MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE 国産ミステリ・レビュー
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


10/04/10
古川日出男「MUSIC」(新潮社'10)

 三島由紀夫賞を受賞した『LOVE』の続編にして、緩やかな視点からは傑作『ベルカ、吠えないのか?』にも連なる新潮社動物シリーズ三冊目。書き下ろし。

 「その猫にはまだ名前がない。いずれは名前が付けられる。その雄猫にはスタバと。」と始まる。後にスタバという名前が付けられる猫が五匹の兄弟とともに生まれる。四匹は脱落、一匹の兄と、後のスタバのみが生き残り、親は車に轢かれ、兄は別の雄猫に嬲られて死ぬ。そのしかばねは鴉が持ってゆく。前肢を挫き、びっこを引きながらスタバは独り立ちをする。元キャッターのユウタは、今は田渕佑多。中学に入学してから引き籠もりになりかかっている佑多は髪の毛を切り、剃り、スキンヘッドとなって死にかけのスタバと出会う。佑多は猫と意志疎通をかわすことにトライしてゆく。佐藤美余、いきもの係の元シュガー。第二次うさねこ戦争の関係者。彼女もまた中学生となり、走り出す。性同一障害を持つ和身。彼には和美という人格と、かずみという人格が。彼女を好きだというボーイフレンドとのドライブ中の事故で、彼は死亡。和美は和身になり、彼は友人となる。そしてかずみは、ボーイフレンドとの京都旅行を一人で実行する。さらに猫をモチーフに用いる天才芸術家などが入り乱れ、東京と京都で大騒ぎ。

鳥を襲う猫、猫と意志を交わす少年、走る少女。ドライブ感覚「猫」ストーリー。訳わかんないけど。
 『LOVE』では猫の話、といいつつ、都市と都市との機能対立を猫を接着剤として描くのが主目的? といった内容で、どこか筆の赴くままに描かれたのでは、という疑念の残る中編集だった。本書『MUSIC』は長編でありながら、そのテーマ性がどこに着地するのか、ふらふらしながら、しかし中身的にはパキパキと進んでゆくという印象。 東京に対する京都、猫のスタバ、中学生の少年と少女、性同一障害のかずみ。おおよそ四人(但し一匹猫)の、四つの人生(ただし一つは猫生)が、もっとも激しく美しく燃え上がる瞬間に至るまでの、物語。
 ある意味では本書よりも訳わかんない「争い」が多数登場した『LOVE』からの、各登場人物の成長譚、ビルドゥイングスロマンというような趣きもあるにはある。カナシーなんかも後半に登場してくるし、世界がクロスしているという安心感は心地よい。ただ勿論、それ(つまり少年少女の成長譚)がメインテーマではない。やはり本書一代で登場する、天才対鳥戦闘猫・スタバを巡る物語というのが、一本ぶっとく通った筋だ。このスタバが雀や鴉や、クライマックスではある大きな鳥と死闘を繰り広げる場面は、なんというか「あり得ない」、だけどわくわくするという。変な気分になる。少年漫画を読んでいる時に感じた、あの気分ですかね。
 序盤は東京で、前作同様に限定的な地域での物語(そりゃメインが猫である以上、そう遠くには行けないですがね)だったのが、以前の都・京都を巻き込んでゆく。東の都と西の都の対比など古川日出男流の見解が様々なかたちで飛び出るところなどユニークだし。表世界に対する裏世界、猫と同様の自分基準による野性的なモラル等々、どの角度で読むかによって、読者個人による印象も多少は変化しよう。

 ただいえるのはこの物語(シリーズ全部そうなのだが)基本、ドライヴでグルーヴ。 その感覚に素直に乗って、たゆたうようにこの世界を楽しむのが、やはり吉。深読みも浅読みも全て受け入れてくれる懐の深さもあるので、安心して世界に飛び込めるのが良いです。


10/04/09
太朗想史郎「トギオ」(宝島社'10)

 『さよならドビュッシー』と共に第8回『このミステリーがすごい!』大賞の大賞を受賞した作品。太朗氏は1979年和歌山県生まれ。小学校六年生から中学卒業までロンドン在住、一橋大学商学部卒業。帯には「ブレードランナー」の独創的未来、「AKIRA」の疾走感、「時計じかけのオレンジ」の暴力。というコピー。

 大した産業もなく、主に農業で生計を立てる貧しい村に住む主人公・蓮沼健。彼が「白」という、クラスメイトの稔の家が捨てた子どもを拾ってしまい、家族で育てることにしたがために、学校では林蔵一派からの暴力的ないじめに遭うようになる。家族も村八分にされてしまい、稲刈り一つに困る始末。かといって一度拾ってしまった「白」を捨てることはままならず、そんな状況を受け入れざるを得ない。事なかれ主義の教師は、林蔵寄りで健を無視、唯一国語教師の池田だけは、勘違いした庇護を投げかけてくるが、彼はある新興宗教にかぶれていた。生活の困窮が一層進み、父親は出稼ぎに東暁に出ていってしまったまま戻って来ない。母親は生活費のために池田のところに入り浸る。そんな絶望的な暮らしのなか、健は結局は稔と一緒にある事件の結果、村を飛び出して暮らさざるを得なくなる。農村から港町、そして首都たる東暁へ。金持ちががっちり富を握り、貧しき者はそれなりの人権と、だけど最低限の生活をすることは可能なこの世界で彼らはどう生きるのか。

この世界を肯定で入るか、否定で入るか。入り口で分かれた二股で印象が百八十度変わる
 異世界SFないしは近未来日本。この尖って、かつ生々しいという世界作りのセンスに審査員が惚れたかな、そんな印象。「近未来の日本」を、現在の延長にある世界として創り上げる(個人が人格と融合するような携帯端末・オリガミ(なんかイメージとしてはiPadの進化版みたいなものか?)を持ち、明治時代の田舎のような封建的制度が残る田舎と、平成初期のテクノロジーのテクノロジーが同居(所得による差が非常に大きい)している世界。実際に登場する細かなギミックよりも、富む者と貧しい者の差をこれだけ赤裸々にきっちり描ききったところが個人的なツボ的に上位。登場人物自体には、個性的ではあるもののある程度エンタメの世界のなかでは類型的に思われる人物も多い。ただ、こちらはむしろそういった人物像によって物語の流れを邪魔していないともいえるように思われた。
 トータルとしての物語としてはなんというか、どこに向かっているのかわからず、作者もいきあたりばったりに主人公の人生と小説を作っているような印象が強く、良くも悪くもぐだぐだしている。 実際、主人公の行動が物語上でも行き当たりばったりであるのだが、その行き当たりばったりは、作者の創作段階で既にそうだったのではないかと疑わせる。ストーリーとしてはあまり高度な計算の結果書かれたとはちょっと思えない。メタ的に囲まれた結末にしても、主人公の最期にしても計算にみえないところ、微妙に弱点だと思う。読者が勝手に深読みするのを期待しているならばちとズルイ。
 繰り返しになるが、審査委員ほかが絶賛するほどの世界観はやはりユニーク。 混迷する現代日本の向かう選択肢の一つとしても、あり得ないとはいいきれない世界だ。旧態依然、昭和期のコミュニティに近づきつつあるような田舎部の農村、都会との中間地点にあって、猥雑な活気に満ちた港町、そして金持ちな一部人間のみが高級住宅街に住み、それ以外は彼らから目の届かないスラムに暮らす大都会。明らかに架空の世界でありながら、どこか現実の延長線上に「無いといいきれない」不気味さが魅力になっている。ちょっとこの世界観に『銀河鉄道999』を思った。
 あと、最初の行動が善意であるのに、引っ込みの付かなかったその善意のせいで不幸へ、不幸へと突き落とされていく物語展開は邪悪。無邪気に勧善懲悪を信じているタイプには向かない、実験的匂いの強い長編作品である。二作目がスムースに書けるものかどうか、作者の底力もまた試されている気もする。


10/04/08
鏑木 蓮「救命拒否」(講談社'10)

 第52回江戸川乱歩賞を『東京ダモイ』で受賞した鏑木氏による、五冊目となる長編作品。書き下ろし。

 大阪のホテルを会場として開催されたシンポジウム「緊急患者搬送システムを考える」の講演会中に爆破事件が発生、演台にいた救命医・若林玲二は瀕死の重傷を負う。、若林は朦朧とする意識のなか自らの自分にブラックタグを付けるよう救助に要請、いわれた通り現場に駆けつけた救急救命士の中杢は彼にブラックタグを付ける。若林はそのまま絶命するが他の患者を優先する行為には賞賛の声が多く寄せられた。大阪府警の刑事・岸は、ベテランで癖の強い倉吉と共に捜査にあたるが、脳外科医から救命医に異色の転進を遂げた若林には全くといってよいほど悪い評判はなく、事件の捜査が暗礁に乗り上げかける。そんななか、二年前に発生した爆発事故で亡くなった女性の婚約者・笹岡が捜査線上に浮かび上がる。その女性・景子にブラックタグを付けたのが若林であったのだが、現場にいた景子の母親は、彼女にはまだ息があったようにみえたというのだ。しかも笹岡は、若林と講演終了後に会う約束をしていたという。状況証拠は数多く揃うが、彼が犯人なのか岸も倉吉も迷いが生じる。そんな岸が頼りにするのは、元捜査一課の名刑事で身体に障碍をもった警察官・本多。彼のアドバイスによって、岸と倉吉は別の方向性を探ることになるのだが……。

リアリズム重視の社会派ミステリ。ただ、その社会派テーマはが人間ドラマとすり替わっている
 社会派テーマと書いてしまってから気付いたが、作者にどこまで社会派という理念があったかどうか、よく考えてみると怪しいところがある。多数の重傷者が出るような事故現場で、一人一人に救命タグを付けるというテーマを近年のエンターテインメントに持ち込んだのは海堂尊氏の『ジェネラルルージュの凱旋』ではなかったかと思う。その作品では、救命タグは補助的に使われているのみ。本作はその救命タグがある意味では物語の中心にある。被害者がかつてブラックタグを付けた女性(後に死亡が確認)を婚約者に持つ男性が、被害者の爆殺に関わっていたのではないか、という状況証拠が次々と挙がってゆくのだ……。
 ただ、ミステリとして正面から受け止めると、あまりにもあからさまに中盤から犯人扱いされる笹岡は真犯人ではあり得ない、という前提で読むことになる。となると、ある程度、犯人として怪しい人物が限られてくる。その結果、ミステリとしての犯人探しの興趣が薄れ、もともと物語が内包していた人間ドラマの方が大きく浮かび上がってくるのだ。(その意味ではミステリの形式ではあるが、そちら側からは評価しづらい)。作者にその意図があったのかどうかは不明ながら、人間の命、そしてその命を預かる職業につきまとう責任の重さといった、重く、そして唯一無二の正解のない問いかけが次々と浮かび上がってきている印象。

 乱歩賞作家らしいきちんとした筆力、そしてテーマに対する性格な捉え方など、作家としてのレベルは高い方であることを再確認。テーマとしてはやはり重めにつき、気軽に読むのではなく、ある程度じっくりと取り組んで頂きたい作品でした。


10/04/07
朱川湊人「太陽の村」(小学館'10)

 『文芸ポスト』二〇〇四年冬号から二〇〇七年冬号にかけて連載された長編作品。単行本化にあたり、大幅な加筆修正が行われている。

 一応アルバイトはしているものの、引きこもりで家族との接触を断ち、オンラインゲームを趣味として生活する坂木龍馬。百キロオーバーの体重にオタク趣味という非モテ系の二十台だ。父親の定年祝いで無理やり家族でのハワイ旅行に連れられた帰り、飛行機事故に遭遇する。様々な知識が頭を過ぎるが龍馬は奇跡的に砂浜で目を覚ました。助かった! しかし彼は周囲が自分の知る現代とは異なっていることに気付く。電気もガスも水道もなく、粗末な服に原始的な農業。どうやらオレはタイムスリップしてしまったらしい? しかも農作業を手伝わされているうちに、この村にも年貢があり人身御供に仇討ちといった風習があることを知ってゆく。徐々にからだも慣れはじめた時に、ふと村長に語った「走れメロス」が大受け。この村の人々は物語を知らない? 物語に素直に感情移入して多大な感激をする村人をみて、龍馬は自分が徐々に村に受け容れられ始めていることを感じ始める。

結末がアレだが、朱川風のオタクっぽさのブレンドが光る展開はユニーク。
 オタク・デブ・依存心強いニートが、かつての日本の農村社会にに放り出されたら?
 ある意味ではif小説、ある意味ではシミュレーション小説。 辺鄙な片田舎、貨幣価値も頼れる人間もいないところに放り出された、現代的な感覚を持つデブ一人。働かざる者食うべからず、という信賞必罰がある場所に流れ着いてしまった。必然に働く、労働、肉体作業を果たし、人々の役に立つ、その結果、メシにありつけるという、本来の人間活動が持っていた基本。
 ただ、主人公が流れ着いた島、古来の日本と微妙に異なる。地頭だとか、仇討ちだとか。歴史的にどうこうというのではなく、妙にこの島独自の風習が目立つようにもみえる。最終的にはその部分に本書のキモとなるべき秘密が隠されている。
 朱川湊人氏であるから、別にファンタジー空間に紛れ込んだ異世界人という設定であってもあまり違和感はないのだが、本書の場合は結末までに無理にオチをつけようと四苦八苦した形跡がみえる。そのオチについては、逆に「なければ良いのに」という方面。せっかくどこかいい雰囲気があったものの、種明かしがなされた瞬間に、そういった「いい雰囲気」が瓦解させられてしまっている。これは恐らく賛否両論でも否が多いんじゃないかなあ。現代エンタメでこれはやっぱりちょっと、なんというか、ですよ。

 ただ、序盤から中盤にかけての、ほのぼのとしたユーモアは朱川氏らしい。オタクサイドの視点も、この農村の在り方というところも、ピンポイントで取り上げると朱川テイストが横溢しているのだが、物語自体はユーモア先行、ちょっとこれまでの作品とはタイプが異なる。また、ラストのうちの本当のラスト、主人公の境遇がはっきりするところなど悲しすぎる。それでも何とか前向きに! というのが朱川クオリティってことでしょう。


10/04/06
金沢伸明「王様ゲーム」(双葉社'09)

 無料携帯ポータルサイトとして有名な「モバゲータウン」で史上最大の閲覧数を誇る超絶ホラー小説。現在は既に『王様ゲーム 終極』という作品の単行本が近々刊行されるようだ。

 ある高校のあるクラスに一斉に送信されてきた”王様”なる人物からのメール。王様ゲーム。その命令は絶対なので24時間以内に従ってください。最初は指名された男女のクラスメイト同士がキスをするというもの、クラスがおもしろ半分に盛り上げるなか、二人はキスを実行。王様からの服従を確認したというメールがまた全員に届いた。次の日のからも次々と指名つきでメールが届く。男子生徒が女子生徒の足を舐めるというもの。そこまではついてきたクラスだったが、その次の命令は、ある男子生徒が、ある女子生徒の胸を触るというもの。さすがに女性が拒否して終わりとなる筈だったのが、なぜかその二人は謎の死を遂げてしまう。王様からはその直前に首吊りの刑を与えるというメールが……。続いての命令は、彼氏のいる女子生徒と、別の男子生徒・大輔がエッチをするというもの。クラス全員に服従確認のメールが届き、彼氏の翔太は熱り立つ。王様の続くメールは、翔太の指令を王様の命令に代わって実行すること。そして八尋は大輔に首を吊れという。本編主人公の伸明や、その友人の直也は泊まりがけで大輔に付き合い、首吊りを阻止することにする。三人は無事に日付を越えることに成功するのだが……。

設定やもろもろのアラvs逃げられない感覚と、何もないところに憎しみを放り込む技巧でカバー
 まずは、この作品は携帯で読む小説ということ。
 それがたまたま本のかたちをしていると考える必要がある。
 先にはっきりいうが、一般文芸のつもりで読んではいけない。その時点で、たぶんこの作品の魅力をくみ取れなくなる。文章が細切れにみえるのは、おそらく携帯小説という特性に従ったものと思うので、その出自が異なる以上、一般小説としての文章力を求めるのは違うように思われる。というのは一枚の紙上でそれなりの文章が目に入る場合と、携帯電話の小さな画面で文章を少しずつ読む場合、同じ文章を読んでも受け取る印象は間違いなく変化する。好意的に解釈すると、本書は出自である携帯小説の「色」を作者がわざと強く残したかったのではないかと思うわけだ(単純に書き換えが面倒くさかったという可能性ももちろんあるのだが)。
 また、内容についても同じことがいえる。細切れに読む携帯小説と、基本的に一気読みがベースの一般小説は読み方が異なるのだ。状況描写が足りない、人間に深みがないといった感想を書いていること自体、ちょっと違うんじゃないの? と思うのです。
 単行本で読むと細かいアラがどうしても目立ってしまう。いきなり届いた王様ゲームにそもそも高校生が嬉々として(それが面白がるにしても)参加するものなのかどうか。このあたりから違和感は高まるが、携帯で読むにあたっては、それほど気にならない(のだと思う)。また、個々のキャラについても同様で、そもそも携帯電話で小説を読むような読者が、キャラクタの細かい描写を要求しますか(偏見大)? というもので、結局は王様の命令に従わなかったら殺されていくという理不尽な世界の物語、という段階で止まるのです。多分。

 なんとなく理に落ちる結末を予測して読むとしっぺ返しあり。あくまで電脳ホラーとして読む必要あり。 携帯電話にメールを送ってくるsupernaturaltという存在を想像できるかどうか、ってこと。……なんか必死で擁護しているようにも読めるでしょうが、でもまあ、携帯小説ですよ、ということ。ただ、読者の評判が悪いらしい後半部の方が(実際、半分破綻しているが)、ホラー的にどうしようもない絶望感が強く出ていて面白く読めました。個人的には、あからさまに続刊を意識したラストでありながら、この結末でぶった切って読者を突き落としたままにする勇気を作者に持って欲しかったですが。


10/04/05
井上夢人「魔法使いの弟子たち」(講談社'10)

 『小説現代』二〇〇八年五月号から二〇〇九年十一月号にかけて連載されていた長編作品を単行本化したもの。帯に「著者9年ぶり待望超大作」とあって「?」と思ったのだが、(もちろん短編集が抜かれることは分かっていたとして)『the TEAM(ザ・チーム)』が連作短編集だったから、『クリスマスの四人』(2001年)以来という計算なのですね。

 山梨にある竜王大学付属病院で発生した院内感染は、病院を封鎖したにもかかわらず凄まじい勢いで感染者を増やした。その致死率はほぼ百%。発生から二ヶ月、竜脳炎と名づけられた未知のウイルス性感染症による死者は、三百名を超える惨事となる。しかし感染しながら生き延びることの出来た四名(意識を取り戻したのは三名)からワクチンが抽出され、致死率を百%から20%前後に落とすことに成功、封鎖策と合わせ被害はほぼ食い止めつつあった。生き残りは、雑誌記者の仲屋京介、病院に婚約者が勤務していた落合めぐみ、そしてそのめぐみの婚約者・木幡耕三。この木幡が、確認された最も早い発病者だが、生存しているものの意識はない。そして興津茂、もともとの竜王病院の入院患者で九十三歳の老人だった。病院内部で隔離されたまま暮らしていた彼らだったが、これまでなかった特別な能力が彼らに備わっていることがはっきりしてきた。まず興津は凄まじい勢いで若返りが進み、痴呆が進行し意志疎通が難しい状態だったものが、三十代でも通用する若さになってしまう。京介はものの過去や未来を見通す力を、めぐみは触れずにものを動かす力を。彼らはその能力に戸惑うのだが……。

読み出したら止まらない止められないノンストップ・パンデミック・クライシス。
 あまり多くは語りません。寝不足にだけには御注意ください。
 井上夢人らしいリーダビリティが光る。設定自体は実になんということのない(実際はなんということのないなんてことはない)、超能力もの。超強力な感染症から生き延びた数名が超能力を手に入れていた。こういった設定、まるで同じというものはそうそうないかもしれないが、基本ラインとしては珍しいものではない。超能力も念動力に若返り、物体から過去を読み取るという能力。それ自体が珍しいということはない。
 が、井上夢人にかかると、その個々は平凡にすらみえた要素が魔法のような拡がりをみせる。 まず超能力の微妙な設定が巧い。不安定な能力が徐々に安定していく様子。使っても疲れない。一人称で描かれる文章では、あたかも読者もまた超能力を得たかのような感覚に陥らせるし、落合めぐみの能力をお笑い芸人と同等にて考えよう、という発想は、普通思いつかない。また、彼女が実家に帰った時のエピソードもまた強烈。超能力者が、実際に居たとして陥るであろう孤独、一般人たちの虚勢と反発。そういったところがあたかも実際にあったことのように描かれる。行き届いた想像力に素直に舌を巻く。
 そして、このドラゴンウイルスのくだりはミステリ的である。なぜ三人が助かったのか、特に序盤からある興津茂の持つ能力に関する違和感。こういったところの押さえ方もまた巧い。必要であったかどうかは微妙ながら、やはりこのあたりはミステリ出身の作家らしい。
 あくまで恐らくだけれども、作者は本書における結末とは異なるラストを、本来は用意していたのではないかと思うのだ。このラストはこのラストで一抹とはいえ救いがあるのだけれども。救いがあっても、その救いが一抹以下というような残酷な結末の方が、本来はこの作品のラストを締め括るのは相応しいように思う。(ま、個人的感覚でしかない話ですが)。

 とにかく(時間のある時に)読みましょう。登場人物に親しみのない最初の数ページの展開は多少退屈かもしれませんが、そこからが問題。人類の将来が(この小説上では)どうなるのか。ぜひとも見届けて頂きたい。


10/04/04
我孫子武丸「さよならのためだけに」(徳間書店'10)

 『問題小説』2007年12月号から2009年11月号にかけて『赤い糸を断て』という題名で連載された作品を改題し、加筆修正して単行本としたもの。シチュエーションSFの要素が強い作品で、ミステリでは(少なくとも本格では)ない。

 二十五年前に誕生した結婚相手紹介業社・PM社。遺伝子関連の特許を多く持つハイジーン社がバックにあり、その技術を結婚仲介ビジネスに応用できると考えたのが、日本人遺伝学者の高田才蔵(サイゾー)だった。彼は日本人の血液型信仰や「赤い糸」伝説などを巧みに利用して、その拒絶感を慎重に排除、遺伝子診断による結婚相手診断を軌道に乗せた。PM社の発表によれば、相性特A同士の結婚による離婚率はゼロ。一方でPM社によって相性悪と判断されたカップルの離婚率は九六パーセントに上った。少子化に喘ぐ日本にとって、人口増に繋がるPM社のやり方は当然黙認され、いつの間にか信仰といって良いほどに人々のあいだに考え方は浸透していた。そして僕・水元憲明と長峰月(ルナ)は特A判定のカップルとして見事ゴールイン。しかし、新婚旅行中に互いに相性が全くといって良いほど合わないことが判明、途中で喧嘩して身体を触れるどころかろくに口も利かないまま帰国した。彼女の強引な主張により離婚しようとするのだが、離婚をさせまいという様々な圧力に対して二人は心ならずも共に戦うことになる――。

緻密に練られたSF設定を背景に、意外性ありスリルありの展開を素直に楽しむ――。
 小説的か映画的かと二者択一で選ぶなら、映画的な作品だという印象だ。それも、理想的なシナリオによって構成された良質のラブコメディ。 大前提となるのはまず設定だ。近未来。日本は少子化社会になっている筈が、遺伝子工学によって救われている。しかし、遺伝子工学の抵抗は強いはず、いやいや結婚仲介の段階でうまく社会に認知させてしまっていればこっちのもの。さらに、理想的なカップルが離婚という段階で、仲介会社はおろか、結婚相性の幻想を壊したくない普通の友人や親戚、さらには役所までが反対(離婚を諦めさせ、結婚を継続させようとする)側に回るはずという計算も巧い。
 加えて、こんな包囲網を敷かれてしまうと、本来相性が合わなくて離婚したいというカップルが、一致団結して離婚を勝ち取る必要が生じるという、おかしみのある矛盾が発生する。そこが、本書のポイントといえばポイント。物語の流れも、その設定を踏まえて、単に役所に離婚届を出せば良いというだけの行為がいつの間にか冒険行為に変じているというあたり、展開がうまい。さらに、新郎の先輩と、新婦の同僚という二人の異性を登場させ、それぞれ新婦や新郎と、微妙に意識し会う関係にしてしまう。こういった人間関係の配置なども、ベタベタだけど巧い。
 こうやって改めて考えてみると、現実性の高い凝った設定を用いてSFっぽくはしているものの、あとの展開はかなりベタ。だけども先が読めないという、これがストーリーテリングの巧さということでしょうか。

 変化球ではあるものの、「婚活」という言葉が普通に使われるようになってきたこの時代、予見とはいわないまでもその言葉から感じられる何かをうまく物語に拡げているともいえる。また、典型ともいえるラブコメ展開ながら、男女間の問題、結婚という問題についてからっとしたかたちで波紋を投げかけている物語(と読むこともできるかな)。


10/04/03
近藤史恵「エデン」(新潮社'10)

 前作にあたる『サクリファイス』は近藤史恵さん初の自転車競技ミステリとして好評を博し、第10回大藪春彦賞を受賞し、第5回本屋大賞の第2位を獲得した。本書は同じ主人公による、その数年後の世界を舞台とする続編。『新潮ケータイ文庫DX』二〇〇九年一月二十九日〜二〇〇九年十月八日まで連載されていたものを単行本にまとめたもの。

 日本人プロ自転車ロードレースレーサーとしてスペインのチームに入った後、白石誓はフランスにあるパート・ピカルディというチームに移籍していた。チームのエース格はミッコ・コルホネン。フィンランド出身で昨年のツール・ド・フランスで一昨年三位、去年は総合五位の成績を残している。しかし二年契約のまだ半年にしかならないというのに、誓は監督のマルセルからチーム・スポンサー撤退の話を聞かされる。解散の可能性もあるという。日本人は珍しいとはいえ、実力的に抜けているわけではない誓は、これからどうするか決められない状態のままツールに入る。昨年優勝のモッテルリーニ、二位はアンダーセン。今年は地元フランスの注目ルーキー、ニコラ・ラフォンらがライバルと思われた。マルセルからはパート・ピカルディはミッコのサポートをしながら、ニコラのチームをサポートすると指示され、スポンサーの都合に誓は反発、ミッコのサポートを宣言した。ツールが開始され、ニコラの人懐こい性格に誓は惹かれてゆく。日本人フォトグラファー・只野深雪をニコラに紹介し、彼からは幼馴染みのドニを紹介される。レースは進み、ニコラは序盤の快進撃を止められ、ミッコは好位置をキープ。さらにある山岳レースで誓はドニとデッドヒートを繰り広げることになるのだが……。

ミステリイメージは薄れまれどプロスポーツ・エンターテインメント小説としてのリアリティ高まる
 ツール・ド・フランスという言葉が、自転車ロードレースの最高峰であることを知識で知ったのは、もう何十年も前のこと。ただ、その後もずっとあまり自転車ロードレースという競技そのものに興味を抱くことはなかったし、その結果、それがどういうルールで行われているかどうかすら知らないままだった。その無関心の扉が破れたのは『サクリファイス』がきっかけ。 自転車競技という決してメジャーではないスポーツに対し、少なくない日本人の目を向けさせたという意味で、この大藪春彦賞を受賞した『サクリファイス』の果たした役割は小さくないと思う。
 さて、そしてその続編たる本作。もちろん自転車ロードレース紹介の啓蒙書としての一定の役割は引き続き負っている、というか、本書で初めてレースを知る人(そしてもちろん前作しか読んでいない)、初心者に向けた説明はきちんと行われている。そのうえでのストーリー組み立てが巧く、やはりするすると世界に引き込まれるのだ。
 主人公も作品を重ねたことで、多少成長している。しかしプロとしての考え方が度合いを増しつつも、ちらりと垣間見える日本人としてのメンタリティと、心の奥底に残しているアマチュアリズムのバランスが巧く、小説的な盛り上がりに一役を買っている。ここで監督の言う通りに動くサイボーグのような主人公ならば、そもそも小説にならないところだけど。
 本書におけるミステリ要素は決して必須ではなかった。が、現代のプロスポーツとは切ってもきれないドーピング問題と、日本人の常識からは考えられない文化の差異(特に自転車についての)に、Why done it? の理由を持ち込んだところはさりげないけれども、めちゃくちゃに巧い。 動機が明々白々に読者に何度も晒されているにもかかわらず、犯人の心情にまで(明らかにされる前に)思い至れるものかどうか。意外性のある動機を使いつつ、物語としての渋み深みを高めているように感じられた。

 シリーズとして続くとしても、誓とニコラの単純な再戦が物語舞台に選ばれることはないように思う。小説巧者の近藤さんのことであるから、また視点を微妙にずらしたところでユニークな物語が提供されるような予感がある。もちろんこのまま誓の成長を見せて頂いても良いのだが。いずれにせよ続編は必須ですぞ。(誰にいうてる?)


10/04/02
京極夏彦「冥談」(メディア・ファクトリー'10)

 『幽談』に続く、京極流の現代怪談短編集。怪談専門雑誌『幽』に発表されたVol.10x2作、Vol.11x2作、Vol.12x1作に、書下ろしが2作品、最後を飾る『先輩の話』は2010年2月に発表されたばかりの『怪談実話系3 書き下ろし怪談文芸競作集』に発表された作品を収録している。

 重い胃病を患う友人の小山内宅を訪れた男。庭を巡る世間話の後、小山内彼の妹の佐弥子が亡くなったので医者を呼びにゆくといわれてしまう。 『庭のある家』
 親戚一同が集まる大きな家の一角にあった少し小さな部屋は自分にとっての秘密基地のようなものだった。その隅にある崩れた穴を寝ころんで覗き込むと、向こう側にも同じようにこちらを向いている目があった。 『冬』
 学生時代に教授と不倫していた女性は、地元に引っ込み、市史保存運動をボランティアで手伝っていた。その記録から、祖母と共に訪れた、ある地のことを断片的に思い出す。 『かぜ(風のかんむりにつくりが百という漢字)の橋』
 水野君が連れてきた繁君の田舎は自然が素晴らしいところで、山に山人がいるのだという。人の形をしながら人でないと彼はいうが、それは山に入った人ではないのか? 繁君の感覚と自分たちの感覚にズレがある。 『遠野物語より』
 斜向かいに住む爺から柿を貰った。柿内部に虫がいた。語り手が子どもの頃からあった隣家の柿。その隣家にはかつて祖父の若い愛人が住んでいたのではなかったか。記憶が微妙に曖昧になってゆく。 『柿』
 五年だらだら付き合っただらしない彼氏に対してキレて、飛び出してきた女性。ぷんぷんしながら歩いていくうちに少しずつ冷静になっては行くのだが……。 『空き地のおんな』
 谷崎さんは廃屋のような家に住んでいるといい、その家はもう死んでいるのだという。土地に付随する廃屋として買い取られた家は前の主の記憶が残っているようなのだという。 『予感』
 先輩と僕の会話。子どもの頃見る空と今の空が違って見えるのはホンモノの記憶ではないからか。逆行しない時は死んだ今。記憶というのは今の幽霊。だから幽かにしか見えない。嘘ではない、だけでおホンモノではない。それが記憶。 『先輩の話』 以上八編。

物も人も、時が経てば朽ちる。過ぎ去りし記憶は怪談となり「ほんとうのことの話」が実話であるという
 前作の最後を飾った『こわいもの』からどこか主題を引き継いでいるかのような印象。一般的な実話系怪談とはどこか創作の手法自体が異なっているようにみえる。我々のいる日常の延長に理不尽な奇妙を割り込ませて怪談を構築するといったかたちではなく、そもそも、描かれている日常そのものが全体にどこか幻想的で、かつ哲学的な命題が含まれているようにみえる。文体は京極氏らしい、言葉へのこだわりであるとか漢字の遣い方といったところに気配りがあり、なかなか余人には真似できない作品世界が形成されている。濃い紫色(?)のインクの色、題名は頁ノンブルの変則的な位置、あまり文芸作品には使用されないようなフォント等、細かいところにまで気配りがなされた形跡がみえる。
 その幻想的哲学的な一方で、妙なリアリティも同時に作品内に存在するのが特徴。 親戚が集まる大きな家にある秘密の場所であるとか、だらだら交際している彼氏にマジ切れする女性だとか。ああ、あるある、というなかで奇妙な話が混じって、という。先に書いたことと矛盾しているようだが、その「あるある」がリアルなのだけれども日常の延長だと感じられない。作り物めいたリアリティというか。現実にあるようでいて、ありそうにない。それが怪談の特徴なのかもしれない。
 あとは、怪談がなぜ怪談なのか、という極めてシンプルな、そして誰もが普通は謎として考えないようなところにも挑戦しているようにみえる。なぜ怖いのか。なぜ山人は山人なのか。特有の文化や土地や共同体に付随する何か。人間の記憶の不思議、感覚のズレ……うまく系統立ててここでまとめられないのだが、怪談とは何なのか、ということについて(作者の企図がそこにあったかどうかはとにかく)感じさせられる内容にもなっている。

 いずれにしても京極夏彦らしい怪談小説。基本、めざすところは怪談であり、決して感動や気持ちよさやすっきりする話を目ざしていない。つまりは厭な話であり、割り切れない話。 だが、だからこその魅力が怪談にあるということをうまく読者に伝えているといえそうだ。(分からん人には分からん話ではあるだろうけれど……)。


10/04/01
岸田るり子「Fの悲劇」(徳間書店'10)

 第14回鮎川哲也賞を『密室の鎮魂歌』で受賞してデビューした岸田るり子さんは、その後に東京創元社で数作を発表したあと、なぜかこの徳間書店から『めぐり会い』『天使の眠り』と二冊のラブサスペンス(?)を刊行しており、本書もその系譜にあたるか。書き下ろし。

 子どもの頃に記憶にないような絵を描いては親を驚かせていた藤野木さくら。事業をしていた父親が交通事故死し、母方の祖母が経営していた旅館で育つ。そんな彼女はある日、自分に叔母がいたことを知る。藤野木ゆう子というその女性は、あまり知られてはいないが女優で、映画の主演も務めていたことがあるというが、どうやら一族のあいだではタブーの存在だったようだ。さくらは、その叔母が、自分が一歳だった一九八八年、下宿していたアパートで殺人事件の被害者として亡くなっていたことを知る。さくらは、その舞台となったペンション・エイドウを訪れる。当時から残っている住民もおり、さくらは叔母の死の原因を知るべく、自分もエイドウに下宿を開始する。――一九八八年、藤野木ゆう子は、当時勢力を伸ばしていた新興宗教集団から逃れるようにエイドウを訪れていた。彼女自身、教団の中心人物の子どもを身籠っており、既に四歳になっていた長男は教団に預けているというような状況だった。エイドウにいたゆう子の高校の同級生・芳雄が何かと彼女の力になろうとしてくれたのだが……。

一九八八年と二〇〇八年。進行する事件と遡っての捜査と。果たしてその時何があったのか――?
 結論からいうと、サスペンスとしても微妙、本格ミステリからも微妙、というところ、実は家族小説。その意味で一般エンターテインメントとしては余裕で及第点を超えるのだが、ジャンルに特化した視点だと弱みがみえるという印象だ。二十年前の事件で池に浮かべられた死体となって発見された女性は、実は下宿人全員による共謀で部屋から運び出されていたというもの。さらにその部屋は、信頼できるある人物以外に対しては常に施錠して扉を開かなかったという点、更に住民互いによるアリバイ証言によって密室を形成していたという。一応、不可能犯罪興味がある。
 一方で、何故彼女が殺されなければならなかったのか? という点に不満。作品内で説明されているし、そもそもカルト新興宗教から逃げ出していたのだから、狙われるのも仕方ないという理解はできるのだが、それが見せかけではなく実際にもそうでしたというのはミステリとしてはちょっとどうかと思う。犯人が実は下宿にいたその新興宗教信者でしたという点が最後の最後に明らかにされるといった構成についても、ミステリとしてはアンフェアといわれても仕方ないのではないか。
 一方で、「なぜ彼女が扉を開けたのか」という部分については高い説得力がある、心理的な隙を衝いたアイデアでもある。そのアイデアで密室をこじ開けている一方、先に述べた周辺を固めるところで失敗している。加えて 親子関係や誰が誰で、という実は複雑な過去が絡む人間関係もミステリの謎を形成しており、明らかにされることですっきりした部分もある。家族小説としての要件だったのかな、とか思うが……。

 一般エンターテインメント小説としてのレベルはクリアしているし、最後まで読ませる、辻褄は合っている、がそこまでの印象。特徴的な何かが含まれているかというと、ケニアの山頂にいた氷漬けのヒョウだとか、勾玉を保管するアイデアだとか細かなところにアイデアがあるのだけれども、物語としてはどこか窮屈な感じがした。