月)』

何かになろうとしても決してそのものと同じものにはなれない何かの哀しみ。
 先に「その1 かめ」あたりで書いたような気がするのだが(書いていないかもしれない)、しばしば北野勇作氏の作品では記憶がテーマとされている。肉体と個人の記憶が切り離されたり、他人の記憶が自分のものと重なり合ったりと、北野ワールドにおける記憶とは一種の集団知ともいえる存在で、要は頭の中さえ入れ替われば何だってできる(それが実現してもしなくても、実現したと思うことはできる)という扱いになっている。ただ、そのことが全能の特殊能力として前向きに描かれることは少なく、むしろ個人としての記憶が曖昧な状態がもの悲しく描かれていることの方が多い。前置きが長くなったが、本書はその哀しみを突き詰めたような作品によって成立している。
 というのも、特に後半二編『ヒトデナシの海』や『ペットを飼うヒト』における”ヒト”は、人ではない。記憶だけが残され、思考能力はあるものの所詮借り物の記憶によって生きている何かでしかない。それが人のいない世界においては人なのか、それともヒトもどきなのかの判断はむしろ読者に委ねられているように思われるのだが、その何かが抱えている感情が物語全体を支配しているのだ。
 ヒトの振りして我が身は何なのか。物語は仮想・空想の物語だが、ここから滲み出てくる哀しみ/悲しみは、どうも人類が普遍的に抱えている感情に近いようにも思う。つまりは誰もが抱く他人への憧れといった気持ちに通底しているということ。誰もが望むような”ヒト”に成り得ないし、成り得たとしても全部が全部憧れの通りにならないことの方が多い。 そういった時に感じる、ないしは押し殺している漠然とした寂寥感を北野氏は物語に込めるのだ。だから、誰が読んでも何かもの悲しいような気持ちになる。そういうことではないか。

 特製おりがみコレクション付き短編集も、もう五冊目まで来てしまった。長編も好きなのだが、こういった短編で北野氏の「言いたいこと」「表現したいこと」が漠然と感じられるこの試み、やはり素晴らしい。


08/03/04
道尾秀介「ソロモンの犬」(文藝春秋'07)

道尾秀介氏は二〇〇四年『背の眼』で第5回ホラーサスペンス大賞特別賞を受賞して作家デビュー。二〇〇七年『シャドウ』で第7回本格ミステリ大賞を受賞。本書は『別冊文藝春秋』誌、第二六七号から第二七一号にかけて連載された作品の単行本化。

 相模野大学に通い始めた秋内はボーイッシュな同級生・智佳に一目惚れ。奥手な彼はなかなか彼女に話しかけることができないが、同級の京平とひょんなことから仲良くなり、彼が智佳の親友・ひろ子とすぐに交際を開始したことから少しずつ智佳と会話を交わすようになる。京平・ひろ子のカップルを含め、四人でつるむことの増えた彼ら。そんな夏のある日、趣味の自転車を生かして自転車便のバイトをしている秋内が智佳に呼び出され、港で釣りをしている京平らのところを訪れる。そこには彼らの大学の女性教授・椎崎鏡子の一人息子・陽介が飼い犬のオービーと共に訪れていた。その椎崎教授の荷物から自転車便依頼を受けた秋内は、ファミリーレストランの前で陽介がオービーに引きずられて交通事故に遭うのを目撃してしまう。レストランには京平やひろ子、智佳もいた。なぜオービーは突然駆けだしたのか。秋内は動物に詳しい奇人教授・間宮に話を聞く。

(動物の生態+コンプレックス)×ミステリ+奥手な若者の青春小説
 主人公・秋内による大学生の、というには少々瑞々しすぎるのではないかと思われる青春小説(恋愛)が展開される。このあたり、大学生の世代にしては幼すぎるようにも一見おもわれるが、個人的には恋愛に奥手の大学一年生などこんな感じだと思うのでそう気にならない。(とはいっても現代的には、中学生レベルのうじうじしたところがあるようにみえる点は否定しないが)。
 その恋愛感情によって曇ってしまう、というかどうしても偏ってしまう視点から、数少ない友人である京平や、智佳の過去といったところが絡み、過去を回想するかたちで不思議な喫茶店での議論が繰り返されることによって謎解きが行われていく。事件は、彼らの幼い友人が事故死したという痛ましい事件。その周辺で、その前後の時間帯に何があったのか、果たしてその事件は事件なのか事故なのかといったところに焦点があたる。
 ミステリとしては特殊な部類に入るだろう。途中で動物博士(?)間宮の口を通じて明かされる動物の生態が重要な鍵となり、また道尾秀介お得意の読者の思いこみを逆手に取るようなトリックも仕込まれている。 犯人の設定が意外である一方、その犯人すら欺くようなトリックを作者が仕掛けていることから、読者が全体を見通すことは難しい。ただ、そういった凝った設定を用いているためミステリとしての結末はインパクトよりも、青春・恋愛小説特有の「思い通りにゆかないことの寂しさ」を強調しているように感じられた。また、序盤から中盤にかけての細かな描写のなかに様々な伏線が仕込まれている点も現代的なミステリとして、この作品のセンスの良さを感じさせる。一方で、夢オチに近い多少ファンタジックな部分も一部にあり、そういった大胆な展開もまたミステリとしての”形”にこだわらない道尾氏らしい表現手法として印象的だ。
また、主人公や、その親友の京平といったところが抱えているコンプレックスが物語の重要な点を占めている点も特徴的にして、青春小説的なほろ苦さを高める効果もある。物語の本筋を補強する描写であり設定であるのだが、こういった心理的な要因によって、他人と異なる行動を強いられるというところを物語内に織り込んでいるところ小説として巧い。

 非常に瑞々しく、痛く、そしてほろ苦い。本格ミステリとして読むことも、青春小説として読むことも出来る作品。道尾秀介の作品群のなかでは軽め(とはいっても登場人物の苦悩は決して軽くないが)のようにも思うのだけれども、むしろこれくらい軽めに仕上げてくれた方が、内容から発する様々な痛さが際立って、ストレートに伝わってくる印象だ。


08/03/03
芦辺拓(他)「密室と奇蹟 J・D・カー生誕百周年記念アンソロジー」(東京創元社'06)

本格ミステリの世界というものは、そのトリックと謎解きのオリジナリティを競い合うという性格上、過去の歴史(即ち、過去に発表されたミステリ作品群)とは切って切り離せない関係にある。本格黄金期に活躍し、数々の不可能犯罪ものの作品を著してミステリの発展に寄与したジョン・ディクスン・カー。別名義のカーター・ディクスンも含め、現在に至っても信奉者の多いこの作家を敬愛する、現代日本のミステリ作家による競作アンソロジー。

カーの名前を冠するに恥じない高いレベル。各作家が自分の持ち味を出しながら競い高め合った宝石群
 単純にトリックが、物語が、というよりも個々の作品の個性が強すぎ、さらにはカーへの敬愛の念、オマージュの度合いといったところもそれぞれ表現方法が異なる。全てがパスティーシュだったりする訳でもないため、個々の作品について感想を書くことにする。

芦辺拓『ジョン・ディクスン・カー氏、ギデオン・フェル博士に会う』
 ラジオドラマで放送するミステリの脚本を執筆したカーが、生放送されるBBCの現場に立ち会ったところ、そこには思わぬトラブルが。重要な役所を演じる筈の女優の姿が放送途中でみえなくなってしまったのだ。関係者が臨機応変に対応するなか、奇妙な事件が発生していた……。
 カーが執筆したというラジオドラマがまず存在し、その一方で現実にも事件が発生するという二重仕立てになっている。ラジオドラマの方の怪奇仕立ての味付けが程よく、さらに一九四〇年代のラジオ放送の現場もまた生々しく臨場感が引き立っている。多少登場人物が短編の割に多いような気もするが、その欲張りもまた味わいか。時代性、登場人物、トリックと三拍子が揃っていてこれが芦辺氏の筆と非常に相性が良く、物語のテンポが素晴らしい作品。 カー自身が活躍することに加え、カー・アンソロジーの冒頭を飾るに相応しい重量感と内容の揃った傑作短編。

桜庭一樹『少年バンコラン! 夜歩く犬』
 フランス・モンマルトル。出来たばかりのムーラン・ルージュで踊る踊り子たち。そこで発生した奇怪な事件と、踊り子を姉に持つバンコラン少年の謎解きとが融合する。
 これはもう世界観の構築の勝利。踊り子たちの歌う替え歌に「きゃーっ」という響き。頽廃した雰囲気に元気な踊り子たち。裏側にありそうな別の物語といった桜庭一樹にしか許されないファンタジックな物語構成と踊り子たちの嬌声が夜の闇を照らし、掻き回す。作者自身もいうようにこれはまさにミュージカル。 ミュージカル探偵小説、これが成功している点が既に奇蹟。

田中啓文『忠臣蔵の密室』
 十二月の雪の日、吉良上野介宅に討ち入った赤穂浪士たち。彼らが求めていたのは吉良の首だったが、探し求めた結果、密閉された炭焼き小屋の中で吉良上野介は何者かに刺し殺された死体となって発見された。赤穂浪士たちもその謎に首をひねる。大石内蔵助の妻・りくがその謎に挑む。
 カーアンソロジーに忠臣蔵。 普通あり得ないでしょう。この段階で田中啓文氏の面目躍如といった感がある。しかも史実としての忠臣蔵ではなく、エピソードから設定から上方講談の忠臣蔵なので個人的にはツボに入りまくり。それでも吉良上野介が実は密室殺人されていたという展開、外部の人間が謎解きする点など構成上の工夫も凝らされている。明かされる真実も歴史の闇に迫るもの(かどうかは不明)で説得力あり感心させられる。さらに最後の最後にむちゃくちゃな地口で落とす脱力感も田中啓文さんらしく、個人的には大好きな作品だ。

加賀美雅之『鉄路に消えた断頭吏』
 フェル博士が乗った列車のなかで発生した怪奇事件。走る列車、監視され、施錠された客室のなかでダイヤモンドの女密売人が首を切断された死体となって発見された。集まる関係者のなか、フェル博士と正体を現したある人物による謎解きが開始される。
 どちらかというと本アンソロジーのなかでは逆に珍しい正統派のパスティーシュになるか。元よりカーへのオマージュめいた作品を発表してきた加賀美氏の本領といった作品で、数々の物理トリックを一つの短編に凝縮し、さらに謎解きについても趣向がある。また加賀美氏自身の作品群へとも繋がりをもたせるところも面白い。大掛かりなトリックと、この時代の雰囲気とがよくマッチした作品だと思う。

小林泰三『ロイス殺し』
 ユダヤ人として過去からいわれのない迫害を受けていた男。彼の少年時代に愛した少女がある若者に殺された。彼は若者を追って雪深い村から出て、いっぱしの悪党となる。殺人者の若者も同じく悪党になっていたが、賭け事が異常に好きなその男を罠にかけた。
 カーの持つ怪奇趣味と本格ミステリの融合という特徴を小林氏らしい奇妙なかたちで体現しようとした作品。きちんと本格ミステリになっていながら、終盤でホラーめいた味わいでの寸止めを打ちこんであり、読後感の気持ち悪さは一級品。それでいて復讐者が相手に仕掛ける”罠”にしても暗い悪意に満ちており邪悪だ。この邪悪な物語こそが小林泰三さんの味わいである。

鳥飼否宇『幽霊トンネルの怪』
 何かと噂のある怪奇現象が起きるというトンネル。一車線のそこでは前を走っていた車が突然後ろに現れるという現象があり、更には衝突事故が発生し、なかから絞殺死体が発見されるという奇妙な事件が……。
 マーチ大佐をこのようなかたちで現代日本に再現する(内容は読んでみてください)試みがバカミスの雄である鳥飼氏ならではの仕事だろう。怪奇譚をベースに本格ミステリを創り上げるあたりはカーだが、本作内容はかなりきちんとした本格になっている。トリックが印象的な作品。

柄刀一『ジョン・D・カーの最終定理』
 日本で開催されるジョン・D・カーのイベントに先立ち、カーが所有し直接書き込みのある実事件に関する本がマニアたちの前に届けられた。カーは実際に密室殺人や人体発火事件について解き明かしたという。更にはその屋敷では実際に殺人事件が発生して……。
 トリック満載にしてカーとの絡みが独特な柄刀氏らしさが溢れる傑作。カーが実際に解き明かしたという過去の事件を、現代のマニアたちが検討して改めて解き明かすという趣向もさることながら、現代でも不可能殺人が発生するという贅沢な趣向。その両者に奇想が詰まっており、このあたりの非常に真面目にして真摯な本格指向は柄刀氏の諸作に通じている。またカーの事件と現代の事件とのリンクにしても味わいがあり、本格ミステリとしての内容は本アンソロジーでも屈指の作品だといえる。

二階堂黎人『亡霊館の殺人』
H・M卿の甥の恋人が招かれた降霊会。甥はかつてその館で発生した禍々しい殺人事件から、今回も事件が起きるのではないかと危惧している。果たして施錠されテープで目張りされた密室内で降霊師が殺害され、甥はその目撃者となるのだが……。
 二階堂氏の語り口とこの時代の仰々しさがマッチした作品。密室の人工性が高い一方、降霊術や魔女狩りに使用されたナイフといった怪奇趣味が時代を感じさせる。呪いの短剣、密室といったところ、また殺人の動機や犯人といったところに黄金期の本格らしい味わいがある。

 以上、一作一作の内容があまりに濃く、じっくり時間をかけて読み進めました。カー好きな読者はもちろん、普通にミステリが好きであれば絶対に楽しめる好アンソロジー。刊行されてすぐに読まなかったことを後悔するほどの内容でした。ごちそうさまです。


08/03/02
はやみねかおる「『ミステリーの館』へ、ようこそ ―名探偵夢水清志郎事件ノート―」(講談社青い鳥文庫'02)

'94年から刊行が開始された「名探偵夢水清志郎事件ノート」シリーズにおける十冊目。本格ミステリで解決編が立ち読みできないように袋綴じになっている作品はこれまでもあるが、本書の場合、さらに二重の袋綴じという大技で装幀されているのが特徴。

 亜依、真衣、美衣の三つ子三姉妹とレーチたちも中学三年生、そして六月。受験を来年に控えた岩崎亜依は文芸部部長としての責務を果たすべく、本格ミステリの創作短編を鋭意執筆中……と、そんななか、レーチは亜依をデートに誘おうとT市に新しく出来てチケットがなかなか入手出来ないテーマパーク『ミステリーの館』の入場券を二枚手に入れていた。引退した老マジシャン・グレート天野がつくったテーマパークでミステリーに関する様々なイベントが行われているのだ。一方、『セ・シーマ』の伊藤女史に引っ張り出され、『謎解き紀行』の取材として夢水清志郎や三姉妹も揃ってそのテーマパークに赴くことになる。そこにいたマジシャンのトリックを見破った清志郎は「本物の『ミステリーの館』」への鍵を入手する。その鍵に込められた謎を解いた清志郎一行は、グレート天野が実際に住んでいる、本物の『ミステリーの館』へと改めて赴いた。他に何人かの招待客、さらにグレート天野に対して復讐するという”幻夢王”なる人物からの脅迫状――。変わった作りの館を調査するうちに、マジシャン夫妻は館のなかから本当に消えてしまった?

大掛かりにして夢の溢れる”赤い夢”の実現。”ミステリが大好き”な作者ならではの展開に舌鼓
 夢水清志郎シリーズで館もの! という発想が作者の創作精神の根底にあったのではないだろうか。
 前半部は岩崎亜依の創作ミステリを夢水清志郎が解き明かし、さらにトリックとマジックの溢れるテーマパークを食欲魔人の夢水がめちゃくちゃにしながらも、その秘密を解いてしまうという展開でノリは良いものの、物語のまとまりという点は今ひとつ。だが、そこから「本物の『ミステリーの館』」へと至って、クローズドサークルが形成されるに及び、作者の筆は冴えまくる。 夢水シリーズにつき、殺人こそ扱われないものの密室からの人間消失が鮮やかに描かれる。雰囲気といい、大掛かりな館ものらしい仕掛けといい、読者と同様、作者も楽しみながら創作したのではないかと思われるのだ。
 不自然なまでに大きな館で暮らす老婦人と車椅子に乗った仮面を被ったマジシャンが、その館内部で消え失せてしまう――。そこには二重のトリックが凝らされていて、最初のトリックをゲストの探偵が、真のトリックは清志郎が解き明かすという展開。個人的には第一のトリック(館の特殊な構造)がお気に入り。ミステリマニアの性ゆえに先に第二トリックを想像していたので逆にこういう仕掛けがあったことに驚いた。なかなか一般向け作品では許容されない館ものならではのトリックが使用されているのだが、マジシャンや青い鳥文庫という性格を利用して「そういうのもあり」という仕掛けを正々堂々創り上げてしまっている点を嬉しく思う。(こういった”赤い夢”を実現しているのは、良い意味でのミステリ作家のアマチュアリズムが生きているというか)。
 また袋綴じもきちんと意味を為していて、大掛かりな謎解きでありながらきちんと伏線や手掛かりについては作品中にばらまいてある点も好感。単に読者を驚かせるだけではなく、本格ミステリとしての要件をきちんと満たしているところは、はやみね作品の素晴らしいところだと思う。
 どうでも良いことなのだが近年の作品ではかなり極端ではないかと思われる、教授の食べ物に対する卑しさというか本能がこの作品あたりから強調されているように思う。彼の性格自体が微妙に(本当にごく微妙に)初期作品に比べると変化しているように思うのだが、いかがなものだろうか。

 今の小中学生にこのシリーズが大人気というのも理解できる。ところどころに現れるとぼけたギャグにしても時代に依存せず、単純に面白いし、何よりも本屋や図書館にこのシリーズが十冊以上も最初から揃っていて未だ継続中という点も魅力だと思う。このシリーズからミステリへと素直に入っていく若い読者の数は結構ばかにならないのではないか。あらためて、はやみねかおるさんの末永い活躍を期待したい。


08/03/01
古川日出男「ゴッドスター」(新潮社'07)

 『新潮』誌の二〇〇七年四月号に一挙掲載された作品の単行本化。巻末にある作者の注記によると、その初出発表時から一行だけ削っているのだという。どこにその無駄があったのか知りたい気もする。

 三十五歳の姉。結婚して退職して妊娠して子どもが八ヶ月まで成長しながら酔っぱらい運転による交通事故でその姉はもういない。そのことが原因で心が乱れている”あたし”が主人公。あたしは結婚しておらずマンションに一人で住み、ばりばりと仕事をしてキャリアアップを目指している。そんなあたしはカフェテリアにいて、外にいた子どもに気がついた。歩行者用のグリーンが点滅している。赤は止まれ。だけどその横断歩道の側にその子どもは三十分ずっと信号機のボタンに集中して立っていた。一時間、一時間半。その子どもはひたすらにボタンに集中している。あたしはその子ども(八歳か九歳くらい)に声を掛けた。彼はそれでもずっと信号機に集中していたが、あたしは何とかコミュニケーションをする。彼は学んでいたのだ。そしてあたしは自分の名前すらわからないという彼を家に連れて帰り晩ごはんを食べさせてやる。彼は行方不明になっている? しかし彼を捜している何かは見つからない。その学び続ける少年とあたしは一緒に暮らし始める。名前のない彼に、あたしは新聞記事をランダムに利用して「カリヲ」という名前を付ける。カリヲとあたしは学び続ける。あたしは会社に行く。カリヲは家にいる。そしてそんな生活のなかカリヲとあたしは「天皇」と呼ばれる人物と邂逅、世界の秘密へと足を踏み入れ始める。

人間がそれぞれ持つ別の世界。その世界と世界が干渉しあうことで生じる激しい何か
 物語としてぐいぐい引っ張られるのに、読み終わったあとに何か呆然とするというか、放心してしまうような……。もちろん、これは否定的な意味でいうのではない。あたし、カリヲ、天皇。登場人物それぞれの異様なまでに突出した個性は印象的であるし、都市というジャングルのなかに存在する秘境めいた数々の場所もセンスがあり素晴らしい。そして登場人物は駆け抜けてゆく。
 前半部分は、無垢な子どもの視点と学習する人間の視点とを組み合わせることによって、都市・日本・東京を全く新たな価値観から再構築していく試みがなされている。 きちんと物語として機能してるにもかかわらず、ひとつひとつの感性が新しく、我々が看過する全ての事象が彼らにとっての”はっけん”である点、新鮮な驚きに満ちている。一方、明治天皇と出会い、病院を観察することから、別の流れに巻き込まれる”あたし”とカリヲの後半の物語は、都市を取り巻く時間の変化、即ち加速する時間を象徴しているような印象だ。展開が早く、そしてスリリング。快感をもたらすもの、そうでないもの、危険なもの。”あたし”たちが戦っているのは一体なんなのだ? ……とまあ、裏側、奥底、物語が象徴している何かを読み取りたくなる(伝わってくる)ような物語。その解釈はもちろん人それぞれ、正解はあってないようなものだと思うのだが恐らく読者それぞれが自分にとっての何かを感じるのではないだろうか。
 実際、非常に勢いがあり一気に書かれ、一気に読ませる作品となっっている。その意味では、古川日出男という作家の感性が強く打ち出されていて、文体のリズムから事象の捉え方、登場人物の感情というところにナマの迫力がある。繊細なフランス料理というよりも、豪快な田舎料理のような迫力とでもいえば良いのか。心に直接叩き付けてくるような物語の勢いが実に心地よいのだ。

 古川日出男にしか書けず、古川日出男にしか許されず、古川日出男ならではの世界観を堪能できる。ファンであればもちろん必読であろう。ただその一方で本書が古川初体験という読者は多少戸惑うだろうなあ、という余計な想像も感じる。エンターテインメントに分類される、でも孤独にして孤高な魂の物語。 魅力は溢れているのに説明が難しい、そんな作品。