MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


09/01/31
小路幸也「うた魂(たま)♪」(朝日文庫'08)

 原案・栗原裕光。2008年4月に公開された夏帆主演による同題邦画を、小路幸也氏がノベライズしたもの。少なくともデビュー後の小路幸也氏が初めて手がけるノベライズ作品ということになる。

 合唱の名門・七浜高校女子合唱部に所属する荻野かすみは、ナルシスティックな程に自分の歌声が大好き。実際に彼女の歌は上手く、通学途中で録音した自分の歌声を聞いている程だ。そんななか、かすみは密かに憧れている生徒会役員の牧村から、合唱中の写真を撮りたいという依頼を受け、もしかして両思いかもしれないと舞い上がる。しかし、牧村が撮影した写真は熱唱中のかすみを大写しにはしていたが、その表情は思い入れて歌うあまりに鮭のように口を大きく開けたものだった。そのユニークな写真が大々的に使われ、友人たちにもその顔を笑われたりしたこともあり、かすみは自分のなかで合唱への情熱が急激に冷めてゆくことを感じる。そしてかすみは、一週間ものあいだ部活をさぼった後、合唱部の退部を、代用教員で臨時顧問の瀬沼裕子に申し出る。以外や、瀬沼はあっさりと辞めることを受け容れるが、既に準備されている地域の合唱祭には参加することが条件だった。その大会で嫌々歌ったかすみは、湯の川学院高校合唱部のヤンキー部長の権藤に喝を入れられてしまう。

原作映画が持つパワーが、ノベライズによってその長所を引き出されている
 もちろん(?)映画の方は観ておらず、むしろノベライズの作者が小路幸也さんだったことをきっかけに手に取った。この文庫には表紙やカバーだけではなく、他にもかなり積極的に映画のワンシーンと思しき写真が挿入されており、映画を観ていない小生のような読者であっても、雰囲気は伝わってくる。
 ノベライズという観点では、通常執筆される小説テクニックとは微妙に異なり、視点人物として、場面場面で誰を選ぶかという点にかなり気を遣っていることが分かる。個々の場面が映画でどう扱われていたのかは分からないのだが、実際の物語が始まる前の承前として、荻野かすみ、権藤洋、瀬沼裕子、黒木杏子(ケーブルテレビのディレクターで瀬沼の後輩)といった人物についての、本編以前、過去の小さなエピソードが描写されている。そのおかげで、それぞれの人物の「背後にあるもの」が、物語を読む段階で分かるところは嬉しい。その結果、合唱というともすれば個人の物語に向かないように思えるテーマが、きっちりとドラマとして成り立つようになっているのだ。
 その他については、文章運びにせよ描写にせよ、小路さんが得意とする瑞々しい文体でそれぞれの高校生活が描かれており安心して読める。 また、映画では実際に「歌」として描写されている合唱部分。残念ながら本から音は出ないのでダイレクトではないのだが、その歌詞を載せ、かつ想像力を働かせることで「その場」の感動を共有できるのも、活字媒体の強みではないかと思う。(誰にも文句の付けられない歌を映像で表現するのはかえって難しいと思うし)。

 ということで、映画を観ていない小生にしても物語を楽しむことが出来ました。むしろノベライズを読んだことで、映画を無理に観なくても既に観たような気分になるという。同時に小路さんの作品にもなっているので、小路幸也ファンも安心して読めるでしょう。


09/01/30
桜庭一樹「ファミリーポートレイト」(講談社'08)

 ノベライズやライトノベルの世界で評価され、一般向け作品を発表し始めるやいなや、直木賞へと至る階段を駆け上った桜庭さん。本書は受賞後に三ヶ月もの時間をかけて書き下ろし刊行した原稿用紙千枚にも及ぶ長編作品。『赤朽葉家の伝説』『私の男』に本書を加え、「血の繋がり」テーマの三部作といっても良さそうで、どことなくモチーフ(というか表現しようとしたもの)が共通しているようにみえる。

 家族、というか母と娘という血の繋がりを拠り所にした結果、自分自身の居場所、存在意義を求めて彷徨う女性・鈴木駒子の一代記。駒子は、自我を記憶する五歳くらいから、何年かおきに居所を変えて生活していた。コーエイと呼ばれる集合住宅、老人ばかりが住む山村の病院、港町の温泉街、豚の飼育と屠殺の街、すり鉢状になった元有名人たちがひっそりと生きる街、そして英国庭園の隠遁者役として。母親の眞子は自称女優。テレビにも出たことがあるといい、二十歳で駒子を産み、その駒子に対する虐待と溺愛を繰り返し、自らは温泉芸者や屠殺所の仕事や、社長の愛人など逞しく生計を立てていた。一方で眞子は戸籍のない駒子を学校へはやらなかったので、字が読めるようになってからの駒子は、各地の図書館で大量の本を読み続けて自らの血肉としていた。ただ、過去に眞子は何かの事件に関係したらしく探偵や警察が彼女たちを追って、最後には必ず親子のすぐ近くにまで現れる。その気配を察知するごとに眞子は、駒子の意志を確認したうえで各駅停車に乗って以前の住居を捨てて新たな場所へと旅立つのだ。(ただ一回を除いて。) 第一部では親と子供のファミリーポートレイトが。そして第二部以降では、名字を変え、一人となった駒子の青春、そして孤独で独特の生き方をとる彼女のセルフポートレイトが、その感性と共に描写される……。

日本版狼少女。偏った愛と様々な経験、物語への耽溺を経て身体は大人に、母親依存以外は気高い精神が美しい
 前半部の彷徨譚が圧巻。
 口を利かない五歳の少女が、圧倒的な母親の存在感に抱かれながら、その関係性に縋って生きてゆく。少しずつ成長しながら、美しかった母親はそれと同時に少しずつ苦労を重ねて年を取り、成長した娘を愛する一方で疎ましくも思うあたりが人間的で、神を崇めんばかりに母親に向かう主人公と考え方の対比を為す。彼女らが潜む環境がまた特殊であり、それぞれがいわゆる「冷たい都会」とは異なるかたちで、来歴不詳の二人を受け入れる背景を形作っている。このそれぞれの街、村の圧倒的な存在感もまた、この作品全体が醸す迫力をサポートしている。
 第一部は、どちらかというと「鈴木駒子が出来るまで」を描き出し、第二部は「鈴木駒子の生き方」へと軸足が移ってゆく。名字を次々と変え、自らの信じるところに従って生きる=アウトローの駒子の生態もまた特殊――なのだが、それでもどこか第一部があるゆえに、許容できてしまう。この駒子の存在を「神」に置き換えることで、この物語が理解できるようにも思える。ただ、その場合、後半に作家デビューしてからの展開、さらに真田という教師から日常を教わる展開は、地上に降りた神が人間へと変化していく様とでも受け取れば良いのか。
 別の場所で作者自身が書いていたと思うのだが、作者はこの作品に対して自らの持つ様々な情報を絞り出し、後半部は受け取っては吐き出しといった書き方をしていたようだ。そのせいもあろうが、高校卒業くらいのタイミングを境に、前半部と後半部で物語の盛り上がりが極端に異なっているようにみえる。(はっきり言うと面白さでは圧倒的に前半が上)。後半は、むしろ異様な子供〜青春時代を送った主人公が、決して普通にはなれない自分と、いわゆる世の中の常識とを嫌々ながらすりあわせることを試みる、そういった物語にもみえるのだ。
 題名にファミリーという言葉があり、思い出したようにポートレイトのエピソードが挿入される。ただ、題名で繋がっている「ファミリーポートレイト」、作品のテーマを考えるに、どこか分割されているようにみえる。

 作中で、ありとあらゆる物語、文学に耽溺する駒子は、どこか作者自身とも重なっているのだろう。皆川博子の自伝的作品でもこういった活字中毒の女の子がしばしば登場する。ひとつふたつの物語ならば、才能がなくとも書くことができるのかもしれないが、一冊の本にこれだけのアイデアを贅沢に詰め込んで、まだまだそれでも書き足りないというような作者の雰囲気を感じさせる。圧倒的にして多数の物語を小さな身体の内部に持つ。決して自伝ではないのに、どこか桜庭一樹自身が伝わってくるような、そんな作品。


09/01/29
田中啓文「陰陽師九郎判官」(集英社コバルト文庫'03)

 田中啓文氏のデビュー直後の活動は、初期はヤングアダルト、ジュヴナイルのレーベルが中心だった。本作品の発表、作品刊行のタイミングは既に一般向けホラー他の作品が幾つも出た後になり、その頃の仕事の集大成(にあたるのかもしれない……)。陰陽師ブームの折に集英社の雑誌・コバルトに発表した作品で、皇名月さんによるイラストが美青年。安倍晴明と時代が合わないと思ったら、これまた凄まじい大技が炸裂しているという伝奇小説。

 平安時代末期、平家が徐々に衰退し源頼朝をはじめとする源氏方が勢いづいていた頃。源義仲(木曾義仲)に芦屋道萬の霊が取り憑いた。その霊は女性の姿をしており「アシャド」という女性(ウーマン)である。頼朝に先んじて義仲は自らの野心と、取り憑かれた邪悪な心の命ずるまま京の都へと攻め上がり、乱暴の限りを尽くしていた。一方、唯一の兄・頼朝に冷たくあしらわれ傷心の美青年・九郎判官義経。その義経の前に異国の美しい女性・馬李阿(まりあ)が現れた。彼女は義経に都へ行くよう強く勧めた。(「ワー」) さらに実際に頼朝の命がくだり義仲の監視のために京に上った義経は、狐の精霊でもある馬李阿に誘われ二百六十年以上の時を超えて生き延びていた陰陽師・安倍晴明その人と出会う。義経は半ばバケモノと化した晴明から、自らの真の素性について教えられ、シキガミという力を授かるのであった。義経は「アシャド」に支配されバケモノと化した木曾義仲を倒すものの、大きな代償を支払うことになってしまう……。戦いの結果、法皇の寵愛と世間の支持を手に入れた義経であったが、頼朝は引き続き義経を信用してはいなかった。

真面目な文体で綴られているようにみえる歴史伝奇小説。その実よくよく読むといろいろ仕掛けが
 一応「平家物語」がベースである。一応というか大部分はそうだと思う。源義経の生涯の有名なエピソードや頼朝の関係なども、講談あたりがベースになるのかきちんとしている。ただ、本書は単なる歴史小説ではなく、あくまで伝奇小説。つまり、この作品の目玉は、歴史上の人物である源義経を、実は陰陽師でもあるという設定にしたところにある。粗筋として書いてしまっているのでなんだが、単に登場人物が安倍晴明の血を引いているといった内容だけではないのが田中氏の奇想。少なくともこの当時の陰陽師/安倍晴明ブームのなかでは、安倍晴明は基本的に美青年であるという設定が大勢を占めていたであろうところに、本書の設定は特別中の特別な存在としてインパクトがある。「時の流れが残酷♪」なだけでは済まさない意地悪さに、田中氏らしい嫌味(褒め言葉)があって面白いと思うのだ。
 また、歴史とは別に伝奇の部分にはいろいろと奇想が絡んでくる。いかにも、あちら世界から連れてきましたという化け物(というか、はっきりいうとクトゥルー)や、脈絡なく西洋からやって来る魔物たち、日本古来からの悪霊めいた存在が登場。その彼らの存在や行動、言動は、読み流すと気付かない程度に(そんなことないか)駄洒落や地口に満ちている。この点も田中作品ならではというか。言葉遊びのような部分であり、判る人にはまる判りというもの。本書の場合は、その駄洒落が笑いに繋がるというよりも気付いた段階で脱力してしまうのだけれども。
 作品自体は平家物語から極端に逸脱することもなく、その隙間を伝奇要素で埋めていっているという印象。ヒロインはほとんどオリジナルで喋り方に特徴が。「ワー」の意味は分からないながら、人物のインパクトという意味では成功しているワー。読み終わったあと頭に残って離れないし。あと、結構、若い世代向けレーベルのなか、エロやグロに近い描写も散見されるが、コバルト文庫にはそういった出版コードがなかったのかななどと、余計なことも少々気になる。

 本来の(?)田中氏の伝奇・ホラー、さらにSF系の読者であればこの荒唐無稽をもまた素直に楽しめるのではないかと思う。笑酔亭あたりから入られた方は、普通に一般向けホラー等を経由してからこちらにいらっしゃった方が良いと思います。正直なところ。


09/01/28
山田正紀「火神(アグニ)を盗め」(ハルキ文庫'99)

 1977年に発表された山田正紀氏の初期作品のうち、冒険・謀略系の小説を代表する長編作品。現在の最新版が十年前に刊行されたこのハルキ文庫版となる。しかし今読み返しても多少設定こそは古くなっても全体構想は斬新であり、三十年以上前の作品とは思えない。

 中国とインドの国境地帯のインド側ぎりぎりの山中にインドが建設した最新鋭の原子力発電所。その付近に伝わる伝説から「火神(アグニ)」と呼ばれるその施設は、軍事組織並みの厳戒体制が取られていた。この発電所建設に携わった総合商社・亜紀商事のセールスエンジニア・工藤は、この施設の秘密を知ってしまい、中印のみならず米ソの絡んだ謀略の存在から現地駐在員の身が危険に晒されれていると東京の本社に上申する。しかし本社役員の漆原は背景事情を薄薄知りつつも会社の利益を優先し、対策を取らない。結局、日本人駐在員の大部分は、現地で何者かの手により爆殺されてしまう。幸運にも生き残った工藤は迂回して帰国、途中でCIAのスパイに狙われるが、中国人スパイの助力もあって難を逃れた。工藤は我が身を守るために漆原を脅迫、アグニに仕掛けられた爆弾の撤去・無力化を自らの手で行うことを宣言する。しかし、漆原はお目付役の子飼い・須永と、他は女たらしや接待役、英語コンプレックスなど無能社員三名を工藤に押しつける。果たして素人集団は、難攻不落の原発に侵入することができるのか?

ちっぽけな存在の素人たちが、奇想と知恵とで難関突破。冒険小説の正道にして完成形
 本書を執筆した段階でまだ山田正紀氏は二十代後半だったというのは脅威。確かに若書きらしい粗削りなところや、突っ走りはあるものの、全体構想であるとか細かな科学技術や武器のディティールなどに破綻は見られないようにみえる。(細かい点は素人目になるけれど)。
 そして何よりも、大した能力を持たない、むしろ社会人として落ちこぼれ扱いされている人々がそれぞれ決意と努力をもって特殊技術を習得、普通に考えれば絶対侵入不可能な設備に忍び込むいう展開は、素直にはらはらどきどきの連続となる。また侵入側が素人であるだけではなく、その障害のハードルの高さが凄まじい。天然の要害であるだけでなく、赤外線、体温関知、重量センサ、猛獣に高圧電流、さらに勿論兵士たちと「そこまでやる?」というレベル。この極端さを、どういった手段で乗り越えてゆくのか、何やら準備の場面はあれどそれがどういった部分に対応するのか、物語のなかで現在進行形で明かしてゆく構成が巧い。現在一部存在している理屈抜きのサバイバル・ゲーム小説のジャンルとは、困難度合いは近しいかもしれないが、最低限の現実世界からはみ出ないというルールが課されている部分が根本的に異なっている。だからこそ長期にわたって支持されているのだろう。
 一方、本作確かに主人公たちはサラリーマンである、けれども。サラリーマン読者がこの小説で夢を見られるという解釈があるようだが、現役サラリーマンの感覚ではそれは間違いだと断言しておこう。ネタバレになるが、最終的に生き残ったサラリーマンは全員辞表を提出してしまう。つまりはサラリーマン生活から自ら脱出するわけだ。確かに「サラリーマンを馬鹿にするんじゃない。(中略)カスが真っ当に生きている人間に勝てるわけがない」は名台詞だし、せっぱ詰まった挙げ句に会社側を脅して逆に言い分を聞かせるといったあたりは強く共感できる。また、ダメサラリーマンたちが、それぞれ成長してゆくビルドゥイングスロマンといった部分も面白いのだが、ただ主人公と須永以外のメンバーが命を賭すような戦いに参加する理由についての現実味は残念ながら乏しいのだ。

 ……といった小賢しい解釈は抜きに、超絶の警備状況vsアマチュア集団という攻防がやはり読みどころ。 最後にCIAのエージェントが、素人との戦いが難しいといったことを呟くのだがその奇想天外こそが、山田正紀の冒険小説の醍醐味ですよねえ。内容半分おぼろな状態での再読、期待通り楽しめました。


09/01/27
近藤史恵「猿若町捕物帳 寒椿ゆれる」(光文社'08)

 気付けば着々と冊数を重ねている、近藤史恵さんの時代小説シリーズ「猿若町捕物帳」も本作で四冊目。『にわか大根』に続いての二年ぶりの新作ということになる。三つの中編で構成されているが、それぞれ『ジャーロ』二〇〇七年冬号から二〇〇八年秋号にかけて作品間に一回ずつの休みを挟んで発表されたもの。

 千次郎の再婚相手で年下ながら千陰の母上にあたる、お駒が妊娠。元気は元気なのだがつわりがひどく何も食べられない。周囲の者がいろいろ工夫して食事を準備するなか、千陰は友人で役者の巴之丞に、猪鍋を食べさせる『乃の字屋』という店を紹介される。流行しており確かに旨い料理でお駒の食も進んだのだが、その乃の字屋を巡ってなぜか事件が発生する。 『猪鍋』
 先の事件のなかで、おろくという女性と見合いをした千陰。おろくは数字に強く、物事を注意深く見る女性であり、千陰もまた積極的とまではいかないまでも彼女と添っても良いかと考えている。そんななか、巴之丞が女性に刺される事件が発生した。幸い怪我は軽かったが、その事件のことをおろくは数日前から予見していた。 『清姫』
 千陰のライバルでもある同心、北町奉行所の大石新三郎が、内藤屋という大店が襲われた事件を手引きした疑いで謹慎させられているのだという。どうやら何者かによって嵌められているようなのだが、千陰自身もあまり動きが取れない。千陰は、大石のところにおろくを乗り込ませて事情を確認する。 『寒椿』 以上三編。

いつのまにか個々の事件もありながらも、江戸時代小説コージーのような展開になっているような
 もちろん主人公は南町奉行所同心の千陰である。千次郎の跡を継いで独身ながらもきっちり勤めを行い、様々な人間から好意を持たれる存在。父親の風流人・千次郎、千陰より年下ながら千次郎の妻である、お六。さらにその小物であり元小悪人の八十吉夫妻に、吉原の人気花魁でありながら千陰に好意を隠さない梅ヶ枝、その梅ヶ枝と瓜二つの顔を持つ人気役者の巴之丞。今回は、加えて千陰の見合い相手(そもそも、この見合い相手はお駒が最初だったわけで)のおろく、そして、これまでも登場はしても強い存在感というほどではなかった大石新三郎が重要な役割を担っている。全体として、冊数を重ねるうちにそれぞれの登場人物が、強い存在感を発揮するようになり、その関係性がまたドラマを担っているようにみえる。
 もちろん、事件はそういった登場人物たちとは別のところで引き起こされるのだが、その解決方法というか、解決に至る過程が、その千陰グループ全体で取り組むような展開にみえる。その結果、群像劇というか、コージーというか、時代小説で捕物帳ではあるのに、いわゆる名探偵役(目明かし役?)がずばっと解決するタイプの作品ではなくなっている。 極端な話、冒頭の『猪鍋』の事件の真相を見抜くのは、八十吉のおかみなのである。事件そのものは、さすがに鮎川賞出身作家だけに論理的な帰結が解決にもたらされる種類であるものの、解決はみんなで、というパターンなのだ。もともと名探偵を期待するシリーズではないし、むしろこの結果、江戸情緒の情の部分が強調されており、物語としては上質になっているようにも思える。
 結果的にではあるが、全体としての人間関係も変化を遂げているため、シリーズを重ねて読んだ方が味わいが出てくる作品である。そして個人的には、千陰と梅ヶ枝の関係がどのような結末を迎えるのか。この点が気になってしょうがないのですが。


09/01/26
松尾由美「フリッツと満月の夜」(ポプラ社'08)

 ポプラ社の十代向けの叢書「TEENS’ ENTERTAINMENT」の第一冊目として書き下ろし刊行された松尾由美さんの長編。

 小説家の父親と共に、夏休みの数週間を東京から離れた港町で過ごすことになった小学校五年生のカズヤ。デザイナーの母親は東京に留守番で、男二人で、古い一軒家を借りての暮らしが始まった。その町にある洋食屋「メルシー軒」は、夫婦が経営している非常に味の良い店。カズヤは、そのおばさんの紹介で「メルシー軒」の一人息子・ミツルと知り合う。最初はとっつきにくい印象を持ち、話題も合わなかったが、カズヤは推理小説好きのカズヤが明晰な頭脳を持っていることを認めるようになる。そのミツルが興味を持っているのは、少し前に亡くなった街の資産家で老婦人の佐多緑子の遺産が無くなった事件。彼女の財産は、その夫が稼いだものだったのだが、現在の町長である出川轟造がその権利の一部を主張しており、さらに出川はこの町の山を切り開いてゴルフ場を建設するため、資金が必要な事情があった。緑子は亡くなる直前に数千万円もの現金を銀行から下ろしていたが、警戒した出川が見張っていたにもかかわらず、彼女亡き後、それらしき現金は全く見あたらなかったのだ。カズヤは、夏休みの宿題の自由研究のため、町に多い猫のことを調べようと図書館に出向く。若く美しい司書によって野良猫保護のボランティアの存在を知る。そして町に奇妙な事件が起き始めた……。

一夏の少年の知的冒険。ファンタジーとノスタルジーの混じり合う素敵な作品
 最近は恋愛小説の分野で一定の業績を拡げてきている松尾由美さんではあるが、本書では少年二人を中心にした展開のなか、同年代の少女といった、この手の設定のなかではよくあるような甘酸っぱい要素を一切持ち込んでいない。逆にその点が新鮮だったりする。一部に、現実ではあり得ない設定を持ち込んでいる(ネタバラしというほどではないかもしれないが、ここでは触れない)が、基本的には、軽めとはいえ本格ミステリの要素で全ての謎をくるみ、美しく解き明かしている。 ミツルという少年と図書館の美人司書とのあいだの会話に「亜愛一郎シリーズ」や「チェスタトン」といったところが出てくるところが、実はマニア向けにはヒントになっていたりもするところなどご愛敬。
 謎の設定が心憎い。メインになるのは、粗筋にも書いたとおり、老資産家の財産消失の謎ではあるのだが、そこに門柱に描かれた謎のダビデ文字や、方向音痴の泥棒、バイクに乗った渡り鳥植木屋、野良猫の去勢を進めるボランティア活動……そもそも何故主人公がその町に来ることになったのかに至るまで「謎ですよー」という謎から「設定」にしかみえない部分に至るまで、二重、三重にロジカルな答えが出てくる。その物語の中途で思わぬ探偵役が登場するあたりも、現実にさりげなく大胆に非現実を持ち込み、松尾由美さんらしいといえるだろう。
 作品全体の長さが短い分、ちょっと描写があっさりとしていたり、説明不足かなと思えるところもあるのだが、そのあたりは想像で補いたい。ただ、先に書いた通り余計な人間関係をほとんど登場させずに、足が速い以外に特徴がないと思い込む主人公、頭は良いが運動神経は今ひとつのミツル、世話好きなおばさん、何も考えていないようでいて意外としっかりと町の情報を取り込んでいる父親、わざわざ横浜から住み着いている美人司書といった特徴ある人々が登場し、物語自体の起伏も十分で読んでいて全く飽きさせないサービス精神はきっちり表現されている。

 読み終わると、この港町の愛着を主人公ならずとも読者もまた抱いている。どこかノスタルジーの漂う町の雰囲気、都会にはない濃いめの人間関係など、作品内部に登場するファンタジックな設定と共に優しい印象を残す作品。ミステリとしても、評価も出来るし、読みやすさからいっても本来の対象読者にぜひ読んで欲しいと感じた。


09/01/25
戸梶圭太「誘拐の誤差」(双葉社'06)

 わざわざ「本格警察小説」と銘打って(まさに銘打って)戸梶圭太が世に問う長編作品。'06年11月刊行だけど、現在'09年1月の段階で既に品切れ重版未定。出版界の足、めちゃ早い。

 田舎の町に住む、ヤンキー夫婦の一人息子、十歳になる庄司礼乎(れお)が行方不明となって、その母親からの連絡によって誘拐の疑いがあるということで警察が動き出した。しかし、その礼乎、拾ったスケボーで遊んでいたところ、近所の頭のやばそうな若い男・須田の運転する車に傷をつけてしまい、須田によってぼこぼこに殴られ、殺されてしまっていた。そして礼乎は幽霊のような存在となって、自らの家族や、捜査する警察、そして須田や、須田によってパシリをさせられているコウジらの活動を眺め、そして頭の中で考えていることを読み取ってゆく。実は礼乎の父親と母親の仲は悪く、母親は若い男と浮気をしており、警察もはじめから礼乎が無事でいるとは考えておらず、鑑識の謎のオヤジだけはそこそこ正しい鑑定をしたものの、警察の捜査は近所に住む変質者を中心に迷走を開始する。さらに須田は全く罪の自覚もなく、日々パチンコをしながらネットでセックス相手を募り、犯罪を重ねていくのだが、あまりの計画性の無さに逆に野放し状態。果たして事件の行き着く先はどうなるのか。驚愕の結末とは?

トカジ節警察小説はやっぱりバカ集団小説。別の角度からするとさきを読ませないミステリでもある
 社会派や警察小説の本来の書き手に喧嘩売っているんですか? と呟きたくなる表紙。なんたって題名の「誘拐の誤差」に対して、帯ではなく表紙の装画のなかにわざわざ「本格警察小説」と小さくない活字で最初から書かれているし、「ん、トカジが真面目な作品を? まさか……」と疑わせるに足る装幀なのだ。 だが、中身はやはりトカジ節に溢れている。表紙を巡ったところに殴られて目の焦点が合わず、泡を吹きながら鼻血を流す男のイラストがあるので、まあ、間違えて購入されることはそうないとは思いますが。
 悲惨なかたちで殺された礼乎君なのだが、その十歳の礼乎が犯人や自らの家族を含む、捜査関係者の頭のなかで何を考えているのかを読み取ってゆくのがポイント。それぞれが見た目は真面目に捜査しているわけなのだが、その裏で様々な打算や嘘、欲望が渦巻いている、という真実(小説内の、だが意外と現実もこんなものか)を炙り出してしまう。その「考えていること」というのが、揃いも揃ってアホばかりであるため、いつものトカジ節とトーンは変わらない作品になってしまっている。トカジファンであれば、やっぱり楽しめる内容だし、非ファンにはツライ。
 面白いと思ったのは、この作品、犯行状況も明らか、犯人も明らか。犯人は逃げる気がなく、警察も一応まじめに犯人を追おうとしている。つまりは、謎らしい謎がない筈なのになぜかミステリになっている点。 少なくとも、次のページに何が起きるのか、さっぱり読めない。果たして真犯人は捕まるのか、それとも? といった点で全体の興味を最後まで維持させているということ。ある意味、その引っ張り加減は凄いし「ラストの驚愕」というのも、まあ、なんといいますか。不意打ちではありますね。

 最近、誤差シリーズにあたるのか『判決の誤差』という作品が刊行されたのを機に、前作(になるのか不明)である、本書を読みたくなったので読んでみた、というもの。まあ、相変わらずのトカジ節、ただあまり極度に汚い描写や過度のエログロもない(但し、全ての戸梶作品を平均したなかでは)ので、読みやすいのは読みやすい方になかも。


09/01/24
北山猛邦「踊るジョーカー 名探偵 音野順の事件簿」(東京創元社'08)

 '02年に第24回メフィスト賞を『「クロック城」殺人事件』で受賞――した頃は、そのトリッキーなトリック以上に文章がひどいという強い印象が(当時の小生は)あった北山氏だが、その後作品を重ねることによって後者はめきめきと上達、その独特な作品世界が印象的な、独特の世界観がユニークなミステリ作家として活躍するようになった。本書は「名探偵 音野順」のシリーズで、『ミステリーズ!』Vol.24〜27(二〇〇七年八月〜二〇〇八年二月)に発表された作品に書き下ろしの最終話が加わった作品集。

 推理作家・白瀬白夜は、古くからの友人で気の弱い引きこもり・音野順の持つ探偵の才能を評価しており、その音野のために、自らの仕事場を利用し、彼のための探偵事務所を開設する。白瀬が持ち込む事件に嫌々ながらも現場に、まさに手弁当で出向いて謎解きをする音野。そんな彼らの事件簿。
 シェルターとして作られた地下の密室で家の主人がナイフで刺し殺されていた。現場に散乱するトランプ、そしてナイフにもまたトランプが突き刺さっていた。 『踊るジョーカー』
 二人姉弟で暮らす家のなかから、なぜか時計が時々無くなってしまうという事件。泥棒はなぜ時計を盗むのか。盗まれる時計と盗まれない時計の意味は? 『時間泥棒』
 発明家の男が、自宅で何者かに殴られ死亡した。現場の金庫には手が付けられていないようだが、被害者の残したポラロイド写真にダイイングメッセージが込められているのか? 『見えないダイイング・メッセージ』
 大学の研究室でバレンタインのチョコレートを食べた女子学生が青酸中毒で倒れる事件が発生。幾つも入ったチョコのうち、その学生が食べた一個だけから毒が検出されたが……? 『毒入りバレンタイン・チョコ』
 雪山で遭難しかかった白瀬と音野が辿り着いた屋敷。この家では富豪の一人娘の婿選びイベントが進行中だった。お題は彼女が気に入る「ゆきだるま」を作ること。しかし、二人いた候補の青年のうち一人が、屋外で死亡しているのが発見される。 『ゆきだるまが殺しにやってくる』 以上五編。

一見、普通にユーモア混じりの本格にもみえるのだけれど、微妙な歪みもまた気になる
 自分に自信のない引きこもりの名探偵と押しの強いワトソンという組合せは、微妙に違うけれどもやはり坂木司の某シリーズとかを思い浮かべてしまう。(考えてみれば版元も同じ)。違いは引きこもり側の態度のでかさだろうか。本シリーズの方が、世話役がからっとしている分、先のシリーズで感じたような妙な気持ち悪さは少ない。
 一見、真面目な顔をして行われる、実は奇妙に食い違ったりとぼけていたりした白瀬と音野、二人のやり取りがユニーク。個人的には「ゆきだるま」の事件解決後の報酬・ゴロゴロ人形を貰って白瀬が小躍りする場面が好きだし、後、依頼人が音野のお弁当が気に入ってしまうところだとか。そしてもう一つのポイントは、奇妙なアイデア、特に物理ベースのトリックが凝らされた、本格ミステリとしてのアイデアだろう。トリックそれぞれが(一概に決めつけられないとはいえ)、既存のトリックを応用するのではなく、わざわざ収録作品のために考えられた作者のオリジナルアイデアに(少なくとも)みえるところは素晴らしいこと。

 ただ――小生の考えすぎかもしれないながら、全体的に事件自体に微妙な歪みが見え隠れしている点も、また特徴だと感じられた。作品のノリ、雰囲気はどちらかというとコミカルで、いわゆる”日常の謎”の系統に近いにもかかわらず、例えば動機であるとか、明かされる殺人の内容に、作品雰囲気から想像される以上の狂気がさらりと表現されているようにみえるのだ。
 また、それは三歩くらい引いて事件を眺めた時の違和感とも結び付く。どこか、わざと被害者や犯人が、事件をややこしくさせているように見え、そこもまた北山猛邦作品に特有の歪みとなって作品世界を覆っている。例えば(ネタバレ)別に後から転がさなくてもナイフはゴムバンドで背中の裏側にでもくくりつけておけばいいんじゃないの? とか、ダイイングメッセージによって金庫を開けさせるという試みの割に、犯人側不親切じゃない? とか、チョコレートは運んでいるときに誰かが箱を揺すったりしたらどうなるの? 等々。これらは批判しているつもりはなく、そういった微妙な違和感が、物語内部の歪みを誘発しているところが、逆にユニークだと思えるのだ。その結果、さらりと読む以上の深みが感じられる。

 ――とまで、作者が深く検討した結果書いているのか、それとも天然なのかは不明。むしろ天然でこういった歪みをもまた体言しているのであれば、それはそれで作者にしか出せないセンスのように思う。


09/01/23
恒川光太郎「秋の牢獄」(角川書店'07)

 恒川氏は、第12回日本ホラー小説大賞・大賞を『夜市』にて受賞。同作品はデビュー作にして第134回直木賞候補にもなっている。その後『雷の季節の終わりに』を刊行、本書が三冊目。それぞれ『野性時代』に短編として掲載された作品三作がまとめられ単行本化されたもの。

 ある秋の、十一月七日。友人のあまりいない静かな女子大生の”私”こと藍は、大学に行き家に帰って自炊するという普通の一日を送っていた。しかし、次の日に大学に行くと同じ講義が行われている。友人の由利江の反応もどこかおかしい。更に翌日もまた、雨の音で目を覚ます。そして同じ一日が始まった。私は何かの事故でこの秋の日を繰り返しているのだ。毎日毎日がリセットされる虚しい日々のなか、私に対して若い男性が接触してきた。同じように十一月七日を繰り返している人々が他にもいるのだという……。 『秋の牢獄』
 何となく夜道を回り道した僕の前に、一軒の民家が現れた。中に住んでいた翁が僕を招き入れ、謎めいた言葉を残して消えてしまう。そして僕はその家に閉じ込められてしまう。境界線から出ようとしてもどうしても出られないのだ。その民家は数日ごとに日本の各地を巡っているようで、どこかの村の旧い儀式からいつしか取り残されてしまっているようなのだ。僕は、この存在を知るごく僅かな人々に助けられながら、代わりの誰かが訪れるのを待つ。 『神家没落』
 幻を実体化することの出来る祖母と二人で暮らしていた記憶がある。私はリオという名で山奥に暮らしていた。そこには二人の男性がたまに訪れていたが、どうやら地元の人々からは疎まれていたようだ。リオが地元の女の子に遊びに連れ出されているうちに、山奥の家は全焼、私は本当の両親のもとに連れ戻される。しかし、私の幻を実現化する力はまだ喪われていなかった。 『幻は夜に成長する』 以上三編。

時間、空間、人間。何かに囚われることによって見えてくる人間の孤独と絶望と希望……。
 『草祭』が非常に良かったので、慌てて未読だった恒川作品を手に取った。これまた非常に高度な幻想が紡がれている傑作中編集であった。一読すると(上記梗概でも)判る通り、登場人物が”何か”に囚われるという事態がテーマ。それぞれの囚われ方が工夫に満ちており、その設定とその状況を描いただけで、読みようによってはSF、本来的には幻想小説的なテーマを満たしているといえるだろう。
 ただ、その設定だけに寄りかかっていないのが作品の印象を強くしているところ。例えば表題作の『秋の牢獄』では、一旦囚われた人々によるコミュニティを創り上げ、その内部の結束というか共感を集めておきながら、その事態を打ち破る(かもしれない)謎の存在であるとか、その内部コミュニティの崩壊であるとかを描き出し、登場人物の孤独・虚無感をむしろ更に深めることに成功している。 また『神家没落』は、一旦空間に閉じ込められ、苦労しながら脱出する男を描きながら、またその男は、自らが招いた事態とその結果に驚愕し、脱出できたことに対する喜び以上に、その空間に更に惹かれていくという背反する気持ちを抱えている。彼の場合は、周囲に親しい人物がいない点なども、彼の狂おしい孤独への愛を強調しているようにみえる。
 また、キレイではないのだけれど最も個人的にインパクトを受けたのは『幻は夜に成長する』。特別な力を持った少女〜女性が、強制的に人為的に囚われてゆく過程が物語の多くを占めるのだけれど、この作品の終盤、ラスト数行にて戦慄させられる。 突き抜けた孤独が憎しみを生み、さらに狂気を招いているという描写が非常に巧み。この背筋が一瞬ぞわりとする感覚が、ホラー小説として恒川作品をみた時の醍醐味だろう。

 恒川氏の描き出す幻想は、どこかノスタルジーを内包しているが、これは恐らく原初の人間の感情に訴える何かがあるからだろう。文章自体も平易で凝っていないにもかかわらず、描かれている世界、そして世界観に深みがある。小説が普通に好きという方であれば、好みのジャンルを問わず興味深く読めるであろう、そういう作品集だ。


09/01/22
西尾維新「新本格魔法少女りすか3」(講談社ノベルス'07)

 『新本格魔法少女りすか』『新本格魔法少女りすか2』に続く三冊目。中編が三話収録されており、それぞれ『ファウスト』Vol.5(2005年5月)、Vol.6 side A(2005年11月)、side B(2005年12月)にて発表された作品。

 水倉神檎が『魔法の王国』長崎県から呼び出した『六人の魔法使い』のうち一人、人飼無縁を葬り去る戦いで共同戦線を張ったことで、供犠創貴(くぎ・きずたか)と水倉りすかは、『城門管理委員会』の外見十歳中身二千歳の魔女・繋場いたちと同盟を組むことができ、現在は彼らは夏休みを利用して福岡市に滞在していた。福岡では『六人の魔法使い』の一人、地球木霙が目撃されており……というか、繋場いたちと激しい戦いを繰り広げていた。激戦のなか、繋場いたちは勝利し、創貴ら三人はホテルにチェックインする。祝杯代わりのコンビニ食料を調達しにいった創貴。戻ると二人はゲーセンに出掛けており、創貴一人のところ、その部屋に子供のような人物が現れた。『六人の魔法使い』最後の一人・水倉鍵。彼は戦いに来たわけではないといい『箱舟計画』を教える代わりに、りすかとツナギの首を持って仲間にならないかと創貴に持ちかける。即答YESの創貴であったが、二人はビンゴで勝負することに。魔法使いではないが特殊な能力を持つ、水倉鍵の罠はそうして仕掛けられ、部屋に戻ったりすかとツナギは大きなピンチに陥ってしまう……。『鍵となる存在!!』『部外者以外立入禁止!!』『夢では会わない!!』 以上三編。

序盤の破壊、順当な成長、意外な寄り道と最終作への伏線が張り巡らされる
 二作目まで読んだところであれば、普通は(例えば少年マンガとかの定番として)、六人の魔法使いを弱い順番に戦ってゆき、最後は大ボスという展開をなんとなく想像してしまうのは仕方ないと思う。が、やはりというかさすがというか。西尾維新はそこから壊してくる。一人目よりも二人目の方が弱く、さらに三、四、五人目を飛ばしていきなり中ボスの六人目が登場するという展開。こういった定型へのミスリードを踏み台とし、実際展開で意表を突く物語構成の巧さが、実は西尾維新のセンスの重要な部分の一つだと(他の作品を読んでいても)感じる。本書にしても一冊目、二冊目と順に読んでゆくとやはり、三冊目の変調に驚かされるはずだ。
 二番目の作品『部外者立入禁止!!』は、一番目の作品からの続きでスリルこそあるものの状況打破の仕方としては微妙か。むしろ読者に見せたいのは、水倉鍵の冷徹な計算の方だろう。三番目の作品は、一瞬「あれ?」と思わされる番外編。(正確には延長ではあるが)。ただ、この部分に描かれている供犠創貴を取り巻く様々な部分は、今後の伏線になってくるのだと(たぶん)考える。
 相変わらず、供犠創貴と水倉りすかの従属関係がユニークで、本書は特にその部分も思い出したかのような強調がある。りすか他、魔法使いという存在や、この作品の世界に設定という縛りをかけることで、どうでもいいことを不可能事にし、思いがけないアイデアでそれを打破する――という展開。このあたり「新本格」とわざわざ題名の頭に付けている意味にも繋がっているように思うのだが……。

 ということで、あまり深く考えずに三冊目となると素直に楽しんで読んでしまいました。恐るべき十歳。


09/01/21
関川夏央「戦中派天才老人山田風太郎」(マガジンハウス'95)

 『鳩よ!』一九九三年十二月号から一九九五年三月号にかけて「如風説去、如夏訊来」として連載された、関川氏による山田風太郎インタビュー連載をまとめ、単行本化したもの。'98年にはちくま文庫版も刊行されている。

 ほぼ新作の発表を行わず、多摩の住まいにてほとんど隠居という状態の暮らしをしている山田風太郎のもとに関川夏央が定期的に訪れ、主に『風眼抄』『半身棺桶』『戦中派虫けら日記』『戦中派不戦日記』『あと千回の晩飯』『人間臨終図巻』といった風太郎のエッセイや日記を話の種として、この七十二〜七十三歳時の山田風太郎がどんな意見を持ち、どんな考え方を持っているかを引き出してゆく。体裁としてはインタビュー集となっているが、毎月毎月、関川氏は山田邸を訪れ、その月ごとの内容を纏めているため、重複する内容も多く、それもまた(語弊があるがあえていうと)山田風太郎のボケ加減を表現するのに適切な内容になっている。当たり前だがインタビュー当時から昔のこと、戦時中やデビュー直後の話題が多くなる一方、最近の時勢に対しても風太郎ならではの切り口で分析がなされているのが特徴である。

辛口、饒舌、ぶっ飛び。老いてなお、風太郎ならではの辛口、そしてとぼけた味わい。
 基本的には、関川夏央氏が家や山荘に籠もり、あまり他人との会話を喜ばない山田風太郎から(実際はどうあれ)どこか無理矢理に話を聞き出しているようにみえるインタビュー集。 ただ、仮に無理に引き出しているのかどうかは不明なれど、一定の水が向けられて、かつそれについて興味がある内容の場合は、風太郎は饒舌に変わる。このあたり、どういった話題を振れば、風太郎が話しを繋げてくれるかといったところにも、インタビュアーが非常に苦心したところがこのエッセイ集内部でも相当に見え隠れする。場合により、二度ならず三度も同じような話題を風太郎が口にしているし、その時にどうにか前回と異なる方向に水を向けようとする努力は明らかに判る。
 インタビューとしての苦労はとにかく、山田風太郎の言動から気付くのは、独自のシニカルな社会観(六十五歳人生定年制であるとか、太平洋戦争に対する史観であるとか)と、過去の一時期に関する細かな記憶の確かさ。こういった点は素直に凄い老人だと感心してしまう。
 風太郎の発した言葉を重視するあまり、その周辺の状況は事柄、引用元までも徹底して調べ、インタビュー形式として再構成する際に蘊蓄が重たくなっている部分がある。このあたりは読者の好みだが、個人的にはインタビュアーの(微妙な)野心めいた気持ちが感じられる。風太郎の発言から、戦争を見直そうといったような。ただ一方、すらっと出てきた戦後すぐの探偵小説作家の名前に関川氏が反応できていないところなども、ミステリファンの観点からはちょっと勿体なく思う。
 また、晩年の風太郎の生活が垣間見えるところも興味深い。いわゆる老人の普通の生活とは全く異なり、何かに縛られず自由な暮らしをしていたところは印象的である。

 ただ――、本書に関していうと、風太郎の著作そのものに興味があるというだけの人は必ず読む必要はないように思う。せいぜい『天国荘奇譚』あたりの発想の原点や、明治小説のアイデアに関する記述があるくらいで、決して作者による作品解題を目的にしていないし、この段階での風太郎発言が必ずしも小説イメージとは一致しない部分がある。あくまで、山田風太郎という偉大な人物を、深く良く知るためのインタビュー集というシンプルな位置づけで良さそうだ。