MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE 国産ミステリ・レビュー
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


10/01/31
小川一水「天涯の砦」(ハヤカワ文庫JA'09)

 小川一水氏は1975年義父県生まれ。1996年、集英社ジャンプノベル小説・ノンフィクション大賞受賞作『まずは一報ポプラパレスより』にて単行本デビュー(河出智紀名義)。以後、ジュヴナイルSFを数冊刊行、2003年に発表した『第六大陸』 が第35回星雲賞日本長編部門を受賞し、骨太のSFの書き手としてその名を高めつつある。本書元版はハヤカワSFシリーズ・Jコレクションの一冊として、2006年に書下ろし刊行されたもの。文庫化に際して大幅な加筆が入れられたという。

 地球から月への移民が日常化し、宇宙で働く人々が特殊な技能が必要だとはいえ、かなり門戸が広げられた未来世界。惑星間飛行士になるための試験を受けたものの、技能で落とされた二ノ瀬英美は、職場である宇宙施設「望天」。まだオフではあったが、施設内部をうろついていたところ、突然強烈な衝撃に見舞われる。停電は当然ながら筐体が歪み、AI(コンピュータ)の応答はなく、通信も途絶。巨大施設が破壊されるほどの事故が発生したことは間違いない。そもそも二ノ瀬のいた区間が無事なのも奇跡的なことなのだ。僅かな幸運をかみしめるもの束の間、望天は地球への落下を開始しようとしていた。わずかに通風ダクトを通じて声が聞こえ、他にも何人か生き残った乗員がいることが判明する。しかし、施設は捻曲っており、緊急用の宇宙服も見あたらない……。果たして、彼らの運命は……?

宇宙空間を舞台にしながら、実に地に足のついたパニック・サバイバル小説が展開される
 宇宙ステーションで発生した死者多数の大事故! そもそも宇宙ステーションという存在はどういった物質を使用して、どういった駆動方法で、どういったかたちで運営されて……といった背景をきちんと組み立てなければ、小説のディティールにすることはできない。それだけでもSFだとはいえ、設定を積み重ねるだけでかなりの労力と思ったところに、更に大事故を起因とする、宇宙空間で発生するパニックを付け加えてしまう。 ただでさえ構築しなければならない要素が数多くあるSF設定であるのに、さらに大事故なんて。作者の方はマゾですか。
 宇宙空間なんて、今の一般的読者は生きているあいだに体験することはないと思う(たぶん)。それなのに、上記の丁寧なディティールによって引きずり込まれる世界のなかには、確かに宇宙空間に放り出された人間がおり、そんな彼らがサバイバルを行うのだ。果たして救助は、そしてそもそも、その瞬間までどうやって生き延びるのか。地球上であれば少なくとも心配しなくても良い、空気の確保が重要になり、調整が止められた空間状態の厳しさもまたさまざま。この設定をベースにして、それらのシチュエーションそれぞれ空想を拡げていく緻密さに圧倒される。
 また、サバイバル小説+宇宙空間とすることで、一般常識(?)とずれた前提条件となっているところも魅力。読者の知らない世界であっても設定がかっちりしていれば、こういったサバイバル小説も成り立つわけだ。壁の向こう一枚で地獄……という、真空との戦いは読みどころ。残念ながら後半に向かい、道具が揃ってくるごとにこのテーマはパワーダウンしてくる。しかし、序盤の生きながらの真空地獄に晒された人々の描写にはぞっとさせられた。加えて、事故自体の規模の大きさと、その結果がもたらす残酷さ、宇宙空間での事故死に至るそれぞれの顛末もまた印象深い。
 他の作品が未読なのでなんともいえないが、登場人物の過半にかなりエキセントリックな性格の人物を配している。キトゥンと、大島功という我が儘や、自意識肥大化した人間が目立つが、スピネールや医者など特殊な性格の人間も多く、作品内部の価値観がごくごく微妙なところで現実と異なるところは面白い。ただ、こういった感情的に弱い人間が増えるということそれ自体も、もしかすると将来に向けた予言の一部だといえるかもしれないが。

 かっちりしたSFパニック小説として堪能いたしました。どうも、これが作者の保守本流でもないようですので、素直にもう少しウォッチしてみたいと考えております。


10/01/30
舞城王太郎「ビッチマグネット」(新潮社'09)

 第142回芥川賞候補作品。『新潮』二〇〇九年九月号に掲載された作品を単行本化したもの。ちなみに舞城氏は『好き好き大好き超愛してる。』により第131回芥川賞候補となっており、今回が候補二度目。

 歯の浮くような言葉を口にしては浮気を繰り返して家に帰らなくなってしまった父親・和司。その父親と離婚はせず、養育費を受け取りながら黙って子育てをする母親。弟・友徳は反抗期で母親にあたる一方、私こと香緒里とは中学生になっても同じ布団にくるまって寝るほど仲がいい。そして香緒里と友徳は布団のなかで様々な話をする。夜の線路。キリン。百億円が手に入ったら。高校生になった香緒里と友徳。友徳に彼女が出来る。一方で、あまり人付き合いをしない香緒里は、おおよそ学校に行き、まっすぐ家に帰る日々。そんなある日、友徳の様子がおかしいことに気付く。彼が付き合っていたのは、確か塩中さんという娘だったはずなのに、最近深夜まで長電話している相手は、塩中さんとは別の三輪あかりという女の子のようだ。確か友徳の話では、彼女は彼氏がいて、それとは別の男性の関係で悩んでいるといった話だったのではないか。そんな風に友徳のことを気にしてゆくうちに、心ののバランスが微妙に崩れながらも香緒里は大学へと進学する。

不思議なほどにテンションを控えた舞城王太郎のごくごく素直な人生・家族小説。尖っていても普通。
 いやー、ローテンションというのか、従来の舞城作品のテンションが極限まで引っ張りすぎだったのか。ところどころに触れると切れそうな描写や会話による鋭さこそ残すものの、全体の印象は「舞城王太郎のこれまでとは違う」という感触。姉が弟のことを、そして弟は弟なりに姉のことと家族のことを思い遣る、そして互いのために行動する、時にあえて行動しない……といった単純にして重要なことがテーマ。いきなり走り出したり、極限の饒舌になったりといった、性格破綻的変わり者は全く登場せず、強いていえば主人公に多少空想癖があるくらいか。従来の方法であれば、極端な性格や行動をとる人物を重要な位置づけにし、そんな彼らの極端な行動即ちテーマという展開だったのが、どこか落ち着きを得ているように思える。
 多少インパクトを残すのは、離婚したまま気ままに暮らしていると思しき父親と、香緒里との作中での再会、そして友徳が巻き込まれる女性による災厄。この(女難系)災厄を呼ぶ能力こそが表題になっているビッチマグネットということになる。その友徳を見ながら、庇いながら、香緒里と一緒に友徳が成長してゆく。三輪あかりという、かなり性格が悪く、一方頭の良い女性がアクセントにはなっているが、やはり物語のなかでの存在感はアクセント止まり。あくまでビッチマグネット・友徳と、姉である香緒里とが、性格や考え方の推移にいたるまで作者によって展開されているところがポイントだろう。ところどころ警句っぽいところで良い台詞もあるものの、説教じみた台詞まわしになると途端につまらなく感じられる。 しかし、結論としてはいろんな人がいて、お互いを尊重しましょうってこと? これでいいの? 

 いうまでもないこと、と思い上記しませんでしたが、完全な「非ミステリ」です。あくまで舞城流の家族小説の一環としてお読みになることをお勧めします。舞城王太郎という作家の作品にしては、受け口としては広そうなものの、本書そのものは幾つか作品を読んだ後に辿り着く場所であり、ここから始めるといった本ではなきことにだけは御留意ください。


10/01/29
内田康夫「御堂筋殺人事件」(講談社文庫'98)

 浅見光彦シリーズとして三十七番目、内田康夫の著書として六十冊目に相当する本なのだそうだ。(本人談)。徳間書店の『問題小説』に七回にわたって連載された作品がトクマ・ノベルズとして刊行され、徳間文庫、愛蔵版を経て、この講談社文庫入りとなっている。

 大阪を南北に貫くメインストリート・御堂筋。この御堂筋で行われる御堂筋パレードにおいて、大阪の繊維会社コスモレーヨンが開発した新素材・フリージアスロンを着たモデル・梅本観華子が崩れ落ち、乗っていた山車から転落、死亡した。コスモレーヨンの広報との業務で大阪に来ていた浅海光彦は、事件を目撃しており、当初は事故と思われた観華子の死が毒物によるものと知る。モデル仲間の葛藤も疑われたが、浅見はコスモレーヨンの工場見学に行き、どうやらフリージアスロンの発明に不正があったのではないかという疑いを持った。調べてみたところ、フリージアスロンの関係者のあいだにも不審な死が発生していたのだ。警察に協力を申し出た浅見は、当然最初は不審者扱いされ、その出自が確認されるやVIP待遇に収まる。容疑者は現れるものの、最初の事件の関係者の壁突破が困難にみえた……。

自作解説でもばらされているので書くが、センセは大阪がお好きではないご様子
 内田康夫作品を数多く読んできたとはいわないが、初期の堅牢なミステリはとにかく、内田康夫といえば、代名詞となるのはやはり、本格的に腰の坐った旅情ミステリーということになるだろう。というか、中期以降の内田作品で旅情もの以外を捜す方が難しい(内田の中期以降に、トリックのみ小説ってあるんですかね)。
 そしてその旅情ミステリ。著者(センセ)は、実際にその土地土地を訪れ、その空気を嗅ぎ、観光地を訪れ、地元の人々とふれあってから、その地を舞台にした殺人事件を執筆する。(最後に殺人というのは考えてみれば失礼な話ではあるなあ)。ただ、大抵の場合はその土地を取材している時に味わったと思しき思い出など、その地の味わいであるとか良さを作品に閉じこめることに成功している。もちろん、この点はミステリとしての評価には無関係だし(むしろマイナスか)、通常は評価に入れないのだけれど、その感動や思い出らしいものが、これほど含まれていない作品も珍しい。そして、本書に関しては、大阪にいて決してメジャーともいえない御堂筋パレードが扱われているものの、その他、極端に他地区題材の旅情ミステリに比べて(大阪らしさを感じさせる)、描写がかなり少ないと思われた。
 上述の自作解説では、本書を振り返って、いつもより念入りに取材したなどと、つまり取材旅行の様子なども描かれている。しかし行間から、昔住んでいたことがある一方、作品の舞台にするという点について、あまり乗り気ではなかったことが滲み出てくる。実際、大阪のことを褒めているのはほとんど食べ物だけかよー、と思って読了してあとがきを読んだらホントにその通りでした。

 大阪にゆかりがある題名だから読んでみただけです。正直、無理矢理つけたようにみえる最後のオチ(花博での出来事)を含めて、引き算部分の負担が気になる。


10/01/28
鯨統一郎「タイムスリップ釈迦如来」(講談社文庫'08)

 鯨統一郎氏のシリーズ作品のうち、2010年段階で最も冊数を数えているのが、この「タイムスリップ」シリーズ。本書は、『タイムスリップ明治維新』に続くシリーズ三冊目にあたる作品で、元版は2005年に講談社ノベルスより刊行されている。

 ダイビングスクール(たぶんモデルは戸塚ヨットスクール)を経営する吉野公彦は、子供の頃に釈迦如来のお告げを聞いた経験があるという、仏教オタク。スクールも、落ちこぼれかかった子供たちの教育のために開設したものだ。スクールに通ってきていたのはご存じ・麓麗(ふもと・うらら)。ダイビング最中の事故でうららと吉野の二人は、生命の危機に遭遇。そして遙か過去のインドへとタイムスリップしてしまう。混乱する吉野の前に現れたのは、なんと釈迦如来こと、ゴータマ・シッダルタその人。しかし、なんと彼はオカマで、それを理由に妻子を捨て出家したという人物だった。お姉言葉を使う(男の)ブッダが拡げようとする宗教、つまりは仏教を世界宗教にすることで、うららと吉野は現代に戻ることが出来る。吉野は、あるきっかけから仏陀の弟子・ダイバダッタとなることになり、インドをきっかけに釈迦の弟子集めを開始した。首尾良く十人の優秀な弟子を集めたブッダとダイバダッタは、中国で老子を、古代ギリシャでソクラテスを弟子にするための作戦を練り始めた……。

どこで感心できるか、どこで笑えるか、そしてどこでどれだけ脱力できるか。
 鯨統一郎のタイムスリップシリーズ。読み出した最初は、内容と文体双方の軽さに驚いた。取り上げられるテーマ自体の重さ(本作の釈迦如来も大概凄いネタだと思うが、明治維新や戦国時代といった歴史書数冊でも足りないような重要な史実を、ノベルス一冊、しかも京極本等とは比べものにならない程度の、ささやかな純粋ノベルスサイズにてまとめてしまうのだ。その時は、他の真面目に歴史の謎等に取り組んだ作品に勝手に比べ、「いい加減な作品に違いない」と頭をくらくらさせていた。
 ……が、なんか最近、そのくらくら感、酩酊感、さらには一冊を通じての仕掛けが明らかになった時の脱力感といったところ全てが、癖になりつつある。 本書もまたそう。タイムスリップは大前提なので置いておいても、世界三大宗教の教祖がいきなりオカマ。軽薄でミーハーなオカマの教える宗教を世界宗教に持ち上げてゆくというストーリー。当然、結末そのものもそうだし、そこに至る過程にしたってあまり深刻さはなく、鯨テイストで押し進められる。しかし、それでもその途中にところどころ「えっ?」と思うような推察があって目を瞠る。 本書でいえば、なぜ釈迦の息子が「邪魔者」を意味するラーフラという名前だったのか、という点の解釈に「眼からウロコ」が落ちた。オカマというのはやり過ぎかと思ったが、そこから導かれる結果、確かに息子を邪魔者と名付けたくなる解釈がある訳だ。また、そもそもオカマであることから、世間に無常を覚えるという点と、その息子邪魔者問題とが絡むところなどにも巧さがあると思った。
 この軽めの感覚のなか、ブッダの生涯を再トレースするだけでなく、仏教経典の本質について、鯨流の新解釈、再解釈が行われ、漠然とではあるものの、国民的宗教である「仏教」全般に対する理解が深まることも間違いない。ともすれば、ブッダを現代的にこき下ろしているだけのようにみえるかもしれないなかでも、かなり真面目に、真摯に、作者は仏教とは何なのかという本質を見詰めようとしている。
 その一方で、後半の仏教VSソクラテスの争いに至っては、凄まじく脱力させられた。誰が二大宗教対決が「替え歌で対決」なんて状態にすり替わると思いますか思いません。
 ああ、そもそも何故吉野公彦という人物が、釈迦の弟子「ダイバダッタ」になるのか、というところも激しく脱力し、「これこれ!」と拍手したくなる。メインの物語については、もはや意味をなしていない。でも、なんか薄っぺらいのに好きなのだ、このテイスト。


10/01/27
小田雅久仁「増大派に告ぐ」(新潮社'09)

 小田雅久仁(おだ・まさくに)氏は、1974年宮城県仙台市生まれ。関西大学法学部政治学科卒業。2009年、本書で第21回日本ファンタジーノベル大賞を受賞してデビュー。大阪府豊中市在住とあるが、作中の非常に正確な「神戸弁」(≠関西弁、大阪弁)から、阪神間にゆかりのある方だとみたがどうだろう。

 固く目を閉じ、暗闇に視界が包まれた状態からそっと片眼だけを開けるが、逆に意識を閉じた眼に集中する。すると閉じられた眼で暗闇だけを見ることが出来るのではないか。この訓練の結果、彼は自分に近づいてくる増大派から、我が身を守ることに成功しているのだと信じていた。彼自身は減少派の端くれ。広島カープの真っ赤な帽子を被り、大阪の古巣である河川敷からリヤカーを引いて、アルバートという名の犬を連れ、何百棟もある団地の傍にある空き地にやって来た。団地は十七年前、彼が家族と住んでいた場所。しかし、この地でも彼は幻聴を聞き、増大派が先回りしていることに気付くのだった。一方、その団地には、父親からの虐待から顔に大きな傷を持つ十四歳の少年が住んでいた。彼は突然空き地に住み始めた、謎めいた男に少し興味を持ち、弟を連れて観察に出掛けた。

電波系の内側からその論理を丁寧に描き、現実と電波との無意味な邂逅、そして不幸な別れと。
 はっきりいえば、この系統というか流れは、日本ホラー小説大賞でもおかしくない。電波系に生きる人の頭のなかを丁寧にトレース、その論理を組み立てていって、電波系なりの理屈のなかで完結させる。その作業自体は、虚しくも、ありなんだろうけれど、その電波トレースの過程が当然ながら読者もまた読まされるという点が強烈。 例えば、ホラーにおける電波系代表(?)牧野修さんの描く電波系キャラならば、その心の内部描写はあっても一瞬で(長くても数瞬)で済む。しかし、本書の場合は、その電波な人物の電波な理屈で一冊のほぼ半分が構成されているようなもの。読んでいて、これほど疲れる作品はなさそうなものなのに、なぜか読み出すとなかなか止められない。
 改めて眺めるにまず文章力・描写力が的確。登場人物のひとりひとりにネガティブ、ないしダークサイドの魅力がある。また電波であっても、その電波なりの理屈が(いきなり変な登場人物が現れるとかはあるにしても)、一本筋が通っているため、小説としての破綻がない。こんな奴の頭のなかなんて覗きたくないのに、だけど読んでいるうちにその思考方法がトレースさせられてしまっている感覚が本書の磁力。これは、ある意味では恐怖であり、こんな人物を徹底的に描写すること自体がファンタジーそのものだとも思うし。少なくとも荒削りな(洗練されていないという意ね)魅力となっていることは間違いない。
 また電波系とは別に、残り半分のエピソードを構成する、被虐待の少年のエピソードがあまりにも悲しく辛く、そして厳しい。彼の抱く様々な感情は、今度は電波系で疲弊した読者側の心をもちくりちくりと傷つけてゆく。そしてこの結末。終わってみるとこれしか無かったのか。しかし、これでは何も残らないではないか、というか残すつもりがそもそもないのか。

 エンタメというよりもブンガク系統の作品ではあるものの、その境界線上あたりで今後もスリリングな文芸作品を打ち出してくれるのではないか――という嬉しい予感が。個人的感覚に基づけば、デビュー段階からかなりの大物感があるのだけれど――。この勘は当たるか外れるか。


10/01/26
佐々木譲「廃墟に乞う」(文藝春秋'09)

 第142回直木賞受賞作品。『オール讀物』二〇〇七年七月号から二〇〇九年三月号にかけて不定期に発表されたシリーズ作品を単行本化したもの。

 ニセコの貸別荘でフリーター女性の他殺死体が発見された。発見者のオーストラリア人が警察から疑われる。ある事件の後遺症から道警を休職中の仙道孝司は、以前の知り合いの女性に招かれ真犯人を見つけて欲しいと依頼を受ける。直接的に事件に関わることの出来ない仙道ではあったが、独自の勘と先入観のない調査方向から真犯人を見つけ、地元警察に託してゆく。 『オージー好みの村』
 夕張近くの貧しい村の出身。不幸な生い立ちがあるとはいえ、女性を二度殺害した田向。刑務所出所後、千葉で似た事件が発生。当時の関係者は田向の仕業を確信する。北海道に戻ってきた田向は仙道に連絡を取ろうとする。 『廃墟に乞う』
 オホーツク海近くの漁師町で人望のある漁師の若者が、漁協幹部に殴りかかり、持っていた刃物で刺し殺してしまうという事件。事件に疑問を持つ親戚の依頼で仙道が動くが、再捜査を快く思わない者が街にも多いようだ。 『兄の想い』
 踏み込んだ警察から逃げ出す途中で交通事故死した暴行犯。そのアジトから発見された女性の遺物。その持ち主の行方は知れず、父親は仙道にその行方を追って欲しいと頼み込む。 『消えた娘』
 かつて人を殺害した件で被疑者になるも証拠不十分で釈放された、粗暴な性格の牧場主。その男が何者かに殺害された。十七年前にその事件に新米捜査官として携わった仙道が、過去のことを思い出す。 『博労沢の殺人』
 職場復帰を決めた仙道。札幌へと向かう途中、帯広で発生した女性レストランオーナー殺害事件の容疑者にされた妹を助けて欲しいという姉からの依頼を受け取ってしまう。 『復帰する朝』 以上六作品。

狂おしく凄まじい感情の噴出、その一歩手前までの捜査小説。その先の予感が、実に重たい
 休職中の刑事という存在が、こうも軽々しく余所の所轄の捜査にやっかいがられながらも口を挟めるのか(という点にはさりげない工夫がたくさんあるとはいえ)、というあたりが引っ掛からないでもない。……が、それを「あり」と認めないことには話が進まない。さて。  主人公・仙道が取り組むのは、基本的には既に組織としての捜査方針が決まり、犯人もほぼ警察側が突き止めているという事件を側面から再捜査するという行為。冒頭の『オージー好みの村』からいきなりなので、結構ショックだったのは、決して依頼者が単純な好意から仙道を呼び出しているのではない点。むしろ、わざわざ捜査方針が決定しているところに波紋をぶつけるということがどういうことか知りながら、わざと小トラブルを招いているようにすらみえる。その最たる作品が『復帰する朝』。また、それをネガティブにひっくり返す、つまりは波紋が起きてほしくない、事実と異なっているにせよ警察の捜査結果のままで落着させたいという気持ちが強いのが『兄の想い』になる。
 いずれの作品にしても、犯罪者・被害者よりも、その背後にいる人々が「何を考えていたのか」が浮かび上がる瞬間があり、そこが本シリーズの読みどころになっていると感じた。佐々木譲は、その何かを具体的に描くなど野暮なことをしない。その何かを「寸止め」で描き出して、その先を読者に気付かせ、戦慄させるところに迫力があるのだ。
 この読み方からすると、表題作はちょっと異色作になる。が、これは依頼人というよりも、犯人が直接依頼人でもあるということになるか。この結末の虚しさも、今の北海道の現実を示すものなのか。

 北海道の様々な地域が登場しており、北海道小説という側面はもちろんある。しかし、やはり刑事小説にして(陳腐だが)人間ドラマという小説なのだと思う。ミステリとして見たときの意外性もなかなかだとは思うけれど、ドラマ性がやはり高い。


10/01/25
末浦広海「捜査官」(講談社'09)

 末浦広海氏は1964年生まれ。関西学院大学経済学部卒業後、システムエンジニア等を経て江戸川乱歩賞に応募を続け、挑戦七回目となる『訣別の森』にて、第54回江戸川乱歩賞を受賞。本書は受賞後第一作目となる長編。

 かつて公安に所属しながら、上司が養成したエスの不始末によって、現在は刑事課に所属するベテラン・杉澤洋二。五十歳も半ばになり、全国規模で展開している警備会社・日興綜合警備保障への再就職を検討していた。そんな頃、世界的に原子力発電への回帰が始まり、六ヶ所村に隣接する南湊村では滝口という町長が高レベル放射性廃棄物最終処分場の文献調査を受け入れるという声明を発表、その直後に暴漢に襲われる。暴漢から町長の身を護ったのは、警察ではなく日興綜合警備保障の阿部という警備員だった。捜査にあたった杉澤は、阿部から情報を聴取して似顔絵の作成を行った。一方、青森には別に十和田湖畔で各国のエネルギー閣僚が集まる国際会議が予定されており、その警備責任者として警察庁警備局の警視正・成瀬公大が滞在していた。幾つもの自然保護団体、テロの予備軍と思われる団体が青森に集結しており、公安サイドもその対応にぴりぴりしている。そんななか滝口町長を襲った人物が、実は公安のエスだったということが判明して事態がややこしくなり始める。

随所に挿入される似顔絵がアクセント。ミステリとしてはあっさり薄味
 本書の主人公格に相当する刑事・杉澤が描いたという鉛筆タッチの「似顔絵」が作品の随所に登場する。捜査の過程で正式に似顔絵として書いたものだけではなく、杉澤の手遊びで書いたものから、似顔絵を描いてすらいないのに、挿絵代わりに登場する顔もある。(最後のページの一枚が特徴的ですよね)。個人的には、ミステリ+似顔絵(挿絵)という雰囲気から、どこか蘇部健一氏の作品を想起した。(蘇部作品の方が、本作品よりも「絵」は効果的に使用されていると思う)。その前例があったからか、当然、意味なく似顔絵が羅列されているわけがない、という前提で眺めると、誰かと誰かが似ているといったことからヒント(もしかすると予断でしかないのかもしれないけれど)が見えてきてしまう。善し悪しだとは思うのだけれども、子ども向けならとにかく一般向けではあざとさが勝っているように感じた。
 物語そのものはシンプルにしてストレート。原子力関係、自然保護団体から、二十三年前の過去の因縁といったガジェットはいろいろ工夫があるものの、捜査をしているうちに犯人の目星がつくという点は似顔絵と同じ。非常に素直な作風でそれはそれで悪くないし、描写も文章も丁寧なのは好感が持てるのだが。やはりプロットなり、物語なりでミステリーとしてのヒネリがもう一つ二つ欲しいところ。 登場人物も好感が持てる人物が多い一方で、強烈な悪意であるとか個性といったものがあまり感じられなかった。このあたりも「あっさり」感に繋がっている。

 小説自体には全く瑕疵らしいものはなく、文章力にも問題は無し。小説としての他者との違いをどういうところで打ち出すのか、という部分に課題が、少なくとも本作にはあると思う。似顔絵ネタは次ではもう続けられないと思うので、三作目をどうするかが今後のポイントでしょう。


10/01/23
鯨統一郎「ニライカナイの語り部――作家六波羅一輝の推理」(中央公論新社C★NOVELS'08)

 2006年に刊行された『白骨の語り部――作家六波羅一輝の推理』に続く、書下ろしによるシリーズ二作目。題名通り、作家の六波羅一輝が探偵役を勤める旅情ミステリシリーズ。(二冊目にして、その意図が明確になったというか)。読了したと思って書店に行ったら、中公文庫版も刊行されたところでした。

 遠野を舞台に発生した『白骨の語り部』事件を無事に解決させたものの、その連続殺人事件のショックが覚めやらぬ作家・六波羅一輝。折角取材した遠野を舞台には作品が書けないと言い出すが、『遠野物語』の作者・柳田国男から再度のインスパイアを受け、沖縄に残る海の彼方に残る楽園伝説・ニライカナイを題材にすれば作品を書けると考え始めた。世間では既に忘れられかけた存在であるものの、デビュー作を出版した蜃気堂出版の新人編集者・北村みなみは一輝のことを諦めておらず、上司に掛け合って、二人は取材旅行に出発する。しかし、彼らが訪れた沖縄の村では、ニライカナイを題材にしたテーマパーク〈ニライカナイランド〉建設を巡って対立が深まっており、沖縄のケーブルテレビアナウンサー・島袋高子の周囲を中心に、東京や沖縄で連続殺人事件が発生する……。

ニライカナイ伝説を舞台にしつつも、内実は旅情ミステリーが意識された展開
 前作でも感じられたことだが、大枠としては、沖縄を取材に訪れた作家と編集者のカップル(?)が、現地の伝説を中心に発生したと思しき連続殺人事件を解き明かす――ということになる。マレビトというか、来訪者というか。現地の内側で展開する常識や思い込みを、外部の第三者がひっくり返して推理してゆくのだ。第三者視点で地元を眺める結果、(そもそも、六波羅一輝と北村みなみが取材旅行という条件も重なって)現地の名所旧跡の紹介はあるは、食べ物や風物といった点に関しても、ごく自然に紹介できている。 六波羅一輝と北村みなみの人間関係も微笑ましく、物語トータルから受ける印象は、軽めの旅情ミステリーそのもの。
 あまり沖縄に縁がなく、ニライカナイと言われてもピンと来ないし、この作品に関していうと、その伝説を踏まえて様々な怪しげな登場人物が、さらに怪しげな行動を取っている。……のだが、ミステリとしての繋がりは双方に薄く、謎の装飾という意味でも、物語に神秘性を加えるといった意味においても、あまり効果が出ていない。
 一方、写真のフィルムを利用したトリックは、デジカメ時代の今となっては逆に盲点を突くもので、当初斜め読みしていたところに重大な手掛かりがあったなど、個人的には「やられた感」が強い。また、事件の真犯人の意外性は高いのだが、そうだとするとプロローグでのある人物の行動と心理描写とのあいだに微妙な違和感があるのですがどうでしょう。

 ほか、主人公の六波羅一輝が罹ったという、若い女性の裸に対する禁断症状とか、本作では事実上あまり意味が無かったんですが、次作以降には意味出るのでしょうか。文章は読みやすく、また現地のガイドとしても鯨統一郎氏らしい、すこしひねった視点からの紹介となっているなど、旅情ミステリーとしてユニークではあるけれども、きっちり役に立って面白いという位置づけになるかと思います。


10/01/23
西村京太郎「殺人者は北へ向かう」(双葉文庫'03)

 '95年祥伝社NON NOVELにて刊行された十津川警部ものの長編作品。1999年に祥伝社文庫に入った後、双葉文庫にて再刊されている。

 超能力者タレントとしてテレビで人気を博している田代貢。番組終了後に行われた休憩の時間帯に、彼はさりげなく「念力で人を殺したら罪になるのですか」と論争を招くようなことを言いだす。もちろん罪にしようがないが、そもそもそんなことは不可能の筈……。カメラが回っている状況下、田代は、彼のことを批判する大学教授が殺されると予言した。予言の直後はその教授に電話が通じていたものの、一旦切ったあとしばらくすると連絡が取れなくなり、教授は自宅で他殺死体として発見される。マスコミを通じて流れた映像から話題は沸騰。田代は、続いて北に向かう列車内部で女性が殺されると予言する。十津川警部らは自主的に該当しそうな列車に刑事を乗車させるが、予言の言葉が抽象的過ぎて絞りきれない。結果として夜行列車から予言当日に殺害されたと思しき女性の遺体が発見されてしまう。田代は、続いてGIレースを馬連で的中させ、疑う人々をよそに別のレースもまた結果を的中させた。しかし、田代自身はその予想でほとんど儲けていないのだという。そして田代は、テレビを通じて南関東を大地震が襲うと予言、その日付まで公開するに至った。果たして田代は何者なのか……。

トリックは予想の範囲内の回答。とはいえ、ここまで興味を引っ張る剛腕が、さすが大・西村
 超能力VS十津川警部。ただ、実際の読者の多くも十津川警部シリーズをある程度読み込んでいる人が、本書の購読層の中心となるだろう(本書で初めて十津川警部に出会うという人は相当に少数派のはずだ)こともあり、まあ結末はミエミエといえばミエミエ。それも悪くない。
 つまりは 理性の人である十津川警部が、自称超能力者のペテンを看破するストーリー、なのだが量産作家とは思えないほどのひねりっぷりが嬉しい。 最初の、超能力者が自分の力をテレビの前でアピールする(協力者)という場面までは良い。続いて馬券購入(全種類黒幕が購入)を二度もする念の入れ方だ。ここで、やらせを確信していた読者が「あれ?」と思うところが作者の巧みな点。列車名を指定しないで女性の他殺を当てる(ただし協力者)という展開ならば 全馬券を購入するのに二度も数千万円もの元手を投じる意味が果たしてあるのかどうか。逆にこのあたりで「もしかすると、この人物は本当に超能力者かもしれない」……と、一瞬でも思わせるのが巧いところ。
 小生ももちろんやられましたよ。
 後半部は超能力者の正体見たり枯れ尾花といった状態から、謎の興味は、なぜ超能力者が作られたのか、そしてその黒幕は何を意図していたのか、というった内容に変化している。この変奏もさりげなく巧い。 いつまでも超能力者ネタで引っ張るではなく、気付くと次々に読者の興味を引き付ける別のネタを提供してくれているのだ。物語巧者の作者ならではのサービス精神とも受け取れる。

 「十津川警部ものが読みたいな」という意味以上に深い意味はなく、前情報無しに手に取った作品ながら、意外と(失礼)「当たり」だったかも。 超能力者との知恵比べ、是非ともアナタも参加してみてはいかがでしょうか。しかし、題名と中身の一致度が薄いなあ。


10/01/22
門井慶喜「天才までの距離」(文藝春秋'09)

 美術品の真贋を舌で見分ける天才美術探偵・神永美有が活躍するシリーズ二冊目。一冊目は門井慶喜氏の単行本デビュー作品ともなった『天才たちの値段』。本書は収録順に『オール讀物』二〇〇七年六月号、二〇〇八年三月号、九月号、二〇〇九年三月号に発表された作品に書き下ろし『レンブラント光線』が加えられて単行本化されたもの。

 奇妙な服装がトレードマークのイヴォンヌが京都の大学に現れた。神永に黙って京都に引っ越した准教授・佐々木に神永美有が金の亡者になってしまったと訴える。しかし佐々木も京都の古美術店から厄介な問題を持ち込まれていた。岡倉天心が書いたのではないかと思われる仏画を買わないかと持ちかけられていたのだ。天心は絵を描かないはず。しかし状況は天心を指す……。 『天才までの距離』
 大阪の旧家の蔵から出てきたのは古びた額に入った岩波文庫そっくりの図柄の切り絵。オリジナルデザインは日本画家の平福百穂。果たして彼の作品なのか……? 『文庫本今昔』
 大阪で標準語講座を開いている女性。長らく独身だったがある男性と知り合い結婚を決意。しかし男は、古い古時計を彼女に贈ったまま、口を閉ざしてしまう……。 『マリーさんの時計』
 文化人・山野辺ゆかりの講演中「日本は中国の属国」であるという発言にイヴォンヌが激昂。牧谿の水墨画が絡み、佐々木に助けを求めてくる。 『どちらが属国』
 古本屋だった神永美有の父親に、学生の頃鍛えられた佐々木。その頃、森鴎外を蒐集しようとしてその父親に動機の不純さから断られた客。その客・浦元が長じて、今度は岡倉天心の直筆絵が欲しいと佐々木の元にやって来る。しかも神永に一度断られているというのだ。佐々木が準備したのは岡倉天心の学校で使われていたレンブラントを模写した西洋画だった。 『レンブラント光線』 以上五作品。

舌で見分けると言いつつ、その裏側で「芸術品」そのものを理詰めで追い詰める展開が快
 前作にあたる『天才たちの価値』、読もう読もうと思って読まないまま本書を先に手にとってしまった。恐らく順番に読む方がベターではあろうが、特に二冊目からでも大きな問題は無かった。
 さて。対象となる美術品の真贋を舌で気づける美術研究家が名探偵役。主人公は探偵役と同業に近い人物でワトソン役を務めている。梗概をご覧頂ければお判りの通り、基本的には美術品をテーマにしたミステリ。 その美術ミステリという分野には、様々な先例が、それこそ国産ミステリだけでも相当数あるわけだが、本書は先達と微妙にアプローチが異なっている印象。美術品の芸術品としての価値以上に、成立した年代や時期であるとか、その美術品が制作された背景であるとか、対象に絡んだ全体事情を総合的に捉え、分析することによって真贋を越えた作品価値を追求するといった展開なのだ。
 従って、画材や美術品そのものに関する特殊知識はなくとも、想像していなかった角度から美術品に対する考察を加えてゆく過程が気持ちよい。その下される結論にしても、意外な名前が飛び出てくるようなその推定過程にしても、厳密にいうと異なるものの「論理のアクロバット」にて展開される回答方法に雰囲気が似ている。
 また、視点人物を担う佐々木准教授、探偵役の神永美有、さらに気丈で勝ち気、突飛な服装がチャームポイント(?)のイヴォンヌまで、登場人物造形がとても丁寧であり、すがすがしい。これまでの門井作品で、そこまで登場人物に魅力を感じた記憶がないので、これは個人的には新たな発見でもある。

 美術品ミステリとなるとどうしてもつきまとう、真贋に関して騙し・騙されといった人間的な駆け引きが、このシリーズではあまり見られない。なので、コンゲーム的な雰囲気が薄く、キュレーターの立場から真実を追求するというような、あまりどろどろしていない世界で論争が繰り広げられる。その分(見かけだけでも)クリーンに見える点も印象を良くしている。数多くある美術ミステリのなかでも、このシリーズでかなり独特の立ち位置に行くかも、と感じた。一作目もいずれ遡って読んでみる予定。


10/01/21
森谷明子「葛野(かどの)盛衰記」(講談社'09)

 2003年に『千年の黙 異本源氏物語』で鮎川哲也賞を受賞してデビューした、森谷明子さんの王宮文学。(非ミステリ)。『KENZAN!』vol.3〜vol.7にかけて掲載された作品が単行本化されたもの。

 第一部では平城京から長岡京、そして平安京への遷都の舞台裏を、長岡京が建設される地域に住む多治比の一族の物語として描かれている。結果的に将来の帝となる人物の寵愛を受ける人物を一族から出したところまでは良かったが、一族の将来を担うべき嫡男を得体のしれない葛野の一族(秦家)の策略によって喪ってしまう。長岡京造営の責任者でもあった藤原種継の暗殺事件などの影響もあって、長岡京は平安京へと遷都を余儀なくされ、多治比の一族は、権力者の様々な階層に人間を送り込むことで、その状況下であっても懸命に生き残りを図ってゆくのだが……。第二部では太宰府に流れた葛原親王の一族が平を名乗りだしてから幾年月。桓武平氏の一族が、平安京の都の近くへと再び上ってきた時代。紛うことなき武人でありながら貴族的な素養を持つ平忠盛の嫁として指名された藤原宗子は、その気風と忠盛本人の魅力に染まり、立派に侍の妻としての役割を果たす。忠盛には先妻の子・後の清盛が居り、一族の棟梁として天皇家への侵食を図ってゆくのだが……。

平安京遷都から平氏の興り、隆盛、そして衰亡。史実の裏側をファンタジックに描くまさに叙事詩
 平安時代。天皇家・藤原氏など王宮の人々が雅な文化を極めつつ、権力を巡る争いを繰り返していた時代。教科書的には、○○天皇と○○上皇が対立し、その○○天皇側に与した藤原○○と寵愛を受けていた○○は……といった書き方になる。だが、この時代を現代的な視点、つまり利害対立のみでその行動を分析することは事実上不可能。左遷されたり暗殺されたりと無念の死を遂げた人物は怨霊となって祟りを為すと信じられており、夜の闇、本書の場合は松原などには「魔」が棲み、使役したり取り殺したりといった活動が実際になされていると信じられているのが大前提となる。
 前置きが長くなったが、要は平安時代を内部から描くに男女の愛情や政治的な思惑だけではなく、こういった怨霊や祟り、魔や巫女といった存在も含めて描かなければ片手落ちということ。そして本書はその暗部も含めて時代のうねりをがっつり捉えている。 例えば第一章の終盤では、教科書的にいういわゆる「薬子の変」が描かれている。譲位して上皇となった元・平城天皇と、その平城天皇に寵愛された藤原薬子・仲成の兄妹が嗾したといった史実だったと記憶しているが、その裏側も含めて背景が新たな角度から(全部を説明しきれないが)描かれている。その前段にあたる彼らの父親・藤原種継の暗殺事件も謎めいた史実だが、そこにもファンタジックは解釈が当て嵌められているなど、平安時代の史実をベースにしながらも、多治比・平家の一族の宿願といった別の補助線を巧みに取り込んで、大きなうねりをこの時代の人々の考え方に基づき、地に足を付けた視点から描ききっている。
 つまり、平安時代の流れを、ある一族の内側視点にて当時の感覚を再現しながら描いた、という凝った文学。 歴史解釈と創作との絶妙なバランスは鮎川賞とはいえ、王宮文学出身と唸らされる。第二部については、第一部から時代が後に下ったということもあろうか、物語の手触りが大きく変化している。都へのこだわりが熾火のように残るとはいえ、全体の流れは物語上、そして史実としても一気に加速的な描写となっている。平氏の興隆から滅亡に至る情景が、主に平頼盛視点で描かれるものの、第一部で喚起されるミステリアスな雰囲気は消え、どちらかというと無常を強く感じさせる展開に変じているように感じられた。

 多少序盤は入りにくい部分があるかもしれないが、一旦世界に入り込むとじっくりと楽しめるようになる。出来ることならば、読んでいて史実がどうだったか気になれば、登場人物や事件名で検索をかけながら読むとより深い味わいになると思う。その意味では、付録にあたる登場人物の系図は巻末ではなく、頭に入れておいてくれた方が親切だったのではないか。(恐らく、巻末に置いた意図もあるとは思うけれど)。