MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE 国産ミステリ・レビュー
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


10/01/20
芦辺 拓「明清疾風録1〜3」(歴史群像新書'95〜'97)

 副題は「夢・鄭成功戦記」「歴史シミュレーション超大作」。タイミングとしては『歴史街道殺人事件』上梓後、『時の誘拐』と並行して執筆されたということになろうか。本格探偵小説作家としての足を踏み出しつつあった筈の、芦辺氏によるいわゆる「歴史If」の長編作品。三冊で完結。 また、本書は今や人気画家であり、現在でもしばしば芦辺ワールドのイラストを担当されている藤田香さんのデビュー作品にもあたるという。(作品内に多数イラストあり)。

 中国や長崎を足がかりに武装商人として名を馳せた鄭芝竜と、平戸の郷士の娘・田川マツとのあいだに生まれた幼名・田川福松と、次郎左衛門の兄弟。鎖国政策の流れのなかで兄の福松は父親の芝竜と共に中国へ出国。鄭森という名で南京に留学していた。芝竜配下の水軍将校・甘輝をお目付役に、兵法の天才・施郎を親友に学生生活を送っていた。しかし明王朝は末期にあり、明内部での争いからその命運は尽きんとしているなか、圧倒的な勢いで満州国から攻め下りてきたのが騎馬民族である清であった。諸将もまた清にくだるなか、南方に逃れ明の血筋を引く者を奉じての抵抗運動が開始された。そんななか、鄭森は鄭一族が担いだ隆武帝から成功の名前を賜り、別に「国姓爺」とも呼ばれるようになっていた。しかしその弱小勢力のなかでも勢力争いがあり、圧倒的な清との戦いでもまたその兵力の差異はいかんともしがたい状態となっていた。隆武帝の軍事力を支えていた鄭一族、その長老格であった鄭芝竜は何を考えたか清に投降してしまう。残された一族もまた離散し、鄭成功の持つ兵力も大幅に減少してしまった。しかし施郎と甘輝ら、部下に恵まれた鄭成功は日本からの援軍を得るなど、その勢力を着々と拡大してゆき、来るべき清との戦争に備えるのであった――。

明朝末期に実在した英雄を、知略と剛胆の将として物語性豊かに描き出す。さまざまな意味で十年早い大作
 十七世紀、日本では江戸時代初期にあたる頃、中国人の父親と日本人の母親のあいだに生まれたある人物が、清に滅ぼされかけた明朝の復興のために軍人として、政治家として大活躍していたという史実があった。その名も鄭成功。俗称は国姓爺。日本では近松門左衛門が「国性爺合戦」という人形浄瑠璃(後に歌舞伎)を作ったモデルとなった人物である。
 ……以上のような、史実が根底にあってのシミュレーション。ただ自分の不明を恥じる他はないのだが、高校時代に日本史を選択したせい(?)でもあろうか、この人物「鄭成功」の名前すら本書を読み出すまで知らなかった。国姓爺合戦の題名は知っていても、中身にまで思い至っていなかったわけで。恐らく現代日本の多くの方が「国姓爺? 鄭成功? 誰それ?」であってもおかしくない。小生の場合、本編主人公の鄭成功の史実を全く知らぬまま読み出したせいもあるのか、歴史シミュレーションというよりも、中国を舞台にしたフィクション歴史小説として普通に楽しめた。 本書発表の段階では芦辺氏の文体がミステリ向きではないといった批判が巷間にあった頃ではないかと思うのだが、本書の場合、むしろ講談調で綴られた文体が、物語内容とよくマッチしている。中国が舞台、登場人物が多く、実際の歴史が凝縮されている関係上、軽い言葉だけでは到底語りきれず、文体自体は饒舌だけれども、重厚さをも兼ね備える必要がある。それがこの時期の芦辺文体と奇妙なまでにマッチングしているように感じられた。詩情の訴えであるとか、登場人物の情熱であるとか。

 実際の鄭成功は北伐を試みるも失敗し、台湾の外国勢力を追い出して清朝への抵抗する基礎を作りだしている。 が、特に2巻の冒頭あたりから、本書はその「歴史If」の使命を積極的に打ち出すようになる。明、清のみならず鄭成功の生まれ故郷である日本までをも巧みに巻き込んでゆく展開。徳川政権下の日本で燻っていた浪人たちが、柵や枷のない中国に渡ってきて、大和魂で大活躍なんて実に胸のすく話ではないか。更に山田長政や真田幸村といった歴史上の人物を思わぬかたちで本編に登場させてくるなど、シミュレーション小説らしい遊び心も多い。
 また、中国が舞台ならではの局面局面の戦闘方法、奇抜な武器や戦術といったアイデアの案出や取り込み(全てが芦辺氏のオリジナルだとすると凄いのだが……)が、まさに見てきたかのような嘘でうまく綴られている。三國志が更に進化したよう、という形容詞は陳腐か。
 また終盤は、実際の歴史と本書のストーリーは大きく乖離してゆく(読み終わった後から確認した)。だが、それを「ここは嘘っぽい?」とちらちら読者に思わせつつも、最後まで突っ走りきったところは喝采すべきか。まさに講釈師・講談師の仕事、なのだ。

 あくまでノベルズの体裁で、歴史群像新書という出版形態であるということであると、これは例えば太平洋戦争の一部局面でIfを入れる作品群と同列になってしまう。だが、実際にあった歴史に一部Ifを加えるという創作方法は、これまでの歴史小説の大家がやって来たことと何ら変わりはない。つまり、歴史シミュレーションなどという軽薄な形容詞を抜きに、本書刊行から十五年が経過した今、「ミステリを中心に様々な諸作がある芦辺拓」という中堅作家が、「明朝末期に活躍した鄭成功を主人公とした歴史小説を書いた」 ということになると全く異なる評価となったのではないか、とか思うのだ。(この場合は三冊目の内容は、快哉系から悲劇系に変化させた方が良いわけですが)。多少中国系歴史小説好きという小生個人の性向を割り引いても、現在読んでもなお普通にわくわくどきどき、冒険系歴史小説として面白かった。 一方でとっくに本書自体は絶版だろうし、むしろその後の芦辺拓氏創作史のなかでも鬼子(?)として扱われ、なかなか触れられることの少ない作品となってしまっている。改めて三冊を通読して、その扱いがもったいないように思った。


10/01/19
海堂 尊「ひかりの剣」(文藝春秋'08)

 『オール讀物』2007年8・10・12月号、2008年2月号、4月号〜8月号にかけて掲載された作品が単行本化されたもの。帝華大学剣道部と東城大学剣道部が切磋琢磨する様子を描いたスポ根青春小説。1988年が舞台で『ブラック・ペアン1988』と時期が重なっている。

 大学医学部に所属する剣道部員のみで年に一回、夏に争われる大会「医鷲旗」。さすがに医学部のみでの争いとあって、各大学の層はそう厚くないものの、仏教系の崇徳館大学や、技のデパートの異名を持つ水沢が所属する極北大学医学部剣道部、さらには速水率いる東城大学医学部剣道部、そして清川吾郎帝華大学医学部剣道部などがしのぎを削っていた。東城大学の猛虎と称される速水晃一は、友人の島津や田口らと共に授業はよくサボっていたが、剣道部の方は真面目に活動を続けていた。一方、帝華大剣道部に所属する清川吾郎は、剣道に関しては天才的なセンスと才能を持っており、あまり稽古熱心ではなかった。だが、顧問の高階の稽古や指導の結果、昨年に負けを喫した東城大学の速水に対する対抗意識を燃やすようになる。選手層からいえば、東城大学の方が若干厚いと思われたが、帝華大学には薬学部所属で当初はマネージャーとして入部した朝比奈ひかりという女子選手がいた。実は彼女の実力のほどは……。

単純にしてシンプルなスポーツ根性小説にして、東城大学の面々をフォローするサイドストーリー
 単行本では速水の章は三人称になっているが、連載時は「俺」の一人称だったのだという。一方の清川の章は「僕」による一人称のまま。つまりは、東城大学剣道部の速水、帝華大学剣道部の清川の二人が交互に章を預かり、それぞれの視点でそれぞれの状態を描く形式にて綴られている。双方に出入りするのは、帝華大学から東城大学に作品内の時系列のあいだで異動した高階教授くらい。その高階、ジェネラル・ルージュ・速水晃一、そして『ジーン・ワルツ』に登場する清川吾郎ら含め、他に島津や田口、彦根といった後の作品に登場する面々が出演しているという点が本書の特徴のひとつ。残念ながら、そのおまけ部分を抜いて単純なスポ根小説として読むにはさすがにベタ過ぎるように思われる。特に、後半部で「勝つために」速水も清川も、ちょっと学業を本務とする学生さんとしてはやってはいけないような行動を取っちゃうし……。
 ただ、個人的に本書で凄いなと思わせられたことがある。最後の最後の勝利者が清川・速水どちらになるのか、さっぱり事前に読めなかったこと。 通常のスポ根小説であれば、主人公は最後に勝つのが普通。意外性を狙った逆転や、展開上の必要からライバルが勝ったりするケースはあるかもしれないが、読者が「予想できる」のが普通だ。ところがところが。朝比奈ひかりという題名にもなっている秘密兵器が絡むことも関係するが、全くどちらが勝つのか「予想を許さない」のだ。なので、最後の最後まで全く途切れることなく一気に読まされてしまった。悔しいが、巧い。

 医療ネタは薄め。ただ、医学部の学生たちがどんな学生生活を送っているのかを垣間見ることは出来る。その意味では、医学部生の青春小説として(恋愛要素はほぼ皆無とはいえ)読むことも出来そうだ。実は、他の大学生に比べるとこの学部を小説の舞台に使う作家は少ないので、その意味でも価値があるかもしれない。


10/01/18
馳 星周「沈黙の森」(徳間書店'09)

 『問題小説』2008年1月号から2009年6月号にかけて連載された作品が単行本化されたもの。

 東京の暴力団・東明会の金が持ち逃げされた。五億円。持ち逃げした男は季節外れの軽井沢の別荘に逃げ込んだという情報が飛び交う。東京からは城野という大物が軽井沢に乗り込み、かつて新宿で修業をしていた過去がある隣接する佐久の暴力団・遠山に協力を要請する。軽井沢の駅前では、後から乗り込んでくるヤクザが見張られ、小競り合いも発生する。軽井沢には、二十年前に「五人殺しの健」の異名を持つ伝説の武闘派ヤクザ・田口健一がいた。田口は疾風という猟犬を飼いながら、別荘地の管理人として静かな生活を送っていたが、その存在を嗅ぎ付けた以前の仲間たちが、田口を引き入れようとあの手、この手で誘いをかけてくる。片っ端から断ったなかには、既にヤクザから足を洗った旧友の山岸や、跳ねっ返りの達也という少年もいた。ヤクザがいないという建前の軽井沢に立ちこめるきな臭い雰囲気に、警察でも鼻の利く刑事は気付きだす。果たして雪の軽井沢で行われる血で血を争う抗争の行方は……?

犬を連れたオトナの男の静かな生活 → 犬を連れた凶暴な殺戮者が暴れ回る暴力小説に
 序盤と終盤との手触りが全く異なっており、主人公の変化が本書の読みどころになるように思える。
 物語の最初。田口健一という四十近い男の落ち着きと静かな暮らしが淡々と描かれている。刺激は少ないが充実した暮らし。自然派女性カメラマンとの静かな交流。飼い犬と飼い主が互いに信頼し合っている様子。決して満足のゆく収入ではなく、メリハリはないけれども丁寧に手を抜かずに仕事をすることで、少しずつ顧客からの信頼を獲得してゆく。昔を知るというヤクザや、それに類する知り合いが次々と訪ねてきても、静かな生活を邪魔されたくないと片っ端から断ってゆく場面と、都会の汚れた価値観から田口を信じられないヤクザたちとのギャップの描写も上手い。いわば、自然のなかで泰然と生きる男たちを描くのに長けていた、稲見一良の小説の主人公のようだ、と思った。序盤は。

 あまりにも残酷なきっかけが、田口健一のスイッチを押してしまう。

 その後、再び殺人マシーンに舞い戻ってしまった田口健一の阿修羅のような姿は、凄まじいとしか形容できない。もともと体力的に雪山に不慣れなヤクザに対して、地の利を持ち、猛犬を相棒とする田口は圧倒的に有利。ためらいなく凶器を振るい、ためらいなく命を奪ってゆく。やりすぎて後悔する場面もあるが、諦めもまた早い。五人殺しなどでは形容できないだけの死体の山を築いてゆく。特に、終盤近くになり、普通の小説だったらここで警察から逃げるだろうというところから「あれれ」という裏切りの展開に持ち込むところはさすが作者。特にエンディング近くにおける、主人公行動の「理不尽さ」は素晴らしい。

 終わってみるとひたすらに暴力を中心とした内容、シンプル過ぎる筋書きといった本書は、近年の馳星周作品のなかではむしろ少し珍しい部類に入るのではないか。前半で思い切り主人公に感情移入させられてしまうので、ジェットコースターめいた後半部の落差が強烈だともいえるかも。ある意味ではいい話なんだけど、結局は破滅型という作品です。 (登場人物の名前はサッカー選手から取っているようにみえるのですが……)。


10/01/17
大藪春彦「野獣は、死なず 伊達邦彦全集9」(光文社文庫'98)

 光文社文庫でこの当時刊行されていた「伊達邦彦全集」の九冊目にして最終巻。『野獣は蘇える』の続編で、元版は1995年九月に光文社カッパノベルスとして刊行されたもの。大藪春彦の百冊以上に及ぶ著書のうち、完結したなかでは最後から二冊目にあたる作品である。

 『野獣は蘇える』の結果、ニュージーランド北部、トンガ諸島のなかにある島を一つ完全に買い取った伊達邦彦。伊達がニュージーランドで羽を伸ばしているあいだに島を台風と地震が襲い、太平洋中の楽園は崩壊してしまう。館の痕跡が残る島にヘリコプターで降り立った邦彦は、留守を預かっていたヤンの死体を発見した。ヤンの死体の傍には、彼が守った邦彦が大切にしてきた茶碗・曜変天目、さらにその中には特殊な物質が残されていた。邦彦はシドニーの大学教授に物質の分析を依頼、これが常温核融合を大幅に促進する未知の物質・アルファであることを知る。教授を始末し帰国した邦彦を、イスラエルの特殊機関・モサドのネットワークが待ち構えていた。日本を統べているのはアルビノの天才ドクター・ソクラテス。彼の育てた殺し屋は栗城大和。邦彦に劣らない肉体凶器であった。さらにモサドは保険として、予知能力とテレパシー能力を備えた島野里絵を送り込んできた。つくばを舞台に伊達邦彦とモサドの戦闘組織との戦いの幕が開かれる。

年を取ったを強調する'90年代の伊達邦彦。しかし、それでも無敵にして非情は変わらず
 伊達邦彦全集全九冊。入手タイミングの問題もあって1,2と読んだあと、いきなり最終巻を読むことになってしまった。執筆された時期が大きく異なるせいか、微妙に初期と印象が異なっている。
 小説としてはこなれてしまっている。無骨さやぎこちなさは消え去り、流れるような文章にて綴られるストーリーは、良くも悪くも職人芸。 後顧の憂いを残さず関係者を始末してしまう冷酷さ、敵対する組織を人間扱いせず、きっちり命を奪ってゆく職人的な仕事ぶり。武器の描写、肉弾戦の描写、いずれも流麗にみえる。書き慣れたことを淡々と描いているといえば良いのか。(多作作家の後期作品に通じる印象である)。
 また、ここに至ると初期の伊達邦彦が持っていた悪漢小説といった印象は薄れてくる。政府組織が束になって伊達邦彦という個人を潰そうとしても潰せないのだ。むしろ返り討ちに遭ってしまう。そういう存在が縦横無尽に暴れ回るとなると、多少の敵を設定しても、結局は伊達邦彦の能力を際立たせる程度の役割しか果たせないのだ。幾人ライバルが現れても、結果的には打ち倒されてしまうのが判っているのだから――、とここまで書いて気付く。
 この流れ、城戸禮氏が○○の三四郎といったシリーズで描き出す、明朗小説と筋書きとしては同じではないか。正の方向の力、負の彷徨の力、その相違はあるものの、主人公がどんなにピンチに陥っても、絶対に最後は勝つという安心が担保されているという意味では同じようなことなのではないか。

 伊達邦彦全集という刊行形態のなか、本書は作者の急逝というかたちで最終作品となっただけに過ぎない。従って本書のラストにおいても(予想がつく通り)、伊達邦彦はライバルとの戦いに勝利し次へと歩を進めてゆく。年を取ったといいつつ、(食欲は微妙に衰えたようにもみえるが)その戦闘能力は全く下がっておらず、経験値の分だけむしろ上回っているのではないかという伊達。この希有なるダーティヒーロー像自体は永遠のものという考え方に異論はない。


10/01/16
斎藤 栄「殺人太平記」(中公文庫'98)

 元版は『小説中公』に九五年四月号から七月号にかけて掲載されたあと、同年に中央公論社C★NOVELSより刊行されている。2010年段階、まだ他社の文庫等には入っていない模様だ。解説を信じればタロット日美子シリーズの長編第九十六作目にあたるそうだ。

 兵庫県警に所属することになった二階堂警視と共に六甲のマンションに暮らしていた日美子。しかし一九九七年の阪神大震災により、マンションに大被害を受けたため、ボランティア活動で被災者を助けていた日美子はやむなく鎌倉・馬車道の自宅へと引き返すことになる。鎌倉に戻った日美子の元に、学生時代の友人・双葉由華から連絡が入る。彼女の父親は衆議院議員で議会の重鎮・双葉正太郎だった。そんな由華は鎌倉カルチャーセンターで太平記について学習しているといい、一方の日美子も最近、同じカルチャーセンター経由で間宮というカメラマンから撮影術を習う予定になっていた。そんななか由華は、自分の見た蛇が出てくる夢について日美子に占いを依頼する。日美子の答えは、由華の知り合いで、名前に「み」がつく人物が死ぬかもしれない、というものだった。由華は父親のライバル政党・松平議員の秘書・夏城ともみという人物の名前を挙げた。不幸にも、その占いは的中。松平の鎌倉の別荘内で、ともみは殺され、現場には何故か太平記の一節が書かれた紙が残されていた……。

斎藤栄得意の古典文学絡みの殺人……の筈が、政治家を巡る女の争い、更には単なる復讐譚へと
 斎藤栄氏がこれまでに発表した作品には「方丈記」「徒然草」をはじめ、数多く古典文学をモチーフとしたものがあることは有名。全てが全て傑作佳作ということはないものの、初期のいくつかの作品には一定以上の水準を持つミステリもある。本書はどうやら、その流れのなかの一作で、もともと「太平記」を、作品に登場させたかったという趣旨らしい。
 殺人現場に残された「太平記」の一節……。本来ならば、犯罪者の気持ちを代弁するだとか、そのまま犯行声明や見立てになっている、という展開ならば「流石」ということになるところ、ミステリと「太平記」の結びつきがこじつけに過ぎて、逆に唖然とさせられる。なにしろ、太平記内の文章の一部の読み方が、怨みを残して死んだ親の名前と一致する(読みは同じだが字は違う、というか父親の名前の音読みと同じってこじつけすぎやん)というものなのだから。そもそも、夢占いは日美子シリーズのお約束なので仕方ないとはいえ、政治家の秘書同士の争いといった中盤までの設定をひっくり返してしまい、「事実上なかったこと」にしてしまうのは、ある意味凄いと思います。

 ということで最終的には、序盤から中盤までの展開は一体なんだったの? というミステリです。物語の流れであるとか、推理役に日美子だけでなく、日美子の実兄である柏木ドクターを引っ張り出しているところだとか、小説としての辻褄がきっちり合っているところはさすがベテランということになりましょうか。まあ、特に何かを期待して手に取った作品ではないので、こんなもんでしょう。


10/01/15
小柳粒男「ゲンソウ現実日和」(講談社BOX'09)

 『くうそうノンフィク日和』にて第1回講談社BOX新人賞・流水大賞優秀賞を受賞してデビュー。講談社BOXからは「危険な新人」という二ツ名(?)を貰っている。二冊目が『りべんじゃー小戦争』であり、本書は三冊目。主人公には変化があるが、登場人物が重なっており、同一世界を扱ったシリーズ作品である。

 「りべんじゃー小戦争」は、街で行われた無差別殺戮であり戦争であった。一般市民や警察の多くも凶弾に倒れ、帰らぬ人となっている。街はその機能をほとんど停止していた。その内実は異世界人と、現在の地球に普通に住む人々との戦いであったのだが、多くの地上人には何が起きていたのか認識できていない。大人数を狙ったテロになるのか。いずれにせよ多くの人間が死に、そして魔女・篠木の騎士役だった張戸は収監されて警察の留置場にいた。その警察も小戦争の真実を理解していないがために大混乱状態にあり、その間隙を縫って一サラリーマンであった木鷹田は留置場や警察内部に出入りするようになっていた。木鷹田は警察と民間がなれ合っている警察内部で、事件後に街を訪れた警察官の一部に怪しい挙動をする者たちがいることに気付いた。その一人が、最近目立つ行動の多い婦警・爪田だった。木鷹田は一連の状況を踏まえたうえで、周囲を嗅ぎ回り「異世界」への潜入を希望し、その警察官として異世界に入り込むことに成功した。異世界では、また別の価値観に囚われる日本人の末裔でもある若者たちが、異世界人と相容れない生活を営んでいた。

目立たないレーベル内部で静かに培われるハードボイルド・ノワールアクションの傑作
 実にもったいない――というのが、登場人物についてはとにかく、この世界観が前二作『くうそうノンフィク日和』『りべんじゃー小戦争』を読んでいないと理解できないという点だ。普通の高校生の日常小説だったはずの『ノンフィク日和』は、篠木という女子高生が魔女になり、張戸という男子高校生が騎士となって異世界人を殺戮して回っているという状況の「反対側」を描いた異色作品。 この現実に存在している地方都市と、パラレルに存在する「異世界」との微妙な温度差を理解することが、物語世界に入るために必要条件となっている。その特異性こそがこのシリーズの魅力。ただ、当然のことながら現時点(2010年1月)で小柳粒男がメジャーな作家として世界中に認識される以前の状態にあっては、裏返しにこのシリーズの弱点にもなっている。回りくどい言い方になったが、特にこのシリーズ三冊目がノワールとしての傑作であるのに、前二冊を読んでいない人には極端に薦めにくいのですよ。
 が、その特殊な異世界が舞台だという点を踏まえても踏まえなくても、描かれている強烈な絶望の凄まじさは特筆に値する。 異世界の案内人を務める”ボク”が、彼なりに必死で役割を果たしながらも無価値だと切り捨てられる絶望。そして目の前のシャカイを壊すために、自らの頭に当てた銃の引き金を引く(本編の)主人公。長編サイズの小説で、最後の言葉が「……自殺した。」で終わるというのは、読んでいてかなり強烈なインパクトを受けた。
 異世界人として登場し、こちら側に移住したあとの「四人組」の行動もたいがい凄まじい。ただ、予定調和で収まらせず、どうあっても登場人物ひとりひとりを行き着くところまで突っ走らせる作者の姿勢は、真剣に尊敬に値する。これが、現在のこちら側だけの小説であれば単なる破綻なのが、異世界という捩れを世界に加えることでより高次の「世界の破綻」を演出することが出来るようになっている(ようにみえる)。ある種のファンタジー小説という舞台を、負の方向から非常に巧みに利用しているわけだ。

 文章や描写といった小説技術も三冊目に至って間違いなくデビュー時より向上しており、伊達に「危険な新人」の称号は得ていないとは思う。が、単に「危険な新人」で終わらせるのではなく、講談社BOXとしてもっときちんと小柳氏をPUSHすべきではないかとまで思う。四冊目も当然、個人的には楽しみなのだが、このままではホントに「個人的な楽しみ」だけになってしまう。もったいない。


10/01/14
三田村志郎「嘘神」(角川ホラー文庫'09)

 三田村氏は1987年生まれ。新潟県出身。大学四年在学中にこの「嘘神」で第16回日本ホラー小説大賞長編賞を受賞。受賞時の筆名は「てえし」。

 四年前に弟・ユーヤを喪い、失意の日々を送っていた高校生・コーイチ。しかし、彼は本当の五人の友人を高校で得ることができ、二年生の現在はユーヤのことを時折思い出しながらも充実した高校生活を送っていた。他の友人とは百八十を越える身長を持ち筋肉質のヤス。そのヤスと付き合っている猫背でよく笑うカスミ。ヤスと同じ中学出身で金髪ピアスに軽い性格のダイチ、そしてそのダイチと同じ高校に通っている派手な巻き毛とブランド品を身に付けているミカ。そしてもう一人、コーイチの片思いの相手・ユミ……。しかし、彼ら六人が目を覚ました時、天井まで四メートル、周囲が十メートルほどの「牢獄」のような、窓も扉もない部屋に閉じ込められていた。服装はお揃いのジャージ、ポケットの中にはトランプやダーツ。そして突如「ルールを定めた」と「嘘神」を名乗る何かの声が聞こえてきた。最後に残った一人になれば現実に帰してくれるという。一人一本与えられる水、そのうち一本は毒性、人の命を奪ったものには食事と水……。つまりは。元世界に帰りたければ六人は互いに騙し合い、殺し合いをする必要が生じてしまったということなのだ。仲の良かった筈の六人が織りなす駆け引きとは……。

巷間のサバイバルゲーム小説群に比べ、そう抜けているように思えなかったんですケド……。
 梗概に書いた通り、「嘘神」なるその世界における絶対的存在が設定したルールに則って、閉鎖空間にいる六人の高校生が、端的にいうと殺し合いをする、そういう物語。一見、読者にも登場人物にもフェアにみえる設定なのだが、現実に立脚していない(つまりは現実法則やリアリティを無視することが可能な)「神様」が決めた事柄であり、「神様」が用意した現実には存在しない空間(扉も窓もなきゃ出入りはできないしねえ)と、いくらでも恣意的に物事を決められるという世界が舞台。当然、フェアではなく「フェアにみえないこともない世界」ということになる。
 つまり、作者の匙加減ひとつで登場人物の運命が変化する設定が前提。恐らくホラー小説大賞の審査員方に評価されたのは、物語の持つゲーム性というよりも、六人の高校生それぞれに青臭くも生々しい人生を語らせた点にあるのではないかとは想像する。ただ、いかんせん多少の谷はあれど、人生経験の限られた高校生の言葉なので、共感よりもその感性に薄さを感じさせられるエピソードの方が目立ったようにも思うのだが……。この点は好き嫌いの問題か。
 あと正直なところ、上記もした事柄ながら「登場人物同士が命を賭けるゲーム」という部分、工夫が全然ないとはいわないが、戦いの方法、その過程、結末含め全てが読者の想像力の範囲内に終わっているように思う。こういったゲーム小説でデビューを狙う以上は、この戦いのなかで、登場人物には当然のこと、読者の度肝を抜く、想像すらしていなかったようなどんでん返しを期待していた。……が、この点は作品のどこをみても大人し過ぎる。またルールブックは神様が決めていることであり、さらにルールにも嘘があると宣言してあり、いくらでも途中で触れる(変更できる)のに、どこか物語全体に窮屈感があるのも不思議。作者自身、どこまで小説内ルールを守るべきかという部分に迷いがあったのではないか。

 上記、厳しい書き方になっていることは承知しているが、やはり日本のホラー小説の登竜門としては最高峰の長編賞を受賞してのデビューであるからして、読者として作品に求めるハードルは高くなってしまう。いきなりこんな感想で、作者には誠に申し訳ないと思いますが。


10/01/13
鯨統一郎「KAIKETSU! 赤頭巾侍」(徳間書店'06)

『問題小説』誌に 連載された作品が単行本化されたもの。2009年に徳間文庫から文庫化されている。

 元禄時代。永福寺という寺に住み、寺子屋の先生として子供たちに学問を教えている久留里一太郎は、実は剣術の流派・津無地円風流の遣い手であった。ボロ寺である永福寺には、どこからか流れ着いてそのまま住職をしている法源という生臭坊主とその娘・おゆうがおり、一太郎と三人で暮らしている。そんな折、一太郎はおゆうと同い年のお八重が殺害されたという事件を知った。下手人は、薬代を質に、支払えない若い女性を誑かしていた医者の中嶋玄周だと瓦版屋の勘太から聞き出した一太郎は、法源の持っていた赤い頭巾を被り、用心棒ごと玄周を討ち取ってしまう。首尾を確かめようと自身番に寄った勘太と一太郎、しかし定廻り同心の小田左右衛門之丞和正から、一太郎が斬った人物にはアリバイがあるなどで犯人ではあり得ないと聞かされる。慌てた一太郎がその場で推理、結局は犯人であることが判明して落着するのだが……。そして、幹太の瓦版の助けもあって、公儀が裁けない殺人犯人を闇討ちにて裁く赤頭巾侍を市中はもてはやすようになるが……。

本格ミステリ+時代小説の異形。犯人殺しちゃってからの謎解きという順番は前代未聞
 鯨統一郎氏の連作短編集で圧倒的に多い、定型パターンを最大活用した、時代活劇本格ミステリ連作集。 つまりは短編ごとにおおまかな物語運びの決まり事をつくって、その決まり事のなかでのパラメータを少しずつ変化させることで変化をつけてゆく、というもの。さらにほとんど同じような話運びとなるなかで、単行本一冊分を消化した最後の最後に、物語全体に仕掛けられたナゾが浮かび上がるという周到さも兼ね備えている。本書の場合は、名前も知らない親の仇の仇討ちをしたいという一太郎の夢が実現する、というもの。
 ――と書くとものすごく凝った内容のように思えるし、創作時には相当な苦労を伴うであろうことも想像されるのではあるけれども、これも鯨作品特有の「極端に軽い文章」にて綴られていることもあって、非常にさくさく軽く読めてしまう。このことは芸風としてもう確立されていることであるが、読むたびにストロングポイント(手軽に読める)ウィークポイント(絶対的な重厚さに欠ける)の両方を感じてしまう。ただ、本書の場合はどちらかというと、ストロングの方。事件→犯人を瓦版屋から聞く→否定している犯人を殺しちゃう→後からアリバイ発覚→瓦版屋こっそり逃げる→残された一太郎が必死の謎解き→正解にてなんとか落着。この展開のキモともいえる「実は犯人と思しき人物には殺害が無理だったのじゃ」というポイントを成り立たせるために、本格トリックが使用されているのだが、オリジナリティこそ非常に高いとはいえないながら、この部分にかなり工夫が入っているのだ。
 密室系、アリバイ系、いろいろあるが、雪の積もった橋ごと取り替えてしまう消えた足跡トリックと、扉を突き破るのに使われた丸太の中身を刳りぬいて外部に脱出するという密室トリックの二つについては、年間バカミスアワード級。すばらしい。

この軽めの文体が、ともすると雑とイコールになってしまうこともある鯨作品ですが、本書は及第点。また、ところどころに挿入される小田左右衛門之丞和正による、一太郎への愛の言葉は、分かる人ならかなり笑えます。
 「何から伝えれば良いのか」とか。たくさん。


10/01/12
友成純一「聖獣都市 土竜(ドラゴン)の聖杯」(廣済堂文庫'88)

 友成純一氏はしばしば「三部作」という形式でシリーズを発表しているが、本書「土竜の聖杯」シリーズは、特筆すべきことに、シリーズ三冊全てがノベルスで刊行→文庫化という偉業を成し遂げている。普通の作家であればそう珍しくはないけれど、スーパー猟奇アクションですよ。友成純一ですよ。これを快挙といわずになんというのですか。

 東京は新宿の超高層ビル群のなかに本拠を持つカルト教団「至福教団」。”博士”により、土竜の心臟が復活させられた。その結果、人間が突然通り魔と化したり、かまいたち現象によって人間が突然切断されたり、建物が爆発したりといった怪奇現象が東京を頻繁に襲うようになった。博士は昏睡状態のままだったが、メビナという女性幹部と、早乙女、蔵原という男性幹部が運営していた「至福教団」は分裂、早乙女は女性を性の虜にする特殊能力を駆使して次々と独身女性の心を捕らえて狂信者を創り出していた。なにやら女性がエロエロになることによって霊覚なるエネルギーが満ち、土竜の心臟の動きが活発化するらしい(適当)。一方、教団と政府とに繋がりをつけようとした蔵原は政調の危険人物・氷室と、至福教団をアカと信じて疑わない自衛隊中央調査隊の武闘派・陣内に眼を着けられ、結果的に生きながら腐ってしまう(適当)。氷室と陣内は手を組んで至福教団を秘密裏に襲う計画を実行、陣内は屈強な部下を連れて下水道から教団本部のある地域に侵入しようとするが……。

ごくごく僅かに存在する友成カルト信者にとってこれほどの至福はない、というシリーズの開幕。
 「えいクソッ、間違えたあ!」
 (以下は友成中毒者の戯言です)
 素晴らしい。まず、ストーリーが訳分かりません。 土竜の聖杯(心臟)、そもそも何なのかわかりません。とりあえず活性化すると街が破壊されてしまいます。普通の人間が、影響を受けて突如殺人鬼となって、無差別殺戮を開始します。普通に通勤していたら、こんな人物が現れてお腹を切り裂かれたりするのは厭ですね。また、絶世の色男。その禁断の視線による誘惑に乗るとそのままホテル直行、そして普通のお嬢様が大変なことに、エロエロ魔女に大変身してしまうのです。彼女たちは、ひとりで悶悶と欲望に身を焦がしつつ土竜にエネルギーを粘液まみれとなって送り出しています。また、恐ろしいことに下の口で好き嫌い無くなんでも食べられるようにもなるのです。 彼女らに戦いを挑んだ自衛隊の精鋭たちも、頭や腕を食べられて気持ちよさのあまりに悶死したようです。
 どろどろ人間の蔵原。彼は別の意味で自衛隊のお兄さんの死体が大好き。自分の無くなった陰茎の代わりができないか、死体をこねくりまわしちゃいます。政調の氷室。完璧主義者にしてごく僅かなコンプレックスに押しつぶされてしまいます。自分で自分をかきむしって死んでしまうところは残念ですが、どうやら次回以降大復活するみたいなので楽しみ。
 しかし、本書の真の主人公は、じゃじゃーん、間違いなく陣内、この男です。 ベトナム戦線へも身を投じたという戦闘マシーンにして動物的カンで生き残ってきた共産主義嫌いの筋肉男。興奮のあまり一人で敵陣奥深くに飛び込んでゆく姿の凛々しさ。なんと格好良いのでしょう。銃を乱射し、火炎放射器で周囲を焼き尽くす。しかし、実は土竜の聖杯にダメージを与えていないという。いやはや。素晴らしい。締めも又この台詞で。
「えいクソッ、間違えたあ!」 まさか三回も繰り返されるとは。それでも名言だと思います。

 まともな神経で読んだら、登場人物も狂った神経を持つひとたちばかりだし、世界観はぐちゃぐちゃだし、ストーリー構成も歪みまくっているしで、 「えいクソッ、(読む本)間違えたあ!」 と怒り出すかもしれません。というか、そういう反応が普通なんじゃないでしょうか。これはもう、ごく僅かこの世界に存在する友成至福教団という一部のカルト信者のために存在している作品、もうそれでいいんじゃないかと。困ったことに続き二冊、持ってないんだよなあ。


10/01/11
辻村深月「ふちなしのかがみ」(角川書店'09)

 『野性時代』に発表されたノンシリーズ短編が集められた作品集。「ブランコ…」が二〇〇六年十二月号、「八月…」が二〇〇八年十一月号の発表で、他の作品はその両者のあいだに掲載されたものになる。

 この学校の花子さんは、トイレではなく階段の途中にいて、花子さんにまつわる七つの忠告があった。夏休みの当直で一人小学校にいた教師の相川。教習で来ていた小谷が、学校に忘れ物をしたので取りに寄りたいといい相川は快諾する。お土産持参で思いの外早く現れた小谷。しかし彼女の態度にはどこか不審なところがあった。 『踊り場の花子』
 ブランコで遊んでいた倉崎みのりは、極限までブランコを漕いだあとに手を離し、地上に激突、死亡した。そのみのりが亡くなる直前の様子について、何人かの同級生に様子を聞いてみた。 『ブランコをこぐ足』
 痴呆の始まった祖母と足の悪い祖父。一族のあいだで今後について険悪になっているなか、義理の息子である父親は妻の実家であるその田舎の一軒家の掃除を申し出る。ため込まれた大量の衣類やゴミ、そしてそのなかに幾人かの死体が混じっていた。 『おとうさん、したいがあるよ』
 ひとりライブハウスを訪れていた香奈子は、高幡冬也という名のサックス奏者に魅せられてしまう。彼は、その場で知り合った高校生の友人たちの同級生なのだという。香奈子は自分の未来を見る儀式を試してしまい……。 『ふちなしのかがみ』
 小学校の頃、いけていないシンジと友人だったキョウスケは五年生くらいになると他に友人があまり居なくなってしまった。キョウスケは麓の小学校に『ゆうちゃん』という凄い友人がいることを考えついて自慢しはじめる。その嘘に縛られたキョウスケ、しかし夏休み、彼の前に『ゆうちゃん』が現れる。 『八月の天変地異』 以上五編。

子どもでいられない子ども、オトナになりきれないオトナの、心の底にある悲痛な叫びがベース……
 青春小説(重)+ミステリ(軽)といった印象が正直強かった辻村深月さんの、ホラーテイストをメインに据えた作品集。 元より、小学校高学年、中学生、高校生、大学生、社会人の若い世代、若い主婦世代といった、若い世代それぞれが抱える、世代特有のコンプレックス、心理的な葛藤等々を描き出すのが上手い作家。 単にその心象風景だけではなく、そういった心象を直接描写せずとも、彼ら彼女らの若さ故の赤裸々ともいえる言動や行動を描写することによって、その裏側にある言葉にならない感情を的確に読者に伝えることができるのだ。
 本書ではその辻村さんの技巧が、ホラーテイスト作品に活かされている。ただ、小生の勝手な想像では特にホラーだから辻村さんが表現を考えたというよりも、頭の中の物語を吐き出した結果、身についていた技巧が使われたというだけのようにみえる。ただ、結果的にそのテイストと、登場人物の心情とが混じり合って素晴らしい作品となっている。
 これまでの辻村さんの読者層からして、恐らく最も評判が良いのは、ミステリ仕立てで比較的理解しやすい(割り切れる)オチがある『八月の天変地異』だと思われるが、小生の一押しは、あくまで『おとうさん、したいがあるよ』だ。題名の付け方が秀逸でもあるのだけれど、田舎に住んでいて痴呆の入った祖父母宅から、次から次へと死体が出てくるという不条理系の作品というのが珍しい。父母の許可を得て処理していた筈が、次の機会に訪れた時には父母もそのことを忘れてしまっている。別にとぼけているわけではなく、大人は素。なので、何が正しいのか分からない、ぐらんぐらんした気持ちにさせられるのが何とも心地よいのだ。下手に種明かしせず、そのままフィニッシュに持ち込むところも好み。
 また、小説としての本来のテクニックとサスペンスが融合した『踊り場の花子』も良し。これは、SFXやCGをさりげなく駆使して実写で映像化したい気がする。(決して美しいからとかそういう理由ではないからね)。

 幾つか辻村長編を読んできているが、本書を読んでもしかすると短編の方に、より彼女の良さが出てきているように正直感じられた。五作で決めつけるわけにはゆかないので、もう少し辻村短編を味わってみたいように思う。