MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


09/09/20
連城三紀彦「さざなみの家」(ハルキ文庫'02)

 少なくとも近年の連城三紀彦作品といえば、なんとなくハードカバーで必ず刊行される印象があるが、一部には文庫オリジナルの短編集もある。本書はそういった作品集のうちの一つで、「季刊SUN・SUN」という仏教系の宗教誌に平成七年春号から平成十二年冬号にかけて掲載された作品がまとめられた連作集。

 三世代が同居する吉川家。多少以前に夫が浮気をするなどの問題があったとはいえ、会社勤めの夫・達哉と妻でパート勤めをしている滝江、夫の母親であり七十過ぎの姑、長男・勝広は社会人二年目、大学生の長女・夏美の家族は平穏に暮らしていた筈だった。そんな吉川家に届いた一通の手紙。宛名は単に「吉川様」となっており、誰に宛てられたものか滝江には判らない。不安に感じた滝江はそっと封を剥がして中身を読む。薄い便箋に一枚、「家を棄てる決心はつきましたか。ついたのなら今度の日曜日、朝の十時、東京駅の銀の鈴の下で待っています」とだけあった。果たして誰に届いたものか。家族に日曜日の予定を聞いても、皆、外出するというもののはっきりしないところがある。滝江はいてもたってもいられず、当日に東京駅へと向かうのだが……。冒頭の「春ささやか」からこういった展開。達哉の浮気再開疑惑、勝広の人妻への恋慕、夏美の不倫、姑と嫁との小戦争……と、吉川家はさまざまな事件によって「さざなみ」に揺られ続ける。

家族小説……なのだが。ここまで様々な”波”で翻弄される家族の行方と、波の原因は一体なにか
 五人の、それぞれ大人となっているけれども一緒に暮らす家族に降りかかる事件を、主に妻であり母親でもある滝江の視点から描く物語。全部で二十四の独立した掌編となった章から構成されており、それは即ち二十四もの事件が発生するということでもある。(詳しくは書かないが、登場人物は途中から家族に幾人か加わってくる)。
 滝江の視点といいつつ、滝江自身がパート先のアルバイト青年に若き頃に恋した人物を重ねてみたり、同じくパート先の上司に心が引き寄せられたりと、決して清廉潔白ではなく後ろめたいところがある。その一方で家族に対しては「あるべき姿」を求め、姑とは実際の感情ともまた別に、必要ないのに言葉が過ぎて双方で諍いを引き起こしているようにもみえる。もちろん、勝広にも達哉にも夏美にもそれぞれ家族に対して正々堂々と向き合えない局面があり、それぞれ「さざなみ」となって家族を翻弄してゆくのだ。
 彼らの心の襞であるとか、ちょっとした感情の描き方は、さすが連城三紀彦氏であり抜群に上手い。掌編であるのに、個々の作品が普通の短編以上の重みを持っている。一編一編が独立しながら、よくぞここまで波乱を演出できるもの、という感心も同時に味わうことになるのだが。また、先にも述べたようにそれぞれに「何か」があるために、特に誰に感情移入をしながら読むというのもまた難しくなっている。   作者の意図としてどうかは不明だが、上記の結果、多少醒めた視点でこの「吉川家」を読者は眺めることが可能になる。その結果、やっぱり滝江の空回りや身勝手が目につくような気がするのだがどうだろう。彼女が極端に猜疑心の強い性格でなく、もう少し言葉や態度に気を遣うことが出来れば、こじれない事件も多かったように思うのだ。ま、そういった感想も含めて小説なので正解などないのだけれど。

 小さな意外性の演出方法や、登場人物の運命など、ミステリの手法は確かに援用されている。ただ、全体を通じてミステリといえるかというとやはり異なっていると思う。あくまで連城氏の小説テクニックが活かされた、家族小説。 ただ崩壊一歩手前で持ち堪え、さらに再生が感じさせられる家族小説であり、読中の嫌な気分は最後に晴れ渡る。単なる家族小説であっても上手い人が書くと一段上の家族小説になっていると、そう感じさせられた。


09/09/19
石田衣良「逝年」(集英社'08)

 第126回直木賞候補にも選ばれた『娼年』の続編。副題に「call boy II」と表紙にはあるが、奥付には「逝年」のみで正式なタイトルには含まれていないようだ。「小説すばる」誌に2006年11月号から2007年10月号にかけて連載された作品の単行本化。

 『娼年』でコールボーイとしてスカウトされ、その才能を開花させたリョウ。しかし先にはリョウのことが好きだった女子学生によりボーイズクラブ「ル・クラブ・パッション」は解散してしまっていた。それから一年。オーナーの御堂静香は医療刑務所に入院したまま、残りメンバーであるリョウ・御堂咲良・アズマは再集結を果たしてクラブは静かに営業の再開を開始する。リョウとアズマの二人だけでは当然回らないので、クラブに課せられたのは、クラブに相応しいコールボーイの発掘業務。リョウは新宿二丁目でバーテンとして働くある人物・アユムを候補としてピックアップ、スカウトを開始する。一方、御堂静香を追い込むきっかけを作ったメグミが再びリョウの前に現れる。メグミはメグミでリョウの気持ちを知るために、自らも娼婦として暫く働いてみて、今度はパッションのために働きたいと言い出した。

『娼年』続編、登場人物もほぼ近いながら、性と愛を描いた成長小説の味わいが薄まった印象
 石田衣良のシリーズ作品はほとんどの場合、IWGPシリーズなどを始めシリーズにもたれかかる要素が薄く、どの巻から読んでも世界の理解に不自由はないし、そこそこ楽しめるということが多かった。本作はその逆で、長編作品にもかかわらず、第一巻にあたる『娼年』のエピソード抜きには読んでもあまり意味のない作品となっている。
 普通の少年がコールボーイとして成長していくのが『娼年』であれば、この『逝年』では、リョウはコールボーイとして女性を歓ばせるテクニックや精神を完璧に身に付けたところからスタートしている。(そういや最初、題名から勝手に想像して、本作は中高年からコールボーイに身を投じた人間を描いた、主題は同じ世界は別といった作品だと思っていた)。そのリョウが自分を見出してくれた御堂静香(HIVを発症、死を迎えつつある存在)に恩返しをする、という暗い設定が根本的に横たわっている。この御堂静香が『逝年』の『逝』を意味しているわけだ。
 但し、――前作に比べると物語全体としての訴求力が落ちているように思えてならない。 つまりは他の客との場面も含め、精神的にもコールボーイとして完成された言動&行動は、確かに凄い。凄いのだけれどもそこには聖母(男だけど)の慈愛はあっても、青年の成長は無くなってしまっているのだ。まさか、前作の「母親の前で娘とセックス」というシチュエーションの逆、「娘の前で母親とセックス」という描写を描きたかった訳ではないだろうが(技巧的に対にしている点は間違いない)、語弊を恐れずにいえば、作者の全女性ファン(主に中高年層より上)に対するアリバイというか、「僕は全ての女性を魅力的だと思っていますよー」といった主張を遠回しにアピールしているような印象すらあるのだ。

 もう少し冷静に考えると「死ぬ直前まで女は女である」という命題を描いたとも受け取れる。ただ、やはり主人公の浮世離れした感覚の方がそれよりも小説中で強くなっているようにも思え、現実的には非合法行為を是とする売春小説であることをひっくり返すには至っていないと思う。前作ではその「売春小説」の枠を吹き飛ばすほどの「青春小説」としての快感が強かったのに。残念。


09/09/18
貫井徳郎「後悔と真実の色」(幻冬舎'09)

 幻冬舎の雑誌『ポンツーン』に二〇〇六年十二月号から二〇〇八年六月号にかけて連載された作品を単行本化したもの。単行本化するにあたり大幅な加筆修正が入っている。久しぶりに真正面からミステリを打ち出した貫井作品。

 交番勤務の大崎巡査は深夜、女性の悲鳴を聞いたという通報をもとにある空き地に入り込む。そこには血まみれになった女性の遺体が……。通報を察知していち早く現場に駆けつけた捜査一課九係のエース・”ジョー”こと西條とその相棒”トム”こと山根。彼らは遺体からは指が一本切断されていたことを知る。後に『指蒐集家』という名前で呼ばれるようになる犯人は、それから若い女性を続けてナイフを用いて殺害し、指を切断して持ち去っていく。夜道を歩く女性をいきなり襲う通り魔的犯行に加え、犯人が標的を狙う理由が絞り込めない。一向に捜査が進まない警察に対して世論がシビアになるなか、犯人はインターネットの巨大掲示板で犯行予告や実況中継を開始、警察組織をさらに翻弄する。人手不足から例外的に一般巡査である大崎を相棒に、精力的に捜査に臨んでいた西條は、被害者同士に東恵大学という繋がりがあることを発見するが、関係者に大臣の娘がいたため、捜査陣に圧力がかけられそちら方向の捜査は中止せざるを得なくなってしまう。それでも諦めきれない西條は、大崎の助けを借りて別の事件でも大学関係者がいないか調査しようとするのだが、それがマスコミにばれ、さらに追い打ちをかけるように西條自身の不祥事が明るみに……。

正面から現実の警察組織を描いた作品にして、ベースの発想には類をみない本格トリックが仕組まれる
 まず最初に驚かされるのは、警察小説としての”濃さ”だ。例えば冒頭の部分、事件発生・通報からいわゆる捜査一課が実際の捜査にあたるまでの警察での情報の動かし方、人の動きのルールなどが精細に描かれている。これが引き写しではなく、本書で発生する事件に則って描写されているため、蘊蓄小説特有の退屈さは無く、これまで知らなかったことを知る関心と興奮が勝る。(そこそこ警察を舞台にする小説は読んできているつもりだけれど、ここまできっちり現実を描写できている作品はそうそう無い)。作者がどういう取材を行ったのかは不明だが、巻末の参考資料も多く、今作において警察組織を真っ正面からきっちりと描いてやろうとした、作者の意気込みが伺える。
 『指蒐集家』を名乗る猟奇的犯人と捜査一課エースの西條という刑事との知恵比べ……になりそうでいて、そうなっていないのが展開のミソ。 出世にあまり関心がない一方、男前ですっきりとした容姿を持ち、若い美女の愛人と交際し、人前の正義感と探偵めいた直感でこれまで数々の事件を解決してきたスーパー刑事・西條。中盤まではエースらしい閃きと動きを見せる彼が陥る罠と、凄まじい勢いでの転落は、それはそれで展開のなかで大きな意外性がある。
 また、あまりにも警察小説的側面、そして劇場型犯罪という展開が強調されているので気付きにくいが、この作品の骨格となっている犯人の行動原理・動機には本格ミステリのトリックが仕込まれている。 ネタバレになるので詳しくは書がないが、アリバイトリックと、それとは別のあるトリックの趣向が一体化したもので、個人的には前例を思いつかないタイプのものだ。このあたりから読み解いてみるのも一興かと思う。

 最近の貫井氏の作品は、どちらかというと社会派的テーマが重要な位置を占めることが多く、本作でも多少トーンとしては控えめとはいえ、正義を行う者は全てにおいて潔白であるべきなのか? といった主題も読み取れる。ただ、そこに無理にこだわらずに先読みを許してくれない警察エンターテインメントとして素直に楽しむのが吉なのではないかと思われた。


09/09/17
東野圭吾「新参者」(講談社'09)

 『小説現代』二〇〇四年八月号から二〇〇九年七月号にかけて数ヶ月おきに掲載されていた作品がまとめられ、長編となったもの。発表時は連作短編のような扱いだったように思われるが、本書もその性格は残しているものの一個の長編として結実している。そして執筆にあたって上記のような期間をかけつつも、これだけまとまりある作品を生み出せる東野氏の構想保持力(?)にはスゴイものがある。

 未だに江戸情緒が色濃く残る街・東京・人形町。マンションで四十代の独身女性が絞殺された。捜査にあたるのは地元の警察署の刑事たちと、練馬署を離れ、この街に来たばかりの”新参者”加賀恭一郎。発生した殺人事件にまつわる証拠調べやアリバイ確認のために歩き回る。(小説上で)最初に訪れるのは人形町にある煎餅屋。煎餅屋の入院から帰ってきたばかりのおばあさんのもとを訪ねてきた保険外交員が事件直前に被害者のもとを訪れていたため、容疑者の一人として浮上していた。その保険屋の主張するアリバイでは、医師の診断書を受け取りに煎餅屋を訪れた時間におかしな齟齬が発生してしまう。結果的に彼はある理由からそう言うしかない状態だったのだが、加賀の視点はその虚偽すら飲み込み、彼の無実とその裏側にある人情を探り当てる。続いて訪れるのが料亭。この料亭の見習い小僧が主人のためにこっそりと購入した人形焼きが問題になっていたため。被害者の家でその人形焼きが発見され、さらにその一個にはなぜかワサビが仕込まれていたからだ……。

一つの事件の捜査中「寄り道」小説。人情と機微溢れる下町小説にしてミステリ。エンタの極み。
 長編仕立てながら、読感は連作短編集。おおもとになる四十代の独身女性が殺害されるという事件があり、その事件の被害者のこれまでの生き方や、現在の状況が読み進めていくうちに浮かび上がってくる。ただ、その本家の事件へ焦点があたるのは後半も随分過ぎてから。捜査にあたる一刑事である加賀恭一郎が、こつこつと人形町の商店街を歩き回り、マメに各所に顔を出すなかで立ち現れる人形町に住む人々の視点による物語が大きな比率を占めている。 時計屋や、ケーキ屋、骨董品屋、玩具屋。別の店で買った商品をお土産にしたり、フリの客として店を訪れたりしながら、加賀は各家庭や商店が抱えていたごく小さな謎を解き明かしてゆくのだ。それも、実にさりげなく、下町の雰囲気同様、人情味が感じられる解決を提示してゆく様が温かい。
 最終的に行われるメインとなる事件の解決にしても、同僚刑事のこと、犯人の心情を慮った解決に繋げてゆき、事件というよりも「人情譚」が結末を迎えるよう。江戸時代捕物帖の小説ならばいざしらず、合理的、かつ法律に則った現代の捜査のなか、このような解決に至ることが出来た本書の展開は、ある意味奇跡的ですらある。

 本格ミステリとしてのトリックが弄されているかというと、そういったタイプの作品ではないのだが、緻密な構成と綿密な計算によって構成されている小説全体からは、本格好きの読者であっても高評価を引き出せるはずだ。東野圭吾の小説家としての巧さ・器用さが、まさに結実したといった印象。長すぎず短すぎず、エンターテインメント小説としては最高レベルにある作品だといえるだろう。


09/09/16
東川篤哉「ここに死体を捨てないでください!」(光文社'09)

 『密室の鍵貸します』から始まり、ここまで全てカッパノベルスで刊行されてきた、東川篤哉氏の押しも押されぬ代表作「烏賊川市シリーズ」ないし「私立探偵・鵜飼杜夫シリーズ」が遂にソフトカバーとして書き下ろし刊行された。次はハードカバーかどうなのか。意表をついてグラビア雑誌に、とか。ないね。

 烏賊川市で一人暮らしをしながら法律を学ぶ女子大生・有坂春佳。ある朝、彼女の部屋に突然若い女性が乱入してきた。春佳は慌てて果物ナイフを突き出してしまう。女は倒れたままぴくりとも動かず、慌てた彼女はなぜか仙台方面に失踪。そこから姉の香織に電話して助けを求める。普段は精神的に妹よりも幼く、特に何も取り柄のない事務職OLの香織は、ここぞとばかりに姉貴風を吹かせてアパートに乗り込むが死体を前におろおろ。死体からはミニクーパーのキーと、山田慶子と名のあるクリーニングの受取証。とにかく死体を妹の部屋から捨てないと、と通りかかった個人廃品回収業者・馬場鉄男を香織無理矢理巻き込んで、死体をコントラバスのケースに詰め込んで河川敷へと乗り込む。しかし様々な不運や邪魔が入り死体を捨てることが出来ない。香織と鉄男は川から逆に山のある猪鹿村方面へと向かう。一方、探偵の鵜飼杜夫は留守番電話に声だけ残されていた依頼人・山田慶子が待てども待てども現れないことに業を煮やす。彼女の依頼は、猪鹿村のペンション・クレセント荘で事件が起きそうだというものだった。鵜飼は依頼人本人とは会わないまま、ビル管理人の二宮朱美と助手の戸川流平を伴って、猪鹿村にある温泉付きペンション・クレセント荘へと向かう。一方、車ごと死体を捨てたはいいものの、帰りの足を失った香織と鉄男も、山の中で迷った挙げ句クレセント荘に辿り着いた。

相変わらずの生温かいテンションが癖になりそう。大がかりな本格にも成功した佳作
 東川篤哉の作品といえば、まず緩くて生暖かいギャグ、そして本格である。最初に読んだ時は「何これこいつ、気持ちわるい」と思っていたのだ確かと思うような、東川流のギャグが最近なぜだか、本当になぜなんだか、本作なんか特に面白くなってきている。 確かにオチで決め打ちといったピンポイントの大笑いはないのだけれど、人間関係が少しずつ成熟(あ、物語のなかの)していくなかで、確立した個性にのっとって繰り出される、台詞や地の文の連発ギャグ、これから発するニヤニヤ笑いが読んでいて止められない。本書から最初に読まれた読者だと「笑えない」という部分も、なぜだかおかしく感じるから不思議だ。遂にクセになってしまったのか。東川中毒とか。やだなあ。砂川警部や志木刑事の下の名前ネタなんか、シュールで好きだ。
 そしてドタバタした展開のなかにある、ぎりぎり本格といえるかどうかのトリックもまたユニーク。事件の構造は恣意的(つまり、善意の第三者による死体移動があってこそ)ということになるが、この結果得られるラストのカタルシスが素晴らしい。ここに至るまで一応、奇想天外なアリバイトリックがあり、更にそのヒントなども置かれている点は注意しておきたい。とはいえ、結局のところ、そういった本格めいたトリックすら踏み台にして、一個の物語の盛り上げに使ってしまうところが東川ミステリの真骨頂といえる部分のような気がする。死体移動にはコントラバス(お約束)。

 アホはアホなりに登場人物の個性がそれぞれにこなれ、個性よりも物語が追いやすくなったこともあろうが、本作はこれまでの東川作品、そして烏賊川市シリーズのなかでもかなり上位に位置する作品だといえよう。個人的にはもっと彼らの活躍が読みたいので、どしどしこのシリーズは継続していってもらいたいと思う。


09/09/15
戸梶圭太「センチュリー・オブ・ザ・ダムド」(ハヤカワ・ミステリワールド'09)

 2000年前後に一大ムーブメントを引き起こす『バトル・ロワイアル』にて、高見広春氏が最終候補となった'98年の第5回日本ホラー小説大賞の最終候補作品の全面改稿版。(この年は受賞作無し)。つまりは戸梶圭太氏デビュー前作品が原型であるということを念頭に読む必要があるだろう。

 香港の裏社会で幼い頃からマフィア・大義安の構成員として生計を立てていたトニー。中国への返還前後から裏社会にも厳しい人事制度が引かれた結果、現在は二級工作員として業務的にも収入的にも不遇の日々を囲っていた。命ぜられた、女をいたぶる仕事に嫌気がさしたトニーは、仲間三人を次々と射殺して警察の厄介になる。いずれ組織によって殺されることを覚悟していたトニーだったが、子供時分に自分のことを拾ってくれた組織の大物・ロウ公の手によって救い出される。その条件は、その頃に相棒として組んでいたロナルドの殺害。頭の回転が良く、高い交渉能力を持っていたロナルドはそのまま組織でも良いポジションを維持していたのだが、巨額の組織の金を持ち逃げして米国に逃亡しているのだという。トニーは、否応なく米国へ飛び、ロナルドの行方を追うことになった。しかし、その頃の米国では、全く脈絡ない様々な人々が、自ら自分の片方の目玉を抉り出して、そのまま行方不明になるという原因不明の現象が多発していた……。

デビュー前の勢いと後のトカジ節の片鱗はみられるものの、その分、物語の統一性、一貫性には難が残るか
 一応、この香港の工作員が序盤は主人公なのだが、中盤からはFBIに協力させられている、犯罪者の視点を共有することの出来る超能力者・ニーナと、FBIでニーナの管理を任されているが家庭崩壊中のマクマード、ニーナと運命の恋に陥る大学教授、更にテロのために米国潜入中だったが、計画が気に入らず同胞を裏切ったアラブ人・ヤセルや、彼に洗脳され、戦闘的になってしまった米国人一家など、人種のるつぼというお国柄を反映して、様々な国籍や人種が物語に次々登場し、「オレが主人公だ」とばかりに前面に出てくる。 それだけでもかなりごちゃごちゃしてしまううえに、「自らの目玉を抉りだして廃人だけどゾンビ」みたいな人々が多数登場、彼ら同士が入り乱れて戦ったり、共闘したり、腹を探り合ったりして、結果的に物語は混沌を極めてゆくのだ。
 理由抜きに片目を抉ってゾンビのごとき行動を取る人々――というあたり、ホラーといえばホラーでもあるのだろうが(トカジ氏のデビュー前後のホラー大賞基準でいえば)、昨今のトカジ作品にはもっと普通の人間であっても、生物学的に無理でも動き続けるような、ぶっ飛んだ存在になることもあるので、賞時点から十年経過した今となっては、作品から得られるインパクトは普通レベル。現在視点ではやはり複雑に絡み合った物語の作りにむしろ引っ掛かりがある。ホラー大賞に投じられた原型がどんな作品だったのか知るよしもないけれど、徹底的に改稿されてこの作品だとしても現在の読者にはちと厳しいか。登場人物は突っ走ってはいるのだけれど、自ら壁にぶつかってぐちゃっと潰れてリセット……を繰り返すような物語。 明かされない謎、使い切れていない伏線も多く、全体を通じての筋書きも今ひとつ、深いところに底があるとはいってもそこまで覗き込む気があまりしないのだわ、これは。

 トカジ作品にて感じられる妙な爽快感も薄く、熱心なトカジファンだけが読めば良いのではないか、という作品。初めて読んだ戸梶圭太がこの作品という人は少し不幸かもしれない。


09/09/14
辻村深月「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ」(講談社'09)

 2004年に『冷たい校舎の時は止まる』で第31回メフィスト賞を受賞してのデビュー後、『子どもたちは夜と遊ぶ』をはじめ、多数の作品を打ち出し、主に若い女性世代の熱い支持を受けている作者。本書は書き下ろしで、作者と同年代の主人公たちが登場する。

 生まれ育った山梨県で派遣OLをしていたチエミは母親を刺し殺してしまい、そのまま失踪した。銀行のATMで現金をおろした姿がモニタに残されており、小学校時代の恩師を唐突に訪問した後、消えてしまったのだ。チエミと幼馴染みであり、進学校から東京の大学に進学し、現在は結婚して雑誌記事を中心に活躍するフリーライターとなっているみずほは、チエミの足跡を追う。かつての同級生から話を聞くみずほは、いつの間にか友人たちとのあいだに築かれてしまっている価値観や生活観、人生観の違いに戸惑う。彼女たちの話から浮かび上がってきたのは、べったりとした親子関係を普通だと信じていた彼女の家庭と、そんななか恋愛関係で「都合の良い女」でしかいられなかったチエミの姿。一方のみずほは、幼い頃に母親から虐待を受けていたことに気付き、実家とは疎遠になっているが、親の方はそんなみずほの心中など判らない。果たしてチエミは一体なぜ、それほど仲の良かった母親を殺してしまったのか。

母娘関係の永遠の相剋、世の中で作られた価値観に否応なく踊らされる当人たちの悲劇
 まず強烈に感じたのは三十歳前後の女性たちの考え方や人生観が生々しく、そして表面の皮が剥けて赤くなっている部分に直接触れるような痛々しさを伴って描写されている点。 作者自身がその世代・性別・環境の渦中にあるからこその偉業ではあるのだが、結婚/未婚、中央/地方、友人/それ以外などのギャップを、登場人物の口を借りながら妬みや僻みに至る、本来は奥底に秘めたまま隠してしまう感情と共に浮き上がらせている。強がりもあれば、負けを認める部分もある。匙加減も絶妙だし、本来は成功や失敗は無関係な個々人の人生であれど様々な価値観のなかでは優劣が勝手に決めつけられるところなども。また友人関係と同様、描かれる二つの親子関係もまた生々しい。全てのことを親と共有すること、「いい子」でいることがアイデンティティとなっているチエミ、一方で親への反発からうまく距離感が取れないみずほ。二つのパターンに現実には分けられないとはいえ、彼女たちに共感する女性も多いのではないか。
 物語はみずほの視点で描かれる。進学校から都会に出て雑誌に署名記事が出るフリーライター。彼女自身がどう思おうと地元では勝ち組扱いされる主人公視点でのハードボイルド的な読み方も出来よう。少しずつ明らかになるチエミの過去と、みずほの知らなかった時期の彼女。さまざまなしがらみに囚われたチエミの生き方が痛痛しく浮き上がってくる。無責任な男、その男に縋らざるを得なかった彼女。その結果、発生した悲劇。徐々にチエミの生き方が見えてくる物語展開は巧みだと思う。母殺しの事件そのものは意外といえば意外だし、意外ではないといえば意外ではない。ただ、題名の意味には本作のテーマを越えた苦い味わいがある。皆、自らが正しいと信じ、そしてそのなかで最善の努力をしながら生きている。だけど、それは時には悲劇的にすれ違ってしまうということ。

 結果的に何が正しく、何が間違っているなどといった押しつけがましい結論はない。ただ少なくともマスコミや身近な人々の影響、既成の考え方に囚われてしまった地方女性の悲劇を通じて、様々なことを考えさせられる作品であることは確かだ。彼女たちが持つ焦燥感は、現実にも多くの女性が嫌でも感じさせられている事柄に繋がっているのではないだろうか。従来の辻村作品を多数は知らないが、それらの枠からは一歩踏み出したような印象を受けた。


09/09/13
倉阪鬼一郎「三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人」(講談社ノベルス'09)

 '07年刊行された『四神金赤館銀青館不可能殺人』と題名的に繋がっていると思しき書下ろし長編ミステリ。(キャラクタ等は重ならない)。 作者の単行本の巻末には著書リストが掲載されていることが多いのだが、今回初めて「シリーズ」の一つとして「☆」印、バカミスという項目が現れた。そして、本書にも☆マークが……。

 夕映えの丘から富士山が見える。橋が見える。三崎の町と城ヶ島を繋ぐ城ヶ島大橋は、美しい鳥のようなたたずまい。そして二つの館が見える。壮麗な洋館で双方構造は一見すると同じ。しかし明らかに色が異なっている。その名の通り片方「黒鳥館」は黒く、「白鳥館」は白い。双子のような二つの館のあいだには越えられない障害が横たわっている。滝を伴う深い谷。二つの館を行き来するにはいったんふもとまで下り、ぐるりと迂回するしか移動の方法は無いように見える。そしてその館の内部では、騙し絵で知られる青年画家・鳥海翔が殺意を燃やしていた。館の構造は「黒鳥館」「白鳥館」共に同じ。「奥の部屋」があり、そこに至るまでにはシャンデリアが煌々と灯る「大広間」がある。そして「大広間」の入り口部分はモニタによって監視されている。奥の部屋は施錠されないが、小さな窓があり、現実には密室ではない。だが人間の出入りは入り口以外は不可能だと思われた。そして東亜学芸大学ファインアート研究会に所属している西大寺俊が、黒鳥館で殺害された。彼は、黒鳥館に深夜0時20分に招待され、ウェルカムドリンクを振る舞われ、大広間から奥の部屋に通された。そこには他の客はおろか誰もいない筈だった。しかし、彼はナイフで刺殺された。西大寺の後も、研究会に所属する人間が一人、また一人と招待され、そして不可解な状況下で殺害されていく――。

中盤にて明かされる、強烈なまでのオチを持つバカミスの正体。実は更に戦慄の仕掛けが施されている
 いやはや。これはこれは。
 倉阪氏の、どちらかというと幻想小説で用いられるような、描写はあれどどこか茫洋としたイメージを読者に抱かせる文章が序章から連なっている。肝心要の部分の描写を巧みに避けながら演出されている密室殺人。文章自体がどこかすっきりしないながら、ぎりぎりで意は伝わってくる。離れた館間で瞬間的に移動する犯人。何もないところから突如現れる殺人者――。怪奇小説のような前半、一方でとんでもないオチが待っている筈だとむしろわくわくする読中の感覚がある。
 そして些か早いのでは、という物語の中盤でまずは強烈な種明かし。御本人自ら「バカミス」と断じているほどの強烈な真相がぶち上げられる。さすがにバカミスはあるかも、と思っていましたが、ここまですっ飛んだ真相だとは予想だにしておりませんでした。一般読者は怒るんじゃないの? と思いつつ、その反面、個人的には絶賛。有栖川有栖氏の名言「十人中八人に嫌われそうだが二人は喜んでくれる」のが作家だとすると、倉阪氏のこのシリーズは「10人中9.5人に嫌われても、残り0.5人が熱狂的に支持する」タイプの作品だよなー、と一人納得。小生も0.5人の一人(なんか変だな)です。
 さらに後半部でテキストに仕組まれていた偏執的ともいえる仕込みについて説明がなされている。この部分はもう唖然としか言いようがない。同様のこだわりがあった泡坂妻夫氏とも微妙に異なり、似たような類例はやはり倉阪氏の過去作品しか思い浮かばないというような超絶の仕掛けが存在する。この趣向を思いついても、実際に辻褄を合わせてしまうところは文章に対する凄まじい執念が無ければ達成は難しいと思う。倉阪氏が電子媒体ではなく「活字」にこだわるところなどにも通ずるものはあるだろう。種明かしがなされるとかなり苦しい部分もあることが判るものの、これだけの縛りを自由に創作できる筈の自らに課すところ、マゾヒスティックですらありますよ。「バカミス」を踏み台にして遙か高みにまで飛翔してしまう小説を越えた別の何かに至ってしまっている作品だ。

 本格ミステリの手掛かりは大胆であればあるほど、序盤に登場すればするほど良い(かどうかの真偽は別にして)ということであれば、間違いなくその趣旨は満たした作品。問題は、世の中の方がそこまで進んでいないこと。正直に申し上げてごく一部の読者が熱狂的に賛美するというタイプの作品。個人的にはその「ごく一部」が拡がって欲しいと思う訳です。


09/09/12
小路幸也「brothr sun 早坂家の人々」(徳間書店'09)

 2007年に創刊された徳間書店の新小説雑誌『本とも』の創刊号から連載されていた作品が単行本化されたもの。

  幼い頃に母親が病死し、父親・陽一の男手によって育てられた三姉妹、早坂あんず、かりん、なつめ。あんずはおっとりしながらしっかりもの。現在OLをしており、向坂という婚約者がいて、向坂はその柔らかな性格からかりんやなつめからも慕われている。次女のかりんは大学生。趣味で絵を描き、その縁で美大生の淳史と交際している。三女なつめは高校生。実は隣家に済む同い年でハーフの幼馴染み、恭介と最近付き合いだした。父親の陽一は、子育てが一段落したところで若いバツイチの奥さん・真里菜と結婚し、現在は二歳になる息子・陽ちゃんがいて、家を出てすぐ近所で新婚生活を送っている。三姉妹の計らいで、陽ちゃんを預かって父親とその若妻を新婚旅行に送り出した時、父親に似た人物が早坂家を訪ねてくる。彼は父親の兄で、三姉妹の伯父にあたる人物らしいのだが、二十年早坂家と絶縁した生活を送っていた。彼は自分が来たことは陽一に内緒にして欲しいといい、連絡先も告げずに家を出て行ってしまう。なぜその伯父は長年のあいだ絶交状態だったのか。 早坂家の過去に何があったのか。三人の男性パートナーの力と支えを借りながら、三姉妹は少しずつ早坂家の過去について迫ってゆく。

どこか静謐な印象強いホームドラマ、そして「大人」揃いの早坂家に拡がるインクの染みが印象的
 それぞれ性格が異なりながらも、過度に依存せず、過度に干渉せずでしっかり生きる三姉妹。決して物質的に恵まれてはいないながらも、精神的には満ち足りた状態にある彼女たち。彼らのもとに二十年ぶりに現れた「伯父」なる人物がもたらした不安がじわりと拡がってゆく――。彼女たち、彼らの”日常”部分が、特に序盤では実に平穏に描かれている。それぞれ年相応、性格相応の違いはあるとはいえ、総じて気配りが出来、互いのことを思い遣りながら生きているのがよく判る描写。彼女たちが交際している相手にしてもそれは同じで、姿格好はとにかく爽やかな印象を受ける。
 そんな彼らの暮らしぶりが静かだからこそ、刺激の強い作品であればどうということもない小さな不安が、真っ白いシーツについた染みのように拡がっていく様子がよく目立つ。 物語それぞれが持つテンションによって、強調すべき落差の度合いを理解して表現している点、小路さんらしい物語作りの巧さを感じる。
 エピローグでは、本編での登場人物の十数年後が描かれ、非常に賑やかになっている。その賑やかさ具合は『東亰バンドワゴン』の堀田家をも思わされる。とはいえ、そこで長姉によって明かされる不穏な空気などもあり、一概に明るいばかりの話にて終わっていない。一つの「家」に集まるというよりもイメージとしては「家」から集まったり離れたりといった、少なくとも堀田家よりも早坂家の方が拡散するような印象が現れるのだ。最後まで家にこだわるホームドラマと、家からの巣立ちをテーマにするホームドラマ。『早坂家』と『東亰バンドワゴン』は対になっているのではないか、と思ったのだが、機会があって作者にこの点について聞いたものの、どうやらそういう意図はないとのこと。

 どこに出しても恥ずかしくない三人姉妹と、やはり女性からは引っ張りだこになるであろう、性格や行動が「いい男」揃いの物語。個性としての異なる性格をきっちりと打ち出しながらも、基本的に「大人」で精神的に自立した彼らの物語は、人間味が溢れていて温かい。 小路ファンであれば、様々な印象を持ちながら、気持ちよく読み進められるであろう一冊である。


09/09/11
伊坂幸太郎「あるキング」(徳間書店'09)

 徳間書店の新小説雑誌「本とも」二〇〇八年四月号から二〇〇九年三月号にかけて連載された作品に大幅に加筆修正を加えて単行本化した長編。あとがきによれば、伊坂氏が連載中は「自分が読みたい物語を自由に書きたい」と思って書いた作品なのだという。単行本化にあたり書き直され、本筋は同じながらまるで違う様子の物語になったそうなので、熱心なファンならば初出にもあたる必要があるかも。

 地方都市・仙醍市にある老舗菓子メーカーがオーナーとなっているプロ野球球団・仙醍キングス。オーナーにやる気はなく、選手に実力はなく、監督に覇気はないこの球団は、長年のあいだセ・リーグで万年最下位に位置していた。そんななか実力選手・南雲慎平太が入団、孤軍奮闘の活躍をするがあと一歩タイトルには届かなかった。FAを取得した南雲は当然移籍するものと思われていたが、彼はキングスに残り、監督として長年球団を支え続けていた。試合中の不幸な事故でその南雲慎平太が亡くなった日、熱烈なキングスファンである山田夫妻のもとに一人の男の子が生まれた。王求(おうく)と名付けられた少年は、将来仙醍キングス所属のプロ野球選手になるものと決めつけた両親のもとすくすくと育ち、野球選手としての英才教育を受けた。実際、幼年時からなぜか投手の投げるボールのストライクボールが投げる瞬間に判るという特技を王求は持っており、リトルリーグ、中学野球で非凡な才能を発揮する。そんな王求が目立つことが気に入らない上級生がおり、呼び出して彼を痛めつけたことから、山田夫妻が暴走をしてしまい、将来に禍根を残すことになってしまう。しかし、何があっても泰然自若、王求は常に自分自身を磨くことを怠らず、バッティングセンターに通っている。

プロ野球+シェイクスピア=伊坂ファンタジー。いつもの長編と毛色の違った物語、また良し。
 謎めいた三人の老婆であるとか、主人公を見守る獣じみた存在であるとか、それはそれで現代科学で説明がつくものはないし、ファンタジーといえばファンタジーなのだろう。だが、個人的に最もファンタジーを感じたのはむしろ、この仙醍キングスというプロ野球チームの設定だったりする。 万年最下位が当たり前、やる気どころか球団経営に興味すら抱いていないオーナー。一部以外の熱狂的なファン以外は興味すら持っていないという地元とくると、この手の野球ドラマはお約束が決まっている。つまりはファンやオーナーに本気で見捨てられそうになった途端、選手が一丸となって優勝を目指して、いいところまで行っちゃう――というものだ。本作は、その定石すら無視無視。 常人離れした実力がある王求を加えても、ほとんど球団もファンも変わらないようにみえる。王求の孤独が高められるための物語上の必要があるのだが、それでも後半に進めば進むほど、現実との遊離感覚(すなわちファンタジー性ってことでもあるか)が進行してしまうような印象を受けた。

 伊坂幸太郎作品にしばしば登場する、有名人の台詞を借りた大言壮語の有言実行であるとか、序盤や中盤に登場した人物が伏線となって後で重要な役割を果たすとか、そういったいわゆる伊坂ワールド的面白みもあるにはある。が、一般的な長短編に比べると少しそのあたりも控えめにみえる。むしろ、魔女や魔物が王に付き従うといったイメージが、新しい伊坂っぽさになってゆくのかどうか。そのあたりは多少気になるところ。
 本作に関しては社会派風のテーマもなりを潜めていて、ストーリーとしては(作中に言及もあるので意識されているのだろうが)主人公の伝記のような印象。本人視点の章と、関係者視点の章とが交互に登場、物語自体の立体性は高い。ただ、某所にも書いたが、主人公のこの浮世離れした性格と、しばしば無造作に突っ込まれる性交場面とのギャップは読んでいて引っ掛かった。

 どこを切っても伊坂幸太郎という作品でありながら、通じて読むと微妙な違和感というか、新しさを感じるファンタジー。 とはいっても伊坂作品はどの作品もファンタジーめいた部分があるので、そのこと自体がファンタジーを感じさせるわけではないのだが……。普通の意味での野球ドラマではないので、その点を期待すると外れます。これだけはいえるかな。